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カズサン

高土塁の角部分-3/4 (2024/11/09 訪問)

 本郭内部と高土塁-2/4の続きです。

 本郭内部をざらっと見学撮影して東虎口より北周りに遊歩道沿いに散策探訪し、東西南北角々の高土塁が聳えて見事でしたので別編にして投稿させて頂きます。
 更に北東角、南東角は見事で櫓台を思させました、南東角には東屋が建てられていました、高土塁には東虎口、西虎口、南虎口から登る事が出来ます。

 水堀と散策路-4/4に続く。
 

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カズサン

本郭内部と高土塁-2/4 (2024/11/09 訪問)

 虎口の続きです。

 南虎口から入り北西に大きな欅が夕陽で紅葉が輝いて居る、本郭内部規模は東西約50~60m、南北約60~70m程でしょうか?、周囲の堀を入れると東西約100m程、南北120m程あるようです。本郭に入り北の高土塁、東の高土塁、西の高土塁を眺めて、北高土塁上より南高土塁・南虎口を望み、東高土塁上より西高土塁を望む。
 本郭内部南東に屋根掛けの井戸が有る「上三川七水・銀名水」と札が掛って居る。
 再度帰り際に南虎口から東、西、北の高土塁を眺め記憶にとどめる。
 
 高土塁の角部分-3/4に続く。

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イオ

とことん津山城(本丸東辺~北端) (2024/09/16 訪問)

(続き)

八番門跡から天守曲輪を出ると、本丸東辺に長大な石垣が見えます。宮川の断崖になっている東辺への備えとして築かれた南北80mにも及ぶ石垣で、石垣上の月見櫓や矢切櫓、太鼓櫓へと続く合坂も設けられています(立入禁止ですが)。石垣南端の石段は上れるようなので行ってみると、太鼓櫓跡の下を通って包櫓跡に行くことができました。いったん表鉄門跡を出て、包櫓跡に東接する十四番門跡から東辺石垣の外側へ。左手には太鼓櫓の石垣が聳え、右手の瓦櫓跡からは眼下の宮川を越えて東方向の眺望が広がっています。東辺石垣を外側から見上げつつ北端まで進むと、石段を下った右手に十二番門跡がありました。

石段を戻り月見櫓の麓を回り込んで十一番門跡から再び本丸に入ると、本丸北端には東側に小天守とも呼ばれた粟積櫓、西側に大戸櫓と長屋櫓が建ち並び、各櫓跡からは北方向の眺望が開けていました。

さて、これで本丸をひとめぐりしたので、搦手側に下りていきます(続く)。
 

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ぎりょう

広大な城柵・官衙遺跡に感動! (2024/11/08 訪問)

横手市・大仙市の二城目は払田柵を訪問しました。この夏から始めた古代城柵・官衙遺跡探訪の7カ所目です。この柵は文献に記載が無く、地名を取り払田柵跡と呼ばれています。ここは外郭の柵木の年輪の年代測定から9世紀初めの創建と考えられており、横手盆地の南に有った第一次雄勝城が北に移転された第二次雄勝城の遺跡とする説が有力のようです。東西1,370m、南北780mという規模は東北の城柵・官衙遺跡では最大級と言われています。
 東北各地に残る古代城柵・官衙遺跡は発掘調査後の埋め戻しや農地化、市街地化により、判りにくいケースが多いのですが、払田柵跡はほぼ全体が整備され、沖積地を外柵で、政庁が建つ丘陵部を外郭で囲む創建当時の広大な姿を判り易く観ることができました。
 外柵南門の前に総合案内所があり、発掘された柵木列や復元模型などを展示、解説動画も観ることができます。

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小城小次郎

攻められる度に落城しているのかも (2024/03/02 訪問)

麓に複数の城郭建築風建物があるがそれは温浴施設と美術館で標高400mを超える山頂付近に残るのが真の岩石城。豊前筑前の国境近くの要衝だけに度重なる戦いに巻き込まれ、その度に落城している不運な城でもある。

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しんちゃん

平清水南城 (2024/11/02 訪問)

平清水城は古市氏に従っていた平清水氏の城です。北城と南城(古城)があり、いずれも居館から発達した造りの城館であったようですが、南城の方はグラウンドの築造などにより形状をあまり留めていないようです。梅本神社の背後から尾根上まで登り、北上して散策、民家に突き当たった所で戻って来ました。北城を守る役割を担っていたのかは不明です。

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しんちゃん

楠木十七支城 (2024/11/02 訪問)

平石城は地元の豪族の平岩茂直が楠木氏の赤坂挙兵に応じて築いたと現地案内板に記されています。元弘元年(1331)茂直はこの城で河内に侵入してくる北条の軍勢を防いだとされています。正平14年(1359)楠木正儀は17の城を整備し、平石城も楠木十七支城の一つとして河内に攻め入った足利勢を防いだとされています。
府道から北上して行くと集落の建物の間から城址に向かう道が有ります。付近には車を停めるスペースは無いので注意が必要です。
標柱の有る場所から城址に向かって入っていくと、堀切がかかっていてその上の丘が主郭になります。主郭はそれなりに広く、西側にも腰郭が有りました。周囲の山で平になっている場所に出丸もあったようです。

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しんちゃん

石川氏河内領を治めるための陣屋。 (2024/11/02 訪問)

白木陣屋は石川氏河内領を治めるために寛文元年(1661)に築かれた陣屋(代官所)になります。石川氏が常陸国下館藩に移封された後も河内領と陣屋はそのまま残されました。石垣の上は畑地となり、周囲は草で覆われていますが東側にはかつての石垣を見ることが出来ます。

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しんちゃん

サクッと訪城 (2024/11/02 訪問)

北村城については詳細は良くわからないのですが、国人の喜多氏が居城としていたようです。最近できた道から訪問すると主要部に簡単にたどり着くようです。主郭の周囲に堀が巡っているのですが、この日は朝から雨で、堀は主郭から俯瞰するにとどめております。

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朝田 辰兵衛

久々の埼玉県を途中下車で…🚊 (2024/10/14 訪問)

この日は,押上駅から東武鉄道で大宮駅を目指しました。まだ,時間的に余裕があったので,草加駅にて途中下車。コインロッカーはショボく,キャリーバッグを収納不可でした…<泣>。
距離はあるけど高低差はなさそうなので,キャリーバッグを引きずりながら向かいました。
公園隣接地の土塁上に祠があり,危うく見落としそうになりました。

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トク

宇治平等院(紫式部ゆかりの地を訪ねて④) (2024/11/12 訪問)

平等院鳳凰堂を訪れました。見た瞬間に美しく言葉も出ない程に感動してしまいました。

平等院はかつて藤原氏の別荘で宇治殿と呼ばれていたそうです。藤原道長が病気療養のためその別荘に滞在し、大河ドラマでは、そこに紫式部(まひろ)が見舞いに訪れるシーンは、何かちょっとドキドキしてしまいました。

その後、疫病などが流行ったため、当時関白だった藤原頼道(道長の子)が疫病退散の意味を込め、阿弥陀如来を中央に鶴が羽を広げたような形の、民のよりどころとなる寺院として建て替え、後に上に鳳凰を載せた事から鳳凰堂と呼ばれるようになったそうです。そしてその時の寺院が何と1000年経った今でも残っている世界遺産なので、永遠に残り続けてほしいと願います。(写真①②③④)。また平等院の前には、宇治川の清流が流れ、紫式部の像もありました(写真⑥⑦⑧)。宇治橋を渡った先には、源氏物語ミュージアムもありました(写真⑤)。

私も道長や紫式部(まひろ)と同じように、宇治川のほとりに立ってみました。川のせせらぎの音や秋の風がとても心地よかったです。そして紫式部(まひろ)は、源氏物語の最終章(宇治十帖:浮舟)を、この地で書き終えたそうです。

 宇治橋の
 ながき契りは
 朽ちせじを
 あやぶむかたに
 心さわぐな

宇治橋は、洪水や地震や戦乱のたびに落ち、何度も架け替えられたとか。しかし私たちの長い契りは朽ちないので心配なさらぬように・・・

病から復帰した道長は、三条天皇を譲位させ、自分の孫(敦成親王)を天皇(後一条天皇)にしますがまだ幼く何もできないため、後見職の摂政となり、やりたい放題の栄華を極めていきます。

 この世をば
 我が世とぞ思ふ
 望月の
 欠けたることも
 なしと思へば

源氏物語を書き終えた紫式部(まひろ)は、娘の賢子(かたこ)を代わりに宮中へ上げる事を条件に、女房の職を辞して宮中を下り実家へ戻ります。そして今までの手紙や和歌などの整理をしていく内に、ふと夫の宣孝とやりとりした手紙と歌を見つけ、そこで宣孝がかつて赴任していた地である大宰府へ行ってみようと思い立ち、旅に出る事にしました。道長との気持ちに区切りをつけたかったのかもしれませんね。

P.S 紫式部は、宇治で書き終えた後の1014年(42才)で亡くなったという説と、大宰府へ旅立った後の1031年に亡くなったという2説あり、どうやら大河ドラマは後者をとるようなので私も後者をとらせていただきます。あと宇治川を眺めながら食べた(お濃茶アイス)はおいしかったです😊(写真⑩)。

次は「大宰府政庁」へ続きます。
 

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駿府城

「出世の街 浜松 家康公祭り」に出店しました!

11月2日(土)・3日(日)に浜松城公園で開催された「出世の街 浜松 家康公祭り」に皆さま足を運ばれたでしょうか?
今年は徳川家康の次男・結城秀康生誕450周年をテーマに、歴史講演会やステージイベントが行われ、家康公ゆかりの自治体PRブースが出店しました。

静岡市も駿府城公園3施設・葵舟と共同で出店し、駿府城公園エリアのPRやノベルティ配布を行い、多くの方にお越しいただきました。ご来場いただいた皆さまありがとうございました。
次回は12月21日(土)・22日(日)にパシフィコ横浜ノースで開催される「お城EXPO」に出店予定です。歴史ファンの皆さまやお城好きの方に楽しんでいただけるようなブースを予定しておりますので、ぜひお越しください♪

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カズサン

虎口‐1/4 (2024/11/09 訪問)

 宇都宮城に次いで陽も有り南に上三川街道を約14km程に在る上三川城へ平成28年4月以来8年振りの登城をしました。
 
 駐車場:上三川城址公園駐車場南側約6~8台、トイレ完備
 参考資料:グーグルマップに依る。

 上三川城本郭は現在上三川城址公園として整備されて市民の憩いの場と成っています、整備に疑問を呈していらっしゃる方々もいらっしゃりますが私はこれはこれで良いので可と思っています。
 歴史は案内板によると、建長元年(1249年)宇都宮氏の一族である横田越中守頼業が築いた以来慶長2年(1597年)に芳賀高武に攻められて落城、348年間続いた城です。
 また規模は東西400~500m、南北1000mの範囲に群郭式の広大な構えで本郭が現存しています。

 駐車場から案内板、トイレ横を通り南虎口、土橋、南虎口は左右模擬石垣で立派に構えています、南手前には水堀、東側には水堀上に周辺散策路の木橋が掛っています、周囲は高土塁が囲み外側には水堀が廻っており方形の郭です、虎口は、南側、東側、西側に三ヶ所、外周には散策路が廻らされています。周囲は北に幼稚園、住宅街に囲まれています、土塁上には樹木、桜が植栽されて春、夏、秋と木々の潤いが整備されています。
 当日は子供たちが遊び、大人もスポーツ遊戯を楽しまれていました。
 沢山撮りましたので4編に分けて投稿致します、第1編は虎口で纏めました。

 本郭内部と高土塁-2/4に続く。
 

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イオ

とことん津山城(本丸~天守曲輪) (2024/09/16 訪問)

(続き)

表鉄門は門扉を鉄板で覆い門内にコの字型に櫓をめぐらせた本丸の正門にあたる厳重な櫓門でしたが、門を抜けて石段を上った左手の櫓南西端が本丸御殿の玄関になっていて、櫓内を通り抜けて本丸御殿に入るという独特な造りだったようです。本丸御殿は本丸を埋め尽くすように建てられ、奥向へ続く箇所には台処門や十番門が設けられていましたが、本丸に建物は現存せず、表鉄門南西の使者櫓、さらに南辺を備中櫓まで続いていた到来櫓と長局も遺らず、長局跡に藤棚とベンチが設けられているのみです。

築城400年を記念して復元された備中櫓に入って100名城スタンプを押印。四足門から切手門へ至る大手道を見下ろす櫓だけに狭間があるのは当然としても、畳敷きに竿縁天井、壁に唐紙、柱に金漆塗の釘隠しというのは櫓というより御殿だよな…と思っていたら、長局を通じて本丸御殿と繋がっていて奥向きの御殿として活用されていたと考えられるとのこと。なるほど納得です。備中櫓から五番門跡を抜けて天守曲輪へ。五番門南側の石垣は変形に伴って積み直した際に土塀と雁木が復元されています。天守曲輪の西半分は多門櫓で囲まれていて、北西隅と南西隅は二階建てになっていましたが、現在は平面表示により櫓跡の位置を確認できるくらいです。

天守台南側の六番門跡(礎石あり)から東側に回り込んで、石段を上ると天守台の穴蔵に至ります。穴蔵には天守を支えた礎石列と「愛の奇石」と呼ばれるハート型の石垣石が見られ、廃城後に設けられた石段から天守台に上ると、城内と城下を360度見渡すことができます。往時はここに四重五階の壮大な層塔型天守が建っていましたが、廃城令により破却されています…。天守台の北側には、石段を下りて左に折れたところに七番門が設けられ、腰曲輪を経て搦手の二の丸に通じていました。門の外には高さ約3mの石垣がああるため、普段は木の階段を用いて通行(戦時には取り外す)していたようです。天守曲輪北東隅の長櫓に南接する八番門跡から天守曲輪を出て、今度は本丸の東辺に向かいます(続く)。
 

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todo94

『YOASOBI 5th ANNIVERSARY DOME LIVE 2024 “超現実” 』前の攻城② (2024/11/09 訪問)

石浜城からの転戦です。南千住で東京メトロの24時間券を購入し、北千住にアクセス。北千住から徒歩にてアプローチしました。中曽根神社がその故地で城址碑と説明板がありました。

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天守無しがアツい

慶長期の天守は五層…今は三層 (2024/11/03 訪問)

(1回目の訪問)
当初、私は鈴鹿サーキットでF1レースを観戦しようかと思っていました。しかし現地を訪問する前日に、台風の本土上陸に備え、レースを中止するという知らせがHPでアップされたのでした…🌀

「レースが無いなら、行っても仕方ないな…。別の場所にしよう。」と私は思い、選んだのが伊賀上野市にある、忍者屋敷でした。まず名古屋まで新幹線で移動し、そこから私鉄を乗り継いで(名古屋から2時間ほどかかったと思います)伊賀上野に到着🚃

名古屋から直通のバスもあるそうなのですが、それも台風のせいで運行中止…。台風は人々を色々と不便にさせます…。でも忍者屋敷はいつもどおり営業しており、中を見学させていただきました。くのいちに扮したスタッフが中を案内してくれました。

からくり屋敷とも言えるこの屋敷は、扉が回転したり、隠し部屋があったりしました。何せここ伊賀は忍者伝説の地ですから、ここは忍者の生産地、つまりナルトで言えば「木の葉隠れの里」みたいなものだったのでしょう…🥷

スタッフの案内が終わった後、忍者道具(手裏剣や槍)の展示物を見たり、ビデオで忍者の格闘術を見ました。剣を持った相手を無手で倒すという技です…。色々技がありましたが、どうやら忍者というものは(一日100km移動しても平気という説があるから)持久力も戦闘スキルも必要だったようです

つまり、忍者にならマラソン大会なんてフルマラソンでもへっちゃら。筋肉痛なんて少しもならなかったのではないでしょうか…(笑)

忍者屋敷の近くには「伊賀上野城」という城もあり、そこも入ってみました。小さめの城でしたが、甲冑を体験できたので試着してみました。総量5kgのレプリカでしたが、そのわずか5kgでも結構重かったです。実際は20kgのを装着していたと、年配のスタッフが語っていました。

大将クラスだとより良い甲冑を装着していたそうです。それは一般的な甲冑よりも重いと予想できるから、少なくとも20kgを超える重さだったようです…。

「あんな重い甲冑を着ながら馬に乗ったり、刀を振るったり、弓を引いたり…。当時の人間の体力は現代人離れしてないか…?」とかなり感じました。

駅前にはうどん屋があり、そこで忍者うどんをいただきました。うどんの下に具がたくさん埋まっている(隠されている)…

つまり軒下に身を潜める忍者をイメージしたのではないでしょうか…?その中に入っていたお餅が美味しかったですね。

(2回目の訪問…1回目から10年ほど経過)
あの時の補完をしに…ここも是非御城印購入と100名城スタンプを獲得したいところだったのですが…とうとう念願の再訪問

天守の入場券売場にてチケットと一緒に御城印を購入🎫 城主の藤堂高虎武将印も販売されていたのでそれも一緒に買いました。印帳(彦根城で入手)を持参してきたので、買ったばかりの御城印をホルダーに収納して撮影(1枚目右)

100名城スタンプはチケット売場左手に用意されており、一期一会のチャンスという事で逃さずに押印。どちらも天守(2枚目)の手前で済ませられたので、天守に入る必要は必ずしも無かったと思われますが…せっかく来たので(上記のとおり)買ったチケットで中に入りました🏯

天守は3階建て🏯 一層には(3枚目の)藤堂高虎像が来場者をお出迎えしてました。高虎は関ヶ原の合戦では(当時親交あった関係で)家康側…東軍の一員として活躍したため、その後32万石の大名となり、伊賀上野城と津城…両方の主になった…と説明書にありました(4枚目)

天守は(高虎が城主になる前)慶長期の頃は五層…5階建て…つまり現在のよりもゴージャスな造りだったそうです(4枚目に写る模型がそれ)。しかし(はっきりとした説明はされてませんでしたが)自然災害でそれが倒壊してしまい…現在の天守は1935年に民間の手で復興したもの(である事ははっきりと紹介されてた)

今回は甲冑体験は無く、2階には国内にある他の天守ありの城が写真展示。3階には伊賀市一帯のジオラマがありました。この城は木造のギシギシ鳴る階段のみが上の階と下の階を繋ぐ唯一のルート…昭和感のある天守と言えるでしょう🏯

見学が終わり外に出ると、少し離れた場所に天守台が。どうやら五層の天守があった頃に使用された場所と思われます。行ってもよかったのですが…次の場所に行くために時間に余裕無かったので遠くから眺めるだけにしました

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しんちゃん

姫路城 (2024/04/20 訪問)

久々に姫路城の写真を載せたくなりました。名古屋城も姫路城も写真が大量に残っていて、なかなか片付かないので、こうして番外編で時々載せさせていただきたいと思います。姫路城は多くの現存建築物と遺構を残している数少ない城ですね。「本物」の城のオーラが漂っています。
ところで入場料は結局のところ、いくらぐらいで落ち着くんだろう? 二千円以上だったら、何か特典が欲しいよね。

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しんちゃん

キャナルシティ・ラーメンスタジアム ららぽーと  (2022/12/31 訪問)

福岡県福岡市博多区のキャナルシティにはラーメンスタジアムがあって、バリエーション豊かなラーメンを楽しむことができます。お勧めはなんといっても長浜ナンバーワンの長浜ラーメンですね。骨太な長浜ラーメンだけあって客層もなんかゴツイです。私は本場の豚骨ラーメンを食べるときはライスを一緒に食べるようにしています。胃腸がそんなに強くないんですね。
キャナルシティには「THE GUNDAM BASE FUKUOKA」もあって限定品のガンプラを買うことが出来ます。シナンジュの青い奴が出るみたいで、できれば欲しいけど、どうせすぐ売り切れるんだろうな‥。
同じ博多区のららぽーと福岡には、実物大のニューガンダムの立像があります。「GUNDAM SIDE-F」では限定品のガンプラを買うことができます。なんか博多区はやたらとガンダム関係に恵まれていますね。ちょっと羨ましいぞ。
ここには2mぐらいの大きなサザビーとニューガンダムのスタチューがあります。パッと見、RG(リアルグレード)を大型化した感じですね。私はこの2体のモビルスーツが大好きなんですよ。要はサザビーの写真を載せたかったわけでして‥。

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しんちゃん

太陽公園  姫路市打越 (2024/04/20 訪問)

兵庫県姫路市打越にある太陽公園は「城のエリア」と麓の「石のエリア」の二つに分かれています。城のエリアには某白鳥城にソックリの城形建造物があり、モノレールで丘の上まで上がることが出来ます。城の内部はトリックアートなどの展示が置かれています。
石のエリアには世界の石像のイミテーションが置かれ、最大の目玉は中国の始皇帝陵を模した兵馬俑博物館です。実際に訪問して満足感を得られるかは、その人個人によると思いますが‥。

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ぴーかる

北比良城 (2024/11/03 訪問)

【北比良城】
<駐車場他>「北比良旧船溜まり公園」の駐車場4台程に駐車しました。
<交通手段>車

<感想>北比良城の詳細はよく分かりません。1582年に田中定光が在城し、織田信長に背いたため攻められ落城したとされます。西近江で1582年本能寺の変、明智光秀と関連がありそうな気がします。現地に遺構は残っておらず、福田寺境内に石碑があります。駐車した船溜まり跡公園は少し窪地が残っています。城がある頃も船溜まりは城の1部として機能して、湖面に接した城であったろうと思います。琵琶湖から対岸の沖島や八幡山が見えます。西側は比良山地の高い山々が迫っていて平地が狭い。

<満足度>◆◇◇

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