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しんちゃん

まだ三つありますよ。

あさん、コメントありがとうございます。和歌山の未踏の城はまだ三つ残ってますよ。
未踏の城以外にもいろいろ回っております。ニッポン城めぐりで和歌山周辺の城を攻略して、真田大介くんを連れ帰ったので次は何処に行こうかと考えています。
赤松城もなかなか手強い城で、残りの未踏の城にもっと危ないところが有るのかな、と少し心配になりますが、皆さん百戦錬磨なので杞憂に過ぎないことを願っております。
最近アプリをやり込んでいる影響で、何処にでも湧いて出る神出鬼没のイメージがありますが、アプリでも半数を越えました。もうじき2024年度の区切りがつきますので、ようやく城びとに集中出来ます。
ちなみに和歌山県は私の父の故郷で、家系のルーツでもあります。実は私にとっても第三の故郷なんですよ。

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駿府城

静岡まつり開催&駿府城跡天守台発掘調査現場へ行こう!

春の訪れとともに、静岡市の一大イベント「静岡まつり」の季節がやってきました!
今年の「静岡まつり」は、4月4日(金)から4月6日(日)までの3日間、駿府城公園を中心に、華やかな催しが繰り広げられます。圧巻の「大御所花見行列」や、幻想的な「夜桜乱舞」など、見どころ満載のイベントで街中が活気に包まれます。
そして、「静岡まつり」に訪れた際には、ぜひ駿府城跡天守台発掘調査現場にも足を運んでみてください。当時のままの大迫力の天守台を間近で見ることができ、当時の建築技術の高さを実感できます。さらに、桜と城跡の美しいコントラストは、この季節ならではの特別な魅力です。
なお、「駿府鉄砲隊火縄銃演武」の実施に伴い、4月5日(土)・6日(日)は、駿府城跡天守台発掘調査現場(見学ゾーン・発掘情報館「きゃっしる」)の開館時間が変更となります。
【変更前】9時〜16時30分
【変更後】9時〜14時30分(最終入場14時)
ご来場の皆さまにはご不便をおかけしますが、ご理解とご協力をお願いいたします。

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玉ねぎ石 (2025/03/23 訪問)

 中の城と東の城との間の谷を国道から入っていきます。谷は、西の城の下まで続きます。谷は、中の城までは、良いのですが、そこから先は藪になっています。城びと先人のレポートにあるように、西の城は集落奥の墓地からのアクセスが容易です。谷全体は狭いながら開墾された形跡があり、藪化している部分にもお茶の木があったりします。今の時期は、藪を突破できます。藪の途中、左手に尾根に上がれそうな箇所がありました。後でわかったのですが、西の城の西出郭の竪堀でした。
 先人のレポートを見ると、主郭は、腰までの笹であったり、それほど茂ってないともあります。この度は、遺構がよく見えました。とある煩悩の登城目録さんが、見つけられなかった、西の出郭もこの時期なら、藪を越えて行けます。尾根の二重堀切も良いですが、掘り残しの土塁も凄いです。堀切から登った箇所では分厚過ぎて土塁と認識できず。
 山体は砂岩です。東の城主郭に砂岩が露頭してるのですが、玉ねぎを剥くように風化が進んでいる、玉ねぎ石を見つけました。地下深部から地表近くに上がってきて、圧力が解放され、規則的な割れができるのが、成因なんですね。
 しんちゃんさん、タイミングよく、赤松城のレポートをありがとうございます。機動力高いですねぇ。お昼に主郭まで至ったとのことで、その後、さらに、和歌山県未投稿の城に転戦されるかと見てましたが。実は既に制覇済み?

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カズサン

尾張国西部北部未踏の城探訪3/17苅安賀城 (2025/03/29 訪問)

 愛知県尾張国西部と北部未踏の城17城の内3城目苅安賀城へ一宮城跡から南西に約2.6km程に在りグーグルマップ史跡マークの苅安賀自動車学校南西角を目指して走行。

 駐車場:無し、交通量は少なく石碑南側に路駐。
 参考資料:城郭放浪記さんグーグルマップに依る。

 苅安賀城址の石碑の在る苅安賀自動車学校の南西角へ学校の南西ゲートは開いている、白く塗られたブロック塀の傍に「苅安賀城址愛知県碑文」の石碑がポツンと立っている、脇には丁度河津桜が満開で色を添えている。
 碑文は良く判明できない、浅井政高城を築くと読めるが?
 数分写真撮影し探訪終了。

 グーグルマップを見ると北約300m程の正福寺に史跡マーク「名古屋城移築城門」と有り寄りました。
 【正福寺「名古屋城移築城門」】
 住所:愛知県一宮市苅安賀西北出3017
 駐車場:正福寺南側に路地参拝者駐車場が有ります。
 正福寺は浄土真宗大谷派の寺院、南向きの山門が名古屋城移築城門と成って居ます、門前に山門の案内解説板が有ります、四脚門で主柱が円柱、脚柱が面取りの在る角柱、一宮市の文化財指定を受けている。
 本堂を参拝して移築門、鐘突き堂、本堂横の桜はちらほら咲き状態もう直ぐです、その間お寺の犬に吠えられ状態、綱に繋がっていましたので安心して急ぎ足で見学。
 山門前の東参道前の門柱横に正福寺掲示板が有り「明日死ぬかのように生きよ 永遠に生きるかのように学べ」マハトマーガンジー と黒々と墨書。・・肝に銘じます。ありがたい。
 

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カズサン

尾張国西部北部未踏の城探訪2/17一宮城 (2025/03/29 訪問)

 愛知県尾張国西部と北部未踏の城17城の内2城目一宮城へ野府城跡から南に約3,4km程に在りJR一宮駅名鉄一宮駅の西側の駐車場を目指して走行。

 駐車場:一宮駅西裏の有料駐車場、今回はABホテル一宮西裏の名鉄協商パーキング一宮第三利用30分100円。
 参考資料:城郭放浪記さんグーグルマップに依る。

 最初に狙いを定めた駐車場には駐められず、一方通行の細い道を彷徨って上記表記の駐車場に駐める。駐車場から一宮駅は100m程南口の通りを東に進攻、途中一宮トイレを借り、200m程東進し通りの北側に三菱UFJ銀行一宮支店の南西角に一宮城跡の石碑と案内パネルが有る。
 一宮城の認識は数拾年前から有りましたが仕事、プライベートで近くまで来ていても寄る機会と探訪の意欲も無く今回の流れとなりました、認知してから数拾年振りの探訪に感慨深いものが有ります。
 三菱UFJ銀行の東隣に小振りな秋葉神社が有り由緒と一緒に写真投稿します。
 
 案内板によると、この一宮城は関氏の居城、関氏は平重盛の子孫で、伊勢関氏の一族である。関長安は、はじめ織田信長に、のちに秀吉に仕え、天守12年(1584年)、小牧山の戦いで長久手で戦い討死した。とあります。
 

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イオ

素玄寺(高山市天性寺町) (2024/11/30 訪問)

素玄寺は金森長近の菩提を弔うために二代・可重が高山城下に建てた寺院で、長近の法号「金龍院殿前兵部尚書法印要仲素玄大居士」にちなんで素玄寺と称しています。本堂は高山城三ノ丸の評議場を移築したもので、素玄寺では長近の肖像画や所用の采配・軍扇などゆかりの品を所蔵しています(通常非公開)。その他、本堂の釘隠しが金森氏の梅鉢紋だったり、長近の像(高山城の銅像と同じデザイン)や在りし日の高山城を描いた絵画が飾られていました。

本堂裏手の墓地には金森家累代供養塔と金森家殉死者の墓があります。また、大原彦四郎の墓もあってちょっとびっくり。大原彦四郎紹正は江戸中期に幕府領となっていた高山に補任した飛騨代官(後に郡代)で、幕府の方針を苛烈なまでに遂行したことにより大原騒動と呼ばれる百姓一揆を引き起こしていますので、こうして今なお高山に墓があるのは意外な感じでした(幾度か倒されて破損しているそうですが)。

さて、この日はニッポン城めぐりのツアーで訪れたため、通常非公開の金森長近ゆかりの品々を見学できただけでなく、住職さんと「金森長近と城下町文化による地域の活性化推進委員会」の会長さんから素玄寺や金森長近についてのお話を伺うことができ、金森長近というと、三英傑に仕えて越前大野と高山の町を開いたまちづくり名人…くらいの予備知識しかありませんでしたが、がぜん興味が湧いてきましたので、細々と続けてきた明智光秀の「麒麟がくる紀行」もひと区切りしたことでもあり、今度は金森長近ゆかりの地をめぐってみようと思い立ち、ここ素玄寺から「金龍がゆく紀行」を始めたいと思います。
 

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todo94

献血後の攻城 (2025/03/15 訪問)

茨城県での5回目の献血を無事済ませ、遅めの昼食をとり終わるとすでに午後2時近くになっていました。高速を使って土浦にアクセスし城カードだけはゲット。土浦城はパスして、この日最後の攻城として赴いたのが、小坂城です。こんなに素晴らしい城が茨城県にはあったのですね。杉山城を彷彿とさせる空堀の折れ。城がコンパクトにまとまっていますので、土の城の魅力を短時間で存分に味わうことができるこれ以上の物件はないかもしれません。ぽつぽつと雨が落ちだしてきたので後ろ髪をひかれつつそそくさと撤収いたしました。翌日は朝から雨が降っていたのですべての城攻め計画を反故にしてホテルの無料朝食をいただいてから帰路に着きました。

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赤い城

羽床上城 香川県綾歌郡綾川町 (2025/03/15 訪問)

城びと未登録城です。
八坂神社が城跡ですが駐車場は無く、少し離れた場所に車を置きます。
城跡の下には民家があり、その手前の道を登ります。
登ったところが主郭で八坂神社が鎮座します。

神社の下に鞍部があり、南東側も小高くなり、曲輪の跡と思われます。
この曲輪跡の先に鳥居が建っています。
3つの曲輪で成る館跡であったと思われます。
帰りは鞍部から下り、民家の前を通らせて頂きました。
城主は羽床氏家臣の今滝氏とされています。

近くには釜玉発祥の有名店山越うどんさんがあります。
この日も早くから行列ができてました。
美味しいですよ。

【見どころ】
 ・3つの曲輪跡

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Tokyobay

「丸の内」は江戸城内? (2025/03/31 訪問)

「丸の内」は桜が満開だが、「丸の内」の「丸」って、本丸、西の丸、北の丸の「丸」であり、「丸の内」は江戸城内という意味であるということをこの度初めて知って、ちょっと驚いた次第。城ファンなら常識???数寄屋橋や鍛冶橋門や呉服橋あたりの外濠までが「城内」だったとすると、JRの先までは城内ということになり、言われてみれば当たり前なんだが、「丸の内」という地名に何ら疑問を持たずにこれまで生きてきたことが、なんだか変な気持ちになる。

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Tokyobay

赤坂氷川神社(今井城跡) (2025/03/31 訪問)

赤坂氷川神社は忠臣蔵で有名な「南部坂雪の別れ(実は創作)」の舞台でもあるが、以前は「今井城」という巴御前の兄でもある今井四郎兼平によって築かれた城跡らしい。尚、近隣には坂本龍馬が襲撃を試みて逆に懐柔されてしまったという勝海舟の家跡がある。

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しんちゃん

丸山千枚田 (2025/03/29 訪問)

赤木城まで来たら丸山千枚田に寄って見るといいと思います。ちょうど水が張り出して、いい塩梅ですわ。
日本の棚田百選にも選ばれています。慶長6年(1601)に2240枚あったとされる棚田の数も530にまで数を減らしていますが、今でも景観を保っていられるのも地元の方々の努力の賜物でしょう。なんといっても米は大事ですよ。
俺は毎日オニギリ食ってるけど、全然飽きないぜ!

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しんちゃん

築城名人 (2025/03/29 訪問)

和歌山県はそろそろ桜が満開だそうで、隠れた桜の名所の赤木城に寄り道しました(まだ三重県)。標高が高いのか、まだ満開には早い様子。五分咲きくらいでしょうか? いまごろ見頃になっている頃だろうか?
赤木城は天正の北山一揆の鎮圧の後に、豊臣秀長の家臣だった藤堂高虎によって築かれました。以前訪問した時には、ずいぶん荒っぽい積み方だな・・と感じましたが、戦国の時代は美観より早さが重要。今でも崩壊せずに高い遺構の残存度を誇っているのはさすがです。
よっ! 築城名人! 桜の見頃には少し早かったですが、石垣はいつでも見頃です。
しかし一年たたずに積み上げたのかな? 細かいとこはいいから、どんどん積めって感じですね。でもちゃんと形になってるのはさすがですな。

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カズサン

尾張国西部北部未踏の城探訪1/17野府城 (2025/03/29 訪問)

 愛知県尾張国の西部と北部にまだ17城未踏の城が有り車でグルーと訪ねる事にした。
 
 駐車場:無し、野府城跡開明小学校南校門前に幅寄せ路駐。
 参考資料:城郭放浪記さんグーグルマップに依る。

 訪問日は土曜日で休校日及び春休み中、南門ゲートは閉まって居ましたが脇の歩行用門扉は鍵無しで開いており入り見学撮影しました。
 ゲート前からでも石碑と案内板を観る事は出来ます。

 案内板によると、築城者は織田信長の弟織田信治と有り、信治は宇佐山城籠城戦で討死しています。享年26歳との事。
 詳細は投稿写真野府城案内板をご覧ください。
 

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カズサン

【駿河 弁天池・胸形神社】静岡県静岡市 不忍池を型どった池 (2025/03/10 訪問)

 余湖図コレクションさんの瀬名氏館鳥瞰図に魅せられて瀬名氏館跡辺りを探訪し瀬名氏三代今川氏貞菩提寺松寿院より南西にある弁天池と島に鎮座する胸形神社を探訪参拝する。

 住所:静岡県静岡市葵区瀬名1丁目19-23
 駐車場:有りません、西奈複合施設駐車場を利用して散策
 参考資料:グーグルマップに依る。

 弁天池と宗像三女神を祀った胸形神社は貞享2年(1685年)この地を治めてる旗本領主大久保玄蕃の奥方の夢枕に弁財天が現れ、「上野に在る不忍池を型とって造れよ」と教わり池も島もその様に築造されたと伝わる。(胸形神社由緒抜粋)
 池は農業用水、大雨の遊水機能を備えて大変役立っています。
 丁度東側の堤防には早咲きの桜が咲き始めて早い春の趣を周囲に醸していました。
 
 胸形神社境内には忠魂碑が立っており、傍の由来を読むと、大正9年村の有志で西奈小学校一角に建立、昭和20年8月以降GHQの撤去指示を受けて胸形神社に移設した。当時よりの経年劣化により倒壊の恐れがあり台座と上部石碑を切り離し上部石碑のみで安定化させた。と抜粋記載。
 

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しんちゃん

潮見櫓と下之橋御門 (2025/02/23 訪問)

福岡城は関ヶ原の合戦の翌年の慶長6年(1601)から7年をかけて黒田長政によって築かれました。九州でも屈指の巨城だと思います。
熊本城を築いた加藤清正の子・忠広は幕府によって改易になりますが、黒田家は婿養子を迎えながらも血統を繋ぎ、明治維新まで続いています。
下之橋御門は築城時と同じ位置にある唯一の現存門とされています。昭和初期に元々二層だった門を単層の門に改築してありましたが、平成12年に焼失し、残った部材を使用して平成20年に本来の姿で復元されました。城内の潮見櫓は大正の初めに黒田侯別邸に移された物を昭和31年に、ここに移築したものとされていましたが、実際は崇福寺に移築されていたことが判明したようです。
現在、城内にある櫓は太鼓櫓だった可能性もあると考えられています。

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dougen

2019.12.28登城 (2019/12/28 訪問)

下内田地区にある古川神社の東側の個人宅が高田大屋敷となります。
現在も居住されていますが、館を囲む土塁や水濠跡が残っています。
国の史跡にも指定されており、解説板も設置されています。

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todo94

献血前の攻城⑥ (2025/03/15 訪問)

常陸飯沼城からの転戦です。湯崎城へのアプローチに高速を利用したため、時間にかなり余裕が生じました。そのため、献血ルームのある水戸に直行せず、大洗町へと回り込むことにした次第です。墓地にその名前がついており、石板に墓地の由来が記されておりました。陣屋の位置についても触れられていますが、正直、どのあたりなのかよくわかりません。

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赤い城

木山城 香川県丸亀市 (2023/03/15 訪問)

栗隈城から西に下りる道があり、そこを進みます。
墓地があり、その先が城びと未登録の木山城です。
墓地の駐車場をお借りし、城址である竹藪に入りました。

一段高くなっている曲輪には土塁が付いています。
奥に進むと曲輪が段になっている感じです。
北側には広い削平地。
曲輪の跡と思われますが畑として使われていたかもしれません。

帰り、墓参りにいらした地元の方に駐車場を使わせてもらったことのお断りを入れましたが、ここが城跡だったこともご存知無いとのこと。
確かにマイナー城、詳細も不明の城です。

【見どころ】
 ・南側の曲輪に付く土塁

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ぴーかる

菅谷館 (2025/02/08 訪問)

【続百名城73城目】
<駐車場他>埼玉県立嵐山史跡の博物館駐車場
<交通手段>車

<まえがき>豪雪行軍:2/7の晩からの大雪で名神・新名神は21:00より通行止め。高速道路は上り線が完全に塞がれてしまったので、さてどうしたものかと思案し、伊勢湾岸線の、みえ川越からは通行が可能でしたので、一般道国道163号線の伊賀越えで行けると思い、2/7
23:00より出立しました。ところが、京都府の木津町のところで一般道も通行止め。スマホで検索すると一般道も東方面に行く道路は全て通行止めで、さすがに諦めようかと思いましたが、滋賀県米原市から国道365号線を南下していくルートだけは通行止めになっておらず、三重県に抜けられる。信楽町⇒水口町⇒滋賀県を北上し米原市から南下。翌朝7:00頃にやっと、みえ川越ICに入れました。菅原館に到着したのが2/8の11:30頃、約12時間半かかり無事到着できました。無茶しすぎました(反省)。

<見所>堀・土塁・曲輪
<感想>1泊2日埼玉大阪化計画第2弾、1城目。最初に博物館にてスタンプ押印と御城印購入、博物館の見学⇒三ノ郭⇒西ノ郭・大手門跡⇒三ノ郭馬出⇒二ノ郭⇒南郭⇒本郭の順で巡りました。特に高い土塁と深い堀、広大な郭に感動しました。推定平安時代末頃の古い築城でこれほどの遺構があることにも驚いた。川の合流地点の台地上に築いているのも単なる館というより防御性のある城だと感じました。運転疲れも気にならないほどいい城跡で、楽しく散策しました。

<満足度>★★★

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T-Shionoya

今は池に囲まれた公園の刈谷城 (2025/02/14 訪問)

2月中旬に訪れた最初の城は愛知県刈谷市の刈谷城。

三河湾西側の嘗ては今以上に奥深かった衣ヶ浦の東岸、標高10m程度の丘を本丸とし水堀を挟んで二之郭や三之郭そして御殿を配置した城。
衣ヶ浦の水産資源や水運を押さえていたでしょうか。

衣ヶ浦西岸から進出してきた水野氏が、忠政時代の1533年に築城して移転。それ以来、江戸初期まで水野氏4代の居城となり、その後しばらくは分家の水野忠清や稲垣氏3代など頻繁に城主が交代。江戸後期には古河藩土井氏分家の土井氏9代が入り幕末を迎えました。

現在は本丸周辺が亀城公園として整備され、三之郭は郷土資料館や住宅地、御殿跡は小学校となった城跡。

訪問時は、まず辰巳櫓が移築されているという碧南市の妙福寺へ。柱のみの1階だけでなく、2階も改変されたようなつくり。
刈谷城では、椎の木屋敷や町口門跡から大手門跡を通り本丸へ。
絵図で馬出に見える二之郭は、堀跡にガラス張りのビルが壁のように建ち、南北に走る道路が土橋の名残?
公園化された本丸は、土塁が残るものの城のオーラは弱い印象。そこで2029年に辰巳櫓と石垣が復元完了予定とのこと。

今はまだ池に囲まれた公園である刈谷城が、私の城郭巡りの196城目となりました。

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