続100名城の八代城へ行ってきました。
JR新八代駅(在来線口)から、八代駅経由の巡回みなバス右回り(産交)に乗り「八代宮前」で下車しました。下りると目の前に石垣がドンと見えます。八代宮は本丸御殿があった場所に明治時代に建てられた護国神社です(写真⑧)。ここからまず本丸石垣の上をぐるりと一周し、それから堀の外周を一周しました。広い堀から見えた大天守の石垣と小天守との横矢掛の折れをともなった石垣はとてもきれいで、一周すると堀に囲まれた四角い輪郭式の縄張りである事がよくわかります(写真①②③)。
八代城は1619年地震で倒壊した麦島城に代わり、加藤忠広(清正の子)が一国一城令の後の1620年に家臣の加藤正方に命じて築城した城です。当時は四層五階の大天守と二層三階の小天守、そして8つの櫓が本丸を取り囲んでいたようです。その復元図がありました(写真⑨)。そして、忠広の時代は欄干橋が唯一の出入口(大手門)で、今ある北の参道橋は松井時代に、南の参道橋は明治時代に架けられた橋のようです。
欄干橋を渡り大手門(頬当御門)から入り登城気分を味わいます(写真⑥⑦)。見事な高石垣は、上から撃ち掛けられたらひとたまりもない感じがします。でも加藤忠広は熊本城があったにもかかわらず、なぜこのような巨大な城を築城したのでしょうか? またなぜ、幕府は一国一城令の後にもかかわらず、この築城を許可したのでしょうか? 諸説あり真実はわかりませんが、忠広が島津との国境を固めたかったからという説もあります。しかし九州の関ケ原を最後にこの時まで1601~1619年の間、加藤と島津にはいざこざなど問題は無かったので、城を築く必要も無かったはず🤔? むしろ加藤と島津を警戒していたのは徳川秀忠だったのではないでしょうか? よってこれはあくまで私の推測ですが、秀忠は加藤家の莫大な財力を奪って弱体化させ、かつ島津への抑えとなる城を造りたかったので、忠広を利用して一石二鳥を狙ったのではないかと思いました。
1611年、清正が突然亡くなったため、11才の若さで家督を継いだ忠広は、右も左もわからないまま藩主となります。しかし若年の忠広には、やはり清正恩顧の家臣たちの勝手な振る舞いを抑えきれず、それゆえ自らの乱れた行いも多くなり幕府から信用されなかった・・などと諸説ありますが、ならばとこの築城を通して幕府の信頼を得たかったに相違ありません。しかしこの八代城の堀と石垣、そしてやっと大天守と小天守が完成した1632年、加藤家は突然改易されてしまいます。そして1年後に忠広は亡くなったそうです(一説には自害とか)。やはり利用され捨てられただけなのでしょうか🤔?
市役所の6階に上がり八代城を眺めてみました(写真⑩)。忠広は偉大な父清正の血を引く藩主であったにもかかわらず、幕府や家臣から信用されないまま終わり、さぞかし無念であったろうと思いました。
次は、(2/2)八代城と松井興長に続きます。
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