別名:千代田城、江城
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2026/07/05 17:04
2026/07/05 16:40
2026/07/05 16:33
2026/07/05 16:25
2026/07/05 15:47
2026/07/05 15:27
『小手指古戦場』の巻。 (2026/06/20 訪問)
東京の端っこから、前回投稿した「難波田城」に登城する途中にコンビニに寄りました。
駐車場から『小手指古戦場→』の看板を見て、「難波田城」は後回しにしました。
矢印方向に進み、多分間違えて行き過ぎた場所は『誓詞橋』。何だか、歴史を紐解きたくなる地名です。
『小手指古戦場』は近くに小学校、中学校があります。
車通りの多い道が近くにある割りに、こんなに広い所があるんだーが感想です。
駐車場はありません。石碑の前に路駐して写真を写します。
『小手指古戦場』は新田 義貞さんが群馬県で挙兵し鎌倉攻めの際、戦場になりました。
説明板には戦仲間が150騎が20万騎に膨れ上がったんだとか。そして、30回ほど打ち合ったが勝敗がつかないとの事です。
どちらも、なかなか強いです。
説明板には、向こうに『白旗塚』があるとあり、車で直進しました。
ちなみに、舗装されてなく大きな水たまりがありますので、注意が必要です。
私も某場所で、ぬかるみに車のタイヤがはまり、スリップして出られなくなった過去があります。
*車でお城攻めあるあるですよね、イオさん。
小高い場所があります。写真では低くく写ってますが、雨で傘を持ってじゃ危ないかもと思うくらい、高かったはずなのに。
写真ではお伝えできませんが、もうちょっと急な階段です。すいません。
『小手指古戦場』は『こてさし』と読みます。
武具の篭手から名付けられたとか、日本武尊さんが小手をかざして前方を見たとかが由来の1つです。
ちなみに、さっきの『誓詞橋』は戦勝を誓う詞を交わした場所なんだとか。
『小手指古戦場』は狭山湖近くです。難攻不落の「根古屋城」の後いかがでしょうか?
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2026/07/05 14:29
令和8年訪問記 (2026/07/03 訪問)
あの時(平成12年)はまだ…箱館奉行所は再建されてなかった…というかクラスメイト数人と一応行ったけど…何をどうしたかさっぱり覚えてない😂
平成21年に奉行所再建🏰
立派な建物という印象を与えるが…ビデオ解説によると…何とこれでも1/3のみの再建…残り2/3は跡地のままだそう
奉行所は入口がWi-Fiしっかり効いていたから…そこで万歩計アプリのゲージ消費や…買い物アプリの記録をつけながらビデオ鑑賞
奉行所の中央には物見櫓のような箇所が外から見える…けれど見学可能場所は一階のみ…そこへと続く階段は封鎖されていた…法律に基づいて非公開となってるらしい
再建にいたるビデオ上映もあり…京都にいる職人などに依頼して…必要な部位の作成をおこない…年月をかけて建設したそう
1864年に幕府の命により国防的な意味合いで建設
箱館戦争では榎本武揚を総裁とする旧幕府軍が…ここを拠点に新政府軍に抵抗したが…籠城するも形勢不利は覆せず最後は降伏
明治4年に取り壊された…それ以降長い間そのまま
再建に至ってはなるべく史料を基におこない…色彩が不明な箇所は無地にしたりしておこなったとも紹介
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2026/07/05 11:38
2026/07/05 11:30
2026/07/05 11:22
2026/07/05 11:13
2026/07/05 11:07
2026/07/05 11:01
2026/07/05 10:50
2026/07/05 07:44
甲府盆地を見下ろす位置にある (2025/09/10 訪問)
武田一門ながら武田信玄によって粛清された勝沼信元は武田信虎の弟の孫。甲府盆地を見下ろす立地は武田宗家をも見下ろす位置にあって宗家に取って代わりたくなるのもわからんではない。木橋再建されないかなあ。
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2026/07/05 07:34
大人の休日俱楽部パス 飛島渡航失敗翌日・おいこっと乗車後の攻城 (2026/06/28 訪問)
十日町では、越乃Shu*Kuraからおいこっとに乗り継ぎました。北飯山駅で快速おいこっとを降り、飯山城に向かいました。昔に比べて整備が進んでおり、案内、説明板が充実していてとてもうれしくなりました。飯山駅から長野駅は大人の休日俱楽部パスで乗ることのできる北陸新幹線を利用しました。多くの3セク鉄道に対応している大人の休日俱楽部パスですが、しなの鉄道は対応しておらず、豊野駅-長野駅間は別料金が必要なのです。こんな状況でなければ、おいこっとを乗り通したと思いますし、飯山城に立ち寄ることもなかったでしょう。
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2026/07/05 05:05
(中国地方と兵庫県)遠征15日目:鴨山城 (2026/05/25 訪問)
鬼身城から車で40分くらいで、中央登城口(34.545505、133.581595)に着きました。
1407年(応永14年)細川満国によって築かれたといわれています。
七代鴨山城主となった細川通董(通薫)は、はじめは伊予国川之江城、1559年(永禄2年)に青佐山城に入り7年、続いて龍王山城に入り9年在城し、1575年(天正3年)に宇喜多氏によって奪われていた鴨山城を毛利氏の援助のもと奪還しました。
1587年(天正15年)豊臣秀吉による九州征伐では、小早川隆景に従って出陣し、その帰路赤間関(現在の下関)にて没しました。
家督は細川元通が継ぎますが、1600年(慶長5年)の関ヶ原合戦後、毛利氏の防長移封により廃城となりました。
江戸時代には岡山藩の支藩として鴨方藩(岡山新田藩)が置かれ、池田光政の次男である政言が初代藩主となり、山麓に鴨方藩陣屋が築かれました。
少し登ってみましたが、やはり左足が痛い&山の中は暗くなり始めた為、断念しました。
明日の当初予定では、麓の鴨方陣屋や鴨方藩御用場跡等も攻城するつもりでしたが、レンタカー返却時間も迫っており、こちらも断念しました。
攻城時間は10分くらいでした。本日の城巡りは、ここがラストです。
本日の宿泊先に行く為、福山駅でレンタカーを返却してホテルに向かいました。
歩行歩数=28666歩、歩行距離=20.0Kmです。
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2026/07/05 05:01
(中国地方と兵庫県)遠征15日目:鬼身城 (2026/05/25 訪問)
猿掛城から車で40分ちょっとで、山への進入口(34.692475、133.664041)に着きました。
ここから山に入り、登り口付近(34.691046、133.663501)方面に向かう予定でしたが、左足首の痛みの為、登城は厳しいので、ここで断念しました。
ここから戻ろうとしましたが、道が狭く何度も切り返してやっと脱出できました。素直に登り口付近方面に向かい戻ってきた方が良かった気がします。
築城年代は定かではないようですが、南北朝時代の1385年(至徳2年・元中2年)には今川泰範が城主だったようです。
1501年(文亀元年)頃から上田氏が代々在城することとなり、 天正年間には備中・松山城主三村元親の弟実親を養子に迎えていまする。
1575年(天正3年)備中兵乱により三村氏の諸城を落とした毛利氏が鬼見城を囲むとこれに抵抗したが、城主実親は城兵を救う事を条件として自刃しました。
その後、毛利氏は宍戸隆家を城主とし城代として佐々部美作守を置きました。
その後、隆家の嫡子元秀の子元継が城主となりますが、1600年(慶長5年)の関ヶ原合戦後、毛利氏の防長移封により廃城となりました。
攻城時間は10分(車の切り返しに時間がかかりました)くらいでした。
本日の城巡りは、ここがラストの予定でしたが、鬼身城の登城を途中で取りやめた為、時間があり明日予定の鴨山城へ行くことにしました。
鴨山城の比高は140m。痛い左足でもなんとかなるかもと淡い期待を持って、次の攻城先=鴨山城に向かいました。
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2026/07/05 04:58
(中国地方と兵庫県)遠征15日目:猿掛城 (2026/05/25 訪問)
高越山城から車で30分ちょっとで、登城口付近の空スペース(34.613334、133.632218)に着きました。
そこから、登城口(34.613390、133.633178)まですぐです。
左足首軽い捻挫状態の自分にとって本日3番目の最大の難関(山城)です。いざ登城です。
その歴史は平安時代末期に遡るといわれ、武蔵七党の一角を占める児玉党の旗頭であった庄家長が備中国穂田郷(穂井田郷とも)に領地を与えられ、ここに城と居館を築いたことに始まると伝えられています。以後、戦国時代に至るまで庄氏の居城となった。
南北朝時代初期には南朝の北畠親房に属し、足利尊氏配下の高師直と戦火を交えました。
戦国時代中期の1533年(天文2年)当時の城主であった庄為資は松山城の上野頼氏を攻め滅ぼし備中半国を配下に収め、為資は松山城に移りました。
猿掛城には一族の穂田(穂井田)実近が入り、その後、尼子氏と結んでいた庄氏に対し、鶴首城主で備中に覇を争っていた三村家親は毛利氏と結び猿掛城を攻略します。
為資と家親は家親の長男の元祐を穂田実近の養子とし猿掛城主に据えることで和睦しました。
この戦いについて、『安西軍策』や『陰徳太平記』の影響で、1553年(天文22年)のことと考えられてきました。
しかし、古文書などの分析から、1552年(天文21年)及び1559年(永禄2年)の2回にわたって行なわれ、前者は毛利・三村側の敗北に終わっていることが判明しているようです。
1568年(永禄11年)為資の子・庄高資は備中に侵攻した宇喜多直家に呼応したため、宇喜多氏が一時猿掛城を落とした。
これに危惧を感じた毛利元就は四男の元清を遣わし猿掛城を奪取します。この年、毛利氏の援軍により家親の子の元親が高資を追い落として松山城主となり備中に覇を唱えました。
1574年(天正2年)元親が織田信長と結んだため、毛利氏と三村氏が争う備中兵乱が起こり猿掛城は三村氏攻略の前線基地となります。
1575年(天正3年)5月に松山城が陥落し備中兵乱は終結、元親は自刃しました。
この時の戦功と元清の愁訴によって、元清は猿掛城を預かる城番となり、猿掛城の所在する備中国小田郡を中心に5,000貫の知行地を与えられます。
元清はそれまでの居城であった安芸桜尾城を妻の御北尾と九弟の才菊丸(後の小早川秀包)に任せて猿掛城に移り、毛利氏の東部方面への侵攻を抑える重鎮となりました。
また、この際に元清は在城した猿掛城のあった穂田郷という在名から穂田(穂井田)を名字としました。
1582年(天正10年)には羽柴秀吉による高松城水攻めの際、毛利輝元の本陣となります。1583年(天正11年)元清は猿掛城の西部にある茶臼山に中山城を築いて移りました。
猿掛城には重臣の宍戸隆家を城代として置きました。1589年(天正17年)広島城の建設が始まると元清は普請奉行として広島に常住するようになりました。
1600年(慶長5年)毛利輝元が関ヶ原の戦いにおいて西軍総大将として敗将となったため、防長2国に大幅に減封されます。城の周辺は幕府領となり、猿掛城は廃城となりました。
痛み止めが効いている間に大手登り口から登城しました。搦め手道は荒廃しており登山が禁止されているようです。
一の丸後ろの大堀切は圧巻でした。
下城時に痛みがぶり返しました。車を運転しているので、連続で痛み止めは飲めない。ここは我慢です。
攻城時間は70分くらいでした。次の攻城先=鬼身城に向かいました。
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2026/07/05 04:51
(中国地方と兵庫県)遠征15日目:高越山城 (2026/05/25 訪問)
相方城の素盞嗚神社から車で70分弱で、高越山城駐車場(34.607594、133.519079)に着きました。
左足首軽い捻挫状態の自分にとって本日2番目の難関(山城)です。まだ歩けそうです、いざ登城です。
1281年(弘安4年)弘安の役に際して、蒙古襲来に備えて幕府が宇都宮貞綱に命じて築かせたと伝えられています。その後、備中国荏原郷を得た那須氏の城となります。
室町時代になると備中国荏原郷や井原荘、笠岡村等を領した伊勢氏の持城となり、伊勢盛綱の四男である盛定が所領分割で荏原荘を得たため、その居城となりました。
伊勢新九郎盛時(後の北条早雲)は、この備中伊勢氏出身で、1432年(永享4年)伊勢盛定の子としてこの地で生まれました。
新九郎は青年時代までこの城で過ごし、西江原の法泉寺で学んだといわれています。その後、30代で京都伊勢氏の養子となり、京都に上り幕府に仕え、応仁の乱後、妹の嫁ぎ先の守護今川家に身を寄せます。
新九郎は今川家の家督争いを治め、56歳にして駿河国興国寺城の城主となりました。
その後、伊豆国、相模国を治め88才で亡くなるまで北条5代の関東支配の基礎をつくり、戦国大名の先駆けとなりました。
その後、高越城は引き続き備中伊勢氏によって維持されますが、伊勢貞勝の頃に毛利氏に臣従し、高越城は宍戸隆家の持城となりました。
1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いの後、毛利氏が防長移封となると、高越城も廃城となったと推測されています。
城の北側に立派な見学者用の駐車場があり、そこからお城へ歩いてすぐです。眺望が良く北条早雲生誕の地の旗が見映えします。
高越城址公園として整備され、山頂の一の郭には土壇があり、「北条早雲生誕の地」碑が建立されています。
二の郭、三の郭には左足首が痛いので下りず、一の郭より下を見ました。
攻城時間は30分くらいでした。次の攻城先=猿掛城に向かいました。
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