みんなの投稿

検索結果・・・「」を含む投稿

昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征20日目:高森城周辺 岐志氏館(城びと未登録 山口県岩国市) (2026/05/30 訪問)

次の攻城先=高森城に行く前に、岐志氏館(城びと未登録 山口県岩国市)を攻城しました。
源氏武田氏屋敷(城びと未登録 山口県岩国市)から車で40分くらいで、墓地入口(34.265488、132.081327)に着き、本覚寺(墓地)前に駐車しました。

高森城主岐氏の居館です。
岐志氏の居館は二つあり、岐志四郎左衛門通明の居館は「田屋敷」、岐志左馬之介通之の居館は「土居」という所にあったそうです。
岐志氏の後で高森城主となった坂新五左衛門元祐の菩提寺である本覚寺は、小さな御堂になり墓地に岐志氏と坂氏の一族の墓が残されています。

高森城の北西麓に集会所があり、そこに案内板があります。そこから少し奥へ入ると右上に墓地があり、ここが本覚寺です。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=高森城に向かいました。

+ 続きを読む

昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征20日目:蓮華山城周辺 源氏武田氏屋敷(城びと未登録 山口県岩国市) (2026/05/30 訪問)

蓮華山城から車で15分くらいで、欽明路バス停付近空スペース(34.108490、132.109409)に着き路駐しました。
そこから、武田氏屋敷跡付近(34.108893、132.109510)に向かいました。

天文年間(1532年〜1555年)頃に武田刑部少輔宗慶によって築かれました。
周防源氏武田氏の祖である武田宗慶は安芸国銀山城主武田光和の庶子で、1540年(天文9年)武田小三郎が毛利元就の支援を受けて欽明路へ移り、後に武田刑部少輔宗慶と称しました。
銀山城主の安芸武田氏は1541年(天文10年)毛利元就によって滅ぼされますが、この武田宗慶は毛利氏に従って代々続き、1818年(文政元年)武田宗左衛門のとき、稽古屋敷をこの地に設けました。
この文武両道の稽古屋敷は、のちの呉武田学園(呉港高等学校・武田中学校・武田高等学校)と言う学校法人へと発展しています。

周防源氏武田氏屋敷は旧山陽道に面した地に築かれている。欽明路バス停のすぐ北にあり、道標に従って奥へ進んでいくと案内板と土塀に囲まれた屋敷跡があります。
また、屋敷内の西部及び北側山地に、武田氏代々の宝篋印塔や五輪塔をはじめとする墓石が設置されている墓所があります。
屋敷跡には「稽古屋敷創設地碑」や武田光和公、信宗公の墓などが残されています。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=高森城に行く前に、岐志氏館(城びと未登録 山口県岩国市)を攻城しました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征20日目:蓮華山城 (2026/05/30 訪問)

宿泊先のホテルから車で10分くらいで、比叡神社付近空スペース付近(34.108553、132.078526)に着きました。
そこから、本コース(室ヶ迫)と市の滝観音コースの登山口分岐点(34.112389、132.073452)に向かいました。
自分は市の滝観音コース(直進)を選択しました。蓮華山まで2Kmくらいだと思います。

築城年代は定かではないようですが、関東管領・上杉憲実に従って周防国に下向した太田時直の頃(享徳年間以降)と、大内氏、後に毛利氏に従った椙杜(すぎもり)隆康の時代(天文年間(1532年~1555年))の築城説があるようです。
1555年(弘治元年)陶晴賢が厳島合戦で敗れると、毛利の軍勢は周防・長門国への侵攻を開始しました。
蓮華山城椙杜隆康、鞍掛山城主杉隆泰、瀬田城主小方元康も毛利氏に降ったが、杉隆泰は大内義長に内通していたことから、毛利氏に攻められ鞍掛山合戦となり、毛利軍は鞍掛山城の搦め手側である蓮華山城から攻め落としました。
椙杜隆康は嗣子に恵まれなかったことから、毛利元就の五男元秋を養子に迎えますが、元秋は出雲国富田城督として迎えられた為に椙杜家から去り、代わりに元就の八男元康を養子に迎えました。
しかし、この元康も元秋の死後出雲国富田城督となって去った為、志道元保の二男元縁を養子に迎えて家督を譲ります。
1588年(天正16年)椙杜元縁は長門国且山城主を命ぜられ蓮華山城は廃城となりました。

比叡神社入り口を少し北側に行った所に登山道入口の道標があります。
遊歩道ははっきりとしているので迷うことはありません。それにしても高い。
攻城時間は110分くらいでした。次の攻城先=源氏武田氏屋敷(城びと未登録 山口県岩国市)に向かいました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

にのまる

もうひとつの五稜郭 (2026/06/26 訪問)

上ノ国勝山館(大留)からバスに1時間20分揺られて14:30に木古内着。道の駅「みそぎの郷きこない」でいさりび鉄道グッズを自分へのお土産に購入し、15:19発の列車で函館に向かいました。(五稜郭まではおときゅう範囲外)

函館から市電函館どつく行きに乗り終点で下車。
電停目の前の公園が弁天岬台場跡で、説明板がありました。現在はその面影はありませんが、函館五稜郭と同じ武田斐三郎設計の不等辺六角形の台場で、新選組終焉の地でもあるそうです。

台場の転用石があるという防波堤……行っていません😭時間はたっぷりあったのに全く何を見に行ったのやら。やはりブラタモリでの事前学習は必須です。いや、事前学習なしでも某アプリのリア攻めマップを見れば親切な方が記録してくださっているのに😢(赤い城さんに教えていただいていつもとても重宝しているのですがこの時は失念していました😢)
なのでかなり消化不良ですが、圡方歳三と新選組隊士の供養碑のある称名寺に行ったり、周辺を気持ちよくお散歩したりできてよかったです。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

べっち

能島城 (2026/07/05 訪問)

クラブツーリズムの福山ガイド同行ツアーで行った

+ 続きを読む

フカチャンマン

高虎PR館 歴史講演会 「在りし日の津城」講師:三浦正幸氏

大河ドラマ「豊臣兄弟!」で大活躍している築城の名手藤堂高虎公
その藤堂高虎公が手がけた集大成の城「津城」
この度、津城に深く関わっていただいている 三浦正幸先生をお招きして、城の理想的形態を備えた天下の名城「津城」の魅力に迫っていただきます。
三浦先生は、大河ドラマ「豊臣兄弟!」を始め、たくさんの大河ドラマの建築考証をされておられます。
また、全国各地の城の整備委員をされておられます。

歴史講演会にご参加いただき、津城の魅力を皆様の目で確かめていただきたいと思います。
ただいま津センターパレス1階では、「高虎PR館」(入場無料)がオープンしており、津城模型や高虎公と豊臣秀長公の関係資料も展示し、ガイドも常駐しております
この機会にぜひともご来場ください

【歴史講演会の概要】
日時 9月4日(金) 15:00~16:30(開場14:30)
場所 津リージョンプラザ3階 お城ホール
(三重県津市西丸ノ内23-1)
入場無料(先着500名 定員になり次第受付を終了)

申し込みはチラシのQRコードよりお願いいたします。

+ 続きを読む

べっち

徳島城 (2026/07/04 訪問)

自分でツアーのついでに行った

+ 続きを読む

べっち

河後森城 (2026/07/05 訪問)

クラブツーリズムの福山ガイド同行ツアーで行った

+ 続きを読む

べっち

岡豊城 (2026/07/04 訪問)

クラブツーリズムの福山ガイド同行ツアーで行った

+ 続きを読む

べっち

一宮城 (2026/07/04 訪問)

クラブツーリズムの福山ガイド同行ツアーで行った

+ 続きを読む

べっち

勝瑞城 (2026/07/04 訪問)

クラブツーリズムの関本ガイド同行ツアーで行った

+ 続きを読む

べっち

松江城 (2026/06/22 訪問)

クラブツーリズムの関本ガイド同行ツアーで行った

+ 続きを読む

べっち

引田城 (2026/07/03 訪問)

クラブツーリズムの福山ガイド同行ツアーで行った

+ 続きを読む

べっち

月山富田城 (2026/06/22 訪問)

クラブツーリズムの関本ガイド同行ツアーで行った

+ 続きを読む

べっち

鳥取城 (2026/06/21 訪問)

クラブツーリズムの関本ガイド同行ツアーで行った

+ 続きを読む

べっち

津山城 (2026/06/21 訪問)

クラブツーリズムの関本ガイド同行ツアーで行った

+ 続きを読む

べっち

岡山城 (2026/06/21 訪問)

クラブツーリズムの関本ガイド同行ツアーで行った

+ 続きを読む

べっち

備中松山城 (2026/06/20 訪問)

クラブツーリズムの関本ガイド同行ツアーで行った

+ 続きを読む

べっち

鬼ノ城 (2026/06/20 訪問)

クラブツーリズム関本ガイド同行ツアーで行った

+ 続きを読む

イオ

高野瀬城(滋賀県犬上郡豊郷町高野瀬) (2026/01/04 訪問)

高野瀬城(城びと未登録)は、築城時期は不明ながら近江国守護佐々木氏に仕えた高野瀬氏が築いた城で、高野瀬氏代々の居城となりました。戦国期に高野瀬隆重が六角氏の命により肥田城を築いた後も高野瀬城は存続しているようです。

城跡は工場建設により遺構のほとんどが失われていますが、工場南辺の道路沿いに高野瀬城趾の石碑が、工場東側の高野瀬城趾バス停脇には高野瀬城址の標柱が立てられています。工場建設前の城跡は竹藪になっていて藪の中に土塁や堀が見られたようですが、現在は工場南西隅から南へ続く道路の東側(東馬場)の竹藪が唯一遺る土塁のようです。
 

+ 続きを読む

ページ2