別名:兜山城
駐車場あり。スタンプは24時間可能。
雰囲気のある城跡。桜の時期は大渋滞。
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宮城県の名城巡り2つめは「国府 多賀城」です♪ (2026/06/21 訪問)
私のライフワーク「(続)日本100名城巡り」、6月は宮城県の名城を歴女の娘と巡りました。
宮城県2つ目の名城は日本100名城にも選ばれている「多賀城」です。
多賀城は城と言うより政庁跡です。
中世(平城・平安時代)の古代城柵で陸奥国府が置かれていた東北の拠点でした。
2024年に巨大な南門が復元され魅力が倍増しました。
他、城の中央部にある政庁跡も見所で、訪れた時は「多賀城跡あやめまつり」の最終日で、かなりの雨の中、せっかくなので、あやめ園まで足を伸ばしました。
今回も例によって、アップした写真に沿って簡単な説明を入れていきたいと思います。
「続きを読む」と「すべての写真を見る」の両方を開いてもらえば、写真を見ながら説明を読めるので便利です。
PCだったら画面分割して説明と写真を並べて見較べるとさらに見やすいですよ!
① 最初は毎回恒例の御城印です。復興された南門を右下に置き、シンプルですが剛毅で美しい字体が心に刺さりました。
② 復元されてからは多賀城跡の顔となった「南門」に向かう広い通路の真ん中に立ち門を正面から撮りました。漆塗りの二重門と左右に伸びる築地塀が特徴です。
③ 南門が復元されるまでは、この多賀城政庁跡が多賀城を代表する風景で今でも100名城スタンプはこの景色です。前方の高い部分にある基壇で政庁の正殿と分かります。古びた「多賀城址」石碑もスタンプに表示されています。
④ 西側にこのあるお堂は、「国宝 多賀城碑」を納めた木造瓦葺きの覆屋で、縦長の自然石の碑が安置されていました。格子にカメラを突っ込み中の石碑を直に撮ってきました。下は「多賀城碑(古文書)」の説明板です。
⑤ 丘を登る途中に見えた南門を見上げるアングルで撮りました。手前の「多賀城跡」とか書かれた黒い標柱も入れた構図、個人的に気に入ってます。
⑥ 復元された南門の内側に立ち城の外側に伸びる政庁南大路をとらえました。多賀城らしさが良く出ている一枚として気に入っている写真です。
⑦ 手前から奥に段状に並んだ四角い台は当時の建物の「礎石建物跡」を示す表示台です。一番奥の「復元建物」は政庁関連施設を模した休憩・案内スペース。周囲に並んでいる黒い杭は建物の敷地範囲を示す区画を示しています。
⑧ 「多賀城政庁跡の復元建物と解説板ぶ建物群跡」 手前の四角い台と丸い柱は建物跡を示す礎石表示、斜面に沿って並ぶ黒い杭は建物や区画の境界線を示す表示です。奥の屋根だけ復元されている建物は「政庁跡復元建物」です。
⑨ 「多賀城政庁跡と解説板」手前にある大きな石製の解説板は政庁跡の変遷を説明する案内板です。その奥に柱だけ復元された大きな建物が「政庁南面の復元建物」。その周囲に、礎石を模した丸い柱が並ぶ建物跡表示があります。
⑩ 最後は限定版の御城印の紹介です。左側は復元された南門が大きくアヤメと描かれ、右側は南門は小さく紫陽花が大きく配された、どちらも「多賀城跡あやめまつり」期間限定の御城印で私たちが訪れたのは最終日でした(ギリ)
今回の多賀城訪問は、ネットでは中世の政庁で遺構も少ないと書かれていたため、正直、あまり期待していなかったのですが、巨大な南門が復元されたのを機に跡内を再整理したらしく、豪雨ではありましたが存分に楽しめました~(あやめまつり最終日に滑り込めたしね♪(^_-)-☆)
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2026/06/28 05:53
(中国地方と兵庫県)遠征10日目:二上山城 (2026/05/20 訪問)
本日は15:00頃から雨が降る予報です。雨は降ったりやんだりの状態です。
芦屋城から車で25分くらいで、二子山第2駐車場(35.539343、134.325085)に着き説明板を確認した後、高野坂古墳公園(35.539590、134.324608)へ向かいました。
そこから、登城口の中国自然歩道入口(35.539719、134.324497)へ向かいました。
南北朝時代の文和年間(1352年~1355年)に因幡の守護山名時氏の居城として作られました。
1466年(文正1年)湖山池のほとりに山名勝豊が、布施天神山城へ拠点を移すまで因幡国を統治する城でした。
山名勝豊が居城を移したのち治安が悪化したことから、領民が相談し但馬山名より三上兵庫頭を二上山城主として迎えました。
しかし、二上山城は山高く不便であったので番兵を置いて、三上兵庫頭は道竹城を築きそちらを居城としました。
1581年(天正9年)羽柴秀吉による鳥取城攻略によって毛利氏勢力は因幡を去り、旧巨濃郡は垣屋光成が領することとなりました。
垣屋氏は浦富の桐山城を居城としたが、1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いで垣屋恒総が西軍に与して滅んだ頃に、二上山城も廃城になったと考えられるようです。
熊出没注意の看板&ぽっぽつ雨で登城口で撤退しました。
攻城時間は10分くらいでした。本日の城巡りは、ここがラストです。
本日の宿泊先に行く為、鳥取駅でレンタカーを返却してホテルに向かいました。
歩行歩数=31327歩、歩行距離=21.9Kmです。
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2026/06/28 05:48
(中国地方と兵庫県)遠征10日目:芦屋城 (2026/05/20 訪問)
本日は15:00頃から雨が降る予報です。雨は降ったりやんだりの状態です。
桐山城から車で20分弱で、城山園地駐車場(35.624876、134.4367485)に着きました。
築城年代は定かではないようですが、城主は但馬山名氏家臣の塩冶塩冶周防守高清でした。
1580年(天正8年)羽柴秀吉による但馬侵攻で落城すると、高清は鳥取城主・吉川経家を頼って落ち延び、翌年には再び雁金城と丸山城で秀吉と戦い、いずれも敗れて最後は自害しました。
その後は鳥取城代となった宮部善祥坊継潤の持ち城となり、「関ケ原の戦い」後に山崎家盛の弟である宮城右京進頼久が城主となりましたが、山麓に陣屋を築いて廃城となりました。
芦屋城は日本海に面した城山に築かれており、現在は遊歩道が整備され駐車場から歩いて15位で頂上に着きます。
主郭は無線塔のたつ最高所で西端は築山のような削り残しの壁と井戸とされる窪みがあります。
登城口に案内板が建てられています。
攻城時間は30分くらいでした。次の攻城先=二上山城に向かいました。
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2026/06/28 05:42
(中国地方と兵庫県)遠征10日目:桐山城 (2026/05/20 訪問)
本日は15:00頃から雨が降る予報です。ぽっぽつ雨が降ってきました。
浦富台場から車で5分弱で、浦富海岸駐車場入口(35.590837、134.320165)に着きそこから、浦富(ウラドメ)アルプスいわし山ルート入口(35.590863、134.319042)に向かいました。
築城年代は定かではないようですが、南北朝期以前に塩冶周防守によって築かれたと云われています。
1572年(元亀3年)には山中鹿之介が因幡支配の拠点として一時在城したと云われています。
天正8年(1580年)羽柴秀吉による鳥取城攻めのさい、垣屋播磨守光成が桐山城に在城し、1581年(天正9年)10,000石を領して桐山城主となりました。
光成の子の垣屋隠岐守恒総は、1600年(慶長5年)関ヶ原合戦で西軍に属して伏見城、大津城を攻めたが、関ヶ原で西軍が敗れると高野山へ逃れて自刃、桐山城主垣屋氏は滅亡しました。
1617年(元和3年)池田光政が鳥取藩主となると、重臣池田加賀守政虎を浦富城に配しました。これが桐山城とされるようです。
1632年(寛永9年)池田光政との国替えで鳥取城に入った池田光仲は、家老の鵜殿氏を浦富に配し、桐山城下の垣屋氏居館跡に鵜殿大隅陣屋を築きました。
以降、幕末まで浦富は鵜殿氏による支配が続いたそうです。
小雨が降る中、山城に登城する勇気がなく登城口で撤退しました。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=芦屋城に向かいました。
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2026/06/28 05:37
(中国地方と兵庫県)遠征10日目:浦富台場 (2026/05/20 訪問)
本日は15:00頃から雨が降る予報です。ぽっぽつ雨が降ってきたかな?
道竹城から車で5分くらいで、浦富第2駐車場入口(35.590078、134.329580)に着きそこから、浦富台場公園入口(35.589867、134.328853)に向かいました。
江戸末期、鳥取藩内に築かれた台場名所の内のひとつ。現在6ヶ所(由良台場跡 境台場跡 淀江台場跡 橋津台場跡 浦富台場跡 赤崎台場跡)が残っています。
農民等が積極的に協力して築造し、西洋式の城塞プランが採用されるなど、藩築造の台場としては極めて特徴的で、幕末史の理解に欠くことのできない重要な遺構のようです。
浦富台場跡は藩執政職にあった鵜殿長道が浦富海岸に築いた因幡に現存する唯一の台場跡です。
東西約100mで、土塁の幅は10m前後、高さ3m前後を測り、前方土塁の平面形は2ヶ所に稜をもつ特異なもので、西洋式の城塞プランが取り入れられているそうです。
1863年(文久3年)沿岸防備の為に築かれた台場の一つです。 これを築くにあたっては付近の農民が動員されその後も農民兵によって守備されてたそうです。
浦富お台場公園として整備され、12斤砲、6斤砲、5寸径砲等4門の大砲が備えられていたそうです。
浦富台場の攻城で、鳥取藩内に築かれた残存台場6ヶ所コンプリートしました。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=桐山城に向かいました。
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