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つちのこ

高浜城跡(2026.5.9) (2026/05/09 訪問)

一帯が城山公園として整備されています。明鏡洞など日本海の絶景が見応えあり。パンフレットは公園内の逸見昌経公銅像前に設置されてます。御城印は高浜町の佐伎治神社社殿で購入できました(300円)。駐車場は20台ほど。隣接の海水浴と競合です。5月の週末でサーフィン客が多くほぼ満車ですが無料でした。夏場は混みそうです。

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つちのこ

こんなところに… (2026/06/13 訪問)

まさかこんなところに?という立地でした。
小浜市内を流れる北川、多田川、南川という3本の河川が、海に向かって集約されてきたその河口部分にあります。目的地に向かうにつれ道が細くなり、車1台すれ違えるか?(いや多分無理)くらいの路地を進んだ先にありました。城跡には小浜神社(御祭神は小浜藩初代藩主酒井忠勝)が創建されています。石垣が残るのみですが、結構立派な造りで見応えはありました。
駐車場は神社鳥居横に3台ぶんほど。お出かけ日和の土曜日の昼前30分ほど滞在しましたが、訪れる人は他に2組でした。

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todo94

ゴールデンウイーク翌週・岡山の攻城④ (2026/05/09 訪問)

備中福山城からの転戦です。幸山と福山、あわせて幸福とは中々しゃれています。遊歩道の途中にある妙見展望台と八畳岩を経由して迷わずに幸山城にたどり着くことができました。最高所はグーグルマップでは幸山城東曲輪となっていて、鞍部を越えた城址碑のある曲輪が主郭にあたるようです。帰路はすぐに見覚えのある堀底道になりました。もうちょっと見やすく案内表示が設置してあれば、福山城より先に攻城することができたと思うのですが。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征2日目:三隅城 (2026/05/12 訪問)

針藻城から車で20分くらいで、説明板&石碑(34.776442、131.981060)付近の駐車場に着きました。

築城年代は定かではないようですが、鎌倉時代に三隅氏(兼信か?)によって築かれたと云われています。
三隅氏は益田氏の一族で、1229年(寛喜元年)益田兼高の次兼信が三隅一帯を領して三隅氏を名乗ったことに始まるようです。
1281年(弘安4年)鎌倉幕府は元軍の襲来を受け、西日本海沿岸一帯に砦を築かせた。三隅氏も高城山に築城を開始し、3代信盛・4代兼連(かねつら)により本城と十指に余る出城を完成させました。
南北朝時代、三隅兼連は南朝方に与し、1336年(延元元年)北朝方に与した益田氏の益田城を攻めました。
1342年(暦応5年・興国3年)には北朝方の上野頼兼が諸城を落として三隅城へと攻め寄せたが、これを撃退します。
さらに1350年(観応元年・正平5年)高師泰が大軍を率いて石見国の諸城を落とし三隅城を包囲しますが、これも落城するには至らず、翌年には包囲を解いて引き上げました。
1352年(正平7年)には三隅兼知が男山八幡で討死し、1355年(文和4年・正平10年)三隅兼連も足利直冬に従って上洛し東坂本で討死しました。そして七代直連の時に益田兼見に従います。
1552年(天文21年)大内義隆を討った陶晴賢は、益田藤兼と結んで三隅城を攻め落としました。
しかし、その陶晴賢も毛利元就に敗れ、三隅氏は周布晴氏と謀って毛利氏に反抗するが1570年(元亀元年)毛利氏によって三隅氏は滅亡しました。

高城山頂上に主郭があります。三隅城からの眺望は、日本海まで一望でき素晴らしい。草が深いです。
攻城時間は25分くらいでした。本日の城巡りは、ここがラストです。
歩行歩数=29269歩、歩行距離=20.4Kmです。
本日の宿泊先に向かう為、車で浜田駅方面に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征2日目:針藻城 (2026/05/12 訪問)

周布城から車で20分くらいで、はりも山公園入口(34.788887、131.935616)付近に着き、入口先の空スペースに路駐しました。

築城年代は定かではないようですが、1281年(弘安3年)の弘安の役以後、三隅城主3代の兼盛が鎌倉幕府の命令により、蒙古再来の防備のために築城したと云われています。
1428年(正長元年)大賀氏が城主となって以来、三隅氏の海事を担当したそうです。
戦国時代、針藻城主が尼子氏に味方したため、1557年(弘治3年)毛利氏の武将・益田藤兼に攻められて落城しました。

現在は公園となって、展望施設が建てられています。
石垣が残っているとのことでしたが、確認できませんでした。
三隅城に向かう途中、説明板&石碑(34.787784、131.938011)を路駐して確認しました。
攻城時間は20分くらいでした。次の攻城先=三隅城に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征2日目:周布城 (2026/05/12 訪問)

櫛島城から車で65分くらいで、聖徳寺駐車場入口(34.854616、132.025820)に着きました。
聖徳寺本堂左側の縄張図入りの説明板を確認して、聖徳寺南側塀横進入口(34.853829、132.026355)より、墓を経由して尾根まで登りました。

築城年代は定かではないようですが、文永年間(1264年〜1275年)に周布兼定によって築かれたと云われています。
兼定は益田兼季の二男で、石見国周布郷一帯の地頭職を譲られ周布氏を称した事に始まるそうです。
南北朝時代の1337年(延元2年)南朝方の周布兼宗は三隅兼連とともに長門国賀年城を攻めました。
1339年(延元4年)北朝方の石見国守護上野頼兼が豊田城の内田致景を攻めると、兼宗は豊田城に救援に向かっています。
戦国時代の1569年(永禄12年)山中幸盛ら尼子再興軍が挙兵すると、かねてより不満を抱いていた三隅隆繁・国定兄弟は14代当主周布元兼が不在の中、周布晴氏を誘って毛利に反旗を翻しました。
この反乱軍は吉川元春の二男元氏を大将とする軍勢によって鎮圧されました。その後、周布晴氏は鳶巣城へ逃れましたが、吉川軍に攻められ戦死しました。
周布元兼は1578年(天正6年)播磨国上月城の戦いで討死している。
1600年(慶長5年)関ヶ原合戦で西軍が敗れ、毛利氏が防長二カ国に減封となると、周布氏15代長次も毛利氏に従って萩市へ退転し、廃城となりました。

主郭は山頂にあり、主郭を囲むように階段状の広い郭があり、南尾根に堀切、北西斜面に畝状竪堀がありました。
攻城時間は40分くらいでした。次の攻城先=針藻城に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征2日目:櫛島城 (2026/05/12 訪問)

矢筈城から車で30分くらいで、櫛島キャンプ場(35.101840、132.340813)に着きました。
その後、登城口(35.100639、132.338346)に向かう予定でしたが、櫛島キャンプ場は進入禁止でした。
工事関係者の方?から引き返すように促されました。

櫛島の由来としては、1221年(承久の変)で隠岐の島に流罪となった後鳥羽上皇が途中の嵐のため漂着し、世話になったお礼にと、古老へ櫛をあげたことから櫛島となったという言い伝えがあります。
1540年(天文9年)11月、毛利氏攻略のため尼子晴久が石州路を進軍したとき、櫛山城主出原次郎四郎は尼子軍の猛攻に耐え、これを撃退したといわれています。
のち温泉佐渡守(ゆしさどのかみ)が城主となったとあります。
1562年(永禄5年)温泉氏(ゆし)は毛利氏に追われ、その後、月山富田城(安来市)に籠城した後、尼子氏とともに滅亡しました。

遠くから主郭を撮影して攻城完了としました。
攻城時間は15分(少し離れた場所に車を停めたので往復に時間を要した)くらいでした。次の攻城先=周布城に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征2日目:矢筈城 (2026/05/12 訪問)

石見城から車で15分くらいで、矢筈城説明板付近(35.106009、132.414392)に着きました。

築城年代は定かではないようです。
1557年(弘治3年)頃、毛利氏が銀山の山吹城を押さえて尼子氏を攻撃し、この城をはじめ周囲 3 箇所の城から撤退させたとの記録が残されているそうです。

説明板付近で地元の方から、今から矢筈城に登るのは時間的にやめたほうがいいとの助言もあり、説明板の写真を撮って撤退しました。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=櫛島城へ車で向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征2日目:石見城 (2026/05/12 訪問)

矢滝城から車で40分くらいで、説明板付近(35.140402、132.419088)に着き、道路反対側の広い路肩に駐車しました。
本来は車で40分もかからないと思いますが、矢滝城でインターネットが途切れ経路がわからず遠回りしたかもしれません。
説明板を確認した後、そこから徒歩2~3分で細道の進入口(35.139436、132.420302)に入り、少し歩いて登城口付近に着きました。
登城口付近には何の表示もありませんが、3~4分登ると民家跡?の石垣があり、その先に石見城跡の標識あります。
登城口から15分~20分くらいだと思います。赤いテープが案内してくれます。

詳細は不明のようですが、1565年(永禄8年)頃に温泉津や石見銀山の権益を持った近隣地域の領主温泉(ゆし)氏が軍事的拠点としていたと見られています。
温泉(ゆし)氏は石見国温泉郷の国人領主で、当初は周防大内氏に属していましたが、同氏衰退後は出雲尼子氏に属しました。
弘治年間(1555年~1558年)から尼子方として毛利氏と戦い、補給基地でもある温泉津をおさえて、尼子氏の石見銀山支配を支えました。
1562年(永禄5年)温泉氏(ゆし)は毛利氏に追われ、その後、月山富田城(安来市)に籠城した後、尼子氏とともに滅亡しました。

国指定史跡として石見銀山遺跡に登録された城館(山吹城・石見城・矢筈城・矢滝城)のうちの一つです。
主郭東の堀切や東郭の土塁が確認できます。眺望はいまいちかな。
攻城時間は45分くらいでした。次の攻城先=矢筈城へ車で向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征2日目:矢滝城 (2026/05/12 訪問)

「レンタサイクル河村さん」から車で20分くらいで、登城口付近(35.079887、132.422658)に着きました。
登城口までの道は狭く、軽自動車でないと無理だと思います。

築城年代は定かではないようですが、1528年(享録元年)大内義隆によって築かれたとも云われています。
大内氏は石見銀山から産出した銀を矢滝城下を越えて温泉津港へ運び込んでおり、その街道を相対する矢筈城とともに防衛する拠点として用いられたそうです。

トンネルの手前入口が登城口で説明板があります。
トンネルの上を越して所々張られたロープを頼りに、急な山坂道を落葉に足を取られながら登ると、矢滝山頂上に着くはずです。
しかし、いつ辿り着くかわからない登山道に心が折れ、途中で断念しました。
攻城時間は50分くらいでした。次の攻城先=石見城へ車で向かいました。
ちなみに、石見城のGPSを入力しようとしましたが、インターネットが途切れ経路がわかりません。
来た道の狭い道は通りたくなかったので、逆のトンネル方向に進み、インターネットが繋がるところまで下山しました。

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朝田 辰兵衛

クマの出没エリアを回避して…🐻 (2026/06/13 訪問)

ここ最近のクマの出没エリアを回避して,比較的安全な場所をチョイスしました。ホントは効率的に2~3城廻れればな…と思っていましたが,なかなかイイ場所が見当たりません…。

湯原館ですが,国道113号線からのアクセスが良いです。昨年,上山城とセットを考えていましたが,今日になってしまいました…。
二の丸は「街道ホステルおたて」で,旧湯原小学校。パネルがあります。ここから「街道ホステルおたて」の建物ウラへ回り込むと登城口があります。井川城を思い出させる木橋を渡ります。すると,どうやら竪堀の中を歩いて本丸へと向かって行ってるようです。この入口は本丸西側になりますが,散策したら虎口は東側にありました。たぶん,小学校建設時に改変されたものと思います。
なお,パネルに移築門は,山形県赤湯の「ホテル瀧波」に現存とのこと。今回は時間の関係で行けませんでした…<泣>。

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送りバント

20260510猫城(福岡県中間市) (2026/05/10 訪問)

高さ20メートルほどの独立した小さな丘にあり、諸説ある城名の由来のとおり、遠くから眺めれば猫が背を丸めた姿に見えなくもない。現在は月瀬八幡宮が建ち、二段ある削平地の上段に社殿、下段に地元出身・高倉健さん奉納の立派な城址碑がある

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小城小次郎

土居屋敷が城下から離れている意味 (2025/08/10 訪問)

牧野富太郎にちなんだ牧野公園とその奥に近世城郭に改築された城が眠っているがこの日は雨で半分も見学できず。麓の土居屋敷が城下から離れている意味をずっと考えていたが何かわかったような気がする。

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カズサン

常光院が館趾 (2026/05/30 訪問)

 庁鼻和城を終えて東へ約10km、国道17号線沿いの未踏の城廻り五城目、中条氏館を探訪、館址である常光院駐車場を利用、駐車場は通用門より東行約50m、北行約50mに在る。
 参考資料:余湖図コレクションさんグーグルマップに依る。

 中条氏館跡である常光院正門は枡形の様な造り、東右手に「史跡中條氏舘跡」の背の高い立派な石碑が在る、西左手には
 常光院沿革が屋敷地地図付き碑文石板が立っている、その後ろに白板立看板で「中条氏館」がある。
 南側は水堀、土塁、土塁上に白土塀で構えてる、中世館感がムンムンにしてきます、南中央に正面の山門、やや東に通用門が在る、正面山門より入り、参道脇に西側に居は池が有り土塁で囲まれている、本堂は茅葺屋根で古の風情がある、玄関は唐破風の瓦屋根、本堂の西横、北側に土塁が残って居た。説明板によると、中条氏館跡は18000坪ほどの長方形敷地で現在1/3が常光院の境内に成っている。

 歴史は
 長承元年(1132)藤原常光は武蔵国守に任命され、この地に館を構え中条氏を名乗った、常光の死後、孫の家長が菩提を弔うために館を寺にして常光院と名付けた。また家長は文武に秀で、鎌倉幕府の評定衆となり、貞永式目の制定に加わった。(説明板、沿革抜粋加筆)

 次は成田氏館に向かいます。

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todo94

ゴールデンウイーク翌週・岡山の攻城③ (2026/05/09 訪問)

高越城からの転戦です。井原鉄道完乗を果たし、清音駅から徒歩にてアプローチしました。高越城以上に歩きでがあります。清音ふるさとふれあい広場の上、グラウンドのバックネットの上の方に説明板や遊歩道案内図がありました。幸福の小径の遊歩道案内図によると幸山城迄1km、福山城迄2kmの道のりです。最初に幸山城に行く予定でしたが、案内表示が見つけられず、幸山城を遥かに通り過ぎてしまって、福山城に直行することになってしまいました。案内図から三角点迄ぴったり30分の所要でした。猿田彦神社など山頂周辺をくまなく見て回ってから幸山城に向かうことにしました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征2日目:山吹城 (2026/05/12 訪問)

自転車で龍源寺間歩入口停車場傍の登山口(35.100293、132.429561)に着きました。

山吹城は2回目の攻城(前回 2019年11月8日)になります。
前回の攻城では、少し手前の登山口(35.105799、132.436457)からの登りましたが、急な階段が延々と続くため、それなりにきつかった記憶があります。
また早朝で真っ暗で何も見えず、投稿写真もピンボケだった為、今回はリベンジです。。
今回は龍源寺間歩の見学を兼ねていますので、龍源寺間歩入口停車場傍の登山口から攻城しました。

1309年(延慶2年)大内弘幸によって築かれたと云われています。
銀山争奪のため、大内・尼子・毛利氏によって激しく争奪戦が行われたが最終的には毛利氏の所有となっり、江戸時代には天領となって廃城となりました。

こちらの登山口からの攻城も、急な階段が延々と続き、前回よりもきつかった。
畝状竪堀群や土塁、空堀、石垣などの遺構を確認しました。
攻城時間は60分くらいでした。次の攻城先=矢滝城を攻城する前に、羅漢寺五百羅漢と世界遺産モニュメントを見学した後、「レンタサイクル河村さん」で自転車を返却し、車で向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征2日目:石見銀山関連施設 (2026/05/12 訪問)

大森代官所(城びと未登録 島根県大田市)から徒歩2~3分で、レンタサイクル河村(35.120611、132.448022)に到着しました。
「レンタサイクル河村さん」で電動自転車(2時間1000円)を借りました。
「レンタサイクル河村さん」から自転車で15分くらいで、龍源寺間歩入口停車場傍の登山口(35.100293、132.429561)に着きました。
龍源寺間歩見学後、山吹城の攻城➡五百羅漢拝観受付所➡世界遺産モニュメントの順番で廻りました。
①:龍源寺間歩入口付近(35.099499、132.428916)
  採掘の跡が見学できます。トンネルの中は涼しい。見学料は500円でした。
  間歩内は低いので、気負付けないと頭をぶつけます。ちなみに自分は2回ぶつけました。
②:山吹城の攻城
③:羅漢寺五百羅漢拝観受付所(35.113338、132.446520)
  五百羅漢はかって石見銀山で亡くなった人達の霊を供養する為に造られたそうです。羅漢寺本堂と五百羅漢両方の拝観料は500円です。
  ちなみに、羅漢寺の五百羅漢の中は撮影禁止です。
④:世界遺産モニュメント(35.113805、132.445202)
観光時間はトータルで45分くらいでした。次の攻城先=山吹城を攻城する為、自転車で登山口に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征2日目:大森代官所(城びと未登録 島根県大田市) (2026/05/12 訪問)

出雲市駅でレンタカーを借り、そこから車で50分弱で大森代官所前駐車場(35.121741、132.448240)に着きました。
石見銀山資料館(いも代官ミュージアム)(35.121878、132.447970)はすぐ近くです。

大森代官所は、1601年(慶長6年)に幕府代官大久保長安によって築かれました。
1600年(慶長5年)に関ヶ原の合戦で勝利した徳川家康が、毛利輝元の領国であった大森銀山を天領としました。
翌年に大森代官所を設けて、石見一国(後に石見東部三郡)と大森銀山を支配させました。
石見銀山は幕府直轄地で、江戸時代の当初から代官が派遣された。初代代官は大久保石見守で、幕末の代官・鍋田三郎右衛門まで59代が務めました。
幕末の1863年(文久3年)尊攘過激派が五條代官所、生野代官所を襲撃し、1866年(慶応2年)第二奇兵隊が倉敷代官所を焼き討ちしました。
各地の代官所が尊攘派の標的になっていた折、幕長戦争で浜田藩が敗走したため鍋田三郎右衛門は代官所から逃げ出しました。
そのため、長州藩は労せずして石見国を掌中に治め、この長州藩による石見支配は1871年(明治4年)の廃藩置県まで続きました。

大飢饉の際、サツマイモ(芋)を普及させて人々を救った代官=井戸平左衛門の功績から、いも代官と云われているようです。
攻城時間は10分くらいでした。次の観光先=石見銀山関連施設を見学する為、レンタサイクルを借り、まずは龍源寺間歩へ自転車で向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征2日目:ホテル周辺散策 (2026/05/12 訪問)

大森代官所(城びと未登録 島根県大田市)攻城前に、古墳巡りと半分城の攻城、ホテル周辺散策をしてきました。
半分城から徒歩40分くらいで、八岐のオロチ像(35.365534、132.758319)に着きました。
ホテル周辺の見学対象は以下の2つです。
①:八岐のオロチ像(35.365534、132.758319)
  カッコよく映えるヤマタノオロチ像です。
②:八雲神社(35.365066、132.756721)
  狛犬でなく狛龍がいます。
攻城時間は25分(移動時間を含む)くらいでした。次の攻城先=大森代官所(城びと未登録 島根県大田市)を攻城する前に、ホテルに戻って朝食を食べました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征2日目:半分城 (2026/05/12 訪問)

大森代官所(城びと未登録 島根県大田市)攻城前に、古墳巡りと半分城の攻城、ホテル周辺散策をしてきました。
塩治地蔵山古墳から徒歩10分くらいで、登城口前(35.342946、132.761314)に着きました。

詳細は不明のようですが、戦国時代に築城され、近くに塩冶八幡宮や高貞社があるので、城主は代々の塩冶氏であったと考えられています。
出雲国守護としての塩冶氏は約60年、高貞の弟時綱からの後、塩冶氏は尼子経久に滅ぼされるまで約190年続き、さらに尼子興久が塩冶氏を名乗っていますからこの城郭も幾度か改修されたと考えられています。

縄張図によると中央の主郭部の周りを帯郭、その外側に郭を配置しているようですが、よくわかりません。
主郭の北側を下った所に連続竪堀がありました。
攻城時間は30分くらいでした。次の観光先=ホテル周辺散策に徒歩で向かいました。

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