久しぶりの登城でしたが、記憶していたより竪堀がよく残っていました。追加で竪堀と湧き水周辺などを投稿します。
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2025/11/24 22:23
2025/11/24 22:03
小早川秀秋 (2025/11/24 訪問)
久しぶりの松尾山城です。
登山道を進み主郭に入る前に東尾根にある曲輪から散策しました。堀切がありましたが、浅くなっていました。その後、主郭、馬出状の曲輪、東南側の尾根にある2つ目の曲輪、空堀を挟んだ西側にある2つの曲輪等を散策しました。それぞれの曲輪には土塁があるのですが、主郭の西にある曲輪のうち南側の曲輪にだけは土塁がありません。ここが元の長亭軒城なのではないかとも言われています。その先には3本の竪堀が交互に設けられていました。主郭と西の曲輪の間には空堀があり、そのまま谷となっています。井戸らしき場所もありますが、谷を少し下ると水が湧いていました。標高293.1mの山の上ですが、水には困らなかったのかもしれません。東西約400m、南北約250mの比較的大きな山城で曲輪、土塁、堀切、竪堀などが残り、陣城ではなく本格的な城だと思います。
登山道は整備されていて道幅もあり歩きやすい。城内の散策路も概ね整備されていました。
JR関ケ原駅から徒歩約25分で登城口へ行くことができます。
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2025/11/21 22:06
自害ヶ岡(峰) 神谷道一氏 (2025/10/19 訪問)
「赤色立体かるた」の読み札が発表されました。よかった私のも有った。正直、一枚も選ばれていないのではと思っていました。
選んでもらうことを前提に投稿していなかったのですが、良かった。できれば秀吉関係が良かった(ポカッ!)
自害ヶ岡は松尾山の伝小早川秀秋陣の北に位置する丘陵です。「関ヶ原の合戦」より「壬申の乱」の方で有名で、西麓には大友皇子が自害して果てたとされる三本杉がありますが「戸田左門覚書」にはここに石田三成の陣が有ったと記載が有ったはずです。
戸田左門とは大垣城の城主・戸田氏鉄のことで「覚書」は江戸時代に新井白石によって編纂されたらしいので、二次史料に当たります。最近読んだ高橋陽介氏の著書「シン・関ヶ原」にも「戸田左門覚書」の記載がありますが、高橋氏は石田三成の陣を自害ヶ岡とは考えていないようです。
「信長公記」でおなじみの太田牛一が慶長6年ごろに「関ヶ原合戦双紙」を徳川家康に献上しています。いわば徳川家の「お墨付き」で書かれたことになりますか。ネットでも閲覧が可能ですが、書体が昔のままなのでほぼ読めません。
ただ宇喜多秀家が山中の陣から天満山に移動したと書かれているようで、白峰旬氏らの一次史料による説とは内容が異なります。
なんとなくここから歴史がねじ曲がってしまっている予感がしますが「慶長年中卜斎記」を記した家康に仕えた医師・板坂卜斎は関ヶ原のことは太田殿が行うので・・といった発言をしていたらしいので・・
徳川方に都合が良いように忖度した内容に仕上がっている可能性があると思います。事実と異なっていても上様のお墨付きの内容に異論を唱えるのは勇気がいることなので、藤堂高虎などが後年書いた著書でも「鵜呑み」には出来ないと思います。
明治の郷土史家「神谷道一」氏の書いた「関ヶ原合戦図志」では自害ヶ岡の丘陵一帯に西軍の陣が想定されていますが、翌年に陸軍の発表した「日本戦史関原役」の配陣では麓に下されています。日清戦争の前年なので、野戦砲陣地として確保されたのかもしれません。
同様に神谷氏は南宮山の尾根一帯に毛利・吉川の陣を想定していますが、これも陸軍によってはるか南の窮屈なスペースに追いやられてしまっています。当時の陸軍の野戦砲は鋳造の青銅製の前装式ですが西南戦争のころに使われていた大砲より性能は上です。
南宮山上はなだらかな丘陵が続いているので、あらかじめ野戦砲を設置しておけば伊勢街道や東山道を通って東京を目指す敵軍を砲撃することが可能です。
「関ヶ原合戦図志」には大垣城周辺の布陣の記載もありますが「日本戦史関原役」にはありません。時間もなく逼迫していたので砲台陣地だけを確保したかったのかもしれません。
神谷氏は「関ヶ原合戦図志」を作成する際に山鹿素行の「武家事紀」を参考にしていると思います。小和田教授と白峰氏のやりとりで白峰氏は「武家事紀」の誤記を指摘していますが、その箇所は神谷氏が綺麗に修正してあります。
記憶で書いているので詳細を省いて申し訳ないのですが、神谷氏は江戸時代以降に最も真摯に関ヶ原の歴史に向かい合った一人だと思います。
残念ながら「武家事紀」には山中の「ヤ」の字も無いので「関ヶ原合戦図志」が事実と即していない部分もあるとは思いますが、私は敬意を払いたいと思います。
悲しいことに戦後に「日本戦史関原役」の陣形図がそのまま受け継がれている上に、自害ヶ岡の丘陵は東海道新幹線と高速道路によってブチ削られています。ここに西軍の陣地があったかは分かりませんが可能性は有ったと思います。
もんか省も政治家も何を考えているのか分かりません。元々「関ヶ原合戦図志」は岐阜県の依頼で製作された経緯があるので今のままでは神谷氏に顔向けできませんぞ。
「戸田左門覚書」「関ヶ原合戦図志」「関ヶ原合戦双紙」はネットで閲覧・ダウンロードが可能です。
「武家事紀」は老後の楽しみに古~い本を購入して保存してあります。
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2025/04/05 23:00
玉城 (2025/04/05 訪問)
関ケ原の戦いで豊臣秀頼が出陣したときのための陣城ではないかという説もある城址です。城びとには未登録の城址で、関ケ原近郊のため松尾山城の周辺観光で投稿しました。関ケ原古戦場の西方、大谷吉継ら西軍武将の陣跡よりさらに奥まった場所に位置しています。登城路は大谷吉継の陣の西側にある林道を北へ進むと左手に城山への案内があります。登城路は整備されていて20分くらいで主郭へ行くことができました。東側の登城路は尾根道になっていて西側は堀切があり防御されています。北と南は腰曲輪があり、その下は急斜面になっていていくつかの竪堀を観ることができます。竪堀は浅くなっていますが、ほぼネットなどで見た縄張り図どおりにありました。
説明板には南北朝時代に佐竹義春がここに砦を築き、戦国時代には浜六兵衛や杉山内蔵助がいたと書いてありました。杉山内蔵助は竹中氏の家臣と思われます。自分としては現地に行って見て規模などから豊臣秀頼本陣予定地説には違和感を持ちました。この地は北国街道や中山道が走る要衝地であり城は戦国時代に修復され、斎藤氏、織田氏などが街道の監視、抑えとしていたのではないでしょうか。ただ豊臣秀頼本陣予定地説もおもしろいので、今後も経過を注視していきます。
ところで玉地区には旧軍時代に名古屋陸軍兵器補給廠関ケ原分廠(玉の火薬庫)が置かれていました。玉城の遺構もその範囲に含まれていますが、ほとんど改変がされていなかったようです。ただ「陸軍境」の石柱とコンクリート柱が西尾根まで続いていました。曲輪内にはいくつか穴があり井戸跡かと思いましたが、陸軍の蛸壺壕の跡のようです。
比較的遺構も残り登城路も整備されていて散策しやすい城址です。
豊臣秀頼本陣予定説が出る前から気になっていた城址です。花粉症に悩まされる今日この頃ですが、山城のシーズンもそろそろ終わりのため思い切って行って来ました。主要な部分だけであれば夏に来ても見学できると思います。ただ近くには「クマ出没注意」の看板がありました。
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| 分類・構造 | 山城 |
|---|---|
| 築城主 | 富島氏 |
| 築城年 | 応永年間(1394〜1428) |
| 主な改修者 | 小早川秀秋 |
| 主な城主 | 富島氏、不破氏、小早川氏 |
| 遺構 | 曲輪、土塁、堀切、竪堀、井戸 |
| 指定文化財 | 町史跡(松尾山城址) |
| 再建造物 | 石碑、説明板 |
| 住所 | 岐阜県不破郡関ケ原町松尾 |
| 問い合わせ先 | 関ケ原町教育委員会事務局社会教育課 |
| 問い合わせ先電話番号 | 0584-43-1289 |