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todo94

和泉の攻城② (2026/07/11 訪問)

積善寺城からの転戦です。かなりの距離があったのですが、徒歩にてアプローチしてしまいました。強い日差しに照り付けられ、かなりの発汗がありました。最寄り駅の名越駅とは反対側の裏手から入っていく感じになりましたが、展望台(みはらし台)への案内表示はすぐに見つけることができました。みはらし台には、石の城址碑があったようですが、折れてしまっています。縄張り図がある主郭は大堀切を挟んだ反対側のピークの方にあります。汗の匂いや呼気の二酸化炭素が吸血モスキートを引き寄せてしまい、難渋することになりました。山城といった規模感はないので季節を問わず攻城は可能かと思いますが、やはり夏場は避けた方が無難のように思います。

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赤い城

難攻不落の巨大な山城 (2026/06/28 訪問)

13年振りに登城しました。
前回は七曲りなど整備中だったと記憶しています。
道の駅広瀬・富田城に車を置き登城口から登って行きます。
まずは最初の見どころ大土塁、背後には竹藪となっていますが深い堀切であることがわかります。
そこからすぐに山中御殿平、石垣が見事です。
塩谷口の石垣も素敵ですがここにはあまり人が来ません。

ここは後でじっくり、と思いまずは山頂部を目指します。
七曲りを登るとノの丸、二ノ丸と続き大堀切を挟んで本丸です。
本丸には勝日高守神社が鎮座します。
もちろん眺望は良いです。
大内氏が陣を置いた京羅木山もよく見えます。
二ノ丸には東屋があり手作りのかわら版やしおりが置いてありました。
ノートに記帳して持ち帰りました。

ひと休みして下山、山中御殿平に戻りました。
菅谷口の石垣や礎石建物跡などが残ります。
軍用大井戸の石組を見おろすこともできます。
さらには花ノ檀、休憩施設が建っています。
奥書院を経て太鼓檀には山中鹿介像が建ちます。
千畳平から馬乗馬場と見学して下山しました。
久しぶりの登城でしたがじっくりと見学することができました😊

【見どころ】
 ・大土塁背後の堀切
 ・山中御殿平の石垣
 ・本丸と二ノ丸の間の堀切
 ・千畳平から見おろす馬乗馬場

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征22日目:山口城 (2026/06/01 訪問)

周防長山城(城びと未登録 山口県山口市)から徒歩10分くらいで、政庁表門付近(34.184346、131.471692)に着きました。

1864年(元治元年)萩藩毛利13代敬親によって築かれました。
毛利敬親は1863年(文久3年)湯田温泉への日帰り湯治と称して萩城から山口へと拠点を移しました。
これは保守派に取り囲まれた萩では攘夷を実行できないことと、北に偏った萩では交通の便、海からの防御の面で不都合があったためです。
幕府に対しては山口屋形として申請していたが、背後には中世大内氏の詰城であった高嶺城があり、表には水堀を配していました。
大政奉還後の1870年(明治3年)政事堂から藩庁に改称。さらに、廃藩置県が行われた1871年(明治4年)城内に山口県庁が置かれました。
1873年(明治6年)の廃城令によって、存城処分となり陸軍省(第5軍管)の所管となりますがが、同年7月に大蔵省の所管へ変更され廃城となりました

水堀の一部と薬医門(山口政事堂の表門)が現存します。この表門は、廃藩置県までは藩庁門、その後は県庁正門となりました。
県庁の正門は閉まっていましたが、通用門から中に入ることができました。
藩庁の門は重厚で良かったです。土塁と石垣を見逃してしまいました。
観光時間は15分くらいでした。次の攻城先=築山館を攻城する前に、洞春寺と山口中河原御茶屋(城びと未登録 山口県山口市)に徒歩で向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征22日目:山口城周辺散策(周防長山城(城びと未登録 山口県山口市)) (2026/06/01 訪問)

次の攻城先=山口城を攻城する前に、周防長山城(城びと未登録 山口県山口市)によりました。
向山城(城びと未登録 山口県山口市)から徒歩20分ちょっとで、亀山公園山頂広場(34.180582、131.472964)に着きました。

築城年代は定かではないですが、 1588年(天正16年)毛利氏は仁保元忠を城番として長山城に置いていました。
1596年(慶長元年)毛利秀元は長門国を与えられ長山城を居城とするべく改修しました。
しかし、1600年(慶長5年)の関ヶ原合戦によって毛利氏が防長2ヶ国に減封となったため秀元は長門櫛崎城へと移り、長府藩を立藩しました。その後、長山城は廃城となったと思われます。

現在は亀山公園として整備されています。戦前は6つの銅像あったようですが、現在はが毛利敬親公の馬上像があるのみで、公園化により遺構もないようです。
亀山公園の南にはザビエル記念聖堂が建っています。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=山口城に徒歩で向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征22日目:障子ヶ岳城周辺散策(向山城(城びと未登録 山口県山口市)) (2026/06/01 訪問)

障子ヶ岳城から南東方向に進むと畝状竪堀が見えてきます。ここから向山城(城びと未登録 山口県山口市)の城域になります。
障子ヶ岳の北西にあるのが障子ヶ岳城、南東にあるのが向山城と呼ばれています。
障子ヶ岳城と向山城とは一体化した城郭であり、その主要部分は向山城であったようです。

1郭の西側には横堀が掘られ、堀底は腰曲輪となって1郭の側面部に回り込んでおり、この腰曲輪に畝状竪堀が掘られています。
向山城は2郭構造のそれほど規模の大きくない城郭ですが、二重堀切や畝状竪堀などが確認できました。

登山口とは違う場所から出口(34.173897、131.462984)に向かいました。
出口に不動産屋の私有林の看板がありました。立入禁止とは書いてはないし柵などもないので、大丈夫だと思います。
攻城時間は20分くらいでした。次の攻城先=山口城を攻城する前に、周防長山城(城びと未登録 山口県山口市)に徒歩で向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征22日目:障子ヶ岳城 (2026/06/01 訪問)

湯田温泉駅の狐の像付近から徒歩20分ちょっとで、登山口(34.174312、131.459357)に着きました。

築城年代は定かではないようです。
1557年(弘治3年)大内義長の遺臣草場越中守・小原加賀守・河越伊豆守などが大内義隆の遺子問田亀鶴を奉じて挙兵したのがこの障子ヶ岳城です。
長門守護代で荒滝山城主であった内藤隆春が反乱軍を鎮圧し、草場越中守などは討死、亀鶴丸も捕らわれて処刑となったそうです。
この問田亀鶴丸は大内義隆と内藤興盛の女との間に生まれた子で、隆春にとっては甥になるそうです。

赤いテープに沿って登って行きます。けっこうな急坂ですが道はあります。
ちょっとした平坦地がある以外、何もありませんでした。
攻城時間は20分くらいでした。次の攻城先=向山城(城びと未登録 山口県山口市)に徒歩で向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征22日目:障子ヶ岳城周辺散策(湯田温泉駅狐巡り) (2026/06/01 訪問)

湯田温泉駅から障子ヶ岳城へ向かう途中、徒歩5分位の処に狐の像がありました。

①:ゆう太(34.159792、131.459928)高さ8mの巨大な白狐 駅そば
②:狐の像(34.162892、131.457809)

城巡りから帰った後、湯田温泉と狐の関係を調べたら、以下のことがわかりました。
その昔、傷ついた白狐が毎晩お寺の小さな池にやってきて足をつけており、それを見た和尚さんが池を深く掘ると温泉が湧き出たという伝説に基づくのだそうです。
昔から多くの人々に親しまれ、そして愛されてきました。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=障子ヶ岳城へ徒歩で向かいます。

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天守無しがアツい

五稜郭タワー (2026/07/04 訪問)

あの時…タワー1階こそ足を踏み入れたものの…そこで満足してしまい帰ってしまった…高校2年生たち👱‍♂️👦👨👨‍⚕️

そして数奇な運命で…この間再訪
五稜郭を巡り…タワーに上り…函館市内の街並みと…敗れたものの奮戦した蝦夷共和国…ひとり散っていった歳三の生き様を味わう🤵‍♂️⚔️


タワー2階から函館市内を眺め…五稜郭の歴史を学ぶ…

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長町ツインズパパ

出張の合間の旅 その1(2) (2026/06/16 訪問)

出張の合間に彦根市の城をめぐりました。

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美夢

復興を願って (2026/07/12 訪問)

憧れの特急「花嫁のれん」
震災後は当然運休
しばらくたってからはツアー等の貸切だけでの運行でしたが
久しぶりに調べると、一般での予約も再開
ならばと友人を誘っての旅行となりました
豪華絢爛な「花嫁のれん」に乗って
素晴らしいサービスに感動しつつ、長尾駅へ

七尾城のスタンプ、やっとゲットしました
(⁠^⁠∇⁠^⁠)⁠ノ⁠♪
ボランティアスタッフさんのお話では
やはり震災により崩れている部分があるそうです

羽咋(はくい)駅まで戻り
ホテルでウォーキングバイシクルという立ちこぎ自転車みたいなやつをお借りして
千里浜なぎさドライブウェイを快適に走りました
風がとても心地よかったです
なくならないうちに来られて、良かった

ホテルでは温泉もしっかり楽しみました
トロトロ琥珀色の美肌の湯、最高!

今回は和倉温泉等、より大きな被害があった地域には行かなかったのですが
それでも、屋根瓦が落ちて修復作業中の建物を見ることがありました
ニュース等での報道もほとんどなくなりましたが
震災のご苦労をされている方への想いが風化しないようにと願いつつ
お土産を買って帰路につきました

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トク

16【秀長の毛利攻めをたどる①】備中高松城(1/2)水攻めと清水宗治 (2026/05/09 訪問)

「桃太郎さん♪、桃太郎さん♬~・・」岡山駅10番ホームに流れるこの発車の合図を聴きながら、JR桃太郎線(吉備線)に乗り20分、備中高松駅に到着です(写真⑨)。そこから高松城へは、徒歩で10分程でした。

備中高松城は2度目ですが、確かに以前より資料館がきれいになっていました(写真①)。そして城の本丸(中心部)へ立ってみました(写真③)。当時は360°田んぼだったので、確かにここは湿地帯の真ん中だったという事がよく確認できます。時は移り、昭和60年にも洪水で水没した事があるそうです(写真④)。

1582年備前の宇喜多直家の調略に成功した秀吉は、備中に入りまず境目七城の冠山城を加藤清正・藤堂高虎・直家の子の宇喜多秀家らに攻めさせます。落城すると秀吉軍3万の軍勢は、東から北や西まで高松城を見下ろせる山々に布陣、七城の中心である高松城を取り囲みます。そこで官兵衛の発案で、秀吉は堤を築き水攻めを敢行しました。

吉川元春・小早川隆景の毛利の軍勢が陣を敷いた南の山々を眺めてみました(写真⑤)。到着した時にはすでに高松城は水没していたそうです。そして城主「清水宗治」の切腹をもって城兵5千の命は助けるという和議の条件を受け入れ、宗治は果てました(写真⑥)。

宗治が自刃した場所へ行ってみました(写真⑧)。船で城から漕ぎ出し、秀吉から見えるこの場所まで来て、この句を詠み船の上で切腹したようです。

浮世をば 今こそ渡れ武士(もののふ)の
名を高松の 苔に残して (写真⑦)

この様子を見ていた秀吉は、「見事じゃ! 宗治は武士の鑑である」と称賛したそうです。

私は備中高松城の本丸のベンチに座り、岡山駅で買った「きびだんご」を食べながら、ここが水没している姿を想像していると、ふと疑問が。あれ? そういえば秀吉や秀長も「きびだんご」は食べたのだろうか🤔?(写真⑩)。

次は、ここから秀吉や秀長の陣跡まで歩き、そこから備中高松城を眺めてみようと思います。
 

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長町ツインズパパ

出張の合間の旅 その1(1) (2026/06/16 訪問)

出張の合間を縫ってお城を回りました。

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イオ

川守城(滋賀県蒲生郡竜王町川守) (2026/01/04 訪問)

川守城(城びと未登録)は、詳細は不明ながら六角氏に仕えた吉田氏の城と伝わります。

城跡は住宅地になっていて遺構はほとんどが失われていますが、八幡社の建つ土壇が東辺の土塁と考えられ、土塁には川守城趾の石碑と城の八まん社の標柱が、鳥居の奥には近代弓道発祥の地の説明板が立てられています。説明板によれば、日置弾正正次から弓の奥義を伝授された川守城主・吉田出雲守重賢が日置吉田流弓術を広め、5代後には徳川将軍家の弓術指南役を輩出するなど、現在の弓術流派の多くは日置吉田流を発祥とするのだとか。土塁がわずかに遺るだけの城かと思いきや、現在まで続く大きな流れの源流だったとは。
 

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todo94

和泉の攻城① (2026/07/11 訪問)

2026年6月に攻城を予定していたのに、雨と財布忘れのため断念せざるを得なかった和泉の城を攻めてみました。名古屋始発ののぞみで新大阪にアクセスし、阪和線の和泉大橋駅にて下車。徒歩で積善寺城を目指しました。近木川(こぎがわ)にかかる橋の袂に説明板が建っています。主郭跡という明教寺にも脚を伸ばしてみました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征21日目:霜降城 (2026/05/31 訪問)

厚東駅から徒歩35分くらいで、霜降山登山道/温見古道(34.025009、131.262473)に着きました。
霜降山への登山コースはいくつかあるようですが、自分は持世寺コースを選択して登りました。

1179年(治承3年)壇ノ浦の戦いで名を上げた七代厚東武光によって築かれたと云われています。
厚東氏は物部氏の末裔を称し、初代厚東武忠が棚井の地に住んだことに始まるとされ厚東氏館を居館としていました。
14代厚東武実は長門守護職となり勢力を拡げるが、その後大内氏と争うようになり、17代厚東義武のとき1358年(延文3年・正平13年)大内弘世によって霜降城は攻め落とされ、厚東義武は城を逃れて九州へ落ちていきました。
九州に逃れた厚東義武は失地回復の戦いを挑みますが、最終的に長門国は大内氏の版図に組み込まれました。
霜降城は大内氏には使用されず放置され、南北朝時代の遺構が現在も残っているそうです。

霜降岳分岐点を過ぎるとひたすらロープをつかっての登りです。結構きついです。
後城(北峰)に着いた時点で帰りの電車の予定時間が迫ってました。
本城に向かうかどうか迷って、とりあえず後城(南峰)に到着。ここで本城に向かうのは諦め下山。
しかし、タッチの差で予定の電車に間に合わず、厚東駅で次の電車まで40分待ちでした。
攻城時間は90分くらいでした。本日の城巡りは、ここがラストです。
歩行歩数=41240歩、歩行距離=28.8Kmです。
本日の宿泊先に向かう為、厚東駅からJR山口線を利用して新山口駅に戻りました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征21日目:松屋城 (2026/05/31 訪問)

小月営業所バス停から徒歩10分ちょっとで、王喜小学校入口(34.062862、131.054026)に着きました。
そこから、登り口・説明板前(34.062392、131.058388)に向かいました。

築城年代は定かではないようですが、南北朝時代に松屋氏によって築かれたと云われています。
戦国時代、大内氏家臣の居城と云われています。
江戸時代には下関火の山(現火の山公園)からの狼煙を受けて次点の吉田足河内大音山に中継する狼煙場が頂上に設けられたそうです。

シダが結構深く腰のあたりまであり、主郭の状態がよくわかりません。
特にこれといった遺構はないようです。
攻城時間は35分くらいでした。次の攻城先=霜降城を攻城する為、小月営業所バス停からサンデン交通バスとJR山陽本線を利用して厚東駅へ向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征21日目:勝山城 (2026/05/31 訪問)

御殿町バス停から徒歩15分くらいで、勝山御殿跡(34.021909、130.973233)に着きました。

築城年代は不明だが、1378年(永和4年)に大内氏家臣の永富嗣光が築城したとも言われています。続いて1408年(応永15年)に相良民部少輔が在城したそうです。
1527年(大永7年)には九州に対する備えとして守護大名大内氏の重臣内藤興盛の居城となりました。
この興盛の時に近接する青山城の青山城主高森内膳之助と「青山くずれ」と呼ばれる争いが起こりました。
高森氏は津原膳勝や津田興輝らの加勢を得て12,000の軍勢で勝山城を取り囲むも、内藤氏には大内氏が加勢して35,000の大軍となり、逆襲に転じた内藤勢は、青山を攻め落としました。
1555年(天文24年)厳島の戦いで勝利した毛利元就による周防・長門への侵攻(防長経略)により、1557年(弘治3年)大内義長は本拠地である山口を脱出し、内藤隆世と共にこの城に籠城して毛利軍と戦いました。
勝山城を包囲した元就が矢文によって降伏を促したところ、開城して、義長の助命を嘆願する隆世は自害しました。
その後義長は、勝山城を出て兄である大友義鎮を頼って九州を目指しましたが、叶わず長福寺(功山寺)で、攻め寄せた毛利軍に追い詰められて自害しました。
その後は南条宗勝、山田重直が在城したそうです。

勝山城は勝山山頂に築かれていおり、山頂まで登山道が整備されているそうです。
時間の都合上、勝山城には向かわず勝山御殿の攻城で勝山城攻城とさせて頂きます。
攻城時間は40分くらいでした。次の攻城先=松屋城を攻城する為、御殿町バス停からサンデン交通バスを乗り換えて小月営業所バス停へ向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征21日目:櫛崎城周辺散策(長府毛利藩ゆかりの地) (2026/05/31 訪問)

櫛崎城から徒歩5分くらいで、豊攻神社(満珠千珠展望台付近)(33.992533、130.995304)に着きました。
長府毛利藩ゆかりの地は以下の順番で攻城しました。

①:豊攻神社(満珠千珠展望台付近)(33.992533、130.995304)
②:長府毛利家御船手の石積跡付近(33.9935413、130.994363)
③:長府藩家老三好周亮邸址(33.993944、130.988840)
④:旧野々村家表門(33.994984、130.988613)
⑤:長府藩侍屋敷長屋(33.996271、130.987991)
⑥:長府毛利邸入口(33.996892、130.984565)奥に毛利秀元公像
⑦:菅家家長屋門・練壁(33.997523、130.985270)
⑧:旧松岡家長屋門(33.998590、130.985969)
⑨:維新発祥の地碑(33.998645、130.990039)
攻城時間は60分(移動時間を含む)くらいでした。次の攻城先=勝山城を攻城する為、城下町長府バス停からサンデン交通バスを利用して御殿町バスへ向かいました。へ徒歩で向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征21日目:櫛崎城 (2026/05/31 訪問)

市立美術館・関門医療センター前バス停から徒歩5分くらいで、階段付近(33.989624、130.993278)に着きました。
そこから、石垣前(33.991740、130.994401)に向かいました。

940年(天慶3年)に藤原純友の配下稲村平六景家が在城していたと伝わるが定かではないようです。
関ヶ原合戦後、毛利輝元は防長二カ国に減封となり萩城を居城としました。
これによって毛利秀元は60,000石を分知されて櫛崎城を居城とし長府藩となりました。
毛利秀元は毛利元就の四男穗井田元清の長子で、長らく嫡男に恵まれなかった毛利輝元の養子となった人物で、後に輝元に嫡男秀就が誕生したことから別家をたてました。
1615年(元和元年)幕府による一国一城令によって廃城となり、長府藩は現在の豊浦高校の敷地に居館(長府陣屋)を構えて藩庁としました。
1864年(元治元年)13代毛利元周のとき勝山御殿を築いて居城を移しています。

石垣への登り口を捜す為、石垣の周りをウロウロ。鯨館側にありました。
現在城址は「関見台公園」として、石垣・天守台が復元整備されています。
少し離れていますが、移設整備された長府藩侍屋敷長屋も見所です。この後、見学しに行きました。
攻城時間は20分くらいでした。次の攻城先=長府毛利藩ゆかりの地へ徒歩で向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征21日目:下関前田台場 (2026/05/31 訪問)

壇之浦古戦場跡から徒歩20分弱で、石碑説明板付近(33.973908、130.970434)に着きました。

前田台場は、1863年(文久3年)に長州藩によって築かれました。1863年(文久3年)長州藩は攘夷を決行して外国船への砲撃を行ったが、フランス軍艦に報復攻撃され前田台場は占領されました。
米仏の報復攻撃を受けた長州藩は、高杉晋作に下関の防衛をまかせ、高杉は志願兵による奇兵隊を結成します。長州藩は前田砲台を修復するなどして、さらなる攘夷実行に向けて体制を整えました。
翌1864年(元治元年)駐日イギリス公使オールコックは、日本の開国の障害となっている長州を武力攻撃することを決意。
フランス、オランダ、アメリカもこれに同調し、前田台場は1864年(元治元年)英・仏・蘭・米四国連合艦隊による攻撃を受け、再度占拠されました。
連合艦隊の旗艦ユーライアラス号の艦上で講和談判が行われ、長州側からは高杉が使節として交渉に臨んだ。その結果、賠償金300万ドルの支払いなどを条件として講和が成立した。
以上の一連の経過を下関戦争といいます。また、1863年(文久3年)の事件を下関事件、1864年(元治元年)の事件を四国艦隊下関砲撃事件と区別して呼ぶ場合もあるそうです。

前田台場は、長州藩が築いた十数か所の砲台の一つで、茶臼山の南西麓、関門海峡に面する位置にあります。
この場所にはかつて長府毛利家の御茶屋があり、古くは奈良時代の古瓦も出土しているそうです。
現在は史跡公園となり、低台場に石碑と案内板が立てられています。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=櫛崎城を攻城する為、前田バス停からサンデン交通バスを利用して市立美術館・関門医療センター前バス停へ向かいました。

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