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しんちゃん

ヒートスター (2025/01/02 訪問)

あまりの暑さに隣のバアさんがぶっ倒れました、大丈夫? うちのオカン(80)もすっかり元気が有りません、去年は8月ごろだったので今年は一月早いです。この暑さは年寄りには酷すぎますわ。呑気に「城攻め」している場合じゃ無くなってきちゃったよ。
シオシオのパー・・早く涼しくなっておくれ。先長え~~

根添館の投稿です。坪沼盆地の中央の丘陵に築かれ一の丸、二の丸が連なり土塁の一部が残り、案内板が立っています。城主は不明で11世紀の「前九年の役」で戦った安倍一族の支城の一つとされ、一族の滅亡と共に落城したと伝わっています。
八幡太郎義家は村田、菅生を経て侵攻してきますが、安倍氏の激しい抵抗を受け、坪沼の道内寺に本陣を敷きやっとのことで根添館を落城させたとのことです。「城びと」の標示は根添城ですが、案内板には「館」と記載があるので根添館で投稿させていただきます。

根添館の入り口は少しわかりにくく、周囲をうろついているうちにっ暗くなってきてしまった。坪沼農園の看板が目印で、その手前の細い道を進んで、丘の方(城址の方角)に歩いて行くとたどり着くことが出来ます。

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しんちゃん

伊達氏二十要害 (2025/01/03 訪問)

鶴頭城は別名・西館とも呼ばれ鳴瀬川の東に面した丘陵の上に築かれていました。天正年間(1573~1585)には大崎氏の支配下にありましたが、その後伊達氏の支配するところとなり伊達氏二十要害の一つとして機能しています。慶長16年(1611)伊達氏家臣・後藤信康が当地を拝領し、その子の近元が西館に移り明治維新まで続きました。
かつては主郭(居所)の周囲に堀が巡らされ、周囲を下屋敷が帯郭のように囲み、その周囲を二重の堀で囲まれていたようです。居所跡には神明社が祀られています。todo94さんの投稿にある移築されたとある城門は情報不足のため訪問していません。遠出だとちょくちょく手を抜くことが有るので、知っていても必ずしも訪問していたとは限らないのですが。

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しんちゃん

蜂谷森公園 (2025/01/03 訪問)

彫堂七館は七舘八沢と呼ばれる丘陵一帯に築かれています。主要な郭(館跡)は八つ有り、西から山前館、長館、小館、陣館、狼之介館、彫堂館が連なり、小館の南に大舘、狼之介館の南に笹館が築かれていたようです。
長館の東側が道路によって隔てられ、小館・陣館・狼之介館が蜂谷森公園として整備されています。狼之介館の東にタンクのある郭(彫堂館)があり、手前に大きな堀切があり橋が架かっています。公園から彫堂館周辺までが散策しやすくなっていて、彫堂七館の投稿はここがメインになると思います。それ以外の郭は宅地化が進んでいて、ウェルカムの空気はありません。興味はありますが。
主要な館の一つと見られる小館跡には社が祀られ、陣館の間に堀切が切られ橋が架かっています。他にも遺構があったかもしれませんが、暑さで記憶が飛びかかっています。申し訳ないが、ご自分の目で確かめてください、駐車場も有り、訪問もしやすい良い城址&公園だと思います。
地理的に大崎氏に関わる武将の一族の館跡だと考えられているようです。南北朝の時代に奥州管領吉良氏と畠山氏が対立した際に、吉良方についた大崎氏が色麻川(鳴瀬川)を隔てて蜂森に陣取り、長世保に拠った畠山氏と遠矢の合戦を行ったとする記録が残っているようです。

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小城小次郎

留守政景の留守は留守職だった (2024/11/30 訪問)

留守政景が葛西・大崎氏への備えとして岩切城から移り、小田原の役で所領を失った時の姿を残す。全体が公園になっていて散策しやすく、特に切岸は今も美しい。留守の姓は陸奥国留守職がその由来だということを初めて知った。

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渡辺綱 (2025/07/10 訪問)

 平安時代、箕田源氏三代、源任、源宛、源(渡辺)綱が居住したとされる館跡です。箕田二号墳の南側一帯に箕田館はあったと推定されていますが、正確にはわかっていません。箕田二号墳、満願寺、氷川八幡神社、宝持寺周辺を散策しました。遺構はないと思われます。
 源綱は後に摂津国西成郡渡辺に移住し渡辺を名乗り、摂津源氏の源頼光に仕えました。源頼光四天王のひとりで、都の一城戻橋の上で茨木童子の腕を源氏の名刀「髭切りの太刀」で切り落とし、源頼光らとともに酒呑童子を討ち果たしたと伝わっています。

 満願寺と宝持寺に一休さんが寝ていました。満願寺は真言宗、宝持寺は曹洞宗の寺です。臨済宗の一休さんが他宗の寺で堂々と昼寝しているとは、さすがです。(満願寺の石像には名前がありませんが、同じような石像なので一休さんだと推測しました)

 JR北鴻巣駅から徒歩10分くらいで箕田二号墳、満願寺に行くことができます。

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六孫王経基城址 (2025/07/10 訪問)

 JR鴻巣駅から徒歩15分くらいの場所にあります。土塁、空堀が残っていて街中にある館跡としてはよく残っていて楽しく散策しました。櫓台のような土壇の上に石碑がありました。自分はよく読めませんでしたが、「六孫王経基城址」と書かれているようです。
 源経基といえば平将門との確執が伝わる人物ですが、本当に彼の館であったかどうかは確かではないようです。

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昌官忠

(東海&関西)24日目:安倍城 (2025/06/07 訪問)

西ヶ谷運動場入口バス停に着き、そこから徒歩30分くらいで、西ヶ谷登り口付近(35.010370、138.343441)に着きました。
じつは、静岡駅でバス停を間違え、西ヶ谷運動場入口バス停とは、まったく違う方向に向かってしまいました。
途中で気づき、慌てて静岡駅に戻りました。(たまたま出発時間が同じで、隣のバス停だったので、間違えてしまいました。大幅な時間のロスです。)

築城年代は定かではないようですが、南北朝時代に狩野介貞長によって築かれたと云わています。
南朝方の重要な拠点だったようですが、北朝方の駿府今川氏(今川範国)に1338年(延元3年/暦応元年)に攻められ、そのころ廃城になったようです。

ハイキングコースを利用して登ります。案内標識が要所要所にあるので、迷うことなく本丸まで辿り着けます。
結構きつい登山になります。遺構はあまり残っていないようですが、本丸からの眺望は素晴らしいです。
本丸の先(東側)に二の曲輪や三の曲輪、堀切があるようですが、本丸に着いたことに満足してしまい、行くのを忘れてしまいました。ここまで登ってきたのに残念です。
攻城時間は120分(西ヶ谷登り口往復)くらいでした。本日の城巡りは、ここがラストです。
本日の宿泊先に行く為、静岡駅から電車で沼津駅に向かいました。
歩行歩数=29170歩、歩行距離=20.4Kmです。

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小田顕家 (2025/07/10 訪問)

 種垂城址公園として整備されています。遺構はありません。説明板と石碑がありました。
上種足バス停から徒歩5分くらいで行くことができます。

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昌官忠

(東海&関西)遠征24日目:飯田古城(城びと未登録 静岡県森町) (2025/06/07 訪問)

飯田城から徒歩5分(天王バス停に向かう途中)くらいで、崇信寺に着きました。

天方山内氏の菩提寺です。飯田城主山内氏3代の墓があるようですが確認していません。
境内は飯田古城の縄張り内に建てられいます。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=安倍城へ行く為、天王バス停からバス➡電車➡バスを乗り継ぎ、西ヶ谷運動場入口バス停に向かいました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征24日目:飯田城 (2025/06/07 訪問)

天王バス停から徒歩15分くらいで、城址入口(34.804737、137.921868)に着きました。

飯田城は山内対馬守道美の孫である山内大和守通泰によって築かれた城です。
1569年(永禄12年)に徳川家康の家臣である榊原康政・大須賀康高らに攻められ落城し、通泰も討死しました。
1572年(元亀3年)には武田信玄の軍勢によって攻め落とされ、約5年ののちに徳川氏が奪還しましたが、そのまま廃城となったようです。

主郭周囲に土塁や櫓台、堀などの遺構が残っています。
物見曲輪に城址碑と説明板が建てられています。
攻城時間は20分くらいでした。次の攻城先=飯田古城(城びと未登録 静岡県森町)へ徒歩で向かいました。

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大久保忠常 (2025/07/10 訪問)

 一部ですが高さ約3メートルの土塁が残っていて、「私市城阯」の石碑が建っています。当時は周囲は沼で障子堀もあったようです。二の丸跡碑、大手門跡碑、障子堀跡説明板などを観て廻りました。的場跡の標柱は茂みに隠れていて全体が見えません。
 加須駅から鴻巣駅行きバスで騎西城バス停下車。目の前に土塁があります。

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昌官忠

(東海&関西)遠征24日目:天方城 (2025/06/07 訪問)

静岡駅から電車で遠州森駅に向かい、そこからバスで遠州森町バス停に着きました。
遠州森町バス停から徒歩35分ちょっとで、説明板前(34.848229、137.949469)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、応永年間(1394年〜1428年)初期の頃に首藤山内対馬守道美によって築かれたと云われています。
戦国時代に武田、徳川の攻防戦が繰り広げられた天正時代頃の陣城です。
現在は城ヶ平公園としてよく整備されており、山頂の展望台からはるか遠く、太平洋や南アルプス、遠州一円も眺められます。

説明板前に着いて、主郭の方を見ると野生の鹿がこちらをみています。
刺激しないように横堀を回り込み主郭に近づくと、鹿は振り向き、こちらをみています。
奈良公園の鹿は人に慣れていたので怖くはなかったけど、野生の鹿は怖いので、早々に退散することにしました。

山頂にある主郭は、南を除く三方に横堀を巡らし、円形に近い形をしています。
展望台からの眺望は良かったです。
攻城時間は25分くらいでした。次の攻城先=飯田城を目指す為、遠州森町バス停からバスで天王バス停に向かいました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征24日目:静岡駅北口にある銅像等 (2025/06/07 訪問)

静岡駅北口にいろんな銅像があります。
①竹千代君像と今川義元公像  ②徳川家康公像  ③久能山東照宮国宝指定記念之碑  ④愛の銅像
見学時間は10分くらいでした。次の攻城先=天方城を攻城する前に、ホテルに戻り朝食を食べました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征24日目:駿府城 (2025/06/07 訪問)

宿泊先のホテルの朝食前に、駿府城を攻城しました。
宿泊先のホテルから西郷隆盛・山岡鉄舟会見の碑(34.974812、138.386370)を経由して、東御門前(34.977779、138.384886)に着きました。

駿府城は今回2回目の攻城です。前回は7年半前の2017年12月17日に次男と二人で来ました。
時間的に東御門や巽櫓、坤櫓(見忘れました)には入れませんが、外観だけでも見たくて寄りました。
ちなみに、建物の営業は午前9時~午後4時30分(入館は午後4時まで)で、月曜日は休館です。
攻城時間は25分くらいでした。ホテルへの戻る前に静岡駅北口にある銅像等を見に行きました。

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しんちゃん

瑞川寺山門 (2025/01/03 訪問)

古川第一小学校が城址とされ、室町時代に七代大崎教兼の子が居を構えたとされています。その後、大崎氏の家臣・古川刑部持煕や古河弾正忠隆の居城であったが大崎氏が改易になった後は木村伊勢守吉清の子・清久が入りました。天正19年(1591)の葛西大崎一揆により清久が失脚し、伊達政宗の家臣・鈴木元信が入りますが、正保2年(1645)三代・宗良は桃生郡深谷に移され、古川は仙台藩の直轄地になりました。

現状遺構は見当たりませんが、古川三日町の瑞川寺に「古川城の搦手門を寺門風に改造して寄進された」とされる山門が残っています。

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しんちゃん

日戸館 (2025/01/04 訪問)

日戸館・補足の投稿になります
正慶年間(1332~34)南部氏11代信長の時代に河村秀清が日戸村を与えられ、この八幡森の丘陵に日戸館を構えて日戸氏を名乗ったとされています。東から西に上館(主郭)中館(二郭)下館(三郭)が配され、上館が最高所になります。郭の周囲には土塁が残り、南側には堀や土塁が配されています。
宮城から北上して岩手に入るに従い、雪が深くなってきました。通常の登山靴で歩き回れるのは、このぐらいの城址がいっぱいでしょう。
出来ればGWに訪問したいですね。

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ぴーかる

江戸城外濠見附編 (2025/05/17 訪問)

【百名城80城目】
<駐車場他>未調査
<交通手段>新幹線・移動は都営地下鉄および東京メトロ1日券

<感想>城びと1000城登城記念、1泊2日江戸満喫旅。3回に分けて投稿します。この初回は外濠・見附跡編、2回目は寄り道編、3回目は江戸城内部編とします。
 週間天気で、5/17の予報が曇り・雨の予報が2・3転して結局1日目は15時頃まで希にある一日中大雨の日とぶつかりました。新大阪6時発の新幹線で東京8時半過ぎ着、いきなりの大雨でしたが徒歩で和田倉門跡まで行って、和田倉休憩所にてスタンプ押印しました。
 かなり降っていましたが、予定通り1日目は半分は地下鉄移動となるので江戸城西側の外濠見附巡り、2日目を内部巡りに決め、スタンプ押印後、和田倉門跡⇒馬場先壕・日比谷壕を南下して日比谷見附跡⇒増上寺⇒太田道灌城跡⇒国会議事堂前・彦根藩井伊家上屋敷跡⇒赤坂門跡⇒弁慶壕⇒真田壕⇒四谷見附跡⇒市ヶ谷門跡土橋石垣⇒新見附壕・外濠公園⇒牛込見附跡の順で巡りました。1日目はこのあと、築土城跡・御殿山城跡・牛込城跡⇒東大赤門⇒因州池田屋敷黒門⇒浅草へ行って、東京スカイツリーのビューポイント撮影と浅草寺に行って終了しました。東京の宿泊代は高いので、50分間電車に揺られ、川崎第一ホテル溝ノ口にて宿泊しました。

<食事>1日目昼食は関西には無い、初の「富士そば」のかつ定食を食べました。豚ではない謎肉のかつ・・・う~ん。1日目夕食は溝ノ口駅前の定食屋を調べていて、22時までのはずが、21時半に着いたら閉まってるー。結局松屋でカレー。

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しんちゃん

神取山城 宮城県石巻市神取 (2025/01/03 訪問)

神取山とかいて「かんどりやま」と読みます。「城びと」の城ではありませんが、投稿させていただきます。鹿嶋神社の参詣道を登ると程なくして主郭にたどり着きます。麓の案内板には高さ(比高)40m、東西300m、南北100mの山全体が城址とされています。
城主は岡野長満、鈴木山城守等、葛西家臣と伝わり天正18年には葛西総大将大原飛騨守胤重と精強700騎が籠って最後の抵抗をしたと書かれています。鹿嶋神社と浄水場が主郭と見られ、西に空堀を挟んで二の丸が有るようですが浄水場の敷地に入りたくなかったのか、この時は訪問していません。

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天守無しがアツい

要害山 登山道 (2025/07/06 訪問)

甲府駅からタクシーで要害山登山道入口まで🚕
小さいけど駐車場あり…その近くには仮設トイレが一基あり
(私は登る前にそこで済ませた)

入口の案内板…並びにレンタルの杖が置いてある。料金は「値段はお気持ちで結構です」…200円払う

入口から急な坂…杖なしでの行進は厳しいかも
杖には熊よけの鈴が付いてる🛎️という事はこの辺り熊が出るのか?🧸😅

真夏のため日差しが差すところだと暑い…というか日光の熱がキツイ…けれど日陰に入るとそうでもない…汗をかくので水分補給は必要だが…木々に覆われた環境のおかげで山道は日陰が多くて…少なくとも日陰で休んでる間はそこまで暑くなかった

田んぼに囲まれた自然豊かな場所の方が(自然が熱を吸い取ってくれるからか)涼しい…コンクリ製の建物やアスファルトに囲まれた都市部の方がヒートアイランド🌃熱がこもりやすくて暑くなりやすい🥵

という話を「近頃の日本の暑さがヤバい」的なYouTube動画ならびにコメントで見た覚えあるが…この日要害山と甲府市内のアスファルトに覆われた都市部で過ごして…それは真実であると思えた

倒木…気が倒れたままの箇所が3箇所…跨いで避けて進む🚶‍♂️中腹にある武田不動尊で10分ほど休憩…山頂まで無事に着けるよう祈る🙏

入口から山頂までは30分…幾人かの登山客とすれ違う。ここにはロープウェイの類は一切無く…頼れるのは己の足腰のみ🚶‍♂️富士登山と同様である…けれど標高は780m…つまり富士山の足元にも及ばない

もちろん富士五合目から山頂までの距離ならびに所要時間はこんなもんじゃない…今回の要害山訪問は…(御城印と100名城スタンプは入手済みであり)あとは現地訪問…そうする事での完全達成もあるが、近い将来予定してる富士登山への予行演習という意味合いもあった

ここもキツイと言えばキツイ…けれどここを無事にクリアできなければ…富士山なんて到底無理なのだから🗻

竪堀跡…土塁…門跡を目にする…現在ここには建物の類は一切無い…けれど武田氏がここを居城としていた頃は…厳重な造りの門および門番が存在していたらしい

山道は狭くて急な勾配…敵の侵入を受けたとしても…そう易々と進めない造りにはなっているが…城の関係者…武田氏側の人間が城と麓を行き来するのもしんどいだろうな…とかなり思えた

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しんちゃん

梅ヶ森館と桜ヶ森館 (2025/01/03 訪問)

小野城は南の梅ヶ森館と北の桜ヶ森館の二ヵ所が有るようです。梅ヶ森館は「お館山公園」となっており、主郭まですぐに到達することが出来、眺望も良好なのですが、西側の尾根に続く郭は藪に覆われて判別が難しい、堀切があるのは解るけど草がぼうぼうです。
桜ヶ森館にも道が続いていて、主郭に到達することはできますが、正直あまり城址らしい感じはしなかった。とりあえず、行くには行ったけどと言う感じです。
小野城は鎌倉権五郎景正の子孫・長江義景が居住し、文治年間(1185~90)に源頼朝より深谷を与えられて以降、長江月鑑の代まで代々長江氏の居城であったようです。
長江氏は初め大崎氏に従っていましたが、伊達氏の勢力が拡大すると伊達氏を頼るようになり、天正16年(1588)伊達氏の大崎氏攻めの軍監として長江勝景が出兵しています。しかし、大崎攻めで苦戦し伊達政宗との関係が悪化してくると出羽に逃れようとして討たれ長江氏は滅んだとされています。

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