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朝田 辰兵衛

赤い城さん,香川県コンプ,おめでとうございます🎉

赤い城さん,香川県コンプリート,おめでとうございます🎉
先日の,甘崎城の投稿に感動いたしました。しかし,「香川県コンプまだなのかな…」とも思っていました…<笑>。

さて,コンプおめでとうクイズですが,四国からはネタがありません。せめて西日本からということで出題です。
とあるお城の最寄り駅に設置されているモニュメントになります。とあるお城は,ここから徒歩約10分で到着します。
駅名もしくはお城名でお答えください。赤い城さんは投稿されておりませんが,比較的有名な(?)お城なので大丈夫かと思っております。
ヒント追加します…
香川県出身の俳優さんが,今年の大河でこの城に深く関係してきます…。

私のアトは,にのまるさん,大丈夫でしょうか…?

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トク

1【秀長の但馬平定をたどる①】竹田城(1/2)城へのアクセス (2026/05/14 訪問)

豊臣秀長の但馬平定をたどる旅に出ました。まず竹田城からです。

竹田城は天空の城として有名ですが、実は秀長が初めて城主となった城で、秀吉から離れ単独で戦をした城でもあるという事を御存知の方は、以外と少ないのではないでしょうか?😯

1577年秀吉は但馬攻めを行い、いったんは但馬を手中にします。そして秀吉は秀長にこの竹田城を与え、秀長は約1年間ここで城主を務めたそうです。秀長が初めて持った自分の城です。しかしここで、別所長治(三木城)・荒木村重(有岡城)が謀反。秀吉・秀長は急ぎ播磨へ戻りました。その間に山名氏の重臣太田垣輝延が竹田城を奪還したため、1580年秀吉は信長から再度但馬平定を命じられます。しかし、官兵衛とともに播磨国衆を説得中で姫路から動けぬ秀吉は、秀長に但馬攻めを託します。秀長は単独で出陣し、まず竹田城を再度攻め落としました。

姫路からJR播但線(寺前で乗継ぎ)普通列車に乗り1時間40分、竹田駅に到着しました(写真①⑩)。竹田城は2回目で、駅の裏側には徒歩での登城路もあり、7年前に来たときはそこから登りました(写真⑤)。竹田城まで40分と書いてありますが、健脚でない私のゆっくり足では60分もかかったので、今回は明日以降も山城を控えている事もあり、無理せず駅前から出ている「天空バス」を利用しました(写真⑨)。

バスは列車が着いてから40分後に発車だったので、私は駅のコインロッカーに荷物を預け、駅の自販機で飲み物を買い(山上にはない)、駅から徒歩3分の所にある「情報館天空の城」で100名城スタンプを押して、ビデオや模型・竹田城の説明を見て予習を兼ねて時間をつぶしました(写真⑦)。秀長に関する説明や秀長の旗もかなりあり、ここが最初の城である事も強調されていて、大河ブームに乗りずいぶんと宣伝に力を入れているな~🤔という印象でした。

それからバスで登ること20分「竹田城跡」のバス停に到着です。平日のせいか駅から乗ったのは私一人だけ(そもそも駅を降りたのが私一人だけ😱)だったのですが、途中の一般駐車場(山城の郷)から20人くらい乗ってきて、小さなバスはあっという間に満員になりました。バスを降りてからは、舗装された緩やかな登り坂を20分程登ると料金所(登城口)です。帰りは料金所の横から駅へ直接下る道を歩いて下りました。バスで戻る方は、本数が少ないのと一般駐車場(山城の郷)までまた乗って帰る方も多い(並んでいた)ので、帰りの時間を確認して早めにバス停に戻るか、私と同じように帰りは駅への登山道をゆっくり歩いて下るのも、時間を気にせずに山城気分が味わえるのでオススメです(駅まで約30分です、急坂なので御注意を!:写真④)。

次は、竹田城の山頂からの景色に続きます。
 

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赤い城

ようやく (2026/05/04 訪問)

今年のゴールデンウィークは特に遠征もなくまったりと過ごしました。
それでもひとつくらいは城に行ってこよう、と小豆島へ。
土庄港から徒歩で近い渕崎東コースへ向かいます。
土庄港からは徒歩で30分くらいで登城口に着きます。

ここからは整備された登城路を登ります。
急なところもありますが60分くらいで見晴らし台へ到着、エンジェルロード(この時は道は現れず)を見おろすことができます。
ここからまずは皇踏山頂を目指しました。

山頂部には巨石が転がっています。
大き岩に登ると瀬戸内海を望むことができます。
山頂から北の曲輪を経て本曲輪へ。
本曲輪には喰違い虎口と横堀が付いています。
その先まで進むと展望台、ここも眺望がよかったです🤩
ところどころにある石垣は小豆島独特のシシ垣で獣害対策のものです。
城の遺構では無いもののこれはこれで貴重なものかと思います。

さらに水の手曲輪でもある湿原へと向かいます。
山の上に大きな湿原、貴重な水源だったのでしょう。
一通り歩き回り帰りは北山コースから。
讃岐に移住して2年9ヶ月、ようやく香川県の登録城をコンプリートすることができました。
マイペース過ぎですね😔

【見どころ】
 ・喰違い虎口と空堀
 ・眺望
 ・水の手曲輪の湿原

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todo94

ゴールデンウイーク肥前の攻城④ (2026/05/04 訪問)

伊万里城からの転戦です。鷹島はこれが二度目ですが、最初は、元寇の沈没船が目的でした。その時は長崎県松浦市側からアプローチしたので大周りをすることになり時間のロスが大きかったです。今回は鷹島肥前大橋がつながっている佐賀県からのアプローチだったのでアクセスがスムーズでした。鷹島は、長崎県松浦市に属しているので、肥前の攻城と銘打つことにした次第です。できれば、城内に立ち入りたかったのですが、畦道もない耕された畑を越えていかなくてはならないようなので今回は断念しました。説明板と、対岸にある廃港からの遠景でご容赦ください。鷹島から肥前名古屋城に向かう途中、浜野浦の棚田に立ち寄っていきました。これで玄海町をクリア。市区町村ポイント加算です。

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ぴーかる

蓮沼城 (2026/05/09 訪問)

【蓮沼城】
<駐車場他>近くのゴミステーションの所が良いかと。ちょうど回収日で近隣の方々が車でどんどん持ってこられてたので、公民館前に停めました。
<交通手段>車

<感想>1泊2日富山ちょこ城巡り1000㎞旅2城目。お城の詳細は現地説明版の添付写真をご覧ください。
朝の7時過ぎでゴミ出ししている地元の方々とかぶってしまってタイミング悪かった。遺構は残っていないようです。城跡碑横のつつじが綺麗に咲いてました。

<満足度>◆◇◇

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あずみん

わん連れ (2026/03/14 訪問)

🦮連れ旅で城巡り
本居宣長記念館がすっごく良かった
近くの牛銀も美味しいし
地形も面白い
もっとゆっくり歩いてみたい
久々にいい旅

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ヒロケン

越中宮崎城 (2026/05/02 訪問)

宮崎城は日本海に臨む標高248mの城山に築城された山城です。山頂部に本丸を置き、そこから西に向かって階段状に二の丸・三の丸が配置されています。

平安時代末期に木曽義仲公が北陸宮(後白河法皇の孫)を迎え御所を造営、この御所が宮崎城の始まりとされています。
中越国境にある城で、戦国時代には重要な役割を果たしました。松倉城主・椎名氏が武田方についたため、上杉謙信公は越中に侵攻し宮崎城を攻略、しばらくは上杉領でしたが、1583年佐々成政公により宮崎城は落城。佐々氏の家臣が宮崎城を守りましたが、翌年の1584年には上杉景勝公が再び宮崎城に侵攻。佐々氏の守備兵300人が奮戦しましたが、9割方が上杉方に打ち取られ落城。
その後、時代の変遷後前田氏の家臣が配置されましたが、江戸時代に入り廃城となっています。

この日、お孫ちゃんに会いに石川入りするため、夜中24時に車で豊橋を出発。(石川動物園に9時待ち合わせ)5時過ぎに無料の城山駐車場(無料・トイレあり)に着き散策。旧陸軍が造った削平地や土橋があり、(土橋がある場所が堀切跡のためこの削平地も城域であったと思われます。)土橋を渡った先が、宮崎城の本丸になります。
この城の見どころは、三の丸の石塁跡と七曲堀ではないかと思います。七曲堀は7番目の画像でご覧の通り残念な状態となっていますが、雑木の隙間から垣間見る堀は、中々の規模で深さもあるように思います。そして何と言っても、この城から見る眺望は、最高の見どころでもあります。

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todo94

ゴールデンウイーク肥前の攻城③ (2026/05/04 訪問)

梶峰城からの転戦です。城山公園として整備されていて、圓通禅寺と保育園の間の道を徒歩で登っていきます。めぼしい遺構は見当たりませんでしたが、市民の憩いの場にはなっているようで、主郭の手前の展望所からの眺望は開けていました。

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天守無しがアツい

東北歴史博物館 (2026/05/23 訪問)

多賀城跡の近く…国府多賀城駅すぐそばにある…東北歴史博物館を見学

多賀城の復元された門を見学したタイミングで…「城跡の残りと博物館どっちを(次の電車が来るまでの間に)巡ろうか…?

「10年前にここを訪れた時…城跡はひと通り見てまわったが…あの博物館は「またの機会があれば」と思いながら電車に乗った記憶がある…ならば今回はそっちにしようかな🤔その方が後悔しなさそう」という考えに至る

次の電車が来るまでの30-40分をそこで過ごす…常設展のみの見学…北京原人→縄文弥生→古墳建設時代→多賀城の成立(奈良から平安初期)まで

個人的に骨を見るとインパクト感じて記事のネタにしたがる性分らしい💀(笑)大昔の人は身体を折り曲げて体操座りに近いポーズで埋葬されたんだな🪦

多賀城は東北地方における政府の拠点🏯
(添付画像には無いけど)奈良時代あたりの日本地図🗾も展示されており…平城宮に都を置く政府によって…蝦夷の存在する東北の北側(青森や秋田)以外の60カ国は支配下になっていた

逆に言えば…東北の北隅以外…九州や対馬といった…都から離れてると思われる場所も…こんなに早い時代から政府の管理下に置かれていたという事である…交通網が現代と比べてはるかに未発達な時代に…その統治力がすごいとさえ思った

今は(復元された門以外)多賀城に当時の建物は残ってない…しかし当時はここに防衛拠点としての建物があり…ここから兵を整えて出撃する軍人もいれば…事務作業に携わる人間もいた

木簡と紙…政務には両方が使用されていたが…木簡には字を書いた後に刀で削ってまた使うことができるリサイクル機能…取り出したいものがある際に紙よりもサッと出しやすいメリットがあった

逆に紙のメリットは…木簡よりも面積が大きい分…たくさんの文字を書いて残せるというところだろう…なので記録書を残すのに向いてる…短いメモ用として融通効くのが木簡というわけで

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豊田市博物館「教えて、千田先生!とよたの城も 天下の城も」 (2026/05/23 訪問)

 拳母城近くにある豊田市博物館では企画展「教えて、千田先生!とよたの城も 天下の城も」が開催されています。以前にT-Shionoyaさんが投稿されていて、この企画展を知りました。興味があり行って来ました。豊田市内の比較的遺構が残っている城址が紹介されています。ノーマークの城もあり参考になりました。豊田市内の城は主に山城なので、今年の秋か冬にでもいくつか行けたらいいかなと思っています。
 博物館を出た後は拳母城周辺をぶらぶらと散策しました。

 テレビなどでよくお見掛けする千田嘉博先生は豊田市のご出身なのですね。初めて知りました。

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ぴーかる

木舟城 (2026/05/09 訪問)

【木舟城】
<駐車場他>木舟城址公園駐車場10台分あり。トイレあり。
<交通手段>車

<感想>1泊2日富山ちょこ城巡り1000㎞旅1城目。お城の詳細は現地説明版の添付写真をご覧ください。
朝7時前に到着。豪雨で暫し駐車場車で待機してからの撮影となりました。水田地帯の真ん中に整備された城跡となっています。土塁の一部が残されていました。

<満足度>◆◇◇

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チェブ

城びと未登録のお城攻め「大館氏館」。 (2026/02/21 訪問)

「下田島城」は高校周辺がお城跡です。
こちらから、車で10分くらいの所に「大館氏館」があります。
「大館氏館」は築城年数は不明です。
新田 義貞さんの家臣、大館 宗氏さんの館です。
大館 宗氏さんは鎌倉攻めの時、極楽寺切通しで大将として奮闘しましたが、討死しました。
ちなみに、神奈川県の城びと登録、「一升枡遺跡」に攻め込む時は極楽寺辺りを通過します。
その後、宗氏さんの子は後醍醐天皇より伊予国守護に任じられます。

「大館氏館」は違った意味で難攻不落な館です。
畑道の途中に「大館氏館」はありました。朱い冊で一部が囲われていて社がお祀りされています。
道幅が写真⑤のように狭いです。

またまた、ちなみに、自分の影を写り込ませ、道幅を表そうと思ったのですが、若い女子には『ダッサー!』なんだそうです。私の写真は壊滅的にダサいと笑われました。
でも、壊滅的写真にお付き合い下さい。

この狭い道はクランクがあり、私の小さい車でギリギリかわせました。あんなに冷や汗をかいたのは久しぶりです。
私のお城攻めには、少しの勇気が必要だと、前々から分かっていたのですが、あさんの投稿写真で、脚立も必要なのだと分かりました。!(^o^)!

「下田島城」で高校をぐるっと回ったら「大館氏館」へ転戦、いかがでしょうか。

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todo94

ゴールデンウイーク肥前の攻城② (2026/05/04 訪問)

神代氏芦刈館からの転戦です。西渓公園の駐車場にレンタカーをとめ、多久市郷土資料館のジオラマを見てから、多久神社より登城しました。説明板あたりまでは整備された登城路ですが、その先の登城路はなかなか判然としていません。最後の方はかなり急峻でそれなりにきつい攻城でした。足を滑らせてしがみついた木の表面で両腕をすりむいてしまいましたが、献血予定日の6日前で助かりました。山頂部には、控えめながら城名を記した幟が立っていました。その奥は茨が繁茂していましたが、注意深く進んでみると結構広い郭が潜んでいました。こちらの方が山城としての雰囲気は良いように感じました。全体を通してみて説明板の少し先にある麓の堀切が深くくっきりとしていて一番見ごたえのある遺構だと感じました。吉川弘文館の「九州の名城を歩く」によると説明板の立つ辺りは、前多久氏段階の城館跡と推定されるとありました。見ごたえのある堀切はこの城館の後背を守っているという訳ですね。

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シャンシャン

埼玉の名城巡り③ (2026/05/13 訪問)

埼玉の名城巡り、本日最後の3城目。
あまり時間がなかったので、博物館で御城印と城カードを購入して、バタバタと御三階櫓を少しだけ拝んだ。
今度は城の周囲を含めてじっくりと見学したい。

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シャンシャン

埼玉の名城巡り② (2026/05/13 訪問)

菅谷館跡から車で10分程移動。距離が近くてありがたい。
こちらの城跡も下調べしていなかったので、その規模に度肝を抜かれた!
菅谷館の土塁や堀も凄かったけど、杉山城の方がはるかに規模が大きい!
この城跡はまた訪れてゆっくり回りたい。

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シャンシャン

埼玉の名城巡り① (2026/05/13 訪問)

埼玉の名城巡り1城目。
大した下調べもせず、館跡ということで期待値は低かったが、いい意味で予想を裏切られた!
郭や土塁、堀などの遺構がきれいに残っていて、石垣はないけど土城の凄さを見せつけられた!
程よい広さでちょっとしたウォーキングに最適だった。

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天守無しがアツい

宮城縣護国神社 (2026/05/22 訪問)

仙台城の本丸に存在してる宮城縣護国神社⛩️
鎮魂の泉などが戦没者の慰霊的役割を果たしてる

本殿でお詣りを済ませてから御朱印を授与
ここのは書置きのみ取り扱い
護国神社と浦安宮のがあり両方を授与(1000円)

やり残しはしたくないので案内に従って浦安宮も参拝
奥には入れない仕組みになっており…かなり手前に賽銭箱
本殿と同じくそこにも100円納めて…ここまで来れた事への感謝…旅の成功を願った

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にのまる

勝頼公まつりに行ってきました。 (2026/04/26 訪問)

武田氏終焉の地、甲斐大和駅近くの大和中学校校庭で開催された『甲州市ふるさと武田勝頼公まつり』に行ってきました。

プログラムは
・武田勝頼公軍団出陣絵巻
・甲斐天目山勝頼公太鼓
・ステージイベント
・ふれあい広場(出店ブース)
・勝頼公特別企画資料展

勢揃いした勝頼軍団、かっこよかったです。
中でも感動したのは、信勝公の擐甲の礼(世継ぎの儀式)。楯無の鎧を装着する姿にうるうる🥹
滅亡を覚悟した陣中での儀式は胸に迫るものがありましたが、凛と立つ貴方は立派でした!!(ほぼ母の境地)

ひと通り見終えて、帰りに「勝頼公腰掛け石」を探しに行きました。地図を見ながら行ったらフェンスの外側に着いてしまい🙀
内側にまわると1時間に1本の電車に間に合いそうになかったので諦めました。
腰掛けたかったな……。
また行こ!

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トク

「豊臣秀保」陣跡(秀長の嗣子の生涯) (2026/04/05 訪問)

豊臣秀長ゆかりの人物の陣跡めぐり(2人目)です。藤堂高虎の次は、豊臣秀保の陣跡を訪れました。

豊臣秀保とは、豊臣秀長の娘婿養子となり、秀長死後には大和中納言に任ぜられ、秀長の家督(大和郡山城100万石)を継いだ人物であるという事を、皆さんは御存知でしょうか🤔?

名護屋城博物館入口から、今度は国道を南西方向に30分(2km)ほど歩いた場所に、豊臣秀保の陣跡はありました。入口には「大和中納言」と刻まれた石碑が立っていました。

名護屋城に造られた陣は約150あると言われていますが、秀保の陣はその中でも家康・利家と並ぶ最大級の広さであったようです。秀長亡き後の秀吉は、秀保を秀長の代わりの副大将格に据えていた事が想像できます。当時は20ヘクタール(東京ドーム4個分)の敷地に、1万5千の兵を収容していたとか。現在はその内の、50平方メートル(館跡部分のみ)が保存されています。館の周りは2~3mの高さの石垣に囲まれ、当時はその上に塀があり、表門と内門は桝形で仕切られていました。そして内門の中は、書院や御座の間や数寄屋や庭園まで伴っていた、とても優雅な御殿作りの陣であったようです。

1594年「文禄の役」の時、秀保はまだ若干16才でした。渡海はとても無理なため、家老の藤堂高虎が秀保に代わり渡海し戦ったようです。

秀保は、もともとは秀吉・秀長の姉である智(とも)の三男で、兄には秀次・秀勝がいました。1591年の秀長が亡くなる直前、慶(ちか)は秀長の後継ぎがいない事を憂い、幼い長女三八(みや)の婿養子として当時13才の秀保をもらい受け、跡取りとして大和郡山城を継がせます。そして秀長は安心したのかそのわずか18日後、大和郡山城で亡くなってしまいました。そして抑えを失った秀吉は、朝鮮への出兵を開始します。

しかし文禄の役が終わった翌1595年、秀保も郡山へ戻った後、十津川温泉で療養している最中に、突然亡くなってしまいます。疱瘡だったという病気説や、川で溺死したという事故説や、突き落とされたという殺人説もあり、死の真相は未だ謎に包まれています。また葬儀も、秀吉の命により行われなかったようです。

また同年、秀次は秀吉により自害させられて亡くなり、その妻子までもが処刑させられます。秀勝は出兵の最中に、朝鮮で謎の死を遂げています。

まさか秀吉は・・・😯! 文禄の役の最中に淀との間に生まれた「秀頼」に豊臣家を継がせるため、邪魔な豊臣姓の男子を全て殺して行ったのではないでしょうか?(😱~!)。と推測した私は考えすぎでしょうか? いずれにせよ、これにより後継ぎのいなくなった郡山豊臣家は、断絶してしまいました。

道路を挟んだ山の上には、当時秀保と同じ16才であった堀秀治の陣跡がありました。私はそこから秀保の陣跡を、桜越しに眺めてみました(写真⑩背後の山全体が豊臣秀保陣跡)。文禄の役から1年後、わずか17才で生涯を閉じてしまった豊臣秀保・・・。彼は本当は、どんな人生を歩みたかったのでしょうね。そしてこの時、与一郎に続いて秀長や秀保までも失った慶(ちか)の悲しみは、いかばかりだったのでしょうか?

次からは、秀長の但馬平定を追って行きます。
 

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たか

思った以上に時間が足りない (2026/05/06 訪問)

今回の旅の最後は躑躅ヶ崎館です。
要害山城を降りて少し疲れていましたが帰りの特急に乗れないと困る(GWなので…)ので足早に資料館から攻城開始。
無料部分と有料部分があり無料部分はそうでもないかなと思っていたらしっかりと武田家の歴代頭首の事や躑躅ヶ崎館の歴史について記載されており適当に終わらせることができません。
じっくりと見学していますと列車が気になり始めました。
仕方なく斜め読みで資料を確認して館の方へ。

神社へお参りした後、西曲輪の方へ。
残念ながら西曲輪は現在工事中。
しかしながらそこから北の方へ進む途中の堀、北側の門跡+虎口、土橋など見ごたえがあります。
常に頭は電車から離れませんがここは感嘆の声が思わず出てしまいます。
表側の神社!って感じから一気に城塞って雰囲気にギャップ萌えですww

ここでレンタカーの返却や安全を鑑みて今回は終了。
まあまだまだ山梨はいろいろとあるのでまた第2弾で見て回ろうかと思っています。

合計2日間で約4万歩!
疲れたけど充実のGW!電車で一杯やって帰宅しました。

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