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カズサン

古墳利用の素晴しい山城・総編 (2024/04/19 訪問)

 御幸塚城/今江城を終えて北陸路7番目北東に約10km程の和田山城を初登城、古墳群の中、古墳を利用した素晴らしく技巧的な山城で久しぶり興奮探訪でした。

 駐車場:能美ふるさとミュージアム南側駐車場利用。
 参考資料:余湖図コレクションさん城郭放浪記さんグーグルマップに依る。

 駐車場から東の丘陵が城域だと分かります、入口と史跡和田山・末寺山古墳群碑が立っています、車両禁止ポールが立っている、石畳の坂道を登って行くと忠魂碑のエリアへ、能美古墳群の解説板も有り近郊の古墳群を知らしめています、西の方向へは古墳群へ、山城は南方向へ指示板あり、城域入口に和田山城絵図掲示、和田山城解説板が有る。
 
 解説板の直ぐ後ろが二の丸の櫓台で8号古墳、周り北から西に空堀、西の犬走を南へ土橋を東に渡って虎口1、二の丸内部は北方向へ櫓台に向かってスロープに成っている、虎口1の東側に虎口2、此処から東側中腹に腰曲輪群が南北に廻っている。
 虎口1から虎口曲輪が南の本丸方向に伸びる、西側は同じく土塁が本丸まで繋がっている、本丸北の前は空堀、東に廻って本丸虎口より本丸に入る、本丸中心に櫓台が有りここも9号古墳で方墳です、本丸周囲は土塁が廻り、櫓台の南側には本丸を分ける仕切り土塁が有る、本丸西下には帯曲輪と横堀が南北に虎口1西下まで伸びている。
 腰曲輪と帯曲輪へは踏査せず上から眺めただけです。
 草もあまり伸びて居なく、樹木もあまり密集して居なく爽やかな5月の頃を林を散策してるような大変爽やかで楽しい時間でした、久しぶりに良い山城を探訪しました。

 和田山城解説板によると、本城は室町中期に加賀一向一揆で活躍した、和田坊主が築城したと伝え、それが和田山の地名の起こりといわれる。現在の山城の形は、天下統一をめざす織田信長軍団の武将柴田勝家が1580(天正8)年、家臣の安井家清に守らせたころに出来上がったとみられる。和田山城は南加賀の重要な戦力拠点に位置し、一揆軍のたてこもる虚空蔵城や鳥越城攻撃の基地に使われたのであろう。(と記されています。)

 この後には写真を多くとりましたので、本丸編、二の丸編、古墳編に分けて投稿させて頂きます。
 

 

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chiroru

8年ぶり (2024/04/25 訪問)

実に8年ぶりの再訪でした

前回とは趣向が違う見方になってます

堀や石垣や縄張りにも興味を持ち始め、お城のことがより詳しく知りたいと思うようになり
楽しみがふえてます

お城はみどころたくさんですよね

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chiroru

こちらへも是非 (2016/04/12 訪問)

大樹寺は松平家・徳川将軍家の菩提寺としてよく知られています
歴代将軍の等身大の位牌も安置されてます
「ビスタライン」も見ものです

八丁味噌で有名な「カクキュー」では、味噌蔵や資料館をガイドさんが案内してくれます

岡崎城とセットで見学されますと、岡崎の街が満喫できますよぉ

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chiroru

なかなか魅力的 (2024/04/20 訪問)

大手門→大書院→二の丸→本丸→天守台→埋門→南三の丸→南馬出→武家屋敷の順に見学

大手門は枡形

大書院は忠実に復元、二条城を思わせる造り

二の丸は平面に部屋の配置がわかるように表示があり建物があったらと想像しながら巡りました、
その二の丸から北に目をむけ大書院を眺める、懸魚やこけら葺き屋根を堪能できます

本丸石垣では、むき出しの岩盤を見れて、ここが笹山という小山である証が垣間見れます(テンションがあがりました↑)

天守台からは篠山の盆地が見渡せます、天守は築かれることはなかったようですが築かれていたらかなり目立つ建物
であったであろうと思います

埋門付近の石垣には普請奉行の池田輝政氏の刻印が見れます(埋門出てすぐ右側)

南三の丸からは埋門と本丸天守台の石垣を悠々と眺めることができます

南馬出、なんと言ってもこの城ではここを一番楽しみにしていたので!きれいに原型を留めており、
正面から見るのではなく土塁の上に登りそこから見ると形も土塁もかなりわかりますよ

武家屋敷はL字型の造りで、庭には蔵があり火災除けの「水」の文字があるのでいろんなところに目を
向けると当時の生活が勉強できます

建物の現存物はありませんが、石垣・馬出しなど楽しめるお城であります

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しんしんちゃん

かつての豊臣家の政庁であり邸宅 (2024/04/19 訪問)

聚楽第は豊臣秀吉により天正14年(1586)2月より天正15年(1587)9月にかけて築かれたとされています。天正19年に秀次の邸宅となり、秀次居城時に北の丸が増築されたようです。文禄4年(1595)に秀次が高野山で切腹すると徹底的に破壊されたとされています。
形態としては広大な本丸に南二の丸、西の丸、北の丸が付随していたとされ、周囲は堀で囲まれ、南西に外堀を二つ配しています。豊臣家の邸宅兼政庁とはいえ豪華な平城の造りをしていたようです。石碑はいくつかあるようですが、本丸東堀跡あたりの石碑を掲載させていただきます。ハローワーク西陣の道路向かいにあるやつです。
妙覚寺の門と、西本願寺の飛雲閣には聚楽第から移築されたという伝承があるようなので掲載させていただきます。飛雲閣だけは破壊をまぬがれ京都新城に移築されたということでしょうか?あくまで伝承です。
本丸跡北側に小笠原藩邸跡の石碑と、東側に佐賀鍋島藩屋敷跡の石碑が有りました。他にも周囲には様々な大名の屋敷が有り城下町を形成していたようです。

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しんしんちゃん

松尾山城出城① こんな所にも遺構が残っている (2024/04/14 訪問)

国土地理院の地形図を見ると関ヶ原周辺にはいろいろと怪しい場所が多いので、あたりを付けて行ってみると簡単に遺構らしきものが出てきます。どうにも簡単にみつかってしまうので、あえて伏せられているんじゃないかと思うぐらいです。これだけ有名な古戦場なのに城人に登録されているのが松尾山城だけなんですね。自分には特にしがらみがないので、そのまま載せてしまいますが、それで見えてくるものもあると思います。
また松尾山城です。とは言っても松尾山城に付属する小山に配されている遺構の話です。また名前が無いので松尾山城出城(仮)と仮の名称で書いておきます。かつての支城かもしれませんが、遺構はけっこうあっさり目ですね。室町時代から関ヶ原の合戦のころに手を加えられたものと考えています。
空いてるスペースに車を停めて目的地までは徒歩で移動。足元の悪い薄暗いトンネルを越えていくと城址の麓に出て、開口部から取りつくことが出来ます。遺構が集中して残っているのは西側の出丸あたりですね。この地点を合戦の際にどちらの陣営が押えていたのかが興味の対象でしたが小早川陣営に間違いないでしょう。ここにも陣を構えていたということは、かなり早い段階で態度を明白にしていた可能性があります。私は白川氏らの提唱する一次史料に基づく新説には懐疑的でしたが、実際に目にすると、いろいろと考えることがあります。
ちなみにこの城址は開発の手が伸びているらしく、あまり訪問はお勧めは出来ません。登城道がないので危ないのもありますが。

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トク

モトさん、石垣ありましたよ !! (2024/04/25 訪問)

モトさんの道がわからず石垣を見逃したとの投稿(4月20日付)を拝見しました。登山口のある南畑ダムは私の自宅から車で40分くらいの所なのに、まだ行った事がないので、この機会にちょっと行ってみる事にしました。

「一ノ岳城」は、室町期に九州探題であった千葉氏により築城され、戦国期には筑紫氏の城となりました。その後九州北上を狙う島津氏に対抗するため、勝尾城主の筑紫広門が支城として整備したようです。しかし広門は島津氏に敗れ、この一ノ岳城に逃げ込むも捕まり、大善寺に幽閉され、城は秋月種実に奪われてしまいます。その後、秀吉の九州征伐を機に島津氏は撤退したため、広門は秋月氏より奪還! よって今残る石垣や石積や畝状竪堀は、筑紫広門が対島津氏との決戦のために造られたものだと推測されます。広門はこの後、立花宗茂とともに関ケ原へ向かうも、大津城で京極高次の抵抗にあい、あと1日で本戦に間に合にあいませんでした。そして家康から改易され、剃髪し黒田・加藤・細川を頼って転々と流浪し亡くなったようです。

では本題に入ります。私の登城したルートをこれから(地図⑩)をもとに説明します。「一ノ岳城」は、左(西方)の山(標高695m:一ノ岳山)ではなく、右(東方)の山(標高648m:陣ノ尾山)にあったようです。まずは南畑ダムから遠望し位置を確認します。結構高そうです(写真①)。私は健脚ではないので、結局登り2時間、休憩と探索で1時間、下り1時間の合計4時間もかかってしまいました(笑)。

モトさんと同じ南畑ダム沿いにある林道入口に車を止め、そこから登ります。20分程歩くと、途中で林道から右に入る細い道があります(赤いリボンが目印です)(写真②)。

その道を入るとすぐに分岐があり、そこを左に行きます(写真③)。ここから先は、山頂まで急な心臓破りの山道が続きます。赤いリボンを頼りに迷わないように進みます。倒木も多々あり、滑りやすいので注意して登ります。途中で大きな岩に曲輪らしき空間がありました。おそらくここは番所の跡ではないでしょうか。石落とし用の巨大石も要所にありました。攻手側とすれば、こんなのを上から落とされたらたまりませんね(笑)。

一ノ岳山と陣ノ尾山との分岐点に出会いました(写真④)。ここを右に登ります。このあたりが二の丸と思います。左の崖沿いには、多くの石積が見られました。現在は風化してかなり崩れ落ちていますが、私が推測するに、元々は石垣状の連続する巨大な石積ではなかったかと思います(写真⑤)。石垣の隅部と思われるものもありました(写真⑥)。石垣の残りの部分は土砂と枯葉に覆われ見えませんでした。その下は畝状竪堀と思われます。予想外にかなりの大規模な防御を備えた山城だったようです。さらにもう少し登ると山頂の本丸に到着しました(写真⑦⑧)。木々に囲まれ眺望がないのがちょっと残念です。

でもここまでなかなか石垣を見つける事はできません。足が疲れて動かなくなったのでとりあえず山頂の本丸でお弁当😊。30分位して足が回復した所で、山頂本丸の回りの崖を這いつくばって覗き込むようにぐるりと1周し探索しました(写真⑦⑧)。すると・・・ありました! 西側手前5m下に! たぶん本丸の上から見渡しただけでは見えません。それでモトさんは見落としたのかもしれません 木につかまりながら少し本丸から下に降りて見ました(写真⑨)。440年もの間、人目につかず風雨にさらされながらも、よく残っていたなと感心します。時間をかけて探せばまだあるのかもしれません。私もこの一ノ岳城の全貌が知りたくなりました。でも石垣の下は畝状竪堀と思われる急斜面で枯葉も多く、私は何度も滑り落ちそうになったので、今回はこの辺までとしました。モトさんも再度登られる時は、十分注意して下さい。私もいつかまたリベンジしたいと思います。
 

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にのまる

あさん、おめでとうございます🎊

あさん、岡山県に続き、奈良県コンプリートおめでとうございます!
朝田さんからバトンをいただきましたので、僭越ながら【おめでとうクイズ】いかせていただきます。

~*~*~*~*~*~*~*~*~
“どんだけ歩くんじゃ~!!”
と、不安でワクワク♡しながら山道を歩きました。
5kmはないですよね……・
↓↓↓

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しんしんちゃん

京都新城  京都市京都御苑 (2017/05/28 訪問)

京都新城は聚楽第が破却された後に豊臣秀吉によって秀頼のために築かれたとされています。秀頼が実際に使用した期間は短く(それすら確かでない)秀頼は大阪城を居城としています。その後は秀吉の正室である高台院と養子である羽柴利次によって使用されたそうです。
関ヶ原の合戦の後、利次は大名から寄合旗本に降格され、江戸に屋敷を与えられ、新城は収公され、寛永4年(1626)に仙洞御所の敷地となり建物は解体されたそうです。
メインの写真は新城跡とされる仙洞御所のもので2017年に訪れた時のものです。京都・西本願寺の飛雲閣は新城の遺構とする説があるようです(聚楽第にもにたような伝承があったと思います)。西本願寺には最近、再訪しており写真はその時のものです。

2020年の仙洞御所での発掘調査の際には石垣や堀跡、金箔河原が見つかり、2023年の調査では堀にあった石垣の遺構が出土し、堀の幅は10.8mと確認されたそうです。さらなる発掘調査が期待される所で、公開されたら見に行きたいと考えています。

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カズサン

今江小学校のグラウンド南が城址 (2024/04/19 訪問)

 勅使館を終えて北陸路6番目北北東に約10km程の御幸塚城別称今江城を初登城しました。

 駐車場:今江小学校西から廻り込み児童クラブ駐車場3台可を利用(36°22'48"N 136°26'11"E h=20m?)。
 参考資料:余湖図コレクションさん城郭放浪記さんグーグルマップに依る。

 駐車場はグランドの西端、校庭グランドの南に小高い城域が樹木に囲まれ覆われて残って居ます、余湖図コレクションのラフ図を頼りに2の曲輪の亀鹿公園側から登城開始、本曲輪の切岸の階段を登り本曲輪内部へ北から南にスロープ状に下がっている、本曲輪北東部に櫓台が有り「今江城址」石碑がある、城址碑名は元首相の岸信介記と成っていた、この辺りは森元総理の地元で有り派閥の繋がりが有ったのでしょう。櫓台北下には聖徳太子三尊像が立っている。本丸には遊戯器具が有るが現在使用不可に成っていた。ポールを挟んで北東側の高台に3の曲輪で現駐車場に成っている。
 北の校舎とグランドも含めて城域だったのでしょう、小高い小山を削って小学校を建てたようです。
 丁度時間はお昼を終わって児童がグランド、城跡の小山を駆け回って居ました、皆に「こんにちわ」と挨拶されまくり、また西4~5km程に航空自衛隊小松基地があり、訓練か?、実践か?戦闘機の飛び交う爆音が響き渡って居ました。

 今江城址の側面の碑文には、今江城は御幸城とも呼ばれていた平山城である。初め富樫高家が築城し後に野々市に移るや一向一揆の拠点となっていた、織田信長がこれを攻略して佐久間盛政らお城主たらしめが本能寺の変の時に又もや一揆が占領した。よって豊臣秀吉が来攻して陥落せしめたり、浅井畷合戦の時には前田家の一部隊がここに陣していた歴史も有る。昭和51年8月29日 小松市文化財調査委員長 川 良雄 記 と記されていました。
 

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ぴーかる

境台場 (2024/02/24 訪問)

【境台場】
<駐車場他>台場公園駐車場数十台分あり。
<交通手段>車

<見所>土塁・石垣
<感想>1泊2日尼子十砦の旅6城目。米子で1泊して翌早朝登城しました。境台場は国史跡に指定されている6つの鳥取藩台場跡の1つです。現地説明板によると1863年から1864年にかけて鳥取藩が9箇所築造した台場の1つで、淀江の郷士である松波宏元が設計を行い、地元農民によって築造されました。
 現地は土塁に囲まれ、内部広場が駐車場になっています。海に面した北側・東側に高い土塁が今でも現存しています。後背の南・西側の土塁は低い。全方向の土塁の外側はコンクリートで改修されています。東側の土塁の内側に古いような新しいような石垣が一部ありました。漁業取締船「かいれい」が停泊していました。でかい。

<満足度>◆◇◇
<グルメ>境港水産物直売センター:かに・白エビ・干物等の販売店がセンター内に数店舗あります。海鮮丼もあります。ここに過去5回くらい訪れた事がありまして、新鮮で今でも美味しいですが、値段は物価高の影響で少しお高い。

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ぴーかる

あさん 奈良県コンプリートおめでとうございます!

あさん 奈良県コンプリートおめでとうございます! あさんは奈良県でどこのお城が良かったですか?私は、奈良県は藪化がきつくて入れないような城跡は少なかった(超昇寺城・豊田城は少々キツイ)ように感じまして、奈良県のすごく南の方までは城びと登録のお城が無かったので比較的あれよという間に巡れました。次はあさんもコンプされている滋賀県が残り数城なんですが、行きづらい場所もあって思案中です。

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朝田 辰兵衛

あさん,正解です👍 (2024/03/30 訪問)

あさん,瞬殺ありがとうございます!
ご指摘のとおり,土塁と堀で固め,眺望の良い城です。残念ながら,戊辰戦争で自焼しています。
私の攻城時は,西側の三日月堀エリアで立入禁止措置が取られ,散策不能。しばらく続きそうな気配がしましたのでご注意ください。

さて,ここを出題したきっかけは…
たまたま,埼玉県の本庄城を投稿した際に,「しりとりだったら,本庄城⇔本荘城のリレーができるゾ!」と思い,“変換ミス”という表現をしたタイミングで,あさんの奈良県コンプリートが投稿されたのです。ちょっとしたアソビ心の出題ですので,笑ってスルーしてかまいません。

CFですが,「博●ちゃん」や「最●の城」なんかで取り上げてPRしてもらえると,裾野が拡大しそうな気がしています。スタッフのみなさん,ご検討願いますm(__)m

ということで,次はにのまるさんにバトンタッチします。GWに突入しますが,大丈夫でしょうか…?
私は遠征三昧となります。

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最古の城跡 高城 (宇陀市) (2024/04/20 訪問)

東吉野小川城から北上 兎田に向かう道沿いに、「最古の城跡」の看板あり。薄暗くなってましたが、行かざるをえません。神武天皇の東征の際の陣跡と。
道標に導かれ、登り口までバイクで。舗装道→土道の階段を経て、10分強でピークの高城に到着。激しい登山にならずによかった。石碑が作られたのは明治32年 治外法権撤廃の改正条約実施記念とこれまた歴史が。

朝田辰兵衛さん、お祝いクイズをありがとうございます。未訪問であり、遠慮なく検索しました。由利本荘市の本荘城ですね。解説を見てると、土塁の名城とか。さっそく、行きたい城に、ノミネートしました。
東京単身赴任時に、関東の城廻りを楽しみにしてましたが、北は勿来の関を少し越えたところまで。完全リタイアしたら、東北はじめ、全国、行きまくりたいなあ。

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刑部

城址は温泉宿 (2024/04/15 訪問)

宿と神社辺りが城址のようです、遺構はほとんどありませんがよく見れば面影があります。

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カズサン

勅使小学校北側に遺構復元展示 (2024/04/19 訪問)

 蓮如上人の吉崎御坊を終えて北陸路5番目東北東に約12km程の勅使館を初登城しました。

 駐車場:勅使小の東に在る勅使地区会館駐車場、または北の草原(36°18'14"N 136°23'23"E)
 参考資料:城郭放浪記さんグーグルマップに依る。

 勅使小学校の北側、体育館とプールの間に遺構が地表復元展示されている、掘立柱建物跡に短い柱が埋められて建物跡を表示してる、前に掘立柱建物の解説板と石盤表示、内郭北堀がロープで囲まれて地表展示しかし叢状態。
 ぐるっと周り又見渡すが城郭放浪記さんの写真館に有る勅使館跡の解説板が見当たらない、見つけられませんでした。
 城郭放浪さんの解説によると、勅使小学校建設にあたり発掘調査した結果発見された。現在は埋め戻され体育館辺りからプールの間に発掘結果の一部を復元地表展示されていると。
 
 西側に諏訪神社があり一本桜が満開で奇麗でしたので神社に参拝し桜撮影、校庭の西にも八重桜が満開、その横の染井吉野桜は散って居ました。
 

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城とマスク

箱根から小田原城 (2024/02/26 訪問)

箱根神社に参拝した帰りに小田原城に寄りました。前回来たときは夜だったので今回はお城の中にも入りました。

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しんしんちゃん

大谷吉継陣の北側 山中の城山(仮)② 関ヶ原の要塞化 (2024/04/14 訪問)

大谷吉継の陣の続きになります。関ヶ原を散策するにあたって、地形図とにらめっこし「ここは怪しいな」と思った場所をいくつかあたりを付けて訪問してみました。
①朝倉山→南宮山
②大谷吉継陣の北側の山(尾根上に北上)
③松尾山と大谷吉継陣の間の小山
今回は大谷吉継陣の続きになりますが、ここも竪堀が連続して存在していたりと、なかなか怪しいです。この連続した竪堀の上の扁平地が誰かの陣所であった可能性があると思います。関ヶ原はもともと大軍を引き込んで殲滅戦を行うにはうってつけの地形をしており、その際には、この城山、松尾山、南宮山(朝倉山含む)は重要な役割りを果たしていたと想定します。
敵が西から襲来した場合には完全に関ヶ原に引き入れてから山中の城山(仮)と松尾山で退路を遮断し南宮山北側に展開した主力の軍で敵を迎え撃つ戦法です。南宮山からは地理的に全周囲を俯瞰でき、ある意味で司令塔的な役割を担うことが出来ると思います。その場合重要な個所は△392地点でそこから観測や烽火での連絡も容易にとることが出来たと考えます。
関ヶ原のように敵の大軍が東から来た場合は山中の城山(仮)と松尾山で上方への敵の侵入を阻止します。その際の南宮山の役割ですが標高が高いので短時間での軍の移動は難しいです。敵を引き付ける役割を担ったり、夜中に軍を移動して敵の背後を脅かしたりとトリックスター的な戦法を取ることは可能ですが、臨機応変に対応する判断力が必要になってくると思います。
(ちなみに南宮山自体に大軍を駐留することは可能です。かなりのスペースがあります。朝倉山にもかなりの数の部隊を配属することは可能だと想定します。)
これらの山に陣を敷くメリットとして尾根上の移動が容易なので関ヶ原の反対側からの補給を受けることができ、退路も確保できます。敵を関ヶ原に封じることが出来れば、補給を絶つことが出来るので有利な状況で持久戦を展開することも可能です。
おそらく蒙古や明の大軍が関ヶ原に侵入してきた際にはモスクワの焦土作戦に似たような戦法を取ったのではないでしょうか。

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じゅんじん

平山城 (2024/02/17 訪問)

平山季重神社があります。

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しんしんちゃん

あで始まる城 あさん奈良県コンプおめでとうございます。 (2024/04/21 訪問)

あさん、奈良県コンプおめでとうございます。私は東海コンプを目指して東海の城をリピートで回りまくっています。新規の城もまだ38ほど残っており、正直いつになることやら。
安威城は土豪の安威氏によって鎌倉時代の終わりごろに築かれたと考えられています。安威小学校の東側あたりに内郭(主郭)があったとされ、外郭は竹林となりその形状を残しているようです。外郭にそって堀を思わせる側溝があり、竹林の中には土塁が残っているようです。

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