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赤い城

信長を助けた朽木氏の城 (2026/07/12 訪問)

鎌倉時代から明治維新までこの地を治めた朽木氏の居城です。
有名な金ヶ崎の退き口の際、朽木元綱は朽木越えの道を案内し京へと逃しました。
近くには信長の隠れ岩もあります。

陣屋跡ですが駐車場があり、かつては資料館も建っていました。
現在は井戸跡と土塁、石垣の一部が残るだけです。
背後には詰城である西山城もありますがこの日は日帰りの予定なので登城は自重。
次に来れる機会があれば攻めたいな、と。

【見どころ】
 ・井戸跡
 ・土塁

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todo94

和泉の攻城⑧ (2026/07/11 訪問)

伯太陣屋からの転戦です。専稱寺が其の故地で門前の石柱に説明が彫り込まれていました。この日の攻城はこれにて終了。阪和線富木駅まで歩いて大阪駅にアクセスしました。阪急グランドビルの献血ルームはかつて25階にあったのですが、今は1階下の24階にあり、献血ルーム名も阪急グランドビル24になっています。久しぶりのトリマによる血小板成分献血はとても時間がかかりましたが、無事、858回目の献血を終えることができました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征25日目:仁保城 (2026/06/04 訪問)

水晶城から車で35分くらいで、黄金山公園駐車場(34.366512、132.490446)に着きました。

仁保城は武田氏の警固衆であった白井氏の支城のひとつであったと考えられています。
広島湾頭に浮かぶ要害の山城で、仁保島と呼ばれていたことから仁保島城ともいいます。1495年(明応4年)武田氏は府中城主白井光胤に仁保城の警護を命じました。
1541年(天文10年)武田氏滅亡後、独立した毛利元就の軍勢によって攻め落とされ、以後は香川氏が城番をつとめました。
1555年(弘治元年)「厳島の戦い」に先立っておこなわれた「仁保島合戦」では陶方の三浦房清の攻撃を香川光景が撃退しています。
その後、1591年(天正19年)までに毛利家臣の三浦元忠が仁保城を守っています。

現在は山頂に広島FM放送黄金山送信所が建っており、遺構はほとんど残っていません。
雨の影響で少しガスっていますが、広島市を360°見渡せる素晴らしい場所です。
車で攻城出来ますが、道幅はちょっと狭めです。
攻城時間は15分くらいでした。本日の城巡りは、ここがラストです。
歩行歩数=18362歩、歩行距離=12.8Kmです。
広島駅でレンタカーを返却して、本日の宿泊先に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征25日目:水晶城 (2026/06/04 訪問)

佐東銀山城から有料道路を利用して車で30分くらいで、臼山八幡神社下の空スペース(34.415150、132.380693)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、 源平合戦の時は源氏方の佐々木国正の居城であったようです。
1508年(永正5年)大内義興に従い上洛していた厳島神主藤原興親が亡くなると、厳島神領を大内氏の直轄領としました。
1518年(永正15年)大内氏の重臣であった杉甲斐守が水晶城の城番となります。
しかし、1523年(大永3年)厳島神主家の一族である友田興藤が、神主家の家督を相続できなかったことに不満を持ち、謀反を起こし水晶城を攻撃、城を捨てて逃走した杉甲斐守を討ち取ります。
乱の鎮圧後、水晶城には改めて麻生鎮里(麻生家宣の子とされる)が城番として入城し、その周辺の支配にあたりました。
しかし、1554年(天文23年)毛利元就と陶晴賢が敵対すると元就は佐伯郡の諸城を攻略した。 この時の城主麻生鎮里は元就に降伏しました。
毛利氏の支配が確定的となると、この水晶城よりも海に面した桜尾城が重要視されるようになり、また、城の規模が巨大過ぎて、多くの人員が確保できないと守れないというマイナス面も考慮され、この水晶城も廃城となったようです。

臼山八幡神社本殿階段下に登城口があります。
雨が降っているので山登りはせず、案内標識を確認して撤退です。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=仁保城に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征25日目:佐東銀山城 (2026/06/04 訪問)

八木城から車で35分くらいで、武田山憩の森駐車場(34.448154、132.451491)に着きました。

1221年(承久3年)承久の乱の後、恩賞として安芸国佐東郡を得た甲斐国守護・武田信光は、この武田山の麓に守護所を建て、安芸国佐東郡の経営に乗り出します。
1274年(文永11年)武田信時は元軍に備えるため、安芸国に下向し、その後、佐東銀山城が築城されます。
1299年(正安元年)桜尾城主平員家の攻撃により落城し、この後、現在の城域に築城、移転しました。
1517年永正14年)「有田中井手の戦い」で武田元繁が毛利元就の軍勢に敗れて討ち死にすると、安芸武田氏は衰退します。
1541年(天文10年)大内氏の命を受けた毛利元就に攻められた武田信実は、佐東銀山城を放棄して出雲国へ逃亡し、安芸武田氏は滅亡しました。
同年1541年(天文10年)大内義隆が佐東銀山城に冷泉隆豊を城番にして管理します。
1554年(天文23年)には「厳島の戦い」の前哨戦として元就は大内氏より佐東銀山城を奪取します。この後、城番は福井元信が務めました。
1591年(天正19年)広島城が、一応の完成を見ます。
1600年(慶長5年) 関ヶ原の戦いの後、毛利氏の防長移封に伴い、佐東銀山城は廃城となりました。

武田山憩いの森に駐車場がありますが、そこまでの道は住宅街のとても狭い道です。曲がり角で何度もタイヤが擦りそうになりました。
雨が降っているので山登りはせず、駐車場で撤退です。下りも狭い道を通るのが憂鬱です。レンタカーが軽自動車でよかった。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=水晶城に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征25日目:八木城 (2026/06/04 訪問)

恵下山城から車で5分くらいで、皆川樋門付近空スペース(34.483560、132.505330)に着きました。
そこから、登城口への進入ポイント(34.482962、132.503185)に向かいました。

1221年(後承久3年)の承久の乱で、戦功を立てた香川経景は安芸国八木を与えられ、その子香川景光が安芸国に移住して八木城を築城したと言われています。
景光のあと、安景、清景、行景、遠景、景春、景信、師景、方景、吉景、行景(行景には妻子無く舎弟元景が家督相続)、元景、光景まで13代の居城となりました。
香川氏は安芸国守護銀山城主武田氏に従っていました。
1517年(永正14年)有田中井手の戦いにおいて、安芸武田氏当主武田元繁やその傘下の熊谷氏当主熊谷元直が、毛利元就と宮庄経友率いる毛利吉川連合軍に敗北し討死しました。
時の香川氏当主香川行景は主の仇を討てないのは無念とし、敗残の兵を纏め己斐師道とともに突撃し討死しました。
元繁の死後の安芸武田氏は内部の混乱が続き、重臣同士の争いが頻発するようになります。
八木城もその混乱に巻き込まれ、同じく武田氏重臣であった品川左京亮の攻撃を受けています。
武田氏滅亡後、行景の弟元景は毛利氏に従い、厳島合戦では仁保島城に籠って陶方の軍勢を撃退しています。
毛利元就に従い、八木城はその居城として栄えましたが、1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いの敗北の結果、毛利氏の防長移封に従って萩に移り、八木城は廃城となりました。

主郭は平坦地があるのみで何もありません。
雨が降っている為、香川氏の祖鎌倉権五郎景政を祀る社がある2郭には行っていません。
攻城時間は25分くらいでした。次の攻城先=佐東銀山城に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征25日目:恵下山城 (2026/06/04 訪問)

七郎城から車で25分くらいで、セブンイレブンの駐車場(34.479797、132.511887)に着き駐車しました。
当初は円正寺駐車場に止める予定でしたが、計画書のGPS座標がセブンレブンの駐車場でした。
何度も計画書を修正する際、セブン駐車場のGPS座標のまま、名前だけ円正寺駐車場に修正したようです。

詳細は不明です。城主は金子氏とも伝えられていますが定かではありません。
金子氏は桓武平氏で武蔵七党の一つ村山党の庶家でしたが、承久の乱の功績によって安芸国の地頭となって当地に赴いたようです。

夕方からだと思った雨も降りだしており、長時間の駐車は申訳ないので、恵下山城方面の遠景写真を撮って攻城としました。
ちなみに、セブンイレブンでおにぎりとお茶を購入しました。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=八木城に向かいました。

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カズサン

五條新町通り重要伝統的建物群保存地区 (2026/07/19 訪問)

 松倉重政修築二見城城下町は五條新町として現在も栄えて居り、重要伝統的建物群保存地区として大切に守られている、吉野川舟着き場跡の辺りに、平成20年4月27日竣工した、五條新町通り新町公園、公園内に松倉豊後守重政之碑と傍に碑文石板が設置されて顕彰されている。これは松倉候二見城入城400年を記念したものだそうです。島原では苛政でしたが五條市五條新町通りの方々には感謝されております。
 当日は気温33℃34℃の日中でしたが、顕彰碑を中心に撮影しました、顕彰碑の前の伝統的建物黒漆喰のうだつの在る建物柿本家は立派な造りです。暑く人通りは有りませんでした。

 駐車場:五條代官所駐車場を利用、国道24号線北側で五條代官所長屋門東端下に成ります。10台位は可能。

 駐車場より国道24号線を渡り約150m南に五條新町通りが紀州街道伊勢街道として約600m連なっています。

 柿の葉すしが有名でしたが、暑さの中気温にさらされるので購入は断念しました。
 
 続に、五條代官所駐車場を利用しましたので五條代官所を投稿します。
   

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カズサン

松倉重政候、肥前島原城築城前の居城 (2026/07/19 訪問)

 二見城は中世二見氏館を前身にて、松倉重政は改易された筒井氏重臣の出身、関ケ原合戦戦功で1万石の大名に取り立てられた松倉重政が二見城を改修し五條藩を立藩。吉野川蛇行した河岸段丘東端に本丸(東西40間、南北30間)、二の丸を南北に連郭式、周囲に吉野川から水を引き水堀を廻らし、南に馬場、西に外郭を設けた。(二の丸北に在る、史跡二見城址の説明文による)
 現状は本丸に浄土山妙佳寺が鎮座、南二の丸に製材会社が営業、西側の水堀跡は本丸北から二の丸南まで埋めててられて製材部材、駐車場に成っている。
 約8年在城し、大阪夏の陣大和郡山城戦で更なる軍功を立て元和2年(1616年)肥前日野江城へ4万3千石で国替え、着任後島原城を築城し二見城は廃城となった。
 島原築城は4万石にしては過ぎたる城塞、立派な石垣造り白亜の天守、建物群、苛酷統治が後の島原の乱を誘発された。松倉重政は寛永7年(1630年)に暗殺されて、後を継いだ勝家は寛永15年の島原の乱の責任で徐封改易、津山藩お預けで斬首と成っている。

 先に訪ねた今井城から南西に約2km、本丸跡の浄土山妙佳寺の前に路駐し、周辺を探訪撮影、案内板が唯一の救い、言われて見ると内堀跡かなと思われる高低差、吉野川の河岸段丘の崖?土手の法面が東の護りか?
 松倉重政が作った城下町が五條新町通り重要伝統的建物群保存地区として残り現在の繁栄を築いており、住民には現在も感謝されて顕彰碑も出来ている。

 続く「五條新町通り重要伝統的建物群保存地区」の投稿をします。
 

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ぴーかる

相良城 (2026/06/13 訪問)

【相良城】
<駐車場他>牧之原市資料館駐車場
<交通手段>車

<感想>1泊2日東海ちょこ城道中2城目。ここも沢山の先達の方が登城しているので城の細かい説明は割愛します。江戸時代、田沼意次の5万数千石の城として天守もあったそうです。資料館が本丸跡になっていて、入口前に城跡碑と田沼意次像が並んであります。資料館は有料で入館券が御城印になっています。資料館は撮影禁止で、田沼意次の資料がメインにあります。資料館の西隣にある二の丸土塁見逃した~。

<満足度>◆◇◇

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イオ

三木合戦の本陣 (2026/01/18 訪問)

三木合戦において織田信忠が築いた付城で、羽柴秀吉に引き継がれて三木城包囲の指揮を執る本陣となりました。織田軍は三木城の周囲に付城群を築いて包囲しましたが、まず志染川・美嚢川北岸の山上に、次いで三木城の南の山上に、そして最終局面では三木城南側にさらに包囲を狭めて築いています。

西麓に整備された秀吉本陣跡駐車場から登城開始。説明板脇の登城口から愛宕社を過ぎて登って行くと兵の駐屯地として斜面を削平した段状の平坦地群が広がっています。平井山本陣は東西に続く尾根上に主郭部を、北に派生するいくつかの支尾根にそれぞれ段状の平坦地群を設けていて、かなりの人数が駐屯していたことが伺えます。尾根に出ると太閤道と呼ばれる尾根沿いの道をたどって主郭部へ。主郭部西端の主郭は三方を土塁で囲み、南西方向に三木城を見渡すことができます。主郭部中央の曲輪には古墳を改修したと思われる櫓台状の土盛りがあり、東端の曲輪は東端の三方に土塁をめぐらせていました。主郭部の東と南にも多くの平坦地群を擁する曲輪群があるので一応行ってみましたが、さすがに未整備でした。そして南の曲輪群に設けられた大手口で折り返して、平井山本陣をひとめぐり。段状の平坦地群があちこちに設けられているのはいかにも付城らしくていいんですが、防御設備が土塁くらいしかないのがちょっと物足りなくもありました。

なお、羽柴長秀(秀長)は大手口への登城ルートあたり(与呂木村上野)に布陣していたようで、別所軍が攻め寄せた際には秀長の軍勢が撃退しています。
 

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赤い城

遺構なのかどうかは (2026/07/12 訪問)

ニッポン城廻りのエリア限定イベントのためビワイチしてきました。
朽木陣屋の前に立ち寄りました。
国道367号線を北上、細川休憩所の前に車を置きました。

龍松寺の南側の道を登っていくと左に入る道があり、石垣もあります。
登ると広い削平地と廃屋がありました。
この辺りが曲輪のかと思われますが農耕地として利用されていた感じです。
背後の杉林のほうに進んでいくと段になって石垣がありますが遺構なのかは不明です。

この辺りは鮎釣りが盛んなようで近くを流れる安曇川には多くの釣り人がいらっしゃいました。

ところでこの日、高速で飛び石によりフロントガラスにヒビが😭
修理に出すのですが修理終了が8/9予定と。
イオさん、申し訳ありません。
かるた大会は欠席となります😓

【見どころ】
 ・遺構なのかは不明だが石垣

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todo94

和泉の攻城⑦ (2026/07/11 訪問)

貝吹山城からの転戦です。石碑のある近隣には遺構は残っていない様子。移築門があるという小谷城郷土館は7km以上も離れているので断念せざるを得ませんでした。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征25日目:七郎城 (2026/06/04 訪問)

日下津城から車で25分くらいで、説明板登城口付近空スペース(34.521384、132.623004)に着き路駐しました。

築城年代は定かではないようですが、三田氏によって築かれたと云われています。
三田氏は藤原姓で永井庄七郎が祖と伝えられますが、その出自は詳らかではなく、代々三田および永井を称したようです。
天文年間(1532年〜1555年)三田能登守元吉の頃には毛利氏に従っており、1556年(弘治2年)には佐東銀山城番を務めています。元吉の後は弟の元親が家督を継いで厳島合戦などに参陣しています。
元親の家督を付いだのは三田少輔七郎元実で1591年(天正19年)の八カ国御時代分限帳で1220石余を知行しています。
元実の後は三田五郎右衛門吉秀で朝鮮の役に従軍しましたが、帰国後伏見で没しています。
吉秀の後は三田久七郎で関ケ原合戦の後に防長二カ国に転封となった毛利氏に従ってこの地を去っています。

最初、案内標識を見落とし林道のような所まで登ってしまいました。赤テープを捜すが見つからず諦めて下山。
下山中のタンク50m先で案内標識を発見して登城できました。
登山口入口に説明板が設置されています。
堀切や巨大な二重空堀、崩れた高石垣跡らしき痕跡が確認できます。
攻城時間は55分くらいでした。次の攻城先=恵下山城に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征25日目:日下津城 (2026/06/04 訪問)

長見山城から車で10分ちょっとで、ゴミステーション横(34.606989、132.731281)に着き路駐しました。
そこから、登城口(34.605561、132.729625)に向かいました。

築城年代は定かではないようですが、1350年(観応元年・正平5年)以前に毛利親衡によって築かれたと云われています。
1352年(観応3年・正平7年)観応の擾乱において親衡・匡時父子は南朝に属したため北朝方の安芸守護武田氏信に攻められますが、約半年籠城し南朝方の直冬の援軍がくるまで「坂城」に籠っています。
その後、親衡の次男匡時が坂氏を名乗り、この地に土着しました。
1522年(大永2年)毛利氏が大内氏から尼子氏に属した後も、坂広時は大内方に留まることを主張したため、尼子経久から坂氏の攻撃を迫られた毛利元就は、やむなく日下津城を攻め広時を自刃させました。
坂広秀は1523年(大永3年)毛利元就が宗家を相続するにあたっては郡山入城を要請する書状に連署した重臣の一人でした。
翌1524年(大永4年)元就の異母弟相合元綱を担いで宗家を乗っ取ろうとする計画が失敗し謀殺されました。広秀の後は坂氏庶流の志道広良の子元貞が坂氏を継ぎました。
1541年(天文10年)大内家臣の杉氏が「坂要害」に入城しています。これらがこの日下津城にあたると言われています。

登城口から登ると墓地があり、その奥に獣除けの柵が設置されているので、外して入ることができます。
城跡には鋭い斜面を持った曲輪や、堀切、土塁、井戸跡などが残っています。
攻城時間は55分くらいでした。次の攻城先=七郎城に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征25日目:長見山城 (2026/06/04 訪問)

猿掛城から車で25分くらいで、ぴーかるさん投稿の退避場所(34.661175、132.738506)に着き路駐しました。ぴーかるさん、有難うございました。
そこから、長見山城跡登山口(34.660487、132.736594)に向かいました。

築城年代は定かではないようですが、南北朝時代に渡辺氏によって築かれたと云われています。
渡辺氏は摂津国西成郡渡辺発祥の嵯峨源氏で、1336年(建武3年・延元元年)毛利時親が安芸国吉田に下向したときに随行し、代々毛利氏の重臣として仕えました。
1524年(大永4年)渡辺太郎左衛門勝は、日下津城主坂広秀らと尼子の重臣亀井秀綱と通じて、毛利元就の異母弟である相合元綱を擁立しようと画策したが、陰謀は露呈し一族は誅殺されました。
このとき、勝の嫡男虎市は乳母に連れられ備後国甲山城の山内首藤直通を頼って難を逃れました。
虎市は後に渡辺太郎左衛門通と名乗り毛利家臣に復帰しました。1543年(天文12年)毛利元就は大内義隆に従って尼子氏の居城である出雲国月山富田城を攻めたが総崩れとなります。
毛利元就も安芸へ逃れようとしましたが尼子の追撃が激しく危うくなります。このとき渡辺通は毛利元就の甲冑を着用して身代わりとなり、尼子の追撃を引き受け討死しました。
渡辺通の功によって渡辺氏は重用されるようになり、通の嫡男渡辺石見守長は1550年(天文19年)に下麻原(下小原)300貫と代官職に任ぜられたそうです。

長見山城跡登山口そに長見山城登口の石碑があります。
現在は主郭にお堂があり参道がつけられています。
現在城址には堀切や連続竪堀群などを確認でき、本丸跡に小さな石碑が建てられています
浅くなってはいますが、随所に竪堀があります。
攻城時間は25分くらいでした。次の攻城先=日下津城に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征25日目:猿掛城 (2026/06/04 訪問)

五龍城から車で20分弱で、猿掛城跡石碑前(34.680465、132.660434)に着き、先に進んだ教善寺手前に駐車しました。

築城年代は定かではないようですが、明応年間(1492年〜1501年)に毛利元就の父である毛利弘元によって築かれたと云われています。
1500年(明応9年)家督を嫡男の毛利興元に譲ると、次男の松寿丸(後の元就)を連れて多治比猿掛城に隠居しました。
多治比猿掛城は毛利元就が青少年期を過ごした城で、この城で毛利隆元や五龍局も生まれました。
1506年(永正3年)弘元が没した後は毛利元就がそのまま多治比領と猿掛城はを受け継いで分家となりました。
1516年(永正13年)兄の毛利興元が没すると、幸松丸が家督を継ぎますが幼小であったため元就が後見人となりました。
1523年(大永3年)幸松丸もわずか九歳で夭折すると、毛利元就は家臣団に推されて毛利家の家督を継ぎ、吉田郡山城へ入城しました。

教善寺の第二駐車場(猿掛城登城者用)利用。3〜4台可。案内板と、縄張り図の設置あり。
教善寺に向かって100m先の右手に登城口有り。傾斜がきつく滑りやすいので充分な装備が必要。
教善寺の駐車場より約15分で頂上の本丸に到着。事前の予想より早く着いたが、思ったよりきつい登城であった。 時間の都合で出丸と物見丸は未訪問。
山の中腹には毛利弘元夫婦、御杉の方の墓や、弘元の菩提寺の教善寺があります。
攻城時間は45分くらいでした。次の攻城先=長見山城に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征25日目:五龍城 (2026/06/04 訪問)

ホテルから車で30分弱で、五龍城駐車場入口(34.698522、132.756212)に着きました。そこから裏参道から登城しました。

築城時期に関しては諸説あるようですが、南北町時代に宍戸朝家によって築かれたと云われています。
宍戸氏代々の居城で、やがて毛利氏とも争うようになりましたが、宍戸隆家の代に毛利元就の長女(五龍局)を正室に迎え、毛利一門となっています。
隆家は元就、隆元からも重用され、宍戸氏は一門筆頭の扱いを受けました。
五龍城は隆家の孫、9代元続の代に、毛利氏とともに防長へと移封した際に廃城となりました。

城址の遺構は保存状態がよく、土塁や堀切だけでなく、石垣も確認できます。
急勾配の場所に強度不足らしい手すりが付けてありました。
攻城時間は50分くらいでした。次の攻城先=猿掛城に向かいました。

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天守無しがアツい

勝海舟が断食したところ (2026/07/20 訪問)

元は後北条氏が房総里見氏からの攻撃に備えて築かれた城

ただ現在は…城跡というよりは東叶神社⛩️という色合いが強い

浦賀城址=東叶神社の敷地 みたいな

本堂左にある急な階段を登ると…勝海舟が断食したと伝わる場所がある

万延元年(1860年)…勝海舟は咸臨丸の艦長格として…太平洋航海に赴いたわけであるが…その前にこの地にて航海の安全祈願および断食修行🧘をおこなったそう

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カズサン

草刈され水堀・土塁が良く観察出来ました (2026/07/19 訪問)

 余湖図コレクションブログ俯瞰図を良く観て居り城跡の曲輪が奇跡的に水田としてそのまま残り航空写真で眺めても俯瞰図と一致、十数年前より是非探訪したいと思っており、平城京復原大極門・東楼見学に合わせてやっと訪ねる事が出来ました。
 参考資料:余湖図コレクションさんグーグルマップに依る。
 駐車所:無し、新今井団地北の児童公園側道に路駐(34°21'42"N 135°42'11"E h=130m)

 京奈和道五條ICより約1.7km新今井団地北の児童公園路傍に路駐し、徒歩で東の農道を南へ、西の道に廻り、草で茂ってる水堀と思っておりましたが、しっかりと草刈されて主郭の水堀、土塁が南側西側北側と良く観察する事が出来ました。西中央には土橋が架かり石碑が在る、石碑には「小山三箇城址」と刻まれている、三箇氏の城跡、北側の水堀と土塁は草刈がされて内外から眺める事が出来ました。大変ラッキーでした、草刈に感謝。
 周りの道は離合が困難な細い道で児童公園側の道に一時路駐が正解でした、ぐるっと回って約20分程、気温は33℃34℃の暑いさなかでしたが十数年振りに願いが叶い見る事が出来ました。
 写真10番目は余湖図コレクションの俯瞰図です、今回利用させて頂きました、感謝申し上げます。
     

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