まつおやまじょう

松尾山城

岐阜県不破郡

別名 : 長亭軒城
旧国名 : 美濃

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北東の扁平地から続く道
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しんちゃん

北東の扁平地・四段の郭 小早川本体の進軍ルートを考える (2025/11/30 訪問)

久々に松尾山城に行ってきました。今回は搦め手からでは無く、北側のメジャーなルートから。個人的には江戸時代から続く小早川秀秋を侮る風潮が好きではない。若者を侮るのは平和な時代(江戸時代)の悪癖だと思います。戦国から大阪の陣まで続く動乱の時期では皆必死に知恵を絞って生きていたので若者から老人・女性・僧・農民に至るまで侮れるような存在はいなかったと思っています。

小早川をけしかける「問鉄砲」にもいろいろ解釈があって、戸田氏鉄の記した「戸田左門覚書」には問鉄砲の記載はありません。小早川隊の到着が遅くて苛立つ福島正則の傍にいる武将が「霧が濃いので小早川は動けないのです」という説明をして福島が気を取り直すといった記載がありました(記憶で書いているので詳細の誤差はご容赦を)。白峰氏の著書にある一次史料には小早川隊は開戦後すぐに西軍と交戦したと書かれているようです。ひょっとすると麓に居た小早川の先手はすぐに戦いを始めたけど、本体の到着は遅れたのかもしれません。
松尾山城の本丸から見ると戦場はすごく遠くに見えます。講談の「問鉄砲」はいささか無理が有るような気がする、戦場からこっちに鉄砲撃っても見えるのかな? 鉄砲撃ちかけられて急いて戦場に赴いたとしてもどれだけ時間がかかるか・・そもそもここを騎馬隊で降れるのか?
戦場に向かうにしても適切なルートが有ると思う。
メジャーな縄張り図には出てこないけど松尾山城の周辺にはけっこう扁平地が有ります。小早川隊が15000もの兵を連れて来れたかは謎ですが(諸説あるので)雑兵が駐屯する扁平地は多数必要だと思います。もちろん土塁は無し。
個人的には主郭の北東にある四段の扁平地が気になります。ここから尾根が北西に続いていま(実はそっち方向にも遺構と見られる場所がありますが詳細は省略)。この四段の扁平地から続く尾根は進軍ルートの比定地の一つでは無いでしょうか。尾根についている竪堀の様な堀道は後世のものだろうか。同じようなものを朝倉山や某所で見たような気がする。
呉座勇一氏の著書「動乱の日本戦国史」の第五章を参考にすると「備前老人物語」には徳川方が松尾山の麓に展開していた小早川隊に誤射を装って射撃を行ったという記述があるようです。これが問鉄砲の元ネタになっている可能性もありますな。
一次史料と矛盾する部分もあるだろうが、小早川隊が開戦後即座に全軍で西軍と交戦したという可能性と、一部部隊が交戦し本隊は遅れて到着したという可能性も考慮したい。

正直ひねくれた投稿ばかりで申し訳ないが、歴史と城郭(遺構)は切っても切り離せない相互補完の関係だと思うのだ。。

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伊藤盛正 (2025/11/24 訪問)

 久しぶりの登城でしたが、記憶していたより竪堀がよく残っていました。追加で竪堀と湧き水周辺などを投稿します。

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小早川秀秋 (2025/11/24 訪問)

 久しぶりの松尾山城です。
登山道を進み主郭に入る前に東尾根にある曲輪から散策しました。堀切がありましたが、浅くなっていました。その後、主郭、馬出状の曲輪、東南側の尾根にある2つ目の曲輪、空堀を挟んだ西側にある2つの曲輪等を散策しました。それぞれの曲輪には土塁があるのですが、主郭の西にある曲輪のうち南側の曲輪にだけは土塁がありません。ここが元の長亭軒城なのではないかとも言われています。その先には3本の竪堀が交互に設けられていました。主郭と西の曲輪の間には空堀があり、そのまま谷となっています。井戸らしき場所もありますが、谷を少し下ると水が湧いていました。標高293.1mの山の上ですが、水には困らなかったのかもしれません。東西約400m、南北約250mの比較的大きな山城で曲輪、土塁、堀切、竪堀などが残り、陣城ではなく本格的な城だと思います。

 登山道は整備されていて道幅もあり歩きやすい。城内の散策路も概ね整備されていました。
 JR関ケ原駅から徒歩約25分で登城口へ行くことができます。

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しんちゃん

自害ヶ岡(峰) 神谷道一氏 (2025/10/19 訪問)

「赤色立体かるた」の読み札が発表されました。よかった私のも有った。正直、一枚も選ばれていないのではと思っていました。
選んでもらうことを前提に投稿していなかったのですが、良かった。できれば秀吉関係が良かった(ポカッ!)

自害ヶ岡は松尾山の伝小早川秀秋陣の北に位置する丘陵です。「関ヶ原の合戦」より「壬申の乱」の方で有名で、西麓には大友皇子が自害して果てたとされる三本杉がありますが「戸田左門覚書」にはここに石田三成の陣が有ったと記載が有ったはずです。
戸田左門とは大垣城の城主・戸田氏鉄のことで「覚書」は江戸時代に新井白石によって編纂されたらしいので、二次史料に当たります。最近読んだ高橋陽介氏の著書「シン・関ヶ原」にも「戸田左門覚書」の記載がありますが、高橋氏は石田三成の陣を自害ヶ岡とは考えていないようです。
「信長公記」でおなじみの太田牛一が慶長6年ごろに「関ヶ原合戦双紙」を徳川家康に献上しています。いわば徳川家の「お墨付き」で書かれたことになりますか。ネットでも閲覧が可能ですが、書体が昔のままなのでほぼ読めません。
ただ宇喜多秀家が山中の陣から天満山に移動したと書かれているようで、白峰旬氏らの一次史料による説とは内容が異なります。

なんとなくここから歴史がねじ曲がってしまっている予感がしますが「慶長年中卜斎記」を記した家康に仕えた医師・板坂卜斎は関ヶ原のことは太田殿が行うので・・といった発言をしていたらしいので・・
徳川方に都合が良いように忖度した内容に仕上がっている可能性があると思います。事実と異なっていても上様のお墨付きの内容に異論を唱えるのは勇気がいることなので、藤堂高虎などが後年書いた著書でも「鵜呑み」には出来ないと思います。

明治の郷土史家「神谷道一」氏の書いた「関ヶ原合戦図志」では自害ヶ岡の丘陵一帯に西軍の陣が想定されていますが、翌年に陸軍の発表した「日本戦史関原役」の配陣では麓に下されています。日清戦争の前年なので、野戦砲陣地として確保されたのかもしれません。
同様に神谷氏は南宮山の尾根一帯に毛利・吉川の陣を想定していますが、これも陸軍によってはるか南の窮屈なスペースに追いやられてしまっています。当時の陸軍の野戦砲は鋳造の青銅製の前装式ですが西南戦争のころに使われていた大砲より性能は上です。
南宮山上はなだらかな丘陵が続いているので、あらかじめ野戦砲を設置しておけば伊勢街道や東山道を通って東京を目指す敵軍を砲撃することが可能です。
「関ヶ原合戦図志」には大垣城周辺の布陣の記載もありますが「日本戦史関原役」にはありません。時間もなく逼迫していたので砲台陣地だけを確保したかったのかもしれません。
神谷氏は「関ヶ原合戦図志」を作成する際に山鹿素行の「武家事紀」を参考にしていると思います。小和田教授と白峰氏のやりとりで白峰氏は「武家事紀」の誤記を指摘していますが、その箇所は神谷氏が綺麗に修正してあります。
記憶で書いているので詳細を省いて申し訳ないのですが、神谷氏は江戸時代以降に最も真摯に関ヶ原の歴史に向かい合った一人だと思います。
残念ながら「武家事紀」には山中の「ヤ」の字も無いので「関ヶ原合戦図志」が事実と即していない部分もあるとは思いますが、私は敬意を払いたいと思います。
悲しいことに戦後に「日本戦史関原役」の陣形図がそのまま受け継がれている上に、自害ヶ岡の丘陵は東海道新幹線と高速道路によってブチ削られています。ここに西軍の陣地があったかは分かりませんが可能性は有ったと思います。
もんか省も政治家も何を考えているのか分かりません。元々「関ヶ原合戦図志」は岐阜県の依頼で製作された経緯があるので今のままでは神谷氏に顔向けできませんぞ。

「戸田左門覚書」「関ヶ原合戦図志」「関ヶ原合戦双紙」はネットで閲覧・ダウンロードが可能です。
「武家事紀」は老後の楽しみに古~い本を購入して保存してあります。

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城郭情報

分類・構造 山城
築城主 富島氏
築城年 応永年間(1394〜1428)
主な改修者 小早川秀秋
主な城主 富島氏、不破氏、小早川氏
遺構 曲輪、土塁、堀切、竪堀、井戸
指定文化財 町史跡(松尾山城址)
再建造物 石碑、説明板
住所 岐阜県不破郡関ケ原町松尾
問い合わせ先 関ケ原町教育委員会事務局社会教育課
問い合わせ先電話番号 0584-43-1289