日本100名城

えどじょう

江戸城

東京都千代田区

別名 : 江城、千代田城
旧国名 : 武蔵

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江戸城
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ツジシロ

何をするにも便利な場所 (2018/12/02 訪問)

日曜日ということもあってか周辺は相変わらずランナーや散歩を楽しむ人が多い。
それでも中に入ると、ゆったり回ることができました。
 駅も近いし何をするにしても便利な場所にあります。

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イオ

とことん江戸城・番外編(上野東照宮) (2024/05/28 訪問)

上野東照宮も昨年は開門時間前で入れなかったので、寛永寺に続いて訪れました。言うまでもなく東照大権現・徳川家康を祀る神社ですが、寛永寺の一角に創建された東照社をはじまりとし、徳川家光が日光までお参りに行けない江戸の人々のために日光東照宮に準じて建立した社殿が現存しています。

大石鳥居から水舎門を抜けて両側に石燈籠の立ち並ぶ表参道を進むと、右手に江戸前期再建の五重塔が建っています。明治の神仏分離令を受けて寛永寺の所属とすることで破却を免れ、その後、東京都に寄付されたことから現在は上野動物園の敷地内にあり、東照宮境内からは柵越しに眺められるのみです。

前回は入れなかった門の中に入ると右手に神楽殿、左手に水舎があり、水舎の隣に境内案内図が立てられています。そして突き当りには絢爛たる唐門が建ち、その背後には金色殿と呼ばれる社殿も覗いています。透塀の内側で社殿を間近に拝観することもできますが(拝観料大人500円)、帰りの新幹線の時間まで余裕がないので断念…。唐門の両脇には徳川御三家が奉献した銅灯籠が三基ずつ並び、御三家灯籠と呼ばれています。参道沿いに立ち並んだ約200基に及ぶ銅灯籠や石灯籠も全国の大名家から奉献されたもので、境内案内図をよく見てみると全ての灯籠が番号付きで書き込まれていて、案内図下段に灯籠の番号と奉献者名、奉献年代が記されていました。時間が許せば案内図を参照しながらひとつひとつ見て回りたいところですが、帰りの新幹線の時間まで(以下同文)。最後に、佐久間勝之が奉献し日本三大燈籠に数えられるお化け燈籠を見て、上野東照宮を後にしました。
 

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イオ

とことん江戸城・番外編(寛永寺) (2024/05/28 訪問)

増上寺に続いては同じく徳川将軍家菩提寺である寛永寺へ。昨年は早朝に訪れて開門時間前で入れなかったので、今回は仕事を終えて東京駅に向かう前に立ち寄りました。

かつては上野の山全域が境内地だった寛永寺ですが、幕末の上野戦争で全山焼失し、北側の徳川将軍家墓所近くの現在地に移って本堂にあたる根本中堂が再建されています。境内には旧本坊表門と根本中堂の鬼瓦が説明板とともに展示され、上野戦争碑記の石碑が立てられていました。また厳有院(四代・家綱)霊廟の銅鐘が移設され、除夜の鐘などに使用されているようです。

寛永寺には六名の徳川将軍(四代・家綱、五代・綱吉、八代・吉宗、十代・家治、十一代・家斉、十三代・家定)が埋葬されていますが、御霊廟のほとんどは戦災で焼失しており、家綱と綱吉の霊廟の勅額門と水盤舎が現存するのみです。御宝塔は遺っているはずですが、墓所は非公開のため拝観することはできませんでした。「篤姫」の再放送を観ている最中なので温恭院(家定)と隣り合っているという天璋院(篤姫)の墓所や、和歌山県民として有徳院(吉宗)の墓所にお参りしたいところでしたが…仕方ありません。墓所は石垣で囲まれていて、石灯籠も石垣沿いに並んで建てられていました。

そして上野駅に向かう途中に黒門と呼ばれる旧本坊表門を見ようと輪王寺に向かいましたが、閉門時間(16時)を過ぎていたため、柵越しに見られたのみでした。上野戦争での弾痕を見てみたかったのですが…。



ところで……
日本100名城かるた、商品化おめでとうございます! CFで少なからぬ人から熱烈に支持されていることを目に見える形で示すことができたのが効いたんでしょうか。達成はできなかったとしても、頑張ってきたことは無駄にはならないんだなぁ……ありがとうございます。続報を楽しみにしております。
 

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イオ

とことん江戸城・番外編(増上寺) (2024/05/28 訪問)

今年もこの時季の東京出張が決まりましたので、とことん江戸城の続きを。といっても、過去2年で主なところはだいたい行っているので、城めぐりというよりゆかりの寺社めぐりですが…。

まずは昨年断念した芝の増上寺から。江戸城とは直接関係ありませんが、徳川将軍家の墓所とあらば行かずばなりますまい。JR山手線・浜松町駅から歩いて行くと、大門を過ぎて突き当りに三門と呼ばれる三解脱門が聳えています。江戸初期建立の朱漆塗・三戸二階二重門で、将軍家の威光を示すためでしょうか、唖然とするほどの巨大さです。増上寺の建物は戦災によって多くが焼失していますが、境内の水盤舎は、清揚院(家光三男・綱重)霊廟から移築された数少ない遺構です。大殿、安国殿をちょっと覗いて、お目当ての徳川将軍家墓所へ向かったところ、墓所の門は閉ざされていて受付には定休日の掲示…。火曜(祝日除く)が定休日だったっけ!? 昨年に下調べした際には令和5年は定休日なしだったので油断していました。幸い2日後も東京出張(ともに日帰り)なので、徳川将軍家墓所はその時にまた来るとしましょう。

気を取り直して周辺の現存建造物をめぐります。増上寺の北側、現在の東京プリンスホテル敷地は北廟と呼ばれ、五代に及ぶ徳川将軍の墓所が設けられていましたが、戦災でほとんど焼失し、敷地の北東部に有章院(七代・家継)霊廟の二天門、北辺に御成門交差点付近から移築された御成門が見られるくらいです。南側の芝公園は南廟と呼ばれ、台徳院(二代・秀忠)霊廟が設けられていましたが、こちらも戦災で焼失。芝公園の北東部に台徳院霊廟の惣門が移築されていて、惣門と勅額門の跡地に案内表示が立てられています。芝公園内の芝東照宮は増上寺の旧安国殿のようですが、見落としてしまいました。

そして2日後に増上寺を再訪し、今度こそ徳川将軍家墓所へ。墓所の門として文昭院(六代・家宣)霊廟の中門が移築されています。旧国宝の見事な鋳抜門です。墓所には戦災で焼失した御霊廟から台徳院(二代・秀忠)、文昭院(六代・家宣)、有章院(七代・家継)、惇信院(九代・家重)、慎徳院(十二代・家慶)、昭徳院(十四代・家茂)の宝塔のほか、静寛院(和宮)の宝塔や将軍生母や子女の合祀塔が改葬されています。家茂と和宮の宝塔が並んでいる様子には、家茂とともに眠ることを望んだという和宮の願いが今も叶えられているんだな…としみじみしたり、木造だった秀忠の宝塔は御霊廟とともに焼失してしまったため江与の宝塔(石塔)に間借りしている様子には、死後も肩身の狭い思いをしているのかなぁ、と苦笑させられたり、8基の宝塔が建ち並ぶだけの墓所ですが、再訪してまで来た甲斐がありました。
 

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概要

広い内濠が巡らされ、総構を含めると千代田区がまるごと収まるほどの巨大城郭。天守は明暦3年(1657)の大火で焼失し、今は石垣の天守台だけが残っている。他に外桜田門や三重櫓の富士見櫓などが現存し、天守の焼失後に代用とされた富士見櫓は「八方正面の櫓」とも称されている。

城郭情報

城地種類 輪郭式平山城
築城年代 長禄元年(1457)
築城者 太田道灌
主要城主 太田氏、北条氏(戦国期)、徳川将軍家(江戸期)、天皇家(明治以降)
文化財史跡区分 国重要文化財(桜田門、田安門、清水門)、国特別史跡(江戸城跡)
近年の主な復元・整備 徳川家康、秀忠、家光(江戸期)、宮内省、宮内庁(明治以降)
天守の現況・形態 層塔型?[5重5階地下1階?/1607年築/解体(改築)]、独立式層塔型[5重5階地下1階/1623年再/解体(改築)]、独立式層塔型[5重5階地下1階/1635年再/焼失(火災)]
主な関連施設 富士見櫓、伏見櫓、多聞櫓、桜田巽櫓、和田倉門、石碑、説明板
主な遺構 曲輪、櫓、門、石垣、土塁、横堀(水堀・空堀)
住所 東京都千代田区千代田
問い合わせ先 千代田区観光協会
問い合わせ先電話番号 03-3556-0391