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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征22日目:築山館 (2026/06/01 訪問)

山口中河原御茶屋(城びと未登録 山口県山口市)から徒歩5分くらいで、八坂神社入口(34.186502、131.478275)に着きました。
その後、鳥居脇石碑付近(34.184898、131.478123)に向かいました。

大内氏28代教弘が15世紀中頃に築いたといわれています。 大内氏は守護大名として次第に勢力を伸ばすにつれ大殿大内氏館だけでは手狭となった為、別邸として築山館を築いたとされます。
もともとは大石を積み上げた石垣で周囲を囲っていたが、江戸末期に毛利氏が長門国萩城から山口城に居城を移したときに大石を運び出した為、現在の土塁のようになったと云われています。

築山館は大内氏館の北方にあり、現在の八坂神社、築山神社の境内となっています。
南西の鳥居脇に築山館の石碑があり、案内板が設置されています。築山神社の北西背後にあるのが築地跡です。
遺構は築山神社脇に残る土塁のみ。説明板の平面図を見ると館は正方形ではないことがわかります。何処に館があってどこが庭園だったのか不明です。
観光時間は15分くらいでした。次の攻城先=大内氏館に徒歩で向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征22日目:築山館周辺散策(山口中河原御茶屋(城びと未登録 山口県山口市)) (2026/06/01 訪問)

次の攻城先=築山館を攻城する前に、洞春寺と山口中河原御茶屋(城びと未登録 山口県山口市)に徒歩で向かいました。
洞春寺から徒歩5分ちょっとで、清末藩長屋門(34.187774、131.476516)に着きました。行く途中に錦の御旗製作所跡がありました。
その後、菜香亭入口(34.187335、131.480151)に向かいました。

築城年代は定かではないですが、1684年(貞享元年)には存在していたことから、それ以前、三田尻御茶屋などとともに参勤交代の制度化とともに築かれていたと考えられています。
萩藩主が参勤交代するときには、萩を出立後に萩往還を使って山口御茶屋で休憩(ときには一泊)して三田尻に向かったそうです。

山口中川原御茶屋は、大内館跡の北東600mほどのところにあり、御茶屋跡のすぐ北側に山口市菜香亭もあります。
菜香亭の施設が非常に立派であり、これが現存する御茶屋なのかと思ってしまいそうになりますが、菜香亭は1877年(明治10年)に創建された料亭であり、御茶屋とは関係がないそうです。
ちなみに菜香亭の名称は、井上馨によって命名されたものだそうです。
菜香亭の南側の広場となっているところが中河原御茶屋の跡です。
攻城時間は30分くらいでした。次の攻城先=築山館に徒歩で向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征22日目:築山館周辺散策(洞春寺) (2026/06/01 訪問)

次の攻城先=築山館を攻城する前に、洞春寺と山口中河原御茶屋(城びと未登録 山口県山口市)に徒歩で向かいました。
山口城から徒歩10分くらいで、洞春寺山門前(34.187555、131.472548)に着きました。

1572年(永亀3年)の春に毛利元就の菩提寺として、安芸国吉田の城内に創建され、幕末の頃に萩から現在の地へ移されました。
山門は四脚門で、屋根は切妻の桧皮(ひわだ)葺き。大内盛見がこの場所に1400年(応永7年)頃に開基となって建てた国清寺のもののようです。
山門と境内にある観音堂は、国の重要文化財に指定されています。
観音堂は1430年(永享2年)大内持盛が現在の滝町に創建した観音寺の仏殿です。観音寺は後に勝音寺と改まり、さらに江戸時代になって、大通院と改まりました。
洞春寺は奇兵隊の屯所や毛利敬親の仮寓所など明治維新の舞台にもなりました。
観光時間は15分くらいでした。次の攻城先=山口中河原御茶屋(城びと未登録 山口県山口市)に徒歩で向かいました。

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にのまる

五稜郭を守る。 (2026/06/24 訪問)

函館空港から路線バスで「神山通」下車。バス停から四稜郭まではあと2kmくらいです。
パン屋さん「ひだまり」に寄ったり、大圓寺の無縁塚(五稜郭の築造工事の際に亡くなった方の供養塔)に手を合わせたりなどしながら歩きました。大圓寺には箱館戦争で戦死した新政府軍と旧幕府脱走軍の兵士のお墓もあるそうです。

四稜郭には五稜郭タワーのような高い建物が近くにないので4つの稜堡を俯瞰したり“蝶が羽を広げたような堡塁”を実感することはできませんでしたが、「五稜郭に行ったら四稜郭にも!」とずっと思っていたので、現地に立てた達成感は大きかったです。

市民により大切に保護され今日まで原型を保ってきた四稜郭。建物跡などはありませんでしたが元々砲座以外の建造物はなかったそうです。

五稜郭からは直線で約3kmの距離で、歩いている坂道からも五稜郭タワーや函館山が見えました。
周囲を眺めていると、旧幕府脱走軍がここに陣地を築いた理由、また緊迫する情勢の中、数日で要塞を完成させるにはこの規模、この形がベストだったのだろうということにも思いが至りました。

「五稜郭に行ったら四稜郭も!」は行けたので、今度は……七稜郭に行きたくなった!

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イオ

見事な石垣はあるけれど… (2026/01/04 訪問)

詳細は不明ながら、室町中期に在地土豪の鏡氏が築いたと伝わります。

道の駅 竜王かがみの里から登城開始。石燈籠や宝篋印塔が遺る西光寺跡を抜けて登ること10分あまりで主郭に到達。主郭北端には星ヶ崎城跡の説明板が立てられ、北から東方向にかけての眺望が開けています。主郭の南西面に約17mにわたって続いている石垣を眺めつつ南に進み、南端の虎口から主郭内へ。南虎口の脇には溜池と思しき窪みがありますが、枯れ葉が堆積して浅くなってしまっています。主郭の中央部には城阯碑が立てられていました。

主郭周辺では、主郭から南西にのびる尾根には堀切や竪堀といった防御設備は見られませんが、尾根の南面に石垣が設けられている箇所がありました。主郭から東尾根を下っていった先にも二段の石垣(というより土留めの石積み)が見られました。北西尾根側(登城口側)にも低い石垣が見られます。

土塁や堀が全く見られない一方で、石垣だけは主郭だけでなく支尾根にまで設けられているのは不思議な感じでした。尾根続きに石垣が多用されている小堤城山城があることや、観音寺騒動では六角承禎が入城したと伝わるなどの地理的・歴史的事情が関係しているんでしょうか。
 

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todo94

和泉の攻城② (2026/07/11 訪問)

積善寺城からの転戦です。かなりの距離があったのですが、徒歩にてアプローチしてしまいました。強い日差しに照り付けられ、かなりの発汗がありました。最寄り駅の名越駅とは反対側の裏手から入っていく感じになりましたが、展望台(みはらし台)への案内表示はすぐに見つけることができました。みはらし台には、石の城址碑があったようですが、折れてしまっています。縄張り図がある主郭は大堀切を挟んだ反対側のピークの方にあります。汗の匂いや呼気の二酸化炭素が吸血モスキートを引き寄せてしまい、難渋することになりました。山城といった規模感はないので季節を問わず攻城は可能かと思いますが、やはり夏場は避けた方が無難のように思います。

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赤い城

難攻不落の巨大な山城 (2026/06/28 訪問)

13年振りに登城しました。
前回は七曲りなど整備中だったと記憶しています。
道の駅広瀬・富田城に車を置き登城口から登って行きます。
まずは最初の見どころ大土塁、背後には竹藪となっていますが深い堀切であることがわかります。
そこからすぐに山中御殿平、石垣が見事です。
塩谷口の石垣も素敵ですがここにはあまり人が来ません。

ここは後でじっくり、と思いまずは山頂部を目指します。
七曲りを登るとノの丸、二ノ丸と続き大堀切を挟んで本丸です。
本丸には勝日高守神社が鎮座します。
もちろん眺望は良いです。
大内氏が陣を置いた京羅木山もよく見えます。
二ノ丸には東屋があり手作りのかわら版やしおりが置いてありました。
ノートに記帳して持ち帰りました。

ひと休みして下山、山中御殿平に戻りました。
菅谷口の石垣や礎石建物跡などが残ります。
軍用大井戸の石組を見おろすこともできます。
さらには花ノ檀、休憩施設が建っています。
奥書院を経て太鼓檀には山中鹿介像が建ちます。
千畳平から馬乗馬場と見学して下山しました。
久しぶりの登城でしたがじっくりと見学することができました😊

【見どころ】
 ・大土塁背後の堀切
 ・山中御殿平の石垣
 ・本丸と二ノ丸の間の堀切
 ・千畳平から見おろす馬乗馬場

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征22日目:山口城 (2026/06/01 訪問)

周防長山城(城びと未登録 山口県山口市)から徒歩10分くらいで、政庁表門付近(34.184346、131.471692)に着きました。

1864年(元治元年)萩藩毛利13代敬親によって築かれました。
毛利敬親は1863年(文久3年)湯田温泉への日帰り湯治と称して萩城から山口へと拠点を移しました。
これは保守派に取り囲まれた萩では攘夷を実行できないことと、北に偏った萩では交通の便、海からの防御の面で不都合があったためです。
幕府に対しては山口屋形として申請していたが、背後には中世大内氏の詰城であった高嶺城があり、表には水堀を配していました。
大政奉還後の1870年(明治3年)政事堂から藩庁に改称。さらに、廃藩置県が行われた1871年(明治4年)城内に山口県庁が置かれました。
1873年(明治6年)の廃城令によって、存城処分となり陸軍省(第5軍管)の所管となりますがが、同年7月に大蔵省の所管へ変更され廃城となりました

水堀の一部と薬医門(山口政事堂の表門)が現存します。この表門は、廃藩置県までは藩庁門、その後は県庁正門となりました。
県庁の正門は閉まっていましたが、通用門から中に入ることができました。
藩庁の門は重厚で良かったです。土塁と石垣を見逃してしまいました。
観光時間は15分くらいでした。次の攻城先=築山館を攻城する前に、洞春寺と山口中河原御茶屋(城びと未登録 山口県山口市)に徒歩で向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征22日目:山口城周辺散策(周防長山城(城びと未登録 山口県山口市)) (2026/06/01 訪問)

次の攻城先=山口城を攻城する前に、周防長山城(城びと未登録 山口県山口市)によりました。
向山城(城びと未登録 山口県山口市)から徒歩20分ちょっとで、亀山公園山頂広場(34.180582、131.472964)に着きました。

築城年代は定かではないですが、 1588年(天正16年)毛利氏は仁保元忠を城番として長山城に置いていました。
1596年(慶長元年)毛利秀元は長門国を与えられ長山城を居城とするべく改修しました。
しかし、1600年(慶長5年)の関ヶ原合戦によって毛利氏が防長2ヶ国に減封となったため秀元は長門櫛崎城へと移り、長府藩を立藩しました。その後、長山城は廃城となったと思われます。

現在は亀山公園として整備されています。戦前は6つの銅像あったようですが、現在はが毛利敬親公の馬上像があるのみで、公園化により遺構もないようです。
亀山公園の南にはザビエル記念聖堂が建っています。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=山口城に徒歩で向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征22日目:障子ヶ岳城周辺散策(向山城(城びと未登録 山口県山口市)) (2026/06/01 訪問)

障子ヶ岳城から南東方向に進むと畝状竪堀が見えてきます。ここから向山城(城びと未登録 山口県山口市)の城域になります。
障子ヶ岳の北西にあるのが障子ヶ岳城、南東にあるのが向山城と呼ばれています。
障子ヶ岳城と向山城とは一体化した城郭であり、その主要部分は向山城であったようです。

1郭の西側には横堀が掘られ、堀底は腰曲輪となって1郭の側面部に回り込んでおり、この腰曲輪に畝状竪堀が掘られています。
向山城は2郭構造のそれほど規模の大きくない城郭ですが、二重堀切や畝状竪堀などが確認できました。

登山口とは違う場所から出口(34.173897、131.462984)に向かいました。
出口に不動産屋の私有林の看板がありました。立入禁止とは書いてはないし柵などもないので、大丈夫だと思います。
攻城時間は20分くらいでした。次の攻城先=山口城を攻城する前に、周防長山城(城びと未登録 山口県山口市)に徒歩で向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征22日目:障子ヶ岳城 (2026/06/01 訪問)

湯田温泉駅の狐の像付近から徒歩20分ちょっとで、登山口(34.174312、131.459357)に着きました。

築城年代は定かではないようです。
1557年(弘治3年)大内義長の遺臣草場越中守・小原加賀守・河越伊豆守などが大内義隆の遺子問田亀鶴を奉じて挙兵したのがこの障子ヶ岳城です。
長門守護代で荒滝山城主であった内藤隆春が反乱軍を鎮圧し、草場越中守などは討死、亀鶴丸も捕らわれて処刑となったそうです。
この問田亀鶴丸は大内義隆と内藤興盛の女との間に生まれた子で、隆春にとっては甥になるそうです。

赤いテープに沿って登って行きます。けっこうな急坂ですが道はあります。
ちょっとした平坦地がある以外、何もありませんでした。
攻城時間は20分くらいでした。次の攻城先=向山城(城びと未登録 山口県山口市)に徒歩で向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征22日目:障子ヶ岳城周辺散策(湯田温泉駅狐巡り) (2026/06/01 訪問)

湯田温泉駅から障子ヶ岳城へ向かう途中、徒歩5分位の処に狐の像がありました。

①:ゆう太(34.159792、131.459928)高さ8mの巨大な白狐 駅そば
②:狐の像(34.162892、131.457809)

城巡りから帰った後、湯田温泉と狐の関係を調べたら、以下のことがわかりました。
その昔、傷ついた白狐が毎晩お寺の小さな池にやってきて足をつけており、それを見た和尚さんが池を深く掘ると温泉が湧き出たという伝説に基づくのだそうです。
昔から多くの人々に親しまれ、そして愛されてきました。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=障子ヶ岳城へ徒歩で向かいます。

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天守無しがアツい

五稜郭タワー (2026/07/04 訪問)

あの時…タワー1階こそ足を踏み入れたものの…そこで満足してしまい帰ってしまった…高校2年生たち👱‍♂️👦👨👨‍⚕️

そして数奇な運命で…この間再訪
五稜郭を巡り…タワーに上り…函館市内の街並みと…敗れたものの奮戦した蝦夷共和国…ひとり散っていった歳三の生き様を味わう🤵‍♂️⚔️


タワー2階から函館市内を眺め…五稜郭の歴史を学ぶ…

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長町ツインズパパ

出張の合間の旅 その1(2) (2026/06/16 訪問)

出張の合間に彦根市の城をめぐりました。

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美夢

復興を願って (2026/07/12 訪問)

憧れの特急「花嫁のれん」
震災後は当然運休
しばらくたってからはツアー等の貸切だけでの運行でしたが
久しぶりに調べると、一般での予約も再開
ならばと友人を誘っての旅行となりました
豪華絢爛な「花嫁のれん」に乗って
素晴らしいサービスに感動しつつ、長尾駅へ

七尾城のスタンプ、やっとゲットしました
(⁠^⁠∇⁠^⁠)⁠ノ⁠♪
ボランティアスタッフさんのお話では
やはり震災により崩れている部分があるそうです

羽咋(はくい)駅まで戻り
ホテルでウォーキングバイシクルという立ちこぎ自転車みたいなやつをお借りして
千里浜なぎさドライブウェイを快適に走りました
風がとても心地よかったです
なくならないうちに来られて、良かった

ホテルでは温泉もしっかり楽しみました
トロトロ琥珀色の美肌の湯、最高!

今回は和倉温泉等、より大きな被害があった地域には行かなかったのですが
それでも、屋根瓦が落ちて修復作業中の建物を見ることがありました
ニュース等での報道もほとんどなくなりましたが
震災のご苦労をされている方への想いが風化しないようにと願いつつ
お土産を買って帰路につきました

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トク

16【秀長の毛利攻めをたどる①】備中高松城(1/2)水攻めと清水宗治 (2026/05/09 訪問)

「桃太郎さん♪、桃太郎さん♬~・・」岡山駅10番ホームに流れるこの発車の合図を聴きながら、JR桃太郎線(吉備線)に乗り20分、備中高松駅に到着です(写真⑨)。そこから高松城へは、徒歩で10分程でした。

備中高松城は2度目ですが、確かに以前より資料館がきれいになっていました(写真①)。そして城の本丸(中心部)へ立ってみました(写真③)。当時は360°田んぼだったので、確かにここは湿地帯の真ん中だったという事がよく確認できます。時は移り、昭和60年にも洪水で水没した事があるそうです(写真④)。

1582年備前の宇喜多直家の調略に成功した秀吉は、備中に入りまず境目七城の冠山城を加藤清正・藤堂高虎・直家の子の宇喜多秀家らに攻めさせます。落城すると秀吉軍3万の軍勢は、東から北や西まで高松城を見下ろせる山々に布陣、七城の中心である高松城を取り囲みます。そこで官兵衛の発案で、秀吉は堤を築き水攻めを敢行しました。

吉川元春・小早川隆景の毛利の軍勢が陣を敷いた南の山々を眺めてみました(写真⑤)。到着した時にはすでに高松城は水没していたそうです。そして城主「清水宗治」の切腹をもって城兵5千の命は助けるという和議の条件を受け入れ、宗治は果てました(写真⑥)。

宗治が自刃した場所へ行ってみました(写真⑧)。船で城から漕ぎ出し、秀吉から見えるこの場所まで来て、この句を詠み船の上で切腹したようです。

浮世をば 今こそ渡れ武士(もののふ)の
名を高松の 苔に残して (写真⑦)

この様子を見ていた秀吉は、「見事じゃ! 宗治は武士の鑑である」と称賛したそうです。

私は備中高松城の本丸のベンチに座り、岡山駅で買った「きびだんご」を食べながら、ここが水没している姿を想像していると、ふと疑問が。あれ? そういえば秀吉や秀長も「きびだんご」は食べたのだろうか🤔?(写真⑩)。

次は、ここから秀吉や秀長の陣跡まで歩き、そこから備中高松城を眺めてみようと思います。
 

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長町ツインズパパ

出張の合間の旅 その1(1) (2026/06/16 訪問)

出張の合間を縫ってお城を回りました。

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イオ

川守城(滋賀県蒲生郡竜王町川守) (2026/01/04 訪問)

川守城(城びと未登録)は、詳細は不明ながら六角氏に仕えた吉田氏の城と伝わります。

城跡は住宅地になっていて遺構はほとんどが失われていますが、八幡社の建つ土壇が東辺の土塁と考えられ、土塁には川守城趾の石碑と城の八まん社の標柱が、鳥居の奥には近代弓道発祥の地の説明板が立てられています。説明板によれば、日置弾正正次から弓の奥義を伝授された川守城主・吉田出雲守重賢が日置吉田流弓術を広め、5代後には徳川将軍家の弓術指南役を輩出するなど、現在の弓術流派の多くは日置吉田流を発祥とするのだとか。土塁がわずかに遺るだけの城かと思いきや、現在まで続く大きな流れの源流だったとは。
 

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todo94

和泉の攻城① (2026/07/11 訪問)

2026年6月に攻城を予定していたのに、雨と財布忘れのため断念せざるを得なかった和泉の城を攻めてみました。名古屋始発ののぞみで新大阪にアクセスし、阪和線の和泉大橋駅にて下車。徒歩で積善寺城を目指しました。近木川(こぎがわ)にかかる橋の袂に説明板が建っています。主郭跡という明教寺にも脚を伸ばしてみました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征21日目:霜降城 (2026/05/31 訪問)

厚東駅から徒歩35分くらいで、霜降山登山道/温見古道(34.025009、131.262473)に着きました。
霜降山への登山コースはいくつかあるようですが、自分は持世寺コースを選択して登りました。

1179年(治承3年)壇ノ浦の戦いで名を上げた七代厚東武光によって築かれたと云われています。
厚東氏は物部氏の末裔を称し、初代厚東武忠が棚井の地に住んだことに始まるとされ厚東氏館を居館としていました。
14代厚東武実は長門守護職となり勢力を拡げるが、その後大内氏と争うようになり、17代厚東義武のとき1358年(延文3年・正平13年)大内弘世によって霜降城は攻め落とされ、厚東義武は城を逃れて九州へ落ちていきました。
九州に逃れた厚東義武は失地回復の戦いを挑みますが、最終的に長門国は大内氏の版図に組み込まれました。
霜降城は大内氏には使用されず放置され、南北朝時代の遺構が現在も残っているそうです。

霜降岳分岐点を過ぎるとひたすらロープをつかっての登りです。結構きついです。
後城(北峰)に着いた時点で帰りの電車の予定時間が迫ってました。
本城に向かうかどうか迷って、とりあえず後城(南峰)に到着。ここで本城に向かうのは諦め下山。
しかし、タッチの差で予定の電車に間に合わず、厚東駅で次の電車まで40分待ちでした。
攻城時間は90分くらいでした。本日の城巡りは、ここがラストです。
歩行歩数=41240歩、歩行距離=28.8Kmです。
本日の宿泊先に向かう為、厚東駅からJR山口線を利用して新山口駅に戻りました。

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