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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征29日目:天神山城周辺(太鼓丸城(城びと未登録 岡山県和気町)) (2026/06/08 訪問)

今日の天気は曇のち15:00頃から雨の予報です。和気美しい森キャンプ場の駐車場に着いた時は本降り状態でした。
北曽根城から車で20分ちょっとで、和気美しい森キャンプ場の駐車場(34.843912、134.136591)に着きました。

室町時代以前に日笠青山城の出城として日笠氏が築城したと伝えられています。
その後、浦上宗景が、兄の正宗と袂を分かち、太鼓丸城に入り独立します。
1532年(享禄5年)浦上宗景が天神山城の築城に掛かり完成すると、この太鼓丸城は、天神山城の出城または物見台として機能しました。
宗景は、享禄5年(1532)より天神山城の築城に掛かり完成すると、この太鼓丸城は、天神山城の出城または物見台として機能しました。
1575年(天正3年)の「天神山城の戦い」で配下の宇喜多直家に天神山城を攻められ落城すると、天神山城ならびに太鼓丸城も廃城となりました。

和気美しい森キャンプ場の駐車場に着いた時は本降り状態でしたので、しばらく様子を見て小降りになったので登城開始です。
城域に入る箇所に害獣避けのフェンスがあり、自ら開ける必要があります。
すぐに根小屋の土塁が現れ、防獣柵を開けて、堀切を経て本丸です。城域は、綺麗に整備されており、とても見学し易いです。
主郭部にはけっこうしっかりした石垣がありました。和気美しい森より、太鼓丸城まで20分くらいです。
攻城時間は30分くらいでした。次の攻城先=天神山城に徒歩で向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征29日目:北曽根城 (2026/06/08 訪問)

今日の天気は曇のち15:00頃から雨の予報ですが、和気駅南駐車場についた12時前には小雨が降っていました。
富田松山城から車で25分くらいで、和気駅南駐車場(34.796376、134.152398)に着きました。
そこから、最上稲荷鳥居入口(34.799241、134.148300)に向かいました。

この城には最初、恒次(経次)氏が居城していたようです。恒次氏は和気郡新田庄内に地盤をもつ土豪で、1511年(永正8年)頃、恒次新左衛門尉家員なる者が和気にいたようです。
1553年頃(天文後期)天神山城に浦上宗景が蜂起し兄政宗に叛旗をひるがえすと、政宗は恒次新左衛門と森氏を恩賞をもって誘い、味方して天神山城の通路をふさぐよう命じています。
恒次氏らの不穏な動きを知った宗景は、先手を打って彼らを攻撃し、未然に滅ぼしたそうです。
恒次氏を押えて和気地方を制した宗景は、北曽根城に宿老明石行雄(景親)の弟(長男とも)である明石三郎左衛門景行を入城させます。
1568年(永禄11年)景行は城の東にある由加神社に征矢を寄進しています。主君宗景は播磨出兵に着手しており、戦勝を祈願して奉納したのかもしれません。
1574年(天正2年)宇喜多直家が浦上氏から離反し毛利輝元を頼んで謀叛すると、景行は行雄とともに宇喜多氏方についています。
景行は直家に仕え活躍したものの、1577年(天正5年)「上月城の戦い」で羽柴秀吉に敗れ、討死しました。
その後、一族の明石右近が城主となりましたが、豊臣秀吉の朝鮮出兵に従軍し1593年(文録2年)戦死したため廃城となりました。

和気富士の頂上にあり、和気駅からだと徒歩30分ほど、攻城口からだと20分くらいで着きます。
攻城口から、ずっと階段を登って行く感じです。和気富士と言われるだけあって、美しい形の山で、登っていく途中の景色も良かったです。
現在城址には石垣や土塁などの遺構が良好に保存されていました。
攻城時間は60分くらいでした。次の攻城先=太鼓丸城(城びと未登録 岡山県和気町)に向かいました。

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ぴーかる

長者屋敷 (2026/06/13 訪問)

【長者屋敷】
<駐車場他>入り口に駐車スペースあり。
<交通手段>車

<見所>土塁
<感想>1泊2日東海ちょこ城道中5城目。現地説明板によると長者屋敷は奈良時代のはじめころの役所跡であることが有力になったそうです。東西100m、南北60mの四方堀と土塁囲みの曲輪になっていて、堀の外側に曲輪より高い土塁になっているのが特徴です。また正面の南側は堀と土塁が2重構造となっています。行きませんでしたが、周辺に古墳跡の遺構もあるようです。奈良時代には100m程の四方土塁囲みの城があった事が非常に興味深くて、珍しいので満足度高めに。

<満足度>◆◆◇

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todo94

再度の飛島渡航失敗による代替攻城③の1 致道博物館 (2026/07/18 訪問)

出羽三山神社からの転戦です。まだ城カードは発売されていませんし、2度目のスタンプラリーのスタンプはすでに捺印済みですので、純粋に城を楽しむことが目的です。三連休ということで致道博物館の駐車場はさすがに満車でした。鶴岡公園西駐車場に車を停めて致道博物館へと向かいます。国宝展示もあるという武装美伝~刀剣と甲冑~は、国宝の刀剣が目玉のようでした。個人的には、現在、安部龍太郎の「家康」を読み進めているところですので、徳川四天王の酒井忠次拝領の国宝の太刀に加え、酒井忠次所用の甲冑、陣羽織なども拝むことができたのはとてもラッキーでした。それぞれの建物内の展示や庭園など、十分に致道博物館を味わい尽くして、庄内神社へと向かいます。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征29日目:富田松山城 (2026/06/08 訪問)

今日の天気は曇のち15:00頃から雨の予報です。品川グランド前案内板付近空スペースについたのは10時過ぎですが、雲行きが怪しくなってきました。
富田茶臼山城から車で10分くらいで、品川グランド前案内板付近空スペース(34.742550、134.198883)に着きました。
そこから、焼き物の窯元の脇にある登城口(34.742433、134.198435)はすぐです。

詳しい築城年代は不明ですが、富田茶臼山城と同じく応仁から文明年間(1467~1486)三石城主・浦上村宗が備中の松田氏に備えて築いた支城だといわれています。
1531年(享禄4年)浦上村宗が大坂の合戦で討死すると播磨国室津城を長男政宗が継ぎますが、弟宗景と国秀が政宗と不和となり、宗景は天神山城を築き、国秀は富田松山城を改築して居城としました。
1532年(享禄5年)政宗は軍を起こし三石城を攻略した後、富田松山城に来襲し国秀は降伏しました。
政宗は松山城を拠点として片上に兵を出してきた宗景と退治したが決着はつかず、双方が軍を引き上げ終戦となります。
政宗は三石城と富田松山城に城番を置きますが、政宗の勢力が衰退すると宗景の勢力の及ぶところとなり、浦上景行が城主となりました。
1577年(天正5年)宇喜多直家の台頭によって天神山城が攻略され浦上宗景は播磨へ逃走すると、富田松山城も宇喜多氏の手に落ちました。

焼き物の窯元の脇にある登城口から東出丸、大手曲輪、井戸を経由して主郭に到達しました。
登山道は良く整備されており、歩きやすいです。眺望は東出丸や本丸などでに楽しめますが、登城した日の天気はどんよりした曇空で、ちょっと残念でした。
遺構として、堀切、土塁、虎口、井戸などが確認できます。堀切は特にオススメです。
15:00頃から雨の予報でしたが、11時過ぎ頃から雨が降りはじめました。
攻城時間は70分くらいでした。次の攻城先=北曽根城に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征29日目:富田茶臼山城 (2026/06/08 訪問)

今日の天気は曇のち15:00頃から雨の予報です。
福岡城から車で20分くらいで、茶臼山公園駐車場(34.741832、134.179006)に着きました。

詳しい築城年代は不明ですが、富田松山城と同じく応仁から文明年間(1467~1486)の築城だといわれています。
富田松山城の出城として築かれたと伝わり、応仁年間の城主は、生田玄利と言われています。

現在、茶臼山公園となっていて、遺構はありません。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=富田松山城に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征29日目:福岡城 (2026/06/08 訪問)

今日の天気は曇のち15:00頃から雨の予報です。
砥石城から車で20分くらいで、福岡駐車場(34.703892、134.090067)に着き、妙興寺に向かい宇喜多興家と黒田高政の墓を確認しました。

築城年代は定かではないようですが、鎌倉時代末期に頓宮四郎左衛門が築城したとされます。
1336年(建武3年)足利尊氏が九州へ退いて兵を募り再び京へ攻め上った際に、南朝系の頓宮四郎は足利氏によってこの地を追われました。その後は、足利方の佐々木氏、続いて赤松氏の所領となりました。
1350年(観応元年・正平5年)足利直冬が少弐氏と結んで一色氏を駆逐し勢力を拡大すると、足利尊氏自ら直冬討伐の兵を率いて西進し、福岡城にて四十日余りを過ごしています。
1441年(嘉吉元年)嘉吉の乱により赤松氏が没落すると山名教之が備前守護となり、守護代として小鴨大和守が福岡城に入ります。
応仁の乱で再興した赤松政則が文明元年(1469年)福岡城を奪還しました。
1483年(文明15年)赤松氏の被官で金川城主の松田元成がかねてより横領していたことから、赤松正則は浦上則国に元成の討伐を命じました。
松田元成は秘かに通じていた山名氏に援軍を要請し、浦上則国が籠もる福岡城を攻め五十日余りの籠城の末、攻め落としました(福岡合戦)。
勢いにのる松田元成は浦上氏の居城三石城をも攻略せんと攻め寄せたが敗れ、自刃して果てました。
その後も浦上氏が守っていましたが、大永年間(1521年〜1528年)の大洪水により廃城となりました。

妙興寺に宇喜多興家公、黒田高政公の墓があります。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=富田茶臼山城に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征29日目:砥石城 (2026/06/08 訪問)

今日の天気は曇のち15:00頃から雨の予報です。
乙子城から車でキャンプ場の駐車場(34.642425、134.084032)に行く予定でしたが、経路を間違え4輪走行不能のルートに進んでしまいました。
素直にキャンプ場の案内標識に従っていればよかったものを大雄山方面に向かってしまいました。
慌てて引き返し、時間を無駄にしたので、キャンプ場へは向かわず、宇喜多直家生誕之地碑東側登口付近(34.645645、134.085618)の空スペースに路駐しました。

砥石城は浦上氏の家臣で、宇喜多直家の祖父である宇喜多能家によって築かれた城です。1534年(天文3年)に島村豊後守の夜討ちによって落城し、能家は自刃しました。
宇喜多氏の本領を横領した島村氏ですが、砥石城は浦上氏によって浮田大和守(能家の弟)に与えられました。
1559年(永禄2年)浦上宗景の下で再興を果たした直家は、主君浦上宗景の命により祖父の敵の高取山城主島村豊後守を討ち取り舎弟の浮田春家を砥石城主としました。
なお、直家はこの城で生まれたといわれており、登城口には「宇喜多直家生誕之地」と刻銘された石碑が建立されています。
直家が石山城を奪い岡山城を築城すると春家は後に沼城へと移り備前平定後は廃城となりました。

砥石山山頂まで登山道が整備され、登山口からひたすら登ると10分で本丸に達します。
登山口そばに「宇喜多直家生誕の地」の石碑があります。
本丸部分は展望も良く整備されて説明板があります。
本丸の東側に石垣跡もありますが、これは江戸時代末期天保年間に本丸付近に存在した金比羅宮の石垣跡のようです
攻城時間は30分くらいでした。次の攻城先=福岡城に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征29日目:乙子城 (2026/06/08 訪問)

今日の天気は曇のち15:00頃から雨の予報です。
岡山駅でレンタカーを借り、そこから車で40分(通勤時間帯で時間がかかった)くらいで、神社(大国主神)鳥居前(34.630742、134.038500)に着き路駐しました。
近くに、宇喜多直家国とりはじまりの地碑(34.631032、134.038481)がありました。

1544年(天文13年)宇喜多直家により築城されました。 当時浦上宗景に仕えていた宇喜多直家は弱冠16歳で宇喜多家を再興し、この城を築きました。
1549年(天文18年)宇喜多直家は砥石城を攻略した恩賞として奈良部に所領と新庄山城を賜って居城を移し、乙子城には弟の宇喜多忠家を置きました。

城自体は大国神社のある西側の山が本丸。そこから東側に下った先、乙子大明神方面が二の丸だったようです。
二の丸方面は時間の都合で行っていません。
攻城時間は20分くらいでした。次の攻城先=砥石城に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征29日目:岡山城周辺(岡山駅周辺散策) (2026/06/08 訪問)

今日の天気は曇のち15:00頃から雨の予報です。
宿泊先のホテルの朝食前に、岡山城関連施設巡りと岡山駅周辺散策をしました。
光珍寺から徒歩5分弱で、花時計(34.663805、133.922735)に到着しました。
岡山駅周辺をは以下の順番で廻りました。

①:花時計(34.663805、133.922735)➡無残な姿でした
②:鬼の金棒ガード(34.665378、133.922938)
③:羽のフォトスポット(34.664389、133.917735)写真撮り忘れました
④:桃太郎像(34.664893、133.917784)ピンボケですみません
⑤:桃太郎ポスト(34.666053、133.918595) 

攻城時間は20分(移動時間を含む)くらいでした。次の攻城先=乙子城を攻城する前に、ホテルに戻って朝食を食べました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征29日目:岡山城関連施設巡り (2026/06/08 訪問)

今日の天気は曇のち15:00頃から雨の予報です。
宿泊先のホテルの朝食前に、岡山城関連施設巡りと岡山駅周辺散策をしました。
宿泊先のホテルから徒歩20分ちょっとで、廊下門前(34.665285、133.935637)に着きました。

岡山城関連施設は以下の順番で巡りました。
①:廊下門前(34.665285、133.935637) ➡9:00開門なので開いていません
②:石山の城(前岡山城)(34.664726、133.934133)
 ➡岡山城本丸址石碑と説明板 Pが石山曲輪跡(石垣がある)
③:生坂藩邸移築向屋敷門(34.663660、133.933872) 石と説明板
④:太閤の腰掛石(34.664303、133.932788) 石と説明板
⑤:池田光政公隠居所跡(34.664873、133.932150) 説明板と碑
⑥:石山門跡(34.664327、133.932113) 石垣と説明板
⑦:西丸西手櫓(34.664968、133.930893) 櫓、石垣、説明板
⑧:光珍寺(34.664823、133.924287) 宇喜多家の菩提寺

攻城時間は60分(移動時間を含む)くらいでした。次の攻城先=岡山駅周辺の散策に向かいました。

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ぎりょう

いまは無き東大手門の棟木にびっくり! (2026/07/25 訪問)

豪雨注意報の出たこの週末、友人との付き合いで山形県の遊佐町へドライブ。強い雨のなか私の住む宮城県大崎市から鳴子温泉を経由してR47を酒田方面へ。朝には庄内地方も雨マークだったのですが、新庄市を過ぎるころには雨も止み、厚い雲の間からはうっすらと日差しが見えるようになってきました。午前中に遊佐町での用事を済ませ、せっかく庄内まで来たので鶴岡市に寄ることにしました。先日地元紙に掲載された、鶴ヶ岡城大手門の棟木を庄内神社で展示中の記事が気になっていたからです。
庄内神社は鶴ヶ岡城の本丸跡にあり、かつての大手道が堀を埋立てて参道となり、大きな鳥居の建つ場所がかつての東大手門の場所です。この城は明治6(1873)年に廃城となり、城内の建物は解体され、部材は商家に払下げとなりました。今回展示が始まった東大手門の棟木も、商家の蔵に使われいたものを、庄内神社が取得・保管していたものです。
棟木はケヤキで長さ14.5m、重量は1.7tもあり、その大きさにはちょっと驚きました。石垣も天守も無く、土塁と水掘りで守ったこの城に、領主の権威を高めるべく立派な大手門が建てられていたのでしょう。

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コウマくん

スタンプのみ (2026/07/22 訪問)

出張の合間にスタンプのみ押しました
米子駅から徒歩で15分
山陰歴史館の玄関にあり24Hいつでも押せるようです。

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山形県の名城巡り最後は (2026/07/19 訪問)

毎月、一つの都道府県の名城を巡る旅も、今回で5回目。
すっかり私のライフワークとして定着してきました。
7月の名城巡りは山形県でしたが、最後に訪れたのが 続日本100名城「米沢城」で現在は「米沢城址・松が岬公園」として整備されています。
上杉景勝が入部してから明治維新まで上杉家の居城として米沢藩政の中心になりました。
また伊達政宗生誕の地としても知られます。
今回も貼った写真に沿って簡単な説明をしていきたいと思います。

① 毎回1枚目は恒例の御城印です。上部の大きな朱印は上杉家の家紋「竹に雀(竹と向かい合う二羽の雀の紋)」です。下部には往時の米沢城と城下町の様子を描いた墨絵が配されています。
② 本丸跡に鎮座する上杉神社へ向かう参道です。舞鶴橋の左右に大きな石灯籠 奥には鳥居と社殿へ続く道が伸びて周りを木々と堀が囲む景色です。白い幟は上杉謙信が用いた旗印で「龍」は不動明王「毘」は毘沙門天を表します。
③ そして、もちろん外せないのが「上杉謙信公之像」ですよね。像だけの写真にするか迷いましたが、像だけの写真は皆さんアップしてるので こちらの謙信像エリア全体の写真を貼ることにしました。
④ 内堀に架かる「菱門橋」を堀の外側から石垣と一緒に捉えました。堀の水面に赤い橋が写り込んでいるのが気に入っています。この堀から園内への出入りはできません。
⑤ 堀の幅が特に広くなってる所から堀越しに石造りの舞鶴橋と堀端を斜めに見た構図です。舞鶴橋をどうしても貼りたかったのですが近づくと人物や顔が目立っちゃうので、アングル的にも距離的にも良いこの写真にしました。
⑥ 上杉神社 神門の内側から本殿を狙った写真です。格子扉も入れたかったのでこういう構図になりました。石畳の参道が拝殿までまっすぐ伸びているのと左右の玉砂利、社殿を守るように背後を囲む木立の雰囲気がいいですね。
⑦ 公園の外周路から撮った米沢城の雄大なお堀で、ド~ンと雄大に真っすぐ続き、奥には小さく赤い菱門橋がアクセントになっていて気に入ってます。水面に写り込んだ木々と青空がきれいで、米沢城らしさが伝わる一枚です。
⑧ 外堀に沿って歩いていたらカーブの辺りで良い場所を見つけました。一瞬風が止んで、赤い菱門橋、緑の木々、青い空が堀の水面に鮮明に写り込んでいます(偶然ですが) 今回アップした写真の中で一番気に入っています。
⑨ 堀の出口に向かって歩いていたら 偶然、池泉風日本庭園を見つけました。小さな池と島状の築山、石碑やモミジの木がコンパクトですがバランス良く組み合わされていて美しさに引き込まれました。
⑩ 上は上杉神社の入口の様子で石の鳥居と社号標、左右の石灯篭が一緒に収まるように斜めから撮りました。下は右が上杉神社の御朱印、左が「なせば成る なさねば成らぬ 何事も」で有名な上杉鷹山を祀る松岬神社の御朱印です。

前日 鶴ケ岡城のスタンプを押し忘れたため、この日、早朝 往復3時間掛けてスタンプを押しに行ったため、時間がなくなってしまい駆け足での見学になってしまい残念でしたが、上杉神社以外にもお堀のスケールの大きさや、城内各所の美しさは思ってた以上に素晴らしかったです。
不思議なのは、これほどの歴史があり、整備され管理もいが行き届いて みんなに愛されているのに、なぜ、国の指定史跡になっていないのでしょうか?

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安藤伊賀守守就戦死の地跡が近くに (2026/07/25 訪問)

 近くへ来たので寄ってきました。2回目の投稿となります。
西美濃三人衆のひとり安藤守就の居城跡です。石碑と説明板がある場所は本丸の一部と考えられています。大井神社東側を西北の隅として東西160m、南北340mの場所が北方城址と推定されています。水堀で囲まれていました。

 安藤守就は土岐氏、斎藤氏に仕えていましたが、織田信長の美濃進行時に織田方に従っています。それなりの武勲はあげていたようですが、天正8年(1580)甲斐武田氏に内通したとの嫌疑で追放されました。天正10年(1582)本能寺の変で明智光秀に信長が討たれると北方城に戻ろうとして、これを阻む稲葉一鉄と戦いになります。北方合戦として伝わる戦いで守就とその一族は壮絶な戦死を遂げました。その戦死の地と伝わる場所が北方城から西北へ約600m離れた場所にあります。

 帰りは樽見線北方真桑駅を利用しました。駅に「織田信長が愛したまくわうり発祥の地」の看板がありました。美濃国本巣郡真桑村(現岐阜県本巣市)が本種発祥の地もしくは特産地として知られ、村の名前から真桑瓜の名が生まれました。天正3年(1575年)6月29日、織田信長が正親町天皇に真桑瓜を2籠献上したことが記録に残っています。信長自身も好んで食べていたと伝わっています。
ただ私が住んでいる地域のスーパーではまくわうりは見たことがないような気がします。

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チェブ

お休み?閉園? (2026/07/04 訪問)

予定なしの暇な土曜日、本格的に暑くなる前に、たくさんお城攻めをしておこうと、けしからん考えのまま出陣。
1つでも『行った』をポチッとする為に「赤見城」攻めをしました。

「赤見城」は平安時代、足利 俊綱さんが築城したようです。戦国時代には佐野氏の家臣、赤見氏が治めています。

「赤見城」は保育園の入口横に石碑と標柱がありました。高い土塁が保育園をグルリと守っているようで、中の様子が分かりません。
土塁には登ってどうぞ、という感じの階段がありました。
私は子供が保育園生だった時、土曜日もお世話になっていたので土塁に登って仁王立ちは自重しました。
私は写真①の前に路駐しました。この反対側は民家です。
保育園関係者、近隣住民から不審がられてはと、退陣しました。

先ほど、この「赤見城」のある保育園が閉園している事を知りました。でも入口はキレイだったので、また復活したのかもしれません。
土曜日に暇、なんて子供が小さい時には考えられませんでしたが、今は時間を贅沢に過ごせた、と思いたい「赤見城」攻めでした。

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にのまる

出会い。 (2026/06/25 訪問)

最寄駅まで約4km、しかも列車本数が少ない駅なので訪問は難しいかと思っていたのですが、館山チャシ最寄りの伊達紋別駅からバスが出ていることがわかり、行程に組み入れました。(館山チャシ麓の「伊達駅通」から乗車しました。)

バスに揺られること45分。「陣屋」で降車しました。
徒歩数分で民俗資料館(とんてん館)に到着。受付で「こんにちは!」をして早速館内見学を……と思ったのですが、次の場所へ向かうバスまで1時間くらいしかないので、先に陣屋跡の見学をすることにしました。

幕末に江戸幕府から蝦夷地の沿岸警備を命じられた南部藩の陣屋です。工期は半年。
杉並木を進むと正面左手に虎口を備えた立派な土塁が見えてきました。が、右手の杉林の中に石碑と墓石が見えたので先にそちらを見てみることにしました。石碑は火薬庫跡を示すもので、墓石はこの地で亡くなった藩士の墓、杉林は藩士が日除けとして在任当時植えたものだそうです。

陣屋は土塁に囲まれた方形で東と南側に虎口があり、海に面した南側(表門側)の土塁の外側は水堀、その外側にさらに土塁が築かれていました。ちょうど業者の方が草刈りなどのお手入れをしていらして、とても素晴らしい状態の土塁を見せていただくことができました。
室蘭本線の線路がすぐそばを走っており、電車来ないかなぁとしばらく待ってみましたが来ませんでした。(余談)

内陣には発掘調査で発見された礎石や石畳を元に建物が平面復元され、当時の暮らしぶりが目に浮かぶようでした。
時代の移り変わりと共に13年という短い期間で廃棄されたそうですが、今はこうして後世の人たちに歴史を伝えるという役目を担っています。現地に立つことで感じる時代の変遷や当時の人々の息遣い。土塁や堀、建物礎石などの遺構と共に、過酷な自然環境の中で遠い故郷を思いながら亡くなり葬られた藩士のことも記憶しておかなければと思いました。

民俗資料館に戻り、帰りのバスの時間まで館内を見学しました。
縄文時代の室蘭の遺跡の発掘品〜開拓の道具〜昭和の懐かしい生活用品や家電まで、目がキラキラしてくるものが溢れていて、帰りのバス停で出会ったご近所の方が「以前は観光バスで来る団体もいたのよ」と仰っていた理由がよくわかりました。バスの到着が遅れていたのでその方とずっとおしゃべりしていたのですが、「内地からひとりでわざわざこんなところへ?」と驚いておられました。(城めぐりあるある)
「この“陣屋”というバス停の2文字にも感動する」と答えたのですがその気持ちが伝わったかどうか……。


北の大地の海岸沿いの小さな町で大切に守られている遺跡。そこには連綿と続く忘れてはいけない日本の歴史の証がありました。
まだまだこの国には私の知らない歴史がたくさん。今後どれだけ行けるかわかりませんが、有名無名に関わらず、ひとつひとつの出会いを大切に、そして楽しんでいければいいなと思いました。

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todo94

再度の飛島渡航失敗による代替観光・国宝羽黒山五重塔と出羽三社神社 (2026/07/18 訪問)

羽前松山城からの転戦です。羽黒山五重塔は、現存木造の五重塔の中で唯一の素木造りの五重塔で、杉木立にたたずむその美しさには初めて見た時から魅かれ続けています。13年ぶりに訪れてみると、随神門の手前で協力金500円を支払うようになっていました。三連休の初日、大勢の観光客でにぎわっていましたので、人が映り込まないように写真撮影するのは、かなりの困難が伴いました。時間はたっぷりとあるので22年ぶりに出羽三山神社も目指すことにします。随神門から五重塔を経由して出羽三山神社まで、36分ほどでたどり着くことができました。案内板に山頂まで60分所要とある2446段の石段、上出来だったと思います。ただ残念なことに出羽三山神社の三神合祭殿は、茅葺屋根の葺き替え工事中でした。せっかくなので1000円のお守りは購入しておきました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征28日目:富山城 (2026/06/07 訪問)

今日の天気は一日雨で午後から強雨の予報で、予報通り強雨です。
大安寺駅から徒歩20分弱で、登山口(34.669867、133.892004)に着きました。

築城年代は定かではないが、仁和年間(885年〜889年)に富山重興が築いたと云われています。長い間、富山氏の居城だったようです。
1467年(応仁元年)富山長頼は松田元隆に攻められ自害し富山氏は滅亡し、松田氏の居城としました。
松田元成(元隆の子)は金川城に居城を移し、富山城には元成の弟の親秀が入りました。
1568年(永禄11年)宇喜多直家に松田氏は滅亡に追い込まれ、富山城には直家の弟の忠家が入り、城を拡張しました。
忠家の後は子の詮家が城主でしたが宇喜多氏の内紛で宇喜多家を離れました。詮家は後の坂崎出羽守直盛(千姫事件で有名・津和野城主)です。 
城は1600年(慶長5年)関ケ原の戦い後、小早川秀秋が備前に入封すると廃城となり、いくつかの資材が岡山城に移築されました。

強雨の為、登山口で引き返し登城を断念しました。
攻城時間は5分くらいでした。本日の城巡りは、ここがラストです。
計画では、この後、早島陣屋と常山城を攻城するつもりでしたが、強雨の為、6月9日に変更しました。
歩行歩数=25047歩、歩行距離=17.5Kmです。
本日の宿泊先に向かう為、大安寺駅からJR桃太郎線を利用して岡山駅に戻りました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征28日目:辛川城 (2026/06/07 訪問)

今日の天気は一日雨で午後から強雨の予報で、予報通り強雨です。
備前一宮駅から徒歩15分ちょっとで、桃太郎タンク入口(34.687795、133.859772)に着きました。

辛川城についての築城年代などは不明ですが、初期は宇喜多氏家臣の虫明氏が城主であったと言われています。
虫明氏は、浦上氏・宇喜多氏に追随し、一宮周辺を拠点とした国人層と伝えられています。
1579年(天正7年)毛利家の小早川隆景が15,000の軍勢で宇喜多領の備前に攻め込みました。
宇喜多の臣で、13歳にて初陣であった戸川達安は、この辛川の地で寡兵にも関わらずよく防ぎ、鉄砲や弓で応戦し小早川勢を撃退しました。
のち、この合戦は“毛利の辛川崩れ”と言われています。

桃太郎が描かれた水道タンクの背後の山が城山で、水道施設前の道がそのまま山陽道を高架橋で越え、山の東山腹に続いているようです。
しかし工事中で進入不可&強雨の為、登城を断念しました。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=富山城へ向かう為、備前一宮駅からJR桃太郎線を利用して大安寺駅に向かいました。

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