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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征30日目:金川陣屋(城びと未登録 岡山県岡山市) (2026/06/09 訪問)

金川駅から徒歩15分弱で、石垣付近(34.798887、133.935352)に着きました。

1632年(寛永9年)に岡山藩池田氏家老・日置忠俊によって築かれました。
1617年(元和3年)日置氏は池田光政が因幡鳥取へと国替えになった際には因幡鹿野を領していました。
1632年(寛永9年)池田光政の備前岡山への国替え従い金川へ入り14,000石を領しました。この時金川城跡の麓に陣屋を形成したと見られています。
日置氏は2代忠治の時に2,000石を加増され以後12代忠尚の時に明治を迎えました。

金川陣屋は岡山市北区役所御津支所の地に築かれていました。
東から南にかけて陣屋当時の石垣が現在も残っています。
観光時間は5分くらいでした。次の攻城先=金川城へ徒歩で向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征30日目:八浜城 (2026/06/09 訪問)

八浜市民センターバス停から徒歩10分弱で、両児山公園駐車ふたごやま(34.551577、133.940343)に着きました。
最初ナビの案内に従って歩いていましたが、途中、八浜城跡への案内標識を見つけ、その指示従って登城しました。予定より10分早く着きました。

1581年(天正9年)頃宇喜多氏によって築かれました。
1581年(天正9年)宇喜多直家が没すると、毛利氏は元就四男の穗田元清を大将として児島へ侵攻し、麦飯山城を拠点に児島を制圧しようとしました。
これに対抗して宇喜多氏は宇喜多忠家・基家を主将として八浜城に陣を構え、1582年(天正10年)柳畑の浜辺で合戦となり、宇喜多基家はこの戦いで流れ弾にあたって討死します。
宇喜多勢は浮き足立ち毛利軍の追撃を受けたが、八浜七本槍と呼ばれる武将の活躍で陣を立て直し、毛利の追撃を退けました。
その後は、秀吉と毛利氏の和議により境目の城である八浜城は役割を終えたとされます。

現在は両児山公園となっており、駐車場も完備されています。
畝状竪堀群がよく残っているのは北城の八浜八幡宮側で、公園になっている南城には城址碑があり、堀切と結合した折れを伴う横堀が一見の価値ありです。
攻城時間は30分くらいでした。次の攻城先=金川陣屋(城びと未登録 岡山県岡山市)を攻城する為、八浜市民センターバス停から両備バス玉野渋川特急線とJR津山線を利用して金川駅に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征30日目:常山城 (2026/06/09 訪問)

常山駅からから徒歩5分ちょっとで、常山駅側攻城口(34.529914、133.890692)に着きました。

文明年間(1469年〜1487年)上野氏によって築かれたといわれていますが定かではありません。
上野氏は松山城主三村元親の血縁となり一翼を担うが毛利氏が三村元親を松山城に攻め自刃させると最後の拠点である常山城に迫った。
1575年(天正3年)城兵わずか二百に対して毛利軍数千が押し寄せたため上野隆徳の妻(三村元親の妹)も鎧を身につけ侍女ともども奮戦し自害したと伝わっています。その後は毛利氏が城番を置きました。
1583年(天正11年)中国国分により、児島は宇喜多領となり、重臣の戸田秀安を置きました。 関ヶ原合戦で宇喜多氏が滅亡すると小早川秀秋が入封し重臣伊岐真利を置きました。
小早川氏断絶後に入封した池田氏はこの城を廃し下津井城の改修に資材を転用したといわれています。

城跡は案内板等も設置されていないので縄張図を持参した方が便利だと思います。
登城路は綺麗に整備されていますが、前日に降った雨で、滑ります。気を付けて登って行きます。
登城路や曲輪に石仏が多く設置され、井戸、曲輪、土塁、石垣があります。眺望は曇っていてよく見えませんでした。
攻城口から惣門丸まで30分、惣門丸から本丸まで10分でした。
本丸に展望台がありますが危険の為、登れません。
また北二の丸には鶴姫らを祀った「女軍の墓」があります。
攻城時間は90分くらいでした。次の攻城先=八浜城を攻城する為、常山駅からJR宇野みなと線と両備バスを利用して八浜市民センターバス停に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征30日目:早島陣屋 (2026/06/09 訪問)

早島駅から徒歩10分くらいで、戸川家陣屋址碑(34.604541、133.827426)に着きました。

1627年(寛永4年)庭瀬城主戸川達安が死去により遺領は嫡男正安が嗣ぎ、1628年(寛永5年)に正安は弟安尤に3,400石(早島戸川家)、安利に3,300石(帯江戸川家)分知して、両家は直参旗本に列せられました。
元禄年間(1688~1704年)2代安明の時、普請に取り掛かり完成したという陣屋跡。以後安宅まで13代旗本戸川家陣屋として明治まで続きます。
その後、1702年(元禄15年)に早島戸川家2代安明は、六男安通に中庄中島400石を与え分家させました。
庭瀬の戸川本家は4代安風で断絶するが、戸川達富が名跡を嗣いで備中撫川5,000石を領した。また、本家2代正安の子安成より妹尾戸川家が分知されました。

現在の早島小学校や戸川家記念館一帯が陣屋跡で堀跡や石橋が残されています。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=常山城へ向かう為、早島駅からJR瀬戸大橋線とJR宇野みなと線を利用して常山駅に向かいました。

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トク

地震で足止め

鹿児島のお城を巡っておりました。揺れてる! とは思いましたが、大丈夫だろうと高速バスで帰ろうと鹿児島中央駅まで来ると、止まっている😱! 明日も運休らしい (橋が崩落したらしい)。新幹線も止まっている。鹿児島から出られなくなってしまった😵~! 熊本城の石垣の一部にまた被害も出たとの事。大丈夫かな? 八代城は? 地震は恐いですね。ホテルも運良く取れたのて、何とかなるまで、しばらくもう少し、鹿児島で城巡ろうかな🤔? そのうち動くだろう (楽観的でしょうか?)

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にのまる

元陣屋 (2026/06/25 訪問)

モロラン陣屋見学後、バスで東室蘭→電車で白老→市街地循環バス“ぐるぽん”で陣屋資料館と移動しました。
今回の遠征で幕末から明治維新にかけての道南の歴史に触れてきましたが、ここ仙台藩白老元陣屋でもたくさんの知らなかったことを学べました。
(元陣屋の「元」が拠点という意味だということも初めて知りました。)
いくつかの陣屋をまわって、共通点もありますが、個別の事情や矜持による個性も感じられ、抗うことのできない時代の要請の中に身を置きつつも決断、団結、行動した人たちがいたことを知り得たのは大きな学びでした。

資料館見学後、現地に繰り出したのですが、内曲輪や鹽竈神社で満足していたら内曲輪を遥かに上回る広さの外曲輪が待ち受けており、遺跡調査中の虎口に、(過去にも終わりはないんだな)と感じたりもしました。以前は訪問先でブルーシートを見るとがっかりしたものですが、場数を踏むうちに、ブルーシートにわくわくするようになってきました。

思った以上に広かったのでバスに間に合わなかったら大変!走って戻り、最後に「ウポポイ(民族共生象徴空間)」に行きました。14時を過ぎていて参加型のイベントが少ないからということで入場料は半額でした。アイヌのことを学ぶ機会はあまりないので、帰りに本を一冊購入しました。(只今3冊併読していてまだ読み終えていません。)


新潟の浸水、朝田さん大丈夫でしょうか。
トクさん、九州のみなさん、ご無事でしょうか。
熊本城や八代城のことを思いますが、人命第一。どうかご無事でありますように。

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イオ

紀伊国統治の転換点 (2026/02/06 訪問)

室町中期に紀俊連が築いた城で、戦国期に太田左近が改修し、羽柴秀吉の紀州攻めでは最後まで抵抗するも、水攻めを受けて城兵の助命を条件に太田左近らが自害して開城。太田城は焼き払われて廃城となりました。

6年半ほど前に本丸跡(来迎寺)と大立寺の移築門、水攻め堤は見ていますが、周辺にいくつか見落としがあったので、近くの年金事務所に来たついでに登城しました。来迎寺の北東約100mには戦火から保護して太田城の守護神となった太田城毘沙門天が祀られています。来迎寺の北北東約120mの道路脇には「太田城跡の屋敷地」の説明板が立てられており、発掘調査で溝で区画された屋敷地と石組みの井戸跡が確認されているようです。和歌山駅東口から東に約280mの歩道脇(南側)には「太田城の堀跡」の説明板が立てられていて、堀幅約10m、深さ約3m、堀底からは鉄砲玉製造用の鉛のインゴットが発掘されているようです。和歌山駅東口駅前には太田城主 太田左近像と説明板が立てられていました。

この6年半の間にさらに整備されたようなので秀吉軍が築いた水攻め堤にも。信用金庫の駐車場、そして車道沿いから水攻め堤を眺めつつ向かうと、車道から南に入ってすぐに水攻め堤跡への案内表示が設けられていました。前はこんな登城(登堤?)ルートはなかったよな…と思いながら案内に従って進んだ先に水攻め堤があり、仮設の階段で堤に登れるようになっています。以前は文化住宅の前に立てられていた説明板が階段の脇に移設されていました。それだけと言ってしまえばそれだけですが、日本三大水攻めに数えられる水攻めの痕跡をこうして目にすることができるのはありがたいことです。

太田城の開城により紀伊国は紀州攻めの副将を務めた羽柴秀長に与えられ、紀南での一揆に悩まされつつも、和歌山城を築いて宗教勢力と土豪が割拠する難治の地とされた紀伊国を治めていくことになります。太田城はその転換点となった城なんですね。
 

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todo94

再度の飛島渡航失敗による代替攻城③の2 庄内神社、大宝館 (2026/07/18 訪問)

致道博物館からは、濠沿いに進んで裏手から庄内神社に向かいました。ぎりょうさんは私の前日に訪れていたのですね。庄内神社にそんなお宝の展示があったとは、全く気が付きませんでした。出羽三山神社に続いて1000円のお守りを購入することで頭がいっぱいだったのだと思います。

藤沢周平記念館はパスして、入館無料の大寶館へと向かいます。2027年3月30日まで開催される企画展・28代目木村庄之助と横綱柏戸のコーナーをはじめ、展示はくまなく拝見させていただきました。横綱柏戸記念館にも足を伸ばしてみようかと考えつつ、藩校致道館に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征29日目:明禅寺城 (2026/06/08 訪問)

今日の天気は曇のち15:00頃から雨の予報です。現在、雨が降っています。
沼城から車で20分弱で、恩徳寺北側駐車場(34.665681、133.962196)に着きました。
そこから、登山道入口(34.666015、133.962244)に徒歩で向かいました。

築城年代は定かではないようですが、1566年(永禄9年)宇喜多氏によって築かれたと云われています。
1567年(永禄10年)の「明禅寺崩れ」と呼ばれる戦いの舞台となったことでも知られています。
『備前軍記』などによれば、宇喜多直家に父三村家親を暗殺された三村元親が、報復のため備前に侵攻して明禅寺城を攻め落としました。
宇喜多氏は明禅寺城を奪還するために城を包囲したところ、三村元親が大軍を率いて後詰にきました。
宇喜多氏は明禅寺城を攻め落とし、その勢いで後詰の三村元親の軍勢も討ち破り大勝したそうです。
しかし、この合戦は後世編纂史料でしか確認されておらず、詳細は不明のようです。

雨の為、登城せず、登山道入口と恩徳寺の写真を撮って撤退しました。
攻城時間は10分くらいでした。本日の城巡りは、ここがラストです。
歩行歩数=31664歩、歩行距離=22.1Kmです。
岡山駅でレンタカーを返却し、本日の宿泊先に徒歩で向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征29日目:沼城 (2026/06/08 訪問)

今日の天気は曇のち15:00頃から雨の予報です。現在、雨は本降りです。
大廻小廻山城から車で10分ちょっとで、農道導入路近くの三角コーナ(34.705827、134.035562)に路駐しました。
そこから、宗形神社鳥居入口(34.705810、134.036295)に徒歩で向かいました。

築城年代は定かではないようですが、1532年(天文初年)頃に宇喜多直家の舅である、中山信正によって築かれました。
信正は金川城松田氏に従っていましたが、その勢力が衰えると天神山城浦上氏に従いました。
信正は1559年(永禄2年)直家によって謀殺され、その直家はのちに金光宗高をも謀殺して岡山城に居城を移すまで、沼城に14年間在城しました。
直家の後は舎弟浮田春家が砥石城から移りましたが、1602年(慶長6年)岡山に移封された小早川秀秋によって廃城となり、主要建造物は岡山城へと移築しました。

宗形神社への階段を上がれば本丸で、一段高い櫓台には宗形神社が鎮座しているようです。
大雨&路駐した場所が悪く走行車が気になった為、宗形神社鳥居入口で撤退しました。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=明禅寺城に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征29日目:大廻小廻山城 (2026/06/08 訪問)

今日の天気は曇のち15:00頃から雨の予報です。現在、雨は本降りです。
保木城から車で15分ちょっとで、あなぶきパーク瀬戸第1(34.725150、134.011785)に着きましたが駐車できませんでした。
しかたなく付近のセブンイレブンの駐車場を借りました。
そこから、一の木戸案内標識前(34.724983、134.013288)に徒歩で向かい、一の木戸を見学しました。
当初の計画では、一の木戸を見学後、常楽寺山門入口(34.719489、134.028421)に着き路駐し、常楽寺を見学。
その後、説明板前(34.721566、134.023204)に着き路駐し、説明板を確認する予定でした。
しかし、太鼓丸城(城びと未登録 岡山県和気町)と天神山城の攻城に時間を要した為、計画を変更し一の木戸の見学のみで攻城としました。

築城年代は定かではないようですが、七世紀頃に築かれた神籠石系の朝鮮式山城と推測されています。
663年(天智2年)白村江の戦いで唐・新羅連合に敗れた後、国内の防御を固める目的で築かれたようです。
また戦国時代には羽柴秀吉が毛利攻めの際、中腹にある築地山常楽寺で祈祷をしたあと、馬で小廻山を廻ったという話が伝わっているようです。

古代山城なので遺構は外周の土塁や水門跡になります。一番整備されている一の木戸と案内板付近の土塁跡を確認してきました。
攻城時間は45分)くらいでした。次の攻城先=沼城に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征29日目:保木城 (2026/06/08 訪問)

今日の天気は曇のち15:00頃から雨の予報です。現在、雨は本降りです。
天神山城から車で30分ちょっとで、瀬戸クリーンセンターゲート付近(34.774871、134.086442)に着き路駐する予定でしたが、立入禁止で進入できませんでした。

天文年間(1532年~1555年)宇喜多氏の家臣であった明石行雄(景親)・守重(全登)父子ら明石氏の居城として築かれたと云われています。
保木城主明石飛騨守景親は浦上氏の重臣でしたが、浦上氏が宇喜多直家に滅ぼされると宇喜多氏に従いました。
景親の子が明石全登で、宇喜多氏が関ケ原合戦で改易となったのちは牢人となり、1615年(慶長20年)大坂冬の陣で豊臣方として奮戦、敗走した後に廃城になったようです。

立入禁止の写真を撮って撤退しました。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=大廻小廻山城に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征29日目:天神山城 (2026/06/08 訪問)

今日の天気は曇のち15:00頃から雨の予報です。雨は小康状態です。
太鼓丸城(城びと未登録 岡山県和気町)から徒歩20分くらいで、天神山城の本丸に着きました。

1532年(享禄5年)浦上宗景によって築かれたと云われています。
1531年(享禄4年)浦上村宗が大坂の合戦で討死すると長男政宗が播磨国室津城を継ぎます。
しかし、宗景は兄の政宗が備前へ侵攻してきた尼子晴久と同盟を結んだことに反発して、備前の国人衆を率いて浦上氏を分裂させます。
そして、毛利元就と同盟して、政宗の勢力を駆逐し、1568年(永禄11年)頃には戦国大名としての地位を確立します。
1573年(天正元年)宗景は織田信長と結びますが、これに反対した重臣の宇喜多直家は独立し、1575年(天正3年)の「天神山城の戦い」で直家に攻められ落城しました。

和気美しい森より、太鼓丸城を経て攻城。城域は広いので、隈なく回られる方は時間に余裕を持って下さい。自分は時間の都合で本丸付近から引き返しました。
現在城址には土塁や空堀のほか、一部石垣の遺構も残っています。また本丸跡には「浦上遠江守宗景之城址」と書かれた石碑が建てられています。
整備が行き届いているお城ですが、往路より帰路の方がシンドイ山城は初めてでした。足元は、岩場が多い山道なのでスニーカーはNG。
攻城時間は40分くらいでした。次の攻城先=保木城に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征29日目:天神山城周辺(太鼓丸城(城びと未登録 岡山県和気町)) (2026/06/08 訪問)

今日の天気は曇のち15:00頃から雨の予報です。和気美しい森キャンプ場の駐車場に着いた時は本降り状態でした。
北曽根城から車で20分ちょっとで、和気美しい森キャンプ場の駐車場(34.843912、134.136591)に着きました。

室町時代以前に日笠青山城の出城として日笠氏が築城したと伝えられています。
その後、浦上宗景が、兄の正宗と袂を分かち、太鼓丸城に入り独立します。
1532年(享禄5年)浦上宗景が天神山城の築城に掛かり完成すると、この太鼓丸城は、天神山城の出城または物見台として機能しました。
宗景は、享禄5年(1532)より天神山城の築城に掛かり完成すると、この太鼓丸城は、天神山城の出城または物見台として機能しました。
1575年(天正3年)の「天神山城の戦い」で配下の宇喜多直家に天神山城を攻められ落城すると、天神山城ならびに太鼓丸城も廃城となりました。

和気美しい森キャンプ場の駐車場に着いた時は本降り状態でしたので、しばらく様子を見て小降りになったので登城開始です。
城域に入る箇所に害獣避けのフェンスがあり、自ら開ける必要があります。
すぐに根小屋の土塁が現れ、防獣柵を開けて、堀切を経て本丸です。城域は、綺麗に整備されており、とても見学し易いです。
主郭部にはけっこうしっかりした石垣がありました。和気美しい森より、太鼓丸城まで20分くらいです。
攻城時間は30分くらいでした。次の攻城先=天神山城に徒歩で向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征29日目:北曽根城 (2026/06/08 訪問)

今日の天気は曇のち15:00頃から雨の予報ですが、和気駅南駐車場についた12時前には小雨が降っていました。
富田松山城から車で25分くらいで、和気駅南駐車場(34.796376、134.152398)に着きました。
そこから、最上稲荷鳥居入口(34.799241、134.148300)に向かいました。

この城には最初、恒次(経次)氏が居城していたようです。恒次氏は和気郡新田庄内に地盤をもつ土豪で、1511年(永正8年)頃、恒次新左衛門尉家員なる者が和気にいたようです。
1553年頃(天文後期)天神山城に浦上宗景が蜂起し兄政宗に叛旗をひるがえすと、政宗は恒次新左衛門と森氏を恩賞をもって誘い、味方して天神山城の通路をふさぐよう命じています。
恒次氏らの不穏な動きを知った宗景は、先手を打って彼らを攻撃し、未然に滅ぼしたそうです。
恒次氏を押えて和気地方を制した宗景は、北曽根城に宿老明石行雄(景親)の弟(長男とも)である明石三郎左衛門景行を入城させます。
1568年(永禄11年)景行は城の東にある由加神社に征矢を寄進しています。主君宗景は播磨出兵に着手しており、戦勝を祈願して奉納したのかもしれません。
1574年(天正2年)宇喜多直家が浦上氏から離反し毛利輝元を頼んで謀叛すると、景行は行雄とともに宇喜多氏方についています。
景行は直家に仕え活躍したものの、1577年(天正5年)「上月城の戦い」で羽柴秀吉に敗れ、討死しました。
その後、一族の明石右近が城主となりましたが、豊臣秀吉の朝鮮出兵に従軍し1593年(文録2年)戦死したため廃城となりました。

和気富士の頂上にあり、和気駅からだと徒歩30分ほど、攻城口からだと20分くらいで着きます。
攻城口から、ずっと階段を登って行く感じです。和気富士と言われるだけあって、美しい形の山で、登っていく途中の景色も良かったです。
現在城址には石垣や土塁などの遺構が良好に保存されていました。
攻城時間は60分くらいでした。次の攻城先=太鼓丸城(城びと未登録 岡山県和気町)に向かいました。

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ぴーかる

長者屋敷 (2026/06/13 訪問)

【長者屋敷】
<駐車場他>入り口に駐車スペースあり。
<交通手段>車

<見所>土塁
<感想>1泊2日東海ちょこ城道中5城目。現地説明板によると長者屋敷は奈良時代のはじめころの役所跡であることが有力になったそうです。東西100m、南北60mの四方堀と土塁囲みの曲輪になっていて、堀の外側に曲輪より高い土塁になっているのが特徴です。また正面の南側は堀と土塁が2重構造となっています。行きませんでしたが、周辺に古墳跡の遺構もあるようです。奈良時代には100m程の四方土塁囲みの城があった事が非常に興味深くて、珍しいので満足度高めに。

<満足度>◆◆◇

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todo94

再度の飛島渡航失敗による代替攻城③の1 致道博物館 (2026/07/18 訪問)

出羽三山神社からの転戦です。まだ城カードは発売されていませんし、2度目のスタンプラリーのスタンプはすでに捺印済みですので、純粋に城を楽しむことが目的です。三連休ということで致道博物館の駐車場はさすがに満車でした。鶴岡公園西駐車場に車を停めて致道博物館へと向かいます。国宝展示もあるという武装美伝~刀剣と甲冑~は、国宝の刀剣が目玉のようでした。個人的には、現在、安部龍太郎の「家康」を読み進めているところですので、徳川四天王の酒井忠次拝領の国宝の太刀に加え、酒井忠次所用の甲冑、陣羽織なども拝むことができたのはとてもラッキーでした。それぞれの建物内の展示や庭園など、十分に致道博物館を味わい尽くして、庄内神社へと向かいます。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征29日目:富田松山城 (2026/06/08 訪問)

今日の天気は曇のち15:00頃から雨の予報です。品川グランド前案内板付近空スペースについたのは10時過ぎですが、雲行きが怪しくなってきました。
富田茶臼山城から車で10分くらいで、品川グランド前案内板付近空スペース(34.742550、134.198883)に着きました。
そこから、焼き物の窯元の脇にある登城口(34.742433、134.198435)はすぐです。

詳しい築城年代は不明ですが、富田茶臼山城と同じく応仁から文明年間(1467~1486)三石城主・浦上村宗が備中の松田氏に備えて築いた支城だといわれています。
1531年(享禄4年)浦上村宗が大坂の合戦で討死すると播磨国室津城を長男政宗が継ぎますが、弟宗景と国秀が政宗と不和となり、宗景は天神山城を築き、国秀は富田松山城を改築して居城としました。
1532年(享禄5年)政宗は軍を起こし三石城を攻略した後、富田松山城に来襲し国秀は降伏しました。
政宗は松山城を拠点として片上に兵を出してきた宗景と退治したが決着はつかず、双方が軍を引き上げ終戦となります。
政宗は三石城と富田松山城に城番を置きますが、政宗の勢力が衰退すると宗景の勢力の及ぶところとなり、浦上景行が城主となりました。
1577年(天正5年)宇喜多直家の台頭によって天神山城が攻略され浦上宗景は播磨へ逃走すると、富田松山城も宇喜多氏の手に落ちました。

焼き物の窯元の脇にある登城口から東出丸、大手曲輪、井戸を経由して主郭に到達しました。
登山道は良く整備されており、歩きやすいです。眺望は東出丸や本丸などでに楽しめますが、登城した日の天気はどんよりした曇空で、ちょっと残念でした。
遺構として、堀切、土塁、虎口、井戸などが確認できます。堀切は特にオススメです。
15:00頃から雨の予報でしたが、11時過ぎ頃から雨が降りはじめました。
攻城時間は70分くらいでした。次の攻城先=北曽根城に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征29日目:富田茶臼山城 (2026/06/08 訪問)

今日の天気は曇のち15:00頃から雨の予報です。
福岡城から車で20分くらいで、茶臼山公園駐車場(34.741832、134.179006)に着きました。

詳しい築城年代は不明ですが、富田松山城と同じく応仁から文明年間(1467~1486)の築城だといわれています。
富田松山城の出城として築かれたと伝わり、応仁年間の城主は、生田玄利と言われています。

現在、茶臼山公園となっていて、遺構はありません。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=富田松山城に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征29日目:福岡城 (2026/06/08 訪問)

今日の天気は曇のち15:00頃から雨の予報です。
砥石城から車で20分くらいで、福岡駐車場(34.703892、134.090067)に着き、妙興寺に向かい宇喜多興家と黒田高政の墓を確認しました。

築城年代は定かではないようですが、鎌倉時代末期に頓宮四郎左衛門が築城したとされます。
1336年(建武3年)足利尊氏が九州へ退いて兵を募り再び京へ攻め上った際に、南朝系の頓宮四郎は足利氏によってこの地を追われました。その後は、足利方の佐々木氏、続いて赤松氏の所領となりました。
1350年(観応元年・正平5年)足利直冬が少弐氏と結んで一色氏を駆逐し勢力を拡大すると、足利尊氏自ら直冬討伐の兵を率いて西進し、福岡城にて四十日余りを過ごしています。
1441年(嘉吉元年)嘉吉の乱により赤松氏が没落すると山名教之が備前守護となり、守護代として小鴨大和守が福岡城に入ります。
応仁の乱で再興した赤松政則が文明元年(1469年)福岡城を奪還しました。
1483年(文明15年)赤松氏の被官で金川城主の松田元成がかねてより横領していたことから、赤松正則は浦上則国に元成の討伐を命じました。
松田元成は秘かに通じていた山名氏に援軍を要請し、浦上則国が籠もる福岡城を攻め五十日余りの籠城の末、攻め落としました(福岡合戦)。
勢いにのる松田元成は浦上氏の居城三石城をも攻略せんと攻め寄せたが敗れ、自刃して果てました。
その後も浦上氏が守っていましたが、大永年間(1521年〜1528年)の大洪水により廃城となりました。

妙興寺に宇喜多興家公、黒田高政公の墓があります。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=富田茶臼山城に向かいました。

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