みんなの投稿

検索結果・・・「」を含む投稿

べっち

岡山城 (2026/06/21 訪問)

クラブツーリズムの関本ガイド同行ツアーで行った

+ 続きを読む

べっち

備中松山城 (2026/06/20 訪問)

クラブツーリズムの関本ガイド同行ツアーで行った

+ 続きを読む

べっち

鬼ノ城 (2026/06/20 訪問)

クラブツーリズム関本ガイド同行ツアーで行った

+ 続きを読む

イオ

高野瀬城(滋賀県犬上郡豊郷町高野瀬) (2026/01/04 訪問)

高野瀬城(城びと未登録)は、築城時期は不明ながら近江国守護佐々木氏に仕えた高野瀬氏が築いた城で、高野瀬氏代々の居城となりました。戦国期に高野瀬隆重が六角氏の命により肥田城を築いた後も高野瀬城は存続しているようです。

城跡は工場建設により遺構のほとんどが失われていますが、工場南辺の道路沿いに高野瀬城趾の石碑が、工場東側の高野瀬城趾バス停脇には高野瀬城址の標柱が立てられています。工場建設前の城跡は竹藪になっていて藪の中に土塁や堀が見られたようですが、現在は工場南西隅から南へ続く道路の東側(東馬場)の竹藪が唯一遺る土塁のようです。
 

+ 続きを読む

昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征19日目:三丘嶽城 (2026/05/29 訪問)

須々万沼城から車で35分くらいで、貞昌寺側登山口付近空スペース(34.052407、132.000529)に着き、そこに路駐しました。
そこから、登山口(34.052520、132.000801)に向かいました。

築城年代は定かではないようですが、大内氏の城番として、桂兵部少輔元親、三丘隼人之介、倉田治部大夫、井原四郎兵衛などの名があるようです。

登城口は貞昌寺の南から高速道路の下を北へ潜った所にあり、入口付近に駐車できます。
土塁と石垣を確認しました。巨石が多く城壁として取り込まれているようです。
攻城時間は90分くらいでした。本日の城巡りは、ここがラストです。
このまま本日の宿泊先に車で向かいました。
歩行歩数=22969歩、歩行距離=16.0Kmです。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征19日目:須々万沼城 (2026/05/29 訪問)

米光城から車で30分くらいで、保福寺駐車場入口(34.123636、131.866151)に着きました。
そこから、保福寺山門入口(34.123519、131.865698)で説明板を確認➡山崎伊豆守興盛自刃の地碑(34.125819、131.865379)➡ケアハウス周南温泉駐車場入口(34.124667、131.865521)に向かい、土塁を確認しました。

須々万沼城は室町時代に築かれたようですが、築城者は不明です。
1555年(弘治元年)からの毛利元就による防長経略では、鞍掛合戦に続く大きな戦となりました。
大内氏の家臣・山崎興盛、江良賢宣らが籠城して、攻め寄せる毛利軍と度々戦いました。
1557年(弘治3年)城内へ毛利軍が乱入。城内に籠った一般人の老若男女1,500人(3,000人とする説もあり)も斬殺され、城将山崎興盛・隆次親子は自害、城主の江良賢宣は城を出て降伏、須々万沼城は落城しました。

現在の城跡は住宅や各種施設が建っており、遺構らしきものはケアハウス周南温泉駐車場に土塁がありました。
保福寺の正門前に説明板がありました。
攻城時間は25分くらいでした。次の攻城先=三丘嶽城に向かいました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征19日目:米光城 (2026/05/29 訪問)

藤掛山城から車で30分くらいで、新南陽米光簡易郵便局駐車場(34.138730、131.729552)に着きました。
そこから、伝福寺境内(34.139515、131.728113)に向かい、さらに河内神社入口(34.139174、131.729300)まで徒歩2~3分です。

築城年代は定かではないようですが、城主は杉次郎左門行並で1555年(天文24年)の厳島の戦いで討死したようです。
その後、防長へ侵攻した毛利氏は杉元相に陶の旧領3,000貫を与えて上徳地に、内藤隆春に下徳地に置いて守らせたようです。

登山道はなく、河内神社の東側から葛籠折れの道を登れば曲輪に辿り着くとの情報ですが、山に登る道は見つかりませんでした。
伝福寺境内にたおれた標柱があるとのことでしたが、これも見つかりませんでした。
結局、米光城を示すものは何も見つかりませんでした。山口県のお城は自分には、なかなか手ごわい。
攻城時間は25分くらいでした。次の攻城先=須々万沼城に向かいました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征19日目:藤掛山城 (2026/05/29 訪問)

白水山城から車で45分くらいで、空スペース(34.241330、131.806194)に着き、そこに路駐しました。
そこから、山への進入口(34.241974、131.806769まで徒歩2~3分くらいです。

築城年代は定かではないようですが、城主ははじめ吉見某であったが、後に陶氏の家臣江良氏の城となったそうです。

進入口から中に入り赤テープを発見したので進んでみました。
途中から赤テープが見つからず迷子いなる前に撤退しました。案内標識がほしい。
攻城時間は25分くらいでした。次の攻城先=米光城に向かいました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征19日目:白水山城 (2026/05/29 訪問)

瑠璃光寺から車で25分弱で、ふれあい館駐車場入口(34.246058、131.588512)に着きました。
そこから、畑の右折地点(34.242651、131.589088)まで徒歩7~8分くらいです。
駐車場所として、法雲院入口空スペース(34.244257、131.587913)にも車1台くらいなら止められます。

詳細は不明のようです。

道はなく主郭は山頂にあるようなので、北の畑脇から山に入って行きました。
少し進んでみましたが、道なき道を進むのは方向音痴の自分には無理と判断して登城断念。
攻城時間は25分くらいでした。次の攻城先=藤掛山城に向かいました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

うら

暑かった (2026/07/10 訪問)

バイクで行ったのですが、お城の門をくぐったら城内は風がほぼ無く暑かった😅
天守まで行かないと風も来ないので暑さ対策必須です!

+ 続きを読む

にのまる

R8.11.30まで整備工事中 (2026/06/23 訪問)

道南十二館のひとつで茂別館とともにコシャマインの戦いで陥落しなかったとされる花沢館。
大留バス停(コミュニティセンター天の川プラザ前。信号機のない環状交差点が見ていておもしろかったです。)から勝山館へ向かう途次の国道に入り口が面していてわかりやすかったのですが、整備工事中のため進入禁止でした。工事はR8.11.30までとのことです。
冬季に北海道を訪問する自信はまだないので再訪するなら来春以降になると思いますが、今回行けなかった洲崎館、もう一度行きたい勝山館とともに是非訪れたいと思います。
レンタサイクルないかなぁ。。。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

イオ

分厚く高い土塁 (2026/01/04 訪問)

南北朝期に目加田氏が築いて代々の居城としましたが、本能寺の変の後に明智光秀に従ったことで羽柴秀吉に改易され、目加田城も廃城となりました。

北隣の公民館の駐車場から登城開始。城跡は公園として整備され、北側の入口脇に城址碑と説明板が立てられています。石碑の背後には分厚く高い土塁がそびえ、北辺からL字状に南に折れています。北側の入口からの通路は周囲を囲んでいた水堀が主郭側に入り込んだ舟入跡と思われ、東側はトラロープが張られているため立ち入りは自重しましたが、竹藪の中に土壇と弁天山と呼ばれる土塁が見られました。主郭内にはベンチやブランコなど公園らしい設備もあるものの、目立っているのはやはり土塁! 北辺の土塁だけでなく公園南部の民家のすぐそばにも分厚く高い土塁がありました。そのほか目賀田城の説明パネルも設置されています。

明瞭な遺構は土塁くらいですが、住宅地の中にこれほどの分厚く高い土塁が整備され遺されているのはありがたいことですね。
 

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征19日目:瑠璃光寺 (2026/05/29 訪問)

古城ヶ岳城が入山禁止の為、攻城計画時間に余裕ができたので、次の攻城先=白水山城に向かう前に瑠璃光寺に寄りました。
古城ヶ岳城から車で15分弱で、瑠璃光駐車場入口(34.189510、131.473454)に着きました。

瑠璃光寺は今回2回目です。1回目は2019年03月14日に来ました。
日本三名塔(奈良県の法隆寺、京都府の醍醐寺、山口県の瑠璃光寺五重塔)のひとつに数えられる国宝 瑠璃光寺五重塔。
室町時代、長門・周防国(現在の山口県)の守護であった24代大内弘世が、京の都を模した街づくりを進めた山口の地で花開いた大内文化の最高傑作と言われています。
付近には萩藩主毛利家墓所、うぐいす張りの石畳み等があります。平日でも観光客で込んでいます。
昼どきでしたので、付近の長州苑(34.189549、131.474057)で瓦そばを食しました。
観光時間は45分(瓦そばを食べる時間を含む)くらいでした。次の攻城先=白水山城に向かいました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征19日目:古城ヶ岳城 (2026/05/29 訪問)

右田ヶ岳城から車で30分弱で、林道入口付近(34.203755、131.466404)に着き、路駐しました。

築城年代は不明のようですが、現在の遺構は天正年間(1573~92)以降だといわれています。

県道からダムを渡り、山裾の道を少し進んだ所から作業用林道が切り開かれています。
しかし、入山禁止のよううです。林道入口で撤退しました。
攻城時間は5分くらいでした。古城ヶ岳城が入山禁止の為、攻城計画時間に余裕ができたので、次の攻城先=白水山城に向かう前に瑠璃光寺に寄ることにしました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征19日目:右田ヶ岳城 (2026/05/29 訪問)

車は右田ヶ岳登山者用P(34.081194、131.550691)に置いたまま、勝坂砲台(城びと未登録 山口県防府市)から登山道をそのまま登りました。
勝坂砲台(城びと未登録 山口県防府市)から車で10分くらいで、右田ヶ岳登山口(34.081704、131.550152)

築城年代は定かではないようですが、鎌倉時代末期に右田氏によって築かれたと云われています。
右田氏は大内氏15代大内貞成の二男盛長を祖とし佐波郡右田荘を領していました。なお陶氏はこの右田氏から分流しているそうです。
しかし、天文年間(1532年〜1555年)頃には右田氏の勢力は衰え、右田岳城は奈藤興盛と孫の内藤隆世が城主でした。
1555年(天文24年)厳島の戦いで陶晴賢は毛利元就に敗れ討死しました。
1556年(弘治2年)毛利軍が周防に侵攻すると内藤隆世は右田岳城に右田隆量(重政)・野田長房を城番としました。
城主右田隆量は野田長房と共に籠城したが、毛利元就の勧告に従い降伏し、毛利氏に仕えた。
その後、毛利氏家臣の南方就正が入城し、1569年(永禄12年)大内輝弘が山口に乱入した時には、南方就正がこの城より出撃し、大内輝弘を撃退しました(大内輝弘の乱)。
その後の歴史は不明のようですが、江戸時代初期頃には廃城となったようです。

勝坂ルートは、途中で尾根ルートと本ルートに分かれています。尾根ルートは遠目で見てきつそうな感じがしたので直登コース(本ルート)を選択しました。
直登コース(本ルート)、ロッククライミングみたいなルートです。
ロープは張ってありますが、ロープのところどころがすり減って細くなっており、切れそうで少し怖いです。
ロープで登っていきましたが、軽い高所恐怖症の自分は岩の上で足がすくみ、すこし震えており下が見れません。
恐怖で南ノ峰手前で登城を断念しました。下山も大変でした。
攻城時間は100分くらいでした。次の攻城先=古城ヶ岳城に向かいました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征19日目:勝坂砲台(城びと未登録 山口県防府市) (2026/05/29 訪問)

次の攻城先=右田ヶ岳城に行く前に、防府天満宮の観光と勝坂砲台(城びと未登録 山口県防府市)を攻城しました。
防府天満宮から車で10分くらいで、右田ヶ岳登山者用P(34.081194、131.550691)に着きました。
そこから、説明板(34.081422、131.550340)は50m先です。勝坂砲台(城びと未登録 山口県防府市)はコンクリート壁の上です。

1863年(文久3年)萩藩主毛利敬親が萩城から山口城へ居城を移すに伴い、山陽道から山口に至る街道を押さえる為に設けられた砲台で、道の東西両脇に設けられていました。
明治期以降、いつまで砲台が供用されていたかは不明のようですが、1870年(明治3年)の長州藩での脱退騒動においては砲台周辺が激戦地となっていたそうです。

勝坂砲台は国道262号線沿いにあり道路の東側のコンクリート法面に説明板が設置されています。
砲台の遺構としては石垣と土塁が残っていました。
説明板の脇にある右田岳に通じる登山道沿いに石垣が転々と残っています。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=右田ヶ岳城に向かいました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征19日目:防府天満宮 (2026/05/29 訪問)

次の攻城先=右田ヶ岳城に行く前に、防府天満宮の観光と勝坂砲台(城びと未登録 山口県防府市)を攻城しました。
敷山城から車で20分(途中、工事中&道の間違えで時間がかかってしまいました)くらいで、防府市まちの駅うめてらす駐車場(34.061143、131.573778)に着きました。
そこから、防府天満宮石鳥居(34.061345、131.573966)まですぐです。

道真が亡くなった翌年である904年(延喜2年)に創建され、「日本最初に創建された天神様」を名乗っています。
かつては「松崎天満宮」・「宮市天満宮」あるいは単に「天満宮」と称していたが1873年(明治6年)に近代社格制度のもとで県社に列格し、松崎神社と改称。戦後の1953年(昭和28年)には防府天満宮と再び改称しました。
道真が宮中での権力争いで失脚し、九州の大宰府に流されていく道筋での宿泊地の一つが防府とされており、京都の北野天満宮、福岡の太宰府天満宮と並んで、日本三大天神と言われています。

道真は学問の神とされているため、ここで筆を買ったり、受験のお守りを買う若者の参拝も多いようです。
防府天満宮の参拝で菅原道真公を祀る代表的の天満宮=日本三大天神(京都の北の天満宮、福岡の太宰府天満宮、山口の防府天満宮)を制覇しました。
観光時間は25分くらいでした。次の攻城先=勝坂砲台(城びと未登録 山口県防府市)に向かいました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征19日目:敷山城 (2026/05/29 訪問)

徳山駅でレンタカーを借り、そこから車で40分くらいで、説明板前駐車場(34.080485、131.597058)に着きました。

敷山城跡は南北朝時代、もともと敷山験観寺という山寺を急遽、城として転用したもののようです。
南北朝時代に足利尊氏が九州から反転して湊川の戦いで楠正成に勝利し上京、天皇が逃げた比叡山攻略に取り掛かります。
1336年(延元元念)後醍醐天皇に呼応し南朝方についた周防国衙の役人であった摂津助清尊、教乗、小笠原長光や大内弘世の叔父・大内弘直などが立てこもります。
しかし、足利尊氏の一族・上野頼兼の大軍に攻められてわずか10日あまりで落城しました。

遺構として石垣があります。また、遺構ではありませんが、竪堀のようなものも見られました。
鎌倉期に造られた梵字岩は見所の1つです。また山頂からは防府市が一望できます。
攻城時間は45分くらいでした。次の攻城先=右田ヶ岳城に行く前に、防府天満宮と勝坂砲台(城びと未登録 山口県防府市)に向かいました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征19日目:勝栄寺 (2026/05/29 訪問)

宿泊先のホテルの朝食前に、勝栄寺を攻城しました。
新南陽駅から徒歩5分くらいで、勝栄寺土塁入口(34.070343、131.765558)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、1350年(正平5年・観応元年)頃に陶弘政によって築かれたと云われています。
陶弘政は富田保を領して陶氏館に住んだ大内氏の重臣で、勝栄寺の開祖となり、開山は其阿上人によるものだそうです。
厳島合戦で陶晴賢を敗った毛利元就は、1557年(弘治3年)大内氏の本拠である周防・長門の平定に乗り出して、勝栄寺に陣を構えました。
「三本の矢」で著名な三子教訓状はこの地で書かれたものとされています。

現在、勝栄寺周囲に土塁だけは残っています。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=敷山城を攻城する前に、ホテルに戻って朝食を食べました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

天守無しがアツい

函館空港✈️ (2026/07/04 訪問)

志苔館から1.5kmほどの場所に函館空港がある✈️
というか…ここから見える飛行機が超圧巻🫢🤩😳
こんなに間近で走る飛行機初めて見たーみたいな

写真撮り逃したのが惜しくなるくらい😂
振り返れば…史跡よりもこっちの方が見ものかもしれないくらい✈️

橋を渡って…右に曲がってから…トンネルを通る
車一台やっと通れる大きさの🚗
左側に歩道はあるものの…トンネルの長さは700mくらい

薄暗くて…車の走行する音に悩まされながら歩くため…メンタルやられると言えばやられる…

現に私は常に後ろを振り返りながら向こうまで歩いた…後ろからなんか来そうな気配が常にしたから😱

トンネルを抜けると一安心…空港の滑走路が見えてくる✈️まるで空港を裏側から見てるよう☺️

空腹を覚えたので…2階レストランで…ひこま豚丼を食べてみる🐷それから搭乗口にチェックイン…志苔館および函館に別れを告げた

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

ページ2