(2/2)八代城と松井興長
(2024/11/14 訪問)
八代城の続き(2/2)です。
1632年加藤家改易後は、豊前小倉藩主の「細川忠興」が肥後へ入りますが、その時に家督と熊本城は子の「忠利」に譲り、忠興はこの八代城に入って隠居します。忠興死後は、筆頭家老の「松井興長」が城代として八代城へ入ります。そしてこの頃に、本丸御殿を含めた城全体がほぼ完成したようです。
松井興長と言えば🤔?・・・そうです! あの巌流島で決闘をした宮本武蔵が、小次郎の弟子たちから襲われる所を、鉄砲隊で護衛し自らの領地で匿った・・あの人物です! 興長は忠興の四男立孝を本丸に入れ、自らは忠興が隠居所としていた北ノ丸に入ります。興長死後の北ノ丸は松井神社となり、興長は今もここで祀られているそうです(写真⑥)。
松井神社の西隣には、興長の孫(三代)直之が建てた「松濱軒(松井文庫)」が立派な庭園とともに残されていました(写真①-⑤)。そこには、興長が「小次郎を倒した木刀とはどのような物であったのか?」と問うたので、武蔵は「このような物です」と同じものを自ら削って再現し興長へ渡したと伝わる物や、武蔵が興長に宛てた手紙や、武蔵が書いて送った「戦気」の掛軸など、興長と武蔵の親密な関係を示す資料が展示されていました(撮影は禁止)。
続100名城スタンプは松濱軒の向かいにある「お祭りでんでん館」にありました(写真⑦)。また八代市博物館で復元模型を見たかったのですが、休館中(26年3月まで)で見る事ができず残念でした。
帰りは市役所前から、巡回みなバス(今度は左回り)で新八代駅へ戻りました。帰りのバスまでまだ30分あり、目の前の市役所1階ロビーで八代市が生んだスーパースター「八代亜紀」のギャラリー展があっていたのでちょっと覗いてきました(写真⑧)。それを見たら、晴れているにもかかわらず、帰りのバスの中で「雨雨降れ降れもっと降れ~♪、私のいい人連れてこい~♬」と口ずさんでしまい、隣に座っていたおばあちゃんから笑われてしまいました(😩~)。
今夜は新八代駅前に宿泊し、次は新八代駅から(佐敷城)を目指します。
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