24【秀吉の九州平定をたどる⑤】根白坂の戦い(豊臣秀長VS島津全軍)
(2023/11/05 訪問)
根白坂は3年前に訪れました。最寄りのバス停は高城(木城温泉ゆらら)で、その時私は高城から根白坂まで往復5時間かけて歩いて行きました。根白坂は県道が走っているので車だと難なく行けますが、戦った諸将の気持ちを感じたいがために、高城から諸将がたどった道を歩いて行きました。でも後悔したので皆さんは車で行った方がいいと思います(笑)。実際に行ってみると、そこは坂というより標高200mくらいの急斜面の山(峠)で、歩くと思ったよりきつかったです。それだけでなく、ほとんどが私有地で入れず、柵や堀の跡などを探索したくても、できなかったなどの理由もあったので、今回再訪は断念して3年前の写真をまた使わせて頂く事にします(内容もダブリますが御容赦下さい😔)。
1587年、秀長10万の軍勢は東九州から豊後を通過し薩摩を目指して南下、日向へ入ります。そして山田有信1,300が籠城する「高城」を囲みました。島津軍は高城の山田有信を必ず助けに来るであろう、その時必ずここを通るであろう根白坂に、秀長は宮部継潤1万に砦を築かせます。ここで迎え撃つ後詰決戦を考えていたようです。
予想通り薩摩当主の島津義久は自ら出陣。弟の義弘・家久の精鋭3万5千を引き連れて、根白坂の南の山に陣を敷き、有信を助けるため秀長の軍勢と対峙しました(写真⑦)。高城川一帯(写真⑧⑨)は以前にも大友軍を破った地の利がある場所だったので、ここを選んだのかもしれません。
説明板によれば、継潤は地中に深さ1.8mも埋もれた高さ3.6m柵と、幅5.5m深さ3.6mの堀を何重にもめぐらし、島津軍と川を挟んで対峙したとあります(写真③)。どうやらこれを発案したのは、黒田官兵衛のようです。さすがは官兵衛! そしてこの策が勝敗を分ける事になりました。
島津義弘は地の利を生かし、継潤の砦に夜襲を仕掛けます。戸次川での仙石久秀の時と同じ、宮部継潤の砦など簡単に突破できるだろうと甘く考えていたようです。そして夜明けまでに高城まで進んで秀長の陣(松山)を襲い、敵が出てきたところで高城川まで引いて、両側から義久・家久、背後から山田有信の軍勢で囲むという得意の「釣り野伏せ」を仕掛ける作戦だったようです(写真⑧)。
鉄砲で撃ちかけ、その隙に夜陰にまぎれ柵にロープをかけ倒そうとします。しかし倒れません! それもそのはず、地中に深く埋もれているからです。今度は宮部軍が鉄砲を撃ちかけて反撃してきました。島津軍は多くの死傷者を出し空堀は死体で埋まります。しかし死を恐れぬ勇猛果敢な島津軍はひるみません。そのうち弾薬が尽きるであろうと、繰り返し執拗に柵を倒そうと次々に攻めてきます。しかし宮部軍の弾薬は豊富で撃ち続けてきます。深い柵と豊富な弾薬、これらは島津軍にとって想定外でした。空堀は死体の山となります。それでも夜明けが近づき、ついにあと少しで突破できると義弘が思ったその時! 「危ない! 継潤を死なせてはならぬ~!」と、陣営の反対を押し切って出てきた藤堂高虎が加わり、再び膠着状態になります。そして夜が明け、さらに黒田官兵衛・戸川達安(宇喜多)・小早川隆景(毛利)の援軍も到着。重臣島津忠隣(歳久の養嗣子)が討死し、これは不利と見た総大将の島津義久は全軍に撤退を指示しました。
20日後、義久は剃髪して秀吉のいる川内の泰平寺に出向き降伏しました。そして秀吉は、宮部継潤を戦功の第一と賞賛したそうです。こうして九州平定が終わり、残るは小田原の北条のみとなります。
私は秀長の陣があった松山から根白坂を眺めてみました(写真⑨)。戦いが終わった秀長は、どんな思いで根白坂を眺めていたのでしょうか? 実は撤退した数日後、島津家を潰したくない義久は秀長に、自分の命と引き換えに島津家が生き残れるよう、秀吉との間を取り持ってほしいという密書を送ったそうです。秀長は薩摩・大隅の旧領のみ安堵で許す事を秀吉に提案しますが、逆鱗に触れたとか? しかし結局、先の朝鮮出兵まで見据えて考え直し、義久が打首覚悟で剃髪してひれ伏したのを見て、島津を許したそうです。
これで「やっと終わった~!」とほっとしたのもつかの間、この頃から秀長の体調に異変が起きるようになります。
大河ドラマ豊臣兄弟では、これらがどう描かれるのでしょうか? 今から楽しみです。次は、島津歳久による「秀吉暗殺未遂事件」を追いたいと思います。(虎居城)に続きます。
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