大堀山館からの転戦です。川越城奪還のために上杉憲政がここに陣を敷いたということで、上杉砦とも呼ばれているそうです。郭内には櫓台様の高みがあり、空堀は深く、コンパクトながらなかなか見ごたえのある砦でした。
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2026/08/22 07:56
2026/08/21 21:07
深溝城 (2026/06/14 訪問)
【深溝城】
<駐車場他>駐車場はなし。
<交通手段>車
<感想>1泊2日東海ちょこ城道中14城目。深溝城の詳細は添付写真の現地説明板をご覧下さい。車を停める場所がなかったので、石碑前に停めて撮影しました。土塁が残っているようですが無理せずにしました。
深溝松平家の墓所がある本光寺はあじさい寺として有名で楽しみに行きましたが、駐車待ちの車の大行列でとても無理なので飛ばしました。朝一に行くべきでした、ミスりました。
<満足度>◆◇◇
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2026/08/21 19:41
絶景が望める海城 (2026/08/04 訪問)
三方を海に囲まれた小高い丘に建つ唐津城。
復元天守だけど、周囲から見る姿は青空に映えてカッコいい!
石垣はよく残っており、特に天守台の(扇の勾配ではなく)一直線にそびえたつ石垣は特徴的。
天守からの景色は市街地や虹の松原、玄界灘などが一望でき絶景!
海沿いにも石垣が連なっているので、ぜひ今度は船に乗って海から見てみたい。
記念メダルもGETして大満足!
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2026/08/21 19:06
2026/08/21 18:43
幕末の城跡 (2026/08/03 訪問)
下関にある勝山御殿跡(城びと未登録)。
幕末に外国船の脅威に対抗するため、海沿いの拠点から山あい移された藩主の居所。
「御殿跡」となっているものの、わずか7ヶ月で築かれたとは思えないほど立派な石垣と曲輪が残されており、城跡と言っても差し支えない規模。
石垣は基本的に落とし積みで築かれており、角も算木積みではない。ここまで落とし積みの石垣は初めて見たので新鮮だった!
所々、鏡石のような大きな石が埋め込まれており、間詰石もなく隙間なく積まれており、見応えがある石垣だった。
国指定史跡公園としてきれいに整備されていたが、下から狭い住宅街の道を進む必要があるにも関わらず、看板も一切ないため不親切(^^;)
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2026/08/21 08:40
船江城(三重県松阪市船江町) (2026/02/15 訪問)
船江城(城びと未登録)は、築城時期等は不明ながら織田信長の伊勢侵攻に備えて北畠家臣の本田左京亮らが籠った城で、夜討ちにより織田軍に頑強に抵抗しました。その後、北畠氏の養子となった茶筅丸(織田信雄)は北畠具教の四女・千代御前(雪姫)と船江城で婚儀を挙げたと伝わります。本田氏は信雄、次いで蒲生氏郷に仕えましたが、氏郷が松ヶ島城から松坂城に移った際に、松ヶ島城とともに船江城も廃城になったようです。
船江城跡は本田氏菩提寺の浄泉寺になっていて、明瞭な遺構はありませんが、境内裏手の墓地奥の水路は堀の名残、草木が茂るあたりが土塁の痕跡と思われるんだとか。
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2026/08/21 07:13
2026/08/21 06:58
仕事終わりに (2026/07/17 訪問)
この日最後の所用を終えもう一1城、JR千里丘駅に向かいました。
学生時代に住んでいた場所で懐かしさも感じながら降り立ちます。
徒歩で10くらい、蔵垣内公園周辺が城跡推定地です。
途中の子育て支援センターの前に防風庵跡の説明板があります。
三宅城が攻められた際に城主の長女らが出家した際の庵だそうです。
三宅城ですが遺構は残っていません。
公園の隅に石碑と説明板が設置されています。
登城時は夕暮れ時だったので遊んでいた子供達が帰るところでした。
皆さんのレポートにもあるように他の場所にも碑があるようですが確認はしていません。
【見どころ】
・公園の石碑
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2026/08/20 22:26
2026/08/20 22:22
2026/08/20 22:10
三田村左衛門 姉川古戦場 (2026/08/20 訪問)
姉川古戦場巡りをしていましたので、朝倉景健の陣として使用されたと伝わる三田村城跡にも寄ってきました。2回目の投稿となります。
長浜平野を流れる姉川と草野川に挟まれた地域にあり伝正寺が主郭跡で周囲に土塁が遺っています。約4年前に来た時は4月だったので雑草もそれほどでもなく土塁などが比較的よく見えましたが、この季節は少しわかりにくいですね。他の場所にも土塁が残っているようですが、今回は行っていません。三田村氏は、元々京極氏の家臣でしたが、戦国時代には浅井氏に従うようになりました。天正元年(1573)には浅井氏に従って小谷城に籠り、その後降伏しましたが織田信長により一族を含め処刑されたと伝わっています。
近くにあった姉川の合戦の石碑等も投稿しました。
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2026/08/20 21:57
姉川古戦場散歩 (2026/08/20 訪問)
三田村城は姉川の戦いの際には浅井氏の援軍として遠征してきた朝倉景健が陣を置いたとも伝わっています。
姉川の古戦場は一部しか行ったことがなかったので、ぶらぶらと散策してきました。浅井長政、徳川家康、織田信長の陣の跡など回って来ました。それぞれの場所に設置してある姉川の戦いの説明板には番号があります。説明板が設置してある全部に行けたわけではありませんが、回れる範囲で見て来ました。説明板を投稿しています。
暑い日でしたが、雲も多く日を隠してくれました。また風が気持ちよかったです。
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2026/08/20 21:43
2026/08/20 21:15
2026/08/20 20:04
本丸御玄関前御門跡説明板を新発見 (2026/08/12 訪問)
静岡に用事が有り、用事前に30分程チョイ寄り、車は市民文化会館修復中で地下駐車場が利用できず南接のタイムズ静岡市民文化会館修景広場有料駐車場を利用。
駐車場より東御門より入り発掘出土した内濠本丸濠を過ぎると静岡おでんを売ってる公園内売店辺り通りの北側に「本丸御玄関前御門跡の屋根付き説明板」を発見、あれ今まで見ていなかったなぁ~と認知し、早速撮影熟読、最近新設されたのでしょうか?見落としていたのでしょうか?とにかく初対面でした。昨年は8月に登城して1年振りでしたが昨年にはこの説明板は記憶にない、隣にある天守台活用の公園化計画の説明板3枚は記憶に有るのですが御玄関前御門の説明板は無かった。
此処は東仕切石垣と西仕切石垣に囲まれた桝形構造に成っており、現在は静岡おでん公園内売店と児童公園と成っており、仕切石垣は東西とも一部が残って居り、内濠本丸濠は当然埋められております。私自身新発見でしたのでタイトルに記して投稿させて頂きました。
復元坤櫓を二の丸側から中濠沿いから眺め、二の丸御門跡桝形外石垣と中濠を眺め、現二の丸橋を渡って二の丸内、静岡おでん前、復元東御門、復元巽櫓を中濠沿いから、隣は新しく出来た静岡歴史博物館。
東御門を眺めると三の丸に現在の天守、静岡県警本部タワービルが聳えてる。
結構人出も有った、30分程真夏日の蝉しぐれで暑さも誘うチョイ寄りでした。
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2026/08/20 19:41
19【秀長の四国平定をたどる】一宮城(豊臣秀長VS長曾我部元親) (2026/05/08 訪問)
徳島駅前から[18]のバスに乗り40分、「一ノ宮札所前」で下車するとそこが登城口です(写真⑩)。帰りのバスは3時間後の便にターゲットをしぼって、ゆっくりと回る事にしました。続100スタンプを押し、一宮神社で安全を祈願し、さあ登城開始します!(写真①)。でも「おさるさん」もスタンプを押しに来るって書いてあるけど、本当なの??😱!(写真②)。
途中には、明神丸や才蔵丸という二つの出丸がありその間は堀切で遮断されていました。ここが本丸を守る防御の要のようです。そして登城開始から30分、健脚でない私でも意外と軽く山頂の本丸までたどり着く事ができました。そしてそこには野面積の見事な天守台と石垣があります(写真③④⑤)。この石垣は秀長の四国攻めの後に、その功で入った蜂須賀家政(正勝の子)が築いたとされています。
本丸から北を眺めると辰ヶ山が、東を眺めると遠く徳島市街や淡路島までかすかに見えました(写真⑧⑨)。天気もよくて、とても気持ちがよかったです。この後は、小倉丸や水ノ手丸や陰滝を通り、ぐるりと一周して戻りました。特に小倉丸周辺は、空堀や竪堀や土塁のパラダイスでした(写真⑥⑦)。石つぶての跡や、鎖をつたって降りる場所もスリルがあり、どの方向からも攻めるのは難しい、要塞堅固な城だと感じました。
1585年、体調を崩した秀吉に代わり、秀長は四国攻めの総大将を任されます。毛利軍は伊予に上陸、宇喜多軍は讃岐、そして秀長軍は阿波に上陸、3方向から攻めます。秀長は木津城を難なく攻め落とした後、5万の軍勢で長曾我部元親の家臣「谷忠兵衛」5千が籠城する「一宮城」を取り囲みました。長曾我部軍が最も頑強に抵抗したのがこの一宮城です。秀長軍の連日の攻撃にも屈せず、なかなか落ちる気配がありません。
そこで秀吉は、体調が回復したため自ら大坂城を出陣し、膠着状態を打開しようとしますが、秀長はそれを制止したそうです。ここまで来たからには、自分で最後まで決着をつけたかったのかもしれません。兄者は大坂に留まるようにと書状を送ったようです。
しかしこの後、戦いは予想外の方向に進みました。籠城する事1カ月、秀長の軍勢に囲まれ、兵糧や水の手も断たれ、兵力や鉄砲の数など全てに圧倒された忠兵衛は、戦う事をあきらめて戦場を抜け出し、長曾我部元親が陣を敷く白地城に行き、降伏するよう求めたそうです。元親は「おめおめと戻り、降伏せよとは何事か! 忠兵衛、腹を切れ!」と叱咤しますが、他の家臣も忠兵衛に同調したため、元親はここでやむなく降伏する道を選んだようです。
本丸からは、秀長の本陣があった辰ケ山が目の前に見えました(写真⑨)。当時あそこには豊臣の旗が無数になびき、眼下には5万の軍勢でぎっしり埋まっていたと思います。秀長軍に取り囲まれた谷忠兵衛は、この本丸でどれだけの恐怖におびえていたのでしょうか?
また逆に元親が降伏した時、秀長はどんな思いであの辰ケ山から、この一宮城を見つめていたのでしょうか? 「やったぞ!兄者~!」、総大将の役目を果たした秀長は、思わずそう叫んだのではないでしょうか・・・🤔。
次からは、秀長の(九州平定)をたどって行こうと思います。
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2026/08/20 08:16
織田一門の城の規模感 (2026/02/15 訪問)
織田信長の南伊勢侵攻に備えて北畠具教が三渡川・百々川の河口部に築いた細頸城を前身とし、北畠氏の養子となった北畠信意(織田信雄)が田丸城に代わる居城として改修しました。清須会議の結果、信雄が清須城に移ると家老の津川義冬に預けられましたが、信雄と羽柴秀吉が不和となると秀吉の流した流言を信じた信雄に謀殺された義冬に代わって滝川雄利が入り、小牧長久手の戦いでは蒲生氏郷、羽柴秀長らの包囲を受けて開城。戦後は氏郷が城主となるも、松坂城を築いて居城としたことにより廃城となりました。
松ヶ崎公園の駐車場から登城開始。城跡は宅地や田畑になっていて、明瞭な遺構としては本丸跡に天守台が遺るくらいです。天守台の前には城跡石碑と説明板、案内板が立てられ、天守台の北側には田んぼが広がっていますが、往時は本丸の北側は海に面していたとされます。そのほか甚太川は南西辺の外堀、百々川は北西から西辺の外堀の名残で、百々川沿いには船入が設けられていたようです。
天守台くらいしか見るところがないと思っていましたが(実際その通りですが)、外堀の名残の川沿いにひとめぐりすると、壮麗な金箔瓦葺きの五重天守を擁したという織田一門の城の規模感くらいは感じられました。
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2026/08/20 07:54
2026/08/19 20:57
土塁が高い (2026/08/13 訪問)
城びと先達に倣い、於大公園に駐車して徒歩でアプローチ。
近づくと、残存土塁が厚みの割にものすごく高いです。こんなのが周囲を取り巻いていたのかとびっくり。しかし、愛知の山城ベスト50を歩く、を見ると、「絵図を見ると、土塁の高さは、約4.5mとなっており、現存土塁Aと主郭Ⅰの高低差が6~7mほどあるので、主郭Ⅰは今よりも高かったのではなかろうか」と。
現地説明板によると、「三方が山地形で、東側が急な崖」と。東側は崖地形でしたが、山地形ってどんなでしょう。こんもり高台ですかね。
イオさんのカルタ必勝法に付け加えると、現場での、カード位置の記憶ですね。先日のカルタ大会で、にのまるさんにやられた、一番の差だと思います。
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2026/08/19 20:33
賀茂真淵記念館主催-加藤理文氏夏期講座受講 (2026/08/05 訪問)
毎年恒例の賀茂真淵記念館主催夏期講座が浜松市地域情報センターホールで有り今年も加藤理文氏夏2講座を受講しました。今年はNHK大河ドラマ豊臣兄弟に因んで加藤理文氏夏2講座は、7月下旬に「大坂城と聚楽第」8月上旬に「伏見城と豊臣新城」と題した講座各2時間。
大坂城は最近公開されている豊臣石垣館を始め発掘調査結果、豊臣大坂城の絵図、屏風絵、復元大坂城縄張図を基に解説、スライド説明でより実態を体感。
聚楽第も最近の発掘調査を踏まえ、聚楽第復元縄張図を基に解説、遺構趾、石碑標柱のスライドで現状を説明解説、古絵図、屏風絵による説明も有り実感想像を膨らます。
伏見城は指月の城と木幡山の城を現状地図上で位置を示し、伏見城古絵図、木幡山伏見城現状図と木幡山伏見城赤色立体図、加藤図伏見城をスライドで映しながらの解説。
慶長の大地震を挟んで4度建て替えられたと、4度目は関ケ原の後の徳川伏見城との事。伏見城は現在明治天皇御陵と成っており立入禁止、周辺を覗き伺う程度との事。
豊臣新城/京都新城は最近京都御所内裏に隣接した地で発掘調査により石垣根石が発見され新聞紙上で賑わいました、古文書、各日記などで存在を窺うことが記されていたがはっきりとした事が判っていなかったと。石垣の発見で豊臣の内裏に隣接した城の痕跡が確実に成ったとの事。今回の発掘調査もごく一部でまた仙洞御所内と言う事も有り今後の調査も難しいのでは。
築城1年程で秀吉が亡くなって居るので正式な名前が残って居ないとの事、加藤氏の言では「京都新城」と統一したとの事。
発掘調査現場の石垣写真スライドで解説も有りました。
静岡県では浜松市水窪出身の日本城郭協会常務理事加藤理文氏、静岡に静岡大学名誉教授/日本城郭協会理事長小和田哲男氏がいらっしゃり、事ある毎に加藤先生、小和田先生の講座を聴く事が出来て大変ありがたい事です。
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