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イオ

南朝の悲哀… (2025/04/26 訪問)

南北朝期に阿瀬川氏が築いた城で、吉野賀名生から逃れてきた後村上天皇が一時在城したことから天子山城とも呼ばれます。戦国期には保田氏の城となり、清水城の支城として機能したようです。

大きく蛇行する有田川に三方を囲まれた丘陵頂部に位置し、頂部まで車で行けるようですが、道幅が狭そうなので国道から杉野原集落に入ったあたりに路駐して、徒歩にて登城開始。集落の奥に見える丘陵を目指して進み、荒神社への案内表示に従って民家の間に入っていきます。民家の間を抜けて舗装された山道を5分ほど登ると荒神社境内に到達。

頂部は境内としてよく整備されている分、明瞭な城郭遺構は見られません。境内北辺に土塁っぽいスロープがありますが、遺構ではなさそうです。鳥居の手前には阿瀬川入道の墓があるようですが、見落としてしまいました…。主郭跡と思われる境内東奥の一段高くなったところに天子山三宝大荒神の社殿が建てられ、主郭の周囲は帯曲輪状の削平地がめぐっています(境内地としての改変かもしれませんが)。境内の東辺には防獣柵が張りめぐらされ、主郭から北にのびる尾根沿いに続いています。この北尾根に堀切があるようなので下りて行ってみましたが、浅くなっているのかよくわかりませんでした。

荒神社として改変されてしまっていて、城としての見どころはほとんどありませんが、こんな山深い地にまで後村上天皇が落ち延びてきていたのか…と考えると、しみじみ南朝の悲哀を感じました。
 

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橋吉

鳥羽城 (2025/07/09 訪問)

鳥羽水族館のすぐ西には国道42号線・近鉄志摩線が通っており、その向こうに見える丘が鳥羽城本丸です。
鳥羽水族館駐車場から歩いても行けそうでしたが、熱中症警戒アラートが発令されていたこともあり、クルマで鳥羽市役所駐車場までワープしました。

家老屋敷跡・本丸さらに二の丸旧鳥羽小学校校舎と見学しました。
また、西側には十数段の段々石垣があり、その下に三の丸があります。
所要時間 45分

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しんちゃん

比与鳥柵跡 岩手県奥州市 (2025/01/05 訪問)

前九年の役を記録した「陸奥話記」に記載のある比与鳥柵は正源寺から北の台地に築かれていたとされています。
安倍則任の守護した城館とされ「前太平記」や、白鳥村、稲瀬村の伝説にある「則任の恋物語」発祥の地ともされています(案内板より)。
慶長10年(1605)ごろより仙台城普請総奉行を歴任した後藤肥前守信康の居館となり、五藤寿庵隠棲の地とも伝えられています。
柵跡は北上川の東岸に位地し南の正源寺・墓地あたりが兵部舘、北の田畑になっているあたりが俵岩城とされています。厨川柵も北上川沿いに築かれていたし、北上川沿いに築かれている城郭は結構多いです。

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しんちゃん

黒沢尻柵 岩手県北上市 (2025/01/05 訪問)

黒沢尻柵は平安時代後期に築かれた安倍一族の柵とされています。案内板のある個所に「黒澤尻柵」が設けられ安倍頼良の五男・正任が置かれ「安倍舘」とも呼ばれていたようです。
永承6年(1051)前九年の役のさい安倍氏の勢力が強かったため陸奥守兼鎮守府将軍・源頼義は出羽の清原氏に援軍を頼み、康平5年(1062)の秋、安倍氏は源氏・清原氏の連合軍と厨川で最後の戦いを行い敗れ、黒澤尻柵も落ちますが、正任は出羽に逃れ、後に投稿し伊予に配流されたとされています。

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しんちゃん

金ヶ崎要害、古くは坂上田村麻呂。 (2025/01/05 訪問)

朝田さん、九州攻めてますね。というか九州コンプしたものだと思ってましたよ。このまま勢いでエリアコンプ達成しながら全国暴れまわってください。私はしばらくのあいだお休みの予定です。まあ同居人の体調次第なので、こればっかりはね~(暑いし)
でも熱中症にはお気をつけて。
古い伝承だと延暦21年(802)坂上田村麻呂が蝦夷討伐時に城を築いたとされています。前九年の役の頃、安倍貞任の叔父金為行が居城し、その後貞任の娘・白絲前が住んだと伝わります。
天正19年(1591)伊達氏により南部領の境目に金ヶ崎要害が置かれ桑折氏や留守氏が納治めましたが寛永21年(1644)伊達氏の一族大町氏が入り明治まで当地を治めたとのことです。
北上川に接する丘陵に築かれ北より二の丸・蔵丸・本丸・東館・観音館と連なっていました。余湖さんの縄張図を見ると西に枡形を備え、土塁や堀切を多用した面白そうな城だったようですが、宅地化が進み本丸らしき広い曲輪と土塁ぐらいしか印象に残っていません。でも北上川を見下ろしての眺望はなかなか良かったです。

後ろ三枚の写真は花巻市の宮沢賢治記念館の写真です。金ヶ崎城に行ってもこんな建物はありませんよっ(汗)。

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Taroken83

品川台場 (2025/03/04 訪問)

レイボーブリッジ徒歩で渡りました。
少しずつ全体が見えてくるのがワクワクします。

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朝田 辰兵衛

曲輪はみかん畑…🍊 (2025/03/22 訪問)

JR蒲郡駅より,徒歩約30分。パンフレットが赤日子神社にあります。「どうする家康」で,気になったので訪れました。紹介がなければ訪れていたかはビミョーです。曲輪はみかん畑となっていました。

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筑紫虎党

百間石垣に感動 (2024/07/15 訪問)

昨年夏、避暑を兼ねて訪れました。
山の中の壮大の石垣は最高でした

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筑紫虎党

暑いなかの感動 (2025/07/12 訪問)

7月11日、12日に訪れました。
復興天守、小天守に感動しました。
宇土櫓も早く復興してほしい

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ぴーかる

江戸城内部編 (2025/05/18 訪問)

【江戸城内部編】
2日目。朝、川崎のホテルから作延城跡に行ってから、東急に乗って大手町駅で下車し1日目始めの和田倉門跡からスタート、午前中に内濠の外側を時計回りで1周し、午後から内部観察する予定でオール徒歩、1日頑張るぞー。
 桔梗壕・巽櫓外観⇒桔梗門⇒坂下門、知らなかったのですが、それぞれ門に警察が立っていて本丸に入れない、皇居警察があるからなんですネ。この時「下調べでは本丸天守台行けたのに今日は入れない、」残念だと思ってました。⇒皇居前広場から正門・二重橋・伏見櫓外観を撮影⇒桜田門を抜けて⇒桜田壕を北上、日曜日もあって、皇居ランの人々がマラソン大会か!というくらい多くの人が、桜田門の皇居前広場(スタート地点のよう)に集まっていました。変な疑問で、マラソン経験者からすると、この人達って東京ど真ん中の皇居から走って自宅に帰るのか、わざわざお金かけて地下鉄等で帰るのか、と思いました。横道逸れました。⇒半蔵門前・半蔵壕⇒代官町通りから北の丸へ。北の丸公園・日本武道館・田安門・清水門(内枡形の石垣・門からの石段の遺構がよく残っていて門の中では1番良かった)⇒清水門から外に出て清水壕⇒竹橋御門跡⇒本丸に入れるが分かり、やったー、北桔橋門から本丸へ。
 天守台⇒富士見多聞⇒富士見櫓⇒中朱雀門跡・大番所⇒中之門跡・百人番所⇒同心番所・三之門跡⇒戻って白鳥壕⇒二の丸庭園⇒汐見坂・梅林坂⇒平川門から出ました。⇒和気清麻呂像のある内濠通りから大手壕⇒大手門前で終了しました。
 
 日本最大の巨城、全部の遺構を2日間で見るのはとても無理なのですが、ある程度の見所は計画通り見ることができました。見附跡を巡ることによって、江戸城周辺の有名な地名、どこがどの辺か少し覚える事もできたし、自分なりに十分満喫できました。1日目は大雨、この2日目はかなり蒸し暑かったのですが、昼食に丸の内のタンメンを調べていて行ったのですが、ビルごと停電中で休業、食事は2日間ともついていなかった。
 13時頃見終えて、19時の新幹線の予定でしたので、選択枝として、①東京競馬場と城びと6城 ②渋谷スクランブル交差点と城びと3城 ③百名城千葉県佐倉城の3択で、①は競馬場は行けてももう歩けない。②はすぐ見終えて時間余す。で③をチョイス。京成電車に飛び乗る。これにて東京の百・続百名城制覇。

<満足度>★★★★★

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ぴーかる

ありがとうございます🐤

朝田辰兵衛さん、祝辞ありがとうございます。着々と未登城のお城攻略されておりますネ。楽しく拝読させて頂いています。怪我・事故無くあることを祈っています。私は9月頃まで休養かもしれません。

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にのまる

登呂遺跡のあとで。 (2025/06/19 訪問)

静岡市にある登呂遺跡に行ってみたくて小田急線と東海道本線をちょこちょこと5本乗り継いで出かけてきました。

登呂遺跡は第二次世界大戦中、軍需工場建設の際に発見されたのだそうです。登呂公園自体はそこまで広くはありませんが、弥生時代の建物がここまで復元されて暮らしがわかるなんてすごいなぁ!と思いながら見学しました。

行きは静岡駅からバスに乗りましたが、この距離なら歩けるなと思ったので、登呂遺跡から駿府城までは歩いてみました。

『どうする松潤』以来2年ぶりの駿府城です。
まずは歴史博物館へ。「蔦重と一九展」は開催前でした。

東御門橋を渡り駿府城公園へ。
久しぶりに東御門と巽櫓内を見学しました。ジオラマに金箔瓦に竹千代手習いの間など、惹きつけられるものがたくさんで楽しかったです。

続いて駿府城天守台発掘調査現場へ。
ここを見るのは2度目ですが、ものすごくすすんでいてびっくりでした。暑い中作業をされている方々がお体壊されませんように。
きゃっしるのスタッフさんと金箔瓦のナゾ談義などお話ができたのも楽しかったです。
発掘によってできた大きな土の山は、発掘現場を上から見られる展望台のようなものを造る案もあるそうで、すごくいい!と思ったのですが、実現には予算とかいろいろ……あるみたいです。

園内をぐるっとまわって坤櫓、家康像、お手植えの蜜柑の木、二の丸水路、紅葉山庭園と見学しました。庭園の池の水が水路を循環していることなども教えていただき、駿府城について少し詳しくなれて、来てよかったなと思いました。

帰りはJR東海の優待券を使って小田原までこだまで帰りました。新幹線、やっぱり速い!

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村殿の城館 (2025/06/17 訪問)

 昌官忠さんの連続25日間の(東海&関西)遠征は、城びと史上の偉業ですなあ。綿密な計画作りもさることながら、そのとおりにならぬときの踏ん張りにも感服いたしました。
 佐渡ヶ島の新穂城です。説明板の地図に掲載されている多くの城館に驚きました。城主の村殿は、小さな村長さん。本間一族を中心とした、島内の争いが激しかったのでしょうか。

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イオ

技巧的な遺構 (2025/04/26 訪問)

戦国期に畠山氏に仕えた保田友宗が築いたと伝わり、羽柴秀吉の紀州攻めの後に廃城となったようです。

大きく蛇行する有田川に三方を囲まれた尾根突端の山城と南麓の居館からなる根小屋式城郭で、居館跡は小学校になっていて遺構は見られません。小学校奥の駐車場に駐めさせてもらって登場開始。駐車場から奥へ続く道をしばらく進むと、右手の斜面に竪堀らしきものが見えてきます。そこから山に取り付いて堀底を登って行くと、果たして主郭から北に続く尾根に設けられた堀切に到達。北尾根には二条の堀切があり、内側の堀切は両端から土塁をはさんでそれぞれ二条の竪堀を落としています。北尾根をもう少し進んだ先では外側の堀切が細尾根を断ち切っていました。

北尾根から戻ると主郭の西面に回り込みます。西面北部には堀切が設けられ、両端がU字状に竪堀となって落ちています。その南には(浅くなってはいるものの)畝状空堀群が斜面を埋め尽くし、うち南端の竪堀は深さも長さもあって明瞭に遺っていました。西面南端の竪堀から主郭に向かうと、あちこちに後世のものと思われる石積が見られました。戦時中、主郭には陸軍の防空監視所が置かれていたようで、その際に改変されたものと思われます。そして主郭北下の曲輪群をひとめぐりし、南麓の八幡神社に下りて行くと、水道施設跡の先に南端の堀切があり、西側では折れを設けて横矢掛りになっていました。

ひとめぐりしても1時間弱の小さな丘城ながら、堀切といい竪堀といい随所に技巧的な遺構が見られ、なかなか見応えがありました。周辺観光の定番(?)、あらぎ島とあわせて、こちらに来る機会には清水城もせひ。
 

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赤い城

松江EXPOに合わせての特別公開 (2025/06/28 訪問)

普段私有地で立入禁止の本丸と二の丸が特別公開されているとの情報を基に登城しました。
EXPOに合わせて3日間だけ公開されるとのことです。
駐車場もあり、よく整備されています。

橋を渡り南大首廓へ、土塁も整備されています。
奥のほうには櫓台跡の高まりもありました。
その先は中の丸との間の深い堀が横たわります。

方形館跡を経て先ほどの堀を横から、やはり深い。
さらに大首郭から中の丸へと進みます。
中の丸は尼子回復戦の際に山中鹿之介が捕らわれていたところと云われています。

その先、いよいよ本丸へ、ボランティアの方の説明を受けながらの見学でした。
本丸と二の丸を発掘調査し、ほとんど埋め戻されていますが一部見学可能、これもいずれは埋め戻されるそうです。
本丸と二の丸の間には堀跡がありますが、これは池だったのではないかとのこと。
縁に石積も残っています。
本丸の斜面からは石垣の築石や裏込め層の粟石が崩壊している部分が出てきており、堀跡には深い穴を見ることができます。
何かしらの建物があったと思われます。

本丸の土塁は高く、外側は崖で攻め込むのは困難。
この土塁部分も発掘の跡が公開されています。
この辺りはローム層で当時の土塁の形が明確に残っていることに感動☺️
さらに本丸に残る石列と石塁も見ることが出来ました。
築地塀と虎口、門の基礎とされていて漆喰と思われる白いものも出ています。

貴重なものを見ることが出来て感激!
関係者の皆さんに感謝し余韻に浸りながらEXPOに向かいました。
EXPOにも尾高城のブースが出ていたので感謝の気持ちをお伝えしました。

【見どころ(本丸と二の丸を除く)】
 ・中の丸を囲む深い堀
 ・中の丸の土塁

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todo94

日帰り静岡ドライブの締め (2025/07/12 訪問)

穴山梅雪の墓がある霊泉寺は小島陣屋のほど近くに位置します。当初、この日帰りドライブ最大のターゲットは小島陣屋でした。恋川春町が小島藩に仕えていたということで、べらぼう紀行に取り上げられたばかりでしたし、昨年のお城EXPOの厳選プログラムで春風亭昇太師匠が2025年のテーマは「陣屋」と予告していましたので、小島陣屋の移築復元された御殿書院はぜひ拝んでおきたかったのです。午前中に恋川春町の作品の現物を見ることができたのは、実にタイムリーだったと感じています。順路が明示されていて手入れもきちんとされていますので、夏場の攻城も暑さにさえ気を付ければ、全く問題はないかと思います。まだまだ整備の途上のようですので、何年かしたらまた訪れたいと思います。

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朝田 辰兵衛

日在城散策2/2(主郭部他) (2025/07/12 訪問)

主郭部は広くてわかりやすいですが,魅力はゴツゴツとした石垣です。当初の目的は法面保護のように思えますが,登り石垣を意識していると感じられるところもありました。尾根北側最高所は城域とは考えづらかったです。シダ類が群生しており,突き進むとマダニの餌食になるだろうと思ったため,適当なところで引き返しました。
足腰に不安のある方は,下山がかなり大変だと思います。しかし,国土地理院の地形図を見ると,ほぼほぼ山の周囲にしっかりとした道があり,そこのどこかに出れば,最悪山の周囲を1周近く廻れば来た道に出ることがわかります。とにかく,自分のフィーリングに合った下山を推奨します。ま,南側尾根を進んで行けば,大きくそれることはないでしょう。

これにて,佐賀県の城びと登録城の未投稿城を解消しました。
九州地方は,しんちゃんさんの頑張りで,福岡県と長崎県に未投稿城があるのみとなっております。

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しんちゃん

奥州藤原氏四代の祖 (2025/01/05 訪問)

豊田館は国道と県道の交差する北東側の丘陵に築かれていました。館跡には江刺市の文化財に指定されている豊田城趾碑があり、
「昔 亘理権太夫(藤原)経清の城であった、経清 平泉の役(厨川柵)で戦死し、其の子権田郎清衡、勤王の勲功があったので奥の六郡の領主としてここに居た。其の当時、北上川は豊田城のあたりを流れていて、浮梁(舟橋)と言う地名が今も残っている(中略・・・)
年を経るに従い土地の人でさえ忘れられるので、この碑を建て、後の世まで伝えるものである。」
といったことが記載されているようです。この碑が立てられたのが安永三年で関わった人物の名も記載されています。
やがて、清衡は藤原姓に戻って、平泉に戻り奥州藤原氏四代の祖となった・・と考えると「おおっ」となりますね。

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朝田 辰兵衛

日在城散策1/2(登城ルート案内) (2025/07/12 訪問)

しりとりの時から,有子山城のアプローチ手札としてロックオンしておりました。ようやく攻城機会に恵まれました。しりとりでは,城びと未登録の千葉の日在城で凌ぎましたが,スッキリはしなかったです。
いざ攻城ですが,登城口付近の「古城」と称される六角堂はありませんでした。しかし,登城口はわかります。コンクリート舗装の林道はやがて埋没状態となり,行き止まり地点から左斜面をよじ登ります。すると,本来なら続いていただろうと思われる林道に出ます。道なりに進んで行くと,砂防擁壁に突き当ります。その右側に切り立った岩場があるので,その隙間を登ると岩棚に出ます。岩棚の排水路を伝って上に出ます。そして,左へ登り続けると南側尾根に出ます。
さらに進むと,進路が間違っていないかどうかを確認できるポイントにさしかかります。岩屋のような,祈りの場か監視場かと思われる特徴的な場所が現れます。ここでかなり安堵すると思います。次は,2つの巨岩をクリアすれば城域に入ります。
定期的に登っている方や,整備されている方もいない感触です。さびしい限りです…。

ところで,ぴーかるさん,城びと登録城1000城クリア,おめでとうございます!
健康に留意して,さらなる高みを目指してください。

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しんちゃん

花巻城 (2025/01/05 訪問)

また季節感の無い写真ですみません、言わずと知れた花巻城の写真です。冬場の東北は正直、城攻めに向いているとは言えないのですが、この時期ならではの雪模様は、独特の美しさです。
本丸は鳥谷ヶ崎公園となっていて、西の入口には西御門が再建されており、御堀には石垣で固めた橋がかかっています。その先はカギ状に折れ南に曲輪が広がり、これらの空間が枡形の役目を果たしているようにも見えます。
城址南西にある大手門跡には鐘楼が建っています。ここにある鐘は盛岡城の鐘楼として正保3年(1646)に鋳造されましたが、少々小振りであったため大型の鐘に代えられ、延宝2年(1674)に盛岡藩主南部重直の許可を得て、花巻城二の丸の四角山と呼ばれる土台に設置されました。明治8年に大手門跡地に移され今に至るようです。

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