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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征18日目:松ヶ嶽城 (2026/05/28 訪問)

白山城から車で20分ちょっとで、竹林寺参拝者駐車場(34.458987、132.876533)に着きました。

1256年(建長8年・康元元年)大多和季盛によって築かれたと云われています。
大多和氏は季盛、為盛、八郎太郎入道と三代続きましたが、1353年(正平8年・文和2年)大多和八郎太郎入道は北朝方に敗れて自刃しました。
この功によって1354年(文和3年・正平9年)平賀遠江兵衛蔵人貞宗に安芸国入野郷(大多和八郎入道、小池大輔芳等の跡)を恩賞として足利尊氏より宛がわれています。
1395年(応永2年)平賀真宗の次男次郎時宗が入野郷地頭となり、松ヶ嶽城を居城として入野氏の祖となりました。
入野氏はその後、加賀守宗継、宮内少輔宗政、出羽守宗永、左衛門大夫保継と続きます。
1518年(永正15年)入野保継は惣領家を離れて小早川氏に従おうとし、平賀弘保・興貞父子に攻められ松ヶ嶽城で自刃しました。弘保は次男民部少輔貞景を入野氏の後継としています。

山頂近くの竹林寺まで車道が付いており、近くまで車で登ることができます。
城跡へは竹林寺の仁王門前から道標が出ており、それに従って降って行けばたどり着きます。
曲輪内は雑木林で歩くのに苦労しますが、中央付近にある石組井戸までは歩きやすくなっています。
攻城時間は45分くらいでした。次の攻城先=木村城に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征18日目:白山城 (2026/05/28 訪問)

頭崎城から車で10分くらいで、白市探訪駐車場(34.454546、132.823309)に着き、そこから登り口(34.454248、132.823497)に向かいました。

1503年(文亀3年)平賀氏当主の平賀弘保は、居城であった御薗宇城の防備に不安を感じ、白山城を築いて居城としました。
しかし、白山城は交通には便利でしたが急峻な山ではなく堅固ではなかったので周辺に滝山城、新開城などの支城を築いて防御を固め、急峻な頭崎山城も築き嫡男興貞を置きました。
永正年間から大永年間にかけてこの地に近い鏡山城をめぐって大内氏と尼子氏の対立が激しくなると白山城の弘保は大内方、頭崎城の興貞は尼子方に分かれ1535年(天文4年)と1536年(天文5年)に両者は戦っています。
これらの対立により次第に平賀氏は衰退していくこととなり、後に毛利氏の介入によって親子の争いに終止符を打ち、家督を平賀隆宗に継承させました。
白山城は頭崎城が完成後も維持されましたが、廃城年は不明のようです。

現在は平賀氏の遺構の一つとして県指定史跡となっていますが、頭崎城、御園宇城とは異なり荒れるがままに放置されています。
雨でぬれた登城路は登りの段階で滑りまくり、途中で登るのを止めて下城しました。
攻城時間は25分くらいでした。次の攻城先=松ヶ嶽城に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征18日目:頭崎城 (2026/05/28 訪問)

御薗宇城から車で5分くらいで、貞重集会所駐車場入口(34.473031、132.817220)に着きました。
そこから説明板前(34.473102、132.816620)を経由して、南側登城口付近(34.475567、132.819423)に徒歩で向かいました。

1523年(大永3年)大内方の鏡山城が落城しました。平賀氏当主平賀弘保は居城であった白山城の防備に不安を感じ、近隣の頭崎山に築城し、嫡男の平賀興貞を城主としました。
ところが、興貞は父の意向を無視して尼子氏に属し、大内方に味方した弘保と孫の隆宗・広相で争いを繰り広げることとなります。
1540年(天文9年)大内義隆の命を受けた毛利元就が頭崎城を攻略しました。敗れた興貞は出家して、平賀氏の家督は興貞の嫡子である隆宗が相続します。
平賀隆宗は大内方として活躍しますが、1549年(天文18年)に備後国神辺城を攻撃中に死去しました。
祖父の平賀弘保は家督を平賀広相に継がせようと考えましたが、大内義隆の策謀によって平賀氏の家督は小早川氏庶流の義隆の寵童が改名して相続し、平賀隆保と名乗りました。
1551年(天文20年)大寧寺の変で大内義隆が陶隆房(陶晴賢)によって殺害されると、陶方に味方していた毛利元就は、大内方であった頭崎城の平賀隆保を攻めて落城させ、家督を平賀広相に継がせました。
1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いの後、毛利氏が防長移封となると、平賀氏もそれに随行し、頭崎城も廃城となりました。

登山道の落葉で滑りながら登城口から頭崎神社鳥居まで約25分弱、山頂(甲ノ丸)まで約40分弱。竹が茂って倒れている箇所もありました。
三ノ丸が開けていたので眺望をと思いましたが、もやがかかってまったく見えませんでした。
下山時、雨に濡れた道で滑り派手に点灯。お尻と両手の平を強打しましたが、手袋をしていたのでケガはなく軽い打身程度で済みました。
攻城時間は95分くらいでした。次の攻城先=白山城に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征18日目:御薗宇城 (2026/05/28 訪問)

西条駅でレンタカーを借り、そこから車で20分くらいで、登り口付近(34.470185、132.800326)に着き路駐しました。

築城年代は定かではないようですが、弘安年間(1278年〜1288年)に出羽国平鹿郡を本領としていた平鹿氏(平賀氏)の一族が、元寇に備えて西国に下り、御薗宇城を築いて拠点としました。
南北朝時代、家督相続問題で家内に争いが起きたが、平鹿郡を所領としていた惣領の平賀直宗がこの高屋保に移り住んで、安芸国の有力国人領主として成長していきました。
1403年(応永10年)山名満氏が安芸国守護として下向してくると、安芸国人衆と対立し山名氏は御園宇城に攻め寄せました。
この合戦は平賀氏が他の安芸国人衆の支援を受けて3年に及ぶ長期戦となりました。
この戦いで弘章の子、平賀共益、平賀惟益、平賀惟元らは討死を遂げたが、最終的には山名満氏を撃退しました。
1503年(文亀3年)平賀弘保は新たに白山城を築き居城を移しました。
しかし、御薗宇城は維持されたようで、廃城年は1600年(慶長5年)前後ではないかと推測されています。

竹林に入って見ると中央に開けた空間があり、南を除く三方を高い土塁で取り囲んでいました。
登り口付近にあった説明板の写真を撮りましたが文字が薄くなっていました。
頭崎城に向かう途中、平賀氏墓地説明板前(34.473114、132.795909)に路駐して墓地を確認しました。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=頭崎城に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征18日目:三ツ城(城びと未登録 広島県東広島市) (2026/05/28 訪問)

宿泊先のホテルの朝食前に、鏡山城、三ツ城(城びと未登録 広島県東広島市)を攻城しました。
鏡山城から徒歩20分弱で、三ツ城古墳南側入口(34.415529、132.733496)に着きました。

詳細は不明です。平賀広相の居城だったようです。

史跡公園となっている三ツ城古墳が城址です。
国指定史跡はあくまで古墳としての指定で、公園内の案内は古墳に関するもののみで城跡に関する記述はありませんでした。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=御薗宇城を攻城する前に、ホテルに戻って朝食を食べました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征18日目:鏡山城 (2026/05/28 訪問)

宿泊先のホテルの朝食前に、鏡山城、三ツ城(城びと未登録 広島県東広島市)を攻城しました。
宿泊先のホテルから徒歩40分くらいで、鏡山公園駐車場(34.407486、132.728932)に着き、そこから山頂まで遊歩道を歩きました。

築城年代は定かではないようですが、長禄・寛政年間(1457年〜1466年)頃に大内氏によって築かれたと云われています。
大内氏の安芸支配の重要拠点として機能していたため、尼子氏によってたびたび攻撃され、1523年(大永3年)の「鏡山城の戦い」で毛利元就の計略によって攻略されました。
1525年(大永5年)に大内氏は鏡山城をふたたび奪回しました。その後は安芸支配拠点を杣城や槌山城へ移し鏡山城は廃城となりました。

本日、降水確立0%なのに小雨が降りはじめました。小雨の中、カッパも傘もホテルに置いたままなので急ぎ足で攻城しました。
鏡山城は現在、鏡山公園として整備されていて、駐車場も数十台置けます。
案内板や城址碑や、公園内の地図も充実しているので間違うことなく登城できます。丸太の階段も整備されていて登りやすかった。
この城の最大の見どころは畝状竪堀です(写真を撮りましたがアングルが悪く竪堀に見えないので割愛)。
攻城時間は50分くらいでした。次の攻城先=三ツ城(城びと未登録 広島県東広島市)に徒歩で向かいました。

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イタさん

遺構はないが、境内が美しい (2026/07/04 訪問)

説明板に、鎌倉中期の文永2年(1265)新田義重の子孫、中野景継により築城され、以後同氏の居城となった。景継の子・藤内左衛門が新田義貞とともに戦死したため、築城73年で廃城になった・・・。東西110m・南北140mにおよび、わずかに南面に塁濠跡が確認でき・・・とある。

単郭の館跡で城跡は神光寺が建っている。土曜日のためか駐車場から扉・柵があり本堂側に行けず、道路にでて山門側へまわる。山門前に説明板があり城跡と分かる。山門前脇に群馬県指定天然記念物・大カヤがある。植木などよく手入れをされており境内は煩雑さがまったくない。遺構だが、南面に塁濠跡が確認でき、と載っているが本堂左・裏手は墓地で、接して民家があるので確認しなかった。先人さんの見解に、東北隅にわずかな高まりがあり、これが唯一らしい、確かに土塁跡に思える。寺域は四角だろうが、ここだけ角が欠けて塀がない。

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にのまる

函館遠征2日目。続100名城スタンプ96個目。 (2026/06/23 訪問)

今年の目標のひとつ、続100名城制覇。
遅々として進みませんがまだ諦めてはおらず、ここ勝山館が今回の函館遠征のいちばんの目的地でもありました。

公共交通機関での行き帰りのルートを調べると、木古内拠点と新函館北斗(江差経由)拠点でバス便がありました。しかし、行きはともかく帰りは“逃したら現地で宿を探すしかない”ということになりかねない本数なので、本命と保険のふた通りをインプットしておきました。

行きは新函館北斗07:59発の函館バス(610系統)で江差病院。そこで約1時間待って10:10発の木古内駅前行き(631系統)に乗り換えて大留バス停に10:42着。

あとは歩くのみ。天の川を超えてどんどん進みます。(途中の花沢館については改めてレポします。)

旧笹浪家住宅、上ノ国八幡宮横が登城口です。
熊鈴を持たずに行ったのでBearBellアプリ(おりんのような音色です)を鳴らしながら進みました。
荒神堂跡を経て登城口から10分ほどで大手口に到着しました。(大留バス停からは50分程度)

目前に広がるのは現代の日常とはかけ離れた世界。
しかし、立体また平面表示された建物跡などと景観やスケール、立地などからここには人々の暮らしが確かにあり、また重要な役割を担っていたということを肌で感じることができました。(井戸はぬかるみで行けませんでした。)
こんなに素晴らしい世界に立つ体験ができて心底ありがたいと思いました。(おときゅうに感謝🙏)

ガイダンス施設では展示を見学し、説明を伺いました。
こちらが続100名城のゴールだとキーホルダーがいただけるそうです。5種類の缶バッジ(¥100/個)がツボだったので全種類購入してしまいました^^

“保険”の方の大留13:53発江差方面行きのバスにすれば、ガイダンス施設で15分間のビデオを見たり洲崎館に行ったりもできるかと思いましたがそのバスは(事実上の)終バスになってしまうので、13:12発の木古内行きに乗ることにしました。(木古内から道南いさりび鉄道完乗したいという邪心もあり)

最後に夷王山神社に駆け上り、美しい景色を目に焼きつけ、再び館跡を通って帰途に着きました。

……また行きたい!

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イタさん

鶉古城跡  群馬県邑楽町鶉新田 (2026/07/04 訪問)

説明版に、多々良沼に突出した「荒間崎」と呼ばれた半島部に築かれた城で、江戸初期の刀鍛冶の作刀に「鶉古城打」と銘があるため、この名はすでに使われていたようだ。城の西南端から北に高さ3m、長さ250mの土塁と、その西側に沿って空堀がある。鎌倉幕府滅亡時、北条高時の弟の僧慧性・荒間朝春らともに逃れて、ここに築城した。応永年間(1398~1428)多々良四郎忠致の居城となり・・・云々と書かれている。

周囲は多々良沼公園として市民の憩いの場所になっている。奥の駐車場の前には高い土塁が続いていて、階段で上り城内へ入れる。ここの南に土塁の欠けた場所があり本来の虎口だったのか。城内には水路が曲がりながらあるが遺構かは不明。北側に土塁はないが、いかにも堀に見える溝があるが、説明板に載ってないので違うのだろう。その北には多々良沼が見える。東端からは沼が一望でき、細く伸びた先には浮島弁財天が祀られている。土塁の欠けた手前に城址の標柱と説明板が立っている。

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イタさん

木々が多く、四季折々で楽しめるとある (2026/07/04 訪問)

先人さんの情報では、鎌倉時代に佐貫次郎太郎嗣綱が築いたとされる。城跡は光恩寺の寺域になり、山門の右には初の女性医師・荻野吟子の生家の長屋門が移築されている。生家は現在の埼玉県熊谷市妻沼の名主の家の生まれとあるので、いきさつは不明だが明治23年以前に光恩寺さんに移築されている。

山門前には堀跡が残る。本堂の左(西側)辺りにも堀跡・土塁跡らしきものが確認でき、背後に回り込むと明らかに土塁・堀跡が見られる。整備された道が先に続くため向かうと、こんもりした岡があり階段で上がれる。上の左端には鐘楼があり、反対右端には佐貫氏の子孫と言われる赤井照光(尾曳城または館林城城主)の墓碑(五輪塔)が建立されている。訪問時は城の一部と思う程度だったが、帰宅後先人さんの情報を見ると、古墳(堂山古墳)らしく櫓台・物見台として利用されたように載っている。堂山の南一帯は重機が入り工事中の為行かないが、朱色の阿弥陀堂が見える。遺構は山門前と本堂左から背後にかけての土塁・堀が分かる程度だった。

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イタさん

場所は城跡より、つつじが岡公園が一般的 (2026/07/04 訪問)

先人さんの情報に、赤井照光が築城するとされる。立ち寄らなかったが、他の情報に、大袋城主・赤井照光が、子供に捕らえられた子狐を助けると、老翁があらわれ子狐の礼を述べ、館林が築城に適していると説く。七夕の夜、老いた狐があらわれ尾を曳いて縄張りをし、完成後は永く守護神(弁財天?)に使えると、照光は築城し名も尾曳城とし、社殿を造営したとある。

説明板に、最も古い資料は、室町時代の文永3年(1471)のもの。1590年に徳川家康は江戸の北を守る要所として、榊原康政を配置する。以後、館林城は徳川一門・親藩・譜代大名7家が統治する。後の幕府5代将軍徳川綱吉も、寛文元年(1661)から将軍就任まで城主を務める。大規模な改修などを行うが、跡を継いだ子の徳松が創世したため城は一時取り壊される。その後6代将軍家宣の弟、清武を祖とする松平’(越智)家が城主となり、城を再建するが、秋元氏が城主の時に明治を迎えました。明治7年の大火によって主な建物を失いました、と載っている。

三の丸南駐車場を利用する。道路を挟んで奥に市役所が建っている。道路際には三の丸(二の丸かな)の南面の土塁らしきものが見られる。縄張図に二の丸は庁舎付近と載り(他の資料では庁舎は二の丸と三の丸を跨いでいる)、三の丸は文化会館付近とある。庁舎前から本丸方面を眺めると、野原が広がり、先に本丸石垣と呼ばれる高まりが見える。よってみると明治以降の石組み思えるが。脇に井戸跡がある。本丸の東端に向井千秋記念こども科学館が建っている。南面に土塁が少し残り、南の御厩曲輪(南曲輪)はただ広い野原になっている。科学館の東に八幡神社が建つ。八幡曲輪先は城沼が広がっていたようだが、大分先まで陸地になっている。ここの森には鷺が営巣しており、清掃管理の人に聞いたらカラスとせめぎ合いをしているそうだ。北側には最後の城主、旧秋元氏別邸が建ち、子孫の春朝氏が投網をする像が建っている。庁舎背後から追手門跡を目指す途中の千貫門跡を通るが、碑があるのみであった。追手門跡は三角公園辺りで、低い跡碑がある。戻って土橋門跡を見学。他の遺構を見たあとのため、まず左右の土塁が残っているのに驚く。門は復元だがいかにも城郭らしい雰囲気がでている。短いが土塀も再現されている。手前にあった堀は消滅。潜り門を入れば狭いが枡形になっている。土塁は門側から西に長く延び、見応えのある遺構になっている。この三の丸には文化会館(カルピスホール)が建っている。

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たびしろ

岩屋城 (2026/03/21 訪問)

大野城とセットで登城

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たびしろ

吉川元春館 (2026/03/11 訪問)

吉田郡山城 登城後 立ち寄る
(広島市からレンタカー)
遺構は分かりやすく管理されている

近くの万徳院跡も行くと良い

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イオ

仁正寺陣屋(滋賀県蒲生郡日野町西大路) (2026/01/04 訪問)

仁正寺陣屋(城びと未登録)は、江戸前期に入封した市橋長政が日野中野城の主郭跡と北東部に構えた陣屋で、市橋氏が10代続いて明治を迎えました。なお幕末には「仁正寺」を「西大路」に改称しています。

日野中野城北東の広場が仁正寺陣屋跡で、藩主市𣘺家邸趾の石碑が立てられています。陣屋跡に遺る建物は米蔵だけですが、周辺にはいくつかの移築建物があり、清源寺には御殿が本堂として移築されています。清源寺は市橋氏の菩提寺でもあり、境内には藩主の廟塔が建てられていました。法雲寺の本堂には御殿の破風が移築されていて、境内には蒲生賢秀と市橋利政の墓がありました。そのほか、陣屋の勘定部屋は布施氏邸宅(西大路集議場)として、陣屋町の東木戸門は経王寺の山門として移築されています。聖財寺の本堂にも陣屋の部材が使用されているようですが、見落としてしまいました。そして、陣屋町東端(興敬寺)の土塁を確認して仁正寺陣屋をひとめぐり。

日野中野城のついでに訪れただけのはずが、近場のあちこちに陣屋の建物が移築されていて意外に見るところがありました。京都・相国寺塔頭の林光院に移築された御殿もいつか見てみたいものです。
 

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赤い城

愛宕山公園 (2026/06/27 訪問)

この日は法要のため帰省、その他の所用を終えてもまだ明るい。
どこか1つ城行こう、と思い向かいました。
隙あらば城です😊

平田市街にある愛宕山公園が城跡で近くには平田本陣もあります。
西側の駐車場に車を置き登ります。
下の方はミニ動物園となっています。
さらに登ると城域に入りますが公園化により遺構はほぼ無い状況です。

西側の曲輪には東屋が建っています。
さらに登ると主郭、こちらにも東屋と説明板が設置されています。
晴れていたら素敵な眺望が待っていますがこの日は雨上がりの曇り空。
今ひとつでした。
北側から降りると動線を兼ねたと思われる堀切もありました。

京極氏の家臣、多賀氏の居城でしたが毛利氏が尼子攻めの際に攻略したとされます。
この日は実家泊まり、山奥の広い家で独り寝るのも心細いですが疲れもありぐっすり眠ることができました。

朝田さん、広島城レポート読ませていただきました。
ご紹介したスポットに立ち寄っていただけて嬉しいです😊


【見どころ】
 ・主郭北側の堀切
 ・(晴れてたら)眺望

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征17日目:稲村山城 (2026/05/27 訪問)

勝山城から車で25分くらいで、進入口付近空スペース(34.420198、133.018761)に着きましたが、工事中で駐車できなかったので、少し先の空スペースに路駐しました。
今日は1日、雨の予報です。駐車場所についた時は雨が止んでいたので登城決行です。今日は雨の強弱が本当にわかりません。
駐車場所から、山への進入口付近(34.420183、133.020628)に向かいました。

築城年代は定かではないようですが、応永年間(1394年〜1428年)田坂氏によって築かれたと云われています。
田坂氏は小早川春平が応永年間に下野国から招き、小坂郷の地を与えられここに居住したことに始まるそうです。
1544年(天文13年)毛利元就の三男隆景が竹原小早川氏を継ぎ、更に沼田小早川家を継ぐにあたって、家老田坂善慶は異を唱えるが高山城内で日名内玄心の奸計によって討たれ、その後小早川氏によって攻められ落城しました。

主郭に城趾碑があり、神社が祀られています。
攻城時間は40分くらいでした。本日の城巡りは、ここがラストです。
本日の宿泊先に向かう為、三原駅でレンタカーを返却し、三原駅からJR山陽本線を利用して西条駅に向かいました。
歩行歩数=16111歩、歩行距離=11.2Kmです。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征17日目:勝山城 (2026/05/27 訪問)

鷲尾山城から車で30分弱で、御調八幡宮駐車場入口(34.471741、133.082355)に着き、そこから広福寺(34.472334、133.085902)にむかいました。
ちなみに、御調八幡宮の広い駐車場にはトイレがあります。
今日は1日、雨の予報です。雨が降っていたので、しばらく様子見しました。
雨が小雨になったこと&鷲尾山城でレッカー車に駐車場所を開ける為、登城を取りやめたこともあり、登城を決行。

城主は室町将軍足利氏一門の渋川氏の一族でした。
はじめ勝山城を居城としていましたが、1526年(大永6年)に渋川義陸が小童山城を築いて居城を移したそうです。

勝山城は御調八幡宮の北東、広福寺の東背後にあり、北へ伸びた尾根の先端頂部に 築かれています。
広福寺境内の北側のお堂の裏から堀切に登る道がついています。
広福寺に向かう途中、地元の方に声をかけられたので、勝山城を見学する旨を話したら、城跡があることをご存じなかったです。
主郭に登る道を捜す為、廻りを一周していたら、どこからきたかわからなくなりました。情けないです。
結局、一番登り易そうな場所から直登しました。
主郭から下を覗いてみましたが、結構怖いです。
攻城時間は40分(雨の様子見時間を含む)くらいでした。次の攻城先=稲村山城に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征17日目:鷲尾山城 (2026/05/27 訪問)

余崎城から車で30分ちょっとで、城照庵付近(34.480821、133.188086)に着きました。
今日は1日、雨の予報です。小雨が降っていること&城照庵で駐車していたら下からレッカー車が登ってきました。
レッカー車に駐車場所を開ける為、登城を取りやめ、ここで撤退しました。

1336年(建武3年・延元元年)杉原信平・為平兄弟によって築かれたと云われています。
杉原(椙原)氏は丹波国椙原発祥で桓武平氏。平貞盛を祖としているが、平清盛の四代孫秀衡の子恒平を養子に迎えていることから平秀衡の後裔とも称しています。
椙原胤平の子、信平・為平兄弟は再興をかけて九州へ落ちた足利尊氏にしたがって九州の多々良浜の戦いで功を挙げ、木梨十三か村(尾道・後地・栗原・吉和・久山田・木原・猪子迫・白江・三成・市原・木梨・小原・梶山田)を領し鷲尾山城を築いたそうです。
鷲尾山城主は信平・光守・元盛・元直・光恒と続きましたが、1543年(天文12年)尼子晴久の軍勢によって攻められ鷲尾山城は落城、杉原光恒は自刃して果てました。
光恒の子隆盛(始め高盛・元清とも)は大内義隆の助力を得て鷲尾山城主となり釈迦ヶ峰城と改めました。
1572年(元亀3年)石原忠直に攻められ落城。高盛も討死してその子元恒は本郷城主古志豊長を頼り、後に小早川隆景の助力で石原氏を討って釈迦ヶ峰城を取り戻しました。
1584年(天正12年)元恒は千光寺山城を築いて移り廃城となりました。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=勝山城に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征17日目:余崎城 (2026/05/27 訪問)

青木城から車で20分くらいで、進入口(34.360333、133.210644)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、弘治年間(1555年〜1558年)に村上吉充によって築かれたと云われています。
因島村上氏の当主村上吉充は1555年(弘治元年)厳島合戦において毛利氏に与し、その恩賞として向島と宇賀島を与えられました。
村上吉充は余崎城を築いて長崎城から移り居城としたが、1567年(永禄10年)には青木城を築いて居城を移し、余崎城には城代として鳥居次郎資長が在城しました。

現在城址周辺は私有地の為、立入禁止になっています。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=鷲尾山城に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征17日目:青木城 (2026/05/27 訪問)

青影城から車で15分くらいで、重井東港前付近(34.345023、133.147126)に着きました。
今日は1日、雨の予報です。小雨が降っていますが、案内標識の城跡まで5分の表示で登城決行です。
そこから重井郵便局前にある説明板を確認して、登城口(34.345060、133.147291)に向かいました。

築城年代は定かではないようですが、1567年(永禄10年)年因島村上氏六代村上新蔵人吉充が向島の余崎城より移り居城としたと伝えられています。
因島村上氏六代村上新蔵人吉充は「第一次木津川口の戦い」で織田方の水軍を壊滅させ、石山本願寺に兵糧を搬入することに成功したことで知られています。
三原瀬戸、布刈瀬戸、備後灘を押さえ、さらに三原城の前面に位置する実戦的な水軍城でした。

入口は因島郵便局から北へ進んだ住宅の横の看板を目印に階段を登って行きます。 途中に石垣の遺構らしきものが有ります
本丸跡に龍王神社が祀られ、説明板が建てられています。
攻城時間は20分くらいでした。次の攻城先=余崎城に向かいました。

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