倉賀野城から南南東約1.5kmの烏川と鏑川合流洪積台地上に在り、グーグルマップで倉賀野城を探査中に気に成り、また以前の山名城を探査中にも気に成っていた木部城でした。群馬県埼玉県の国道17号線沿いの未踏の城廻り二城目として城びと未登録ですが探訪しました。
住所:群馬県高崎市木部町220-7(心洞寺)、駐車場は心洞寺の参拝者駐車場利用。
参考資料:余湖図コレクションさん城郭放浪記さんグーグルマップに依る。
木部城跡グーグルマップ史跡マーク地は群馬県高崎市木部町堀之内。
心洞寺駐車場から徒歩で南へ約100m、西に曲がって約100m程に「堀之内組氏子中」と刻まれて石碑が在る、ここ辺りが木部城の本丸辺りか?グーグルマップの地割を見て行くと本丸の囲み、外郭の囲み、堀跡の様な囲みが見えて来る、現地は住宅と畑、水田で遺構らしきものは良く分からない。
心洞寺は木部駿河守範虎開基の菩提寺、同説明板によると山門左右の土塁、石垣は木部氏館跡土塁と記されていた。また心洞寺西土塁の西端欅の大木下に木部駿河守範虎廟所が鎮座、墓標も有る。心洞寺は南向きで山門、楼門、本堂が南北に並んでいます。
歴史は墓標にて。
木部駿河守範虎は清和源氏源範頼の後裔にして、箕輪城主長野業政の姫を娶り長野氏の武将として活躍せしが、武田信玄の侵攻で永禄9年箕輪城落城長野氏滅亡。(武田との戦で奥方は榛名湖に身を投じて龍になったという伝説は有名) 長野氏滅亡後武田氏に降伏し、武田方として木部50騎を率いて各地の戦で武勇を示す、後織田信長の長篠の合戦にて敗れ、天正10年3月11日武田勝頼に殉じ家来諸共、天目山にて散る、享年72歳。合掌。
武田信玄が侵攻した時には木部城を離れて木部父子箕輪城籠城戦へ、木部城は信玄の本陣と成り、倉賀野城を永禄8年、箕輪城を永禄9年に落城させている。
次に金窪城へ向かいます。
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