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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征9日目:尾高城 (2026/05/19 訪問)

宿泊先のホテルの朝食前に、淀江台場と小波城と尾高城の攻城をしました。
小波城から車で5分くらいで、城跡付近空スペース入口(35.420942、133.412720)に着き、そこから米子勤労者体育センター前(35.420588、133.412971)に向かいました。

築城年代は定かではないようですが、行松氏によって築かれたと云われています。
1524年(大永4年)大永の五月崩れによって落城、尼子氏の支配となります。城主行松正盛は流浪し、尼子方の吉田光倫が城主となりました。
1562年(永録5年)毛利氏の尼子氏攻略に伴い、行松正盛が再び城主となりました。
1563年(永禄6年)行松正盛が病死し、毛利家臣の杉原盛重が城主となります。
1569年(永禄12年)尼子氏再興軍山中幸盛らにより、一時城を奪われました。
1581年(天正9年)杉原盛重、八橋城において没し、家督は嫡男元盛が継ぎました。
1582年(天正10年)伯耆国佐陀に在る杉原景盛が兄の元盛を謀殺するも、毛利氏に攻められ戦死。吉田元重、尾高城在番となります。
1601年(慶長6年)伯耆一国の領主となった中村一忠は当時築城中であった米子城が完成するまでの間、一時当城に留まり、完成とともに廃城となりました。

現在公園として良く整備されています。
南大首、中の丸と呼ばれる曲輪に土塁や空堀が良く残っています。
本丸と二の丸は私有地につき立ち入り禁止です。
攻城時間は25分くらいでした。次の攻城先=粟住山城を攻城する前に、ホテルに戻って朝食を食べました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征9日目:小波城 (2026/05/19 訪問)

宿泊先ホテルの朝食前に、淀江台場と小波城と尾高城の攻城をしました。
淀江台場から車で10分弱で、三輪山の清水駐車場(35.439645、133.415680)に着き、そこから小波城入口付近(35.437728、133.414963)に向かいました。

築城者、築城年代は不明のようですが、元弘年間(1331~34)に大石橋五郎左衛門が居城としていたようです。
「元弘の乱」で隠岐島に流罪となった後醍醐天皇が、名和長年ら名和一族を頼って再度挙兵した際の舞台となった城です。
1333年(元弘3年)隠岐を守っていた幕府軍の武将、佐々木清高は後醍醐天皇らが立てこもった船上山で戦って敗れ、小波城に退きました。
名和軍は小波城に攻め寄せて焼き打ちにし落城させ、佐々木清高は小波城を逃れて隠岐へ退いたそうです。

小波城は草がぼうぼうで進入は無理そうでしたので、外側の写真を撮りました。
三輪山の清水は綺麗に整備されていました。持っていた空ペットボトルに水を汲みました。
攻城時間は20分くらいでした。次の攻城先=尾高城に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征9日目:淀江台場 (2026/05/19 訪問)

宿泊先ホテルの朝食前に、淀江台場と小波城と尾高城の攻城をしました。
宿泊先ホテルから車で20分弱で、公衆トイレ横駐車場入口(35.464617、133.428129)に着きました。

江戸末期、鳥取藩内に築かれた台場名所の内のひとつ。現在6ヶ所(由良台場跡 境台場跡 淀江台場跡 橋津台場跡 浦富台場跡 赤崎台場跡)が残っています。
農民等が積極的に協力して築造し、西洋式の城塞プランが採用されるなど、藩築造の台場としては極めて特徴的で、幕末史の理解に欠くことのできない重要な遺構のようです。
淀江台場は淀江湊に面し、今津村大庄屋松波宏年が土地を提供、その子宏元が設計して1863年(文久3年)11月に完成しました。
現在残るのは、高さ約4m、幅約24m、長さ約67mの土塁です。
淀江台場には六尾反射炉で製造した18斤砲、6斤砲、5寸径砲各1門が配備されたそうです。
当時は丸い鉄の弾で、射程距離は1里(約4km)と伝えられ、1~2ヶ月に1度、砲撃訓練が行われましたが、実戦に使用されることはなかったようです。

幕末、外国船を撃ち払うため、幕府に命じられ鳥取藩が因幡・伯耆の海岸線に1863年(文久3年)に築きました。 
境台場と同じく松波宏元が設計し、宏元の父、今津村大庄屋松波宏年が土地と資金を提供、しかも台場完成後は宏年率いる農民兵が台場を守備したそうです。
松波宏年(徹翁)は、1834年(天保5年)20歳の若さで郡の大庄屋を務めた人物です。
1855年(安政2年)には鳥取藩の郷士に任ぜられ、その恩に報いるため農兵隊を組織しました。
また土地を提供して台場を築き、藩の海岸防備に尽くしました。
その後、1866年(慶応2年)の第2次長州征伐、1868年(慶応4年)の戊辰戦争と、幕府軍として活躍した記録が残っています。

淀江台場は、淀江漁港の背後にあり、現在御台場公園となっています。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=小波城に向かいました。

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小城小次郎

武田徳川の御朱印を今に伝える (2025/09/07 訪問)

甲斐が混乱のるつぼと化す中で織田の焼き討ちに耐え武田勝頼と徳川家康それぞれから拝領した御朱印を戴き現在も現地にお住まいという稀有なお宅。石和陣屋の移築門を表門とし書院も庭園も手入れが行き届く。

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カズサン

ユリが咲いてる掛川城 (2026/05/26 訪問)

 用事で牧之原市へ、用事前に諏訪原城、勝間田城へ登城し笹ユリを堪能して、用事後掛川城へ、外堀代わりの逆川の鉢巻土塁法面に洋種のユリ(カサブランカ)が植栽されて居りこの時期掛川城を訪れる人々を楽しませてくれています、カサブランカ(百合)と掛川城天守閣とのコラボレイションを考えてベストポジションは無いかと逆川北側土手中間に在る遊歩道沿いカサブランカ(百合)を愛でながら品定め、天守閣とカサブランカ(百合)が程よくコラボするポイントを探すが中々ない、唯一百合と天守の重なった処が有ったが天守が少し見える程度、素晴らしいポンとは見つける事が出来ませんでした。
 後は花と天守閣、建物と探し、三の丸花壇と天守群、本丸花壇と天守閣、復元大手門と満開のサツキ、逆川沿いのユリ(カサブランカ)の写真を投稿します。
 4月の桜の時期に訪ねて1ヶ月振りの登城でした。
 

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イオ

「淀殿」由来の城 (2025/12/13 訪問)

室町中期に畠山政長が築き、勝龍寺城から守護所を移したとされます。京都防衛の要地かつ交通の要衝であるため淀古城をめぐって数多の戦いが繰り広げられ、細川方、次いで三好方の城となり、織田信長が上洛すると織田方の城となりました。本能寺の変の後には明智光秀が改修して山崎の戦いでも利用され、豊臣秀吉の側室となった茶々が懐妊すると、秀吉の命により豊臣秀長が改修して茶々に与えられたことで「淀殿」と呼ばれるようになりました。文禄の役の後は木村重茲が城主となりましたが、豊臣秀次に連座して切腹し、淀古城も廃城となりました。

淀城に続いて淀古城にも。淀古城はかつての宇治川・桂川・木津川の合流点の北岸に築かれていましたが、宅地化されていて遺構は消滅しています。城びとの位置情報の妙教寺は江戸前期に城跡に建立された寺院で、境内には淀古城址の石碑が立てられている…はずですが、山門前に「見学はご遠慮ください」との立て札があるため山門越しに覗くにとどめ、石碑は確認できませんでした。妙教寺南側の小学校もかつての城域と思われますが、その間を東西に流れる水路は堀の名残でしょうか。水路を東にたどったところの畳店の隅には古淀城薬師堂趾の石碑が立てられています。また、唐人雁木旧趾の石碑の隣にはこのあたりの地名「納所」の説明板があり、淀古城についての記述もあります。

「諸事情」が何かはわかりませんが、以前は石碑を見学できていたわけですから、この数年のうちに何事かあったんですかね。せめて自身が原因で見学謝絶なんてことにならないよう注意しようと思った淀古城でした。
 

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todo94

雨の大阪での一日③ (2026/05/20 訪問)

昼食後は、乾櫓前、京橋口を経由して、御座船のチケット売り場へ。1800円の料金ですが、大阪周遊パスのQRコードの提示で乗船券を手に入れることができます。12:40、大阪城の内堀を遊覧する御座船に乗船。12:30の便はほぼ満席でしたが、私の乗った便はとてもゆとりがあって快適でした。御座船の売りはコーヒー豆のような人面石のようです。水面に近い目線から見る石垣や天守は中々新鮮でした。最後は、大阪城ホール近くの乗船場から淀屋橋まで水上バスのアクアライナーに乗船して大阪城を後にしました。

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赤い城

製薬会社の工場 (2026/06/10 訪問)

大阪での所用も終え、日が長いこともあり堀城と三津屋城に寄ってみることにしました。
まずは堀城、十三駅から徒歩5分くらい、皆さんのレポートにある通り武田薬品の大阪工場や十三公園あたりが城跡です。

武田薬品の通用口に説明板がありますが遺構や往時をしのばせるようなものはなさそうです。
十三公園には行かずこのまま三津屋城へと向かいました。

十三といえばネギ焼きで有名な店があります。
この日は行かなかったですがビールに合う🍺
新大阪の新幹線改札内にもあるので待ち時間にどうぞ。

【見どころ】
 ・説明板プレート

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征8日目:勝山城(尼子十砦⑧ 10城目) (2026/05/18 訪問)

尼子十砦:出雲国尼子氏の本城月山富田城の周囲を固める支城群
尼子十砦(①十神山城②神庭横山城③三笠山城④赤崎山城⑤亀遊山城⑥高尾城⑦高守山城⑧勝山城⑨寺山城⑩安田要害山城)
神庭横山城(尼子十砦②)から車で5分ちょっとで、橋付近(35.376010、133.183070)に着き、路駐した後、ハイキングコース入口(35.377837、133.180239)に向かいました。

築城年代は定かではないようですが、 古くは滝山城と呼ばれ尼子十砦の一つとして数えられ、城主は田中三良左衛門といわれています。
1543年(天文12年)尼子氏の月山富田城を攻めるために、大内義隆が来襲してきて京羅木山に軍勢を勧めた際には、ここを陣所としたそうです。
現在残る遺構は、永禄年間(1558年〜1570年)に出雲に侵攻した毛利氏によって築かれたものだそうです。

高尾城(尼子十砦⑥ 3城目)で痛めた右ふくらはぎ、痛み止めの薬で痛みは和らいでいますが、本日は無理をせず登城口で撤退です。
勝山城(尼子十砦⑧)の攻城で、尼子十砦をコンプリート(本日は登城口撤退ばかりでコンプリートはおこがましいですが。。)しました。
攻城時間は10分くらいでした。本日の城巡りは、ここがラストです。
本日の宿泊先(米子駅方面)へ車で向かいました。
明日の攻城計画は、痛めた右ふくらはぎの状態を考え、城びと未登録のお城の攻城中止&山城は登城口撤退に変更することにしました。
歩行歩数=25899歩、歩行距離=18.1Kmです。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征8日目:神庭横山城(尼子十砦② 9城目) (2026/05/18 訪問)

尼子十砦:出雲国尼子氏の本城月山富田城の周囲を固める支城群
尼子十砦(①十神山城②神庭横山城③三笠山城④赤崎山城⑤亀遊山城⑥高尾城⑦高守山城⑧勝山城⑨寺山城⑩安田要害山城)
赤崎山城(尼子十砦④)から車で10分ちょっとで、神庭町生活改善センター駐車場(35.390808、133.192565)に着きました。
そこから、案内図(35.391538、133.191910)の場所に向かいました。

築城年代は定かではなく、尼子十砦の一つで川井信濃守が在城したそうです。

案内図の場所の登城口は立入禁止になっていました。
自宅に戻ってから、todo94さんやぴーかるさんの投稿を見て登城口は自分の場所より少し西側にあることがわかりました。
事前に確認しておくべきでした。右ふくらはぎを痛めていたので登城は無理でしたが。。。。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=勝山城(尼子十砦⑧)に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征8日目:赤崎山城(尼子十砦④ 8城目) (2026/05/18 訪問)

尼子十砦:出雲国尼子氏の本城月山富田城の周囲を固める支城群
尼子十砦(①十神山城②神庭横山城③三笠山城④赤崎山城⑤亀遊山城⑥高尾城⑦高守山城⑧勝山城⑨寺山城⑩安田要害山城)
十神山城(尼子十砦①)から車で10分ちょっとで、加茂神社境内駐車場入口(35.415452、133.239613)に着き、そこから、境内東側から遊歩道(35.415370、133.239999)に向かいました。

築城年代は定かではなく、尼子十砦の一つで原民部少輔が在城したそうです。

賀茂神社の境内の東側から遊歩道が付いています。
高尾城(尼子十砦⑥ 3城目)で痛めた右ふくらはぎ、痛み止めの薬で痛みは和らいでいますが、本日は無理をせず登城口で撤退です。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=神庭横山城(尼子十砦②)に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征8日目:十神山城(尼子十砦① 7城目) (2026/05/18 訪問)

尼子十砦:出雲国尼子氏の本城月山富田城の周囲を固める支城群
尼子十砦(①十神山城②神庭横山城③三笠山城④赤崎山城⑤亀遊山城⑥高尾城⑦高守山城⑧勝山城⑨寺山城⑩安田要害山城)
安田要害山城(尼子十砦⑩)から車で20分くらいで、十神山なぎさ公園駐車場(35.434655、133.262008)に着き、そこから、十神山山頂登り口(35.434992、133.263290)に向かいました。

築城年代は定かではないようですが、室町時代に松田氏により築かれたようです。
応仁の乱では山名氏に属し月山富田城の尼子清定を攻めたが撃退され、逆に1468年(応仁2年)に清定に攻められ落城しました。
尼子氏の持城となった十神山城は尼子十砦の一つに数えられ、松尾遠江守が在城したそうです。
1566年(永禄9年)に児玉就忠の率いる毛利氏方の水軍に攻められ落城しました。
尼子氏滅亡後の1569年(永禄12年)には尼子残党に占拠されましたが、翌年の「布部山の戦い」で尼子軍が大敗を喫すると十神山城も陥落したそうです。

高尾城(尼子十砦⑥ 3城目)で痛めた右ふくらはぎも痛み止めの薬で痛みは和らいでいるので、比高70m/山頂まで380mの十神山城(尼子十砦① 7城目)は登城です。
右足をかばいながら杖の力を借りて山頂まで登りました。
やっぱり比高は低くても今日は無理をしない方がいいと実感しました。
現在は公園として整備されていますが、城址を示す案内板などは設置されておらず、三方を海に囲まれているものの木々が生い茂っており眺望はよくありません。
攻城時間は30分くらいでした。次の攻城先=赤崎山城(尼子十砦④)に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征8日目:安田要害山城(尼子十砦⑩ 6城目) (2026/05/18 訪問)

尼子十砦:出雲国尼子氏の本城月山富田城の周囲を固める支城群
尼子十砦(①十神山城②神庭横山城③三笠山城④赤崎山城⑤亀遊山城⑥高尾城⑦高守山城⑧勝山城⑨寺山城⑩安田要害山城)
豊岡城から車で5分ちょっとで、長台寺駐車場(35.377517、133.30917)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、、尼子経久の家臣・安井光照によって築かれたと云われています。
その後、福山源五郎が城主のとき、尾高城主・杉原盛重の率いる毛利勢に攻められ、1565年(永禄8年)落城しました。
城主は福山綱信、福山源五郎父子であったが、永禄8年(1565年)毛利勢の伯耆国尾高城主杉原盛重に攻められ落城した。

高尾城(尼子十砦⑥ 3城目)で痛めた右ふくらはぎも痛み止めの薬が効きはじめ、痛みは和らいでいますが、比高230m/山頂まで1130mは流石に無理なので登城口で撤退です。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=十神山城(尼子十砦①)に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征8日目:豊岡城 (2026/05/18 訪問)

亀遊山城(尼子十砦⑤ 城びと未登録 鳥取県安来市)から車で2~3分で、無線塔入口空スペース(35.357417、133.280583)に着きました。

詳細不明は不明のようですが、尼子氏の拠点である亀遊山城を攻める為に毛利氏が築いた向城と考えられているようです。

高尾城(尼子十砦⑥ 3城目)で痛めた右ふくらはぎも痛み止めの薬が効きはじめ、豊岡城は山城でないので登城することにしました。
しかし、途中から草が深く、前に進めなくなり登城を断念しました。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=安田要害山城(尼子十砦⑩)に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征8日目:亀遊山城(尼子十砦⑤ 5城目 城びと未登録 鳥取県安来市) (2026/05/18 訪問)

尼子十砦:出雲国尼子氏の本城月山富田城の周囲を固める支城群
尼子十砦(①十神山城②神庭横山城③三笠山城④赤崎山城⑤亀遊山城⑥高尾城⑦高守山城⑧勝山城⑨寺山城⑩安田要害山城)
高守山城(尼子十砦⑦)から車で5分弱で、県道沿い石碑付近(35.352039、133.277571)に着き路駐しました。

築城年代は定かではないようですが、尼子氏により築かれ、和田源右衛門が在城しました。

高尾城(尼子十砦⑥ 3城目)で痛めた右ふくらはぎの様子見で無理をしないことにし、県道沿い石碑の写真を撮って攻城としました。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=豊岡城に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征8日目:高守山城(尼子十砦⑦ 4城目) (2026/05/18 訪問)

尼子十砦:出雲国尼子氏の本城月山富田城の周囲を固める支城群
尼子十砦(①十神山城②神庭横山城③三笠山城④赤崎山城⑤亀遊山城⑥高尾城⑦高守山城⑧勝山城⑨寺山城⑩安田要害山城)
高尾城(尼子十砦⑥)から車で15分くらいで、城跡石碑付近(35.337743、133.274173)に着き、城跡石碑の写真を撮りました。
その後、中町公民館駐車場(35.334526、133.274284)に向かい、車を駐車して、登り口(35.334166、133.276537)に向かう予定でしたが、高尾城(尼子十砦⑥ 3城目)で痛めた右ふくらはぎの様子見で無理をしないことにしました。。

鎌倉時代に立原備前守によって築かれたと云われ、中井平三兵衛が在城したそうです。

高尾城(尼子十砦⑥ 3城目)で痛めた右ふくらはぎの様子見で無理をしないことにし、城跡石碑の写真を撮って攻城としました。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=亀遊山城(尼子十砦⑤ 城びと未登録 鳥取県安来市)に向かいました。

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ぴーかる

上梅沢館 (2026/05/10 訪問)

【上梅沢館】
<駐車場他>駐車場はなし。東側の墓地の方に停めました。
<交通手段>車

<感想>1泊2日富山ちょこ城巡り1000㎞旅19城目。現地には説明板はなく、上梅沢館は城びと情報によると、築城主は土肥氏?、築城年は南北朝時代?となっています。城びとの弓庄城、郷柿沢館と同じようにここも土肥氏の居館であったのだろう。越中土肥氏が国人領主として現在の滑川市と上市町辺りを領していたことが何となくわかった気がする。お寺さんに一部土塁が残っています。ここから見える立山連峰がきれいでしたので撮っておきました。

<満足度>◆◇◇

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トク

9【秀長の播磨平定をたどる④】有岡城(荒木村重と黒田官兵衛) (2026/06/12 訪問)

JR宝塚線に乗り伊丹駅で下車しました。すると有岡城の本丸跡は目の前にありました。荒木村重が築いた総構えの城です。しかし今ではビルや住宅に囲まれ、石垣の一部など、その面影はわずかしか残っていないのが、少し残念に思いました。

荒木村重は、家臣を見捨て自分だけ逃げ出した、「卑怯者と呼ばれた男」として有名です。それは本当だったのでしょうか? 村重は日本で初めて総構えで城を築いた人物だともされています。そんな城下の民までも守ろうとするような城を築く人物が、自分一人だけ逃げようなどと考えたとは、私にはとても思えないのですが・・・🤔。

本丸跡には官兵衛ゆかりの藤がありました。官兵衛は幽閉されている間、力強く咲く「藤の花」を見て、生きる勇気を得たそうです。しかし1年に及ぶ牢屋生活で足を痛めてしまい、この後一生杖をついて歩くようになります。福岡の人間としては、その場所がどこだったのか、見つける事ができず残念ですが、でもその間に松寿丸(後の黒田長政)を菩提山城で匿ってくれた竹中半兵衛には感謝です。

現在劇場公開中の映画「黒牢城」では、怯える村重と官兵衛との巧みな駆け引きが描かれています。村重はなぜ官兵衛を殺さず生かして幽閉したのか? 村重はなぜ妻や家臣を残して城を出たのか? 村重は本当に卑怯者だったのか? 村重と家臣との間にいったい何が起きたのか? 村重の本当の敵はいったい誰だったのか? この謎解きは・・・映画を御覧あれ(😱~!)。

次は、播磨で最後まで抵抗した別所長治の三木城と、竹中半兵衛の最期の地(平井山)を訪れます。
 

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イオ

わずかに遺る痕跡 (2025/12/13 訪問)

(続き)

本丸跡に続いては、京都府教育委員会文化財保護課の淀城跡の地図と「山城國淀城圖」を参考に城下を散策しました。

淀の水車(京都市伏見区淀本町)
淀城には桂川から二ノ丸居間と西ノ丸庭園に水を引き入れるため2基の大きな水車が設けられていて、淀城の名所として「淀の川瀬の水車、だれを待つやらくるくると」と歌われ、葛飾北斎の「雪月花淀川」にも描かれています。現在は水車は失われていますが、県道沿いの二ノ丸側水車の跡地に石碑が立てられています。また、淀駅西側ロータリーに淀の水車のモニュメントが設けられていました。

藩校明親館(京都市伏見区淀池上町)
跡地は小学校になっていて石碑や説明板なども見当たりませんでしたが、明親館の名は小学校に受け継がれていて(明親小学校)、時代を経ても変わらず学びの場であり続けているんだな、と妙な感慨がありました。また、戊辰戦争では幕府軍の陣が置かれた地でもあるようです。

大坂口門(京都市伏見区淀池上町)
城下を通る京街道に設けられた門で門自体は失われていますが、駐車場の奥に往時のものとされる石垣がわずかに遺っています。

孫橋(京都市伏見区淀新町)
大坂口門から京街道沿いに新町を抜けたところの巨椋池からの水路に架けられていた橋で、現在は土橋になっていますが、水路に往時の区画を感じることができました。なお、孫橋の少し先には木津川に架かる淀大橋がありましたが、木津川の付け替えにより宅地化していて何の痕跡も見られません。

淀小橋(京都市伏見区納所町)
京街道を北に進み京口門を出た先の宇治川に架かる橋で、幕末には淀城への入城を拒まれた幕府軍により焼き落とされています。その後、再建されるも宇治川の付け替えにより撤去され、跡地には石碑と説明板が立てられていました。

唐人雁木(京都市伏見区納所町)
朝鮮通信使は大坂で川船に乗り換えて淀川をさかのぼり、淀城下で上陸して陸路で京都そして江戸へと向かいましたが、その上陸地は唐人雁木と呼ばれました。宇治川の付け替えにより唐人雁木は失われ、跡地には石碑が立てられています。

城下に遺構はほとんどないものの、歩き回ってみるとそれなりに痕跡はあるもので、わずかばかりにでも往時の雰囲気を感じることができました。
 

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todo94

雨の大阪での一日② (2026/06/20 訪問)

豊臣石垣館の次は、ミライザ大阪城の地下にある海洋堂フィギュアミュージアムを覗いていきます。1000円の入館料を支払う気にはなれませんが、大阪周遊パスによりタダで見ることができるとなれば、見ていかない手はありません。とんでもない数の食玩など、様々なジャンルのフィギュアがてんこ盛りのミュージアムでした。西の丸庭園にももちろん立ち寄っていって定番の天守のショットを撮影。ただ、大阪周遊パスで櫓の特別公開もOKとはつゆ知らず、そちらはパスしてしまいました。大阪歴史博物館まで見てから、昼食タイムといたしました。

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