みんなの投稿

検索結果・・・「」を含む投稿

赤い城

一夜城 (2026/03/22 訪問)

今回の遠征ラストは墨俣城です。
長良川西岸に位置し、交通の要所でした。
豊臣兄弟での描き方は印象的でしたね。

立派な模擬天守が建ちますが遺構はありません。
川筋も変更されているので地形も含めて旧状はとどめていないと思われます。
城跡は公園になっていて模擬天守の裏手には豊国神社がありました。

せっかくなので模擬天守に登ってみました。
展望台からの眺望はよく、岐阜城(稲葉山城)も見えます。
ドラマでは「すぐ近く」と言ってますが結構な距離があると思いました。
当時とは時間の感覚が違うのでしょう。

犀川には800本の桜並木が続いています。
訪問時は咲き始め、見頃にはもう少しでした。
1週後のとある煩悩の登城目録さんが登城された頃が見頃だったようですね🌸

【見どころ】
 ・模擬天守からの眺望

※todo94さん、尼子十砦コンプおめでとうございます。
地元なのにひとつも行けてないのが痛恨です。
登城の際にレポート参考にしますね🤩

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

小城小次郎

くりくりの堀切 (2025/05/24 訪問)

大井田氏は新田氏か里見氏の一門で源氏の血統という。山の斜面に段々に曲輪を設けた後で虎口や畝状竪堀やらのパーツを後付けしてバージョンアップして使い続けたような雰囲気が漂う。主郭背後の堀切がくりくりでかわいい。

+ 続きを読む

トク

【大友宗麟】(11)耳川の戦いと無鹿(大友宗麟本陣跡) (2026/01/25 訪問)

大友宗麟、高城からの続き(11)です。

大友軍が大敗を喫した「耳川」と、宗麟の本陣「無鹿」を訪れました。

高城川で敗れた大友軍は豊後へ逃げ帰ろうと北へ敗走します。しかし翌日、耳川まで来た所で、川は前日の雨で増水し渡る事ができません。そこで追いついた島津軍に挟まれ大損害を出してしまいます。これが決定的な敗北の要因となりました。この耳川で討ち取られた首の数は5千とも1万とも言われています。(高城川と合わせると大友軍の戦死者は1万5千とも)。

私はJR美々津駅(写真⑥)で降り、30分かけ耳川まで歩いてみました(写真①②③)。またJRの車窓からも耳川の中州に合戦場の地碑が見えました(写真④⑤)。この日は前日から晴天だったので、川の水は穏やかでした。しかし当時は雨上がりで水かさがあって渡れず、ある者は討たれ、ある者は溺死し、この川は血で真っ赤に染まり、水面が見えない程のおびただしい数の死体で埋め尽くされていたものと思われます。想像しただけで足が震えました😱。

さらに耳川から北へ30km、宗麟がキリストの理想郷の建設に没頭していた場所を訪れてみました。JR延岡駅から北へバスで20分「無鹿」のバス停(写真⑦)で降りました。この一帯がそうだったようです(写真⑧)。ここは北川の河口で、当時は良好な港で商業も栄えた場所でした。無鹿はポルトガル語のMUSICA(英語のMUSIC)からとったようで、南蛮の管弦楽器の音色に魅せられた宗麟は、この名を理想郷のシンボルにしたかったのでしょう。本陣跡は、現在は妻耶神社になっていました(写真⑨⑩)。当時この付近にあった神社仏閣は全て破壊され、その資材で教会を建てたそうです。しかし今はその教会は無く、宗麟の本陣跡が神社になっていたのには、何故か皮肉に感じられました。

そして耳川の敗北の翌日(高城川の敗北から2日後)、宗麟は初めてここで、大友軍が大惨敗を喫し、島津軍がもうそこまで迫っているという現実を知ります。とても驚き、取るものもとりあえず着のみ着のままで船に乗り、臼杵城へ急いで逃げ帰ったそうです。宗麟はこの時、どんな思いで敗走して行ったのでしょうか? 数の上では有利であったはずの大友軍がなぜ敗れてしまったのか? 牽制するだけで戦はするなと命じていたはずなのに、家臣らはなぜ勝手に暴走し戦をしたのか? 宗麟は信じられない気持ちでいっぱいだったのではないでしょうか?

次は、大友宗麟最後の戦い(臼杵城の戦い)に続きます。
 

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

ぴーかる

todo94さん 尼子十砦コンプリートおめでとうございます。

todo94さん 尼子十砦コンプリートおめでとうございます🎉
貴殿の今年の目標、早くも達成されたようで凄いことです。また私の情報がお役にたてたようで、感謝のお言葉ありがとうございます。私が島根県のこの地方を巡った時は、曇り予報に反して雨ばかりの天候で雨やみ待ちや、登城途中で降ってきたりで結構苦労しました。雪が溶けて新緑前の絶好の時期に攻城されたのもいいタイミングだったと思います。投稿を読ませていただき、お城攻めのモチベーションがまた上がりました。

+ 続きを読む

朝田 辰兵衛

todo94さん,尼子十砦コンプおめでとうございます! (2026/04/14 訪問)

todo94さん,尼子十砦コンプリートおめでとうございます!
私も尼子十砦をチャレンジする気持ちはありますが,いまだにひとつもクリアしておりません…<泣>。公共交通機関のみではキツそうで,プランニングに苦慮しそうなところで後回しにしているというのが実情です。

というわけで,恒例の「おめでとうクイズ」ではありません。恐れ多いので…。
越後の桜は散り始め,代わりに昨日からチューリップフェスティバルが開催されております。萬代橋を歩いて渡り,まだ咲き始めのチューリップのプランターを撮影しました。山城では色味がなかなかないので,チューリップで癒やされれば幸いです。
今日は新潟駅周辺を撮ろうと思っていましたが,午後から雨となり,断念しました…。

+ 続きを読む

織田信長も織田氏発祥の地として、劒神社を大切にしていた (2026/04/12 訪問)

 下調べで見つけた、福井新聞オンライン 2018年11月8日の「織田城跡 竪堀群で防御性高く ふくいの山城へいざ!(32)(若越城の会・南氏)」が、縄張り図もあり、参考になります。昌官忠さんの2022年7月訪問の投稿が唯一の投稿ですが、城域に入っておられなかったので、登ってきました。ふれあいの森の入り口から廃林道を行きました。廃というだけあって、オフロードバイクの達人ならなんとか、という感じ。ふれあいの森も「廃」をつけたい状況。1.5kmほどの林道の突き当りが尾根なのでまっすぐ進むと、鞍部を経て、堀切が現れます。道中に見える、冠雪の白山連峰が美しいです。
 長さ100mほどの痩せ尾根に主郭と北の郭、それらのまわりの腰曲輪や北西の尾根の段曲輪からなります。主郭から東~南に放射状に作られた竪堀群が特徴的です。ふもとから見ると、このあたりで一番高く、尖った山容がわかります(写真10)。一向一揆の大軍に攻められ、なかなか落城しなかったということですが、こじんまりした城であり、守り通せず、城主が、兵を残して、逃亡したんだと。
 昌官忠さんのレポートで織田文化歴史館開館は10時と知ったので、まず、織田城に登城し、次いで、劒神社、そして10時過ぎに文化歴史館と巡りました。地名、城名の織田は「おた」と読むんですね。古代朝鮮半島から渡来してきた機織り技術を持った一団が、この地に来て、糸を作り機織りしたことから、かつては織田は「おりた」と読んだのだと。また、尾張織田氏は、越前守護の斯波氏が尾張守護も兼ねたことから、この地から尾張に出張り、藤原姓であったものを織田姓にしたことも知りました。
 昌官忠さんの中国地方~兵庫の城巡り予告。1年前にも増して激しそうですね。投稿を楽しみにしています。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

todo94

年度末山陰の攻城・尼子十砦編⑧ 尼子十砦コンプリート (2026/03/29 訪問)

出雲高尾城からの転戦です。十神山城は11年前、寺山城は5年前に攻城済みですので、これが最後の尼子十砦の城になります。攻城にかなり時間がかかると覚悟していましたが、尼子十砦の中では最も登城路がきっちりと整備されていてとても快適な攻城でした。麓の長台寺の駐車場がほぼ埋まっており、人気のあるスポットとお見受けしました。きれいに整備されている山頂からの眺望は素晴らしい限りです。なお、城びとのフリガナが「しんやまじょう」になっていますが、これは、米子側の呼び名です。所在地を島根県安来市とし、尼子十砦として尊重するならば、フリガナも「やすだようがいさんじょう」にしてほしいものです。菊池十八外城の台(うてな)城のふりがなが、誤った「うなて」のまま、放置されているので、修正の見込みはまずないかと思いますけれども。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

赤い城

信長居館跡 (2026/03/22 訪問)

金華山から下山して麓の居館跡を少しだけ散策しました。
江戸時代の資料を基に復興された冠木門をくぐり入っていきます。
両側には鉢巻土塁、さらに虎口へと続きます。
信長以前、斎藤氏時代の石積も残っていて稲葉山城をめぐる戦いを想うことも出来るかと。
クランク状に折れる石垣など居館跡だけでも見どころは充分にありました。
三連休でもありここにも多くの人、映り込みのない写真に苦労しました🥹

【見どころ】
 ・虎口
 ・斎藤氏時代の石積
 ・折れのある石積

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

宗春

千葉の城を攻めて御城印を頂こうシリーズその42 佐貫城 (2026/04/11 訪問)

千葉の城を攻めて御城印を頂こうシリーズその42

「海城サミット2026」の企画の一つ、『地元保存会との佐貫城ウォーキング&ミニ講演会』に参加し、関連する遺構を含めて歩いてきました。
佐貫城は想像以上に大きく複雑な城郭で、垂直に切り取られた切岸が聳えていました。
地元保存会の皆さんが竹薮を伐採するなど整備をして頂いてはいますが、全貌を現すにはまだ何年もかかりそうなほど広いです。垂直切岸が全て姿を見せたら、凄い城だという事がバレてしまいますね。
地元保存会の皆さんありがとう😭

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

ぴーかる

福山城 (2026/01/31 訪問)

【福山城】
<駐車場他>清音ふるさとふれあい広場 数十台分あり
<交通手段>車

<見所>城門跡・空堀・石垣跡
<感想>福山城の前身は奈良時代から平安時代にかけてここに山岳寺院がありました。1335年に荘兼祐がこの山岳寺院を改造し城郭化しました。1336年に東上してきた足利尊氏軍と後醍醐天皇方の新田義貞軍が激突した福山合戦の舞台となります。
 幸山城からの延長戦で登城しました。幸山城からのルートには毘沙門天磨崖仏や八畳岩という巨石群があって道すがら楽しめるポイントがあります。城跡の主要部は山頂部にあり南北に大きく3つの曲輪が連なっています。中心に主郭があり、北側に石垣造りの城門跡があります。西側に空堀がはしっています。主郭南側には土塁と石列が残ります。南北にある一の壇と三の壇は藪化しているので藪化を払うとなかなかの広さのある城跡になるようです。眺望も良いですが、かなり麓からの比高が高い為に見える町並みは小さいです。南北朝時代特有の高い山の山頂に築かれた山城という印象でした。ハイキングコースになっているので、初夏くらいの季節でも水分を持って十分登城できます。

<満足度>◆◆◇

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

中央線&京王線沿線⑦:関戸城 (2026/04/13 訪問)

2026年5月11日~6月11日まで中国地方と兵庫県のお城を攻城する予定です。
1年ぶりの遠征に向け、事前の足ならし攻城(中央線&京王線沿線城巡り)7城目は関戸城です。
聖蹟桜ケ丘駅より徒歩20分弱で、標柱前(35.644256、139.445393)に着きました。

築城時期や築城者については不明のようですが、和田義盛の乱が鎮圧されると鎌倉幕府は関戸に関所を設けました。
内乱が起きた場合の備えとして設けられた関所ですが、当時は交通の要衝だったこともあり鎌倉時代末期に関戸では幾度か戦いが繰り広げられているようです。
室町時代になると関銭徴収が主な役割となり軍事的な機能はやや薄れたらしいですが、山内上杉氏が関戸城を構えたとされます。
1494年(明応3年)扇谷上杉氏の上杉定正が、山内上杉氏の上杉顕実の「関戸塁」を陥落させたという記録が残っていますが、この関戸城のことを指しているのかはわからないそうです。
戦国時代の関戸城は北条氏の家臣、佐伯一助道永の居城でした。

いろは坂の坂道頂上に標柱があります。このあたりは、ジブリアニメ「耳をすませば」で有名らしいです。
多摩川迄見下ろせたとの事ですが、今は木や建物で川までは見えませんでした。
攻城時間は5分くらいでした。日帰り中央線&京王線沿線城巡りはここがラストです。千葉の自宅に帰ります。
歩行歩数=36264歩、歩行距離=25.4Kmです。帰った日の夜は足がつりまくりでした。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

中央線&京王線沿線⑥:高幡城 (2026/04/13 訪問)

2026年5月11日~6月11日まで中国地方と兵庫県のお城を攻城する予定です。
1年ぶりの遠征に向け、事前の足ならし攻城(中央線&京王線沿線城巡り)6城目は高幡城です。
高幡不動駅より徒歩5分弱で、高幡不動尊仁王門前(35.662051、139.411141)に着きました。

1455年(享徳4年)関東公方足利成氏と関東管領山内上杉氏・扇谷上杉氏とが争った立河原合戦で敗れた上杉憲秋は、ここ高幡不動まで逃れて自刃しました。
また高幡不動の境内には上杉憲秋(憲顕)の墓所もあります。
その後、戦国期には北条氏に属する城となったようです。
1590年(天正18年)豊臣秀吉による「小田原征伐」の際には八王子城主・北条氏照の家臣、高幡十右衛門が居城して、北国軍の前田利家や上杉景勝の軍勢と戦ったと伝わっています。
また氏照の時代には高幡之郷は平山大学助が知行していた記録があるため、檜原城を本拠としていた平山氏が城主であったという説もあります。

城址は新選組のひしかた(不適切表現につき、ひらがな標記)歳三の菩提寺としても知られる高幡不動尊金剛寺の裏山に位置し、一部は「八十八ヶ所巡礼のお遍路コース」になっています。
比較的整備されていますが、階段と坂道が続く軽いハイキングコースになってます。
曲輪跡のほか、竪堀らしき遺構を確認することができます。
金剛寺の五重塔も大きくて迫力があるので周辺スポットとしてオススメします。
鐘楼も立派でしたが、全体像を抑える撮影スポットがなく投稿はしません。ひしかた(不適切表現につき、ひらがな標記)歳三像もあります。
攻城時間は35分くらいでした。次の攻城先=関戸城に向かう為、高幡不動駅から聖蹟桜ケ丘駅に向かいます。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

中央線&京王線沿線⑤:平山季重居館と平山城 (2026/04/13 訪問)

2026年5月11日~6月11日まで中国地方と兵庫県のお城を攻城する予定です。
1年ぶりの遠征に向け、事前の足ならし攻城(中央線&京王線沿線城巡り)5城目は平山季重居館と平山城です。
京王線・平山城址公園駅の前のロータリーの場所が居館跡です。
高幡不動尊仁王門前(35.662051、139.411141)に向かいました。

源平合戦の際、一の谷合戦で熊谷直実と武勇を競った源氏方の侍大将平山武者所季重の居城跡といわれています。
季重は、西党日奉氏の一族である平山直季の子といわれ、西党平山氏がこの周辺を本拠地にしていたと思われます。
戦国期になると平山氏は北条氏の配下となったようで、その一族は檜原城主となり、小田原の役で籠城戦を行って自害している。
平山城がいつまで存続していたかは不明ですが、遅くとも北条氏の滅亡とともに廃城になったと考えられています。
          
平山季重居館の遺構はなく、平山城址公園駅のロータリーの南側に平山季重館を示す石碑と案内板があるだけです。
平山城へは駅ロータリーの石碑と案内板を見てから平山城址公園に登りました。
山頂部には城をイメージしたと思われる白亜の塀や石垣が設置され、そこに城の案内板も立てられています。
台地の先端部に城主であったと思われる平山季重を祭った神社が建てられています。
攻城時間は40分くらいでした。次の攻城先=高幡城に向かう為、平山城址公園駅から高幡不動駅に向かいます。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

中央線&京王線沿線④:横山党館 (2026/04/13 訪問)

2026年5月11日~6月11日まで中国地方と兵庫県のお城を攻城する予定です。
1年ぶりの遠征に向け、事前の足ならし攻城(中央線&京王線沿線城巡り)4城目は横山党館です。
八王子駅より徒歩10分くらいで八幡八雲神社鳥居前(35.661151、139.335820)に着きました。

JR八王子駅の北側にある八幡八雲神社付近が居館跡とされます。
平安時代から室町時代にかけて、この地方で勢力を伸ばしていた武士団。通称「武蔵七党」の一派にて、最大規模を誇ったとされる横山党の本拠地と伝わっています。
この横山党ははるか昔、飛鳥時代に遣隋使で有名な小野妹子の子孫とされる小野篁の後裔と伝わっています。
平安時代末期の「保元の乱」「平治の乱」ではいずれも平清盛らと激突した源義朝(頼朝の父)に横山党は就き活躍。
後に平家の時代が終わり源頼朝が鎌倉幕府を開くと、時の横山党の横山時広はこれまでの武功を讃えられ、領土を安泰とされるも、後に幕府執権の北条氏と対立、開戦に至った和田義盛の「和田合戦(1213年)」に和田方で横山党は就き敗北。横山党も滅亡したとされます。

陣屋としての遺構はありませんが、八幡八雲神社の唐門は見事!
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=平山季重居館と平山城に向かう為、京王八王子駅から平山城址公園駅に向かいます。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

中央線&京王線沿線③:初沢城 (2026/04/13 訪問)

2026年5月11日~6月11日まで中国地方と兵庫県のお城を攻城する予定です。
1年ぶりの遠征に向け、事前の足ならし攻城(中央線&京王線沿線城巡り)3城目は初沢城です。
高尾駅より徒歩10分弱で、高尾天神社の入り口(35.638625、139.281488)に着きました。

初沢城は鎌倉時代にこの地を支配した武蔵七党の横山党庶流の椚田氏の築城とも、大江広元の子孫といわれる片倉城主・大江氏(長井氏)の築城ともいわれますが詳細は不明のようです。
長井氏は鎌倉幕府初期の重臣・大江広元を祖先に持ち、横山党が1213年(建暦3年)和田合戦で滅亡すると、同地は大江氏に与えられ、長井氏は扇谷上杉氏の傘下となります。
1504年(永正元年)扇谷上杉軍が山内上杉軍を破った立河原の戦いの際、落城した扇谷上杉方の椚田塁に比定されます。
後北条時代、八王子城の出城の一つとされ、1590年(天正18年)の豊臣秀吉による八王子城攻め、落城とともに初沢城も落城、廃城となりました。
現在はハイキングコースとして整備されています。
なお、東麓の初沢川沿いにある高乗寺は、長井氏によって寄進された寺で、豊臣勢が八王子城を攻めたとき本陣を置いたとされています。

高尾天神社の階段を登り菅原道真公と天神社は既に城域。
高尾天神から山頂への案内板に沿って、6郭➡5郭➡主郭と進み攻城。2郭と3郭はパスしました。
縄張り図で郭や土塁、堀切を確認しながら回りましたが、よくわからないというのが実感です。
ハイキングコースになっているので、散歩するにはちょうど良い感じですが、久しぶりの長距離移動でちょっと足が。。。。
ちなみに、麓にある豊臣軍の本陣になった高乗寺には、忌野清志郎のお墓があるそうです。(自分は行っていません)
攻城時間は45分くらいでした。次の攻城先=横山党館に向かう為、高尾駅から八王子駅に向かいます。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

中央線&京王線沿線②:上野原城 (2026/04/13 訪問)

2026年5月11日~6月11日まで中国地方と兵庫県のお城を攻城する予定です。
1年ぶりの遠征に向け、事前の足ならし攻城(中央線&京王線沿線城巡り)2城目は上野原城です。
上野原駅より徒歩15分ちょっとで稲荷神社の説明板前(35.623894、139.109132)に着きました。

上野原城は武蔵七党の古郡氏が築いた城である。
横山忠重が康治年間、古郡郷の別当大夫となり、古郡姓を称した。建暦3年(1213年)、古郡保忠の時に、和田合戦で敗れ滅亡した。
その後、武田信玄の時代には、都留郡上野原の国衆で、武田氏の家臣・加藤氏が入城した。
1582年(天正10年)3月、主君である武田勝頼が天目山に向かうと知らせを受けると、加藤景忠と長男の信景は救援に駆けつける途中の箱根ヶ崎で北条氏の大軍に囲まれ討死したとも、武田氏の敗北に不安となって逃げようとしたところを土地の一揆によって滅亡したともいわれています。
現在城址周辺は宅地化されており、また中央自動車道が通っているため遺構はありませんが、説明板が設置されています。

遺構はなく、小さな稲荷と解説板があるのみです。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=初沢城に向かう為、上野原駅から高尾駅に向かいます。

+ 続きを読む

昌官忠

中央線&京王線沿線①:岩殿山城 (2026/04/13 訪問)

2026年5月11日~6月11日まで中国地方と兵庫県のお城を攻城する予定です。
1年ぶりの遠征に向け、事前の足ならし攻城(中央線&京王線沿線城巡り)1城目は岩殿山城です。
大月駅から徒歩15分強瀬(こわぜ)ルート登山口(35.618167、138.950671)に着きました。

岩殿山城の築城時期は不明ですが、『甲斐国志』では小山田氏の本拠である谷村館(都留市谷村)の詰城説を取っています。
16世紀になって大名の領国支配制が成立すると、郡内地方は甲斐守護・武田や郡内領の国衆・小山田氏の支配を受けるようになりました。
『甲斐国志』に先立つ1783年(天明3年)の萩原元克『甲斐名勝志』でも同様の見解が取られており、江戸後期には小山田氏による要害説が認識されていたと考えられています。
一方で、近年は岩殿山城を谷村館の詰城とするには距離が離れすぎていることから、武田氏による相模との境目の城として築かれたとする説もあるようです。
1582年(天正10年)に織田軍が甲斐に侵攻した際、当時の城主であった小山田信茂は、新府城から岩殿山城へ落ち延びてくる武田勝頼を裏切り、自害に追い込んだことでも知られています。
江戸時代には、幕府の緊急事態のときには甲府へ逃れる計画であったため、岩殿山城は要塞として引きつづき整備されていたようです。

強瀬(こわぜ)登城口からの新ルートが開通しています。大月駅から強瀬登城口まで徒歩15分。
登城口から本丸まで、休み休み登って約1時間です。下りはひたすら降りて35分でした。
新ルートは整備されましたが、狭く滑り易いので注意が必要です。
巣倉の時期は過ぎており桜と富士山のコラボはできませんでしたが、富士山は綺麗でした。
攻城時間は95分くらいでした。次の攻城先=上野原城に向かう為、大月駅から上野原駅に向かいます。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

カズサン

飯田城二の丸長姫エドヒガンサクラは葉桜でした (2026/04/12 訪問)

 信州街道国道151号線を北上して、同桜街道、飯田城の桜、近くの銘木桜を観桜の為、頃は良しと4月12日出掛けました。国道151号線、国道418号線、国道153号線沿いの山桜、枝垂れ桜、八重桜、黄色い山吹、桃の花、梨の花は見事な咲降りでしたが、期待していた飯田城二の丸の長姫エドヒガン桜と桜の丸の夫婦エドヒガンサクラ(共に樹齢400年超)は既に葉桜でした、残念です、後で入館した飯田市美術博物館の受付嬢に聞きましたら、今年は早く3月末には咲き誇っていた様です、10年前の2025年4月の見事なエドヒガン桜を家内に見せたいと言う願いは叶わず。
 二の丸、桜の丸をサラッと見て飯田市美術博物館入館、飯田市の俊才菱田春草常設展示、元代、明代、清代の陶器コレクション、古九谷焼、古伊万里焼コレクション、大森運夫の飯田各地区浄瑠璃人形大型画像とデッサン画像コレクションを閲覧し、博物館ものぞきました、大型恐竜骨格標本のお出迎え、飯田市を太平洋から望んだジオラマ、南アルプス、中央アルプスに囲まれた地形が良く分かります、各時代の展示、飯田城の展示は桜丸赤門と御殿が復元図(平面図と立面図)と共に掲載されていました。
 美術博物館の帰り受付に依頼して飯田城のパンフレット二種(飯田城・城下町旧跡散策マップと飯田城とお練りまつり小冊子)を頂きました。

 飯田城登城前に飯田山本IC近くの杵原学校の大エドヒガン枝垂れ桜を見学と尋ねましたが既に葉桜残念、他の枝垂れ桜、桜は見れましたが樹齢90年の枝ぶり見事なエドヒガン枝垂れ桜を見る事は出来ませんでした。ここは吉永小百合「母べい」の撮影地で有名な旧校舎が使われていました、現在も残って居て見学はイベント時に開放、その他の時間は役場に依頼しての見学可との事。

 今回の探訪ドライブでは一昨日4月10日の前線大雨で国道151号線阿南町辺りでの土砂崩れで通行止め、新野峠を降りた処の道の駅新野千石平交差点で道路閉鎖、国道418号線経由国道153号線の迂回ルートを誘導されてました。お陰で国道418号線国道153号線の車窓観桜と成り見事な景観を楽しみました。標高500m~1200m峠の桜の時期を予想するのは難しい事です。
 

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

赤い城

天下布武 (2026/03/22 訪問)

前回は2017年9月、その後麓にはちょい寄りしたものの久しぶりの訪問です。
前回はロープウェイ利用でしたが今回は大手道の七曲りコースを登りました。
こちら、登山の観点ではファミリー向け、家族連れも多かったです。
挨拶を交わしながら登るのは気持ちいいですね😃

40分くらいでロープウェイの山頂駅、多くの人が並んでいました。
一ノ門から上格子門を経て二ノ門、この辺りには信長時代の石垣も見られます。

今回天守は入らずスルー、馬の背コースに少し降りて北側石垣を見上げます。
さらに南側に回り井戸跡から石垣を見上げます。
やっぱり石垣もいいな〜、と思ってしまいました。

帰りは水ノ手で、と思いましたが工事中、百曲り登山道から下山しました。
山頂部の工事は来年(2027年)の9月までとのこと。
次回行くことが出来れば馬の背〜水ノ手で散策したいです😊

【見どころ】
 ・二ノ門周辺の石垣
 ・北側の石垣
 ・南側の石垣

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

todo94

年度末山陰の攻城・尼子十砦編⑦ (2026/03/29 訪問)

高守山城からの転戦です。駐車場完備の城福寺本堂左手に登城路がありますが、途中で道が分からなくなってしまいました。竪堀を望みつつ尾根に登って堀切を越えて、最高所、グーグルマップのマーカー地点にはたどり着くことができました。幾つかの社が建っているものの整備の手が入っている様子はありませんでした。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

ページ2