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境目七城のひとつ (2025/12/18 訪問)

 織田軍の対する毛利方の城で境目七城のひとつで、天正10年の攻防では加藤清正が一番乗りの功名をたて、敵方の竹井将監を討ち取っています。
 足守陣屋から徒歩で登城しました。15分くらいで標識のある登城口まで行きことができます。登城路は整備されていて大手門跡、三の丸跡、二の丸跡の標柱を見ながら主郭まで行けます。主郭西側に3条の竪堀がありますが、少し藪になっていて見づらい状況でした。

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宮路山城 (2025/12/18 訪問)

 冠山城から徒歩約15分の場所にある足守陣屋の裏にある山城で、城びとには未登録の城址です。
毛利氏の織田氏に対する防衛ライン境目七城のひとつで、備中高松城の攻防戦のときには乃美元信が守備していたと伝わっています。冠山城が落城した後、降伏し開城しました。
 整備された登城路はないようなので、ネットなどの情報を元に足守陣屋跡から西の池の横を通るルートで切通を経由して登城しました。ただ倒竹等で道が塞がれている場所があり藪漕ぎをしながら迂回したり、道が途中で分かりにくい場所があったりと少し苦労しました。切通からは東側にある尾根を上がって行きます。直登になりますが、踏み跡がありときにピンクリボンもあり迷うことなく城の入口の目安であるお地蔵さんまで行くことができました。切通から10分くらいで行けました。お地蔵さんを過ぎるとすぐに二重の堀切があります。宮路山山頂の曲輪を展開し、各尾根を多重の堀切で遮断した縄張りで一部の斜面は畝状竪堀で防御しています。二重堀切、三重堀切、畝状竪堀などが明確に遺っていました。落ち葉が堆積していて前日に雨が降ったこともあり滑りやすかったので散策に少し苦労しましたが、遺構がすばらしく楽しい時間を過ごせました。
下山したときは降りる尾根を間違えたようで、行きとは違う場所に出てしまいました。

 境目七城の中では本格的な山城です。城郭放浪記さんの縄張り図を参考に散策しました。

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足守陣屋 (2025/12/18 訪問)

 冠山城跡から徒歩約15分の場所にある陣屋跡です。城びとには未登録です。関ヶ原合戦後に木下家定(豊臣秀吉の妻・高台院の兄)が当地に封じられ足守陣屋はその藩庁として築かれました。その後、浅野氏が入りますが、大坂の陣後木下利房(家定の子)が足守藩主となり幕末まで続きます。石垣と水堀が残っています。木下家の庭園である近水園や足守藩侍屋敷など中世の街並みも残っていて周辺を散策しました。

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しんちゃん

錦秋の大島城 (2025/11/22 訪問)

イベントがらみで長野県に行ったときに幾つか攻めやすい城を攻めて来ました。このあたりには比高も高くなく散策時間も手ごろな良い城が幾つもあります。公園化されている城址が多いのでクマの心配ももぼ無いでしょう。船山城は藪化していてちょっとコワいですが。
今年の秋はあっという間でした。涼しくなって来たなと思ったらジェットコースターのように寒くなっていましたね。
それでも滋賀・岐阜と複数のイベントが有り、イベントがらみで各地を急いで回ったので紅葉を多く楽しめました。大島城は大島氏の城でしたが武田信玄の命を受けた秋山虎繁によって改修を受けました。武田の城の特徴である馬出しが残っていて、二の丸や本丸の堀は実に見ごたえがありました。
明日は手裏剣ブースに向かって一直線ですぞ。ピタッと手裏剣を持ってうろついている普請人物がいたら、きっとそれが私です。

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カズサン

チョイ寄り初冬散歩 (2025/12/19 訪問)

 諏訪原城から南東約10km程の所に新しく「道の駅そらっと牧之原」が今年7月中旬にオープンしました。新設早々に訪ねようと思っていた矢先、竜巻に伴う大雨で近くの牧之原市に水害被害が発生し、しばらく様子見して居りましたが納まった様なので訪ねる事にしました。
 浜松から1号線バイパスを経由途中に諏訪原城跡が在りますので、8月17日以来にチョイ寄りして、見所の二の曲輪中馬出周辺をブラ散歩しました。また二の曲輪大手馬出の三日月堀の北側が樹木が整理されてすっきりして居ました、外堀の中馬出土橋の北側の草刈中でしたのでこの投降後は奇麗に成って居るでしょう。又中馬出の三日月堀外の園路整備工事がされて居り中馬出南から北馬出薬医門までモルタルたたき舗装が出来上がって居ました、工事は来年1月9日までの予定。
 北馬出より富士山を遠望するが雲が多く頭がちょっと見える程度で見えにくい状態でした。
 探訪中は3名の方と行き会いました車のナンバーは松本、山梨の方と地元静岡、浜松の方々でした。

 昼は道の駅でと思ったのですが、家内が富士山静岡空港を観ていないと言ううことで道沿い約5km程静岡で唯一の空港へ寄り、3階の展望デッキでジェット機の離発着30程かけて眺め、富士山を遠望裾の下が雲を被り頭だけの富士山でした。
 昼食は空港の食堂で3Fの海鮮マグロ握り寿司、2Fのショップと食堂を覘いて1時間程ゆっくりしました。

 新しく出来た県道73号線バイパスを約5km程で「道の駅そらっと牧之原」へ、食堂と地場産物販売、清水、焼津、大井と漁港が近いので海鮮物産、今盛りの桜エビの生、つくだ煮、シラス、農産物も沢山出品されていました、又今年は牧之原市は元相良町を含めて大きく成って居ますので、田沼意次の領地であったことも有り「大河ドラマべらぼう」のご当地、大いににぎわった事でしょう。
 此処の道の駅から見ると北西に諏訪原城、東に小山城、西に横地城、南に相良城が約10km範囲内配置されて道の駅が便利かと思います。

 道の駅そらっと牧之原:静岡県牧之原市坂部582-1
 富士山静岡空港:静岡県牧之原市坂口3336-4

 明日1日、横浜へお城Expo-2025へ初参陣する予定です。会えましたらよろしくお願いいたします。
 
   

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ぴーかる

水戸城 (2025/11/22 訪問)

【百名城82城目】
<駐車場他>三の丸庁舎駐車場に駐車しました。弘道館に入館すると4時間の駐車券がもらえます。
<交通手段>車

<見所>偕楽園・堀切・復元大手門
<感想>1泊2日東関東旅1城目。夜中1時に出立し、先に偕楽園に行きました。東京の中心部を首都高速 車で抜けるのは初めてで、状況を知らずに突込んでしまい、土曜日の朝7時頃にもかかわらず大渋滞にはまって時間ロス、9時到着予定が10時半頃到着しました。
 偕楽園⇒弘道館⇒大手門⇒二の丸角櫓⇒見晴らし台⇒杉山門⇒本丸は学校になっているので入れず⇒弘道館北側の梅林・土塁⇒三の丸の大空堀を見て終了しました。
 偕楽園は梅の時期ではなかったので、兼六園・後楽園よりは魅力をそれほど感じなかった。城跡の方も最大の欠点は本丸跡に入れない事、また本丸⇔二の丸、二の丸⇔三の丸間の堀切は深いが、幹線道路や線路が通ってしまっている事、曲輪の内部がほぼ学校で埋め尽くされていて散策出来る場所が少なかった。辛口コメントですが、徳川御三家のお城跡ということで百名城に選ばれた感じがした。
 1日目は土浦城も予定していましたが、時間が押したので断念し、JA物産店でレンコンと土地の物を買って(レンコンと土地の野菜は家で食べてすごく美味しかった)宿泊は鹿島に泊まった。この日は1城のみとなった。

<満足度>★★☆☆☆

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朝田 辰兵衛

大和田陣屋のピン位置は… (2025/11/03 訪問)

大和田陣屋のピン位置は畑です。宅地造成されていますので,土塁のようですが,たぶん違うかな…と。ピン位置よりやや東側に,跡地らしき雰囲気の場所がありましたのでアップします。

明日,横浜に向かいます。公共交通機関に乱れが生じなければ,ご参加のみなさまにお会いできることと思います。楽しみにしております。それでは~✋

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WEST

勝瑞城探訪 (2025/12/09 訪問)

勝瑞城を訪問しました。勝瑞駅から徒歩約10分の距離にあり、アクセスも便利です。勝瑞城は三好氏の居館跡と土佐の長宗我部の侵攻に備えた城跡で構成されています。城跡には現在見性寺があり、周囲には水堀や土塁が残っています。一方、館跡は整備中でしたが、庭園や建物跡が一部復元され、往時の姿を想像することができます。隣接する展示室では発掘調査で出土した陶磁器や瓦などの遺物が展示され、勝瑞城の歴史を学ぶことができます。

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WEST

引田城探訪 (2025/12/09 訪問)

引田城を訪問しました。引田港側の登山口までは引田駅から徒歩約20分、駐車場脇にトイレも整備されており、登城者にはありがたいです。引田城は戦国時代に築かれ、江戸時代初期の一国一城令で廃城となった山城です。最大の見どころは総延長600mに及ぶ石垣群で、山城としては珍しく大規模な石垣が残っています。特に本丸の石垣や北二の丸下の石垣は比較的保存状態が良好で、往時の姿を偲ばせます。
散策は、本丸、化粧池、引田鼻灯台、東の丸、北二の丸、北曲輪、南二の丸の順に反時計回りにて巡りました。所要時間は1時間強でした。
登城途中には播磨灘や引田の町などを一望でき、山城の魅力を実感できます。

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WEST

高松城探訪 (2025/12/09 訪問)

日本三大水城の一つ、高松城を訪問しました。サンライズ瀬戸で高松駅に降り立ち、西入口へ。駅から徒歩数分で石垣が目に入ります。現在は玉藻公園として整備され、冬季でも7時から入園できます
見どころは、現存する艮櫓や月見櫓、そして立派な天守台です。月見櫓は平日のため内部には入れず残念でしたが、その姿は美しいものがあります。内堀には海水が引き込まれ、真鯛が悠々と泳ぎ、まさに海城ならではですね。

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赤い城

たくさんの竪堀 (2025/12/06 訪問)

沼隈半島にある城で山陽道と鞆を結ぶ交通の要衝に位置します。
常国寺下の広い駐車場に車を置き、歩いて登城口まで行きました。
登城口前にも駐車スペースはありますが道も荒れていて徒歩が無難。

登城口からすぐに獣避けの柵があり、開けて進みます。
急な坂道ですがそんなには登りません。
神社があり、まずは左手に進みます。
幾条もの畝状竪堀が守り見応えあります。
少し進むと下の方に縦井戸、下に川が流れています。
引き返しもう少し南側に進みます。
大きな竪堀も残っていて奥まで行くと岩盤を掘った横井戸があります。
この奥は藪、神社まで引き返し今度は裏手から本丸に向けて進みます。
すぐに土橋があり、降りてみるとこちらにも畝状竪堀、素敵です。

一旦登城路に戻り、登ると曲輪に到着。
主郭には櫓台があり、東側の斜面には石垣も残っていました。
しばらく休息したあと南側の五重堀切を見ようと向かいましたが獣避けの柵が施されていました。
乗り越えようかとも思いましたが最近覚えた「自重」という言葉を使ってしまいました😓

足利義昭の警護を担当した渡辺氏の居城。
コンパクトですが堀切と畝状竪堀で守られる堅固な城、なかなかの優良物件でした。

【見どころ】
 ・幾条もの畝状竪堀
 ・主郭下の石垣
 ・井戸

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しんちゃん

復活の模擬天守 (2025/12/14 訪問)

大野城に向かう前に大草城へ。本丸、二の丸の周囲に土塁が良く残っています。周囲の水堀も遺構だろうか。本丸の南西に模擬天守展望台があるが久々に行ってみたら入り口が開いていた。以前来たときは閉まっていたけど中に入れるようになったんだな。中にはトイレも有り二重に助かる。展望台以外の設備が無いのが少し惜しいが最上階からは大野城が良く見える。
大草城は織田信長の弟・織田有楽斎(長益)によって築城されますが、小牧・長久手の戦いの後 長益が摂津に移封されたので未完のまま廃城になってしまいました。模擬天守ももうちょっと立派だったら見ごたえがあったんだけど。

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しんちゃん

山茶花と西陽(ビ)-ム (2025/12/14 訪問)

今日はフラフラの状態でコンロとレンジを買いに行ってコケてコンロでアゴを強打しました。しばらく痛くてようけ食べれんかったけど、ようやく落ち着いてきた。飯が食えるって本当に大事。
尾張守の称号を得るために知多半島を周って来ました。大野城模擬天守は閉まっていたけど山茶花(サザンカ)と西陽が綺麗です。大洗磯前神社を思い出しますな。この鳥居、西陽が拝める鳥居だったんだ。この辺りはまだ紅葉が残っている。豊橋と同じで知多半島は温暖だ。

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しんちゃん

攻めと守りのエクスタス (2025/11/23 訪問)

松本城の喧騒も捨てがたいですが、松代城の侘び寂び感も実に良い。この静寂さ・・心に沁みる。いや、褒めてるんですよ。
天守台からの眺めも良いが北と南の枡形が実に良い。南の櫓門を振り返ると土塀の鉄砲狭間に二段撃ちされている。鉄砲狭間から狙い撃ちされる自分を想像すると、ちょっとエクスタシーを感じてしまう。
なるほど、攻める時はM・・守るときはSなのか・・城攻めにそんな要素があったとは。さて・・手裏剣の練習してビールで一杯やるか。
今日はつかれたな

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湖国 名城万華鏡のことも (2025/12/13 訪問)

 館の主の細川氏の一族は、摂津、阿波、讃岐などを領地としていたので、淡路はそれらの領地に挟まれた場所です。養宜館の位置は、淡路島最大の平野:淡路平野の中央近くで、良い立地なんでしょう。
 館は、南北250m、東西120mとのことで、かつ土塁は、高さもあり、規模感がなかなかのものでした。館跡内の畑では、淡路島名物の玉ねぎの植え付けをされてました。田植え機と似た機械でさくさく植えていくのですなあ。
 「近畿の名城を歩く」に養宜館が掲載されています。館跡内を走る、現在の東西の道の北側に沿って、低い土塁があり(写真8、9)この北側に建物があったのであろうと。 

 湖国 名城万華鏡冊子のことを城びと特集ページで見て、すぐに、自宅近くの道の駅に行ったのですが、置いてなく、まだ、行き渡ってないのかと思いました。その後、冊子のことは失念していましたが、カズサンさんの投稿で、びわこビジターズビューローが発行元であることを教えてもらい、該HPにアクセスしました。ダウンロードもできるのですね。でも冊子も欲しいので、明日、びわこビジターズビューローに行ってこようと思います。

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赤い城

元は島だった (2025/12/06 訪問)

圓福寺が城跡、南北朝時期の合戦で南朝方が籠るも全滅となった場所です。
当時は島であり、その後村上水軍の一族が拠点としていました。
鞆城築城の際に陸続きとなったとのことです。

城跡には遺構は無く、本堂前に説明板が立っています。
瀬戸内海に面しているので眺望は良く、眼下に鞆港を見下ろすことができました。
お昼は鞆の浦名物の鯛を食べたいな、と。
鯛めしもよかったのです頭の部分が乗った鯛そうめんをいただきました🐠

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しんちゃん

北東の扁平地・四段の郭 小早川本体の進軍ルートを考える (2025/11/30 訪問)

久々に松尾山城に行ってきました。今回は搦め手からでは無く、北側のメジャーなルートから。個人的には江戸時代から続く小早川秀秋を侮る風潮が好きではない。若者を侮るのは平和な時代(江戸時代)の悪癖だと思います。戦国から大阪の陣まで続く動乱の時期では皆必死に知恵を絞って生きていたので若者から老人・女性・僧・農民に至るまで侮れるような存在はいなかったと思っています。

小早川をけしかける「問鉄砲」にもいろいろ解釈があって、戸田氏鉄の記した「戸田左門覚書」には問鉄砲の記載はありません。小早川隊の到着が遅くて苛立つ福島正則の傍にいる武将が「霧が濃いので小早川は動けないのです」という説明をして福島が気を取り直すといった記載がありました(記憶で書いているので詳細の誤差はご容赦を)。白峰氏の著書にある一次史料には小早川隊は開戦後すぐに西軍と交戦したと書かれているようです。ひょっとすると麓に居た小早川の先手はすぐに戦いを始めたけど、本体の到着は遅れたのかもしれません。
松尾山城の本丸から見ると戦場はすごく遠くに見えます。講談の「問鉄砲」はいささか無理が有るような気がする、戦場からこっちに鉄砲撃っても見えるのかな? 鉄砲撃ちかけられて急いて戦場に赴いたとしてもどれだけ時間がかかるか・・そもそもここを騎馬隊で降れるのか?
戦場に向かうにしても適切なルートが有ると思う。
メジャーな縄張り図には出てこないけど松尾山城の周辺にはけっこう扁平地が有ります。小早川隊が15000もの兵を連れて来れたかは謎ですが(諸説あるので)雑兵が駐屯する扁平地は多数必要だと思います。もちろん土塁は無し。
個人的には主郭の北東にある四段の扁平地が気になります。ここから尾根が北西に続いていま(実はそっち方向にも遺構と見られる場所がありますが詳細は省略)。この四段の扁平地から続く尾根は進軍ルートの比定地の一つでは無いでしょうか。尾根についている竪堀の様な堀道は後世のものだろうか。同じようなものを朝倉山や某所で見たような気がする。
呉座勇一氏の著書「動乱の日本戦国史」の第五章を参考にすると「備前老人物語」には徳川方が松尾山の麓に展開していた小早川隊に誤射を装って射撃を行ったという記述があるようです。これが問鉄砲の元ネタになっている可能性もありますな。
一次史料と矛盾する部分もあるだろうが、小早川隊が開戦後即座に全軍で西軍と交戦したという可能性と、一部部隊が交戦し本隊は遅れて到着したという可能性も考慮したい。

正直ひねくれた投稿ばかりで申し訳ないが、歴史と城郭(遺構)は切っても切り離せない相互補完の関係だと思うのだ。。

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小城小次郎

石垣造りの天守台が・・・ (2025/03/30 訪問)

北畠具教・織田信雄が築城するも完成間近に伊賀衆に襲われて落城し、第一次天正伊賀の乱が勃発する契機を与えてしまったお城という。石垣造りの天守台があったそうだが伊賀鉄道敷設の際に持っていかれたとか。あー。

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しんちゃん

栗原城 (2025/10/19 訪問)

イオさんお久しぶりです。しばらく投稿が無かったので心配していたでござる・・じゃなくて おりました。
ひょっとしたらEXPOの会場でお目にかかるかもしれませんな。寝坊しなければですが・・何はともあれ手裏剣ブースだけは絶対にいくつもりです。
遅まきながら去年の暮れごろから「ニッポン城めぐり」を始めて、井伊谷城にいけば直虎さんゲットできるぞ・・とか、岩村城行けば「おつやの方」居るんじゃない?・・とか思って行ってみたら盛大にがっかりしたのを覚えています。そんな甘いもんじゃないって・・結局運営にいいように踊らされている自分がいます。困ったもんだほんと・・ 気づけばビー〇170本ぐらい有って本気で心配されてたりする。

長宗我部盛親陣跡にある案内板には「盛親は毛利秀元ら諸隊と一緒に南宮山に布陣したが東軍に内通した吉川広家に阻まれ参戦できず、西軍の敗色を見て戦わずして帰国した」と書かれています。
これだと南宮山・栗原山・象鼻山を含めた一帯を南宮山と表記しているようにも見えるし、吉川広家も南宮山に登っていると受け止めることも出来る。神谷道一氏の「関ヶ原合戦図志」の挿絵をみても象鼻山まで毛利方の陣が配されているようにも見える。
高橋氏の「シン・関ヶ原」に併せて白峰氏の著書や日本史史料研究会監修の「関ヶ原大乱、本当の勝者」も読んでみたが関ヶ原の受け取め方は本当に人それぞれだ。同じ事例でも人によっては、いくらでも受止め方が存在するので、何十~何百 それ以上の可能性が有ると思う。関ヶ原の真実はそれを求める人たちにとってはライフワークと言って良いのではないだろうか。

大野治長に関しても、実は家康によって東軍に組み込まれていたりする。トクさんの投稿にもあったけど秀頼の父親は→ 大野ではないかと考えています。実際にそう考えている人は多いのではないでしょうか。
秀吉の意向(命)で淀殿と大野に子供を作らせたと考えることもできるけど、秀吉が死んだあとは大野の立場は危ない者になると思う。

ひょっとしたら奉行衆は事実が明るみになる前に大野を暗殺しようとするかもしれない。そこまでしなくても何かしらの手を打っておく必要が有ると思う。秀吉の死後、大野は家康暗計画に加担して常陸に流されたとされる説がありますが、他にも淀殿と〇×〇●して怒った家康に遠方に流されたという話まである。
受け止め方を変えれば、大野は事情を知る家康によって奉行衆から遠ざけられることによって保護されているようにも見えるのだ。そうなると関ヶ原合戦時までの淀殿と三成ら奉行衆、家康との関係性まで変わってくる。
淀殿は奉行衆を警戒し、事情を知りつつ保護してくれる家康を頼りに感じていたのかもしれない(合戦後にすぐに正体はわかるけど)
あくまで考え方の一つで、実際の所は正確には分からない。あくまで可能性の一つです、だから関ヶ原の合戦に至る過程は多くの人達にとって永遠のテーマと言えるのかも知れない。

最後に栗原城が気になって帰りにもう一回寄って見た。主郭らしき場所に土塁がコノ字状に残り周囲には扁平地が有り東側は切岸になっている。このあたりが城址だと思うが九十九坊や尾根上、長宗我部陣を含めてこの周囲は郭だらけだ。
人によってはこのあたりも南宮山のくくりになるだろう。ここからは大垣が良く見えるだろう。ひょっとしたら合戦前にここに毛利方の武将の陣があった可能性があったのかもしれません。


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カズサン

【湖国 名城万華鏡】を入手しました (2025/12/15 訪問)

 城びとの特集に滋賀県で纏めたお城観光ガイドブック「湖国 名城万華鏡」なる小冊子(26頁)が無料で滋賀県内観光ガイドセンター、道の駅で配布されているとの情報でしたので、久しく訪ねていない彦根城本丸、天守閣を訪ねた折りに入手しようかなと思っておりましたが冬に成ってしまい関ケ原の降雪にノーマルタイヤの愛車では不安にて、雪明けに訪ねるか? 城びとの特集をよく調べて名城万華鏡小冊子の入手をホームページ「公益社団法人 びわこビジターズビューロー」を探し出し、お尋ねの欄に問い合わせのページが有り、必要事項を記入してお願いしました。
 気持ちよく応答のメールが届き、15日に郵送で届きました。感謝感謝です。
 滋賀県 公益社団法人 びわこビジターズビューロー 広報情報部の皆さんありがとうございました。

 滋賀県の城廻りの参考にさせて頂きます、滋賀県は約80城ほど訪ねて居りますがまだまだ未踏の城が残って居りますので機会をみて訪ねたいと思っております。
 ありがとうございました。

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