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にのまる

勝頼公まつりに行ってきました。 (2026/04/26 訪問)

武田氏終焉の地、甲斐大和駅近くの大和中学校校庭で開催された『甲州市ふるさと武田勝頼公まつり』に行ってきました。

プログラムは
・武田勝頼公軍団出陣絵巻
・甲斐天目山勝頼公太鼓
・ステージイベント
・ふれあい広場(出店ブース)
・勝頼公特別企画資料展

勢揃いした勝頼軍団、かっこよかったです。
中でも感動したのは、信勝公の擐甲の礼(世継ぎの儀式)。楯無の鎧を装着する姿にうるうる🥹
滅亡を覚悟した陣中での儀式は胸に迫るものがありましたが、凛と立つ貴方は立派でした!!(ほぼ母の境地)

ひと通り見終えて、帰りに「勝頼公腰掛け石」を探しに行きました。地図を見ながら行ったらフェンスの外側に着いてしまい🙀
内側にまわると1時間に1本の電車に間に合いそうになかったので諦めました。
腰掛けたかったな……。
また行こ!

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トク

「豊臣秀保」陣跡(秀長の嗣子の生涯) (2026/04/05 訪問)

豊臣秀長ゆかりの人物の陣跡めぐり(2人目)です。藤堂高虎の次は、豊臣秀保の陣跡を訪れました。

豊臣秀保とは、豊臣秀長の娘婿養子となり、秀長死後には大和中納言に任ぜられ、秀長の家督(大和郡山城100万石)を継いだ人物であるという事を、皆さんは御存知でしょうか🤔?

名護屋城博物館入口から、今度は国道を南西方向に30分(2km)ほど歩いた場所に、豊臣秀保の陣跡はありました。入口には「大和中納言」と刻まれた石碑が立っていました。

名護屋城に造られた陣は約150あると言われていますが、秀保の陣はその中でも家康・利家と並ぶ最大級の広さであったようです。秀長亡き後の秀吉は、秀保を秀長の代わりの副大将格に据えていた事が想像できます。当時は20ヘクタール(東京ドーム4個分)の敷地に、1万5千の兵を収容していたとか。現在はその内の、50平方メートル(館跡部分のみ)が保存されています。館の周りは2~3mの高さの石垣に囲まれ、当時はその上に塀があり、表門と内門は桝形で仕切られていました。そして内門の中は、書院や御座の間や数寄屋や庭園まで伴っていた、とても優雅な御殿作りの陣であったようです。

1594年「文禄の役」の時、秀保はまだ若干16才でした。渡海はとても無理なため、家老の藤堂高虎が秀保に代わり渡海し戦ったようです。

秀保は、もともとは秀吉・秀長の姉である智(とも)の三男で、兄には秀次・秀勝がいました。1591年の秀長が亡くなる直前、慶(ちか)は秀長の後継ぎがいない事を憂い、幼い長女三八(みや)の婿養子として当時13才の秀保をもらい受け、跡取りとして大和郡山城を継がせます。そして秀長は安心したのかそのわずか18日後、大和郡山城で亡くなってしまいました。そして抑えを失った秀吉は、朝鮮への出兵を開始します。

しかし文禄の役が終わった翌1595年、秀保も郡山へ戻った後、十津川温泉で療養している最中に、突然亡くなってしまいます。疱瘡だったという病気説や、川で溺死したという事故説や、突き落とされたという殺人説もあり、死の真相は未だ謎に包まれています。また葬儀も、秀吉の命により行われなかったようです。

また同年、秀次は秀吉により自害させられて亡くなり、その妻子までもが処刑させられます。秀勝は出兵の最中に、朝鮮で謎の死を遂げています。

まさか秀吉は・・・😯! 文禄の役の最中に淀との間に生まれた「秀頼」に豊臣家を継がせるため、邪魔な豊臣姓の男子を全て殺して行ったのではないでしょうか?(😱~!)。と推測した私は考えすぎでしょうか? いずれにせよ、これにより後継ぎのいなくなった郡山豊臣家は、断絶してしまいました。

道路を挟んだ山の上には、当時秀保と同じ16才であった堀秀治の陣跡がありました。私はそこから秀保の陣跡を、桜越しに眺めてみました(写真⑩背後の山全体が豊臣秀保陣跡)。文禄の役から1年後、わずか17才で生涯を閉じてしまった豊臣秀保・・・。彼は本当は、どんな人生を歩みたかったのでしょうね。そしてこの時、与一郎に続いて秀長や秀保までも失った慶(ちか)の悲しみは、いかばかりだったのでしょうか?

次からは、秀長の但馬平定を追って行きます。
 

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たか

思った以上に時間が足りない (2026/05/06 訪問)

今回の旅の最後は躑躅ヶ崎館です。
要害山城を降りて少し疲れていましたが帰りの特急に乗れないと困る(GWなので…)ので足早に資料館から攻城開始。
無料部分と有料部分があり無料部分はそうでもないかなと思っていたらしっかりと武田家の歴代頭首の事や躑躅ヶ崎館の歴史について記載されており適当に終わらせることができません。
じっくりと見学していますと列車が気になり始めました。
仕方なく斜め読みで資料を確認して館の方へ。

神社へお参りした後、西曲輪の方へ。
残念ながら西曲輪は現在工事中。
しかしながらそこから北の方へ進む途中の堀、北側の門跡+虎口、土橋など見ごたえがあります。
常に頭は電車から離れませんがここは感嘆の声が思わず出てしまいます。
表側の神社!って感じから一気に城塞って雰囲気にギャップ萌えですww

ここでレンタカーの返却や安全を鑑みて今回は終了。
まあまだまだ山梨はいろいろとあるのでまた第2弾で見て回ろうかと思っています。

合計2日間で約4万歩!
疲れたけど充実のGW!電車で一杯やって帰宅しました。

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たか

信虎の用心深さがわかる (2026/05/06 訪問)

鼻歌交じりに行けた朝の甲府城から一変、要害山城を攻城です。
躑躅ヶ崎館を後回しにして元気なうちに登城しようと考えましたw
ナビ通りに行くと要害山温泉の登山口に着きました。
駐車スペースに2台ありました。
あとで藤村記念館の方に聞いたのですが2件あった温泉はどちらもやっておらず福祉施設になっているそうです。
おそらくその施設の方たちが作成した熊よけの鈴付き杖が登山口にあります(わたしは気付かずに降りてきてから気づきましたw)

案内板の横から突然急な坂道です。あとから来られた方はそれを見た瞬間やめたって言ってました。
ただ急ではありますが結構整備がいき届いて杖があればそこまで言うほど大変ではないと思います。
途中大木が道を2か所ほど塞いでいますので長ズボンとシッカリめの運動靴は最低必要だと思います。

片道30分と書かれていますがゆっくり休憩しながら行ったのでわたしは40分弱、下山は25分くらいでした。
途中3組ぐらいすれ違いましたが挨拶を交わしながらとても気持ちがいいです。

竪堀、土塁、石垣、門跡、門跡には虎口になっていて3か所もあり信虎の用心深さが伺えるようでした。
確かにここまでしているなら詰城として完璧でしょうし、信玄をここで出産させたのはわかる気がします。
途中、不動曲輪で不動尊にご挨拶して後ろを振り返ると絶景で気持ちがいい!

本丸跡にはまた丸太が倒れていますがここは暖簾をくぐるようにスルーw
きれいなツツジに囲まれて「武田信玄公誕生の地」と石碑がありました。
ちなみによく見ると左下に「東郷平八郎 書」と書いてありました!

ここから戻って躑躅ヶ崎館をいざ目指さん!

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たか

広大で駅から気楽に行ける城 (2026/05/06 訪問)

昨日の新府城責めに続き本日は甲府城からスタートです。

今回は武田家がテーマでしたが少し脱線ww
東横インに泊まりましたので7時過ぎには食事を終えて攻城開始です。
こんなに近くてラクチンなんてとても素晴らしい。
昨日のほろ酔いで見かけたライトアップされていた天守台がそびえ立っていてワクワクさせてきます。

時間が早いのでスタンプなどは開店までおあずけで石垣に食いつき!
野面積みの石垣で詰石もしっかりとされて面がとても美しい!
天守台もですが各門の石垣に塀の狭間がとても映えます。

天守台に登ると一面見渡すことができて爽快です。
ガイドさんたちが説明しているのを横から聞きながら要害山はどこだろうとか見ていました。
そこから稲荷櫓の方へ進み二重の石垣を確認。
綺麗に残っています。
その後、稲荷櫓、鉄門の中を見学していると敷地が広いせいもあってかなり予定時間をオーバーしてしまいました。
この日はお目当ての躑躅ヶ崎館に行かなきゃいけないのでここで切り上げて終了。
駅近ですのでまた来れそう。

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たか

歩いた~ (2026/05/05 訪問)

今回の旅は1日目は車無しと決めていたので新府城から日ノ出城まで徒歩で攻城しました。

天気も良いし歩くのはあまり苦にならないとはいえ、アップダウンがあると結構しんどい…
富士山を眺めながらゆっくりと時間をかけて1時間程度で到達。
石碑で確認しましたが土塁などの遺構があるとの事ですがわたしにはわかりませんでした。
本丸跡は今は太陽光パネル(その下はシイタケ栽培かな)になっていました。

その後また徒歩で1時間ほどかけて新府駅に行ったら丁度のタイミングで甲府行きの電車が来ました。
これは嬉しい!
甲府で一泊するので鳥モツと先程周りにあったブドウ畑を思い出してワイン、最後にほうとうを頂きました。
一日で27,000歩も歩いたのですっかり酔いもまわり良い気持ちでホテルに戻りました。

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赤い城

城びとたちのエンジェルロード (2026/04/19 訪問)

いよいよ甘崎城です。
到着時はまだ「島」の状態、本当に渡れるのかな?と感じました。
潮が引いていくとともに来城者も増えてきました。
この日の干潮は17:20、渡れるまではもう少し時間がかかります。

海への降り口には松山市出身、香川元太郎先生のイラストの案内板が立ちます。
大分引いてきたのでここから降りていきました。
岩場は滑りやすく注意が必要です。
しばらくすると見事に海割れに🤩渡ります。
砂浜には石列が残っていてここから北に向けて進みました。
北郭の北側には船隠しのような穴がありました。

岩場には岩礁ピットも数多く施されています。
南隅の石垣は算木積で近世の初めに造られたもので、岩礁ピットは石垣が積まれた以前、中世に機能していたものと思われます。

南側から郭部分に登れそうな場所もありましたが今回は自重、次に来た際には行ってみようと思います。
昔は郭部分でキャンプをしていた、と近くから来ていた方に伺いました。
なので少し改変されているかもしれませんね。

このような海割れは小豆島のエンジェルロードも同様、あちらは恋人達や女性で賑わいますがこちらは城好き達で賑わっていました。

【見どころ】
 ・潮が引いていく様子
 ・岩礁ピット
 ・南隅の算木積石垣

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todo94

ゴールデンウイーク肥前の攻城① (2026/05/04 訪問)

今年のゴールデンウイーク後半は、カレンダーでは5連休。しかし、私は日曜の午前に所用が入っていてちょっと残念な状態でした。そんな中、行き先を肥前に定めたのは自由席がなくなる新幹線のぞみやETC休日割がなくなる高速道路を使わないで城めぐりができる地であるからでした。日曜日の所用を終えてすくに羽田に向かい、福岡便で前泊の地・博多へ。みどりの日は、早朝、普通列車で博多駅から佐賀駅にアクセスしました。午前8時にレンタカーを借り受けてまず向かったのが、神代氏芦刈館。「くましろし」とはちょっと読めません。芦溝地区農村公園になっていて駐車場、トイレも備えていますが、遺構はなさそうです。

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カズサン

令和7年度植生整備事業完了後の西の丸Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ (2026/03/21 訪問)

 令和7年度植生整備事業完了後の西の丸、特に西の丸Ⅲ辺りの植生整備事業、景観整備伐採剪定も期待をしていましたが、さほど大きな変化は無く、少しがっかりな所も有りました、また今後を期待したいところです。
 本丸天守台西下の曲輪が見える様に成っており、その下に西の丸Ⅲが繋がる構成縄張に成っており、覗き込むがまだ一部植生樹木に邪魔されて良くは分からない、曲輪稜線より分かる程度で進入は不可。
 3号堀から西への遊歩道で西の丸Ⅰ、Ⅱへ進行、南の丸西直下の2号竪堀辺りの真竹群は少し伐採されてか以前より見える、西の丸Ⅱ、Ⅰの内部は竹や、草が茂って踏み込みを躊躇します、特に西の丸Ⅰ内部の草原はマムシ注意の看板にどっきりしますが、西側の石垣と広場東屋は明るくほっとします。南側の石垣も整備されてよく観察できるようになっています。西側石垣から南側のコンクリ護岸を慎重に歩き南下の石垣を観察できます。
 戻って西の丸Ⅰ遊歩道側より本丸方向を見上げると西の丸Ⅲの稜線が見えて、そこに在るのにと思う気持ちが走るが進入不可、本丸稜線もその上にくっきりと見る事が出来ます。

 西の丸Ⅱの上から歩いた順に掲載投稿致します。
 

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カズサン

令和7年度植生整備事業完了後の南の丸ⅠとⅡ (2026/03/21 訪問)

 令和7年度植生整備事業中、完了後の令和7年11月26日、令和8年3月21日登城し12月4日投稿、3月26日の投稿して居ますが、本丸北側土塁下、北西下、東土塁・石垣周りの植生整備、伐採と剪定がされて初対面の帯曲輪群に感激、また二の丸植生伐採もされて周りがスッキリ、期待に胸が弾んで南の丸Ⅰ、Ⅱはどんなに植生整備、景観整備が進んで居るのかと探訪見学しましたが、大きな変化は無く以前のまま、草刈がされて南の丸Ⅰ内部、東側、西側は少しはスッキリして居ましたが期待ほどでは有りません。
 南の丸Ⅱは手つかずのままかな?南の丸ⅠとⅡ間の二号堀は少しはスッキリしたかな?、南の丸Ⅱの内部は私有地の畑のままかな?あまり手が加えられて居なく、昔の畑耕作機材がそのままほかれている状態で藪状態、進入不可?
 今後の植生整備事業は分かりませんが、南の丸Ⅱも整備をお願いしたい?一号堀も見てみたい。

 写真は探訪順に掲載投稿致します。

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坂本城シンポジウム開催

 にのまるさん、壺笠山城、正解です。クイズ係を今後も宜しく。

大津市広報にでました。思ってたより豪華講師。勝手が分からないので、メジャーどころと、滋賀県人を選んだ感も

申込方法
6月26日(金)までに電子申請サービスで
※電話や窓口での受け付けはできません。

日時
7月26日(日)14時~16時30分(予定)

場所
生涯学習センター大ホール

ゲスト
小和田哲男氏(歴史学者・大河ドラマ「麒麟がくる」時代考証担当)
春風亭昇太師匠(落語家・「笑点」司会、お城愛好家)
中井均氏(城郭研究の第一人者・大津市在住)

定員
450人(申込多数の場合は抽選)

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にのまる

お返事ありがとうございます。

あさん、お忙しいところ、お知り合いの方を巻き込んでのご返答ありがとうございます🙇‍♀️
甲府城下の美味しいもんたち、正解です!
きしめんみたいな小作のおざら、桔梗屋さんの信玄餅ソフトと桔梗信玄あんみつ。うまうまでした😋

あさんのお写真は文中のヒントから壺笠山城?
駅名は写真のどこに書いてあるのー?と隅々まで探してもわからず、湖西線の路線図を見て“あーっ、これかー!!”ってなりました。【から咲=唐崎】駅ですね!スッキリした😊

そして「城びとスタッフにしたら、してやったりかも」と仰るのも、きっとそう、絶対そう。もうそういうフェーズに入っているのですね!!
応援しています📣📣📣

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朝田 辰兵衛

2026.10.03-04_お城EXPO in熊本🐻

平戸桟橋で的山大島(あづちおおしま)行きのフェリー待ちをしている時,チラシ置き場に見過ごせない代物を発見しました。
2026年10月3日~4日で,お城EXPO in熊本が開催されます。
九州在住の方は,すでに情報をキャッチしていたのかもしれませんが,個人的には「なに~!」「知らんぞ~!」って声が漏れてしまいました。
私は行けませんが,都合のつく城びとの方,ぜひ足を運んでみてください。

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シェル

臥牛山編 石垣を堪能 (2026/04/08 訪問)

 一文字門跡から七曲道を登城。一文字門跡には、「熊出没注意」の看板が設置されていました。春先ですが、用心して熊鈴を装備して臨みました。連日の城攻めで足がガタガタでしたが、七曲道の途中にベンチが設置されているので、休憩も挟みつつ、9分ほどで、四ッ門跡に到着しました。尾根伝いに曲輪が配置され、石垣が整備されて残されています。
四ッ門跡→御鐘門跡(二の丸)→出櫓台→黒門跡→埋門跡→冠木門跡→本丸跡→四ッ門跡→三の丸(調練場)の順で見学していきました。

① 四ッ門・三の丸
 七曲道を登り切った所に四ッ門跡があり、登城路へ横矢をかけるように石垣が構築されています。四ッ門の標柱そばには、門の礎石も残されています。四ッ門から三の丸に入り、右側に二の丸と本丸、左側に調練場跡があります。調練場跡の北側には靱櫓台と玉櫓台が残されています。

② 御鐘門・二の丸・出櫓台
 四ッ門跡から右側の坂を進むと、御鐘門跡の桝形があります。三の丸と二の丸を隔てる門で礎石もしっかり残っていました。
 二の丸に入ると、村上城の見どころの一つの出櫓台が見えてきます。写真で何度も拝見していましたが、背後の本丸の高石垣と迫り出す櫓台は、迫力満点です!!
 出櫓台の脇には、黒門跡があります。ここは御鐘門側の道(上段)と東門側からの道(下段)の二つが並行している場所になっています。その両方の道を二段に跨いで、封鎖していた門だったようです。二段に跨ぐ門というのは、かなり特殊ですので、どんな門だったのか、個人的にちょっと気になりましたね。

③ 本丸帯曲輪・本丸
 出櫓台から登城路を進んで行くと、本丸の帯曲輪に到着します。帯曲輪には五つの櫓があったようです。帯曲輪の南東側には、中世散策コースの入口の埋門跡があります。こちらの門跡にも、草に埋もれつつありましたが、石垣が残っています。そして埋門のそばに本丸に入る冠木門跡の桝形があります。村上城の石垣は、打込接の布積が多いですが、本丸の冠木門の南側は、野面積の乱積で積まれていました。堀氏の頃の古い石垣ですかね?本丸でも桜がお出迎えしてくれましたが、桜は咲き始めたばかりの様子でした。麓は満開だったのですが、標高差でこんなに変化するんですね。本丸の天守台からは、日本海と村上の街を一望することができました。

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シェル

山麓編 藤基神社凄すぎ・・・ (2026/04/08 訪問)

 鶴岡から羽越本線の普通列車で、鼠ヶ関を越え、約1時間半で村上駅に到着。村上城へ向かいました。
 村上城は臥牛山に築かれた平山城です。(平山城ではありますが、なかなか険しいです・・・)
 かつては臥牛山の麓にも城郭は広がっていました。現在は麓の遺構の大部分が市街地となってしまいましたが、一部は残っているので、それらの遺構をチェックしながら臥牛山を目指しました。

① 藤基神社(土塁)
 村上駅前の道をまっすぐ道なりに進み、20分ほどで到着。駐車場も設置されています。内藤信成、信敦、信思を祀る神社です。神社の西側に、村上城の土塁が100m程度にわたり残されています。土塁を境に、村上城の城下三ノ丸となるようです。駅前から延びる道には、飯野門という櫓門がおかれ、全盛期には、櫓門に付属して多聞櫓と二重櫓などもあった虎口のようです。麓の外郭も、かなりの規模だったことがうかがえますね。
 土塁を見た後に、ご挨拶のため参拝。拝殿を拝見したところ、尋常じゃない彫刻が彫られていて驚きました。御由緒書きによると、村上の工匠の有磯周斎によって、「籠彫り」という技法を道いて八年の歳月をかけてつくられたようです。そして境内も苔と桜がハーモニーを醸し出していて、めちゃくちゃ良い雰囲気でした。
 村上城の土塁が残り、彫刻は別格、さらに桜と苔も素晴らしい!!
村上城に行く機会がありましたら、皆さんにぜひとも参拝していただきたい神社です!!

② 追手門跡
 藤基神社から北に徒歩7分ほどです。遺構は残っていませんが、村上市役所と村上小学校の間の歩道に説明板が設置されています。かつては石垣も構築された右折れの内桝形となっていて、城内最大の櫓門があったようです。

③ 下渡門跡(石垣・堀跡)
 追手門跡から東に徒歩7分ほど。山麓で唯一、石垣の遺構が残されている城門跡です。石垣手前には空堀も残り、堀端に説明板が設置されています。外郭二の丸の東北方面を守備する門で、桝形構造だったようです。現在、桝形は失われていますが、かなり見ごたえのある遺構でした。
 そこから徒歩2分ほどにある東北電力村上電力センターの入口で、続日本100名城スタンプを押印。こちらは、24時間押印可能のようです。スタンプ設置場所周辺に展示スペースがあり、パンフやマップなども置かれていました。

④ 城主居館跡・一文字門跡
 スタンプ押印後、一文字門跡に到着。城主居館と臥牛山に入る虎口で桝形になっていたようです。現在も山側に石垣が残っていました。石垣のそばには、村上城跡の石碑と説明板が置かれています。城主居館跡は城山児童公園になっています。幕末まで御殿が置かれていた曲輪で、三重櫓なども建っていたようです。公園内にトイレが設置されています。

臥牛山編へつづく

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六文銭

道の駅日進マチテラスの傍の丹羽氏のお城 (2026/05/21 訪問)

小雨の中の岩崎城攻略
無料の模擬城と歴史館を楽しめました

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飛騨市

江馬館でオリジナル御城印を50枚限定で販売

2026年5月31日(日)に開催される「新緑の茶会」にあわせて、江馬館オリジナル御城印を販売します。
江馬氏ゆかりの家紋や騎馬武者のシルエットを取り入れた、歴史を感じられる全4種類のデザインです。

当日は、お茶会に参加されない方も購入可能です。
新緑に包まれた江馬館を訪れた記念に、ぜひお買い求めください。


販売概要
販売日時:2026年5月31日(日)10:00〜14:00
※売切れ次第終了
販売場所:史跡江馬氏館跡公園(飛騨市神岡町殿573-1)
種類:全4種類
販売枚数:各種50枚限定
価格:各300円
※4種類セットは初売り記念価格1,000円


※御城印は、今後もイベント時を中心に限定販売予定です。次回販売は8月上旬頃を予定しています。

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トク

「藤堂高虎」陣跡(秀長を生涯の主君と仰いだ男) (2026/04/05 訪問)

豊臣秀長ゆかりの2人の武将の陣跡めぐり(1人目)です。藤堂高虎、文禄の役の陣跡を訪れました。

名護屋城博物館入口から南に県道を15分(1km)程歩くと(写真①)の標識があります。そこから脇道に入りさらに15分(1km)程歩きましたが、案内板等は何もなかったのでよくわからず。よって城郭放浪記さんの情報を参考に、スマホでナビを見ながら(おそらくこのあたりかな?)と思いながら山中に入り、雑木や雑草を掻き分けて進みました(写真②)。すると人工的に段々に削った段曲輪らしき跡や、そこに石が並べられていて石積があったような痕跡がありました。よって確証はないですが、たぶんこのあたりがそうだったのではないかと推測しました(写真③④)。

その時です!・・・(ガサガサ)と音が・・・ビク😱! 何と野生の動物に遭遇! 背中を向けながらも、こちらをじっと見ています。「写真⑤」を見て下さい。さあ!どこにいるか分かりますか?(よ~く探して下さいね! 正解は写真⑥です)。な~んだ野うさぎか、カワイイな。最初はイノシシかと思ったのでホットしました😊。

藤堂高虎と言えば、7度も主君を変えた男として有名です。そして浅井長政に仕えた姉川の後に放浪、餅を盗み食いする程の貧しい生活の中で豊臣秀長と出会い、それが彼の人生を大きく変えました。秀長は彼の才能を見出して重用し、高虎もそれに応えようと、算数・鉄砲術・築城術・水軍術などを必死に学んだようです。そして賤ケ岳の戦いや但馬・紀州・四国攻めなどで活躍して、大和郡山城の縄張りや和歌山城の築城や九州征伐でもその手腕を発揮、秀長からは絶大なる信頼を得て、秀長と高虎は固い絆で結ばれて行ったようです。しかし1591年秀長が没すると、郡山豊臣家の家老として、名護屋のこの地に陣を築き嗣子の秀保を支えました。

しかし文禄の役後に秀保も没し、郡山豊臣家が断絶となると、秀長を弔うため剃髪し高野山へ蟄居します。その時その才能を惜しんだ秀吉より説得され、宇和島7万石の大名として取り立てられ、慶長の役では水軍の基地が置ける名護屋浜に陣を移し(写真⑦)、朝鮮へ再度出兵します。そして秀吉死後の撤退戦では、多くの兵を日本へ帰還させる活躍を見せました。

その後、今度は徳川家康に見いだされ、関ケ原では東軍に属し、その戦功で伊予も賜って今治城を築城、その後は家康からは豊臣の抑えとして伊賀に移封され上野城を築城、大坂の陣の功で伊勢も与えられて津城を築城し、江戸幕府では層塔型の築城術を諸大名に広めていった人物であるという事は、城びと特集にも詳しく掲載されていますので、皆さんよく御存知と思います。

次はその高虎が秀長死後に仕えた、豊臣秀保の陣跡を訪れます。
 

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きしめんではないのね

 にのまるさん、お祝いクイズをありがとうございます。関西人は、きしめん止まりで、なかなか、ほうとうまで思いが及びませんでした。知人の助けも得て、甲府城下、おざら(小作屋)、信玄餅ソフト(黒蜜庵きなこ亭?)と回答します。三つめはきなこ絡みのようですが、何でしょう? お城愛を賞賛いただいてますが、鋸崎台場については、私の場合、執着とか意地とかの類ですなあ。城びとスタッフにしたら、してやったりかも。お礼に、滋賀の城(城びと登録)の写真を添付します。昨日朝、通勤途上に湖西線から撮影しました。朝倉・浅井軍が、延暦寺と共闘して、織田軍に対して立て籠もったところの一つです。写真に駅名がわかるものが写ってました。
 
 大飯原発は、個人の見学は受け付けないが、団体の見学は受け付けると、エルガイアの館員さんが言ってました。小学校の社会見学などを想定しているのかもしれませんが、城びと任意団体を組んで、ツアー内容まで踏み込んで、鋸崎台場を目指す申し込みをしてみるのもありかも。私の渡し船チャーターの試みと同様に撃沈される確率が高いと予想しますが。

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todo94

大河ドラマ館に赴いた翌日・名阪国道沿線の攻城④ (2026/04/19 訪問)

大和笠間城からの転戦です。グーグルマップの畑城のマーカーより東のあじさいロードより登城してみました。グーグルマップの畑城跡のマーカーから大和畑城跡のマーカーまで山頂部というか尾根伝いに、城の遺構を拝むことができました。主郭北側の石積みも見落とすことがなく良かったです。主郭から西側の登城路にはいくつもの堀切が切られていました。

山添村の物件を制覇したことで訪問市町村ポイントをまた加算することができました。この日の攻城はこれにて終了。御在所SAで昼食をとり、ゆとりを持って帰着しました。

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