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ヒロケン

城めぐりのきっかけ

アメーバブログ 塞翁之馬 「人間五十年下天のうちを比ぶれば夢幻の如くなり 一度生を享けたれば、楽しまずんば是いかん」 夢幻

まだ40歳前半の頃、休憩時間中5つ上の先輩が、何やらPCを見ながらニヤけてる、そっと横目でのぞき見すると山ん中の雑木林やら石垣やら土に埋まった石やらの画像を見ている。このオヤジ変態か?小学生の頃、歴史好きの父親の影響で、松江城・姫路城・備中松山城・岡山城やらの建物のある城には幾度となく連れて行ってもらい、城=建物という概念しかなく”山の中の建物がない城”など全くの無知で先輩が何を見ているのか全然分からない、「わたしの知らない世界」でした。
強面の先輩で宴席では何度かご一緒しましたが、個人的な付き合いは全くなく、仕事だけの付き合いでした。(部署が変り日が浅い)その先輩に「何見てんですか?」って尋ねたところ、「山城だよ」って「ヤマジロっすか?」って聞き直すと、少しムッとされ「城跡だよ」って教えて頂いたのが、最初だったように思います。(ムッとされたのでそれ以上、ツッコミを入れず変態オヤジのままでいました)
 数年が経ち、ある宴席でその先輩が若い衆に浜松城がどうの掛川城がどうのと、いつもと違って50過ぎのオヤジが目を輝かせながら「ウンチク」を言っている。城(天守)には興味があったので、自分も輪の中に入れてもらったところ、若い衆はさっといなくなり、自分と変態オヤジの二人となり、変態オヤジが酔っぱらって堀切がどうの、切岸がどうの、土塁がどうのと延々。訳の分からない話で、少しウザかったが、近世城郭の話も織り交ぜて話してくれるのでついつい宴席の最後まで。帰り際に「百名城のスタンプを集めてる」「アメーバブログで塞翁之馬っていうサイトを持ってる」「良かったら読んで」っていう感じでその場は離れ、後日、ブログを拝見するとなかなか面白い!旅行日記みたいな感じで構成されている✌('ω'✌ )三✌('ω')✌三( ✌'ω')✌それを伝えたのが始まりで、先輩と城の話をすることが多くなり、ついに四国丸亀城の天守で百名城スタンプ帳付の本を購入してスタンプ集めをスタートさせました。
その後、ラインを交換し現地からお互いが情報を送り合うようになるほどの仲になり、信頼関係が深まっていったように思います。(その後、先輩は人事異動があり部署変更となり、ラインのみの付き合いが続きました。)

ある日、突然先輩の訃報が入り、一方的な別れ(涙)目標を無くし一時城巡りを離れておりましたが、居心地の良いサイト「城びと」を見つけ現在に至っています。

先輩、百名城スタンプ数は超えていませんが、あなたの生きた年は越えましたよ。城巡りのきっかけを皆さんが投稿されているのを読みアメーバブログ 塞翁之馬を思い出し、続・塞翁之馬を読み返していたら投稿が遅くなってしまいました。少々記憶に間違いなどあるかもしれませんが、こんな感じです。

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イオ

麒麟がくる紀行(義昭から信長へ)

(続き)

織田信長の供奉を受けて上洛を果たした足利義昭は本圀寺(京都市下京区)を仮御所として15代将軍に任じられますが、信長が美濃に帰還すると京を追われていた三好三人衆が本圀寺を襲撃し(本圀寺の変)、「信長公記」によれば防戦した中に明智十兵衛の名が見られます。本圀寺跡の現在は西本願寺の境内と駐車場、住宅地になっていて城郭寺院としての遺構は消滅しており、2つの大本山本圀寺題目碑の位置関係から、往時の規模の壮大さを想像することができるくらいです。

本圀寺の変の報を受けて京に駆け付けた信長は、足利義輝の屋敷跡に義昭のための二条御所(二条古城・京都市上京区)を築き、本圀寺の変の功績により幕府奉公衆となった光秀は、この後、木下秀吉や丹羽長秀らとともに京都奉行に相当する職務に就いていることから、二条御所にもよく訪れていたものと思われます。二条古城跡には遺構はなく(二条城と京都御所に移築された石垣あり)石碑と説明板があるのみで、石碑から南に少し行ったところには斯波氏武衛陣・足利義輝邸遺城址の石碑と説明板が立てられています。

上洛と本圀寺の変での働きにより信長から信認を得た光秀は、次第に織田軍と行動を共にするようになります。朝倉攻めのため越前に入った信長が浅井長政の離反により挟撃の危機に陥った際には、池田勝正や秀吉らとともに殿軍を務め(金ヶ崎の退き口)、信長を無事に京まで撤退させています。金ヶ崎城(福井県敦賀市)の月見御殿(本丸)の手前には金𥔎古戦場の石碑が立てられていました。

光秀は姉川の戦いにも参加し、徳川家康らとともに朝倉軍に対したようです。続く志賀の陣では、討死した森可成に代わって宇佐山城(滋賀県大津市)に入って比叡山延暦寺(大津市)対策にあたり、比叡山焼き討ちでは実行部隊として中心的な役割を果たしています。従来、ドラマなどでは光秀は信長を諌めるもやむなく焼き討ちに及んだように描かれてきましたが、焼き打ちに協力しない村へのなで斬りを命じた文書が確認されるなど、従来の光秀像は変容しつつあるようです。一方で、延暦寺の発掘調査によれば、焼き討ちによる焼失が確認できるのは根本中堂と大講堂のみであり、全山焼失や大量虐殺は反信長方としては信長の非を鳴らすための、信長方としては逆らうとこうなるぞという政治宣伝のための誇張を含むものとも考えられます。

比叡山焼き討ちの功により信長から滋賀郡を与えられた光秀は居城として坂本城を築きました。坂本城については次稿で述べるとして、光秀は坂本城周辺も支配下に収め、志賀の陣で朝倉・浅井連合軍が築いた壺笠山城(大津市)を改修したり、自治都市・堅田(大津市)を支配することで琵琶湖水運を掌握しています。

光秀と信長が接近するのに反比例するように義昭と信長の関係は悪化し、ついに義昭は二条御所において反信長の兵を挙げます。ここに及んで選択を迫られた光秀は信長の家臣として義昭方と戦うことを決断、石山城・今堅田城の戦い、そして槇島城の戦いにも加わって義昭を追放し、ここに光秀が再興のために力を尽くしてきた室町幕府は滅亡しました。槇島城跡(京都府宇治市)は宅地化していて遺構は消滅しており、推定地の児童公園に石碑と説明板が立てられているのみです。

(続く)
 

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にのまる

リュックひとつで九州一周城めぐり旅7日目スタート (2025/01/24 訪問)

初訪問のところが8城続いて頭の中が休まる暇がなかったのですが、この日予定の3城は全て再訪なので気持ちに少し余裕があります。
「旅名人の九州満喫切符」を投入したいところでしたが、延岡→佐伯の宗太郎越え区間が特急利用となるため普通乗車券を購入。途中下車しながら進みました。

延岡駅からは徒歩で延岡城跡公園へ。
現地に着くと、前回登城時にパンフレットを見ながら夢中で歩いた記憶がよみがえってきました。
そうそう、これこれ!
この石、この刻印、この井戸、この坂、この眺め……。
懐かしい。
お城の「痕跡」と「現在」を探す・見る・記憶するー。攻めも守りもせず只々歩くだけですが、その時間がありがたくもあり、幸せでもあり。


todo94さん、プレミアムな姫路城のレポートをありがとうございます。「るの門」を飛ばすレベルの姫路城🔰ですが、姫路城の奥深さ、魅力に興味が尽きません。

あさん、大阪・京都コンプリートおめでとうございます🎊
朝田さんのクイズ、一瞬東京駅?深谷駅?と思いました💦

3,000城コンプリートへの道。
貢献できるかどうかわかりませんが、みなさま方のお城愛に溢れる投稿を頼みの綱として新しいところにもチャレンジしていきたいです。

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赤い城

やめときゃいいのに (2025/02/23 訪問)

備中松山城、鶴首城と歩き、足はパンパン。
少し早いけど大返し、と思いつつ帰りに寄れる城は無いか、と探してしまう悲しい性。
備中福山城と幸山城は登城路も整備されているとのことなのでちょっと立ち寄って帰ることにしました。

清音ふるさとふれあい広場のグラウンド奥に登城口があります。
その後は案内板があるので迷うことはありません。
が、少し登ったところで脚があまり残っていないことに気づきます。
やめときゃよかった、と思いながも登ってしまいます。
登城路脇には畑の跡と思われる地形もありますが私有地で立入禁止。
ひたすら登ると幸山城への案内板があります。

まずは巨岩がお出迎え、その上が東の曲輪です。
さらに進むと広く深い堀切があり、その先が西の曲輪です。
幸山城は東西2つの曲輪から成っています。

戦国時代は吉備津神社の社務代だった石川氏が居城としましたが、石川久智が明禅寺合戦で戦死。
その子、久式も毛利氏と三村氏の戦いの中で自刃しました。
その後は毛利氏のものとなります。
最後の城主は清水宗治でした。

もちろんここまで来たら福山城を目指さないわけには行きません。
とりあえずさらに登ります。

【見どころ】
 ・東の曲輪下の巨岩
 ・西の曲輪からの眺望

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todo94

姫路城プレミアムナイトツアー翌朝の攻城③ (2025/03/09 訪問)

麻田陣屋からの転戦です。徒歩にてアプローチいたしました。グーグルマップで経路検索してアプローチしたので原田しろあと館の開館時刻が正午ということは承知しておりました。9時前に到着してしまったので入館は断念いたしました。機会があったら、旧羽室家住宅を見学してみたいと思います。

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すけきよ堂

切岸や堀切、土塁 (2025/03/20 訪問)

米原駅すぐの山城

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しんちゃん

もう一つの国の史跡のしらかわ城 (2024/09/15 訪問)

白川城は福島県白河市にある山城です。同じ白河市の白河小峰城と名前が似ていますが、こちらは区別のためか白川城と呼ばれています。文治5年(1189)結城朝光は源頼朝より白川の地を与えられ、その孫の結城祐広は当地に移り白川城を築き居住しています。
戦国期の白河結城氏と小峰氏の対立は諸説あるようなので割愛しますが、天正18年(1590)の奥州仕置で白川結城氏は改易され、白川城も自然的に廃城になったようです。
主郭のすぐ南まで車で行くことが出来、アクセスは容易ですが、主郭以外の郭は藪で覆われていたりして、移動が難しい箇所が有ります。主郭北側の土塁を確認し、西側の城域を確認するに留まっていますが、整備が進み移動が容易になれば、また来たいものです。この城に来るのは二度目なので、三度目があっても不思議ではありません。

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姫街道

二俣城整備に願う事 (2025/03/20 訪問)

二俣城は、「織豊期の軍事的機能に優れた城郭」と「戦国期の山城」の二面性が今でも同居している素晴らしいお城だ。
ただ、残念なことに「戦国期の山城」の遺構が、藪に隠れてしまっている箇所が多い。もっとも本丸西上段の西曲輪など危なくて整備すべきではないのもわかるが。せめて、本丸の北につく腰曲輪などは伐採だけでもやって欲しい。天竜川に落ちる竪掘に対して本丸北側の腰曲輪がいかに守衛したかが一目瞭然でわかるだろう。あと、最南の南曲輪の整備も期待したい。明らかに武田期の構造。山城の魅力が詰まっている。地権者の問題だろう。今は竹藪で入れない。

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後城付近 (2025/03/20 訪問)

 主郭のある後城に前城から歩いて行くと空堀が見えてきます。いい形状を保っています。主要部分はよく手入れされていて気持ちよく散策できます。
 縄張り図を見ると後城の西側には畝状竪堀が描いてありますが、標識もなくよくわかりません。楽しみにしていた所でもあり少し登城路を外れて彷徨い探してみるとそれらしい地形はありましたが、自信はありません。
 

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姫街道

石垣を楽しむ (2025/03/20 訪問)

鳥羽山城は、遊歩道や山留など公園整備に伴って近世詰んだ石垣と、織豊期・江戸期に積まれた石垣が混在していて「当時の石垣」はどれか?わかりにくい部分もある。今日は、本丸の案内看板から「同時の石垣」を散策した。意識して見れば公園整備で積まれた石はだいたいが丸石で整然としてるのがわかってきた。
「同時の石垣」で見所は鉢巻石垣と腰巻石垣だが、僕は大手道の石垣が一番魅力的に感じた。埋まってたのを発見したまま展示してあるところが素晴らしい!
さて、鳥羽山城の小字は本城山。社山城は人の動きまで見えそうなくらい近くに見える。城の歴史としたら斯波対今川の時代まで遡って考える事が出来る重要拠点だと私は考えている。

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前城付近 (2025/03/20 訪問)

 恒屋氏の城と伝わっています。北側の標高236mの後城と南側の標高198mの前城からなっています。南北に細長く尾根を利用した縄張りで、東側は急斜面ですが西側は比較的緩斜面で畝状竪堀と空堀が設けられています。tudo94さんと同じように前城付近と主郭のある後城付近と分けて投稿します。前城の竪堀群は標識もあり比較的わかりやすい所もありますが、藪になっていて見づらいところもありました。

 登城路は整備され散策しやくなっています。JR溝口駅より徒歩で登城口の駐車場まで30分くらいでした。

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美夢

温泉がお勧め♨ (2024/03/19 訪問)

皆様、温かいお言葉、ありがとうございます
m(_ _)m
私は、お城通な皆様のような素敵な投稿は出来ませんので、少し変わった、でも、お役に立てることもあるかもしれない、という角度からリポートさせていただきます
m(_ _)m

私にとって、冬は山城のスタンプが押しやすい場所に移動している事がある、ありがたい季節でもあります(笑)

あまりこういう事を書くと、城郭協会から認定していただけなくなりそうですが💦💦

その中でもとくに素晴らしいと思ったのが、鮫ヶ尾城の、神の宮温泉かわら亭様です

髙田城も近いので先に行き、宿泊先として神の宮温泉かわら亭に移動しました
スタンプは3月迄と書いてありますが、確か2024年は、私の行った3月19日がかわら亭にある最終日だったと思いますので
3月下旬に行かれる方は確認された方が良いかもしれません

こちらの温泉は、何と2種類ありまして
内湯はメタケイ酸たっぷりの「美肌の湯」
外湯は塩化物泉の「ほかほかの湯」
とっても最高でした♨

体に優しい朝食もほっとするお味で美味しかったです

日帰り入浴もされていますので、しっかりお城を見学される方も、帰りはこちらで汗を流されるのもお勧めです
(⁠^⁠∇⁠^⁠)⁠ノ⁠♪

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しんちゃん

主郭西の二重の堀 (2024/09/16 訪問)

高玉城は戦国時代に二本松氏の庶流・高玉氏の城として使用されています。天正17年(1589)伊達政宗の家臣・片倉景綱によって攻められ落城し、城主の高玉常頼は討死しました。また政宗の命により城兵全員が撫で斬り(全滅)にされたという凄惨な歴史があります。
愛宕神社のある丘陵全体が城址で、広い主郭に腰郭が複数付随しているようです。愛宕神社参道から登城し、愛宕神社は主郭の南東部に当たります。広い主郭の内部に複数の土塁もあり、西側には尾根を絶つ二重の堀切が有りました。

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しんちゃん

櫓と虎口門はもうじき公開 (2025/02/15 訪問)

上田城の本丸周辺の写真が残っていたので、投稿させていただきます。真田昌幸の時代には徳川の軍勢を二度に渡って良く防いだ名城ですが、関ヶ原の合戦で西軍が敗れると昌幸・信繁父子は九度山に流され、上田城は破却され堀も埋められています。
今残っている遺構は仙石氏の時代の物ですが、本丸の周囲を巡る水堀や再現された櫓や東櫓虎口門などは非常に見ごたえがあります。冬季は櫓の中を見学することは出来ませんが、隣接する上田市博物館は仙石氏の展示が充実しており、別館に飾ってある真田昌幸の鎧は六文銭を随所に彩っており、とてもカッコいいです。たしか4月ごろから櫓も公開が再開されるので、もうちょっとですね。

春季から公開される櫓は北櫓と南櫓の二基で、西櫓は通常非公開です。また残る4つの櫓と櫓門、土塀も木造復元される予定とのことなので進展が楽しみですね。

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ぴーかる

ありがとうございます_(._.)_

あさん、橋爪城詳細ありがとうございます。私、行ったのが一昨年でした。境内左手まで行ったのですが、柵があったので、躊躇してしまいました。丹波の黒枝豆の時期に行って再チャレンジしようかと思います。

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しんちゃん

本丸からの眺望 (2025/03/10 訪問)

白鳥城の投稿の続きです。標高145mの山頂とは思えないほど開けていて、この季節でも道路は完璧に除雪がされています。夕方に訪れた守山城は道が雪で閉ざされいて残念な思いをしたので、こうやって訪問できるのは有難いことです。いくら冬用の装備をしたところで、雪が何十センチも積もっていると、人も車も入れません。自然の前では、人はなかなか無力なものです。
今年は冬季の城攻めの経験値を積みたいと思っていたので、奥州・彦根・中国地方・北陸・飛騨を回ったのは良い経験になりました。
呉羽ハイツがすぐ近くに有りますが、城址は非常に良い状態で保存されています。眺望も素晴らしく、多くの人が徒歩や車で城址を訪れています。これは良い環境にありますね。
ちなみに守山城は富山の街並みと立山の絶景が眼前に開けていて、すばらしい眺望ですが、それ以上に夜景が素晴らしいです。横浜・長崎の夜景も綺麗ですが、富山守山城から見る夜景は迫力が違うんですよ。

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チェブ

城びと未登録のお城攻め「天神城」? (2025/03/01 訪問)

こちらの「天神城」は茨城県常総市で『この近辺のお城趾』とグーグル検索したらヒットしたので、向ってみました。
茨城県 常総市 大生郷町1234
住所をナビに入力し、向かうと『大生郷天満宮』でした。
この場所だけ高くなっていて城趾っぽいです。
しかし、社伝を読むと菅原道真公の三男、景行さんが塚を築いたようで、少し場所は移動したようですが《城》ではないような感じです。歴史が古いので、戦の最中に砦として借りたとか?

国歌『君が代』の中『さざれ〜石の〜♪』の、さざれ石
がありました。
この日は3月1日。もう少しで卒園卒業シーズン。涙声の『君が代』が歌われるんだろな、と、なんだか学友に会いたくなります。
大生郷天満宮は、梅の蕾が色づき始めて明るい印象を受けました。「天神城」かは分からないけど、来て良かったです。

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赤い城

三村家親の居城 (2025/02/23 訪問)

成羽陣屋の裏手の公園に登城口があります。
整備されていて歩きやすくなっています。
東屋のある太鼓丸から急坂となり、脚を使ってしまいます。
急坂を登り切ると左手に出丸、右手が本丸へ向かう道です。
この辺りから天気が急変、雪が降ってきました。
冬用タイヤを履いていないので不安を抱きつつ「戻っても同じ」という思いでとりあえず登ることに。

ようやく主郭部にたどり着きます。
主郭部は幾つかの小曲輪で構成され、石積もみられます。
南側の曲輪を進むと二重堀切がありました。
帰りは西側の畝状竪堀を見ながら、というルートをとります。
畝状竪堀も相変わらず写真にならないですが見ごたえある遺構でした。
ここから主郭まで直登で戻り下山しました。

戦国時代に三村家親、元親親子が拠点とし、備中制覇を目指した城です。
しかし、宇喜多氏や毛利氏との攻防の末落城。
その後三村親成、親信親子が入りましたが関ヶ原後に廃城となりました。

さすがに備中松山城(大松山城まで)の後と寒さで脚を使い切った感がありましたが行って良かった城でした。

【見どころ】
 ・主郭部に残る石積
 ・段になった主郭部
 ・主郭部南の二重堀切
 ・西側の畝状竪堀

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スミヤキ

芸術を愛でる城 (2025/01/31 訪問)

街中から不意にとびこむ平城の天守が、岸和田城です。
1954年(昭和29年)11月竣工した、3層3階の復興天守ですが、堀に囲まれた城郭は、どの方向から見ても様になる、見栄えのするお城です。

大手櫓門をくぐると、天守の前面に独特な石庭が表れます。よくお城の大名庭園に見られる、池のある基本スタイル「池泉回遊式庭園」に対して、「砂庭式枯山水庭園」と呼ばれる様式で、このお庭は平面的な視覚のみでなく、天守など上空から鑑賞される事も意図して、緻密に設計された物らしく、必然的に天守から、じっくり眺めないといけませんよね。

新しいお城の魅せ方、楽しむ方法として、町のシンボルとして羨ましく、素敵ですね。

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小城小次郎

緩めの普請が意味するところ (2024/05/12 訪問)

足羽川洪水に由来する波着寺(金沢に移転済)の裏山にあるが波着寺城ではなく成願寺城で、成願寺の名の由来がわからんとか。東郷槙山城とともに一乗谷の前面を守る城と位置付けられるが普請は緩めなのがむしろ特徴なのかも。

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