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朝田 辰兵衛

新潟城下(古町6番町)に,タレかつ丼の聖地アリ💥 (2024/07/16 訪問)

にのまるさんの新潟市レポートに、須坂屋のそばとタレかつ丼のセットのグルメ情報がありました。このタレかつ丼発祥の地が新潟城下(古町6番町)にあります。「とんかつ太郎 古町本店」です。ソースは使用してなく,醬油ダレで甘辛いのが特徴です(継ぎ足しの秘伝ダレ)。肉は国産豚モモ肉を使用。サラダ油は使ってなく,ピュアラード100%です。シャリは当然ですが,新潟産コシヒカリを使用。
せっかくなので,聖地「とんかつ太郎 古町本店」のタレかつ丼の画像をアップします。
新潟駅周辺でそばとセットなら,(にのまるさんが食された)須坂屋がリーズナブルでおすすめです。小洒落た雰囲気がお望みなら長岡小嶋屋が新潟駅ビルCoCoLoに2店舗も入っています。タレかつ丼のみなら,とんかつ太郎のお弟子さんが開いた「とんかつ政ちゃん」が東横インのすぐワキにあります。

城びとスタッフのみなさま…
どのような経緯でかるたの商品化にこぎつけたかは,全てを公開できない事情もおありかと思います…。
まずは素直に「おめでとうございます!」とお伝えします。
続報ならびに横浜でのスケジュール公開をお待ち申し上げます。
個人的には,かるた大会よりも(みなさんにお会いできるという)オフ会的な期待のほうが大きいです。

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ぴーかる

岩崎城 (2024/05/25 訪問)

【岩崎城】
<駐車場他>岩崎城趾公園駐車場(北側)20台あり。
<交通手段>車

<見所>空堀・土塁櫓台・歴史記念館・模擬天守
<感想>日帰り濃尾平野ちょこ城巡りの旅、第3弾8城目。現地で頂けるパンフレットによると岩崎城は享禄年間(1528~1531年)に織田信秀が砦を築いたのが始まりと考えられます。1529年ごろに松平清康(家康の祖父)によって攻め落とされます。1535年に守山崩れで松平清康が暗殺されると城兵は撤退して無人化してしまいます。近くの豪族本郷城主の丹羽氏清が入城し砦を修築して城主となります。以降4代にわたって丹羽氏の城となり関ヶ原の合戦後4代目の氏次は伊保藩の藩主として転封となったため岩崎城は廃城となりました。
 また小牧長久手の戦いでは徳川方として池田恒興軍を相手に戦いましたが多勢に無勢、城主の弟、丹羽氏重以下城兵300名は討死して落城してしまいました。

 城跡は平山城となっていますが丘城程度の微高地ですぐ登れます。城跡の南側半分が主郭部分で主郭南側は急な切岸であったようです。主郭北側に大空堀が縦断していて二郭と他の曲輪を大きく分断しています。なかなか見応えがあります。二郭は現在小庭園になっていますが西側に土塁が残り、二郭の西側にも堀切があり、その西側に縦長の曲輪(空堀から土手を登ります)があります。主郭跡には歴史記念館・模擬天守・土塁櫓台跡・隅櫓跡礎石・井戸跡・古墳跡があり見所が沢山あります。歴史記念館は無料で入館でき、展示資料が充実しています。非常に立派な岩崎城のパンフレットが無料で頂けるのが凄い。南東隅にある模擬天守は南蛮造り、下部に城門を備えて入口から見た感じがなかなかいいです。ちょこ城では無かった、いい遺構の残し方と素敵な模擬建造物があるなかなか楽しめる城跡で、今回の旅で1番よかった城跡でした。

<満足度>◆◆◇

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まさお

茨城 笠間城 (2024/07/22 訪問)

土浦城から国道6号・355号経由で笠間市へ。
途中の「道の駅かさま」は来客でいっぱいのようでした。
かさま歴史交流館でスタンプをもらい、笠間城の
登城口に移動、来訪者は私以外誰もいませんでした。
登城を開始して数分後にやぶ蚊の大群に襲われて
登城を断念しました。
ここは夏特に猛暑の時期は避けたほうが良いと
思います。

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まさお

茨城 土浦城 (2024/07/22 訪問)

自宅から外環道・常磐道経由で約1時間半で到着しました。
猛暑のためか、ほとんど人出がありませんでした。

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イオ

とことん江戸城・番外編(寛永寺) (2024/05/28 訪問)

増上寺に続いては同じく徳川将軍家菩提寺である寛永寺へ。昨年は早朝に訪れて開門時間前で入れなかったので、今回は仕事を終えて東京駅に向かう前に立ち寄りました。

かつては上野の山全域が境内地だった寛永寺ですが、幕末の上野戦争で全山焼失し、北側の徳川将軍家墓所近くの現在地に移って本堂にあたる根本中堂が再建されています。境内には旧本坊表門と根本中堂の鬼瓦が説明板とともに展示され、上野戦争碑記の石碑が立てられていました。また厳有院(四代・家綱)霊廟の銅鐘が移設され、除夜の鐘などに使用されているようです。

寛永寺には六名の徳川将軍(四代・家綱、五代・綱吉、八代・吉宗、十代・家治、十一代・家斉、十三代・家定)が埋葬されていますが、御霊廟のほとんどは戦災で焼失しており、家綱と綱吉の霊廟の勅額門と水盤舎が現存するのみです。御宝塔は遺っているはずですが、墓所は非公開のため拝観することはできませんでした。「篤姫」の再放送を観ている最中なので温恭院(家定)と隣り合っているという天璋院(篤姫)の墓所や、和歌山県民として有徳院(吉宗)の墓所にお参りしたいところでしたが…仕方ありません。墓所は石垣で囲まれていて、石灯籠も石垣沿いに並んで建てられていました。

そして上野駅に向かう途中に黒門と呼ばれる旧本坊表門を見ようと輪王寺に向かいましたが、閉門時間(16時)を過ぎていたため、柵越しに見られたのみでした。上野戦争での弾痕を見てみたかったのですが…。



ところで……
日本100名城かるた、商品化おめでとうございます! CFで少なからぬ人から熱烈に支持されていることを目に見える形で示すことができたのが効いたんでしょうか。達成はできなかったとしても、頑張ってきたことは無駄にはならないんだなぁ……ありがとうございます。続報を楽しみにしております。
 

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todo94

2巡目の続日本100名城のスタンプラリー77城目 (2024/07/13 訪問)

駆け足での城めぐりの締めは、続100名城の久留米城。何とか、天気が持ちこたえてくれました。ここから新鳥栖駅のレンタカー営業所に向かう途中でかなり強い雨が降って来たので非常にラッキーだったと思います。この日のホテルと翌日のレンタカーは前日にキャンセルしておき、博多に泊をとりました。翌日、九州北部は大雨に見舞われたのですが、その前に帰路に着き、無事、帰着することができました。

※日本100名城かるたの商品化決定、おめでとうございます。かるたが販売されるその時を首を長くして待ちたいと思います。今年のお城EXPOで大々的に宣伝されることを強く希望いたします。昨年のお城EXPOで城びとブースに赴きながら、かるたの現物を拝むことのできなかった私のような人も結構いると思いますので。

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赤い城

境目七城のひとつ (2024/07/07 訪問)

JR庭瀬駅から徒歩で10分、駐車場も完備されています。
秀吉の中国攻めでは境目七城のひとつとして毛利氏の防衛拠点となりました。
江戸時代には庭瀬藩の陣屋となっています。

駐車場から北に進むと大手門跡があり水堀の機能を持つ水路が走ります。
大手門の近くには復元された庭瀬港の常夜灯、このクリークエリアが瀬戸内海に繋がっていたこともわかります。

陣屋の中心部の中島には弁天宮が鎮座しています。
隣の清山神社にも石碑があります。
周囲の堀には大賀ハスも、登城時はまだ数輪咲いているのみでした。

100名城かるた、商品化決定おめでとうございます🎉
かなりの営業力が必要だったかと。
詳細の発表を心待ちにしてます!

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にのまる

城の香りの残るまち (2024/06/23 訪問)

山形城、米沢城、上山城と、山形新幹線沿線のお城を訪問した際、新庄城にも行けないものかと時刻表と睨めっこしたことはあったのですが、タイトな行程になりそうで見送っていました。
しかし〈いつか〉は向こうからはやってきてくれないもの。気になるところは行ける時に行っておこうという気持ちと山形新幹線完乗目的もあり出かけてきました。

 狙いはこの春デビューのE 8系でしたが満席だったのでE 3系で出発。帰りは臨時快速の陸羽東線で仙台経由で帰ることにしたので新庄滞在時間は1時間半。この規模のお城の見学時間としてはギリギリ最低ラインといったところです。
それなのに!新庄駅に着いたら先に出たE8が待機していて、E3と並んだ姿があまりにかわいくて離れがたくなり…。写真を撮ったり秋田方面へ向かう奥羽本線を見送ったりしているとどんどん時間が過ぎていってしまいました😱

新庄駅から新庄城までは徒歩10分強。大通りをまっすぐです。途中に三の堀跡、二の堀跡の標柱があり、本丸へ向かっているのを実感できました。標柱がなかったらただ通り抜けていただろうと思うので、ありがたいです。

三の丸と二の丸の間にある少し広めの交差点が鉤型になっていて、思わず足を止めてしまいました。ほかの町でも何度も見てきたこの感じ…。古地図で確認してみると大手口と一致しそうです。
実に感慨深い…。行きも帰りも立ち尽くして車の往来をしばし眺めておりました。
初めて訪れる町の静かな通りをワクワクしながら眺め歩くこのひととき。人生の忘れられない時間、大切な思い出になります。

新庄城は〈最上公園〉として整備公開されていました。しっとりと雨に濡れる紫陽花は町のシンボルでもあります。
園内は水堀に土塁、表御門石垣と城の痕跡がしっかりとありました。土塁の上、隅櫓跡の窪みは二層の武器櫓があった名残り。ここがいちばんリアリティがあり、印象深かったです。
二の丸跡から水堀沿いを歩き、北側の裏御門、大納戸跡の方へ行ってみました。方形の近世城郭を思い描きながら歩いていると往時の姿が浮かび上がってきます。

駅へ戻りつつ市役所へまわってみると「新庄開府400年」の大看板が掲げられていました。来年が400年の記念の年だそうです。通りの地面に敷かれた町の伝統を表現したタイルなどからも歴史を大切に守っていこうとしていることが伝わってきました。

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小城小次郎

見附出丸の見どころ (2024/01/14 訪問)

広大過ぎて一度に全部は見切れないお城なのだが訪れる人が少ない見附出丸を敢えてご紹介。本来の城道を辿るだけでなく旧城道と無関係の遊歩道がいかに虎口っぽく見えるかというだけでも勉強になると思う。

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しんちゃん

奇跡が起きました。 (2024/02/25 訪問)

「日本100名城かるた」商品化決定おめでとうございます! 私しんちゃんも歓喜の涙が止まりません(おいおい‥)。
まさに不死鳥! フェニックス爆誕です! 
じつは私、ぎりぎりで一個購入しただけなんですけど‥でもささやかながら応援はしています。楽しみですなあ。

中野城の投稿です。天正5年(1577)織田信長が和泉山脈を越え侵攻してきた際に、雑賀衆がこの城に立て籠もって応戦したとのこと。貴志南小学校とスーパーオークワの間にフェンスで仕切られた通路があり、そこに面した民家の前に案内板と標柱が設置されています。かつては平野部の中に高さ80cmほどの状態で残されていたようですが、すっかり宅地化と開発が進み往時の面影はありません。城郭大系の写真と見比べると、例の通路がかつての堀跡の名残のようです。変わりましたなあ。

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零汰

公園内にあります (2024/05/21 訪問)

万事屋銀さんでお馴染みの洞爺湖から南に直線距離10km程度にある館山公園内にあります。

駐車場に苦労されるかもしれません。住宅街をグルグル回って家の隙間にある通路から入って行きました。
砦の曲輪部分は加工されていて辛うじて濠が残せたって感じに見受けられました。
濠には勾配が付いていて水下端部は崖との縁を切っていますが、水上は途中から始まっています。
曲輪部分を平らに加工したいが為に濠の水上端部を削って高さを揃えたのだろうと思います。
濠内は写真の如く若い樹木が育っています、二重濠なのですが全く全貌を伝える事が出来ません。

気になった方は、洞爺湖で木刀に名前を刻んで購入した後に肉眼で二重濠を見て頂くと幸いです。

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つ、ついに! 「日本100名城かるた」商品化が決まりました!

皆さまに熱く熱くご支援いただいた「日本100名城かるた」クラファンが終わってから約1か月半。
水面下で足をバタバタさせまくっていた編集部、ついに、商品化決定にこぎつけました!!
皆さまの応援が大きな後押しとなりました。
どうもありがとうございます。
詳細は決まり次第、お知らせしてまいります!

https://shirobito.jp/article/2012

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しんちゃん

天守台野外展示プロジェクト (2024/07/13 訪問)

伊豆攻めの前に駿府城に寄ってきたので、公式に便乗して投稿しちゃいます(おいおい‥)。天正期の天守台と慶長期の天守台が同時に発掘されており並べて鑑賞することが出来ます。天正期の天守台は家康公が関東に移封される前に築かれたとされ、慶長期天守台は家康公が秀忠公に将軍職を譲って隠居した際に再び築かれたもので、約55m×48mという非常に大きなものになりました。
復元された東御門内では江戸期大天守台とともに出土した金箔瓦の展示などがされています。

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駿府城

駿府城跡天守台野外展示プロジェクトへのご支援をお願いします

駿府城跡(静岡市葵区)では、近年の天守台発掘調査で、徳川家康公が築いた2つの天守台や金箔瓦など、重要な発見が相次いでいます。これにより天下人家康公の一生や歴史のストーリーを現地で体感できる唯一無二の文化遺産として高く評価されていますが、それだけでは駿府城や家康公の歴史を十分に体感することはできません。
そこで、訪れる方が歴史を楽しく体感し、歴史散策を楽しめるように、現在駿府城跡天守台野外展示プロジェクトに取り組んでいます。
駿府城跡天守台野外展示プロジェクトの詳細につきましては、こちら(https://www.city.shizuoka.lg.jp/s6725/s013130.html)をご覧ください。
文化遺産とデジタル技術を融合し、「ありし日の駿府城」の姿を再現し、子どもたちの学びや県内外からの観光などに活用するプロジェクトに、ぜひご支援をお願いします。

今後も駿府城跡天守台野外展示プロジェクトに関する取り組みの様子や最新情報など静岡市公式ホームページ【文化財ブログ】(https://www.city.shizuoka.lg.jp/s6725/s012603.html)で更新予定ですのでぜひご覧ください。

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イオ

とことん江戸城・番外編(増上寺) (2024/05/28 訪問)

今年もこの時季の東京出張が決まりましたので、とことん江戸城の続きを。といっても、過去2年で主なところはだいたい行っているので、城めぐりというよりゆかりの寺社めぐりですが…。

まずは昨年断念した芝の増上寺から。江戸城とは直接関係ありませんが、徳川将軍家の墓所とあらば行かずばなりますまい。JR山手線・浜松町駅から歩いて行くと、大門を過ぎて突き当りに三門と呼ばれる三解脱門が聳えています。江戸初期建立の朱漆塗・三戸二階二重門で、将軍家の威光を示すためでしょうか、唖然とするほどの巨大さです。増上寺の建物は戦災によって多くが焼失していますが、境内の水盤舎は、清揚院(家光三男・綱重)霊廟から移築された数少ない遺構です。大殿、安国殿をちょっと覗いて、お目当ての徳川将軍家墓所へ向かったところ、墓所の門は閉ざされていて受付には定休日の掲示…。火曜(祝日除く)が定休日だったっけ!? 昨年に下調べした際には令和5年は定休日なしだったので油断していました。幸い2日後も東京出張(ともに日帰り)なので、徳川将軍家墓所はその時にまた来るとしましょう。

気を取り直して周辺の現存建造物をめぐります。増上寺の北側、現在の東京プリンスホテル敷地は北廟と呼ばれ、五代に及ぶ徳川将軍の墓所が設けられていましたが、戦災でほとんど焼失し、敷地の北東部に有章院(七代・家継)霊廟の二天門、北辺に御成門交差点付近から移築された御成門が見られるくらいです。南側の芝公園は南廟と呼ばれ、台徳院(二代・秀忠)霊廟が設けられていましたが、こちらも戦災で焼失。芝公園の北東部に台徳院霊廟の惣門が移築されていて、惣門と勅額門の跡地に案内表示が立てられています。芝公園内の芝東照宮は増上寺の旧安国殿のようですが、見落としてしまいました。

そして2日後に増上寺を再訪し、今度こそ徳川将軍家墓所へ。墓所の門として文昭院(六代・家宣)霊廟の中門が移築されています。旧国宝の見事な鋳抜門です。墓所には戦災で焼失した御霊廟から台徳院(二代・秀忠)、文昭院(六代・家宣)、有章院(七代・家継)、惇信院(九代・家重)、慎徳院(十二代・家慶)、昭徳院(十四代・家茂)の宝塔のほか、静寛院(和宮)の宝塔や将軍生母や子女の合祀塔が改葬されています。家茂と和宮の宝塔が並んでいる様子には、家茂とともに眠ることを望んだという和宮の願いが今も叶えられているんだな…としみじみしたり、木造だった秀忠の宝塔は御霊廟とともに焼失してしまったため江与の宝塔(石塔)に間借りしている様子には、死後も肩身の狭い思いをしているのかなぁ、と苦笑させられたり、8基の宝塔が建ち並ぶだけの墓所ですが、再訪してまで来た甲斐がありました。
 

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todo94

グーグルマップにはありません (2024/07/13 訪問)

城島城からの転戦です。グーグルマップで海津城を検索すると松代城がひっかかります。こちらの海津城はグーグルマップには登録されてないようです。この城びとの海津城のページにある地図のポイントはかなり正確に城址碑の位置を示していますので、この地図を頼りにされれば、圃場整備された広大な農地の中に佇む城址碑を難なく見つけることができるかと思います。

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小城小次郎

昔ながらの武家居館の風情がある (2024/01/14 訪問)

越前からやってきた川島氏が赤井氏に仕えて設けた館で南北朝以来の歴史を持つのだそうだが地域が地域だけになんとなく「鉢の木」の舞台はこんな館だったんじゃないかなと想像したくなるような風情があった。

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しんちゃん

戦国残酷物語 (2024/07/15 訪問)

何でも今日は一年で一番暑い「大暑」の日らしく、冗談抜きに暑いです。暑すぎてタイショできん(言ってるじゃん)。
深根城は標高70m、比高50mほどの台地上にありますが、車で来られる方は途中に駐車出来そうなスペースがあるので、歩いて訪問したほうが無難です。道は狭いし、ガケから落ちそうだし、そもそも城址周辺には駐車スペースが無いです。
殿屋敷と呼ばれる地に民家が二軒建っていますが、周辺に遺構らしきものは見当たりません。堀越公方重臣・関戸播磨守吉信の居城とされ、伊勢新九郎に最後まで抵抗して老若男女ことごとく首を刎ねられ晒されたとされています。
城址の西300mほどの所に足利茶々丸夫妻の墓があるとのことですが、地元の方の話ではここからは行けず県道側からアクセスしなくてはいけないようです。城址碑も県道15号にかかる「ふかねばし」の南の道端にあったようなのですが、開発が進んでいて見当たりませんでした。

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しんちゃん

音無神社と日暮神社 佐殿と八重姫の伝説の地 静岡県伊東市 (2024/07/16 訪問)

伊豆に流された若き日の源頼朝は監視役の伊東祐親の三の姫・八重姫と仲良くなって音無の森で「愛」を語らったと案内板に記載が有ります。そのさい頼朝が日暮れを待っていたのが、ひぐらしの森であったとされています。ようは「ひぐらしの森」で良い時間になるのを待って、「音無の森」でちちくり合っていたということですが、祐親殿!監視がなっておりませんな。
音無の森が有った所には音無神社が建立され、今でも人気はありません。ここで「底抜けの柄杓」を借り受け、お腹を撫でると安産をもたらすという言い伝えがあり、無事安産のお礼に底に穴の開いた柄杓を奉納する習わしになっているようです。
日暮の森があった場所には日暮神社がありますが、周囲は住宅地になっており、かつての静けさは失われているようです。佐殿、ここに潜んでいたら祐親殿が飛んで来ること請け合いですぞ。

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零汰

公園内にあります (2024/05/20 訪問)

こちらのチャシは札幌市内の天神山緑地のだいたい中心にあります。
ナビの案内で東側の相馬神社よりキツイ勾配の坂を登って向かいました。
写真の如く、天端はやや平滑(安定の熊笹まみれ)になっており砦だと思われます。
が、砦の特徴である周囲の曲輪?通路?が見当たりません。
公園化の際に多少加工されているのかもしれませんね。
若しくは元々無かったのかもしれません。

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