いいかげんしつこいと思われるかもしれませんが、まだ関ヶ原の周辺をウロウロしています。以前、松尾山城で妄想全開で小早川戦記を掲載しましたが、あれはあくまでも妄想です。今回は真面目に城びと目線で関ヶ原を掘り下げていきたいと思います。
小早川秀秋の陣取った松尾山城は関ヶ原周辺でも戦国期に山城として使われ、周囲の陣所と比較しても明らかに造りが違います。山中(やまなか)の大谷吉継陣の松尾山眺望地や笹尾山からも確認することができます。南宮山の毛利秀元陣からは見ることはできませんが、△392地点の付近からは松尾山や大谷吉継の陣所があった場所を俯瞰することが可能です。
関ヶ原は歩けば歩くほど何かが出てくる非常にヤバい所で、じっくりと掲載をしていきたいと思っております。まず手始めに朝倉山から南宮山を経由して毛利秀元陣を確認してから下山したのですが、朝倉山を含めて南宮山そのものが城塞に似ていると感じました。尾根を利用して敵の動きを阻害する城塁の機能を持ちながら、各所に拠点を配置しています。南宮山の南北を通る街道を各所から見渡すことが出来、周囲の眺望も良く、南宮山の山頂の周囲には烽火台跡と思われる箇所が二つありました。
地理的に考えると気づきがあると思いますが、一度目の元寇のあとに鎌倉に向かう元軍を食い止めるために一定の整備を受けているものと思われます。ここを抜かれると元軍は東山道や東海道を経由して鎌倉を襲撃してしまいます。九州の元寇防塁は九州の御家人たちによって築かれているので、関ヶ原周辺の山城は近江や美濃の御家人たちによって整備されたのではないでしょうか。
実は‥大谷吉継の陣のある山にも似たような山城がありまして、勝手に山中の城山(仮)と呼ばせていただきます。その周辺にはかなりの大軍を配置することが可能で、白峰氏が指摘されたように西軍の陣が置かれていた可能性が有ります。私は竪堀が4箇所も配されている上の郭に宇喜多秀家の陣が有った可能性があると考えています。
松尾山、山中の城山、南宮山に大老格の大名を配置して黒血川、藤古川を天然の堀とし籠城戦の方式を取りながら東軍を迎え撃つつもりだったのかも知れません。
実は‥松尾山の手前にある小山にも陣跡の痕跡が有りました。土塁は大谷吉継の陣の方向を向いていて、ここにも小早川の軍勢が配されていたものと思います。松尾山城は構造的に毛利氏が陣取る予定でいた場所と思われ、そこに小早川が割り込んできたために、翻意が有るとして石田三成があわてて飛び出してきたのかもしれません。最も信頼のおける大老格の宇喜多陣の目の前に小早川が陣取れば三成が慌てるのも当然だと思います。
関ヶ原では逆手の陣立になってしまいましたが、関ヶ原周辺は本来、西から襲来する脅威に対して整備されていたと推測します。関ヶ原の手前で山中の城山と松尾山に配した軍で敵を挟撃し、さらに関ヶ原を抜けてきた敵を南宮山の南北、もしくは東側で迎撃、各陣山の尾根上に配された兵は背後を突こうとして迂回してくる敵を阻害する仕組みであったと想定します。
石田三成も明軍が襲来して京を占拠した場合、東山道を北上、もしくは東海道で関東に向かおうとする敵をここで迎撃するつもりだったと考えます。想定になりますが上杉氏を会津に加増転封した目的の一つに、明軍が襲来した場合の豊臣家、天皇家の避難先となってもらう予定だったというのが有ったと考えます。もしそうなった場合、会津が日本の中心となり、反撃の拠点になったのだろうと思います。
東山道を進み会津に進もうとする明軍を阻止するためにも関ヶ原、南宮山の守りは最重要です。
石田三成が関ヶ原周辺の山城を活用して早期に陣所を構築できたのは明軍の襲来に備えて関ヶ原周辺の地理や遺跡を熟知していたからなのではないかと私は推測します。
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