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トク

26【秀長の晩年をたどる①】大坂城と豊臣石垣館 (2026/03/22 訪問)

根白坂の戦いが終わってから亡くなるまでの3年間、秀長はいったいどこでどのように過ごしていたのだろうか🤔? なぜかそれが気になってしまい、今度は秀長の晩年にスポットを当てる旅に出る事にし、大阪→京都→奈良→郡山を訪れました。

博多から再び新幹線みずほ600号に乗り大阪へ、豊臣兄弟の象徴と言えばやはり大坂城だと思い、最初に立ち寄る事にしました。新大阪駅では何とドクターイエローに遭遇😯! 幸先のいいスタートです(写真⑩)。

JR大阪城公園駅で降り、極楽橋から本丸へ入ります(写真②)。いや~平日で雨にもかかわらず大混雑です! しかも約80%が外国人です。チケット売場に30分も並びました。そして再建された徳川の天守へ上がります(写真①)。天守の3階には、豊臣時代の大坂城の模型がありました(写真③)。

その後、豊臣石垣館へ行ってみました。天守のチケットを見せれば入る事ができます。徳川が埋めてその上に現在の天守を建てたというのは本当だったのですね。ここは豊臣期の本丸(詰ノ丸)の南側の石垣だそうです。大坂の陣で焼けた跡の赤い色が、確かに残っていました(写真④⑤)。411年前の歴史の証人に会う事ができ、とても感動です! しかし反面、この時亡くなった豊臣秀頼の事を思うと、何故か忍ばずにはいられませんでした。秀頼自刃の地は、豊臣天守があった詰ノ丸北側から山里丸へ降りた場所に、ひっそりとありました(写真⑥⑦)。

私は、天守最上階からは西ノ丸を見下ろして見ました。西ノ丸には秀長の屋敷があったとされています(写真⑧)。大坂を訪れた諸大名はまず秀長に要件を伝え、秀長が秀吉との仲介役となって、謁見の段取りをしていたものと思われます。また秀長は謁見ができるまでの間、その大名を接待します。千利休の茶室に招き、夜は西ノ丸の屋敷でもてなしながら、そこで秀吉の真意を伝え、うまく事を運ぶためにはどうしたらいいか、いろいろと両者の間に立って話を聞いていたのではないでしょうか。

秀長の西ノ丸屋敷で最も有名な話は、小牧長久手の戦いの後の1586年10月、徳川家康が大坂城を訪れ、諸大名の前で秀吉との対面を迎える前日、家康は秀長の屋敷に宿泊し接待を受けます。その時その屋敷に秀吉がこっそり訪れ、明日は我の前でひれ伏してくれぬかと、家康に頭を下げるシーンですよね。

次に有名な話は、その半年前の1586年4月の大友宗麟が助けを求めて大坂城へ来た時の事です。秀長は同じくこの西ノ丸で宗麟を接待し「表の事はこの秀長に、裏の事は利休に、何でも相談されるがよい」と声をかけます。そして翌1587年3月、九州平定へ出陣。大坂に戻った頃には聚楽第が完成し、従二位大納言に任じられた秀長は、従一位関白に任じられた秀吉とともに、1588年には京都へ本拠を移しました。

1591年秀長死後の西ノ丸には徳川家康が入り、秀吉死後に家康は伏見城へ移ると前田利家が西ノ丸を預かります。利家死後の1600年、家康が伏見より上杉討伐へ出陣すると、今度は毛利輝元が西ノ丸へ入り、関ケ原を迎えます。よって西ノ丸に入った人物は、秀吉または秀頼の次である、つまり豊臣政権No2の地位に立つ事を意味していたようですね。

次は、京都聚楽第へ向かいます。その前に、新大阪駅で食べた「大阪たこ焼き」が、とても美味しかったです😋(写真⑨)。
 

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べっち

箕輪城 (2026/09/08 訪問)

自分で計画して行った

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べっち

新田金山城 (2026/09/06 訪問)

自分で計画して行った

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べっち

足利氏館 (2026/09/07 訪問)

自分で計画して行った

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べっち

川越城 (2026/09/06 訪問)

自分で計画して行った

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イオ

行市山南砦(長浜市余呉町池原) (2026/03/28 訪問)

行市山南砦(城びと未登録)は、賤ケ岳の戦いにおいて柴田方が築いた陣城で、別所山砦と行市山砦を繋ぐ役割を果たしたと考えられますが詳細は不明です。

別所山砦から約25分で行市山南砦に到達。別所山砦まではいくつかの砦をめぐりながら徐々に登って行く感じでしたが、行市山へはひたすら登りです。かつて陣城間を結んでいた城道(かもしれない登山道)を進むと、城道は行市山南砦の手前で左右に分岐し、横堀状の城道に周囲を囲まれた曲輪が主郭です。主郭は斜面に階段状に設けられていて、城道を登ってきた敵兵を攻撃する造りでしょうか。分岐していた城道は主郭の西端で合流し、その先は喰い違い状の堀切で尾根筋を遮断しています。

行市山南砦を出て行市山砦へ城道をさらに登って行く途中、振り返ると賤ヶ岳の戦いの柴田方・羽柴方双方の砦群を一望に見渡す眺望が広がっていました。

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todo94

いつでもウォーク:Pikmin Bloom Tour in 横須賀 当日の攻城② (2026/08/30 訪問)

>赤い城さん 正解のご教示、ありがとうございました。今後の城めぐりにまた楽しみが増えました。それでも鳥羽城は自力で見つけ出す自信はありません。

さて、8月30日の攻城に戻ります。河崎氏館からの転戦です。江ノ電・極楽寺駅から徒歩にてアプローチしました。神奈川県の管理となっていて立入禁止とのことです。極楽寺坂の切通しは通ってみました。鎌倉の切通しめぐりをしたのは、2005年12月のこと。21年ぶりの再訪となりました。このあとは、横須賀に向かい、今回の旅の目的であるいつでもウォーク:Pikmin Bloom Tour in 横須賀を楽しみました。記念艦三笠もチェックポイントになっていたので2010年以来、16年ぶりに再訪することができました。

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赤い城

クイズの答え

todo94さん、早速のお答えありがとう御座います。
少しマニアックでしたか😓
もう少しヒントが写るようにすれば良かったです。

それでも高知城、松坂城、二条城、広島城は正解です😊
他を含め解答は写真にて。
どこにあるかは次回再訪される機会があればその際のお楽しみにしていただけたら、と。
ちなみに江戸城はにのまるさんと散歩した際にパシャリ。

引き続きよろしくお願いします。

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つちのこ

豊岡城、豊岡陣屋 (2026/09/05 訪問)

此隅山城に続いて訪問。
公園として整備されていますが、天守台跡は草が生い茂っていました(しかしちょうど草刈り作業真っ最中でした)。そこから笠の丸跡へ下りると、ベンチが円状に並んでいて綺麗にされていました。もうちょっと涼しくなったら市民の憩いの場なんでしょうか。

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つちのこ

山中で初迷子 (2026/09/05 訪問)

先日登城した有子山城と出石城に続き、此隅山城を登城。近くの出石神社に参拝してから行きました。
いずし古代学習館でパンフレットを頂き登山道へ。20分ほどで堀切など遺構が見えてきました。西の曲輪を見て主郭方面へ。なかなかの急斜面、苔むし具合も良きです。
主郭から下山の道を進んでしばらく、何やら登りと景色が違うことに「もしかして…」と思いつつそのまま進んでいました。が、全く案内標識が現れないので絶対ルートではないと確信し、来た道を引き返し尾根を目指しました。しばらくすると案内標識発見!山城歩きを始めて、初めて一人迷子になりました。これも誰もが通る道だと思い、今後の城歩きの糧とします。

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イオ

別所山砦(長浜市余呉町池原) (2026/03/28 訪問)

別所山砦(城びと未登録)は、賤ケ岳の戦いにおいて柴田方の前田利家・利長父子が築いた陣城で、利家らが茂山砦に移ると代わって拝郷家嘉が守将となりました。

橡谷山砦から15分弱で林道からの登城口に到達。登城口までの道中には駐屯地っぽい平坦地や土塁や堀っぽい地形もありましたが、果たして…。登城口から約5分で北東尾根の斜面に設けられた曲輪群に至り、北東尾根の付け根には南辺に土塁が続いていました。北東尾根から谷をはさんだ北尾根にも小曲輪群が展開しています。別所山砦の主郭はほぼ方形で、周囲に土塁をめぐらせ、東辺と西辺には横堀も見られます。南東隅部は土塁と堀を屈曲させて横矢掛けになっていました。虎口は南側に開口し、虎口から西にのびる土塁は南西隅で櫓台になっています。主郭内には別所山砦跡の説明板が立てられていました。

柴田方の封じ込めを基本戦略とする羽柴方に対して、柴田方は羽柴方の防衛ラインの突破が命題であり、そのため柴田方の陣城の防御施設は簡素だとされますが、さすがは能登一国の領主の陣城ともなるとしっかりした造りですね。別所山砦は羽柴方の天神山砦を眼下に見下ろし、玄番尾城から行市山砦を経て前線の砦群を結ぶ重要な位置にあるだけに、現地に立ってみて改めて利家の撤退が柴田方に与えた影響の大きさを実感させられました。

さて、いよいよ別所山砦の北西にそびえる行市山を目指すとしましょう。
 

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todo94

赤い城さんのクイズの答え (2024/09/21 訪問)

赤い城さん、こんなに石樋、排水口の写真を撮りためていたとは恐れ入ります。瞬殺できたのは最初の高知城のみです。三枚目の松阪城も多分大丈夫かと。あとはもう、何が何だかわかりません。今年見てきた大阪城にも沢山排水口はありましたが、今回出題された写真の中にはなさそうですしね。六枚目なんか見ていれば記憶に残ると思いますので、きっとまだ目にしたことがないのだと思います。

あまり回答を引き延ばしても申し訳ありませんので、玉砕覚悟で答えさせていただきます。100名城の中から選んでみました。

①高知城
②丸亀城
③松阪城
④高取城
⑤岡山城
⑥和歌山城
⑦二条城
⑧名古屋城
⑨広島城
⑩首里城

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小城小次郎

大口町の小口城 (2026/11/24 訪問)

大口(おおぐち)町にある小口(おぐち)城とは洒落が効いている。沢山ある織田家のうち後に岩倉織田家と呼ばれる伊勢守系の織田広近によって築かれたという。不自然に一段高い主郭からは井戸跡や須恵器等も検出されたのだとか。

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トク

25【秀吉の九州平定をたどる⑥】島津歳久(豊臣秀吉暗殺未遂事件) (2026/07/16 訪問)

虎居城は薩摩郡さつま町にある、島津四兄弟の三男「島津歳久」の居城で、別名(宮之城)とも呼ばれています。

出水(いずみ)駅前から鹿児島空港行の南国交通バスに乗り40分、「宮之城駅(鉄道記念館前)」で下車しました(写真⑨)。ここには昭和60年まで国鉄宮之城駅があったそうでうす。そこから川内川(せんだいかわ)の川沿いを30分程歩いた、虎居城を眺める場所にある「宮之城歴史資料センター」に立ち寄りました(写真①②③)。ここでは、虎居城の模型や宮之城島津家の歴史などが、詳しく解説されています(写真④⑧)。また井伊直政が島津義久に宛てた、「早く上洛し家康殿に謁見するように」と催促した手紙など、貴重な資料も保存されており見る事ができました。

虎居城は蛇行する川内川が三方を囲んで、まるで島のようになっています(写真⑤)。この城はいったいどこから攻めたらいいのだろう🤔? 落とすのは相当難しいと感じました。歴史資料センターからさらに10分程歩いた「のびのび公園」からは全体が一望でき、新たに赤い橋が架かっていたので、渡れるかと思いましたが、まだ工事中で渡れないようです(令和9年3月頃から渡れるようになるそうです)。宮之城中学校側からも渡れないので、虎居城へは結局今は入る事はできません。よって川の対岸の公園から眺める事しかできず、橋が開通したら再度リベンジに来ようと思いました(写真⑥⑦)。

薩摩は島津四兄弟(義久・義弘・歳久・家久)が固い絆で守っていました。しかし、九州の東から南下する豊臣秀長を、義久・義弘・家久の三人で、根白坂で迎え撃つも大敗してしまいます。この時、歳久は病のため根白坂には行けず、代わりに九州の西から南下する豊臣秀吉を、自分の居城である虎居城で迎え撃つ準備をしていました。しかしここで、根白坂で兄弟たちが大敗したとの報が届きます。

敗戦から20日後、川内の泰平寺に滞在していた秀吉に、義久は剃髪して訪れ、降伏を申し入れました(写真⑩)。佐土原城に籠るも藤堂高虎に囲まれていた家久も降伏し、これに続きます。飯野城に籠った義弘は徹底抗戦を唱えますが、義久に説得されその3日後に降伏します。最後に残ったのが歳久です。養嗣子の忠隣を根白坂で失ったせいもあり、秀吉を恨む歳久は、絶対に降伏するつもりはありません。

ならば秀吉は川内から大坂へ戻る途中に虎居城に立ち寄り、自らの大軍を見せつけ降伏の機会を与えようとします。しかし歳久は降伏どころか、乗っていた秀吉の籠めがけて何と矢を射かけ、暗殺しようとしました。矢はすべて籠に当たったようですが、秀吉は事前に察知し籠を乗り換えていたため無事で、暗殺は失敗に終わったようです。それでも秀吉は歳久を許し大坂へ戻りました。

しかし5年後の1592年、島津歳久の家臣「梅北国兼」が、肥後加藤領の佐敷城にて、朝鮮(文禄の役)へ出兵しようとしていた島津義弘の船団を襲って出兵を妨害するという事件が発生し、島津軍は朝鮮に遅参するという大失態を演じてしまいます。これに秀吉は大激怒! 裏で糸を引くのは歳久と決めつけ、当主義久に弟の歳久を討つよう命じます。実は国兼の背後には別の黒幕(伊集院忠棟)がいたようですが、歳久は弁明せず、兄義久の家臣に素直に討たれ亡くなりました。

歳久は自分のせいで島津家が危ない事を察知していたのですね。泣く泣く弟を殺した義久の気持ちは、いかばかりだったのでしょうか?

さらにその8年後の1600年、関ケ原の戦いで家康の首を狙うも失敗し、命からがら薩摩へ戻ってきた弟の義弘を、義久は命をかけて家康から守ろうとします。これは同じく弟だった歳久を秀吉から守れなかった兄としてのくやしさが、そうさせたのではないでしょうか?

話がまた兄弟話に脱線して長くなってしまい、申し訳ありませんでした。次からは、豊臣秀長が九州平定を終えてから亡くなるまでの、(最後の3年間)をたどって行こうと思います。次は大坂城に続きます。
 

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イオ

雁金をどり

> 名城マイスター8級さん

上田城の投稿10枚目の写真、中段右側の御城印の登城記念の文字の下の図柄は「結び雁金紋」で、戦時の「六文銭紋」に対して平時(日用調度品など)に用いられた真田家の家紋のひとつです。祝い事などでは「州浜紋」も用いられていたようです。

ところで、大河ドラマ「真田丸」では、お梅との祝言や九度山脱出の際にこの結び雁金紋にちなんだ「雁金をどり」が印象的に用いられていますが、この雁金をどり、地元に古くから伝わる踊りかと思いきや真田丸オリジナルのものだそうで、劇中で披露されたのは1番のみですが、州浜紋にちなんだ2番、六文銭紋にちなんだ3番の歌詞まであるんだとか。真田丸、芸が細かいなぁ。


> todo94さん

和歌山県(特に南部)は「行く!」と覚悟を決めないと行きづらいところですからね(笑) その上、行きたい! と思える名の通った城も数えるほどしかありませんが、城びと登録の山城なら手取城とか安宅八幡山城とかが見応えあったなぁ…と思ったら、どちらもとうに登城済みでしたね。さすがです。
 

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トベシュン

北陸続日本100名城巡り「富山城」「増山城」「鳥越城」 (2026/09/06 訪問)

北陸続日本100名城巡り「富山城」「増山城」「鳥越城」に行ってきました。

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トベシュン

北陸続日本100名城巡り「富山城」「増山城」「鳥越城」と「安田城」に行ってきました。 (2026/09/06 訪問)

北陸続日本100名城巡り「富山城」「増山城」「鳥越城」+「安田城」に行ってきました。

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トベシュン

北陸続日本100名城巡り「富山城」「増山城」「鳥越城」 (2026/09/06 訪問)

北陸続日本100名城巡り「富山城」「増山城」「鳥越城」に行ってきました。

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トベシュン

北陸続日本100名城巡り「富山城」「増山城」「鳥越城」  (2026/09/05 訪問)

北陸続日本100名城巡り「富山城」「増山城」「鳥越城」に行ってきました。

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イオ

橡谷山砦(長浜市余呉町池原・小谷) (2026/03/28 訪問)

橡谷山砦(とちたにやまとりで・城びと未登録)は、賤ケ岳の戦いにおいて柴田方の金森長近が築いた陣城ですが、長近は前田利家らとともに羽柴方と戦うことなく戦線離脱しています。

中谷山砦から10分弱で橡谷山砦に到達。橡谷山砦は大きく分けて北の曲輪と南の曲輪からなり、北の曲輪の東側には駐屯地と思しきほぼ自然地形の曲輪群が尾根沿いに続いています。東尾根の曲輪群を抜けて東側の虎口から北の曲輪へ。北の曲輪は西辺、北辺、東辺を土塁がめぐり、東と北に虎口が設けられています。曲輪内には「中之谷山 原彦次郎長頼砦」の標柱が立てられていて、この地が中之谷山砦、林谷山砦への分岐の地が橡谷山砦(金森長近砦)とする説に基づくもののようです。北側の虎口から出て北に回り込むと北の曲輪北辺の土塁の向こうには自然地形の尾根が続いていました。北の曲輪南西辺の堀切を越えて南の曲輪へ。途中、ほぼ自然地形の平坦地が続いていますが、このあたりも駐屯地だったのでしょうか。南の曲輪は北東辺と南西辺に土塁、北西辺に横堀をめぐらせていますが、北の曲輪よりも藪化していて遺構が確認しづらい状態でした。

この地が橡谷山砦だったのか中之谷山砦だったのかはわかりませんが、南東は中谷山砦、北東は柏谷山砦から大谷山砦、南西は別所山砦に通じる柴田方の陣城群の要となる位置であり、多くの兵を収容できる広さがあることから、原長頼(大野郡の3分の1)よりも石高(=動員力)がある金森長近(同3分の2)の陣と考えるのが妥当なのかな、とも。

橡谷山砦に続いては、同じく戦線離脱組の前田利家の陣城・別所山砦に向かいます。
 

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