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カズサン

登城前にLRT乗車-1/7 (2024/11/10 訪問)

 孫の運動会観戦の翌日、孫を宇都宮LRT乗車と飛山城跡探訪と誘ったのですが、「もう乗ったよ!」と一言、娘、孫達、家内は1日買物ショッピングの方が魅力で、私は1日城廻へ。
 宇都宮へ来たら是非、LRT乗車したいと願って居ましたので、早速グーグルマップで調べるとLRT飛山城跡駅に無料の飛山城跡停留場駐車場(宇都宮市竹下1674)が設置されている。
 ナビに住所を合わせるがナビが2年前の設置なので住所番地が無く、地形に合わせてセットする、バッチリ駐車場に到着、砂利舗装で20台以上は可能。

 飛山城跡駅と宇都宮駅東口間を往復乗車、約6.8km程、料金250円、走行時間22分、1時間に5本の運行、平日の朝、夕方時は運行本数多くなっています。
 飛山城跡駅では上りと下りが丁度行きかい上り車両と下り車両を同時に見る事が出来ます、上りの宇都宮東口行きは空いていましたので座れましたが下りの乗車は満員で立ち席、宇都宮大駅で多く方が降りられ座れました、鬼怒川架橋の眺めは飛山城跡の西端崖が遠望出来、景観も素晴らしい眺めでした。また新しいLRTの新しい香りと車内と景観を楽しませて頂きました。
 
 その後車で飛山城へ、徒歩では約1.4km程20分、沿道に幟旗、角々に案内板があり容易く登城できます。
 車は飛山史跡公園とびやま歴史体験館前の駐車場を利用。
 体験館に入り展示物見学と資料をゲット(無料)

 飛山城跡をぐるっと探訪し、飛山城西端崖の2号堀と4号堀の間で宇都宮LRTコンクリート橋が遠望出来ましたので、12分間隔の運行と分かって居ましたので時間待ちをしてコンクリート架橋を走るLTRを撮影しました。
 先に、にのまるさん朝田さんが投稿されて居ましたので触発され楽しませてもらいました。
  
 6号堀と櫓台-2/7に続く。
 

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イオ

とことん津山城(搦手) (2024/09/16 訪問)

(続き)

搦手への石段を下りる途中に裏切手門があり、かつては埋門の上を本丸御殿の表向と奥向を結ぶ七間廊下が通っていました。さらに石段を下りたところが裏鉄門で、鉄板で覆われた門扉の櫓門が設けられていました。裏鉄門に南接する腰巻櫓の石垣は明治に大規模に崩落し、後に少し形を変えて積み直されており、今もその痕跡が見られます。

裏中門へと続く石段を下りる前に、十三番門跡から本丸下段の腰曲輪へ。涼櫓が建っていた本丸北面の石垣沿いに進んだ先には、小姓櫓跡や色付櫓跡があり七番門跡から天守台北下に至る…はずですが、長櫓の下あたりにトラロープが張られていたので、その先は未確認です。石段を下りたところが裏中門の桝形で、裏中門を抜けると搦手側の二の丸です。二の丸の北辺には荒和布櫓、道明寺櫓、干飯櫓が建ち並び、西端の肘櫓に南接する格子門は西側の二の丸へと続いていますが、この先は先ほど探索しているので、北西部の裏下門に向かいます。裏下門は搦手の最後(というか最初?)の櫓門で、門の下には紙櫓と肘櫓に挟まれた石段が続いています。

石段を下りて行き、表門側へ続く南側の三の丸は腰掛跡と十九番門跡のあたりで石垣修復のため通行止めになっているので、北側の裏門から退出しました。裏門の東には薬研堀が水をたたえ、二の丸石垣と薬研堀の間には池上門と番所があったようですが、現在は舗装道になっていて痕跡も見られません。そのまま東に進んで、三の丸を抜けて二の丸に通じる桜門跡まで行きたいところでしたが、麦櫓跡を見上げるあたりまでで通行止め。裏門前まで引き返し、厩堀をぐるりと回り込んで駐車場に戻りました。いくつか取りこぼしはあるものの、さすがは日本三大平山城、豪壮な石垣を存分に堪能した2時間半でした。満足満足。
 

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todo94

『YOASOBI 5th ANNIVERSARY DOME LIVE 2024 “超現実” 』前の攻城③ (2024/11/09 訪問)

中曽根城から西新井駅に向かい、東武伊勢崎線牛田駅で京成関谷駅に乗り換え、青砥駅から徒歩でアプローチしました。朝田辰兵衛さんの投稿の通り、葛西城址公園は工事中でしたので、御殿山公園のみ散策して、いくつかの説明板等を確認してまいりました。

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トク

雲林院と紫式部の墓(紫式部ゆかりの地を訪ねて⑥:最終回) (2024/11/12 訪問)

紫式部が晩年を過ごしたとされる雲林院とその墓を訪れました。地下鉄烏丸線北大路駅からバス大徳寺前で下りて行きました。着いたのが17時頃で寺はすでに閉まっていたので、中の見学はできず残念でした(写真②)。

紫式部(まひろ)は、ここ雲林院で宣孝や道長との思い出や今まで詠んだ歌を「紫式部集」としてまとめながら余生を過ごしたとされています。そして道長の死から3年後の1031年に亡くなったようです(享年59)(1014年説もあり)。墓は雲林院から300m程東のビルの谷間にひっそりとありました(写真①)。

 いづくとも
 身をやる方の
 知られぬは
 憂しと見るも
 永らふるかな

源氏物語はベストセラーになり多くの人に読まれた反面、その内容からか誹謗中傷も多く、墓は心無い者に何度も壊されたそうです。晩年の紫式部はそういった誹謗中傷にも、さぞかし心を痛めていたのではないでしょうか? この歌からは、そういう身の置き場所がないまま生き永らえているという様がとれるような気がします。そして紫式部は辞世の句でこう詠んでいます。

 誰か世に
 永らえて見む
 書きとめし
 跡は消えせぬ
 月見なれとも

私が死んだら、この物語を読む人はいないかもしれない。でもそれでもかまわない。書きたい事はすべて書いたのだから・・・

その後実際は、源氏物語は、室町末期から鎌倉時代に冊子から絵巻物に写本され、つまり綺麗なイラストが付いて分かりやすく読みやすい形になったため、紫式部の予想に反して、ますます多くの人に読まれ、そして後世に残っていったようです。


タイトル「光る君へ」・・・
光る君とは本当はいったい誰の事だったのでしょうか?
そしてその光る君へ紫式部はどんなメッセージを残したかったのでしょうか?

お城と関係ない話を長々として、どうもすいませんでした(終)。
 

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天守無しがアツい

高山神社で前日の補完 (2024/11/03 訪問)

スタンプの受付時間にあと数分…で逃してしまった翌日…私は再び津城へ。実はここのスタンプ設置場所は2ヶ所あり、1つ目は城趾むかいの駐車場(津まんなかガイド詰所)…もう1つは高山神社(城趾そばにある神社)にあるとガイドブックにありました⛩️

まずその神社の境内へ…すると(1枚目)確かに続100名城スタンプが…しかも無人なため「誰かに待たされる感も誰かを待たせる感も無く…まさにフリー😂」という最高の状態で気兼ねなく押印

普段はスタンプ台まで撮影することは無いのですが…何せ今回は惜しかった前の日の切なさを今日挽回ができた流れで…少しテンションが上がっていたからか…その記念としてこれも撮りたくなったのです

そう…最大の目的である100名城スタンプはこれで達成した…けれどそれでハイさよならは礼儀に欠ける…というか私のポリシーがそれを許さない。なので本堂(2枚目)で御賽銭をあげて感謝の合掌🙏もしました

それから城跡に向かい…時間の許す限り散策。前日(11/2)に御城印を購入した際に観光案内所スタッフが渡してくれたパンフレットの中に天守台という表記があり、てっきりここにあるのは櫓のみで天守は無いと思っていたので、そこを確認する事にしました

天守台は高山神社のすぐむかい…階段上がってすぐ右手の場所にあり、今まで見逃してしまうほど地味な印象でした(3枚目)。台の上に上がる階段は無く、下から見上げるのみ

案内板のみが天守台の手前に立ってました。この天守台には初代城主織田信包の代に五層の…藤堂高虎の代に三層の天守が建てられた…しかし関ヶ原の戦いだったり(その時にここ津城は包囲戦がおこなわれたらしい)火災で消失し、以降は再建されぬまま…現在に至る🏯

最後に…城趾むかいの駐車場を遠くから確認。すると白いテントがあり(昨日そこに足を踏み入れた時それは無かったので)「やはりもうスタンプ設置台は撤収してたんだな…」「5-10分遅れだったからもしかしたらまだスタッフさんがいて、頼めば押させてもらえるかもと淡い期待してたけど…時間厳守みたいにすぐ撤収しちゃうなんてキビシー😅」と感じました

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朝田 辰兵衛

玉縄城から徒歩で…🐾 (2024/09/15 訪問)

玉縄城から徒歩で向かいました。だらだら歩いたので,30分くらいかかりました。子供連れの奥様2人が長話しておりましたので,隣接する長福寺の高台に行ってみました。風合いのある冠木門がありましたが,関係性はわかりませんでした。
すっかり暗くなってからようやく公園内を撮影するにいたり,ストレスと疲労感の記憶だけが印象深い散策となりました…。

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しんちゃん

マツオ・デラックス (2024/11/03 訪問)

松尾寺城は山岳寺院を利用した城であったそうですが、それほど険しい感じはしません。北側の社の背後の土盛りは雰囲気がありますが、遺構かどうかは不明です。天正9年(1581)織田信長に攻められ壊滅的な打撃を被りますが、後に豊臣秀頼によって再建されたそうです。
山門に向かって石段を登っていくと左手に首堂があります。源義経が一ノ谷の合戦で討ち取った首を首舟に乗せ松尾寺に送り、それをねんごろに弔ったとのことです。

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しんちゃん

石碑があるでよ (2024/11/03 訪問)

伯太陣屋は渡辺基綱によって築造されたとされています。伯太藩渡辺氏は「槍の半蔵」の異名を取った渡辺守綱の五男を始祖(オリジン)とするようです。現在は宅地になっていて、石碑や武家屋敷跡を示す石碑などが残るのみです。
残りの写真は旅の途中、各地で食したものたちです。やはり食は旅の友であり糧であります。

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しんちゃん

柳生食堂・まかない飯 柳生藩家老屋敷小山田家 (2024/11/02 訪問)

柳生藩家老屋敷は柳生藩1万石の家老であった小山田家の屋敷です。作家の山岡荘八氏がここに移り住み「春の坂道」の構想をここで練ったと伝わってます。いいですねえ‥、こんな古風な屋敷で一年くらい暮らしてみたい。
柳生藩に伝わる武具や山岡氏にかかわる展示がされています。すぐ近くに小山田家の分家があります。こちらは非公開になりますが、本慶に負けない立派な石垣が目を引きます。

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しんちゃん

よくわからん (2024/11/03 訪問)

現地案内板にかつての縄張りが載っていますが、今はだいぶ変わっているようです。近くにある門は常時閉まっているようです。現状=良くわからん‥です。
永禄9年(1566)2月、家原城に籠っていた松永久秀方の泉州衆が城を出て、畠山高政と合流し、上芝で三好義継の軍勢13000と戦いますが敗れて岸和田城に逃れたそうです。永禄11年(1568)9月には織田信長が三好三人衆を破って畿内を平定しますが、12月には三好義継の家臣・寺町左衛門大夫・雀部治兵衛尉らがたてこもる家原城が三好三人衆に攻められ落城したそうです。

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ぴーかる

城跡へは立入禁止 (2024/11/03 訪問)

【御影山城】
<駐車場他>出雲大神宮大駐車場
<交通手段>車

<感想>御影山城の築城の詳細は定かではありません。城びとの城郭情報では主な城主に柳本氏・内藤氏がある。柳本氏は幕府管領を務めていた細川氏の家臣、内藤氏(八木城が本拠地)は細川氏から丹波国守護代を任ぜられた家柄です。また亀岡市のホームページには明智光秀の進軍の際、国衆がここで防戦したと伝えられると書かれています。
 御影山全体が麓の出雲大神宮の御神体であるため入山禁止となっています。山の中腹にある巨石の磐座へは社務所で受付すれば見に行けるとのことでしたが山頂付近の城郭遺構まで行けないとのことでしたので私もパスして神社でお参りのみとしました。山頂付近は石積み、土塁、堀切等良い遺構が多くあるようです。

<満足度>◆◇◇

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虎の子

割と標高差のある山城でした (2024/11/16 訪問)

彦根駅徒歩20分くらいの龍潭寺から上り、切通し、西の丸、本丸と登城し、千貫井やわずかに残る隅石垣などを見てきました。地元のガイドの方によると三の丸や法華丸への道は昔はあったが今はなく、登城道も今は一つなので、上った道を下るルートです
本丸からは彦根城を眼下に見ることができました。千貫井は今は水はないが水があった痕跡はしっかりありました。隅石垣はほんの数個残っているだけで、彦根城に流用されたという話も聞きます。三成の城だから思い込みもあるでしょうが、なんとなく荒廃感がありました
城山全体が寺の所有地とのことで、登城道などの整備も追いつかないのかもしれませんが、入山料などはなく開放いただいているようです。また、龍潭寺付近や登城道で何匹もサルを見かけました。目を合わせたり食べ物を見せないように気を付けてくださいね

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WEST

豊田城探訪 (2024/11/06 訪問)

茨城県常総市にある豊田城を訪問しました。
国道294号を南下していると5重7階の天守閣が視界に入ってきます。高さ48.5mで市内で一番高い建物だそうです。
この豊田城は常総市地域交流センターとして建てられましたが、実際のお城跡は別の場所のようです。
最上階からの眺望は素晴らしく、常総市の街並みや筑波山が良く見えます。また、登城日はあいにく見えませんでしたが、天気が良ければ、富士山も見えるとのこと。
1階のロビーには、城主豊田治親氏の毒殺の場の展示がしてありました。戦国時代の厳しさを見るようです。
ところで、常総市内を走行していると櫓風の建物が散見されます。いくつ位あるのでしょうか?

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WEST

向羽黒山城探訪 (2024/10/16 訪問)

福島県の向羽黒山城を訪問しました。初めに本郷インフォメーションセンターに立ち寄り、パンフレットの入手とお勧め登城ポイントの説明を受けました。丁寧に説明していただき、登城の参考となりました。事前に立ち寄ることをお勧めです。
登城は、お茶屋場跡、二の丸跡、本丸跡、三の丸の順で巡りました。本丸跡への古城のみちで見える竪堀は圧巻ですね。そのほかにも見どころ一杯です。さすがに日本最大級の山城です。
当日は曇り空であり眺望は今一つでしたが、眺望のよさは山城ならはですね。

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WEST

会津若松城探訪 (2024/10/16 訪問)

会津若松城を訪問しました。2019年6月以来の2度目の訪問となります。
今回は、自動車でのアクセスで、鶴ヶ城西出丸駐車場に止めて登城しました。
石垣、天守など見どころ一杯で何度来ても飽きないお城かと思います。
特に五重五階の天守は立派ですね。城内を散策しながら、いろいろな角度からみることができます。
再度訪問したくなるお城の一つです。

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WEST

三春城探訪 (2024/10/15 訪問)

三春城を訪問しました。三春城は戦国時代に田村氏が築城したとのことですが、現在の遺構は蒲生氏、松下氏のようです。
お城へは自動車によるアクセスにて、船引三春ICから向かいました。駐車場は本丸下にある三春城跡駐車場となります。
城跡には建物等はありませんが、石垣、堀切、土塁など遺構が残っており、山城らしさを感じることができます。特に現在は道路となっていますが、二の丸と本丸の堀切跡はなかなか見どころかと思います。
パンフレットが本丸の東屋にあります。縄張図の記載があり、参考になりますよ。
なお、三春城ではVRを活用した説明がなされており、当時の建物の姿を感じることができます。

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トク

大宰府政庁(紫式部ゆかりの地を訪ねて⑤) (2024/11/16 訪問)

紫式部(まひろ)がしばらく滞在したとされる大宰府政庁を訪れました。今では礎石が残るのみですが、ここが奈良・平安時代の九州の政治の中心地でした(写真①)。大宰府政庁内にある大宰府展示館(写真②)には、平安時代の様子を解説する資料が残っています。

亡き夫の宣孝は、かつてこの大宰府に赴任していました。紫式部が訪れた当時は、道長と敵対関係にいながら目を患って下向したあの藤原隆家が赴任していました。隆家は中宮彰子の女房であった紫式部の事を憶えていて、宴を開いてもてなしてくれたそうです(写真④⑤のような感じかな?)。隣の観世音寺には歌も残っていました(写真⑥)。紫式部が訪れた時(1018年頃)は、菅原道真が没してから約100年経っているので、道真を祀る大宰天満宮もおそらく建てられていたのではないかと思います。ならもしかして、紫式部も梅ケ枝餅も食べたのではないか? と想像し買って帰りました(写真⑩:やっぱりおいしい😊)。

しかし、紫式部(まひろ)はここで滞在中に、刀伊入寇(といにゅうこう)という事件に巻き込まれてしまいます。これは外国(満州の族)が日本を初めて襲って来たという、元寇よりまだ250年前の出来事です。対馬・壱岐・博多と攻めて来た彼らを隆家は果敢に戦って守り抜き、これらを撃退しました。そのため紫式部はなかなか京へ戻れず、2年後にようやく隆家とともに戻る事ができたようです。しかし隆家には援軍を送らなかったどころか、何の恩賞も与えられなかったようで、当時の関白藤原頼道(道長の子)やこの時代の公卿たちにいかに危機意識がなかったかが分かります。

その間に紫式部(まひろ)の娘の賢子(かたこ)は、大宰府へ旅に出た母の意志を継いで土御門第邸へ上がり、皇太后となった彰子の世話をしつつ、また彰子の孫(後一条天皇の子)の乳母となったそうです。そして従三位(女房の筆頭)にまで登りつめたとか。道長がこの時、賢子は自分と紫式部(まひろ)との間にできた子だと知り、取り立てたのではという説もありますが、実際の賢子は仕事のできるキャリアウーマンだったようです。紫式部(まひろ)は、低い身分の女性でも社会で認められて自立し、自分の成し得なかった夢を実現してくれた娘の姿を見て、とても喜んでいたのではないでしょうか。

一方では、天皇の後見職である摂政となった道長は、後一条天皇が幼くして亡くなると、また同じく自分の孫(敦良親王)を後の天皇(後朱雀天皇)に即位させ摂政関白となり、やりたい放題の栄華を極めます。しかし、あまりの独裁政治に他の公卿たちの反感を買い、またここで再び体調を崩したため、子の頼道に摂政関白の座を譲り出家する事にしました。そしてここで京へ帰ってきた紫式部(まひろ)と再会しますが、その後の1027年藤原道長はついにその生涯を閉じてしまいます(享年61)。

次は、紫式部が晩年を過ごした雲林院とその墓を訪れます。
 

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カズサン

水堀と散策路-4/4 (2024/11/09 訪問)

 高土塁の角部分-3/4の続きです。

 高土塁を外から眺め観察し、散策路を廻りますと周囲の水堀も同じく観察探訪、周辺の遊歩道・散策路がよく整備されています、南東側には水堀上に木橋が遊歩道状に架かって風情があります。

 4編に渡ってご覧頂きありがとうございます。
 
 夕陽も傾き孫の運動会後の祝いの夕食にも十分間に合いました。
 
 

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カズサン

高土塁の角部分-3/4 (2024/11/09 訪問)

 本郭内部と高土塁-2/4の続きです。

 本郭内部をざらっと見学撮影して東虎口より北周りに遊歩道沿いに散策探訪し、東西南北角々の高土塁が聳えて見事でしたので別編にして投稿させて頂きます。
 更に北東角、南東角は見事で櫓台を思させました、南東角には東屋が建てられていました、高土塁には東虎口、西虎口、南虎口から登る事が出来ます。

 水堀と散策路-4/4に続く。
 

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カズサン

本郭内部と高土塁-2/4 (2024/11/09 訪問)

 虎口の続きです。

 南虎口から入り北西に大きな欅が夕陽で紅葉が輝いて居る、本郭内部規模は東西約50~60m、南北約60~70m程でしょうか?、周囲の堀を入れると東西約100m程、南北120m程あるようです。本郭に入り北の高土塁、東の高土塁、西の高土塁を眺めて、北高土塁上より南高土塁・南虎口を望み、東高土塁上より西高土塁を望む。
 本郭内部南東に屋根掛けの井戸が有る「上三川七水・銀名水」と札が掛って居る。
 再度帰り際に南虎口から東、西、北の高土塁を眺め記憶にとどめる。
 
 高土塁の角部分-3/4に続く。

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