ながぬまじょう

長沼城

長野県長野市


旧国名 : 信濃

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仮置中の碑
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朝田 辰兵衛

こちらの碑&パネルはまとめて仮置中です… (2025/05/04 訪問)

令和7年9月5日竣工予定で「長沼地区河川防災ステーション地盤改良工事」が実施されており,碑&パネルはまとめて仮置中でした。場所は,長沼体育館の南東約50m付近です。たぶん,平日は工事中のため立入禁止措置が実施されると思います。ご注意ください。

三才駅から徒歩約35分。三才駅で三才児の記念撮影が行われておりました。そういうスポットなんですね…📷

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じゅんじん

武田の拠点 (2024/07/07 訪問)

武田方の拠点ですね。公園化されるのかな?

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甚右衛門

千曲川西岸攻略スタート (2024/05/18 訪問)

長沼公民館の駐車場に停めて攻略。遺構の発掘調査が一通り終っており、千曲川水害関係の工事もあって、城の姿はわからない。本丸や武家屋敷の場所にある案内板地図があるので、城の縄張りや大きさを感じ取ることができる。ここから飯山方面に北上。御城印は、松代まち歩きセンターで買えます。

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昌官忠

(長野県&岐阜県方面城巡り)4日目:長沼城 (2023/04/21 訪問)

手子塚城から転戦。①長沼公民館体育館駐車場➡②桜づつみ解説板前➡③貞心寺墓地駐車場の順番で巡る予定でしたが、桜づつみ解説板方向は工事中で進入禁止の為、行けませんでした。
 ①長沼公民館体育館駐車場(36.686527、138.274732)
 ②桜づつみ解説板前(36.683332、138.273802)
 ③貞心寺墓地駐車場(36.682309、138.272262)

築城年代は定かではないようですが、島津氏によって築かれたと云われています。 島津氏は戦国大名として著名な薩摩の島津氏と同族で、長沼郷の地頭職であったそうです。
戦国時代には上杉氏に従っていましたが、弘治年間(1555年〜1558年)頃には武田氏に従うようになりました。1568年(永禄11年)武田氏は長沼城を改修し、海津城とともに北信の拠点の一つとなりました。
天正10年(1582年)武田氏が滅亡すると北信四郡には織田信長の部将森可長が入り海津城を居城とする。
これに対して若宮城主の芋川氏らが上杉氏の支援を受けて一揆を起こし、長沼城や飯山城を攻めましたが、森氏によって鎮圧されています。
織田信長が本能寺の変で倒れると森長可は信濃から撤退、北信四郡は上杉領となり、長沼城へは島津忠直が入りました。
1598年(慶長3年)上杉景勝が会津へ転封となると島津氏もこれに従って移りました。
その後は豊臣秀吉の蔵入地となって代官関一政が入り、関ヶ原合戦の後は松平忠輝が川中島を領し、山田長門守が長沼城へ入りました。
1616年(元和2年)大坂の陣の戦功などによって川中島や近江国高島など18,000石を領した佐久間勝之が長沼城に入って長沼藩となりました。佐久間勝之は織田氏の部将佐久間盛次の四男です。
1688年(元禄元年)四代藩主佐久間勝茲は五代将軍徳川綱吉の側小姓を命ぜられますが、病気と称してこれを辞退、後に仮病とわかって綱吉の怒りを買い、長沼藩は改易、勝茲は陸奥国二本松藩丹羽家にお預けとなったそうです。

長沼城は千曲川に面した平地に築かれていたそうです。
攻城時間は20分くらいでした。次の攻城先=井上氏居館(城びと未登録 長野県須坂市)に向かいました。

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城郭情報

分類・構造 平城
築城主 長沼島津氏
築城年 室町時代
主な改修者 馬場信春
主な城主 長沼島津氏、原与左衛門・市川梅印(武田氏家臣)、各務氏(森氏家臣)、佐久間氏
遺構 曲輪、横堀跡
再建造物 石碑、説明板
住所 長野県長野市穂保