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ぴーかる

綾井城 (2023/04/30 訪問)

【綾井城】
<駐車場他>専稱寺参拝者駐車場
<交通手段>南海電車

<感想>大詰め大阪府の城びとの旅4城目。現地説明板によると綾井城は鎌倉期の城で南北朝時代には足利氏に属していました。戦国時代の城主沼間任世は信長の元で活躍(沼間水軍)しました。沼間氏の子孫は旗本として存続しています。
 南海電車高石駅より徒歩で来城しました。現地は専稱寺というお寺さんになっていて、南東面の堀だけが現存しているそうです。境内の本堂左手の寺務所内に御城印が販売されています。

<満足度>◆◇◇

<追記>todo94さんとのランデブーせずは、私は9:00頃に淡輪城、11:00前に眞鍋城でした。この綾井城は11:40に訪城です。淡輪城の時間帯は結構な雨で古墳も見たかったのですが早々に退散しました。
 朝田辰兵衛さんこの旅で私、大阪コンプリートするか、せーへんかはまだ内緒です。

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うさ

仙台城 (2023/05/27 訪問)

ツアー中、お願いして少し抜けさせて頂きました。時間との戦いではありましたが、石垣堪能しました。

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畿内の火薬庫、大和 (2023/05/21 訪問)

呉座勇一著「応仁の乱」の第一章は、「畿内の火薬庫、大和」です。室町幕府は、大和に守護をおかず、興福寺が事実上の守護でした。室町幕府成立後そうおかず1351年から30年以上にわたり、興福寺内の一乗院と大乗院が、大和の豪族を巻き込んで争いました。当初の摂関家分裂の余波から、南北朝の対立も入り込みます。1400年代になり、親幕府的で一乗院衆徒の筒井氏と反幕府的で大乗院衆徒の越智氏との対立を軸に展開しました。応仁の乱前に、大和では、激しい抗争が、長らく続いていたのです。
越智氏に限らず大和の反幕府的な豪族は、将軍が停戦命令などを出しても言うことを聞きません。中でも越智氏は、領地が、奈良盆地南端、吉野も近く、強者です。貝吹山城は、御屋敷の越智城の詰めの城の位置付けですが、後には、更に、高取城も詰めの城としたと。
私の少し前に登城されたイオさんの投稿にない写真を中心にアップします。

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todo94

ニアミス・その2 (2023/04/30 訪問)

びーかるさんの2城目・畠中城はスルーして、私は淡輪城から直行しました。「村上海賊の娘」の主人公の好敵手・真鍋七五三兵衛の居城は絶対に落としたくなかったので、最優先したということです。びーかるさんもチェックされている伯太藩渡辺家墓所にも脚を伸ばすことができました。

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イオ

大規模山城ではあるものの… (2023/02/26 訪問)

築城時期は不明ながら、越智氏が居城である越智城の詰城として築いた城で、戦国後期には筒井氏や松永氏との争奪戦が繰り広げられましたが、織田信長の大和一国破城令により廃城となりました。

駐車場はありませんが、与楽カンジョ古墳の南側道向かいの道が広くなったあたりに路駐して登城開始。古墳の前を東に進み、防獣ケーブルを越えたところに案内表示が設けられています。ここが登城口です。登城道に入ると竹林の中の土橋状の道沿いに土塁っぽい盛土や平坦地が見られますが、遺構かどうかはよくわかりません。

さらに登って行くと、道の両側に曲輪群が階段状に展開されており、登城口から15分ほどで貝吹山頂の主郭部に到着。主郭の南側には三段の曲輪を配し、主郭には城址碑が建てられ、主郭北下の広い曲輪には貝吹山城や越智城、越智氏についての手書き資料を掲示した説明板がありました。最高所だけに眺望も開けています。

貝吹山城は主郭から放射状にのびる支尾根に曲輪群を配していますが、北尾根はなかなかの藪で下りて行くルートが見出せず、遊歩道が整備されている北西尾根に下りて行くと、小さな段曲輪の先に堀切が設けられていました。堀切で引き返して、今度は南東尾根へ。手持ちの縄張図によれば南東尾根には多数の曲輪と土塁や櫓台がある…はずですが、道を外れて南東尾根に向かおうにも、凄まじい竹藪と倒竹でとても足を踏み入れられる状態ではありませんでした…。

…ということで、多くの曲輪群を擁する大規模な山城ではあるものの、普通に見て回れる範囲は限られるため、やや消化不良感が残りました。なお、貝吹山城とは直接関係ありませんが、登城時は登城口手前の与楽カンジョ古墳の整備工事が行われており、麓には見学者用の駐車場ができるのかもしれません。そうなれば車を駐める場所に困らずに(以下略)
 

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トク

㊸【関ケ原の26人】(19)藤堂高虎 (藤堂高虎と大洲城) (2023/02/11 訪問)

(19人目)は「藤堂高虎」です。
これから高虎ゆかりの4城と陣跡を訪れます。
まず関ケ原当時の居城「大洲城」を訪れてきました。

高虎は、朝鮮出兵(慶長の役)までは、宇和島城を居城としていましたが、帰国後は宇和島城がまだ改修中であったこともあり、恩賞でもらった大洲城に居を移し、そして関ケ原へ出陣します。

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ここからは、また話は脱線します(いつもすいません)。
かるたでお伝えした【1泊100万円:城泊情報】の続きです。

私が訪れた時は16時くらいでしたが、何やらあわただしい気配が・・・おや? 大勢のスタッフがやって来て、城の回りに旗を差してステージなどが用意されています(写真①②)。 なななな何と・・・本日は城泊者がいるとの事!(通算10人目だそうです) 私はトク派員に変身し😎、嫌われながらも根堀葉堀スタッフから聞き出し、そして趣向の一部の情報をGETする事に成功しました! そして17時になり、いよいよ宿泊者が・・・という所で・・・閉館で~す。ここからは貸切ですので出て行って下さいと追い出されてしまいました(ガ~ン😱!見たかったな~)(写真④)。

しかし、私が得た情報から推測するに、趣向はこんな風ではないか思います。まず、宿泊者は殿様衣装に着替え下に用意された馬にまたがり家臣(鉄砲隊)を従え登城する(写真⑤トラックが止まり馬が下りてきました!)。そして用意されたステージで歓迎のセレモニーがある。伝統芸能による舞が披露され、名物(鉄砲隊)による火縄銃の実演がある(甲冑に着替えている人が数名いて鉄砲もありました!)。それからライトアップされた大洲城を眺めながら西の丸にある別邸で温泉入浴。その後天守に戻ってで饗応料理による豪華な夜の酒宴が開かれる。そして肱川で花火が上がりそれを天守最上階から眺める(写真⑥⑦肱川)。夜は天守1階に殿様布団が敷かれそこでゆっくり寝る(写真③)。翌日はまた別邸で贅沢な朝食、そして専用車による市内観光、こんな趣向が城泊者のためだけに貸切限定で用意されているのではないでしょうか!?

これが本当かどうか、募集しましたが誰も確かめてくれそうにないので、私が自ら確かめるべく、宝くじを買ってまた唐津の宝当神社に行き、100万円以上の高額当選が当たるようにお願いして来る事にしました~!(それじゃあ結論になってないぞ-!😩)。

(訂正)1泊100万円は2名1組利用時2名分の料金です(+消費税10万円😯)

次は、高虎の話に戻ります。
 

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むらひろ

田中城 (2023/04/29 訪問)

かつての城の範囲至る所に遺構があるのでぜひ自転車で巡るといいと思います。
私はレンタサイクルで回りました

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カズサン

技巧的な縄張図に魅せられて初探訪 (2023/05/31 訪問)

 今年2月19日のT-Shionoyaさんの投稿写真の縄張り図を見て技巧的で馬出が各曲輪に付いており横矢掛りの角々の折れも素晴らしく是非訪ねたいと、城びとマイページの行ってみたい城一覧に登録してチャンスを待っていました。
 今回の孫の運動会観戦に合わせ、山中家範館跡初探訪の後、圏央道久喜白岡JCTより東に一区間の幸手ICを降りて栗橋城跡を訪ねました。

 駐車場:栗橋城跡東側に在る法宣寺東山門横参拝者駐車場を利用

 案内ガイドは余湖図コレクションさんの縄張俯瞰図、古城盛衰記さん、グーグルマップに依ります。

 現在城域は私有地で私宅に成っており見学が容易ではありません、案内板は法宣寺山門から南50m程の所、松本私宅の入り口通路が約西に50m程あり宅地の入り口に堀が樹木に覆われて南北に確認できます、一部土塁も樹間に切る事も出来ますが入り込めません。
 入口にお住まいの方がいらっしゃれば声掛けして見学したかったのですが見えられませんでしたので退散。
 古城盛衰記さんの案内に法宣寺北駐車場からの登城ルートが記載されていましたので法宣寺塀を東から北へ回り込みましたが駐車場は扉が閉まって入れず、北側の道を西へ権現堂川の川原へ、西から田圃越しに栗橋城跡の西辺を眺める、樹木、草に覆われていおり入り込めそうな道は無い、また川原には土手などの残存土塁を思わせる土の高まりが見受けられる。

 余湖図コレクションさんの縄張俯瞰図で、現在の松本家が東外郭、南側に南外郭、北側に北外郭、西側に内郭、主郭が構えて各曲輪間には馬出上の曲輪が控え出角、入角で横矢掛かりが十分に機能してる、七曲の東に現在の法宣寺、権現堂川の河川改修などと農地改修、宅地開発により内郭、主郭、北外郭、南外郭は消滅してるようです、残って居れば素晴らしい中世、戦国の城跡を見る事が出来たでしょう。縄張図を見ただけでも十分興奮します。
 今後も大切に残ってる遺構を保存管理して頂きたい。

 今後も皆さんの登城投稿を参考に私の体力、脚力に合った城郭を探訪観察を続けたいと思っております。
 
 
 

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ぴーかる

眞鍋城/伯太藩主渡辺家墓所 (2023/04/30 訪問)

【真鍋城】
<駐車場他>南溟寺専用駐車場
<交通手段>南海電車

<感想>大詰め大阪府の城びとの旅3城目。眞鍋城は南北朝時代に楠木正成の家臣眞鍋氏によって築城されたとされます。現在は遺構は残されておらず南溟寺の本堂前に城跡碑があります。境内に和泉国伯太藩主であった渡辺家(城びと伯太陣屋)の墓所があります。

<満足度>◆◇◇

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Yon

尼崎城と櫻井神社 (2023/05/31 訪問)

再建された尼崎城に行ってきました。樹木も育ってきて、再建当初よりは少し雰囲気が出てきたでしょうか。
ついでに、尼崎城の南側にある、とあるアイドルグループやロックバンドの聖地となっている櫻井神社へも行ってみました。絵馬には、コンサートチケット当選の祈りなどなど。しかし、この神社は桜井徳川家が祭られている由緒正しい神社なんです。建物のいろいろな場所に桜の花がデザインされていて、探す楽しみもあります。



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昌官忠

(長野県&岐阜県方面城巡り)11日目:松本城 (2023/04/28 訪問)

(長野県&岐阜県方面城巡り)は福島城で終りましたが、松本駅でレンタカー返却後、帰りの電車まで時間があったので、松本城を見にい
きました。

松本城は3回目の攻城です。
1回目は2015/06/17に次男と二人で攻城(100名城スタンプ押印)
2回目が2018/03/05に妻と二人での攻城
3回目が今回(2023/04/28)です。

ゴールデンウイークが始まっていましたので観光客が多かった為、中には入らず周囲を散策しました。
攻城時間は30分くらいでした。本日の城巡りはここがラストで松本駅から千葉の自宅まで帰ります。
今回の遠征での歩行歩数=234,138歩、歩行距離=163.83Kmでした。
風邪をひいた影響で、9日目(4/26)の攻城を途中で断念した為、歩行距離は短めでした。

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昌官忠

(長野県&岐阜県方面城巡り)11日目:福島城 (2023/04/28 訪問)

須原城からの転戦です。木曾福島郷土館入口(35.853992、137.701651)から進入し、駐車場に駐車しようとしましたが、木曾福島郷土館は休館中だった為、少し戻って興禅寺の駐車場を借用しました。

戦国時代の天文年間(1532~55年)木曽氏18代の木曽義康により築かれました。木曽氏19代の木曽義昌も居城としました。
平時は、「上の段城」を館とし、この山城を「詰の城」とし、木曽川を挟んで館の向いに築かれたので向城とも呼ばれていました。
武田家の遺領を巡り上杉景勝と徳川家康・北条氏直が争うと(天正壬午の乱)、義昌は家康に通じて盟約を結び、再度安曇・筑摩両郡および木曽谷安堵の約定を得ました。
1584年(天正12年)家康と羽柴秀吉との対立をうけて義昌は盟約を反故にし、次子・義春を人質として秀吉に恭順しました。
このため家康は小笠原貞慶、菅沼定利、保科正直らを木曽福島へ攻め込ませ、妻籠城で戦し義昌が勝利しました。これによって、家康は木曽家を快く思わなくなったと史書は伝えているそうです。
1590年(天正18年)家康の関東移封に伴い、秀吉から徳川附属を命ぜられて下総阿知戸(現在の千葉県旭市網戸)10,000万石(あるいは20,000万石とも)が与えられて木曽谷を退き、城は廃城となりました。  
ちなみに木曾家は1600年(慶長5年)木曽義利の時、叔父義豊を殺したことで改易となりました。


遊歩道入口から片道1.8Kmのハイキングコースです。福島城址分岐点までは緩やかな登り坂が17~18分、そこから本丸までは12~13分くらいだと思います。
堀切、空堀、土橋などが確認できます。
本丸に城址標柱と説明看板が立てられ、祠が祀られていました。
攻城時間は65分くらいでした。レンタカーを松本駅で返却する為、松本駅に向かいます。

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昌官忠

(長野県&岐阜県方面城巡り)11日目:須原城 (2023/04/28 訪問)

妻籠城からの転戦です。登り口付近(35.692255、137.687925)に路駐しました。

定勝寺は木曽氏17代義在の館跡で、その背後に須原城があります。1509年(永正6年)福島に上之段城を築城し、須原と福島を交互に本拠としていたようです。
1542年(天文11年)には子の義康に家督を譲り、18代義康の代になって 福島城を築き福島を本拠と定め、19代木曽義昌に至っているそうです。

送電線鉄塔巡視用登リ口から登り、鉄塔を2つ過ぎると二郭➡二重の堀切(空堀)➡虎口付近に土塁が残っている主郭に辿り着きます。
攻城時間は25分くらいでした。次の攻城先=福島城に向かいます。

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モト

山の頂上に本丸跡 (2023/01/26 訪問)

高尾駅から徒歩でおよそ15分くらいで登城口のある高尾天神社に着きます。
そこから頂上にある本丸まではさらに15分くらいです。
途中、土橋のような場所もありましたが果たしてそうなのかはわかりません。
本丸には碑が建っておりました。

八王子城に行く際に寄ったのですが、八王子城のウォーミングアップにはちょうど良い勾配と登城時間でした。
朝の早い時間に登ったのですが大きい菅原道真公の銅像には少々恐怖を覚えた私でございました。

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イオ

古墳が連なる平山城 (2023/02/26 訪問)

越智谷に向かってのびる尾根の先端に位置し、大和四家に数えられる越智氏が南北朝期に居城として築いた城で、筒井氏との勢力争いの舞台となりましたが、織田信長に屈服した後は大和一国破城令により廃城となりました。

越智公民館の駐車場に駐めさせてもらって登城開始。水路沿いに東に進むと、馬蹄形の尾根の南向きに開けた谷間に南北三段のオヤシキと呼ばれる居館跡が広がっています。現状は畑になっていますが、瓦器や土師器、青磁、宋銭などが発見されているようです。

オヤシキ後背の尾根が城郭部分で、東尾根南麓の土塁の間を抜けて鉄塔管理用の道を登って行くと、東尾根には小さな古墳が連なっていて明瞭な城郭遺構はほとんど見られません。かろうじて北東端の東麓を見下ろす位置に古墳を土塁や櫓台に見立てたような曲輪があったくらいでしょうか。東尾根を北側に下りると西側に防獣柵の入口があり、ここが北東側の登城口です。

防獣柵の中に入って尾根北麓を西に進むと、北からのびる尾根を遮断する巨大な堀切に行き当たります。竹につかまりながら北尾根によじ登ると、東尾根と違って古墳は見当たらず、削平された小さな曲輪群が尾根上に続いていました。北尾根の北端も巨大な堀切で断ち切っていて、堀切の西側にはいくつかの広い曲輪がありましたが、防獣柵で進めないので南側の堀切まで引き返して、今度は西尾根へ。

堀切付近から直登すると防獣柵沿いに扉があり、扉を開けて西尾根に進みます。西尾根も小さな古墳が連なっていて、古墳と古墳の間が堀切っぽくも見えますが、西尾根の真ん中あたりには明瞭な堀切があり、オヤシキ側に竪堀となって続いています。堀切の先は古墳を改修した曲輪が続き、南西端には櫓台に見立てた墳丘の三方を横堀で囲んだ曲輪が設けられていました。その南下には二段の帯曲輪があり、西側に堀切(堀底道)となって続いています。

…と、これで越智城をひとめぐり。未整備な上に古墳がそのまま遺るなど城郭としてもあまり加工されていませんが、それでも堀切や竪堀は見応えがありました。ただ、ほぼ全域に防獣柵が張り巡らされているため、登城ルートは限定されますのでご注意を。くれぐれも、来た道を戻るのが面倒だからと竪堀を下ってオヤシキへ抜けようとするも、防獣柵に阻まれてまた竪堀を登る羽目になったりすることのないように。…そんなヤツは私だけかもしれませんが(笑)
 

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todo94

ニアミス (2023/04/30 訪問)

和歌山のホテルに泊をとり、朝食をとってからの朝駆けです。前日からの雨はまだわずかに残っているという感じでした。まさか、びーかるさんと同じ日に攻めていたとは。時間もかなり近かったのではないでしょうか。3枚しか撮影していない写真も、かなり似通っていますよね。

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朝田 辰兵衛

イメージ変わりました。 (2023/03/18 訪問)

以前と全くイメージ変わりました。別の城に来た感覚でした。チケットの画像も変わっていました。
天守内部の展示も刷新されており,昇太師匠がお出迎え。エレベーターも設置されていました。

そうそう,6/8~6/13で遠征に行ってきます。
投稿は休みますが,みなさんの投稿は閲覧させていただきます。
ご容赦くださいませ。
(ぴーかるさんが,大阪府コンプしそうな予感…)

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ぴーかる

畠中城 (2023/04/30 訪問)

【畠中城】
<駐車場他>駐車場はなし。
<交通手段>南海電車

<感想>大詰め大阪府の城びとの旅2城目。畠中城は奈良時代百済からの渡来人である神前氏の屋敷のある場所に1543年頃根来衆の支城として畠中城を築城しました。1570年野田・福島城の戦いで落城し、1577年秀吉の根来攻めの際にも落城しています。江戸時代には神前氏の子孫の要氏が岸和田藩の大庄屋として存続します。
 現在も私邸屋敷として広大な四方を土塀で囲んでいます。南東面が正門の長屋門があります。南海電車貝塚駅より徒歩15分くらい。

<満足度>◆◇◇

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カズサン

武蔵七党中山家範館跡 (2023/05/31 訪問)

 中山家範館跡に行って来ました、3年前の令和2年10月に茨城県北部の松岡城を探訪し、ここの領主が中山氏で水戸黄門時代劇に出演する中山の爺、私の記憶では丹波哲郎さんが爺役、中山家範次男中山信吉は水戸徳川家の付家老2万5千石、水戸初代頼房の傅育役を命ぜられた。
 中山氏の故郷が飯能市の中山家範館跡との事を松岡城の小学校資料室で勉強し、何時か訪ねたいと今回孫の運動会に宇都宮への途中、圏央道狭山日高ICから4~5km程と近く初登城しました。

 史跡はグーグルマップに中山家範館跡碑をあり、手軽に辿り着けますが道は狭い、路駐しか出来ず5分程探訪し石碑、空堀を撮影、案内板は張り付けた紙が剝がれそうな状態、案内板横に資料ボックスが有り資料ゲット、そうこうして居たら後ろから車が来て待避。

 智観寺:埼玉県飯能市中山520 ここには中山家初代中山信吉からの墓所と成っている、初代の墓のみ土壇で築かれて小山の様、累代の中山氏の墓所に成っている。 駐車場は智観寺東側の通りに参拝者駐車場が有る、中山家範館跡へは智観寺に車を駐めて徒歩で訪ねるのがよいでしょう(約100m程)。地域は住宅街で道が狭く切り返しを何度かして角を回りました。

 能仁寺:埼玉県飯能市飯能1329 ここには中山勘解由三代の墓が有ります、家勝、家範は後北条氏八王子城の将として小田原征伐の攻防戦の折り奮戦し自刃、長男照守は次男信吉共々家康に取り立てられた。 墓は能仁寺の西側奥の墓所中段に自然石を使い。上段に家勝、下段に家範、横奥に照守と累代の墓が並んでいます。照守は3500石の旗本として明治まで継承してる。 駐車場は参拝者駐車場を利用。史跡からは西に500m程です。

 史跡には碑とわずかに空堀が残るだけですが、智観寺、能仁寺と回り中山氏の墓所を廻るのも良いでしょう、また能仁寺には幕末維新の飯能戦争の碑と案内板があり、維新の幕府軍、新政府軍の攻防を知る事が出来ます。
 

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todo94

和歌山の城めぐり⑤ (2023/04/29 訪問)

午後には献血の予約を入れてあり、天気予報も雨になっていたので、和歌山市へと向かい、和佐山城をこの日最後の攻城としました。高積神社下ノ宮についた時にはついに小雨が落ちてきていました。とりあえず、傘なしでもなんとかなりそうだったので攻城に踏み切ります。登城路の中央にバーンと現れた板碑の左手は高積神社上ノ宮になります。途中登城路が分かりにくい右手に折れていく箇所がありましたが、ピクミンブルームの地図のおかげで迷わずに山頂にたどり着くことができました。

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