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にのまる

住宅街の公園の中の緑 (2026/08/16 訪問)

名島城見学後、西鉄バス🚌で香椎東小学校🚏へ。
着いたところは見晴らしのいい坂の上の新興住宅街。香椎台おいの山公園が城址で上下2段の広場になっています。上下段の間は自然の木々が残され、奥にまわると深い堀跡のような地形もあります。それが城の遺構なのかどうかは私には判断できませんでしたが、解説板も設置されており、ここがかつては山城だったことを思い描くことができました。
帰りは博多バスターミナルから高速バスに乗りたかったので香椎神宮からJR線で博多に出ました。香椎神宮までの下り坂は結構長かったですが、おかげで山上の山城と麓の里城(館や屋敷群)をほんの少しですが追体験できました。

todo94さん、大福屋さん情報ありがとうございます。4/29のシルクフェアと「降幡もち店」、覚えておきます😊

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トク

29【秀長の晩年をたどる④】大和郡山城(1/3)追手門と大河ドラマ館 (2026/03/24 訪問)

念願の大和郡山城を訪れました。近鉄奈良駅から大和西大寺駅で乗り換えて近鉄郡山駅まで20分。駅から郡山城までは徒歩10分程でした。駅を降り線路沿いを歩く途中の、東隅櫓と近鉄電車のアングルには感動し、思わずシャッターを押してしまいました!(写真④)。

まずは大河ドラマ館に入りました(写真⑧)。ドラマ館には唯一ここだけではないかと思われる秀長の銅像を見つけました!(写真⑨)。そして出口でちょっと休憩。おみやげコーナーで大和茶だんご(写真⑩)を買って、ドラマ館前のベンチに座って、(写真②)の郡山城を眺めながら食べました(わ!これ美味しい😊!)。

それから鉄筋門の歓迎アーチをくぐり、追手門と追手向櫓前に立ちました。郡山城はこのアングルが最高ですね!(写真①)。追手門に刻まれた金色に輝く豊臣の「桐紋」を見ると思わず身震いがします(写真③)。追手門の先には城址会館があります。明治期の図書館のようです。そこから極楽橋を渡り本丸へ入ります。橋の手前に柳沢文庫(続100名城スタンプ場所)がありました(写真⑤)。スタンプを押し、橋を渡ってふと振り返ると、枝垂れ桜がとてもきれいに咲いていました(写真⑥)。ちょうど桜祭り初日で、ソメイヨシノはまだつぼみでしたが、人はとても多かったです。左側に目をやると柳沢吉保を祀る柳沢神社もありました。郡山は金魚で有名な町ですが、柳沢氏が甲府から持ち込んだのが始まりだそうです(写真⑦)。

そして次は、いよいよ天守台に登ります(続く)。
 

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大石遠江守信重 (2026/09/17 訪問)

 詳細は不明なようですが、大石遠江守信重の館と伝わっています。土塁や空堀が遺されているとの情報もありますが、周囲が住宅となっていて近づくことができません。駐車場から写真を撮り日月神社に寄って退却しました。

 西武鉄道所沢駅から徒歩15分くらいで日月神社に行くことができます。

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山口家継 (2026/09/17 訪問)

 平安時代末期に武蔵七党の村山党から分かれた山口氏の居館跡です。

 西武鉄道狭山線下山口駅から徒歩約5分の場所に石碑と説明板があり土塁が一部残っています。

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山口氏の城 (2026/09/17 訪問)

 この地方を治めていた山口氏が、居城の山口城が防御施設としては弱いため築いた城です。
所沢市のHPによると「郭・土塁・空堀などの遺構が、ほぼ完全な姿で保存されている稀少な城跡ですが、山口貯水池(狭山湖)区域内に属し、東京都水道局管理のため見学はできません。」と書かれています。空堀や土塁などがあるなら少しでも見ることができないものかと淡い期待を抱いて行ってみました。藪になっていてフェンスの外からでは全くわかりません。立入禁止の看板を撮影して退散しました。

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みか

住みたい。笑 (2026/09/12 訪問)

二の丸御殿の中の撮影は出来なかったけど、大政奉還の様子や屏風、欄間など凄かった👏
時間があれば2周したかった!

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イオ

北東尾根と主郭部 (2026/04/12 訪問)

(続き)

主郭部から北東にのびる尾根の付け根も巨大な堀切と竪堀で断ち切っています。北東尾根にはいくつかの小曲輪と堀切が設けられていました。北東尾根付け根の堀切まで戻って西に向かうと、主郭南面には隙間なく畝状空堀群が連なっています。主郭南下段の曲輪を抜けて向かった主郭部西面にもびっしりと畝状空堀群が続いていました。主郭部のほぼ全周を囲むこの凄まじい畝状空堀群。これぞ朝倉の城! という感じですね。そして主郭北下段の曲輪から主郭へ。主郭を囲む切岸はなかなかの高さ、鋭さがあります。戌山城は堀切や畝状空堀群が充実している一方で、土塁はわずかに主郭の北辺に見られるくらいです。

さて、主郭から南下段の曲輪に下りると、南東尾根に向かいます(続く)。
 

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todo94

にのまるさんのクイズに誘われて (2026/09/13 訪問)

にのまるさんに出題していただいた花岡城の絵図をこの前の日曜日に確認して参りました。8年ぶりの攻城なのですが、実は花岡城の麓というか宗教施設の直下には私の行きつけの大福屋さんがあり、日常的にこの界隈には足を伸ばしていました。60歳を過ぎてケーキとパンを食べるのをやめてから、スイーツは大福の一択になっています。店名は「降幡もち店」ですが、看板はなく店名表示も見当たりません。グーグルマップには載っています。花岡城にお越しの際は是非、ご賞味あれ。大福1個160円で、朝7:30開店です。なくなり次第閉店しますし、添加物不使用だと思われますから、半日くらいで餅が固くなってきますので、午前中にお越しいただくことをお薦めします。

肝心の花岡城の絵図は、もっと大きいかと思っていたので実物を見てびっくりしました。

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にのまる

名島城址公園 (2026/08/16 訪問)

大通りから急坂を登りきったあたりかと思いきや、それらしき場所や案内は見あたらず、さらに住宅地をくねくね行った先に城址公園入口がありました。(夜間は施錠されます。)
歩いてきた住宅地もかつての本丸で、本丸の一部が整備された城址公園は決して広いとは言えませんが、歴代城主に小早川隆景、小早川秀秋、黒田長政とビッグネームが連なり、福岡城に現存する名島門も母里太兵衛邸長屋門もここから……と思うと感慨深いものがありました。
見どころである大手門石垣や隅櫓石垣は時期的に草叢に覆われてはいましたが、名島引けも宅地開発も乗り越えて400年余りの歳月をここに在り続けていることに敬意を表したい気分です。

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カズサン

復元中ノ御門が新しいシンボル (2026/09/07 訪問)

 中ノ御門が昨年の3月末に復元完成、擬宝珠橋、表門、枡形内石垣、続き土塀、渡櫓門の各構成物が揃って鳥取城の新しいシンボルと成りました。
 昨年の10月末に復元中ノ御門、渡櫓門を初見学観察しましたが、1年振りに復元中ノ御門と周辺を兄の49日法要の翌日、鳥取に帰ってきたら寄らなくてはと、吉川経家公像の西前県庁駐車場を利用して小雨の中訪ねました。
 久松山に抱かれた鳥取城を内濠沿いから眺めますが、飽きない懐かしい眺めです、擬宝珠橋を渡り、中ノ御門枡形、表門、渡櫓門を抜けて城内へ、家内とサラッと廻りました。
 7月末に亡くなった兄と35年前に長田神社経由で山頂の丸へ登った事が思い出されました、それ以来山上の丸の本丸二の丸三の丸と石垣群を訪ねていません。この年に成ると中々登れません、昔あったロープウェイが有ったらなと思う事しかり。
 新しい資料が有ればと鳥取城跡展示館を訪ねたのですが月曜日で休館でした。残念!

 「惚れ惚れする石垣群」へ続きます。
 

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トク

28【秀長の晩年をたどる③】奈良観光(豊臣秀長と毛利輝元) (2026/03/23 訪問)

京都から近鉄線に乗り、近鉄奈良駅へ着きました。「おお😯ここが奈良の都か~!」恥かしながら奈良県に来たのは初めてです。ここではやる気持ちを抑え、郡山城へ行く前に、せっかくなので先に奈良市内を観光する事にしました(すいません)。

話を少し戻します。豊臣秀長は1588年9月、秀吉に招かれ京に上洛し聚楽第を訪れた毛利輝元を、広島へ帰る前に奈良にも立ち寄るよう誘います。そして自ら馬で出迎え歓迎したとか。「輝元殿~! ようこそおいで下されたー!」。そして「猿沢池→興福寺→東大寺→春日大社」と観光案内をしてもてなしたそうです。夜には深夜まで酒宴を開き、輝元とはとても昵懇の仲になったようです。

実はその背景には、四国や九州平定において、(小早川・吉川軍)を中心とした毛利軍の強さをまざまざと見せつけられた秀吉は、もし朝鮮へ出兵することになれば、西国の毛利の協力が不可欠、逆に毛利を絶対に敵に回してはならぬと考えたようです。そこで秀吉は秀長に、「何とかして毛利が今後も味方となってくれるよう、輝元の機嫌をとってちょ!」と密かに命を下していたのではないでしょうか? 相変わらずの無茶な要求に見事に応える秀長も、本当にすごいですよね。しかしこれが、秀長にとって兄を支える最後の仕事となってしまいました。私もそれに習い、同じルートで奈良を観光してみました。

まずは有名な東大寺へ行きました。これが教科書で見た奈良の大仏か~(写真①②③)、何と😱でかい! もう修学旅行生の気分です。それから奈良公園を散策しました。鹿に囲まれ歩きにくかったです(いったい何百頭いるのだろう?🤔写真④)。そして猿沢池に立ち、ここから興福寺や若草山を眺めてみました。秀長と輝元もここから同じ景色を眺めていたと記録にあります。その時彼らは、どんな話をしていたのでしょうか?🤔 ちょうど五重塔が工事中で素屋根におおわれていたので、奈良で一番と言われる絶景が見られず残念でしたが、秀長はあの塔の上に曲芸師を呼ぶ余興も見せ、輝元を笑わせたりしてもてなしたそうです(写真⑤⑥⑦⑧)。

そして駅前の居酒屋に入ると、メニューに郡山名物「焼き厚揚げと抹茶チュ-イ」と書いてあるのを見つけたので、それを注文して食べてみました(写真⑨)いや~美味しかったです😊。夜は、東横イン近鉄奈良駅前に宿泊しました(写真⑩)。

次は、大和郡山城に登城します。
 

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イオ

北西尾根と小曲輪群 (2026/04/12 訪問)

南北朝期に斯波義種が大野盆地を見渡す犬山頂部に築いた城で、室町中期には朝倉氏の大野郡支配の拠点となりました。朝倉氏の滅亡後、土橋信鏡(朝倉景鏡)が越前一向一揆に討たれると、一揆鎮圧の功により大野郡の3分の2を与えられた金森長近が入りましたが、翌年に越前大野城を築いて移ったことにより廃城となりました。

みくら清水近くの駐車場(無料・6台ほど)から登城開始。みくら清水は戌山城の水源として一日に三度(三くら)水を汲みに下りてきたことから、その名がついたんだとか。説明板のある登城口から10分弱で北西尾根の最初の堀切に到達。少し先に2条目の堀切、さらに進むと巨大な堀切と両端の竪堀で北西尾根からの侵攻に備えています。ロープをたよりに堀切を越えたところからが城域で、土橋のある堀切をはさんでいくつかの小曲輪が設けられています。北端の曲輪の東面と西面には畝状空堀群があるようですが、藪でよくわかりませんでした。小曲輪群の先は城内最大の大堀切と両端の竪堀が主郭部への侵入を阻んでいます。主郭部へと上がる前に北東尾根に行こうと主郭部の東側へと回り込むと、主郭部北面には幅も深さもある畝状空堀群が展開していました(続く)。
 

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歴史案内活動のご案内【R8.9.22(火祝)10:00頃~12:30頃】 (2026/09/22 訪問)

こんにちは。躑躅ヶ崎歴史案内隊のEこと上田絵馬之助です。

シルバーウイークという言葉も定着していますが、
今年は5連休にも9連休にもなりうる配置。
その中の9/20に躑躅ヶ崎館跡での歴史案内活動を行いますので告知します。
※活動は武田神社様に許可をいただき行っていますが、
 当隊は神社とは無関係の有志ボランティアです。

日時:令和8年9月22日(火祝)10:00頃~12:30頃
   ※台風25号接近のため、9月20日から変更します。
場所:武田神社(史跡武田氏館跡・山梨県甲府市)
ガイド:局長・大塚與左衛門/弥三郎景政

❖境内に眠る戦国の史跡を、個性豊かな甲冑ガイドがご案内。
❖時間、コースはご都合・興味にあわせて自由に設定可能。
❖宝物殿、ミュージアムの展示施設も案内可能。
❖ガイドは原則無料(展示施設の入館料等は別途負担ください)。
❖雨天延期の場合あり(Twitter(現✗:@KoufuSamurais)で告知します)。

最近の見どころは西曲輪!
発掘調査によって発見された土塁・階段・水路跡などを整備工事で再現しています。
工事前の姿を知ってる方はきっと驚くほどの変貌ぶりです。
我々も驚きました。

山梨行楽の一環として武田ゆかりの史跡巡りをお楽しみください。
皆さんのご来訪を楽しみにしています。
(E)

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赤い城

鈴江城 徳島県徳島市 (2026/08/09 訪問)

城びと未登録の城で遺構も残りません。
推定地は徳島インター近くの神明神社、国道沿いにあります。
中富川の戦いで戦死した鈴江友明の居城です。

当然撮れ高も少ないのでこの後行った徳島ラーメンです。
以前書いたように徳島ラーメンには茶系、白系、黄系の三系統があります。
有名なのは茶系ですがこの日は鳴門市中心の黄系をいただきました。
黄金スープが綺麗で美味しかったです。
機会があれば三系統食べ比べしてみてください🍜

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にのまる

土塁断面ひろば (2026/08/16 訪問)

水城駅前の土塁断面ひろばに行きました。
大野城まで見渡せます。何年か前に展望台からここまで歩いたのがとても楽しかったので、いつか時間のある時に、今度は逆に水城館に向かって歩いてみたいです。
続100名城スタンプが駅舎内で遠慮がちにいらっしゃいました。

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トク

27【秀長の晩年をたどる②】京都(聚楽第と豊国神社) (2026/03/22 訪問)

大阪からJR京都線(新快速)で京都へ移動し、そして京都駅からバス[9]系統に乗って堀川中立売で降りました。このあたりが聚楽第本丸の東堀あたりだったようで、石碑がありました(写真①)。そこから北東へ500m歩いた場所には、千利休の屋敷跡(現:安部晴明神社)もありました。秀長の死からわずか1カ月後、千利休は秀吉の怒りを買い、ここにあった屋敷で切腹したそうです(写真②③)。ところで肝心の秀長の屋敷はいったいどこにあったのか・・🤔? 結局それはよくわかりませんでした(すいません)。そこからまた同じバスに10分ほど乗り、北へ行った大徳寺の西側に、藤堂高虎が郡山から移したとされる、京都の秀長墓所「大光院」がありました。拝観はできないようなので、門の前で手を合わせてきました(写真④⑤)。

四国平定を終えた1585年、秀吉から紀伊・和泉・大和の100万石が与えられた秀長は、大和郡山城の築城を開始し、居城を姫路から郡山へ移します。そして翌1588年九州平定が終わり、九州から帰還し聚楽第が完成すると、秀吉と秀長は休む間もなくともに大坂から京都へ政事の本拠を移します。そして、後陽成天皇の聚楽第への行幸、妻子を京都に置くように諸大名の説得に奔走、北野大茶会の準備、懐妊した淀君(鶴松)のための淀城築城、京都大仏の建造、並行して自分の郡山城の築城や領国経営なども行わなければならず、戦が終わってからも、かなり多忙な日々を送っていたようです。

私はそれからバス[1]系統と京阪電車を乗り継ぎ、豊国神社へ行きました(写真⑥)。1589年ここには奈良大仏をも凌ぐ秀吉が建てた京都大仏があり(写真⑧⑨)、秀吉死後は秀吉の墓があったそうです。大坂の陣の原因にもなった方広寺の鐘もありました(写真⑩)。しかし大坂の陣の後、大仏や墓は徳川家康により徹底的に破壊されたそうです。明治に入り明治天皇の命で神社が再建され、秀吉の銅像も立てられました(写真⑦)。そう言えば、秀吉の銅像はあちこちにいくつかありますが、秀長の銅像はないですよね🤔。それは何故なのでしょうか?(と思いきや翌日一つだけ見つけました)。

秀長は1588年一度郡山へ戻り毛利輝元一行を接待した後、再び聚楽第に戻ります。その時1989年9月に、雑賀の家臣が材木の利益を着服したという事件が起こり、秀長は秀吉から監督不行き届きを叱咤され、しばらく出仕停止を命じられます。兄弟の間で起きた初めての亀裂です。その影響(ストレス)からか、この頃から秀長の体調の異変が顕著になります。だんだんと咳が止まらず寝込んだようです。1カ月ほど有馬温泉に湯治に行きますが治りません。1590年に秀吉が小田原征伐へ出陣する際には、もはや動けず聚楽第から見送ったそうです。

そしてもう政事を離れ、郡山へ戻る事にしたようです。しかしその時は腹部の痛みが激しくなり馬にも乗れなかったとか。郡山に着くや否やそのまま床に伏せてしまいます。なぜ秀長は、重い病を押してまで郡山へ戻ったのでしょうか🤔?

次は秀長最期の地、奈良・大和郡山へ向かいます。
 

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赤い城

心水の泉 (2026/08/09 訪問)

芝原八幡神社と蔵珠院のあたりが城跡です。
遺構も無いとのことで神社の前に路駐し見学しました。
皆さんのレポートにもある螺旋状の石組の井戸は隣の蔵珠院にあります。
心水の泉と呼ばれ、螺旋状に降りて直接水を汲めるようになっています。
城の遺構ではありませんが全国でも唯一のものだそうです。

周囲も少し歩いてみましたがやはり遺構はなさそうです😓

久米義廣の居城でしたが三好義賢に対し挙兵したものの敗れ討死、芝原城も落城したそうです。

【見どころ】
 ・螺旋状の井戸

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イオ

林谷山砦(長浜市余呉町新堂) (2026/03/28 訪問)

林谷山砦(城びと未登録)は、賤ケ岳の戦いにおいて柴田方が築いた陣城で、守将は毛受兄弟とも徳山則秀ともいわれますが詳細は不明です。

金森長近砦跡の案内表示から北東にのびる尾根を進んだ先が林谷山砦です。尾根道の東辺には低土塁が延々と続き、ところどころに設けられた虎口を出ると外側の犬走りに通じています。東麓の北国街道からの侵攻に備える最前線の陣城としての造りのようです。約480m続く低土塁の中央部には、西辺を除く三方を土塁で囲んだ主郭があり、東側に虎口を設けています。主郭南辺の土塁の外側には毛受兄弟と徳山秀現の砦の標柱が立てられていました。主郭からさらに北東へとのびる尾根にも低土塁が続いていて、先端で尾根を遮断するように西側に折れて終わっています。ここまでが林谷山砦のようです。

さて、林谷山砦の先に大谷山砦があると思い込んでいたため、低土塁を越えて北東尾根をさらに下って行きましたが、陣城どころか麓がどんどん近くなってきて、さすがにおかしいと思って持参していた賤ヶ岳合戦城郭位置図を確認して勘違いに気が付きました(おせーよ)。この時点で登城開始から4時間半あまり、6時間内を目安にしていたのでまだ時間はありましたが、比高440mの行市山までの往復による疲れに加えて、まさかの勘違いによる徒労感でやる気も損なわれ、ここからまた橡谷山砦まで登って行き、草木をかい潜って柏谷山砦まで戻り、さらに尾根を進んで大谷山砦まで行くのか…? と考えると、とてもそんな気力は湧いてきませんでした。当初想定していた柴田方の陣城をひとつだけ残すことになってしまいましたので、いつかリベンジしたいと思います。

…ということで、思いがけない結末になりましたが、様々な陣城めぐりは楽しかったですし、第一の目的である金龍紀行(金森長近ゆかりの城めぐり)は果たせましたので、まずは良しとしておきましょう。
 

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赤い城

青木城 徳島県吉野川市 (2026/08/09 訪問)

こちらも城びと未登録城です。
芝生城から吉野川に沿って東進、国道192号線の南側にあります。
城跡には石碑があり、古城大師堂が建っています。
曲輪は段になっていますが墓地なので写真は控えました。
畑の中には矢塚とされる土塁が残っています。

牛岐城の新開氏の一族、市原市の居城です。
城主の市原兼頼は脇城外の戦いで三好氏に付き、長宗我部氏に敗れ自害しました。

吉野川市には11番札所の藤井寺があります。
ここから次の焼山寺への間は歩き遍路の難所として知られています。

【見どころ】
 ・矢塚

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T-Shionoya

久保城 整備された奥平氏の小さな城 (2026/04/12 訪問)

4月中旬に訪れた愛知県岡崎市の久保城。
調べてみると、宮崎城と記載されるケースも多い様子。

岡崎城から東へ乙川と男川を遡ること約25kmの山間部。
男川に稲荷沢が流れ込むポイントの比高約30mの尾根の端部に築かれた城。

作手高原を拠点としていた奥平貞昌が戦国前期に築いたと伝わり、隠居生活を送った記録も残るとのこと。
長篠の戦い前の1570年には、奥平一族がここに集まり武田方と徳川方に分かれてつくことが話し合われたという。

現在は企業の施設が置かれているが、曲輪1は解放され、物見櫓が建てられている。

訪問の際は、曲輪1背後の堀切横から入城。
今は短い堀切だが昔は20mほどの長さが残っていたらしい。

分厚い土塁が特徴的で、滞在時間は30分程度。
物見櫓と柵で整備された奥平氏の小さな城が、私の城郭巡りの233城目となりました。

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