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todo94

ゴールデンウイーク肥前の攻城⑥ 唐津城内(三の丸)に宿泊 (2026/05/04 訪問)

佐賀県内での一泊目は、唐津城の三の丸内にあるホテルでした。部屋からライトアップされた唐津城の模擬天守を望むこともできました。入場料を支払っての攻城はしませんでしたが、今年訪れた城としてカウントすることにしました。翌朝は、朝食の為にすき家に向かう途次、模擬天守を遠望し、二の門跡付近なども散策してみました。

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赤い城

元は島 (2026/05/06 訪問)

海部城から北上して加島城へ向かいます。
城の手前が屋敷跡で民家がありますが広くなったスペースに車を置きました。
登城口には「加島の堆積構造群露頭」との説明板があります。
県の天然記念物だそうです。

ここから舗装路を登っていくと削平地があり、城の説明板が立っています。
背後の藪に入ってみましたが遺構らしいものは見られませんでした。

元は離島だったそうですが現在は陸続き、主郭部からは海を見渡せますがこの日は曇天、眺望も今ひとつでした😭

【見どころ】
 ・(晴れてたら)眺望

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カズサン

復元本丸西虎口門の詳細 (2026/05/30 訪問)

 先の復元本丸西虎口門の姿を木橋と供に紹介しましたが、細部の写真も撮りましたので詳細編として投稿致します。
 本丸西虎口門は高麗門形式で屋根は発掘調査の結果、瓦の発見が無く板葺としたようです、鏡柱は欅材、控柱と控屋根を両翼に構え控屋根も板葺、上部に冠木を置き中央に屋根押さえ十字に構えてる、扉には金具隠、扉軸押さえの八双金具を道いて各城門の様式に準じていた。
 門周りには排水を考慮して石垣、排水溝などが復元されていた。
 続塀は板塀で矢狭間と鉄砲狭間が狙っている、虎口門表の右に当たる南には折れの横矢掛りの板塀と成っていた。
 門の中心部は欅材が使用されており、屋根の板葺、板塀などは杉材が使用されていました。
 復元本丸西虎口門を本丸側の裏手から表側、木橋を渡って蔵屋敷側からと十分堪能しました。

 終わって郭馬出西虎口二階櫓門も撮影しましたので後程投稿致します。
  

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ぴーかる

放生津城 (2026/05/09 訪問)

【放生津城】
<駐車場他>駐車場はなし。路肩に停車してダッシュで撮影しました。
<交通手段>車

<感想>1泊2日富山ちょこ城巡り1000㎞旅8城目。お城の詳細は現地説明版の添付写真をご覧ください。現地説明板の記述にあるように、足利10代将軍の義材(後の義稙)が明応の政変(細川政元・日野富子らによって将軍職を引きずり降ろされる事件)から逃れ越中国放生津に下向した場所です。ここで義材は陣容を整え、なかなかな政権を樹立したようです。昨年自分が勉強した内容がここへ来て繋がりました。
 現地は小学校になっていて、遺構は消滅しています。ということは土塁らしき盛山がありますが後世のものかと。先達の投稿にあるように「城址」だけ刻んだ石碑も、ちょっとウケましたが、しっかり撮影しときました。

<満足度>◆◇◇

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トク

3【秀長の但馬平定をたどる③】豊岡城(宮部継潤が北但馬を統治した城) (2026/05/14 訪問)

竹田城からの転戦です。竹田から播但線をさらに北上して和田山で乗り換え、山陰線の普通列車に乗ること計50分、豊岡駅に到着です。豊岡城は駅から徒歩20分の、神武山(標高49m)にありました。江戸時代には、山の麓(北側)に豊岡陣屋があったようです。

1580年、有子山城の戦いに勝利した秀長は、北但馬(豊岡・城崎)の統治を宮部継潤に任せます。継潤はここ神武山に三重の天守を建て居城としたようです(写真①の位置)。

遊歩道から登りました。本丸からは木立が生い茂り眺望がなく、豊岡市街を眺めたかったのですが望めずガックリでした。でもふと南側にわずかに木立の隙間があったので覗いて見ると、何と!・・・出石と有子山がきれいに見えました! 当時は木立など無いので、もっとよく見えたと思います。豊岡城に入った継潤はどんな思いで、ここから秀長の居る、あの有子山城を眺めていたのでしょうか? 「北但馬の統治は、この宮部継潤にお任せあれ~!」、そんな事をつぶやいていたのかもしれませんね(笑)。

夜は駅前の豊岡スカイホテルへ宿泊しました。ウェルカムサービスで冷たい缶ビールをもらい、ちょっぴりうれしかったです😊。明朝はここから、出石・有子山城へ向かいます。
 

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イオ

南飛騨統治の拠点 (2025/11/15 訪問)

飛騨国の領主となった金森長近が高山城の支城として築き、姉婿の佐藤秀方を城主に任じて南飛騨統治の拠点としました。一国一城令により廃城となった後も金森氏の「旅館」として維持されましたが、江戸中期に金森氏が出羽国上山に移封されて天領になると、高山城とともに破却されました。

城跡南側の二の丸跡に建つ集会所の駐車場から登城開始。諏訪神社の参道を進むと本丸南側の大手口に至る土橋の両側に横堀が続いています。本丸は南辺と東辺を横堀で囲み、現在はどちらも空堀ですが往時は南辺の土橋東側と東辺は水堀だったとのこと。本丸の周囲には丸みを帯びた河原石を用いた石垣をめぐらせ、四隅には矢倉を配し、南東隅の東矢倉が天守の役割を果たしたようです。本丸は諏訪神社の境内になっていて、矢倉台には那智社や稲荷社など境内社が祀られています。本丸西側の搦手口は枡形状になっていて、発掘調査により石垣や石塁が確認されています。搦手口を出て下りて行った先の登城口には、苔むして文字が読みづらくなった城址碑が立てられていました。搦手登城口から北に進み、池のある角を東に折れると後世の石積みの上に本丸の石垣が聳えています。飛騨川の段丘崖でしょうか、なかなかの高さです。そして、北東隅で南に折れて本丸東辺の石垣と水堀跡を眺めつつ萩原諏訪城をひとめぐり。コンパクトな平城ながら堀や石垣、櫓台もよく遺っていて大いに見応えがありました。

…ということで、金龍紀行のメインイベントともいうべき飛騨遠征のスタートです。名前はそれなりに知られていてもどんな活躍をしたのかはあまり知られていない金森長近の飛騨での足跡を1泊2日でたどってみるとしましょう。
 

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赤い城

南阿波の海城 (2026/05/06 訪問)

ゴールデンウィークの最終日、南阿波をドライブしてきました。
まずは海部城、阿波九城のひとつです。
北側の駐車場に車を置き、登城口から登って行きます。
途中の大展望からは海部川の河口や太平洋を望みます。
さらに登ると主郭部に到着、土塁がついています。
本丸には野面積みの石垣との案内板がありますがこれは戦時中のもののようです。
ただ、当時も石垣はあったようで矢穴のある石も転がっています。

その先を降りていくと算木積の石垣がありますがこれも近世のもの、立派ではあります。
南に進むと見どころの堀切、さらには竪堀も2条見られました。
南東の住宅地の中には陣屋跡の石碑も立っていました。
これで阿波九城は一通り廻ることができました。

チェブさん、メッセージありがとうございました。
また、いつも楽しいレポートをしていただきありがとうございます😊
50代半ばでの移住でしたがお陰様で程よい刺激を受けながらまったりと過ごしています。

【見どころ】
 ・南尾根の堀切
 ・竪堀
 ・大展望からの眺望

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todo94

ゴールデンウイーク肥前の攻城⑤の6 城カードゲットの後に【生駒親正、北条氏盛、島津義弘陣跡】 (2026/05/04 訪問)

この日の最後は、東松浦半島の先端、波戸岬近くの陣跡を攻めました。陣跡めぐりマップにA~Mで示されている見学可能な陣跡が波戸岬付近には4つ、固まっているのです。生駒親正陣は公園として整備されていました。北条氏盛陣はちょっとしょぼいですが説明板はありました。増田長盛陣は国民宿舎の隣でチェーンが張られていて入ることができませんでした。島津義弘陣は、駐車場からの登城ルートが判然としていませんでしたが、石垣も残っており、半島先端部にある4つの陣跡では最も見ごたえがあるのではないかと思います。既に17時を過ぎてしまっていましたので、ここから予約を入れてある唐津のホテルへと向かうことにしました。今回、回ることができなかった陣跡もいつか散策してみたいと思います。

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天守無しがアツい

山梨縣護国神社 (2026/05/31 訪問)

割と近くにある護国神社⛩️
甲府駅からレンタサイクルでアプローチ🚵‍♂️
駅から坂になってるので多少のキツさは感じるも電動自転車ならノープロブレム

境内には戦争で命を落とされた方々を祀る慰霊碑および銅像の数々

主に太平洋戦争で亡くなられた方々へのものとなるが…自衛隊で殉職された方の慰霊碑も1つ見つけた🪦

御朱印は300円

今の我々日本人がこうして平和に過ごせるのは…先人が命を賭けて国を守ろうとしたから✈️🇯🇵その事を忘れないでください…

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天守無しがアツい

多賀城跡ガイダンス施設 (2026/05/23 訪問)

多賀城の100名城スタンプと御城印を求めに天国多賀城駅から歩く🚶‍♂️

途中…多賀城跡と彫られた石柱と遭遇
国府多賀城の駅舎を通って…城跡内へ

少し奥の方にある管理事務所にてスタンプを押す
御城印は多賀城跡ガイダンス施設…つまり駅近くにある事を知る…しかもそこでスタンプも押せたと…なら最初からそっち向かえばよかったのか…ちょっと時間のロスしたわー😂

ガイダンス施設にて御城印と100名城カード…あと親への土産として古代米コーヒーを購入☕️

無料Wi-Fiが使えたので…歩数計アプリのゲージ消費しながら多賀城の復元映像を眺める

時は平安初期…泣くよウグイス平安京(794年)の少し後…時の天皇(おそらく桓武天皇🤴)は坂上田村麻呂を征夷大将軍に命じ…大和朝廷にとって異民族だった蝦夷討伐をさせる⚔️

ここ多賀城が東北における一大拠点…当時は(現在の)岩手県あたりまでしか朝廷の領域に無かったので🇯🇵蝦夷との抗争における最前線とも言えた

おそらく兵力に勝る朝廷軍はやがて勝利…蝦夷側のリーダー阿弖流爲(あてるい)は(坂上田村麻呂の助命嘆願もむなしく)処刑され…朝廷の勢力拡大⤴️

これが時代を下ると…平泉(岩手県南部)に奥州藤原氏が栄え…(坂上田村麻呂の頃とは別の意味になってしまってはいるが)征夷大将軍源頼朝によって藤原氏が滅ぼされ…現在の青森県あたりまでが日本に組み込まれる…そして江戸時代に入ると松前藩として(函館を中心とした)北海道の一部までが日本領となるのである🗾

海外の話になるけど🌏映画「ブレイブハート」に描かれてるように…イングランド🏴󠁧󠁢󠁥󠁮󠁧󠁿によるスコットランド🏴󠁧󠁢󠁳󠁣󠁴󠁿侵攻がおこなわれ…劣勢ながらもそれに抵抗するスコットランド軍という歴史が中世ヨーロッパに存在していた(13世紀あたり)

それよりも前の時代になるけど…大和朝廷(日本)がイングランド🏴󠁧󠁢󠁥󠁮󠁧󠁿蝦夷がスコットランド🏴󠁧󠁢󠁳󠁣󠁴󠁿として当てはめると…同じような歴史を辿ってるんだな…と思わせられる🤔

もっとも…スコットランドの場合…イングランドの圧力こそ受けてはいたけど…1707年に合併してグレートブリテン🇬🇧になるまでは独立を保っていた…一国家として存在していた…対照的に蝦夷は(歴史の授業にちょろっと出てくるだけで)その後は消息不明…おそらく日本人と自然同化した?

あと…映像に出てくる防御性能の高そうな甲冑(坂上田村麻呂といった大将クラスが着けていたらしい)…展示品の民族衣装を目にする中で…今から一千年も前にもうこれだけの衣服や防具を作れる技術があったのがすごい😳

言い換えれば…服飾や甲冑の技術って…当時からそれほど変わってないと言う事でもあるのかな?鉄道や航空技術…電化製品やITは今の方が比べるべくもなく進化していても…

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朝田 辰兵衛

リベンジしました… (2026/05/06 訪問)

佐世保泊のもうひとつの目的は,前回「モスキートショック」でヤバかった「佐世保城」の再訪でした。ホテルの朝食後,まだ気温が上がり切らないうちに行けば,「モスキートショック」を回避できるだろう…と。
前回とは環境も違い,すんなり行けました。それでも,気がつけば2ヶ所刺されてました。
todo94さんの投稿にもあるように,掘割からトラロープを登ります。高所恐怖症の方は,下りるほうがヤバいかも…。
本丸には石積が形成されており,枡形も確認できました。また,南側は崩れておりますが,石塁跡と推察できるラインも確認できました。
本丸の西側には堀切があり,その先は曲輪が形成されてました。周囲は石積で囲まれており,削平部は手入れがなされていませんでしたが,その先は崖となっており,おそらく物見曲輪の役割を果たしていたであろうと思われます。

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T-Shionoya

采女城 北勢屈指の戦国城郭跡へ (2026/01/19 訪問)

今年1月に訪れた2つ目の城は、城びとでも評判の三重県四日市市にある采女城。

内部川と足見川の北岸、泊丘陵南端部の比高30~50mの3つの尾根を城郭とした城。

鎌倉時代にこのエリアの地頭に任命された後藤基秀が、1260年に築城したとされる後藤氏代々の居城で、織田信長の伊勢侵攻により1568年に落城。
現在は内部川沿いに入城口があり、市民緑地として維持整備されている。

パンフレットによると内部地区市民センターの駐車場を利用することが正解でしょうか。
実際に訪れると、各曲輪を分断する大型の堀が印象的で、特に一の郭北側の堀は見どころの1つ。
また写真ではわかり辛いが、一の郭南のクランク状枡形虎口も個人的には魅力的なポイント。

案内図にある三の郭と四の郭の間からから南へ向かうルートはロープで塞がれており、六の郭と七の郭は断念。
それでも滞在時間は2時間以上。
もう少し草が刈られていると尚嬉しい、私の城郭巡りの225城目でした。

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カズサン

復元本丸西虎口門公開なる (2026/05/30 訪問)

 待ちに待った本丸西虎口門が本年4月4日に一般公開されました、昨年11月10日に工事中の西虎口門の進捗状況を確認し令和8年3月末完成を確認し完成したら即探訪と思っていたのですが、年度末年度始めの行事も重なり連休明けも過ぎての皐月末の昨日、前日夜に高速を走りSA仮眠して早朝8時に登城。
 郭馬出西虎口二階櫓門が平成28年11月23日完成公開されて約10年、蔵屋敷間の木橋が令和4年3月29日完成し約4年、郭馬出西虎口二階櫓門が完成して2,3年後には完成するものと思っておりましたが約10年待ってやっと完成待っておりました。
 木の香り真新しい本丸西虎口門高麗門形式、両サイドに続き板塀を構えている。木橋は完成してからやっと渡初め、木橋の中間にゲートが有り一気通貫に渡る事が出来ずやっと本日渡初め、本丸側蔵屋敷側より木橋越えに復元本丸西虎口門を眺め見学する事が出来ました。

 早朝8時には私の車1台でしたが帰りには8台の車が駐車場を賑やかしていた、その中ご夫婦で登城されて居た方にお声がえして暫し城談義、岡山からの方で車で百名城廻りとの事今月12日岡山出発し岐阜を始めにスタートしたとの事、既に19日間、城と観光で近くでは八王子城登城との事、城探訪では殆ど一人登城で他に人無しの状態ですので、話が出来る方がいらっしゃればありがたい事です。岡山のご夫妻の方ありがとうございました、御無事に百名城、観光廻りご達成ください。

 続きには復元本丸西虎口門細部の投稿をさせて頂きます。
   

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ヒヨッピー

武蔵守護代大石氏の本拠 (2026/05/30 訪問)

いつも訪れる滝山観光駐車場より高月城に向かいました。丘をひとつ越えて歩いていると、高月と云う停留所の手前を左に曲がり、しばらく坂を登って行くと看板が有り、左手の方から山に入りました。道以外は私有地なので入らないようにと看板が有り、とぼとぼ登って行くと堀切が見られ、本丸と思われる平削地に出て来ました。

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チェブ

城びと未登録のお城攻め「舞木城」。 (2026/02/21 訪問)

「赤岩城」と同じ群馬県 邑楽郡 千代田町にある「舞木城」は児童公園に説明板と『藤原秀郷誕生之地』の石碑がありました。
説明板によると、藤原 秀郷さんが築城しました。
宅地化させる前は、小学校だったそうです。なので、遺構はありません。
説明板には赤井氏が「大袋城」から「舞木城」に年始の挨拶に行く途中に子狐を助け、後に狐の導きにより「館林城」を築城したそうです。
お話の3城の線、日本昔ばなしみたいです。

私の住む東京の端っこには、都の指定天然記念物の椎の木があります。「舞木城」の築城者、藤原 秀郷さんが植えたそうです。
藤原 秀郷さんを調べると『大百足退治の伝説』が滋賀県にあるようです。

赤井氏と藤原 秀郷さんの歩いた道を、たどってみたいです。
いつも、討死や自刃を文中に書き込みますが、子狐や百足。
何か平和な「舞木城」攻めでした。

*赤い城さん、おめでとうございます。
お城攻めはもちろん、転職、お引越しと 同世代として敬服しました。
これからも、赤い城さんの活躍を楽しみにしてますよ。

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カズサン

笹ゆりが咲いていた本曲輪 (2026/05/26 訪問)

 二の曲輪中馬出周辺を堪能した後、二の曲輪北エリア経由本曲輪へ、富士山を北馬出で確認できなかったので本曲輪東側の眺望が確保された個所で富士山を遠望しようと意気込みましたが、それ以前に可憐な笹ゆりが咲いて居るではありませんか、萱など草むらにひっそり可憐に咲いているピンクの笹ゆり、咲いてる処を見つけた喜び、今日の収穫です。
 富士山を金谷、大井川、島田越しに遠望するが霞んでおり微かに確認できるだけ、望遠で撮影するが投稿写真では見えないでよう?、本曲輪東崖下の内堀と土塁草で覆われてるが笹ゆり?内堀。土塁は確認出来る、虎口と土橋、虎口高まる土塁上の東スロープ通路、西側の幅広い土塁の写真を合わせて投稿します。
 遺構良し、自然環境良しの諏訪原城です、5月末6月初めは笹ゆりが楽しめます。
 

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100名城ビギナー

秋田県、次に訪れた城は! (2026/05/24 訪問)

今や私のライフワークとなった「(続)日本100名城」巡りですが、秋田県城巡り2日目に訪れたのは「史跡 秋田城」でした。
奈良〜平安時代の「城柵」と呼ばれる古代官庁跡で、出羽国の政治・軍事・外交の拠点だったそうで、発掘調査により外郭東門や築地塀、政庁跡などが一部復元されました。
ここもクマ出没エリアだよとホテルのスタッフに聞いたので、昨日の脇本城に続き綿Sのお守り「超強力 熊撃退スプレー」を持参しました。

今回もアップした写真に沿って簡単な説明をしていきたいと思います。
「続きを読む」と「すべての写真を見る」の両方を開いてもらえば、写真を見ながら説明を読めるので便利です。
PCだったら画面分割して説明と写真を並べて見較べるとさらに見やすいですよ!

① 最初は恒例の御城印から始まります。秋田城巡りの予定を立てた2月下旬に秋田市役所観光課に「御城印はどこで買えるのか?」と電話したところ、「秋田城の御城印はない」と言われて、御城印集めも旅の目的なので秋田城は飛ばそうか?と思ったのですが続100名城のスタンプだけでもと思い直し予定に組み込みました。出発の半月前ぐらいにネットを調べていたら「秋田城の御城印が発売になりました!」という記事を目にし思わずガッツポーズをしちゃいました。御城印は2種類あり左が通常版(\300)、右が特別版(\500)ということで、もちろん両方買いました。黒い特別版は秋田城の文字の奥から家紋(誰のだろう?)が浮き出す感じで、めっちゃカッコいいです。
② 秋田城の顔とも言うべき「外郭東門」です。平成元年度の発掘調査で発見された奈良時代の外郭東門を復元したものだそうです。
③ 外郭東門の中から「東大路」を見ると、こんな風に見えます。とっても広い道だったんですね。
④ 画像は10枚までと投稿ルールで決められているのですが、どうしても、どちらかに決めることができず、結合して一枚にしちゃいました(反則?) 上の写真が、建物が立ち並んでいた鵜ノ木地区の遺構です。下は古代沼を取り囲むように散策路が設けられています。何枚か撮りましたが、ここから見る景色が一番きれいです。
⑤ 秋田城で一番有名な場所と言っても過言じゃないと思います。秋田城跡歴史資料館内や城内あちこちで盛んに「ブラタモリで紹介された」とアピールされている奈良時代つくられた建物付きの水洗トイレ(正式名称:古代水洗厠舎)がこちらです。私が思っていたより本格的な水洗設備で、便槽の底から木製の樋が延び、傾斜を利用して沈殿槽に汚物が落ち、固形物を沈めて上澄みだけを流すというものでした。この写真を見るとその仕組みがよく解ります。
⑥ 別角度(入口方面)から撮った建物と、皆さん興味があるのではないか?と思いトイレ内部の様子も撮ってきました。前日、ホテルで市のHPに6日前にクマが出没したので立ち入り・見学はできない旨が書かれていたガッカリしていたのですが行ってみると特に規制する様子もありませんでした。クマへの恐怖よりを好奇心が上回り怖さも感じずワクワクでした!
⑦ 当時、行政が行われていた区域に入るための「政庁東門(別名:西門)」を斜めから正殿跡遺構の一部が写り込むように撮った一枚です。
⑧ 政庁東門にギリギリまで近づいて、門の向こうに続く「西大路」を望める構図で撮りました。こうして見ると、城と言うよりは出羽国を治めるための行政と儀式の中心施設だったんでしょうね。今でいえば、地方の官庁や庁舎みいたいな感じ?
⑨ 帰りに秋田城跡歴史資料館を訪れ①の御城印を買いましたが、一緒に「城カード」なるものを薦められ購入しました(上)が、なんと図柄が外郭東門ではなく古代水洗トイレだったのでビックリしました。また歴史資料館十周年記念として城内の史跡写真を刷り込んだ3種類(外郭東門、古代水洗厠舎、古代沼からの外郭東門)の御城印(風?)があったのでこれも買いました(下)。半月前に聞いた時は御城印の販売は行っていなかったのに、いざ販売となると5種類の御城印と城カードを大々的に販売するなんて、商売上手だなぁ(-_☆)キラーン
⑩ 最後は恒例の続日本100名城スタンプです。スタンプの図柄が古代の水洗トイレなのに驚きました。秋田城を代表するのがトイレだなんて。。。同じテーブルに記念スタンプもあったのでついでに押しましたが、こちらは外郭東門でした。やっぱり秋田城は水洗トイレより東門だと私は思いますが。。。

今回もクマに遭遇することなく秋田城をマイペースで楽しく見て回ることが出来ました。
この後、今回の秋田県城巡り最後の城に向かいました。

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todo94

ゴールデンウイーク肥前の攻城⑤の5 城カードゲットの後に【前田利家陣跡】 (2026/05/04 訪問)

かつて協力金を支払ったときにいただいた陣跡マップを片手に陣跡めぐりを続けます。前田利家陣は、道の駅 桃山天下市に隣接しているので訪れやすい陣跡かと思います。ただ、山中に分け入って行ってよいものかどうかわからなかったので、麓の居館部の散策のみにとどめました。16時を回っていてタイムリミットも迫っていましたので。ここから波戸岬に向かう途中、肥前名護屋城山里口には立ち寄っていきました。

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ヒロケン

金沢城散策2 惣構跡 (2026/05/03 訪問)

金沢城惣構跡は、金沢城下を堀と土塁で二重に囲んだ防衛施設です。1599年に内惣構、1610年に外惣構が構築されています。内惣構は徳川氏との緊張関係が高まったことを受け前田氏の客将高山右近の指揮で造られ、外惣構は前田家家臣の篠原一孝の指揮で構築されたとされています。
内惣構は延長約2.9km、外惣構は約4.2kmあり金沢城を挟んで東西に分かれており、河岸段丘崖を利用して造られています。土塁は兼六園の山崎山や、尾山神社庭園の築山などに一部が残っていますが、ほぼ消滅しているそうですが、堀の大部分は幅を縮小しながらも現在においても水が流れており、歴史的用水として利用されているとの事です。

今回、主計町緑水苑に残る西内惣構跡も散策予定でしたが、お孫ちゃんが予定より早く目覚め「じぃじを呼んでる」との事で連絡があったため諦めて帰宅しました。年2~3回の金沢訪問なので、また来た時に行こうと思っています。

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ぴーかる

古国府城 (2026/05/09 訪問)

【古国府城】
<駐車場他>勝興寺駐車場を利用しました。
<交通手段>車

<感想>1泊2日富山ちょこ城巡り1000㎞旅7城目。古国府城は天正年間かそれ以前に築城されました。さらに築城前は越中国の国府がここにあったそうです。佐々成政が越中国を支配するところとなり、秀吉に反乱した際に一向一揆を味方につけるのに、古国府城を勝興寺に寄進したそうです。1584年頃廃城となりました。
 拝観料500円で勝興寺に拝観できます。本堂の正面左脇に国府跡の石碑があります。土塁跡は見落としました。勝興寺はこの日3城目に行った安養寺城を寺基としていた関連もあるので越中の一向一揆の拠点変遷も勉強になりました。勝興寺も国宝2棟、重文10棟ありかなり見応えがあります。満足度は勝興寺は別とします。

<満足度>◆◇◇

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