まつおやまじょう

松尾山城

岐阜県不破郡

別名 : 長亭軒城
旧国名 : 美濃

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一つ目の堀切
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しんしんちゃん

松尾山城の出城(2)。小早川秀秋はガチだったと結論(想定)。長期の投稿ご容赦を (2024/04/14 訪問)

GWに関ヶ原を訪れる方もおられることと存じますので松尾山城での投稿はこれでキリにさせていただきます。長々と投稿させていただきましたことを、ご容赦願います。最後に松尾山城の出城の続きになります。半ば無理やり登城しましたが、城址の西側には明確な遺構が集中して残っています。これまで、この陣所の存在が明らかになったことは有りませんが、それが意図してのことなのかは不明です。
土塁が北側、大谷吉継の陣の方に向かって続いています。最初はわかりにくい程度ですが、だんだん明確に土塁の形状をしてきます。続いて堀切と土橋が現れます。堀切は二つ続いていていずれも土橋がかかっています。一つ目の方深く、形状が良く残っています。その先に扁平地が続いた後に下に向かって竪堀が続いています。敵の侵入を阻止するのが狙いだと思います。
東側高所の扁平地が主要部と思われますが、西側ほど明確な遺構は残っていません。山頂付近を始め各所に開発の手が入っていて、散策が危険な個所もあります。一部ではありますが、明確な遺構を確認したことで、ここに松尾山城勢力の陣所があったと想定します。
私は対面の山中の城山(仮)に宇喜多秀家の陣所が有ったのではないかと想定しており、松尾山の陣には本来なら毛利勢が入る予定だったのではないかと考えています。根拠は三つの山とその周辺を自分の足で散策して、歴史的な背景や人物の立場などを考慮、地形の形状や構造から見る、その役割など総合的に考慮してのことです。もちろん、白峰氏らによる一次史料の解読の内容を知らなければ、関ヶ原にこんな場所があったのかで終わりです。
合戦前に松尾山とこの陣所を押えたことで、小早川が東軍側に付いたことは明白で、事実上の西軍の主力の正面に軍勢を配置したことで小早川秀秋に対する従来の(優柔不断で気弱)イメージは大きく変わってくると思います。この状態での長時間の対峙は難しく、開戦と同時にこの周辺でも合戦が行われた可能性は高いと想定します。

個人的には小早川秀秋には最後まで立場を明らかにしないで欲しかったというのはあります。その方がミステリアスで深堀りができますから。
小早川秀秋は合戦から2年後、21歳の若さで亡くなりますが、生まれは天正10年(1582)死亡は慶長7年(1602)なので21は数えで実際は20歳で亡くなったのだと思います。合戦の際は実年齢で18歳前後です。この時代の人物は吉川広家や毛利秀元、小早川秀秋など誰一人侮れる人物はいないと改めて感じました。特に合戦に自ら赴いてくる者はなおさらです。毛利ポンコツトリオは言いすぎでしたね。広家さん、秀元さんゴメンなさい。輝元さんはよくわかりません。

小早川の死後の翌年に徳川家康が征夷代将軍に就任します。実際に秀吉の時代・関白の方が征夷代将軍よりはるかに権威が高かった期間が3年あり、かつて秀吉の後継者候補であった小早川はその存在を危険視され暗殺された可能性もあると考えます。

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しんしんちゃん

松尾山城出城① こんな所にも遺構が残っている (2024/04/14 訪問)

国土地理院の地形図を見ると関ヶ原周辺にはいろいろと怪しい場所が多いので、あたりを付けて行ってみると簡単に遺構らしきものが出てきます。どうにも簡単にみつかってしまうので、あえて伏せられているんじゃないかと思うぐらいです。これだけ有名な古戦場なのに城人に登録されているのが松尾山城だけなんですね。自分には特にしがらみがないので、そのまま載せてしまいますが、それで見えてくるものもあると思います。
また松尾山城です。とは言っても松尾山城に付属する小山に配されている遺構の話です。また名前が無いので松尾山城出城(仮)と仮の名称で書いておきます。かつての支城かもしれませんが、遺構はけっこうあっさり目ですね。室町時代から関ヶ原の合戦のころに手を加えられたものと考えています。
空いてるスペースに車を停めて目的地までは徒歩で移動。足元の悪い薄暗いトンネルを越えていくと城址の麓に出て、開口部から取りつくことが出来ます。遺構が集中して残っているのは西側の出丸あたりですね。この地点を合戦の際にどちらの陣営が押えていたのかが興味の対象でしたが小早川陣営に間違いないでしょう。ここにも陣を構えていたということは、かなり早い段階で態度を明白にしていた可能性があります。私は白川氏らの提唱する一次史料に基づく新説には懐疑的でしたが、実際に目にすると、いろいろと考えることがあります。
ちなみにこの城址は開発の手が伸びているらしく、あまり訪問はお勧めは出来ません。登城道がないので危ないのもありますが。

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しんしんちゃん

各陣から見た松尾山城 関ヶ原はヤバい所です。 (2024/04/14 訪問)

いいかげんしつこいと思われるかもしれませんが、まだ関ヶ原の周辺をウロウロしています。以前、松尾山城で妄想全開で小早川戦記を掲載しましたが、あれはあくまでも妄想です。今回は真面目に城びと目線で関ヶ原を掘り下げていきたいと思います。
小早川秀秋の陣取った松尾山城は関ヶ原周辺でも戦国期に山城として使われ、周囲の陣所と比較しても明らかに造りが違います。山中(やまなか)の大谷吉継陣の松尾山眺望地や笹尾山からも確認することができます。南宮山の毛利秀元陣からは見ることはできませんが、△392地点の付近からは松尾山や大谷吉継の陣所があった場所を俯瞰することが可能です。

関ヶ原は歩けば歩くほど何かが出てくる非常にヤバい所で、じっくりと掲載をしていきたいと思っております。まず手始めに朝倉山から南宮山を経由して毛利秀元陣を確認してから下山したのですが、朝倉山を含めて南宮山そのものが城塞に似ていると感じました。尾根を利用して敵の動きを阻害する城塁の機能を持ちながら、各所に拠点を配置しています。南宮山の南北を通る街道を各所から見渡すことが出来、周囲の眺望も良く、南宮山の山頂の周囲には烽火台跡と思われる箇所が二つありました。
地理的に考えると気づきがあると思いますが、一度目の元寇のあとに鎌倉に向かう元軍を食い止めるために一定の整備を受けているものと思われます。ここを抜かれると元軍は東山道や東海道を経由して鎌倉を襲撃してしまいます。九州の元寇防塁は九州の御家人たちによって築かれているので、関ヶ原周辺の山城は近江や美濃の御家人たちによって整備されたのではないでしょうか。

実は‥大谷吉継の陣のある山にも似たような山城がありまして、勝手に山中の城山(仮)と呼ばせていただきます。その周辺にはかなりの大軍を配置することが可能で、白峰氏が指摘されたように西軍の陣が置かれていた可能性が有ります。私は竪堀が4箇所も配されている上の郭に宇喜多秀家の陣が有った可能性があると考えています。
松尾山、山中の城山、南宮山に大老格の大名を配置して黒血川、藤古川を天然の堀とし籠城戦の方式を取りながら東軍を迎え撃つつもりだったのかも知れません。

実は‥松尾山の手前にある小山にも陣跡の痕跡が有りました。土塁は大谷吉継の陣の方向を向いていて、ここにも小早川の軍勢が配されていたものと思います。松尾山城は構造的に毛利氏が陣取る予定でいた場所と思われ、そこに小早川が割り込んできたために、翻意が有るとして石田三成があわてて飛び出してきたのかもしれません。最も信頼のおける大老格の宇喜多陣の目の前に小早川が陣取れば三成が慌てるのも当然だと思います。
関ヶ原では逆手の陣立になってしまいましたが、関ヶ原周辺は本来、西から襲来する脅威に対して整備されていたと推測します。関ヶ原の手前で山中の城山と松尾山に配した軍で敵を挟撃し、さらに関ヶ原を抜けてきた敵を南宮山の南北、もしくは東側で迎撃、各陣山の尾根上に配された兵は背後を突こうとして迂回してくる敵を阻害する仕組みであったと想定します。

石田三成も明軍が襲来して京を占拠した場合、東山道を北上、もしくは東海道で関東に向かおうとする敵をここで迎撃するつもりだったと考えます。想定になりますが上杉氏を会津に加増転封した目的の一つに、明軍が襲来した場合の豊臣家、天皇家の避難先となってもらう予定だったというのが有ったと考えます。もしそうなった場合、会津が日本の中心となり、反撃の拠点になったのだろうと思います。
東山道を進み会津に進もうとする明軍を阻止するためにも関ヶ原、南宮山の守りは最重要です。

石田三成が関ヶ原周辺の山城を活用して早期に陣所を構築できたのは明軍の襲来に備えて関ヶ原周辺の地理や遺跡を熟知していたからなのではないかと私は推測します。

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しんしんちゃん

妄想戦記関ヶ原・小早川秀秋の章 関ヶ原合戦のクライマックスは大御所家康と若き秀秋の心理戦 (2024/03/10 訪問)

妄想戦記まだ続いてます。ここまで来たら好きな武将に小早川秀秋を加えるべきかもしれません。話の内容はあいかわらずかっ跳んでいるので、ご容赦を。

小早川は内府の首を欲しています。養父隆景が亡くなったあと元養父秀吉に越前に減封された際に筑前に戻れるよう計らってくれたのは家康を中心とする五大老です。秀秋は内府にはかりしれない恩義があるはずなのですが?
天正10年生まれの秀秋にとって、伝説の戦国武将で天下人に最も近い家康は憧れの存在だったと思います。だからこそ家康の首が欲しいのでしょう。若き秀秋にとって天下への未練や憧れが少しでもあれば家康はいつかどうしても越えねばならない壁となります。ある意味ファーザー・コンプレックスに近い感情を持っていたのかもしれません。家康の敷いたシナリオに乗れば石高は大幅に増え先は安泰かもしれません。でもそれで打ち止めです。家康が天下を取れば、それは盤石なものになるでしょう。齢18の秀秋にとってその先の時間はとてつもなく長く感じたのかもしれません。
33万石の身上の秀秋が遠く九州から1万6000近い軍勢をつれてきたわけです。100石あたり4~5人の計算です。この若者の心に野心が無かったと言い切れるでしょうか?関ヶ原に向かう道中、各地をうろうろして文字どうり、うろん物を演じていたのも周囲を油断させようとする演技のようにも見えます。ここまで周囲を欺こうとするのは、年少期に秀吉から小早川家に養子に出されたり、秀次事件を目の当たりにして周囲の人々の感情に敏感になってしまったからなのだと思います。下手をすれば自分もいつ秀吉に殺されるかわからないからです。

この戦場を大御所家康の立場からも見てみたいと思います。戦場は敵も味方もおおよそ彼の思惑通りに動いています。広家が毛利を押えてくれていますが、広家とていつ寝返るかわかりません。この戦は早めに決着をつける必要があります。しかし一人だけ自分の思惑道りに動かない人物がいます。なぜ小早川は動かないのでしょうか?
うろん者だと侮っていたこの若者は自分の提示した条件に不服があるようです。小早川は毛利が動くのを待っている。むしろ誘っているのか?
彼は大軍を持って家康に一撃を加える位置にいます。「そうか‥欲しいのか、この首が」家康の首を取ったあとの秀秋がその先に望むのはさらなる立身出世か、それとも天下か?
かつて天下を望んだ戦国大名たちは数多くいました。彼らのほとんどが滅び、実際に天下を取った秀吉も滅んだ今、そのような大それた野望を持つものが矮小とはいえまだいたとは。この生意気で見の程知らずの若造に次の天下人となる自らの器を見せつけてやる必要があります。
かくして家康は動きます。本体を前進させ秀秋に、この首を取れるものなら取って見ろとプレッシャーをかけます。家康は秀秋に心理戦を仕掛けます。
「どうした秀秋、はよう動かぬか!いくら待っても毛利は来ぬぞ。いつまでもそんな所におらずに、お主も早う腹を決めよ!」
大御所と若き秀秋の心理戦は一瞬で勝負が着きました。
「このお方こそが真の天下人か‥」もう秀秋に家康に対抗する気力は有りません。改めて大御所の次期天下人としての器の違いを見せつけられました。アル・中と言われているわりに頭の回転の速い秀秋です。次の標的は昨日からいろいろつっかかってきて居心地を悪くしてくれているあの人物です。
「悪く思うな刑部少輔!」そう大谷刑部がこの戦で死んだのも、西軍が負けたのも、若き小早川の野望があっさり潰えたのも、すべて〇〇〇が悪いのです。※

※一部修正 この突拍子もない話は従来の二次資料を基にした創作ですが、近年論議されている一次資料を基にした新説だと関ヶ原の内容が全く違って来てしまいます。白峰氏による一次資料による新設だと最初から小早川は東軍として行動しているので、従来の優柔不断な印象とは異なってきますね。二次資料通りとしてもギリギリまで行動を起こさなかったのは彼なりの計算があったのではないかと考えています。小早川は意外と天下に近い人物で元々は秀吉の後継者候補で秀頼の義兄弟でもあります。
条件によっては太閤にもなりうる人物で、小早川が死去した翌年に徳川家康は征夷大将軍になっています。徳川が将軍職を継いでいくという路線が決定した段階で小早川が邪魔になった可能性があるわけです。また傀儡の太閤としての利用価値も無くなったわけで、暗殺された可能性があると思います。酒飲みを殺すのは簡単で鴆毒を用いれば良いわけです。死因は鴆毒が肝臓にたまって肝硬変を起こしたか、毒によって内臓疾患が加速したのではないかと考えています。
小早川が死去して3年後に、織田秀信も高野山の麓で亡くなっています(享年25か26)。自害と言われていますが怪しいですよね。小早川も織田秀信も反徳川の勢力に担がれる可能性があるので暗殺されたのではないかと考えています。
小早川の死亡の9年後には加藤清正が亡くなっています。彼の死因も毒による暗殺ではないかと言われていますね。
考えすぎと言われるかもしれませんが、平成の世でも怪しい最期を迎えた人は結構いましたね。 ヤバいですね~。

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城郭情報

分類・構造 山城
築城主 富島氏
築城年 応永年間(1394〜1428)
主な改修者 小早川秀秋
主な城主 富島氏、不破氏、小早川氏
遺構 曲輪、土塁、堀切、竪堀、井戸
指定文化財 町史跡(松尾山城址)
再建造物 石碑、説明板
住所 岐阜県不破郡関ケ原町松尾
問い合わせ先 関ケ原町教育委員会事務局社会教育課
問い合わせ先電話番号 0584-43-1289