久々に松尾山城に行ってきました。今回は搦め手からでは無く、北側のメジャーなルートから。個人的には江戸時代から続く小早川秀秋を侮る風潮が好きではない。若者を侮るのは平和な時代(江戸時代)の悪癖だと思います。戦国から大阪の陣まで続く動乱の時期では皆必死に知恵を絞って生きていたので若者から老人・女性・僧・農民に至るまで侮れるような存在はいなかったと思っています。
小早川をけしかける「問鉄砲」にもいろいろ解釈があって、戸田氏鉄の記した「戸田左門覚書」には問鉄砲の記載はありません。小早川隊の到着が遅くて苛立つ福島正則の傍にいる武将が「霧が濃いので小早川は動けないのです」という説明をして福島が気を取り直すといった記載がありました(記憶で書いているので詳細の誤差はご容赦を)。白峰氏の著書にある一次史料には小早川隊は開戦後すぐに西軍と交戦したと書かれているようです。ひょっとすると麓に居た小早川の先手はすぐに戦いを始めたけど、本体の到着は遅れたのかもしれません。
松尾山城の本丸から見ると戦場はすごく遠くに見えます。講談の「問鉄砲」はいささか無理が有るような気がする、戦場からこっちに鉄砲撃っても見えるのかな? 鉄砲撃ちかけられて急いて戦場に赴いたとしてもどれだけ時間がかかるか・・そもそもここを騎馬隊で降れるのか?
戦場に向かうにしても適切なルートが有ると思う。
メジャーな縄張り図には出てこないけど松尾山城の周辺にはけっこう扁平地が有ります。小早川隊が15000もの兵を連れて来れたかは謎ですが(諸説あるので)雑兵が駐屯する扁平地は多数必要だと思います。もちろん土塁は無し。
個人的には主郭の北東にある四段の扁平地が気になります。ここから尾根が北西に続いていま(実はそっち方向にも遺構と見られる場所がありますが詳細は省略)。この四段の扁平地から続く尾根は進軍ルートの比定地の一つでは無いでしょうか。尾根についている竪堀の様な堀道は後世のものだろうか。同じようなものを朝倉山や某所で見たような気がする。
呉座勇一氏の著書「動乱の日本戦国史」の第五章を参考にすると「備前老人物語」には徳川方が松尾山の麓に展開していた小早川隊に誤射を装って射撃を行ったという記述があるようです。これが問鉄砲の元ネタになっている可能性もありますな。
一次史料と矛盾する部分もあるだろうが、小早川隊が開戦後即座に全軍で西軍と交戦したという可能性と、一部部隊が交戦し本隊は遅れて到着したという可能性も考慮したい。
正直ひねくれた投稿ばかりで申し訳ないが、歴史と城郭(遺構)は切っても切り離せない相互補完の関係だと思うのだ。。
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