石垣群 攻め手を圧倒 熊本城
(いしがきぐん せめてをあっとう くまもとじょう)
熊本城と言えば迫力のある「石垣群」が一番の見所だと思っています。「武者返し」と呼ばれる石垣の勾配。連続させている枡形等々。
西南戦争の舞台となった熊本城。西郷隆盛卿でも陥落させれなかった城です。
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2025/08/25 19:07
2025/08/25 15:52
2025/08/25 14:51
2025/08/25 12:03
【赤色立体地図かるた】 (2019/05/16 訪問)
①「行幸橋 清正公護る 熊本城」(みゆきばし せいしょうこうまもる くまもとじょう)
②「熊本は 三種の天守 揃い踏み」(くまもとは さんしゅのてんしゅ そろいぶみ)
③「甦る 飯田五階櫓 熊本城」(よみがえる いいだごかいやぐら くまもとじょう)
④「大地震 めげずに復旧 熊本城」(だいじしん めげずにふっきゅう くまもとじょう)
⑤「復旧を 楽しみに待つ 熊本城」(ふっきゅうを たのしみにまつ くまもとじょう)
熊本城へは50、60年前にJR九州周遊券汽車の旅城廻が初登城、以来九州熊本出張の時間の合間を利用して訪ねて居ります、定年退職10年前には九州には仕事関係で年に2,3回訪ねて居りましたので、熊本城にも空いた時間を利用して訪ねて居りました。
その頃、甦る熊本城として熊本市が現存櫓以外に復元建物を次々に実現させて、馬具櫓、数寄屋丸二階櫓、西出戌亥櫓、奉行丸未申櫓、西出丸西大手門と南大手門、ついに大型建物飯田丸五階櫓、本丸御殿、竹の丸馬具櫓再復元工事中に大地震が平成28年(2016年)4月14日21時と17日1時に震度7の大地震が連続で発生、甚大な被害と成りました。次の計画であった百間櫓と西御門の復元を夢見ていた時期でも有り驚愕しました。
大地震の復旧復興は20~30年は掛かるそうですが生きてる内には全ての復旧復興を目にする事は無いでしょうが復旧の都度都度に訪ねられたら良いのかなと思っております。
熊本城の復旧復興を応援しております。
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2025/08/25 11:09
2020.12.13登城 (2020/12/13 訪問)
所沢駅の南東の北秋津地区に北秋津城址があります。
辛うじて城址とされる山林が残っており、土塁や空堀がある様ですが、宅地が進み、マンションや戸建てに囲まれて、アプローチは困難な状況です。
道路を挟んだ向かい側に日月神社があり、そこの御神木の伝説に北秋津の領主が登場していました。
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2025/08/25 06:33
お盆帰省の城めぐり⑤ (2025/08/14 訪問)
下野藤岡城からの転戦です。堀田佐野城址公園として庭園風に整備されています。グーグルマップの佐野陣屋跡のポイントには、説明板がありました。説明板のアップの写真は撮れていたのですが、城址碑を含めた全景の写真は撮影できていませんでした。高温によってミラーレス一眼レフの動作がかなり不安定にはなっていたんですよね。ということでここも再訪を期したいと思います。移築門もまだチェックしていませんしね。
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2025/08/24 22:57
破城いろいろ② 金山城・小里城・妻木城 (2024/12/18 訪問)
東濃を代表する山城を三つ、まあ他にも有りますが。「鬼武蔵」と呼ばれた森長可の死後、森家の家督は弟の忠政が継ぎました。慶長5年(1600)関ヶ原の合戦前に忠政は信濃へ移封となり、金山城は犬山城主・石川貞清の管理下に置かれ、建築物を解体して犬山へ運び込んだとされています。破城もこの時期に行われたとされ、二の丸や本丸の石垣も入念に崩してあります。駐車場となった出丸の石垣は復元されたものですが、奥の方は古い石垣が残っているそうです。秋にはイベントが有るので、また訪れる予定です。というか、できればもっと早く訪れたい。そろそろ地域限定城めぐりが始まりますね。
小里城は織田信長の岩村城攻めに際して、池田恒興が改修を施しました。岩村城落城後の天正4年(1576)織田信忠が訪れ、城の普請を行い小里光久に渡しています。城は一時、森長可の手に落ちますが、関ヶ原の合戦で小里光親は旧領3620石を回復して登城口の近くに陣屋を構えました。徳川家に仕える旗本となり陣屋を構えたことで、山上の城は不要となり破城となったようです。
元和9年(1623)小里氏は嫡子無く断絶となり、麓の陣屋も壊されました。天守台の石垣は良く残っていると思いきや、後世に修復されているようです。うまく直しよる・・往時の姿が思い浮かばない。主郭周辺の石垣は崩れていますが、自然に崩れたのか破城を受けたのかは不明です。なんにせよ金山城も小里城も同時期に破城となり、それ以降はあえて形状の変更は受けていないようです。
妻木城は明知光秀の妻・煕子さんの実家とされています。妻木氏は関ヶ原の合戦で本領を安堵され山麓に居館を築き、そこで政を行いました。山の上の城は元和年間には放棄されたようですが、石垣は崩されているように見えません。建物だけ撤去したのでしょうか?
この辺りは岩がゴロゴロしていて花崗岩の節理もあるので、見た目的に少しカオスです。
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2025/08/24 22:32
岩殿城 登山編 (2025/08/24 訪問)
https://okaneosiroblog.com/%E5%B2%A9%E6%AE%BF%E5%9F%8E%E3%81%AE%E5%BE%A1%E5%9F%8E%E5%8D%B0%E3%82%84%E9%A7%90%E8%BB%8A%E5%A0%B4%E3%80%81%E7%99%BB%E5%9F%8E%E5%8F%A3%E3%80%81%E8%A6%8B%E3%81%A9%E3%81%93%E3%82%8D%E3%82%92%E7%B4%B9/
三嶋神社から歩いて3kmほど…畑倉登山口に到着
そこから山道へ🚶♂️
登山口付近に位置する畑倉神宮(←神宮と言っても小さな社があるだけ😅)にて登頂を祈願
45分くらい歩く…時にはどこを登ればいいか分からなくなった場所も…「右と真ん中は坂が急で登るの無理そう…」「左か?あ…続いてた…よかった😅」みたいな
夏場という事で結構汗をかく…背中がびしょ濡れでリュック背負うのがイヤなので抱っこ🎒
途中の道で何度がしゃがんで…水飲みながら休憩…そこそこキツい😓けれど私は富士登山を控えてる身…これしきの山で挫けるわけにはいかない
これはあくまで修行の一環…予行演習だ!
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2025/08/24 20:55
2025/08/24 20:15
【赤色立体地図かるた】 (2011/07/13 訪問)
①「総石垣 近世の始まり 安土城」(そういしがき きんせいのはじまり あづちじょう)
②「淡の海 金箔輝く 安土城」(あわのうみ きんぱくかがやく あづちじょう)
③「信長の 天主も三年 安土城」(のぶながの てんしゅもみとせ あづちじょう)
安土城へは50~60年前に初登城以来何回となく訪ねて居りますが、初登城時は今の発掘された大手道は無く東側の摠見寺への道を登って黒金門跡本丸天守台に登って行きました、又百々橋口登城路からの昇り降りで入城料は無しでした。
現在は大手道石段の発掘、大手道沿いの屋敷郭の発掘が進み奇麗整備されて有料入城と成り、登り口は大手道のみ、百々橋口は閉鎖されて元摠見寺跡、三重の塔、仁王門からの下城は途中で大手道への迂回と成って居ます。
黒金門跡の鏡石枡形、二の丸信長廟、本丸跡、天主台跡の礎石と総石垣の安土城を思う存分楽しむ事が出来ます、光り輝く天主閣は天正4年(1576年)1月築城開始し天正7年(1579年)5月天主閣完成し信長移り住む、天正10年(1582年)6月本能寺の変で信長は無くなり、その後焼失しています。城下から琵琶湖から金箔で光り輝き聳え立つ天主閣は3年で信長の夢とつゆと消え去りました。
天守閣、櫓、瓦葺き、石垣を用いた織豊系城郭の始まり、城郭建造の始まりは安土城で城の大先達であります。
投稿写真の1、2、3、4は2010.5.22撮影。5、6は2011.7.13日撮影です。
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2025/08/24 19:07
陸奥国最北端の古代城柵 (2025/08/13 訪問)
盛岡から花巻へ車で向かう途中、突然大きな城門が現れた。何?何?と思い、とりあえず戻って確認してみると、志波城なるものが。これは見ずに帰るわけには行かない!ということで、急遽見学することに。
まずは新しく綺麗な案内所で涼みながら、志波城成り立ちのビデオを鑑賞。
志波城は、「803年に桓武天皇の命を受けた坂上田村麻呂によって造営された陸奥国に十数か所作られた城柵のうち、最も北に位置し、その規模は陸奥国府多賀城に匹敵する大規模なものだった。」とのこと。
今日は快晴で気温も高いので、暑さ対策をバッチリして、いざ見学へ。
長〜い築地塀の真ん中に外郭南門があり、この門の手前には外大溝が続いている。長すぎて、どこまで続いているか肉眼では確認できないほどだ。門をくぐると、復元された堅穴建物あり、こちらは中に入っての見学が可能だ。南門から北門までは、とにかく遠い。気持ちが萎えかけていると、一面のひまわり畑が!今日イチの絶景!!これを見られただけでも来た甲斐があったというものだ。
多賀城に匹敵する大きさを体感したころには、かなり疲れ果ててしまった。
なんとか花巻に到着して、待ちに待ったクラフトビールにありつくと一日の疲れが吹き飛んだ。至福の時である!
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2025/08/24 19:04
碧空と 波を想わす 入母屋の 破風の重なり 大海の如し (2025/08/02 訪問)
写真は2023年11月に訪問した際に撮影したものになります。
福知山は地元の隣ということもあって子供の頃何度も近くを通りましたが、登城は3回目。
今回は大阪から丹波路を経由し、途中で玉巻(久下)城や黒井城の城山を車窓から望みました。
往路の特急は冷房が効きすぎていて寒いくらいでしたが、現地はそれを帳消しにする暑さでした。
今回は太鼓橋(昇龍橋)を渡ったあと本丸西面を目指して歩き、現存する銅門番所を見てから天守台の転用石をゆっくり眺め、豊磐の井(井戸)を見て天守閣へ。
転用石ですが、福知山城では約500のそれが確認できます。
城の石垣では最多かと思っていましたが、大和郡山城では倍近く確認されているみたいですね。
内部の展示で特に興味深かったのが、本能寺の変 原因説50(50だったかな?)。
八上城で光秀の母が磔にされた話は現在ではフィクションとされているので記載はなかったです、、
あれ個人的には好きなんですけどね。
八上城内には「はりつけ松跡」が残るくらい、地元 丹波篠山の方たちはあくまで昔話的な立ち位置として強く推しているように見受けられます。
最上階からは鬼の伝承で知られる大江山や、光秀の治水事業の名残である由良川とその堤防(明智薮)が望めます。
ランチはすぐ側のゆらのガーデン内にある「Cafe Bar&Live お城の下で」でいただきました。
その後に「福知山鉄道館 フクレル」に立ち寄りました。
子供の頃、市内にある「ポッポランド」という施設に行った記憶があるんですけど、
調べたところポッポランドが休館になって新設したのがフクレルらしいです。
丹波平定を成し遂げた光秀が、その威厳を示すかの如く築き上げた天守閣。
その外観は平面・妻面ともに稀有で奇怪ではありますが、それが却って道行く人の目を魅きつけます。
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2025/08/24 18:46
2025/08/24 15:02
チンチロリ~ン (2025/01/07 訪問)
AIとやらの回答だと松虫は8月中旬から11月下中にかけて成虫が見られるらしい・・そろそろですな、でもチンチロリンと鳴くのは晩秋になり気温が下がった時らしい。やはり風情って大事なのね。はやく涼しくなってくれ。
最近は近所の田んぼもソーラーと化して、カエルの合掌もめっきり少なくなってしまった。日本の季節ごとの風情がだんだん薄れてくな~
松虫城は私有地の為に入れません。城郭大系に記載があるけど、二行だけ。西南部に土塁と空堀があるって・・松虫寺との関係は?
とりあえず行ってみると・・静かだ・・詫び寂び感ある。松虫君は居るんだろうか?
「温暖化に 負けずに頑張れ 松虫君」
「寂び寺に 今年も響け チンチロリン」
城はどうした・・?
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2025/08/24 14:38
曼荼羅 (2025/01/07 訪問)
長島高城は別名・長島屋敷といいます。土地の伝承では、かつてはここに「長島殿」という人物がいて城を構え城下の港を押えていたそうです。また太田新六郎が葛西郡の内、長島・高城に二貫文の役割を有していたとも・・少なっ
今は清光寺の境内になりますが、このへんは海抜ゼロメートルになるのかな?
このあと、ガンダムベースに向かいました・・何買ったんだっけ? 最近ガンダムベースに行っても良い品が無い。入場規制やってるうちに欲しい物が売り切れてしまってます。プレバンでマンダラガンダムも予約しそびれました。ダマで売るのやめてくれ~。お寺の写真見たら、また欲しくなってきた。
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2025/08/24 13:50
【赤色立体地図かるた】 (2016/05/05 訪問)
①「石造り 城のはじめは 観音寺」(いしづくり しろのはじめは かんのんじ)
②「壮大な 曲輪でうまる 観音寺」(そうだいな くるわでうまる かんのんじ)
9年前の平成28年5月5日日帰りで滋賀県、福井県城探訪、何回となく安土城へ登城の折りに相対の観音寺城を眺めて居ましたが観音寺城へは初登城でした、車で近くまで登れると言うことで中腹の料金ゲートで通行量を払い細い道離合困難?を進行対向車が来ない事を祈るがタクシーが降りて来た、左一杯タイヤを寄せてギリギリの通行冷や冷やでした、頂上辺りの観音正寺駐車場へ駐める。
駐車場から西へ平坦な道を約500m程で観音正寺へ、道すがら上下に曲輪跡が在る様な雰囲気も有るが良くは判らない、観音正寺本堂に参拝して、観音正寺の石垣を降りて本丸を目指す、本丸大手石階段を登って本丸内部へ、内部は樹木が鬱蒼と茂り薄暗い、桑実寺方向へ降りる喰違虎口石垣を確認して大手石段を降りて伝平井氏屋敷跡へ、観音寺城の紹介写真のトップは伝平井氏屋敷の正面虎口門の巨石門でしたので、是非見たいと訪ねました、後は壮大で巨大な曲輪群ですので案内無しでは無理な曲輪群ですので、巨石虎口門を確認して終了しました。
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2025/08/24 12:49
【赤色立体地図かるた】 (2015/10/24 訪問)
①「U字形 一山全体 小谷城」(ゆーじけい ひとやまぜんたい おだにじょう)
②「浅井氏が 三代栄し 小谷城」(あさいしが さんだいさかえし おだにじょう)
③「対織田戦 浅井の悲劇 小谷城」(たいおだせん あさいのひがき おだにじょう)
10年前の平成27年10月下旬、山城サミットin米原大会に合わせて城探訪、米原に宿が取れず大垣に宿をとる。岐阜の黒野城を訪ねてから小谷城へ初登城、当時は車で番所跡辺りまで車で登れて駐車エリアまで有りましたので登る。
番所跡、御茶屋跡、馬洗池跡、桜馬場跡、黒金門跡、大広間跡、本丸台に登り、大堀切、中丸、京極丸、小丸、山王丸手前の大石垣を観察し、山王丸へ、同好の方と山王丸で少々会話し、その方は先の城域、六坊、月所丸、大嶽城を探訪されると、分かれて私は元に戻り麓の資料館へ、宿の大垣に移動し夕刻の大垣城を探訪しました。
翌日は山城サミット米原大会に1日費やす。
小谷城は一山全体を城郭で囲んでおり、東側に出丸、金吾丸、番所、御茶屋、馬洗池馬屋、桜馬場、大広間、本丸、大堀切、中丸、京極丸、小丸、三の丸、北側に廻って、六坊、月所丸、大嶽城がピーク、西に廻って福寿丸、山崎丸で清水谷の屋敷群を守っていた大城郭でした。
浅井氏は京極氏の被官でしたが頭角を現し浅井亮政、浅井久政、浅井長政と三代北近江を抑えて戦国大名へ、長政は信長と同盟を結び信長妹のお市を娶り、同盟は堅固に見えましたが、織田信長の朝倉攻めで金ヶ崎で背後を襲う裏切り、信長の金ケ崎撤退、姉川合戦、信長による朝倉を滅亡させて、小谷城攻めが始まり、浅井久政自刃、長政自刃、長政長男は磔。お市と三姉妹は救出されましたが皆さまご存じの歴史の流れです。
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2025/08/24 12:18
あいさつ・おもいやり・いっしょうけんめい (2025/06/28 訪問)
この日の最後にお邪魔したのが「宍戸城」。
道沿いに『旧陣屋』と標柱がありました。この辺りの名称地には、このデザインの標柱が立ってます。
説明板の横に駐車場があり、お借りしました。
先土器時代から始まる説明板には、
源頼朝さんの頃、八田 知家さんが守護となり、四男の家政さんがこの地を治めたそうです。
戦国期は佐竹氏。
関ヶ原後は秋田氏。
江戸は水戸光圀さんの弟、頼雄さん。
幕末から現在へと、ぎゅっと凝縮された内容が記載されてました。
土塁の上には稲荷神社がお祀りされてます。
なんじゃ?あの家紋?
お賽銭箱の前に立て掛けてある、旧陣屋と丸三つ葉葵のコラボデザイン。Tシャツのロゴみたいで格好良いです。
この後、帰る途中に宍戸小学校がありました。一旦通り過ぎて『ん?』
引き返し見てみると、校章が角三つ葉葵でした。
葵の3つの葉には
『あいさつ・おもいやり・いっしょうけんめい』
の意味があるんだそうです。
校章として定めるにあたり、東京の松平家まで出向いて許可を頂いたんだとか。
どの時代を取っても、自由研究の題材になりそうだと思った「宍戸城」攻めでした。
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2025/08/24 12:06
城攻めの 上・中・下 (2024/01/26 訪問)
「城攻めは 上中下なり 石垣山(しろぜめは じょうちゅうげなり いしがきやま)」
自身の石垣山の投稿が多くなって来たので、これはただのお城川柳として投稿させていただきます。以前「上山城」の投稿で、沢庵和尚の教えの「政は上・中・下」を書かせていただきました。これは城攻めに当てはまる場合もあると思います。
豊臣秀吉の城攻めは「劇場」のような要素を持っていて、見る者や人づてに聞く者に多大なインパクトを与えると思います。
「鳥取城攻め」の場合は周辺まで陣城が迫り、下側から圧力を加えました。もちろん太閤ケ平からのプレッシャーもありますが、この位置的な意味の「中」は今回は省きます。
小田原攻めの場合は上側から圧力をかけています。小田原城内もしばらく揉めたようですが、黒田孝高と織田信雄家臣・滝川雄利らの降伏勧告に応えて開城しました。滝川雄利自身も小牧・長久手の合戦の際に松ヶ島城に籠城し、羽柴秀長の軍勢の前に降伏・開城しているので、使者としては適任だったのかもしれません。この場合は孝高と雄利が「中」の役割を果たしたのだと思います。
沢庵和尚の教えでは中は上と下の間に線を引き、口で意志の疎通をはかるとされています。
「開城の 意志も城主の 度量成り」
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