土塁や堀が残っているという情報がありましたが、城域は私有地で立ち入り禁止のようです。登城口と思われる所と松虫寺に寄って退散しました。
印旛日本医大駅から徒歩15分くらいで行くことができます。
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2026/08/01 13:29
2026/07/31 21:32
トクさん,ご無事で何よりです。
トクさん,ご無事で何よりです。無事のご帰還レポート,感謝申し上げます。
大分⇒天神・福岡空港の高速バスは,乗車歴があります。鳥栖ジャンクションまで西へと向かい,鳥栖ジャンクションからは北上。このルートが使えないと,最悪で大分から小倉へと迂回せざるを得ません。JR久大線が使えるなら,「命をつなぐ東西ルート」になると思います。
心配は台風等で大雨になった場合です。筑後川の久留米側がたびたび氾濫しているので,そうなるとJR久大線は運休。鳥栖ジャンクションは大渋滞…。宮崎から小倉に抜けざるを得ないケースが現実のものとなるでしょう。
鹿児島が陸の孤島になるかも…と心配していましたので,最悪のケースは避けれました。
宮崎から八代まで抜ける道が健全なら,なおイイですね。どこまで進めるだろうか…?
トクさんはかなり疲労困憊されたことと思います。まずはゆっくりとお休みください。
そして,あらたな情報をキャッチしましたら,情報発信いただければ幸いです。
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2026/07/31 20:22
無事帰り着きました
辰兵衛さん・にのまるさん・シェルさん・赤い城さんを始め、皆さんに御心配して頂きありがとう御座いました。新幹線なら1時間50分で福岡まで帰れる所を、反対側の熊本を通らない東九州ルートを、混雑をさけ1日待って出発したのが少し功を奏したのか、JRで鹿児島→宮崎→延岡→大分(1泊)、高速バスで大分→福岡(桜島号の代替切符)で大きなトラブルもなく、何とか無事に福岡へ戻る事ができました。しかしその反面、ニュースで改めて被害の大きさを聞くたびに心が痛む思いです。
また今朝のニュースで、熊本城では新たな石垣の崩落などが40ヶ所くらい見つかったと聞きました。現在は、安全が確認されるまで臨時閉園されているようです。開園され落ち着いたら、見に行ってみようと思います。8月に開催予定だったイベントも全て中止になったとか。2052年に完全復旧を目指す予定だった計画も見直されるかもしれないとの事です。今まで復興に携わってきた方々には、水を差された感じで本当にショックだろうと思います。10月の「特別版 お城EXPO in 熊本」は予定通り開催される事を祈っております。
また八代城の被害も甚大なようです。本丸にある八代宮は完全に倒壊、国名勝の松濱軒も全壊、石垣も延べ200mにわたって崩落したとニュースでありました。気になりますが、JRやバスが熊本市から南は動いていなく復旧の目途も立っていないので、見に行きたくてもいつ行けるのかわかりません。写真は昨年11月に訪れた時のものです。これらがどうなっているのか? こちらも心配です。
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2026/07/31 07:02
日本海の離島の攻城後の散策(新潟県粟島浦村) (2026/07/19 訪問)
釜谷の集落、漁港は釜谷城から2km近く離れています。港の防波堤に壁画が描かれています。ここからは峠越えの厳しい県道を歩いてフェリー乗り場に向かいましたが、途中に灯台入口がありましたので、立ち寄っていくことにしました。国内3番目に標高が高い灯台とのことです。灯台に向かう長い遊歩道の途中には、粟島港を俯瞰するスポットもありました。本当は内浦城も攻略したいところでしたが、登城口に関する詳らかな情報を入手することができなかったので今回は断念しました。内浦城の麓で「城の沢」の看板を見つけることができただけで満足です。
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2026/07/31 04:27
(中国地方と兵庫県)遠征32日目(最終日):楯岩城 (2026/06/11 訪問)
朝のラッシュ時で西坂バス停(坂本城近辺バス停)から姫路駅の到着が20分近く遅れ、姫路駅から太田バス停へ向かうバスの乗り継ぎに間に合わず50分待ちになってしまいました。
太田バス停から徒歩25分弱で、若王寺神社(34.841834、134.601499)に着きました。
築城年代は定かではないようですが、建武年間(1334年~1338年)頃に赤松則弘によって築かれたようです。
1441年(嘉吉元年)赤松満祐が室町幕府6代将軍足利義教を暗殺し、領国播磨で幕府方討伐軍に敗れ討たれた「嘉吉の乱」で落城したとあります。
やがて、赤松伊豆守貞村が居城し、その後5代続き、天正年間(1573~1592)まで栄えましたが、天正の始めに羽柴秀吉によって攻められ廃城となりました。
登山道入口は西麓の若王寺神社からついており、境内に説明板や駐車場、トイレがあります。
登山道も綺麗に整備されており、赤いテープと案内標識でテレビ塔のある主郭まで迷うことなく行けます。
ちなみに楯岩城は巨岩が文字どおり楯のように立ち並んでいるところから、名がつけられたといわれています。たしかに巨石がいくつか確認できました。
バイク等の進入禁止の標識がいくつかありましたが、そんな人がいるんですね。
バスの時間が迫っていた為、慌てて下山しました。乗り遅れると1時間待ち。これにも遅れるとさらに2時間待ちになります。
攻城時間は70分くらいでした。今回の(中国地方と兵庫県)遠征の31泊32日はここがラストです。
年齢的にも長期間の遠征もこれが最後になります。妻にも長期間の一人での遠征はこれを最後にしてほしいと云われました。
攻城=2000城達成に向けては、地元付近を中心に少しずつ攻城します。
ちなみに当初の予定では、このあと中道子山城をリベンジで攻城する予定でしたが、バスの遅延等による大幅な予定遅れ(1時間20分くらいの遅れ)により断念しました。
千葉の自宅に帰る為、太田バス停から神姫バスで姫路駅に向かい、コインロッカーより荷物を取り出して新幹線で帰りました。
歩行歩数=14521歩、歩行距離=10.1Kmです。
(中国地方と兵庫県)遠征の32日間の歩行歩数=867、642歩(1日平均27、114歩)、歩行距離=605.9Km(1日平均18.9Km)でした。
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2026/07/31 04:18
(中国地方と兵庫県)遠征32日目(最終日):坂本城 (2026/06/11 訪問)
姫路駅から神姫バスを利用して西坂バス停に向かいました。朝のラッシュ時でバスの到着時間が10分ちょっと遅れました。
西坂バス停から徒歩5分くらいで、土塁前(34.873542、134.652596)に着きました。
築城年代は定かではないようですが、 室町幕府の初代播磨守護・赤松円心則村によって14世紀初めに築かれたと云われています。
坂本城は播磨国守護赤松氏が室町時代に守護所を置いて本拠とした城です。
1441年(嘉吉元年)赤松満祐は室町将軍足利義教を京の赤松邸で暗殺し、嘉吉の乱が起こります。
満祐は播磨の坂本城に下向して幕府方の討伐軍と戦いますが、要害ではない坂本城を破棄して城山城に籠もって防戦。しかし幕府方の攻撃を防ぐことができず、満祐は城山城で自刃して果てました。
その後、播磨は山名宗全の分国となり、宗全は坂本城に入って播磨を統治します。
しかし、応仁の乱勃発後、赤松政則が山名氏を播磨から追い出し、赤松氏が播磨を再び平定します。
その間の1469年(文明元年)政則は新たに置塩城を築いてそこを本拠としたため、その後、坂本城は廃城となったようです。
城跡碑が歩道上に設置してあり、その前の壁に説明板があります。
城址は宅地化され、かろうじて土塁と堀跡が残存していました。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=楯岩城を攻城する為、西坂バス停から神姫バスを利用して姫路駅でバスを乗換、太田バス停に向かいました。
ちなみに現地での西坂バス停の時刻表が、攻城計画時より若干ですが変更されていました。
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2026/07/30 21:53
登城会 (2026/07/26 訪問)
周山城を築城した明智光秀に関する講演会があり、それに合わせて登城会も催されるとのことで、両方参加してきました。
数日前に、付近で熊による人的被害が出たとのこと。ソロ登城だったら諦めていた…。
本丸まで500m地点、眼下を見れば日本海へ抜ける鯖街道、近江びわ湖方面に抜ける道がよく見渡せ、この地に築城した理由が分かります。
本丸まで300m地点、ここで初めて石垣が見えてきました。
二ノ丸跡まで行くと、王手門跡や正方形の鏡石が見えます。破城のためか自然災害か、石垣の隅はだいぶ崩れており、土のうで修復されています。
本丸へと続くゆるやかな坂道には、石垣だったであろう石がゴロゴロと散乱しており、破城の跡が伺え、趣があります。
本丸から西側に伸びる曲輪には石垣が綺麗に残っていて圧巻でした。苔むし具合も素晴らしい。
ガイドさんからの説明を受けながら、下山までトータル2時間半でした。
今回、回りきれない曲輪、堀切があったので、また今度見に行ってみたいです。
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2026/07/30 20:43
道南城めぐり旅のラスト (2026/06/26 訪問)
「お城を探す」を見ていて、松前城の近くにもう一つお城があるのを発見。
情報も時間もあまりなかったのですが、せっかくここまで来たのだからと行ってみることにしました。今回の遠征初バーターです。
郷土資料館に隣接する徳山大神宮へは迷うことなく行けました。城址は神社後背の山のようです。しかしそこは動物たちのの生息域。思いつきで来たよそ者には不可侵領域なのでは?という思いが頭をよぎります。
ほんとうは熊が怖かっただけなのですが、鳥居をくぐるのが精一杯でした。郷土資料館に行った方が楽しかったかもしれません。
5日間の道南城めぐり旅はこちらがラストでした。新規・再訪合わせて12城。道内移動だけで一日がかりだった昨年の根室を思うとなかなか濃い5日間でした。
ここで終わりにしてもよかったのですが、今年の目標のひとつ、『赤色立体地図かるた未訪のお城に全部行く』もまだ全然クリアできていないので延長戦に突入することにしました。翌日からの「おときゅうパス東日本」と「東横イン新青森駅東口」(当日から2泊)をポチポチッと予約し、木古内から新幹線で新青森に向かいました。
トクさん、福岡へは戻られましたでしょうか。
落ち着くまでしばらくかかるかと思いますがこれ以上の被害がありませんように。
日本中が今回の災害に心を痛めているときに平常投稿を続けていいのかと自問していますが、為すべきことが見つかったら行動しようと思います。
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2026/07/30 20:13
若き日の秀吉が仕えた松下家 (2026/06/13 訪問)
【頭陀寺城】
<駐車場他>頭陀寺駐車場
<交通手段>車
<感想>1泊2日東海ちょこ城道中6城目。頭陀寺城は頭陀寺の門前にあり、地方豪族松下氏の居館で松下氏は引間城主飯尾氏に帰属していました。秀吉が信長に仕える前に、ここの城主の松下之綱に仕えていたのは有名ですね。頭陀寺城は1563年に焼き討ちにあって落城したそうです。
現地は表面観察できる遺構は残っておらず、先に頭陀寺にお参り、そのあと松下屋敷跡仁行きました。
<満足度>◆◇◇
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2026/07/30 19:22
トクさん,福岡に戻れましたか…? (2026/06/29 訪問)
まずは,シェルさん,ご心配いただきありがとうございますm(__)m
それよりも,九州新幹線の被害が甚大で,復旧に時間がかかりそうな報道がなされました。
そこで,トクさんが無事に福岡へ戻ったとしたら,そのルートがそのまま復旧支援ルートになるな…と。
宮崎に抜け,大分に北上し,そこからさらに北上なのか,西側の久留米に抜けれるのか…。
トクさんのレポートをお待ち申し上げます。
さて,姉川古戦場からさらに徒歩で横山城へと向かいました。登城口の日吉神社が見つけれずに難渋しました。60分はかかったと思います。復路は,石田バス停から湖国バスに乗り,長浜駅へ。
途中「城跡まであと●町」という石碑が整備されています。置塩城のよう。
けど「一町ってなんぼやねん…?」という疑問を抱えつつ,突き進みます…。
頂上からは,東に伊吹山。というと…西には予想どおり竹生島です…<笑>。
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2026/07/30 17:46
恐竜ワールド勝山の城 ~七里壁は一見の価値あり~ (2025/08/20 訪問)
えちぜん鉄道 永平寺・勝山線の終点 勝山駅から徒歩15分ほど。
本来は、福井県立恐竜博物館に向かう予定だったのですが、バスを乗り過ごしてしまう失態を起こし、勝山駅で1時間待ちに…(我ながらお恥ずかしいかぎり…)
ただ1時間あれば勝山城を見学できると思い、急遽、予定を変更して見学してきました。
勝山城は九頭竜川沿いの河岸段丘上に築かれた近世城郭です。郊外に模擬天守の博物館がありますが、元々のお城は市街地にありました。かつては天守台や本丸の土塁などが残存していたようですが、現在は、勝山市役所などになっていて本丸周辺は、遺構らしいものは確認できませんでした。勝山市民会館前に城址碑と説明板が設置されています。また藩政期の建物である藩校の成器堂の講堂が現存しています。
城の遺構は無いのかなと思っていたら、駅からの本丸までの道中で、「七里壁」という石垣をたまたま発見。日本遺産にも指定されているようで、脇に説明板が設置されていました。
説明板を読んでみると、「七里壁」は、九頭竜川沿いの河岸段丘の段丘崖を指す言葉で、勝山ではそこに石垣を構築。これを境目にして勝山の城下町は、上側に勝山城や武家屋敷という武士のエリア、下側に寺社や商家が置かれたとのこと。いわゆる外堀的な役割を果たした石垣で、数少ない勝山城の遺構といえると思います。
しかも、九頭竜川の河原の石を用いた、玉石積で積まれています!!
なかなか見られない玉石積が、まさか勝山で見学できるとは、思いませんでした。ぜひ勝山を訪れた際は、皆さんにも見てほしいです!!
ここから城とは関係ありませんが
勝山城を見学後、無事、次の恐竜博物館行のバスに乗車。博物館の常設展と特別展を見学してきました。常設展は、全身骨格が所狭しと展示されていて、とんでもない迫力でした。さすが恐竜王国…
開催されていた特別展では、映画『ジュラシックパークⅢ』で知られるスピノサウルスを中心とした獣脚類の化石が展示されていました。泳ぐ姿で復元されているスピノサウルスの骨格は迫力満点でした!!
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2026/07/30 17:27
長崎城(福井県坂井市) 新田義貞墓所&明智光秀・𤋮子ゆかりの地 (2025/08/19 訪問)
ハピラインふくい(旧北陸本線) 丸岡駅から徒歩40分。
バスの場合は、丸岡駅または丸岡バスターミナルから「舟寄」で下車。徒歩12分。称念寺脇にトイレと駐車場があります。
時宗の道場 長崎称念寺が城郭化した城で、堀と土塁で構成された平城だったようです。太平記に「長崎城」と記載があり、南北朝時代には南朝方の武将新田義貞が拠点の一つとして機能していたようです。
現在も称念寺となっていて、明瞭な城の遺構はみられませんでしたが、境内に新田義貞の墓所があります。そして明智光秀が美濃を追われた際、この称念寺の門前で寺子屋を開いて暮らしていたようです。光秀の妻 𤋮子が髪を売って光秀を支えたエピソードの舞台はこの地らしく、この逸話を題材にした松尾芭蕉の句碑が境内に設置されています。句碑のそばには、明智家の家紋にもあしらわれている桔梗の花が植えられています。
説明板によると、称念寺の住職が朝倉氏の連歌会に光秀を推挙。牢人で資金不足に悩んでいた光秀を見て、𤋮子が髪を売って、準備を整えたことで、連歌会は成功し、朝倉氏に仕官する道が開けたとのことです。逸話は知っていましたが、朝倉に仕官するきっかけの出来事だったことは知らなかったので、とても勉強になりました。また諸説あるようですが、細川ガラシャ(たま)の生誕の地の候補の一つにもなっているようです。
私が明智光秀好きというのもありますが、光秀要素満載で、とても楽しめる史跡でした!!丸岡城からバスで来ることもできるのでおすすめです。
そして、近くには、福井銘菓の一つ 五月ヶ瀬の直営店の舟寄庵があります。
訪問した日は、午前中でもかなり暑かったので、五月ヶ瀬味のジェラートをいただきました!!
香ばしく甘いピーナッツ味でとても美味しかったです。(猛暑ということで、おまけでうちわも頂けました。)
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2026/07/30 17:15
越前の国府の城 (2025/08/21 訪問)
本題の前に、熊本県を震源とする大きな地震が九州で発生しました。九州の皆さんには、心からお見舞いを申し上げます。遠征中のトクさんもご無事なようで安堵いたしました。
また新潟県では、大雨の被害が出ているようです。私も4月に訪れた新潟駅周辺が水没したニュースを拝見し、他人事のように思えませんでした。朝田さんも無事の様子で良かったです。
地震で熊本城や八代城では、かなりの被害が生じたようで、言葉を失いましたが、まずは皆さんの安全と早期のライフラインの復旧を心からお祈りしたいと思います。
さて、今回は越前府中城のご紹介です。
ハピラインふくい(旧北陸本線) 武生駅から徒歩3分。
本来は訪問の予定にはなかったのですが、指定した新幹線までの時間を活用して、見学してきました。
武生駅前の交差点を出てすぐの越前市役所付近が城跡にあたります。越前市役所前に発掘された石垣、城址碑、説明板が設置されています。歩道脇に野面積の石垣が復元されていて、城跡の雰囲気が感じられていいですね。しっかり裏込石も復元されているのもポイントが高いです!!
今回、弾丸だったため、見学は見送りましたが、市内の正覚寺に表門、龍泉寺に城内の勘定奉行所の表門が移築されています。
府中城は、元々は越前の国府が置かれていた場所で、朝倉氏滅亡後、織田信長によって府中を与えられた前田利家によって本格的な城として築城されたようです。関ヶ原の戦い以降は、結城秀康に与えられ、重臣本多富正が城主として入城。改修を行ったとされています。一国一城令の際も本多家は大名格の御附家老であったため、例外的に支城として存続が許され、明治まで本多家の居城となっていました。
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2026/07/30 07:11
日本海の離島の攻城【城びと未登録・釜屋城】(新潟県粟島浦村) (2026/07/19 訪問)
飛島航路が欠航していた前日も粟島のフェリーは運航していました。飛島よりだいぶ南に位置していて梅雨前線から離れていたということもありそうですし、何より、想像以上に素晴らしいフェリーが就航しているのも粟島の強みにはなっていそうです。粟島に上陸して向かったのは、島の南西端に位置する釜谷城。港からは5km以上の道のりになります。炎天下、平坦な海岸沿いの道をひたすら進み、最後は上りが続いていったん下ったところが登城口の八幡神社入口です。八幡神社が鎮座する郭が主郭で、その先には八幡鼻という展望スポットがあります。釜谷城自体、見張り番所といった性格の城だと思いますが、八幡鼻は釜谷城の出丸、遠見として機能していたのではないかと感じられました。天気予報に反して青空が広がり、絶景を堪能することができました。
※粟島に最も近い登録城は、村上城ではありませんが、フェリーが発着する岩船港最寄りの城ということで、村上城で投稿させていただきました。
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2026/07/30 06:43
秀吉の出世城 (2026/07/12 訪問)
この日ラストのリアは長浜城です。
秀吉が築いた出世城として知られています。
駐車場に車を置いて模擬天守方面へ進みます。
この日は多くの人がいらっしゃいました。
公園は市民の憩いの場でもあり、また大河ドラマの影響もあるのでしょうね。
まずは模擬天守に入ります。
展示物を見学し最上階へ。琵琶湖を一望、竹生島や彦根方面も望むことができます。
そういえば朝田さんにクイズを出して頂いた眺め、思い出したのは降りてからで写真を撮っていないことが悔やまれます😓
北側にある築城当時の石を使用した石積を通り太閤井戸と廻り車に戻りました。
【見どころ】
・模擬天守からの眺望
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2026/07/30 05:16
(中国地方と兵庫県)遠征31日目:置塩城 (2026/06/10 訪問)
置塩城の溝口駅からJR播但線で姫路駅に戻ってきましたが、姫路駅から宮置バス停に向かうバスの接続が悪く30分待ちになりました。
宮置バス停から徒歩20分くらいで、置塩城登山口(34.917986、134.677286)に着きました。
1469年(文明元年)赤松政則によって築かれ、播磨・備前・美作3ヶ国の守護職・赤松氏の本城として使われました。
赤松氏は嘉吉の乱によって一時没落していましたが、南朝方から神璽を取り戻した功によって、政則の家督相続が認められ加賀半国の守護として復興しました。
その後政則は、応仁の乱で細川勝元の命で播磨へ攻め込み、旧領の回復に努め、代々の居城であった白旗城から置塩城へ居城を移しました。
1577年(天正5年)赤松則房は羽柴秀吉の播磨平定に従って、1585年(天正13年)の四国征伐に功があり、阿波国住吉に10,000石の所領を得て阿波国住吉城に移り置塩城は廃城となりました。
羽柴秀吉が姫路城を改修した際に、置塩城の用材を転用したといわれており、姫路城の「と」の門は置塩城大手門を移築したものといわれています。
登城道は整備され距離は長く、緩やかな登り坂はやや滑りやすいですが、そんなにきつくは無いです。
城内はさすが播磨最大の山城と言われるだけありとても広く、主郭に二の郭、三の郭の他、至る所に残る石垣など見所満載です。
巨大山城ですので隅々まで見学するなら時間に余裕をもって攻城した方が良いと思います。
たくさん写真を撮りましたが、ピンボケが多くピンボケ写真は投稿を控えました。
攻城時間は95分くらいでした。本日の城巡りは、ここがラストです。
本日の宿泊先に戻る為、宮置バス停から神姫バスを利用して姫路駅に向かいました。
歩行歩数=33581歩、歩行距離=23.5Kmです。
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2026/07/30 05:08
(中国地方と兵庫県)遠征31日目:恒屋城 (2026/06/10 訪問)
溝口駅から徒歩40分くらいで、恒屋城登城口(34.943796、134.718609)に着きました。
築城年代は定かではないようですが、嘉吉年間(1441年~1444年)赤松氏の幕下恒屋氏によって築かれたと云われています。
1576年(天正4年)羽柴秀吉の軍に攻められ落城したようです。
登城口手前に恒屋城跡駐車場があります。登山道は整備されており、登城口には杖も用意されています。戦友の杖を鶴居駅に置き忘れた自分には助かりました。
横堀や畝状竪堀が良く残っており見ごたえがあります。前城や後城から見る眺望も素晴らしかったです。
麓から見える旗は前城のものでした。
攻城時間は65分くらいでした。次の攻城先=置塩城を攻城する為、溝口駅からJR播但線と神姫バスを利用して宮置バス停に向かいました。
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2026/07/30 05:02
(中国地方と兵庫県)遠征31日目:鶴居城(稲荷山城) (2026/06/10 訪問)
鶴居バス停から徒歩15分くらいで、鶴居城登城口(35.024355、134.746130)に着きました。
築城年代は定かではないようですが、明徳年間(1390年〜1394年)頃に赤松則村(円心)の孫の永良則綱によって築かれたと云われています。
則綱の孫である3代・彦太郎泰秀が拾一城(豊地城)に居城を移したのちも城代を置いて維持されていました。
しかし、1441年(嘉吉元年)に起きた「嘉吉の乱」で落城し、赤松氏は但馬の山名持豊に攻め込まれ、山名氏の支配下に置かれました。
その後、赤松政則は応仁の乱(1467年~1478年)中に失地を回復、1488年(長享2年)に播磨を奪回すると、家臣の広瀬近江守親茂・雅親父子が城主をつとめました。
稲荷山城の城主となった広瀬近江守雅親は、谷城主も兼ねていましたが、1560年(永禄3年)に討死したと云われています。
同じく谷城は、永禄の頃戦火ににかかり焼失廃城となり、両城とも同じ運命を辿ったと考えられています。
現在は登山道が整備されています。
神崎総合病院バス停から鶴居バス停に向かうバスがなく、バス待ちになったこと&兵庫県市川町コミュニティバスの経路が逆で到着に時間を要しました。
その為、当初は登城する予定でしたが、登城してしまうと電車に間に合わず、本日最終攻城予定の置塩城に行けなくなることを考えて登城口で撤退しました。
鶴居城と置塩城を天秤にかけて置塩城を優先しました。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=恒屋城を攻城する為、鶴居駅からJR播但線を利用して溝口駅に向かいました。
少し慌てていた為、前回(一年前の東海関西遠征)と今回(中国地方と兵庫県遠征)の31日目までを共にした戦友の杖を鶴居駅に忘れてしまいました。
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2026/07/30 04:52
(中国地方と兵庫県)遠征31日目:福本陣屋 (2026/06/10 訪問)
姫路駅からJR播但線と兵庫県神河町/上小田線バスを利用して福本バス停に着きました。
福本バス停から徒歩5分くらいで、福本揚羽ホール駐車場入口(35.057460、134.773883)に着きました。
池田輝澄は、姫路藩主池田輝政の四男で山崎藩主として68,000石を領していましたが、1640年(寛永17年)御家騒動により改易となりました。
1662年(寛文2年)輝澄が没すると子の政直は神崎郡・印南郡内に10,000石が与えられて大名に復し、1663年(寛文3年)福本に陣屋を置きました。
10,000石を領して大名となった福本藩池田氏(松平氏)でしたが、1665年(寛文5年)政直が嗣子なく没しました。
その所領10,000石は弟政武に7,000石、弟政済に3,000石に分割されました。政済は旗本となり、政武は交代寄合としてそのまま福本陣屋を居所としました。
1687年(貞享4年)政武が没すると、家督を継いだ政森は二男政親に1,000石を分知したため、以後6,000石の交代寄合となりました。
1868年(明治元年)池田喜通の時、高直しにより10,000石を越えたため再び諸侯に列しましたが、1870年(明治3年)に鳥取藩と合併し廃藩となりました。
福本陣屋は現在の大歳神社境内に築かれており、藩邸は大歳神社の社殿の所にあったそうです。
南にある庭園は池泉回遊式庭園と呼ばれ、元禄年間(1688年〜1704年)の古図面そのままに現存する貴重なものだそうです。
石垣や土塁が一部残っているとのことで捜しました。神社の拝殿横に土盛りがあり石積も一部ありましたが遺構には見えません。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=鶴居城を攻城する為、神崎総合病院バス停から兵庫県市川町コミュニティバスを利用して鶴居バス停に向かいました。
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2026/07/29 22:01
今だ鹿児島に足止め
いろいろと御心配して頂き、ありがとうございます。何とかして鹿児島を脱出して福岡に戻る方法を、状況を調べながら検討している所です。仕事もこれ以上欠勤するわけにもいかないし、楽観していた自分が甘かった😩。
新幹線も、熊本から南はまだ数日かかるらしいです。JR在来線と高速道路は八代周辺はほぼ壊滅状態です。一般道も多く寸断しています。復旧はかなり長期に渡りそうです。
八代城も本丸にある神社は完全に倒壊。石垣もかなり被害があるらしいです (地元のニュースより)。
いちばん大変なのは、この酷暑です。暑いを通り越して、もう熱波です。復旧に携われている方々、家を失った方々、停電でエアコンが使えない方々など、本当に大変だと思います。被害は思った以上に大きそうです。
とりあえず明日は、宮崎から大分方向に行ってみようと思います。(今また揺れました😱!)
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