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つちのこ

坂本城周辺 (2026/08/14 訪問)

本丸跡石垣を見ようと、県道脇のあぜ道を進んでびわ湖にたどり着きました。が、水位が高くちょこっとしか見れませんでした。
その県道を歩いて気づいたのは、本丸があったと思われるエリアの県道(歩道部分)は赤く塗装され、桔梗の家紋が施されていたこと。
城址公園の光秀公石像にも桔梗の花が添えられていました。地域に愛される御殿様ですね。
城門が移築されている聖衆来迎寺、西教寺も行きました。西教寺は境内に風鈴が施され、多くの方が参拝される映えスポットでした。
三ノ丸跡にも行ったのですが、今は近づくことができません。一番近付けるであろう道にも「私有地のため通行禁止」との張り紙がありました。

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todo94

ゴールデンカムイの聖地巡礼 (2026/08/10 訪問)

桂ヶ岡砦からは、延々と歩いて、計算通り9時前に博物館網走監獄に到着です。2年前、ゴールデンカムイの聖地巡礼した際には、網走に足を伸ばすことができなかったので、今回は外さないよう、網走のホテルを半年以上前に押さえておきました。第4舎房の天井には、ゴールデンカムイの白石由竹の名前の由来となった脱獄王・白鳥由栄もいらっしゃいます。時間にはゆとりがあったのでじっくりと映像も含めて見学することができました。駅に向かう途中には、本物の網走刑務所がありますのでこちらにも寄っていきます。網走監獄で紹介されていた横須賀刑務所製作の「ブルースティック」を試しに購入しておきました。この日の午後は、石北本線を乗り通し、旭川にアクセスしました。最高気温20℃未満の網走と違って、旭川は普通の暑さでした。

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天守無しがアツい

白旗神社 (2023/02/05 訪問)

藤沢御殿…私も詳しくは知らないのだが…現在の藤沢市民病院あたりに存在したらしい

市民病院を撮影した事はないが…その付近にある伝義経首塚および首洗い井戸

あと白旗神社の境内およびそこで授与した御朱印…ならフォトにたまたま残っていたので…ここに紹介します

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T-Shionoya

ハイレベルな玄蕃尾城 (2026/04/05 訪問)

4月初旬に訪れた1つ目の城は、福井県敦賀市と滋賀県長浜市の県境に位置し、技巧的な縄張で知られる玄蕃尾城。

近江国の柳ケ瀬から敦賀へ抜ける刀根越え久々坂峠の北尾根上、東の眼下には北国街道が通る標高約450mの交通の要衝に築かれた城。

1583年の賤ヶ岳の戦いにおける柴田勝家の本陣であるが、築城時期と築城者は不明。
越前国統治のための交通政策、もしくは賤ヶ岳の戦いに備えて柴田勝家が築いたとも、それ以前に朝倉氏家臣が築いたともいわれている。

現在は、堀と土塁が良好に残る続100名城の城跡。

訪問日は大雨の翌日で、急峻な地形を感じながら駐車場に到着。
峠から階段を上り切ると尾根上は割と広く、城外のここまで柴田軍の駐屯場所だった可能性もあるでしょうか?
その平らな尾根上を進んで行くと霧の中から人工的な土の造形が出現し、南郭と虎口郭の連結部や、北郭から馬出を挟んで主郭北側虎口に到る構造は最高に魅力的。

要塞感の高いハイレベルな防御システムを備えた玄蕃尾城が、私の城郭巡りの213城目となりました。

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ryu

杷木神籠石 (2026/03/11 訪問)

九重スキーの帰りに探訪。

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ヒロケン

五重六階の天守台 (2026/08/10 訪問)

神戸城址は、現在本丸部分が公園となっており、五重六階の天守を支えた天守台が残っています。丸みを帯びた川石が野面積みで積まれているのが特徴です。また、天守台の構造から見ると付け櫓がある天守だったようで付櫓から天守に入る構造であったと思われます。
また、本丸の周りにには堀の一部が残されておりますが、神戸城の縄張り図を見ると往時の堀と比べ随分と幅が狭くなっているように思われます。

神戸氏は織田信長の伊勢侵攻の折、信長の三男信孝を婿養子に迎え信長と和睦。織田信孝は神戸城の大改修を行い五重六階を擁する城を完成させています。信長公が本能寺の変で倒れた後は、兄の織田信雄によって信孝公は自刃させられた後、神戸城主は目まぐるしく変わり滝川雄利→一柳直盛→石川氏三代→本多氏と変わり明治維新を迎え廃城となっています。

他にも神戸城の遺構としては、江戸時代に建てられた?鐘楼が蓮華寺に残っているそうですが、次回神戸城を訪問する際に見学したいと考えています。

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吉良氏をはじめ、今川氏、一色氏という名高い一族は、全て西尾市が発祥の地であることは歴史的に意義深いところです、と (2026/08/13 訪問)

 城びと先人の投稿を見て、行きたい城にノミネート。しんちゃんさん、カズサンさんは、近場なことからか何度も訪問され、整備や公開の進展が追えます。屏風折れ土塀が基礎の土塁まで三角に飛び出しているのを実際に見て、「ほっほう」。二の丸の天守台外下に「緊急防災対策河川整備」の看板がありました。二の丸の西側の川の整備と河岸の公園化が進められています。二つの丑寅櫓再建、鍮石門再建、天守台整備などどんどん手を入れているのですね。今回は、「法人事業税超過課税」もアピールされてます。
 資料館に、「吉良荘の成立:..吉良氏をはじめ、今川氏、一色氏は全国的にも名高い一族で、全て西尾市が発祥の地であることは歴史的に意義深いところです」と。室町幕府の三管領四職の中の斯波、畠山、細川、一色、山名などは、室町時代になって急に表舞台に現れてきて違和感があったのですが、吉川英治 私本太平記に、全て、各地に土着した足利一族であることが書かれていて、納得しました。足利尊氏は、各地の一族を従えて大勢力になったのですなあ。今川、吉良もその流れです。因みに、四職の赤松と京極(佐々木)は、足利一族外です。

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下社城(柴田勝家生誕の城)と一色城 (2026/08/15 訪問)

 柴田勝家生誕の城と伝わる下社城とその祖父の城一色城へ行って来ました。両城とも名古屋市名東区にあり城びとには未登録の城址です。以前にも投稿したことがありますが、近くに行く機会があり寄ってきました。

下社城
 柴田勝家は享禄3年(1530年)にこの城で生まれたと伝わっています。
天正3年(1573年)に柴田勝家は越前の地を与えられ北ノ庄城を本拠地としました。この時に下社城は廃城になったようです。
城址には明徳寺が建ち柴田勝家公誕生地の石碑、説明板、城址碑がありますが遺構はありません。小高い丘にあり要害の地であったと思われます。

一色城
 柴田勝家の祖父と伝わる柴田源六勝重が15世紀末に尾張守護・斯波氏の命で今川氏の進行に備えて築いたとされる城です。
神蔵寺と西一社貴船神社周辺の高台にあったとされ遺構は残っていません。神蔵寺に柴田勝重の墓があります。 この神蔵寺は柴田源六勝重が創建したと創建五百周年碑に記載されています。

 柴田源六勝重は一色氏の家臣と伝えられ領国の越後新発田から尾張の斯波氏を頼って来たという説があります。また日本城郭大系には斯波高経四代の子孫義勝が越後新発田城主となって以来柴田を姓にしたといわれ、一説には義勝の孫が勝家に当たると伝えられているとの記載がありました。諸説あるということで詳細はわからないということでしょう。新潟県の新発田出身で、同じ発音の柴田姓になったことは確かというところですかね。

一色城は地下鉄東山線一社駅から徒歩約9分です。そこから下社城までは徒歩約15分でした。

 

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イオ

とことん亀山城(二之丸) (2026/02/15 訪問)

(続き)

本多期の改修により本丸は将軍上洛時の宿所とされたことから、藩主の居所と藩の政庁は二之丸に設けられました。外周には五基の櫓が建ち並び、南西に西之丸に通じる石坂門、東に東三之丸への太鼓門、北と南の帯曲輪へは埋門が設けられていましたが、いずれも現存せず、二之丸北側の居屋敷(二之丸御殿)跡は小学校に、南側の向屋敷跡は市役所になっています。

ますみ児童公園から発掘調査に基づき復元整備された二之丸北帯曲輪へ。入口通路をたどると二之丸跡の説明板があり、その先には発掘調査で見つかった瓦を積んで居屋敷の庭の築山の位置を示していたり、居屋敷の礎石や玄関前に敷き詰められていた黒い玉石が展示されています。二之丸北帯曲輪へは埋門が通じ、往時の埋門の上には平櫓の二之丸北櫓が建っていたようです。埋門脇の二之丸土居には石積みが見られ、土居の下には発掘調査で確認された石組溝が復元されています。帯曲輪外周の土塀には狭間がありませんが、廃城前の古写真に基づいて幕末の姿を復元したもののようです。土塀に狭間が無いのは少々違和感があるものの、北東下の俯瞰広場から見上げる二之丸北帯曲輪土居は迫力がありました。

そして太鼓門跡から東三之丸へ。太鼓門と枡形、枡形に睨みをきかせる太鼓櫓はいずれも失われましたが、太鼓門跡には標柱が、太鼓櫓跡には説明板が立てられています(続く)。
 

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todo94

北海道のチャシ・陣屋めぐり⑥ (2026/08/10 訪問)

北海道3日目は、ホテルチェックアウト後、徒歩にて桂ヶ岡砦を15年ぶりに再訪しました。前回の攻城は城びとがスタートする6年前です。この砦の近くには永専寺の山門として網走刑務所の旧正門が残っていますので、ここも再訪してから、砦に向かいました。零汰さんの投稿通り、釧路のモシリヤチャシのミニチュア版といった佇まいです。

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チェブ

足、つった、、! (2026/07/04 訪問)

「倉ケ崎城」は『お丸山公園』。駐車場もあるという情報、出陣しました。
『お丸山公園』の可愛らしい公園名に、日傘でもさして散歩できるのかと思ってました。

車でドライブしていると、重厚な入口のゴルフ場が多い印象。ニッカウヰスキーの工場もありました。これまた重厚な入口で雰囲気があります。

喜連川温泉街の近くに「倉ケ崎城」=『お丸山公園』は、ありました。
喜連川庁舎の裏山が『お丸山公園』です。
私は、体育館と図書館の間にある駐車場をお借りしました。
で、この『お丸山公園』、私にとっては傾斜がきつく、やや心配。
地元のおじいさんが、ラジオを聞きながら姿勢良く歩いて行くのを見て、負けてたまるものかと出陣。
5分もたたないうちに離され、膝に手をつきゼイゼイ。
赤い橋の下の堀切を見た所で下りました。
「倉ケ崎城」のお名前は見当たりません。途中に『足利家大手門』の案内板があり復元された門をパシャ。
こんな所にも足利家かーと、足利家の兄弟闘いや分裂が広範囲な事に驚きました。
と、と、と、足がつった!しかも両スネ!
運転は危ないのて、回復するまで公民館で練習している『公方太鼓』に耳をすませてました。

先日、友人と予定を組み『むかしへGO武蔵国分寺』のアプリ体験をしに待ち合わせしました。そしたら、まさかの豪雨。次回に延期しました。
昨日は東京の端っこは土砂災害レベル4。
この夏は悲しい出来事が多いです。
そんな中、カルタ大会の楽しい投稿、ありがとうございました。
応援席、ほしーな。白熱戦を観てみたいです。

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小城小次郎

信秀は信勝とともにここにいた (2025/09/20 訪問)

織田信秀はその子信勝とともにこの城にあったのだが自身の死後の信長と信勝との相克を想像し得ていたのだろうか。地下鉄東山線沿線にありながらよく遺構を残すが堀の大半が草木に埋もれているのが何とも惜しい。

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カズサン

猛暑日散歩南広場より (2026/08/07 訪問)

 先に投稿した猛暑日散歩、日本庭園、天守曲輪、本丸では猛暑の西日直射を避けて木陰、日陰より探訪と最近買い求めたコンデジの試し撮りしました。
 西日に曝されますが景観整備された天守曲輪、本丸の南側石垣、天守閣南面、天守櫓御門南面を南広場から眺めないと探訪が完成しません、西日直射の中で天守曲輪い石垣、天守閣、天守櫓御門辺りのビューポイントを眺めコンデジ試し撮りをして早々に本丸東下の日陰木陰エリアへ避難。
 南広場は以前浜松税務署が有り立退き移転後、発掘調査をして家康築城時の池堀跡を発見、本丸多聞櫓跡石垣発見、天守曲輪南側の樹木伐採し石垣が良く観える様に景観整備、広場は芝生を植え、池跡はモルタル舗装地面に色を変えて池跡を示している、その他に浜松城の変遷履歴を絵図入りで解説板が並び良く分かるように整備されて居ます。
 南広場からの写真、本丸の若き日の家康公像、本丸北側石垣・土塁の断面と同説明盤を投稿掲載いたします。
    

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ヒロケン

城びと未登録の城 百済寺城 (2026/08/10 訪問)

百済寺の伽藍は、本堂を頂点に200カ所にのぼる坊院群が配されていたとされています。六角氏重臣の進藤山城守により石垣や空堀が築かれ城塞化されておりましたが、織田信長による近江侵攻の際、六角義賢・義治父子による鯖江城籠城戦への呼応に対する報復を受け、焼き討ちされ全山灰塵に帰し衰退しています。

早朝5時半に百済寺駐車場に着き散策を開始。駐車場から歩いて200m程下ったところに赤門があり、その手前に立派な土塁と空堀が確認できます。でも今回訪れた目的は、百済寺庭園と城塞化された折の石垣。赤門・空堀など見学し趣のある参道の石垣をなどを画像に収めながら現在の寺院へ到着。ですが、門にあるお知らせを見て愕然。拝観時間は8時30分から( ノД`)シクシク…まだ1時間半もある( ノД`)シクシク…どうしようか迷いましたが、リベンジを誓い泣く泣く諦めました。

ちなみに百済寺の読み方は、くだらじ ではなく、ひゃくさいじと読みます。

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イオ

とことん亀山城(西之丸周辺) (2026/02/15 訪問)

(続き)

京口門(亀山市西町)
板倉期に築かれた惣構西端の城門で、番所を設けて東海道の往来を監視していました。坂の下から見上げる姿は壮麗で、歌川広重の「東海道五拾三次」にも描かれるほどでしたが、現在は遺構は失われ、説明板が立つのみです。

西之丸(亀山市西丸町)
西之丸は本多期に本丸南側に拡張された曲輪で、周囲を外堀が囲み、南に青木門、西に黒門、南東隅と南西隅には東海道を監視する隅櫓が設けられていました。いずれも遺構は失われていますが、南西辺の外堀が一部復元されており、往時の堀幅、土居の高さ、水面の高さを体感することができます。また青木門跡、黒門跡ともに標柱が立つのみながら、青木門跡は屈曲した街路に枡形門の名残を、黒門跡は水路に外堀の名残を見ることができます。西之丸は家中屋敷とも呼ばれ、重臣の屋敷が建ち並んでいましたが、うち石川氏の家老を代々務めた加藤家の長屋門と土蔵が現存し、土日祝には見学もできるようです。この日は開館時間前だったので外観だけで我慢…。重臣屋敷のほか、江戸後期には藩校「明倫舎」も置かれました。亀山中学校の敷地内に標柱が立てられています。西ノ丸東側の外堀は池の側と呼ばれる池として遺っており、池の側に沿って植えられていた松並木が一部現存しています。池の側の北側には石井兄弟亀山敵討遺跡の石碑と説明板が立てられていました。

石井兄弟の石碑を過ぎて坂下門跡から二之丸に入り、二之丸を散策します(続く)。
 

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todo94

北海道のチャシ・陣屋めぐり⑤の2 (2026/08/09 訪問)

入館料300円の知床博物館ですが、隣接する姉妹町友好都市交流記念館にも入館できます。津軽藩との縁で弘前市と姉妹都市というのはわかりますが、何と弘前ねぷたを伝授してもらって斜里町の行事として根付かせてしまったというのです。既に40年を超える歴史を有しています。そういえば、道の駅しゃりにもねぷたの展示がありました。交流記念館にはねぷたの収蔵庫迄あってこれも見学することができます。肝腎の陣屋は史跡碑と説明板が建つのみで遺構はないようですが、幕末の蝦夷地の守りがこんな交流を生み出しているとは、大きな驚きでした。今まで、白老、ヲシャマンベ、ハママシケ、宗谷などの陣屋を巡ってきましたが、こういう事例には初めて接した次第です。なお、最北東の国立公園・知床と最南西の国立公園・西表の縁で竹富町とも姉妹都市となっていて交流記念館には竹富町の展示もありました。ともに世界遺産にもなってこれはこれですごいことです。

最後に日照寺の供養塔も落ちなくチェックして、充実した斜里町での時間を過ごすことができました。この日は、傘が必要ない程度の霧雨が降っていて最高気温は18℃ほどだったと思います。泊は網走にとりました。

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にのまる

広い! (2026/06/28 訪問)

弘前城見学後、特急つがるで浪岡へ。
前日の三戸での自転車移動の快適さが忘れられず、駅の案内所へ直行しレンタサイクルをお借りしました。簡単な手続きのみで無料。得意のママチャリタイプで助かりました。

中世の館に寄ってから現地へ。
散策コースに沿って8つの曲輪を見学しました。東館の三重堀や北館の迷路のような屋敷区画がとても印象的でした。一見何もないようで、でもものすごくたくさんのものが詰まっている。ここに形成されたコミュニティを想像するだけでお腹いっぱいになる。過去への夢が広がるお城だと思いました。

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ぴーかる

高縄城 (2026/06/14 訪問)

【高縄城】
<駐車場他>駐車場はなし。太平寺駐車場を利用しました。
<交通手段>車

<感想>1泊2日東海ちょこ城道中12城目。高縄城は1475年に戸田宗光によって築城されました。戸田宗光は1479年に田原へ移り田原城を築城します。1493年に宗光は吉田近くの二連木に城を築いて田原城は子に譲ったので高縄城の役割はこの時期薄れます。1505年ごろから吉田川対岸の牧野氏が進出して戸田氏と対抗しはじめたので高縄城は二連木城と田原城を結ぶ拠点城として重要度が高まったようです。
 現地は現在高専学校になっていて入ることはできません。城びと情報では平城となっていますが、南の太平寺から見たら小山の頂上全体を切り開いた平山城だったのではないかと思いました。

<満足度>◆◇◇

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トットコ

12城目 (2026/08/11 訪問)

久しぶりにお城へきました。
12/100まだまだ先は長いぞ!

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トク

平和について考える旅2026(3/3)【最後の特攻機】 (2026/07/31 訪問)

トクの終戦の日前、平和について考える旅(3/3)です。

皆さんは太平洋戦争で最後に飛び立った特攻機は、どこから飛び立ったのか、またそれは誰だったのかを、御存知でしょうか?

大分府内城から東へ3km程行った所、大分商業高校(夏の甲子園出場)の隣に、大洲総合運動公園という場所があります。実はこの一帯には太平洋戦争中、海軍大分基地飛行場がありました。昭和20年(1945年)8月15日12時、日本はポツダム宣言を受け入れ降伏する旨の昭和天皇による玉音放送が、日本全国民に向け流されます。しかしその4時間後の16時、戦争はもう終わったにもかかわらず、ここ大分基地から沖縄に向け飛び立った飛行機がありました。これが最後の特攻機です。

この飛行機に乗っていたのは、「宇垣纏(まとめ)」中将です。連合艦隊作戦参謀を務め特攻作戦を立案し、その後は第五航空艦隊司令長官となって昭和20年3月に鹿屋基地に赴任、特攻作戦を先頭に立って陣頭指揮した人物です。彼が赴任中の昭和20年4月から7月の間に、1,271名の若者が鹿屋基地と串良基地から飛び立ち、帰らぬ人となった事は前回お伝えしたと思います。その後8月に入り、鹿屋にはもう飛行機が無くなったので、宇佐基地を経由して大分基地に入り、彼は終戦を迎えました。そしてその日、大分基地に隠されていた最新鋭の戦闘機「彗星」に乗って飛び立ったそうです。いくら悪化した戦況だったとはいえ「死んでこい!」と愚かな命令を出し続けたあげくに敗戦、「自分はいったい何という事をしてしまったのか・・・」と最後は後悔の念に駆られていたそうです。そして自ら飛行機に乗り出撃する事で、自分なりのけじめをつけたかったのではないでしょうか?

私は府内城の天守台に立ち、基地のあった方向を眺めてみました。昭和20年7月17日、B29による大分空襲で、このあたり一帯は一面の焼け野原になったそうです。その時に府内城も焼け落ちました。しかし、人質櫓と宗門櫓はだけは奇跡的に焼けずに残り、現存櫓として今でも残っています(写真⑤⑥)。

昨年1年間だけでも、ウクライナ・パレスチナ・イランなどで、数万人もの方々が戦争で亡くなられています。日本は巻き込まれる事なく、平和が続く事を願いたいものです。
 

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