車で岩切城の登山口まで行きそこから登城。
入り口に説明看板があり整備された登山道を登ります。
ゆるかで非常に快適でしたが昨今のクマ出没のせいかあちらこちらに「クマに注意」と幟がありました。
さすがに怖くなり速足で登城してきました。
帰りは退却のような速さで下っていきました(苦笑)
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2025/12/01 17:33
2025/12/01 17:22
2025/12/01 17:19
虹 (2025/11/25 訪問)
綺麗な虹が出ていましたので
皆様にも写真をシェアしたくて
投稿致しました
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2025/12/01 17:15
なにもない… (2025/08/22 訪問)
多賀城から移動してきてナビ通りにくると
皆さんのコメント通り何もない。
それでも何かあるだろうと倉庫群のなかをぐるぐるまわるも何もない
あきらめて帰ることにしました。
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2025/12/01 17:11
2025/12/01 16:59
ちょうど小説を読んでたので (2025/08/21 訪問)
お目当てのアーティストのライブにかこつけて攻城してまいりました。
タイトルの通り火坂雅志さんの「臥竜の天」を読んでいたのでワクワクです。
仙台城は遠目に見ることはあっても仕事の時にしか行かないので今回はゆっくりと見学できました。
まずは仙台駅で腹ごしらえは半田屋さん。
ご飯をしっかりと頂いていざ出陣。
歩くと意外と距離があります。
そうすると見えてきました、立派な石垣が!
広瀬川から見るととても良いですね。
テンションが上がります。
登っていくと遠くから見えていた石垣が圧倒的な迫力で現れました。
天守台に行ってあの有名な像の前で写真を撮りました。
天守台からの眺めは最高で心地良かったです。
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2025/12/01 13:58
2025/12/01 09:49
内牧城(2/2)【牛方馬方騒動-①】加藤正方 (2025/11/26 訪問)
内牧城へやって来ました。八代城を訪れた後に、加藤忠広はなぜ突然改易されたのか? という疑問が(もやもや~)と何故か私の心に残り、調べていくとその発端は、1616年に起きた加藤家の内乱【牛方馬方騒動】にある事がわかりました。そこでその騒動の首謀者である、重臣の「加藤正方」と「加藤正次」の二人の居城を訪れてみたくなりやって来ました。まずは正方の居城(内牧城)から始めます。
阿蘇駅からは内牧温泉行のバスに乗り換え15分、内牧(阿蘇体育館)で下車すると、この体育館の場所が内牧城の本丸だったそうです(写真①②)。内牧城は、戦国時代は阿蘇氏の居城でしたが、1586年に島津氏の侵攻で落城します。秀吉の九州征伐を経て加藤清正が肥後に入国すると、内牧城は重臣の加藤可重に与えられ、可重死後は子の「加藤正方」が後を継ぎます(写真⑨)。この頃に本丸・二ノ丸・三ノ丸を備えた平城に改修されたようです。二ノ丸の現在は、阿蘇中央公園(あそビバ!)になっていて、市民の憩いの場として整備されていました(写真③④⑤⑧)。南側にはわずかですが石垣が残り、矢穴のある石も見つけました(写真⑥)。
本丸の西側にある「明行寺」の門は、内牧城から移築されたものと伝わっています(写真⑦)。勝海舟や坂本龍馬、夏目漱石もここを訪れた事があるようです。
内牧城は阿蘇の地下から沸き出る内牧温泉街にありました。と言う事は🤔・・・ここの殿様は毎日温泉に入っていたのでしょうか? 何ともうらやましい限りです。そこで私も城跡を散策した後は、二ノ丸にあった立ち寄り湯で温泉入浴してきました(写真⑩)。少し硫黄の匂いがするものの、つるつるの肌触りなったので美肌効果があるかも?
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【牛方馬方騒動とは】
1611年に加藤清正が突然死去すると、まだ11才の忠広が家督を継ぎますが、まだ若く何もできないため、ここで重臣同士の権力争い(後見争い)が勃発します。その主役が、「加藤正方(馬方)」と「加藤正次(牛方)」です。二人はお互い相手を蹴落とすように家老筆頭の座を狙って争い、その争いはだんだんとエスカレートしていきました。そしてついに大坂の陣の後の1618年、正方は正次の家臣が大坂の陣の最中に、大坂城に兵糧を運び込み大坂方を支援していた、つまり謀反があった旨を幕府へ密告します。これを聞いた幕府は両者を江戸へ呼び問い正します。そして最後は徳川秀忠が直々に裁決しました。秀忠は正方の訴えを聞き入れ、正次の南関城を召し上げ家臣とともに流罪としました。しかしこれにより、藩主の加藤忠広には騒動を抑える統率力も無いことを露呈してしまい、幕府や家臣からの信頼も失ってしまいます。本来なら喧嘩両成敗でかつ藩主にも沙汰があるのが当然ですが、忠広の正室は家康の養女であったという事情もあり、お咎めが無かったようです。そして同じ時期の1619年、地震により麦島城が倒壊してしまいます。徳川秀忠は、名誉挽回の機会を与えるとばかりに、正方を内牧城主から麦島城主(家老筆頭)にし、忠広には正方とともに麦島城に代わる「八代城」の築城を命じます。両者は加藤家の財力を全て注ぎ込み、必死になって築城しました。そしてやっと八代城が完成した1632年、この後どうなったかは、私の八代城での投稿の中でお伝えした通りです。
次はもう一人の重臣で騒動に敗れた、加藤正次の居城(南関城)に向かいます。
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2025/12/01 07:09
三連休・山口県の攻城① 北水門から東水門、南水門 (2025/11/22 訪問)
時間がない場合は、北水門から駐車場に至るショートコースを利用できます。北門からも駐車場に戻れます。でも、この先の東水門は石城山神籠石の遺構の中で最も見栄えが良いと思われますので、時間があったら足を伸ばすことをお勧めします。東門に関しては城郭放浪記さんと同様に見出だすことができませんでした。日本神社に立ち寄って最後に向かったのが南水門。表示が何もなく、倒竹で荒れ果てていたのでここでよいのか自信がありません。全体を通して、三国志博物館の館長さんが逝去されたことにより、史跡への手入れがなされなくなってしまったのかなあと感じてしまいました。全行程で1時間20分の所要でした。
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2025/12/01 02:05
平城の傑作と言っても差し支えない (2025/09/12 訪問)
佇まいの美しい城ですね。
駐車場も上杉博物館前のわかりやすい位置にあります。
ランチは上杉伯爵邸で。
前田慶次の住んでいた無苦庵跡を訪ねたところ、現在そこにお住まいの方にいろいろなことを教えていただけました。
ほぼ小山一つ分が敷地だそうで、その周りの小川を天然の堀として、ちょっとした砦のようにして住んでいたらしいとのこと。
道を挟んで墓所となったお寺があります。
ここからなら騎馬で登城するのは程よい距離と思えました。(が、イベントの際には参加者の皆さんは徒歩でパレードなさるとか)
夜はミートピアさんで米沢牛をいただきました。
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2025/12/01 01:45
なるほど (2025/09/13 訪問)
この城のつくり、特に水堀を見ることで、最上義光はドラマで見るような暴君でも暗君でもなかったことがよくわかりました。
築城に長けた優れた武将です。(でなければ、あの時代、生き抜けたわけがありません)
城内の車道は入り組んでいますので、時間に余裕があるなら、徒歩で回ることをお勧めします。
夜の食事はもちろん米沢牛と蔵王ワイン。
上ノ山温泉にある茂吉記念館は長年の憧れの大先輩のご夫君の記念館ですので、絶対に外せませんでした。
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2025/11/30 20:27
15年振り再登城本丸編 (2025/10/28 訪問)
15年振りの再登城、復元百間土手石垣白長塀、復元大手門石垣を麓で堪能観察し、二の丸の復元西櫓、復元東櫓、復元長屋・苓北町歴史資料館と初対面観察、15年前と変わらない二の丸修復復元石垣、二の丸の銅像群を改めて充実観察、三河武士の代官鈴木兄弟像をまじまじと眺め、今年3月三河則定陣屋奥の鈴木兄弟像も拝見し、実体の歴史を勉強させて頂いた後でしたので、より身近に感じました。
二の丸より本丸の北櫓を眺め、外の北面は二階櫓、本丸内部では平長屋造り、本丸虎口を登り高麗門と脇平櫓、門前の平櫓を廻って富岡ビジターセンターに成ってる、北櫓、西櫓へしかし、10月27日~31日まで休館で入館できず。
本丸からの有明海、遠く雲仙普賢岳眺める、空の青、海の青、櫓、土塀の白さと合いマッチして素晴らしい景観を醸しております。
15年振りの富岡城探訪でした。
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2025/11/30 20:21
松代城訪問 (2006/11/22 訪問)
過去の城郭巡りの振り返り第30弾は、先週投稿した松本城の翌日に訪れた長野県長野市の松代城。
長野盆地の南部、藤沢川・蛭川・神田川により形成された扇状地の扇端部に築かれた城。
江戸中期までは城の北側を千曲川が接して流れ、天然の要害であったとのこと。
この地に侵攻した武田信玄がvs上杉の前線基地として1560年頃に海津城を築城。築城者は山本勘助で初代城主は高坂弾正昌信。
武田滅亡後は支配者が森長可などに度々変わり、1622年の真田信之入城以降は幕末まで真田氏10代が継承。
城名も1600年以降、待城、松城、そして1711年に松代城と改名されました。
現在は三の丸や外堀は失ったものの、平成の大普請で二の丸から内側を江戸期の姿に復元した100名城の城跡。
また城下エリアには江戸末期に建てられた藩主邸と藩校が残り、今後は鉄道の廃線に伴い馬出と三日月堀の復元を計画中。
訪問時は"城"をメインに散策。
曲線的な土塁もあれば石垣づくりの枡形虎口と天守台的な櫓台もある姿は、中世と近世がミックスされた世界観。
今回改めて写真を見ると、太鼓門は一の門と二の門がオフセットして平行に並ぶタイプだが、北不明門はL字に折れるタイプで、建物付きで2タイプの枡形が揃う城は意外と珍しいかもしれない。
更に同じく武田が信濃の拠点とした松本城とも、共通点が多々ありそうに見えてきた松代城です。
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2025/11/30 16:44
畑の中のお城。 (2025/11/23 訪問)
昨日投稿した「三ツ木城」の後「菖蒲城」へ転戦しました。
「菖蒲城」は『菖蒲城址あやめ園』がお城跡です。
前回は2019年5月にお邪魔しました。あやめの季節で、駐車場に困った事を思い出し、寄れたら寄るかーぐらいに思っていたら、駐車場はガラ空きでした。11月はシーズンオフです。あやめどころか人っ子1人いません。
あやめ観賞用の遊歩道も、雑草が元気で進めない所がありました。
一帯は水田と畑。「菖蒲城」が活躍していた時代は湿地帯で攻めづらかったのかな?
戻ってきて、服に植物のトゲトゲがある種が、たくさんくっついてました。
そーだ秋って、こーなるんだ。と、短い秋を教えてもらった「菖蒲城」攻めでした。
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2025/11/30 15:45
海城 (2025/11/29 訪問)
名護屋城からレンタカーにて約40分。唐津湾と松浦川に挟まれた満島山にそびえる天守閣に登城。エレベーターの誘惑をぐっと我慢して階段を登ると紅葉の間から天守閣がみえ、藤棚をくぐると海と川の絶景がお出迎えしてくれました。天守は名護屋城を模していると知って唐津市やるなーと思い歴史の面白さを感じました。
福岡に戻るときに築肥線の車窓から見える唐津城も映えますね
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2025/11/30 15:24
紅葉と小倉城 (2025/11/27 訪問)
西小倉駅にてキャリーバッグをコインロッカー(100円玉しか使えません)に預けて散策。約10分で到着。算木積やの石垣も圧巻ですが、紅葉と小倉城がとても美しく何度も写真を撮ってしまいました。
天守閣内はとにかく広い!さすが床面積1位のお城ですね。
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2025/11/30 15:14
広大な陣跡 (2025/11/29 訪問)
唐津からレンタカーから呼子大橋など気持ちの良い海沿いをドライブして約40分で到着。登城と言うより広大な廃虚を散策といった感じです。
建造物は何もないけど、天守台跡、多聞櫓跡などは、礎石や玉砂利などが残っているので、当時の様子に思い馳せられます。
天守台からの360°景観は絶景です。
崩れた石垣が絶妙な味を醸し出してます。
1時間しか無かったので周りきれませんでした。
でも呼子のイカは、堪能しました。
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2025/11/30 14:45
国指定史跡 (2025/11/15 訪問)
諏訪原城跡のイベント当日に午前中行きました。
掛川駅からレンタカーで行きましたが、周辺で道に迷い何度も同じ場所を一時間近くぐるぐると迷い続けたおかげで、朝食も昼食も食べる時間がなく、予定していたほかのお城も見れませんでした。
それはともかく、台風の影響なのか通行止めの標識があちこちにあり見どころであるはずの場所は見れず・・・。
また整備されているとの事前情報でしたが、少し荒れていて、草も伸びている感じを受けました。
(それでも千葉や茨城のヤブ城に比べたら断然ましですが)
銃声らしきも聞こえたので、急に怖くなりそそくさと退散しました。見たいところは見れていない印象です。
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2025/11/30 12:02
二の丸の偉人銅像群 (2025/10/28 訪問)
二の丸には銅像が二つの基壇に二体ずつ立像で設置されています。天草回天之碑基壇には初代代官鈴木重成、代官の兄鈴木正三和尚が並んで立っています。もう一つは日本の恩人基壇には頼山陽と勝海舟が並んで立っています。
15年前の初登城では鈴木代官は何処からの赴任かな?と言うくらいサラッと流していたのですが、今年3月三河で唯一残って居た山城の松平山城を初登城した後、周辺の城を探訪しようと寄った、鈴木代官の領地である椎城、則定陣屋の中腹に富岡城と同じ鈴木代官兄弟の像が有り、15年間の、もやもやが一挙に解決、自分の身を捧げて天草の領民を助けた鈴木代官であったことが分かり敬服致しました。
三河出身の方だったのですね。
今年3月に鈴木代官の領地を偶然にも訪ねたので、改めてまじまじと鈴木重成代官、鈴木正三和尚銅像を拝見しました、解説板も撮影し投稿致します。
頼山陽と勝海舟は説明のいらない超有名人ですので銅像の写真投稿のみとと致します。
頼山陽と勝海舟の基壇北面に富岡城の城歴が掲示されて居ましたので写真掲載します。
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2025/11/30 11:06
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