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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征23日目:桂城 (2026/06/02 訪問)

天気予報では今日は台風の影響で一日中、大雨ですが強風は一時的なので、レンタカーや宿泊ホテルは予定変更せず、城巡り続行。しかし、山城の登城は危険なので登城口止まりになります。
長期遠征は、台風の少ない5月中旬~6月上旬でいつも計画していますが、今回の遠征は雨の日が多くかつ台風まで来てしまいました。残念です。
鈴尾城から車で10分弱で、星ヶ城跡駐車場入口(34.632768、132.650019)に着きました。
そこから、桂城入口(34.633031、132.650523)に向かいました。

築城年代は定かではないようですが、1500年代初め頃、坂氏から分家した毛利氏譜代の桂広澄によって築かれたと考えられています。
桂氏は毛利の庶流坂氏のさらに庶流であり、広澄が桂村に分家して桂氏を称したことに始まります。
桂広澄は1523年(大永3年)から続いた毛利家の家督相続争いで元就の弟相合元綱を擁して謀叛を興し坂氏が成敗されると、事件には直接関係はなかったが、坂氏の出ということで自刃して果てました。
家督は広澄の子元澄が相続しており、以後も毛利家の重臣として仕え、1553年(天文22年)には桜尾城主となっています。
桂元澄は1555年(弘治元年)「厳島の戦い」では、陶晴賢に偽の内応書を送って、陶軍を厳島に誘い出すという軍功を挙げています。

登城口は桂峠バス停のすぐ近くです。登城口付近の写真を撮って撤退しました。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=猿喰城に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征23日目:鈴尾城 (2026/06/02 訪問)

天気予報では今日は台風の影響で一日中、大雨ですが強風は一時的なので、レンタカーや宿泊ホテルは予定変更せず、城巡り続行。しかし、山城の登城は危険なので登城口止まりになります。
長期遠征は、台風の少ない5月中旬~6月上旬でいつも計画していますが、今回の遠征は雨の日が多くかつ台風まで来てしまいました。残念です。
阿賀城から車で20分弱で、愛宕山公園駐車場(35.440118、132.816900)に着きました。

1381年(永徳元年・弘和元年)毛利元春の5男広世が福原の地に移り姓を福原と改め築城した城で、元俊に至るまでの219年間福原氏の居城でした。
1497年(明応6年)に毛利元就が生まれたのも、この鈴尾城であったと言われています。(諸説あり)
福原氏は毛利氏の重臣として活躍したが元俊の時、1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いの敗北の結果、毛利氏の防長移封に従って廃城となりました。

説明板と登城口付近の写真を撮って撤退しました。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=桂城に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征23日目:阿賀城 (2026/06/02 訪問)

天気予報では今日は台風の影響で一日中、大雨ですが強風は一時的なので、レンタカーや宿泊ホテルは予定変更せず、城巡り続行。しかし、山城の登城は危険なので登城口止まりになります。
長期遠征は、台風の少ない5月中旬~6月上旬でいつも計画していますが、今回の遠征は雨の日が多くかつ台風まで来てしまいました。残念です。
伊勢ヶ坪城から車で15分くらいで、四之谷本橋(34.595635、132.591494)に着き路駐しました。

築城時期は定かでないようですが、城主は阿賀氏でした。後、戦国時代には毛利氏の家臣・井上越前守光定・左馬之助就任父子2代の居城でした。

説明板と登城口付近の写真を撮って撤退しました。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=鈴尾城に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征23日目:伊勢ヶ坪城 (2026/06/02 訪問)

天気予報では今日は台風の影響で一日中、大雨ですが強風は一時的なので、レンタカーや宿泊ホテルは予定変更せず、城巡り続行。しかし、山城の登城は危険なので登城口止まりになります。
長期遠征は、台風の少ない5月中旬~6月上旬でいつも計画していますが、今回の遠征は雨の日が多くかつ台風まで来てしまいました。残念です。
土居屋敷から車で10分くらいで、登り口付近空スペース(34.551870、132.546958)に着き、そこに駐車しました。

承久の変(1221年)で戦功のあった熊谷氏がこの地に入って伊勢が坪に城を築きました。
その後、戦乱の世になると、当主の熊谷4代直経は防御力の低い伊勢が坪城から、要害堅固な三入高松城に居城を移しました。
しかし繋ぎの城としての役目もあり伊勢ヶ坪城は廃城となることなく存続し、隠居城としての役目も持っていたと云われています。
1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いに敗れた毛利氏の防長移封に従い、伊勢が坪城も他の熊谷氏の城や屋敷同様廃され、熊谷元直は三入の地を離れ、萩へと移っていきました。

説明板と登城口の写真を撮って撤退しました。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=阿賀城に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征23日目:土居屋敷 (2026/06/02 訪問)

天気予報では今日は台風の影響で一日中、大雨ですが強風は一時的なので、レンタカーや宿泊ホテルは予定変更せず、城巡り続行。しかし、山城の登城は危険なので登城口止まりになります。
長期遠征は、台風の少ない5月中旬~6月上旬でいつも計画していますが、今回の遠征は雨の日が多くかつ台風まで来てしまいました。残念です。
三入高松城から車で10分弱で、土居橋先空スペース(34.531767、132.520393)に着きました。
そこから、石垣&説明板付近(34.532635、132.521230)に向かいました。

承久の変(1221年)で戦功のあった熊谷氏がこの地に入って伊勢が坪に城を築きました。
その後、安芸熊谷氏当主・熊谷高直によって、高直自らの居城である三入高松城の城地であった高松山の麓に居館を築いたされ、その居館が土居屋敷(熊谷氏館)とされています。
三入高松城は詰の城としての役割を担い、熊谷氏の日常生活はこの土居屋敷で営まれていたと考えられています。
土居屋敷は守りを考えた居館であり、四角形の敷地には石垣がめぐらされ、居館の西方には根谷川、北には堀を備え、近世的な城郭としての機能もあったようです。
1591年(天正19年)広島城の完成により、当時の当主・熊谷元直もこの住み慣れた三入庄を離れ、広島に移りました。
1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いに敗れた毛利氏の防長移封に従い、当時の当主・熊谷元直も萩に移住し、およそ350年に渡る熊谷氏の三入庄支配は終焉を迎えました。
この時に土居屋敷も破却されたものと思われます。

変電所の南側に石垣が残り、案内板があります。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=伊勢ヶ坪城に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征23日目:三入高松城 (2026/06/02 訪問)

天気予報では今日は台風の影響で一日中、大雨ですが強風は一時的なので、レンタカーや宿泊ホテルは予定変更せず、城巡り続行。しかし、山城の登城は危険なので登城口止まりになります。
長期遠征は、台風の少ない5月中旬~6月上旬でいつも計画していますが、今回の遠征は雨の日が多くかつ台風まで来てしまいました。残念です。
永町山城から車で45分くらいで、高松山登山口上原コース(34.525970、132.526396)に着き、入口付近に駐車しました。

1221年(承久3年)「承久の乱」の戦功により安芸に入った当時の熊谷氏は当初三入荘北端に伊勢ヶ坪城を構え、居城としました。
しかし、戦乱の世になるにつれ、平坦な岡にある伊勢ヶ坪城の防備に不安を感じ、当主の熊谷4代直経は急峻な高松山に居城を構えました。これが三入高松城の始まりです。
しかし、応永年間(1394年-1428年)に築城されたとする説などもあり、正確な築城年月は不明のようです。
戦国時代当初、熊谷氏は安芸武田氏に臣従していましたが、熊谷信直の代になり領土問題などの争議が起こったため武田氏から離反しました。
1533年(天文2年)信直は毛利元就と和議を結び、以後毛利氏の重臣となりました。
同年、熊谷氏の旧主・安芸武田氏の武田光和による攻撃を受けたが落城せず、その防御能力の高さを見せ付けました。
1591年(天正19年)毛利輝元が広島城を築いて移ると、熊谷氏13代高直も城下に移住しました。
1600年(慶長5年)「関ヶ原の戦い」の後に熊谷氏が毛利氏の防長移封に従い安芸国を離れるまで、三入高松城は熊谷氏の居城でした。
1615年(元和元年)の一国一城令で破却され、多くの遺構が消滅しました。

登山口はいくつかあるようですが、本丸までの距離が短そうな上原コースに向かいました。登り口付近に駐車スペースがあります。
登城口の写真を撮って撤退しました。
熊に注意の写真を撮って妻にLINEで送ったら、注意しようがないだろうと突っ込んでいました。
城の北麓に熊谷高直が築いたとされる熊谷氏居館の「土居屋敷」跡にはこの後、向かいます。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=土居屋敷に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征23日目:永町山城 (2026/06/02 訪問)

天気予報では今日は台風の影響で一日中、大雨ですが強風は一時的なので、レンタカーや宿泊ホテルは予定変更せず、城巡り続行。しかし、山城の登城は危険なので登城口止まりになります。
長期遠征は、台風の少ない5月中旬~6月上旬でいつも計画していますが、今回の遠征は雨の日が多くかつ台風まで来てしまいました。残念です。
広島駅でレンタカーを借り、そこから車で20分(大雨の影響で時間がかかった)ちょっとで、説明板前(34.419173、132.513494)に着き路駐しました。

詳細は不明ですが、城主は温科左衛門家行と伝えられています。 温科氏は鎌倉時代末期に安芸に下向した金子氏が在地名を名乗ったのが始まりとも云われていますが定かではありません。
安芸に下った金子氏は玖村(現在の安佐北区落合)に下り恵下山城に籠もったとも伝えられるが不明です。
また、金子慈蓮が1221年(承久3年)に承久の乱の功によって安芸国温科村地頭職を得ています。
1499年(明応8年)温科国親は武田伊豆守元信に叛乱を企てましたが、武田氏によって鎮圧され温科氏は滅亡しました。
この時、本家は滅亡してしまいましたが、一族のうちの一部は大内氏、後には毛利家に仕えるようになりました。

説明板と登城口を撮って撤退しました。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=三入高松城に向かいました。

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来たれ、猛者よ! 「赤色立体地図お城かるた」大会 in 大阪・お城フェス2026!!

昨年、激ムズマニアックかるたとして世に出た「赤色立体地図お城かるた」。
「遊びたいなあ」「でも対戦相手がいない……」とサビシイ思いをしていた皆さまに朗報です。

8月8日(土)~9日(日)「第5回大阪・お城フェス2026」にて、
赤色立体地図お城かるた大会が開催されます!!

かるた制作に全面協力いただいたアジア航測株式会社さん主催で、
初級クラス・中級クラス・上級クラスに分かれ、各クラス12名で戦います。
(クラスは自己申告制。事前予約不要。当日先着順)
入賞者には豪華賞品も!

詳しくは、アジア航測さんのHP(https://www.ajiko.co.jp/news_detail/1807)をご覧ください!!!

「うおおおおお、燃えてきた!」
そうでしょうそうでしょう。
まだかるたをお持ちでない方! 
城びとストア(https://shirobito.stores.jp/items/6948bf5e65f665005d693d26)で事前にお求めいただき、
ぜひ決戦に備えてください。

赤色立体地図お城かるたを制するのは、あなただ!!

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todo94

和泉の攻城③【城びと未登録・和泉高井城】(大阪府貝塚市) (2026/07/11 訪問)

千石堀城からの転戦です。水間鉄道名越駅に向かう途中にあります。千石堀城の古い説明板の方に千石堀城の支城との記述がありました。高井城は小さな児童公園になっていて、そこに説明板が建っていますし、最寄り駅の名越(なごせ)駅にも説明板がありました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征22日目:大内氏館周辺散策(山口駅&新山口駅と本日の昼食と夕食) (2026/06/01 訪問)

山口で食べた昼食の「ばりそば」と広島で食べた夕食の「ホルモン焼きとお好み焼き」を投稿します。
ちなみに新山口駅は昔、小郡駅と呼ばれていました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征22日目:大内氏館 (2026/06/01 訪問)

築山館から徒歩5分くらいで、池泉庭園入口(34.183868、131.480536)に着きました。

大内氏館は今回2回目です。1回目は2019年11月12日に来ました。
大内氏館は大内弘世が築いた居館です。弘世は京に似て山に囲まれた盆地である山口を選び、ここに京の街を模した街造りをしました。
大内氏歴代の当主はここで政務をとり、約200年間にわたって西日本の政治、経済の中心地になりました。
館跡にある龍福寺は大内義隆の菩提を弔うために毛利隆元が再興した寺です。しかし1881年(明治14年)に火災で焼失したため、元大内氏の氏寺であった興隆寺の本堂を移築して再興しました。
現在は龍福寺の周辺に土塁や西門、枯山水の庭園、池泉などが復元されています。

大内氏館は以下の順番で巡りました。
①:池泉庭園入口(34.183868、131.480536)
 ➡山門➡鐘楼➡大内義隆供養塔➡龍福寺➡池泉公園
②:西門(34.184144、131.479047)
③:石組溝(34.183980、131.479167)

庭園や土塁がコンパクトにまとまった感じでさほど時間かからずぐるっと回ることができます。
八坂神社と龍福寺の間に、史跡大内氏遺跡 見学者用駐車場があります。龍福寺周辺の庭園跡、西門、石組溝が見どころです。
土塁に囲まれた巨大な居館跡で、庭園跡が見事です。
攻城時間は20分くらいでした。本日の城巡りは、ここがラストです。
歩行歩数=21264歩、歩行距離=14.8Kmです。
本日の宿泊先に向かう為、山口駅からJR山口線を利用して新山口駅に戻り、コインロッカーから荷物を取り出した後、広島駅に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征22日目:築山館 (2026/06/01 訪問)

山口中河原御茶屋(城びと未登録 山口県山口市)から徒歩5分くらいで、八坂神社入口(34.186502、131.478275)に着きました。
その後、鳥居脇石碑付近(34.184898、131.478123)に向かいました。

大内氏28代教弘が15世紀中頃に築いたといわれています。 大内氏は守護大名として次第に勢力を伸ばすにつれ大殿大内氏館だけでは手狭となった為、別邸として築山館を築いたとされます。
もともとは大石を積み上げた石垣で周囲を囲っていたが、江戸末期に毛利氏が長門国萩城から山口城に居城を移したときに大石を運び出した為、現在の土塁のようになったと云われています。

築山館は大内氏館の北方にあり、現在の八坂神社、築山神社の境内となっています。
南西の鳥居脇に築山館の石碑があり、案内板が設置されています。築山神社の北西背後にあるのが築地跡です。
遺構は築山神社脇に残る土塁のみ。説明板の平面図を見ると館は正方形ではないことがわかります。何処に館があってどこが庭園だったのか不明です。
観光時間は15分くらいでした。次の攻城先=大内氏館に徒歩で向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征22日目:築山館周辺散策(山口中河原御茶屋(城びと未登録 山口県山口市)) (2026/06/01 訪問)

次の攻城先=築山館を攻城する前に、洞春寺と山口中河原御茶屋(城びと未登録 山口県山口市)に徒歩で向かいました。
洞春寺から徒歩5分ちょっとで、清末藩長屋門(34.187774、131.476516)に着きました。行く途中に錦の御旗製作所跡がありました。
その後、菜香亭入口(34.187335、131.480151)に向かいました。

築城年代は定かではないですが、1684年(貞享元年)には存在していたことから、それ以前、三田尻御茶屋などとともに参勤交代の制度化とともに築かれていたと考えられています。
萩藩主が参勤交代するときには、萩を出立後に萩往還を使って山口御茶屋で休憩(ときには一泊)して三田尻に向かったそうです。

山口中川原御茶屋は、大内館跡の北東600mほどのところにあり、御茶屋跡のすぐ北側に山口市菜香亭もあります。
菜香亭の施設が非常に立派であり、これが現存する御茶屋なのかと思ってしまいそうになりますが、菜香亭は1877年(明治10年)に創建された料亭であり、御茶屋とは関係がないそうです。
ちなみに菜香亭の名称は、井上馨によって命名されたものだそうです。
菜香亭の南側の広場となっているところが中河原御茶屋の跡です。
攻城時間は30分くらいでした。次の攻城先=築山館に徒歩で向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征22日目:築山館周辺散策(洞春寺) (2026/06/01 訪問)

次の攻城先=築山館を攻城する前に、洞春寺と山口中河原御茶屋(城びと未登録 山口県山口市)に徒歩で向かいました。
山口城から徒歩10分くらいで、洞春寺山門前(34.187555、131.472548)に着きました。

1572年(永亀3年)の春に毛利元就の菩提寺として、安芸国吉田の城内に創建され、幕末の頃に萩から現在の地へ移されました。
山門は四脚門で、屋根は切妻の桧皮(ひわだ)葺き。大内盛見がこの場所に1400年(応永7年)頃に開基となって建てた国清寺のもののようです。
山門と境内にある観音堂は、国の重要文化財に指定されています。
観音堂は1430年(永享2年)大内持盛が現在の滝町に創建した観音寺の仏殿です。観音寺は後に勝音寺と改まり、さらに江戸時代になって、大通院と改まりました。
洞春寺は奇兵隊の屯所や毛利敬親の仮寓所など明治維新の舞台にもなりました。
観光時間は15分くらいでした。次の攻城先=山口中河原御茶屋(城びと未登録 山口県山口市)に徒歩で向かいました。

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にのまる

五稜郭を守る。 (2026/06/24 訪問)

函館空港から路線バスで「神山通」下車。バス停から四稜郭まではあと2kmくらいです。
パン屋さん「ひだまり」に寄ったり、大圓寺の無縁塚(五稜郭の築造工事の際に亡くなった方の供養塔)に手を合わせたりなどしながら歩きました。大圓寺には箱館戦争で戦死した新政府軍と旧幕府脱走軍の兵士のお墓もあるそうです。

四稜郭には五稜郭タワーのような高い建物が近くにないので4つの稜堡を俯瞰したり“蝶が羽を広げたような堡塁”を実感することはできませんでしたが、「五稜郭に行ったら四稜郭にも!」とずっと思っていたので、現地に立てた達成感は大きかったです。

市民により大切に保護され今日まで原型を保ってきた四稜郭。建物跡などはありませんでしたが元々砲座以外の建造物はなかったそうです。

五稜郭からは直線で約3kmの距離で、歩いている坂道からも五稜郭タワーや函館山が見えました。
周囲を眺めていると、旧幕府脱走軍がここに陣地を築いた理由、また緊迫する情勢の中、数日で要塞を完成させるにはこの規模、この形がベストだったのだろうということにも思いが至りました。

「五稜郭に行ったら四稜郭も!」は行けたので、今度は……七稜郭に行きたくなった!

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イオ

見事な石垣はあるけれど… (2026/01/04 訪問)

詳細は不明ながら、室町中期に在地土豪の鏡氏が築いたと伝わります。

道の駅 竜王かがみの里から登城開始。石燈籠や宝篋印塔が遺る西光寺跡を抜けて登ること10分あまりで主郭に到達。主郭北端には星ヶ崎城跡の説明板が立てられ、北から東方向にかけての眺望が開けています。主郭の南西面に約17mにわたって続いている石垣を眺めつつ南に進み、南端の虎口から主郭内へ。南虎口の脇には溜池と思しき窪みがありますが、枯れ葉が堆積して浅くなってしまっています。主郭の中央部には城阯碑が立てられていました。

主郭周辺では、主郭から南西にのびる尾根には堀切や竪堀といった防御設備は見られませんが、尾根の南面に石垣が設けられている箇所がありました。主郭から東尾根を下っていった先にも二段の石垣(というより土留めの石積み)が見られました。北西尾根側(登城口側)にも低い石垣が見られます。

土塁や堀が全く見られない一方で、石垣だけは主郭だけでなく支尾根にまで設けられているのは不思議な感じでした。尾根続きに石垣が多用されている小堤城山城があることや、観音寺騒動では六角承禎が入城したと伝わるなどの地理的・歴史的事情が関係しているんでしょうか。
 

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todo94

和泉の攻城② (2026/07/11 訪問)

積善寺城からの転戦です。かなりの距離があったのですが、徒歩にてアプローチしてしまいました。強い日差しに照り付けられ、かなりの発汗がありました。最寄り駅の名越駅とは反対側の裏手から入っていく感じになりましたが、展望台(みはらし台)への案内表示はすぐに見つけることができました。みはらし台には、石の城址碑があったようですが、折れてしまっています。縄張り図がある主郭は大堀切を挟んだ反対側のピークの方にあります。汗の匂いや呼気の二酸化炭素が吸血モスキートを引き寄せてしまい、難渋することになりました。山城といった規模感はないので季節を問わず攻城は可能かと思いますが、やはり夏場は避けた方が無難のように思います。

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赤い城

難攻不落の巨大な山城 (2026/06/28 訪問)

13年振りに登城しました。
前回は七曲りなど整備中だったと記憶しています。
道の駅広瀬・富田城に車を置き登城口から登って行きます。
まずは最初の見どころ大土塁、背後には竹藪となっていますが深い堀切であることがわかります。
そこからすぐに山中御殿平、石垣が見事です。
塩谷口の石垣も素敵ですがここにはあまり人が来ません。

ここは後でじっくり、と思いまずは山頂部を目指します。
七曲りを登るとノの丸、二ノ丸と続き大堀切を挟んで本丸です。
本丸には勝日高守神社が鎮座します。
もちろん眺望は良いです。
大内氏が陣を置いた京羅木山もよく見えます。
二ノ丸には東屋があり手作りのかわら版やしおりが置いてありました。
ノートに記帳して持ち帰りました。

ひと休みして下山、山中御殿平に戻りました。
菅谷口の石垣や礎石建物跡などが残ります。
軍用大井戸の石組を見おろすこともできます。
さらには花ノ檀、休憩施設が建っています。
奥書院を経て太鼓檀には山中鹿介像が建ちます。
千畳平から馬乗馬場と見学して下山しました。
久しぶりの登城でしたがじっくりと見学することができました😊

【見どころ】
 ・大土塁背後の堀切
 ・山中御殿平の石垣
 ・本丸と二ノ丸の間の堀切
 ・千畳平から見おろす馬乗馬場

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征22日目:山口城 (2026/06/01 訪問)

周防長山城(城びと未登録 山口県山口市)から徒歩10分くらいで、政庁表門付近(34.184346、131.471692)に着きました。

1864年(元治元年)萩藩毛利13代敬親によって築かれました。
毛利敬親は1863年(文久3年)湯田温泉への日帰り湯治と称して萩城から山口へと拠点を移しました。
これは保守派に取り囲まれた萩では攘夷を実行できないことと、北に偏った萩では交通の便、海からの防御の面で不都合があったためです。
幕府に対しては山口屋形として申請していたが、背後には中世大内氏の詰城であった高嶺城があり、表には水堀を配していました。
大政奉還後の1870年(明治3年)政事堂から藩庁に改称。さらに、廃藩置県が行われた1871年(明治4年)城内に山口県庁が置かれました。
1873年(明治6年)の廃城令によって、存城処分となり陸軍省(第5軍管)の所管となりますがが、同年7月に大蔵省の所管へ変更され廃城となりました

水堀の一部と薬医門(山口政事堂の表門)が現存します。この表門は、廃藩置県までは藩庁門、その後は県庁正門となりました。
県庁の正門は閉まっていましたが、通用門から中に入ることができました。
藩庁の門は重厚で良かったです。土塁と石垣を見逃してしまいました。
観光時間は15分くらいでした。次の攻城先=築山館を攻城する前に、洞春寺と山口中河原御茶屋(城びと未登録 山口県山口市)に徒歩で向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征22日目:山口城周辺散策(周防長山城(城びと未登録 山口県山口市)) (2026/06/01 訪問)

次の攻城先=山口城を攻城する前に、周防長山城(城びと未登録 山口県山口市)によりました。
向山城(城びと未登録 山口県山口市)から徒歩20分ちょっとで、亀山公園山頂広場(34.180582、131.472964)に着きました。

築城年代は定かではないですが、 1588年(天正16年)毛利氏は仁保元忠を城番として長山城に置いていました。
1596年(慶長元年)毛利秀元は長門国を与えられ長山城を居城とするべく改修しました。
しかし、1600年(慶長5年)の関ヶ原合戦によって毛利氏が防長2ヶ国に減封となったため秀元は長門櫛崎城へと移り、長府藩を立藩しました。その後、長山城は廃城となったと思われます。

現在は亀山公園として整備されています。戦前は6つの銅像あったようですが、現在はが毛利敬親公の馬上像があるのみで、公園化により遺構もないようです。
亀山公園の南にはザビエル記念聖堂が建っています。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=山口城に徒歩で向かいました。

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