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カズサン

篠島城登城で愛知県制覇 (2025/11/15 訪問)

 今年3月末尾張上条城登城で尾張国制覇、既に三河国は制覇済でしたので愛知県制覇か?と上条城登校前に城びと登録の城を再確認したら知多半島先の島に篠島城が残ってる事を事を確認、機会をみてと思ってる内に11月中旬、高気圧が上空に張出たタイミングを見て篠島へ出発、道は今年蒲郡と豊川間が開通した国道23号線(浜松より名古屋豊明まで高速道規格BP)が繋がり乗ってみようと利用して国道247号線で地道走破約140km、R23は結構渋滞し到着まで約4時間。

 師崎港名鉄海上高速船乗場駐車場も満車状態、11時台は30分発の篠島、日間賀島行き1本のみ、往復割引で1530円、高速船は沖縄石垣島島めぐり以来の体験、城廻は私だけか?ほとんど釣り客、海鮮料理ツアー団体客でした。高速船で5分程?

 篠島港ターミナル島の駅篠島へ到着、ターミナル前には加藤清正名古屋城築城の残り石が展示されている。
 
 案内所に寄り篠島城への道順を聞く、南へ真っ直ぐ500m程で元小学校廃校への細い登城階段と東に廻り込んでコンクリート舗装の自動車道の案内が有り、東周りの自動車道が分かり易いと教わる。
 廃校建物が山の上に見えて、皆さんの投稿文と写真で廃校前の細い階段道を選択し、廃校の東横に到着、コンクリート舗装の道と合流します。

 城域は廃校の南東に登り石段と紫の城山水神天狗の幟が有り従って登って行くと民家の細い道脇を進み、案内指示板と皆さんの投稿写真の石階段と城山碑、出口の様ですが曲輪切岸石階段を登り頂上の曲輪へ整備されていて、八大龍王と城山水神天狗の幟が沢山はためいている。
 北側に自然石の篠島聖跡碑、石碑の前面に碑文、中心部に神社、祠が鎮座、東の入口に鳥居と城山水神天狗の石碑がる、入口から降りて出口に戻る。

 歴史は篠島聖跡の碑文によると、南北朝時代延元3年(1338年)東国陸奥へ北畠顕信(北畠顕家の弟)等が義良親王(後の後村上天皇)奉じて伊勢を出発するが海上嵐に遭い篠島に漂着、暫く滞在して伊勢に戻ると有ります。
 北畠親房、子息顕家、顕信はよく頑張りました、明治後銅像が建ったり、神社に祀られています。

 篠島城登城で尾張国制覇、既に三河国は制覇済で、愛知県を制覇です。
 
 まだ在地の静岡県は未踏の城が残って居ますし、ふるさと鳥取県も未踏の城が残って居ますのに?(比高が高く、車の駐車エリア確保の困難な所は登城を控えております)

 登城を終えて昼過ぎ、港までぶらぶら歩いて食事処を求めると海鮮の食堂が、席は満席状態で1席空きあり、釜揚げしらす丼と赤だしで1400円、塩の加減が丁度良く美味しく頂く、ワサビを付けても美味しい。
 11時半から13時半の約2時間でしたが久しぶりの海と潮風が心地よい。

 師崎港駐車場へ戻り4時間前で駐車代は400円。
   

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しろりん

市民憩いの公園 (2025/11/10 訪問)

かつては諏訪湖に突き出した水城で「諏訪の浮城(すわのうきしろ)」と呼ばれていましたが、江戸時代初めの諏訪湖干拓事業によって水城の面影は失われてしまいました。しかし浮城の異名を持っていたことから日本三大湖城(松江城、膳所城、高島城)の一つに数えられています。維新後の1875年(明治8年)に天守以下の建造物は破却または移築されました。1970年(昭和45年)に本丸に天守・櫓・門・塀が復元されました。天守台の位置は同じですが、当時の外観の資料が不足していて正確に再建された訳ではないので「復興天守」です。
内部は資料館になっています(入館料310円)。また、城址公園としてはそんなに大きな規模ではありません。公園の外周をぐるりと一周しても歩いて10分程度です。池があり鴨や鯉がいますし、遊具もあって子どもの遊び場でもあります。訪れた日は大雨の翌日でしたが、公孫樹の銀杏がたくさん落ちており(ものすごい銀杏臭が…)、銀杏を目当てにマスク手袋、火バサミの姿で銀杏拾いに来ているおばあちゃんがいました。また犬の散歩をさせている近所の人も居て、市民憩いの場になっています。駐車場は高島城天守の下のところに10台位駐められますが、利用時間として1時間以内との掲示があります。

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【福知山城再建40周年、さらに築城450年に向けて】ガバメントクラウドファンディング 実施中!

京都府福知山市は、ふるさと納税を活用したガバメントクラウドファンディング®(GCF®)を通じて、福知山城の景観整備および再建40周年記念企画展の実施を目指すプロジェクトを実施しています。

福知山城は、福知山市ゆかりの武将・明智光秀が1579年に築いた歴史あるお城です。現在、周辺の木々が成長したことで全体像が見えづらくなっており、市民の寄附により再建された「市民の誇り」である福知山城を、次の世代へ引き継いでいくためには、景観の保全と整備が必要となっています。

本プロジェクトは、福知山観光アクションプランのビジョン「福知山城から広がる『福』がいっぱい福知山」のもと進めるもので、福知山城の魅力を高めるとともに、市内観光の活性化にもつなげることを目的としています。


【プロジェクト概要】
◆プロジェクト名:再建40周年、さらに築城450年に向けて 福知山城の魅力を引き出し、新たな世代へつなげたい!
ー景観整備で魅力を整え、40周年企画展示を迎えたいー
◆サイト運営会社: 株式会社トラストバンク
◆目標金額: 300万円
◆募集期間:2025年10月15日~2026年1月12日(90日間)
◆寄附金の使い道:福知山城の歴史的景観を維持するための福知山城周辺の植木剪定等、景観の維持整備の費用や2026年に再建40周年を迎える福知山城の記念企画の費用に充てさせていただきます。
◆プロジェクトURL:https://www.furusato-tax.jp/gcf/4739

GCF®を通じて、再建40周年および2028年の築城450年に向けた取組を広く発信し、市民とともに次世代へ受け継ぐまちづくりを進めてまいります。

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カズサン

歴史館の復元櫓門が圧巻です (2025/11/11 訪問)

 14年振りの鉢形城チョイ寄り、始めに鉢形城歴史館を見学、以前よりの興奮が続いていますが歴史館に復元されている欅の櫓門、櫓上部には鎧姿の弓矢で防御の武者人形も有り雰囲気抜群、欅の透かし大扉、上から、前から裏からじっくりと眺められます、よく復元してくれました。
 鉢形城の復元立体模型ジオラマも素晴らしい、現地で分からい構造をよく理解する事が出来ます。
 感激のあまり写真投稿させて頂きます。
 70歳以上は入館料無料(証明必要)でした、ありがとうございます。
 

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カズサン

角馬出・広大空堀が圧巻 (2025/11/11 訪問)

 14年振りに長瀞渓谷一周舟遊覧後チョイ寄り、関越道花園IC経由では寄らない訳には行けません、家内と一緒でしたから二の曲輪と三の曲輪中心で散策探訪、寄居駅より一泊で鉢形城探訪の御老女3人仲間にも声掛け会話、錦秋の良き日でした。

 鉢形城の圧巻は二の曲輪西角の角馬出と二の曲輪と三の曲輪間の広大な空堀、復元の三の丸4段の石積土塁と四脚門・続き土塀が見所です。空堀、土塁、曲輪とも草刈されて奇麗に観察散策する事が出来ます。角馬出、空堀、復元石積土塁、復元四脚門続土塀の写真投稿します、10番目の写真は鉢形城内堀の役目である深沢川と少し色付いた林間の景観を載せました。

 約1時間ゆっくり紅葉も楽しみました、春の氏邦桜事エドヒガン桜の満開時に一度来たいものです。
  

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トク

(1/2)八代城と加藤忠広 (2025/11/14 訪問)

続100名城の八代城へ行ってきました。

JR新八代駅(在来線口)から、八代駅経由の巡回みなバス右回り(産交)に乗り「八代宮前」で下車しました。下りると目の前に石垣がドンと見えます。八代宮は本丸御殿があった場所に明治時代に建てられた護国神社です(写真⑧)。ここからまず本丸石垣の上をぐるりと一周し、それから堀の外周を一周しました。広い堀から見えた大天守の石垣と小天守との横矢掛の折れをともなった石垣はとてもきれいで、一周すると堀に囲まれた四角い輪郭式の縄張りである事がよくわかります(写真①②③)。

八代城は1619年地震で倒壊した麦島城に代わり、加藤忠広(清正の子)が一国一城令の後の1620年に家臣の加藤正方に命じて築城した城です。当時は四層五階の大天守と二層三階の小天守、そして8つの櫓が本丸を取り囲んでいたようです。その復元図がありました(写真⑨)。そして、忠広の時代は欄干橋が唯一の出入口(大手門)で、今ある北の参道橋は松井時代に、南の参道橋は明治時代に架けられた橋のようです。

欄干橋を渡り大手門(頬当御門)から入り登城気分を味わいます(写真⑥⑦)。見事な高石垣は、上から撃ち掛けられたらひとたまりもない感じがします。でも加藤忠広は熊本城があったにもかかわらず、なぜこのような巨大な城を築城したのでしょうか? またなぜ、幕府は一国一城令の後にもかかわらず、この築城を許可したのでしょうか? 諸説あり真実はわかりませんが、忠広が島津との国境を固めたかったからという説もあります。しかし九州の関ケ原を最後にこの時まで1601~1619年の間、加藤と島津にはいざこざなど問題は無かったので、城を築く必要も無かったはず🤔? むしろ加藤と島津を警戒していたのは徳川秀忠だったのではないでしょうか? よってこれはあくまで私の推測ですが、秀忠は加藤家の莫大な財力を奪って弱体化させ、かつ島津への抑えとなる城を造りたかったので、忠広を利用して一石二鳥を狙ったのではないかと思いました。

1611年、清正が突然亡くなったため、11才の若さで家督を継いだ忠広は、右も左もわからないまま藩主となります。しかし若年の忠広には、やはり清正恩顧の家臣たちの勝手な振る舞いを抑えきれず、それゆえ自らの乱れた行いも多くなり幕府から信用されなかった・・などと諸説ありますが、ならばとこの築城を通して幕府の信頼を得たかったに相違ありません。しかしこの八代城の堀と石垣、そしてやっと大天守と小天守が完成した1632年、加藤家は突然改易されてしまいます。そして1年後に忠広は亡くなったそうです(一説には自害とか)。やはり利用され捨てられただけなのでしょうか🤔?

市役所の6階に上がり八代城を眺めてみました(写真⑩)。忠広は偉大な父清正の血を引く藩主であったにもかかわらず、幕府や家臣から信用されないまま終わり、さぞかし無念であったろうと思いました。

次は、(2/2)八代城と松井興長に続きます。
 

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todo94

滋賀ドライブでの攻城⑤ (2025/11/08 訪問)

近江大塚城からの転戦です。正午をだいぶ回っていたので、湯豆腐と様々なこんにゃくの永源寺定食を昼食にいただいてから向かいました。サクッと確認してから、近くにある紅葉の名所・永源寺にも足を伸ばしてみました。紅葉はまだ色付き始めだったので人出はほどほどに収まっていて助かりました。駐車場代と拝観料で1100円の出費でした。

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しんちゃん

国の史跡のジレンマ (2025/11/09 訪問)

人によって受け止め方は異なりますが、ガイドさんの話だと現在本丸とされている曲輪は「鐘の丸」とされる曲輪で、本丸はもっと上の方にあったとする説があるようです。とすると「山王丸」あたりが本丸になるのだろうか? たしかに上に有った方が防御には良いだろうけど・・
大広間の周辺はすでに発掘が終了していて「瓦」などが出土していないことから、桧皮葺などの簡素な木造の構造物が有ったのではないかと考えられているようです。ちなみに炎焼のあとは無かったようで、落城時に燃えあがる小谷城から「お市」さんや三姉妹が落ちのびたというのはフィクションらしい。う~ん・・
大広間より上の曲輪はまだ発掘されていないという(ガイドさんの)話なので、この先の進展に期待しますか。

御存じとは思いますが小谷城は「国の史跡」なので、自治体が勝手に改変することが出来ません。とはいえ融通がきかないのも事実で、伝本丸跡の木が老朽化して来たけど、もんか省の許可が下りないので伐採できず困っているらしいです。
石の城址碑を移したいけど、これまた許可が出ず・・木を切って切株の上に固定したそうです。そういや案内板も木に刺さっている。
う~ん、なかなかクレイジーだわ。よそではなかなか見ない光景だが、もんか省からは文句は出なかったらしい。
めでたし、めでたし・・木が可哀そーじゃないか 木の毒に・・ とりあえず「もんか省」が全部悪い。
ガイドさんと「もんか省」の〇口で盛り上がっていたらバスを一つ逃してしまった。自治体もいろいろ大変だ。登城道に階段を作りたいらしいが、道も遺構なので壊さないようにお願いします。

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しんちゃん

小雨の中、バスに乗って城址へ (2025/11/09 訪問)

前日の晴天とうって変わって朝から雨模様です。本格的な山城はしんどいので長浜城など比較的攻めやすい城から周ることにしました。
以前行った城ばかりになりますが「城めぐり」後発組なので、リア攻めを増やしたいんですね。結局自分で回って「城びと」「城めぐり」で三回くらい回っています。スタンプがらみだと四回になるのか・・。
この時期は駐車場までバスが出ているので、それに乗って行きます。駐車場に着くとガイドさんがいて皆で傘をさしながらいっしょに行くことになりました。ガイドさんといろいろ話をしましたが、人によって話の内容が微妙に異なっています。皆、思い入れがあるようです。
久々に本丸の石垣を見ましたが、ここは「鐘の丸」で二重の鐘突き櫓があったとする説もあるようです。これもガイドさん情報です。

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ぎりょう

四季折々に美しい有備館庭園 (2025/11/16 訪問)

今日は地元大崎市の岩出山に。城山の西にある旧有備館および庭園で開催中の企画展「松平定信の書写収集事業」観覧のためでした。今年のNHK大河ドラマべらぼうで井上祐貴が好演している松平定信ですが、若くして将軍補佐や老中職を勤めた後は、白河藩主として藩政に尽力し、家督を譲った後は「楽翁」と号して学問や著述に勤めたといいます。
企画展は、戦国時代に白河を領し、藩政期には仙台藩にあった真坂白河家と真山白河家のことや、文政元年に定信から両家が保有する古文書写を請われたことについて判り易く説明・展示しています。
企画展も楽しめましたが、久しぶりに訪れた晩秋の有備館庭園、とても美しく感動しました。

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ヒロケン

崖じゃん (2025/11/15 訪問)

とある煩悩の登城目録さんの11月13日に投稿された金華山を「自分の足で登る」に感化され、そういえば自分も登ったことなかったので、自分も自分の足で登ってみたく岐阜城に行ってきました。
岐阜公園鏡岩緑地駐車場(24時間いつでも利用できる無料駐車場)に駐車、トイレも岐阜護国神社横の花木広場トイレを利用することができます。
私は、とある煩悩の登城目録さんとは反対に搦め手道(めい想の小径)から攻め入り、大手道(七曲りの登山道)から下山、信長公の居館を焼き払い帰宅する予定をたてました。5年ぶり5回目の登城です。
「めい想の小径」の案内表示に従い進入。朝早くから(6時50分くらいかな)登山を楽しもうとする老若男女が足早に登っていきます。歳の頃が同じくらいかな?と思われるご夫婦について行こうと夢中でついて行っていましたが、突然目の前に急崖が( ゚Д゚)、あれっ、とある煩悩の登城目録さんの投稿では、池田輝政公が攻め込んだという記述があり、「マジかぁ~」「甲冑着て武具を持ってこの急崖を登ったの~」「昔の人はスゲ~なぁ~」などと思いながら、カメラを鞄に終い両手で崖をよじ登りました。口で息をするものだから、喉はカラカラ・頭はふらふら、休もうにも休憩する場所などありゃしない、30分程崖と格闘したでしょうか、4番目の画像の石垣が現れ城が近いことが認識できました。助かったぁ~いつもなら石垣を見て興奮し辛かったことを忘れるのですが、今回ばかりは「こんなの道じゃない、ただの崖だ」と本丸に辿り着きぼやいていた時に3番目の画像の注意表示板が( ゚Д゚)「何⁉馬の背登山道」っとまあ道を間違えていたとの「おち」がつき、岐阜城本丸周辺を堪能し、大手道(七曲り登山道)から下山しました。皆様も体力に自信がある方は、「馬の背登山道」登ってみては如何でしょうか。ご安全に!

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翡翠

スタンプを押しに (2025/11/16 訪問)

今日は、登城しませんでしたが、100名城スタンプの本を買う前に違うノートに押してたので、押し直しに行きました。津和野城跡、遠くからでも紅葉が綺麗でした。近くに行きたかったです。今が1番良いと思います。バイクだったし、停まれなかったので、写真はありませんが、帰りに、竹風軒の源氏巻買って帰りました。いつもは、一本のを買うのですが、一口サイズが出てたので、これを買いました。

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いんげん丸虫

山下氏城 三重県伊賀市 (2025/11/02 訪問)

福持九郎城から谷を隔てた北部に
あります。3方を高土塁で囲む構造
です。
伐採した幹、枝を堀切内に集積、
放置してしまう城跡もありますが、
ここは堀切の斜面にそってならべて
ますね。城巡りに来る人達のことを
考えてくれてます。嬉しい限りです。

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いんげん丸虫

福持氏城 (福持九郎城) 三重県伊賀市 (2025/11/02 訪問)

近くに福持氏城と同名の城跡がある
のでこちらを福持九郎城とすること
が多いようです。
方形に高土塁、横堀を巡らせる基本
遺構ですが、自然地形を利用してる
ので規模が大きいです。北東の横堀
は一部石塁を伴って壮大ですねー。
見所豊富で素晴らしいです。
この時期には珍しくヘビがいました。

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いんげん丸虫

福岡氏城 三重県伊賀市 (2025/11/02 訪問)

福岡氏城、福持氏城(福持九郎城)、
山下氏城と3城が隣接してます。
ややこしいですが、その時系列など
古書、文献を調べると面白いと思い
ます。福岡氏城はこのなかで一番小
規模な城で単曲輪に高土塁、背後を
堀切ってます。
城跡まで徒歩5分位の所に駐車場が
あり、看板も整備されてます。
玄関さきにいたご夫婦から『お城見
に行くのですか?ありがとう』と
声をかけられました。普段こそこそ
と城巡りしてる自分としては妙に嬉
しかったです。

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todo94

滋賀ドライブでの攻城④ (2025/11/08 訪問)

大笹原神社をはさんで小堤城山城からの転戦です。朝日大塚駅の至近です。まずはグーグルマップにも載っている大塚城跡馬掛石からチェックしていきます。そしてグーグルマップの大塚城のポイントには大塚城主因幡屋敷跡の石柱が立っていました。近江鉄道で分断されている反対側には、濠も確認することができました。暫く粘って周辺を探索したのですが、内堀跡の石柱は見つけることができませんでした。

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火ノ島豊後守正宗

箕輪城 (2025/11/15 訪問)

正80城目。
高崎駅前で伊香保温泉行きの群馬バスで30分程度で連雀町(箕郷)まで行き、そこで箕郷矢原宿カフェに寄り、スタンプを押しました。ここで一服しようと思いましたが店員さんが特に勧めてくれなかったのでスルーしました。このまま坂を上って箕輪城址を見学しました。ちょっとした城址公園でした。最近話題の熊に気を付けていましたが、その気配すら感じず、そこそこの人出で賑わっておりました。

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nakamur

岐阜城です

ロープウェイに乗るまでで約1時間かかりました。お城は素晴らしい。

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にのまる

津駅⇄津城2往復しました。 (2025/08/12 訪問)

田丸城・鳥羽城からの3城目です。
数年ぶりですが、見た記憶のあるところとないところがあり、懐かしさと新鮮さを味わいながらの散策となりました。
センターパレスの模型も見に行きました!聞いていたとおりの素晴らしさでいろいろイメージも膨らみ、いつまでも見ていられる感じでした。
フライングスタートしている2冊目の続100名城スタンプ帳を連泊中の松阪の東横インに置いてきてしまったので翌朝再訪しました。スタンプだけと思っていましたが、行くとやっぱりいろいろ見て写真も撮ってしまいます。(そのため予定の電車に乗れず、そしたら局地的大雨で遅延などがあって列車検索が効かず、いろんな駅の駅員さんに助けてもらいました。)

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しんちゃん

岡崎城 (2025/10/26 訪問)

岡崎城の総構は広いです。現在は全体の遺構の一部が残されているだけですが、それだけでも十分見ごたえがあります。享保年間から康正元年(1455)にかけて西郷稠頼の居館の北西を守るために築かれた砦が始まりになるようです。
その後松平氏の城となり慶長5年(1600)~正保2年(1645)の間に本多氏によって大幅に改修され現在のような近世城郭の姿になりました。江戸期の縄張りは非常に複雑でまるで迷路のようです。いったい幾つ馬出しや枡形があるのやら。同じ巨大城郭でも名古屋城や駿府城とは対照的な構造になっているのが面白い。

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