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じゅんじん

城山公園 (2026/06/13 訪問)

財閥三井家の別荘として改変されています。道向かいには吉田茂別荘があります。

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じゅんじん

小田原城 (2026/06/13 訪問)

久しぶりに天守の中に入りました。紫陽花も見ごろでした。

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カズサン

15年振りの登城 (2026/09/07 訪問)

 鳥取帰省の帰路、今話題のNHK大河ドラマ豊臣兄弟放映中でも有り通常は草津JCTより新名神に入るのですが、名神、北陸道経由で長浜城へ寄りました。出来たら売店で「ぶらり豊臣秀吉・秀長ゆかりの城めぐり、御城印情報付き」ぶらり戦国武将の城シリーズ著者佐藤強志氏が有ったら買い求めたいと思って居ましたが、天守閣展望の長浜城歴史博物館は月曜日休館! 大変がっかり。

 車は長浜市豊公園駐車場を利用、2,3時間は小型車無料でした。
 駐車場より、長浜城御殿跡碑、樹間より天守閣が覗いてる、本丸跡碑、天守閣南東角、天守閣南面、石垣虎口から天守閣の眺めて上段へ、人が少ないなと思いながら長浜城歴史博物館に近づく閉まってる、月曜日は休館でした。有名どころですから開いてると思って居たのですが、よく調べていませんでした。裏側の琵琶湖沿いに廻って太閤井戸跡碑を確認、所々豊臣博覧会の幟も懸っている。ブラっと回って昔泊まった長浜グランドホテルへ行って見たら、様子が変わってリゾート&スパに代ってリーズナブルなリゾートホテルに変わって、夕刻からのお客さんで時間待ち大勢の人で混んで居ました。奥に豊臣博覧会の大パネルが鎧兜と大河ドラマパネル一緒に飾って有りましたので撮影。

 1時間半ぶらついて帰路浜松へ。

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じゅんじん

石垣山 (2026/06/13 訪問)

朝の城巡りしました。紫陽花きれいでした。その後小田原城へ向かいました。

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イオ

とことん一乗谷(小見放城) (2026/04/12 訪問)

小見放城(こみはなちじょう・福井市城戸ノ内町・城びと未登録)は、一乗谷城の大手口を守る出城として朝倉氏によって築かれたと考えられますが、築城時期など詳細は不明です。

一乗谷史跡公園センターの駐車場から登城開始。一乗谷城への馬出ルートをたどり、砂防ダムを過ぎたあたりの登城道沿いに小見放城の案内表示と説明板が立てられていて、そこから右手の斜面を登って行くと巨大な堀切に行き当たります。倒木で見づらくなっていますが、幅も深さもある見事なもの。さらに東端の土塁で堀底を分岐させて主郭の櫓台から横矢が掛かる造りになっています。主郭からは西に三段の曲輪を連ね、各曲輪間は斜面を活かした切岸により防御しています。西最下段の曲輪には苔むした礎石群が見られ、宗教施設の存在が想定されるようです。最下段の曲輪の南面には竪堀を落としていました。ほぼ未整備の小さな出城ながら、尾根を完全に断ち切る堀切と高さのある切岸は見応えありです。

最下段の曲輪から北側に下っていくと馬出ルートの登城道に出るので、馬出地区まで戻って今度は分岐を南へ。一乗谷の屋敷地と思われる馬出地区、上殿地区を抜けて小城に向かいます。
 

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ちぼる

和歌山県 (2026/08/14 訪問)

中はホテルだったので残念です。

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ちぼる

三重県 (2026/08/14 訪問)

人が結構多かったです。

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朝田 辰兵衛

台風の影響ありましたが,無事上陸…🌀 (2026/09/19 訪問)

台風の影響で寸前まで🛫運行を検討。出発が遅れましたが,無事に対馬上陸。玄界灘の気流とやらが厄介だったようです。オカゲで,対馬空港着陸時にはなかなかのアクティビティ感がありました…<苦笑>。
厳原までバス移動。まだIC化されておりません。【710円】です。ジビエの食べれる食事処は15:30閉店に変わっておりました…<泣>。
よく考えてみたら,清水山城の登城口は,厳原の東横インからは目の前。1時間ちょっとで帰って来れそうだったので,小雨でしたが決行しました。
厳原港の監視は,山頂部よりも三の丸からのほうが切迫感がありました。不審な船が入ってきたら…と想像すると,着岸して数10分で敵兵来襲をリアルに想像できます。
三の丸虎口は平虎口。二の丸虎口は枡形構造でしたが,一の丸の虎口は前と後ろの二重構造という面白さがアリ。

今回は,PCを持参して遠征中。
昨日の分は整理がついたので,厳原の東横インから投稿します。本日は晴天に恵まれ,金田城のリベンジも果たしました。よって,長岩城クリアで,赤色かるた54城の攻城達成です。来年2月計画中。12月の横浜EXPOで,長岩城の有効な資料を入手しようと思ってます。とりあえず,現状でも資料をそろえておりますが…。

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ヒロケン

城びと未登録の城 光明城 (2026/09/19 訪問)

光明城は539mの光明山山頂部にあり、もともとは高僧行基が開いた山岳寺院光明寺を今川氏が接収して山城に改修したのが始まりいわれています。今川氏没落後は武田氏に支配されていましたが、二股城奪還作戦に於いて、本多忠勝、榊原康政らによって攻め落とされ、二俣城主となった大久保忠世に預けられていましたが、武田氏が滅亡すると城としての利用価値がなくなり、廃城になったと考えられています。

城跡は江戸時代に入ると光明寺が再建され昭和6年まで存続しましたが、火災に見舞われ周辺の森林と共に焼け落ちています。現在城跡に残る石垣は昭和6年まで在った光明寺(現在は移転されています)の石垣ですが、折れのある石垣(画像8)などがあり横矢がけられるようになっており、そのまま城として利用できそうです。また、本丸部の石垣は3m程の高さがあり見応えがあります。
今回は行きませんでしたが、画像7を奥に進んで行くと曲輪跡(石垣はなし)と堀切、5人塚があります。

この城への訪問は10年ぶり2度目の訪問で、国道362号線を北上すると光明山遺跡の看板があり、国道から離れ案内のとおり林道を6kmほど進んだ先に城跡はあります。
10台程停められる駐車場もあり、利用しませんでしたが古いトイレもありました。林道は舗装されていましたが、落石や倒木などが目立ち、十分注意して行かれるとよいでしょう。
光明城は10年前に訪問させていただいた時よりも整備されており、綺麗になっておりました。光明山遺跡保存会の皆様に感謝です。
あっ書き忘れてしまうところでしたが、本丸からの眺望は(画像10)本当に絶景です。無料の望遠鏡で眺めることもできます。この絶景は一見の見る価値ありです。

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カズサン

惚れ惚れする重層石垣群 (2026/09/07 訪問)

 復元された中ノ御門枡形裏より太鼓櫓石垣台、二の丸走り櫓石垣台、菱櫓石垣台、天球丸石垣を望むと重層した石垣群が聳えて眺望でき、いつもながら惚れ惚れ見とれてしまいます。
 この石垣群は昭和18年の鳥取大震災で崩落し戦後昭和30~40年代頃シンボルの二の丸三階櫓台、その後二の丸大菱櫓台、走り櫓周り、表御門石垣台周りが復元されて、平成に成って天球丸石垣周り、太鼓櫓台石垣、天球丸巻石垣、天球丸下楯蔵台石垣周りが復元修復され、鳥取大震災から60年掛かりの修復復元の成果を見て居ります。
 20年前の平成18年に幕末の姿を甦らせる鳥取城復元30年計画が作られて、現在復元した擬宝珠橋、中ノ御門枡形が遅れていますが初期10年計画の成果です、残り太鼓櫓が完成すると10年計画の完成です。
 後に11~20年計画で二の丸走り櫓、菱櫓、21~30年計画で二の丸三階櫓の完成でファイナルです。

 北御門を抜けて駐車場へ、途中の二の丸三階櫓台、城代屋敷元野球場現博物館西側の内濠石垣が草刈整備されて居ましたので掲載、内堀南側、内濠から見上げる久松山も掲載。
 最後に家内の要求で、50数年帰省したが鳥取砂丘の駱駝に乗ってないと言われ砂丘へ、家内の駱駝騎乗の写真は掲載できませんので、鳥取砂丘馬の背写真を最後に掲載します。

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チェブ

城びと未登録のお城攻め「礼羽氏館」。 (2026/07/04 訪問)

「騎西城」のある加須市に『礼羽』という地名がありました。
『らいは』と読みます。最近のキラキラネームみたいです。
グーグルを広げると「礼羽氏館跡」「礼羽館跡」「礼羽陣屋跡」と道沿いに3カ所、興味深い館跡。
礼羽氏って誰?という理由で、この道を通り抜ける事とし、車をスタートさせます。
住宅とまばらに畑がある道沿いに「礼羽氏館」はありました。アパートの館名板と同じ角度で標柱があった為に通り越してしまいました。
和田 義盛さんの三男、義秀さんと戦い討たれた御家人の中に、礼羽 連乗さんのお名前があるそうです。
 
どーしても、アパートにしか見えません。
礼羽氏ってどんな方だったのかな?

この先にも、標柱がありました。
手入れのされた松があるお宅に、『礼羽誌略』という標柱。このお宅の中に、誌略として礼羽氏の事も記載されているかもしれませんね。

最近、市町村の合併にともない、変わってしまった地名が多いです。
素敵な由来が多いので、なるべく残してもらいたいと思った「礼羽氏館」通り抜けドライブでした。

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にのまる

真夏の高遠城は。 (2026/08/31 訪問)

高遠城といえば桜のイメージだったので、行くなら春(または遺構が見やすい晩秋)がいいと思い込んでいたのですが、ふと、夏の高遠城ってどんな感じなんだろう?という思いが湧き、そうなると行ってみたくてたまらなくなったので、18きっぷ(5日間用)の1日目に出かけてきました。

飯田線の伊那北駅からJRバスで高遠駅で下車。
初めて高遠城に行った8年前、この「高遠駅」が鉄道の駅ではなくバスターミナルだということになかなか気づけず、なぜ鉄道路線図に載っていないの?乗換案内に出ないの?と疑問だらけだったことを思い出しました。

高遠駅から高遠城に向かう道はとてもすてきな城下町です。町並みも落ち着いていてきれいだし、景色も素晴らしくて心が豊かに暮らせそうな城下町だなと感じました。

そして桜も紅葉もない真夏の高遠城がどうだったかというと、大手坂石垣も目を凝らせば見えたし、園内通路も歩きやすくて、思っていた以上に快適でした。見どころの二の丸の空堀も夏真っ盛りで緑がもさもさなのに埋もれていなくてはっきりとわかるのがびっくりでした。

南曲輪では発掘調査をしていらっしゃいました。現在のような公園になる前の、江戸時代末期の庭園の痕跡を調査し、かつての高遠城の姿を目指して整備事業に取り組んでいるそうです。

この日は月曜日で歴史博物館や絵島囲み屋敷は休館でしたので、帰りのバスまでの時間に「高遠なつかし館」と「旧馬島家住宅」を見学しました。
「高遠なつかし館」は調律済みの足踏みオルガンを弾いたり展示物に触れたりできます。昔の農機具などとともに、私が子供の頃に使っていたものや実家にまだあるものが資料として展示されているのを見ると複雑な気持ちになったりもしますが、昭和遺産も個人で保管し続けるのは大変なので、誰もが見て触れることができる施設は日本の未来のために必要なのだろうなと思いました。
「旧馬島家住宅」は高遠藩の御殿医、馬島家の屋敷です。他に誰もいないのをいいことに上座敷でくつろいだりなど、自由に過ごさせていただきました。

ということで、高遠城は真夏でも楽しめるお城でした。
最後に余談?ではありますが城内のトイレ🚻の数がすごく多かったです。数えてはいませんが、ここにもそこにもあっちにもこっちにも。トイレの多さも印象に残っています😊

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イオ

本丸と城下 (2026/04/12 訪問)

(続き)

金森長近公像から東に向かうと本丸石垣の上に越前大野城の石碑が立てられています。本丸東端には麻木櫓という二重櫓があったようですが、現在は休憩所の前に説明板があるのみです。休憩所の裏手に下りて行った先にある金龍院なる仏堂は、やはり金森長近に関係するものなんでしょうか? 金龍院の前の道を折り返して下っていくと本丸東面に麓まで続く竪堀があります。越前大野城には金森期のものと思われる竪堀が北面に2条、東面にも2条あるようですが、他の3条は藪に沈んでいて確認できませんでした。

越前大野城の石碑まで戻って、本丸城門跡(小さな石碑あり)を抜けて百間坂から下城します。百間坂は往時の唯一の登城道で、明治期に整備された際に堀の石材が用いられているそうですが…どこにどう用いられているのかよくわかりませんでした。南登り口近くの柳廼社には土井利忠が祀られています。境内にある池は堀の一部が残ったもので、南側に馬場と厩舎があったことからお馬屋池と呼ばれています。そして最後に城下から天守を遠望。大手門広場に「野」の字のオブジェが2つ設置されているのは何だろう? と思っていましたが、どうやら両手両足を横に広げて「大」の字を作って「野」の字の左側に立ち、天守を背景として写真を撮る映えスポットのようです。

そして、前回の城下散策で見落としていた七間清水をチェックして、家族に好評だった伊藤順和堂のいもきんつばをお土産に買って(そのために保冷バッグ持参)、亀山西駐車場に戻りました。亀山の反対側になるので、城下町に行くのであれば亀山西駐車場はおすすめできません。歩きでは遠かった…。
 

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ニコ・ロビン

100名城の59( ・᷄ㅂ・᷅ )姫路🏯国宝・世界遺産 (2026/09/16 訪問)

サイコー( ・᷄ㅂ・᷅ )6回目かぁ
見応えある✨世界遺産・国宝✨
中華が少ないと、ホント助かる
ライトアップも綺麗✨
心の底から残っていて良かった(・᷄ㅂ・᷅ )感謝
今後の人生で、あと何回見にくるのかな
未来永劫残して欲しい物🏯

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西尾市歴史公園 (2026/09/19 訪問)

 近くへ来たので寄ってきました。西尾市歴史公園として整備されています。シルバーウィークの初日でしたが訪れる人はまばらでゆっくり散策できました。何回か登城していますが、一番少なかったような気がします。
本丸丑寅櫓、二之丸丑寅櫓と「屏風折れ」を持つ土塀、鍮石門などが再建されています。
 名鉄西尾駅から徒歩15分くらいで行くことができます。
 

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佐久間盛政の墓がこんなところに? (2026/09/17 訪問)

 西尾城から南へ約7Km、愛知県西尾市吉良町の海蔵寺には佐久間盛政の墓があるという情報を得て行って来ました。佐久間盛政は織田信長の家臣で柴田勝家の甥であり彼の与力として活躍した武将です。海蔵寺にある斜めに切り裂かれたような墓石がそれで正確には墓ではなく碑だそうです。
西尾市教育委員会の看板にはその逸話が書かれています。天正十一年(1583)の賤ヶ岳合戦で敗れた盛政は捕らえられ京都で最後を迎えます。家臣の鈴木八郎治が盛政の遺体をひそかに故郷である現在の西尾市吉良町萩原に持ち帰り埋葬しました。八郎治は佐久間の文字を避け索麻と刻み、自ら出家して供養したそうです。索麻塚と呼ばれています。
 真偽はともかく興味深い話です。

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とってぃ

シルバーウィークに (2026/09/19 訪問)

家族旅行のついでに寄った白山神社。

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トク

31(最終回)【秀長の晩年をたどる⑥】大和郡山城(3/3)春岳院と大納言塚 (2026/03/26 訪問)

最後に、秀長を祀る「春岳院」と秀長の墓(供養搭)である「大納言塚」を訪れ、そこで手を合わせてきました。春岳院には秀長の肖像画・木像・位牌も安置されていて、今年1月から見学できるようになっています。特に「秀長の木像」と「秀長の位牌(実物)」は一見の価値があると思いますので、是非ここは訪れるべき場所だと思いました。写真撮影はできなかったので、パンフレットを御覧下さい(写真①②)。

1590年9月、馬にも乗れずやっとの思いで京都から郡山へ戻った秀長ですが、もう病の悪化が激しくなり、床に臥せたまま動けなくなってしまいます。「積(しゃく)」という腹部にしこりができ激しい痛みをともなう病気だったと興福寺の多聞日記には書かれており、今で言う「大腸がん」のような病気だったのではないかと推測されます。

1582年山崎の戦いの時に嫡男の与一郎を亡くした秀長には、後継ぎがいませんでした。よって側室の子でまだ幼い娘の「みや」に婿養子として秀保(秀吉・秀長の姉「とも」の三男で秀次・秀勝の弟)を急ぎ迎えて婚礼を済ませ、家督を継がせます。秀吉は小田原征伐が終わり、秀長危篤の知らせを受けると、郡山城へ急ぎ見舞いに行きます。やつれた秀長を見て驚き、1000人もの僧侶を集め祈祷させたとか。また慶(ちか)は、秀長が没収した土地を全て寺社へ返上し、その代わりに祈祷するように頼んだそうです。しかしそれらの甲斐もなく1591年(天正19年)1月22日、豊臣秀長はついにこの世を去りました(享年52歳)。雪が深々と降る寒い日だったそうです。

秀長死後、秀吉により郡山城下に「大光院」が建てられ、秀長はそこに葬られました。葬儀には20万人もの人が集まったとか。これは当時の京都の人口に匹敵する程の数で、その参列は永遠と続いていたそうです。いかに秀長が慕われていたかが想像できます。

しかし1595年に娘婿養子(嗣子)の秀保もわずか17才で亡くなると郡山豊臣家は断絶してしまいます。1598年に兄の秀吉までも亡くなると、1599年秀長の家老だった藤堂高虎は、大光院が家康から処分されてしまう事を恐れたのか、「春岳院」に位牌を預け、大光院を墓ごと京都の大徳寺境内に移築したようです。しかし江戸中期の1777年、春岳院の和尚たちにより荒廃した大光院跡地にこの供養塔が建てられ、京都の大光院から分骨したと伝わっています(写真③④⑤⑥)。

あの偉大な秀長が、今はここ(大光院跡地の荒地)にひっそりと眠っている姿を見て、私は何かやりきれない気持ちになりました。秀長があと10年長生きしていれば、秀吉の無謀な朝鮮出兵も止める事ができ、関ケ原も起きる事はなく、豊臣の世が続いて行ったのではないかと、誰もがここで思った事でしょう。

ここで最後にふと疑問が🤔? なぜ秀長は重い病であったにもかかわらず、京都の聚楽第からこの大和郡山まで、命をかけて戻ってきたのでしょうか? 京都からそれが不思議で、その事をずっと考えていました。

それはもしかして、死期を悟った秀長は、やはり愛する妻の「慶」(ちか=慈雲院)に会いたい、そして「慶」と「みや、きく」の二人の娘に囲まれて最期の時を迎えたい・・・その思いが、そうさせたのではないでしょうか? となぜか墓の前でそんな事を、ふと考えてしまいました。

以上で、私の【豊臣秀長をたどる旅】を終わります。この後は、イオさんの【月影の男紀行】にバトンタッチしたいと思います。全31回長々と読んで頂き、ありがとうございました(完😊!)。
 

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イオ

天守と天守曲輪周辺 (2026/04/12 訪問)

金龍紀行として約3年半ぶりの再訪です。前回は城下散策のみだったので、今回は天守に入って金森長近ゆかりの品などを見たいと思います。ジェイドさんの投稿にあるように、結ステーション駐車場が30分以上有料になっており、南登り口近くの亀山南第一駐車場も満車だったので、亀山西駐車場(無料・20台ほど)から登城しました。

西登り口から急な階段を一気に登り、幕末の名君として知られる土井利忠公像に寄り道してから本丸へ。武具蔵の石垣の脇に設けられた模擬城門をくぐると、天守曲輪石垣の上に天守群がそびえ立ち、その手前にお福池があります。お福池は防火用のため池で、金森長近の正室の名に由来するようです。天守曲輪石垣沿いに北に進むと天守曲輪に通じる武者登りがあり、天守曲輪の東側からは石垣の上に天守群が並び建つ定番ショット。元あった天守の形状に基づかない復興天守ながら、これはこれで悪くありません。前週ならまだ桜も残っていたでしょうか。そして駕籠道を登って天守曲輪へ。武者登りを上から見下ろし、天守曲輪からの眺望を楽しんで天守に入ります。大天守内は資料館として歴代城主の遺品が展示されていますが(撮影禁止)、土井期のものが大半で金森長近のものはあまりありませんでした。400年以上前に数年間在城しただけなんだから仕方ないですね。最上階の展望室からは戌山城や長近が開いた城下町が一望できます。小天守の1階には二の丸御殿の模型や説明パネルが展示されていました(こちらは撮影可)。

天守を出ると塩硝蔵跡から武具蔵跡をめぐり、金森長近公像を見上げて本丸東部に向かいます(続く)。
 

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トク

30【秀長の晩年をたどる⑤】大和郡山城(2/3)天守台 (2026/03/24 訪問)

天守台の登り口には、有名な「さかさ地蔵」や「平城京羅生門の礎石」もありました(写真③④⑤)。天守台にはこのような転用石が、発掘調査では表面だけでも1000基発見されたそうです(城びと特集より)。この転用石も、石が取れないため強引に奪ってきたのかと思いきや、全てがそうではなく、領民に1人1個ずつ大きな石(またはバケツ1杯の小石)を持ってこいと御触れを出すと、自分たちの祖先の墓石などを自ら提供した者も多かったそうです。

大和郡山城は豊臣秀長の最後の居城で、晩年を過ごし亡くなった場所である事は、皆さんもよく御存知と思います。秀長は四国平定が終わった1585年、妻の慶(ちか)とともに郡山城に入ります。大和の地は寺社勢力が強く、治めるには難しい土地でした。そこで秀長は、寺社に対しまず検地と刀狩りを行います。寺社から土地や武器を奪い、商人を奈良から郡山へ移動させ経済基盤をも奪います。その代わり紀州の材木で得た利益で、寺社に寄進や貸付を行い仏教に専念させる環境を作る事で、最初はいざこざや対立もかなりあったようですが、何とか良好な関係を築けていったようです。また郡山へ移住した商人たちには「箱元制度」と呼ばれる商人町ごとに特権や独占権を与えて、経済を活性化させて行きました。

秀長は「大坂→四国→大坂→九州→京都」と遠征が続き郡山へはなかなか戻れなかったので、慶(ちか)が寺社や商人との交渉やもめごとの仲裁や領国経営も行うなど、郡山城で女城主として秀長の留守を支え、その存在はかなり大きかったのではないでしょうか? 寺社の日誌などにも度々彼女の存在が記述されているようなので、あくまで推測ですが、何故かそんな気がしてなりませんでした。和歌山城の築城も並行して行われ、桑山重晴が城代として治めたようです。大河ドラマでは頼りない存在でしたが、実際は任される程なので、立派な武将だったのではないでしょうか?

私は天守台から奈良盆地を見渡してみました。かすかに東大寺や興福寺や平城京が見えました(写真⑨)。当時は高い建物や樹木もなかったので、もっとよく見えたと思います。この景色が、秀長が最期に見た景色かと思うと、感慨深かったです。秀長はここで死の直前まで、兄と過ごした信長時代からの日々を、静かに振り返っていたのでしょうね。

この天守台には、秀長が築いた望楼型で三重or五重の金箔瓦で輝く天守が建っていたと推測されていますが、天守の絵図は残っておらず詳細は分かっていないようです(写真⑥)。正保の絵図には天守は描かれていないので、その時には間違えなく無かったようです。天守台では金箔瓦と天守の礎石が発掘調査で発見され、また天守には付櫓があったようです(写真②)。そこで私は、同じく付櫓のある望楼型の松江城が、金箔瓦で光輝くようなイメージを想像してみました。家康により大和郡山城の天守は二条城に、その他は伏見城に移築されたと大工の記録にあるようですが、詳細は不明なようです。できればいつかは詳細が解明され、再建されたらいいなと思いました。

次は(最終回)、秀長の菩提寺と墓所を訪れます。
 

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