GWに関ヶ原を訪れる方もおられることと存じますので松尾山城での投稿はこれでキリにさせていただきます。長々と投稿させていただきましたことを、ご容赦願います。最後に松尾山城の出城の続きになります。半ば無理やり登城しましたが、城址の西側には明確な遺構が集中して残っています。これまで、この陣所の存在が明らかになったことは有りませんが、それが意図してのことなのかは不明です。
土塁が北側、大谷吉継の陣の方に向かって続いています。最初はわかりにくい程度ですが、だんだん明確に土塁の形状をしてきます。続いて堀切と土橋が現れます。堀切は二つ続いていていずれも土橋がかかっています。一つ目の方深く、形状が良く残っています。その先に扁平地が続いた後に下に向かって竪堀が続いています。敵の侵入を阻止するのが狙いだと思います。
東側高所の扁平地が主要部と思われますが、西側ほど明確な遺構は残っていません。山頂付近を始め各所に開発の手が入っていて、散策が危険な個所もあります。一部ではありますが、明確な遺構を確認したことで、ここに松尾山城勢力の陣所があったと想定します。
私は対面の山中の城山(仮)に宇喜多秀家の陣所が有ったのではないかと想定しており、松尾山の陣には本来なら毛利勢が入る予定だったのではないかと考えています。根拠は三つの山とその周辺を自分の足で散策して、歴史的な背景や人物の立場などを考慮、地形の形状や構造から見る、その役割など総合的に考慮してのことです。もちろん、白峰氏らによる一次史料の解読の内容を知らなければ、関ヶ原にこんな場所があったのかで終わりです。
合戦前に松尾山とこの陣所を押えたことで、小早川が東軍側に付いたことは明白で、事実上の西軍の主力の正面に軍勢を配置したことで小早川秀秋に対する従来の(優柔不断で気弱)イメージは大きく変わってくると思います。この状態での長時間の対峙は難しく、開戦と同時にこの周辺でも合戦が行われた可能性は高いと想定します。
個人的には小早川秀秋には最後まで立場を明らかにしないで欲しかったというのはあります。その方がミステリアスで深堀りができますから。
小早川秀秋は合戦から2年後、21歳の若さで亡くなりますが、生まれは天正10年(1582)死亡は慶長7年(1602)なので21は数えで実際は20歳で亡くなったのだと思います。合戦の際は実年齢で18歳前後です。この時代の人物は吉川広家や毛利秀元、小早川秀秋など誰一人侮れる人物はいないと改めて感じました。特に合戦に自ら赴いてくる者はなおさらです。毛利ポンコツトリオは言いすぎでしたね。広家さん、秀元さんゴメンなさい。輝元さんはよくわかりません。
小早川の死後の翌年に徳川家康が征夷代将軍に就任します。実際に秀吉の時代・関白の方が征夷代将軍よりはるかに権威が高かった期間が3年あり、かつて秀吉の後継者候補であった小早川はその存在を危険視され暗殺された可能性もあると考えます。
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