別所長冶の居城として知られています。羽柴秀吉による兵糧攻め、「三木合戦(三木の干殺し)」の舞台となりました。遺構はほとんど残っていませんが、地形や規模は何となくわかります。
しんちゃんさんが投稿されていた鷹尾山城等も行きたかったのですが、今回は時間がなく周囲を散策する余裕もなく断念しました。
神戸電鉄粟生線三木上の丸駅より徒歩3分くらいで行くことができます。
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2023/09/24 09:24
別所長治 (2023/09/23 訪問)
別所長冶の居城として知られています。羽柴秀吉による兵糧攻め、「三木合戦(三木の干殺し)」の舞台となりました。遺構はほとんど残っていませんが、地形や規模は何となくわかります。
しんちゃんさんが投稿されていた鷹尾山城等も行きたかったのですが、今回は時間がなく周囲を散策する余裕もなく断念しました。
神戸電鉄粟生線三木上の丸駅より徒歩3分くらいで行くことができます。
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2023/09/24 09:01
2023/09/24 08:58
2023/09/24 08:49
赤松満祐 (2023/09/23 訪問)
城域は東播磨でも屈指の規模を持った城で赤松氏が東播磨の拠点として築いた城です。遺構はほぼないと思われますが、水路脇に説明板があります。嘉吉の乱の時に、赤松満祐が殺害した将軍足利義教の首をもって立ち寄ったと伝わっています。周辺には堀井城や小堀城、金鑵城がありますが、それらの城の中で河合城が中核的な役割を果たしたとされています。堀井城、小堀城とは水路で繋がっていたようです。どのような状態であったのか、その時の風景を見てみたいですね。
河合城、堀井城、小堀城、金鑵城はどの城址もJR河合西駅から徒歩10~20分くらいで行くことができます。
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2023/09/24 08:33
光枝(三枝)氏の城 (2023/09/23 訪問)
土塁が残っていますが、皆さんが投稿で指摘されていうように草が茂っていてわかりにくくなっています。
JR河合西駅から徒歩にて15分くらいで行くことができます。
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2023/09/24 08:23
小川城 (2023/09/23 訪問)
小川城
旅の途中に立ち寄り
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2023/09/24 08:20
2023/09/24 08:06
2023/09/23 22:38
清水宗治の覚悟の切腹が歴史を大きく動かした。 (2019/12/29 訪問)
備中高松城は本丸から南東にかけて、二の丸、三の丸が続き城域の外側全体が沼や池で囲われていた
ようです。当然防御力も非常に高く、天正10年(1582)3月15日、羽柴秀吉が力攻めに及びますが
数百人が討死したと有ります。かくして有名な「備中高松城の水攻め」となるわけですが講和に際して
秀吉は城主清水宗治の切腹という厳しい条件を出します。毛利方は難渋しますが安国寺恵瓊が交渉の
状況を宗治に話した所、男気溢れる宗治は強い決意で切腹を了承したそうです。秀吉側も信長死去の報を
受けていて、ハッタリをかけて強い態度で望んだのでしょうが、結果として宗治の自害の覚悟の速さが
秀吉の中国大返しに繋がり、後の天下統一に繋がっていったのだと思います。秀吉にとっても小早川隆景
とのパイプが出来たのも大きな収穫だったと思います。かつての主、織田信長や官兵衛・半兵衛、
真田昌幸、小早川隆景など才能あふれる武将たちが秀吉を認めたのも「才ある物は才ある物を見抜く」
現象が起きたからだと思います。朝鮮・明を攻めたりキリシタンを弾圧したりして悪し様に扱われる
ことが多いのですが、決してただの「人たらし」に秀でた人物では無いと思います。最初に天下を統一し、
惣無事令を発することができた唯一の武将で正直、徳川家康がしたことは天下の簒奪に近いと思います。
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2023/09/23 21:42
水堀と神社と石垣と (2019/12/29 訪問)
庭瀬城は庭瀬藩の中心をなす城で、宅地化がすすみ、今では寛政5年(1793)に
板倉勝喜が建立した青山神社と城址碑がかつての名残のようです。案内板によると
水堀に使用されている石垣はかつての庭瀬城のもののようです。藩祖の戸川達安は
元々は宇喜多家の家臣でしたが慶長4年の宇喜多家の家中騒動を機に宇喜多家から距離を
起き、関ヶ原では東軍につき当地に2万9200石を与えられました。達安の離反が
宇喜多家を弱体化させ、関ヶ原での戦闘にも少なからず影響があったのかもしれません。
こういった出来事の積み重ねが関ヶ原での勝利に繋がっていったのだと思われますが
徳川家康公のここ一番での勝負強さと引きの強さは尋常ではないと思います。もちろん
そこに至るまでの根回しの周到さがあってのことですが。
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2023/09/23 21:20
城の中の城。‥といっても (2019/12/29 訪問)
撫川城は別名「沼城」といい、泥沼の中に築かれていたようです。東西77m、南北57mの
長方形の主郭を幅15mほどの濠が周囲を囲み、西方に野面積の石垣、東方には土塁が残り
南口がかつての大手で撫川知行所総門が移築されています。現状神社ですが、かつての庭瀬城の
本丸・二の丸の部分に知行所が置かれていたので、一度に二つの城を訪問でき、ちょっと
お得な感じがします。
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2023/09/23 20:44
和水(なごみ)町ですが… (2023/09/16 訪問)
佐々成政の肥後統治に反抗し、最大の激戦地となった田中城。
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2023/09/23 19:52
夏の特別公開 (2023/09/22 訪問)
見ごたえあり。ハードスケジュールの中行けてよかった。JR遅延でヒヤヒヤしたけど見れて満足。
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2023/09/23 09:33
義経伝説が活きている (2023/09/17 訪問)
宮沢遺跡の探訪前に若柳金成ICを降りて義経伝説の義経北行伝説なる義経身代わり杉目太郎行信公供養碑と同室の祠が主郭に祀られている津久毛橋城を初登城しました。
駐車場:栗原市金成津久毛岩崎沢の岩崎集会所、県道186号線沿いで数台は可能、約500m手前
参考資料:古城盛衰記さんグーグルマップに依ります。
車を駐車利用した岩崎集会所から県道186号線を西行約500m、途中に猿田彦神社、岩崎舘跡、岩崎舘標柱、手作りの津久毛橋城跡案内指示板があり散策気分、指示板山手に登城口、脇に津久毛橋城跡案内板、草の刈られた登城坂を登って行くと切岸城塁、杉林、畑跡か?帯曲輪跡か?階段状に主郭まで連なっているが比高は20m程、途中には幟「義経北行伝説の影武者 杉目太郎行信公の供養碑」が数本、津久毛橋城跡標柱が立っている。
主郭には杉目太郎行信公の供養碑(グーグルマップでは胴塚碑と成っていますが?)と同室の小祠が並んで祀られています、また脇に「源義経の身代り杉目太郎行信公の碑」解説板が有ります。
高舘で自刃したのは影武者杉目太郎行信公で源義経北行伝説の立役者との伝聞が記されています、歴史読本で義経ジンギスカン伝説なるものを読んだ記憶が蘇って来ました。
また南北朝時代には北畠顕信が南朝回天の拠点を津久毛橋城に築き北朝方の足利氏の武将石塔義房と大合戦を展開したと解説板にあります。
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2023/09/23 09:28
どうする家康 岡崎巡り (2023/08/12 訪問)
ここは、36年ほど前に出張で半年くらい住んでいて何度か訪れました。久しぶりの岡崎城に胸躍ります!やはりまず大河ドラマ館へ盛り上がってました。城址をウロウロして天守へとにかく人が多くいつもの様にのんびり探索できないまま八丁味噌倉見学に行きました、そして岡崎と言えば鰻!鰻を食べに移動中・・・小島よしおに遭遇、なんと37度気温の中ジョギング!凄い!後で調べてたらこの日イベントで来てたらしく開催時間の合間でプライベートで走るそれも暑い中本当に凄い人だ!鰻は蒸さずに炭焼き最高に美味かった!
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2023/09/22 22:00
城主大熊朝秀はかなり武勇に優れた人物らしい。 (2021/05/01 訪問)
箕冠城は箕冠山の標高237mの山頂に築かれていて、東に堀切を経て二段の郭が
続いていて、その周囲を帯廓が囲みます。その下を土塁を備えた横堀が東西に続き
その南が二の丸とされ、その南に堀のごとき箕冠清水が存在します。山頂からは周囲の山々が
良く見え、遺構を良く残し、城域の近くまで車で行くことが出来ます。
大熊氏によって築かれた城で、上杉謙信に仕えた大熊朝秀の代に謙信が出家して上杉家に動揺が
走った際に武田信玄に内通し、謙信に反旗を翻しました。その後、謙信配下の上野家成に敗れ、永禄6年
(1563)武田信玄の配下になり、山県昌景の与力になり大いに活躍したと有ります。
武田勝頼にも最後まで従い、天目山の戦いで討ち死にしたとのことです。
一騎打ちに強く、長野業盛を攻めた際に上泉信綱との一騎打ちで無傷で引き分けたとされています。
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2023/09/22 21:31
蓮如が造った城郭寺院 (2023/08/19 訪問)
【吉崎御坊】
<駐車場他>山頂に数台駐車できます。
<交通手段>車
<見所>坊舎跡・曲輪
<感想>越前ちょこ城巡りの旅1城目。吉崎御坊は城郭寺院で現地説明板によると1471年に京から逃れた本願寺第八代法主蓮如が北潟湖畔の吉崎山の頂に坊を建立したのがはじまりとされます。1475年に戦国の動乱で坊舎が2度目の焼失にあい、蓮如はこの地を去ります。蓮如はこの8年後に山科本願寺を建立、完成させることとなります。1506年にはこの地は一向衆の拠点・寺内町となっていたようで、朝倉氏が侵攻して坊舎を破却します。以降吉崎は廃坊となります。
今回は福井県の一番北の城びとフラッグから南下していくプランで朝7時過ぎに到着しました。吉崎山の山頂はかなり広い削平地になっています。蓮如の腰かけ石や礎石の残る坊跡があります。南側の下段は3段程の連段曲輪になっていて土塁が残ります。周囲は北潟湖に囲まれて堀の役割をしていて防御性を感じます。蓮如がこの地を退去して山科本願寺を造成する前段階の城郭寺院跡として見応えがありました。
<満足度>◆◆◇
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2023/09/22 18:24
「るの門」 (2023/09/19 訪問)
早朝4時起きで準備をしつつ城びとの投稿欄をひらいてみると「特別版 お城EXPO in 姫路」に行かれて城びとスタッフさんとお話しされた朝田さんのご投稿。シャンシャンさんのご投稿も続いています。イオさんのとことんシリーズも連載中で、特別公開に行かれたtodo94さんのご投稿も直前に。
と絶賛盛り上がり中の姫路城に行ってきました。
姫路駅に着いたのが午前10時少し前。
駅にあった模型でイメージをふくらませ、観光案内所でマンホールカードをもらってから徒歩で向かいました。
厳選24城スタンプ帳の押印と城カード購入を済ませ、昨年修理を終えて真っ白になった菱の門を抜けたら、人の流れに逆らい右へGO!
クイズに完敗したあの日から7か月。(スルーした日からは1年3か月)
ついに「るの門」に到着しました。
門の前には<まわれ右!>の大きな赤い矢印とともに『ここからは天守に行けません。菱の門にお戻りください。』の文字。
先刻承知。
天守に行きたいのではなくて、門そのものが目的なので菱の門には戻りません。
ドキドキしながら、「初・るの門」くぐりましたヽ(^o^)丿
この礎石、この刻印、この階段……!
いやというほど写真で確認した光景が目の前に。
小さな穴門ですが、私にとってはやっとたどり着いた凱旋門のような存在です。
すぐに報告したくてその場で投稿してしまいました^^;
しばし感動に浸ったあとは現場検証にとりかかります。
前回の敗因は、やはり『出口はこっち→』の案内板。
城内をさんざん歩きまわった最後の最後にこの案内板を見れば、「ぬ」の次が「を」であることに疑問をもったとしても、大概、素直に案内に従うでしょう。世界遺産がそう指示しているのだし、疲れているから無駄に歩きたくないし。
実際、「ぬの門」から出てくる人の流れを観察していると、ほんとうにみなさんもれなく「をの門跡」に流れていきます。中には「るの門」のほうを気にしている風な人もいましたが、誰ひとり進んだりはしていません。ルールをきちんと守る日本人、すばらしい!
そこで何だかちょっと試してみたくなって、「ぬの門」から10人くらいのグループが出てくるタイミングを見計らって、その方たちの視界に入るように「るの門」の方へ進んでみました。
すると、たちまちそのグループがばらけたのです。
「出口そっちじゃないよ。」
「こっちにも何かありそう。」
「あの人が行っているから行けるかも。」
「無理じゃね?」
「ちょっといってみようか。」
おそらく心の声はこんな感じです。
そして立ち止まった何人かの方が「るの門」へと向かってきました。
(やった!!!)
「るの門」はここに来るまでに通った10以上の門とまるで違う雰囲気の、石垣の石をくりぬいたような穴門です。
小学校低学年くらいの男の子が
「すごい!洞窟がある!!」
と叫んでいるのを聞いた時には、じわじわとこみ上げてくるものがありました。
この男の子、自分の足と目で見つけた「るの門」のことはきっと忘れないでしょう!
(但し「をの門跡」を見逃した可能性あり。)
こんなに感動的な「るの門」なのに、『天守には行けません』『出口ではありません』と前後をやんわりと塞いでいるのは、大勢の観光客が小さな「るの門」に押し寄せてしまうと滞留してしまうからなのでしょう。
……と思ったのですが、
敵に気づかれにくい門、抜け道として築かれた「るの門」です。そのことをリアルに体験させてくれるためにあえて「ここからは天守に行けない!」「出口はあっちだ!」という表示を出しているのだとしたら!?
訪れる者に、今なお巧妙な手口で仕掛けてくる姫路城。すごすぎる……。
<夏の特別公開へつづく>
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2023/09/22 13:36
10月1日(日)「九戸城まつり」が開催されます!
今年4月29日に本丸が一般開放された九戸城跡でイベントが開催されます!
・九戸城跡とその周辺を対象エリアとした「リアル謎解きゲーム」(11:00受付開始、12:00スタート)
・お城好き気象予報士 久保井朝美さん「城萌えトークショー」(15:00~)
・「九戸城で星を愛でる会」(18:00~)
など盛りだくさんの内容です。謎解きゲームには久保井さんも参加します。是非、秋の九戸城へお越しください!
◆料金:無料
◆謎解きゲームのみ事前申込必要(100組限定・1人から参加可) 申込は九戸城イベント実行委員会(TEL:0195-27-2540)まで。
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2023/09/22 11:15
宮沢遺跡に西隣接する藩政時宮沢要害 (2023/09/17 訪問)
宮沢遺跡探訪を何年振りかの願いを叶え、西に隣接する(直線で300m程)宮沢城(鵜ヶ城・宮沢要害)を初登城しました。
駐車場:曹洞宗上郡山光岳寺の参拝者駐車場を利用させて頂きました。(田圃畦道を通って近そうでしたから)
参考資料:城郭放浪記さん、古城盛衰記さん、余湖図コレクションさん、グーグルマップに依ります。
宮沢遺跡から新庚壇集落入口(県道165号線沿い)在る宮沢城の解説板を確認撮影して、駐車場と狙った光岳寺を目指す、光岳寺の南に砂利舗装とアスファルト舗装の参拝者駐車場が有ります、参拝後駐車場から黄金色に実った田圃の畦道を杉が林立した宮沢城跡へ100m程の近さ、近くで良く分かります、南から東へ北へと田圃道を歩き北東に微高地丘に登り畦道を東へ、杉林の中に小高く鹿嶋・八幡神社が鎮座、その東に本丸土塁が残って居ます、特に案内板は有りません、東が本丸堀跡と思われる低地、すぐ住宅街へ、住民の方がいらっしゃたので、本丸土塁以外の遺構は有りませんか?と尋ねたら「特に在りません」との返事。
宮沢城の解説板を見ると本丸二の丸は輪郭式三の丸に当たる南屋敷東の下中屋敷群は梯郭式で水堀で囲まれて更に湿田、沼?さいかち川に周囲を囲まれて厳重な護り。伊達軍の攻撃を阻止したと言われる要害の地です。
歴史は平安の頃藤原秀郷が拠った所、戦国の頃は大崎氏が拠り、江戸期は伊達氏の宮沢要害として長沼氏が入り明治を迎える。詳細はぎりょうさんの投稿(2020/11/01)、宮沢城解説板写真をご覧ください。
駐車利用した光岳寺と上郡山氏のつながりが由緒に書かれて居ましたが墨がかすれて良く分かりませんが伊達氏山形米沢に居た頃、山形長井の出身と何となく分かりました、山号を上郡山としたのが分かりました。
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