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朝田 辰兵衛

アップデートしたくて… (2025/10/18 訪問)

岩手県の未投稿城はすでに解消しておりますが,ここはアップデートしないと気が済まないので,これにて「岩手県未投稿城解消」とさせていただきます。これでいちおう「東北地方未投稿城解消」となりましたが,たぶん青森県はtodo94さんが2城のアップデートをしないと気が済まないハズ…。

大梵天館ですが,しっかり整備されていて驚きました。クマもイノシシも通り過ぎるだろうと思われる徹底ぶりです。この日の宮古市の天気予報は曇りでしたが,登城時は雨。私が雨男ゆえ,魅力発信には至らないかと思いますが…。

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イオ

武田軍陣地めぐり(大通寺山陣地・天神山陣地) (2025/06/21 訪問)

(続き)

武田軍は長篠城の周囲に多くの陣地・砦を構えて包囲していますが、まずは長篠城北側に展開する陣地へ。

大通寺山陣地(新城市長篠大通寺山)
大通寺背後の大通寺山には、武田信豊、馬場信房、小山田昌行らが2千の兵で布陣しました。草木が茂っていて遺構は確認できませんでしたが、頂部の広大な平坦地には多くの兵を収容できそうでした。麓の大通寺には、医王寺山本陣での軍議で武田勝頼に撤退を進言するも容れられなかった馬場信房、内藤昌豊、山県昌景、土屋昌次らが訣別の水盃を交わしたと伝わる井戸(大通禅寺杯井)があります。また、境内には文化財保存のため長篠城から移転した城藪稲荷社も祀られています。それにしても、瓢郭から大通寺山陣地までは直線距離でわずか250m、まさに目と鼻の先です。実際に現地に立ってみて、こんなところに鬼美濃に布陣されて落城しなかったというのが信じられない思いでした。

天神山陣地(新城市長篠碁石)
長篠荏柄天神社の鎮座する天神山には、一条信龍、真田信綱、真田昌輝、土屋昌次らが2千の兵で布陣しました。下調べでは明瞭な遺構はないとのことなので、天神社の前の天神山陣地の説明板を確認したところで満足して引き返してしまいましたが、まだまだ先があったんですね。しんちゃんさんのように北尾根とまでは言わないとしても、せめて山頂までは行くべきでした。丸テーブルと椅子のある曲輪跡とか「展望」の案内板くらいは見ておきたかった…。

武田軍陣地めぐり、天神山陣地の次は医王寺山本陣に向かいます(続く)。
 

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todo94

3連休の秋田ドライブでの攻城⑧ (2025/10/11 訪問)

双六館からの転戦です。五城目町森林資料館閉館時刻前にたどり着けそうだったので、赴くことにしました。五城目町森林資料館は無料で、林業の町としての五城目を良く知ることができました。帰宅してから日本鉄道旅行歴史地図帳を引っ張り出して、杉沢森林鉄道を確認してしまいました。遠方からも模擬天守が良く望めるこの城は、砂沢城という名の城で、麓の四渡園は城主の屋敷跡とのことです。

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赤い城

私有地すぎる (2025/08/15 訪問)

徳島道の土成IC近く、国道318号線から少し入ったところにあります。
皆さんのレポート通り石碑と説明板がありますが場所は私有地。
入っていくのも憚られていたのですがちょうど家から出てこられた方がいらしたので許可を得て写真だけ撮らせて頂きました。

この地の土豪、原田氏の居城です。
中富川の戦いで城主の原田久左衛門が長宗我部氏に討たれ廃城となりました。

【見どころ】
 ・民家敷地にある石碑と説明板

さすがに撮れ高が無いので近くの四国霊場をご紹介。
6番札所安楽寺 今でも宿坊があるお寺です
7番札所十楽寺 朱塗りの鐘楼門が特徴的です
8番札所熊谷寺 大きな仁王門があります
9番札所法輪寺 健脚祈願のわらじが多く奉納されています

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シャンシャン

秋の大阪お城巡り③:大阪城(豊臣石垣館) (2025/10/17 訪問)

大阪のお城巡りで一番行きたかった大阪城の豊臣石垣館へ。
現在残っている櫓や石垣、堀はすべて徳川時代のものだけど、大阪と言えばやっぱり太閤秀吉だから、豊臣時代の遺構がこうして目に見えることになったのは嬉しい限り。
算木積みの原形のような形状や転用石も含め様々な石材を使った野面積みの石垣は、徳川時代の進化した石垣と違って独特の味わいがある。
もちろん蛸石をはじめとする徳川時代の巨大な石垣は凄いけど、徳川セコいから嫌いだし笑

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シャンシャン

秋の大阪お城巡り②:真田丸跡 (2025/10/17 訪問)

真田幸村戦死の地である安居天満宮からレンタサイクルで真田丸跡へ移動。秋晴れの日のサイクリングは気持ちいい!
真田丸跡には現在学校が建っており、当時の遺構はまったく残っていない。でも跡地は小高い丘となっており、出丸を築くのに適した地形だと考えられる。
すぐ近くの心眼寺には、幸村のお墓がある。

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シャンシャン

秋の大阪お城巡り①:真田幸村戦死の地(安居天満宮) (2025/10/17 訪問)

秋の大阪お城巡りの旅へ。
最初の地は城ではないけど、真田幸村戦死の地である安居天満宮へ。
真田幸村が大坂夏の陣で徳川家康の本陣にも攻め入るも、この地で戦死したと言われている。
うーーん、家康を打ち取って欲しかった!!!笑
子供の頃から一番好きな武将である幸村ゆかりの地に来ることができて良かった!

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天守無しがアツい

小雨の河村城 (2025/10/19 訪問)

https://www.yamakita.net/sightseeing/detail.php?id=19

「逃げ上手の若君」の主人公、北条時行と共闘する新田義興が1352年に足利尊氏の軍と対決⚔️河村一族と共にここ河村城を拠点に奮戦

しかしその翌年(1353年)、この城を捨てて退却したと太平記には記されている。尊氏の大軍および尊氏の神力(?)に耐えられなくなったと思われる

さらには盟友の時行が尊氏軍に捕えられ…竜の口で処刑される…それでも義興は折れずに潜伏および抵抗を続け…尊氏の死後まで生き続けたのだった👦

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makkin

20万の大群に対抗した防衛力の城 (2023/03/02 訪問)

大学時代の友達3人で35年ぶりの旅行。
小田原住む友達に案内してもらいました。
博物館も併設しており、戦国時代の貴重な資料が見られました。
天守閣からは海や街並みを一望でき、絶景でした。

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makkin

20年かけて完成した歴史 (2025/05/21 訪問)

彦根城は、城全体の保存状態が最も良く、江戸時代の 政治体制をあらわす「代表例」と言われてあるだけあってとても歴史を感じる佇まいでした。
ひこにゃんにも可愛らしく会えて嬉しかったです。

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ヒロケン

ブラック・ショーマン撮影地 (2025/10/18 訪問)

苗木城は高さ426mの高森山に築かれ、木曽川からの標高差は170m、天然の要害である立地に加え、むきだしの岩盤が露頭した独特な地形を利用した山城です。
苗木城は、木曽川を天然の水堀とし、山頂部に本丸、一段下がったところに二の丸、(二の丸御殿をはじめとした、政務に必要とされた勘定所などの施設が置かれた。)さらに一段下がったところに三の丸、(風吹門を守るための三階建ての大矢倉、厩、中間部屋、作事小屋などがおかれた。)戦国時代の山城によく見られる連郭式の縄張りですが、他に類例のない独特な城の姿は、苗木城が立地する高森山の地形に起因するところが大きいといわれています。

7年ぶり5回目の訪門を決めた理由として、先週、映画『ブラック・ショーマン』を鑑賞したおり、見覚えのある石垣、風景が何度か映し出されており(画像7枚目の笠置矢倉の石垣と眺望)、どうしても行きたくなったのが理由です。(眺望は加工されていましたが。)
苗木城に到着してからも、「ここに有村架純さんと福山雅治さんが来たんだー」って興奮しっぱなし、また、苗木城の石垣、野面積み、打込み接ぎ、切込み接ぎ、谷積みの石垣群も相まってもう、頭の中がパニック状態(#^.^#)。八大龍王の鳥居や帯郭などに行く通路が落石注意で通行止めになっているのに、乗り越え10m程行ったと「はっ」と我に返り辺りをきょろきょろしながら元に戻る始末でした。
7年ぶりに訪問し、かなり整備が進んでいる(一部通行不可)事と無料駐車場が有料駐車場に代わっていたことに驚きでしたが、苗木城に訪問中、有村架純さんが「この石垣を見て、この景色を見たんだぁ~」って本当、感動でした。苗木城、好きになってくれたかなぁ~

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チェブ

江戸城の鬼門。上野で何で?何で?散歩。 (2025/10/11 訪問)

お久しぶりです。本日も脱線注意報が出てますのでご注意ください。
無理やり「江戸城」にくっつけての投稿です。
学生時代の友達達に『散歩するから上野集合』の号令に、久しぶりに『上野』に行ってきました。

皆さんは上野って言ったら何を思い出しますか?
私は子供と行った『国立科学博物館』や『上野動物園』それから『アメ横』。あとは西郷さんの銅像くらいでした。

幕末が何となくしか分かっていないので、『何で?』な散歩記録にお付き合い下さい。

まずは西郷さんの銅像。次に彰義隊の墓を写真に写します。『何で敵同士がこんなに近くに、、、複雑な気分』が感想でした。
西郷さんの銅像は皇居近くに建立するはずでしたが、当時は反感が多く、戊辰戦争の戦地において薩摩藩が奮闘した上野が選出されたそうです。
その、戊辰戦争の後の彰義隊、戦死した方々は見せしめとして、そのままになっていたそうです。

何となく暗い気分になり、上野大仏様のお顔を見に行きました。たくさんの絵馬がかけてあります。そして、たくさんの外国の方が手を合わせていました。本当に本当に、平和になりますように。あと風邪ひきませんように。

この日は20℃に届かない雨。前日は半袖でも大丈夫だったのに、なんて話していたら、桜も間違えちゃったのか咲いている花がありました。写真⑨、寒そうです。
ブラブラした後、寒いからどこかでお茶しよーとアメ横方面へ。最後の写真の『三枚橋横丁』とあり、静岡県沼津市でお邪魔した「三枚橋城」と関連があるかと思いきや、江戸時代、不忍池から広小路を横切る忍川に3つの橋がかけられたそうです。
ちなみに、『三枚橋』は全国に地名が残っているようです。な~んだ勘違い。

私は東京都民ですが、端っこに住んでいるので、上野は遠足気分です。
外国の方々よりも、はしゃいで騒がしかったと反省をした上野散歩でした。

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「江戸城天守を再建する会」ガイドが解説する「皇居東御苑散策ツアー」 11月29日(土)10:00~12:30 (2025/11/29 訪問)

集合場所:皇居東御苑大手門前内堀通り 参加費:一般:3.000円 会員:1.000円 江戸城御城印:500円
申込先:江戸城天守を再建する会事務局:電話:03-6423-1882 Mail:info@npo-edojo.org
振込先:ゆうちょ銀行:0120-9-578881 NPO江戸城再建 三井住友銀行光が丘支店:普通0851894

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イオ

史跡めぐり (2025/06/21 訪問)

(続き)

帯郭に立てられている長篠城周辺散策マップを参考に、周辺の史跡めぐりも。

鳥居強右衛門の磔関連地
長篠城にまつわる史跡としては、鳥居強右衛門を抜きには語れません。磔の地を対岸に望む本丸にも多くの案内表示がありましたが、強右衛門が自らの命を投げうって援軍が来ることを城内に呼びかけたとされる地(弾正郭北側)には「呼びかけ」の伝承地の案内表示が立てられています。その結果、強右衛門は磔に処されますが、強右衛門の呼びかけに力を得た城兵は頑強に戦い抜き、設楽原での勝利へと繋がっていきました。その強右衛門磔死の地に石碑がある…と思っていたら、2度にわたって移設されていて、実際の磔死の地はJR飯田橋の東側だったようです。強右衛門の遺体は磔死の地近くの新昌寺に埋葬され、立派な墓碑が立てられています。強右衛門の墓所と並んで武田軍将士の墓が立ち並んでいますが、これらは新東名高速の整備に伴って戦国の陣没将士墓苑として移設されたものなんだそうです。

馬場美濃守信房の墓(新城市長篠西野々)
長篠の戦いでは多くの武田軍将士が命を落としていますが、長篠城から西に約500mの畑地の一角に馬場美濃守信房の墓があります。殿軍を務めた信房が討たれたのは豊川のもう少し上流の出沢地区とされますが、ここは信房の首を埋めた地なんだとか。私が土の城の面白さに目覚めるきっかけとなった古宮城を築いた鬼美濃の首塚とあっては、お参りせずにはいられません。鎮魂と感謝の思いを込めてしばし手を合わせてきました。

さかさ桑(新城市長篠市場)
馬場信房討死の地から豊川をさらに遡った小松集落には、武田勝頼が落ち延びる際に民家の庭に突き立てた杖から下方にだけのびる桑の芽が出てきたとする「さかさ桑」の伝承がありますが、このさかさ桑は近年に枯れてしまったことから、帯郭の一角に新しいさかさ桑が植えられています。杖から芽が出るというのは洋の東西を問わずありがちな伝承ですが、下向きの桑であることに何か意味はあるんでしょうか?

蟻塚(新城市長篠殿薮)
長篠城から北西に約300m、スギ薬局駐車場の北東部に蟻塚があります。長篠の戦いの戦死者を埋葬した地から蟻の大群が発生して村人を苦しめたことから、供養塔を立てて慰霊し蟻を封じたとのこと。あまりに多くの死者が出たため、不思議な出来事は死者の無念だとか祟りに結び付けて考えられたんでしょうね。

大手門(新城市長篠殿薮)
搦手門(新城市長篠冷田)
伝承云々とは異なりますが、蟻塚の近くに大手門趾の標柱が、大手門から東に約400m離れたところに搦手門趾の標柱が立てられています。明瞭な遺構が見られるのは本丸くらいですが、大手門から搦手門まで歩いてみると案外大きな城だったんだな、と感じました。

さて、長篠城に続いては、長篠城を包囲した武田軍の陣地をめぐります(続く)。
 

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todo94

3連休の秋田ドライブでの攻城⑦ (2025/10/11 訪問)

白華城からの転戦です。白華城攻城を11時には終えてしまったので、途中、すき家で昼食をとりつつ男鹿半島へと向かうことにしました。双六館攻略は、一度試みているのですが、全く登城路が分からず、麓のグリーンタフ(緑色凝灰岩)だけ確認して撤収していました。朝田辰兵衛さんの投稿のおかげで今回は、無事攻略することができました。ありがとうございました。朝田さんに倣ってゴジラ岩もチェック。昔より風化が進んでいる印象を受けました。伊豆大島三原山のゴジラ岩は丸っこくて昔ながらのゴジラのイメージですが、男鹿半島のゴジラ岩は、私の中では小学生の頃に映画で見たメカゴジラと結びついています。さらに先に進んで赤神神社五社堂も再訪してまいりました。少々長めの石段を登った先に鎮座する重文の5つの社殿が並ぶ景観は希少性が高いかと思います。ここでゲットしたおみくじの白ピクミン、きっちり育てたいと思います。

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トク

【宮本武蔵】(17)小倉城(島原の乱) (2025/09/27 訪問)

宮本武蔵の続き(17)です。

譜代大名である小笠原忠真は1632年、徳川家光から九州各地にて不穏な動きがあるため監視せよと、九州目付(九州の外様大名の監視役)を命じられ、播磨明石から豊前小倉に入ります。ここで宮本伊織は、わずか20才で小笠原家家老に抜擢されていました。伊織とともに小倉に入った武蔵は、家老に出世した伊織を頼もしく思ったのでしょう。伊織の屋敷でのんびりと書画などを楽しみながら、この小倉で8年間暮らします。武蔵にとってこの時の小倉での生活が、人生で最も楽しくのんびりと過ごせた時間だったのではないでしょうか?

しかし1637年、島原の乱が勃発します。小笠原藩にも出陣命令が下りました。しかしここで困った事が・・・。戦の経験がある者が家中にほとんどいないのです(つまり戦のやり方を知らない)。家老たちは伊織の父である武蔵に白羽の矢を立て、出陣を要請しました。小倉城の中では、その時の様子が実物大の人形で再現されていました。人形とは思えない、父の出陣を要請され、困惑している伊織の顔がとてもリアルでした(写真②③)。

武蔵この時55才、頼られた武蔵は人生最後の戦と喜んで出陣した事でしょう。しかし結果は悲惨なものでした。先頭に立って石垣を登りますが、敵の投げた石が何とすねに当たってしまい、転げ落ちて負傷してしまったのです(写真⑤)。立てなくなった武蔵は剣を抜く事なく惨めな形で帰国します。武蔵は「自分も年老いたものだ」と語ったそうで、この時の落ち込んだ心境が、共に戦った有馬直純(延岡藩主で元島原藩主だった有馬晴信の子)に宛てた手紙に記されていました。

そして武蔵は恥ずかしくなり、居づらくなったのではないでしょうか? 傷が治ると伊織の反対を押し切り、小倉を出て終の住処を探し始めます。この時の伊織は、逆に島原の乱での活躍が評価され、ついに小笠原藩家老の筆頭にまで出世しました。よって、このまま伊織の世話になりここに居る事は、伊織にも迷惑がかかり、また自分のプライドが許さなかったのでしょう。最初は黒田家を頼り福岡へ行きますが、2代藩主黒田忠之(長政の子で官兵衛の孫)から断られたようです。

しかしその後、細川忠利(忠興の子で島原の乱では先陣を切り活躍した熊本藩初代藩主)から声がかかり、熊本へ客分として招かれる事になりました。実は忠利に武蔵を客分として迎え入れるよう働きかけたのは、巌流島での決闘後に武蔵を鉄砲隊で護衛し杵築で匿った、あの松井興長(この時、熊本細川藩筆頭家老で八代城主)だったようです。近年その手紙が八代で発見され、その事が明らかになったそうです。

次は(最終回)武蔵最期の地、熊本に続きます。
 

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しんちゃん

長篠・設楽ヶ原の戦い 君ヶ伏床砦 (2025/10/05 訪問)

君ヶ伏床砦の守将で和田城主の和田兵衛業繁は元は山内上杉氏に従っていたようです。上野国箕輪城主・長野業正の娘を妻としており上杉憲政が北条氏に敗れ越後に逃れてからは北条氏に従いますが、上杉謙信が関東に侵攻してくると今度は上杉氏に従い、永禄4年(1561)に武田氏が上野に侵攻してくると武田氏に従いました。
10年あまりの間に周囲の大大名の間で従う相手を次々と変えていますが、この時代の武将としてはやむを得ないと思います。よくある話ですね。
その後は武田氏配下のまま長篠・設楽ヶ原の戦いに至り、君ヶ伏床砦で酒井忠次配下の攻撃を受け討死したとされています。
君ヶ伏床砦の残りの写真と西尾根の写真を載せました。西手の藪の中に見えるのは鉄塔では無く何かの施設だろうか? ここの守兵は300騎とのことですが、より多くの兵が守ればもっと持ちこたえることが出来たと思います。もっともそんな余裕が無いのも分かっているのですが。

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yoda 1253

鉄板張りの黒い城 (2025/10/16 訪問)

25基の櫓を持つ10万石では重装備

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yoda 1253

鉄板張りの黒い城 (2025/10/16 訪問)

櫓が25基と10万石の城では重装備

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chiroru

行けてよかった広島城 (2025/09/26 訪問)

広島城見学→呉港の夕呉クルーズ(日没15分前に出航予定)に乗船してサンセットを楽しむといったスケジュールで広島城に
向かいました。
広島城に着いたのが16:00近くて、かなりのダッシュで写真を撮りながら天守を目指して、最上階では安堵で汗だくで・・・
今回逃すとこの天守閣を見れる機会が!と気持ちもいっぱいで、なんとか辿りつけました。
帰宅して写真見ながら思い出しながら広島城復習でした。

夕呉クルーズも受付時間ぎりぎりでしたが、サンセット楽しめて濃い旅の思い出です。とてもおすすめのクルーズです。

晩ご飯は、絶対に広島焼きと決めていたし、最寄りのスーパーとかでも買えるけど、本場でアツアツの広島焼き美味しかった。

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