日本100名城

えどじょう

江戸城

東京都千代田区

別名 : 江城、千代田城
旧国名 : 武蔵

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江戸城
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AJ

江戸前と場違い (2016/08/14 訪問)

江戸城おまけ⑥。少し前ですが、日本橋から東京港へクルーズ。海へ、海へと拡大していった江戸(東京)の町並み。水上から眺めるのも一興です。

かつて江戸城前面には海が広がっており、品川から隅田川河口あたりの海は「江戸前」(訛って、えどめえ)と呼ばれたそうです。当時は魚介の宝庫で、「美味しい魚」と同義だったとか。安くてうまい魚をなんでも使い、握ればすぐに食べられた寿司は、手間暇かかった大坂流の押鮨と対比して「江戸前寿司」と呼ばれました。

では、江戸前の対義語は何か。これを「場違い」と言うのだと読んだことがあります。

その説明によると、湾岸開発や遠洋漁業で季節の魚が回遊して来なくなったことが背景にあるとのこと。とくに遠海での漁業はコストがかかり、輸送に時間を要するため、旬でないうえに値段は高く、鮮度も落ちる、、。江戸っ子の強い憤りを表した言葉。興味深いですね。

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イオ

とことん江戸城・番外編(小石川後楽園) (2023/06/23 訪問)

一連の東京出張もこの日でようやく最終日。さすがに4週連続ともなると疲れもあり、今日は真っ直ぐ帰ろうと思っていたんですが、いざ仕事を終えると、次はいつ来られるかわからないんだから…と、つい小石川後楽園に寄り道してしまいました。

小石川後楽園は、江戸初期に水戸徳川家初代藩主の徳川頼房が江戸中屋敷の庭園として築造し、二代藩主の光圀が完成させた回遊式築山泉水庭園です。水戸徳川家の江戸中屋敷(明暦の大火後は上屋敷)は小石川後楽園に加えて東京ドームや後楽園ホールなど、現在の東京ドームシティ全てを合わせた広大な敷地を有していたようです。さすがは徳川御三家。

小石川後楽園は唐門(令和2年復元)により内庭と後園に分けられ、唐門の奥には琵琶湖に見立てた大泉水を中心とした後園が広がっています。光圀が好んだ梅林のほか、稲田や花菖蒲田、藤棚に紅葉林、一つ松や枝垂桜など季節の花木が楽しめ、円月橋や得仁堂、西湖の堤など中国の風物があるかと思えば、大堰川に渡月橋、音羽の滝や通天橋、清水観音堂に小廬山など京都に見立てたものや、木曽川や龍田川など各地の名所も取り入れられて、見どころ盛りだくさんです。また、都心のど真ん中にありながら静謐な空気に包まれており(時折ジェットコースターの歓声が聞こえてきますが)、私のように歩き回って写真を撮りまくるおのぼりさんだけでなく、ベンチに腰掛けて穏やかに本を読む人を幾人も見かけるなど、都会のオアシスとなっているようです。年間パスポート1200円で一年中来園し放題なら安いものですよね。

江戸城に関連していえば、水戸徳川家江戸屋敷に神田上水の分流が引き入れられて、飲料水、生活用水だけでなく庭園の泉水に活用された上で、水道橋下流の神田川をまたぐ巨大な懸樋によって城内に給水されました。現在も園内の神田上水跡は満々と水をたたえています。

さて、小石川後楽園をひとめぐりして東門を出たところで、西側築地塀の石垣をまだ見ていないことに気付きました。西門から出れば近かったんですが、もう退出してしまったのでやむなく南辺外周を西に向かうと、小石川後楽園展示室なる建物があり、覗いてみると小石川後楽園や水戸徳川家に関する資料が展示されていました。無料・無人の小さな展示室なので、時間がのある方はふらっと立ち寄ってみるのもいいかと思います。
で、本題の西側築地塀の石垣ですが、西門の脇に説明板があり、説明板脇の築地塀に沿って北に進むと、築地塀下部の石垣にあるわあるわ、探すまでもないほどに多くの矢穴や刻印が見られます。説明板によると鍛治橋門北側の外堀から出土した石垣石を転用したものなんだそうで、こうして江戸城ゆかりの庭園に江戸城の石垣石が用いられているのは嬉しいことですね。

…ということで、今回のとことん江戸城はここまで。昨年の取りこぼしの多くを回収できたとはいえ、今回行けなかった上野東照宮や寛永寺、増上寺に加えて、一般参賀でしか行けない皇居部分もありますし、次はいつになるやらわかりませんが、とことん江戸城はまだ続くことになりそうです。
 

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イオ

とことん江戸城・番外編(浜御殿) (2023/06/16 訪問)

浜御殿は、江戸前期に甲府宰相・松平綱重が建てた別邸(甲府浜屋敷)が始まりで、綱重の子・綱豊が六代将軍・家宣となったことにより徳川将軍家の別邸となり、浜御殿と呼ばれるようになりました。その後、幾度かの改修を経て十一代・家斉の代に現在見られる姿になっています。明治には皇室の離宮となり、戦後に東京都に下賜されて浜離宮恩賜庭園として一般に公開されています。

朝一番での仕事は午前中で終わったので、その足で浜御殿へ。単なる将軍家の別邸でなく江戸城の出城として機能したと云われるとおり、大手門橋を渡った先の大手門は広大な枡形門になっていて、まさに出城の防御設備です。…かと思えば、大手門枡形の石垣には見事なはつりと江戸切りが施されていて、将軍家の別邸としての格式も感じます。

入園料を払って園内に入り、家宣が庭園を改修した際に植えられたと伝わる三百年の松を経由して内堀へ。浜御殿は大坂や長崎から船で運ばれてきた物資を江戸城に搬入するための中継施設でもあったそうで、現在の内堀広場やお花畑にはかつて籾倉が建ち並び、内堀には階段状の船着場も設けられていました。内堀からハナショウブの渓を伝って中の御門、そして御庭口御門から潮入の池に向かう…前に新銭座鴨場へ。現在は鴨猟は行われていないためか、元溜りと呼ばれる池には2羽の鴨が悠々と泳いでいました。

鴨場から馬場跡(内馬場)を抜けて八景山へ。八景山から望む潮入の池が一番の見どころということで、ブラタモリに倣ってできるだけ池を見ないようにして八景山に登ると……都心とは思えない雄大な光景が広がっていました。海水を引き入れた広大な池に改修されたお伝い橋が架かり、中島と北畔には4軒の御茶屋が復元されています。さらに水面には往時には無かった高層ビル群が映り込み、何とも言葉にならない光景です。こりゃすごい…。中島に渡って八景山を振り返ると、こちらもすぐ近くにまで高層ビル群が迫っていました。

中島からお伝い橋を渡って鷹の御茶屋へ。松の御茶屋と燕の御茶屋は御茶屋ガイドツアー以外では建物内に入れませんが、鷹狩の休憩所だった鷹の御茶屋は内覧できる…はずが、コロナ禍によるものか、立入禁止になっていました。やむなく周囲をひとめぐりしてみると、裏手には鷹部屋があり、鷹の模型(剥製?)が架木に留まっていました。

お伝い橋を渡り、観音堂跡~富士見山~中の橋~御亭山とたどって、庚申堂鴨場の小覗から鴨の様子を窺い(こちらにはいませんでした)、横堀に架かる海手お伝い橋を渡って、樋の口山北麓の横堀水門へ。この水門から横堀を通じて潮入の池に海水を引き入れています。横堀水門から新樋の口山(にわか雨が降り出してレインボーブリッジの眺望はいまいち…)を越えたところが将軍お上がり場。歴代将軍が船に乗降した場所で、大坂城から江戸に退却した十五代・慶喜が上陸したのも此処なんだとか。将軍お上がり場の近くには灯台跡もありました。そして水上バス発着場から梅林とお花畑を抜けて大手門で浜御殿をひとめぐり。

浜離宮恩賜庭園は学生時代に一度来たことがありましたが、庭園としてだけでなく、出城として、海運物資の中継施設として、将軍の上陸場所として、江戸城や将軍家と深い関わりのある地だったんですね。思っていたより広大で一周するのに2時間弱を要しましたが、それだけの価値は充分にありました。…で、この後は増上寺にも行くつもりだったんですが、30度を超える真夏日だったことに加えて、3週連続での出張(+東京散策)の疲れもあって、これ以上歩き回る気になれず、浜御殿だけで切り上げて帰途につきました。
 

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イオ

とことん江戸城・番外編(吉良邸) (2023/06/16 訪問)

(続き)

忠臣蔵で知られる吉良邸こと吉良家江戸上屋敷は、元は江戸城外郭の呉服橋内にありましたが、江戸城松の廊下での浅野内匠頭による刃傷事件の後、本所松坂町に屋敷替えになりました。東西132m、南北62m、8400㎡の広大な屋敷でしたが、現在では住宅地になっていて、唯一の遺構とされる井戸を中心とする約98㎡のみが吉良邸跡(本所松坂町公園)として公開されています。

本所松坂町公園はなまこ壁の土塀で囲まれ、公園内には様々な説明板に吉良上野介義央公座像、吉良上野介の首を洗ったとされるみしるし洗いの井戸(遺構)、討ち入りで命を落とした20名の吉良家家臣の石碑などがあり、小さな公園ながら忠臣蔵好きにはなかなか見応えがありました。以前から一度来てみたかったんです。

公園はかつての吉良邸のほんの一部分に過ぎませんが、公園の東側には大石内蔵助ら23名が討ち入った正門跡の説明板が、西側には大石主税ら24名が討ち入った裏門跡の説明板が立てられています。また、裏門近くには米屋五兵衛として店を開いていた前原伊助宅跡の説明板、両国橋東詰には俳人として名高い大高源吾の句碑、旧両国橋東岸の広小路跡には討ち入り後の四十七士が泉岳寺に向かう途中に休息をした地として説明板が設けられています。さすがに本所から高輪まで歩いて行く根性はありませんが、いつか泉岳寺にも行ってみたいものです。
 

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概要

広い内濠が巡らされ、総構を含めると千代田区がまるごと収まるほどの巨大城郭。天守は明暦3年(1657)の大火で焼失し、今は石垣の天守台だけが残っている。他に外桜田門や三重櫓の富士見櫓などが現存し、天守の焼失後に代用とされた富士見櫓は「八方正面の櫓」とも称されている。

城郭情報

城地種類 輪郭式平山城
築城年代 長禄元年(1457)
築城者 太田道灌
主要城主 太田氏、北条氏(戦国期)、徳川将軍家(江戸期)、天皇家(明治以降)
文化財史跡区分 国重要文化財(桜田門、田安門、清水門)、国特別史跡(江戸城跡)
近年の主な復元・整備 徳川家康、秀忠、家光(江戸期)、宮内省、宮内庁(明治以降)
天守の現況・形態 層塔型?[5重5階地下1階?/1607年築/解体(改築)]、独立式層塔型[5重5階地下1階/1623年再/解体(改築)]、独立式層塔型[5重5階地下1階/1635年再/焼失(火災)]
主な関連施設 富士見櫓、伏見櫓、多聞櫓、桜田巽櫓、和田倉門、石碑、説明板
主な遺構 曲輪、櫓、門、石垣、土塁、横堀(水堀・空堀)
住所 東京都千代田区千代田
問い合わせ先 千代田区観光協会
問い合わせ先電話番号 03-3556-0391