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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征18日目:八条原城 (2026/05/28 訪問)

槌山城から車で30分弱で、志和神社鳥居前(34.490947、132.642626)に着き、そこに路駐しました。

1868年(慶応5年/明治元年)戊辰戦争が勃発すると、広島藩は戦乱の拡大と外国の干渉など、不測の事態に備えて、秘密裏に志和の地に築城することを決定しました。
築城は急ピッチで進められましたが、戊辰戦争の沈静化によって、築城は中止され、城地や施設は払い下げられました。
城地は払い下げられた後、現在は志和神社やJA広島志和ライスセンターとなっています。

志和神社の参道に案内板と石碑があります。
当初の予定では、西条駅でレンタカーを返却した後、徒歩5分ちょっとの教善寺山門前(34.431750、132.744191)に行き、八条原城(移築建物)を見る予定でしたが、これも中止です。
計画ミスのリカバリ(当初3時間)要の残り1時間40分を八条原城で20分リカバリしました。残り1時間20分です。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=生城山城に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征18日目:槌山城 (2026/05/28 訪問)

松尾城から車で35分くらいで、長寿の森駐車場入口(34.393704、132.653558)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、南北朝時代に大内氏によって築かれたと云われています。
1523年(大永3年)鏡山城が尼子経久によって落とされると、1525年(大永5年)以降、大内氏の拠点は杣城(曽場ヶ城)、その後槌山城に移されました。
1543年(天文12年)大内氏は守護代の弘中隆兼を槌山城に派遣し、1550年(天文19年)頃まで槌山城を本拠として芸備両国を支配していました。
1551年(天文20年)陶晴賢が大内義隆を討ち大友家より義長を迎えると、これに従わない菅田氏を陶晴賢の命を受けた毛利隆元に攻め落とされました。
1555年(弘治元年)厳島合戦で陶晴賢を滅ぼした後は、小早川氏が管理していたが、「当国守護山」ということで、毛利氏に移管されたそうです。

長寿の森駐車場到着時、攻城計画書に到着時間を記入した際、計画書の到着時間と出発時間の時間が逆転していることに気が付きました。
3時間も出発時間が早くなっていました。計画変更時、エクセルでコピーミスをしたようです。
予定では駐車場から、登城口/説明板(34.393965、132.654606)に向かい、山頂まで遊歩道を歩き槌山城攻城後、鬼ヶ丸城(城びと未登録 広島県東広島市)に徒歩で行くつもりでしたが予定変更です。
槌山城は登城口で引き返し、鬼ヶ丸城(城びと未登録 広島県東広島市)の攻城は断念しました。
3時間をリカバリする為には、この後の攻城予定も変更が必要です。
何としても、西条駅から徳山駅へ向かう電車に間に合わせなくてはいけません。
計画ミスの3時間を槌山城と鬼ヶ丸城(城びと未登録 広島県東広島市)で1時間20分リカバリしました。残り1時間40分です。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=八条原城に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征18日目:松尾城 (2026/05/28 訪問)

木村城から車で35分(ナビがすごく狭い道に誘導する為、到着に時間がかかった)くらいで、空スペース(34.343809、132.814264)に着きました。
そこから、登城口(34.344904、132.813219)まで徒歩2~3分くらいです。

築城年代は定かではないようですが、永禄年間(1558年~1570年)戦功を挙げた 竹原小早川家の家臣行友光叔の居城だったそうです。

現在城址には曲輪や堀切のほか、石垣などの遺構も確認することができます。
城壁に大きな岩が活用されています。
攻城時間は45分くらいでした。次の攻城先=槌山城に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征18日目:木村城 (2026/05/28 訪問)

松ヶ嶽城から車で20分くらいで、登山口付近(34.381179、132.894951)に駐車しました。

1258年(正嘉2年)小早川政景によって築かれたと云われています。 政景は沼田小早川茂平の4男で都宇竹原荘を与えられ竹原小早川家の祖となりました。
1541年(天文10年)13代の興景が佐東銀山城攻めの陣中で病死すると、興景の夫人が元就の姪であった縁で1544年(天文13年)毛利元就の三男隆景が12歳で竹原小早川家14代を相続し木村城に入りました。
1550年(天文19年)には隆景は本家沼田小早川繁平の養子となり、本郷の高山城に移るまでの約300年間竹原小早川家の本拠として使用されました。
その後も高山城、新高山城の支城として使用されたようですが、廃城年は定かでないようです。

登山口案内標識付近が工事中。工事用のコーンをすり抜け登山口に向かいました。
登山口には城跡碑と説明板があり、整備された山道で山頂の本丸までは約15分ほどで着きます。
登山口から標識が随所にあるので、わかりやすいです。まあまあの傾斜を登ります。
流石竹原小早川氏の本拠地です。全体的な加工度が高く切岸や土塁、竪堀は見事でした。
攻城時間は40分くらいでした。次の攻城先=松尾城に向かいました。

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小城小次郎

黒駒の戦い (2025/09/07 訪問)

すり鉢状の甲府盆地のすり鉢の壁の中腹あたりにある小山城は若彦路と御坂路という二つの主要街道のどちらにも睨みが効く絶妙な立地だった。この城を出撃した鳥居元忠は御坂路を越えてきた後北条勢を粉砕している(黒駒の戦)。

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坂本城跡国史跡指定記念シンポジウムのこと

 「厳正なる抽選の結果、誠に残念ながら、落選されましたことをお知らせいたします。」と連絡がきました。城びとの皆様はいかがでしょう。
 発掘説明会に2日で2000人来たのに、シンポジウムの定員は450人って、おかしいでしょ。こうなると予想の上、「応募者多数につき、急遽、広い会場に変更しました」となることを期待してたのですが、予算の縛りですかね。あかんなあ。

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蜻蛉切

二俣城 (2026/07/08 訪問)

二俣城に行ってきました。
石垣・土塁・堀切・天守台がしっかり残っています。
井伊家の菩提寺、龍潭寺と合わせて行くのがおすすめです、

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近くのヤマザキマザック博物館もどうぞ (2026/06/28 訪問)

 加治田城の佐藤氏と織田軍に攻められ、奮闘するも落城した岸氏 堂洞城。加治田城からは見下ろされる高さですが、主郭から麓を見るとけっこうな高さがありました。濃尾平野周縁の険しい山は、チャートからなっていることが多いですが、堂洞城は、角礫岩。主郭の切岸に、石骨材入りコンクリートと見まがう、角礫岩の露頭があり、小さな崖になってました。切岸は、急斜面です。主郭には、真新しい説明板あり。
 城びと先人に倣い、給水塔前まで、車で行き、ゴルフ場へのゲート前に路駐。そこからは、ほぼ水平移動でした。
 近くに、工作機械メーカーのヤマザキマザックの博物館があります。工作機械およびそれらで作られた(であろう)機械を展示しています。量も内容も豊富。OBの技術者の解説もあり、とても充実してました。蒸気機関車の運転席に座り、汽笛を鳴らすこともできます。

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イオ

在士館(滋賀県犬上郡甲良町在士) (2026/01/04 訪問)

在士館(城びと未登録)は、詳細は不明ながら藤堂景盛が室町期に築いた城館とされます。

館跡は住宅地になり遺構は消滅していますが、一部が藤堂高虎公出生地として整備され、石碑や説明板が立てられています。館跡から北東すぐの藤堂高虎ふるさと館 和の家には高虎に関する資料が展示され、土産物の販売もされているようですが、訪問時は年末年始休館中でした。また、和の家の前には高虎がしゃべる自販機がありました。戦国武将がしゃべる自販機を見たのはこれで3例目です。

続いては、和の家の駐車場に駐めさせてもらって周辺を散策します。館跡から高虎の道と呼ばれる道をはさんだ北側の在士八幡神社は、藤堂景盛が石清水八幡宮から分祀を受けて創建した藤堂家の守護神です。高虎の道を東に進むと、在士高虎公園には高虎公騎馬像が立てられ、高虎公ゆかりの大坂城残念石や駒止め石が設置されていました。

訪問時は「豊臣兄弟!」放送開始前だったからか訪れる人の姿もなく、のぼり旗も見かけませんでしたが、高虎もドラマに登場して活躍している今頃はもっと賑わっているでしょうか。

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赤い城

尼子氏の精鋭 (2026/06/28 訪問)

帰省2日目は午後に所用を入れていたので朝駆けで城を攻めました。
目的は月山富田城ですがその前に立ち寄りました。
月山富田城の北東部に位置する尼子国久の新宮党の館跡です。
駐車場は少し離れた山中幸盛屋敷跡の前にあります。

新宮党は尼子氏の戦闘部隊として武功を挙げていましたが晴久により粛清、その後尼子氏は弱体化してしまいました。

入口に石碑が立ち、鳥居をくぐると段になった切岸があります。
登ると広い削平地がありここが館跡です。
太夫神社が鎮座し、側に新宮党一族の墓石がありました。
太夫神社には登城ノートも置いてあるので記帳しておきました。
それらしい遺構は残りませんが国久の無念を感じることは出来るかも?

【見どころ】
 ・広い削平地
 ・段のある切岸

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征18日目:松ヶ嶽城 (2026/05/28 訪問)

白山城から車で20分ちょっとで、竹林寺参拝者駐車場(34.458987、132.876533)に着きました。

1256年(建長8年・康元元年)大多和季盛によって築かれたと云われています。
大多和氏は季盛、為盛、八郎太郎入道と三代続きましたが、1353年(正平8年・文和2年)大多和八郎太郎入道は北朝方に敗れて自刃しました。
この功によって1354年(文和3年・正平9年)平賀遠江兵衛蔵人貞宗に安芸国入野郷(大多和八郎入道、小池大輔芳等の跡)を恩賞として足利尊氏より宛がわれています。
1395年(応永2年)平賀真宗の次男次郎時宗が入野郷地頭となり、松ヶ嶽城を居城として入野氏の祖となりました。
入野氏はその後、加賀守宗継、宮内少輔宗政、出羽守宗永、左衛門大夫保継と続きます。
1518年(永正15年)入野保継は惣領家を離れて小早川氏に従おうとし、平賀弘保・興貞父子に攻められ松ヶ嶽城で自刃しました。弘保は次男民部少輔貞景を入野氏の後継としています。

山頂近くの竹林寺まで車道が付いており、近くまで車で登ることができます。
城跡へは竹林寺の仁王門前から道標が出ており、それに従って降って行けばたどり着きます。
曲輪内は雑木林で歩くのに苦労しますが、中央付近にある石組井戸までは歩きやすくなっています。
攻城時間は45分くらいでした。次の攻城先=木村城に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征18日目:白山城 (2026/05/28 訪問)

頭崎城から車で10分くらいで、白市探訪駐車場(34.454546、132.823309)に着き、そこから登り口(34.454248、132.823497)に向かいました。

1503年(文亀3年)平賀氏当主の平賀弘保は、居城であった御薗宇城の防備に不安を感じ、白山城を築いて居城としました。
しかし、白山城は交通には便利でしたが急峻な山ではなく堅固ではなかったので周辺に滝山城、新開城などの支城を築いて防御を固め、急峻な頭崎山城も築き嫡男興貞を置きました。
永正年間から大永年間にかけてこの地に近い鏡山城をめぐって大内氏と尼子氏の対立が激しくなると白山城の弘保は大内方、頭崎城の興貞は尼子方に分かれ1535年(天文4年)と1536年(天文5年)に両者は戦っています。
これらの対立により次第に平賀氏は衰退していくこととなり、後に毛利氏の介入によって親子の争いに終止符を打ち、家督を平賀隆宗に継承させました。
白山城は頭崎城が完成後も維持されましたが、廃城年は不明のようです。

現在は平賀氏の遺構の一つとして県指定史跡となっていますが、頭崎城、御園宇城とは異なり荒れるがままに放置されています。
雨でぬれた登城路は登りの段階で滑りまくり、途中で登るのを止めて下城しました。
攻城時間は25分くらいでした。次の攻城先=松ヶ嶽城に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征18日目:頭崎城 (2026/05/28 訪問)

御薗宇城から車で5分くらいで、貞重集会所駐車場入口(34.473031、132.817220)に着きました。
そこから説明板前(34.473102、132.816620)を経由して、南側登城口付近(34.475567、132.819423)に徒歩で向かいました。

1523年(大永3年)大内方の鏡山城が落城しました。平賀氏当主平賀弘保は居城であった白山城の防備に不安を感じ、近隣の頭崎山に築城し、嫡男の平賀興貞を城主としました。
ところが、興貞は父の意向を無視して尼子氏に属し、大内方に味方した弘保と孫の隆宗・広相で争いを繰り広げることとなります。
1540年(天文9年)大内義隆の命を受けた毛利元就が頭崎城を攻略しました。敗れた興貞は出家して、平賀氏の家督は興貞の嫡子である隆宗が相続します。
平賀隆宗は大内方として活躍しますが、1549年(天文18年)に備後国神辺城を攻撃中に死去しました。
祖父の平賀弘保は家督を平賀広相に継がせようと考えましたが、大内義隆の策謀によって平賀氏の家督は小早川氏庶流の義隆の寵童が改名して相続し、平賀隆保と名乗りました。
1551年(天文20年)大寧寺の変で大内義隆が陶隆房(陶晴賢)によって殺害されると、陶方に味方していた毛利元就は、大内方であった頭崎城の平賀隆保を攻めて落城させ、家督を平賀広相に継がせました。
1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いの後、毛利氏が防長移封となると、平賀氏もそれに随行し、頭崎城も廃城となりました。

登山道の落葉で滑りながら登城口から頭崎神社鳥居まで約25分弱、山頂(甲ノ丸)まで約40分弱。竹が茂って倒れている箇所もありました。
三ノ丸が開けていたので眺望をと思いましたが、もやがかかってまったく見えませんでした。
下山時、雨に濡れた道で滑り派手に点灯。お尻と両手の平を強打しましたが、手袋をしていたのでケガはなく軽い打身程度で済みました。
攻城時間は95分くらいでした。次の攻城先=白山城に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征18日目:御薗宇城 (2026/05/28 訪問)

西条駅でレンタカーを借り、そこから車で20分くらいで、登り口付近(34.470185、132.800326)に着き路駐しました。

築城年代は定かではないようですが、弘安年間(1278年〜1288年)に出羽国平鹿郡を本領としていた平鹿氏(平賀氏)の一族が、元寇に備えて西国に下り、御薗宇城を築いて拠点としました。
南北朝時代、家督相続問題で家内に争いが起きたが、平鹿郡を所領としていた惣領の平賀直宗がこの高屋保に移り住んで、安芸国の有力国人領主として成長していきました。
1403年(応永10年)山名満氏が安芸国守護として下向してくると、安芸国人衆と対立し山名氏は御園宇城に攻め寄せました。
この合戦は平賀氏が他の安芸国人衆の支援を受けて3年に及ぶ長期戦となりました。
この戦いで弘章の子、平賀共益、平賀惟益、平賀惟元らは討死を遂げたが、最終的には山名満氏を撃退しました。
1503年(文亀3年)平賀弘保は新たに白山城を築き居城を移しました。
しかし、御薗宇城は維持されたようで、廃城年は1600年(慶長5年)前後ではないかと推測されています。

竹林に入って見ると中央に開けた空間があり、南を除く三方を高い土塁で取り囲んでいました。
登り口付近にあった説明板の写真を撮りましたが文字が薄くなっていました。
頭崎城に向かう途中、平賀氏墓地説明板前(34.473114、132.795909)に路駐して墓地を確認しました。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=頭崎城に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征18日目:三ツ城(城びと未登録 広島県東広島市) (2026/05/28 訪問)

宿泊先のホテルの朝食前に、鏡山城、三ツ城(城びと未登録 広島県東広島市)を攻城しました。
鏡山城から徒歩20分弱で、三ツ城古墳南側入口(34.415529、132.733496)に着きました。

詳細は不明です。平賀広相の居城だったようです。

史跡公園となっている三ツ城古墳が城址です。
国指定史跡はあくまで古墳としての指定で、公園内の案内は古墳に関するもののみで城跡に関する記述はありませんでした。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=御薗宇城を攻城する前に、ホテルに戻って朝食を食べました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征18日目:鏡山城 (2026/05/28 訪問)

宿泊先のホテルの朝食前に、鏡山城、三ツ城(城びと未登録 広島県東広島市)を攻城しました。
宿泊先のホテルから徒歩40分くらいで、鏡山公園駐車場(34.407486、132.728932)に着き、そこから山頂まで遊歩道を歩きました。

築城年代は定かではないようですが、長禄・寛政年間(1457年〜1466年)頃に大内氏によって築かれたと云われています。
大内氏の安芸支配の重要拠点として機能していたため、尼子氏によってたびたび攻撃され、1523年(大永3年)の「鏡山城の戦い」で毛利元就の計略によって攻略されました。
1525年(大永5年)に大内氏は鏡山城をふたたび奪回しました。その後は安芸支配拠点を杣城や槌山城へ移し鏡山城は廃城となりました。

本日、降水確立0%なのに小雨が降りはじめました。小雨の中、カッパも傘もホテルに置いたままなので急ぎ足で攻城しました。
鏡山城は現在、鏡山公園として整備されていて、駐車場も数十台置けます。
案内板や城址碑や、公園内の地図も充実しているので間違うことなく登城できます。丸太の階段も整備されていて登りやすかった。
この城の最大の見どころは畝状竪堀です(写真を撮りましたがアングルが悪く竪堀に見えないので割愛)。
攻城時間は50分くらいでした。次の攻城先=三ツ城(城びと未登録 広島県東広島市)に徒歩で向かいました。

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イタさん

遺構はないが、境内が美しい (2026/07/04 訪問)

説明板に、鎌倉中期の文永2年(1265)新田義重の子孫、中野景継により築城され、以後同氏の居城となった。景継の子・藤内左衛門が新田義貞とともに戦死したため、築城73年で廃城になった・・・。東西110m・南北140mにおよび、わずかに南面に塁濠跡が確認でき・・・とある。

単郭の館跡で城跡は神光寺が建っている。土曜日のためか駐車場から扉・柵があり本堂側に行けず、道路にでて山門側へまわる。山門前に説明板があり城跡と分かる。山門前脇に群馬県指定天然記念物・大カヤがある。植木などよく手入れをされており境内は煩雑さがまったくない。遺構だが、南面に塁濠跡が確認でき、と載っているが本堂左・裏手は墓地で、接して民家があるので確認しなかった。先人さんの見解に、東北隅にわずかな高まりがあり、これが唯一らしい、確かに土塁跡に思える。寺域は四角だろうが、ここだけ角が欠けて塀がない。

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にのまる

函館遠征2日目。続100名城スタンプ96個目。 (2026/06/23 訪問)

今年の目標のひとつ、続100名城制覇。
遅々として進みませんがまだ諦めてはおらず、ここ勝山館が今回の函館遠征のいちばんの目的地でもありました。

公共交通機関での行き帰りのルートを調べると、木古内拠点と新函館北斗(江差経由)拠点でバス便がありました。しかし、行きはともかく帰りは“逃したら現地で宿を探すしかない”ということになりかねない本数なので、本命と保険のふた通りをインプットしておきました。

行きは新函館北斗07:59発の函館バス(610系統)で江差病院。そこで約1時間待って10:10発の木古内駅前行き(631系統)に乗り換えて大留バス停に10:42着。

あとは歩くのみ。天の川を超えてどんどん進みます。(途中の花沢館については改めてレポします。)

旧笹浪家住宅、上ノ国八幡宮横が登城口です。
熊鈴を持たずに行ったのでBearBellアプリ(おりんのような音色です)を鳴らしながら進みました。
荒神堂跡を経て登城口から10分ほどで大手口に到着しました。(大留バス停からは50分程度)

目前に広がるのは現代の日常とはかけ離れた世界。
しかし、立体また平面表示された建物跡などと景観やスケール、立地などからここには人々の暮らしが確かにあり、また重要な役割を担っていたということを肌で感じることができました。(井戸はぬかるみで行けませんでした。)
こんなに素晴らしい世界に立つ体験ができて心底ありがたいと思いました。(おときゅうに感謝🙏)

ガイダンス施設では展示を見学し、説明を伺いました。
こちらが続100名城のゴールだとキーホルダーがいただけるそうです。5種類の缶バッジ(¥100/個)がツボだったので全種類購入してしまいました^^

“保険”の方の大留13:53発江差方面行きのバスにすれば、ガイダンス施設で15分間のビデオを見たり洲崎館に行ったりもできるかと思いましたがそのバスは(事実上の)終バスになってしまうので、13:12発の木古内行きに乗ることにしました。(木古内から道南いさりび鉄道完乗したいという邪心もあり)

最後に夷王山神社に駆け上り、美しい景色を目に焼きつけ、再び館跡を通って帰途に着きました。

……また行きたい!

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イタさん

鶉古城跡  群馬県邑楽町鶉新田 (2026/07/04 訪問)

説明版に、多々良沼に突出した「荒間崎」と呼ばれた半島部に築かれた城で、江戸初期の刀鍛冶の作刀に「鶉古城打」と銘があるため、この名はすでに使われていたようだ。城の西南端から北に高さ3m、長さ250mの土塁と、その西側に沿って空堀がある。鎌倉幕府滅亡時、北条高時の弟の僧慧性・荒間朝春らともに逃れて、ここに築城した。応永年間(1398~1428)多々良四郎忠致の居城となり・・・云々と書かれている。

周囲は多々良沼公園として市民の憩いの場所になっている。奥の駐車場の前には高い土塁が続いていて、階段で上り城内へ入れる。ここの南に土塁の欠けた場所があり本来の虎口だったのか。城内には水路が曲がりながらあるが遺構かは不明。北側に土塁はないが、いかにも堀に見える溝があるが、説明板に載ってないので違うのだろう。その北には多々良沼が見える。東端からは沼が一望でき、細く伸びた先には浮島弁財天が祀られている。土塁の欠けた手前に城址の標柱と説明板が立っている。

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イタさん

木々が多く、四季折々で楽しめるとある (2026/07/04 訪問)

先人さんの情報では、鎌倉時代に佐貫次郎太郎嗣綱が築いたとされる。城跡は光恩寺の寺域になり、山門の右には初の女性医師・荻野吟子の生家の長屋門が移築されている。生家は現在の埼玉県熊谷市妻沼の名主の家の生まれとあるので、いきさつは不明だが明治23年以前に光恩寺さんに移築されている。

山門前には堀跡が残る。本堂の左(西側)辺りにも堀跡・土塁跡らしきものが確認でき、背後に回り込むと明らかに土塁・堀跡が見られる。整備された道が先に続くため向かうと、こんもりした岡があり階段で上がれる。上の左端には鐘楼があり、反対右端には佐貫氏の子孫と言われる赤井照光(尾曳城または館林城城主)の墓碑(五輪塔)が建立されている。訪問時は城の一部と思う程度だったが、帰宅後先人さんの情報を見ると、古墳(堂山古墳)らしく櫓台・物見台として利用されたように載っている。堂山の南一帯は重機が入り工事中の為行かないが、朱色の阿弥陀堂が見える。遺構は山門前と本堂左から背後にかけての土塁・堀が分かる程度だった。

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