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サトシ城

桜満開の春日山城 (2024/04/12 訪問)

左回りで巡って、約1時間。すれ違う人々と「今日は最高ですね」と言葉をかわしていました。
地震の影響で一部侵入禁止の部分がありましたが、城廻には問題ありません。 帰りには林泉寺に寄って、謙信のお墓に手を合わせて来ました。

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天守無しがアツい

小机城址まつり (2024/04/14 訪問)

(URL)https://www.city.yokohama.lg.jp/kohoku/shokai/bunkakanko/jyoushimatsuri.html

小机城の御城印はすでに購入しており、実地見学をいつにしようかと考えていた頃、「小机城址まつり」というイベントが毎年4月に開催されていることを知り、ネットで検索したら(上記のURLに辿り着き)今年(2024年)は4/14に開催という情報を得た私

その日に現地(小机城)へ向かうことを決めました。小机駅の駅前広場にステージがあり、模擬店も。1枚目の和菓子(御城印焼)を土産として買いました🍪

空腹になったので赤飯も買い、付近にある城郷小机地区センターへ。そこは(落ちやすくはありましたが)Wi-Fiが使えたので赤飯を食べながらYouTube鑑賞をしました。一段落ついてから「小机城の歴史」を紹介したミニ展示を見学。その中にジオラマ(2枚目)があり、他の展示文を眺めた後に撮影しました

それから城址まで地図アプリを頼りにアプローチ🚶‍♂️アプリで終点となってる所が行き止まり…という計算外もありましたが、ガイドマップ(御城印を購入した際に一緒にいただく)の地図を見れば何なりと近づけました

途中に展示会があり、城址の歴史…過去のまつり開催時の様子…そして(3枚目の)城の模型が展示されており、リアリティをそこに感じたので(そばにいたスタッフに許可を得てから)撮影。あくまで製作者(スタッフの1人が造ったらしい)のイメージによるもので、風で少し倒れてしまったりもしたそうですが、実際の城はこんな感じだったのではないかとマジで思います

全部茶色…というか木の色で、絢爛豪華なお城とは程遠い存在ではありますが、あくまで戦闘時における、敵兵からの侵攻に対する防御に徹した建物ならびに空堀…としての姿がこれ…という事なのではないでしょうか?

城址に入るとキツい上り坂が入場者を待っていました…ここも山城。本丸広場に入ると風魔忍者ショーというイベントがおこなわれてました。まず剣(忍者の使用する忍者剣は普通の日本刀より少し刀身が短く、それが逆に屋内でも刀が壁に刺さりにくく、振り回すのに向いているとMCが語ってました)や苦無による演舞⚔️

それから見物客の中から希望者を募って演舞の体験…周りの様子を見てから手を上げようかなと最初は思っていたのですが、手を上げたのは全て子供…「1人だけ大人が手を上げて参加したら場違いだよな😅」という雰囲気を察したので今回は見物するだけにしました

参加者は全て子供…「子供限定」とは言ってなかったものの、場の空気からしてそれのようなものでした🧒👧 7歳の子もいれば4歳の子も…4歳の子は名前と「もうすぐ5歳になります」とは言っていたものの、その後のMCからの質問には無言…「忍者にとっては出身地を知られることはマズイので、黙ることも大事なんだよね〜」とポジティブなフォローを受けてました😅

上からの斬撃をしゃがんでかわし、下からの斬撃をジャンプでかわし、頭への斬撃を刀で受け止めてから、相手より早く斬る。刀で受け止める以外は相手に当たらない距離でおこなってました…子供の中には説明どおりに動けない子もいて、そばにいた忍者がその子の腕を動かして演舞を成立させてました

それから忍者同士の演舞…ある男性忍者がバック転…(回し蹴りに近いけど、相手に蹴りを当てるのではなく)脚を回して身体を斜めに回転させる技を見せており、「この動きは訓練しないとできないと思う…この人アクロバットの教室か何かで練習したんだろうな🥷」と思わず拍手しました

SNSへの投稿は大歓迎…とMCが語っていたので、最後の集合撮影にて私も1枚撮影(4枚目)。展示や上映中の撮影禁止というのは場所によりけりですが、逆に大歓迎というのはむしろ珍しいかも…です

余った時間を使って城址の中を散策。「中世の城について(5枚目)」の案内板を見てみると、横浜市内およびその近辺には数多くの城が建設されていたことが伺えます

その中で御城印を扱う城跡は横浜市内では四箇所(小机城、榎下城、寺尾城、茅ヶ崎城)ですが、つまり痕跡がしっかり残っており、歴史的史料にも記録があって整合性のとれるものはこれらだけ…ということなのでしょう。その他の城跡は痕跡が残っておらず(史料にその記載はあっても)どこにあるのかが正確に分からない(おそらく住宅地や商業施設と化してしまってるんじゃないでしょうか?

城址には幾つもの空堀が巡らされており、まず橋の上からそれを眺めて撮影してみました(6枚目)。ここからの位置が堀の深さが一番よく分かる場所に思えたので。深さは5mはあろうかというところ

階段を降りて堀の中に入ることもできました。他の城址だと入れないところばかりだったと思うので、こういう存在は珍しいと思います。堀の側にはタケノコが小さいながらも生えており「採取禁止、見かけたら警察に通報します」という注意書きが。畑泥棒する輩でもいるんでしょうかね…?タケノコの皮なら落ちていたけど

堀の底から撮影したのが7枚目。ここから上を見ると改めて深く掘られてるなというのが分かります。竹や木が生い茂っており、もしここに敵兵が落ちてしまったら上がってくるのは難しく、狙い撃ちにされたのではないでしょうか?

この城址が建設された室町時代…ここはあくまで戦争時における防御機能としてのみ使用された…それが今はお祭りの会場となったりレジャーシートを敷いてのんびり過ごしたり、チャンバラごっこをする子供がいるわけですね

富士仙元という場所が本丸から少し離れた場所にあることをガイドマップを読んで知ったので、「まだ時間あるから行ってみよう」と考えて歩きました。一度城址から麓に降りて高速道路の下にあるトンネルをくぐり、そこから民家を抜けて階段を上り、さらに坂を時計回りに登った先にそれがありました(8枚目)

「ここから先には無さそう…けれど念の為に行ってみるか…」と思いながら歩いた先にあったため、もしそこで引き返していたら目にする事ができないまま…でしたね

「富士仙元大菩薩」と石碑には書いてあり、お墓とは異なるけど、仏教関係のものと思われます。御賽銭が置かれていた…1円玉や5円玉が数多く散在しており、私はそこに10円玉をお供えしました🪦

自宅に帰り、小机城の訪問および見学を達成したので(予め購入しておいた)御城印を印帳に収めました…9枚目の左がそれ。ちなみに城址までの途中にも御城印の別バージョンが売られてましたが、私にはとりあえず…この1枚で十分でした

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イオ

楠木七城のひとつ (2024/01/28 訪問)

南北朝期に楠木正成が楠木七城のひとつとして築いた城で、室町中期には畠山義就が籠った嶽山城(龍泉寺城)の支城として嶽山城の戦いで落城していますが、その後も畠山氏の内紛の舞台として活用されたようです。

嬉町自治会館のチェーン前に駐車させてもらって登城開始。あちこちに案内表示があるので迷うことなく登城口に到着。防獣柵のゲートを開けて少し登ると、金胎寺跡が広がり説明板が立てられています。金胎寺跡から5分ほどで「馬廻し」の分岐の表示があり、登城道をそれて行ってみると、金胎寺城を攻めた北条軍が山の険しさに馬を廻して帰ったことから馬廻しと呼ばれるんだとか。馬廻しから3分ほど登った数段の削平地は楠木軍兵舎跡と伝わります。やはり地元では楠木正成の城なんですね。

中間展望台を過ぎたところで、右手(西側)の笹藪が道状に切り開かれていたので行ってみると、山頂から北西にのびる尾根の曲輪群が木々を伐採し藪を刈り払って整備されていました。曲輪群の奥からさらに続く笹藪を切り開いた道(?)を進んでいくと、南西尾根の堀切の堀底にたどり着きました。さらに南西にはもう一条の堀切があるようですが、藪に沈んでいてよくわかりません。堀底から上がったところの曲輪(桜公園)を抜けて、今度は北尾根の堀切に向かうも、こちらも藪が激しく近付くことさえできずに断念…。楠公さんの隠し井戸も(先達の投稿のとおり)笹藪の中に隠されていて見付けられませんでした。最後に山頂部の主郭に登ると、北西に大阪平野が広がり、東には赤坂城塞群が築かれた金剛山からのびる支脈が見渡せます。楠公さんが支城とし、戦国期に至るまで活用されたことが納得できる眺望でした。

隠し井戸も堀切も藪に沈んでいたのは残念ではありますが、笹は刈っても刈ってもすぐに伸び盛ることを思うと、主郭周辺だけでなく北西尾根の曲輪群も整備してくれているのは本当にありがたいことだなぁ、と頭の下がる思いでした。
 

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しんしんちゃん

かつては土岐氏の守護所  (2024/04/14 訪問)

長森城は美濃国守護・土岐頼貞の次男・頼遠により築かれたとされています。頼遠は南北朝時代に足利幕府方として北畠顕家と青野ヶ原で戦いますが、顕家軍6万余に対して、頼遠の軍は700余騎で一時間ほどで300騎が討たれてしまったそうです。残った頼遠の軍は顕家の弟で2万騎を預かる春日少将(北畠顕信)の軍に駆行って戦ったものの20騎ほどまで激減して長森城に退いたそうです。頼遠はこの戦いで左の目の下から口脇まで斬られてと、散々な目に合ったようです。
頼遠は後に光厳上皇に不敬を働き誅殺され、弟の頼康が美濃・尾張・伊勢の三カ国の守護として跡を継ぎます。頼康が革手城に移った後は頼康の甥・詮直(直詮?)が城主になります。応永6年(1399)大内義弘が起こした応永の乱に呼応した肥田満康らが大森城に入ると、美濃守護・土岐頼益は急ぎ和泉の陣から帰国し、詮直らと戦い詮直は敗死し、満康らもこの時に討たれたものと思われます。

現在は切通観音の脇に切通陣屋の碑と案内板が立っています。切通陣屋は宝暦5年に陸奥国磐城平に移封となった安藤氏が美濃国内に1万8千石の加増を受けた際に領地を支配するために築いたとされています。

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todo94

近江の城めぐり⑤ (2024/03/09 訪問)

金ヶ森城からの転戦です。なかなか記憶に残る城名です。字面も音も。住吉神社がその故地で、なだらかながらも美しい土塁が残っています。ただ、駐車場所には難渋しました。周辺を数回、行ったり来たりしてしまいました。

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トク

安土城の桜と天主台を堪能 (2024/04/09 訪問)

この日は朝から安土に着く直前まで、快速電車が運転を見合わせる程の大雨と強風だったのですが、遅れながらもゆっくりと走る各駅停車で何とか11時頃に安土駅に着き、駅前の安土城郭資料館で時間をつぶしていると、何と雨や強風が急にピタリと止み薄日も差してきたので、予定通り登城する事にしました。

桜満開の時期なので、さぞかし人が多いだろうと思いながら駅からタクシーで登城口へ、すると・・・あれ🤔? 天候の影響か全く人がいません(写真①②)。よって今から登るのは私一人だけ。このままだと桜咲く安土城を一人占めできそうです(ラッキー!)。

桜が綺麗な羽柴秀吉や前田利家の邸跡を見ながら大手道を登ります(写真③④⑤⑥)。途中で織田信長公に拝礼し(写真⑦)、最後の階段を登ると天主台に着きました(写真⑧)。

誰もいない天主台に立ってみました。きっとここには、麓の「信長の館」で再現されている、あの朱色と黄金に輝く壮麗な大天主が建っていたのでしょうね。その事を想像しながら信長公になったつもりで、ここから見える琵琶湖に向かって、「天下布武」と大声で叫んでみました(写真⑨)。いや~爽快です(笑)。欲を言えばもう少し木を伐採してほしいが・・・、でも下る途中の摠見寺からはもっとよく琵琶湖が見えたのでそれでよしとしました(写真⑩)。

結局1周90分、本当に誰にも会わずに、桜咲く安土城を一人で堪能できました。下山した頃にはさすがに何人もの人が登り始めていたので、とてもラッキーでした!!!😊
 

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しんしんちゃん

あたたた (2024/03/10 訪問)

苅安賀城は苅安賀自動車学校のあたりに築かれていたようです。現状は車校、城址碑がぽつんとたっていますが、気づかず素通りしてしまいました。この日は、こんな城址ばかり廻っていて、なんとなくお墓詣りのハシゴをしているような気になってきました。お墓かあ‥‥‥(このお城は〇んでいる?)  あたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたた! 苅安賀城 おまえはすでに〇んでいる! 失礼しました。いかんな、こういう悪いノリは。気を取り直して、
苅安賀城は近江浅井氏の一族・浅井高政がこの地に移って築いたとされています。東西約76m、南北約58mの平城だったようです。高政の子・田宮丸は織田信雄に仕え、三家老の一人として要職にありましたが小牧・長久手の戦いの際に伊勢長島城で羽柴秀吉に謀殺されたそうです。苅安賀城はその後、廃城になったそうです。

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しんしんちゃん

城址公園としても良好。 (2024/03/09 訪問)

沓掛城は本丸が芝生広場として整備されていて周囲に空堀(内堀)が残っています。城址公園としても良く整備されていて、西の諏訪曲輪との間は橋で行き来することが出来ます。南の二の丸は東側が駐車場になっており大手門跡を経て本丸と繋がっています。かつてはここに丸馬出があったようです。大規模な内堀跡は西側が紫陽花、東側が菖蒲/燕子花の畑として有効に活用されているようです。
沓掛城の始まりは14世紀ごろに近藤宗光が初代城主としてこの地に居住したことに始まります。後の近藤氏は今川義元に従い、桶狭間の合戦の2日前には義元が沓掛城に着陣したと「信長広記」には記されているようです。義元戦死の2日後、永禄3年(1560)5月21日には9代目城主の近藤九十郎景春が戦死したそうです。
後の城主、川口久助は関ヶ原の合戦の際に西軍に味方し、敗戦後は流罪とされ城は廃城になったそうです。

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三浦の晃ちゃん

熊注意❗ (2024/04/15 訪問)

高山祭りに高山市を訪れているので、早朝の散歩がてら、訪問しました。江戸時代の半ばには、廃城になっていますが、金森氏の居城です。途中に、熊よけの道具が、自然な形で、置いてあったのには、ドキッとしました。

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【日本100名城かるた商品化プロジェクト】サポーターが100人超えました!

現在、商品化プロジェクト実施中の「日本100名城かるた」ですが、サポーターが100名を超えました!
みなさま、ありがとうございます!

応援購入くださった方々はもちろん、
プロジェクト実施情報を口コミやSNSで拡散してくださっているみなさま、
プロジェクトページの応援メッセージにコメントをいれてくださっているみなさま、
城びとに個別で応援メッセージをくださっているみなさま、
そんなお一人お一人のおかげで、着実に応援してくださる方が増えていっております。

これからもプロジェクト達成まで、どうぞお力をお貸しいただけますようお願い申し上げます。

プロジェクト応援コメントページ⇒https://www.makuake.com/project/oshiro_karuta/communication/supporter/

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しじみ

白石城 (2024/02/28 訪問)

JR東日本「きゅん♥パス」紀行

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しじみ

松本城 (2024/02/14 訪問)

JR東日本「きゅん♥パス」長野紀行

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カズサン

令和6年の桜は? (2024/04/07 訪問)

 勝間田城の登城前に情報収集とトイレ休憩で諏訪原城のビジターセンターに寄り、登城後諏訪原城の桜は如何にと桜探訪しました、諏訪原城は桜のポイントが少なく、本曲輪廻りと二の曲輪と本曲輪の内堀に山桜だけでしょうか?
 昨年は3月29日に桜探訪、8月21日に築城450年記念イベント仮設展望スタンドからの眺望投稿しており令和6年は初めての登城と成ります。

 登城ルートは、ビジターセンター、中馬出、北馬出、二の曲輪、本曲輪、カンカン井戸、二の曲輪南側、大手馬出でビジターセンターに戻る。
 ビジターセンター前の駐車場は2度駐車しましたが混んでおり1台がやっとの状態、第二駐車場は半分くらいの混みよう、結構な人が見学探訪されていました。

 今回の桜探訪としては少し遅かった感が有ります、タイミングを合わせる事の難しさでしょうか?
 桜以外は見所ポイントの写真を投稿致します。
 
 

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todo94

近江の城めぐり④ (2024/03/09 訪問)

近江山田城からの転戦です。細い生活道路にはとても車は入っていけません。少し離れた場所に駐車場所を見つけるしかありませんでした。正午過ぎに訪れたのですが、門は閉ざされていました。先人の皆さんのチェックを怠り、説明板をスルーしてしまったのは痛恨の極みです。

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赤い城

尾根道を登っていく (2024/03/31 訪問)

讃岐変電所前に小さな駐車スペースがあり、少し登っていくと登城口があります。
todo94さんのレポートにあるように鉄塔を目印とするとスムーズです。
1つ目の鉄塔の先に曲輪があり、竪堀や土橋がありました。
2つ目の鉄塔をくぐり、奥の尾根に進んでいきます。
さらに登るのですが犬走り状になった方へ進んでしまいました。
またも迷う、悪い癖です。
やむなく直登で乗り切りもとの尾根に戻りました。
急な坂道を登っていくと南側の郭に、さらに尾根伝いに進むと主郭、さらに北側にも郭があり尾根でつながっていました。
北側の郭の先には急坂、こちらにも登城路があるようです。
尾根上に展開された羽床七人衆の一人、造田氏の居城です。
長宗我部氏の中讃侵攻により落城しました。
近くの首切峠は造田備中守が討ち死した場所とされます。
心霊スポットだそうなので写真はやめておきました。

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宗春

沖縄県の日本百名城・続日本百名城イッキ攻略 その⑤首里城 (2024/04/12 訪問)

名古屋在住の友人と那覇空港で待ち合わせして、レンタカーで沖縄県の日本百名城・続日本百名城イッキに攻略してきました。
最後は首里城

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しんしんちゃん

於万の方と将軍宿泊所と大あん巻き (2024/03/09 訪問)

知立城の城主・永見氏は知立神社の神主を兼ねていました。あれ?逆かな‥ま いいや。戦国時代、永見氏は水野氏に従い、婚姻関係により、繋がりを深めました。結城秀康の母の、お万の方は永野貞英の娘で、母は水野忠政の娘ということです。
桶狭間の合戦の際には一時、今川義元の本陣が置かれますが、義元が討たれると城は織田方によって落城したそうです。天正年間(1573~1592)に刈谷城主・水野忠重によって城址に御殿が築かれ、寛永年間(1624~44)に松平主殿守が増築を行い、将軍の宿泊所とされましたが、元禄12年の地震によって倒壊したそうです。
城址は小高い場所にあり児童公園となっています。知立神社には於万の方の像がありました。大河と同じくなかなかの美人です。神社から城址に向かう途中に元祖大あん巻き・松屋本家があったので私はアイスあん巻きを買いました。許可を得たので掲載させていただきます。この時分はアイスはまだちょっと早かったですが美味しかったです。この時分から一月ちょっとですっかり暑くなりました。

‥あん巻きをひらがなで入力すると差別用語としてNGがでます。営業妨害ですよ。

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朝田 辰兵衛

佐野駅から三の丸直結がうれしい…🚉 (2024/02/24 訪問)

駅舎から真っすぐの動線で三の丸というのは,駅も城も置き去りにされていないな…と感じました。東武佐野線はぐるりと廻って入り込んでいますが,鉄道会社とすれば余計な工事を強いられたのかな…と。しかし,長期目線で考えれば,とてもステキな成功例に思えます。

CFですが,ようやく3分の1到達ですね。「BSよしもと」スルーしてしまいましたが,この影響もあるのかな…?

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三浦の晃ちゃん

高山祭り (2024/04/14 訪問)

今日は、高山祭りの日です。陣屋の前で屋台が並んでいました。

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ぴーかる

岩倉城 (2024/02/17 訪問)

【岩倉城】
<駐車場他>城跡説明板<35.387530, 133.804034>の所の道路脇が広く数台停めれる。または登城口<35.387790, 133.806084>の道路合流地点に車を寄せれば1台停めれる。
<交通手段>車

<見所>堀切・曲輪・井戸跡
<感想>日帰り羽衣伝説の旅4城目。現地説明板によると岩倉城を築城した小鴨氏は奈良・平安時代にはすでに名があり、伯耆国国衙の在地官人として務めたとされています。鎌倉時代に岩倉城を築城し代々の居城とします。鎌倉・室町時代には小鴨氏は伯耆国守護の山名氏の守護代を務めますが戦国時代1524年に尼子経久が侵攻して城は落城します。尼子氏が毛利氏に敗れると小鴨氏は毛利氏によって旧領を回復し羽衣石城の南条氏の家臣団に組み込まれます。南条氏が毛利氏から離れ、織田氏に属するようになると吉川元長の軍勢が岩倉城に攻め落城します。
 登城口の北150m程行った右手に推定大手口跡があります。今は普通の谷に見えます。登城口から主要部までは25分くらい登ります。道があるので迷うことはありません。当時は途中道にも曲輪はあったろうと思いますが、現在表面観察できる遺構は薄くなった堀切が2条程あるのみ(つぶやき:やっぱ山陰地方には堀切少ない)です。主要部の手前に近づくとやや急斜面になり岩場で造った城門跡か?、城跡らしくなってきます。二郭下段の小曲輪群を通って広い二郭に着きます。
 主要部は主郭・二郭・井戸曲輪の3つの構造で二郭は広い曲輪が2つ段で付いた構造になっています。段差に石垣があったような跡があります。二郭に付随するように谷の扇状曲輪に井戸曲輪があります。井戸が斜面の際ではなく、曲輪のど真ん中にあります。石組井戸であったような石列が縁に残っています。主郭は二郭から一旦やや狭地を抜けて上段に広い曲輪になっています。城のメイン所は二郭で主郭は二郭の奥の詰曲輪という感じに見受けられました。
 麓に居館があり、いかにも古い詰めの山城という感じの城跡で、しかも度々攻撃を受けて使用されている、なかなか見応えある城跡でした。

<満足度>◆◆◇

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