出張の合間を縫ってお城を回りました。
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2026/07/13 09:51
出張の合間の旅 その1(1) (2026/06/16 訪問)
出張の合間を縫ってお城を回りました。
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2026/07/13 08:06
川守城(滋賀県蒲生郡竜王町川守) (2026/01/04 訪問)
川守城(城びと未登録)は、詳細は不明ながら六角氏に仕えた吉田氏の城と伝わります。
城跡は住宅地になっていて遺構はほとんどが失われていますが、八幡社の建つ土壇が東辺の土塁と考えられ、土塁には川守城趾の石碑と城の八まん社の標柱が、鳥居の奥には近代弓道発祥の地の説明板が立てられています。説明板によれば、日置弾正正次から弓の奥義を伝授された川守城主・吉田出雲守重賢が日置吉田流弓術を広め、5代後には徳川将軍家の弓術指南役を輩出するなど、現在の弓術流派の多くは日置吉田流を発祥とするのだとか。土塁がわずかに遺るだけの城かと思いきや、現在まで続く大きな流れの源流だったとは。
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2026/07/13 07:08
和泉の攻城① (2026/07/11 訪問)
2026年6月に攻城を予定していたのに、雨と財布忘れのため断念せざるを得なかった和泉の城を攻めてみました。名古屋始発ののぞみで新大阪にアクセスし、阪和線の和泉大橋駅にて下車。徒歩で積善寺城を目指しました。近木川(こぎがわ)にかかる橋の袂に説明板が建っています。主郭跡という明教寺にも脚を伸ばしてみました。
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2026/07/13 05:48
(中国地方と兵庫県)遠征21日目:霜降城 (2026/05/31 訪問)
厚東駅から徒歩35分くらいで、霜降山登山道/温見古道(34.025009、131.262473)に着きました。
霜降山への登山コースはいくつかあるようですが、自分は持世寺コースを選択して登りました。
1179年(治承3年)壇ノ浦の戦いで名を上げた七代厚東武光によって築かれたと云われています。
厚東氏は物部氏の末裔を称し、初代厚東武忠が棚井の地に住んだことに始まるとされ厚東氏館を居館としていました。
14代厚東武実は長門守護職となり勢力を拡げるが、その後大内氏と争うようになり、17代厚東義武のとき1358年(延文3年・正平13年)大内弘世によって霜降城は攻め落とされ、厚東義武は城を逃れて九州へ落ちていきました。
九州に逃れた厚東義武は失地回復の戦いを挑みますが、最終的に長門国は大内氏の版図に組み込まれました。
霜降城は大内氏には使用されず放置され、南北朝時代の遺構が現在も残っているそうです。
霜降岳分岐点を過ぎるとひたすらロープをつかっての登りです。結構きついです。
後城(北峰)に着いた時点で帰りの電車の予定時間が迫ってました。
本城に向かうかどうか迷って、とりあえず後城(南峰)に到着。ここで本城に向かうのは諦め下山。
しかし、タッチの差で予定の電車に間に合わず、厚東駅で次の電車まで40分待ちでした。
攻城時間は90分くらいでした。本日の城巡りは、ここがラストです。
歩行歩数=41240歩、歩行距離=28.8Kmです。
本日の宿泊先に向かう為、厚東駅からJR山口線を利用して新山口駅に戻りました。
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2026/07/13 05:40
(中国地方と兵庫県)遠征21日目:松屋城 (2026/05/31 訪問)
小月営業所バス停から徒歩10分ちょっとで、王喜小学校入口(34.062862、131.054026)に着きました。
そこから、登り口・説明板前(34.062392、131.058388)に向かいました。
築城年代は定かではないようですが、南北朝時代に松屋氏によって築かれたと云われています。
戦国時代、大内氏家臣の居城と云われています。
江戸時代には下関火の山(現火の山公園)からの狼煙を受けて次点の吉田足河内大音山に中継する狼煙場が頂上に設けられたそうです。
シダが結構深く腰のあたりまであり、主郭の状態がよくわかりません。
特にこれといった遺構はないようです。
攻城時間は35分くらいでした。次の攻城先=霜降城を攻城する為、小月営業所バス停からサンデン交通バスとJR山陽本線を利用して厚東駅へ向かいました。
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2026/07/13 05:33
(中国地方と兵庫県)遠征21日目:勝山城 (2026/05/31 訪問)
御殿町バス停から徒歩15分くらいで、勝山御殿跡(34.021909、130.973233)に着きました。
築城年代は不明だが、1378年(永和4年)に大内氏家臣の永富嗣光が築城したとも言われています。続いて1408年(応永15年)に相良民部少輔が在城したそうです。
1527年(大永7年)には九州に対する備えとして守護大名大内氏の重臣内藤興盛の居城となりました。
この興盛の時に近接する青山城の青山城主高森内膳之助と「青山くずれ」と呼ばれる争いが起こりました。
高森氏は津原膳勝や津田興輝らの加勢を得て12,000の軍勢で勝山城を取り囲むも、内藤氏には大内氏が加勢して35,000の大軍となり、逆襲に転じた内藤勢は、青山を攻め落としました。
1555年(天文24年)厳島の戦いで勝利した毛利元就による周防・長門への侵攻(防長経略)により、1557年(弘治3年)大内義長は本拠地である山口を脱出し、内藤隆世と共にこの城に籠城して毛利軍と戦いました。
勝山城を包囲した元就が矢文によって降伏を促したところ、開城して、義長の助命を嘆願する隆世は自害しました。
その後義長は、勝山城を出て兄である大友義鎮を頼って九州を目指しましたが、叶わず長福寺(功山寺)で、攻め寄せた毛利軍に追い詰められて自害しました。
その後は南条宗勝、山田重直が在城したそうです。
勝山城は勝山山頂に築かれていおり、山頂まで登山道が整備されているそうです。
時間の都合上、勝山城には向かわず勝山御殿の攻城で勝山城攻城とさせて頂きます。
攻城時間は40分くらいでした。次の攻城先=松屋城を攻城する為、御殿町バス停からサンデン交通バスを乗り換えて小月営業所バス停へ向かいました。
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2026/07/13 05:27
(中国地方と兵庫県)遠征21日目:櫛崎城周辺散策(長府毛利藩ゆかりの地) (2026/05/31 訪問)
櫛崎城から徒歩5分くらいで、豊攻神社(満珠千珠展望台付近)(33.992533、130.995304)に着きました。
長府毛利藩ゆかりの地は以下の順番で攻城しました。
①:豊攻神社(満珠千珠展望台付近)(33.992533、130.995304)
②:長府毛利家御船手の石積跡付近(33.9935413、130.994363)
③:長府藩家老三好周亮邸址(33.993944、130.988840)
④:旧野々村家表門(33.994984、130.988613)
⑤:長府藩侍屋敷長屋(33.996271、130.987991)
⑥:長府毛利邸入口(33.996892、130.984565)奥に毛利秀元公像
⑦:菅家家長屋門・練壁(33.997523、130.985270)
⑧:旧松岡家長屋門(33.998590、130.985969)
⑨:維新発祥の地碑(33.998645、130.990039)
攻城時間は60分(移動時間を含む)くらいでした。次の攻城先=勝山城を攻城する為、城下町長府バス停からサンデン交通バスを利用して御殿町バスへ向かいました。へ徒歩で向かいました。
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2026/07/13 05:21
(中国地方と兵庫県)遠征21日目:櫛崎城 (2026/05/31 訪問)
市立美術館・関門医療センター前バス停から徒歩5分くらいで、階段付近(33.989624、130.993278)に着きました。
そこから、石垣前(33.991740、130.994401)に向かいました。
940年(天慶3年)に藤原純友の配下稲村平六景家が在城していたと伝わるが定かではないようです。
関ヶ原合戦後、毛利輝元は防長二カ国に減封となり萩城を居城としました。
これによって毛利秀元は60,000石を分知されて櫛崎城を居城とし長府藩となりました。
毛利秀元は毛利元就の四男穗井田元清の長子で、長らく嫡男に恵まれなかった毛利輝元の養子となった人物で、後に輝元に嫡男秀就が誕生したことから別家をたてました。
1615年(元和元年)幕府による一国一城令によって廃城となり、長府藩は現在の豊浦高校の敷地に居館(長府陣屋)を構えて藩庁としました。
1864年(元治元年)13代毛利元周のとき勝山御殿を築いて居城を移しています。
石垣への登り口を捜す為、石垣の周りをウロウロ。鯨館側にありました。
現在城址は「関見台公園」として、石垣・天守台が復元整備されています。
少し離れていますが、移設整備された長府藩侍屋敷長屋も見所です。この後、見学しに行きました。
攻城時間は20分くらいでした。次の攻城先=長府毛利藩ゆかりの地へ徒歩で向かいました。
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2026/07/13 04:57
(中国地方と兵庫県)遠征21日目:下関前田台場 (2026/05/31 訪問)
壇之浦古戦場跡から徒歩20分弱で、石碑説明板付近(33.973908、130.970434)に着きました。
前田台場は、1863年(文久3年)に長州藩によって築かれました。1863年(文久3年)長州藩は攘夷を決行して外国船への砲撃を行ったが、フランス軍艦に報復攻撃され前田台場は占領されました。
米仏の報復攻撃を受けた長州藩は、高杉晋作に下関の防衛をまかせ、高杉は志願兵による奇兵隊を結成します。長州藩は前田砲台を修復するなどして、さらなる攘夷実行に向けて体制を整えました。
翌1864年(元治元年)駐日イギリス公使オールコックは、日本の開国の障害となっている長州を武力攻撃することを決意。
フランス、オランダ、アメリカもこれに同調し、前田台場は1864年(元治元年)英・仏・蘭・米四国連合艦隊による攻撃を受け、再度占拠されました。
連合艦隊の旗艦ユーライアラス号の艦上で講和談判が行われ、長州側からは高杉が使節として交渉に臨んだ。その結果、賠償金300万ドルの支払いなどを条件として講和が成立した。
以上の一連の経過を下関戦争といいます。また、1863年(文久3年)の事件を下関事件、1864年(元治元年)の事件を四国艦隊下関砲撃事件と区別して呼ぶ場合もあるそうです。
前田台場は、長州藩が築いた十数か所の砲台の一つで、茶臼山の南西麓、関門海峡に面する位置にあります。
この場所にはかつて長府毛利家の御茶屋があり、古くは奈良時代の古瓦も出土しているそうです。
現在は史跡公園となり、低台場に石碑と案内板が立てられています。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=櫛崎城を攻城する為、前田バス停からサンデン交通バスを利用して市立美術館・関門医療センター前バス停へ向かいました。
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2026/07/13 04:54
(中国地方と兵庫県)遠征21日目:下関前田台場周辺観光(壇之浦古戦場跡) (2026/05/31 訪問)
下関前田台場を攻城する前に、下関観光(下関唐戸市場、亀山八幡宮、赤間神社、壇之浦古戦場跡)をしました。
赤間神社から徒歩20分弱で、壇之浦古戦場跡(33.964759、130.956502)に着きました。壇之浦古戦場跡では以下を観光しました。
①:壇之浦古戦場跡(33.964759、130.956502)
➡手前に壇ノ浦コースト、先に安徳天皇御入水之処碑、源義経・平知盛像
②:長州砲展示(33.965614、130.956919)
③:壇ノ浦砲台跡(33.966187、130.957290)石碑
観光時間は10分くらいでした。次の攻城先=下関前田台場へ徒歩で向かいました。
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2026/07/13 04:49
(中国地方と兵庫県)遠征21日目:下関前田台場周辺観光(赤間神社) (2026/05/31 訪問)
下関前田台場を攻城する前に、下関観光(下関唐戸市場、亀山八幡宮、赤間神社、壇之浦古戦場跡)をしました。
亀山八幡宮から徒歩10分くらいで、赤間神宮鳥居前(33.958997、130.948996)に着きました。
859年(貞観元年)に阿弥陀寺として開闢。
1185年(文治元年)壇ノ浦の戦いで入水した安徳天皇の遺体は現場付近では発見できませんでしたが、赤間関(下関)に1191年(建久2年)勅命により御影堂が建立され、建礼門院ゆかりの尼を奉仕させました。以後、勅願寺として崇敬を受けました。
明治の神仏分離により阿弥陀寺は廃され、神社となって「天皇社」と改称した。
また、歴代天皇陵の治定の終了後、安徳天皇陵は多くの伝承地の中からこの安徳天皇社の境内が1889年(明治22年)7月25日、「擬陵」として公式に治定されました。
天皇社は1875年(明治8年)10月7日、赤間宮に改称し、官幣中社に列格しました。
1940年(昭和15年)8月1日、官幣大社に昇格し、赤間神宮に改称しました。
2018年(平成30年)11月2日、「赤間神宮水天門及び回廊」が国の登録有形文化財に登録されました。
赤間神宮 水天門:竜宮城を模した赤の神門がとても綺麗であり確かに竜宮城を想像させる楼門。素晴らしい。現在は国登録有形文化財に指定されています。
赤間神宮 大安殿:戦争により焼失しましたが、1965年に現在の立派な社殿が建立されました。水や海に関するご利益があり、安産、海上交通安全、豊漁、水商売などが挙げられます。
赤間神宮 境内 芳一堂 – 耳なし芳一:盲目の琵琶法師・芳一が、怨霊から逃れるために経文を全身に書き難を逃れようとしますが、耳だけ経文を書き忘れられたために耳を千切り取られるという怪談話です。耳なし芳一物語の舞台である阿弥陀寺は、現在の赤間神宮にあたるそうです。
赤間神宮 郵便ポスト:鳥居脇の郵便ポストは、水色でふくのオブジェが飾られており、流石下関ですね。隣りは歴史的にも有名なふぐ料理の春帆楼があります。
その他、太閤石、水天門薄墨の松などを見学しました。
観光時間は20分くらいでした。次の観光先=壇之浦古戦場跡に徒歩で向かいました。
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2026/07/13 04:43
(中国地方と兵庫県)遠征21日目:下関前田台場周辺観光(亀山八幡宮) (2026/05/31 訪問)
下関前田台場を攻城する前に、下関観光(下関唐戸市場、亀山八幡宮、赤間神社、壇之浦古戦場跡)をしました。
下関唐戸市場から徒歩2~3分で亀山八幡宮鳥居前(33.957028、130.945014)に着き、そこから亀山砲台跡(33.957206、130.944876)に向かいました。
亀山八幡宮鳥居付近に金子みすゞの三好写真館跡碑、山陽道石碑、床屋発祥の地碑があります。
また、亀山八幡宮を参拝して、金子みすゞ亀山八幡宮詩碑も確認しました。
観光時間は15分くらいでした。次の観光先=赤間神社に徒歩で向かいました。
赤間神社に向かう途中に、坂本龍馬馬とお龍が生活したとされる本陣伊藤邸跡がありました。
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2026/07/13 04:38
(中国地方と兵庫県)遠征21日目:下関前田台場周辺観光(下関唐戸市場) (2026/05/31 訪問)
下関前田台場を攻城する前に、下関観光(下関唐戸市場、亀山八幡宮、赤間神社、壇之浦古戦場跡)をしました。
ホテルの朝食を抜いて、下関唐戸市場を観光する為、新山口駅からJR山陽本線を利用して下関駅に向かいました。
下関駅から徒歩5分くらいで、釜山門(33.951107、130.924115)に到着しました。
下関唐戸市場へ向かう道すがら、以下の観光をしました。
①:釜山門(33.951027、130.924045)
②:ふくのモニュメント付近(33.950759、130.924112)
③:オーヴィジョン海峡ゆめ広場付近(33.949915、130.928336)
➡ゆめ広場よりオーヴィジョン海峡ゆめタワーを見る(ゆめタワー:9:30~21:30)朝早い為、外から見るだけです
④:ロンドンバス(33.956474、130.945273)
⑤:唐戸市場入口付近(33.956474、130.945273) 5:00~15:00
➡市場の食堂で朝食を食べる
T:関門海峡歌碑(33.956047、130.945870)
⑦:堂崎の渡場跡付近(33.956331、130.944923)
➡横にサビエル下関上陸碑、付近に金子みすゞ詩碑あり
ちなみに朝食は下関唐戸市場でふくを食べるかどうか迷いましたが、海鮮丼定食を食べました。
観光時間は75分(移動時間と唐戸市場の朝食時間を含む)くらいでした。次の観光先=亀山八幡宮に徒歩で向かいました。
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2026/07/12 23:06
空港から歩いて行ける続100名城 (2026/06/24 訪問)
函館駅前から函館空港行きのシャトルバスを利用しました。(約20分・¥700)
空港からはトンネルを通って徒歩20分ほどで到着です。
このトンネル、前回訪問時に吹雪の中を空港に避難しようと必死で歩いた思い出があります。(この時は行きはバスで志海苔まで行きました。)
その経験があるのでお天気のいい今回は怖がらずに歩けました。
志苔館に着いて最初に目に入ったのはコシャマインの戦いでの和人、アイヌ双方の慰霊碑です。2基並んだ石碑が語りかける歴史。学び続けることの大切さを思います。
館跡は鮮やかな緑の草に覆われ、前回感じた寂しさは全くありませんでした。季節が違うとこんなにも印象が違うのかと驚きでした。
スタンプ小屋の扉は外れていましたがスタンプ自体に不具合はありませんでした。
再び徒歩で空港に戻り次の目的地に向かいました。
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2026/07/12 19:44
2026/07/12 18:57
函館ハーフマラソン (2026/06/28 訪問)
湯の川温泉に宿泊し函館ハーフマラソンの日に通行止めになる前にタクシーで向かいました。
快晴で土塁から函館湾が一望できました。
その後歩いて函館空港に向かい、途中マラソンボランティアの人にとても親切に道案内してもらい20分ぐらいで着いました。
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2026/07/12 18:49
五稜郭タワーから (2026/06/27 訪問)
函館の湯の川温泉に宿泊し向かいました。
湯の川温泉からは市営バスで二駅混んでいたけど便利でした。
五稜郭タワーからの城郭が一望でき景観がとても素敵でした。幕末から明治初期の歴史も分かりやすく面白かったです。
ついでにAll Japan Towers stanp rally もトライすることにしました。
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2026/07/12 18:42
大雨の登城 (2026/06/26 訪問)
函館からレンタカーで行きました。途中無料高速に気づくのが遅かったこともあり、約3時間、想定以上に時間かかりました。大雨だったので、城郭散策はできませんでしたが、再建天守閣の中で元は福山城であったこと、松前氏の歴史を学べました
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2026/07/12 18:29
ジョイじょぐら (2026/06/26 訪問)
大雨のため、城趾散策はできなかったけど上ノ国町ジョイじょぐらにてスタンプゲットしました。
松前城から車で約1時間。雨じゃなかったら絶景ドライブだったと思いました。
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2026/07/12 08:36
見応えある石垣の出城 (2026/01/04 訪問)
繖山から北にのびる尾根の突端に位置し、織田信長の上洛に際して観音寺城の出城として築かれた城で、後藤但馬守が城主を務めました。
北向岩屋十一面観音の駐車場から登城開始。参道を車で尾根筋まで登ったのであとは尾根沿いに下るだけ…と思っていたら、下るだけは下るだけながら思ったより距離がありました。比高はわずか65mですし、山麓の登城口から歩いて登ったほうが早かったかもしれません。
駐車場から尾根沿いに東に進み、北側に藪化した堀が続くあたりを通り過ぎると石垣に行き当たります。佐生日吉城は主郭と東下段の曲輪からなり、主郭の南西面から南面にかけて約50mに及ぶ石垣が続いていますが、南西隅部を突出させて横矢掛りになっています。南面の土塁を眺めつつ進み、東下段の曲輪から主郭へ。喰い違い状になった東虎口から主郭に入ると、周囲は高さはないものの幅広い土塁で囲まれていて、奥には後藤但馬守城址の石碑が立てられていました。北尾根へと続く虎口の脇にも石垣が見られ、北尾根を進んだ先では両側に竪堀が落ちている…はずですが、藪に覆われていてよくわかりませんでした。そして主郭に戻って西虎口を出たところで佐生日吉城をひとめぐり。
ほぼ単郭の城ながら、南面に続く長大な石垣は大いに見応えがありました。六角氏の山城は出城に至るまで石垣が多用されていて嬉しくなってきますね。
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