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カズサン

惚れ惚れする重層石垣群 (2026/09/07 訪問)

 復元された中ノ御門枡形裏より太鼓櫓石垣台、二の丸走り櫓石垣台、菱櫓石垣台、天球丸石垣を望むと重層した石垣群が聳えて眺望でき、いつもながら惚れ惚れ見とれてしまいます。
 この石垣群は昭和18年の鳥取大震災で崩落し戦後昭和30~40年代頃シンボルの二の丸三階櫓台、その後二の丸大菱櫓台、走り櫓周り、表御門石垣台周りが復元されて、平成に成って天球丸石垣周り、太鼓櫓台石垣、天球丸巻石垣、天球丸下楯蔵台石垣周りが復元修復され、鳥取大震災から60年掛かりの修復復元の成果を見て居ります。
 20年前の平成18年に幕末の姿を甦らせる鳥取城復元30年計画が作られて、現在復元した擬宝珠橋、中ノ御門枡形が遅れていますが初期10年計画の成果です、残り太鼓櫓が完成すると10年計画の完成です。
 後に11~20年計画で二の丸走り櫓、菱櫓、21~30年計画で二の丸三階櫓の完成でファイナルです。

 北御門を抜けて駐車場へ、途中の二の丸三階櫓台、城代屋敷元野球場現博物館西側の内濠石垣が草刈整備されて居ましたので掲載、内堀南側、内濠から見上げる久松山も掲載。
 最後に家内の要求で、50数年帰省したが鳥取砂丘の駱駝に乗ってないと言われ砂丘へ、家内の駱駝騎乗の写真は掲載できませんので、鳥取砂丘馬の背写真を最後に掲載します。

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チェブ

城びと未登録のお城攻め「礼羽氏館」。 (2026/07/04 訪問)

「騎西城」のある加須市に『礼羽』という地名がありました。
『らいは』と読みます。最近のキラキラネームみたいです。
グーグルを広げると「礼羽氏館跡」「礼羽館跡」「礼羽陣屋跡」と道沿いに3カ所、興味深い館跡。
礼羽氏って誰?という理由で、この道を通り抜ける事とし、車をスタートさせます。
住宅とまばらに畑がある道沿いに「礼羽氏館」はありました。アパートの館名板と同じ角度で標柱があった為に通り越してしまいました。
和田 義盛さんの三男、義秀さんと戦い討たれた御家人の中に、礼羽 連乗さんのお名前があるそうです。
 
どーしても、アパートにしか見えません。
礼羽氏ってどんな方だったのかな?

この先にも、標柱がありました。
手入れのされた松があるお宅に、『礼羽誌略』という標柱。このお宅の中に、誌略として礼羽氏の事も記載されているかもしれませんね。

最近、市町村の合併にともない、変わってしまった地名が多いです。
素敵な由来が多いので、なるべく残してもらいたいと思った「礼羽氏館」通り抜けドライブでした。

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にのまる

真夏の高遠城は。 (2026/08/31 訪問)

高遠城といえば桜のイメージだったので、行くなら春(または遺構が見やすい晩秋)がいいと思い込んでいたのですが、ふと、夏の高遠城ってどんな感じなんだろう?という思いが湧き、そうなると行ってみたくてたまらなくなったので、18きっぷ(5日間用)の1日目に出かけてきました。

飯田線の伊那北駅からJRバスで高遠駅で下車。
初めて高遠城に行った8年前、この「高遠駅」が鉄道の駅ではなくバスターミナルだということになかなか気づけず、なぜ鉄道路線図に載っていないの?乗換案内に出ないの?と疑問だらけだったことを思い出しました。

高遠駅から高遠城に向かう道はとてもすてきな城下町です。町並みも落ち着いていてきれいだし、景色も素晴らしくて心が豊かに暮らせそうな城下町だなと感じました。

そして桜も紅葉もない真夏の高遠城がどうだったかというと、大手坂石垣も目を凝らせば見えたし、園内通路も歩きやすくて、思っていた以上に快適でした。見どころの二の丸の空堀も夏真っ盛りで緑がもさもさなのに埋もれていなくてはっきりとわかるのがびっくりでした。

南曲輪では発掘調査をしていらっしゃいました。現在のような公園になる前の、江戸時代末期の庭園の痕跡を調査し、かつての高遠城の姿を目指して整備事業に取り組んでいるそうです。

この日は月曜日で歴史博物館や絵島囲み屋敷は休館でしたので、帰りのバスまでの時間に「高遠なつかし館」と「旧馬島家住宅」を見学しました。
「高遠なつかし館」は調律済みの足踏みオルガンを弾いたり展示物に触れたりできます。昔の農機具などとともに、私が子供の頃に使っていたものや実家にまだあるものが資料として展示されているのを見ると複雑な気持ちになったりもしますが、昭和遺産も個人で保管し続けるのは大変なので、誰もが見て触れることができる施設は日本の未来のために必要なのだろうなと思いました。
「旧馬島家住宅」は高遠藩の御殿医、馬島家の屋敷です。他に誰もいないのをいいことに上座敷でくつろいだりなど、自由に過ごさせていただきました。

ということで、高遠城は真夏でも楽しめるお城でした。
最後に余談?ではありますが城内のトイレ🚻の数がすごく多かったです。数えてはいませんが、ここにもそこにもあっちにもこっちにも。トイレの多さも印象に残っています😊

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イオ

本丸と城下 (2026/04/12 訪問)

(続き)

金森長近公像から東に向かうと本丸石垣の上に越前大野城の石碑が立てられています。本丸東端には麻木櫓という二重櫓があったようですが、現在は休憩所の前に説明板があるのみです。休憩所の裏手に下りて行った先にある金龍院なる仏堂は、やはり金森長近に関係するものなんでしょうか? 金龍院の前の道を折り返して下っていくと本丸東面に麓まで続く竪堀があります。越前大野城には金森期のものと思われる竪堀が北面に2条、東面にも2条あるようですが、他の3条は藪に沈んでいて確認できませんでした。

越前大野城の石碑まで戻って、本丸城門跡(小さな石碑あり)を抜けて百間坂から下城します。百間坂は往時の唯一の登城道で、明治期に整備された際に堀の石材が用いられているそうですが…どこにどう用いられているのかよくわかりませんでした。南登り口近くの柳廼社には土井利忠が祀られています。境内にある池は堀の一部が残ったもので、南側に馬場と厩舎があったことからお馬屋池と呼ばれています。そして最後に城下から天守を遠望。大手門広場に「野」の字のオブジェが2つ設置されているのは何だろう? と思っていましたが、どうやら両手両足を横に広げて「大」の字を作って「野」の字の左側に立ち、天守を背景として写真を撮る映えスポットのようです。

そして、前回の城下散策で見落としていた七間清水をチェックして、家族に好評だった伊藤順和堂のいもきんつばをお土産に買って(そのために保冷バッグ持参)、亀山西駐車場に戻りました。亀山の反対側になるので、城下町に行くのであれば亀山西駐車場はおすすめできません。歩きでは遠かった…。
 

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ニコ・ロビン

100名城の59( ・᷄ㅂ・᷅ )姫路🏯国宝・世界遺産 (2026/09/16 訪問)

サイコー( ・᷄ㅂ・᷅ )6回目かぁ
見応えある✨世界遺産・国宝✨
中華が少ないと、ホント助かる
ライトアップも綺麗✨
心の底から残っていて良かった(・᷄ㅂ・᷅ )感謝
今後の人生で、あと何回見にくるのかな
未来永劫残して欲しい物🏯

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西尾市歴史公園 (2026/09/19 訪問)

 近くへ来たので寄ってきました。西尾市歴史公園として整備されています。シルバーウィークの初日でしたが訪れる人はまばらでゆっくり散策できました。何回か登城していますが、一番少なかったような気がします。
本丸丑寅櫓、二之丸丑寅櫓と「屏風折れ」を持つ土塀、鍮石門などが再建されています。
 名鉄西尾駅から徒歩15分くらいで行くことができます。
 

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佐久間盛政の墓がこんなところに? (2026/09/17 訪問)

 西尾城から南へ約7Km、愛知県西尾市吉良町の海蔵寺には佐久間盛政の墓があるという情報を得て行って来ました。佐久間盛政は織田信長の家臣で柴田勝家の甥であり彼の与力として活躍した武将です。海蔵寺にある斜めに切り裂かれたような墓石がそれで正確には墓ではなく碑だそうです。
西尾市教育委員会の看板にはその逸話が書かれています。天正十一年(1583)の賤ヶ岳合戦で敗れた盛政は捕らえられ京都で最後を迎えます。家臣の鈴木八郎治が盛政の遺体をひそかに故郷である現在の西尾市吉良町萩原に持ち帰り埋葬しました。八郎治は佐久間の文字を避け索麻と刻み、自ら出家して供養したそうです。索麻塚と呼ばれています。
 真偽はともかく興味深い話です。

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とってぃ

シルバーウィークに (2026/09/19 訪問)

家族旅行のついでに寄った白山神社。

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トク

31(最終回)【秀長の晩年をたどる⑥】大和郡山城(3/3)春岳院と大納言塚 (2026/03/26 訪問)

最後に、秀長を祀る「春岳院」と秀長の墓(供養搭)である「大納言塚」を訪れ、そこで手を合わせてきました。春岳院には秀長の肖像画・木像・位牌も安置されていて、今年1月から見学できるようになっています。特に「秀長の木像」と「秀長の位牌(実物)」は一見の価値があると思いますので、是非ここは訪れるべき場所だと思いました。写真撮影はできなかったので、パンフレットを御覧下さい(写真①②)。

1590年9月、馬にも乗れずやっとの思いで京都から郡山へ戻った秀長ですが、もう病の悪化が激しくなり、床に臥せたまま動けなくなってしまいます。「積(しゃく)」という腹部にしこりができ激しい痛みをともなう病気だったと興福寺の多聞日記には書かれており、今で言う「大腸がん」のような病気だったのではないかと推測されます。

1582年山崎の戦いの時に嫡男の与一郎を亡くした秀長には、後継ぎがいませんでした。よって側室の子でまだ幼い娘の「みや」に婿養子として秀保(秀吉・秀長の姉「とも」の三男で秀次・秀勝の弟)を急ぎ迎えて婚礼を済ませ、家督を継がせます。秀吉は小田原征伐が終わり、秀長危篤の知らせを受けると、郡山城へ急ぎ見舞いに行きます。やつれた秀長を見て驚き、1000人もの僧侶を集め祈祷させたとか。また慶(ちか)は、秀長が没収した土地を全て寺社へ返上し、その代わりに祈祷するように頼んだそうです。しかしそれらの甲斐もなく1591年(天正19年)1月22日、豊臣秀長はついにこの世を去りました(享年52歳)。雪が深々と降る寒い日だったそうです。

秀長死後、秀吉により郡山城下に「大光院」が建てられ、秀長はそこに葬られました。葬儀には20万人もの人が集まったとか。これは当時の京都の人口に匹敵する程の数で、その参列は永遠と続いていたそうです。いかに秀長が慕われていたかが想像できます。

しかし1595年に娘婿養子(嗣子)の秀保もわずか17才で亡くなると郡山豊臣家は断絶してしまいます。1598年に兄の秀吉までも亡くなると、1599年秀長の家老だった藤堂高虎は、大光院が家康から処分されてしまう事を恐れたのか、「春岳院」に位牌を預け、大光院を墓ごと京都の大徳寺境内に移築したようです。しかし江戸中期の1777年、春岳院の和尚たちにより荒廃した大光院跡地にこの供養塔が建てられ、京都の大光院から分骨したと伝わっています(写真③④⑤⑥)。

あの偉大な秀長が、今はここ(大光院跡地の荒地)にひっそりと眠っている姿を見て、私は何かやりきれない気持ちになりました。秀長があと10年長生きしていれば、秀吉の無謀な朝鮮出兵も止める事ができ、関ケ原も起きる事はなく、豊臣の世が続いて行ったのではないかと、誰もがここで思った事でしょう。

ここで最後にふと疑問が🤔? なぜ秀長は重い病であったにもかかわらず、京都の聚楽第からこの大和郡山まで、命をかけて戻ってきたのでしょうか? 京都からそれが不思議で、その事をずっと考えていました。

それはもしかして、死期を悟った秀長は、やはり愛する妻の「慶」(ちか=慈雲院)に会いたい、そして「慶」と「みや、きく」の二人の娘に囲まれて最期の時を迎えたい・・・その思いが、そうさせたのではないでしょうか? となぜか墓の前でそんな事を、ふと考えてしまいました。

以上で、私の【豊臣秀長をたどる旅】を終わります。この後は、イオさんの【月影の男紀行】にバトンタッチしたいと思います。全31回長々と読んで頂き、ありがとうございました(完😊!)。
 

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イオ

天守と天守曲輪周辺 (2026/04/12 訪問)

金龍紀行として約3年半ぶりの再訪です。前回は城下散策のみだったので、今回は天守に入って金森長近ゆかりの品などを見たいと思います。ジェイドさんの投稿にあるように、結ステーション駐車場が30分以上有料になっており、南登り口近くの亀山南第一駐車場も満車だったので、亀山西駐車場(無料・20台ほど)から登城しました。

西登り口から急な階段を一気に登り、幕末の名君として知られる土井利忠公像に寄り道してから本丸へ。武具蔵の石垣の脇に設けられた模擬城門をくぐると、天守曲輪石垣の上に天守群がそびえ立ち、その手前にお福池があります。お福池は防火用のため池で、金森長近の正室の名に由来するようです。天守曲輪石垣沿いに北に進むと天守曲輪に通じる武者登りがあり、天守曲輪の東側からは石垣の上に天守群が並び建つ定番ショット。元あった天守の形状に基づかない復興天守ながら、これはこれで悪くありません。前週ならまだ桜も残っていたでしょうか。そして駕籠道を登って天守曲輪へ。武者登りを上から見下ろし、天守曲輪からの眺望を楽しんで天守に入ります。大天守内は資料館として歴代城主の遺品が展示されていますが(撮影禁止)、土井期のものが大半で金森長近のものはあまりありませんでした。400年以上前に数年間在城しただけなんだから仕方ないですね。最上階の展望室からは戌山城や長近が開いた城下町が一望できます。小天守の1階には二の丸御殿の模型や説明パネルが展示されていました(こちらは撮影可)。

天守を出ると塩硝蔵跡から武具蔵跡をめぐり、金森長近公像を見上げて本丸東部に向かいます(続く)。
 

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トク

30【秀長の晩年をたどる⑤】大和郡山城(2/3)天守台 (2026/03/24 訪問)

天守台の登り口には、有名な「さかさ地蔵」や「平城京羅生門の礎石」もありました(写真③④⑤)。天守台にはこのような転用石が、発掘調査では表面だけでも1000基発見されたそうです(城びと特集より)。この転用石も、石が取れないため強引に奪ってきたのかと思いきや、全てがそうではなく、領民に1人1個ずつ大きな石(またはバケツ1杯の小石)を持ってこいと御触れを出すと、自分たちの祖先の墓石などを自ら提供した者も多かったそうです。

大和郡山城は豊臣秀長の最後の居城で、晩年を過ごし亡くなった場所である事は、皆さんもよく御存知と思います。秀長は四国平定が終わった1585年、妻の慶(ちか)とともに郡山城に入ります。大和の地は寺社勢力が強く、治めるには難しい土地でした。そこで秀長は、寺社に対しまず検地と刀狩りを行います。寺社から土地や武器を奪い、商人を奈良から郡山へ移動させ経済基盤をも奪います。その代わり紀州の材木で得た利益で、寺社に寄進や貸付を行い仏教に専念させる環境を作る事で、最初はいざこざや対立もかなりあったようですが、何とか良好な関係を築けていったようです。また郡山へ移住した商人たちには「箱元制度」と呼ばれる商人町ごとに特権や独占権を与えて、経済を活性化させて行きました。

秀長は「大坂→四国→大坂→九州→京都」と遠征が続き郡山へはなかなか戻れなかったので、慶(ちか)が寺社や商人との交渉やもめごとの仲裁や領国経営も行うなど、郡山城で女城主として秀長の留守を支え、その存在はかなり大きかったのではないでしょうか? 寺社の日誌などにも度々彼女の存在が記述されているようなので、あくまで推測ですが、何故かそんな気がしてなりませんでした。和歌山城の築城も並行して行われ、桑山重晴が城代として治めたようです。大河ドラマでは頼りない存在でしたが、実際は任される程なので、立派な武将だったのではないでしょうか?

私は天守台から奈良盆地を見渡してみました。かすかに東大寺や興福寺や平城京が見えました(写真⑨)。当時は高い建物や樹木もなかったので、もっとよく見えたと思います。この景色が、秀長が最期に見た景色かと思うと、感慨深かったです。秀長はここで死の直前まで、兄と過ごした信長時代からの日々を、静かに振り返っていたのでしょうね。

この天守台には、秀長が築いた望楼型で三重or五重の金箔瓦で輝く天守が建っていたと推測されていますが、天守の絵図は残っておらず詳細は分かっていないようです(写真⑥)。正保の絵図には天守は描かれていないので、その時には間違えなく無かったようです。天守台では金箔瓦と天守の礎石が発掘調査で発見され、また天守には付櫓があったようです(写真②)。そこで私は、同じく付櫓のある望楼型の松江城が、金箔瓦で光輝くようなイメージを想像してみました。家康により大和郡山城の天守は二条城に、その他は伏見城に移築されたと大工の記録にあるようですが、詳細は不明なようです。できればいつかは詳細が解明され、再建されたらいいなと思いました。

次は(最終回)、秀長の菩提寺と墓所を訪れます。
 

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イオ

南東尾根と南出郭群 (2026/04/12 訪問)

(続き)

主郭南下段の曲輪から南東にのびる尾根の付け根は堀切で遮断されています。尾根筋にも幾条かの堀切があり、その先には南出郭群が広がっています。南出郭群は雲海に浮かぶ「天空の城」越前大野城の展望台として整備されていて、あるいは…と少しは期待していましたが、雲海どころか見事な晴天の下の越前大野城でした(やはり1年半前に来ていれば…)。階段状に設けられた小曲輪群の頂部が南出郭群の主郭で、南東裾には横堀がめぐり、主郭部のような畝状空堀群は見られないものの、南東、北東、南西に派生する支尾根には小さな堀切がありました。以上、2時間弱で戌山城をひとめぐり。

一時的にであれ金森長近の居城となった城でもあり、金龍紀行の一環として登城しましたが、各尾根に幾重にも設けられた堀切といい主郭部を取り巻く畝状空堀群といい、実に見応えのある城でした。戌山城それ自体よりも「天空の城」目当てで訪れる人のほうが多いのかもしれませんが、山城好きならきっと満足できるものと思います。南東麓から鍬掛ルートで登城される方もぜひ展望台から主郭部まで足をのばしてみてください。
 

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にのまる

住宅街の公園の中の緑 (2026/08/16 訪問)

名島城見学後、西鉄バス🚌で香椎東小学校🚏へ。
着いたところは見晴らしのいい坂の上の新興住宅街。香椎台おいの山公園が城址で上下2段の広場になっています。上下段の間は自然の木々が残され、奥にまわると深い堀跡のような地形もあります。それが城の遺構なのかどうかは私には判断できませんでしたが、解説板も設置されており、ここがかつては山城だったことを思い描くことができました。
帰りは博多バスターミナルから高速バスに乗りたかったので香椎神宮からJR線で博多に出ました。香椎神宮までの下り坂は結構長かったですが、おかげで山上の山城と麓の里城(館や屋敷群)をほんの少しですが追体験できました。

todo94さん、大福屋さん情報ありがとうございます。4/29のシルクフェアと「降幡もち店」、覚えておきます😊

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トク

29【秀長の晩年をたどる④】大和郡山城(1/3)追手門と大河ドラマ館 (2026/03/24 訪問)

念願の大和郡山城を訪れました。近鉄奈良駅から大和西大寺駅で乗り換えて近鉄郡山駅まで20分。駅から郡山城までは徒歩10分程でした。駅を降り線路沿いを歩く途中の、東隅櫓と近鉄電車のアングルには感動し、思わずシャッターを押してしまいました!(写真④)。

まずは大河ドラマ館に入りました(写真⑧)。ドラマ館には唯一ここだけではないかと思われる秀長の銅像を見つけました!(写真⑨)。そして出口でちょっと休憩。おみやげコーナーで大和茶だんご(写真⑩)を買って、ドラマ館前のベンチに座って、(写真②)の郡山城を眺めながら食べました(わ!これ美味しい😊!)。

それから鉄筋門の歓迎アーチをくぐり、追手門と追手向櫓前に立ちました。郡山城はこのアングルが最高ですね!(写真①)。追手門に刻まれた金色に輝く豊臣の「桐紋」を見ると思わず身震いがします(写真③)。追手門の先には城址会館があります。明治期の図書館のようです。そこから極楽橋を渡り本丸へ入ります。橋の手前に柳沢文庫(続100名城スタンプ場所)がありました(写真⑤)。スタンプを押し、橋を渡ってふと振り返ると、枝垂れ桜がとてもきれいに咲いていました(写真⑥)。ちょうど桜祭り初日で、ソメイヨシノはまだつぼみでしたが、人はとても多かったです。左側に目をやると柳沢吉保を祀る柳沢神社もありました。郡山は金魚で有名な町ですが、柳沢氏が甲府から持ち込んだのが始まりだそうです(写真⑦)。

そして次は、いよいよ天守台に登ります(続く)。
 

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大石遠江守信重 (2026/09/17 訪問)

 詳細は不明なようですが、大石遠江守信重の館と伝わっています。土塁や空堀が遺されているとの情報もありますが、周囲が住宅となっていて近づくことができません。駐車場から写真を撮り日月神社に寄って退却しました。

 西武鉄道所沢駅から徒歩15分くらいで日月神社に行くことができます。

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山口家継 (2026/09/17 訪問)

 平安時代末期に武蔵七党の村山党から分かれた山口氏の居館跡です。

 西武鉄道狭山線下山口駅から徒歩約5分の場所に石碑と説明板があり土塁が一部残っています。

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山口氏の城 (2026/09/17 訪問)

 この地方を治めていた山口氏が、居城の山口城が防御施設としては弱いため築いた城です。
所沢市のHPによると「郭・土塁・空堀などの遺構が、ほぼ完全な姿で保存されている稀少な城跡ですが、山口貯水池(狭山湖)区域内に属し、東京都水道局管理のため見学はできません。」と書かれています。空堀や土塁などがあるなら少しでも見ることができないものかと淡い期待を抱いて行ってみました。藪になっていてフェンスの外からでは全くわかりません。立入禁止の看板を撮影して退散しました。

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みか

住みたい。笑 (2026/09/12 訪問)

二の丸御殿の中の撮影は出来なかったけど、大政奉還の様子や屏風、欄間など凄かった👏
時間があれば2周したかった!

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イオ

北東尾根と主郭部 (2026/04/12 訪問)

(続き)

主郭部から北東にのびる尾根の付け根も巨大な堀切と竪堀で断ち切っています。北東尾根にはいくつかの小曲輪と堀切が設けられていました。北東尾根付け根の堀切まで戻って西に向かうと、主郭南面には隙間なく畝状空堀群が連なっています。主郭南下段の曲輪を抜けて向かった主郭部西面にもびっしりと畝状空堀群が続いていました。主郭部のほぼ全周を囲むこの凄まじい畝状空堀群。これぞ朝倉の城! という感じですね。そして主郭北下段の曲輪から主郭へ。主郭を囲む切岸はなかなかの高さ、鋭さがあります。戌山城は堀切や畝状空堀群が充実している一方で、土塁はわずかに主郭の北辺に見られるくらいです。

さて、主郭から南下段の曲輪に下りると、南東尾根に向かいます(続く)。
 

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todo94

にのまるさんのクイズに誘われて (2026/09/13 訪問)

にのまるさんに出題していただいた花岡城の絵図をこの前の日曜日に確認して参りました。8年ぶりの攻城なのですが、実は花岡城の麓というか宗教施設の直下には私の行きつけの大福屋さんがあり、日常的にこの界隈には足を伸ばしていました。60歳を過ぎてケーキとパンを食べるのをやめてから、スイーツは大福の一択になっています。店名は「降幡もち店」ですが、看板はなく店名表示も見当たりません。グーグルマップには載っています。花岡城にお越しの際は是非、ご賞味あれ。大福1個160円で、朝7:30開店です。なくなり次第閉店しますし、添加物不使用だと思われますから、半日くらいで餅が固くなってきますので、午前中にお越しいただくことをお薦めします。

肝心の花岡城の絵図は、もっと大きいものを想像していたので実物を見てびっくりしました。

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