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朝田 辰兵衛

台風一過のムシ暑さ…☼ (2026/06/28 訪問)

なんとか大阪までたどり着きましたが,台風一過のムシ暑さにカラダがついて行きません。朝は,右足のふくらはぎがツリました。この日は大阪で所用もあったので,手ごろな城にとどめました。
まずは,天王寺城。

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北ノ庄城 (2026/07/09 訪問)

 近くまできたので寄ってきました。柴田勝家によって築かれた城で、城びとには未登録です。賤ヶ岳の戦いで羽柴秀吉に敗れた勝家が妻であるお市の方とともに自害した城でもあります。柴田公園として整備されています。

 昼飯は福井駅近くの「あみだそば福の井」さんで越前おろしそばをいただきました。

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本願寺第八代蓮如上人 (2026/07/09 訪問)

 文明3年(1471)本願寺第八代蓮如が北陸の布教の拠点として建立しました。しかし文明7年(1475)蓮如は吉崎御坊を離れ、その後、永正3年(1506)朝倉氏によって吉崎御坊は破却されています。跡地には高村光雲作の蓮如像が立っています。
 

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トク

15【秀長の因幡平定をたどる④】太閤ヶ平(豊臣秀吉陣跡) (2026/05/16 訪問)

秀長の陣跡からさらに歩き続ける事20分、ついに本陣山山頂(標高252m)の秀吉陣跡(太閤ヶ平)へ到着しました!(写真⑧)。

太閤ヶ平は、一辺50mの方形に高さ5mの土塁に囲まれ、さらに土塁→堀→土塁→堀と、二重の土塁と堀に二つの櫓という構造で築かれていたようです(写真⑥縄張図)。今はだいぶ風化しているので1~2mくらいしかないですが、当時はもっと高い5m程の土塁ともっと深い堀で、さらに土塁の上には塀が作られ、二つの櫓からは久松山まで監視できた、かなり強固な陣城であったようです(写真①②は虎口と土塁、写真③は土塁と堀、写真④は居館跡)。

秀吉は経家が、文武を備えかつ民をも思う立派な武将である事に気づいていました。よって降伏すれば、経家と城兵と民の命は全て保証すると、何度も手紙を書いて送ったそうです。しかし、さすが毛利の重臣である経家は断り、自分の命と引き換えに城兵と民の命は必ず救ってほしいと言い残し、切腹したそうです(享年34)。

木々の隙間からは、久松山(鳥取城)が見えました(写真⑦)。当時は木々などなかったので、もっとよく見えたと思います。久松山をぐるりと取り囲み、経家に手紙を送り続けた秀吉は、どんな思いでここからあの久松山を眺めていたのでしょうか? きっと経家を本当は、自分の家臣にしたかったのではないでしょうか・・・🤔。

太閤ヶ平で休憩・散策しながら30分過ごした後は、先人方の情報を参考に、東照宮を目指し舗装路を1時間20分かけて下りました。下りなので一見楽そうですが、下りのアスファルトの固い地面は疲れた足に結構きました(笑)。下りた先の東照宮で登山の無事に感謝し、休憩を兼ねてその前にある「鳥取市歴史博物館(やまびこ館)」を無料だったので見学しました。でも予想に反しここは必見です! 鳥取城の戦いの様子がジオラマや資料で詳しく解説されていて、また鳥取城の歴史や池田家の事なども詳しく展示解説されていました(写真⑨)。

最後に、博物館の前にあったバス停(くる梨赤コース)から、鳥取駅に戻りました。鳥取駅を9時に出発し、16時に鳥取駅に帰着。私は健脚でなくゆっくりペースで寄り道も多いので結局7時間もかかってしまいましたが、攻めきったぞ~!(=歩ききったぞ~!)と大満足の鳥取城攻めでした😊(コースは前回図⑧参照)。

鳥取駅から16:25発の智頭急行「特急スーパーいなば6号」岡山行に乗り、駅で有名なお土産「因幡の白うさぎ」を買って車内で食べました。さすがお土産全国NO1と書いてあった商品です。ほどよく甘い味がビールにもよく合い、疲れた体を癒してくれました😊(写真⑩)。

次は、秀吉・秀長が毛利本軍と対峙した「備中高松城」へ向かいます。
 

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イオ

尼子城(滋賀県犬上郡甲良町尼子) (2026/01/04 訪問)

尼子城(城びと未登録)は、南北朝期に佐々木高久が築いた城館で、高久は地名から尼子氏を称しました。その後、高久の嫡男・詮久が尼子館を継いで江州尼子氏の、次男・持久は出雲国守護代となって雲州尼子氏の祖となりましたが、江州尼子氏はやがて没落し、尼子城も廃城となったようです。

在士館から徒歩で登城しました。城跡のほとんどは住宅地と農地になっていますが、竹藪の中に遺っていた土塁と堀が土塁公園として整備されています。土塁は北から南に二度の折れを設けてのび、その外側に横堀が続いています。土塁に施された石積みは公園整備によるもので、堀幅も往時より狭くなっていると思われますが、こうして明瞭に土塁と堀が見られるのはありがたいことですね。公園内には尼子氏の城(館)跡の土塁公園の説明板、尼子氏発祥の地の看板も立てられています。

土塁公園の周辺にも尼子城の痕跡が見られます。土塁公園から西に約150mの殿城池は尼子城の堀跡とされ、案内表示と説明板が立てられています。殿城池の祠には尼子城落城時に入水したとされる八千姫が祀られ、姫の後を追って入水した侍女・お園を憐れんでお園堀とも呼ばれているようです。かつては殿城池の西側から北に堀が続いていたようですが、通り沿いの幅広い水路は堀の名残でしょうか。また、土塁公園から北西に約80mの住泉寺西側に続く竹藪は土塁跡と思われます。

在士館のすぐ近くだし、ついでに…程度の軽い気持ちでしたが、土塁公園も殿城池も思いのほか見応えがありました。在士館とあわせてどうぞ。
 

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赤い城

山中幸盛屋敷跡、奥都城 島根県安来市 (2026/06/28 訪問)

新宮党館跡の周辺には毛利元秋や堀尾忠氏の墓などいくつか史跡があります。
そのうちいずれも城びと未登録の山中幸盛屋敷跡と奥都城に立ち寄りました。

山中幸盛屋敷跡は駐車場からすぐ、民家の脇に登城口があります。
少し登ると獣避けの柵があり、開けて入りました。
ここにも訪問ノートがあったので記帳しておきました。
山中幸盛の生誕地、綺麗に整備されていて建物の礎石があります。

ここから少し歩いたところに奥都城があります。
新宮党の城で尼子氏一族の墓所があります。
裏手に回り少し登ってみましたが山頂部まで行くのは自重しました。

ちなみに新宮党館他尼子氏の拠点があるのは今は安来市になっています。
どじょう掬いの安来節で知られています。
問題は読み方、多くの人は「やすき」と読まれますが正確には「やすぎ」、濁ります。
間違えないで欲しいな〜、と。

【見どころ】
 ・整備された山中幸盛の屋敷跡
 ・奥都城にある尼子氏一族の墓所

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蜻蛉切

柳之御所跡 (2026/07/03 訪問)

毛越寺と中尊寺と義経堂とまわって、柳之御所跡を見て来ました。奥州藤原氏の居館跡です。常滑や渥美、愛知県域の窯跡からもたらされた甕や器が出土してるのが印象的でした。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征18日目:寺山城 (2026/05/28 訪問)

生城山城から車で10分弱で、東広島市内中集会所入口(34.496893、132.697100)に着きました。
そこから、寺山城跡入口(34.498227、132.699034)まで徒歩2~3分くらいで着きます。

寺山城は石井氏によって築かれ、桓武平氏の出である名越太郎が元弘年間(1331~1334)に志芳荘に移り住み石井氏の祖となったとされています。
大内氏に属して各地で活躍したが、1554年(天文23年)陶晴賢について岩見津和野に出陣中の留守を陶晴賢と断交した毛利元就によって攻められ落城したそうです。

寺山城跡入口付近で撤退です。
計画ミスのリカバリ(当初3時間)要の残り20分を寺山城でリカバリしました。リカバリは完了しましたが、何か空しいです。
千葉県から遠征してきているので何度も来れないので、なるべく多くのお城攻城と思っていますが、城跡入口付近の撤退って意味があるのか疑問です。
攻城時間は10分くらいでした。本日の城巡りは、ここがラストです。
本日の宿泊先に向かう為、西条駅でレンタカーを返却した後、西条駅からJR山陽本線を利用して徳山駅に向かいました。
歩行歩数=32978歩、歩行距離=23.0Kmです。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征18日目:生城山城 (2026/05/28 訪問)

八条原城から車で10分弱で、光源寺入口(34.486096、132.674757)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、戦国時代に天野興定によって築かれたと云われています。
天野氏は代々大内氏に従っていましたが、興次の子興定のとき、尼子氏が安芸に侵攻すると、他の諸将とともに尼子氏へと移りました。
1524年(大永4年)大内義興・義隆父子は安芸に侵攻し、陶興房が米山城を取り囲みますが、毛利元就が仲介となり、天野氏は米山城を明け渡し和睦となりました。
その後、興定は陶興房とともに各地を転戦し戦功をあげ、間もなく米山城に復帰しました。
大内義隆が陶晴賢に討たれると毛利氏に従って厳島合戦に従軍し、尼子氏の出雲国富田城攻めでも軍功をあげました。
1569年(永禄12年)天野元定は筑前国立花の陣で病を発し帰国後病没。元定には嗣子なく毛利元就の七男元政を養子として迎えました。
関ヶ原合戦後、防長二ヶ国に減封となった毛利氏に従い、はじめ周防国三丘、後右田へ移り16,000石余りを領し、毛利氏に復姓して右田毛利氏の祖となったそうです。

説明板と光源寺の写真を撮って撤退しました。
計画ミスのリカバリ(当初3時間)要の残り1時間20分を生城山城で1時間リカバリしました。残り20分です。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=寺山城に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征18日目:八条原城 (2026/05/28 訪問)

槌山城から車で30分弱で、志和神社鳥居前(34.490947、132.642626)に着き、そこに路駐しました。

1868年(慶応5年/明治元年)戊辰戦争が勃発すると、広島藩は戦乱の拡大と外国の干渉など、不測の事態に備えて、秘密裏に志和の地に築城することを決定しました。
築城は急ピッチで進められましたが、戊辰戦争の沈静化によって、築城は中止され、城地や施設は払い下げられました。
城地は払い下げられた後、現在は志和神社やJA広島志和ライスセンターとなっています。

志和神社の参道に案内板と石碑があります。
当初の予定では、西条駅でレンタカーを返却した後、徒歩5分ちょっとの教善寺山門前(34.431750、132.744191)に行き、八条原城(移築建物)を見る予定でしたが、これも中止です。
計画ミスのリカバリ(当初3時間)要の残り1時間40分を八条原城で20分リカバリしました。残り1時間20分です。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=生城山城に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征18日目:槌山城 (2026/05/28 訪問)

松尾城から車で35分くらいで、長寿の森駐車場入口(34.393704、132.653558)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、南北朝時代に大内氏によって築かれたと云われています。
1523年(大永3年)鏡山城が尼子経久によって落とされると、1525年(大永5年)以降、大内氏の拠点は杣城(曽場ヶ城)、その後槌山城に移されました。
1543年(天文12年)大内氏は守護代の弘中隆兼を槌山城に派遣し、1550年(天文19年)頃まで槌山城を本拠として芸備両国を支配していました。
1551年(天文20年)陶晴賢が大内義隆を討ち大友家より義長を迎えると、これに従わない菅田氏を陶晴賢の命を受けた毛利隆元に攻め落とされました。
1555年(弘治元年)厳島合戦で陶晴賢を滅ぼした後は、小早川氏が管理していたが、「当国守護山」ということで、毛利氏に移管されたそうです。

長寿の森駐車場到着時、攻城計画書に到着時間を記入した際、計画書の到着時間と出発時間の時間が逆転していることに気が付きました。
3時間も出発時間が早くなっていました。計画変更時、エクセルでコピーミスをしたようです。
予定では駐車場から、登城口/説明板(34.393965、132.654606)に向かい、山頂まで遊歩道を歩き槌山城攻城後、鬼ヶ丸城(城びと未登録 広島県東広島市)に徒歩で行くつもりでしたが予定変更です。
槌山城は登城口で引き返し、鬼ヶ丸城(城びと未登録 広島県東広島市)の攻城は断念しました。
3時間をリカバリする為には、この後の攻城予定も変更が必要です。
何としても、西条駅から徳山駅へ向かう電車に間に合わせなくてはいけません。
計画ミスの3時間を槌山城と鬼ヶ丸城(城びと未登録 広島県東広島市)で1時間20分リカバリしました。残り1時間40分です。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=八条原城に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征18日目:松尾城 (2026/05/28 訪問)

木村城から車で35分(ナビがすごく狭い道に誘導する為、到着に時間がかかった)くらいで、空スペース(34.343809、132.814264)に着きました。
そこから、登城口(34.344904、132.813219)まで徒歩2~3分くらいです。

築城年代は定かではないようですが、永禄年間(1558年~1570年)戦功を挙げた 竹原小早川家の家臣行友光叔の居城だったそうです。

現在城址には曲輪や堀切のほか、石垣などの遺構も確認することができます。
城壁に大きな岩が活用されています。
攻城時間は45分くらいでした。次の攻城先=槌山城に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征18日目:木村城 (2026/05/28 訪問)

松ヶ嶽城から車で20分くらいで、登山口付近(34.381179、132.894951)に駐車しました。

1258年(正嘉2年)小早川政景によって築かれたと云われています。 政景は沼田小早川茂平の4男で都宇竹原荘を与えられ竹原小早川家の祖となりました。
1541年(天文10年)13代の興景が佐東銀山城攻めの陣中で病死すると、興景の夫人が元就の姪であった縁で1544年(天文13年)毛利元就の三男隆景が12歳で竹原小早川家14代を相続し木村城に入りました。
1550年(天文19年)には隆景は本家沼田小早川繁平の養子となり、本郷の高山城に移るまでの約300年間竹原小早川家の本拠として使用されました。
その後も高山城、新高山城の支城として使用されたようですが、廃城年は定かでないようです。

登山口案内標識付近が工事中。工事用のコーンをすり抜け登山口に向かいました。
登山口には城跡碑と説明板があり、整備された山道で山頂の本丸までは約15分ほどで着きます。
登山口から標識が随所にあるので、わかりやすいです。まあまあの傾斜を登ります。
流石竹原小早川氏の本拠地です。全体的な加工度が高く切岸や土塁、竪堀は見事でした。
攻城時間は40分くらいでした。次の攻城先=松尾城に向かいました。

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小城小次郎

黒駒の戦い (2025/09/07 訪問)

すり鉢状の甲府盆地のすり鉢の壁の中腹あたりにある小山城は若彦路と御坂路という二つの主要街道のどちらにも睨みが効く絶妙な立地だった。この城を出撃した鳥居元忠は御坂路を越えてきた後北条勢を粉砕している(黒駒の戦)。

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坂本城跡国史跡指定記念シンポジウムのこと

 「厳正なる抽選の結果、誠に残念ながら、落選されましたことをお知らせいたします。」と連絡がきました。城びとの皆様はいかがでしょう。
 発掘説明会に2日で2000人来たのに、シンポジウムの定員は450人って、おかしいでしょ。こうなると予想の上、「応募者多数につき、急遽、広い会場に変更しました」となることを期待してたのですが、予算の縛りですかね。あかんなあ。

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蜻蛉切

二俣城 (2026/07/08 訪問)

二俣城に行ってきました。
石垣・土塁・堀切・天守台がしっかり残っています。
井伊家の菩提寺、龍潭寺と合わせて行くのがおすすめです、

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近くのヤマザキマザック博物館もどうぞ (2026/06/28 訪問)

 加治田城の佐藤氏と織田軍に攻められ、奮闘するも落城した岸氏 堂洞城。加治田城からは見下ろされる高さですが、主郭から麓を見るとけっこうな高さがありました。濃尾平野周縁の険しい山は、チャートからなっていることが多いですが、堂洞城は、角礫岩。主郭の切岸に、石骨材入りコンクリートと見まがう、角礫岩の露頭があり、小さな崖になってました。切岸は、急斜面です。主郭には、真新しい説明板あり。
 城びと先人に倣い、給水塔前まで、車で行き、ゴルフ場へのゲート前に路駐。そこからは、ほぼ水平移動でした。
 近くに、工作機械メーカーのヤマザキマザックの博物館があります。工作機械およびそれらで作られた(であろう)機械を展示しています。量も内容も豊富。OBの技術者の解説もあり、とても充実してました。蒸気機関車の運転席に座り、汽笛を鳴らすこともできます。

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イオ

在士館(滋賀県犬上郡甲良町在士) (2026/01/04 訪問)

在士館(城びと未登録)は、詳細は不明ながら藤堂景盛が室町期に築いた城館とされます。

館跡は住宅地になり遺構は消滅していますが、一部が藤堂高虎公出生地として整備され、石碑や説明板が立てられています。館跡から北東すぐの藤堂高虎ふるさと館 和の家には高虎に関する資料が展示され、土産物の販売もされているようですが、訪問時は年末年始休館中でした。また、和の家の前には高虎がしゃべる自販機がありました。戦国武将がしゃべる自販機を見たのはこれで3例目です。

続いては、和の家の駐車場に駐めさせてもらって周辺を散策します。館跡から高虎の道と呼ばれる道をはさんだ北側の在士八幡神社は、藤堂景盛が石清水八幡宮から分祀を受けて創建した藤堂家の守護神です。高虎の道を東に進むと、在士高虎公園には高虎公騎馬像が立てられ、高虎公ゆかりの大坂城残念石や駒止め石が設置されていました。

訪問時は「豊臣兄弟!」放送開始前だったからか訪れる人の姿もなく、のぼり旗も見かけませんでしたが、高虎もドラマに登場して活躍している今頃はもっと賑わっているでしょうか。

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赤い城

尼子氏の精鋭 (2026/06/28 訪問)

帰省2日目は午後に所用を入れていたので朝駆けで城を攻めました。
目的は月山富田城ですがその前に立ち寄りました。
月山富田城の北東部に位置する尼子国久の新宮党の館跡です。
駐車場は少し離れた山中幸盛屋敷跡の前にあります。

新宮党は尼子氏の戦闘部隊として武功を挙げていましたが晴久により粛清、その後尼子氏は弱体化してしまいました。

入口に石碑が立ち、鳥居をくぐると段になった切岸があります。
登ると広い削平地がありここが館跡です。
太夫神社が鎮座し、側に新宮党一族の墓石がありました。
太夫神社には登城ノートも置いてあるので記帳しておきました。
それらしい遺構は残りませんが国久の無念を感じることは出来るかも?

【見どころ】
 ・広い削平地
 ・段のある切岸

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征18日目:松ヶ嶽城 (2026/05/28 訪問)

白山城から車で20分ちょっとで、竹林寺参拝者駐車場(34.458987、132.876533)に着きました。

1256年(建長8年・康元元年)大多和季盛によって築かれたと云われています。
大多和氏は季盛、為盛、八郎太郎入道と三代続きましたが、1353年(正平8年・文和2年)大多和八郎太郎入道は北朝方に敗れて自刃しました。
この功によって1354年(文和3年・正平9年)平賀遠江兵衛蔵人貞宗に安芸国入野郷(大多和八郎入道、小池大輔芳等の跡)を恩賞として足利尊氏より宛がわれています。
1395年(応永2年)平賀真宗の次男次郎時宗が入野郷地頭となり、松ヶ嶽城を居城として入野氏の祖となりました。
入野氏はその後、加賀守宗継、宮内少輔宗政、出羽守宗永、左衛門大夫保継と続きます。
1518年(永正15年)入野保継は惣領家を離れて小早川氏に従おうとし、平賀弘保・興貞父子に攻められ松ヶ嶽城で自刃しました。弘保は次男民部少輔貞景を入野氏の後継としています。

山頂近くの竹林寺まで車道が付いており、近くまで車で登ることができます。
城跡へは竹林寺の仁王門前から道標が出ており、それに従って降って行けばたどり着きます。
曲輪内は雑木林で歩くのに苦労しますが、中央付近にある石組井戸までは歩きやすくなっています。
攻城時間は45分くらいでした。次の攻城先=木村城に向かいました。

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