岡山の海側の玉野市にある山城。
車で頂上付近まで行くことができ、登山道もちゃんと整備されており登りやすい。古ぼけているけど案内板も随所に配置されていて、歴史や成り立ちを知ることができて嬉しい。頂上である本丸からの景色も絶景!
曲輪がしっかり残っており石垣も確認できた。ただ、下調べが足らず、本丸裏側や兵庫丸にある石垣を見逃してしまった・・・
次来ることがあれば、ちゃんと見物したい。
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2026/06/29 17:23
瀬戸内海を臨む山城 (2026/06/19 訪問)
岡山の海側の玉野市にある山城。
車で頂上付近まで行くことができ、登山道もちゃんと整備されており登りやすい。古ぼけているけど案内板も随所に配置されていて、歴史や成り立ちを知ることができて嬉しい。頂上である本丸からの景色も絶景!
曲輪がしっかり残っており石垣も確認できた。ただ、下調べが足らず、本丸裏側や兵庫丸にある石垣を見逃してしまった・・・
次来ることがあれば、ちゃんと見物したい。
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2026/06/29 09:56
11【秀吉の播磨平定をたどる⑥】平井山(竹中半兵衛最期の地) (2026/06/12 訪問)
三木城から東へ5kmの所にある平井山にある秀吉の陣跡まで行ってきました。神戸鉄道の「上の丸」駅からさらに1駅の「恵比須」駅で下り、そこから気温32度と暑かったので、行きは登山口(駐車場)までタクシーを使い(1200円)、帰りは1時間かけて歩いて駅まで戻りました。登山口(写真①②)からは整備された自然遊歩道(太閤道)があり、約10分の軽い登りで本丸まで行く事ができます(写真③④⑤)。
登山口から300m下った場所には、三木城攻めの最中にここで亡くなった、竹中半兵衛の墓がありました(写真⑧⑨⑩)。今の発展した福岡市があるのは、松寿丸(=黒田長政)を匿ってくれた竹中半兵衛のおかげでもあるので、福岡市民として墓に手を合わせてきました。
本丸の木々の間からは三木城が見えました(写真⑥⑦)。あの周りには、蟻の這い出る隙間もないほどの羽柴の軍勢で取り囲まれていたと思います。そして秀吉と秀長は、ここからその様子を1年10カ月に渡り眺めていたのですね。
長い籠城戦を最後まで見届ける事ができなかった半兵衛は、どんな思いでこの平井山から三木城を眺め、そして亡くなって行ったのでしょうか? また秀吉や秀長は、どんな思いでここから別所長治の自刃する様子を見届けていたのでしょうか? 5年にも及ぶ長い播磨平定をかけた戦いが、ようやくこれで終結し、ほっと安堵した半面、干し殺しという残虐な方法とった事に、後ろめたい気持ちもあったのではないでしょうか・・・🤔。
しかしまたしても、ゆっくりしている暇はありません。鳥取城の山名豊国が毛利方に付いたため、信長から「因幡を攻めよ」との命が下ります。
次は鳥取城を訪れ、因幡平定をたどって行こうと思います。
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2026/06/29 08:10
大河ドラマ「真田丸」
「豊臣兄弟!」も毎週楽しみに観ていますが、Amazonプライムビデオで配信中の「真田丸」を本放送以来に観終えましたので、今さらながら印象的だった登場人物について少々…。
真田家が主人公のドラマとしては、NHK新大型時代劇枠で40年前に放映された「真田太平記」が強く印象に残っていますが、「真田丸」のキャスト発表で「真田太平記」で真田幸村を演じた草刈正雄さんが今度は真田昌幸を演じると聞いた時は、あの凛々しく格好良かった幸村が30年を経て昌幸になるなんて! と驚くと同時に、とはいえ「真田太平記」で丹波哲郎さんが演じた昌幸はまさに「稀代の謀将」「表裏比興の者」そのものだったので、あの昌幸を超えるのは並大抵じゃないよな…とも思っていました。そして10年ぶりに「真田丸」を観返してみて、超えるのではなく違う昌幸像を見せてもらったな、と改めて。「真田太平記」の昌幸はどんな局面でも動じることなく策をめぐらせていた印象でしたが、「真田丸」の昌幸は迷いもすれば弱音も吐き間違えもする。でも、考えてみればそれで当たり前なんですよね。我々は昌幸が戦国の荒波を乗り越えていくことを知っていますが、やってる本人にそんなことがわかるはずもなく、自分の判断に家族や家臣たちの命と人生が懸かっていると思えば、むしろ迷ったり悩んだりしないほうが不思議なわけで。そういう人間味のある昌幸だったように思います。
昌幸と並んで印象的だったのが上杉景勝です。「真田太平記」での印象は特に無く、主役級だった大河ドラマ「天地人」でも「寡黙で格好良い主君」以上の印象はありませんでしたが、「真田丸」では敬愛する謙信公のように義のために生きることを志ざしながらも、力及ばず果たせない自分を恥じている、そんな人物に描かれています。上杉の人質となった真田信繁を我が子のように慈しみ、信繫も景勝を慕っていましたが、上杉家と領民を守るために秀吉に屈し、家康の専横に立ち上がるも敗れて石高を大幅に減じられ、それでも長い物に巻かれて生き続ける景勝の胸中を思うと観ているこちらがいたたまれなくなるほどでした。けれどそれだけに、かつて「お主はわしのようにはなるな。この世に義があることを己自身の生き方で示してみせよ」と言って聞かせた信繁が、真田丸で徳川方の大軍を相手に堂々たる戦いを繰り広げている様子はまさに義の体現、自分がなりたくてなれなかった義に生きる姿を示してくれている…。「日の本一の兵!」 景勝の叫びが胸に響きます。「日の本一の兵」をこういう形にもってくるとは。誰に言われるより「真田丸」の景勝に言われると泣いてしまうじゃないですか。
この二人のほかにも、そんな御屋形さまに小言を言いつつもその思いを叶えようと力を尽くす直江兼続、傲岸不遜ながら不器用なまでに真っ直ぐな石田三成、信繁の義父となる大谷吉継はやっぱり格好良いし、本放送時には意識していなかった豊臣秀長は「真田丸」でもやはり豊臣政権のまとめ役として描かれていたり、改めて観返すといろいろと気付かされたり再認識したりすることがありました。1か月あまり投稿をサボってでも観た甲斐があったというものです(笑)
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2026/06/29 07:22
大人の休日俱楽部パス 飛島渡航失敗翌日・江戸城三十六見附めぐりの続き① (2026/06/28 訪問)
大人の休日俱楽部パスで新潟に前泊(山梨の地震で安全確認があり、新潟到着は23分、遅れました。)し、始発列車で酒田に向かい酒田港から飛島渡航を狙っていました。しかし、欠航のためあえなく断念。酒田では雨も風もなかったのですけれども。ぽっかりとあいてしまった土曜日の動きを思案しましたが、酒田の鉄道事情はとてもひどいものでした。新潟方面の列車は2時間も先なのです。結局、特急いなほで秋田駅に向かい、比内地鶏の究極親子丼を昼食にとって、秋田新幹線こまちで上京いたしました。酒田から新庄、山形へのアクセスがもう少しまともであったなら山形新幹線E8系に乗りたかったのですけれども。秋田経由と山形経由、東京着の時刻は10数分しか違わないというのはかなりの驚きでした。
日曜日は上越新幹線で長岡に行き、越乃Shu*kuraに乗車予定ですので、朝は東京でかなりの時間の余裕がありました。2025年9月の江戸城三十六見附めぐりの続きにチャレンジです。最初の神田橋門跡は神田橋公園が整備工事中でした。工事が完了したらまた訪れたいと思います。一ツ橋は、家康の入府時には既にあって一本の木を渡しただけの橋だったそうです。それゆえの命名とか。
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2026/06/29 05:59
(中国地方と兵庫県)遠征11日目:太閤ヶ原陣 (2026/05/21 訪問)
鳥取駅停から徒歩25分弱で、樗谿公園入口(35.498316、134.242127)に着きました。
1581年(天正9年)に羽柴秀吉の軍勢が吉川経家らが籠城する鳥取城を包囲して、いわゆる「鳥取の飢え殺し」と呼ばれる兵糧攻めを行った際に、秀吉が本陣を敷いたのがこの太閤ヶ平(たいこうがなる)です。
1580年(天正8年)羽柴秀吉は但馬・因幡へ侵攻を開始。但馬の山名祐豊らを降し、秀吉自ら1万の軍勢を率いて因幡へと進軍し鳥取城を包囲します。
城主山名豊国は、鹿野城に置かれた毛利方の因幡国衆の人質を押さえられ秀吉に降伏しました。
毛利方も山名豊国に不満を持つ家老中村春続・森下道誉ら調略し豊国を追放させ鳥取城を奪回しました。中村・森下氏は吉川元春に山名氏に代わる守将の派遣を要請します。
1581年(天正9年)吉川元春は一族の福光城主吉川経安の嫡男経家を鳥取城へ城督として派遣すると、羽柴秀吉は2万の大軍を率いて再度鳥取城を包囲して兵糧攻めを行います。
100日に及ぶ籠城戦で兵糧の尽きた毛利方は開城し、守将吉川経家は久松山山麓の真教寺にて自刃して果てました。
雨が降る中、太閤ヶ原陣まで3.7Kmを歩く気力が残っておらず登城口付近で断念しました。
太閤ヶ原陣は登城口付近で撤退しましたが一応、鳥取県のお城は全て攻城となります。
攻城時間は10分くらいでした。本日の城巡りは、ここがラストです。
本日の宿泊先に向かう為、樗谿公園やまびこ館前バス停から鳥取県鳥取市くる梨赤コースバスを利用して鳥取駅に向かい、ホテルで荷物を引き取った後、JR因美線で津山駅に向かいました。
歩行歩数=26625歩、歩行距離=18.6Kmです。
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2026/06/29 05:50
(中国地方と兵庫県)遠征11日目:鵯尾城 (2026/05/21 訪問)
西円通寺バス停から徒歩45分弱で、登城口付近(35.441857、134.190100)に着きました。
築城年代は定かではないようですが、天文年間(1532年〜1555年)頃に因幡山名氏の家臣・武田国信によって築かれたと云われています。
国信の子・高信の代に鵯尾城を弟又三郎に譲って鳥取城へ移ります。
因幡武田氏は若狭武田氏の庶流と云われ、因幡山名氏の家臣でしたが、武田高信のときに毛利に属して勢力を拡大し主家に背くようになったそうです。
武田氏は1563年(永禄6年)守護・山名氏に反抗し布勢天神山城より山名豊数を退却させるなど因幡国における優位な地位を築きます。
しかし、山名豊国・山中幸盛の軍勢に侵入され、1569年(永禄12年)芦屋城の戦いでは城主の武田又三郎が討死、一連の争いで大きく勢力を衰退させました。
1573年(天正元年)の甑山城における「たのも崩れ」以後、武田高信は山名・尼子軍に包囲された鳥取城を山名豊国に明け渡して鵯尾城へ退きました。(尼子再興軍による鳥取城の戦い)
1575年(天正3年)鵯尾城からも山名豊国によって追放され、高信は但馬国の塩冶高清を頼りますが、毛利氏からも見放され、1576年(天正4年)大義寺にて謀殺されました。
武田氏の追放後の鵯尾城は、1575年(天正3年)毛利方の武将・山田重直が在番していましたが、まもなく廃城になったようでする。
鵯尾城は玉津集落南西の山に築かれており、現在は登山道が整備されています。鵯尾神社鳥居付近に案内板があり、ここが登城口となります。
当初、鵯尾城は車(レンタカー)で攻城する予定でしたが、先人の「動物除けの柵が4ヶ所もつけられている」との投稿で車(レンタカー)で攻城するのを断念。(面倒くさいことは嫌いです)
「動物除けの柵」ですが、車の場合はその都度開ける必要がありますが、徒歩ならば開けなくても簡単に乗り越えられます。
鳥居から鵯尾神社まで400m、主郭まで1050mの歩行距離で、山頂の主郭には表示杭が建てられています。
山頂の主郭からの眺望は雨ともやの為、よく見えませんでした。
雨の中、歩き続けたので、カッパを着ていてもズボン、靴の中、上着(これは雨というより汗と思います)がグショグショです。
西円通寺バス停は屋根がついているので、上下一式着替えました。靴は替えがないので濡れたままです(靴下履き替えても靴の中が濡れているので意味ないですかど)。
攻城時間は90分くらいでした。次の攻城先=太閤ヶ原陣を攻城する為、西円通寺バス停から日ノ丸自動車バスを利用して鳥取駅に向かいました。
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2026/06/29 05:44
(中国地方と兵庫県)遠征11日目:景石城 (2026/05/21 訪問)
宿泊ホテルに荷物を預けて、鳥取駅からJR因美線を利用して用瀬駅に着きました。
用瀬駅から徒歩20分ちょっとで、登城口(35.344090、134.210796)に到着しました。
景石城の築城年代は定かではないようですが、1356年(延文元年)以前には築かれていたようで、因幡に進出した赤松氏が1360年(延文5年)景石城を手中にしますが、その後因幡守護・山名時氏によって奪還されました。
城主は景石氏・用瀬氏と続き、1580年(天正8年)には羽柴秀吉による鳥取城攻略の重要な拠点として使われますが、城主・磯部豊直が若桜城におもむき留守の間に山名豊国に城を奪われました。
1581年(天正9年)羽柴秀吉が再び鳥取城を攻めると、磯部豊直も戦功を挙げ、再び景石城主として3,000石が与えられました。
以来、城下町として用瀬宿を発展させたが、1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いで西軍に味方し改易されます。
その後、若桜城主山崎左馬允家盛の所領となり景石城にはその家臣が在城しましが、1615年(元和元年)の一国一城令によって廃城となりました。
雨の中、登山道を20分ほど登った堀切より先の岩場は、下山時きっと滑り危険と判断し三の丸の手前で登城を断念しました。
ここからの眺望も良かったので、山頂部主郭からの景色は素晴らしいだろうと想像しながら下山です。
攻城時間は40分くらいでした。次の攻城先=鵯尾城を攻城する為、用瀬駅前バス停から日ノ丸自動車バスを利用して西円通寺バス停に向かいました。
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2026/06/28 20:55
北東部の土橋が見逃せない文殊山城 (2026/02/14 訪問)
2月中旬に訪れた1つ目の城が愛知県新城市の文殊山城。
三河山間部の作手高原の西側、比高約120mの文殊山山頂部に築かれた単郭の城。
奥平氏が武田氏へ属するにあたり、1570年頃に築城された城の1つで、工事が遅れたものの武田からの強力な要請により一夜で築かれたとも伝わる。
現在は南麓にある善福寺の奥の院で、ハイキングコースの休息ポイントとしても整備されている土の城跡。
訪問時は西側の駐車場から入城。
四方に切岸と恐らく堀を備えた城で、南側には石段も設置されているが、小さな土橋の架かる東側の虎口が本来の虎口でしょう。
その虎口を上ると部分的に土塁が残り、立入は不可であったが物見櫓も立つ。
個人的に最も魅かれたのは、少し離れた北東部の土橋。堀は明瞭で、石積みらしきものも存在。
期待以上の遺構を残していた、私の城郭巡りの227城目でした。
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2026/06/28 18:57
2026/06/28 18:45
2026/06/28 18:23
2026/06/28 18:13
2026/06/28 18:04
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