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シャンシャン

広島城HIKARI絵巻 (2026/04/18 訪問)

広島城の天守が老朽化のため、残念ながら先月で閉城。
その閉城イベントとして特別なライトラップが行われていた。
広島で用事があって、たまたまこのイベントのことを知って、寄ることができたのでラッキーだった!
広島城はライトアップがよく映える城だと思う。

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石垣散策 (2026/04/18 訪問)

 この城の見どころのひとつは多くの石垣が遺されていることです。自分が興味を持っているのは水の手曲輪にある石垣で、約5mの石垣で谷部を塞ぎ内側に水源を確保するように作られています。
他にも所々に石垣が残っていて楽しく散策できました。

 車で行かれる方は登城口近くに駐車場があり、登城口から10分かからないで城域に入ることができます。公共機関を使用すると豊田市駅前から「とよたおいでんバス」に乗り大内バス停下車。徒歩20分くらいで登城口に行くことができます。登城路は整備されていて歩きやすかった。ただ暖かくなってきた時期で、蜂が飛び回っていました。

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松平乗元 (2026/04/18 訪問)

 久しぶりの大給城です。
この地を治めていた長坂新左衛門が最初に築城したと伝わります。しかし松平氏が松平郷から勢力をのばし3代松平信光がこの地を治めるようになります。
信光の孫である乗元が、この城を支配することを許され大給松平家の祖となりました。曲輪、石垣、土塁、堀切などがよく遺っています。松平氏初期の縄張りはわかっていません。現在みられる遺構の多くは天正期における武田氏の三河侵攻、小牧長久手の戦いなどにともなって改修されたものと推定されています。
愛知県内ではトップクラスの見応えのある山城です。
堀切は松平乗元墓所から主郭へ向かう途中、水の手曲輪の北西、主郭の西側と3ヶ所にあり、どれも見ごたえがありました。ぴーかるさんが投稿されているように西側の堀切が一番大きいと思います。他の縄張り図にはないのですが、城郭放浪記さんの縄張り図に館跡の東側に「畝状竪堀群」の記載があります。行ってみるとそれらしい地形がありました。
 以前来たのが約10年前。新鮮な気持ちで散策しました。

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にのまる

石和陣屋跡

八田家御朱印屋敷の立派な門は石和陣屋から移築されたとのこと。
陣屋(代官所)跡は南へ1kmほどと近そうだったので行ってみました。
着いたところは笛吹市立石和南小学校。
校門の前に『史跡 石和陣屋跡』の碑と説明板がありました。
近くには武田氏2代当主信光所縁の石和八幡宮もあり、はからずも歴史を学べる楽しいお散歩となりました。
3枚目の写真は韮崎市役所前にある初代当主武田信義像です。


✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎
怖かった井川城の橋!
しりとりの神足城!
思い出いっぱい。
お城めぐり、楽しいです😃

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坤櫓復元プロジェクト (2026/04/16 訪問)

 近くへ来たので寄ってきました。
令和5年度から福井城坤櫓および本丸西側土塀の復元工事に向けた調査や設計を進め、現在、埋蔵文化財調査、石垣の補強工事等が行われています。一部の堀の水も抜かれて少し寂しい感じもします。坤櫓などは令和11年度完成予定となっていました。

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長谷川秀一 (2026/04/16 訪問)

 一乗谷城の支城で下城戸方面から侵入する敵に対する備えとしてだけでなく、越前の経済的拠点である東郷の地を治める城でした。現在みられる遺構は、朝倉氏滅亡後に東郷槇山城主となった長谷川秀一以降の時代のものとのことです。
車で登城されている方が多いと思いますが、徒歩で登城しました。林道となっていて歩いても15分くらいで駐車場となっている二の丸まで行くことができます。公園化や林道の敷設により改変されていますが、堀切、土塁、石垣等見ることができます。
 大手口である三社神社方面へ林道から下りる道が整備されていました。前日降った雨で一部道が泥濘んでいましたが、許容範囲内です。北にある連続郭群へも行って来ました。三社神社方面の道から分かれて連続郭群へ行きますが、道は踏み跡程度です。ただすぐに曲輪に到達します。あさんが投稿されているように整備はされていませんが、疎林で曲輪の散策に難渋することはありません。その後、三社神社方面へ下山していました。

 福井駅からバスに乗り東郷大橋バス停下車。徒歩約5分で登城口に行くことができます。

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朝田 辰兵衛

上洛前の体力確認で… (2026/03/07 訪問)

栃木で体力に不安が残ったので,上洛前に自身のポテンシャル確認のためにやってきました。越後県境付近でちょうどいい城を残しておいて正解でした。
宮崎城は三の丸石塁や二の丸石垣などを比較的手ごろに散策できます。雪解け途中だったので,(三の丸よりさらに奥の)中の丸は残雪で踏み込めませんでした。
晴れていたのですが,北風が強く,気温が5℃くらいだったので,誰とも遭遇しませんでした。

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チェブ

城びと未登録のお城攻め「浅羽城」。 (2026/01/17 訪問)

埼玉県 坂戸市 鶴舞町に「浅羽城」はありました。
タイヤ公園近くに「浅羽城」の案内板があり、城跡公園が「浅羽城」跡。
城跡と言われなければ、普通の公園に見えます。
案内板には、遺構は消滅しているが、福井県 小浜市の酒井家文庫、広島市の浅野文庫に残る絵図から「浅羽城」が推測できる、とあります。
そして、説明板の最後には秀吉さんの北条討伐で落城したと伝わるが事実か分からない、とのこと。

北条討伐の際、「浅羽城」手強かったのかな?文庫に残す位だし。
この辺り、たくさんの北条方のお城は、浅野 長政さんにやっつけられます。

ちなみに、「浅羽城」のある坂戸市のお隣は、鳩山町。反対は鶴ヶ島市。そして、ここは鶴舞。鳥の地名です。戦の時、鶴も鳩も食べたのかな?
鶴は上流階級の方々が食してましたし、鳩は縁起物だから勝利したら食べたかもしれませんね。
(あくまで地名で、実際、鳩や鶴がいたかは分かりません。)

*todo94さん、尼子十砦コンプリートおめでとうございます。私ではたどり着く事の出来ない遺構を、見せていただきありがとうございます。
それから、前々から献血のお話、尊敬していました。私は過去4回、献血をしましたが、うち3回、成分が薄く献血できませんでした。
これからも、お城と献血のお話、楽しみにしてます。

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カズサン

見所大堀と本丸 (2026/04/12 訪問)

 馬出から二の丸へ萌黄若葉が輝いてるの続です。

 二の丸と本丸の間は圧巻大堀の存在感が大です、もう少し経つとツツジが咲き両岸の法面全体がツツジで満艦飾素晴らしいビューポイントに成ります、少し早すぎました、両曲輪間には鯉のぼりが上がって居ましたが、前年からの鯉のぼりか?劣化しつつあります。
 本丸虎口から入り、桜は無理でしたから、もしかして藤棚の藤でも咲いていないかと探し、やっと白藤のつぼみが白く成りかけを見つける、もう少し先です。スオウサクラも咲いており、天竜川の流れの音が結構響いてきます。
 桜の期待は余りありませんでしたが、所々に咲いており夫々楽しませてくれました、萌黄若葉が最大のご馳走でした。
 二重三日月堀、大堀、空堀、土塁、曲輪と土の城の全てを体験させてくれる大島城でした。次は何時これるやら?
  

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カズサン

馬出から二の丸へ萌黄若葉が輝いてる (2026/04/12 訪問)

 大島城丸馬出二重三日月堀の続です。

 台城公園は大島城跡、入口登城口北側に馬出の跡土塁と案内板、縄張図を見ると三の丸から北面の防御としての馬出跡、木橋で三の丸と繋がっていた模様、桜は多く無く新緑若葉の萌黄の頃で若葉が陽に輝いて眩しいくらい、遊歩道は三の丸の北土塁を通り、北は二の丸迄の深くて広い空堀、草木が刈られてよく手入れされている、黄色い山吹が咲きほろり桜に無い季節感を出している。三の丸東馬出横を過ぎると二の丸虎口へ、西側に土塁と櫓台跡が残って居る、北西にすらっとした桜が空高く咲いている、二の丸南曲輪部東端に桜が一本、唯一満開の染井吉野かな?
 大空堀を挟んで本丸へ。

 続きます。

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トク

【大友宗麟】(12)宗麟最後の戦い(宗麟が築いた海の要塞:臼杵城) (2025/12/19 訪問)

大友宗麟、耳川・無鹿からの続き(12)です。

臼杵城は、万が一豊後の国で戦が起きた場合、大友館は平地にあるため戦えず、また門司城で敗れた小早川水軍に対抗し、さらに豊後水道を通る南蛮貿易船を守るために、宗麟が密かに軍事・貿易目的で築いた城でした。

臼杵駅から5分程歩くと、城の東側の卯寅口に着きます(写真①)。宗麟の時代は四方を海に囲まれていたため、丹生島と呼ばれていました。そしてこの卯寅口のみが唯一船で上陸できる場所で、ポルトガルから輸入したフランキ砲(国崩し)も備えた要塞の島でした。その反面、南蛮貿易の拠点も府内の神宮寺浦からここ臼杵に移したため、城下では教会やセミナリオや病院も建てられて南蛮人も多く行き交う、まさに宗麟が理想とする南蛮文化で栄えた街だったようです。

島津との雌雄を決した高城川・耳川の戦いに敗れ、その直後に重臣筆頭の立花道雪が龍造寺と対峙していた筑後高良山で病死し、同じく外交に長けた重臣の臼杵鑑速も病死、さらに忠義に厚かった高橋紹運も岩屋城で壮烈な討死をすると、家臣たちの離反が相次ぐようになります。もはや自力で大友家を立て直す事ができなくなった宗麟は、大坂に行き豊臣秀吉に助けを乞いました。

秀吉との謁見に先立ち、大坂城では秀長が丁重に接待してくれたそうです。そして秀長は宗麟を千利休の茶室に招き、そこで宗麟の手を握り、

 内々の事は千利休に
 表向きの事はこの秀長に
 何でも相談されるがよい

と言葉をかけたそうです。恥を忍んで秀吉に助けを求めに来た宗麟にとって、この温かい言葉には、どんなに救われた事でしょうか。秀長は豊臣政権の中で本当に欠かせない存在だったようですね。このシーンは大河ドラマ豊臣兄弟の中でも、必ず取り上げられるのではないでしょうか? 私は密かに期待しています😊。

そしてその間、宗麟の子の大友義統は北上する島津家久と対峙しますが、秀吉の命で四国から仙石秀久と長曾我部元親が援軍に来たにもかかわらず戸次川の戦いに敗れ、大友館は焼かれてしまいます。義統は高崎山城に逃げ込み敗走したようです。一方の宗麟は、大坂より戻るとこの臼杵城に立て籠もり、秀長の援軍が南下するまでフランキ砲で応戦し、また果敢に夜襲を仕掛けて島津軍をかく乱! 何と秀長15万の援軍が到着するまで、この臼杵城を守り抜いたのでした~!

しかし宗麟も、もはやここまででした。次は宗麟終焉の地(大友別館)に続きます。
 

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todo94

年度末山陰の攻城・鳥取編①の2 2年続けて久松山へ (2026/03/30 訪問)

山上ノ丸の本丸の下にテラスのように張り出した郭は、見学制限エリアになっていますが、樹木がきれいに取り払われていてとても見栄えが良くなっています。樹木の葉が茂っていないこの時期の土の城、石垣の城は、郭などの遺構をきれいに望むことができ、下草の萌え出始めた淡い緑も美しく、一年の中で一番好きな季節です。天守台に登って鳥取砂丘を拝むのはもはや定番。太閤ヶ平方面へは東坂の上城門まで進んで引き返すことにしました。

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ぴーかる

辛川城 (2026/01/31 訪問)

【辛川城】
<駐車場他>ごみステーションの空きスペース<34.687793,133.859603>に駐車しました。
<交通手段>車

<見所>堀切
<感想>辛川城の築城年代・築城主とも定かではなく、城びと情報によると主な城主に虫明市内、戸川達安がいます。
駐車ポイントからアスファルト道を登って行き、袋小路から山を登っていきます。やがて南の堀切に出ます。城郭は単郭の小さい城跡で、東西南北の四方向(城郭放浪記さんの縄張り図には3方向でしたが西方向の尾根にも堀切あります)に堀切があります。主郭はだいぶ山に埋もれていて郭の削平地は無くなっていました。堀切以外はちょっと分かりにくい状態でした。

<満足度>◆◆◇

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シェル

小国御役屋(山形県小国町) マタギの町の城 (2026/04/06 訪問)

 米沢から米坂線の代行バスで小国駅へ移動!!小国駅までの道中はアトラクションレベルの渓谷と山道でした。
 小国駅から小国御役屋跡まで徒歩10分弱。
 小国御役屋は、羽越の国境の要衝にある米沢藩の支城で、一国一城令以降も「御役屋」と呼称することで存続していた城郭になります。
 城は明沢川の断崖に築かれています。4月上旬の訪問でしたが、明沢川は雪解け水が大量に流れて、迫力が凄かったです。関東在住な者で、雪解け水は初めて見ましたが、ものすごい水の勢いなのだと実感しました。
 そして肝心の遺構ですが、土塁と空堀跡が残されています。土塁は規模が大きく、なかなか見ごたえがありました。土塁の手前には、かつては堀があったようですが、現在は埋められ、雪が積もっていました。
 
 ここからはおまけですが、小国駅舎内の待合室には、“クマ駅長”のおぐたんがいらっしゃいます。ネコ駅長とかは聞いたことがありますが、小国の駅長は、まさかの“クマ”!? (剥製なので安全です)
 衝撃的でしたが、小国町は古くからマタギ文化が残る町で、毎年、「熊祭り」も行われるようです。昨今、熊の出没がよくニュースになりますが、町おこしにクマが活躍している町もあるのかと感心しました。ちなみに「熊祭り」は、毎年ゴールデンウィークに開催するみたいです。興味がある方はぜひ行ってみてください。

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シェル

近世の上杉氏の居城 (2026/04/06 訪問)

 山形県初上陸~!!ということで、最初に向かったの米沢城です。福島駅から普通列車で向かいました。(普通列車は本数に注意です)
 米沢駅からは徒歩25分ほどで本丸跡(上杉神社)に到着します。
 直接、本丸を目指したいですが、まずは三の丸の遺構を見学するため、市街地の北側の方へ。

① 米沢城三の丸
 三の丸は市街地となっていますが、遺構が一部残存しています。
 まず、西條天満公園。
 ここが最も三の丸の遺構が色濃く残る場所で、水堀と三の丸の土塁がきれいに残り、説明板も設置されています。公園として整備され、駐車場とトイレも設置されているので、見学しやすいのでおすすめです!!
 次に粡町公園。ここにも土塁が残り、説明板と石碑が設置されています。
そして粡町公園の近くには、長命寺というお寺があります。
このお寺の本堂は、米沢城の本丸の南東にあった上杉謙信祠堂を移築したもので、現存する唯一の米沢城の建築物とのことです。

② 本丸・二の丸
 三の丸の見学を終え、二の丸へ
 二の丸は、上杉鷹山を祀る松岬神社、上杉博物館、上杉伯爵邸になっています。水堀の一部は上杉伯爵邸の南側にわずかに残されています。
 そしていよいよ本丸へ
 本丸は上杉謙信を祀る上杉神社となっていますが、土塁、櫓台、水堀は良好な形で残存しています。舞鶴橋を渡ると、参道北側に上杉謙信像、そして上杉景勝・直江兼続像が鎮座しています。これは上杉が好きな方は堪らないでしょうね~!!
 そして上杉家の銅像と参道を挟んだ反対側の上杉謙信祠堂跡の土壇のそばには、伊達政宗公生誕の地の碑があります!!
正確には、政宗は舘山城で生まれた説が有力になっているみたいですが、この上杉と伊達が向かい合って設置されているのには、胸が熱くなります!!
上杉神社参拝後、景勝・兼続像の裏にある観光案内所で続日本100名城のスタンプを押印。御城印もここで販売されています。
 そして本丸の南側の菱門跡は、菱門橋の土台の石積みが崩落の危険性があるということで立ち入り禁止になっていました。ガードフェンスには、上杉家の家紋が描かれていて、すごく格好良かったです。(ガードフェンスで感動したのは、人生初かも・・・)
 時間があれば、上杉博物館も寄りたかったのですが、今回はスケジュールの兼ね合いでスルー。次に来る際は、博物館は絶対見学したいと思います!!

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カズサン

見所丸馬出二重三日月堀に桜満開 (2026/04/12 訪問)

 桜を訪ねて南信州伊那谷へ飯田城樹齢400年超のエドヒガン桜は葉桜で残念でしたが、伊那谷全体は花盛り、昨年10月に松川町の未踏城廻り(城びと未登録)をしましたが、近くの大島城には寄って居ませんでしたので気に成り、飯田城より北に約10km大島城へ桜も期待しながら登城しました。
 残念ながら大島城は桜に覆われてると言う状態では有りませんが、見所の一つである、西入口側に在る丸馬出二重三日月堀は見事な造り、丁度時期は良し二重三日月堀の中間土塁上に満開の桜が咲いて見所に更に華を添えていました、暫し桜と新緑に覆われてる二重三日月堀を鑑賞、素晴らしい眺めでした、更に西に振り向けば中央アルプス山稜に雪を被る残雪景観が青空にスッキリとうかんでいる、絵に成る景観で南信州に赴いた意義があります。
 台城公園(大島城跡)の登城口に、案内解説板群、その中に亡くなられた香川元太郎氏の大島城想像復元図イラストが掲載されて居ましたので写真投稿、縄張図も有り、トイレと広い駐車場、県外県内から6台程登城されていました。
 家内は初めての登城でしたので無理なく遊歩道での鑑賞としました。
 (続きます)

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todo94

年度末山陰の攻城・鳥取編①の1 2年続けて鳥取城へ~城カード (2026/03/30 訪問)

朝田辰兵衛さん、ぴーかるさん、御祝辞、ありがとうございます。今回の尼子十砦制覇はぴーかるさんのチャレンジに触発されてのものでした。改めて御礼申し上げます。ありがとうございました。尼子十砦は公共交通機関によるアプローチが困難である以上に登城路が整備されていない城が多いので、朝田さん、くれぐれも無理はされませんように。整備されていて駅近という点では十神山城はお薦めできます。

尼子十砦のコンプリートを達成して、一段落。昼食は米子駅にて吾左衛門弁当を購入しました。お土産に米吾の鯖鮓も購入しました。山陰道で事故渋滞巻き込まれたので、道の駅に立ち寄って弁当を食べました。その後は、順調に鳥取市に入ることができ、15時前には吉川経家像近くの県庁駐車場に駐車することができました。1年足らずで鳥取城を再訪したのは、城カードを購入するためです。仁風閣は工事中ですが、仁風閣展示館にて城カード購入と100名城スタンプ捺印はできます。石垣修理や擬宝珠橋、中ノ御門など数々のリーフレットをいただけるので立ち寄ることをお薦めします。仁風閣展示館から二の丸、そして天球丸へ。そして2年続けて山上ノ丸にも足を伸ばします。

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赤い城

一夜城 (2026/03/22 訪問)

今回の遠征ラストは墨俣城です。
長良川西岸に位置し、交通の要所でした。
豊臣兄弟での描き方は印象的でしたね。

立派な模擬天守が建ちますが遺構はありません。
川筋も変更されているので地形も含めて旧状はとどめていないと思われます。
城跡は公園になっていて模擬天守の裏手には豊国神社がありました。

せっかくなので模擬天守に登ってみました。
展望台からの眺望はよく、岐阜城(稲葉山城)も見えます。
ドラマでは「すぐ近く」と言ってますが結構な距離があると思いました。
当時とは時間の感覚が違うのでしょう。

犀川には800本の桜並木が続いています。
訪問時は咲き始め、見頃にはもう少しでした。
1週後のとある煩悩の登城目録さんが登城された頃が見頃だったようですね🌸

【見どころ】
 ・模擬天守からの眺望

※todo94さん、尼子十砦コンプおめでとうございます。
地元なのにひとつも行けてないのが痛恨です。
登城の際にレポート参考にしますね🤩

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小城小次郎

くりくりの堀切 (2025/05/24 訪問)

大井田氏は新田氏か里見氏の一門で源氏の血統という。山の斜面に段々に曲輪を設けた後で虎口や畝状竪堀やらのパーツを後付けしてバージョンアップして使い続けたような雰囲気が漂う。主郭背後の堀切がくりくりでかわいい。

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トク

【大友宗麟】(11)耳川の戦いと無鹿(大友宗麟本陣跡) (2026/01/25 訪問)

大友宗麟、高城からの続き(11)です。

大友軍が大敗を喫した「耳川」と、宗麟の本陣「無鹿」を訪れました。

高城川で敗れた大友軍は豊後へ逃げ帰ろうと北へ敗走します。しかし翌日、耳川まで来た所で、川は前日の雨で増水し渡る事ができません。そこで追いついた島津軍に挟まれ大損害を出してしまいます。これが決定的な敗北の要因となりました。この耳川で討ち取られた首の数は5千とも1万とも言われています。(高城川と合わせると大友軍の戦死者は1万5千とも)。

私はJR美々津駅(写真⑥)で降り、30分かけ耳川まで歩いてみました(写真①②③)。またJRの車窓からも耳川の中州に合戦場の地碑が見えました(写真④⑤)。この日は前日から晴天だったので、川の水は穏やかでした。しかし当時は雨上がりで水かさがあって渡れず、ある者は討たれ、ある者は溺死し、この川は血で真っ赤に染まり、水面が見えない程のおびただしい数の死体で埋め尽くされていたものと思われます。想像しただけで足が震えました😱。

さらに耳川から北へ30km、宗麟がキリストの理想郷の建設に没頭していた場所を訪れてみました。JR延岡駅から北へバスで20分「無鹿」のバス停(写真⑦)で降りました。この一帯がそうだったようです(写真⑧)。ここは北川の河口で、当時は良好な港で商業も栄えた場所でした。無鹿はポルトガル語のMUSICA(英語のMUSIC)からとったようで、南蛮の管弦楽器の音色に魅せられた宗麟は、この名を理想郷のシンボルにしたかったのでしょう。本陣跡は、現在は妻耶神社になっていました(写真⑨⑩)。当時この付近にあった神社仏閣は全て破壊され、その資材で教会を建てたそうです。しかし今はその教会は無く、宗麟の本陣跡が神社になっていたのには、何故か皮肉に感じられました。

そして耳川の敗北の翌日(高城川の敗北から2日後)、宗麟は初めてここで、大友軍が大惨敗を喫し、島津軍がもうそこまで迫っているという現実を知ります。とても驚き、取るものもとりあえず着のみ着のままで船に乗り、臼杵城へ急いで逃げ帰ったそうです。宗麟はこの時、どんな思いで敗走して行ったのでしょうか? 数の上では有利であったはずの大友軍がなぜ敗れてしまったのか? 牽制するだけで戦はするなと命じていたはずなのに、家臣らはなぜ勝手に暴走し戦をしたのか? 宗麟は信じられない気持ちでいっぱいだったのではないでしょうか?

次は、大友宗麟最後の戦い(臼杵城の戦い)に続きます。
 

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