次は小和田哲男先生の講演の中からです。
名護屋城の縄張りは、黒田官兵衛によって作られました。そして普請奉行には、加藤清正・小西行長・黒田長政の三人が命じられました。先生は長年にわたり官兵衛の縄張りを研究されていて、官兵衛には海(または川)側に大手門を築き、三ノ丸→二ノ丸→本丸と渦を巻くように縄張りを築くという傾向があり、それを名護屋城の縄張りにあてはめていくと、現在は搦手門とされている所が実は大手門で、現在二ノ丸とされている所は三ノ丸、現在三ノ丸とされている所が二ノ丸、現在大手門とされている所は搦手門だったのではないか? と読み解かれているそうです。
それを聞き、私も翌日に3時間かけてじっくりと、全ての縄張りを歩いて確認してみました。確かに先生のおっしゃる通りだと思いました。ただ私がもしやと思ったのは、名護屋城の中では、山里丸の門と石垣が群を抜いて一番大きいので、官兵衛が設計した当初はここを大手門にしようとしていたのではないか? と感じました。しかし秀吉が風の強い天守を嫌い、途中からここ山里丸に下りて暮らし始めたので、この時に大手門の機能は弾正丸にあった現在の搦手門とされる場所へ移されたのかもしれません。
現在の大手門とされる場所は、防御も薄いので、私も先生と同じ搦手門だったのではと推測します。この門から太閤道と呼ばれる東出丸までの大手道は、威厳を見せるための道とよく言われますが、本当は単なる荷物の搬入口だったのではないか? 単純に段差を無くして広くし、荷車や馬車で本丸へ兵糧などを運びやすくした、ただそれだけの道だったのではないかと私は感じました。
そしてこの太閤道などで、先生のお話では、左側を通行せよという交通ルールを作ったのも秀吉だとか? おそらく武士は左側に刀を差しているので、刀と刀が当たらないよう左側通行にしたのではと推測されているようです。
名護屋城を訪れる方の大部分は、博物館入口に駐車してスタンプを押し、現在の大手門から真っすぐ伸びるこの太閤道を登り、本丸へ上がって海の景色を眺めたらそれで満足し(写真⑨→⑧)、予想外の広さに時間を取られてしまった、もう時間が無いからとすぐ次の目的地へと移動される方が多いようです。ちょっともったいないです。
それは本丸へ兵糧を運び込むための裏道を通っただけです。名護屋城は、東の海側の山里口から入り、【山里丸①→舟手門②→二ノ丸③→遊撃丸④→弾正丸(搦手門)⑤→馬場⑥→三ノ丸⑦→本丸⑧→天守台】の順で、高石垣を見上げながら、攻め手の気持ちになり、左回りでぐるりと渦を巻くように歩くと、そのすごさと官兵衛の縄張りの見事さがよく解かります。そして途中で見える破却の様子も半端ないです。先生のお話を聞いて初めてその事を知り、そして実際に歩いてその事に気づく事ができました。ありがとうございます。名護屋城に来られたら、2回目はぜひ時間に余裕を持たれ、このルートを歩かれてみる事を、私はオススメします。
次は、宮武正登先生の講演の中から(はじまりの名護屋城)に続きます。
+ 続きを読む










