きさいじょう

騎西城

埼玉県加須市

別名 : 私市城、根古屋城
旧国名 : 武蔵

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織田晃司

模擬天守 (2023/05/03 訪問)

久々の模擬天守です。

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赤い城

模擬天守は郷土資料館 (2022/06/12 訪問)

目立つ模擬天守は郷土資料館になっていますが入れる日は限られています。
ちょうど紫陽花が周りに咲いていました。
文化学習センターが建っている辺りが天神曲輪、駐車場が二の丸になります。
それぞれ石碑が立てられています。
本丸は農耕地となっていました。
遺構は道路を挟んだ反対側に土塁が残っています。
碑が立っているところが遺構で少し低くなっている部分は復元されたものらしいです。
古河公方や上杉謙信が所有した後北条氏家臣の成田氏が居城としました。
江戸時代にも残り、騎西藩の居城となりました。
遺構も少なく模擬天守は残念な感じですが地元の誇りとなっているのは感じられました。

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新ろくべえ

騎西城に行ってきました (2022/05/04 訪問)

騎西(私市)城は1400年前後に太田氏が築いたとされる城です。
そして色々な戦国大名がここを中心に戦に臨みました。

《北条、上杉時代》
元々は足利氏の領土でしたが上杉氏、北条氏などが城主を務めました。 
 1560年に、小田助三郎が城主の時上杉謙信が関東征伐に来た時に、
一度は上杉方になりますが、兄の忍城主成田長泰が謙信に鶴岡八幡宮で、
辱められ(はずかしめられ)、北条側に離反し、助三郎も離反しました。
1563年(永禄6年)には、武田、北条連合軍に松山城を攻められ、
報復に騎西城を攻略しました。
さらに、1574年(天正2年)には北条氏照が関宿城を攻撃した際には、
騎西、古河、栗橋、舘林、菖蒲、岩付の埼玉、群馬、茨城三県の城を焼き払いました。
 その後は主だった戦はありませんでしたが、1590年に豊臣氏による北条征伐が始まると、
落城しました。

《徳川時代》
その後は徳川領となり、松平康重が二万石を拝領しおさめました。
その松平康重が1599年(慶長四年)に亡くなると、大久保忠常が2万石をおさめましたが
祖父の大久保忠隣(ただちか)が改易になると、忠常も閉門に処せられてしまいました。
その忠常は1625年(寛永2年)に赦免されると元の通り2万石を拝領し
1632年(寛永9年)に美濃国加納城に転封するまで、城主を務めました。
転封後は廃城になり、代官所がおかれました。

《現在》
近くにある郷土資料展示室は、一見天守のように見えますが、
ここには天守が築かれておらず模擬天守であり場所も昔の堀の中です。
展示室には騎西城についての展示がありますが、滅多にあくことはありません。
入りたいのでしたら、事前に調べることをお勧めします。
唯一の遺構は天神曲輪あとの土塁しかなく、それ以外は何もありません。


【城情報】
・形式       ❙平城(沼城) 
・築城年      ❙1400年前後
・廃城年      ❙1632年(寛永9年)
・築城者      ❙はっきりとしていない
・最後の城主    ❙大久保忠隣
・廃城理由     ❙大久保忠隣が美濃国加納城へ転封になったため
・主な城主     ❙足利氏→佐々木氏→小田氏→成田氏→小田氏→松平康重→大久保氏
                   ❙    北条氏    ❙ ❙  徳川氏   ❙
・遺構       ❙土塁
・主な建築物    ❙郷土資料展示室
・説明看板、石碑  ❙両方有
・駐車場、トイレ  ❙両方有 (トイレは資料展示室横の生涯学習センターで)
・天守       ❙模擬天守(郷土資料展示室)
・保存状態(自身判断)❙遺構が少なく、模擬天守と思われる展示室が堀の中にあるため
          ❙普通
・備考       ❙・沼を利用した城
          ❙・すべての曲輪が、何処なのかよくわからない

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響ちゃん

早朝に訪城 (2022/05/06 訪問)

お仕事で近くに来たので行ってみたぽい

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城郭情報

分類・構造 平城
天守構造 独立式層塔型[3重3階/1975年築/RC造模擬天守]
築城主 不明
築城年 不明
主な城主 小田氏、松平康重、小笠原氏
廃城年 寛永9年(1632)
遺構 土塁、横堀(空堀)
指定文化財 市史跡(騎西城土塁跡)
再建造物 模擬天守(郷土史料展示室)、石碑、説明板
住所 埼玉県加須市根古屋(地図は本丸跡を示す)
問い合わせ先 騎西教育事務所
問い合わせ先電話番号 0480-73-1111