【大友宗麟】(3)神宮寺浦(宗麟が築いた南蛮貿易の拠点)
(2026/01/18 訪問)
大友宗麟、浜脇館からの続き(3)です。
当主の座に据えられた義鎮(宗麟)は、自分にはそんなつもりはなかったにもかかわらず、自分のために父・継母・弟が殺され、それが一生心の傷となって残ります。それから戸次鑑連(後の立花道雪)や臼杵鑑速を中心とした大友軍は、数々の戦に勝ち続けますが、その度に多くの人々が犠牲になる姿を見た義鎮は、その後の戦は重臣に任せて、本当は戦を好まず、最前線に立つ事はありませんでした。
二階崩れの変の翌1551年、義鎮は「フランシスコ・ザビエル」と出会い、大友館に招き入れます。そして心の救いを求めて、何とキリスト教に没頭していったのです。それからイエズス会に豊後でのキリスト教の布教を許可します。
しかしここで義鎮は、布教の条件としてイエズス会に南蛮との貿易の仲介を求めます。最初はそのおかげで貿易による富を得て、鉄砲に必要な鉛や硝石が手に入り、大友家はますます戦に勝ち続けて領土を拡大し、九州六か国(豊後・豊前・筑前・筑後・肥前・肥後)を制し、九州最大の大大名になって行きました。ポルトガルの地図にも、豊後(BVNGO)と日本の中でもまるで独立国ように扱われ、義鎮の事を英知に満ちた国王だとザビエルは称賛し国へ報告していたようです。
大分市の北側の海岸に、神宮寺浦という場所があります(現:大分市春日浦)。義鎮はここに大きな港を作り、ポルトガル船や東南アジアの船が多数ここに寄港できるようにして、貿易を盛んにしたと伝えられています。神宮寺浦公園には宗麟の銅像と石碑が建てられていました。また近くには、航海の安全を祈ったとされる春日神社もありました。そして現在その貿易港があった海岸は、何とフェリー乗り場になっていました(神戸六甲アイランド行「さんふらわあ」乗り場、毎日就航)。
義鎮が当主となってから、連戦連勝で勝ち進んだ大友軍でしたが、1561年の毛利と対峙した「門司城の戦い」で大友軍は初めて敗戦を経験します。戦に勝っている間は不協和音も小さいのですが、これがきっかけで、負けたのは義鎮がキリスト教に没頭するせいと、神社の神主の家柄である奈多夫人(正妻)とは不仲になり、仏教に帰依する家臣たちからキリスト教への不満が爆発し、それで謀反や裏切りが家中で起こるまでに発展してしまい、大友家はピンチを迎えます。そこから義鎮はどうやって大友家を立て直し、家中をまとめていったのでしょうか?
次は、その不協和音の原因となった門司城(門司城の戦い)に続きます。
+ 続きを読む