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井伊直政 (2025/03/27 訪問)

 井伊直政によって築城され、郭内だけでも5万坪を超える広大な城郭だったようです。主要部分は消失していますが、三の丸周囲の土塁と堀、乾櫓、東門が残っています。
 以前来た時は日没前であまり散策できませんでした。今回歩いてみると三の丸の土塁は記憶していたより広範囲で残っていました。

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北新波砦史跡公園 (2025/03/27 訪問)

 15世紀後半から16世紀中頃に築かれたと推定される出枡状の突出を付属した75m四方のほぼ正方形をした砦跡です。発掘調査で堀や井戸、建物の跡などが発見されました。早瀬川と関端川に挟まれた場所にあり天然の堀としていたのでしょう。長野氏に関連する砦と考えられています。現在は北新波砦史跡公園として整備されています。桜の名所のようですが、開花の気配を感じません。一本だけしだれ桜?が咲きかけていました。
 高崎駅から箕輪城方面に行くバスに乗り浜川十字路バス停下車、徒歩10分くらいで行くことができます。

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尾根道をけっこう激しく登りました。 (2025/03/15 訪問)

 城びと先達、ぴーかるさん、todo94 さんと同じルートで登城しました。ぴーかるさんの「ゲートを開けて右手の山尾根へ。左手には行かないように」「いったん左に約90度曲がり、東方向にさらに登る」などの指南は的確でした。尾根にケーブルが見え隠れしましたが、共同アンテナの名残で、ピークにアンテナの残骸あり。かつては、建設やメンテナンスで尾根道を行き来していたのでしょうね。
 新保山城は、大きな造りで、主郭南に6段の郭があって、いったん高い切岸と堀切で遮断し、さらに下って3段の平削地と浅めの堀切があります。主郭北に大堀切を配します。

 イオさん、お祝いおよびお気遣いのコメントをありがとうございます。滋賀からイオさんの地元の和歌山県に行くには、大阪府か奈良県を超えることになり、気持ちの敷居が高いです。まだ、和歌山市周辺、御坊市周辺、新宮市周辺を廻ったのみです。しかし、「行ってみたい」マークはたくさん付けています。特に、日高郡の赤松城が気になっています。播磨の赤松氏が、六波羅探題の命を受け、この地の一揆鎮圧のために築いたとか。イオさん投稿の登城道指南を頼りに近いうちに行きたいものです。

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井伊直政 (2025/03/27 訪問)

 久しぶりの箕輪城です。以前来た時は郭馬出西虎口門も本丸と蔵屋敷を結ぶ木橋もありません。それでも当時から深い空堀など見応えのある城址でした。大規模な空堀、堀切はこの城址の最大の見どころ、歩きどころです。今回登城したときは、木橋は工事中で渡ることができなかったのは、少し残念でした。駐車場のある搦手口から北側にある新曲輪、丸馬出方面をまわり御前曲輪北堀から堀の中を木橋付近まで歩きました。その後、三の丸、二の丸、御前曲輪、本丸、大堀切など主要な場所を散策しています。
 現在の城跡は井伊直政在城当時のものですが、自分としては武田信玄の攻めを何度も退けた長野業正の城として印象が強いです。

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長野尚業 (2025/03/27 訪問)

明応年間(1500年頃)、当地を支配する長野尚業によって築かれたと伝わってします。長野氏はその後、本拠地を箕輪城に移しますが、鷹留城は支城として機能していました。
宮坂武男先生の縄張図を参考に散策しました。曲輪、堀切、竪堀、土塁などがよく残っていて見応えがあります。主郭に鷹留城死没者慰霊碑や説明板などがありました。概ね整備されていて歩きやすい城址です。

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しんちゃん

また来たい。 (2025/02/02 訪問)

以前訪問した時は本丸周辺の堀切のみが印象的でしたが、久々に訪問してみると、二の丸・郭馬出周辺の遺構や木俣、稲荷曲輪、丸馬出など様々な見所が有ることに気づきます。確か丸馬出の周辺は調査中のようでしたが、気付かずに別方向から入ってしまいました。
申し訳ない・・入れる場所から入る悪い癖がついてますね。私は基本的に既に訪問している城は「行った」をクリックしていますが、出来るだけ再訪して鮮度の高い写真を載せるように努力はしているつもりです。でも古い写真を見てみると、それはそれで愛着が湧いてきます。年月や季節による微妙な変化が面白いですね。
今回の訪問では、再現された郭馬出西虎口門を見ることが出来たのが大きな収穫でした。城域がとても広くて全部を見切れていないので、何年かしたら、また再訪したいと思っています。

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todo94

献血前の攻城⑤ (2025/03/15 訪問)

湯崎城からの転戦です。福性寺の向かいにきれいな土塁に囲まれた方形の居館です。向かって左隣の郭は小学校、右隣の郭は墓地となっています。古びてきていますが、城の絵図が載っている説明板はわかりやすくてとてもありがたく感じました。除草など手入れが行き届いている点も素晴らしいと感じました。

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しんちゃん

不思議な世界が広がる。 (2025/03/16 訪問)

新田金山城は標高235.8mの金山(かなやま)の上に築かれています。古くは建武3年(1336)に佐野義綱が新田荘の新田城を攻め落としたとする記録が残っています。
応仁3年(1459)には新田一族である岩松家純が入りますが、享禄元年(1528)横瀬泰繁・成繁の父子が岩松氏を殺害し、後に由良氏に改姓、以後豊臣秀吉の小田原攻めで廃城になるまで由良氏によって金山城は支配されます。上杉、武田、北条の争奪戦が行われますが、天正12年に北条氏に降伏したとみられ、天正15年(1587)には今の状態に普請が行われたようです。
唐沢山城を除けば関東では珍しい石垣の城だと思います。高い石垣を築く技術が未発達なためか、どこかの国の遺跡のような段々の石垣が見られます。築城技術の発達した近世の総石垣の城とも雰囲気が異なり、石垣を多用したゴージャスな砦の様な感じです。

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シェル

入口の空堀から圧倒される… (2024/03/30 訪問)

つくばエクスプレス・関東鉄道 守谷駅から徒歩20分(道中は一部、歩道が狭いので注意してください。)城址公園には駐車場・トイレも設置されています。
 駐車場のそばに、空堀の断面図が展示されています。周辺は湿地帯で天然の要害となっています。駐車場側から湿地のある城跡西側に出ると城址の入り口があります。
 城址の入り口に着くと、いきなり大規模な空堀の堀底になっています。城址公園内には、深い空堀や坂道桝形虎口などの遺構がかなり良好に残っており、見ごたえたっぷりです。
 また城址北西側は、かつては古鬼怒湾という内海があり、船着場の跡があります。現在も湿地が残っており、桜が植えられています。訪問した際は、河津桜がほぼ満開の状態で、お花見を楽しんでいる方も多くいらっしゃいました。桜の名所として、地元では知られているみたいです。河津桜以外にもソメイヨシノも植えられているので、ぜひ桜の時期に行ってみてください。

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シェル

ここは河津桜のようですね (2024/03/30 訪問)

 龍ヶ崎からJR取手駅に移動し、取手駅から関東鉄道常総線に乗車し、ゆめみ野駅で下車。徒歩15分。
スーパーのある交差点を北に進み、住宅街を歩いたところに、高井城址公園の看板が立ち、坂を下り谷津を進むと城跡の入り口があります。
城跡は小高い所にあり、本郭が良好に残っています。
谷津からの登り坂を登り切った左手側には空堀があります。登城路の坂の部分も遠目に見ると堀のような雰囲気もあります。坂を登り切った本郭の虎口前に説明板が設置されています。
本郭跡には土塁も良好に残っていました。また本郭には河津桜が植えられています。訪問したときは残念ながら葉桜になっていました。(3月初め頃がベストですかね?)

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シェル

歴史民俗資料館の裏 (2024/03/30 訪問)

 龍ヶ崎城跡から徒歩30分ほどで到着。龍ヶ崎市歴史民俗資料館の裏手が城跡にあたります。資料館の駐車場奥に城址の入口があり、説明板が設置されています。
 先の投稿の龍ヶ崎城は戦国期の土岐氏のお城でしたが、こちらは南北朝時代のお城跡です。
 南朝の北畠親房の傘下であった春日顕国が大宝城(茨城・下妻)の陥落後、北朝の攻撃から逃れ、馴馬城を占拠。ここで北朝方に抵抗するも最終的には落城したとのことです。南朝方の城郭であったということで、戦前に県の史跡に指定されたようです。
 説明板の入り口から城跡に入ると土橋と空堀の遺構を見ることができます。
 空堀の中を南に進むと、城址の標柱が左側の木々の中にあります。(少し見つけにくかったです。)

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天守無しがアツい

2回の天守巡り (2008/09/10 訪問)

(2008年の天守閣訪問 当時つけていた日記より)
「金のしゃちほこ」で有名なこの城は、やはり造りが立派だった…。各階の展示も見て回り、資料展示、体験コーナー、3D映像などを味わってみた

展望エリアには土産店があり、「金のしゃちほこ」グッズが数多く並んでいた。マグネットを購入して、3D映像を見た。専用メガネをかけると文字が浮かび上がって見え、グラフィック技術の高さ、名古屋城天守閣のCG復元映像が紹介された

武家屋敷内部もあり、「昔はこれがオフィスだったのか…」と思った…。畳を敷いた和室に小さな机、和紙に墨、ろうそく…現代に比べると質素だが、当時はこれが仕事場だった…🏢

今みたいにショベルカーのない時代は、大きな石を男2,3人で網を引いて運んでもおり、「それを体験してみよう!」もあった。引いてみるとかなり重く、手が痛くなった。何とか目的地まで引くことはできたが、「江戸時代って肉体労働が多くて大変だ〜😖」みたいに感じた…

(2016年の天守巡り)
城内の食堂できしめんを食し、金の鯱を撮影。本丸御殿という建物が(まだ全部ではないが)復元されており、18畳の和室と、室内の襖に描かれた虎を見学しました。狩野一族の画家が描いたものであり、戦時中に消失したが、近年復元されたらしいです

天守閣🏯も入り、展望室からは名古屋市街地が見えました。4階あたりに篭があり、乗り心地を確かめるのも一興(スピード遅くて揺れるのでよくなさそうw)。

江戸時代のもてなし料理も展示されており、鯛・ご飯・煮物・小魚数匹という具合。肉もデザートもないが、それが当時のフルコースらしい…

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シェル

龍ヶ峯 (2024/03/30 訪問)

JR常磐線 龍ヶ崎市駅から関東鉄道 竜ヶ崎線に乗り換え、竜ヶ崎駅で下車。徒歩15分ほど。主要部は龍ヶ崎二高の敷地になっていますが、龍ヶ崎市の文化財となっている鹿島神社の所までは入れるようだったので、鹿島神社を見学。神社の石仏の説明板をみると江戸時代の龍ヶ崎は仙台藩の飛び地であったということが書かれていて驚きました。
 龍ヶ崎二高の周囲を散策すると南側に龍ヶ峯の石碑があり、戦国期の龍ヶ崎・土岐氏について記載されています。土岐氏は、江戸崎(茨城県稲敷市)と龍ヶ崎を拠点にしていた勢力で、美濃の守護の土岐氏の分流です。小田氏にしたがっていましたが小田氏の衰退後は、牛久の岡見氏らとともに北条氏に属し、佐竹氏ら反北条勢力と戦ったようです。
 龍ヶ峯の碑から西に進むと御嶽神社があります。ここの神社の高台と龍ヶ崎二高の高台は、かつてはつながっており、御嶽神社の部分も城の一角だったようです。戦後の住宅地造成に伴い途中の台地部分は切り崩されてしまったようです。御嶽神社の方は、鳥居の前にロープが引っ張ってあり、立ち入りができない様子でした。
 また龍ヶ崎城の北側の龍ヶ崎小学校は江戸時代の仙台藩の龍ヶ崎陣屋跡だったようで、校門脇に説明板が設置されています。

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天守無しがアツい

上杉神社と松岬(まつがさき)神社 (2025/03/22 訪問)

(上杉神社HP)https://yamagatakanko.com/attractions/detail_1390.html

上杉神社というのは米沢城本丸跡を境内とする神社⛩️ 本丸とその外を分離する水堀を渡ったばかりの場所に…上杉鷹山(うえすぎようざん)公の像がありました(1枚目)

この人物は米沢藩の財政が崩壊寸前のところを…財政改革に産業奨励、城下の村々の蔵に備蓄をおこない、天明の飢饉においては領民に1人の餓死者も出させなかった。あのジョンFケネディから「政治家で最も尊敬する人物は上杉鷹山だ」と言わしめるほどの存在

周辺には「上杉鷹山公を大河ドラマに」と謳うのぼりがあちこちに掲げられてました。確かに鷹山のおこなったことは「財政は建て直す、けれど犠牲者は出さない」という点で素晴らしいものだと思います…

が、今年(2025年)の大河でほぼ同時期を舞台とした「べらぼう」をやってるので正直選ばれにくいのではないでしょうか?この時代(江戸中期)は戦国期のように人気ある様子ないし😅

鷹山像からまた少し先に行った場所に…天地人の像(2枚目)が。どっちがどっちまでは覚えてませんが…上杉景勝と直江兼続の2人である事は確かです。平成21年の大河ドラマ「天地人」…おそらくそれと同時期もしくはその後に…これが作られた

主従像…と小さく彫られてますね。上杉謙信の養子となり家督を継いだ景勝。しかし関ヶ原の戦いで西軍についてしまった因果で、石高を120万石→30万石に大きく削られ、米沢に減封となった。それでも兼続は景勝についていき、終生その主従関係は途絶えなかった

上杉神社について…まず本堂で参拝。それから社務所に行って御朱印を授与しました。鳥居から見える本堂ならびに神社境内を撮影したのが3枚目

上杉神社の他に松岬神社(上杉神社より手前に存在する神社)の御朱印も扱ってました。「せっかくここまで来たんだから、まず両方のを描いてもらおう」「松岬神社の参拝はその後に…⛩️」と考えた私は…両方を希望

それにより描いてもらった御朱印が4枚目。(一目瞭然ではありますが)右が上杉神社、左が松岬神社のとなります。前者には「羽前米沢」、後者には「なせば成る」の言葉添え…なせば成るとは鷹山公の名言…というか座右の銘らしい

「御朱印もらったからには、該当する寺社はなるべく訪れる」というのが我がポリシー。カタはきちっとつけるという事で…松岬神社を参拝しました(5枚目)⛩️

上杉神社もそんなに広くはなかったけど…ここの境内はそれより小さめ。奥に見える本堂でお参り。その側に立つ建物の扉に「御朱印は上杉神社にて受付しております」の案内書が貼ってあり、「ああ、だからあそこでここの御朱印も受け付けていたのね😏」と繋がりました

ちなみに上杉神社の境内には、米沢観光コンベンション協会観光案内所という施設があり、そこで米沢城の御城印販売。あと日本100名城スタンプの設置台がありました

外観からでは少し分かりづらくもありましたが、近づいてみたらそれだと分かったので…逃さずに御城印とスタンプを獲得。さらには直江兼続の武将印と上杉景勝の墨将印も便乗買い…しちゃいました

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しんちゃん

結局 大池か・・  さらば金魚 (2024/06/29 訪問)

香川先生の書かれた高天神城の図にも堰が築かれた大池が描かれています(ググってみてください)。大事な水の手なのでここを城兵が守っていたのではないでしょうか。
広島藩主浅野家に伝わる浅野文庫所蔵「諸国古城之図」の中に「高天神城」もあって、大池は枯れ、はるか南東に溜め池が描かれています。伝承が確かであれば、井伊直政によって堰を切られた大池の水がここに溜り、農業などに転用する目的で新たに堰を築いたのかもしれません。良く見ると大池の下流に二重の堰の跡らしいものも見えます。残念ながら現在の周囲の地形は大幅に変わっており、それらの遺構を確認することは出来ません。
掛川市の文化財課の方に聞いてみると、二の丸跡の発掘調査で大量の瓶(かめ)が見つかったそうです。瓶の中には穀物などの有った形跡は無かったそうなので、雨水や大池の水を溜め置いたものでしょう。やはり城内では水を自給できなかったようです。
ちなみに「かな井戸」の猫の話や「諸国古城之図」などのヒントもこの方から頂きました。おそらく、この御人は全部見当がついていると思うんですよ。知っていて、はっきりとは教えてくれない・・「自分で考えて見なさい」ということだと思います(感謝)。
自分の考えが及ぶのはここまでです。「高天神城」の水の手の新しい情報があったら是非、教えていただきたいと思います。

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しんちゃん

高天神城の水の手の謎 (2025/01/19 訪問)

高天神城の築かれている山は古大井川の流れが運んできた堆積物によって成る高天神礫層で形成されています。この地層、とても水はけが良いです。逆に言えば非常に水持ちの悪い山です。
そんな山に築かれているので、高天神城の城兵は水の確保に苦労したと思います。三日月池(金魚・・)は通年水を湛えていますが、これは下にコンクリートを張って有るためです。規模も小さいので水の手の候補からは除外します。

水の手と思われる箇所は三つ。一つ目は井戸曲輪にある「かな井戸」、城内にある井戸らしい井戸はここだけです。
二つ目は二の丸の北の谷を降って行った先にある「沢」・・でも今年1月に訪問した時には水は流れていませんでした。冬季には沢の水も枯れているようなので、これは水の手としては有力ではありません。
三つ目は・・現在の大池のある場所に築かれていたであろう「ため池(大池)」江戸時代に書かれた古城の図には大池の南東へしばらく行った先に池らしきものが描かれています。

かな井戸に話を戻すと、かな井戸のある曲輪はおおよそ標高110m前後の位置にあります。数年前、かな井戸にのら猫が落ちたという事件があり、その救出作業の際に井戸の深さがおよそ13mであることが解りました。救出者の証言では井戸の側面に採掘の跡は無かったとのことです。
24年の6月21日ごろに、ある程度のまとまった量の雨が降ったので翌日に訪問してみました。井戸の底の標高は※標高97m前後だと思いますが、登城道の脇から水がどんどん染みだしていました。それが※標高97mあたりの場所なので、おそらく井戸にはほとんど水が溜まっていないはずです。実際に「かな井戸」には水が溜っているようには見えず、この程度の雨では役にたたないようです。
6月末に記録的な大雨が降ったので、訪問してみると数mは水が溜っているようでした。でも、すぐに下に染みだしていってしまうと思います。かな井戸がなぜ残されていたのかは不明ですが、これも水の手としては機能が不足しているようです。

となると残っているのは「大池」のみ。現在の大池の近くに池曲輪と呼ばれる曲輪があります。おそらくここから水を汲み上げていたのではないでしょうか?

※投稿内の標高の注記は記憶による部分が多いです。改めて地理院地図で調べた結果、一部を修正いたしました。

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しんちゃん

三日月井戸の金魚はどこに? (2025/01/19 訪問)

イオさんの「麒麟がくる紀行」楽しく読ませてもらいました。このところ会社が暇なので、空いた時間でこっそり読んでいます。できればまとめて読みたいので各々持論をまとめておけるコーナーみたいなものが有ると嬉しいですね。
高天神城は比較的近いので、24年から4度ほど来ています。トクさんの投稿にあった「高天神城の水の手」は私も気になっていたので調査も兼ねています。高天神城の武田方の命運が尽きた天正9年(1581)の城攻めは、乾燥した冬季に決着が付きました。
この際に井伊直政が間諜(忍者?)を用いて、用水を切り落としたので速やかに落城した、という逸話が残っています。城内の水源になりそうな場所は限られていますが、おおよその見当はついています。
久々に来たので北側の登城道の途中にある三日月井戸を見に行きます。この井戸は湧水が溜って出来た天然の井戸なのですが、2019年以前から金魚が住みついています。おそらく誰かが持ち込んだのでしょうが、井戸に自生する藻などを食べて生活しているようです。一時期より減ったものの三匹が生き残っていたのですが元気にしているかな・・?
居ない・・金魚がいなくなっています。猫の仕業でしょうか? それとも誰かが連れ去ってしまったのかな?
水の手も気になりますが、こちらも気になるわ・・

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にのまる

一期一会の出会いあり (2025/01/24 訪問)

佐伯駅から徒歩で最初に向かったのは城友さんおすすめのごまだしうどんのお店、味愉嬉食堂さん。以前ごまだしをクール便でいただいたことがあり、こんど佐伯城にいく時には是非お店に、と思っていました。
味変過程が楽しくて美味しいごまだしうどんをいただき、マスターともたくさんお話しして、お土産にごまめを購入してから登城スタート。
前回は登城の道から登って翠明の道から下ったので、今回は独歩碑の道から登ってみました。3つの道の中ではいちばん緩やかな道です。ここからしか見られない眺めもあり、楽な道だからと避ける必要もないなと思いました。
本丸で暫し景色を楽しんでから、前回行かなかった若宮の道を下って雄池と雌池に行ってみました。どちらも石垣で囲われており、地下からの湧水と斜面から流れる雨水を溜めていたそうで、さらに県指定天然記念物のオオイタサンショウウオの産卵場所になっているそうです。(現地解説板でお勉強。)これからは山城に行ったら水の手に注目してみようと思いました。
北出丸、本丸に戻ってきたところで地元の方がお声がけ下さり、城下の景色を見ながら佐伯の戦前からの歴史についてお話しくださいました。
初訪問であれば二の丸や西出丸の方へ行きたいからとお話を断っていたかもしれませんが再訪なので絶対にそちらへ行かなければならないということもないので、その方のお話を伺いながら独歩碑の道から一緒に下山しました。地元の方だからこその思いもお聞かせいただけてとてもいい時間を過ごせました。
城下の方々との触れ合いが楽しい佐伯城訪問でした。

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トク

【対馬4城を巡る】(1)清水山城(2/2) (2025/03/22 訪問)

(1城目)清水山城の続き(2/2)です。

三ノ丸からさらに20分程登ると二ノ丸に着きました。入口は、巨石で積み上げられた内桝形虎口になっていて、その上は櫓台になっていました(写真①②③)。大きさは東西50m南北30mで平たく削られています。この二ノ丸が一番大きいようです。という事は、ここには多くの兵が待機できる建物があったのかもしれません。

そしてさらに15分程登り、山頂の一ノ丸へ着きました。麓からは見学時間も含め約60分かかりました。登山道には岩のでこぼこが多いので、底の薄い靴でなく軽登山用の靴がオススメです。ここから見下ろした厳原の眺めはとても気持ちよく、やはりここまで登ってきた甲斐がありました(写真⑤)。

一ノ丸の虎口は二重になっていて、直進できないよう喰違い虎口になっていました(写真⑥⑦)。しかし全体的に自然の大きな岩盤が残っていて平坦な場所は無く、とても兵が待機できる場所だったとは思えません(写真⑨)。おそらく建物も無かったと思います。ならばなぜここをこのような厳重な虎口まで作って一ノ丸にしたのか? 意図がわからずちょっとモヤモヤです。これでは兵站基地としての役目は不可能です。兵站基地や御座所としての役割は、結局麓の金石城が担っていたのではないかと思いました。よって清水山城の築城は監視所としての役割もありますが、もしかして秀吉の威厳を示し渡海におびえる兵士たちを鼓舞する事が目的だったのでは?

現在の山は木に覆われ、登り石垣は下からは全く見えませんが(前回写真①②)、当時は木など無かったのでよく見えていたと思います。よってここ清水山城は、本当は兵站基地としてではなく、一ノ丸には豊臣の旗を立て、それを朝鮮へ渡る兵士たちに下から見上げさせ、さらに兵士たちはこの三ノ丸から一ノ丸までの二つの上から睨みつけるような500mにわたる長大な登り石垣を見た瞬間に、もう太閤様には逆らえない、我々は朝鮮へ渡り戦うしかない・・・そう思わせ最後の覚悟を決めさせるための城だったのではないか?・・・と思ってしまいました🤔。

次は(2城目)金石城へ続きます。
 

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イオ

麒麟がくる紀行(謎に満ちた生涯)

(続き)

明智光秀の首は粟田口に晒された後に蹴上付近に首塚を築いて埋められたと伝わり、江戸中期に首塚の石塔婆が白川橋近くの現在の位置に移されて、明智光秀首塚(京都市東山区)として守り継がれています。また、京都府亀岡市の谷性寺にも光秀の首塚が祀られています。谷性寺本尊の不動明王を深く崇敬していた光秀が、自らの首を谷性寺に埋めるよう溝尾茂朝に託したんだとか。京都府宮津市の盛林寺にも光秀の首塚があります。こちらは細川忠興に嫁いでいた玉のもとに届けられた首を葬ったもののようです。生誕地が6か所もある光秀ともなれば首塚の3か所くらいは当たり前ですよね……って、キングギドラじゃないんだから(笑)

首塚は3か所(もっとあるかも?)ですが、供養塔や位牌や光秀像はあちこちに祀られています。生誕地のうち、岐阜県可児市の天龍寺には日本一大きな光秀の位牌(と木像)が安置され、岐阜県恵那市の龍護寺には光秀の御霊廟(おはか)が、岐阜県山県市の中洞白山神社の奥には光秀の墓と伝わる桔梗塚があります。越前には朝倉氏に仕えていた頃に住んでいた東大味地区に「あけっつぁま」と呼ばれる墨塗りの光秀木像を祀った明智神社(福井市)があり、光秀の領地では、坂本城下の西教寺(滋賀県大津市)には光秀と一族の墓や光秀と熙子の位牌が、周山城下の慈眼寺釈迦󠄀堂(京都市右京区)には「くろみつ大雄尊」と呼ばれる墨塗りの光秀座像が、福知山城下の御霊神社(京都府福知山市)には福知山の町を開き水害を治めた光秀が祭神として祀られています。御霊神社には「明智家法」など、光秀のものとされる書状も三通伝えられているようです。また、光秀が討たれた明智薮を寺領とする本経寺(京都市伏見区)の境内にも光秀の供養塔が建てられています。

さて、大河ドラマ「麒麟がくる」では光秀の最期は描かず、どこかで生きているんじゃないか、との希望を抱かせるようなラストでしたが(ネタバレすみません)、源義経がジンギスカンになったように、真田幸村が豊臣秀頼を護って薩摩に落ち延びたように、光秀にも生存説はいくつかあり、最も有名なものは南光坊天海として徳川家康に仕えたという説でしょうが、生誕地のひとつ、岐阜県山県市の中洞地区にも生存説が伝わっていて、曰く、山崎の戦いの後に討たれたのは影武者で、光秀本人は故郷の中洞に落ち延びて暮らした後、家康の求めに応じて関ケ原の戦いに向かう途中、増水した川に流されて亡くなったとのこと。上記の桔梗塚は「溺死した光秀」の墓なんですね。

…ということで、6か所の生誕地に始まり、美濃や越前での動静も不詳、本能寺の変の動機は日本史最大の謎ともいわれ、首塚は3か所あり生存説もいくつかあるという光秀の謎に満ちた生涯をたどってきましたが、没後440年を経た今なおあれこれ取り沙汰されるのは、そうしたくなるだけの魅力ある人物だということなんでしょうね。この5年あまりの間にも坂本城三の丸の石垣が発見されたように、これからも光秀の謎を解く手掛かりとなる発見があることを期待して、私の麒麟がくる紀行をひと区切りとしたいと思います。長らくお付き合いいただきありがとうございました。
 

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