豊臣秀長ゆかりの人物の陣跡めぐり(2人目)です。藤堂高虎の次は、豊臣秀保の陣跡を訪れました。
豊臣秀保とは、豊臣秀長の娘婿養子となり、秀長死後には大和中納言に任ぜられ、秀長の家督(大和郡山城100万石)を継いだ人物であるという事を、皆さんは御存知でしょうか🤔?
名護屋城博物館入口から、今度は国道を南西方向に30分(2km)ほど歩いた場所に、豊臣秀保の陣跡はありました。入口には「大和中納言」と刻まれた石碑が立っていました。
名護屋城に造られた陣は約150あると言われていますが、秀保の陣はその中でも家康・利家と並ぶ最大級の広さであったようです。秀長亡き後の秀吉は、秀保を秀長の代わりの副大将格に据えていた事が想像できます。当時は20ヘクタール(東京ドーム4個分)の敷地に、1万5千の兵を収容していたとか。現在はその内の、50平方メートル(館跡部分のみ)が保存されています。館の周りは2~3mの高さの石垣に囲まれ、当時はその上に塀があり、表門と内門は桝形で仕切られていました。そして内門の中は、書院や御座の間や数寄屋や庭園まで伴っていた、とても優雅な御殿作りの陣であったようです。
1594年「文禄の役」の時、秀保はまだ若干16才でした。渡海はとても無理なため、家老の藤堂高虎が秀保に代わり渡海し戦ったようです。
秀保は、もともとは秀吉・秀長の姉である智(とも)の三男で、兄には秀次・秀勝がいました。1591年の秀長が亡くなる直前、慶(ちか)は秀長の後継ぎがいない事を憂い、幼い長女三八(みや)の婿養子として当時13才の秀保をもらい受け、跡取りとして大和郡山城を継がせます。そして秀長は安心したのかそのわずか18日後、大和郡山城で亡くなってしまいました。そして抑えを失った秀吉は、朝鮮への出兵を開始します。
しかし文禄の役が終わった翌1595年、秀保も郡山へ戻った後、十津川温泉で療養している最中に、突然亡くなってしまいます。疱瘡だったという病気説や、川で溺死したという事故説や、突き落とされたという殺人説もあり、死の真相は未だ謎に包まれています。また葬儀も、秀吉の命により行われなかったようです。
また同年、秀次は秀吉により自害させられて亡くなり、その妻子までもが処刑させられます。秀勝は出兵の最中に、朝鮮で謎の死を遂げています。
まさか秀吉は・・・😯! 文禄の役の最中に淀との間に生まれた「秀頼」に豊臣家を継がせるため、邪魔な豊臣姓の男子を全て殺して行ったのではないでしょうか?(😱~!)。と推測した私は考えすぎでしょうか? いずれにせよ、これにより後継ぎのいなくなった郡山豊臣家は、断絶してしまいました。
道路を挟んだ山の上には、当時秀保と同じ16才であった堀秀治の陣跡がありました。私はそこから秀保の陣跡を、桜越しに眺めてみました(写真⑩背後の山全体が豊臣秀保陣跡)。文禄の役から1年後、わずか17才で生涯を閉じてしまった豊臣秀保・・・。彼は本当は、どんな人生を歩みたかったのでしょうね。そしてこの時、与一郎に続いて秀長や秀保までも失った慶(ちか)の悲しみは、いかばかりだったのでしょうか?
次からは、秀長の但馬平定を追って行きます。
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