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朝田 辰兵衛

京都はんなりポチめぐり② (2026/03/20 訪問)

物集女城は,阪急京都線の洛西口駅から,約900mの距離です。物集女城公園では先客がおりまして撮影できませんでした。また,物集女公民館は日祝閉館日。そもそも,ここは私有地につき立入禁止なので,撮れ高が不安になりました…。
しかしながら,物集女公民館近くに,「物集女町中条」という標柱を発見。そこには『戦国時代までこの地に物集女城があった。城を中心に,その周りに集落が形成され「城の中央大通り」という意味で地名になった』と。色あせており,写真では読みづらいのでここに明記します。6枚目の写真になります。

にのまるさん,昨年は5回も来県されたんですか…。私の上京回数が6回なので,とても驚きです。酒の陣,食の陣かな…?
イオさん,0泊3日は無茶すぎます…。そうそう,新潟から高田駅前までは,予約不要の県内高速バスが有効です。高田駅からは,えちごトキメキ鉄道を利用するのが,春日山城,鮫ヶ尾城にはいいのではないかと…。高田で1泊したほうがゆっくりできると思います。新潟から新発田,村上方面はJRを利用するのがいいと思います。

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ヒロケン

山城の機能満載 (2026/03/15 訪問)

京城は三重県紀宝町の中央を流れる相野谷川に支流の相野川が合流する相野谷川流域の要とも言える場所に築城された平山城です。築城された時代は、室町時代後半に新宮の支配から独立した地域の有力者によって築城されたと考えられています。(室町時代以前は熊野三山の荘園だったとのこと)戦国時代末期に新宮を拠点に紀伊長島付近を領した堀内氏善公で北山一揆が起きた際の対策として築城されたとも考えられていますが、詳細は不明との事です。

京城は、コンパクトながら東、北、西面に堀切、切岸、竪堀を配し、北側には30mくらいの長さで1mから2m程の高さの石積みが認められます。また、西曲輪群の西側にも堀切、竪堀があり、さらに東側斜面には二重の石積みがあります。中央曲輪群の北側には桝形虎口もあり小さいながら防御機能がすべて揃った城といえます。

先人達の投稿を拝見しても、感動、素晴らしい、見どころ一杯と高評価されており自分も「行ってみたい」城にしており、機会を窺っていましたが今回やっと行くことが出来、先人の皆様方の投稿通り素晴らしい遺構で満足しています。

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カズサン

驚愕の景観整備-搦手門周り編 (2026/03/22 訪問)

 令和7年度植生整備業務で景観整備された大手道を過ぎて本丸へ、本丸に入ると西土塁辺りがスッキリしてる、北に位置する搦手門の西側土塁側も大手道同様に樹木植生伐採去られスッキリ、西側土塁の北端櫓台?があたのかもと思させる土塁の幅も広い、土塁上に登り南北左右確認して、搦手門辺りの西側土塁北端部を南、東、北、西と観察、奇麗にスッキリしてよく法面が観察できます。
 50数年来初めての体験です。文化財課よく環境整備してくれました感謝です。

 本丸西側土塁の西側法面の鉢巻石垣、腰巻石垣、南西角土塁法面と植生整備景観整備完了していましたので後程頃合いをみて投稿させて頂きます。

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カズサン

驚愕の景観整備-大手道編 (2026/03/22 訪問)

鳥羽山城も二俣城と合わせて浜松市文化財課による令和7年度植生整備業務が昨秋より1月23日までなされ完了しております。鳥羽山城の景観整備は如何にと期待して登城、南の丸Ⅰ駐車場に入る時には、本丸、東の丸南切岸法面の樹木が程よく伐採されて法面がよく見えスッキリしてる。
 期待は膨らみ大手道へ一直線、大手道入口に入りドッキリ驚愕の植生整備、樹木草植栽が奇麗に刈られ伐採されて、築城当時はこの様だったのかとドキドキの体験、50数年前浜松に来て友達のオートバイに乗せてもらい鳥羽山城登城以来初めての体験です、びっくりです。
 奇麗ににスッキリした大手道、左右の東の丸Ⅰ、Ⅱ内部法面もスッキリして見通し良好、下から上から、左右と観察させて頂きました。
 東の丸Ⅰ東先端の土塁切岸が迫ってきて圧巻です、驚きの初体験。
 

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カズサン

令和7年度植生整備業務完了後観察スッキリしてます (2026/03/21 訪問)

 令和7年度の植生整備業務が1月23日ごろ完了予定と案内板に示されていましたので、スギ花粉が飛散する時期は城探訪を控えて居り1ヶ月も城探訪を休んでいると出掛ける機運、近場で二俣城へ、植生整備、景観整備で奇麗に成った二俣城に期待し登城。
 本丸搦手虎口辺りがスッキリしてる、本丸東側の土塁・石垣南北の樹木、竹林が伐採されてすっきりし奇麗に成っており、土塁・石垣がよく観察できる、大手道から土塁・石垣を見上げて残存石垣が良く分かる、まだ一部竹林は残って居ますがそれでも満足です。
 又二の丸と本丸間の境界石垣辺りと内部の樹木も伐採されて二の丸より本丸、天守台が良く見通せるようになっている、更に二の丸南土塁上も樹木伐採、南西の角も奇麗に伐採整備されていました。
 草木は伸びる前が見頃時でしょうか?

 その後期待をして、南の丸Ⅰ、西の丸Ⅰ、Ⅱを廻りましたがまだまだ樹木草木が茂り伸びたままでしたが、西の丸Ⅲの曲輪稜線が見上げると少しスッキリしたようにも感じました。この辺りは頃合いをみて投稿させて頂きます。
   
 

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Pylori

城の大きさと街並の素晴らしさに感激 (2025/04/28 訪問)

大きな水堀に囲われた彦根城 美しい石垣 城下町の風情
全てが素晴らしい さすが国宝!

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にのまる

名前のインパクトが! (2026/02/15 訪問)

福北ゆたか線筑前垣生駅から徒歩。
城主っぽい猫🐈さんはいらっしゃいませんでした。

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Pylori

石垣とお堀が整備された富山城 (2019/07/19 訪問)

さすが官庁街にある城址公園で整備されていました。

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トク

【大友宗麟】(7)高良山神籠石(高良大社登山道) (2026/01/31 訪問)

大友宗麟、名島城・多々良川の戦いからの続き(7)です。

筑後高良山は何度も大友軍が陣を敷いた場所です。その痕跡を探しに高良山へ登ってきました。でも大友の話は後日お伝えする事として、今回はまたちょっと脱線して、高良山と言えばやはり神籠石が有名なので、その様子から先にお伝えしようと思います。

「高良山神籠石」は、位置から考えた私の推測ですが、668年天智天皇が大宰府政庁に築いた「大野城・水城・基肄城」の防衛ラインと兵站の補給基地である「鞠智城」とのちょうど中間地点にあるので、補給路を守る役割と大宰府の背後の詰城的な役割も担っていたのではないかと思います。

しかし他の神籠石と異なるのは、一段で横一列にずらりと並べて置かれているという点です。大野城や基肄城などでは防御のための石垣的な役割があったと思いますが(山城説)、ここ高良山では、この囲まれた区域が神域である事を示すだけでなく、神聖な登山道が風雨で崩れないように道を守り、また登山者が道に迷わないように、石列に沿って登れば高良大社まで無事に辿り着きますよという、道標的な役割もあったのではないかと私は推測しています(神域説+道標)。

JR久留米大学駅から歩いてもいいですが、私は西鉄久留米駅から「竹の子」行のバスに乗り「御井(みい)町」で下車しました(写真⑩)。こちらの方が1km程近く、一ノ鳥居のすぐ前です。車の方は、一ノ鳥居からさらに高良大社まで直接行ける車道もありますが、あまり楽をして登ると御利益はないかも?(笑)。よって、二ノ鳥居の手前には、いちおう広い登山者用駐車場もある事をお伝えしておきます。

一ノ鳥居から10分程歩くと二ノ鳥居に着きます(写真①)。鳥居をくぐって、ここから400段の石段を登るのが、おそらく江戸時代に出来た正規の参詣ルートです。多くの登山者がそこから登っていました。しかし神籠石が見たい私は、二ノ鳥居の右側から細い道に入り、水門跡をぬけて神籠石に沿って大社まで登って行く自然遊歩道のルートを選択しました(写真②③④)。そして帰りは石段ルートで下山しました。

この1.6kmも神籠石が並ぶ道をずっと歩く遊歩道(登山道)は、とても壮観です。1350年前の大和時代から戦国時代までは、この道が正規の登山ルートだったのではと推測します。この神籠石の列は、山をぐるりと囲むように4kmにも渡って築かれているそうで、全部で1300個もの石が並べられていると書いてありました(いったい誰が数えたのだろう🤔?)。よくまあ大昔に、こんなにたくさんの大きな石を運んで、四角に削ってずらりと並べたものだと思います(写真⑤⑥⑦)。

そして石に沿って登る事60分、高良大社の社殿にたどり着く事ができました(標高約300m付近)。このような立派な社殿を整備したのは、江戸時代の久留米藩三代藩主の有馬頼利だそうです(写真⑧⑨)。

この先は、大友氏の痕跡を探しに、さらに高良山の山頂にある「毘沙門岳城」まで登ってみようと思います。
 

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イオ

新潟弾丸遠征 (2025/09/27 訪問)

今回の新潟遠征はお城目当てではなく、燕市内での駅メモのイベントが目的でした。普段は城めぐりのついでに近場での駅メモのイベントをこなす程度ですが、今回ばかりは…。

燕市へは夜行バス往復0泊3日の弾丸で。金曜の仕事を終えて大阪からバスに乗れば、土曜の朝8時前には東三条駅に着きます。午前中にイベントを完走できれば、その後は帰りのバス(21時15分発)まで新発田城に行こうかな、と思っていましたが、JRの運行本数の少なさと接続の悪さのため、いろいろと検討した結果、燕三条地場産業振興センターでレンタサイクルを借りてイベントスポットをめぐることにしました。レンタルは朝9時半からなので、東三条駅から徒歩で三条城と本成寺をめぐってから燕三条地場産業振興センターへ向かったところ、身分証(運転免許証)を忘れてレンタサイクルを借りられないという大失態。ガッデム 俺! 土日限定でイベントスポットをめぐる燕市のコミュニティバスが臨時運行されていたので、何とかイベントは完走できましたが、レンタサイクルでめぐるよりも時間がかかってしまったため新発田城はあきらめて、せめてバスセンターのカレーを食べようと粟生津から新潟市に向かい、ついでに蒲原津城、新潟城に登城した次第。

お城目当てではなかったにせよ、信濃川沿いの3城を歩いてめぐったことで、これほどの水量で流れる川が繰り返し氾濫すれば、そりゃ遺構どころか城があった場所さえわからなくなるよなぁ、と納得できましたし、それだけにブラタモリの燕三条の回で取り上げられていた大河津分水路が切実に必要だったことも実感できました。また、駅メモのイベントスポットとして訪れた粟生津の私塾・長善館の史料館では「学問する意味は済民(民衆を救済すること)にある」との教えを受けた門下生たちが分水路の建設に大きく貢献していることを知り、思いがけないところでそれまでに得た知識や経験がつながる機会となりました。

それと、燕市が洋食器や金物のまちだというのはブラタモリで承知していましたが、子どもが毎日使っている水筒(サーモス)も燕市で作られたものだったとは。本当に日本を代表するものづくりのまちなんですね。城めぐりとしては全く物足りない遠征でしたが、お城目当てだったら燕市に立ち寄ることはなかったでしょうし、たまにはこういうのも悪くないかもしれません。思いのほか満足して、最後に燕市発祥の燕背脂ラーメンを食べて帰ろうとすると、提供されたステンレスのラーメンどんぶりは二重構造になっていてラーメンが冷めにくい上に持っても熱くなく、こんなところにまでものづくりのまちの本気を感じました。すげえな、燕市。

…ということで、夜行バスでの弾丸遠征もわりとアリだとわかったので、次の機会には今度こそ城めぐりメインで新発田城と村上城、また春日山城・高田城・鮫ヶ尾城を狙ってみたいところです。朝田 辰兵衛さん、またお邪魔しますね。
 

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和具城(志摩市志摩町) 城びと未登録 (2026/03/20 訪問)

 城びとに登録されている越賀城から1kmほど東側。英虞湾の南側の半島の太平洋側にあります。越賀城と同じように、海に突き出す丘を利用しています。城主の青山氏は越賀城の越賀氏とともに志摩において二大勢力であったとのこと。九鬼嘉隆との3年に亘る抵抗の後、九鬼氏に下り、関ヶ原の戦のあと、九鬼氏家臣として、摂津三田に移りました。
 和具漁港側から進入する車道があり、上っていくとすぐに、主郭土塁が凹んだ箇所が目につきました。斜面に取り付いて上ると、側面に石垣痕跡が残る虎口でした。主郭は土塁で囲まれています。以前は畑であったのでしょうが、今は、荒れてはいるものの草刈り、伐採され、維持されています。主郭北側部分も比高5~10mの高まりがあり、こちらも城域であったと考えられています。
 この日は朝は寒かったものの、昼頃には暖かくなり、ツーリング日和になりました。この後、越賀城、五ケ所城と巡り、最後に、どこか近くの展望台をと探し、日本の夕日百選の磯笛岬展望台に寄りました。
 さて、坂本城について。大津市広報に、「大河ドラマの放送に合わせて、7月に歴史博物館で企画展「豊臣秀吉と大津」などを開催するとともに、昨年、光秀が築いた坂本城跡が国史跡に指定されたことを受けて、夏頃には坂本城に関するシンポジウムを開催する予定です」と掲載されました。光秀所縁の西教寺も頑張ってます。

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赤い城

土佐統一 元親果たす (2026/02/23 訪問)

この日のラストは続100名城の岡豊城。
歴史民俗資料館で50個目のスタンプを押し城跡へ。
まずは二ノ段へ。
二ノ段には堀切と井戸があります。
そこから主郭である詰ノ段まではすぐ、礎石がありました。

詰ノ段から三ノ段、四ノ段と進みます。
三ノ段には石積が残り、四ノ段の虎口も素敵😊
さらに下に降りていくと笹藪の中に薄っすらと竪堀とわかる地形も。
何条にも落ちているはずですが笹藪で確認は困難でした。

堀切を経て伝厩跡曲輪へ、ここは展望台になっていました。
この曲輪の先にも畝状竪堀があるはずなのですが笹藪。

長宗我部氏は土佐七雄の中では最も弱く一時滅亡しますが国親により再興。
その子、元親により土佐統一を果たすことになります。

年初に立てた目標、四国内の200名城クリアをやっとひとつ進めることができました。

【見どころ】
 ・二ノ段の堀切
 ・いたるところの竪堀
 ・三ノ段の石積
 ・四ノ段の虎口

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100名城ビギナー

ビギナーが訪れた2つめの城は(2026/3/21) (2026/03/21 訪問)

最初に訪れた城が「国宝」犬山城。
それに続いて2番目に訪れたのが「続日本100名城」九戸城。
私がイメージしている城とは正直かなり乖離していて、起伏の多い荒れた山野という感じでした。
国宝の次がココというのも何かの縁と思って、じっくり歩いて隈なく見て周ることにしました。
それにしても、約一時間の散策中、人っ子一人いませんでした (・o・)
最初はテンション下がりましたが、歩いているうちに、なんか楽しくなってきて「こういうのもありかぁ」などと思いながら、一見何もない場所に、それらしき痕跡を見つけては「昔はこうだったのかなぁ?」と思いを巡らせていると不思議なことに、だんだんワクワクして来て、城(跡)には、こういう楽しみ方もあるんだなぁと思いました。
御城印やスタンプは事前の調べで九戸城から1kmちょっとの場所にある「二戸市埋蔵文化財センター」でと知っていたのですが、電話番号を入れてもNAVIが反応せず、直接電話を掛けてみたところ、住所を入れてみて下さいと言われても町名がなく、何度も電話をして担当の女性にご迷惑を掛けてしまいました(ゴメンナサイ)
結局、総合福祉センターや税務署がある集合庁舎みたいなレンガ色の建物の3階にありました(分かりにくい)
御城印は通常版が300円、別名(浄法寺城)版と二戸と浄法寺町の合併20周年を記念して作った御城印がセットで1000円。
購入金額は合わせて1300円でした(「残りあともう少しです」という言葉に負けて購入(^_^.))
写真でも紹介していますが色鮮やかな目を引く御城印で買って良かったと思いました。
また、100名城スタンプの存在も犬山城の時は知らず、九戸城から集めることにしました。
押してみたところ実に美しいスタンプで少し感動してしまいました(これも写真で紹介)
今回は岩手県で2つの100名城を巡る旅の初日でした。
城巡りって素晴らしいなぁ(*´∀`).。o○ポワ~ン

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小城小次郎

さてどこにあったのか (2025/05/18 訪問)

城山と呼ばれた山があって血洗川という物騒な川が流れ、小磯城に籠った越後五郎四郎を太田道灌が攻めるという歴史もあるのに小磯城が城山公園にあったという確証はないのだそう。遺構と呼ばれる堀切がぽつんと残るがさてさて。

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織田信長生誕の城 (2026/03/26 訪問)

 何となく信長ゆかりの地に行きたくなって行って来ました。久しぶりの登城です。織田信長生誕の城で、永正年中(1504~1521)織田弾正忠信定(信長の祖父)によって築かれたと伝えられています。二重の堀に囲まれた館城でしたが、遺構はありません。石碑が日光川沿いに2カ所にあり織田弾正忠平朝臣信定古城蹟、勝幡城址とそれぞれ刻まれています。勝幡城祉の石碑の近くの説明板は新しくなっていました。また、この地は元々「塩畑(しおばた)」と呼ばれていました。縁起が悪いという理由で織田信定もしくは信秀が「勝ち旗」の意で「勝幡」と改名したといわれています。

 近くにある津島は伊勢と尾張をつなぐ湊として、また津島神社(津島牛頭天王社)の門前町として繁栄し「尾張の金銀はすべて津島を通る」と言われていました。織田氏はこの地を支配するようになり経済力をつけ、後に津島は「信長の台所」ともいわれるようになります。その後、地形も変わり今は湊としての機能はありませんが、説明板などで当時を知ることができます。津島神社は約1450年もの長い歴史を誇り、人々から疫病や厄除けの神様として親しまれてきました。「西の八坂神社、東の津島神社」と並び称され、全国に3000余あるといわれる天王社の総本社です。戦国時代には織田氏は当社を氏神と仰いで経済的援助を行い、豊臣氏も織田氏に続いて社領を寄進したりしていました。現在の重要文化財指定の楼門は天正19年(1591年)豊臣秀吉公が寄進したもので、また南門は慶長3年(1598年)秀吉の病気平癒を祈願して秀頼より寄進されたものです。現在の御本殿は慶長10年(1605年)清洲城主であった松平忠吉公(家康の四男)の病弱を憂えた妻女政子の方が寄進しました。
 津島という商業都市が近くあったことが、織田信長の経済感覚を育てたのだと思います。

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にのまる

ようやく指月山。 (2025/12/28 訪問)

100名城制覇したと言いながら思い残しのあるところがいくつかあり、萩城の詰丸、指月山もそのひとつでした。

新山口から高速バスで萩バスセンターへ。そこから徒歩で女台場を見学しつつ菊ケ浜へ向かいました。砂浜から指月山がまるっと見渡せます。とてもいい眺めですが、今から登るのだと思うとちょっとドキドキ。

泳いでは渡れないので引き返し、二の丸のお気に入りスポットを少し見て指月山登山口へ。杖が置かれていたので躊躇なくお借りしました。
15分程で山頂に到着。登山装備ではなく普段着にモコモコムートンブーツでしたが大丈夫でした。

そしてついに憧れのキリトリセン🪨と対面!見て、触って存分に楽しみました。お天気も良く空気も澄んでいて、眺めもとてもよかったです。

下山途中、おひとり登山の女性数人とすれ違いました。勝手に親しみを覚え、私もまだまだがんばるぞ٩( 'ω' )وっという気持ちになりました。

帰りは接続のいい列車があったので玉江から山陰本線に乗りました。

ここが昨年の城おさめでした。新規・再登城含めて80城と少なめでしたが、北海道や沖縄、九州一周も果たせ、いい思い出がたくさんできました。
✳︎✳︎お城抜きも含めて新潟県には5回行きました。

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朝田 辰兵衛

京都はんなりポチめぐり① (2026/03/20 訪問)

上洛目的は,山崎城&周山城だったので,ここからはバーター城を…。
阪急京都線の東向日駅から約700mの寺戸城。お城だったということから勝手に「大きな公園」をイメージしていましたが,例慶公園は見事に期待を裏切ってくれました…。目印は,セブンイレブンとしたほうがいいかもしれません。2枚目の写真に写り込んでいます。

そうそう,昨年9月末に,にのまるさんとイオさんがご来県されてましたネ。ようこそいらっしゃいませ。
日程はビミョーにすれ違っていたのかな…?
個人的には,万代シティではカレー屋さんのとなりの「寿屋」のおにぎりのほうがスキです。撮影不可の看板が自己主張していますので,ここで披露することは叶いませんが…<泣>。
京都に行く前にも「寿屋」のおにぎりを購入。バスで新潟空港に行き,空港で外を眺めながら食べました。冷めてもおいしいのが特徴です。

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イオ

一番堀は堀の名残? (2025/09/27 訪問)

御館の乱の論功行賞に不満を抱いて反乱を起こした新発田重家が新潟津を奪って築いた城で、上杉景勝の攻撃を一度はしのぐも二度目は計略により落城し、廃城となったようです。

蒲原津城から徒歩で登城。白山公園と白山神社のあたりが城跡とされますが、遺構は消滅しており、新潟城としての石碑や説明板もありません。せいぜい白山公園内のひょうたん池やはす池、白山神社参道の太鼓橋が架かる水路(?)が堀の名残だったらな…と思えるくらいです。ただ、白山神社東側外周には昭和に埋め立てられた江戸期以降の一番堀が復元されていて、これは新潟城の堀の名残かもしれません。

さて、白山公園を後にして向かうは万代シティバスセンター。お目当てはもちろんバスセンターのカレーです。かなり遅めの昼食となりお腹も空いていたので大盛+メンチカツで注文してしまいましたが、提供されたのを見て絶句。そうだ、ここは普通で大盛サイズなんだった…。黄色いカレーは典型的なそば屋のカレーながら意外にスパイシーで評判になるのも頷ける味。さすがに満腹にはなりましたがペロッと完食してしまいました。お土産に買ったレトルトカレーも家族に好評でした。
 

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赤い城

土佐七雄のひとり吉良氏の居城 (2026/02/23 訪問)

春野弘岡上保育所南側の大谷公民館に車を置かせてもらい、少し北に行くと登城口があります。
進むと説明板があり、ここから登るようです、がほぼ崖。
説明板の下には「この奥100m先登りやすい登山口あり」の表示があったので迷わず100m進みます。

登りやすいとはいえそこは山城、そこそこはきついです😊
が、まずは畝状竪堀群が出迎えてくれます。
さらに二郭へ、二郭には大きな穴がありますが遺構なのかは不明です。

三郭と主郭の間には深い堀切があります。
これはかなり深く、降りるにも注意が必要です。
さらに主郭へ、縁には石積も見ることができます。
主郭は広く、南側には土塁が付いています。

主郭の先、急な崖を降りると見頃な四重堀切。
北側を守ります。
もちろん両サイドに竪堀となります。
規模はそう大きく無いですが見どころ充分の山城でした。

【見どころ】 
 ・三郭と主郭の間の堀切
 ・主郭北側の四重堀切
 ・畝状竪堀群

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小城小次郎

潮見櫓がふたつになった? (2025/05/06 訪問)

解体保存されていた櫓の古材を最大限活用し2025年に原位置に再移築された。それはめでたいがこちらが真の潮見櫓とわかったことでこれまで潮見櫓と呼ばれてきた櫓の立場がなくなり(伝)潮見櫓と改称された。あれまあ。

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