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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征21日目:下関前田台場 (2026/05/31 訪問)

壇之浦古戦場跡から徒歩20分弱で、石碑説明板付近(33.973908、130.970434)に着きました。

前田台場は、1863年(文久3年)に長州藩によって築かれました。1863年(文久3年)長州藩は攘夷を決行して外国船への砲撃を行ったが、フランス軍艦に報復攻撃され前田台場は占領されました。
米仏の報復攻撃を受けた長州藩は、高杉晋作に下関の防衛をまかせ、高杉は志願兵による奇兵隊を結成します。長州藩は前田砲台を修復するなどして、さらなる攘夷実行に向けて体制を整えました。
翌1864年(元治元年)駐日イギリス公使オールコックは、日本の開国の障害となっている長州を武力攻撃することを決意。
フランス、オランダ、アメリカもこれに同調し、前田台場は1864年(元治元年)英・仏・蘭・米四国連合艦隊による攻撃を受け、再度占拠されました。
連合艦隊の旗艦ユーライアラス号の艦上で講和談判が行われ、長州側からは高杉が使節として交渉に臨んだ。その結果、賠償金300万ドルの支払いなどを条件として講和が成立した。
以上の一連の経過を下関戦争といいます。また、1863年(文久3年)の事件を下関事件、1864年(元治元年)の事件を四国艦隊下関砲撃事件と区別して呼ぶ場合もあるそうです。

前田台場は、長州藩が築いた十数か所の砲台の一つで、茶臼山の南西麓、関門海峡に面する位置にあります。
この場所にはかつて長府毛利家の御茶屋があり、古くは奈良時代の古瓦も出土しているそうです。
現在は史跡公園となり、低台場に石碑と案内板が立てられています。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=櫛崎城を攻城する為、前田バス停からサンデン交通バスを利用して市立美術館・関門医療センター前バス停へ向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征21日目:下関前田台場周辺観光(壇之浦古戦場跡) (2026/05/31 訪問)

下関前田台場を攻城する前に、下関観光(下関唐戸市場、亀山八幡宮、赤間神社、壇之浦古戦場跡)をしました。
赤間神社から徒歩20分弱で、壇之浦古戦場跡(33.964759、130.956502)に着きました。壇之浦古戦場跡では以下を観光しました。
①:壇之浦古戦場跡(33.964759、130.956502)
➡手前に壇ノ浦コースト、先に安徳天皇御入水之処碑、源義経・平知盛像
②:長州砲展示(33.965614、130.956919)
③:壇ノ浦砲台跡(33.966187、130.957290)石碑
観光時間は10分くらいでした。次の攻城先=下関前田台場へ徒歩で向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征21日目:下関前田台場周辺観光(赤間神社) (2026/05/31 訪問)

下関前田台場を攻城する前に、下関観光(下関唐戸市場、亀山八幡宮、赤間神社、壇之浦古戦場跡)をしました。
亀山八幡宮から徒歩10分くらいで、赤間神宮鳥居前(33.958997、130.948996)に着きました。

859年(貞観元年)に阿弥陀寺として開闢。
1185年(文治元年)壇ノ浦の戦いで入水した安徳天皇の遺体は現場付近では発見できませんでしたが、赤間関(下関)に1191年(建久2年)勅命により御影堂が建立され、建礼門院ゆかりの尼を奉仕させました。以後、勅願寺として崇敬を受けました。
明治の神仏分離により阿弥陀寺は廃され、神社となって「天皇社」と改称した。
また、歴代天皇陵の治定の終了後、安徳天皇陵は多くの伝承地の中からこの安徳天皇社の境内が1889年(明治22年)7月25日、「擬陵」として公式に治定されました。
天皇社は1875年(明治8年)10月7日、赤間宮に改称し、官幣中社に列格しました。
1940年(昭和15年)8月1日、官幣大社に昇格し、赤間神宮に改称しました。
2018年(平成30年)11月2日、「赤間神宮水天門及び回廊」が国の登録有形文化財に登録されました。

赤間神宮 水天門:竜宮城を模した赤の神門がとても綺麗であり確かに竜宮城を想像させる楼門。素晴らしい。現在は国登録有形文化財に指定されています。
赤間神宮 大安殿:戦争により焼失しましたが、1965年に現在の立派な社殿が建立されました。水や海に関するご利益があり、安産、海上交通安全、豊漁、水商売などが挙げられます。
赤間神宮 境内 芳一堂 – 耳なし芳一:盲目の琵琶法師・芳一が、怨霊から逃れるために経文を全身に書き難を逃れようとしますが、耳だけ経文を書き忘れられたために耳を千切り取られるという怪談話です。耳なし芳一物語の舞台である阿弥陀寺は、現在の赤間神宮にあたるそうです。
赤間神宮 郵便ポスト:鳥居脇の郵便ポストは、水色でふくのオブジェが飾られており、流石下関ですね。隣りは歴史的にも有名なふぐ料理の春帆楼があります。
その他、太閤石、水天門薄墨の松などを見学しました。
観光時間は20分くらいでした。次の観光先=壇之浦古戦場跡に徒歩で向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征21日目:下関前田台場周辺観光(亀山八幡宮) (2026/05/31 訪問)

下関前田台場を攻城する前に、下関観光(下関唐戸市場、亀山八幡宮、赤間神社、壇之浦古戦場跡)をしました。
下関唐戸市場から徒歩2~3分で亀山八幡宮鳥居前(33.957028、130.945014)に着き、そこから亀山砲台跡(33.957206、130.944876)に向かいました。

亀山八幡宮鳥居付近に金子みすゞの三好写真館跡碑、山陽道石碑、床屋発祥の地碑があります。
また、亀山八幡宮を参拝して、金子みすゞ亀山八幡宮詩碑も確認しました。
観光時間は15分くらいでした。次の観光先=赤間神社に徒歩で向かいました。
赤間神社に向かう途中に、坂本龍馬馬とお龍が生活したとされる本陣伊藤邸跡がありました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征21日目:下関前田台場周辺観光(下関唐戸市場) (2026/05/31 訪問)

下関前田台場を攻城する前に、下関観光(下関唐戸市場、亀山八幡宮、赤間神社、壇之浦古戦場跡)をしました。
ホテルの朝食を抜いて、下関唐戸市場を観光する為、新山口駅からJR山陽本線を利用して下関駅に向かいました。
下関駅から徒歩5分くらいで、釜山門(33.951107、130.924115)に到着しました。
下関唐戸市場へ向かう道すがら、以下の観光をしました。
①:釜山門(33.951027、130.924045)
②:ふくのモニュメント付近(33.950759、130.924112)
③:オーヴィジョン海峡ゆめ広場付近(33.949915、130.928336)
➡ゆめ広場よりオーヴィジョン海峡ゆめタワーを見る(ゆめタワー:9:30~21:30)朝早い為、外から見るだけです
④:ロンドンバス(33.956474、130.945273)
⑤:唐戸市場入口付近(33.956474、130.945273) 5:00~15:00
➡市場の食堂で朝食を食べる
T:関門海峡歌碑(33.956047、130.945870)
⑦:堂崎の渡場跡付近(33.956331、130.944923)
➡横にサビエル下関上陸碑、付近に金子みすゞ詩碑あり  
ちなみに朝食は下関唐戸市場でふくを食べるかどうか迷いましたが、海鮮丼定食を食べました。
観光時間は75分(移動時間と唐戸市場の朝食時間を含む)くらいでした。次の観光先=亀山八幡宮に徒歩で向かいました。

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にのまる

空港から歩いて行ける続100名城 (2026/06/24 訪問)

函館駅前から函館空港行きのシャトルバスを利用しました。(約20分・¥700)
空港からはトンネルを通って徒歩20分ほどで到着です。
このトンネル、前回訪問時に吹雪の中を空港に避難しようと必死で歩いた思い出があります。(この時は行きはバスで志海苔まで行きました。)
その経験があるのでお天気のいい今回は怖がらずに歩けました。

志苔館に着いて最初に目に入ったのはコシャマインの戦いでの和人、アイヌ双方の慰霊碑です。2基並んだ石碑が語りかける歴史。学び続けることの大切さを思います。

館跡は鮮やかな緑の草に覆われ、前回感じた寂しさは全くありませんでした。季節が違うとこんなにも印象が違うのかと驚きでした。
スタンプ小屋の扉は外れていましたがスタンプ自体に不具合はありませんでした。

再び徒歩で空港に戻り次の目的地に向かいました。

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朝田 辰兵衛

渡辺姓発祥の地… (2026/06/28 訪問)

天王寺城からの転戦です。谷町線でスイッーと。そもそも,楼ノ岸砦は推定地ですが,渡辺姓発祥の地は確定です。城びとオールスターズのみなさんの中に「渡辺」さんがおられましたら,ぜひ自身のルーツをたどってみてはいかがでしょうか…?

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コウマくん

函館ハーフマラソン (2026/06/28 訪問)

湯の川温泉に宿泊し函館ハーフマラソンの日に通行止めになる前にタクシーで向かいました。
快晴で土塁から函館湾が一望できました。
その後歩いて函館空港に向かい、途中マラソンボランティアの人にとても親切に道案内してもらい20分ぐらいで着いました。

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コウマくん

五稜郭タワーから (2026/06/27 訪問)

函館の湯の川温泉に宿泊し向かいました。
湯の川温泉からは市営バスで二駅混んでいたけど便利でした。
五稜郭タワーからの城郭が一望でき景観がとても素敵でした。幕末から明治初期の歴史も分かりやすく面白かったです。
ついでにAll Japan Towers stanp rally もトライすることにしました。

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コウマくん

大雨の登城 (2026/06/26 訪問)

函館からレンタカーで行きました。途中無料高速に気づくのが遅かったこともあり、約3時間、想定以上に時間かかりました。大雨だったので、城郭散策はできませんでしたが、再建天守閣の中で元は福山城であったこと、松前氏の歴史を学べました

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コウマくん

ジョイじょぐら (2026/06/26 訪問)

大雨のため、城趾散策はできなかったけど上ノ国町ジョイじょぐらにてスタンプゲットしました。
松前城から車で約1時間。雨じゃなかったら絶景ドライブだったと思いました。

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イオ

見応えある石垣の出城 (2026/01/04 訪問)

繖山から北にのびる尾根の突端に位置し、織田信長の上洛に際して観音寺城の出城として築かれた城で、後藤但馬守が城主を務めました。

北向岩屋十一面観音の駐車場から登城開始。参道を車で尾根筋まで登ったのであとは尾根沿いに下るだけ…と思っていたら、下るだけは下るだけながら思ったより距離がありました。比高はわずか65mですし、山麓の登城口から歩いて登ったほうが早かったかもしれません。

駐車場から尾根沿いに東に進み、北側に藪化した堀が続くあたりを通り過ぎると石垣に行き当たります。佐生日吉城は主郭と東下段の曲輪からなり、主郭の南西面から南面にかけて約50mに及ぶ石垣が続いていますが、南西隅部を突出させて横矢掛りになっています。南面の土塁を眺めつつ進み、東下段の曲輪から主郭へ。喰い違い状になった東虎口から主郭に入ると、周囲は高さはないものの幅広い土塁で囲まれていて、奥には後藤但馬守城址の石碑が立てられていました。北尾根へと続く虎口の脇にも石垣が見られ、北尾根を進んだ先では両側に竪堀が落ちている…はずですが、藪に覆われていてよくわかりませんでした。そして主郭に戻って西虎口を出たところで佐生日吉城をひとめぐり。

ほぼ単郭の城ながら、南面に続く長大な石垣は大いに見応えがありました。六角氏の山城は出城に至るまで石垣が多用されていて嬉しくなってきますね。
 

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征20日目:冷泉氏館 (2026/05/30 訪問)

岩国城から車で30分ちょっとで、標柱付近(34.064480、132.130574)に着き、路駐しました。
その後、冷泉社(34.064663、132.132694)に向かいました。

築城年代は定かではないようですが、大内氏の家臣冷泉判官隆豊の館のようです。
冷泉氏は大内氏の庶流で、興豊の時にその妻が冷泉氏にゆかりがあるということで冷泉氏を称したようです。
隆豊は興豊の嫡男で、1551年(天文20年)陶晴賢謀反の際、大内義隆を討った大寧寺の変で奮闘するも及ばす義隆に殉じました。
隆豊の子元豊は、大内氏滅亡後は毛利氏に従い、1558年(弘治4年)に毛利隆元より所領祖生郷を安堵されたが、1562年(永禄5年)に豊前門司城代を務めていた際、豊後の大内氏に攻められ討死しました。

現在は小高い丘にの上に冷泉神社が建ち社殿の脇には古い五輪塔が在ります。
攻城時間は20分くらいでした。本日の城巡りは、ここがラストです。
当初予定より、ずいぶん早く終わったので、近辺の城跡(伊賀道城、岩城山金綱石)の攻城も考えましたが、両城とも攻城するとなると90分以上はかかりそうなので諦めました。
本日の宿泊先に向かう為、徳山駅でレンタカーを返却し徳山駅からJR山陽本線を利用して新山口駅に向かいました。
歩行歩数=18733歩、歩行距離=13.1Kmです。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征20日目:岩国城 (2026/05/30 訪問)

高森城から車で40分くらいで、錦帯橋下河原駐車場入口(34.164579、132.178432)に着きました。
岩国城は今回2回目の攻城です。1回目は2019年3月13日に来ました。
錦帯橋・ロープウェイ・岩国城の大人セット券は970円です。(+岩国シロヘビの館は40円割引されて160円で入館できます)
前回は時間の都合で茶臼台(岩国城出城跡)に行くことが出来なかったので、今回は茶臼台(岩国城出城跡)を攻城することを目的にきました。

~岩国城下町は以下の順番で廻りました。~
①:やり倒し松(34.168104、132.177375)
②:旧岩国藩家老吉川氏屋敷跡(34.168839、132.177057)24時間
③:香川家長屋門(34.169115、132.176676)
④:吉川家墓所(34.169273、132.174175)
⑤:吉川広家公像(34.170314、132.176064)
⑥:岩国シロヘビの館(34.170912、132.175533)9:00~17:00
⑦旧目加田家住宅(34.170918、132.175291)
⑧:岩国城ロープウェイ(34.171267、132.175314)
➡護館神(34.165936、132.166262) ロープウェイ山頂駅から15分1.0Kmくらい
 護館神(岩国城の石切場)の背後周辺に茶臼台(岩国城出城跡)あり
⑨:御土居跡(34.171668、132.176836)
⑩:旧吉川家厩門(34.171530、132.177170)
⑪:吉川資料館(34.170348、132.177286)9:00~17:00 500円(展示物を考えると割高です)
⑫:剣豪佐佐木小次郎の像(34.169613、132.177954)
⑬:吉川経家弔魂碑(34.168796、132.1777689)
攻城時間は140分(移動時間を含む)くらいでした。次の攻城先=冷泉氏館に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征20日目:高森城 (2026/05/30 訪問)

岐志氏館(城びと未登録 山口県岩国市)から車で2~3分くらいで、案内板付近(34.266812、132.084573)に着き、ここから駐車場入口まで車で1Kmくらい走ります。

築城年代は定かではないようですが、1449年(宝徳元年)頃に岐志四郎左衛門通明によって築かれたと云われています。
1551年(天文20年)大内氏の重臣・陶晴賢の挙兵により大内義隆が自害したのち、岐志氏は陶氏に従ったものと考えられています。
1554年(天文23年)陶晴賢の部将宮川房長が率いる軍勢と毛利元就が戦った折敷畑合戦で、岐志通明の孫の岐志甲斐守が陶方として戦い討死しました。
陶晴賢を下した毛利元就は坂新五左衛門元祐を主将として山代方面の平定に乗り出います。
元祐は高森城を拠点として改修し、成君寺山城に籠もる山代一揆軍を攻略、以降、高森城を居城として山代地方を統治しました。
1575年(天正3年)元祐が没すると嫡子宮千代が継いだが、宮千代も夭折し、弟が継ぐも幼少であったことから山代の統治からは外されました。

現在は市指定史跡としてよく整備されています。
主郭は山頂の曲輪にお堂が祀られており、この主郭を中心に南北に伸びた尾根に段々と曲輪を連ねています。
遺構として、石積、畝状竪堀群、土塁などが確認できます。
攻城時間は40分くらいでした。次の攻城先=岩国城に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征20日目:高森城周辺 岐志氏館(城びと未登録 山口県岩国市) (2026/05/30 訪問)

次の攻城先=高森城に行く前に、岐志氏館(城びと未登録 山口県岩国市)を攻城しました。
源氏武田氏屋敷(城びと未登録 山口県岩国市)から車で40分くらいで、墓地入口(34.265488、132.081327)に着き、本覚寺(墓地)前に駐車しました。

高森城主岐氏の居館です。
岐志氏の居館は二つあり、岐志四郎左衛門通明の居館は「田屋敷」、岐志左馬之介通之の居館は「土居」という所にあったそうです。
岐志氏の後で高森城主となった坂新五左衛門元祐の菩提寺である本覚寺は、小さな御堂になり墓地に岐志氏と坂氏の一族の墓が残されています。

高森城の北西麓に集会所があり、そこに案内板があります。そこから少し奥へ入ると右上に墓地があり、ここが本覚寺です。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=高森城に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征20日目:蓮華山城周辺 源氏武田氏屋敷(城びと未登録 山口県岩国市) (2026/05/30 訪問)

蓮華山城から車で15分くらいで、欽明路バス停付近空スペース(34.108490、132.109409)に着き路駐しました。
そこから、武田氏屋敷跡付近(34.108893、132.109510)に向かいました。

天文年間(1532年〜1555年)頃に武田刑部少輔宗慶によって築かれました。
周防源氏武田氏の祖である武田宗慶は安芸国銀山城主武田光和の庶子で、1540年(天文9年)武田小三郎が毛利元就の支援を受けて欽明路へ移り、後に武田刑部少輔宗慶と称しました。
銀山城主の安芸武田氏は1541年(天文10年)毛利元就によって滅ぼされますが、この武田宗慶は毛利氏に従って代々続き、1818年(文政元年)武田宗左衛門のとき、稽古屋敷をこの地に設けました。
この文武両道の稽古屋敷は、のちの呉武田学園(呉港高等学校・武田中学校・武田高等学校)と言う学校法人へと発展しています。

周防源氏武田氏屋敷は旧山陽道に面した地に築かれている。欽明路バス停のすぐ北にあり、道標に従って奥へ進んでいくと案内板と土塀に囲まれた屋敷跡があります。
また、屋敷内の西部及び北側山地に、武田氏代々の宝篋印塔や五輪塔をはじめとする墓石が設置されている墓所があります。
屋敷跡には「稽古屋敷創設地碑」や武田光和公、信宗公の墓などが残されています。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=高森城に行く前に、岐志氏館(城びと未登録 山口県岩国市)を攻城しました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征20日目:蓮華山城 (2026/05/30 訪問)

宿泊先のホテルから車で10分くらいで、比叡神社付近空スペース付近(34.108553、132.078526)に着きました。
そこから、本コース(室ヶ迫)と市の滝観音コースの登山口分岐点(34.112389、132.073452)に向かいました。
自分は市の滝観音コース(直進)を選択しました。蓮華山まで2Kmくらいだと思います。

築城年代は定かではないようですが、関東管領・上杉憲実に従って周防国に下向した太田時直の頃(享徳年間以降)と、大内氏、後に毛利氏に従った椙杜(すぎもり)隆康の時代(天文年間(1532年~1555年))の築城説があるようです。
1555年(弘治元年)陶晴賢が厳島合戦で敗れると、毛利の軍勢は周防・長門国への侵攻を開始しました。
蓮華山城椙杜隆康、鞍掛山城主杉隆泰、瀬田城主小方元康も毛利氏に降ったが、杉隆泰は大内義長に内通していたことから、毛利氏に攻められ鞍掛山合戦となり、毛利軍は鞍掛山城の搦め手側である蓮華山城から攻め落としました。
椙杜隆康は嗣子に恵まれなかったことから、毛利元就の五男元秋を養子に迎えますが、元秋は出雲国富田城督として迎えられた為に椙杜家から去り、代わりに元就の八男元康を養子に迎えました。
しかし、この元康も元秋の死後出雲国富田城督となって去った為、志道元保の二男元縁を養子に迎えて家督を譲ります。
1588年(天正16年)椙杜元縁は長門国且山城主を命ぜられ蓮華山城は廃城となりました。

比叡神社入り口を少し北側に行った所に登山道入口の道標があります。
遊歩道ははっきりとしているので迷うことはありません。それにしても高い。
攻城時間は110分くらいでした。次の攻城先=源氏武田氏屋敷(城びと未登録 山口県岩国市)に向かいました。

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にのまる

もうひとつの五稜郭 (2026/06/26 訪問)

上ノ国勝山館(大留)からバスに1時間20分揺られて14:30に木古内着。道の駅「みそぎの郷きこない」でいさりび鉄道グッズを自分へのお土産に購入し、15:19発の列車で函館に向かいました。(五稜郭まではおときゅう範囲外)

函館から市電函館どつく行きに乗り終点で下車。
電停目の前の公園が弁天岬台場跡で、説明板がありました。現在はその面影はありませんが、函館五稜郭と同じ武田斐三郎設計の不等辺六角形の台場で、新選組終焉の地でもあるそうです。

台場の転用石があるという防波堤……行っていません😭時間はたっぷりあったのに全く何を見に行ったのやら。やはりブラタモリでの事前学習は必須です。いや、事前学習なしでも某アプリのリア攻めマップを見れば親切な方が記録してくださっているのに😢(赤い城さんに教えていただいていつもとても重宝しているのですがこの時は失念していました😢)
なのでかなり消化不良ですが、圡方歳三と新選組隊士の供養碑のある称名寺に行ったり、周辺を気持ちよくお散歩したりできてよかったです。

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べっち

能島城 (2026/07/05 訪問)

クラブツーリズムの福山ガイド同行ツアーで行った

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