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トク

(1/2)八代城と加藤忠広 (2025/11/14 訪問)

続100名城の八代城へ行ってきました。

JR新八代駅(在来線口)から、八代駅経由の巡回みなバス右回り(産交)に乗り「八代宮前」で下車しました。下りると目の前に石垣がドンと見えます。八代宮は本丸御殿があった場所に明治時代に建てられた護国神社です(写真⑧)。ここからまず本丸石垣の上をぐるりと一周し、それから堀の外周を一周しました。広い堀から見えた大天守の石垣と小天守との横矢掛の折れをともなった石垣はとてもきれいで、一周すると堀に囲まれた四角い輪郭式の縄張りである事がよくわかります(写真①②③)。

八代城は1619年地震で倒壊した麦島城に代わり、加藤忠広(清正の子)が一国一城令の後の1620年に家臣の加藤正方に命じて築城した城です。当時は四層五階の大天守と二層三階の小天守、そして8つの櫓が本丸を取り囲んでいたようです。その復元図がありました(写真⑨)。そして、忠広の時代は欄干橋が唯一の出入口(大手門)で、今ある北の参道橋は松井時代に、南の参道橋は明治時代に架けられた橋のようです。

欄干橋を渡り大手門(頬当御門)から入り登城気分を味わいます(写真⑥⑦)。見事な高石垣は、上から撃ち掛けられたらひとたまりもない感じがします。でも加藤忠広は熊本城があったにもかかわらず、なぜこのような巨大な城を築城したのでしょうか? またなぜ、幕府は一国一城令の後にもかかわらず、この築城を許可したのでしょうか? 諸説あり真実はわかりませんが、忠広が島津との国境を固めたかったからという説もあります。しかし九州の関ケ原を最後にこの時まで1601~1619年の間、加藤と島津にはいざこざなど問題は無かったので、城を築く必要も無かったはず🤔? むしろ加藤と島津を警戒していたのは徳川秀忠だったのではないでしょうか? よってこれはあくまで私の推測ですが、秀忠は加藤家の莫大な財力を奪って弱体化させ、かつ島津への抑えとなる城を造りたかったので、忠広を利用して一石二鳥を狙ったのではないかと思いました。

1611年、清正が突然亡くなったため、11才の若さで家督を継いだ忠広は、右も左もわからないまま藩主となります。しかし若年の忠広には、やはり清正恩顧の家臣たちの勝手な振る舞いを抑えきれず、それゆえ自らの乱れた行いも多くなり幕府から信用されなかった・・などと諸説ありますが、ならばとこの築城を通して幕府の信頼を得たかったに相違ありません。しかしこの八代城の堀と石垣、そしてやっと大天守と小天守が完成した1632年、加藤家は突然改易されてしまいます。そして1年後に忠広は亡くなったそうです(一説には自害とか)。やはり利用され捨てられただけなのでしょうか🤔?

市役所の6階に上がり八代城を眺めてみました(写真⑩)。忠広は偉大な父清正の血を引く藩主であったにもかかわらず、幕府や家臣から信用されないまま終わり、さぞかし無念であったろうと思いました。

次は、(2/2)八代城と松井興長に続きます。
 

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todo94

滋賀ドライブでの攻城⑤ (2025/11/08 訪問)

近江大塚城からの転戦です。正午をだいぶ回っていたので、湯豆腐と様々なこんにゃくの永源寺定食を昼食にいただいてから向かいました。サクッと確認してから、近くにある紅葉の名所・永源寺にも足を伸ばしてみました。紅葉はまだ色付き始めだったので人出はほどほどに収まっていて助かりました。駐車場代と拝観料で1100円の出費でした。

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しんちゃん

国の史跡のジレンマ (2025/11/09 訪問)

人によって受け止め方は異なりますが、ガイドさんの話だと現在本丸とされている曲輪は「鐘の丸」とされる曲輪で、本丸はもっと上の方にあったとする説があるようです。とすると「山王丸」あたりが本丸になるのだろうか? たしかに上に有った方が防御には良いだろうけど・・
大広間の周辺はすでに発掘が終了していて「瓦」などが出土していないことから、桧皮葺などの簡素な木造の構造物が有ったのではないかと考えられているようです。ちなみに炎焼のあとは無かったようで、落城時に燃えあがる小谷城から「お市」さんや三姉妹が落ちのびたというのはフィクションらしい。う~ん・・
大広間より上の曲輪はまだ発掘されていないという(ガイドさんの)話なので、この先の進展に期待しますか。

御存じとは思いますが小谷城は「国の史跡」なので、自治体が勝手に改変することが出来ません。とはいえ融通がきかないのも事実で、伝本丸跡の木が老朽化して来たけど、もんか省の許可が下りないので伐採できず困っているらしいです。
石の城址碑を移したいけど、これまた許可が出ず・・木を切って切株の上に固定したそうです。そういや案内板も木に刺さっている。
う~ん、なかなかクレイジーだわ。よそではなかなか見ない光景だが、もんか省からは文句は出なかったらしい。
めでたし、めでたし・・木が可哀そーじゃないか 木の毒に・・ とりあえず「もんか省」が全部悪い。
ガイドさんと「もんか省」の〇口で盛り上がっていたらバスを一つ逃してしまった。自治体もいろいろ大変だ。登城道に階段を作りたいらしいが、道も遺構なので壊さないようにお願いします。

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しんちゃん

小雨の中、バスに乗って城址へ (2025/11/09 訪問)

前日の晴天とうって変わって朝から雨模様です。本格的な山城はしんどいので長浜城など比較的攻めやすい城から周ることにしました。
以前行った城ばかりになりますが「城めぐり」後発組なので、リア攻めを増やしたいんですね。結局自分で回って「城びと」「城めぐり」で三回くらい回っています。スタンプがらみだと四回になるのか・・。
この時期は駐車場までバスが出ているので、それに乗って行きます。駐車場に着くとガイドさんがいて皆で傘をさしながらいっしょに行くことになりました。ガイドさんといろいろ話をしましたが、人によって話の内容が微妙に異なっています。皆、思い入れがあるようです。
久々に本丸の石垣を見ましたが、ここは「鐘の丸」で二重の鐘突き櫓があったとする説もあるようです。これもガイドさん情報です。

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ぎりょう

四季折々に美しい有備館庭園 (2025/11/16 訪問)

今日は地元大崎市の岩出山に。城山の西にある旧有備館および庭園で開催中の企画展「松平定信の書写収集事業」観覧のためでした。今年のNHK大河ドラマべらぼうで井上祐貴が好演している松平定信ですが、若くして将軍補佐や老中職を勤めた後は、白河藩主として藩政に尽力し、家督を譲った後は「楽翁」と号して学問や著述に勤めたといいます。
企画展は、戦国時代に白河を領し、藩政期には仙台藩にあった真坂白河家と真山白河家のことや、文政元年に定信から両家が保有する古文書写を請われたことについて判り易く説明・展示しています。
企画展も楽しめましたが、久しぶりに訪れた晩秋の有備館庭園、とても美しく感動しました。

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ヒロケン

崖じゃん (2025/11/15 訪問)

とある煩悩の登城目録さんの11月13日に投稿された金華山を「自分の足で登る」に感化され、そういえば自分も登ったことなかったので、自分も自分の足で登ってみたく岐阜城に行ってきました。
岐阜公園鏡岩緑地駐車場(24時間いつでも利用できる無料駐車場)に駐車、トイレも岐阜護国神社横の花木広場トイレを利用することができます。
私は、とある煩悩の登城目録さんとは反対に搦め手道(めい想の小径)から攻め入り、大手道(七曲りの登山道)から下山、信長公の居館を焼き払い帰宅する予定をたてました。5年ぶり5回目の登城です。
「めい想の小径」の案内表示に従い進入。朝早くから(6時50分くらいかな)登山を楽しもうとする老若男女が足早に登っていきます。歳の頃が同じくらいかな?と思われるご夫婦について行こうと夢中でついて行っていましたが、突然目の前に急崖が( ゚Д゚)、あれっ、とある煩悩の登城目録さんの投稿では、池田輝政公が攻め込んだという記述があり、「マジかぁ~」「甲冑着て武具を持ってこの急崖を登ったの~」「昔の人はスゲ~なぁ~」などと思いながら、カメラを鞄に終い両手で崖をよじ登りました。口で息をするものだから、喉はカラカラ・頭はふらふら、休もうにも休憩する場所などありゃしない、30分程崖と格闘したでしょうか、4番目の画像の石垣が現れ城が近いことが認識できました。助かったぁ~いつもなら石垣を見て興奮し辛かったことを忘れるのですが、今回ばかりは「こんなの道じゃない、ただの崖だ」と本丸に辿り着きぼやいていた時に3番目の画像の注意表示板が( ゚Д゚)「何⁉馬の背登山道」っとまあ道を間違えていたとの「おち」がつき、岐阜城本丸周辺を堪能し、大手道(七曲り登山道)から下山しました。皆様も体力に自信がある方は、「馬の背登山道」登ってみては如何でしょうか。ご安全に!

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翡翠

スタンプを押しに (2025/11/16 訪問)

今日は、登城しませんでしたが、100名城スタンプの本を買う前に違うノートに押してたので、押し直しに行きました。津和野城跡、遠くからでも紅葉が綺麗でした。近くに行きたかったです。今が1番良いと思います。バイクだったし、停まれなかったので、写真はありませんが、帰りに、竹風軒の源氏巻買って帰りました。いつもは、一本のを買うのですが、一口サイズが出てたので、これを買いました。

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いんげん丸虫

山下氏城 三重県伊賀市 (2025/11/02 訪問)

福持九郎城から谷を隔てた北部に
あります。3方を高土塁で囲む構造
です。
伐採した幹、枝を堀切内に集積、
放置してしまう城跡もありますが、
ここは堀切の斜面にそってならべて
ますね。城巡りに来る人達のことを
考えてくれてます。嬉しい限りです。

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いんげん丸虫

福持氏城 (福持九郎城) 三重県伊賀市 (2025/11/02 訪問)

近くに福持氏城と同名の城跡がある
のでこちらを福持九郎城とすること
が多いようです。
方形に高土塁、横堀を巡らせる基本
遺構ですが、自然地形を利用してる
ので規模が大きいです。北東の横堀
は一部石塁を伴って壮大ですねー。
見所豊富で素晴らしいです。
この時期には珍しくヘビがいました。

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いんげん丸虫

福岡氏城 三重県伊賀市 (2025/11/02 訪問)

福岡氏城、福持氏城(福持九郎城)、
山下氏城と3城が隣接してます。
ややこしいですが、その時系列など
古書、文献を調べると面白いと思い
ます。福岡氏城はこのなかで一番小
規模な城で単曲輪に高土塁、背後を
堀切ってます。
城跡まで徒歩5分位の所に駐車場が
あり、看板も整備されてます。
玄関さきにいたご夫婦から『お城見
に行くのですか?ありがとう』と
声をかけられました。普段こそこそ
と城巡りしてる自分としては妙に嬉
しかったです。

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todo94

滋賀ドライブでの攻城④ (2025/11/08 訪問)

大笹原神社をはさんで小堤城山城からの転戦です。朝日大塚駅の至近です。まずはグーグルマップにも載っている大塚城跡馬掛石からチェックしていきます。そしてグーグルマップの大塚城のポイントには大塚城主因幡屋敷跡の石柱が立っていました。近江鉄道で分断されている反対側には、濠も確認することができました。暫く粘って周辺を探索したのですが、内堀跡の石柱は見つけることができませんでした。

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火ノ島豊後守正宗

箕輪城 (2025/11/15 訪問)

正80城目。
高崎駅前で伊香保温泉行きの群馬バスで30分程度で連雀町(箕郷)まで行き、そこで箕郷矢原宿カフェに寄り、スタンプを押しました。ここで一服しようと思いましたが店員さんが特に勧めてくれなかったのでスルーしました。このまま坂を上って箕輪城址を見学しました。ちょっとした城址公園でした。最近話題の熊に気を付けていましたが、その気配すら感じず、そこそこの人出で賑わっておりました。

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nakamur

岐阜城です

ロープウェイに乗るまでで約1時間かかりました。お城は素晴らしい。

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にのまる

津駅⇄津城2往復しました。 (2025/08/12 訪問)

田丸城・鳥羽城からの3城目です。
数年ぶりですが、見た記憶のあるところとないところがあり、懐かしさと新鮮さを味わいながらの散策となりました。
センターパレスの模型も見に行きました!聞いていたとおりの素晴らしさでいろいろイメージも膨らみ、いつまでも見ていられる感じでした。
フライングスタートしている2冊目の続100名城スタンプ帳を連泊中の松阪の東横インに置いてきてしまったので翌朝再訪しました。スタンプだけと思っていましたが、行くとやっぱりいろいろ見て写真も撮ってしまいます。(そのため予定の電車に乗れず、そしたら局地的大雨で遅延などがあって列車検索が効かず、いろんな駅の駅員さんに助けてもらいました。)

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しんちゃん

岡崎城 (2025/10/26 訪問)

岡崎城の総構は広いです。現在は全体の遺構の一部が残されているだけですが、それだけでも十分見ごたえがあります。享保年間から康正元年(1455)にかけて西郷稠頼の居館の北西を守るために築かれた砦が始まりになるようです。
その後松平氏の城となり慶長5年(1600)~正保2年(1645)の間に本多氏によって大幅に改修され現在のような近世城郭の姿になりました。江戸期の縄張りは非常に複雑でまるで迷路のようです。いったい幾つ馬出しや枡形があるのやら。同じ巨大城郭でも名古屋城や駿府城とは対照的な構造になっているのが面白い。

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todo94

小堤城山城近くの国宝物件【大笹原神社】 (2025/11/08 訪問)

小堤城山城の近くには、本殿が国宝に指定されている大笹原神社があります。せっかくの機会なので立ち寄っていくことにしました。諏訪大社下社などの神楽殿のようなテイストを持つ建築が拝殿で、国宝の本殿はその奥に鎮座しています。本殿に向かって左側の篠原神社・通称「餅の宮」には鏡餅の神が祀られていて、これも国の重文に指定されています。これらの文化財を無料で拝観でき、何ともありがたい限りです。

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しんちゃん

東条吉良氏 (2025/11/02 訪問)

東条城は承久3年(1221)足利三代当主・足利義氏が三河国守護(地頭とも)に任じられた時に築かれ、庶子で長男の長氏が吉良氏の祖となったとされています。吉良氏は南北朝の時代に西条吉良氏と東条吉良氏に分かれ東条初代・尊義が東条城の城主になったようです。
西尾城と異なり、東条城は中世の平山城の雰囲気を残す城址公園になっています。以前は門や櫓台が再現されていましたが老朽化して撤去されてしまいました。三の丸のトイレもだいぶ朽ちて来ているようです。
けっこう家族連れの訪問者も多く、地元の人たちにとっては良い憩いの場であるようです。本丸の虎口周辺(西側)には土塁が残り、二の丸には八幡社が置かれ、東側に土塁の一部が残っています。

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ダイエティシャン

大光寺~赤穴瀬戸山城主歴代墓 (2025/11/14 訪問)

大光寺には、赤穴瀬戸山城主歴代墓があります。墓地なので、写真は撮りませんでした。

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ダイエティシャン

赤穴八幡宮 (2025/11/14 訪問)

赤穴瀬戸山城から西に車で2分。銀杏が綺麗に色ずいており、見事でした。

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しんちゃん

二之丸丑寅櫓 (2025/11/02 訪問)

西尾城の二之丸丑寅櫓は二之丸の北東隅に建てられていた隅櫓です。外壁は黒い下見板張で石落としなど史実に近い形で復元してあります。長いこと立入が出来ませんでしたが、久々に訪ねてみたら入れるようになっていました。
城址は西尾市歴史公園として整備され本丸丑寅櫓、二之丸丑寅櫓、屏風折れの土塀(土塁)、鍮石門(櫓門)などが再現されていて、なかなか楽しめる城址公園になっています。

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