長沼公民館の駐車場に停めて攻略。遺構の発掘調査が一通り終っており、千曲川水害関係の工事もあって、城の姿はわからない。本丸や武家屋敷の場所にある案内板地図があるので、城の縄張りや大きさを感じ取ることができる。ここから飯山方面に北上。御城印は、松代まち歩きセンターで買えます。
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2024/05/21 07:11
2023/05/14 05:16
(長野県&岐阜県方面城巡り)4日目:長沼城 (2023/04/21 訪問)
手子塚城から転戦。①長沼公民館体育館駐車場➡②桜づつみ解説板前➡③貞心寺墓地駐車場の順番で巡る予定でしたが、桜づつみ解説板方向は工事中で進入禁止の為、行けませんでした。
①長沼公民館体育館駐車場(36.686527、138.274732)
②桜づつみ解説板前(36.683332、138.273802)
③貞心寺墓地駐車場(36.682309、138.272262)
築城年代は定かではないようですが、島津氏によって築かれたと云われています。 島津氏は戦国大名として著名な薩摩の島津氏と同族で、長沼郷の地頭職であったそうです。
戦国時代には上杉氏に従っていましたが、弘治年間(1555年〜1558年)頃には武田氏に従うようになりました。1568年(永禄11年)武田氏は長沼城を改修し、海津城とともに北信の拠点の一つとなりました。
天正10年(1582年)武田氏が滅亡すると北信四郡には織田信長の部将森可長が入り海津城を居城とする。
これに対して若宮城主の芋川氏らが上杉氏の支援を受けて一揆を起こし、長沼城や飯山城を攻めましたが、森氏によって鎮圧されています。
織田信長が本能寺の変で倒れると森長可は信濃から撤退、北信四郡は上杉領となり、長沼城へは島津忠直が入りました。
1598年(慶長3年)上杉景勝が会津へ転封となると島津氏もこれに従って移りました。
その後は豊臣秀吉の蔵入地となって代官関一政が入り、関ヶ原合戦の後は松平忠輝が川中島を領し、山田長門守が長沼城へ入りました。
1616年(元和2年)大坂の陣の戦功などによって川中島や近江国高島など18,000石を領した佐久間勝之が長沼城に入って長沼藩となりました。佐久間勝之は織田氏の部将佐久間盛次の四男です。
1688年(元禄元年)四代藩主佐久間勝茲は五代将軍徳川綱吉の側小姓を命ぜられますが、病気と称してこれを辞退、後に仮病とわかって綱吉の怒りを買い、長沼藩は改易、勝茲は陸奥国二本松藩丹羽家にお預けとなったそうです。
長沼城は千曲川に面した平地に築かれていたそうです。
攻城時間は20分くらいでした。次の攻城先=井上氏居館(城びと未登録 長野県須坂市)に向かいました。
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2022/06/17 06:38
2020/11/16 15:03
長沼城はリンゴ果樹園の中 (2020/11/04 訪問)
善光寺平に来ましたので足腰に優しい平場の城をと長沼城を目指しました、情報とガイドは何時もの城郭放浪記さん余湖図コレクションさんの俯瞰図で、目的地を貞心寺(長野市穂保167)に定め走行し門前の墓地駐車場に停める。
案内板が門柱前に在り、堤防側を見るとネット写真で見慣れてた大木が目に入り城跡の中心地、リンゴ園の道を歩き堤防に寄り添ってる土塁の跡地へ、城名石碑、祠、土塁に隣接していた構造物、二の丸跡、南三日月堀跡、天王宮の案内看板が立ってる、案内看板の縄張り図によると東側の外堀と千曲川を背にし本丸を二の丸、三の丸で囲む悌郭式水堀で三重に護っていた。
現在は千曲川の河川改修で本丸辺りは消滅し堤防脇に土塁がほんの一部残り天王宮の祠、欅の大木、クヌギの大木が植わってる、周りはリンゴ園で囲まれてる、二の丸三の丸は果樹園と住宅街に成っている。
ちなみに貞心寺は看板によるとぐるりと水堀に囲また元因藩守屋敷跡と有りました。(因幡守ではなかろうか?)
歴史的には島津氏の一族が地頭として築き、武田氏の北信濃侵攻により海津城から長沼城が北信濃の前線基地へ、武田氏滅亡の後織田方の森長可支配化へ、本能寺の変で信長が倒れ上杉氏支配と成り元の島津氏が城主へ、上杉氏会津転封で島津氏も会津へ、森忠政が入封するが津山に転封後佐久間氏が1万8千石で入封し長沼藩の居城と成った元禄元年(1688年)4代勝親が幕命に従わず改易廃城。
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分類・構造 | 平城 |
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築城主 | 長沼島津氏 |
築城年 | 室町時代 |
主な改修者 | 馬場信春 |
主な城主 | 長沼島津氏、原与左衛門・市川梅印(武田氏家臣)、各務氏(森氏家臣)、佐久間氏 |
遺構 | 曲輪、横堀跡 |
再建造物 | 石碑、説明板 |
住所 | 長野県長野市穂保 |