夜のライトアップ
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2026/03/23 18:58
2026/03/23 18:57
2026/03/23 18:56
2026/03/23 16:45
早々と桜が咲いていました (2026/03/21 訪問)
二俣城跡・鳥羽山城跡の令和7年度植生整備業務、いわゆる城跡景観整備ですが1月末まで行われて居り、昨年の11月26日に訪ねて以来4ヶ月弱振りに奇麗に植生伐採整備後の姿を観たいと訪ねました。
北の丸下の駐車場に駐めると、なんと登城入口の染井吉野桜が咲いている1分2分どころでなく5分咲きか、浜松静岡の開花宣言は19日頃に出たばかり。
登城探訪しましたら、登城口、天守台裏の新しい大島桜が白い花を咲かせており、又二の丸南土塁法面の大島桜も白い花を咲かせておりました。
又本丸と二の丸の間の中仕切門辺り石垣にひっそりと小さなスミレが咲いていましたので写真掲載します。
約1ヶ月ほど花粉症の自身としては、外の出るのを控えて居り、城探訪城廻がそろそろ疼き始め、風も少なく弱めの晴天日でしたので出かけてきました。
景観整備の投稿、写真投稿は後ほどさせて頂きます。
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2026/03/23 13:52
山頂に石垣の残る城 (2026/03/21 訪問)
山頂に上ってみるとしっかりとした石垣が残っていて、麓から登ってきた疲れも忘れてしまう。東から西にかけて、細長い尾根上に曲輪や石垣が築かれている。文献史料がないのでわからないことが多い城だが、これだけの石垣を積むには毛利氏などが関与していないと無理だと思われる。破城の説もあるようだが、北側は断崖絶壁で石垣の必要はなかったのでは。しかしそうなると山の南側にこれだけの石垣を積む意味があったのかと疑問になる。それにしても、山頂の案内板に縄張り図が描かれているはずだが、日に焼けて全く見えなくなってしまっている。これはなんとかならないものか。麓の素戔嗚神社には移築城門が二門も残っているので、これも見ておくべき。
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2026/03/23 08:28
細川家ゆかりの城! (2026/03/22 訪問)
思いのほか、資料館が充実。ビデオも見応えあり。
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2026/03/22 21:25
上洛最初は天王山から…🏔 (2026/03/20 訪問)
四条烏丸のホテルをリザーブでき,伊丹空港まで飛んで向かったので,珍しくもJR電車を全く使わない遠征となりました。空港からは大阪モノレールで南茨木駅まで行き,阪急京都線に乗り換えを選択。彼岸の3連休なので,JR京都駅はさぞかし混んでいただろうと推察します。
山崎城へは,阪急京都線の大山崎駅から徒歩で向かいました。登城口までの近道はしっかり案内が出ていたので,全然問題ありませんでした。
しかし,あふれんばかりの登山者…。とくに山頂部は人だかりで,写り込みを避けるのに苦労しました。曲輪の全景はムリで…。しかし,要所は押さえて撮影できたと思います。
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2026/03/22 17:06
東海 (2025/11/23 訪問)
なかなかよかった!
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2026/03/22 17:01
十数年ぶりの再訪 (2026/03/22 訪問)
大高城は、桶狭間の戦いの前哨戦として、当時今川方の鵜殿長照が守備についていた大高城に、今川方の若き徳川家康公が「兵糧入れ」を行ったことで有名です。桶狭間の戦い後は、織田方の城となったが利用価値がなくなり廃城になったとのこと。
廃城となっていた大高城に、1616年尾張藩家老の志水家が館を構え明治3年まで代々住んでいたようです。
現在は国の史跡に指定され、「大高城址公園」として整備され、曲輪跡や土橋、空堀跡などが確認できます。トイレは簡易トイレがありますが、駐車場はありません。自分は、大高緑地公園第6駐車場に駐車し、徒歩で丸根砦、鷲津砦を訪問したあと大高城を再訪しました。
十数年前も同じコースを辿りましたが、2時間半もあれば十分に巡ることが出来ます。
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2026/03/22 16:56
2026/03/22 16:54
2026/03/22 10:44
倭城と似通った運命を辿る (2025/05/04 訪問)
秀吉の御座所として半島側を睨む勝本に築かれたが終戦の折には終戦の象徴として破城され二度と使われることがなかったという点で倭城と似通った運命とも言えようか。主郭はもちろんだが周辺にも石垣の残欠が点在する。
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2026/03/22 08:45
連戦連勝!! (2026/03/15 訪問)
詳細は不明ながら、鎌倉末期に赤松円心が築いたと伝わり、中芳養八幡社の楠本氏と赤松城主の赤松氏との間で縁組が繰り返されていたとする史料もあるようです。
苗代川池ルートで登城しようとするも、小川沿いで脱輪しそうになり這う這うの体で逃げ帰ってから2年あまり。この間、しんちゃんさんがおたき瀧法寺から登城されましたが、過酷なルートのようなので、やはり苗代川池ルートで再挑戦しようと思っていたところに、あ さんから苗代川池ルートでの詳細な投稿があり、そのご案内に従って登城しました。
平須賀城での予想外の大勝利に気を良くして苗代川池への細道へ。この前にも途中までは行ってるんだから余裕 余裕と思っていましたが、路上には礫がごろごろしている上にやっぱり道幅が狭い…。脱輪の恐怖に襲われながらそろそろと車を走らせて、この前に転回した箇所(あ さんご案内の駐車スペース)から登城開始。少し戻って分岐を右に進み、苗代川池東岸の林道を北へ。林道は土砂や落葉が堆積してひどい状態ですが、歩いて行く分にはさほど支障ありません。そして壊れた砂防ダムからの分岐では「①谷を行く」を選択。国土地理院地図の道だけあって随所に案内表示があり迷うことはないものの、ご案内にあるとおり最後は壁のような急斜面を直登することになりました。尾根筋に出れば、あとは尾根沿いに北に進むだけ。だらだらと距離があるのと、ところどころにシダの藪はあるにせよ、分岐は全くないので道に迷う心配はありません。そして最後に少し登ったところで赤松城に到達。
東尾根の二つの腰曲輪を抜けて最高所の主郭へ。楕円形の主郭は意外に広さがあり、北寄りに謎の窪み、北端に土塁が見られます。土塁は西側に竪土塁状に落ち、竪土塁をたどって下りた先には腰曲輪が設けられていました。腰曲輪の下方では竪堀が西尾根からの侵入を阻んでいます。主郭の北下には北曲輪が広がり、主郭の切岸はなかなかの高さと角度があります。北曲輪の西下段には三つの大きな窪みがあり、城郭遺構とも後世の土取りによる改変とも云われます。北曲輪東端では竪堀が北尾根と東尾根を隔てていました。北曲輪から北へは幅広く平坦な北尾根が続いていますが、特に北への備えは見られません。最後に主郭南下の南曲輪に回って赤松城をひとめぐり。南曲輪は主郭や北曲輪よりも藪化していました。
…ということで、無事に赤松城を攻略。道幅が狭い上に歩く距離も長いとはいえ、おたき瀧法寺よりも苗代川池ルートのほうが無難かと思われます。もっとも、そこまでしてでも行くべき城なのかと問われると返答に窮してしまいますが(笑) ともあれ、これで平須賀城とあわせて連戦連勝、2年越しでのリベンジを果たすことができました。あ さん、本当にありがとうございました。
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2026/03/22 07:34
京丹後市立久美浜小学校 (2026/03/20 訪問)
京丹後市立久美浜小学校付近が陣屋跡です。小学校に説明板があります。
陣屋の近くに「豪商稲葉本家」という母屋が国登録有形文化財になっている建物があり自由に見学ができます。「豪商稲葉本家」は、江戸時代この久美浜の地にて糀製造で得た富を背景に廻船業を営み、沿岸交易によって巨富を得ました。この稲葉家は織田信長の家臣の1人、稲葉一鉄一族の末裔といわれています。
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2026/03/22 07:29
「福岡城天守台発掘調査」経過報告書を読んだ感想 (2026/03/20 訪問)
福岡城を訪れると、天守台の脇にあった枝垂れ桜(早咲き桜)が1本だけ咲いていました(写真①)。しかしソメイヨシノは3/20現在まだ一輪も咲いておらず(写真②)、満開予想は4/2頃となっていますので、花見をされる方は御注意下さい!(写真⑥)。では本題に入ります。
昨年7月~12月行われた、福岡城に天守は本当にあったのかを探る、天守台穴蔵(写真③)の発掘調査の経過報告書がついにまとめられ公開されたので読んでみました。
結論から言えば、天守床下を支える「束石(つかいし)」(床下を支える柱の基礎)と「桐紋の瓦」が、一つずつ見つかったそうです。
礎石だけでなく束石と瓦があったという事は、ここに何らかの建物が建っていたという可能性は高いという事になるのでしょうか? また桐紋と言えば、豊臣家ゆかりの者にしか使えない瓦のはずです。
しかしここでふと疑問が🤔? 福岡城の築城は関ケ原後の1602~1607年です。豊臣期の瓦が出るはずがありません。桐紋瓦は、豊臣秀長の大和郡山城や、秀吉が築いた名護屋城など、豊臣ゆかりの城によく見られる事はみなさんも御存知と思います。
しかしちょっと待てよ🤔? 前回に名島城を訪れた時、名島城の建物や石垣は、黒田長政によって福岡城に移築されたと書いてありました。確かに名島城の脇門であったとされる「名島門」は現存し、現在三の丸に移築保存されています(写真④⑤)。しかし名島城の天守に関しては、佐竹義宣の家臣の見聞録に立派な天守が建っていたとの記述が残されているようですが、どのような天守だったのか? 具体的な記録は未だ発見されていません。古図を見る限りでは天守の存在は何とも言えませんが(写真⑧)、でも余湖氏の絵図にはかっこよく天守が描かれています。
よく考えると、名島城は秀吉からとても信頼の厚かった小早川隆景が築城したもので、豊臣姓も賜った隆景なので、桐紋の瓦があったとしてもおかしくありません。という事は🤔・・・福岡城の天守台(写真②)の上には、実は移築された名島城の天守が建っていたという事になるのでしょうか?・・・😱!
しかし発見されたのはどちらもわずか1点のみであり、調査も十分になされたとは言えない段階なので、たったこれだけでここまで推測するのはちょっと早計かもしれませんが、これを受けて福岡市は、今年も調査を継続する事に決め、令和8年度予算案を議会に提出たそうです。今後はもう少し穴蔵を広範囲にそして少し深く掘って調査し、併せて外側の石垣の調査も開始したいそうです。
発掘調査経過報告書は以下に2ページで解かり易くまとめられていますので、興味のある方はアクセスされて下さい。福岡市の意地をかけた文化庁とのこの戦い、第2ラウンドはどんな展開が待っているのか? 予期せぬ方向に進んでいるので、ますます面白くなってきました😊!
https://www.city.fukuoka.lg.jp/gikaizimukyoku/giji/shisei/documents/04_20260218keizai-hokoku3.pdf
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2026/03/22 07:20
愛宕神社 (2026/03/20 訪問)
円山川とその支流六方川の合流点近くの標高115mの愛宕山にある城址です。主郭を中心に尾根に曲輪を展開しています。畝状空堀群が縄張り図に描かれていますが、浅くなって見にくくなっていました。愛宕神社から主郭周辺の主要な場所は概ね整備されていてストレス少なく散策できます。
東側の尾根の堀切は比較的容易に行けました。西北にある尾根にも縄張り図では堀切が描いてあり、行こうとしましたが最初は道が見つかりません。あきらめて帰ろうとしたときに愛宕神社の北の曲輪から主郭の切岸に張り付いている細い道を見つけてしまいました。その道を通り西北の尾根に行き展開している曲輪を降りて行きました。堀切を見つけそのまま降りて行けば連郭式に配置してある曲輪を経由して下城できそうなので進んで行きました。最後の曲輪までは何とか来ましたが、そこから下りる道も踏み跡もありません。ピンクのリボンが付いている木を見つけて降りようとしましたが、踏み跡もなくかなり角度があり自分の力量では下りるのは無理と判断。比較的緩い斜面を選んで、木々を頼りに何とか下りて下城しました。
年を取って来たので無理はしないと誓ったのに結構無理しました。
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2026/03/22 07:00
但馬富士 (2026/03/20 訪問)
但馬富士と呼ばれる標高約201mの三開山にある城址です。主郭を中心に三方に延びる尾根に曲輪を連郭式に配置しています。曲輪周囲には多くの竪堀があり東側には二条の堀切がありました。ただ浅くなって見づらくなっているものもあります。縄張り図で畝状空堀群が描かれています。その場所を見ると雰囲気は残していますが、落ち葉の堆積もありよくわかりません。北側を少し下りた所には瑞宝寺趾、千畳敷といわれる居館跡、水の手などがあります。千畳敷周囲には石積みがあるとの情報があり、それらしき所を撮影しました。
登城路はいくつかありますが、自分は瑞峰寺よりのルートを利用しました。尾根道と谷を通るルートがありますが、どちらも整備されていて比較的歩きやすい登城路です。早朝から登城開始したこともあり、主郭に着くころまでは霧が出ていて霧の中の散策となりました。途中から視界がよくなり下山を始めた頃には霧はなくなっていました。
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2026/03/22 06:18
2026/03/22 06:04
太田昌明 (2026/03/19 訪問)
太田集落北側の丘陵にあり丹後宮津から出石に抜ける街道を押される要衝に築かれた城です。鎌倉時代の太田昌明の居城と伝わります。
丘陵のほぼ中央になる堀切を挟んで標高165mの東の城域と標高172mに位置する西の城域からなっています。西側の主要な郭近くにある大堀切は圧巻で、周辺には畝状空堀群を見ることができます。期待以上の遺構でした。ただ、この日は雨の影響で堆積した落ち葉と水分をたっぷり含んだ土の影響で滑りやすく散策に難渋しました。
JR豊岡駅前よりバスに乗り、出石バス停で乗り継いで太田バス停下車。バス停から徒歩1分くらいで登城口に行くことができます。獣除けの柵を開けて(もちろん閉めて)登城します。登城路は倒竹などあり思っていた以上に荒れていました。よく見ると登城路と思われる坂道などがあるのですが、すぐにはわかりません。この日は登城時には雨が降っていて、先にも述べましたが落ち葉の堆積した足元はかなり滑りやすい状態でした。西城の大空堀近くの斜面を移動しているときに滑って転倒してしまいました。撮影した写真も雨と足元を気にしてぶれていたのが多かった。晴れた日に来たかったですね。
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2026/03/21 18:17
城びと未登録のお城攻め「村田氏館」「田代三喜生誕地」。 (2026/01/17 訪問)
『お城を探す』の中「斎藤氏館」の近所に「村田氏館」があります。
毛呂山町平山地区にある「村田氏館」は住宅街の中。写真③④辺りのようですが、遺構かは分かりません。近くに『古宮神社宮殿遺跡』の碑があり、そちらに村田氏のお名前を探しましたが見当たりません。
住宅街だったので早々に退陣しました。
そして、「田代三喜生誕地」へ。
こちらは毛呂山町から越生町へ移動します。
越生町古池の民家の角にピカピカの石碑がありました。
田代 三喜さんは医師、曲直瀬 道三さんのお師匠さんです。『曲直瀬 道三 乱世を医やす人』を読み、田代 三喜さんを知りました。
曲直瀬 道三さんは、三好 長慶さんや松永 久秀さん、毛利 元就さん他たくさんの先人たちの診療をしました。
田代 三喜さんと曲直瀬 道三さんは『足利学校』近くで出会います。
私は本やTVで、先人の活躍を知ります。著者の描き方、ドラマの作り方でイメージが決まってしまいます。
でも、いろんな縁の地を巡る事で、オリジナルの人物が出来上がってきます。
今日飲んだ花粉症の薬も、もともとは先人の知恵から出来た薬。
先人のおかげで今日の私が元気なんだと思った「田代三喜生誕地」訪問でした。
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