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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征3日目:三刀屋じゃ山城 (2026/05/13 訪問)

三刀屋城(尼子十旗③)から車で5分ちょっとで、登山道入口付近(35.294211、132.857737)に着き路駐しました。
そこから、登城口(35.296280、132.858593)に向かいました。

1221年(承久3年)承久の変の功で三刀屋(諏訪部)扶長が三刀屋郷の地頭に任ぜられた際に築城したと伝わっています。
1351年(正平6年、観応2年)に山名氏勢力が籠もった石丸城や1393年(明徳4年)に山名氏や塩冶氏に攻められた三刀屋城は当城だと云われています。
戦国時代になると支城であった現在の三刀屋城(城山)に居城を移したと云われています。

現在、三角点のある山頂一帯の主郭まで登山道が整備されています。
南の高台部分にいくつかの曲輪と空堀があります。
主郭部全体を囲むように切岸があります。
攻城時間は55分くらいでした。次の攻城先=佐世城に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征3日目:三刀屋城(尼子十旗③ 2城目) (2026/05/13 訪問)

尼子十旗:出雲国尼子氏の主要な家臣団の十の居城
尼子十旗(①白鹿城②三沢城③三刀屋城④赤穴城⑤牛尾城⑥高瀬城⑦神西城⑧熊野城⑨馬木城(夕景城)⑩大西城)
日倉城から車で25分くらいで、浄土寺駐車場(35.291236、132.877241)に着き、三刀屋城移築復元門を確認した後、三刀屋城駐車場(35.292756、132.871426)に向かいました。

築城年代は定かではないようですが三刀屋氏によって築かれました。
三刀屋氏は1221年(承久3年)の「承久の乱」で功のあった諏訪部扶長を祖とし、もともとは北側に位置する三刀屋じゃ山城(石丸城)を居城としており、三刀屋城はその支城でしたが、戦国時代に居城を移しています。
1542年(天文11年)周防大内氏が出雲の国人衆を率いて出雲に侵攻すると、三刀屋氏は降伏し大内氏と尼子氏の居城月山富田城へと侵攻します。
しかし、出雲国人衆は尼子氏に再び寝返り大内氏は嫡子義房を水死させる大敗を喫しました。
1562年(永禄5年)毛利氏が出雲に侵攻すると降伏し、以後毛利氏に属して各地で転戦します。
1588年(天正16年)三刀屋久扶は毛利輝元に随行して上洛した際、徳川家康と面会したため輝元から疑われ領地を没収されました。
その後、出雲に堀尾氏が入部すると支城の一つとして石垣造りの山城へと改修されたが、一国一城令によって廃城となりました。

現在城址は公園として整備されており、石垣や土塁などの遺構を確認することができます。
山頂の本丸まで舗装道がついていますが、山頂は舗装されていないので手前の駐車場に停めるのが無難だと思います。
山頂に主郭には崩れている石垣造りの天守台ともいわれる物見櫓台があります。
攻城時間は30分くらいでした。次の攻城先=三刀屋じゃ山城に向かいました。

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カズサン

嵯峨源氏系箕田源氏三代の館跡 (2026/05/30 訪問)

 熊谷市成田氏館跡を終えて群馬県埼玉県国道17号線沿いの未踏の城廻り七城目の箕田館跡を目指します、南東へ約10km箕田館跡の箕田氷川神社前に若干の路駐エリアをグーグルマップ航空写真より確認しましたので直接ナビに設定し進行。
 着きましたら神社前には先客あり、17時過ぎ夕方の交通混雑時期、帰宅車両に遭遇し一時門前南の私有駐車場に路駐、やり過ごし西の満願寺参拝者駐車場一時利用。
 箕田氷川神社、箕田古墳2号の墳丘に祠箕田氷川神社鎮座、墳丘下に案内解説板が有り「箕田古墳群」と「箕田二号墳」の解説が並列で記載されて居り、箕田二号墳の解説文の中に「本墳の南側一体は箕田館の推定であると、武蔵守源仕の名も記されいる」。辛うじて箕田館の事が分かる程度、遺構などは見当たらない。
 
 嵯峨天皇からの流れ嵯峨源氏、嵯峨天皇三代孫、源仕は西国の藤原純友乱に功をあげて武蔵守に成っている、子に宛、孫に綱と三代箕田源氏、箕田郷の居館を構え箕田を名乗る。
 三代綱は渡辺綱として有名です、父宛は父仕と西国で藤原純友の乱に功を挙げるが若くして没した、綱は幼くして両親を失ったため、従母である多田満仲の娘に引き取られて、摂津国渡辺庄で育ったことから渡辺姓を名乗った。長じて源頼光に仕え、共に大江山の酒吞童子退治で有名な物語です。(帰宅後、氷川八幡神社の解説板、氷川八幡社と箕田源氏と箕田碑解説板をネットで探し、抜粋加筆)、またこの解説板は、とある煩悩の登場目録さん2025/07/12投稿写真、しんちゃん2024/07/07投稿写真に掲載されています。しんちゃん久しく投稿が有りませんがいかがお過ごしでしょうか?
 
 箕田館跡から南東に約3kmに伝源経基館跡が在り箕田仕(源仕)は源経基に仕え功を挙げている。

 箕田館跡を終えて、荒川に架かる川幅日本一の橋を渡り、以前もこの辺の探訪で渡り済みです、架橋通行し圏央道川島ICから入り浜松へ、今回の箕輪城復元本丸西虎口門探訪見学、保渡田古墳群、かみつけの里博物館、三ツ寺Ⅰ遺跡、群馬県立歴史博物館で古墳と埴輪の見学、群馬県埼玉県国道17号線沿いの未踏の城7城探訪で走行距離約730kmでした。
 長々の投稿ご覧いただきありがとうございました。
  

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ぴーかる

仏生寺城 (2026/05/10 訪問)

【仏生寺城】
<駐車場他>舟橋村役場に停めました。
<交通手段>車

<感想>1泊2日富山ちょこ城巡り1000㎞旅15城目。城びと情報によると仏生寺城は15~16世紀前半に細川氏によって築城されました。遺構は発掘調査で曲輪、横堀、井戸、堀立柱建物跡が発見されたそうです。
 現在城跡地は舟橋村役場になっており表面観察の遺構は残っていません。しゃあないので役場を撮影しました。

<満足度>◆◇◇

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イオ

落葉に埋もれた説 (2025/11/29 訪問)

南北朝期に山名義理が大野守護所北側の城ケ峰に築いた城で、戦国末期まで大野城の支城として機能したようです。

南麓の県道から住宅地を抜けて「舗装はされているけど、このまま進んで大丈夫か?」と不安になるような細い山道を進み、「市民の森」への分岐の道路脇に路駐して登城開始。市民の森を抜けてさらに西へ笹藪をかき分けながら登った先に主郭と思しき削平地が開けていますが、こちらも笹とススキに覆われていて何が何やら…。城びと先達によれば、ほとんど読めない説明板がこの辺にあるはずだけど…と探していると、鳥獣保護区の表示が立てかけられた木のそばに半ば落葉に埋もれていました。そのせいでなお一層読めなくなっていますが、城であることが表示されているものはこの説明板の他にはないので、落葉を払って木に立てかけておきました。主郭から西に進むと藪は多少ましになり、南辺に土塁が続いているのが見られます。土塁に折れを設けた箇所もあり、南斜面には竪堀を幾条か落としていて、ようやく城らしい遺構が見られました。明徳の乱では尾根沿いに日方城を含む4つの支城が築かれたようですが、どこまでが日方城かよくわからないので、主郭西側の曲輪っぽいところで探索を終了しました。

この日は市民の森で草刈りが行われていましたし、ぴーかるさんの写真を見るに日方城も時には綺麗に刈られているようですが、笹やススキが伸び盛る早さにはなかなか追いつけていないようです。
 

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todo94

ゴールデンウイーク翌週・岡山の攻城⑤ (2026/05/09 訪問)

幸山城からの転戦です。備中福山城、幸山城で想定以上に時間を要してしまったため、この日の攻城はここで終了とすることにしました。宇野線の茶屋町駅が最寄り駅です。といっても2km以上の道のりです。天城高校のグラウンドの手前に「お茶屋のあと」の石碑が建っています。茶屋町の駅名や地名はこれに由来するのでしょう。近くの静光寺には陣屋の移築総門がありますが、正福寺にある下津井城の移築城門だけのチェックだけで帰路についてしまいました。隣接地といってよい場所だっただけにかなり残念です。機会があったら再訪したいと思います。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征3日目:日倉城 (2026/05/13 訪問)

赤穴瀬戸山城(尼子十旗④)から車で45分くらいで、登城口案内板前駐車場((35.190399、132.818400)に着きました。山頂まで400mくらいです。

築城年代は定かではないようですが、1542年(天文11年)大内義隆が出雲の尼子氏を攻めた頃には多賀山通定が城主だったようです。
毛利元就が出雲に進攻したとき、毛利軍の中継地点として重要な位置をしめたようです。
1591年(天正19年)多賀山氏は改易されるので、日倉城も廃城となったと思われます。

現在は公園として整備されています。
主郭は山頂にあって平坦で標柱が建っています。
攻城時間は35分くらいでした。次の攻城先=三刀屋城(尼子十旗③)に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征3日目:赤穴瀬戸山城(尼子十旗④ 1城目) (2026/05/13 訪問)

尼子十旗:出雲国尼子氏の主要な家臣団の十の居城
尼子十旗(①白鹿城②三沢城③三刀屋城④赤穴城⑤牛尾城⑥高瀬城⑦神西城⑧熊野城⑨馬木城(夕景城)⑩大西城)
二ツ山城から車で50分ちょっとで、登城口手前空スペース(34.995900、132.717221)に向かい路駐しました。
そこから、登城口(34.995941、132.717949)はすぐ先です。

1377年(永和3年・天授3年)佐波常連によって築かれたと云われています。 佐波氏は三善氏の一族で石見国安濃郡佐波の発祥。
応仁の乱では赤穴幸清は京極氏に従って京で戦い、1470年(文明2年)には尼子氏に従って神西城を攻めています。
1541年天文9年()尼子晴久は安芸の毛利元就の郡山城へ攻め入ると、赤穴光清もこれに従っています。
この戦いで尼子氏が敗れると、1542年(天文11年)には周防の大内義隆が陶晴隆、毛利元就などを従えて出雲へ侵攻しました。
このとき周囲の国人が尼子から大内へ寝返る中、赤穴光清は尼子方として瀬戸山城に籠城し、地の利を生かして大内軍と戦ったが、二ヶ月に及ぶ籠城戦の末に光清は討死しました。
月山富田城を攻めた大内義隆が敗れると赤穴氏が再び瀬戸山城へ戻り、郡連が後見人となって赤穴久清が家督を継ぎました。
1562年(永禄5年)今度は毛利元就が出雲へ侵攻し武名ヶ平城に陣を構えた。赤穴久清は降伏開城し、以後毛利氏に従いました。
関ヶ原合戦に敗れた毛利氏は防長二カ国に減封となり、赤穴氏もこれに従って萩へ移りました。
代わって出雲国へ入部した堀尾吉晴の家臣松田左近吉久が瀬戸山城主となり、この時代に近世城郭として改修しましたが、1615年(元和元年)の一国一城令により廃城となりました。

登城路は800mで整備され登りやすい。大手門あたりから石垣が見え始めます。
石垣が素晴らしいうえに、案内板や道標が充実していました。熊よけ鐘でなくフライパンが下がってました。
攻城時間は65分くらいでした。次の攻城先=日倉城に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征3日目:二ツ山城 (2026/05/13 訪問)

温湯城から車で30分ちょっとで、登山口林道入口(34.862001、132.522859)に着きました。ここから車で5分くらいで4~5台程度駐車可能な駐車場に着きます。
登山口林道入口には説明板とパンフレットありました。林道終点に駐車場があり、西の丸まで120mとあります。

築城年代は定かではないようですが、1223年(貞応2年)富永祐純の子朝祐が出羽郷・久永荘の地頭としてこの地に入り、出羽氏を称して二ツ山城を築いたといわれています。
南北朝時代には出羽氏は北朝方だったため、1361年(正平16年・康安元念)南朝方の阿須那高橋氏に攻略され落城しました。
1530年(享禄3年)毛利元就に攻められ高橋氏が滅ぶと、出羽氏は出羽郷を回復し二ツ山城に復帰しました。
1591年(天正19年)出羽氏は、出雲の頓原由岐に移封となってこの地を去り、二ツ山城は廃城となったようです。
1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いに敗れた毛利氏に従い、出羽氏は長州萩へ移りました。

駐車場から2~3分歩くと三重堀切があります。この上が天神丸で、泉水の段を経由して西の丸に至ります。
二ツ山という名が示す通り、東西二つの峰がある山で西の峰に西の丸、東の峰に本丸が設けられています。
遊歩道はあるので、東の堀切から下り林道に出て、林道から竪堀を幾つか見ながら駐車場に戻りました。
攻城時間は50分くらいでした。次の攻城先=赤穴瀬戸山城(尼子十旗④)に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征3日目:温湯城 (2026/05/13 訪問)

市山城から車で35分くらいで、登り口付近空スペース(34.982770、132.503592)に着き車を駐車した後、登り口(34.982367、132.501944)に向かいました。

築城年代は定かではないようですが、小笠原氏によって築かれたと云われています。
当初は赤城を居城としていましたが、四代小笠原長氏または五代小笠原長義の頃に温湯城を築いて本城とし、赤城は出城になったと伝わっています。
1335年(建武2年)足利尊氏が反旗を翻すと、小笠原氏は七尾城主益田兼見とともに北朝方として戦っています。
小笠原氏は尼子氏についていましたが、1558年(永禄元年)に吉川元春によって攻められると、翌1559年(永禄2年)開城・降伏しています。
1560年(永禄3年)吉川元春の管理下になり、番衆が置かれたそうです。

登り口から登りはじめ、分岐点を左に進み山頂にある主郭を目指しました。右に行くと蔵屋敷と呼ばれる曲輪があるようですが、時間の都合で断念しました。
畝状の竪堀群(結構埋まってます)を過ぎると寺屋敷と呼ばれる曲輪、バセンバ(馬洗場?)と呼ばれる曲輪を経由して主郭に着きました。
主郭の東側に、堀切と竪堀が確認できました。下りきって反対側へ登って行くと、毛利方が布陣した絵下山城に着くようですが、時間なく断念。
案内あれど登山道は細く、落葉で滑り易く危険です。軍手は必須。
攻城時間は60分くらいでした。次の攻城先=二ツ山城に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県佐用町)遠征3日目:市山城 (2026/05/13 訪問)

宿泊先のホテルから車で50分(通勤通学時間帯で道路が混んでいた)くらいで、藤長寺進入口手前(34.942462、132.320235)に着き、付近で路駐しました。

築城年代は定かではないようですが、南北朝時代に天野氏によって築かれたと云われています。
桜井荘地頭職であった天野氏の城で、1339年(延元4年、暦応2年)北朝方の天野氏に対して南朝方の福屋兼行、高津長幸、都野神主、長瀬八郎などが市山城を攻めています。
その後の動向は定かではないようですが、戦国時代には福屋氏の城であったと考えられ、永禄年間(1558年~1570年)に福屋氏が毛利氏に反したとき、毛利方の吉川氏の城となったそうです。

本日の攻城予定上、早めのレンタカー返却が必要な為、市山城の登城は諦め、藤長寺を見学して撤退しました。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=温湯城へ向かいました。

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天守無しがアツい

2回目の来城 (2026/06/14 訪問)

1度目の来場は令和6年1月🏯
この時は天守内の床が非常に冷たくて…足が凍傷になるかと思えた🥶

あの時は御城印こそ3枚セットで購入したけど…100名城スタンプと100名城カードは未入手…なので補完の機会を伺っており…2年半後にとうとう実行🚄🚶

売店でスタンプとカードを入手✌️松本城マグネットに紅茶を購入してから天守へ🏯

1度目の来場で撮影した写真をチェック…それとは異なる所を撮影…前回の訪問で天守内の展示はだいたい細かく見てるので…今回は(前回より)ファストバージョン🏃

戦国時代における城内の女性の役割として…鉄砲の弾づくり火縄づくり…というのがあったらしい🔫ジェンダーバイアスの関係で戦闘には参加しない…その代わりに弾薬を作る事で多かれ少なかれ城に貢献…城に必要な人間としての役割を務めていた

これを見て…「東日本大震災で(男性が復興作業や瓦礫の除去に駆り出されるなか)炊事をやらされる事に文句を言ったり拒否する女性がいたという話をネットの話で聞いたことある😓」

「変なフェミニズム被れ…女性の性役割解放…女性の権利ばかり意識した結果そうなってるんだろうな😒ここに紹介されてる戦国時代の女性を見よ👩‍🦰」

「男性と比べて危険性は少ないけど…己にできるだけの役割は全うしている…おそらく文句など言わずにやっていたのだろう…それに比べて今の女性って(もちろん全員とは言わないけど)ワガママになってないか?」

「それがあの震災における避難所で…「男の人と一緒に寝たくない〜😖」「炊き出しを女にやらせるなんて差別😜」と主張した女輩に表れているんだよ」と思ってしまった😅

最上階には松本城の保存に関する紹介…明治初期の西欧化の影響で…旧物破壊思想のもとここの天守も売却・破壊の危機に晒されたが…市川量造の尽力により(一度競売された)天守を買い戻し保存に貢献…その後ここで博覧会が開催もされた

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HKISD

名島城跡散策 (2026/06/12 訪問)

名島神社の駐車場に止めて散策(分かりにくかった)
海添いの景色が良かったです。

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T-Shionoya

築城時期が気になる幡豆寺部城 (2026/02/09 訪問)

愛知県には3つの寺部城があるらしい。
今回は西尾市のパンフレットで存在を知り、海辺の観光と共に訪れた幡豆寺部城。

三河湾の中央部に位置する三ヶ根山、その南西麓の小さな平地に東から突出した標高約30mの小丘陵に築かれた城。
南麓を屋敷とし、西側は小野ヶ谷川が天然の堀。

築城時期は不明だが、1514年に小笠原定政が奪還したと伝わる寺部城小笠原氏の居城。
今川氏や家康に従属してきた寺部城小笠原氏は、1590年に上総国周准郡に移封となり、間もなくして城も廃されたと考えられてきた。

現在は本丸と二の丸が三河湾を望む公園として整備され、小さな社も立つ。

実際に訪れると、コンパクトな城ではあるが城砦らしさを持っており、特に本丸東側の堀は城の広さにそぐわぬサイズ感。
また先月開催された講演会によると、最近の説では移封前の寺部城は南麓の屋敷のみで、丘陵上の遺構は移封後に信元の弟の信吉が築いた可能性があるとのこと。

築城時期が実に気になる幡豆寺部城が、私の城郭巡りの226城目となりました。

※写真10枚目は5月に撮影

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カズサン

のぼうの城で有名な成田氏の旧居館跡 (2026/05/30 訪問)

 中条氏館址(常光院)の探訪を終えて、南に約3km群馬県埼玉県国道17号線沿い未踏の城廻り六城目成田氏館を目指す。グーグルマップにて位置を確認すると成田氏館跡史跡マーク地は国道17号線上之交差点5差路の細い一方通行の道で北から南へ約250m進行して道の西右、私有地の中に標柱と石碑がこじんまりとフェンスに囲まれて立っている。
 駐車場:標柱の東に泰蔵院参拝者駐車場が有り一時利用させて頂いた。
 参考資料:余湖図コレクションさんグーグルマップに依る。

 標柱の説明では、成田氏館跡は藤原鎌足の子孫、藤原道宗の子である助高(資隆)が天喜元年(1053)に、成田の地に館を構え、成田氏を名乗った。その後、成田氏は「関東八家」と称されるまでに勢力を拡大し、成田親泰が忍城主となるまでの400年余、この地に住み続けた。と記載されている。
 秀吉の小田原征伐時(1590)、忍城水攻め総大将石田三成と忍城城代総大将成田長親(のぼう)との攻防戦は映画などで有名です、小田原城が降伏した後迄降伏しなかった。
 石碑と標柱しかない史跡マーク地では思いを馳せるのも難しい。

 次に帰路の圏央道川島IC目指すために、未踏の箕田館跡に向かいます。
   

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つちのこ

高浜城跡(2026.5.9) (2026/05/09 訪問)

一帯が城山公園として整備されています。明鏡洞など日本海の絶景が見応えあり。パンフレットは公園内の逸見昌経公銅像前に設置されてます。御城印は高浜町の佐伎治神社社殿で購入できました(300円)。駐車場は20台ほど。隣接の海水浴と競合です。5月の週末でサーフィン客が多くほぼ満車ですが無料でした。夏場は混みそうです。

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つちのこ

こんなところに… (2026/06/13 訪問)

まさかこんなところに?という立地でした。
小浜市内を流れる北川、多田川、南川という3本の河川が、海に向かって集約されてきたその河口部分にあります。目的地に向かうにつれ道が細くなり、車1台すれ違えるか?(いや多分無理)くらいの路地を進んだ先にありました。城跡には小浜神社(御祭神は小浜藩初代藩主酒井忠勝)が創建されています。石垣が残るのみですが、結構立派な造りで見応えはありました。
駐車場は神社鳥居横に3台ぶんほど。お出かけ日和の土曜日の昼前30分ほど滞在しましたが、訪れる人は他に2組でした。

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todo94

ゴールデンウイーク翌週・岡山の攻城④ (2026/05/09 訪問)

備中福山城からの転戦です。幸山と福山、あわせて幸福とは中々しゃれています。遊歩道の途中にある妙見展望台と八畳岩を経由して迷わずに幸山城にたどり着くことができました。最高所はグーグルマップでは幸山城東曲輪となっていて、鞍部を越えた城址碑のある曲輪が主郭にあたるようです。帰路はすぐに見覚えのある堀底道になりました。もうちょっと見やすく案内表示が設置してあれば、福山城より先に攻城することができたと思うのですが。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征2日目:三隅城 (2026/05/12 訪問)

針藻城から車で20分くらいで、説明板&石碑(34.776442、131.981060)付近の駐車場に着きました。

築城年代は定かではないようですが、鎌倉時代に三隅氏(兼信か?)によって築かれたと云われています。
三隅氏は益田氏の一族で、1229年(寛喜元年)益田兼高の次兼信が三隅一帯を領して三隅氏を名乗ったことに始まるようです。
1281年(弘安4年)鎌倉幕府は元軍の襲来を受け、西日本海沿岸一帯に砦を築かせた。三隅氏も高城山に築城を開始し、3代信盛・4代兼連(かねつら)により本城と十指に余る出城を完成させました。
南北朝時代、三隅兼連は南朝方に与し、1336年(延元元年)北朝方に与した益田氏の益田城を攻めました。
1342年(暦応5年・興国3年)には北朝方の上野頼兼が諸城を落として三隅城へと攻め寄せたが、これを撃退します。
さらに1350年(観応元年・正平5年)高師泰が大軍を率いて石見国の諸城を落とし三隅城を包囲しますが、これも落城するには至らず、翌年には包囲を解いて引き上げました。
1352年(正平7年)には三隅兼知が男山八幡で討死し、1355年(文和4年・正平10年)三隅兼連も足利直冬に従って上洛し東坂本で討死しました。そして七代直連の時に益田兼見に従います。
1552年(天文21年)大内義隆を討った陶晴賢は、益田藤兼と結んで三隅城を攻め落としました。
しかし、その陶晴賢も毛利元就に敗れ、三隅氏は周布晴氏と謀って毛利氏に反抗するが1570年(元亀元年)毛利氏によって三隅氏は滅亡しました。

高城山頂上に主郭があります。三隅城からの眺望は、日本海まで一望でき素晴らしい。草が深いです。
攻城時間は25分くらいでした。本日の城巡りは、ここがラストです。
歩行歩数=29269歩、歩行距離=20.4Kmです。
本日の宿泊先に向かう為、車で浜田駅方面に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征2日目:針藻城 (2026/05/12 訪問)

周布城から車で20分くらいで、はりも山公園入口(34.788887、131.935616)付近に着き、入口先の空スペースに路駐しました。

築城年代は定かではないようですが、1281年(弘安3年)の弘安の役以後、三隅城主3代の兼盛が鎌倉幕府の命令により、蒙古再来の防備のために築城したと云われています。
1428年(正長元年)大賀氏が城主となって以来、三隅氏の海事を担当したそうです。
戦国時代、針藻城主が尼子氏に味方したため、1557年(弘治3年)毛利氏の武将・益田藤兼に攻められて落城しました。

現在は公園となって、展望施設が建てられています。
石垣が残っているとのことでしたが、確認できませんでした。
三隅城に向かう途中、説明板&石碑(34.787784、131.938011)を路駐して確認しました。
攻城時間は20分くらいでした。次の攻城先=三隅城に向かいました。

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