(中国地方と兵庫県)遠征9日目:八橋城
(2026/05/19 訪問)
槻下豪族館から車で10分くらいで、八橋駅前(35.503364、133.673757)に着き、そこから登城口(35.503821、133.673650)に向かいました。
築城年代は定かではないようですが、行松正盛によって築かれたと云われています。
1524年(大永4年)出雲の尼子経久によって攻められ(大永の五月崩れ)落城し、その後は吉田左京亮が入城しました。
ただし、現在ではこの説は否定されており、東伯耆地方への尼子氏の進出は天文年間(1532年~1555年)以降と推定されているそうです。
1565年(永録8年)備中松山城主三村家親が毛利氏の援軍を得て来襲し、籠城していた尼子部将吉田源四郎は城門を開き敵軍を突破して尼子本城の富田城に逃亡しました。
後に毛利部将杉原盛重が城主となり尾高城と共に羽衣石城の南条氏の押えとしました。
1580年(天正8年)南条元続・元清兄弟、二波にわたって八橋城を攻撃します。
1581年(天正9年)杉原盛重病死し、二男杉原景盛が在城。杉原景盛は兄元盛を謀殺しますが、1582年(天正10年)吉川氏に攻められ戦死。
豊臣氏と毛利氏との和睦成立後は、毛利氏の所有となりますが、1584年(天正12年)南条氏は八橋より赤崎原へ出陣しているので、この頃、八橋城を回復した模様。
1600年(慶長5年)中村一忠が伯耆一国を領して米子へ入部すると、叔父の中村一栄が30,000石で八橋城主となります。
1609年(慶長14年)中村一忠が嗣子なく没して改易となると、美濃国今尾より市橋長勝が21,000石で入封しますが、1616年(元和2年)に越後国三条に43,000石で転封となりました。
1617年(元和3年)池田光政が因幡・伯耆の領主となると池田長明が入りましたが、一国一城令によって廃城となりました。
1632年(寛永9年)池田光仲が入封すると家老・津田元匡が入り陣屋を構え、以後津田氏が続いて明治に至ります。
八橋城は山陰本線八橋駅の北にある丘陵に築かれていました。
西が本丸、東が二の丸とされ周囲には堀が巡っていたようですが、遺構らしきものは確認できませんでした。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=赤崎台場(城びと未登録 鳥取県琴浦町)に向かいました。
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