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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征27日目:桜尾城周辺観光(洞雲寺) (2026/06/06 訪問)

廿日市駅から徒歩10分弱で、洞雲寺入口(34.360174、132.336206)着きました。

1487年(文明19年・長享元年)、当時桜尾城主で嚴島神社の神主でもあった藤原氏の菩提寺として創建されました。
尼子氏と大内氏の勢力争いにより藤原氏最後の代の興藤が滅び、この地は大内氏のものとなりましたが、その大内氏から重臣であった陶氏に移り、さらに厳島合戦で陶氏に勝利した毛利氏側へと変化しました。
厳島合戦に敗れた陶晴賢は桜尾城(現桂公園)で首実検のうえ、この寺に埋葬されています。

毛利元就の重臣桂元澄夫妻、元就の4男毛利元清の宝篋印塔もこの寺にあるということで確認する為、庫裡裏へ向かう途中、転んでしまいました。
ケガはなかったのですが、ズボンが汚れてしまいました。これにくじけてしまい確認せず撤退しました。
観光時間は15分くらいでした。次の攻城先=桜尾城へ徒歩で向かいました。

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にのまる

室蘭本線で海沿いを北上しました。 (2026/06/25 訪問)

東横インの無料朝食をスルーして函館06:02発の特急北斗1号に乗車。約2時間で伊達紋別に到着しました。

館山公園の麓までは徒歩10分くらい。
階段と坂を登ると広い公園が!
インパクト強すぎな大きなタコ🐙の滑り台に引き寄せられ、あやうくここで登城完了✅とするところでした💦

館山チャシの説明板と堀跡、土塁が見られるのは少し奥に進んだところで、緑に覆われているところもありましたが二重の空堀と土塁を確認できました。

次の場所へ行くバスの時間の都合でだて歴史文化ミュージアムに行けなかったのが少し心残りです。またいつか行けるかなぁ。。。

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朝田 辰兵衛

姉川古戦場 (2026/06/29 訪問)

三田村城から,徒歩での転戦です。「血原」というワードを目にしたあたりから,強く霊気を感じました。写真1枚目の周辺で,かなり気持ち悪くなってきました。熱中症とは違う感覚です。
ただ,三田村城は姉川古戦場のついでという位置づけ。滞在時間もこちらのほうが長かったです。
いちおう確認はしましたが,何か心霊のようなモノが写っておりましたらお知らせくださいませ。

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小倉はいろいろ辛かった😅 (2026/07/17 訪問)

小倉駅に着いたら豪雨、湿度88%の中を歩いてやっと着いた小倉城でジュースを買ったら810円のお釣りがジャリ銭で出てきてファーストビックリ😱次の日に地元民オススメの「肉肉うどん」を食べたら、肉がゴロゴロでボリュームタップリ、でも出汁は辛くて、朝8:30から食べるにはキツすぎてセカンドビックリ😅早くもツーアウト!ピンチかと思ったが最後に食べたJR小倉駅の「博多ラーメンshinshin」が美味しくて逆転ホームランでした。なかなか小倉の街は戦国さながらにハラハラドキドキさせてくれますよ。

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シェル

初めての金沢城 後編 (2025/08/18 訪問)

つづいては、金沢城を惣構と石垣の写真を投稿したいと思います。

① 惣構 升形遺構
金沢城は惣構の遺構も整備がおこなわれているようです。時間の兼ね合いで、全部を見学するのは厳しかったので、升形遺構などの一部のみですが見学してきました。
金沢駅と金沢城公園のちょうど中間のあたりに升形遺構があります。外桝形の構造になっていた虎口で、土塁と堀、石垣が復元されています。道路脇にポツンとある感じですが、見ごたえがある史跡でした!!

② 大手門(尾坂門)の石垣
紹介している方が少ない印象ですが、個人的に金沢城でいちばん好きな石垣はここですね。野面積みの高石垣がそびえ、水堀も残されています。初期(慶長期ごろ)の石垣と考えられているようです。正面の迫力も素晴らしいのですが、桝形虎口にある鏡石、新丸側にある合坂も見どころです。

③ 土橋門の石垣 亀甲石
旧第六旅団司令部庁舎の北側に土橋門跡があります。土橋門には切込接の石垣があり、その中に六角形の形をした亀甲石があります。防火の願いを込められている石とされています。

④ 二の丸北面の石垣
土橋門から菱櫓までつづく二の丸の北面には、石垣と水堀が残されています。石垣は打込接の布積です。

⑤ 玉泉院丸 色紙短冊積み石垣
玉泉院丸は、令和六年の能登半島地震の影響で立ち入り禁止区域が多い状況となっていました。ただ二の丸寄りの色紙短冊積み石垣の周辺は、見学可能でしたので見学してきました。短冊のように縦長に加工された切込接の石垣でけっこう高さがありました。

⑥ 三十間長屋 金場取り残し積み
現存の三十間長屋の石垣は、切込接の石垣なのですが、少し特殊で「金場取り残し積み」という工法が用いられています。石の表面の縁をきれいに削り、石にこぶを残す加工法で、かなり美を意識している石垣だと感じました。

⑦ 石川門桝形の石垣
おなじみですが、石垣の右側が打込接、左側が切込接で石垣が積まれています。同じ場所で二種類の石垣が見られるということで、かなりレアですね。

⑧ 辰巳櫓台の高石垣
文禄年間に築かれた城内で最古の石垣とされています。百間堀跡(県道10号)の歩道から迫力のある石垣を見ることができます。高さ約21mで四段にわたって築かれ、とても迫力満点でした!!

今回、初めての石川県 金沢城訪問でしたが、時間の兼ね合いで、兼六園は周れなかったので、次に行く際は兼六園も巡りたいと思います。そして、金沢城の復旧を切に願っております。

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シェル

初めての金沢城 前編 (2025/08/18 訪問)

 実は昨年の夏に北陸に行っておりました。季節が一周したタイミングでの投稿で大変恐縮です。
東京から夜行バスで金沢駅に到着後、徒歩で金沢城へ向かいました。
 北の大手門側から入城。大手門の石垣も凄すぎたので、続きの投稿で紹介します。
 大手門跡→新丸→河北門→三の丸→橋爪門→二の丸→三十間長屋→玉泉丸→鼠多門→数寄屋敷→土橋門→三の丸→石川門→百間堀→辰巳櫓台の順で見学。見学には、1時間半程度かかりました。石川門の櫓門裏の案内所で100名城スタンプを押印。職員の方にお声をかけたら、快くスタンプを出していただきました。
 まずはおなじみの建築物を中心に投稿していこうと思います。
 城内の建築物は、石川門(石川櫓)、三十間長屋、鶴丸倉庫が現存。菱櫓、五十間長屋、橋爪門、橋爪門続櫓、河北門、鼠多門が復元されています。

① 河北門
 大手門側から向かうと、真っ先に出迎えてくれる建築物は、河北門です。三の丸の正門にあたります。かつては石川門と似た構造で二重櫓のニラミ櫓があったようです。焼失後は再建されず、出窓付きの土塀が櫓台に設けられ、そちらの状態で復元されています。櫓門内部は無料で見学できます。

② 五十間長屋・菱櫓
金沢城の目玉のひとつですね。写真では何度も拝見していましたが、実際に三の丸から肉眼で見ると、手前の水堀の存在に気づかないほどの圧倒的な威圧感があって凄いですね・・・
(さすが100万石ですな・・・)

③ 橋爪門
三の丸から二の丸に入る虎口で、城内最大の桝形となっています。二の門(櫓門)の下には、敷石が敷かれています。のちに整備したものかなと思ったのですが、藩政期につくられたもののようです。他とは別格の門だったと分かる貴重な遺構ですので、建物の迫力に圧倒されますが、ここは足元も注目です!!

④ 三十間長屋
現存の多聞櫓ですが、位置的な関係で見学している方は少ない感じでしたので、のびのびと撮影できました。海鼠壁と鉛瓦、「金場取り残し積み」の石垣が美しかったです。

⑤ 鼠多門
令和になって復元された櫓門です。黒い海鼠漆喰と白い鉛瓦が本当におしゃれに感じました!!
内部は無料で見学できて、五十間長屋もそうですが、しっかり木造復元でありながらバリアフリー対策もしていて凄いと感じました。

⑥ 石川門
金沢城のシンボルの一つで現存の建築物です。兼六園側の登城口のため、他のエリアとは違って観光客がとにかく多いので、撮影される方はけっこう気を使うかもしれないです。
石川門の下の百間堀跡は道路となっていて、石川橋の北側に前田利家像がありました。

⑦ 二の丸御殿(復元工事)
話題の二の丸御殿の復元工事が行われていました。五十間長屋越しにクレーンや骨組みを見ることができ、工事始まっている!!と心躍りました!!
訪問したのが、ヒロケンさんが以前投稿された写真の少し前なので、素屋根が設置される前の鉄骨を設置する様子を遠目に見学しました。改めて1年近く投稿が遅れていて、申し訳ないです・・・
完成は2033年頃の予定とのことで、待ち遠しいですね!!

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赤い城

賤ケ岳の戦いの羽柴軍本陣 (2026/07/12 訪問)

朽木陣屋から湖北を走り木之本へ、麓の意冨布良神社に車を置きます。
神社より登って行きますが、途中林道に車があったのでここまでは車でも行けそうです。

まず出会ったのが古墳、ここも城の一部なのでしょうか?
さらに登ると上之宮跡、南の堀切があります。
もう少し登ると南郭、さらに主郭を経て堀切にかかる土橋を渡ると馬出郭ヘ。
その先の北外郭は広く、虎口は喰違で横矢枡形となっています。

引き返し、主郭西側の犬走りを歩いて西郭ヘ。
主郭の西側を守り、北国街道を監視します。
こちらも先端部の土塁に横矢枡形があり、その先に堀切があります。

賤ケ岳の戦いで羽柴軍が本陣とした城で秀長が築きました。
秀吉は田上山城を本陣として前方に二本の防御ラインとなるように陣城群を築き柴田軍と対峙しました。
陣城なのでコンパクトな造りですが見どころの多い城でした。
綺麗に整備されていて歩きやすい、関係者の皆さんに感謝です😊

【見どころ】
 ・主郭と馬出郭の間の土橋と堀切
 ・北外郭の虎口
 ・西郭の虎口

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todo94

再度の飛島渡航失敗による代替攻城① (2026/07/18 訪問)

海の日の三連休は、当初、佐渡に狙いを定めていました。ただ、レンタカーの予約が取れていませんでした。6月の飛島渡航失敗を受けて、宿とジェットフォイルの予約をキャンセルし、飛島のリベンジを目指すことにしました。ところが何という事でしょう。またしても飛島航路が欠航になってしまったのです。前回はJR利用のため断念した円通寺に移築されている亀ヶ崎城の搦手門を目指すことにしました。まずは、主郭にあたる酒田東高に向かいます。この日は文化祭が開催されていたので校内に立ち入りやすい環境だったと思いますが、人目もあるので土塁の撮影は外からのみにとどめました。時間はたっぷりあるので、丸之御橋跡にも足を伸ばしました。それから円通寺に向かい、無事、移築門も拝むことができました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征27日目:宮尾城周辺観光(棚守屋敷(城びと未登録 広島県廿日市市)) (2026/06/06 訪問)

勝山城(城びと未登録 広島県廿日市市)から徒歩5分くらいで、説明板前(34.294135、132.319703)に着きました。

厳島神社の神職の代表的な氏族の棚守の屋敷跡です。
棚守は佐伯氏の中の一族の野坂氏のことで、棚守というのは本来は「役職名」で、宝蔵を管理する役職の名前です。
神官である佐伯氏を補佐するのが「棚守」です。戦国時代の棚守房顕の時に大内義隆や毛利元就らの御師となり威勢が神主を凌ぎ権力者になったそうです。
毛利元就らが厳島に参拝のときには棚守宿所を利用したそうです。江戸時代にはいって広島藩主らが参拝のときも棚守屋敷に宿泊しているようです。

階段の入口に説明板がありますが、屋敷へ向かう道は閉ざされています。長い石段が遺構なのかな?
隣に上卿屋敷があります。
攻城時間は5分くらいでした。次の観光先=洞雲寺へ向かう為、宮島港から宮島松大汽船旅客船とJR山陽本線を利用して廿日市駅に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征27日目:宮尾城周辺観光(勝山城(城びと未登録 広島県廿日市市)) (2026/06/06 訪問)

厳島神社本殿から徒歩10分くらいで、勝山城碑前(34.294395、132.317996)に着きました。

築城年代は定かではないですが、1524年(大永4年)頃に大内義興によって築かれたと云われています。
1555年(天文24年)厳島合戦で毛利方の宮尾城を攻略するために厳島に上陸した陶晴賢は、はじめ勝山城に本陣を構えました。その後、本陣をより宮尾城に近い塔ノ岡へと移しました。
しかし、折からの暴風雨と夜陰に乗じて包ヶ浦に上陸した軍、大鳥居側の海から元就の3男小早川隆景の軍と、宮尾城の兵が呼応し厳島神社周辺で激戦となり、不意を突かれた陶軍は壊滅しました。
晴賢は僅かな兵と共に島の西部へ敗走しますが、なすすべなく山中で自刃しました(厳島合戦)。

厳島神社の後ろ側の道を進み、大願寺の向かいに有る細い石段を登ると多宝塔が有ります。その高台の辺りが城址とのこと。
侵入禁止が気になり城址碑の写真を撮り忘れました。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=棚守屋敷(城びと未登録 広島県廿日市市)へ徒歩で向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征27日目:宮尾城周辺観光(厳島神社本殿と海上大鳥居) (2026/06/06 訪問)

塔の岡から徒厳島神社本殿入口に向かい、本殿を観光しながら海上大鳥居を見ました。土曜日だったので観光客で一杯でしたが、なるべく観光客がいないアングルで写真を撮りました。

嚴島神社の御本社は、大鳥居の先にあり、広さ約271平方メートルの本殿は日本最大級です。
本殿は毛利元就が1571年(元亀2年)に改築したもので、拝殿や祓殿は1241年(仁治2年)の再建当時のもので、すべて国宝です。
主祭神の市杵島姫命をはじめとする三女神が祀られています。
かつては「嚴島弁財天」とも呼ばれていましたが、明治維新時の神仏分離令により弁財天は大願寺に移されました。

海上大鳥居は平安時代の文化の特色が色濃く残る日本屈指の名社・嚴島神社のシンボル的建造物です。
海面に高さ約16.6m・重さ約60tの、主柱周り約9.9m、棟の長さ約24.2mの木造両部鳥居(四脚鳥居)がそびえ立つ。
現在の大鳥居は1875年(明治8年)に再建されたもので、平安時代から数えて8代目にあたり、建立するにあたっては巨木探しに20年もの歳月を要したと言われています。
奈良の大仏とほぼ同じ高さを誇る鳥居の根元は海底に埋められておらず、松材の杭を打って地盤を強化し自重で立っているのが特徴です。
朱塗りの大鳥居は、「厳島神社」を象徴する建造物で海中に立つ景観はとても有名です。
観光時間は10分くらいでした。次の攻城先=勝山城(城びと未登録 広島県廿日市市)へ徒歩で向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征27日目:宮尾城周辺観光(塔の岡) (2026/06/06 訪問)

御笠浜からすぐの場所にある塔の岡階段(34.296784、132.319762)に着きました。

1555年(天文24年)厳島合戦で毛利方の宮尾城を攻略するために厳島に上陸した陶晴賢は、はじめ勝山城に本陣を構えました。その後、本陣をより宮尾城に近い塔ノ岡へと移しました。
しかし、折からの暴風雨と夜陰に乗じて包ヶ浦に上陸した軍、大鳥居側の海から元就の3男小早川隆景の軍と、宮尾城の兵が呼応し厳島神社周辺で激戦となり、不意を突かれた陶軍は壊滅しました。
晴賢は僅かな兵と共に島の西部へ敗走しますが、なすすべなく山中で自刃しました(厳島合戦)。

塔の岡とは、宮島の厳島神社・五重塔が建っている小高い丘のことを指します。
もとは「宮崎」と呼ばれていましたが、五重塔が建てられてから、「塔の岡」と呼ばれるようになりました。
厳島合戦の際に、大内軍の本陣が置かれた所として有名ですが、それだけではなく、古来より「眼下に厳島神社を望む」重要な場所として五重塔や納経堂などが建てられました。
近世には豊臣秀吉が千畳閣(豊国神社)を建立したところでもあります。

五重塔は工事中でした。
観光時間は10分くらいでした。次の観光先=厳島神社本殿と海上大鳥居に徒歩で向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征27日目:宮尾城周辺観光(石の大鳥居・御笠浜) (2026/06/06 訪問)

宮尾城から徒歩5分ちょっとで石の大鳥居(34.297665、132.320068)に着き、そこから御笠浜(34.297215、132.319156)に向かいました。

石の大鳥居は、世界文化遺産のひとつである厳島神社の入り口に位置する大きな鳥居です。
御笠浜は石の大鳥居崎にある浜です。嚴島神社の参道で、海岸には石灯篭が並んでおり、目の前で大鳥居を見ることができる。
大鳥居の周辺では水遊びを楽しむことができるほか、引き潮の際は鳥居まで近づくことができるそうです。
大鳥居と陸が近いところからみる夕日は美しく、絶景スポットとしても親しまれているそうですが、訪れたのは朝9時前なので見れません。
観光時間は10分くらいでした。次の観光先=塔の岡に徒歩で向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征27日目:宮尾城 (2026/06/06 訪問)

宮尾城を攻城する為、広島駅からJR山陽本線とJR西日本宮島フェリーを利用して宮島港に着きました。
宮島港からすぐの場所に、要害山登り口(34.301072、132.321736)があります。

1555年(弘治元年)毛利元就によって築かれました。
1553年(天文22年)大内義隆が家臣陶晴賢に滅ぼされると義隆の姉婿である石見国津和野城の吉見正頼は陶氏打倒に立ちあがります。
陶氏、吉見氏双方から味方に付くように催促のあった毛利元就は意を決し陶氏を討つ為に挙兵します。
元就は安芸国南部の諸城を落とし宮尾城を築くとともに草津城・仁保城・桜尾城などの整備を行います。
陶軍約二万は宮尾城攻略のため厳島に上陸し勝山城に本陣を置き、さらに本陣を塔の岡へ進め籠城する宮尾城を攻め寄せます。これに対する籠城兵はわずかに300名余りだったそうです。
元就は能島、来島、因島の三島村上水軍を味方に付ける事に成功します。小早川隆景を海路から、元就・吉川元春が率いる主力は包ヶ浦に上陸し博奕尾を越えて陶本陣を急襲しました。
この結果、陶晴賢は自刃し大内家は急速に没落、やがて毛利氏に駆逐されました。
以上が、1555年(天文24年)毛利元就と陶晴賢が戦った「厳島の戦い」ですが、宮尾城はその舞台となった城です。
かつては元就が晴賢をおびき寄せるための囮として築城したとされていましたが、近年の研究では大内氏の城がそれ以前から存在しており、元就はそれを占拠し改修したとする説が有力のようです。

フェリー桟橋から厳島神社に向かうと、登城口の「要害山、厳島合戦史跡」の案内表示があり、5分も登れば要害山の小高い丘に到着し、その奥に今伊勢神社建てられています。
攻城時間は15分くらいでした。次の観光先=石の大鳥居・御笠浜に徒歩で向かいました。

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天守無しがアツい

浦賀道 (2026/07/20 訪問)

浦賀駅から西叶神社まで1km🚶‍♂️
その途中にも…写真として撮りたくなるものがありました

地元の中学生が描いた…江戸時代の浦賀(ペリー来航に吉田松陰など)

駅から神社までを繋ぐその道は…浦賀道といい…幕府と浦賀奉行所を結ぶ重要な道

ペリー来航の際は大勢の見物客がここを通って見に来た…そうですが、当時はトンネルも無く道が現在ほど整備されてない環境

金沢(金沢八景のあたり?)から船で浦賀まで行った方が…無理に陸路を進むよりも効率よかったそう🚣‍♂️

西叶神社に着いて…御朱印所で(天照大神を祀ってると聞いたので)伊勢神宮系列の神社かどうか尋ねる。もしそうなら(持参してきた)伊勢神宮で授与した御朱印帳に描いてもらう予定だったが…直接の関係はありませんと回答されたため…書置きのをいただく

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三原駅 (2026/07/23 訪問)

 久しぶりに行って来ました。小早川隆景によって築かれた城です。瀬戸内海に面した地に島を繋いで築かれた海城ですが、今は周囲を埋め立てられその雰囲気はありません。天守台周辺以外の場所も少し散策しました。もう少し丁寧に散策すればまだ遺構はあったと思いますが、暑さに負けてさっさと撤退しました。

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舟隠し (2026/07/23 訪問)

 沼田小早川宣平の七男氏実がこの地を治めて浦氏と称しました。その子孫浦宗勝が本拠とした城です。公園として整備されています。舟隠しが見どころで、幸い干潮で中へ入ることができました。

 瀬戸内さざなみ線に乗りJR忠海駅下車。徒歩10分くらいで登城口に行くことができます。ちなみに瀬戸内さざなみ線とはJR呉線の三原駅から広駅までの愛称だそうです。

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ぴーかる

中泉陣屋 (2026/06/13 訪問)

【中泉陣屋】
<駐車場他>駐車場ないので、タイムス磐田駅前のコインPに駐車しました。
<交通手段>車

<感想>1泊2日東海ちょこ城道中3城目。中泉陣屋はかつて中泉御殿といって徳川家康の宿泊所だったのを、のちに天領の代官所として陣屋が造られました。
 先にJRの北側にある西願寺の移築裏門を見にいって、JRを渡って南側にある陣屋跡に行きました。公園に礎石残ってました。サッカーは全然詳しくない、ジュビロ磐田の名前は知ってる。

<満足度>◆◇◇

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つちのこ

須知城 (2026/07/19 訪問)

南北朝時代に須知氏によって築城されたといわれており、明智光秀による丹波攻めの際に落城、その後は丹波攻めの拠点として使われたらしいです。
京丹波観光協会で頂いた須知城のパンフによると、登り口は明石口と琴滝の2つがあるが、登りやすいのは明石から、とあったのでそちらから向かうことに。駐車場は麓の玉雲寺にありますが、カーナビで玉雲寺を設定すると山の反対側から向かう、一般車は通行不可のルートを案内されるので注意。パンフに記載されたとおりに向かえばたどり受けました。
明石登城口から約40分で頂上まで到着。休憩するようなスポットがなく歩きっぱなしです。登り切ると、そこから左右に曲輪が伸びています。3郭の石垣が綺麗に残っていました。主郭である1郭は脇からぐるっと回り込むと、4mの高石垣が見えました。下りは琴滝へ下りる道を下りました。確かに明石より急な坂でした。杉木立の森を抜けていくと、水量豊富な琴滝に出ます。 登城ですれ違う方は1組だけでしたが、琴滝には入れ替わり人が訪れていました。
帰りに玉雲寺にお邪魔したところ、境内には桔梗が見頃となっていました。このお寺は明智の丹波攻めの際に焼失したものの、明智光秀により再建されたといわれています。その繋がりで桔梗、なんでしょうか。

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トク

18【秀吉の天下分け目をたどる】山崎の戦い(秀長はここで何をしていた?) (2026/06/13 訪問)

天下分け目「山崎の戦い」を過去「明智光秀」の目線で追いましたが、今回は「羽柴秀長」目線で追ってみようと思い、再び天王山へ登りました。

新大阪駅の東横イン新幹線口東に宿泊した後、JR京都線快速(高槻から各停)に乗り山崎で下車しました(写真⑩)。この日は気温32度、山崎歴史資料館をざっと見て、夏恒例スマホのカメラが暑さでまた起動しなくなりそうだったので、駅前のコンビニで氷・ポカリスエット2本・汗拭きタオル2枚を買い、リュックに詰めてスマホを冷やしながら、万全の熱中症対策とカメラ対策で、いざ登山を開始します。

最初の「宝積寺」までの15分は舗装された急坂が続きます。宝積寺は秀吉が陣を張った場所とされています。土曜だったせいか、山崎の戦いの劇が催され、大勢の観光客が見物していました(写真⑤)。そこから自然遊歩道に入り、そして山頂にある「山崎城」へ向かいます。暑かったので、ゆっくり休み休みで登り、駅から約1時間30分かけて山頂へ到着しました。山崎城は、山崎の戦いが終わった翌月に、秀吉により山崎の地を統治するため築かれた城です。しかし大坂城が完成すると廃城になったようです。天守台や石垣がわずかに残っていました(写真①②③④)。しかし山頂からの眺望はわずかで、東大阪市あたりが少し見えただけでした。

でも途中の「旗立松展望台」からは、山崎合戦の地が一望できます(写真⑥⑦)。また絵巻による解説の大壁画もありました。これを眺めていると、またもやふと疑問が🤔?

絵巻では、合戦の様子を秀吉が天王山から眺めている姿が描かれています(写真⑨の赤矢印の部分です)。ドラマでもたぶん・・・そう描かれるだろうと思います。しかし当時の記録には、合戦が始まった頃に秀吉はまだ到着していなく、12km後方の富田に信孝とともにいた、そして合戦が終わる頃やっと後方4kmまでたどり着いたとあります。つまり合戦には、どうも間に合っていなかったようです。また布陣図(写真⑧)を見ると、秀長は天王山のこの旗立松から左の斜面に、官兵衛はそこからさらに左の斜面へ布陣しています。そして眼下の西国街道と淀川沿いの平地で先陣を切って戦っていたのは、中川清秀・高山右近・池田恒興です。 何か気づきませんか? そうです! 彼らは荒木村重の与力だった、村重を裏切って寝返った者たちです😯!

という事は・・・🤔? 「ひょうたんの旗印」をここ旗立松に立てたのは、もしかして秀長だったのではないでしょうか?(あくまで私の推測ですが・・)。まだ到着していない秀吉を、すでに到着しておまえたち三人をここから監視しているぞ! というふうに見せかけ、この三人が本当に秀吉に付く気があるのか、また裏切りはしないか、ここからまさかの時に備え、その時は自分が駆け下りようと、状況を見極めていたのではないでしょうか。結局この三人は、ひょうたんの旗印を見て必死になって戦い、ほぼこの三人の軍だけで明智軍を破ります。そして大勢が決まったのを見て、官兵衛は山を下り側面を攻め、勝龍寺城に追い討ちをかけています。光秀にとってもこの三人の寝返りは、誤算だったのかもしれません。逆に秀吉にとっては、天下への道が開けた、うれしい誤算だったのかもしれませんね。

でもドラマの次回予告編を見ると、これらの私の推測とは異なり、秀長と官兵衛は光秀を生け捕りにしようと、天王山に陣を張っていたとされているようです。そんな余裕があったとは、私にはとても思えないのですが・・🤔。むしろ逆で、官兵衛は本気で光秀の首を取ろうと、山を駆け下り勝龍寺城まで追って行ったのではないでしょうか?(本能寺での失敗を自分たちはしないために)。さあ皆さんの意見はいかに?(ところで与一郎はどうなるの😱?)

長くなりすいませんでした。
次は、秀長の(四国平定)を追って、長曾我部元親との決戦「一宮城」へ向かいます。
 

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