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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征12日目:院庄館 (2026/05/22 訪問)

葛下城から車で20分弱で、石橋前(35.061259、133.943153)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、鎌倉時代(1180年~1336年)初期の頃から美作守護館としてあったと考えられています。
1347年(正平2年)山名時氏は赤松貞範と戦い、笹向城・高田城を攻め、自ら院庄館を落として居城としました。
1571年(元亀2年)には宇喜多氏がこれを奪い片上秀胤に与えました。この地は、宇喜多・毛利氏の争奪戦がくり広げられた地です。
1603年(慶長8年)信濃川中島より森忠政が美作一国を領して入封。院庄館の修築を試みたが、この地は適地ではなく津山築城となりました。
太平記によれば、1331年~1333年(元徳3年~元弘3年)に起こった「元弘の変」に敗れた後醍醐天皇が隠岐に配流される時、院庄館にて児島高徳が『天莫空勾践。時非無范蠡。』の十文字の詩を記したと云われる伝承地のようです。
院庄館は、明治になって後醍醐天皇と児島高徳を祀る作楽神社境内となっています。

現在は、作楽神社の境内となり土塁と堀跡の一部が残っています。
土塁の周辺に残る堀は、明治になって作楽神社建立の際に掘られた堀のようです。
境内には児島高徳の銅像もありました。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=神楽尾城に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征12日目:葛下城 (2026/05/22 訪問)

高田城から車で35分弱で、櫓のある所の道路脇(35.111831、133.890671)に着き路駐した後、葛下城駐車場(35.109489、133.889157)に徒歩で向かいました。

築城年代は定かではないようですが、応仁の乱(1467年~1477年)の頃、赤松氏は旧領美作回復の為、美作岩屋城を配下大河原氏に守らせました。
この時期に葛下城は築かれたと考えられており、城主にはその一族大河原大膳大夫が配されたそうです。
美作は1513年(永正10年)頃より赤松氏の執事である浦上氏が支配下に置いていました。
出雲の尼子経久は浦上氏当主・村宗死後の浦上宗景・政宗の兄弟不和による内紛の混乱に乗じ1532年(天文元年)尼子詮久らを大将に美作に侵攻、一時は美作の大半を制圧するに到りました。
1540年(天文8年)赤松・浦上両氏の反攻や周防の大内氏の石見侵入により尼子氏は出雲に撤退する事となります。
その後、美作には備前天神山城の浦上宗景が侵入し勢力を広げます。
1541年(天文13年)尼子経久の跡を継いだ孫の尼子晴久は、叔父である新宮党の尼子国久と宇山久信に命じ美作に大攻勢を仕掛け、この戦いで葛下城も落城、大河原氏は没落し葛下城は尼子の属城となりました。
1565年(永禄8年)頃には安芸の毛利氏が美作に勢力を伸ばし始め、翌1566年(永禄9年)に月山冨田城の尼子氏を攻め滅ぼし葛下城も毛利氏の勢力下に入ります。
葛下城には毛利氏配下の中村頼宗が在城し大規模に毛利氏の拠点城郭として拡張整備を行ったと考えられています。
1582年(天正11年)の本能寺の変を受け、秀吉は毛利氏と和議を結び、隆梁川以東を秀吉側の宇喜多氏に割譲しましたが、葛下城主だった毛利方の浅山氏は、和議に反対して籠城しました。
浅山氏は、毛利氏の説得により、1583年(天正12年)に城を明け渡すことに同意しますが、城明け渡しに際し城に火を放ち自刃し、葛下城は廃城となりました。

時間の都合で登城口付近で撤退しました。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=院庄館に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征12日目:高田城 (2026/05/22 訪問)

岩屋城から車で30分くらいで、三浦邸椎の木御殿駐車場(35.100211、133.700651)に着き、その後、三の丸跡駐車場(35.087832、133.690864)➡二の丸グランド前(35.088138、133.694298)の順番で廻りました。

築城年代は諸説あるようですが、延文年間(1356年~1361年)から嘉慶年間(1387年〜1389年)頃に三浦貞宗によって築城されました。
1532年(天文元年)三浦貞国が没すると尼子氏部将の宇山久信が侵攻し落城します。
1559年(永禄2年)三浦氏とその旧臣によって攻撃し落城、三浦貞勝が城主となります。
1565年(永禄8年)三村氏と毛利氏によって落城しますが、翌1566年(永禄9年)三浦貞盛と旧臣が奪還します。
1569年(永禄12年)尼子勝久が美作に入ると三浦氏もこれに従ったが、毛利氏の部将香川春継によって落城します。
1570年(元亀元年)三浦氏は尼子氏に援軍を求めまたもや復城します。
1576年(天正4年)再び毛利氏の侵攻にあった三浦氏は、浦上氏に援軍を求めるが得られず宇喜多氏の和議によって開城します。
その後、毛利の家臣楢崎元兼が入城しますが、備中高松城の合戦によって毛利氏と織田氏の和睦が成立すると、宇喜多氏の所領となり家臣が在城します。
1600年(関ヶ原合戦)によって宇喜多氏が改易となると、岡山に入部した小早川秀秋の家臣が在城します。
小早川氏が改易となると、津山藩森忠政が城番を置きましたが、森氏改易後は一時直轄領となり廃城となりました。
江戸中期の1764年(明和元年)に譜代大名の三浦明次が西尾藩より転封して勝山藩が立藩しました。
当初は高田藩と呼んでいましたが、勝山城に改称したことにともない勝山藩となり、幕末まで三浦氏が10代続きました。
この三浦氏は高田城の麓に藩庁を構え、廃城となっていた高田城の一部を改修して、二の丸に櫓などを築いたそうです、山上の整備はそれほど進まなかったようです。
なお、高田城を築城した三浦氏と江戸時代に勝山藩主となった三浦氏は同祖異系だそうです。
尼子氏や毛利氏によって何度も攻められ落城しますが、三浦氏はそのたびに奪還しています。執念を感じます。

現在二の丸が野球場になっていますが、勝山藩時代の調練場でした。このグラウンドの西端に櫓台があります。
最初、櫓台がある竹林の小径から登城しようしましたが、このルートは道が悪く危険なので、馬洗場ルートから登城しました。
山頂の本丸周辺には堀切などの遺構が残っています。南西麓の市役所付近に三の丸が置かれていたそうです。
南の太鼓山に出丸があるそうですが、時間の都合で行ってません。
また市内に最後の城主、10代・三浦顕次(たかつぐ)が暮らした「椎の木御殿(旧三浦家別邸)」があります。
攻城時間は60分くらいでした。次の攻城先=葛下城に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県佐用町)遠征12日目:岩屋城 (2026/05/22 訪問)

医王山城から車で50分弱で、岩屋城第一駐車場(35.072460、133.839606)に着き、説明板と案内板を確認しました。
その後、岩屋城第二駐車場(35.074710、133.839956)に向かい登城開始です。

嘉吉の乱(1441年(嘉吉元年))により赤松満祐に替わって山名教清が美作国守護職に任じられ、築いたのが岩屋城と云われています。
応仁の乱(1467年~1477年)で山名政清が兵を率いて京に上り、山名忠政が岩屋城を守備していましたが、大内義弘に乞われて忠政も京に上ったため、赤松氏はこの隙に美作に侵攻し岩屋城を落としました。
1473年(文明5年)赤松政則が美作国守護職になると、その部将大河原治久を城主としました。
1520年(永正17年)赤松氏家臣の備前国三石城主浦上村宗が謀反をおこして岩屋城を攻略すると、中村則久を置きました。 赤松氏は小寺範職・大河原治久らを送り攻撃させますが落城しませんでした。
1544年(天文13年)尼子氏が美作に侵攻し尼子国久によって岩屋城、小田草城、医王山城などが尼子氏に降り、尼子氏によって美作が支配されます。
しかし、毛利氏によって尼子氏は滅ぼされると毛利と結んでいた宇喜多氏に属して浜田家職が城主となりました。
宇喜多直家は毛利を離反して織田信長の家臣である羽柴秀吉と組むと、毛利氏によって攻められ落城し、1581年(天正9年)には毛利方の葛下城主中村頼宗が城主となります。
1582年(天正10年)備中高松城の合戦で毛利氏と羽柴氏が和睦をすると、美作は宇喜多氏に割譲されます。
美作国が宇喜多氏に割譲された後も岩屋城主の中村頼宗は城を明け渡さず、1584年(天正12年)宇喜多氏は家臣の花房職秀を遣わし、周囲に陣城群を築いて攻め立てます。
しかし、数ヶ月に及ぶ攻城戦でも岩屋城は落ちず、やがて毛利氏のもとに寄寓していた将軍足利義昭の調停によって開城しました。
宇喜多氏は長船越中守を置いたが、1590年(天正18年)野火によって焼失し廃城となったと伝わっています。

ぴーかるさんの投稿に従い、登山道見学コースの逆、第二駐車場から舗装道を登っていき、第一駐車場に下りてきました。
感想としては、ぴーかるさんの投稿通り、こちらのルートの方が楽だと思います。(楽だと言っても、それなりにきついです)
現在城址には遺構が良好に保存されており、巨大な畝状竪堀群や大堀切などが残っています。
攻城時間は90分くらいでした。次の攻城先=高田城に向かいました。

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リマリマ

暑かったけど犬山城に行ってきました (2026/06/30 訪問)

バイクに乗っている間は、風を切っていくのでそんなに暑くは感じませんでしたが、バイクから降りてみると、愛知はめっちゃ暑い。
犬山城の天守閣に登るのもまた暑かったです。

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宮城県の名城巡り最後は「仙台城」でした (2026/06/21 訪問)

私のライフワーク「(続)日本100名城巡り」、6月は宮城県の名城を歴女の娘と巡りました。
宮城県名城巡り最後に訪れたのは、国の史跡や日本100名城にも指定されている「仙台城」です。
ご存じとは思いますが、青葉山に築かれた伊達政宗の平山城で別名を「青葉城」と言い天守閣は造られませんでした。
明治の廃城令で取り壊され、残っていた大手門なども戦時中の空襲で焼失してしまったそうです。

今回も例によって、アップした撮った写真に沿って簡単な説明を入れていきたいと思います。
「続きを読む」と「すべての写真を見る」の両方を開いてもらえば、写真を見ながら説明を読めるので便利です。
PCだったら画面をスクロールしながら説明と写真を見較べるとさらに見やすいですよ!

① 最初は毎回恒例の御城印です。中央の大きな朱色の部分は伊達家家紋「竹に雀」です。本来の家紋を少しデフォルメしてる感じです。中央に描かれている正宗の金色の大きく細長い三日月が「独眼竜・正宗」のシンボルですね。
② 「大手門脇櫓」は仙台城の表口の大手門を守る櫓です。コンクリートで外観のみ復元されましたが白い漆喰風の壁と石垣、二層の櫓風構造が美しいですね。櫓は本丸跡からかなり下で(見逃し注意)城下町側の入口付近にあります。
③ 「伊達政宗公騎馬像」は仙台城といえばこの景色という定番スポット。三日月形の前立て兜をかぶった政宗が馬にまたがる姿が凛々しいです。仙台市を見下ろす高台にあり、台座には正宗の功績を記したレリーフがあります。
④ 「本丸跡の高石垣」反り返るような曲線と角の部分の直線が強調されて石垣の高さと威圧感が伝わってきます。石垣は整形した石を積み上げた「打込接」と思われ目地が揃っていて斜面の緩やかなカーブで防御性高めています。
⑤ 「上段の間の障壁画」仙台城見聞館に再現展示されていました。金地に馬と鳳凰、桐など吉兆を顕すモチーフが描かれた巨大な障壁画は桃山期の狩野派によるもので華やかな濃彩が印象的です。
⑥ 「大手門北側の土塀」空襲で仙台城はほぼ全て焼失しましたが、この土塀だけが焼け残り、現在まで残る唯一の建造物です。上記「大手門脇櫓」の向かい側にありますが、本丸へのルートによっては通りませんのでご注意を。
⑦ 「大手門脇櫓の鯱」白壁と黒瓦のコントラスト、復元建築ながら千鳥破風の美しさに心魅かれました。本丸から1km以上下がった場所(城下町の手前)にあるので良く調べていかないと出会えないで終わってしまうことに。。。
⑧ 「本丸北側の高石垣」下から見上げるように撮りました。本丸をぐるっと支える巨大な石垣の中でも特に高さがある北面の部分です。まさに仙台城らしい迫力の景色です。
⑨ 「本丸跡からの眺め」広瀬川と河川敷グラウンド、その向こうにビル群が見えます。天気に恵まれれば太平洋まで見渡せるそうで残念でした。片隅にあった「仙台城跡」の標柱が寂しそうだったので一緒にくっ付けました。
⑩ 「御城印(?)」どちらも厳密な意味では御城印ではないのかな? 右側は「仙台藩初代藩主 伊達政宗公」と書かれており「武将印」になるのかな? 左側は「欧州貝ヶ森城」と書かれたステンドグラス風のデザインが鮮やかです。

天守は築かれず、戦災で石垣と大手門脇櫓しか残っていませんが、迫力満点の石垣から城のスケールの大きさが実感でき、また大手門脇櫓が復元されたことによって、当時のイメージが伝わって来て、さすが、伊達政宗という思いを新たに感じました。
日本100名城に恥じぬ素晴らしい城でした!

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todo94

大人の休日俱楽部パス 飛島渡航失敗翌日・江戸城三十六見附めぐりの続き② (2026/06/28 訪問)

国の重要文化財に指定されている清水門と田安門はすでに幾度か訪れたことがあります。九段下の駅から武道館に向かう人はまず田安門は通るに違いありません。清水門のあたりからぽつぽつと降り出した雨は田安門についたころには本降りとなり、半蔵門のあたりではかなりの強い降りになっていました。風がなかったのは不幸中の幸いでした。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征12日目:医王山城 (2026/05/22 訪問)

有元城から車で20分ちょっとで、岩尾寺(35.130543、134.065355)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、南北朝時代以前に上道是次によって築かれたと云われています。
南北朝時代には山名氏と赤松氏が美作の地を巡って争っていたため、山名忠重が在城していました。
1554年(天文13年)尼子国久が備中を経由して美作に侵攻し、浦上宗景に属していた岩屋城や小田草城を攻め落として引き上げました。
戦国時代、毛利元就が尼子氏を滅ぼすと毛利領となり、湯原春綱らが在番していました。
1579年(天正7年)宇喜多直家は織田信長に通じて毛利氏と敵対、羽柴秀吉とともに医王山城を攻めています。
その後、備中高松城の落城後に秀吉と毛利氏の間で和睦が成立すると宇喜多領となり、直家は有事に備えて城を修復しています。

登城口は岩尾寺にあり登山道が整備され、案内板が設置されています。杖もありました。
曇空でしたが、主郭からの見晴らしはいいです。土塁や堀切などの遺構も確認することができます。
時間の都合&熊が怖いので本丸で折り返し、倒木荒地方面の堀切や畝状竪堀群は見に行ってません。
下山寺、足の踏ん張りがきかず3度転びそうになりました。(長い遠征で足も悲鳴を上げているようです)
攻城時間は45分くらいでした。次の攻城先=岩屋城に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征12日目:有元城 (2026/05/22 訪問)

竹山城から車で30分くらいで、碑/説明板前(35.099696、134.168475)に着き路駐しました。

築城年代は定かではないようですが、中島左衛門尉によって築かれたと云われています。
その後、中島氏は有元氏によって攻められ落城、有元佐弘の時にこの城に居城しました。
1532年(天文元年)尼子氏の部将福本和泉守によって攻められ落城しました。

時間の都合で説明板の写真を撮って撤退しました。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=医王山城に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征12日目:竹山城 (2026/05/22 訪問)

福城から車で40分くらいで、山頂の駐車場(35.109392、134.321533)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、新免貞重が1493年(明応2年)山王山城から竹山城に居城を移してから、1600年(慶長5年)の関が原の敗戦まで赤松氏の一族である新免氏3代108年間の居城でした。
剣豪 宮本武蔵の祖父・平田将監、父・平田無二斎はこの城の家老であり、剣道師範役としても仕えていました。
1554年(天文23年)新免貞重の子、新免宗貞のとき尼子氏の侵攻にあい一時所領を失いましたが、1557年(弘治3年)再び取り戻します。
赤松氏に替わり宇喜多氏が台頭してくるとそれに従い、新免宗貞の子、新免宗貫は関ヶ原合戦で宇喜多氏に従って戦い敗れました。
その後、新免宗貫とその子の宇右衛門は筑前に逃れて黒田長政に仕えました。このときに廃城になったようです。

現在城址は「城山公園」として案内板が建てられています。
無線中継施設の建設などで遺構の大半は消失していますが、曇空でしたが見晴らしはいいです。
無線中継施設で工事やってました。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=有元城に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征12日目:福城 (2026/05/22 訪問)

井の内城から車で30分くらいで、宇垣一成揮毫忠霊塔前(34.995503、134.263044)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、 城主は江見帯刀で林野城にあった尼子氏の部将川福久盛に属していました。
1565年(永禄8年)出雲の尼子氏が毛利氏に攻められると川福久盛は出雲に撤退してしまいました。
これによって川福氏に従っていた諸将は、天神山城主・浦上景宗と結んだ三星城主・後藤勝基に属しましたが帯刀はこれに同調せず後藤氏に攻められ落城しました。
帯刀は浪人となり、のちに宇喜多氏に仕えたそうです。

登城口は作東野球場にあります。
現在城址には本丸跡に城山稲荷神社が建てられています。
「馬落とし」と呼ばれる堀切や竪堀などの遺構を確認することができます。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=竹山城に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征12日目:井の内城 (2026/05/22 訪問)

津山駅でレンタカーを借り、そこから車で30分弱で、公文小学校跡地大仙グラウンドゴルフ場入口(34.961101、134.127492)に着き、そこから説明板(34.960545、134.127265)を確認して、登城口(34.956140、134.127922)に向かいました。
公文小学校跡地大仙グラウンドゴルフ場はゲートボールを楽しむ方の車で一杯でした。

築城年代は定かではないようですが、1441年(嘉吉元年)山名持豊に従った北条氏吉が公文荘を与えられ、大仙山に築城したのが始まりとされています。
その子孫である清氏のとき下山氏を称しました。1544年(天文13年)には三星城の後藤氏に責められ落城しました。
出雲の尼子経久が山名氏に代わり美作・但馬・播磨にまで勢力を広めますが、代わって毛利氏がこの美作へ侵攻してきます。
1579年(天正7年)備前の宇喜多直家は毛利氏と手を切り、信長に味方するようになりました。
そして毛利氏に対抗する為に、家臣の花房職之と延原弾正に、笹部勘二郎が守る周匝茶臼山城を攻め落し、さらに北の後藤勝基の三星城へも攻撃をしかけました。
もともと後藤勝基は天神山城主・浦上宗景の重臣であり、直家が主家であった浦上氏を滅ぼした時、宇喜多氏と後藤氏は敵対、井の内城主の下山正氏も後藤氏に付きました。
宇喜多軍が三星城近くまで攻めて来た時、下山氏・小堀氏などが城を出てよく戦いますが、城内での安東相馬による裏切りで井の内城は落城しました。

説明板のある大手道は藪化しているという情報より、鳥渕神社側から登りました。
前日の大雨で足元はぬかるみ、落葉で足を滑らせて、また転んでしまいました。大事になる前に撤退です。
どおも転ぶことと迷子になることに少しナーバスになっているようです。
攻城時間は45分くらいでした。次の攻城先=福城に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征12日目:津山城周辺散策 (2026/05/22 訪問)

宿泊先のホテルの朝食前に、津山城周辺を散策しました。
宿泊先のホテルから徒歩10分弱で、吉井川と高瀬船石碑前(35.057102、134.000072)に着きました。
以下の順番で散策しました。
①:吉井川と高瀬船石碑前(35.057102、134.000072)
 江戸時代、吉井川の水運を利用して美作地方と備前金岡を結び、物資の大量輸送に活躍したのが高瀬船だったそうです。
②:知新館(35.058221、133.998145)旧平沼騏一郎別邸
 第35代内閣総理大臣平沼騏一郎の古稀の祝に、法曹界ならびに郷土の人々が元の場所に生家を復元し、平沼家に贈呈したものだそうです。
③:成道寺山門前(35.059067、133.994152)
 成道寺は江戸時代初期の1604年(慶長9年)に初代津山藩主の森忠政公が建立した浄土宗のお寺です。
 松平藩に代わってからは重臣たちの菩提寺として栄えたそうです。
 鐘楼/津山城瓦/佛足後石/津山藩初代藩主松平宣富公墓などがありました。
 (見れないかも)津山藩初代藩主所有乗物
④:翁橋(35.060629、133.994260)
 1926年(大正15年)に造られた鉄筋コンクリート橋です。
⑤:本源寺中門前(35.061890、133.993652)
 本源寺は津山城主・森家の菩提寺です。(臨済宗)本堂は1607年慶長12年)に上棟されたそうです。
 本堂、庫裏、中門、霊屋、霊屋表門は国指定の重要文化財のようです。
 鐘楼/中門/霊屋表門/津山藩家老長尾家墓処/津山藩主森家一門墓
⑥:京橋御門跡(35.059720、134.004261)
⑦:津山城内堀跡(35.059446、134.004115)
⑧:大隅神社(35.064540、134.015519)鶴山館移築表門
観光時間は105分(移動時間含む)くらいでした。次の攻城先=井の内城を攻城する前に、ホテルに戻って朝食を食べました。

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ぴーかる

生地台場 (2026/05/10 訪問)

【生地台場】
<駐車場他>生地台場の場所に駐車できます。
<交通手段>車

<感想>1泊2日富山ちょこ城巡り1000㎞旅22城目。お台場跡の詳細は現地説明板の添付写真をご覧下さい。
 現地の土塁は発掘調査後に復元したものだそうです。大砲ちっちゃい。

<満足度>◆◇◇
<魚の駅>生地できたて館・とれたて館でカレイとサバの干物を買いました。保冷バック持参がいいです。保冷剤は売ってます。値段は安くて、とにかく大きさがめちゃでかい!、食べ応え十分でした。

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シャンシャン

瀬戸内海を臨む山城 (2026/06/19 訪問)

岡山の海側の玉野市にある山城。
車で頂上付近まで行くことができ、登山道もちゃんと整備されており登りやすい。古ぼけているけど案内板も随所に配置されていて、歴史や成り立ちを知ることができて嬉しい。頂上である本丸からの景色も絶景!
曲輪がしっかり残っており石垣も確認できた。ただ、下調べが足らず、本丸裏側や兵庫丸にある石垣を見逃してしまった・・・
次来ることがあれば、ちゃんと見物したい。

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トク

11【秀吉の播磨平定をたどる⑥】平井山(竹中半兵衛最期の地) (2026/06/12 訪問)

三木城から東へ5kmの所にある平井山にある秀吉の陣跡まで行ってきました。神戸鉄道の「上の丸」駅からさらに1駅の「恵比須」駅で下り、そこから気温32度と暑かったので、行きは登山口(駐車場)までタクシーを使い(1200円)、帰りは1時間かけて歩いて駅まで戻りました。登山口(写真①②)からは整備された自然遊歩道(太閤道)があり、約10分の軽い登りで本丸まで行く事ができます(写真③④⑤)。

登山口から300m下った場所には、三木城攻めの最中にここで亡くなった、竹中半兵衛の墓がありました(写真⑧⑨⑩)。今の発展した福岡市があるのは、松寿丸(=黒田長政)を匿ってくれた竹中半兵衛のおかげでもあるので、福岡市民として墓に手を合わせてきました。

本丸の木々の間からは三木城が見えました(写真⑥⑦)。あの周りには、蟻の這い出る隙間もないほどの羽柴の軍勢で取り囲まれていたと思います。そして秀吉と秀長は、ここからその様子を1年10カ月に渡り眺めていたのですね。

長い籠城戦を最後まで見届ける事ができなかった半兵衛は、どんな思いでこの平井山から三木城を眺め、そして亡くなって行ったのでしょうか? また秀吉や秀長は、どんな思いでここから別所長治の自刃する様子を見届けていたのでしょうか? 5年にも及ぶ長い播磨平定をかけた戦いが、ようやくこれで終結し、ほっと安堵した半面、干し殺しという残虐な方法とった事に、後ろめたい気持ちもあったのではないでしょうか・・・🤔。

しかしまたしても、ゆっくりしている暇はありません。鳥取城の山名豊国が毛利方に付いたため、信長から「因幡を攻めよ」との命が下ります。

次は鳥取城を訪れ、因幡平定をたどって行こうと思います。
 

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イオ

大河ドラマ「真田丸」

「豊臣兄弟!」も毎週楽しみに観ていますが、Amazonプライムビデオで配信中の「真田丸」を本放送以来に観終えましたので、今さらながら印象的だった登場人物について少々…。

真田家が主人公のドラマとしては、NHK新大型時代劇枠で40年前に放映された「真田太平記」が強く印象に残っていますが、「真田丸」のキャスト発表で「真田太平記」で真田幸村を演じた草刈正雄さんが今度は真田昌幸を演じると聞いた時は、あの凛々しく格好良かった幸村が30年を経て昌幸になるなんて! と驚くと同時に、とはいえ「真田太平記」で丹波哲郎さんが演じた昌幸はまさに「稀代の謀将」「表裏比興の者」そのものだったので、あの昌幸を超えるのは並大抵じゃないよな…とも思っていました。そして10年ぶりに「真田丸」を観返してみて、超えるのではなく違う昌幸像を見せてもらったな、と改めて。「真田太平記」の昌幸はどんな局面でも動じることなく策をめぐらせていた印象でしたが、「真田丸」の昌幸は迷いもすれば弱音も吐き間違えもする。でも、考えてみればそれで当たり前なんですよね。我々は昌幸が戦国の荒波を乗り越えていくことを知っていますが、やってる本人にそんなことがわかるはずもなく、自分の判断に家族や家臣たちの命と人生が懸かっていると思えば、むしろ迷ったり悩んだりしないほうが不思議なわけで。そういう人間味のある昌幸だったように思います。

昌幸と並んで印象的だったのが上杉景勝です。「真田太平記」での印象は特に無く、主役級だった大河ドラマ「天地人」でも「寡黙で格好良い主君」以上の印象はありませんでしたが、「真田丸」では敬愛する謙信公のように義のために生きることを志ざしながらも、力及ばず果たせない自分を恥じている、そんな人物に描かれています。上杉の人質となった真田信繁を我が子のように慈しみ、信繫も景勝を慕っていましたが、上杉家と領民を守るために秀吉に屈し、家康の専横に立ち上がるも敗れて石高を大幅に減じられ、それでも長い物に巻かれて生き続ける景勝の胸中を思うと観ているこちらがいたたまれなくなるほどでした。けれどそれだけに、かつて「お主はわしのようにはなるな。この世に義があることを己自身の生き方で示してみせよ」と言って聞かせた信繁が、真田丸で徳川方の大軍を相手に堂々たる戦いを繰り広げている様子はまさに義の体現、自分がなりたくてなれなかった義に生きる姿を示してくれている…。「日の本一の兵!」 景勝の叫びが胸に響きます。「日の本一の兵」をこういう形にもってくるとは。誰に言われるより「真田丸」の景勝に言われると泣いてしまうじゃないですか。

この二人のほかにも、そんな御屋形さまに小言を言いつつもその思いを叶えようと力を尽くす直江兼続、傲岸不遜ながら不器用なまでに真っ直ぐな石田三成、信繁の義父となる大谷吉継はやっぱり格好良いし、本放送時には意識していなかった豊臣秀長は「真田丸」でもやはり豊臣政権のまとめ役として描かれていたり、改めて観返すといろいろと気付かされたり再認識したりすることがありました。1か月あまり投稿をサボってでも観た甲斐があったというものです(笑)

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todo94

大人の休日俱楽部パス 飛島渡航失敗翌日・江戸城三十六見附めぐりの続き① (2026/06/28 訪問)

大人の休日俱楽部パスで新潟に前泊(山梨の地震で安全確認があり、新潟到着は23分、遅れました。)し、始発列車で酒田に向かい酒田港から飛島渡航を狙っていました。しかし、欠航のためあえなく断念。酒田では雨も風もなかったのですけれども。ぽっかりとあいてしまった土曜日の動きを思案しましたが、酒田の鉄道事情はとてもひどいものでした。新潟方面の列車は2時間も先なのです。結局、特急いなほで秋田駅に向かい、比内地鶏の究極親子丼を昼食にとって、秋田新幹線こまちで上京いたしました。酒田から新庄、山形へのアクセスがもう少しまともであったなら山形新幹線E8系に乗りたかったのですけれども。秋田経由と山形経由、東京着の時刻は10数分しか違わないというのはかなりの驚きでした。

日曜日は上越新幹線で長岡に行き、越乃Shu*kuraに乗車予定ですので、朝は東京でかなりの時間の余裕がありました。2025年9月の江戸城三十六見附めぐりの続きにチャレンジです。最初の神田橋門跡は神田橋公園が整備工事中でした。工事が完了したらまた訪れたいと思います。一ツ橋は、家康の入府時には既にあって一本の木を渡しただけの橋だったそうです。それゆえの命名とか。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征11日目:太閤ヶ原陣 (2026/05/21 訪問)

鳥取駅停から徒歩25分弱で、樗谿公園入口(35.498316、134.242127)に着きました。

1581年(天正9年)に羽柴秀吉の軍勢が吉川経家らが籠城する鳥取城を包囲して、いわゆる「鳥取の飢え殺し」と呼ばれる兵糧攻めを行った際に、秀吉が本陣を敷いたのがこの太閤ヶ平(たいこうがなる)です。
1580年(天正8年)羽柴秀吉は但馬・因幡へ侵攻を開始。但馬の山名祐豊らを降し、秀吉自ら1万の軍勢を率いて因幡へと進軍し鳥取城を包囲します。
城主山名豊国は、鹿野城に置かれた毛利方の因幡国衆の人質を押さえられ秀吉に降伏しました。
毛利方も山名豊国に不満を持つ家老中村春続・森下道誉ら調略し豊国を追放させ鳥取城を奪回しました。中村・森下氏は吉川元春に山名氏に代わる守将の派遣を要請します。
1581年(天正9年)吉川元春は一族の福光城主吉川経安の嫡男経家を鳥取城へ城督として派遣すると、羽柴秀吉は2万の大軍を率いて再度鳥取城を包囲して兵糧攻めを行います。
100日に及ぶ籠城戦で兵糧の尽きた毛利方は開城し、守将吉川経家は久松山山麓の真教寺にて自刃して果てました。

雨が降る中、太閤ヶ原陣まで3.7Kmを歩く気力が残っておらず登城口付近で断念しました。
太閤ヶ原陣は登城口付近で撤退しましたが一応、鳥取県のお城は全て攻城となります。
攻城時間は10分くらいでした。本日の城巡りは、ここがラストです。
本日の宿泊先に向かう為、樗谿公園やまびこ館前バス停から鳥取県鳥取市くる梨赤コースバスを利用して鳥取駅に向かい、ホテルで荷物を引き取った後、JR因美線で津山駅に向かいました。
歩行歩数=26625歩、歩行距離=18.6Kmです。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征11日目:鵯尾城 (2026/05/21 訪問)

西円通寺バス停から徒歩45分弱で、登城口付近(35.441857、134.190100)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、天文年間(1532年〜1555年)頃に因幡山名氏の家臣・武田国信によって築かれたと云われています。
国信の子・高信の代に鵯尾城を弟又三郎に譲って鳥取城へ移ります。
因幡武田氏は若狭武田氏の庶流と云われ、因幡山名氏の家臣でしたが、武田高信のときに毛利に属して勢力を拡大し主家に背くようになったそうです。
武田氏は1563年(永禄6年)守護・山名氏に反抗し布勢天神山城より山名豊数を退却させるなど因幡国における優位な地位を築きます。
しかし、山名豊国・山中幸盛の軍勢に侵入され、1569年(永禄12年)芦屋城の戦いでは城主の武田又三郎が討死、一連の争いで大きく勢力を衰退させました。
1573年(天正元年)の甑山城における「たのも崩れ」以後、武田高信は山名・尼子軍に包囲された鳥取城を山名豊国に明け渡して鵯尾城へ退きました。(尼子再興軍による鳥取城の戦い)
1575年(天正3年)鵯尾城からも山名豊国によって追放され、高信は但馬国の塩冶高清を頼りますが、毛利氏からも見放され、1576年(天正4年)大義寺にて謀殺されました。
武田氏の追放後の鵯尾城は、1575年(天正3年)毛利方の武将・山田重直が在番していましたが、まもなく廃城になったようでする。

鵯尾城は玉津集落南西の山に築かれており、現在は登山道が整備されています。鵯尾神社鳥居付近に案内板があり、ここが登城口となります。
当初、鵯尾城は車(レンタカー)で攻城する予定でしたが、先人の「動物除けの柵が4ヶ所もつけられている」との投稿で車(レンタカー)で攻城するのを断念。(面倒くさいことは嫌いです)
「動物除けの柵」ですが、車の場合はその都度開ける必要がありますが、徒歩ならば開けなくても簡単に乗り越えられます。
鳥居から鵯尾神社まで400m、主郭まで1050mの歩行距離で、山頂の主郭には表示杭が建てられています。
山頂の主郭からの眺望は雨ともやの為、よく見えませんでした。
雨の中、歩き続けたので、カッパを着ていてもズボン、靴の中、上着(これは雨というより汗と思います)がグショグショです。
西円通寺バス停は屋根がついているので、上下一式着替えました。靴は替えがないので濡れたままです(靴下履き替えても靴の中が濡れているので意味ないですかど)。
攻城時間は90分くらいでした。次の攻城先=太閤ヶ原陣を攻城する為、西円通寺バス停から日ノ丸自動車バスを利用して鳥取駅に向かいました。

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