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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征7日目:熊野城(尼子十旗⑧ 7城目) (2026/05/17 訪問)

尼子十旗:出雲国尼子氏の主要な家臣団の十の居城
尼子十旗(①白鹿城②三沢城③三刀屋城④赤穴城⑤牛尾城⑥高瀬城⑦神西城⑧熊野城⑨馬木城(夕景城)⑩大西城)
春日城から車で20分くらいで、農村公園空スペース(35.353859、133.061937)に着き、説明板の写真を撮りました。
そこから、登城口標柱付近(35.355888、133.059190)に向かいました。登城口前に路駐しました。

築城年代は定かではないようですが、戦国時代に、尼子義久に従っていた熊野久忠が築いたとされています。
本丸下に建立したと言う、阿弥陀堂の寄進者として、1534年(天文3年)熊野兵庫介久忠とあるようです。
ただし、近くに、出雲一の宮である「出雲・熊野神社」があり、平安時代に熊野大社の神主である熊野氏が築いたとも考えられています。
1563年(永録6年)毛利元就が三刀屋城主三刀屋氏、三沢城主三沢氏などを率いて熊野城に押し寄せたが、熊野氏はこれを退けました。
しかし、1566年(永禄9年)尼子氏の本城富田城が開城したため、熊野城主熊野久忠も毛利氏に降伏しました。
1569年(永禄12年)尼子勝久ら尼子再興軍が、月山富田城を攻撃しますが、熊野久忠も加わり、出雲・熊野城を奪還すると、尼子再興軍の拠点になりました。
1570年(元亀元年)布部山の戦いで尼子再興軍が大敗した際には、諸城と共に熊野城も開城・降伏しました。
天正年間(1573年~1593年)富田城を預かっていた天野隆重は荷が重すぎると、毛利元就の四男毛利元秋を富田城主に迎え、自身は熊野城に退いて元秋を補佐しました。

南西の登城口から案内看板的確で歩きやすいように整備してありました。
山麓の農村公園に案内板が設置されています。
攻城時間は40分くらいでした。次の観光先=足立美術館に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征7日目:春日城 (2026/05/17 訪問)

宿泊先のホテルから車で10分弱で、春日神社参道入口(35.424721、133.112992)に着き、付近に駐車しました。

築城年代は定かではないようです。
1468年(応仁2年)出雲守護代の尼子清貞は下河原宗左衛門尉らが楯籠もる春日城を攻め落としていますが、尼子清貞の家臣神保与三左衛門尉、西木彦左衛門尉が討死している記録があるようです。

春日城は春日神社の裏手にある山に築かれています。
山に登る場所を捜して堀切を見つけたが、その間に予定時間を15分オーバ。
主郭まで登るのは断念しました。
攻城時間は30分くらいでした。次の攻城先=熊野城(尼子十旗⑧)に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征7日目:古城山城(城びと未登録 島根県出雲市) (2026/05/17 訪問)

宿泊先のホテルの朝食前に、古城山城(城びと未登録 島根県出雲市)を攻城しました。
宿泊先のホテルから徒歩10分くらいで、緑化公園入口(35.426626、133.128995)に着きました。

築城年代、築城者や城主も不明です。

緑化公園入口の道を先に進むと大堀切が見えてきました。結構高いです。
この右手側が城内のようですが、城内に行く道が無く、ロープを使って城塁を直登しました。下山時、やはり転びました。
結構大変でしたが、登った先はきちんと削平されており、高土塁がありました。
中央に素掘りの井戸があるはずなのですが、見つけられませんでした。
主郭と反対側(左手側)の山に登ってみましたが何もありません。
攻城時間は25分くらいでした。次の攻城先=春日城を攻城する前に、ホテルに戻って朝食を食べました。

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ぎりょう

金箔瓦出土の城 (2026/06/14 訪問)

自身が所属する古文書を読む会の「移動研修会」、今年度は隣県山形市に。今回のメインの訪問地は山形城跡と最上義光歴史館です。今回も会員の約半数、38名の会員さんが参加しました。例年のごとく4月末に担当役員で下見会を実施し、最上義光歴史館さんを訪問し学芸員さんから、同館のサポータークラブ『義光会』さん、山形市観光ボランテイアガイド協会さんの紹介をいただきました。
訪問当日は山形城跡の発掘調査ご担当の市職員さんからも山形城跡のご説明、ボランテイアガイドさんからは最上義光歴史館の展示や、悲劇のヒロイン駒姫の供養塔がある専称寺をご説明をいただきました。
山形城は1986年に国史跡指定され、その翌年から遺跡整備を開始、発掘調査も進められて、段階的な復元整備が進められています。これまで二ノ丸東大手門、本丸一文字門、大手橋が復元され、城郭の景観が徐々によみがえっています。
発掘調査ご担当者さんからこれまでの発掘調査の成果をお話しいただいた中で、本丸跡からの金箔瓦出土の説明がありました。
金箔瓦は織田信長の安土城に始まり、その後権力を受け継いだ豊臣秀吉が大坂城や聚楽第、伏見城で用いて、権力誇示に利用したものです。山形城跡での出土は、当時、最上義光が豊臣秀吉の信認を得ていたことの証と考えられます。
城跡からの金箔瓦の出土は、南東北ではここ山形城、会津若松城、仙台城、現南相馬市に有った相馬氏の本拠地小高城の四ヵ所だけとことです。出土した金箔瓦は最上義光歴史館の山形城コーナーに展示されており、観ることができます。




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チェブ

振り出しに戻る。 (2026/06/14 訪問)

夕方子供を、JR西国分寺駅に送って行ったついでに「三田城」に寄り城しました。
本当は、城びと特集記事『武蔵国分寺復元体験アプリ』で紹介された『武蔵国分寺跡』に行こうと思っていたのですが、後日、友達と巡る予定がありますので、「三田城」へ。
*あの記事の文章が面白く毎回、笑顔になります。

それから、「三田城」が頭の隅っこにいたのは、東京都の西多摩地区に流れるローカルテレビで、武州青梅三田弾正手作り甲冑隊と、村山党の皆様が紹介されていた事です。

三田氏の本拠地は青梅市だよなーと思い、再度「三田城」へ。
ちなみに青梅市の由来は平 将門さんのエピソードによります。、、、長くなるので割愛します。
三田氏は平 将門さんの後裔なんだそうです。
青梅市と「三田城」のある国立市は車で1時間くらいの距離です。

城山公園に駐車場があります。ここから公園に入らず坂を上がります。すると右手に遺構が見えて来ますが、私有地。
もうちょっと先に入口があります。
堀底でしょうか?歩くと左右の土塁の竹が良い雰囲気を演出してくれてます。
すると、前から自転車の男の子達が。抜けると広場になっていて、たくさんの小学生と親御さんが帰り支度をしてました。
ビジターセンターのような建物がありバリアフリーのトイレもありました。

「三田城」は鎌倉御家人の津戸氏等、築城者が不明なようです。
ん!!前に来た時も、同じ事を思って同じように納得した事を思い出しました!!

青梅市には『三田弾正くん最中』という和菓子があるそうです。テレビでは『武者もムシャムシャ食べられます。』
って。
この次は『三田弾正くん最中』を持って再登城しようと思った「三田城」攻めでした。

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朝田 辰兵衛

帰りにココに立ち寄りました…👣 (2026/05/06 訪問)

福岡空港に荷物を預け,福岡地下鉄で貝塚駅へ。西鉄貝塚線に乗り換えて香椎宮前駅下車。徒歩約30分で到着。香椎台おいの山公園です。モニュメントがなければ,後生に語り継がれることが難しい城のひとつといえます。

🛫6月25日から福岡空港に飛び,6月30日に伊丹空港から越後に帰還する旅に出ます。還暦前年に課された連続休暇取得で西日本縦断旅を計画。天気予報では,私に雨雲が寄り添うカンジです。それでも,くもり程度に変われば,6月26日に山口県岩国市の未投稿城「成君寺山城」を攻めてきます。雨がすごかったら「亀居城」に変えます。

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小城小次郎

ほぼ完璧に残る方形の城館 (2025/08/11 訪問)

松山市郊外に大きな土塁と広い水堀をほぼ完璧に残す方形城館が現存する。河野氏重臣の平岡氏が拠ったお城は関ヶ原の戦いに乗じて毛利方が伊予に侵攻した際にも平岡氏が毛利方を導き入れたという。よく壊されなかったな。

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カズサン

皐月の頃・丸馬出群 (2026/05/26 訪問)

 諏訪原城には丸馬出が七か所存在して居ます、牧之原市に用事のチョイ寄り探訪で二の曲輪中馬出、二の曲輪北馬出周りを紹介写真投稿しましたので、残りの二の曲輪大手馬出、東内馬出、南馬出、東馬出の皐月の頃の萱の茂った、竹の茂った状態の写真を投稿します。
 東馬出からも富士山が遠望できるのですが今回は霞も掛かり目で確認できるのですが写真でははっきりしません、又大手馬出は茶畑の崖外周で確認できるのですが今回は足を踏み込んで居ませんので割愛致しますので写真投稿は4ヶ所の丸馬出しのみです。
 

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カズサン

内堀の底を見る (2026/05/26 訪問)

 諏訪原城の堀底へは入り込む事が出来ませんが、唯一内堀、カンカン井戸の在る堀底で雄大な堀を体感する事が出来ます、本曲輪は武田氏の時代の築造とも言われて居り、武田氏が造り徳川氏が改修した内堀、諏訪原城です。
 牧之原市に用事が有りチョイ寄りで景観整備されている二の曲輪中馬出周りと本曲輪の笹ゆりを初鑑賞した後、カンカン井戸経由しましたので堀底、内堀底より雄大な堀を鑑賞体感(何回も体感して居ます)しましたので前後の写真を投稿します。
 外堀もどこか一か所でも堀底体験体感が安易に出来る施設を作って頂くとありがたいのですが?
  

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征6日目:玉造要害山城 (2026/05/16 訪問)

金山要害山城から車で20分くらいで、玉作湯神社駐車場(35.413472、133.010856)に着き、そこから登り口/説明板付近(35.413238、133.011772)に向かいました。

築城年代は定かではないようですが、1332年(元弘2年)頃に湯荘留守職の諏訪部扶重によって築かれたと云われています。
後醍醐天皇が隠岐へ配流されたさいに同行した湯庄の富士名判官義網の留守中に、諏訪部扶重が築城して反乱を企てたがこの争乱で焼失しました。
その後、出雲守護佐々木泰清の七男頼清が湯氏を称して城を改修し居城としました。
その後の動向は定かではないようですが、1542年(天文11年)には湯佐渡守家綱の名が記録に残り、その古墓が城内の一角に残るそうです。
また、1558年(永禄元年)の玉作湯神社棟札に地頭代湯菊丸の名が残っています。湯氏は尼子の重臣となった家系が亀井茲矩で因幡国鹿野藩、石見国津和野藩の家系として続きました。

玉造要害山城は玉造温泉街の奥にある玉作湯神社の背後の丘陵に築かれています。
登城口から一ノ平まで200mの表示で登りはじめましたが、自分にとって道なき道の竹林を進み三ノ平に着きました。
しかし、問題はそこからで、二ノ平、一ノ平方向が方向音痴の自分には全くわかりません。
こんな小規模な城跡で迷子になるなんて笑えません。情けないですが、ここで撤退です。
どちらに向かっても道路方向には出れそうなので下山しました。
攻城時間は20分くらいでした。本日の城巡りは、ここがラストです。
歩行歩数=40260歩、歩行距離=28.1Kmです。
本日の宿泊先に車で向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征6日目:金山要害山城 (2026/05/16 訪問)

高瀬城(尼子十旗⑥ 6城目)から車で15分くらいで、ゴミステーション付近空スペース(35.381263、132.915187)に着き路駐しました。
そこから徒歩5分くらいで、南宍道駅の登山道付近(35.379901、132.917917)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、宍道氏によって築かれたと云われています。
宍道氏は出雲国守護京極高氏(佐々木道誉)の孫秀益が、宍道を領して宍道八郎と名乗った応仁年間(1467年~1469年)から、天正年間(1573年~1592年)までの約130年間の間、この地方で勢力を誇った宍道氏の本拠地です。
宍道氏は尼子氏の重臣でしたが、1540年(天文9年)尼子晴久が毛利元就の安芸国吉田郡山城攻めに参陣するも、大内氏の援軍によって尼子氏は敗走、その後大内義隆が出雲国富田城の尼子晴久を攻めると、他の多くの国人同様に大内氏へ寝返りました。
しかし、大内氏が尼子氏を攻めあぐねると多くの国人が尼子氏方へと寝返り大内方は敗走、この時宍道氏は大内氏とともに山口へと落ち延びます。
その後、大内義隆が陶晴賢によって討たれると、陶晴賢を倒した毛利元就に属して1562年(永禄五年)に雲芸攻防戦(1562~1566)の先陣をきって出雲国へ復帰し、旧領を回復しました。
しかし、関ヶ原合戦によって毛利氏が防長二ヶ国に減封となるとそれに従って防長へと移りました。

城は金山要害山の西の峰を主郭として築かれています。
山麓には城主・宍道氏が常住したと伝える御居出成(おいでなり)があり、他にも二ノ成、茶臼成、出張成、天狗成、長成など、48の成(なり)が要害山にあるといわれています。
48の成(成(なり)一般的に丸(まる)と同等の意)とは多数の曲輪で構成された山城です。
今回は時間の都合で、北側の成には行っていません。
詰成と二の成の間に大堀切があり、北側には桝形の虎口が残っています。
詰成(山頂)からは宍道湖が見えました。
また、詰成(山頂)の眼下には支城といわれる宍道要害山、佐々布要害山方向が見通せます。
攻城時間は45分くらいでした。次の攻城先=玉造要害山城に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征6日目:高瀬城(尼子十旗⑥ 6城目) (2026/05/16 訪問)

尼子十旗:出雲国尼子氏の主要な家臣団の十の居城
尼子十旗(①白鹿城②三沢城③三刀屋城④赤穴城⑤牛尾城⑥高瀬城⑦神西城⑧熊野城⑨馬木城(夕景城)⑩大西城)
神西城(尼子十旗⑦)から有料道路を利用して車で25分くらいで、登り口付近(35.371321、132.860472)に着き路駐しました。

築城年代は定かではないようですが、南北朝時代の暦応年中(1338年〜1341年)に、建部伊賀(建部内蔵伊賀)と言う武将が築いたとも、平氏が築いたとも伝わっています。
戦国時代に入ると、月山富田城の尼子氏の重臣である、尼子十旗の米原綱広が出雲・高瀬城主となりました。
出雲の米原氏は、佐々木六角氏の一族で、14代当主・六角定頼の甥・六角治綱が、米原氏の養子となって近江国米原郷を領したのが始まりとされます。
その後、米原治綱が尼子経久に仕えて軍功を立て、家臣となりました。
1562年(永禄5年)米原綱寛のとき毛利氏に降伏し、毛利氏に従って豊後大友氏との戦いに従軍していましたが、1569年(永禄12年)尼子勝久が再興をはかり出雲に入国すると帰国し尼子方へ復帰しました。
しかし毛利氏によって尼子再興軍も次第に勢力を削がれ、高瀬城と真山城(新山城)を残すのみとなり、1571年(元亀2年)3月高瀬城が落城、綱寛は真山城へと逃れその真山城も同年8月落城しました。
この後は吉川元春が入城し尼子再興軍一掃の拠点となりますが、尼子氏が滅亡すると廃城となりました。
なお、元春は父である毛利元就の訃報をこの城で受け取っています。

登り口より1.4Kmの遊歩道を歩き、山頂へ向かう予定でしたが、高瀬城(尼子十旗⑥ 6城目)到着時点で計画の65分オーバでしたので、ここで断念し攻城完了としました。
本日は攻城時間(移動時間+登城時間)の見積もりが甘く、予定がグダグダになりました。
登り口折り返しケースだけでなく、城びと未登録のお城も2つ攻城を断念しています。情けないです。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=金山要害山城に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征6日目:神西城(尼子十旗⑦ 5城目) (2026/05/16 訪問)

尼子十旗:出雲国尼子氏の主要な家臣団の十の居城
尼子十旗(①白鹿城②三沢城③三刀屋城④赤穴城⑤牛尾城⑥高瀬城⑦神西城⑧熊野城⑨馬木城(夕景城)⑩大西城)
鶴ヶ城から車で20分弱で、なめさ神社登城口(35.314565、132.700873)付近に駐車しました。

築城年代は定かではないようですが、1223年(貞応2年)小野高通が相模国鎌倉から地頭職として下向したようです。
このときに城が築かれたかどうかは定かではないようですが、小野氏ははじめ古荘氏、ついで神西氏を称し、以後十二代続きました。
神西三郎左衛門元通は尼子氏の重臣となり、尼子十旗の一つに数えられました。
しかし、永禄年間(1558年〜1570年)に毛利氏が出雲に侵攻して尼子氏が滅亡すると、元通は毛利氏に従いました。
毛利に忠勤を励んだ元通は伯耆国末石城主となっていましたが、1569年(永禄12年)尼子勝久を担いだ尼子再興軍が決起すると、元通もこれに加わり、最後まで従って播磨国上月城で勝久とともに自刃しました。

主郭からいちばん近いなめさ神社側の登城口から登りました。
主郭は山頂にあり石碑と案内板が設置されています。
北西の麓にある十楽寺が神西氏の菩提寺で、神西家十二代の合祀塔があるようですが、時間の都合で行っていません。
攻城時間は25分くらいでした。次の攻城先=高瀬城(尼子十旗⑥)に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征6日目:鶴ヶ城 (2026/05/16 訪問)

鳶ヶ巣城から車で45分くらいで、登城口付近の駐車場(35.266135、132.579725)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、鶴ケ城の始まりは1102年(康和4年)源義家の嫡子対馬守義親が隠岐へながされる途中、清嶽山にさくを作り鶴ケ丸と名付けて弟義忠とともに守った。
また、吉野朝の頃(1336年~1392年)地頭古荘二郎左衛門が清嶽山へ築城したとも伝えられています。
室町時代の大永年間(1521年~1528年)には、小野(古荘)玄蕃が清嶽山に城を築き、鶴ケ城と名付け尼子36城の一城として15,000石を領しました。
当時は、尼子氏が山陰山陽11か国を勢力下に治めていた頃になります。
1572年(元亀3年)小野氏の家老広瀬右近之丞が鶴ケ城を守っていたが、銅山師三島清右衛門の進言を入れた毛利輝元に攻められて落城しました。
その後、城は田儀城と改められ(知行3,000石)毛利の家臣大鳥馬場が守ったが関ケ原の没後、掘氏に属し、やがて徳川幕府の武家諸法度により廃城となりました。

現在は公園として整備されています。主郭は山頂にあります。
攻城時間は30分くらいでした。次の攻城先=神西城(尼子十旗⑦)に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征6日目:鳶ヶ巣城 (2026/05/16 訪問)

平田城から車で10分ちょっとで、鳶ヶ巣城駐車場(35.403310、132.773531)に着き、その後、登り口(35.403666、132.773162)に向かいました。

宍道氏によって砦が築かれたのが始まりのようですが、 本格的な築城は1561年(永録4年)毛利元就が尼子攻略のために鳶ケ巣山に築城よるものだそうです。
1571年(元亀2年)の高瀬城攻略の際、吉川元春の拠点となりました。毛利氏は出雲平定後、当城を大野氏に任せたそうですが、城主は宍道高慶、政慶であったと記されているのもあります。
城跡にある「大野塚」とよばれる宝篋印塔(ほうきょういんとう)は、1582年(天正10年)当城内で宍道政慶に謀殺された大野高成の墓と伝えらています。
関ヶ原合戦後、毛利氏が防長二ヶ国に減封となると宍道氏はそれに従って移り廃城となりました。

城は鳶ヶ巣山の山頂に築かれており、現在は登山道も整備されて公園となっています。
主郭は山頂にあり、 この山頂から四方の尾根に曲輪が配されており、各曲輪で土塁が確認できます。
攻城時間は70分くらいでした。次の攻城先=鶴ヶ城に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征6日目:平田城 (2026/05/16 訪問)

檜ヶ山城から車で15分くらいで、愛宕山公園駐車場(35.440027、132.817483)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、応永から大永年間(1394年~1528年)まで、出雲国守護京極氏の家臣多賀氏が居城としていました。
尼子氏の時代に多賀氏は飯石郡掛合へ移され、かわって飯野氏が城主となったそうです。
1570年(元亀元年)尼子再興軍を撃退するため出雲国へ入った毛利元就は、吉川元春を鳶ヶ巣城に平田城にはその家臣岡元長・牛尾大蔵左衛門を置きました。
尼子方の高瀬城主米原綱寛は、必要に平田城に攻め寄せたがこれを撃退したそうです。

現在は愛宕山公園となって整備されています。展望台となっているところが主郭で、ここに案内板があります。
西の尾根にも付属する郭(削平地)があります。
攻城時間は25分くらいでした。次の攻城先=鳶ヶ巣城に向かいました。

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あっくん

古宮城跡 (2026/06/19 訪問)

とてもきれいにしてありました。

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あっくん

長篠城跡 (2026/06/19 訪問)

とても静かな場所でした。

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ぴーかる

弓庄城 (2026/05/10 訪問)

【弓庄城】
<駐車場他>弓の里歴史文化館駐車場あり。
<交通手段>車

<感想>1泊2日富山ちょこ城巡り1000㎞旅17城目。現地説明板を要約すると弓庄城は戦国時代にこの一帯を領していた土居氏の居城で、土肥氏は南北朝時代に越中国に入部して室町時代から戦国期にかけてこの地を領するようになりました。天正年間に佐々成政の攻撃を受けて落城しました。
 西に白岩川、東に山間部の始まり部分の山麓部にあって東西に長い城だったようです。ここから北の一帯、柿沢方面の広い領地を有していたようです。城びと情報では様々な遺構がありますが、周囲は田んぼで表面観察できる遺構は気づきませんでした。

<満足度>◆◇◇

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沼田城

令和8年度沼田市史跡沼田城跡調査成果報告会

平成30年度から令和5年度まで実施した、沼田市史跡沼田城跡調査・保存整備事業の成果を紹介する調査成果報告会を開催します。今年度は文献史料調査の成果について、調査担当者の報告と2名の先生の講演を行います。
詳細はこちらhttps://www.city.numata.gunma.jp/kyouiku/bunkazai/1012083/1017890.html

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