みんなの投稿

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WEST

引田城探訪 (2025/12/09 訪問)

引田城を訪問しました。引田港側の登山口までは引田駅から徒歩約20分、駐車場脇にトイレも整備されており、登城者にはありがたいです。引田城は戦国時代に築かれ、江戸時代初期の一国一城令で廃城となった山城です。最大の見どころは総延長600mに及ぶ石垣群で、山城としては珍しく大規模な石垣が残っています。特に本丸の石垣や北二の丸下の石垣は比較的保存状態が良好で、往時の姿を偲ばせます。
散策は、本丸、化粧池、引田鼻灯台、東の丸、北二の丸、北曲輪、南二の丸の順に反時計回りにて巡りました。所要時間は1時間強でした。
登城途中には播磨灘や引田の町などを一望でき、山城の魅力を実感できます。

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WEST

高松城探訪 (2025/12/09 訪問)

日本三大水城の一つ、高松城を訪問しました。サンライズ瀬戸で高松駅に降り立ち、西入口へ。駅から徒歩数分で石垣が目に入ります。現在は玉藻公園として整備され、冬季でも7時から入園できます
見どころは、現存する艮櫓や月見櫓、そして立派な天守台です。月見櫓は平日のため内部には入れず残念でしたが、その姿は美しいものがあります。内堀には海水が引き込まれ、真鯛が悠々と泳ぎ、まさに海城ならではですね。

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赤い城

たくさんの竪堀 (2025/12/06 訪問)

沼隈半島にある城で山陽道と鞆を結ぶ交通の要衝に位置します。
常国寺下の広い駐車場に車を置き、歩いて登城口まで行きました。
登城口前にも駐車スペースはありますが道も荒れていて徒歩が無難。

登城口からすぐに獣避けの柵があり、開けて進みます。
急な坂道ですがそんなには登りません。
神社があり、まずは左手に進みます。
幾条もの畝状竪堀が守り見応えあります。
少し進むと下の方に縦井戸、下に川が流れています。
引き返しもう少し南側に進みます。
大きな竪堀も残っていて奥まで行くと岩盤を掘った横井戸があります。
この奥は藪、神社まで引き返し今度は裏手から本丸に向けて進みます。
すぐに土橋があり、降りてみるとこちらにも畝状竪堀、素敵です。

一旦登城路に戻り、登ると曲輪に到着。
主郭には櫓台があり、東側の斜面には石垣も残っていました。
しばらく休息したあと南側の五重堀切を見ようと向かいましたが獣避けの柵が施されていました。
乗り越えようかとも思いましたが最近覚えた「自重」という言葉を使ってしまいました😓

足利義昭の警護を担当した渡辺氏の居城。
コンパクトですが堀切と畝状竪堀で守られる堅固な城、なかなかの優良物件でした。

【見どころ】
 ・幾条もの畝状竪堀
 ・主郭下の石垣
 ・井戸

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しんちゃん

復活の模擬天守 (2025/12/14 訪問)

大野城に向かう前に大草城へ。本丸、二の丸の周囲に土塁が良く残っています。周囲の水堀も遺構だろうか。本丸の南西に模擬天守展望台があるが久々に行ってみたら入り口が開いていた。以前来たときは閉まっていたけど中に入れるようになったんだな。中にはトイレも有り二重に助かる。展望台以外の設備が無いのが少し惜しいが最上階からは大野城が良く見える。
大草城は織田信長の弟・織田有楽斎(長益)によって築城されますが、小牧・長久手の戦いの後 長益が摂津に移封されたので未完のまま廃城になってしまいました。模擬天守ももうちょっと立派だったら見ごたえがあったんだけど。

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しんちゃん

山茶花と西陽(ビ)-ム (2025/12/14 訪問)

今日はフラフラの状態でコンロとレンジを買いに行ってコケてコンロでアゴを強打しました。しばらく痛くてようけ食べれんかったけど、ようやく落ち着いてきた。飯が食えるって本当に大事。
尾張守の称号を得るために知多半島を周って来ました。大野城模擬天守は閉まっていたけど山茶花(サザンカ)と西陽が綺麗です。大洗磯前神社を思い出しますな。この鳥居、西陽が拝める鳥居だったんだ。この辺りはまだ紅葉が残っている。豊橋と同じで知多半島は温暖だ。

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しんちゃん

攻めと守りのエクスタス (2025/11/23 訪問)

松本城の喧騒も捨てがたいですが、松代城の侘び寂び感も実に良い。この静寂さ・・心に沁みる。いや、褒めてるんですよ。
天守台からの眺めも良いが北と南の枡形が実に良い。南の櫓門を振り返ると土塀の鉄砲狭間に二段撃ちされている。鉄砲狭間から狙い撃ちされる自分を想像すると、ちょっとエクスタシーを感じてしまう。
なるほど、攻める時はM・・守るときはSなのか・・城攻めにそんな要素があったとは。さて・・手裏剣の練習してビールで一杯やるか。
今日はつかれたな

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湖国 名城万華鏡のことも (2025/12/13 訪問)

 館の主の細川氏の一族は、摂津、阿波、讃岐などを領地としていたので、淡路はそれらの領地に挟まれた場所です。養宜館の位置は、淡路島最大の平野:淡路平野の中央近くで、良い立地なんでしょう。
 館は、南北250m、東西120mとのことで、かつ土塁は、高さもあり、規模感がなかなかのものでした。館跡内の畑では、淡路島名物の玉ねぎの植え付けをされてました。田植え機と似た機械でさくさく植えていくのですなあ。
 「近畿の名城を歩く」に養宜館が掲載されています。館跡内を走る、現在の東西の道の北側に沿って、低い土塁があり(写真8、9)この北側に建物があったのであろうと。 

 湖国 名城万華鏡冊子のことを城びと特集ページで見て、すぐに、自宅近くの道の駅に行ったのですが、置いてなく、まだ、行き渡ってないのかと思いました。その後、冊子のことは失念していましたが、カズサンさんの投稿で、びわこビジターズビューローが発行元であることを教えてもらい、該HPにアクセスしました。ダウンロードもできるのですね。でも冊子も欲しいので、明日、びわこビジターズビューローに行ってこようと思います。

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赤い城

元は島だった (2025/12/06 訪問)

圓福寺が城跡、南北朝時期の合戦で南朝方が籠るも全滅となった場所です。
当時は島であり、その後村上水軍の一族が拠点としていました。
鞆城築城の際に陸続きとなったとのことです。

城跡には遺構は無く、本堂前に説明板が立っています。
瀬戸内海に面しているので眺望は良く、眼下に鞆港を見下ろすことができました。
お昼は鞆の浦名物の鯛を食べたいな、と。
鯛めしもよかったのです頭の部分が乗った鯛そうめんをいただきました🐠

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しんちゃん

北東の扁平地・四段の郭 小早川本体の進軍ルートを考える (2025/11/30 訪問)

久々に松尾山城に行ってきました。今回は搦め手からでは無く、北側のメジャーなルートから。個人的には江戸時代から続く小早川秀秋を侮る風潮が好きではない。若者を侮るのは平和な時代(江戸時代)の悪癖だと思います。戦国から大阪の陣まで続く動乱の時期では皆必死に知恵を絞って生きていたので若者から老人・女性・僧・農民に至るまで侮れるような存在はいなかったと思っています。

小早川をけしかける「問鉄砲」にもいろいろ解釈があって、戸田氏鉄の記した「戸田左門覚書」には問鉄砲の記載はありません。小早川隊の到着が遅くて苛立つ福島正則の傍にいる武将が「霧が濃いので小早川は動けないのです」という説明をして福島が気を取り直すといった記載がありました(記憶で書いているので詳細の誤差はご容赦を)。白峰氏の著書にある一次史料には小早川隊は開戦後すぐに西軍と交戦したと書かれているようです。ひょっとすると麓に居た小早川の先手はすぐに戦いを始めたけど、本体の到着は遅れたのかもしれません。
松尾山城の本丸から見ると戦場はすごく遠くに見えます。講談の「問鉄砲」はいささか無理が有るような気がする、戦場からこっちに鉄砲撃っても見えるのかな? 鉄砲撃ちかけられて急いて戦場に赴いたとしてもどれだけ時間がかかるか・・そもそもここを騎馬隊で降れるのか?
戦場に向かうにしても適切なルートが有ると思う。
メジャーな縄張り図には出てこないけど松尾山城の周辺にはけっこう扁平地が有ります。小早川隊が15000もの兵を連れて来れたかは謎ですが(諸説あるので)雑兵が駐屯する扁平地は多数必要だと思います。もちろん土塁は無し。
個人的には主郭の北東にある四段の扁平地が気になります。ここから尾根が北西に続いていま(実はそっち方向にも遺構と見られる場所がありますが詳細は省略)。この四段の扁平地から続く尾根は進軍ルートの比定地の一つでは無いでしょうか。尾根についている竪堀の様な堀道は後世のものだろうか。同じようなものを朝倉山や某所で見たような気がする。
呉座勇一氏の著書「動乱の日本戦国史」の第五章を参考にすると「備前老人物語」には徳川方が松尾山の麓に展開していた小早川隊に誤射を装って射撃を行ったという記述があるようです。これが問鉄砲の元ネタになっている可能性もありますな。
一次史料と矛盾する部分もあるだろうが、小早川隊が開戦後即座に全軍で西軍と交戦したという可能性と、一部部隊が交戦し本隊は遅れて到着したという可能性も考慮したい。

正直ひねくれた投稿ばかりで申し訳ないが、歴史と城郭(遺構)は切っても切り離せない相互補完の関係だと思うのだ。。

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小城小次郎

石垣造りの天守台が・・・ (2025/03/30 訪問)

北畠具教・織田信雄が築城するも完成間近に伊賀衆に襲われて落城し、第一次天正伊賀の乱が勃発する契機を与えてしまったお城という。石垣造りの天守台があったそうだが伊賀鉄道敷設の際に持っていかれたとか。あー。

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しんちゃん

栗原城 (2025/10/19 訪問)

イオさんお久しぶりです。しばらく投稿が無かったので心配していたでござる・・じゃなくて おりました。
ひょっとしたらEXPOの会場でお目にかかるかもしれませんな。寝坊しなければですが・・何はともあれ手裏剣ブースだけは絶対にいくつもりです。
遅まきながら去年の暮れごろから「ニッポン城めぐり」を始めて、井伊谷城にいけば直虎さんゲットできるぞ・・とか、岩村城行けば「おつやの方」居るんじゃない?・・とか思って行ってみたら盛大にがっかりしたのを覚えています。そんな甘いもんじゃないって・・結局運営にいいように踊らされている自分がいます。困ったもんだほんと・・ 気づけばビー〇170本ぐらい有って本気で心配されてたりする。

長宗我部盛親陣跡にある案内板には「盛親は毛利秀元ら諸隊と一緒に南宮山に布陣したが東軍に内通した吉川広家に阻まれ参戦できず、西軍の敗色を見て戦わずして帰国した」と書かれています。
これだと南宮山・栗原山・象鼻山を含めた一帯を南宮山と表記しているようにも見えるし、吉川広家も南宮山に登っていると受け止めることも出来る。神谷道一氏の「関ヶ原合戦図志」の挿絵をみても象鼻山まで毛利方の陣が配されているようにも見える。
高橋氏の「シン・関ヶ原」に併せて白峰氏の著書や日本史史料研究会監修の「関ヶ原大乱、本当の勝者」も読んでみたが関ヶ原の受け取め方は本当に人それぞれだ。同じ事例でも人によっては、いくらでも受止め方が存在するので、何十~何百 それ以上の可能性が有ると思う。関ヶ原の真実はそれを求める人たちにとってはライフワークと言って良いのではないだろうか。

大野治長に関しても、実は家康によって東軍に組み込まれていたりする。トクさんの投稿にもあったけど秀頼の父親は→ 大野ではないかと考えています。実際にそう考えている人は多いのではないでしょうか。
秀吉の意向(命)で淀殿と大野に子供を作らせたと考えることもできるけど、秀吉が死んだあとは大野の立場は危ない者になると思う。

ひょっとしたら奉行衆は事実が明るみになる前に大野を暗殺しようとするかもしれない。そこまでしなくても何かしらの手を打っておく必要が有ると思う。秀吉の死後、大野は家康暗計画に加担して常陸に流されたとされる説がありますが、他にも淀殿と〇×〇●して怒った家康に遠方に流されたという話まである。
受け止め方を変えれば、大野は事情を知る家康によって奉行衆から遠ざけられることによって保護されているようにも見えるのだ。そうなると関ヶ原合戦時までの淀殿と三成ら奉行衆、家康との関係性まで変わってくる。
淀殿は奉行衆を警戒し、事情を知りつつ保護してくれる家康を頼りに感じていたのかもしれない(合戦後にすぐに正体はわかるけど)
あくまで考え方の一つで、実際の所は正確には分からない。あくまで可能性の一つです、だから関ヶ原の合戦に至る過程は多くの人達にとって永遠のテーマと言えるのかも知れない。

最後に栗原城が気になって帰りにもう一回寄って見た。主郭らしき場所に土塁がコノ字状に残り周囲には扁平地が有り東側は切岸になっている。このあたりが城址だと思うが九十九坊や尾根上、長宗我部陣を含めてこの周囲は郭だらけだ。
人によってはこのあたりも南宮山のくくりになるだろう。ここからは大垣が良く見えるだろう。ひょっとしたら合戦前にここに毛利方の武将の陣があった可能性があったのかもしれません。


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カズサン

【湖国 名城万華鏡】を入手しました (2025/12/15 訪問)

 城びとの特集に滋賀県で纏めたお城観光ガイドブック「湖国 名城万華鏡」なる小冊子(26頁)が無料で滋賀県内観光ガイドセンター、道の駅で配布されているとの情報でしたので、久しく訪ねていない彦根城本丸、天守閣を訪ねた折りに入手しようかなと思っておりましたが冬に成ってしまい関ケ原の降雪にノーマルタイヤの愛車では不安にて、雪明けに訪ねるか? 城びとの特集をよく調べて名城万華鏡小冊子の入手をホームページ「公益社団法人 びわこビジターズビューロー」を探し出し、お尋ねの欄に問い合わせのページが有り、必要事項を記入してお願いしました。
 気持ちよく応答のメールが届き、15日に郵送で届きました。感謝感謝です。
 滋賀県 公益社団法人 びわこビジターズビューロー 広報情報部の皆さんありがとうございました。

 滋賀県の城廻りの参考にさせて頂きます、滋賀県は約80城ほど訪ねて居りますがまだまだ未踏の城が残って居りますので機会をみて訪ねたいと思っております。
 ありがとうございました。

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たか

凄い竪堀 (2025/12/08 訪問)

とにかくチャンスがあれば行ってほしい。
竪堀の深さや本丸跡のメロディ時計台。
丁度メロディが流れていて素敵でした。
手前ではベンチでランチをされてる方もいてほのぼのしました。

山田有信が大友の5万の兵、豊臣秀長の15万の兵を凌いだという。
7つの見事な竪堀を是非とも!

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たか

伊東氏48城 バタバタで… (2025/12/08 訪問)

仕事の都合もありバタバタしながら見に行きました。

舞鶴公園として整備されていてとても素敵。
丁度行ったときに工事中で本丸手前で攻城できずに終了。
もう少し散策してみたかった…

石段にくさび跡を見つけましたが果たしていつのものなのか…

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整備が進みます (2025/12/13 訪問)

 NHK知恵泉に蜂須賀正勝(小六)が、「めざせ!中年の星 遅咲き男」と題して取り上げられました。正勝後、蜂須賀家は、正勝の子供の家政が阿波に入封、孫の至鎮が大坂の陣の後に淡路国ももらったと。番組で、蜂須賀家が、幕府からお咎めを受けた際に、「お詫びに淡路を返上します」と言って、「いやいや、そこまですることはない」と許してもらえたことが一度でなかったとのエピソード(とても単純化されてますが)が紹介されました。淡路国は8万石余り。淡路の城巡りを計画しててなかなか実行できてなかったのですが、この面白いエピソードを知ったことを契機に行って参りました。また、淡路島には、熊が生息していないとのことなので、山城も含め、城びと登録の淡路島物件を一気に回りました。

 志知城についての過去からの皆さんの投稿を見ると、志知城守る会さんが、整備を進めてきた様子がわかります。以前は、竹藪がきつかったと。城びと先達にならい、北側のマルナカに駐車してアプローチしました。南側に出て、次いで、東側を廻って、堀や馬場を観察。まだ朝早く、マルナカ開店前でしたので買い物はなしで、次の養宜館へ向かいました。

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イオ

赤色立体地図かるたワークショップ参陣

約1月半ぶりの投稿です。とりあえず生きてます。この間もお城には行っていましたが、城びとへの投稿はサボってしまっていました。正月休みまでには立て直したいと思っていますので、またお付き合いください。

さて、お城EXPOまであと3日となり、✕のタイムラインは全国各地からの出陣の声であふれかえっていますが、10周年記念お城かるた大会…とはいかなかったものの、赤色立体地図かるたのワークショップとかるた取り体験が開催されるようなので、私も参陣いたします。できれば一泊してじっくり見て回るなり、小机城に行くなりしたかったところですが、例によって土日ともに仕事が入っているのを無理やり都合をつけての参陣なので、残念ながら20日のみの日帰り参加です。

…ということで、少なくとも加藤理文先生の赤色立体地図かるたのワークショップには参加します(千葉達朗さんのほうは時間が許せば)ので、同じく参加される方々にお目にかかれるのを楽しみにしております。仕事を抜け出して行く都合上、服装は昨年同様、背広にネクタイ(+黒いコート)で参ります。よろしければお声がけください。喜びます(笑)


> トクさん

とことん名護屋城、興味深く拝見しました。名護屋城には金森長近の陣跡もあるようで、お城EXPOとあわせて名護屋城と陣跡めぐりをしよう! と計画していながらも、結局行けずじまいだったので、講演の内容に基づいたトクさんの投稿を拝見して、多少なりとも行った気分になれました(と同時に、もっと行きたくなりました)。名護屋城が近世城郭が全国に一斉に広まる起点となった、かぁ…なるほどなぁ。

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ダイエティシャン

十神山城3️⃣中十神 (2025/12/16 訪問)

中十神にも行きました。山頂から分岐まで下り、分岐から中十神までは2、3分でした。

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ダイエティシャン

十神山城2️⃣登城道、山頂 (2025/12/16 訪問)

登城道は整備されていて、道標もあり迷うこともなく山頂に着きました。この日は近辺で工事音も鳴り響き、熊等の恐れも少なく感じました。草の茂みの間から、中海の海岸、なぎさ公園(キャンプ場)が見えました。

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ダイエティシャン

十神山城1️⃣駐車場、登城口 (2025/12/16 訪問)

尼子十砦の一つと十神山城を攻城。駐車場から十神山山頂まで約10分ほどでした。山頂は草に覆われ、眺めは良くなかったです。

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トク

【とことん名護屋城-⑥最終回】加藤清正と小西行長 (2025/11/23 訪問)

最後に私がどうしても行きたかった、この二人の陣跡を訪れました。なぜならば、この二人なくして朝鮮出兵は語れないからです。この二人の対立が火種となり、他の武将たちをも巻き込んで、それが関ケ原へとつながって行きました。

加藤清正の陣は、名護屋城博物館から西へ800mの場所にありました(写真①②)。小西行長の陣は、名護屋城博物館から南東へ500mの地にありました(写真③④)。どちらの陣も遺構は残っていませんが、ここに立ち、目を閉じて、耳を澄ますと、先鋒として渡海し、先を競うように先陣を切って戦った、最強の兵士たちの声が、どちらの陣からも聞こえてくるような気がしました。

さかのぼる事、二人の争いは秀吉の九州征伐の時に始まります。天草氏を攻めた本渡城の戦いで、キリシタン大名である小西行長は、天草のキリシタンたちは保護しようとしたのに対し、加藤清正は禁教令を理由に強引に皆殺しにしてしまったのです。この時から二人は犬猿の仲となります。そして両者は、文禄の役では先を競って平壌まで攻めて行きました。そしてここで戦を中断し、明の使節を迎え和平工作を計ろうとした行長に対し、明国を攻め続け徹底的に戦う姿勢を見せる清正、ここで二人は再び対立します。よほど馬が合わなかったようです。

そして明との和平交渉が決裂し、再び出兵した慶長の役では、負け戦が続き不利な状況になってきたため、戦争の早期終結へと、明との交渉のパイプ役である小西行長を支援する石田三成や大谷吉継らの「文治派」(写真⑤⑥)。最前線で戦ったあげくに負け戦は自分たちのせいと三成に讒言されて憤慨する加藤清正、同じく渡海して戦い、清正を支援した福島正則や黒田長政らの「武断派」(写真⑦⑧)。清正と行長の二人の対立が火種となり始まった争いは、徳川家康が矛先を行長から、自らの邪魔をする三成に向けさせて武断派をさらにたきつけ、前田利家が両者を仲介するも亡くなると、武断派七将は三成襲撃事件を起こし、それがついに全国の諸大名たちまでをも巻き込んだ、関ケ原の戦いへと発展して行った事は、皆さんもよく御存知と思います。

「太閤が 睨みし海の 霞かな」

名護屋城の本丸には、このような歌碑が立っています(写真⑨)。豊臣秀吉は、この二人の争いを望んではいなかったと思います。秀吉がもう少し長生きしていれば、歴史はどう変わっていたのだろうか?🤔などとつい思ってしまいました。

以上で(とことん名護屋城)を終わります。全6回読んでいただき、ありがとうございました😊。
 

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