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しんしんちゃん

無印投稿  備中松山城 (2013/12/15 訪問)

松山城で検索すると、たいてい伊予の方が先に出てくるけど、こちらの備中の方も忘れてはいけません。リフトなんか無いし、正直登るのしんどいけど、岩盤の上に築かれた石垣や天守台は、それまでの疲れを吹き飛ばしてくれること請け合いです。
標高487mの高所にある小さな現存天守ですが個人的には小さな天守も好きです。一番高いところで「えいっ」と気張っている感じがいいですね。うん‥立派、立派。
あまりにも不便なので、戦国時代から江戸時代まであまり使われず。明治時代に7円(今でいうところの5万円)で商家に売却されるも、あまりにも不便なので放置され、ボロボロになってたところを昭和5年に修復がされたようです。なんにせよ残ってくれてなによりですわ。

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モト

またの名を伐株山城 (2024/06/21 訪問)

外から山を眺めると切り株のような形をしています。
大きなクスノキをが倒れてその切り株の跡だという伝説があるそうです。
城としてはほぼ向かいにある角牟礼城が出来るまで活躍した城です。

山頂までは車で行く事ができます。
駐車場からは整備された公園に合計7つの土塁が残ってます。
眺望やきれいに刈られた芝などきれいな公園に癒されてしまうのですが、土塁で城跡の雰囲気に戻ります。
堀切をあるのですが、夏の時期は草で見ずらいです。

癒しの公園という側面も味わいつつ城跡の楽しみを感じる事ができる場所だと思います。

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まさお

群馬 沼田城 (2024/06/20 訪問)

名胡桃城の次に訪問しました、利根川の河岸段丘上に位置しているようです。
城から展望が素晴らしかったです。
真田昌幸の長男さんと本田忠勝の娘さんのかつての居城ということで、規模の大きな
お城で昔は五層天守閣と三重櫓がそびえていたとのでした。
次は真田氏3城目の岩櫃城に向います。

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まさお

群馬 名胡桃城 (2024/06/20 訪問)

自宅から関越道で約1時間半の快適なドライブ、月夜野IC付近とのことでしたが
なぜかナビの案内が不調で、近隣の山道を一周してようやく到着しました。
案内所で7分間の紹介ビデオを見たあと、三郭・二郭・本郭・ささ郭の順に
見学しました。現状の城跡は国道17号線の脇によく手入れの行き届いた施設と
なっています。大河ドラマの影響力はすごいものですね。

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しんしんちゃん

遠いのだ (2023/01/06 訪問)

富隈城は島津氏第十六代・島津義久によって築かれた城で東西約150m、南北約250mの方形で南を除く三方に堀があったとされています。天守の無い居館式の城郭だったようですが、西や東側には当時の石垣が残っています。案内板によれば肥後八代の種山の職人たちの仕事のようです。写真がいささか暗いので、再訪する予定だったですが、今年の正月とGWは長期連休が取得できなかったので、結局中国攻めと関東首都圏のチョコ城牧場周遊で収まりました。
※ちょこ城はぴーかるさん発案の単語です。

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しんしんちゃん

桑幡氏館跡  鹿児島県霧島市  金龍ラーメン (2023/01/06 訪問)

桑幡氏は11世紀半ばころから当地居住し、大隅正八幡宮(鹿児島神宮)の祠官を代々務めたそうです。100m四方の方形の居館跡で周囲には堀や土塁を築いていたようです。平成12年度の調査では中国の青磁やタイ・ベトナムの陶器も見つかっています。
九州を旅行しているときは、毎日ラーメンを食べていましたが、鹿児島の金龍ラーメンはうまかったですね。あっさりしすぎず、こってりしぎず、ベストなラーメンというのは個人差がありますが、私にはピッタリはまりました。三河にもこういう店が欲しいです。
一風堂も全店撤退してしまいましたので。

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イオ

天然の要害 (2024/04/27 訪問)

詳細は不明ながら、北畠具教が北畠信意(織田信雄)に謀殺された翌年、北畠具親(具教の弟)の北畠氏再興の呼びかけに応じて挙兵した粟野半六郎の城で、蛇行する櫛田川に三方を囲まれた急峻な断崖という地の利を活かして織田軍と対峙しましたが、日置大膳亮兄弟の夜襲により落城しました。

国道166号線から案内表示に従って南に入り、Y字の分岐を右側に進むと見えてくる鳥居が登城口で、鳥居の手前が駐車場になっています。登城口脇には九十九曲城合戦由来記が立てられ、地元では大切にされている城のようです。防獣柵のゲートを開閉して急斜面を登ること10分弱で東側の尾根に至り、尾根伝いに西に進むと主郭に到着です。

主郭は北辺に土塁をめぐらせ、西辺は土壇状に幅広く八幡社が祀られています(御神体は山麓に移されたようです)。土壇の西側は川まで落ちる急峻な断崖。現在は木々が茂っていますが、樹木が刈られていたであろう往時ならとても攻め上れそうにありません。主郭の南西下は堀切と堀切から西に落ちる竪堀により南西尾根からの侵攻を防ぎ、南西尾根の先にも竪堀が設けられていました。南西尾根から主郭南東下の腰曲輪を経て南尾根へ。腰曲輪の南下にも堀切がありますが、その先の南尾根には軽トラなら充分通れそうな幅広い道が通され、堀切も重機を使って拡張されたような感じでした(御神体を移すため?)。

この前に登城した下滝野城から小雨が降り出したこともあってか、下山してトレッキングシューズを脱ぐとヤマビルが2匹…。厚手の靴下を二重履きしていたため今回は無事でしたが、九曲城または下滝野城(谷筋が怪しい?)ではヤマビルにご注意を。
 

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ミヤちゃん

二条城 (2024/06/22 訪問)

金閣寺に寄る前に、城に行きました。元からそうだったのかは分かりませんが、平城でした。私は御城印をもらいに帳面を持ってきたが、最初は隠しておいた。
そして、御城印をもらいに行くのには、だいぶ時間がかかると分かったので、、順路とは逆に回って買い求めました。今日行きたかった場所の3件目でしたが、
かなり疲労しました。

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しんしんちゃん

無印投稿  津山城 (2013/12/15 訪問)

日本三大山城の一つ、津山城は元は美作国の守護大名・山名教清の命によって築かれたとされています。慶長8年(1603)に森忠政が18万6千石で入り津山城の築造に取りかかり、元和2年(1616)に完成したとのことです。かつては四重(実質は五重)の天守と77の櫓が立ち並ぶ壮麗な城だったようですが明治6年の廃城令によって石垣を除いて破却されています。小倉城とゆかりの深い天守が無くなってしまったのは残念ですが平成期に備中櫓と土塀が再現されています。城内には森忠政の銅像がありますが、モデルとなった木造と比較して若干縦方向が寸詰まりになっています。結果、首が無くなってしまってますね。本人が見たら怒るんじゃないでしょうか。

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小城小次郎

700年の歴史がほぼ跡形もなく (2023/12/10 訪問)

現地には石碑がぽつんと石門と呼ばれる石垣遺構がぽつんと残るのみだが、藤原利仁の流れをくむ後藤氏=武雄鍋島氏が12世紀から19世紀までのおよそ700年間、ほぼ一貫して本拠としていたすごいお城。ほぼ跡形もないのだけれども。

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しんしんちゃん

たんたかたーん (2024/06/16 訪問)

愛知県には溝口城(豊山町)と西溝口城(稲沢市)があります。ややこしいことに溝口城の別名が西溝口城で、西溝口城の別名が溝口城ですわ(城びと参照)。じゃあ出席を取ります。
溝口城さん  溝口城・西溝口城「はい!(×2)」
‥じゃあ西溝口城さんは   溝口城・西溝口城「はい!(×2)」 ‥なんやねんそれ?
‥双子ですか? ガッツ星人ですか? 最近見たやつだと呪術〇戦の藤堂くんのブギウギみたいなもんですかね。手をたたくと入れ替わるやつ。高田ちゃんが降臨してきたときは脳が溶けましたね~。
溝口氏に関しては稲沢市の溝口村と豊山町の豊場村を所領したとのこと。じゃあどっちも溝口氏の城ってことか。溝口氏は新発田十万石までいったそうですが、その時に廃城になったということですか?

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しんしんちゃん

第三の大野 (2024/06/16 訪問)

大野城は城びとに同名の城郭が多い城です。百名城の大野城や続百名城の越前大野城もあります。いずれも良い城で愛知県にも眺望の素晴らしい常滑市の大野城があります。大野といってもピンからキリまであるわけで、一宮市の大野城はまさにキリです!
実は今回訪れるのは三回目です。正直何回も訪問するような城ではないのですが、近くを通りがかったのと最近の写真が欲しかったので。天正12年(1584)小牧長久手の合戦の際に下奈良、宮後、河田の砦と共に秀吉方に使用されています。大野極楽寺公園のグラウンドのそばに石碑が立っており、少年たちが野球をしています。城址の雰囲気は全くないのですが、これも時代の流れというやつですか。

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零汰

城跡・テント:仲山城(宮崎県高千穂町) (2024/04/24 訪問)

北海道行でルートを決める事に難儀していました。悩んだ末に予定は未定、天候により行先を決める事として宿泊は当日昼過ぎに決定してテント泊と決めました。50歳を超えてから新しい事を始めるのはとても億劫でしたが仕方なく重い気持ちで最低限の道具を揃えました。そこで2泊3日でキャンプ場となっている宮崎県高千穂町の仲山城に行きました。出発2週間前片道250km走り重い荷物を積んでテント泊のシュミレーションが1つ目の目的でした。

宮崎県城郭報告書で調べてみると簡単な縄張図があったのでそれを元に周囲を散策しました。各曲輪の名称などは記入がないので現地を見た上での想像になります。東西に100m超、南北に50m超のの範囲に大きな曲輪が2つ、それに伴い大小の付曲輪が存在しています。左側が2段になった主郭部でその西側には道路があります。当時の堀切で拡幅して使用していると思われます。最も広い曲輪がキャンプ場となっています。周囲の付曲輪にはログハウスや管理棟がありますので多少手を加えているようでした。

堀切跡より北西に100m程に出城があります。そこには2段の曲輪があり一部土塁が確認出来、記念碑的な石碑があります。その東側にスロープがありますが遺構なのかどうかは判断付きませんでした。

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園部高校 (2024/06/22 訪問)

 日本最後の城として知られています。現在は京都府立園部高校となっています。巽櫓、櫓門、番所がありました。土曜日でいたが登校されている生徒さんもいたので、そっと写真を撮って退却しました。近くに天守風の建物がありますが、南丹市国際交流会館です。裁判所の前の土塁を観た後、周囲を散策しました。グーグルマップを見ていると裏の山に園部城小麦山櫓跡(三重櫓跡)の表示があり行ってみましたが、城とはあまり関係ないと思われる石碑群しかありません。

 JR園部駅から徒歩約15分で城址である園部高校に行くことができます。

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カズサン

金沢城は東雲城・朝日舘とも呼ばれてる (2024/05/23 訪問)

 薄衣城を終えて南西に約15km程の花泉町の金沢城跡を初登城、車で主郭下まで行けます。

 駐車場:金沢城跡あたご山公園駐車場利用(38°51'16"N 141°10'43"E h=100m)、数台は可能。トイレ有。
 参考資料:余湖図コレクションさんグーグルマップに依る。

 夕刻近くやや暗くなってきたころ、主郭へ登り、愛宕神社に参拝、東側に初日の出眺望地の標柱、南に階段が付いている、あたご山公園に小振りな独立丘陵が主郭、周囲の切岸、周辺を見て帰路へ、溝からイタチ?が顔をのぞかせて写真を撮ろうとしてもすぐに逃げる。
 
 案内板によると。
 平安時代末期、藤原秀衡の家臣が金沢伊豆称しこの館に居住、葛西氏の時代薄衣城主千葉上総介平清純の子上総清胤が葛西氏より領地を賜り居住し、代々金沢氏を称して10代伊豆(守)信胤に至る、天正18年の奥州仕置きにて主家葛西氏とともに没落。
 

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西岸寺 (2024/06/22 訪問)

応仁文明の乱の舞台となり、戦国時代には明智光秀が攻略した城です。亀山城の前身的な城と伝わっています。西岸寺の横に石碑と説明板がありました。天守閣は西岸寺あたりにあったと説明板に記載があります。ぴーかるさんが投稿されていた堀切跡などへは行きませんでした。

 JR亀岡駅から西岸寺まで徒歩約15分で行くことができます。

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ぴーかる

最奥の出丸跡まで行きましょう (2024/04/20 訪問)

【船山城】
<駐車場他>御射山神社前に神社駐車場3台分あり。
<交通手段>車

<見所>堀切・石垣
<感想>日帰り飯田・伊那地方河岸段丘平山城の旅7城目。現地説明板によると船山城は平安時代末から室町時代末に至る四百余年にわたり、伊那地方に栄えた片切氏によって築造されたものであり、1582年織田氏の侵攻によって落城するまでの間、片切氏の本拠地となっていた所である。また松川町のホームページによると、城は室町時代以降に南東方向の尾根上部分の曲輪群と広大な平坦地の削平地は別々に築造されたようです。
 城跡は西の主要部の丘城部分と南東方向に船山である尾根上の連段曲輪の2局の構造に分かれます。主要部の部分は西の御射山神社西側に堀切があり遮断しています。主要部中心部に幅広の空堀跡があります。松川町のホームページには主要部にある石垣について記述がないので後世のものと思われますが、西端の獣柵の外側の下の方、竹藪まで石垣が残っているので、当時のものを利用していると期待したいところ。船山である尾根上連段へは果樹園の東のドン突きまで行くと獣柵ゲートがありますので開けて山に入ります。ゲートを開けるとそこが堀切になっていて、右手の尾根上に登ります。大きく深い堀切が2条あり、堀切前の土塁が虎口か何かの遺構で巨岩石積みが崩れたように見受けられました。見応えのある堡塁です。東端の出丸跡は広く、北面に虎口跡があり石列が残っています。
 河岸段丘の城は、川側の周囲が谷の深い先端部に主郭を置いている城跡が多かったですがこの船山城は丘陵地の手前側に主郭を置いています。御射山神社の西の堀切は現在改変されていて、貯水池があったり、住宅地になっていたりしているので堀の規模は想像がつかないが、西側に広大な丘陵地が広がっているので、攻め込まれると結構イケイケな感じを受けました。

<満足度>◆◆◇

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カズサン

薄衣城初探訪は登城口辺 (2024/05/23 訪問)

 平泉衣川地区の白鳥舘、接待館、衣川柵、小松柵を終えて南東約20km程、薄衣城を目指し初探訪。
 北上川の高館橋を渡り北上川添いを進行、川崎町の道の駅から北上川を南下約1km程で目的の駐車場。

 駐車場:北上川東沿い、薄衣城西面岩崖直下ジャリ駐車場(38°53'33"N 141°15'58"E h=20m)、数台は可能、トイレ無。
 参考資料:余湖図コレクションさんグーグルマップに依る。

 車を駐めた崖下に大型の案内解説板縄張付きがあります、そこより徒歩110歩北に登城口がります、薄衣城跡の標柱が2本あり、平成12年と28年設置、薄衣城跡まで歩いて5分の案内、登ると急な直線登城路、倒木も目に付き登城が重く感じ、登城口と案内板を見て終了とする。
 朝早い時間なら登ったかもしれませんが夕方も近づくと足が止まってしまいます。

 

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チェブ

メキシコのアカプルコ市は国際姉妹都市。 (2024/05/04 訪問)

慶長遣欧使節でエスパーニャを目指した伊達家家臣 支倉 常長さん。常長さんの、お祖父様が1545年に築いた「上楯城」。
常長さんも青年期は「上楯城」で過ごしたようです。

大きな説明板の前に、 広い駐車場がありました。GWでしたが、貸し切り状態です。
説明板にはポストがあり、中には案内図が入っていました。
登城口から入ると真っ直ぐの道がありました。横は堀になっているのか長く1段低くなっています。土塁の上を歩いているのかも分かりません。
カーブすると本丸・二の丸への道標がありました。
が、木が道をふさいでました。折れているのではなく、しなっていて通れません。
入口から大した距離でもないのですが、野生の動物達の領域にお邪魔しているようなので、退陣しました。
駐車場で誰もいないところから、へっぴり腰で進軍していましたので、逃げ足です。

慶長遣欧使節は、メキシコとの直接貿易を求め、スペイン国王とローマ教皇のもとに派遣した外交使節です。
仙台市は現在、この事がきっかけでメキシコのアカプルコ市と国際姉妹都市なんだそうです。
『アディオース!』と叫んで後にした「上楯城」攻めでした。

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イオ

下滝野城(三重県松阪市飯高町下滝野) (2024/04/27 訪問)

下滝野城(城びと未登録)は、詳細は不明ながら、北畠具教が北畠信意(織田信雄)に謀殺された翌年、北畠具親(具教の弟)の北畠氏再興の呼びかけに応じて挙兵した川俣谷の国衆によって築かれたとされます。

国道166号線沿いの下滝野公民館の駐車場から登城開始。国道を西に少し行ったところに東側の登城口がありますが、ルートがわかりづらいようなので、岩谷橋の手前から川沿いに上流に向かう西側の登城口から登城しました。川沿いにしばらく行くと東側に切通道が分岐しています。北に続く道の西側は土塁状になっていて石積も見られますが、後世のものと思われます。分岐から切通道を上って行くと、主郭側斜面に大規模に石積が続いています。切通道は往時の堀切だとしても、石積は後世に土留めとして施されたものでしょうか。

切通道から主郭北下の腰曲輪を経て主郭へ。頂部の主郭は楕円形の曲輪で、北西辺に低い土塁が見られます。南西下には浅い堀切があり、その先には小曲輪がありました。北東下にはほぼ自然地形の広い曲輪があり、北東辺を土塁が囲んでいます。そして切通道を北東側に下って谷筋に出て、谷沿いに南に進むと東側の登城口に出ました。なるほど、切通道から谷筋に出るのは間違えようがないとしても、谷筋から切通道への分岐を見極めるのは難しそうなので(案内表示無しでほぼ直登)、やはり西側から登城するほうが良さそうです。
 

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