2024/02/21
前田慶次の自腹でお城めぐり 【第22回】凸二条城 中編~最高峰の御殿~
お城に関する豊富な知識を持つ名古屋おもてなし武将隊®の一員・前田慶次様が、全国のお城を実際にめぐりながら歴史・特徴・魅力を解説する城びとの連載。今回は、世界遺産にも登録されている国宝・二条城(京都府京都市)の中編です。絢爛豪華な唐門を通り抜け、ついに国宝二の丸御殿に足を踏み入れた慶次様が、徳川将軍の威厳を示す御殿ならではの見どころを一つずつ細かく紹介します。
皆の衆、我こそは名古屋おもてなし武将隊天下御免ノ傾奇者前田慶次である。
此度(こたび)城びとと同盟を結び、此の前田慶次が連載を持つ事と相成った。
先ずは、名乗りを上げよう。
前田慶次齢四八十一歳。戦国の世では天下御免ノ傾奇者として名を馳せ申した。現世に蘇りは名古屋おもてなし武将隊の一角として、名古屋城を拠点に名古屋を世界一の観光都市にせんが為、日々戦働きに勤しむ。
演武といったパフォーマンスなるものを披露し、電波放送戦(テレビやラジオ)は常戦番組(レギュラー)を持ち、全国各地に遠征を繰り広げる。
結成十四年目を迎え、全国の武将隊の先駆けとして日ノ本を代表とする武将隊である。
して、儂前田慶次は現世に蘇り歴史の語り部として多くの戦に出陣して参った。
伝統芸能を伝える舞台出陣、歴史学者との対談、寺子屋(学校)での歴史授業。
名古屋城検定名誉顧問に叙任され、検定過去最高得点を叩き出す。
日本城郭検定にも挑戦し合格。
日ノ本が誇る歴史文化をより多くの者に伝えるべく、此度から城びとでの連載を始める次第。
題して
【前田慶次の自腹でお城めぐり】
他の連載と何が違うのか!?
・現世に生きる戦国武将自らが感じたことを紹介!
・傾奇者による城郭魅力度数値化!
・城巡りの手引書(案内)となる!
・地域の特色を織り交ぜ、観光が楽しくなる!
・イケメン(前田慶次)が見れる!
・要点を抑えた紹介!
・兎に角分かりやすい!
全国の城に直接己が足で出向き、城の見方、歴史を伝え、
其の城の傾き所(見所)や天守閣、男前田度(イケメン)を前田慶次の独断で評価する。
歴史初心者から玄人まで楽しめる、国宝連載となっておる。
ただ城を巡るのではなく! 儂の金子(金)で城に登城する。つまり限られた金子で巡る
旅の道中劇にも注目してもらいたい!!
また巡り方については、王道の道順を歩む故に参考にすると良い。
凸二条城(京都府) 城郭の魅力度を数値化
初の世界遺産に大興奮!
【基本情報】
城郭構造:平城
主な築城者:徳川家康
築城年:慶長8年(1603)
廃城:明治6年(1873)
主な指定文化財:世界文化遺産 国宝 国の重要文化財 特別名勝
【歴史】
■天下人が築城!名前は二条城?二条亭?
慶長6年(1601)関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康が、上洛時の宿として、朝廷の守備として大宮押小路に築城を決める!
天下普請事業の一つで西国諸大名が築城を負担した。
作事の大工棟梁には当代一流の職人、中井正清が選出。
幕府は二条城と呼んだが、朝廷は二条亭と呼んだ。
朝廷としては城と言うより宿、屋敷の認識が強かったのやもしれぬ。
■将軍宣下!武家の頂点のパーティー!
慶長8年(1603)徳川家康伏見城にて征夷大将軍叙任!
完成直後の二条城に入城し「拝賀の礼」を行う。
重臣や公家衆を招いて将軍就任を祝う! この行事は3代家光まで行われる!
■大坂の陣のきっかけ?秀頼もやってくる!
慶長16年(1611)二条城の御殿(二ノ丸)にて徳川家康と豊臣秀頼の会見が行われる!
この時に家康は秀頼の見事な立ち振る舞い方に危機感を覚え、後の大坂の陣を引き起こしたとも言われる。
大坂の陣の時に二条城は徳川方の本営となった!
■秀忠が縄張担当して改修?
元和5年(1619)徳川秀忠が二条城の改修を行うが、自ら縄張を担当したとか!
ただ、築城名手藤堂高虎も共に行ったようで、秀忠がどこまで関わったかは不明。
■三代将軍家光の時に大改修!
寛永元年(1624)徳川家光が将軍となり、後水尾天皇の行幸の為に大改修!
城は西に拡張され、そこに新本丸と天守を築城!
二の丸御殿も改修され、当代一流の絵師集団、狩野派による豪華絢爛な障壁画が仕上げられた!
■焼失と地震による被害
寛延3年(1750)落雷により天守が焼失。天明8年(1788)には天明の大火が原因で本丸御殿、隅櫓が焼失。
焼失した建物は再築されることは無かった。
万延元年(1860)京都地震により御殿を始め、門、櫓が傾くなど大きな被害。
■武家時代の最期を迎える
慶応3年(1867)15代将軍慶喜は徳川将軍家の拠点にする。そして二条城二の丸御殿で大政奉還を行う。
■皇室の離宮となり活躍
明治17年(1884)二条離宮となり皇室の建物となる。
大正天皇は10回滞在され本丸御殿で宿泊。二の丸御殿は仕事場として利用し離宮として大活躍!
■観光地、そして世界遺産へ
昭和14年(1939)京都市に下賜され翌15年(1940)には恩賜元離宮二条城として一般公開!
昭和27年(1952)二の丸御殿を中心に国宝指定。平成6年(1994)世界文化遺産に登録。
【豪華絢爛を極めし唐門(重要文化財)】
二条城と聞いて連想するのは多くの者が「二之丸御殿」と答えるであろう。
次いで印象に浮かぶのが此の「唐門」であろう。
寛永3年(1626)、後水尾天皇の行幸に合わせて築造された故に豪華であるわけじゃ。
江戸期は火事も多かった故に火災対策の為に瓦葺きであったが、
日ノ本文化である「檜皮葺(ひわだぶき)」へ明治時代に修繕されたそうじゃ。
現在その姿を伝えるが、2013年に修復工事を行い非常に状態が良く、
他にも金箔の貼り直し、彫刻や漆の塗り替えなどが行われたそうじゃ!
国の重要文化財にも指定され、自他共に認める城郭界随一の豪華絢爛な門である。
慶次「此れ程の門は儂でも中々見たことが御座らん。
細部に亘(わた)って拘りが見られる唐門の魅力を伝えて参るぞ!」
懸魚(げぎょ)にも拘(こだわ)りが見られる!
(懸魚=破風部分に取り付けられる妻飾り。魔除けでもある!)
魚を懸けるわけだで、水の力を得る。
つまり火災の魔除けとして効果を発揮するが、それだけではない!
種類も豊富で格式をみせるものでもある!
唐門は唐破風で、唐破風の懸魚はちと特殊で
「兎毛通(うのけどおし)」という横に広がる懸魚。
唐破風は最も格式が高く珍(めずら)かな破風故に貴重である!
また、御所や内裏においては「御幸門(みゆきもん)」とも呼ばれる。
御幸とは帝の外出を意味する。
つまり御幸門は全国でも少ないし、豪華を誇るのが頷けよう!
至る所に彫刻が入っておるのが、やはり気になるであろう。
無論、彫刻は人の手によって創り上げられる故に、
一流の職人によるもので見惚れる出来栄えじゃ。
〇で示すは「龍や虎、唐獅子の霊獣」などが10頭もおるそうじゃ!
帝の通り道、即ち聖域に相応しい守り神といったところじゃな。
また、鶴や蝶に牡丹、松竹梅といった縁起物も多数掘られており運気が最高潮!!
門一つに此れ程の縁起物と守り神を装飾して不吉な事も起きまい…。
皆の屋敷の玄関も唐門の良き所を一部取り入れては如何であるか?運気が上がりそうだで。
儂ならば自身の彫刻を飾りたいのう! 盗人も儂と勘違いして諦めそうじゃ! ワッハハハハハハ
唐門を抜けると目の前に…。
【国宝二の丸御殿の全貌】
遂に二条城最大の見所である二の丸御殿までやって参った。
二の丸御殿は過去に改修工事を行っており、
現存する二の丸御殿は寛永元年(1624)の大改修から同3年に完成したものとなっておる。
つまり、築城者徳川家康様も此の御殿は目にしていない、帝仕様でもある最強の御殿也。
(名古屋城の本丸御殿もそうじゃが、徳川家康様が身罷(みまか)ってからどこも豪華にしとるで)
正面に見える車寄せ(遠侍)は玄関があり、
式台、大広間、蘇鉄の間、黒書院、白書院の6棟が雁行(がんこう)型に並ぶ。
部屋数33室、800畳余りの内部の広さは圧巻である!
将軍の威厳を示す障壁画の数々も見所で、現在は模写された作品がはめ込まれておる!
担当したのは日本絵画史上最大の画派狩野派によるもので、
我等の時代の作品と言えば狩野派というのが最初に名が挙がる当代一の絵師集団である!
障壁画も3600面残されており、その内1016面が国の重要文化財指定を受けておる!
慶次「規模感が大きすぎて皆には分かりづらい所も正直あると思うが、
日本一と考えたらば想像の上をゆくのは当然であるわな!」
名古屋城本丸御殿は完全復元されたが、
二条城のみ現存しておる日本国内で最も重要な遺構の一つと言っても過言ではなかろう!
早速入城して参る!
車寄せから彫刻欄間となっており
圧倒的な格式の高さに儂もしてやられた。
天井絵は鶴が交わる絵となっており長寿の縁起物。
こちらは遠侍(とおざむらい)の「一の間」である。
来殿者が控える場所で二の丸御殿最大の建物となっておる。
最初に控える場所故に、来殿者をちと威圧させる為に障壁画は虎の絵で見せつける。
それ故「虎の間」と呼ばれておる。
武家風書院造ではあるあるの話であるが、
虎は人を喰らう強く恐ろしい獰猛な生き物と我等は思うておった。
また、異国で生きる生き物故に、生で見たことがある者が殆どおらぬ。
ちぃとばかし、幻想的にも感じる虎は強さだけでなく、
権力の大きさも見せることができるので人気であった!
慶次「だで儂も陣羽織に虎柄を入れたりして、
当時としては最先端ファッションで皆を楽しませておったのじゃ!」
障壁画に目を奪われるが、欄間や天井絵も見逃してはならぬぞ!?
続いて
式台の間。
こちらは老中と大名が挨拶をし、将軍への取次ぎを行われた場所。
式台の間の裏には「老中の間」があり、
竿縁(さおぶち)天井の造りで質素な造りである。
慶次「将軍、帝も使用する御殿なれど家臣達が使用する場所は
格式を明確に見せる為に工夫が施されておる!
儂なら勝手に改築してまいそうじゃがな!!」
障壁画は大きな松が描かれており
長押部分まで壁画にするという豪華な仕様じゃ!
大きな松の木が描かれておるが、「松」は如何なる時も緑を絶やさない。
つまり永劫の象徴でもある。
一族の繁栄に繋がる武家界の最強パワースポットである!!
慶次「今まで見た中で一番大きな松やもしれんな。
あと、やはり…天井絵がえりゃーもんだわ」
続いて
大広間。こちらは一の間である!
将軍と大名や来殿者との対面所になり申す!
一の間は一段高くなっており将軍の立ち位置となり、
書院造りの特徴である床の間、違棚(ちがいだな)、付(つけ)書院、帳台構を備えておる!
違棚や付書院には工芸品を飾ったりもしておったそうじゃ!
天井は二重折上格(ごう)天井絵になっており
他とは醸し出す雰囲気も重厚溢れる造りで権力者の象徴と言えよう。
他の部屋との違いが明確故に視覚で楽しめるであろう!
続いて、ずぅーっと廊下を渡り
黒書院の「一の間」。
将軍と徳川家に近しい大名や高位の公家などがこちらで対面する場所である。
故に限られた人間しか此処までは入ってこれぬということじゃ!
大広間に次ぐ公の場である為に、
豪華さは変わらず二の間部分にも天井絵があり来殿者の格も伝わる。
例えば大河ドラマ『どうする家康』であらば、
徳川四天王や本田正信のような家臣級が此処で当主と対面するといったところじゃな!
障壁画は満開の桜が美しく「桜の間」とも呼ばれており、
将軍が背にする松の木枝にはかすかに雪が残っており
雪と梅と桜で季節の流れを表現。
誠に風流であり数寄者たる間であるな!
続いて
白書院の「一の間」。「御座の間」とも呼ばれ将軍の私的空間である。
今で申せばリビングであり寝室である。皆からはどう見えるであろうか?
対面するところと違い、豪華さは御座らんが障壁画が水墨画となり静かに想いを伝える。
水墨画は中国文化を代表すべきものであり、
名古屋城本丸御殿の上洛殿(将軍の宿泊施設)も水墨画となっており
格式が高いながらも想いを表現しやすい。
描かれる作品は変わらず狩野派であるが、
中国の伝説や歴史上の人物を描いており、政に対する戒めにもなっておる!
天晴じゃ!
また、見所が他にもあり
襖部分に注目じゃ!
金金具に目が取られてしまうが、「菊の紋」で徳川家の三つ葉の葵ではない!
帝がご使用されるのが分かる!
もしやすると後に改修工事した折、離宮となってから装飾されたものやもしれんな?
続いては戻りながらである。
老中の間。式台の間の裏側である。
先述した通り天井は竿縁天井となっておる!
金の障壁画であるが、長押部分まで絵は描かれておらず
今までの間と比べると質素であるのが誰の目から見ても明らかであろう!
して遠侍に戻り二の丸御殿を後にする。
二の丸御殿を出た所で此度の記事は此処まで!!
次回 二条城はまだ魅力が沢山あるぞ!
前田慶次果たして名古屋に帰れるか?
次回の記事も楽しみにしてちょ!
以上
名古屋おもてなし武将隊
天下御免ノ傾奇者 名古屋城検定名誉顧問 城びと連載人
前田慶次郎利益
凸伝令
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▶「【第22回】凸二条城」前編
執筆・写真/前田慶次(名古屋おもてなし武将隊)
執筆・写真/前田慶次(名古屋おもてなし武将隊)
<お城情報メディア 城びと>