根白坂の戦いが終わってから亡くなるまでの3年間、秀長はいったいどこでどのように過ごしていたのだろうか🤔? なぜかそれが気になってしまい、今度は秀長の晩年にスポットを当てる旅に出る事にし、大阪→京都→奈良→郡山を訪れました。
博多から再び新幹線みずほ600号に乗り大阪へ、豊臣兄弟の象徴と言えばやはり大坂城だと思い、最初に立ち寄る事にしました。新大阪駅では何とドクターイエローに遭遇😯! 幸先のいいスタートです(写真⑩)。
JR大阪城公園駅で降り、極楽橋から本丸へ入ります(写真②)。いや~平日で雨にもかかわらず大混雑です! しかも約80%が外国人です。チケット売場に30分も並びました。そして再建された徳川の天守へ上がります(写真①)。天守の3階には、豊臣時代の大坂城の模型がありました(写真③)。
その後、豊臣石垣館へ行ってみました。天守のチケットを見せれば入る事ができます。徳川が埋めてその上に現在の天守を建てたというのは本当だったのですね。ここは豊臣期の本丸(詰ノ丸)の南側の石垣だそうです。大坂の陣で焼けた跡の赤い色が、確かに残っていました(写真④⑤)。411年前の歴史の証人に会う事ができ、とても感動です! しかし反面、この時亡くなった豊臣秀頼の事を思うと、何故か忍ばずにはいられませんでした。秀頼自刃の地は、豊臣天守があった詰ノ丸北側から山里丸へ降りた場所に、ひっそりとありました(写真⑥⑦)。
私は、天守最上階からは西ノ丸を見下ろして見ました。西ノ丸には秀長の屋敷があったとされています(写真⑧)。大坂を訪れた諸大名はまず秀長に要件を伝え、秀長が秀吉との仲介役となって、謁見の段取りをしていたものと思われます。また秀長は謁見ができるまでの間、その大名を接待します。千利休の茶室に招き、夜は西ノ丸の屋敷でもてなしながら、そこで秀吉の真意を伝え、うまく事を運ぶためにはどうしたらいいか、いろいろと両者の間に立って話を聞いていたのではないでしょうか。
秀長の西ノ丸屋敷で最も有名な話は、小牧長久手の戦いの後の1586年10月、徳川家康が大坂城を訪れ、諸大名の前で秀吉との対面を迎える前日、家康は秀長の屋敷に宿泊し接待を受けます。その時その屋敷に秀吉がこっそり訪れ、明日は我の前でひれ伏してくれぬかと、家康に頭を下げるシーンですよね。
次に有名な話は、その半年前の1586年4月の大友宗麟が助けを求めて大坂城へ来た時の事です。秀長は同じくこの西ノ丸で宗麟を接待し「表の事はこの秀長に、裏の事は利休に、何でも相談されるがよい」と声をかけます。そして翌1587年3月、九州平定へ出陣。大坂に戻った頃には聚楽第が完成し、従二位大納言に任じられた秀長は、従一位関白に任じられた秀吉とともに、1588年には京都へ本拠を移しました。
1591年秀長死後の西ノ丸には徳川家康が入り、秀吉死後に家康は伏見城へ移ると前田利家が西ノ丸を預かります。利家死後の1600年、家康が伏見より上杉討伐へ出陣すると、今度は毛利輝元が西ノ丸へ入り、関ケ原を迎えます。よって西ノ丸に入った人物は、秀吉または秀頼の次である、つまり豊臣政権No2の地位に立つ事を意味していたようですね。
次は、京都聚楽第へ向かいます。その前に、新大阪駅で食べた「大阪たこ焼き」が、とても美味しかったです😋(写真⑨)。
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