2025/02/04
前田慶次の自腹でお城めぐり 【第24回】凸大阪城 中編~大阪城天守行くまでに討死~
お城に関する豊富な知識を持つ前田慶次様(名古屋おもてなし武将隊®)が、全国のお城を実際にめぐりながら歴史・特徴・魅力を解説する人気連載。今回は、大阪城(大阪府大阪市)の中編です。タイトルが不穏……!
皆の衆、我こそは名古屋おもてなし武将隊天下御免ノ傾奇者前田慶次である。
此度(こたび)城びとと同盟を結び、此の前田慶次が連載を持つ事と相成った。
先ずは、名乗りを上げよう。(自己紹介)

演武といったパフォーマンスなるものを披露し、電波放送戦(テレビ)は常戦番組(レギュラー)持ち、全国各地に遠征を繰り広げる。
結成十六年目を迎え、全国の武将隊の先駆けとして日ノ本を代表とする武将隊である。
して、儂前田慶次は現世に蘇り歴史の語り部として多くの戦に出陣して参った。
伝統芸能を伝える舞台出陣、歴史学者との対談、寺子屋(学校)での歴史授業。
名古屋城検定名誉顧問に叙任され、検定過去最高得点を叩き出す。
日本城郭検定にも挑戦し合格。
日ノ本が誇る歴史文化をより多くの者に伝えるべく、城びとでの連載を始める次第。
題して

【前田慶次の自腹でお城めぐり】
他の連載と何が違うのか!?
・現世に生きる戦国武将自らが感じたことを紹介!
・傾奇者による城郭魅力度数値化!
・城巡りの手引書(案内)となる!
・地域の特色を織り交ぜ、観光が楽しくなる!
・イケメン(前田慶次)が見られる!
・要点を抑えた紹介!
・兎に角分かりやすい!
全国の城に直接己が足で出向き、城の見方、歴史を伝え、
其の城の傾き所(見所)や天守閣、男前田度(イケメン)を前田慶次の独断で評価する。
歴史初心者から玄人まで楽しめる、国宝連載となっておる。
ただ城を巡るのではなく! 儂の金子(金)で城に登城する。つまり限られた金子で巡る
旅の道中劇にも注目してもらいたい!!
また巡り方については、王道の道順を歩む故に参考にすると良い。
凸大阪城(大阪府) 城郭の魅力度を数値化

復興天守として文化財!5重8階天守の秘密とは!?

【基本情報】
城郭構造:平城
主な築城者:豊臣秀吉、徳川家、石山本願寺
主な改修者:豊臣家、徳川家
築城年:1583年(豊臣秀吉時代) 1620年(徳川時代(寛永期))
廃城:1868年(明治元年)
主な指定文化財:重要文化財、特別史跡
【歴史】
■戦国最強の石山本願寺の拠点!?
大阪城の地は室町時代から安土桃山時代初期にかけては浄土真宗の寺院である石山本願寺が拠点としていた! 当時は大坂御坊や石山御坊と呼ばれておった! 堀や土塁で防御を固め、見た目は城同然であった! 戦国時代の一大勢力を誇ったが、1580年石山合戦(織田信長との戦い)で本願寺の住職である顕如が明け渡し石山本願寺の時代は終りを迎える。
■織田信長も注目した土地!
大阪城と申せば、豊臣秀吉様の印象を抱く者も多かろう。然し、秀吉の主君織田信長様が本願寺から奪い取った後に信長様は西日本を抑えるのにこの土地に注目され巨大城郭築城を決められていた! 安土の城も築城された丹羽長秀様がこの地を守備を任せられていたのは、築城を考えての行動であったやもしれんのう。
■豊臣秀吉の大阪城は大願であるが居城は短い?
1583年に豊臣大阪城築城開始! 奉行には築城の名手黒田官兵衛孝高が担当し10年以上の歳月をかけて水上都市大阪城は完成した! 秀吉様は1586年には聚楽弟、後に伏見城も築城され居を移されているが、現世では滅んだ豊臣家を神格化したせいか大阪城が政権の中心のように見えがちである。
■徳川家が築いた日本一の大阪城
戦国最期の決戦大坂の陣を経て豊臣家が滅亡し徳川家が大阪城を手にする。1620年天下の大号令で大阪城は大改修される。現在の大阪城へと生まれ変わるのじゃ! 普請だけで10年近く年月をかけて日本一の高石垣と巨石を築いた!
■重兵器を生産!復興天守第一号!
明治時代陸軍の所轄地となり、巨大城郭大阪城の広さを活かして大砲、車両等の重火器を生産する大阪砲兵工廠が造られる。アジア最大の軍事用工場として名を馳せる! 故に太平洋戦争ではアメリカ国から攻撃対象となってしまう。1931年には復興天守が完成し全国初、復興天守第一号である! 現在は文化財指定も受けておる!

(※前編同様、“大阪”“大坂”表記は正式名称に基づいて表記しております。大坂城時代の話でも現在大阪城表記のため大阪城としています。)
【日本一の高石垣から普請を探る!高虎だけではない!】
青屋門を抜けると目の前に壮大な石垣が再び顔を出す。どこを見渡しても高石垣に圧倒されてしまうが、此処の石垣だけは見逃してはならぬ! 何故かと申すと!
慶次「日ノ本一の高石垣! 其れが目の前に見える此れじゃ!!」

慶次「儂じゃから冷静な面構えであるが、常人ならば腰抜かす程の高石垣! 余りの高さに見上げすぎ仰け反ってしまうこと間違いなし!」
大阪城の内堀であり、本丸東面側となっておる。正面は大手側ではなく搦手側に日本一があるというのは傾いておるわ!
此方は徳川大阪城時代に築城されたもので、水面からの高さは24m、堀底から石垣は積まれており総高32m! 普請総奉行は築城名人、藤堂高虎とその下で活躍したであろう男が戸田氏鉄である。戸田氏鉄と申せば大垣城築城した武将であり、尼崎城を築城した折に見事な城郭であった事から大坂城築城にも抜擢されたのであろう! 徳川家からの命は「旧城よりも石垣、堀を二倍の規模に致せ!」とな。
ご覧の通り、壮大な堀と石垣が完成したというわけじゃ。年月も普請だけで10年近く掛けており、結果日本一の城として今も名が轟いておる! 責任者の名前が有名となってしまうが、大阪城天下普請に動員された大名家は64家という規格外の数。石垣築城技術が戦国時代と比べて圧倒的に高く此方を中心に見て比べて見ると楽しめるぞ!

【幻の橋!?極楽橋の真の姿とは…】
慶次「高石垣に目を奪われるが更なる見所を持つのが天下の大阪城であるぞ!」
本丸に入る為の虎口はすぐ近くにある! 通る為にはこの“極楽橋”を通る必要が御座る! 非常に大きく長い橋であるが、此の見事な橋は本来の姿ではないのじゃ!!
実は此の極楽橋は秀吉様の大阪城時代から存在する橋で本来は“廊下橋”形式であった! 廊下橋とは塀や壁、屋根を付けて内部が見えないようにした橋である! 多くはない故に珍しい形式であるし、極楽橋の廊下橋は宣教師達が「非常な黄金で輝く、高貴な橋」と綴っておる! 天下人であり、傾奇者の秀吉様らしい橋であるが、秀吉様が天に身罷った後は豊国神社や宝厳寺に移築したそうじゃが、屋根は無かったとか。極楽の名前も仏教要素を感じるのも元々石山本願寺の地でもあったからこそ命名したのではなかろうか。
現在は掛橋形式となっておる。極楽橋は戊辰戦争の大火で焼失したそうじゃ。鉄筋コンクリートで戦後の1965年に再建されたものである!
現世で復元された城郭じゃと、和歌山城、大分府内城、福井城あたりじゃ。皆も時あれば見てちょ。

擬宝珠の装飾も施され屋根は無くとも豪華な印象を受けるのう!
虎口を抜けると山里丸という曲輪になり申す! 現在門は無いが嘗ては、山里門があったそうじゃ。
周囲の石垣上には多聞櫓が守りを固めのたが分かる!
故に写し絵正面から天守が見えておるが、多聞櫓があったと考えれば天守は見えるか、見えないかの光景であったはずじゃ!

内部は枡形造り。即ち枡形門造りで戦国最強の守備と共に立派な石垣の中にひと際目立つ“鏡石”が並ぶ!
大きな石は鏡石と申して権力を見せつける!! 人力で石を運ぶ故に巨石は動員数や技術が無ければ積む事も叶わぬ! 大阪城の鏡石は、日本一の巨石もあるが為に鏡石巡りが面白い城でもある! 此方は大きいが大阪城の中では小石と言えてしまう。他の城であれば城内一の大きさと言えよう。
慶次「大阪城の鏡石は期待が高まるばかしじゃ!!」

珍かに雁木に登る事もできる! 櫓、石垣等に登る為に築かれた石段を雁木と申す! 貴重故に皆も登って景色を見れば敵兵がどう見えるか、攻撃を仕掛けるかが想像出来よう!
枡形虎口を抜けると地が開けており

【山里丸は数寄に楽しめたが、現在は…?】
天守がある本丸曲輪よりも一段下った此の平地が山里丸である! 植生が多くされており現世の工夫とも感じると思うが、秀吉様時分から実は植生されておる!
桜、松、藤が周囲を囲むのは此処で数寄活をしておったんじゃと。秀吉様が茶会や花見で楽しむ空間であった故に斯様な造りである!

1615年の大坂夏の陣に淀様と秀頼様が自刃した場所とも伝わる。
碑も建っており儂も挨拶に参り申した。また、此の先に雁木があり本丸へ繋がっているであろう埋門らしきものを発見した! 現在は塀を築き進入禁止としておるが恐らく脱出口として築いたのではなかろうか? 秀頼様達が使用したやもしれんな。
徳川家時代からは守備を強化! 周囲に櫓と城の守備をした役人が在中する加番を築城した!
現在は…

石を並べ其処には”刻印”が学べる遊び心を取り入れておった! 刻印石広場と命名されておる!
64家の大名家が普請しておる為に、誰が担当しておるのか目視で確認できるように刻印が刻まれておる。様々な記号や絵、文字は現世の者の城巡りでも大人気!
慶次「大阪城の刻印数は数十万もあるとか!未だに発見されておらぬ刻印もあるじゃろうな。」
天守方面に向かって歩みを進めると雁木があるが、現在は多くの者が登城できるように平坦な坂であるスロープ造りで工夫されておる!

登ると山里口出枡形まで参った! 此処は本丸と山里丸を結ぶ通路に設けられた虎口であり、徳川時代に築かれたそうじゃ!(出枡形は外枡形のことじゃ。曲輪の外側に飛び出して造られた枡形。)
慶次「大阪城内は虎口が全て枡形門造りなのか?異常な防御力に驚く!」
山里丸側に築いた門を山里口門、天守側の門は姫門、西側に狭い通路があるが此処が埋門となっておる! 隠し曲輪への門じゃ! 堪能したい所であるが、目の前の天守とその石垣が気になり突撃じゃー! 姫門跡から進軍!
【大阪城天守台は誰の手に?加藤?】
遂に姿を現した大阪城天守である!
慶次「誠に壮大!見事!名古屋城天守より高さを誇る天守はこの目で見たことが無かった故に思わず引き込まれたのう。天守台も切込接ぎが中心となり江戸期のええところが注ぎ込まれておるな!」

端部分である“算木積み”の石を見てみよ! どえりゃー大っきいわ!! 見たことない大きさぞ!
斯様な最新技術で積まれた天守台を担当したのは加藤清正の息子である加藤忠広。これは有名と思うが、実際は池田家や毛利家らの刻印も見つかっており複数の大名家で築城したようじゃ!
慶次「普請割を見ると加藤家だけであるがな! 忠広はこの時分まだ、20歳前後でまだまだ。清正時代から築城術に長けた家臣が多くおり加藤家2代にわたり優秀な家臣が支えてくれたわけじゃな! 天守台のような家臣が多く羨ましいものよ。また異国で学んだ築城術は大阪城にも使用され後世に名を残す見事な天守台! 天守台は13.3mの高さを誇る!」
搦手からの城攻め故に恐らくまだ何か仕掛けがありそうじゃ…。

【抜かりない徳川時代の防御策!仕切門】
やはり、防御策が御座った! 天守に向かって歩むと目の前に石壁(石垣)が塞ぎ、僅かな通路に嘗て仕切門が存在した。天守搦手側は直進させぬ為に。創建は徳川大阪城時代。
慶次「現在は無いが石壁の上は塀も築かれ道はカクカク食違い状になっており、何としても天守迄行かせまい!という心意気が伝わって参るそんな備えじゃ。天晴れ! 周りが整えられた植生故にそちらに目線が持ってかれがちであるが、この造り確かと見て欲しいのう。」
仕切門は大阪城にはもう一カ所御座り全部で二カ所。重厚な守りと言えよう。
此れをくぐり抜け申すと…

遂に天守前へと参った!!
と言ったところで此度の記事は此処まで!
次回天守内部へ潜入! 驚きの天守再建秘話に儂も驚く!
次回の記事も楽しみにしてちょ!
以上
名古屋おもてなし武将隊
天下御免ノ傾奇者 名古屋城検定名誉顧問 城びと連載人
前田慶次郎利益
凸伝令
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▶「【第24回】凸大阪城」前編
執筆・写真/前田慶次(名古屋おもてなし武将隊)