関ケ原の戦いで豊臣秀頼が出陣したときのための陣城ではないかという説もある城址です。城びとには未登録の城址で、関ケ原近郊のため松尾山城の周辺観光で投稿しました。関ケ原古戦場の西方、大谷吉継ら西軍武将の陣跡よりさらに奥まった場所に位置しています。登城路は大谷吉継の陣の西側にある林道を北へ進むと左手に城山への案内があります。登城路は整備されていて20分くらいで主郭へ行くことができました。東側の登城路は尾根道になっていて西側は堀切があり防御されています。北と南は腰曲輪があり、その下は急斜面になっていていくつかの竪堀を観ることができます。竪堀は浅くなっていますが、ほぼネットなどで見た縄張り図どおりにありました。
説明板には南北朝時代に佐竹義春がここに砦を築き、戦国時代には浜六兵衛や杉山内蔵助がいたと書いてありました。杉山内蔵助は竹中氏の家臣と思われます。自分としては現地に行って見て規模などから豊臣秀頼本陣予定地説には違和感を持ちました。この地は北国街道や中山道が走る要衝地であり城は戦国時代に修復され、斎藤氏、織田氏などが街道の監視、抑えとしていたのではないでしょうか。ただ豊臣秀頼本陣予定地説もおもしろいので、今後も経過を注視していきます。
ところで玉地区には旧軍時代に名古屋陸軍兵器補給廠関ケ原分廠(玉の火薬庫)が置かれていました。玉城の遺構もその範囲に含まれていますが、ほとんど改変がされていなかったようです。ただ「陸軍境」の石柱とコンクリート柱が西尾根まで続いていました。曲輪内にはいくつか穴があり井戸跡かと思いましたが、陸軍の蛸壺壕の跡のようです。
比較的遺構も残り登城路も整備されていて散策しやすい城址です。
豊臣秀頼本陣予定説が出る前から気になっていた城址です。花粉症に悩まされる今日この頃ですが、山城のシーズンもそろそろ終わりのため思い切って行って来ました。主要な部分だけであれば夏に来ても見学できると思います。ただ近くには「クマ出没注意」の看板がありました。
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