徳島駅前から[18]のバスに乗り40分、「一ノ宮札所前」で下車するとそこが登城口です(写真⑩)。帰りのバスは3時間後の便にターゲットをしぼって、ゆっくりと回る事にしました。続100スタンプを押し、一宮神社で安全を祈願し、さあ登城開始します!(写真①)。でも「おさるさん」もスタンプを押しに来るって書いてあるけど、本当なの??😱!(写真②)。
途中には、明神丸や才蔵丸という二つの出丸がありその間は堀切で遮断されていました。ここが本丸を守る防御の要のようです。そして登城開始から30分、健脚でない私でも意外と軽く山頂の本丸までたどり着く事ができました。そしてそこには野面積の見事な天守台と石垣があります(写真③④⑤)。この石垣は秀長の四国攻めの後に、その功で入った蜂須賀家政(正勝の子)が築いたとされています。
本丸から北を眺めると辰ヶ山が、東を眺めると遠く徳島市街や淡路島までかすかに見えました(写真⑧⑨)。天気もよくて、とても気持ちがよかったです。この後は、小倉丸や水ノ手丸や陰滝を通り、ぐるりと一周して戻りました。特に小倉丸周辺は、空堀や竪堀や土塁のパラダイスでした(写真⑥⑦)。石つぶての跡や、鎖をつたって降りる場所もスリルがあり、どの方向からも攻めるのは難しい、要塞堅固な城だと感じました。
1585年、体調を崩した秀吉に代わり、秀長は四国攻めの総大将を任されます。毛利軍は伊予に上陸、宇喜多軍は讃岐、そして秀長軍は阿波に上陸、3方向から攻めます。秀長は木津城を難なく攻め落とした後、5万の軍勢で長曾我部元親の家臣「谷忠兵衛」5千が籠城する「一宮城」を取り囲みました。長曾我部軍が最も頑強に抵抗したのがこの一宮城です。秀長軍の連日の攻撃にも屈せず、なかなか落ちる気配がありません。
そこで秀吉は、体調が回復したため自ら大坂城を出陣し、膠着状態を打開しようとしますが、秀長はそれを制止したそうです。ここまで来たからには、自分で最後まで決着をつけたかったのかもしれません。兄者は大坂に留まるようにと書状を送ったようです。
しかしこの後、戦いは予想外の方向に進みました。籠城する事1カ月、秀長の軍勢に囲まれ、兵糧や水の手も断たれ、兵力や鉄砲の数など全てに圧倒された忠兵衛は、戦う事をあきらめて戦場を抜け出し、長曾我部元親が陣を敷く白地城に行き、降伏するよう求めたそうです。元親は「おめおめと戻り、降伏せよとは何事か! 忠兵衛、腹を切れ!」と叱咤しますが、他の家臣も忠兵衛に同調したため、元親はここでやむなく降伏する道を選んだようです。
本丸からは、秀長の本陣があった辰ケ山が目の前に見えました(写真⑨)。当時あそこには豊臣の旗が無数になびき、眼下には5万の軍勢でぎっしり埋まっていたと思います。秀長軍に取り囲まれた谷忠兵衛は、この本丸でどれだけの恐怖におびえていたのでしょうか?
また逆に元親が降伏した時、秀長はどんな思いであの辰ケ山から、この一宮城を見つめていたのでしょうか? 「やったぞ!兄者~!」、総大将の役目を果たした秀長は、思わずそう叫んだのではないでしょうか・・・🤔。
次からは、秀長の(九州平定)をたどって行こうと思います。
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