石碑には金窪館と刻まれている
(2026/05/30 訪問)
信玄が本陣を張ったと言われてる木部城を後に国道17号線沿い群馬県埼玉県未踏の城廻り三城目の金窪城へ、北北東約8kmの進行、ナビに金窪城駐車場を合わせたのですが、グーグルマップとナビの地図精度の差なのか、道が狭くぐるっと回って御陣場川を渡って黛神社川沿いに駐めて神社隣の方にお聞きしてたら、次の橋を渡って直ぐに公園の駐車場が在ると聞き、砂利駐車場に到着。
駐車場:埼玉県児玉郡上里町1626-4他金窪城址公園東約70mジャリ駐車場、(36°16'05"N 139°08'23"E h=60m)収容10台は軽い。
参考資料:余湖図コレクションさんグーグルマップに依る。
駐車場より集落の道を西に約70m、コンクリート塀の金窪城址公園入口がある、入口の南に一段高い基壇上に石碑、案内板が設置されている、土塁跡なのか石碑の東民家敷地に土塁の痕跡あり、立派な石板碑には史蹟金窪館趾と刻まれている昭和13年建立、手前の石柱碑には史蹟金窪館とよく読める、南に面した説明板は金窪城跡と有り周辺地図と写真、解説文がある、東に面して地に落ちた金窪城跡説明板、同じく東に面し神流川合戦古戦場址の解説板がある。
歴史は
烏川と神流川の合流する東洪積地で微高地に築城されている、もう少し東に行くと利根川に合流、金窪城は一辺約200m方形の平城、武蔵国の最北端に当たって上野国との国境の城として重要な位置を占めていた。
治承年間(1177~80)に加治家季が築城、元弘年間(1331~33)に新田義貞の武将畑時能や長浜六郎左衛門が居城、大永の頃(1521~27)斉藤実盛の子孫摂津守盛光が居城していましたが、天正10年(1582)定利の時、神流川合戦で織田信長の家臣滝川一益に攻められて落城。
その後徳川家康関東入封によって武田信玄の甥である川窪信俊の所領となり陣屋が置かれたが元禄11年(1689)に川窪氏が丹波へ転封となり廃城と成る。
関東での大合戦と言われている神流川合戦が金窪城を巻き込んで大激戦地に成っていたのですね、本能寺の変で事変急を告げて滝川一益と北条氏との対決が変の有った6月2日から16日経った6月18日19日に合戦が行われて滝川一益は敗戦、尾張へ逃げ帰る事に、山崎の合戦は終わって居り、清須会議にも間に合わず。一益は北条氏とうまく調整がつかなかったのでしょうか?(解説板抜粋し加筆)
グーグルマップを見ると金窪城址公園を御陣場川を北端にして方形200mで囲むと集落が入り集落の道筋が方形に見えたりしますので城域だった様に感じられます。
次に庁鼻和城(コバナワ)、国済寺へ向かいます。
+ 続きを読む