鈴木孫一終焉の地(城びと未登録 三重県熊野市)から徒歩10分ちょっとで、津ノ森遺跡説明板前(33.877036、136.079611)に着きました。
そこから、有馬本城跡付近(33.880025、136.080393)➡安楽寺入口(33.880832、136.080280)➡産田神社の順番で巡りました。
築城年代は定かではないようですが、鎌倉時代頃に有馬氏によって築かれたと云われています。
有馬氏は熊野別当家の出といい、榎本氏がこの地に来て産田神社の神官となり有馬氏を名乗ったと云われています。
南北朝時代には当初南朝方であったが、後に北朝方に転じ1382年(永徳2年)北山合戦で兄弟三人とも討死したそうです。
応永年間(1394年〜1428年)頃の有馬和泉守忠永の頃には東は九鬼・行野、西は阿田和までを領しました。
その子有馬和泉守忠親に嫡子なく、甥の河内守忠吉を養子として跡を継がせ忠親は鬼ヶ城に隠居しましたが、後に実子が生まれ忠親は忠吉を自刃させます。
このことが親族の怒りを招き北山郷の者と協議して忠親の鬼ヶ城を攻め、忠親は防ぐことができず自刃しました。
その後、忠親の実子孫三郎が家督を継いだが、孫三郎に子がなく、新宮の堀内出羽守氏重の二男楠若を養子に迎え忠勝と名乗りました。
しかし、1574年(天正2年)堀内父子が病没したため、忠勝は堀内家の家督も継ぎ、名を堀内安房守氏善と名乗ったそうです。
安楽寺の南側に広がる畑とそのすぐ隣の宅地一帯が城跡です。
何にしても一面畑で何も分からないので、有馬氏が庇護していたという安楽寺へ行って見ました。
産田神社の東方にある安楽寺は1444年(文安元年)有馬忠永が大内教弘の頃の周防から海雲を招き創建しました。
安楽寺には堀内安房守の墓、説明板がありました。
攻城時間は30分くらいでした。次の攻城先=口有馬城(城びと未登録 三重県熊野市)に徒歩で向かいました。
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