まつおやまじょう

松尾山城

岐阜県不破郡

別名 : 長亭軒城
旧国名 : 美濃

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todo94

関ヶ原陣跡制覇ウォーキング (2024/09/29 訪問)

関ヶ原陣跡制覇ウォーキングに参加してきました。選択したのは勿論、松尾山城迄めぐる制覇コースです。諏訪湖1周とほぼ同じ16kmのコースでしたが8:30に出発し、正午過ぎに完歩達成しました。関ケ原の古戦場を散策するのは実に19年ぶりで松尾山ですら前回の攻城から14年が経ってしまっていました。スタート地点付近は、近くに巨大箱物もできていてきれいな公園として整備されていてとても新鮮でした。細川忠興陣跡、黒田長政・竹中重門陣跡、本田忠勝陣跡、藤堂高虎・京極高知陣跡、福島正則陣跡、脇坂安治陣跡などは今回が初チェックでしたし、松尾山城の散策マップも手に入れることができて収穫の多いウォーキングとなりました。参加費1000円でタオルが頂け、バナナ、ペットボトル飲料、キャンディーが供されるなどお得感が高かったです。松尾山城は先を急いでしまったためくまなくすべての郭を回れたわけではないので、また機会があったら訪れてみたいと思います。

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小城小次郎

東西どちらも勝たせられた男 (2024/02/11 訪問)

関ヶ原の折、このお城に陣取った小早川秀秋はここから戦況を見て東軍を選択することとなる。たった一人の判断でどちらをも勝たせられる状況にあった秀秋の心に去来したものは何だったのか。城跡は今も端正な縄張を残す。

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T-Shionoya

関ヶ原の城郭訪問第2段 松尾山城 (2024/03/30 訪問)

2月に関ヶ原で聴講した「山城シンポジウム江濃境目の城」で"城"であることを知り、前回投稿した菩提山城に続き3月末に訪れた岐阜県不破郡関ヶ原町の松尾山城。

関ヶ原盆地の南、比高150~200mほどの松尾山山頂エリアに築かれた城。
山麓の東山道には、嘗て畿内と東国の出入りを監視する関所が設置されたポイント。

築城時期は不明だが、1500年代中頃まで浅井方の城として堀氏などが在城。
1570年の信長の近江侵攻で開城し、以後は不破光治がしばらく城主を務め廃城に。
その後、関ヶ原合戦前に石田三成の命で伊藤盛正が再建・警備していたが、合戦前日に小早川秀秋が盛正を追い払ったとのこと。

現在は関ヶ原史跡の1つとしてハイキングコースが整備され、主郭からは関ヶ原一帯が一望可能なスポット。

訪問時、関ヶ原からの新しそうな登山道で入城したが、馬出状の曲輪から土橋や枡形虎口を経て主郭へ入る南からのルートの方が城へ入り込む雰囲気を味わえる印象。
メインの遊歩道を外れると整備状況は良くないが、各曲輪は土塁で囲まれており、主郭西側の谷の喰違い土塁も見どころの1つ。
城域滞在時間2時間の松尾山"城"が、私の城郭巡りの180城目となりました。

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しんちゃん

松尾山城の出城(2)。小早川秀秋はガチだったと結論(想定)。長期の投稿ご容赦を (2024/04/14 訪問)

GWに関ヶ原を訪れる方もおられることと存じますので松尾山城での投稿はこれでキリにさせていただきます。長々と投稿させていただきましたことを、ご容赦願います。最後に松尾山城の出城の続きになります。半ば無理やり登城しましたが、城址の西側には明確な遺構が集中して残っています。これまで、この陣所の存在が明らかになったことは有りませんが、それが意図してのことなのかは不明です。
土塁が北側、大谷吉継の陣の方に向かって続いています。最初はわかりにくい程度ですが、だんだん明確に土塁の形状をしてきます。続いて堀切と土橋が現れます。堀切は二つ続いていていずれも土橋がかかっています。一つ目の方深く、形状が良く残っています。その先に扁平地が続いた後に下に向かって竪堀が続いています。敵の侵入を阻止するのが狙いだと思います。
東側高所の扁平地が主要部と思われますが、西側ほど明確な遺構は残っていません。山頂付近を始め各所に開発の手が入っていて、散策が危険な個所もあります。一部ではありますが、明確な遺構を確認したことで、ここに松尾山城勢力の陣所があったと想定します。
私は対面の山中の城山(仮)に宇喜多秀家の陣所が有ったのではないかと想定しており、松尾山の陣には本来なら毛利勢が入る予定だったのではないかと考えています。根拠は三つの山とその周辺を自分の足で散策して、歴史的な背景や人物の立場などを考慮、地形の形状や構造から見る、その役割など総合的に考慮してのことです。もちろん、白峰氏らによる一次史料の解読の内容を知らなければ、関ヶ原にこんな場所があったのかで終わりです。
合戦前に松尾山とこの陣所を押えたことで、小早川が東軍側に付いたことは明白で、事実上の西軍の主力の正面に軍勢を配置したことで小早川秀秋に対する従来の(優柔不断で気弱)イメージは大きく変わってくると思います。この状態での長時間の対峙は難しく、開戦と同時にこの周辺でも合戦が行われた可能性は高いと想定します。

個人的には小早川秀秋には最後まで立場を明らかにしないで欲しかったというのはあります。その方がミステリアスで深堀りができますから。
小早川秀秋は合戦から2年後、21歳の若さで亡くなりますが、生まれは天正10年(1582)死亡は慶長7年(1602)なので21は数えで実際は20歳で亡くなったのだと思います。合戦の際は実年齢で18歳前後です。この時代の人物は吉川広家や毛利秀元、小早川秀秋など誰一人侮れる人物はいないと改めて感じました。特に合戦に自ら赴いてくる者はなおさらです。毛利ポンコツトリオは言いすぎでしたね。広家さん、秀元さんゴメンなさい。輝元さんはよくわかりません。

小早川の死後の翌年に徳川家康が征夷代将軍に就任します。実際に秀吉の時代・関白の方が征夷代将軍よりはるかに権威が高かった期間が3年あり、かつて秀吉の後継者候補であった小早川はその存在を危険視され暗殺された可能性もあると考えます。

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城郭情報

分類・構造 山城
築城主 富島氏
築城年 応永年間(1394〜1428)
主な改修者 小早川秀秋
主な城主 富島氏、不破氏、小早川氏
遺構 曲輪、土塁、堀切、竪堀、井戸
指定文化財 町史跡(松尾山城址)
再建造物 石碑、説明板
住所 岐阜県不破郡関ケ原町松尾
問い合わせ先 関ケ原町教育委員会事務局社会教育課
問い合わせ先電話番号 0584-43-1289