常陸飯沼城からの転戦です。湯崎城へのアプローチに高速を利用したため、時間にかなり余裕が生じました。そのため、献血ルームのある水戸に直行せず、大洗町へと回り込むことにした次第です。墓地にその名前がついており、石板に墓地の由来が記されておりました。陣屋の位置についても触れられていますが、正直、どのあたりなのかよくわかりません。
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2025/03/31 06:50
献血前の攻城⑥ (2025/03/15 訪問)
常陸飯沼城からの転戦です。湯崎城へのアプローチに高速を利用したため、時間にかなり余裕が生じました。そのため、献血ルームのある水戸に直行せず、大洗町へと回り込むことにした次第です。墓地にその名前がついており、石板に墓地の由来が記されておりました。陣屋の位置についても触れられていますが、正直、どのあたりなのかよくわかりません。
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2025/03/31 06:48
木山城 香川県丸亀市 (2023/03/15 訪問)
栗隈城から西に下りる道があり、そこを進みます。
墓地があり、その先が木山城です。
墓地の駐車場をお借りし、城址である竹藪に入りました。
一段高くなっている曲輪には土塁が付いています。
奥に進むと曲輪が段になっている感じです。
北側には広い削平地。
曲輪の跡と思われますが畑として使われていたかもしれません。
帰り、墓参りにいらした地元の方に駐車場を使わせてもらったことのお断りを入れましたが、ここが城跡だったこともご存知無いとのこと。
確かにマイナー城、詳細も不明の城です。
【見どころ】
・南側の曲輪に付く土塁
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2025/03/30 22:04
菅谷館 (2025/02/08 訪問)
【続百名城73城目】
<駐車場他>埼玉県立嵐山史跡の博物館駐車場
<交通手段>車
<まえがき>豪雪行軍:2/7の晩からの大雪で名神・新名神は21:00より通行止め。高速道路は上り線が完全に塞がれてしまったので、さてどうしたものかと思案し、伊勢湾岸線の、みえ川越からは通行が可能でしたので、一般道国道163号線の伊賀越えで行けると思い、2/7
23:00より出立しました。ところが、京都府の木津町のところで一般道も通行止め。スマホで検索すると一般道も東方面に行く道路は全て通行止めで、さすがに諦めようかと思いましたが、滋賀県米原市から国道365号線を南下していくルートだけは通行止めになっておらず、三重県に抜けられる。信楽町⇒水口町⇒滋賀県を北上し米原市から南下。翌朝7:00頃にやっと、みえ川越ICに入れました。菅原館に到着したのが2/8の11:30頃、約12時間半かかり無事到着できました。無茶しすぎました(反省)。
<見所>堀・土塁・曲輪
<感想>1泊2日埼玉大阪化計画第2弾、1城目。最初に博物館にてスタンプ押印と御城印購入、博物館の見学⇒三ノ郭⇒西ノ郭・大手門跡⇒三ノ郭馬出⇒二ノ郭⇒南郭⇒本郭の順で巡りました。特に高い土塁と深い堀、広大な郭に感動しました。推定平安時代末頃の古い築城でこれほどの遺構があることにも驚いた。川の合流地点の台地上に築いているのも単なる館というより防御性のある城だと感じました。運転疲れも気にならないほどいい城跡で、楽しく散策しました。
<満足度>★★★
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2025/03/30 21:33
今は池に囲まれた公園の刈谷城 (2025/02/14 訪問)
2月中旬に訪れた最初の城は愛知県刈谷市の刈谷城。
三河湾西側の嘗ては今以上に奥深かった衣ヶ浦の東岸、標高10m程度の丘を本丸とし水堀を挟んで二之郭や三之郭そして御殿を配置した城。
衣ヶ浦の水産資源や水運を押さえていたでしょうか。
衣ヶ浦西岸から進出してきた水野氏が、忠政時代の1533年に築城して移転。それ以来、江戸初期まで水野氏4代の居城となり、その後しばらくは分家の水野忠清や稲垣氏3代など頻繁に城主が交代。江戸後期には古河藩土井氏分家の土井氏9代が入り幕末を迎えました。
現在は本丸周辺が亀城公園として整備され、三之郭は郷土資料館や住宅地、御殿跡は小学校となった城跡。
訪問時は、まず辰巳櫓が移築されているという碧南市の妙福寺へ。柱のみの1階だけでなく、2階も改変されたようなつくり。
刈谷城では、椎の木屋敷や町口門跡から大手門跡を通り本丸へ。
絵図で馬出に見える二之郭は、堀跡にガラス張りのビルが壁のように建ち、南北に走る道路が土橋の名残?
公園化された本丸は、土塁が残るものの城のオーラは弱い印象。そこで2029年に辰巳櫓と石垣が復元完了予定とのこと。
今はまだ池に囲まれた公園である刈谷城が、私の城郭巡りの196城目となりました。
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2025/03/30 18:31
二色根城散策2/2(東曲輪,主郭) (2025/03/29 訪問)
一部残雪の影響で突入を断念しましたが,倒木等で荒れ果てた主郭に無事到達することができました。ピンクリボンから直登して,約10分と予想外の短さに驚きました。斜面に繁茂している樹木はしっかり根を張っていて,登山時&下山時には推進力の役割を果たしてくれました。
主郭にパネルか碑が建っていれば,もっと達成感を味わうことができる城郭かと思います。
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2025/03/30 17:56
二色根城散策1/2(登城ルート,NGルートも紹介) (2025/03/29 訪問)
二色根城の南西に二色根古墳群があり,薬師寺の入口にもアクセスルートの案内板が設置されています。実際には私有地となっており,地権者のご好意で二色根古墳群は指定ルートでの散策が可能です。実際,二色根古墳3号墳の先に二色根城があるワケですが,ここからは行けないようです。
さて,では二色根城にはどう行くべきかとなります。薬師寺の木造薬師如来座像が安置してある薬師堂へ。その西側に一段高くなっている墓地エリアがあります。その西側上端からの細い道を進みます。しばらく進むとピンクリボンがあります。ここから直登します。このシーズンだからそんなに気にならず行けましたが,夏場はおすすめできません。
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2025/03/30 14:32
火縄銃シミュレーションゲーム (2007/09/30 訪問)
(2007年9月の訪問 当時つけていた日記より)
米沢駅からバスで移動し上杉神社で下車⛩️ 今日はにわか雨に見舞われ、肌寒い日だった。境内はそんなに広くもなかったが、まず説明書を見てみた。上杉謙信・上杉景勝・直江兼続が紹介されていた。本殿にて参拝し、まだ時間があったので米沢市上杉博物館(1枚目)にも行ってみた。山形の歴史について展示されており、特に上杉氏を中心としたものになっていた…
ミニ映画も上映され、18c後半、財政難に陥った米沢藩を救った上杉鷹山が紹介されていた。若くして米沢藩の家督を継ぐと、大倹約令を出して改革を実行し、自らも一汁一菜で倹約したという。けれど家臣の反対にもあい、飢饉で不作が続いたりと試練はあったという…
けれど倹約および産業開発(農地改革・米沢織物)を長年にわたって進め、財政を立て直したそうだ。最後のシーンで彼が述べた「成せばなる成さねばならぬ何事も」という言葉は、何事も始めなければ成功にまで辿りつけないという意味を感じ、印象的だった…
上杉謙信の代では拠点は越後(新潟県)だったが、景勝の代にて関ヶ原の合戦で西軍につき負けた側となったので領地を大幅に削られ、米沢へ移転させられたそうだ
それから上杉家の拠点は米沢となり、領地を削られたりもしたが、藩は長年にわたって生き続けたという。上杉家の子孫は現在どうなっているのか知らないが、とにかくここは景勝が領土縮小させられたことで、上杉家ゆかりとなったようだ
火縄銃シューティングゲーム(2枚目)もあった。画像に出てくる的めがけて引き金を引くというもので、固定された火縄銃は結構重かった🔫「鉄砲隊って結構ハードなんだな…」とも思い、このゲームにチャレンジ!1回目はハズレで2回目は当たり(2回プレイ)となった
弓矢と同じく弾も重力の影響で放物線を描いて下に落ちていくので少し上を狙う感じでうつと良いようだ。2回目はそれを踏まえて取り組んだので「見事命中🎯」となった
弾をこめるのに時間がかかるようだし、命中率もさほど高くないと思えるから(腕のいい者はともかく)この時代まだそんなに実用的でもなかったのではとも思える(弓矢の方が打ちやすそう…)しかし、長篠の戦いにて鉄砲三千で武田騎馬隊を破ったように、うまく使えば十分な戦力になったとも言える…
他にも古文書を折りたたむという体験型イベントがあり、説明に沿ってたたんだ。A4位の紙がすっかり小さくまとまり、こうして相手の藩主に(使いを通して)渡していたと思われる
これもまた一種のワークシートと言えよう(博物館学🧑🎓) 当時の集落を再現したジオラマ(3枚目)もあり、説明文ももちろん必要だが、やはりそれだけではなく、ビジュアル的なものや体験型がより来場者を魅了するのだろう。私はこれまでに数多くの博物館を見学してきたが、今日のところは体験型もあり、館内もキレイで楽しめるものだったと思える
(2025年3月 2回目の訪問)
あの日から…17,8年もの月日が経過しての再訪問。残念ながら火縄銃シューティングゲームは故障中…再体験はなりませんでした。しかし上杉鷹山のミニビデオは上映されており…画質こそ少し古め…けれど改革を決して諦めない熱い想い…そして「成せばなる…」のラストシーンを再び見ることができたのはよかったと思いました🤔
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2025/03/30 12:18
おそらく和歌山の難関の一つ。瀧法寺ルートより。 (2025/03/30 訪問)
はい到着。主郭より投稿です。イオさんは南から攻めてましたか。私はヤブがキツイと評判の北西、瀧法寺のルートから攻略です(今頃投稿を読んでいる)。
めっちゃ大変です。ヤブシダがきつくて進めないので各所で迂回しながら進みます。この城は正直オススメできない。なんでって、危ないから。
道もはっきりとしたものはないので、昔のモノノフの使っていた(たぶん)道を使います。
武士道(ブシドー)なんつって...
堀切などは見当たりませんが、主郭の北側に土塁が付き、南北に数段の郭が付いていて、城域は案外広いです。
西側にも帯郭のようなものが付いていて、スロープ状の土橋が付いているように見えます。北に南北に長い郭があり、北端の入口にスロープ状の土橋がハッキリとわかるくらいに付いており、この城の見所の一つだと思います。
これから、この道を戻るのか..どこでもドアでお家に帰りたい(車は❓️)。
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2025/03/30 05:52
【対馬4城を巡る】(2)金石城 (2025/03/22 訪問)
(2城目)は金石城です。
金石城は、平安時代からこの地を治める宗氏の金石屋形が前身で、天守はありませんでしたが、櫓門を天守の代用としていたようで、その櫓門が現在再建されています(写真①②)。庭園も残っていました(写真③)。また隣接する萬松院には宗氏代々の墓所もありました(写真④⑤)。
宗氏は室町時代から朝鮮との橋渡し役を担ってきましたが、豊臣秀吉の朝鮮出兵で19代「宗義智」(写真⑥)は清水山城築城の労役を課せられます。そして出兵により朝鮮との関係は最悪となりました。しかし江戸時代に入り、対馬藩を立藩した義智に対して徳川家康は、「悪化した朝鮮との関係を修復せよ」命じます。それは容易な事ではありません。義智は偽文書まで捏造して幕府に嘘の報告をしながら、一方では捕虜の釈放などを条件に粘り強く交渉し、何とか国交を回復しました。いやすごい努力だと思います。
そして1607年第1回目の「朝鮮通信使」がやって来た時、ここで大きな問題が! 来日した使節は何と予想を上回る500名。幕府側からの迎入使節も500名程。金石城はこの大人数の接待をするにはあまりにも手狭で、また港から城まで近く全員が上陸し行列ができないという事態になってしまったのです。
そして1659年1661年と二度に渡る大火で金石城と城下は甚大な被害を受けます。22代「宗義真」は大規模な復興に取り組み、3km内陸の桟原の地に、この際使節も受け入れられるような城を築城しようと、藩主館や行政機関なども全て移し、大規模な接待施設も作りました。金石城もその後再建され、使節を接待する幕府側の迎入者の宿泊所などに使われたようです。庭園には1811年幕府大使の小笠原大膳(小倉藩主)が宿泊したとの記録も残されています(写真⑧)。
朝鮮通信使の歴史を知るのは韓国人にはとても人気があるツアーのようです。金石城は韓国人の団体客がとても多く、何台ものバスがたて続けに来ては、ぞろぞろと降りてきました(写真⑨)。ホテルも私以外の客はほぼ韓国人でした。チェックイン時に「オソオセオ~(いらっしゃいませ)」とあいさつされたので、思わず「私は日本人です」(🤔?・・笑)。いやまさに国境の街、いたるところ何から何まで、必ずハングル文字のふりがながついています。
次は(桟原城)まで歩きます。
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2025/03/29 22:17
夕焼け小焼けで (2025/01/24 訪問)
佐伯城から列車移動しました。
前回は卯寅櫓の方から入ったので今回は西の畳櫓の側から。
鎧坂の通路が落盤の危険があるということで安全のため防護壁を設置してくださっていました。
どこのお城も年月が経つにつれ傷みが生じてくるのは避けられないことで、整備してくださるありがたさを思うと同時に自分自身も充分に注意して歩かないとと思いました。
ちょうど日没の時間できれいな夕焼けを拝めました。
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2025/03/29 16:36
登城御免 (2025/03/29 訪問)
微妙に言いにくい空気が有る中での投稿です。某サイトに複数 行き方が書いてあるので、それに習って訪問しました。
民家か管理人らしき建物の脇から車道が山中に伸びています。一声かけたかったのですが、誰もおらず、そのまま登っていくと城趾公園のようになっていて、北側の遺構はネットが張っており確認ができません。某サイトに記載のあった城池は健在で土橋がかかり、堀切に繋がっていました。少しハードルは高めですが、周囲は切り立った崖で他に登城の方法は無いようです。
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2025/03/29 16:28
2025/03/29 16:09
2025/03/29 14:45
2025/03/29 14:32
武田信玄 (2025/03/28 訪問)
武田信玄が北条氏康と上杉謙信が越相同盟を結んだときに、上野の備えとして築城したと伝わっています。山名城から約1.2Kmの距離にあり尾根道を、それほど高低差を感じることなく行くことができました。曲輪、空堀、竪堀、堀切などがよく残っています。北東側に展開している曲輪に降りて行くといくつかの竪堀を観ることができました。南の尾根を堀切等で防備して、北側を山裾へ向かって曲輪を展開していくという縄張りだと思います。空堀など雑草で見えにくい所もありますが、散策路は概ね整備されていて楽しむことができます。
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2025/03/29 14:05
山名(新田)義範 (2025/03/28 訪問)
上信電鉄西山名駅より徒歩で登城しました。山上碑、山上古墳を経由して20分くらいで行くことができました。比較的新しい標識があり迷うことなく登城することができます。曲輪、堀切、空堀などが残っています。一部藪になっている場所があり棘のある植物に注意が必要ですが、概ね散策は容易です。調子に乗って歩いていて痛い目に会いました。現在の姿は戦国時代により改修されたものです。
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2025/03/29 13:44
2025/03/29 13:32
北新波砦史跡公園 (2025/03/27 訪問)
15世紀後半から16世紀中頃に築かれたと推定される出枡状の突出を付属した75m四方のほぼ正方形をした砦跡です。発掘調査で堀や井戸、建物の跡などが発見されました。早瀬川と関端川に挟まれた場所にあり天然の堀としていたのでしょう。長野氏に関連する砦と考えられています。現在は北新波砦史跡公園として整備されています。桜の名所のようですが、開花の気配を感じません。一本だけしだれ桜?が咲きかけていました。
高崎駅から箕輪城方面に行くバスに乗り浜川十字路バス停下車、徒歩10分くらいで行くことができます。
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2025/03/29 12:23
尾根道をけっこう激しく登りました。 (2025/03/15 訪問)
城びと先達、ぴーかるさん、todo94 さんと同じルートで登城しました。ぴーかるさんの「ゲートを開けて右手の山尾根へ。左手には行かないように」「いったん左に約90度曲がり、東方向にさらに登る」などの指南は的確でした。尾根にケーブルが見え隠れしましたが、共同アンテナの名残で、ピークにアンテナの残骸あり。かつては、建設やメンテナンスで尾根道を行き来していたのでしょうね。
新保山城は、大きな造りで、主郭南に6段の郭があって、いったん高い切岸と堀切で遮断し、さらに下って3段の平削地と浅めの堀切があります。主郭北に大堀切を配します。
イオさん、お祝いおよびお気遣いのコメントをありがとうございます。滋賀からイオさんの地元の和歌山県に行くには、大阪府か奈良県を超えることになり、気持ちの敷居が高いです。まだ、和歌山市周辺、御坊市周辺、新宮市周辺を廻ったのみです。しかし、「行ってみたい」マークはたくさん付けています。特に、日高郡の赤松城が気になっています。播磨の赤松氏が、六波羅探題の命を受け、この地の一揆鎮圧のために築いたとか。イオさん投稿の登城道指南を頼りに近いうちに行きたいものです。
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2025/03/29 12:17
井伊直政 (2025/03/27 訪問)
久しぶりの箕輪城です。以前来た時は郭馬出西虎口門も本丸と蔵屋敷を結ぶ木橋もありません。それでも当時から深い空堀など見応えのある城址でした。大規模な空堀、堀切はこの城址の最大の見どころ、歩きどころです。今回登城したときは、木橋は工事中で渡ることができなかったのは、少し残念でした。駐車場のある搦手口から北側にある新曲輪、丸馬出方面をまわり御前曲輪北堀から堀の中を木橋付近まで歩きました。その後、三の丸、二の丸、御前曲輪、本丸、大堀切など主要な場所を散策しています。
現在の城跡は井伊直政在城当時のものですが、自分としては武田信玄の攻めを何度も退けた長野業正の城として印象が強いです。
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