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しんちゃん

長篠・設楽ヶ原古戦場 鈴木金七郎重正 設楽原PA(下り) (2025/08/28 訪問)

織田信長の戦地本陣である茶臼山には神社があって舗装された道路が続いているんだけど通行止になっています。どうやら「じもピー(じもとピープル)」専用らしい。じつは新東名の設楽原PAから簡単に登城できます。
通行止になっている近くに「鈴木金七郎重正」の案内板があります。新城市富永旧川上村の鈴木一族の出で、天正3年5月14日に長篠城を鳥居強右衛門と共に出発し、岡崎城の家康に長篠城の窮状報告と援軍要請を行ったと記載があります。
強右衛門と共に「援軍来る」の狼煙をあげたとされ、合戦後に作手の亀山城主となった松平(奥平)忠明は作手村大田代に帰農していた金七郎を訪ね、二百石の禄を与えて往年の労をねぎらったそうです。
う~ん・・強右衛門だけじゃなかったんだ・・「援軍来る」と狼煙で知らせたのなら、武田軍が強右衛門に虚偽の報告をさせることに意味はあったのだろうか? でもそこで意地を貫いたことで、凄い有名人になったわけだし・・人生いろいろだ
設楽原PAでとんから定食を食べて力を付ける。ちょっと肉がかた・・いやいや旨いですぞ。デザートは西尾抹茶のソフトクリームです。
ここで売っている強右衛門Tシャツを着て街を歩けば人目を引くこと請け合いですぞ。

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しんちゃん

長篠・設楽ヶ原の戦い 馬防柵 (2025/09/28 訪問)

八釼山の徳川家康本陣の背後(西側)を大宮川が流れ、その手前に一重柵が設置されていました。なんとなく信康の陣を守っているように見えるのは気のせいであろうか。家康の陣の南には東郷中学校があり、平成の馬防柵が設置されています。
実際の戦場では、こんな所に馬防柵は設置されていないんだけど雰囲気がある。不審者は三段撃ちで撃退ってわけじゃないけど、古戦場のど真ん中に学び舎が有るって、なんか気が引き締まりますね。
武田方(東側)から復元された馬防柵を撮影しました。武田方の気分になって、ここに突っ込んでいきます・・気を引き締めて突撃!!
どどどどっ
・・・・・・・・・・・・玉砕(ちーん)

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しんちゃん

一色機関銃陣地 (2022/10/02 訪問)

愛知県田原市の太平洋側の戦争遺跡です。海沿いの写真は一色機関銃陣地です。ぱっと見ただの岩ですが、大きな岩の中をくり抜いて弾薬庫として使用し、周辺の岩場を銃座として使用する目的で1944年11月より第73師団(怒師団)によって構築されました。
1945年5月には渥美半島の先端に第153師団(護京部隊)が配備され、各所に本土決戦用の陣地が造られました。
一色機関銃陣地ですが、ほぼ岩礁という悲しいシロモノです。こんなの艦砲射撃喰らったら木端微塵じゃないかと思いますが、百も承知で造らせていると思うと、実に憎たらしい。
こんなのガンタンクの上のスケスケの席の方が百倍マシですよ。
ハ〇ト「ここで砲台になります!」ミノフスキー粒子が無ければガンタンクがエースだぜ!(無限軌道)

残り二枚は福江(畠)観測所で、標高40mの丘地に造られ、遠距離砲撃の際の砲弾を観測する施設です。

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住宅地の中に地形が残る (2025/09/23 訪問)

 住宅地で、城びと先人の報告通り、駐車スペースがありません。今回は、バイクで巡っているのでその点は楽ちん。
 濃尾平野東側の山地から長く伸びる丘陵の先に立地しています。西と北は結構な規模の急斜面です。西側の斜面下は西城という地名で、西城小学校があり、西の郭であったのでしょうか。北側斜面上には、大きな老人ホームが建っています。尾根続きの東側は堀切が道になって名残を見せています。

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トク

【宮本武蔵】(15)姫路城②(本多忠刻と武蔵) (2025/06/05 訪問)

宮本武蔵の続き(15)です。

姫路城西ノ丸に築かれた化粧櫓と百間廊下は、徳川家康からもらった化粧料(結納金)で、「本多忠刻(ただとき)」と「千姫」のために築かれたものである事は、皆さん御存じと思います。池田輝政亡き後、本多家が桑名から姫路に入りこれらが完成する1619年頃、武蔵は忠刻の父「本多忠政」から姫路城へ招かれます。そしてしばらく滞在し、嫡男の忠刻や家臣に剣術や兵法を教えてほしいと頼まれたようです。西ノ丸の庭園も、もしかして武蔵の意見が取り入れられた庭園なのかもしれませんね。ちょうど忠刻と千姫の間には勝姫や幸千代が生まれ、二人が幸せの絶頂であった頃ではないでしょうか。私はもしや、忠刻・千姫・武蔵の3人でこの庭園から天守を眺め、諸国でのいろいろなよもや話に、花が咲いていたのではないかなどと想像してしまいました。

忠政の娘(忠刻の妹)亀姫は、この時「船上城」に入った小笠原忠真に嫁いでおり、忠真が「明石城」を新たに築城することになったため、忠真は築城において義父の忠政に何かと相談していたようで、両家は良好な関係にあったようです。そして武蔵は、この築城を手伝う事になり、明石へ客分として入ります。

姫路を去る時、武蔵は最初の養子である三木之助を、本多忠刻の下で仕官させてほしいと頼みます。忠刻は受け入れ、小姓頭にしたそうです。しかしその8年後の1626年、忠刻は何と31才の若さで病死してしまいました。千姫はさぞかし嘆いた事でしょう。

この時、江戸屋敷にいた宮本三木之助は、知らせを受け姫路へ向かいますが、その途中で明石の武蔵の屋敷に立ち寄り、一晩酒を酌み交わしたそうです。何も語らず二人はほとんど無言だったとか。いったいどんな気持ちで酒を酌み交わしていたのでしょうか? 武蔵は三木之助の決意に気がついていたのではないでしょうか? そしてその翌日、姫路へ着いた三木之介は、忠刻を追って殉職(墓前で切腹)したそうです。

次は武蔵が町割りや作庭に手腕を発揮した(明石城)を訪れます。
 

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蜻蛉切

大阪城石垣館 (2025/10/07 訪問)

新しくできた豊臣期の石垣を見せる石垣館に初めて行きました。

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赤い城

アートの島 (2025/08/14 訪問)

今年開催されている瀬戸内国際芸術祭の夏会期で直島へ。
予約が必要な地下美術館などはすでに満席で入れず、人気の高さを思い知らされます。
それでも草間彌生さんの赤、黃のカボチャや直島新美術館などを見学できました。

相方と一緒だったので少しだけ時間をもらい直島城へ行きました。
todo94さんの「近々赤い城さんが・・・」のレポートからちょっと時間が経過しましたが島のハードルは高く、漸く登城できました。

少しのぼると護王神社、ここにもアート作品がありました。
神社の裏手には綺麗な堀切や竪堀も見られます。
さらに奥の鉄塔が建つ曲輪が主郭のようです。
城主の高原氏は秀吉の備中高松城の戦いの際に水先案内を担っています。

で、ここのアート作品ですが護王神社の階段がクリスタル風(todo94さんの写真4枚目参照)になっていますがそれが地下に繋がっています。
写真8枚目を参照してください。

現在瀬戸芸の秋会期開催中です。
11月初めの3連休までなので興味のある方はぜひ瀬戸内へ。

【見どころ】
 ・護王神社背後の堀切と竪堀

ところで朝田さん、ニアミスでしたか!
あの日は少しバテ気味だったので知立を後にしたのが15時頃でした。
惜しい!!

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天守無しがアツい

外国人だらけ (2025/10/07 訪問)

この城は大阪城公園として広大な面積を誇る
なので公園内をバスが走行できるほど🚌

幾つかの門を潜り天守へ🏯
8階から構成されていて…3階と4階は撮影禁止
なので今回はそんなに写真撮れなかった

4階には黄金の茶室…薄暗いけど荘厳な彩色
画像を紹介できないのが惜しいくらい

6階では秀吉の生涯が…映像を通じて紹介されてる…個人的に1番目を引くのが…やっぱ三条河原の秀次妻子処刑👩👦👧⚔️💀

各階…外国人だらけ…欧米人…中国人…インド人…外が暑いので肌の露出が多めな人…日本人より多かったな…多分

最上階…8階の展望台から…なんか喋りながら記念写真撮ってる中国人たち…彼らは大阪城の歴史および秀吉の生涯についてどの程度理解してるのだろうか?

そんな事はどうでもよく…展示品はざっと見ればいいから…とにかく観光地で自撮りして…インスタ映えしたい🤳😁というノリなのだろうか?🇨🇳

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しんちゃん

長篠・設楽ヶ原の戦い 岡崎信康本陣地(松尾山陣所) (2025/09/28 訪問)

徳川家康本陣の後方やや北寄りの丘陵地が徳川家康の嫡子・岡崎信康の本陣があった場所とされています。丘陵の頂部には松尾神社が祀られ背後の森の中に堀切らしきものがありました。これがいつの時代のものかは不明ですが、合戦の頃の遺構であれば正直嬉しい。
山城の遺構なんていつの物か正直わかりませんからね。
徳川家康の陣の背後、つまり西側には一重柵が築かれていたとされています。馬防柵を迂回して来た敵を防ぐためにも見えますが、一重柵、大宮川の向こうには信康の陣所があります。
なんとなく信康を守っているようにも見えますね。とはいえ、背後に控える信康・信忠・信雄のジュニア武将達も敵が別働隊を動かして背後をついて来た時の守りも担っていると思います。後方とはいえ戦場なので完全に安全な場所は無いですね。羽柴秀吉も信長の陣の北東を守備しています。
信長としては、いろいろ便利に使える秀吉をこんな勝率の高い合戦で失いたくなかったのではないでしょうか。後に秀吉が小田原征伐の際に石田三成に忍城の水攻めを命じたのも有能な官僚をつまらない合戦で失いたくなかったからなのかもしれません。

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しんちゃん

長篠・設楽ヶ原の戦い 織田信忠本陣地・野辺神社 (2025/09/28 訪問)

設楽ヶ原古戦場の西端・織田信雄本陣跡より北東に程なく行ったところに織田信忠本陣跡である野辺神社があります。つまりまだ織田方の陣の端っこの方になります。当時の信忠はまだ19歳の若武者でした。
信忠は「代々をへん 松風さゆる 宮居哉」という句を野辺神社の羽目板に書き必勝を期したとされています。7年後に設楽貞道は社殿を再建し、これを棟板にしたとのこと。ちなみにその内容を記した「設楽原を守る会」の設置した手描きっぽい案内板は見当たらなかったので「東三河を歩こう」さんに掲載されている写真を参考に書かせていただいています。
私もここに来るのは久しぶりなので、以前訪問した時には見ているかも知れません。
設楽ヶ原古戦場周辺も以前とあまり変わっていないようで、新しい案内板の設置など細部に変化はあります。長篠周辺では新しい道路やバイパスが次々と造られて、急速に開発が進んでいます。

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しんちゃん

日出(ひい)の石門 (2022/10/02 訪問)

愛知県田原市の先端旧渥美町の太平洋側の海岸に「日出の石門」があります。堆積岩の一種であるチャートの塊で、約二億年前に海底に沈んだ放散虫のカラなどの珪酸分が堆積し太平洋プレーとの移動と共に現在の位地に運ばれて来たとされています。
大河ドラマ「どうする家康」のロケにも使われており、松潤演じる家康が「桶狭間の戦い」の激しさに怖れをいだき、逃亡した所を追ってきた本田忠勝に叱責される印象的なシーンに出てきました(ダメダメ)。
このとき山田裕貴さん演じる忠勝が家康の首根っこ掴んで持ち上げるシーンが有りましたが、松潤さんは鎧の重さで海水で溺れかかっていたので、ヤバいなと思ってアドリブでひきあげた・・らしいです。たしかに、顔がつかる程度の海水で溺れたら洒落にならんですね。

実は田原には旧大戦時の遺構も結構多いです。太平洋に接しているし、内湾もあるので、幕末には烽火台や台場も多数設置されていました。本日のニュースで愛知県の戦争遺稿を紹介していましたが、たいがい訪問しています。
「蓼(たで)食う虫も好き好き」とは言いますが、けっこうそういうのも好きなんですよ。

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朝田 辰兵衛

身延線を甲府駅から…🚊 (2025/09/13 訪問)

甲府駅から身延線で久那土駅に降り立ちました。ここからは公共交通機関には頼れません。菅沼城までは,久那土駅から徒歩約60分。これ以上時間をかけてしまうと,イイ電車のタイミングを逃してしまいます…😱
中富中学校の校舎は残っていました。校庭は荒れ果てていましたので,撮影しておりません。天候も悪かったので,眺望も…。ここだけ時が止まったかのようでした。

8月9日,どこかで赤い城さんとすれ違っていないかな…?
知立の東横インにチェックイン日でした。

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柴犬さくら

根室半島チャシ (2024/09/13 訪問)

ようやく念願がかないました。

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WEST

北ノ庄城探訪 (2025/09/30 訪問)

北ノ庄城を訪問しました。このお城は戦国時代、豊臣秀吉に攻められお市の方と自害した柴田勝家公の居城です。
福井城から徒歩で10分程度で行くことができます。柴田神社が鎮座していますので、鳥居が目印です。
現在は北の庄城址公園・柴田公園として整備され、また隣接して資料館もあります。
ただ、残念ながら北ノ庄城の詳細な縄張が不明であり、一部の遺構しか分かっていないようです。今後の調査に期待ですね。

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WEST

福井城探訪 (2025/09/30 訪問)

福井城を訪問しました。福井駅からお城入口の御本城橋まで徒歩で約5分で着けます。このお城は街中のお城で、訪問し易いです。
最初に内堀と石垣の立派さに圧倒されますね。さすがに、結城秀康公が天下普請で築いたお城です。
本丸内部は県庁があり、時代は異なりますが、街の中心地の役割を持っているようです。
その他の見どころは、再建された御廊下橋と山里口御門、それに天守跡です。特に天守台は切込接の石垣で、天守が残っていれば荘厳でしょう。
夜間は内堀の石垣がライトアップされますので、散歩がてら寄るのも良いと思います。
なお、福井城は現在、坤櫓復元プロジェクトが実施されており、訪問時お堀の一部の水抜きがされていました。水面下の石垣が見えるのはこの時期だけです。
福井城跡内には建物の遺構はありませんが、自動車で10分程度の瑞源寺には本丸御殿の遺構があります。都合がつけば、立ち寄ってみるのも良いと思います。

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WEST

丸岡城探訪 (2025/09/30 訪問)

丸岡城を訪問しました。ネット情報で、天守の大規模修理が2025年12月から2年間の予定で行われるとのことでしたので、急遽訪問を決めました。
アクセスは北陸新幹線福井駅を降り、越前バスにて向かいました。バス所要時間は約50分です。
丸岡城は地震倒壊を乗り越えて修復再建された現存天守です。その外観は望楼型の古い建築形式で、非常に価値があるお城でもあります。
見どころの野面済みの天守石垣、建物は石瓦の屋根で壁には石落、狭間を見ることができます。建物内部の部材を見ると築城後約400年の重みを感じます。
特に昇降する階段が非常に急であり、注意が必要です。
私事ですが、これで現存12天守をすべて訪問できました。

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赤い城

児童公園 (2025/08/09 訪問)

名鉄知立駅から徒歩7分。
西町児童遊園が古城跡です。
立派な石碑と江戸時代の様子を伝える屏風の絵を描いた案内板が立っています。
周囲より少し高くなっていますが遺構は無さそうです。
桶狭間の戦いで今川方の城として機能していました。

江戸時代には将軍が上洛する際の宿泊所となり、旧東海道が直ぐ側を通ります。
旧東海道は公園の北東でクランクしており城の匂いもします。
この道を少し北に曲がり進むと知立神社があります。
先述の説明板にも描かれていました。
ここには於万の方の石碑があります。
結城秀康の母、於万の方の実家でもあり、東海道三社の一つにも数えられる立派な神社でした。

出張の後延泊しての城めぐりはここまで。
猛暑でバテたのとスマホの充電も怪しくなったので名駅まで戻ります。
新幹線までの時間はビールでクールダウンしたことは言うまでもありません🍻

【見どころ】
 ・側を通る旧東海道のクランク
 ・知立神社

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しんちゃん

長篠・設楽ヶ原の戦い 北畠信雄本陣地(新御堂山陣所) 原隼人昌胤の墓 (2025/09/28 訪問)

織田信長の旗本陣のある平井神社より東にほどなく行くと織田信長の次男・信雄の本陣が有った八幡神社があります。八幡神社に矢部公民館が隣接しているので、車はここに駐車させていただくと良いでしょう。信雄の陣は合戦時には最後尾にあたります。この時、信雄はまだ18歳なので合戦の様をここで良く見ておくようにとのことでしょうか。北東側すぐ近くに織田信長の嫡子・信忠の陣も有ります。織田信長の戦地本陣は信忠の陣の東北東800mの所にあり、設楽原PA(下り)からすぐ近くです。武田軍の相手は徳川家康や家臣の佐久間達に任せている感じですね。大変ですな家康さん。

設楽原歴史資料館の南には武田二十四将の一人、原昌胤の墓があります。原氏は美濃土岐氏の庶流とされています。上野国では土屋昌続らと共に上野衆の取次を行い人脈も有ったようです。二十四将の中では地味なイメージがありますが、要所要所で活躍してるようです。
設楽ヶ原の戦いで討死しています。

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しんちゃん

新城の彼岸花 土屋昌続の墓 (2025/09/28 訪問)

長篠・設楽ヶ原の古戦場に向かう途中、新城城の近くの車道沿いに彼岸花の群生地が有りました。古戦場の周りには武田軍の名だたる武将の墓や供養塔がたくさんあるのですが、各所に彼岸花が咲いており供養に来ているような気がしてきます。
土屋昌続(次)の墓は設楽原資料館のやや北東にあります。
昌続は武田二十四将の一人で、重臣の中では最も若い部類に入ります。「片手千人切り」で有名な土屋惣蔵昌恒の兄に当たり、初陣は激戦で知られる第四次川中島の戦いとされています。また元亀3年(1573)の三方ヶ原の戦いでは徳川方の鳥居忠広と一騎打ちを行い、忠広を討ち取っています。忠広は後に徳川十六神将と呼ばれるようになり、十六神将と二十四将の一騎打ちが行われた稀有な例になると思います。数々の戦で武功を挙げてきた昌続ですが設楽ヶ原の戦いでは真田信綱、真田昌幸とともに天王山に陣を敷き、馬防柵の二段目までを突破したが火縄銃の一斉射撃を受け討死したとされます。誰に討たれたのかすら分からぬ非業の最期と言えるのではないでしょうか。昌続の墓の脇には従士の温井左近の塚があります。良く見ると木の影から頭だけ出ています。
温井は昌続が討たれた後、すかさず首を斬り取り、信州まで逃れたところで首を埋め、殉死したとされています。壮絶ですな。

さらに北上すると堀 無手右衛門(むずえもん)の墓があります。無手右衛門は勝頼の叔父・一条信龍の家臣で長篠・設楽ヶ原の戦いでは織田・徳川連合軍相手に殿を務め、討死したとされていますが、この時点では生存していたとする説もあるようです。

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しんちゃん

武田軍ストッパー   (2025/09/28 訪問)

吉田城の投稿です。自宅から一番近い続百名城でたまに散歩に行っています。地味な印象の城址ですが実は三河侵攻を狙う武田軍は一度もこの城を敗れていないんですね。元亀2年(1571)武田信玄は徳川家康との密約を反故にして大井川を越え、12000の兵を以て遠江と三河に兵を進めました。信玄は足助城や長篠城などを落としながら吉田城へ進軍。家康は吉田城を守る酒井忠次から知らせを受けただちに浜松城から吉田城へ向かいました。二連木城で忠次が敵を引きつけている間に、家康は吉田城に入ることが出来ましたが、この時に多大な損害を出したとされています。家康と忠次が吉田城に籠って守りを固めたので、信玄も無理強いはせずに甲斐に引き返しました。
この時、忠次と武田方がどのような交渉をしたのかは知れませんが、この時期の忠次の活躍は目覚ましいものがあります。この翌年、信玄は3万(諸説あり)もの大軍を率いて青崩峠から侵攻し、三方ヶ原の戦いに至ります。
長篠・設楽ヶ原の合戦の前にも武田勝頼の軍勢が吉田城まで攻め込んで来ています。その時、家康が吉田城に引き籠っているので勝頼は長篠城攻めに引き返しています。

※二連木城の投稿の内容を一部修正しました。

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