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しんちゃん

日向三城 (2025/05/05 訪問)

塩見城は南北朝時代に土持氏が築いたとされ日知屋城、門川城とともに「日向三城」と呼ばれました。その後、都於郡・伊東氏の支配下に置かれ綾民部左衛門義恒が居城しました。戦国末期には伊東氏庶流の右松四郎左衛門が塩見地頭として入りましたが、天正5年(1577)に伊東氏が豊後に敗走すると島津氏の城となりました。
城址は比較的コンパクトで丘陵の頂部に主郭が置かれ虎口周辺には土塁も残ってます。主郭の東と西に郭があり、いずれも主郭と繋がっています。城址近くの道から舗装された登城道が東郭まで通じていますが、歩いて行った方が良さそうです。

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にのまる

雨上がりの夕散歩。 (2025/03/02 訪問)

この日4城目。
雨のためここまでの3城を短時間でまわったのもあり、唐津駅に着いたのが予定より早い15:30。
早速ホテル(東横インはなかったので別のところ)に荷物を置いてお城見学に繰り出しました。

復元された肥後堀から三の丸、埋門小路を通って海岸の方へ向かいます。旧高取邸に興味津々になりながら右手を見ると立派な天守が見えてきました。まっすぐに延びる石垣の道、かっこいいです。

石垣沿いにしばらく行くと「御住居・学問所」の説明板がありました。県立唐津東高校移転後の跡地に早稲田系列の学校が設立されたようなので、ここは学校名を置き換えて読む必要があります。

天守に吸い込まれるように石段をのぼると左手にエレベーター乗り場がありました。
前回来たときに見つけられなかったエレベーター。ここにあったのか!!
おもしろそうなので乗ってみることにしました。100円です。
……あっという間に本丸に到着。
景色を見ずにワープしてしまったので方向感覚を失ってしまいました。。。

天守内を見学し、虹の松原を望みます。雨も上がりくっきりと見えました。いつか向こう側まで渡ってみたいなぁ。

多種多様な石垣、天守台石垣の門脇の島津家刻印石などを目に焼きつけて船入跡、城内橋へ。
最後に石垣修復・新築復元された三の丸辰巳櫓を通ってホテルに戻りました。

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しんちゃん

大友公園と宗麟公園 (2025/05/05 訪問)

大友別館は大友宗麟の晩年の居館とされ、大友公園が居館跡とされています。小高い場所にあり、展望台からの眺望は良好ですが、遺構などは残っていません。南西に1kmちょっと行った場所に有る宗麟公園には大友宗麟の墓があります。
堂宇のある日本式の墓は寛政年間(1789~1801)旧家臣の末裔・臼杵城豊により改葬されたもので、キリスト教式の墓碑は昭和52年、上田保氏を発起人とする「大友宗麟公顕彰会」によって磯崎新氏の設計で整備されたもののようです。

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朝田 辰兵衛

🗻を見ようかなと思ったけど… (2025/04/28 訪問)

神奈川県コンプ翌日は「🗻見たいな…」と思いましたが,雨男ぶりを発揮してしまいました。電車旅も兼ねて,身延線の井出駅まで。静岡気分で山梨県の真篠城へ。
ここはヒルに注意が必要ですが,全く大丈夫でした。天候のほうも,そのうち晴れるかなと期待しましたが,井出駅に戻ったら土砂降りとなりました。
コンプ後に気持ちをシフトするには良かったのかもしれません。

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トク

【春の長崎7城を巡る⑳】(13)福江城(石田城) (2025/04/06 訪問)

春の長崎天草を巡る旅、最後(13城目)は「福江城(石田城)」です。

10:10発のフェリーに乗りたいため、早朝7時にホテルをチェックアウトして出港までの3時間、福江城をぐるりと1周して散策しました。港の反対側にあたる城の西側には搦手門が残っていました(写真②③)。

石田陣屋は焼失した江川城に代わり、福江藩2代藩主「五島玄雅」により1638年に築かれました。唐津藩主「寺沢広高」が設計したそうです。

異国船が出没するようになったため、福江藩は1806年に異国船防衛を理由に幕府に築城の許可を願い出ましたが許可されず、1849年「五島盛成」の代になりようやく許可されました。しかしいざとなると財政難で築城には石田陣屋を改修するなどして節約しますが、それでも14年かかり1863年にようやく完成し、江戸幕府最後に築城された城となりました。しかし明治の廃城令で、わずか9年しか存在しなかったようです。

9時の開館になったところで歴史資料館に入り(写真④⑤)、スタンプを押して中を見学しました。福江城は三方を海に囲まれた海城だったようです。その模型がありました(写真⑥)。という事は🤔・・・今ある外堀は、当時は海だったという事ですね。

現在の福江城は五島高校の敷地になっています(写真⑦)。ここの生徒たちは堀と石垣に守られて勉強しているという事になります(何とうらやましい)。でも石垣を見てちょっと不思議に思いました。隅部は切込接ですが、それ以外は全て丸っこい石です。それもわざと丸く削っている感じです。しかも城全体全てがこのような石垣です。幕末に築かれた他の城は全てが切込接できっちり隙間もなく削られた石なのに、なぜ福江城は丸い石にしたのか疑問でした。海城だったので波に耐えられるよう(波の力が分散されるよう)わざとこのような丸く削った石を積んだのでしょうか🤔?(写真⑧)。

歴史資料館を見学し終えて、徒歩10分の福江港まで歩きました。港の入口には常灯鼻(常夜灯)がありました。当時の灯台です。ここも荒波にも耐えられるようにか、やはり丸い石の石垣で作られていました(写真⑨)。散りゆく桜と、咲いていた五島椿がとても綺麗でした(写真⑩)。

最後にフェリーからの帰路の景色をお伝えして終わろうと思います。
 

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にのまる

ぐるっとひとまわり。 (2025/03/02 訪問)

吉野ヶ里公園から長崎本線と鹿児島本線を乗り継いで久留米へ。

そぼろ雨の中の見学となり、さてどういうふうにまわろうか……と思案しましたが、前回同様、現地に設置してくださっている【久留米城跡史跡めぐり】と【久留米城跡案内マップ】に沿うことにしました。
筑後川やいちばん好きな蜜柑丸の石垣も見渡せてよかったです。


朝田さん。
まさかホントに東横インからだったとは∑(゚Д゚)
【駅近くの高い場所】からの眺望だろうと思い、もしかして東横インがある?とGoogleマップを見てみたら……東口にある!!
でもまさかねーと思っていたのですが🎯だったとは!
小田原は近すぎて宿泊することはないと思いますので、貴重なお写真を見せてくださりありがとうございました。

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カズサン

徳島城-6/6 御殿居館辺り編 (2025/05/14 訪問)

 徳島城-5/6 西二の丸、西三の丸辺り編の続です。

 5月13日夕刻、14日早朝で徳島城を探訪、時間の関係で徳島城博物館には入館できませんでした、表御殿庭園と博物館に徳島城模型は見たかったなと思ったり、50数年ぶりに城山の本丸へ足を運び今生の思い出です、青石と呼ばれる緑色片岩の高石垣も堪能。
 両日とも藩祖蜂須賀家政公銅像を拝み、案内板によると戦前は蜂須賀正勝公(家祖)の野太刀と長槍を持った甲冑姿の銅像が立っていたが戦時中に供出された、変わって昭和40年現在の裃姿の家政公が立ったと有る。甲冑姿の小六正勝公を見たかったですね。ちなみに三代目蜂須賀至鎮(ヨシシゲ)公は初代藩主と言われています。
 阿波蜂須賀家は秀吉の時代に176,000石、至鎮公の時大坂の陣でも功績が在り淡路一国を加増されて257,000石と成って居ます。
 14日朝には6時半ラジオ体操が太鼓櫓台前に市民が大勢集まって居ました。
 前日は北側のバラ園鑑賞、鷺の野営地はうるさく樹木が白くフンで汚れて居ました。

 50数年ぶりに本丸東二の丸西二の丸西三の丸に登り久しぶりの緑色片岩の石垣を眺め堪能、足腰にきましたがいい思い出と成りました。 長々と6編ご覧頂きありがとうございました。

 15日は淡路島を探訪します。
   

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カズサン

徳島城-5/6 西二の丸、西三の丸辺り編 (2025/05/14 訪問)

 徳島城-4/6 本丸搦手虎口編の続です。

 本丸西側に狭い範囲ですが上段に西二の丸、下段に西三の丸が構えます、各曲輪に櫓台と桝形石段が構えて厳重な護りと成って居ます、現在西三の丸は徳島市水道配水池と成っており立入禁止です。上部から眺めるだけ。
 西三の丸御門からは二折れの長い山側石垣の石段で城山麓へ降り、現在は68692蒸気機関車が展示されてる辺りに降ります。
 さらに麓の西側に西の丸が有りましたが今回は訪ねて居ません、現在は小学校、アリーナ、市民の施設に成って居ます。
 以前車で訪ねた時は、アリーナ辺りの駐車場を利用しました。公共機関ではJR徳島駅が最寄駅で便利です。
 
 徳島城-6/6 御殿居館辺り編に続く。
  

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カズサン

徳島城-4/6 本丸搦手虎口編 (2025/05/14 訪問)

 徳島城-3/6 本丸編の続です。

 本丸には虎口が三ヶ所あり東側の大手虎口、北側の非常時埋門と西側の搦手虎口があります。本丸西端の弓櫓台石垣とで桝形構造に成り横矢掛りと成って居る。搦手の石垣には鏡石が多く、防御に重きを置いた節がある、資料には天正14年(1586年)築城当初、本丸西端の現弓櫓跡に天守が建てられたようであると、鏡石の存在が理解できます。元和年間(1615年~1624年)幕府に思いばかって天守を取り壊し、本丸下の東二の丸に三重の規模で築かれ、明治8年(1875年)に取り壊されるまで聳えていた。
 搦手虎口は石段下より90°曲がって緩い石段にて西二の丸へ続く。見ごたえのある石垣です。

 徳島城-5/6 西二の丸、西三の丸辺り編に続く。
   

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美夢

スマホ派です

イオさんへ
遅ればせながら、スマホ派です
デジカメは使わなすぎて
ホコリを被っております
スマホは、落とさないように使う時は
リングに指を入れて使用しています

撮る時は、拡大と明るさのみ
調節して撮っております
(⁠^⁠∇⁠^⁠)⁠ノ⁠♪

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いんげん丸虫

しなの館 秋田県湯沢市 (2025/04/28 訪問)

407mの山城です。 詳細不明。
大きくはない城跡ですが、5重の
堀切が見事に残っています。
主郭の両端にも畝状竪堀が多数
みられます。
写真ではうまく撮れないのが残念
です。
麓の鳥居から中腹の社までは道が
ついてますが、そこからはかなり
の急斜面を直登します。
城跡に関する看板はありません。

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赤い城

越中の戦国時代はここで終焉 (2025/04/29 訪問)

県道44号線に案内板があり、ここから呉羽山への山道を登って行きます。
駐車場もあります。

石碑のところに登城口がありここから登って行きます。
少し進むと東出丸があり、さらに進みます。
三の丸、堀切を経て二の丸へと進みます。
整備されていて歩きやすくなっていました。
が、肝心の二の丸と本丸の間の間空堀が伐採した枝や草で覆われています。
見どころだと思うのですが公園なのでやむを得ないのでしょうか。
二の丸には井戸跡があり、石積も残ります。

気を取り直して本丸へ。
ここからの眺望は素敵でした。
立山連峰に雲がかかってたのが残念でしたがそこは心眼で。
本丸には天守台も残ります。

西一の丸、本丸下曲輪を経て北一の丸へ。
北一の丸には堀切が施されています。
一通り見学して下山しました。

神保長職が上杉謙信の越中攻めに備えて築城。
その後は秀吉が佐々成政を攻める際に本陣が置かれた城です。
【見どころ】
 ・三の丸の堀切
 ・二の丸と本丸の間の堀切(藪だけど)
 ・二の丸の井戸跡
 ・北一の丸の堀切

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todo94

ゴールデンウイーク後半・伯耆の城めぐり③ (2025/05/03 訪問)

黒坂鏡山城からの転戦です。公園として整備されてはいますが、あまり管理の手が入っているようには見えず、主郭の四阿なんか朽ちかけていました。それでもお年寄りが野草摘みなどをしていて、地元の皆さんに利活用されている城のようには感じました。

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しんちゃん

大條家茶室「此君亭」三の丸跡 (2025/01/01 訪問)

坂元城の北側、三の丸跡の一部には大條家茶室「此君亭」が昭和7年に大條家から移築され、庭園も整備されています。庭園の入り口には大手門が残されており、周辺には土塁が見られます。大手門は三間一戸の城門形式ですが、扉や壁面は欠損しています。屋根は本来、切妻造・茅葺で有ったようですが、現在は瓦が葺かれています。現在二の丸跡にある坂元小学校は元々は三の丸跡に有りましたが、明治13年(1880)に現在の位地に移転されています。

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翡翠

備中松山城 (2024/08/12 訪問)

朝早い時間に行ったのですが、帰りには多かったです。お城までの道は結構ハードでしたが、さんじゅーろーくんが、お出迎え。一気にテンション上がりました。石垣も自然の大きな岩、下から見た石垣とても良かったです。お城の中も他のお城と中の感じが違うので見応え有りでした。

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しんちゃん

島津歳久公最後の居城 (2025/05/09 訪問)

虎居城は川内川にヘアピン状に突き出ている丘陵上に築かれていました。宮之城中学校(高校?)も東ノ城とされる城址の一端で、先にオキタ城・シヲノ城・中ノ城と郭が続き、丘陵上に松社城とされる広い郭が有ったようです。本来は宮之城中学校の脇から続く道を通って松社城まで行けるはずですが、ゲートに鍵がかかっているので先に進めません。さつま町の文化財課に話を聞くと、国土交通省の管轄で城址公園化が進められているので、立ち入ることが出来ないとのことです。
花房山城や瀬平ノ城のような完全な「不発弾」ではありませんが、公園が完成するまで「不発弾」として扱わせていただきます。正直、いつになるか解らないけど、公園が完成したら訪問したいですね。とりあえず、東ノ城までに留めておきます。

虎居城は渋谷氏の城でしたが、1566年 城主渋谷良重が祝宴で妻の杓で寄っている時に、妻の懐剣で殺され渋谷氏は滅んだとされています。後の城主・島津歳久は豊臣秀吉の薩摩侵攻の際、家中一同が和睦に傾いた際に、兄弟で唯一抗戦を訴えました。
移動中の秀吉を悪路に誘い込み、家臣の本田四郎左衛門に秀吉の駕籠に矢を射かけさせますが、襲撃を予測していた秀吉は駕籠を空にしていたため難を逃れたそうです。後に秀吉の圧力から、やむをえず兄・島津義久は歳久に対し追討の兵を出し、歳久は中風の後遺症で腹を切ることもままならなかった為、石を懐刀と見立て、家臣・原田甚次に首を取らせたとされています。

鹿児島市吉野町の平松神社には島津歳久公と殉死者27名の墓石があります。虎居城が立入禁止とわかっていたら、ここに寄ってお参りをして来たのですが、少し残念です。

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しんちゃん

【遺構改変注意】主郭には土塁が残る。詳細不明の城。 (2025/05/10 訪問)

鳶ノ尾城は詳細の不明の城です。なかなか訪問のしづらい城址ですが、古城盛衰記さんの地図があれば、なんとか訪問は可能だと判断しました。サイトの写真を参考に墓地の近くから山中に分け入っていきます。昔は道がついていたと思いますが、今は草で覆われています。
このまま尾根上に取りつけば、城址をなぞってそのまま主郭までいけるはず・・・だったんだけど。
尾根を林道がブッタ切っています。当然のように尾根に取りつく道は無い。なにしてくれるんじゃい・・。なんとか登れそうな所から尾根に取りつき西に向かいます。しかし、どうにもイメージが合わない・・尾根沿いに行けば主郭に向かっていくはずなんだけど・・・一度林道に降りて、もう一度登って確認します。尾根を進んでいくと浅い堀切があって、出丸の様な郭が有りますが、その先は谷になってる。どうやら、林道で先の尾根ごと削り取られて、主郭が独立した丘陵のようになっているようです。案内板も登城道までないばかりか、遺構まで改変されてしまっている。林道を進んでいくと脇から入って行って主郭に取りつけそうですが、けっこう急な斜面を直登しなければなりません。主郭は頂部に扁平地があり、北側に土塁も残っていました。街道を見張るための城であれば、先の標高460mの地点にも見張り台のようなものがあるかもしれません。
ここまで連日ハードな城攻めを続けてきましたが、この城を攻めている時に、疲れが溜ってきていることを実感しました。体力を維持できるピークを越えると、カンや体のキレが鈍って来ます。気づかないうちにジワジワ疲れて来てますね。

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翡翠

名古屋城 (2024/07/17 訪問)

名古屋城内に入れないのは残念でしたが、本丸御殿に入りました。まだ、復元途中みたいですが、綺麗でした。

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翡翠

松本城 (2024/07/15 訪問)

松本も天気が悪かったです。松本城、迫力がありました。天守閣の最上階の梁は、凄いですね。長野は、お水がとても綺麗です。

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天守無しがアツい

小田原北條五代祭り 早雲役が若く見えた (2025/05/03 訪問)

(アニメ「ジョジョの奇妙な冒険」の代表曲
roundabout)https://youtu.be/Nm6G1gGmkT8?si=bQoIFmsMQGTvITut

↑の曲がパレードの間…ずっと私の頭の中を流れていました🎶見物客こそたくさんいれど…北条五代をジョースター家と結びつけて捉えて…roundaboutの歌詞を…"I'll be the roundabout…the word will make you out and out…"という具合に口ずさんでいた人間は…きっと私一人でしょうね(笑)😂

有名人という事で…彼等は道の左側右側それぞれに笑顔で手を振りながら道を進む…なので撮影の射程範囲にせっかく来ても…向こう側を向いてしまい、顔が写らないという事もありました(初代から三代まで)

なので…四代と五代は予め離れた位置から撮影開始…何枚か撮っていい感じのものだけ残す…作戦でいきました。その結果…四代五代は2枚ずつ…満足のいく撮影ができたかなと思います。そのうちの1枚が…笑顔で私のいる方向に手を振る氏政(高嶋政伸)(1枚目)

そして五代氏直…演じるは柳沢慎吾(2枚目)(3枚目)。小田原出身だそうで、(合田雅吏と同じく)小田原ふるさと大使。持ち前のひょうきんさで…周辺の客を沸かせており…誰かとお喋りもしてました😅

合田は存じてない自分ですが…高嶋と柳沢なら知ってました。そして「先祖である早雲役の方が若くて…子孫である氏政や氏直役の方がオジサンなんて…配役ミスってない?😁」と…ちょっと思ったのですが、ネットで調べて見ると…

合田:1970年生まれ 高嶋:1966年生まれ 柳沢:1962年生まれ と判明。確かに氏政氏直役の方が若干年上ではありますが…意外と早雲役もトシいってた…🫢

駅前で配ってたチラシに載ってた顔写真における合田は…まるで20代のような見た目をしていたので…(というか早雲に扮して周りに手を振る時の彼も若く見えた気がする)驚きましたね

五代役の方は皆…デカい高級そうな馬に乗ってました🐴🐴🐴🐴🐴 重箱の隅突くような事を言わせてもらうと…戦国時代の馬はもっと小さくて…ポニーのような背丈しかなく、移動速度も遅かったので足軽が一緒について来れたそう

今回のパレードにも使われてるような…今の馬は(戦国時代よりも後に)海外から輸入された馬の子孫…なのでこの大きさ🐴

特に柳沢の乗ってるのが…白馬でオシャレ…そう言えば自動車が誕生および普及する前までは馬が車の代わり…江戸時代なんか(馬は)高級品だったため…庶民は徒歩でしか旅ができなかった🚶‍♂️

そう考えると…当時の馬の値段って…自家用車と同じくらい(100-200万円)あるいはもっと上かもしれませんね🐎車がガソリンを消費するのと同様…馬も餌を食うわけだから(馬小屋での飼育も含めて)維持費がかかる💸

五代が通り過ぎて…パレードの目玉の登場は終わったから…私を含めて何人もの人間がそこを去っていきました…昼飯を食べてから…小田原城へ入ることに🏯

小田原城の城カードを…まだ買ってなかった事に気づいたのでその補完。それは天主内のミュージアムショップでしか扱ってないので、必然的に天守に入り、館内もある程度巡ることになりました(売り場が出口付近にある)

1階に小田原城のジオラマ(4枚目)があり、直感的に撮影。2階の見学は適度に済ませ…3階は吹き抜けになっており狭い通路にしか展示物がないので短時間で見学可能🚶‍♂️

最上階で小田原市内の景色が一望できました🌆「混雑緩和のため歩きながらの見学をお願いします」と貼り紙があったのですが…こういう時にほぼ必ず立ち止まる輩が現れるもの…そういう時は隙間から追い越して先を行く方もいました。ま、確かに3階と最上階は通路が狭いから詰まりやすいと言えばそうなるけど😅

階段で1階に戻りミュージアムショップへ。そこで瓦せんべい・城カード・武将印(5枚目)を買いました。城カードは小田原城のだけでなく、石垣山一夜城(同じ小田原市内にある続日本100名城)のも扱っていたため、それも買うことに

武将印は…1枚300円、5枚セットで1350円…つまりセットで買った方が1枚あたり270円と、少し安くなるから…セットで買うことにしたわけ

5枚セット…つまり早雲・氏綱・氏康・氏政・氏直5人分の武将印(添付画像に写ってるのは氏政までですが、ちゃんと氏直の分も持ってる)を入手したわけです

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