JR苅田駅からコミュニティバス(北ルート)に乗り15分、「松山城登山口」で下車しました(写真①⑩)。登山口に置いてあった杖を借りて(写真②)、そこから標高128mの山頂にある松山城の主郭へ。30分で山頂の主郭に到着しました(写真③)。
豊前松山城は、古くは大内氏・毛利氏・大友氏が争奪戦を繰り広げた城で、1561年には大友に勝利した小早川隆景が入城しています。しかし1569年門司城の戦いの時は、大友宗麟が奪い返し本陣を敷いた場所とされています。現在残る城跡は、秀吉の九州平定後に豊前の地を与えられた黒田官兵衛が、領地の北端を守る城として整備したものが残っているそうで、発掘調査で官兵衛時代の瓦が発見されたそうです。主郭には官兵衛時代の石段や虎口が残っており(写真⑦)、二ノ丸には土塁と空堀などが残っていました(写真⑧)。その下に畝状竪堀や石垣もあるらしいのですが、そこは草に覆われていてよく分かりませんでした。
1586年10月九州平定の先遣隊として毛利勢(毛利輝元・吉川元春・小早川隆景)と黒田官兵衛合わせて2万5千が九州に上陸し、高橋元種や秋月種実の支城である小倉城やこの松山城を攻め落として、本隊上陸への足掛かりを作ります。そして翌年3月、下関から門司へ上陸した秀吉は小倉城へ入り、秀長は毛利・黒田勢がすでに入っていたこの松山城へ入ったとされています。その数合わせ総勢20万! そして小倉で軍議を行い、陣ぶれを決め、秀長軍はこの天然の良港である苅田港を物資・兵站の拠点とし、出陣の準備を整えたようです。
その3カ月前の12月、豊後への先遣隊として入った仙石秀久・長曾我部元親の四国連合軍が、戸次川で島津家久に何と惨敗してしまいます。そしてこの時、家久は大友館を焼き払い、臼杵城に籠城する大友宗麟を攻めていました。
松山城は180°周防灘が見渡せる絶景の場所で、とても眺めがよかったです。門司やその遠くに見える陸地は山口県です(写真④)。平成の人工島(北九州空港)も眼下に見えました(写真⑤)。夏なので草が多かったのがちょっと残念でしたが(笑)。ここだったら確かに関門海峡や周防灘を行き交う船が見渡せ、全軍を監視できる場所だったと思います。
軍議の後、東九州を任された秀長は10万の大軍を率いて出発、豊後大友氏の救援に向かいます。しかし豊臣軍の南下を知った島津軍が豊後から撤退したため豊後での戦は無く、戸次川から高崎山城を経て逃げて来た大友義統と龍王城(宇佐)で合流し、さらに秀長は島津討伐のため日向を目指して南下して行きました。
この時の秀長は、いったいどんな気持ちでいたのでしょうか? 大友氏や四国連合軍を破った戦上手の「島津」は必ずどこかで反撃して来るはず。彼らはどうやって攻めて来るのだろうか、本当は未知との強敵に、震えていたのではないでしょうか?
次は、小倉を出発した秀吉と官兵衛が密談をした地(馬ヶ岳城)を訪れます。
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