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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征6日目:鶴ヶ城 (2026/05/16 訪問)

鳶ヶ巣城から車で45分くらいで、登城口付近の駐車場(35.266135、132.579725)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、鶴ケ城の始まりは1102年(康和4年)源義家の嫡子対馬守義親が隠岐へながされる途中、清嶽山にさくを作り鶴ケ丸と名付けて弟義忠とともに守った。
また、吉野朝の頃(1336年~1392年)地頭古荘二郎左衛門が清嶽山へ築城したとも伝えられています。
室町時代の大永年間(1521年~1528年)には、小野(古荘)玄蕃が清嶽山に城を築き、鶴ケ城と名付け尼子36城の一城として15,000石を領しました。
当時は、尼子氏が山陰山陽11か国を勢力下に治めていた頃になります。
1572年(元亀3年)小野氏の家老広瀬右近之丞が鶴ケ城を守っていたが、銅山師三島清右衛門の進言を入れた毛利輝元に攻められて落城しました。
その後、城は田儀城と改められ(知行3,000石)毛利の家臣大鳥馬場が守ったが関ケ原の没後、掘氏に属し、やがて徳川幕府の武家諸法度により廃城となりました。

現在は公園として整備されています。主郭は山頂にあります。
攻城時間は30分くらいでした。次の攻城先=神西城(尼子十旗⑦)に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征6日目:鳶ヶ巣城 (2026/05/16 訪問)

平田城から車で10分ちょっとで、鳶ヶ巣城駐車場(35.403310、132.773531)に着き、その後、登り口(35.403666、132.773162)に向かいました。

宍道氏によって砦が築かれたのが始まりのようですが、 本格的な築城は1561年(永録4年)毛利元就が尼子攻略のために鳶ケ巣山に築城よるものだそうです。
1571年(元亀2年)の高瀬城攻略の際、吉川元春の拠点となりました。毛利氏は出雲平定後、当城を大野氏に任せたそうですが、城主は宍道高慶、政慶であったと記されているのもあります。
城跡にある「大野塚」とよばれる宝篋印塔(ほうきょういんとう)は、1582年(天正10年)当城内で宍道政慶に謀殺された大野高成の墓と伝えらています。
関ヶ原合戦後、毛利氏が防長二ヶ国に減封となると宍道氏はそれに従って移り廃城となりました。

城は鳶ヶ巣山の山頂に築かれており、現在は登山道も整備されて公園となっています。
主郭は山頂にあり、 この山頂から四方の尾根に曲輪が配されており、各曲輪で土塁が確認できます。
攻城時間は70分くらいでした。次の攻城先=鶴ヶ城に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征6日目:平田城 (2026/05/16 訪問)

檜ヶ山城から車で15分くらいで、愛宕山公園駐車場(35.440027、132.817483)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、応永から大永年間(1394年~1528年)まで、出雲国守護京極氏の家臣多賀氏が居城としていました。
尼子氏の時代に多賀氏は飯石郡掛合へ移され、かわって飯野氏が城主となったそうです。
1570年(元亀元年)尼子再興軍を撃退するため出雲国へ入った毛利元就は、吉川元春を鳶ヶ巣城に平田城にはその家臣岡元長・牛尾大蔵左衛門を置きました。
尼子方の高瀬城主米原綱寛は、必要に平田城に攻め寄せたがこれを撃退したそうです。

現在は愛宕山公園となって整備されています。展望台となっているところが主郭で、ここに案内板があります。
西の尾根にも付属する郭(削平地)があります。
攻城時間は25分くらいでした。次の攻城先=鳶ヶ巣城に向かいました。

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あっくん

古宮城跡 (2026/06/19 訪問)

とてもきれいにしてありました。

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あっくん

長篠城跡 (2026/06/19 訪問)

とても静かな場所でした。

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ぴーかる

弓庄城 (2026/05/10 訪問)

【弓庄城】
<駐車場他>弓の里歴史文化館駐車場あり。
<交通手段>車

<感想>1泊2日富山ちょこ城巡り1000㎞旅17城目。現地説明板を要約すると弓庄城は戦国時代にこの一帯を領していた土居氏の居城で、土肥氏は南北朝時代に越中国に入部して室町時代から戦国期にかけてこの地を領するようになりました。天正年間に佐々成政の攻撃を受けて落城しました。
 西に白岩川、東に山間部の始まり部分の山麓部にあって東西に長い城だったようです。ここから北の一帯、柿沢方面の広い領地を有していたようです。城びと情報では様々な遺構がありますが、周囲は田んぼで表面観察できる遺構は気づきませんでした。

<満足度>◆◇◇

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沼田城

令和8年度沼田市史跡沼田城跡調査成果報告会

平成30年度から令和5年度まで実施した、沼田市史跡沼田城跡調査・保存整備事業の成果を紹介する調査成果報告会を開催します。今年度は文献史料調査の成果について、調査担当者の報告と2名の先生の講演を行います。
詳細はこちらhttps://www.city.numata.gunma.jp/kyouiku/bunkazai/1012083/1017890.html

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トク

7【秀吉の播磨平定をたどる②】上月城(亡霊たちの声が・・😱) (2026/06/11 訪問)

姫路11:25発のJR姫新線の昼間唯一直通の上月行に乗り70分、終点上月で下車しました。駅から上月城歴史資料館(登城口)までは徒歩で15分程でしたが、資料館は平日だったので休館でした😯(土日祝のみ開館)。気を取り直し登城開始します。主郭までは、20分程の軽い登りで到着しました。

主郭からその先の二郭へ行くと利神城までかすかに見えました。そしてさらにその先の日高集落へ下りる道には、大堀切があり何段もの曲輪があちこちにあります。こじんまりした城ながら、かなりの防御が施された城だと感じました。にもかかわらず・・・🤔。

1577年、赤松氏が守る上月城を難なく落とした秀吉は、尼子家再興を夢見る尼子勝久と山中幸盛を入れます。しかし翌年、三木城の別所長治が離反すると、呼応するように毛利軍3万が押し寄せて来ました。尼子軍を助けに行こうと高倉山に布陣した秀吉ですが、すでに毛利の大軍に囲まれているのを見て、手も足も出せません。そして4カ月後、信長の命で秀吉は上月城を見捨て、三木城に向かいます。

秀吉は勝久に城から逃げるよう再三に渡って手紙を書いたそうです。しかし勝久と幸盛は、秀吉の援軍がここまで来るのを信じて、あくまで籠城を続け死守しようとしたようです。それは何故だったのでしょうか?

今日も最初から最後まで誰にも会わなかったので、再び主郭に戻りポツンと一人でベンチに座って考えていると、急に風で木々がざわつき始め、気温30度にもかかわらずひんやりとした冷たい風が吹き、何やら木々のざわつく音が、嘆き苦しむ亡霊たちの声のように聞こえて、背筋がぞっとしてしまいました(😱~!)。そういえばここは、何百人もの人々が磔(はりつけ)や串刺しにされ、尼子勝久とその家臣たちが切腹し亡くなった場所だったのですね。

主郭からわずかに見えた木々の隙間から、秀吉が布陣した高倉山が見えました。大河ドラマでは、秀吉があそこから土下座をして詫びていたシーンがありました。その秀吉軍が去り、尼子家再興の夢が破れた勝久は、どんな思いでここからあの高倉山を見つめていたのでしょうか?

帰りは姫新線の姫路行直通がなかったので、15:25発の作用行に乗り、作用で智頭急行に乗り換え、上郡・相生・山陽線経由で姫路へ戻りました。接続が意外とよく80分で戻れました。姫新線は本数が少ないのでこのルートもありかもしれません。

次は官兵衛ゆかりの地、小寺氏の御着城へ向かいます。
 

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イオ

九度山・真田ミュージアム(和歌山県伊都郡九度山町九度山) (2025/11/30 訪問)

関ケ原の戦いの後、真田昌幸・信繁父子が蟄居していた真田庵から北に徒歩2分のところに九度山・真田ミュージアムがあります。近場でもあり2度ほど訪れていますが、志賀城に登城した後、半端に時間があったのでしばらくぶりに再訪しました。

エントランスでは甲冑姿の九度山真田三代(真田昌幸・幸村・大助)がお出迎え(当館では「信繁」でなく「幸村」表記です)。館内展示では三代の足跡を「上田時代」「九度山時代」「大坂の陣」に分けてパネルと史料、映像により解説しているだけでなく、「九度山異聞」「大坂の陣異聞」では幸村にまつわる伝承(豊臣秀頼を守って薩摩に落ち延びたとか)が紹介され、「真田伝説」では軍記物や講談で庶民のヒーローとなった「真田幸村」の錦絵や書物が展示されています。また、忍者屋敷のようないろんな仕掛けがある「真田の隠し部屋」は子どもにも人気の体験型コーナーです。九度山・真田ミュージアムは大河ドラマ「真田丸」にあわせて開館したことから、大坂の陣で堺雅人さん演じる幸村が着用した陣羽織(複製)や挟土秀平さんによる「真田丸」題字(本編では縦書きですが)、真田丸のジオラマなど「真田丸」にちなんだ展示もあります。

定期的に企画展も開催されており、訪問時は「真田家の女たち」の第2期でした。他家であれば女性について展示されてもいまいちピンとこないでしょうが、紹介されている女性のほとんどは「真田丸」に登場しているので、演じた女優さんを思い浮かべながら興味深く見学することができました。年表や相関図のほか、信繁が村松殿や石合道定(すへの夫)に宛てた手紙(複製)なども展示されていました。ちなみに現在は「豊臣兄弟!」にちなんで「徹底比較!真田兄弟」が開催中です。

真田家に詳しくない人にもわかりやすく、子どもにも楽しめる施設ですので、紀州・九度山を訪れた際には真田庵とあわせてどうぞ。
 

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征6日目:檜ヶ山城 (2026/05/16 訪問)

満願寺城から車で35分ちょっとで、檜ヶ山登山口付近空スペース(35.480677、132.838284)に着き路駐、檜ヶ山登山口(35.481184、132.838388)から攻城しました。
本来、満願寺城から檜ヶ山登山口付近空スペースまで車で30分弱で到着するはずですが、通行止めを迂回した為、時間を要しました。

築城年代は定かではないようです、大永年間(1521年〜1528年)に東郷三河守忠光が籠もったとも伝えられています。
永禄年間(1558年〜1570年)の城主は多久弾正義敷で、毛利氏に二度攻められ、一度は退けたが二度目の攻撃で落城し、毛利氏の手に落ちました。
1569年(永禄12年)尼子勝久が尼子氏再興軍の兵を挙げると、1571年(元亀2年)毛利氏はこの檜ヶ山城(桧ヶ仙城)を改修しこれに対応しました。

檜ヶ山登山口から登城する予定でしたが、檜ヶ山登山口到着時点で計画より20分遅れの為、檜ヶ山城は登城せず登山口折り返しとしました。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=平田城に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征6日目:満願寺城 (2026/05/16 訪問)

白鹿城(尼子十旗①)から車で20分ちょっとで、満願寺駐車場入口(35.473310、133.017559)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、1521年(大永元年)に湯原信綱によって築かれたと伝えられています。
1562年(永禄5年)湯原春綱は毛利元就が荒隈城に進出するとこれに降り、水軍の一翼を担ったそうです。
1569年(永禄12年)尼子再興軍が蜂起すると満願寺城を巡って尼子氏と毛利氏が争いました。

満願寺の裏、宍道湖に面した丘陵部分で高い切岸に囲まれた曲輪の北西下に横堀がありました。
宍道湖も見えます。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=檜ヶ山城に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征6日目:白鹿城(尼子十旗① 4城目) (2026/05/16 訪問)

尼子十旗:出雲国尼子氏の主要な家臣団の十の居城
尼子十旗(①白鹿城②三沢城③三刀屋城④赤穴城⑤牛尾城⑥高瀬城⑦神西城⑧熊野城⑨馬木城(夕景城)⑩大西城)
新山城から車で2~3分で、西の谷登り口空スペース(35.500456、133.051753)に行く予定でしたが、登山路案内図があるこの場所(35.500788、133.055743)で通行止めにあってしまいました。

築城年代は定かではないようですが、永禄年間(1558年〜1569年)に松田氏によって築かれたと云われています。
毛利氏侵攻のときの城主松田誠保の父満久は尼子晴久の姉婿だそうです。満久は備前国松田一族の松田満重の次男です。
1563年(永禄6年)に毛利元就による侵攻では吉川元春が真山城を向城として築き攻めたて、まず小白鹿が陥落、月山富田城の尼子義久からの援軍も撃退され落城しました。
このとき元就は大森銀山の者を使い地下道を掘らせて井戸を抜いたと伝わっています。
城主・松田誠保は落城後、隠岐へ逃れ、1570年(元亀元年)の布部山合戦に参加しています。

白鹿城(尼子十旗① 4城目)は別ルートでも登城可能ですが、現時点で計画の65分オーバでしたので、ここで断念し攻城完了としました。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=満願寺城に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征6日目:新山城 (2026/05/16 訪問)

加賀城から車で20分ちょっとで、登城口付近空スペース(35.501102、133.057917)に着き路駐した後、説明板がある登城口(35.501264、133.057470)に向かいました。

1563年(永禄6年)に毛利軍の将、吉川元春が真山に陣を布き、尼子軍が拠る白鹿城を攻めました。この戦に尼子軍は敗れ、白鹿城は落城します。
白鹿城攻略後は、新山城(真山城)を出雲地方の拠点として多賀左京亮元信が城主をつとめました。
1569年(永禄12年)尼子勝久、山中鹿介幸盛らは京都で挙兵し隠岐に渡り、ついで島根半島に上陸して新山城(真山城)を本拠として出雲回復を狙いましたが失敗し、尼子勝久は1571年(元亀2年)新山城(真山城)を去りました。
以後毛利氏が城を修理し家臣を置きましたが、廃止時期は明らかでないようです。

移動距離が長く勾配が緩やかなために、比較的に容易な登城でした。
登城道は直射日光に晒される時間が結構あるので帽子は必須です。
主郭跡には「尼子勝久公之碑」と書かれた石碑が建てられています。
時間の都合で周回コースは選択せず、登城口に戻る予定でしたが、下山時、道を間違え新山城の東側に出てしまいました。
そこから、登山口まで戻るのに徒歩35分かかってしまいました。
攻城時間は95分(登城口に戻る時間35分を含む)くらいでした。次の攻城先=白鹿城(尼子十旗①)に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征6日目:加賀城 (2026/05/16 訪問)

宿泊先のホテルから、松江駅前のレンタカー会社に行く途中に、松江駅前の「はじめ人間ギャートルズブロンズ像」と「時計台」の写真を撮りました。
レンタカー会社から車で30分弱で、應海寺駐車場入口(35.562082、133.064203)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、加賀氏によって築かれたと云われています。
1562年(永禄5年)尼子義久が加賀城を攻めましたが、城主加賀喜兵ヱ尉正利は奮戦し城を守りました。その後、毛利の勢力がこのあたりに及ぶと毛利氏に属しました。

現在は主郭に金毘羅堂があり登山道が整備されています。
遺構として石垣があるみたいですが、確認できませんでした。
攻城時間は45分くらいでした。次の攻城先=新山城に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征6日目:荒隈城 (2026/05/16 訪問)

宿泊先のホテルの朝食前に、松江城と荒隈城を攻城しました。
松江城から徒歩25分くらいで、天倫寺入口(35.466147、133.038383)に着きました。

1562年(永禄5年)中国平定を目指す毛利元就は荒隈城を築き、月山富田城攻めの前線拠点としました。
元就は、宍道湖北岸を東進して鳶ヶ巣城から本拠を移しました。
前面に宍道湖を眺められるこの地は見通しがきき、兵や物資の輸送に便利、中海と宍道湖を結ぶ水道をおさえられ、尼子氏の支城・白鹿城を攻めるのにも絶好であるといった理由からだったそうです。

天倫寺は城域の東端となり、主郭は天倫寺から北西へ400m付近のようですが、住宅街となり遺構はないようです。
お墓の上まで登ってみましたが、何も確認できませんでした。
雲ってましたが宍道湖が思ったより近かった。天倫寺の鐘楼も良かったです。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=加賀城を攻城する前に、ホテルに戻って朝食を食べました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征6日目:松江城 (2026/05/16 訪問)

宿泊先のホテルの朝食前に、松江城と荒隈城を攻城しました。
宿泊先のホテルから徒歩20分ちょっとで、松江城千鳥橋(35.472919、133.050685)に着きました。

松江城は今回2回目の攻城です。前回は7年半前の2019年3月15日に来ました。
前回は大手門前から進入しましたが、今回は三之丸(鳥取県庁)から千鳥橋を渡り、内濠沿いを土塁を確認しながら亀田橋➡松江護国神社➡本丸➡大手前の順番で廻りました。
朝早いので天守には入れませんが、松江護国神社、城山稲荷神社や馬洗池を見学しました。
攻城時間は35分くらいでした。次の攻城先=荒隈城へ徒歩で向かいました。

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小城小次郎

鉄壁の守りでも守り切れないもの (2025/08/11 訪問)

前日にとんでもない豪雨にやられたが雨さえ上がれば登城に苦労はないお城だった。支城群を含めて鉄壁の防御態勢を敷いた西園寺氏だったが長宗我部氏に屈し小早川氏に屈し最後は戸田勝隆に謀殺されるという悲しい運命を辿る。

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三木合戦 (2026/06/18 訪問)

 淡河氏の居城と伝わっています。本丸付近が残っていて模擬櫓が建っています。櫓台や堀と土塁の一部が遺っています。南東部の堀跡は比較的見やすいのですが、南西部は藪になっていました。西北部にも堀と思われる地形がありますが、竹藪となっています。

 神姫バス神戸三ノ宮バスターミナルからバスに乗り淡河バス停下車。徒歩2~3分くらいで登城口に行くことができます。バスの本数はかなり少ないので要注意です。

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dougen

2025.8.16登城 (2025/08/16 訪問)

JR岡部駅の東側の国道17号と高崎線の線路の間に岡部藩陣屋跡があります。
遺構らしい遺構はありませんが、解説板が設置されています。

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張陳

石垣が高い、広い、美しい! 南部藩の本拠城 (2026/05/04 訪問)

盛岡城の一番の見所は石垣の美しさだと思います。
建物がそれほど残っているわけではありませんが、本丸だけなく、二ノ丸や三ノ丸など広範囲に、非常に立派な石垣が残っています。
本丸だけでなく、外周を一周するなどして、隅々まで見ていくことをおすすめします。

私の場合は、朝一番に報恩寺(移築門があります)、三ツ石神社(岩手の名前の由来となった鬼の手形岩があります)を回った後、じゃじゃ麺発祥の店である白龍で昼食をとりました。
その後、櫻山神社を参拝し、盛岡歴史文化館(黒田官兵衛の兜や南部利直が徳川秀忠から拝領した鉄砲などが見られます)を見学した後、城跡を見て回りました。
まずは櫻山神社方面から三ノ丸、二ノ丸、本丸と周り、そこから一段降りて腰郭を一周、最後に外周をもう一周と回っています。
また、見逃しそうな立地ですが、城跡南西部にある彦御蔵は現存建物ですので、ぜひお見逃しなく。


周辺のおすすめグルメは食道園の焼肉と冷麺です。
観光客目線では冷麺に目が行きがちですが、お肉自体もサシが入って絶品でしたので、焼肉を楽しんだうえで、シメで冷麺を頼むのが超オススメです。

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