秀吉の御座所として半島側を睨む勝本に築かれたが終戦の折には終戦の象徴として破城され二度と使われることがなかったという点で倭城と似通った運命とも言えようか。主郭はもちろんだが周辺にも石垣の残欠が点在する。
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2026/03/22 10:44
倭城と似通った運命を辿る (2025/05/04 訪問)
秀吉の御座所として半島側を睨む勝本に築かれたが終戦の折には終戦の象徴として破城され二度と使われることがなかったという点で倭城と似通った運命とも言えようか。主郭はもちろんだが周辺にも石垣の残欠が点在する。
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2026/03/22 08:45
連戦連勝!! (2026/03/15 訪問)
詳細は不明ながら、鎌倉末期に赤松円心が築いたと伝わり、中芳養八幡社の楠本氏と赤松城主の赤松氏との間で縁組が繰り返されていたとする史料もあるようです。
苗代川池ルートで登城しようとするも、小川沿いで脱輪しそうになり這う這うの体で逃げ帰ってから2年あまり。この間、しんちゃんさんがおたき瀧法寺から登城されましたが、過酷なルートのようなので、やはり苗代川池ルートで再挑戦しようと思っていたところに、あ さんから苗代川池ルートでの詳細な投稿があり、そのご案内に従って登城しました。
平須賀城での予想外の大勝利に気を良くして苗代川池への細道へ。この前にも途中までは行ってるんだから余裕 余裕と思っていましたが、路上には礫がごろごろしている上にやっぱり道幅が狭い…。脱輪の恐怖に襲われながらそろそろと車を走らせて、この前に転回した箇所(あ さんご案内の駐車スペース)から登城開始。少し戻って分岐を右に進み、苗代川池東岸の林道を北へ。林道は土砂や落葉が堆積してひどい状態ですが、歩いて行く分にはさほど支障ありません。そして壊れた砂防ダムからの分岐では「①谷を行く」を選択。国土地理院地図の道だけあって随所に案内表示があり迷うことはないものの、ご案内にあるとおり最後は壁のような急斜面を直登することになりました。尾根筋に出れば、あとは尾根沿いに北に進むだけ。だらだらと距離があるのと、ところどころにシダの藪はあるにせよ、分岐は全くないので道に迷う心配はありません。そして最後に少し登ったところで赤松城に到達。
東尾根の二つの腰曲輪を抜けて最高所の主郭へ。楕円形の主郭は意外に広さがあり、北寄りに謎の窪み、北端に土塁が見られます。土塁は西側に竪土塁状に落ち、竪土塁をたどって下りた先には腰曲輪が設けられていました。腰曲輪の下方では竪堀が西尾根からの侵入を阻んでいます。主郭の北下には北曲輪が広がり、主郭の切岸はなかなかの高さと角度があります。北曲輪の西下段には三つの大きな窪みがあり、城郭遺構とも後世の土取りによる改変とも云われます。北曲輪東端では竪堀が北尾根と東尾根を隔てていました。北曲輪から北へは幅広く平坦な北尾根が続いていますが、特に北への備えは見られません。最後に主郭南下の南曲輪に回って赤松城をひとめぐり。南曲輪は主郭や北曲輪よりも藪化していました。
…ということで、無事に赤松城を攻略。道幅が狭い上に歩く距離も長いとはいえ、おたき瀧法寺よりも苗代川池ルートのほうが無難かと思われます。もっとも、そこまでしてでも行くべき城なのかと問われると返答に窮してしまいますが(笑) ともあれ、これで平須賀城とあわせて連戦連勝、2年越しでのリベンジを果たすことができました。あ さん、本当にありがとうございました。
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2026/03/22 07:34
京丹後市立久美浜小学校 (2026/03/20 訪問)
京丹後市立久美浜小学校付近が陣屋跡です。小学校に説明板があります。
陣屋の近くに「豪商稲葉本家」という母屋が国登録有形文化財になっている建物があり自由に見学ができます。「豪商稲葉本家」は、江戸時代この久美浜の地にて糀製造で得た富を背景に廻船業を営み、沿岸交易によって巨富を得ました。この稲葉家は織田信長の家臣の1人、稲葉一鉄一族の末裔といわれています。
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2026/03/22 07:29
「福岡城天守台発掘調査」経過報告書を読んだ感想 (2026/03/20 訪問)
福岡城を訪れると、天守台の脇にあった枝垂れ桜(早咲き桜)が1本だけ咲いていました(写真①)。しかしソメイヨシノは3/20現在まだ一輪も咲いておらず(写真②)、満開予想は4/2頃となっていますので、花見をされる方は御注意下さい!(写真⑥)。では本題に入ります。
昨年7月~12月行われた、福岡城に天守は本当にあったのかを探る、天守台穴蔵(写真③)の発掘調査の経過報告書がついにまとめられ公開されたので読んでみました。
結論から言えば、天守床下を支える「束石(つかいし)」(床下を支える柱の基礎)と「桐紋の瓦」が、一つずつ見つかったそうです。
礎石だけでなく束石と瓦があったという事は、ここに何らかの建物が建っていたという可能性は高いという事になるのでしょうか? また桐紋と言えば、豊臣家ゆかりの者にしか使えない瓦のはずです。
しかしここでふと疑問が🤔? 福岡城の築城は関ケ原後の1602~1607年です。豊臣期の瓦が出るはずがありません。桐紋瓦は、豊臣秀長の大和郡山城や、秀吉が築いた名護屋城など、豊臣ゆかりの城によく見られる事はみなさんも御存知と思います。
しかしちょっと待てよ🤔? 前回に名島城を訪れた時、名島城の建物や石垣は、黒田長政によって福岡城に移築されたと書いてありました。確かに名島城の脇門であったとされる「名島門」は現存し、現在三の丸に移築保存されています(写真④⑤)。しかし名島城の天守に関しては、佐竹義宣の家臣の見聞録に立派な天守が建っていたとの記述が残されているようですが、どのような天守だったのか? 具体的な記録は未だ発見されていません。古図を見る限りでは天守の存在は何とも言えませんが(写真⑧)、でも余湖氏の絵図にはかっこよく天守が描かれています。
よく考えると、名島城は秀吉からとても信頼の厚かった小早川隆景が築城したもので、豊臣姓も賜った隆景なので、桐紋の瓦があったとしてもおかしくありません。という事は🤔・・・福岡城の天守台(写真②)の上には、実は移築された名島城の天守が建っていたという事になるのでしょうか?・・・😱!
しかし発見されたのはどちらもわずか1点のみであり、調査も十分になされたとは言えない段階なので、たったこれだけでここまで推測するのはちょっと早計かもしれませんが、これを受けて福岡市は、今年も調査を継続する事に決め、令和8年度予算案を議会に提出たそうです。今後はもう少し穴蔵を広範囲にそして少し深く掘って調査し、併せて外側の石垣の調査も開始したいそうです。
発掘調査経過報告書は以下に2ページで解かり易くまとめられていますので、興味のある方はアクセスされて下さい。福岡市の意地をかけた文化庁とのこの戦い、第2ラウンドはどんな展開が待っているのか? 予期せぬ方向に進んでいるので、ますます面白くなってきました😊!
https://www.city.fukuoka.lg.jp/gikaizimukyoku/giji/shisei/documents/04_20260218keizai-hokoku3.pdf
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2026/03/22 07:20
愛宕神社 (2026/03/20 訪問)
円山川とその支流六方川の合流点近くの標高115mの愛宕山にある城址です。主郭を中心に尾根に曲輪を展開しています。畝状空堀群が縄張り図に描かれていますが、浅くなって見にくくなっていました。愛宕神社から主郭周辺の主要な場所は概ね整備されていてストレス少なく散策できます。
東側の尾根の堀切は比較的容易に行けました。西北にある尾根にも縄張り図では堀切が描いてあり、行こうとしましたが最初は道が見つかりません。あきらめて帰ろうとしたときに愛宕神社の北の曲輪から主郭の切岸に張り付いている細い道を見つけてしまいました。その道を通り西北の尾根に行き展開している曲輪を降りて行きました。堀切を見つけそのまま降りて行けば連郭式に配置してある曲輪を経由して下城できそうなので進んで行きました。最後の曲輪までは何とか来ましたが、そこから下りる道も踏み跡もありません。ピンクのリボンが付いている木を見つけて降りようとしましたが、踏み跡もなくかなり角度があり自分の力量では下りるのは無理と判断。比較的緩い斜面を選んで、木々を頼りに何とか下りて下城しました。
年を取って来たので無理はしないと誓ったのに結構無理しました。
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2026/03/22 07:00
但馬富士 (2026/03/20 訪問)
但馬富士と呼ばれる標高約201mの三開山にある城址です。主郭を中心に三方に延びる尾根に曲輪を連郭式に配置しています。曲輪周囲には多くの竪堀があり東側には二条の堀切がありました。ただ浅くなって見づらくなっているものもあります。縄張り図で畝状空堀群が描かれています。その場所を見ると雰囲気は残していますが、落ち葉の堆積もありよくわかりません。北側を少し下りた所には瑞宝寺趾、千畳敷といわれる居館跡、水の手などがあります。千畳敷周囲には石積みがあるとの情報があり、それらしき所を撮影しました。
登城路はいくつかありますが、自分は瑞峰寺よりのルートを利用しました。尾根道と谷を通るルートがありますが、どちらも整備されていて比較的歩きやすい登城路です。早朝から登城開始したこともあり、主郭に着くころまでは霧が出ていて霧の中の散策となりました。途中から視界がよくなり下山を始めた頃には霧はなくなっていました。
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2026/03/22 06:18
2026/03/22 06:04
太田昌明 (2026/03/19 訪問)
太田集落北側の丘陵にあり丹後宮津から出石に抜ける街道を押される要衝に築かれた城です。鎌倉時代の太田昌明の居城と伝わります。
丘陵のほぼ中央になる堀切を挟んで標高165mの東の城域と標高172mに位置する西の城域からなっています。西側の主要な郭近くにある大堀切は圧巻で、周辺には畝状空堀群を見ることができます。期待以上の遺構でした。ただ、この日は雨の影響で堆積した落ち葉と水分をたっぷり含んだ土の影響で滑りやすく散策に難渋しました。
JR豊岡駅前よりバスに乗り、出石バス停で乗り継いで太田バス停下車。バス停から徒歩1分くらいで登城口に行くことができます。獣除けの柵を開けて(もちろん閉めて)登城します。登城路は倒竹などあり思っていた以上に荒れていました。よく見ると登城路と思われる坂道などがあるのですが、すぐにはわかりません。この日は登城時には雨が降っていて、先にも述べましたが落ち葉の堆積した足元はかなり滑りやすい状態でした。西城の大空堀近くの斜面を移動しているときに滑って転倒してしまいました。撮影した写真も雨と足元を気にしてぶれていたのが多かった。晴れた日に来たかったですね。
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2026/03/21 18:17
城びと未登録のお城攻め「村田氏館」「田代三喜生誕地」。 (2026/01/17 訪問)
『お城を探す』の中「斎藤氏館」の近所に「村田氏館」があります。
毛呂山町平山地区にある「村田氏館」は住宅街の中。写真③④辺りのようですが、遺構かは分かりません。近くに『古宮神社宮殿遺跡』の碑があり、そちらに村田氏のお名前を探しましたが見当たりません。
住宅街だったので早々に退陣しました。
そして、「田代三喜生誕地」へ。
こちらは毛呂山町から越生町へ移動します。
越生町古池の民家の角にピカピカの石碑がありました。
田代 三喜さんは医師、曲直瀬 道三さんのお師匠さんです。『曲直瀬 道三 乱世を医やす人』を読み、田代 三喜さんを知りました。
曲直瀬 道三さんは、三好 長慶さんや松永 久秀さん、毛利 元就さん他たくさんの先人たちの診療をしました。
田代 三喜さんと曲直瀬 道三さんは『足利学校』近くで出会います。
私は本やTVで、先人の活躍を知ります。著者の描き方、ドラマの作り方でイメージが決まってしまいます。
でも、いろんな縁の地を巡る事で、オリジナルの人物が出来上がってきます。
今日飲んだ花粉症の薬も、もともとは先人の知恵から出来た薬。
先人のおかげで今日の私が元気なんだと思った「田代三喜生誕地」訪問でした。
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2026/03/21 17:50
土塁のボリュームも素敵です。 (2026/03/16 訪問)
イオさん、平須賀城登城報告をありがとうございます。私が登城したときは、地元の方による、登城ルートの確保が済んだところで、その後すぐに、城域の草刈りがなされたのですね。私、副業でお庭の手入れ請負をしており、背丈を超えるススキ群を草刈り機で10m四方くらい刈り取ったことがありますが、ススキが高く太くなると手ごわく、なかなか大変でした。平須賀城のあの広い面積かつ斜面含みを刈りきるのは、かなり大勢が根気を詰めて取り組んだものと推定します。本当にありがたいことです。
そして、前田慶次殿、長らくの連載をご苦労様でした。くふうがある、くせ強の記事を楽しく拝見しておりました。改めて、感謝申し上げます。
さて、小丸城です。本丸の石垣や石組み登城口は素晴らしいですが、土塁や郭のなごりの微高地も良いですね。本丸を囲むように二の丸があって、常安楽院の西裏の北西隅の土塁の高まりが櫓台と見受けました。説明板には、「本丸、二の丸、三の丸と隅櫓の遺構がよく残されている」とあって、隅櫓がどの郭にあったのか判然としませんが、きっと、常安楽院裏の北西隅が隅櫓跡と思います。三の丸が、野々宮廃寺あたりではないかと思います。二の丸には、ふきのとうやつくしが生えており、春の訪れがやや遅いのだなあと感じました。
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2026/03/21 17:31
総石垣の平山城 (2026/03/14 訪問)
新宮城は紀伊の南東端、熊野川河口南岸にある丹鶴山と呼ばれる独立丘陵上(標高約60m)に築かれた総石垣の近世城郭で丘陵東部に本丸があり、熊野灘沖を行き来する船を監視することができた。
切り込み接ぎの高石垣で築かれた本丸は北東隅に天守台(昭和27年の台風接近の大雨の影響で一部の石垣が崩落)、北東隅に埋門の搦め手門があります。鐘ノ丸の石垣は、完成度の高い石積みで構成された曲輪で、水野氏が浅野氏築城の二の丸を麓に移して配置した曲輪です。出丸は発掘調査で出丸側から橋脚の礎石が見つかり、橋で本丸と結ばれていたとの事です。
水の手曲輪は熊野川に接した舟入石垣の遺構が残り、発掘調査の後整備されて公開されています。松ノ丸に通ずる石段の坂道も整備されており通行することが出来ます。
7年ぶり4度目の訪問で、何度訪れても切り込み接ぎ、打ち込み接ぎ、野面積みの石垣を堪能することが出来、石垣好きにはたまらない城跡の一つです。5台程停められる駐車場、トイレも完備されています。また、大手門、駐車場脇に新宮城跡散策マップも置いてあり見どころを見逃す心配もありません。
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2026/03/21 16:40
ミカン畑の山頂に (2026/01/25 訪問)
【衣笠城】
<駐車場他>城跡まで車で上がれないことはないです。道が狭いので途中に墓地があるので墓地の駐車場(3台分程)に停めて徒歩がいい。
<交通手段>堀切
<見所>曲輪
<感想>1泊2日紀伊半島1周、山城攻略旅11城目。現地説明板によると衣笠城は鎌倉時代に愛州氏によって築城されたとされます。また畠山氏が守護を務めた紀伊国において応仁・文明の乱で衣笠城は激戦地になったとされています。
城跡は主郭を中心に西下段に副郭があり、主郭の北側と東側にかけて広い帯曲輪があります。さらに北東側に竪堀が1条あります。副郭の西側に堀切があり遮断しています。主郭から南側を通って南西面は車両道が改変されていて、南西側にミカン畑の作業小屋がありこの辺一帯は城跡の一部であれば改変されているかもしれません。
<満足度>◆◆◇
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2026/03/21 12:40
2026/03/21 12:31
2026/03/21 11:34
2026/03/21 10:15
秀吉時代に博多の街を復興させた男「神屋宗湛」 (2026/03/20 訪問)
大友宗麟の生涯を追う話からちょっと脱線して、秀吉時代に博多の街を復興させた男の話を、少しさせて頂こうと思います。
博多の街は過去4度、焼き討ちに会ったとされています。
① 度目は、元寇の時です。1274年文永の役で博多湾に上陸した蒙古軍は、まず博多の街を焼き払い、住民を虐殺して行きました。
② 度目は、前回お話しした1569年の多々良川の戦いの最中です。立花城を制圧した毛利軍でしたが、大友の軍勢に囲まれてしまったため、小早川隆景は敵の背後の博多の街を焼払い、大友軍を混乱させました。
③ 度目は、1587年島津軍北上の時です。島津軍は立花城に籠る立花宗茂を攻めますが、その最中に博多の街をも焼き払いました。
④ 度目は、1945年太平洋戦争の福岡空襲で焼け野原になりました。
③度目の直後、九州征伐を終えた豊臣秀吉は薩摩から大坂へ帰る途中、島津軍によって焼け野原と化した博多の街を見て唖然としたそうです。そこで博多に20日間滞在し自ら町割りを考え、それを「黒田官兵衛」と博多の豪商で千利休とも親交のある茶人「神屋宗湛」に特権を与えて託し、復興を命じたそうです。その時の区画整理が「太閤町割り」として現在も残っています。そしてこの町割りの単位が、今でも博多祇園山笠の流れの単位となっているそうです。
神屋宗湛は、そのおかげで博多の街が復興できた事に大変感謝し、朝鮮出兵の際には名護屋城へ出向き、秀吉にお礼として「黄金の茶室」を献上したそうです。そして名護屋城で茶会を開き、秀吉や諸大名に茶を点ててもてなしたとか。
現在、宗湛の屋敷があったとされる博多区奈良屋町の跡地には、秀吉を祀る「豊国神社」が建ち、奈良屋町は博多祇園山笠(追い山)の終点になっています。
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2026/03/21 08:34
山城めぐりができるのは… (2026/03/15 訪問)
(続き)
東尾根から主郭部東面の帯曲輪や腰曲輪を通り過ぎて一気に最高所の主郭へ。主郭のススキは刈られていますが、それはあ さんの主郭の三角点の写真で想定のうち。主郭からは南部平野から南部湾までが一望でき、南部支配の拠点であることを実感します。そして主郭から北側を見下ろすと広がるススキの大草原……じゃない!? 大草原どころか立っているススキは一本もなく、全て綺麗に刈られて足元に敷き詰められています。あ さんの登城からわずか半月でまさかこんなことになっていようとは。
主郭部は南端最高所の主郭から北方向に四段の曲輪を連ね、東面と西面に帯曲輪や腰曲輪をめぐらせています。発掘調査が実施された際に伐採されたのか四段の曲輪に立木はなく(だからこそススキが伸び盛る)、足元に積まれたススキで堀や土塁がわかりづらくなっている点はあるものの、曲輪の形状や切岸の鋭さは一目瞭然。四段の曲輪の下段にも曲輪群があり、こちらも綺麗に刈られています。四段目の曲輪の切岸の下には横堀(城道?)がめぐり、主郭部下段の西辺には武者隠し状の土塁が見られました。
正直なところ、支尾根の遺構は見られても主郭部はススキの大草原と大草原内部の先が見通せない写真を撮って終わりかな、くらいに思っていましたので、嬉しい想定外でした。それにしても、敷き詰められたススキの量から考えても主郭部全域を刈りこむのは相当なご苦労だったでしょうし、ススキだけでなくイバラとも格闘しながらの作業だったはず、と考えるとただただ頭が下がる思いです。それも普通に登ってくるだけでも大変な急坂を草刈機を担いで…。放置すればあっという間にヤブに沈んでしまう山城をこうして維持整備して下さっている方々がいるからこそ山城めぐりができているんだということを改めて痛感した平須賀城でした。この場を借りて心より感謝申し上げます。
登城前の想定とずいぶん違った結果になりましたが、あ さんご依頼の「現状の写真」の投稿はとりあえず果たせたということでご容赦を。いずれまたススキに沈んでしまうのかもしれませんが、登城を検討しておられる方がいるなら、今がチャンスですよ!
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2026/03/20 21:47
2026/03/20 17:39
毛呂 季光! (2026/01/17 訪問)
2回目の「毛呂氏館」訪問です。
前回同様、長栄寺さんの駐車場をお借りします。
そして同様に供養塔に手を合わせ、裏山の山道に踏み入る事なく退陣しました。
写真④が毛呂氏館に続く道です。
次の目的地に向かう途中で信号待ちをしていると本屋さんがありました。そこには、手書きで『毛呂 季光』とありました。
毛呂 季光さん、気になります。
毛呂氏は源頼朝さんの重臣で、吾妻鏡にも出てきますが詳しい功績が分かっていないそうです。2代目以降、表舞台に登場しません。ずっと後の豊臣 秀吉さんの北条討伐で、毛呂氏は再度登場します。
『鎌倉殿の13人』には毛呂氏は登場しませんでした。『豊臣兄弟!』では出演するかなー?。
毛呂氏の功績をもっと調べようと思った「毛呂氏館」攻めでした。
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2026/03/20 16:35
20060505岡城(大分県竹田市) (2006/05/05 訪問)
竹田は亡き父の故郷で、岡城は小さな頃から何度も訪れている思い出の場所。ゆっくり時間をかけて堪能すべき素晴らしい城址
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