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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征23日目:今田城 (2026/06/02 訪問)

天気予報では今日は台風の影響で一日中、大雨ですが強風は一時的なので、レンタカーや宿泊ホテルは予定変更せず、城巡り続行。しかし、山城の登城は危険なので登城口止まりになります。
長期遠征は、台風の少ない5月中旬~6月上旬でいつも計画していますが、今回の遠征は雨の日が多くかつ台風まで来てしまいました。残念です。
猿喰城から車で10分弱で、こぶしの名水駐車場(34.667514、132.503095)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、今田氏によって築かれました。今田氏は山県氏の一族で壬生城主壬生氏、有田城有田氏と同族のようです。
永享年間(1429年〜1441年)に山県満政が今田を領して今田氏を称したことに始まるとされます。
今田氏は安芸国守護武田氏に属していたが、永正年間(1504年~1521年)に武田元繁が大内義興から離反して没落すると、山県領域は吉川領となり、今田氏もまた吉川氏に従いました。
その後、今田氏は吉川一族の経高が家督を継承して吉川氏一族となります。1575年(天正3年)には備中楪城の在番を命じられています。

現在は今田氏城館跡として登山道が整備されています。
今田城への道標が出ており、今田城こぶしの名水も有名です。
今田城こぶしの名水:井戸が掘られてまだ10年余のようですが、まろやかで口当たりのよい水でした。
説明板と登城口付近の写真を撮って撤退しました。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=今田氏館に徒歩で向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征23日目:猿喰城 (2026/06/02 訪問)

天気予報では今日は台風の影響で一日中、大雨ですが強風は一時的なので、レンタカーや宿泊ホテルは予定変更せず、城巡り続行。しかし、山城の登城は危険なので登城口止まりになります。
長期遠征は、台風の少ない5月中旬~6月上旬でいつも計画していますが、今回の遠征は雨の日が多くかつ台風まで来てしまいました。残念です。
桂城から車で30分くらいで、猿喰林道入口(34.651270、132.507679)に着きました。

南北朝の争乱に当って毛利貞親・親衡父子は、南朝方について忠勤を尽しました。ことに親衡は足利直冬や征西将軍懐良親王と気派を通じ、吉田庄を中心に気勢をあげました。
猿喰城は、1350年(観応元年)毛利親衡に呼応した山県為継、壬生道忠が拠った所で、安芸国守護武田氏信によって攻略されました。

登城口付近の写真を撮って撤退しました。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=今田城に向かいました。

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トンガの鼻 (2026/07/16 訪問)

 紀伊水道に突出した岬の先端部(通称 トンガの鼻)に築かれた台場跡です。土塁、石垣などが残っています。
近くにある元番所台場跡である番所庭園へも行きました。台場の遺構はありませんが、きれいに整備された公園で入場料(大人600円)が必要です。
暑い日でしたが、海から風が来るのでなんとか凌げました。

 JR和歌山駅よりバスに乗り雑賀崎遊園バス停下車。10分かからずに雑賀崎台場入口に行くことができます。ただバスの本数は少ないので要注意です。雑賀崎台場入口から徒歩10分くらいで番所庭園へ行くことができました。

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朝田 辰兵衛

虎御前山城散策2/2(信長陣地跡~南側登城口) (2026/06/29 訪問)

虎姫側の南側登城口はとてもわかりづらく感じました。個人的には,これで正解だったと思っています。
この周辺のお城では,眺望と言えば琵琶湖。琵琶湖と言えば竹生島。特別な思いは抱いておりませんが,方角の確認には一役買っております。あさんにお叱りを受けそうですが…<笑>。

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朝田 辰兵衛

虎御前山城散策1/2(北側登城口~信長陣地跡北側竪堀) (2026/06/29 訪問)

🛫福岡空港に降り立ち,4日かけて滋賀県へ。あさんの庭に到達しました。虎御前山城はずいぶん以前から計画しておりましたが,いずれも悪天候に見舞われてスルーしていました。やはり,ここから小谷城を見ないことには始まらない…👀
河毛側の北側登城口から登り,虎姫側の南側登城口へと向かいました。パンフレットのようなしおりが,虎姫側の南側登城口に置いてありましたので,フツーは逆のようですが…<苦笑>。

「赤色立体地図お城かるた」大会 in 大阪ですが,にいがた祭りにバッティングしていますね…。そもそも所用を入れているため,行ける確率は10%以下。また,城びとスタッフに顔が割れているので,しれーっと「初級コース」にエントリーはムリだと思っています。無言で「上級コース」にエスコートされそうな予感…。イオさんと赤い城さんは,「上級コース」で夢の対決を楽しんでください。結果報告をお待ち申し上げます。
今年も,横浜へは初日に顔を出す予定。ナイトプログラムについては,パスする予定です。

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長町ツインズパパ

出張中の訪問その2(2) (2026/07/08 訪問)

出張中の合間を縫って長浜市内の城跡を訪問しました。

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長町ツインズパパ

出張中の訪問村2(1) (2026/07/06 訪問)

出張の合間を縫って長浜市内の城跡を訪問しました。

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トク

17【秀長の毛利攻めをたどる②】備中高松城(2/2)秀吉・秀長陣跡 (2026/05/09 訪問)

次は、豊臣秀吉の陣跡へ行ってきました。高松城から歩いて30分、太閤岩入口と書かれた細い道から入り(写真①)、さらに15分ほど登ると旗が立てられ開けた場所がありました(写真③)。どうやら秀吉は、ここから切腹する清水宗治の姿を見ていたようです(写真④⑤)。またさらに10分程登ると、太閤岩がありました。秀吉はこの岩に腰掛け、水没していく高松城を眺めていたようですね(写真⑥)。

そこから今度は、豊臣秀長の陣跡まで行ってきました。太閤岩入口からさらに南東へ30分程歩き、高速道路のトンネルの西側にあった登山口(写真⑦⑧)から急坂を登る事30分、鼓山(つづみやま)の山頂に秀長陣跡はありました。途中の鉄塔の下あたりから、道がなくなったので、草むらを掻き分けながら進み、ここでいいのかと不安になりましたが、説明板を発見したときは、無事たどり着いたとホットしました(写真⑨)。

でも意外でした。秀長の陣から高松城は全く見えません。ならばなぜここを陣にしたのか? そう言えば水攻めを考案し、また本能寺の変を知り明智光秀を討つ事を進言した黒田官兵衛の話は有名ですが、ここ高松での秀長の話題は聞いた事がありません。ならば秀長は、一体この時ここで何をしていたのでしょうか?

結局分からぬまま帰り、先週そこがドラマで取り上げられ、ドラマでは秀長は戦場を抜け出して安土の信長の元へ行き、出陣を促す役割をしていたようです。どうやら自分が築いたこの鼓山の陣に、信長を迎え入れようと準備していたようですね。しかし本能寺の変が起こり、それどころでは無くなったようです(そうだったのか~😯)。

備中高松駅から出発して、(備中高松駅→備中高松城→宗治自刃の地→秀吉陣跡→太閤岩→水攻め史跡公園→秀長陣跡→吉備津駅)(図⑩)と、結局4時間もかけて歩き回ってしまいました。吉備津駅から1km先にある桃太郎伝説で有名な吉備津彦神社まで行きたかったのですが、鼓山の急傾斜で予想外に体力を消耗してしまい、力尽きて行けなかったのが残念です(笑)。

次は天王山に登り、秀長の山崎の戦いをたどります。
 

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イオ

本能寺の変…とかるた大会⁉

大河ドラマ「豊臣兄弟!」の本能寺の変に関するネタバレ部分があります。未視聴の方はご注意ください。

三英傑周辺の大河ドラマでは本能寺の変をどう描くかはひとつの大きな見どころですが(三英傑周辺でない「真田丸」ではナレ死でした)、「豊臣兄弟!」では秀吉にとっての信長と同様に、明智光秀にとって足利義昭が一生かけて仕えたい主君として描かれていたため、今回は「足利義昭黒幕説」なのかな…と思っていたら前話でまさかの「織田信澄黒幕説」が浮上! これまで秀吉・秀長兄弟と対比させて信長・信勝兄弟を描いていただけに、史実としてはともかく「豊臣兄弟!」ではそれもアリなのか…と思いきや光秀が信澄への協力を拒否してあえなく頓挫。やむなく信澄は光秀が家康を饗応する席で信長に毒を盛るも失敗し、饗応役として心当たりを信長に問い詰められた光秀が返答に窮していると、ビンタ✕2、キック✕4、パンチ✕5に加えてとどめのドロップキック! あまりに見事なドロップキックだったので息詰まるシーンなのに思わず笑ってしまったじゃないですか。でも、ということは「怨恨説」になるのかとも思いましたが…これは何と表現すればいいんでしょうね?

「信長を討て」との義昭の密書は信澄が偽造したものでしたが、義昭にその意思があるのなら偽の密書を上意として信長を討つことも辞さず、という覚悟で斎藤利三に義昭の意向を確認させたところ、義昭の返事は「わしを巻き込むな」というもの…。義昭のスパイとして信長の家臣となった光秀が、信長の疑念を晴らすために比叡山焼き討ちで心ならずも女子供に至るまで撫で斬りにしたところ、義昭から「いつからそのような外道に成り下がった!」と叱責されたことがありましたが、ここに来てまたしても梯子を外されようとは…。「足利義昭黒幕説」ならぬ「義昭に拒否られたけど黒幕役とする説」でしょうか(なんだそりゃ)。「豊臣兄弟!」の義昭は悪い人ではないんだけど、天下人としての覚悟が足りないというか、お坊ちゃんなんですよね。良くも悪くも。光秀ほどの人物が主君と仰ぐに値しない人を主君と思い定めてしまったことが悲劇の始まりというか…。もっとも義昭からすれば、頼んだわけでもない陰謀に加担させられて我が身を危険にさらすことになるのではたまったものじゃないでしょうけど。

以前に、麒麟がくる紀行(明智光秀ゆかりの城めぐり)を続ける中で本能寺の変についていろいろと考えたことがありましたが、「豊臣兄弟!」では「足利義昭黒幕説」や「四国説」、これまでに聞いたことがない「織田信澄黒幕説」などを織り交ぜながら描かれていて、ドラマとして楽しく拝見しました。


ところで……

大阪・お城フェス2026で赤色立体地図お城かるた大会が開催されるとのこと、今年のお城EXPOには行けるかどうかわからないので(さすがに3年連続休日出勤ドタキャンは…)、この機会に行っておきたいところですが、8日は仕事のため9日(日)に参戦したいと思っています。赤い城さん、もし9日で調整可能でしたらご一緒させてくださいませ。
 

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todo94

和泉の攻城④ (2026/07/11 訪問)

和泉高井城からの転戦です。水間鉄道貝塚市役所前駅で下車して徒歩にてアプローチしました。グーグルマップでは、要家住宅(畠中城)となっています。内部は非公開ですが、外から塀と門を見ることができます。

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赤い城

尼子十砦のひとつ (2026/06/28 訪問)

月山富田城の後もう少し時間があったので十神山城へ登城しました。
ふれあいの森の駐車場から登城路がついています。
中海に面した小高い十神山山頂が城跡です。
山頂部には祠がありますが目立った遺構はありません。
眺望も良いはずですが木が茂っていて中海も望めません。
中十神、小十神も出城として機能していたと思われます。
小十神からは中海の見える場所もありました。

この後の所用は三刀屋城下だったので移動の途中でしじみラーメン、昼食としました。

【見どころ】
 ・小十神からの中海

赤色立体地図かるた大会、開催されるのですね㊗️
今のところ当日の参加は微妙ですがなんとか調整したいな🥳

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征23日目:桂城 (2026/06/02 訪問)

天気予報では今日は台風の影響で一日中、大雨ですが強風は一時的なので、レンタカーや宿泊ホテルは予定変更せず、城巡り続行。しかし、山城の登城は危険なので登城口止まりになります。
長期遠征は、台風の少ない5月中旬~6月上旬でいつも計画していますが、今回の遠征は雨の日が多くかつ台風まで来てしまいました。残念です。
鈴尾城から車で10分弱で、星ヶ城跡駐車場入口(34.632768、132.650019)に着きました。
そこから、桂城入口(34.633031、132.650523)に向かいました。

築城年代は定かではないようですが、1500年代初め頃、坂氏から分家した毛利氏譜代の桂広澄によって築かれたと考えられています。
桂氏は毛利の庶流坂氏のさらに庶流であり、広澄が桂村に分家して桂氏を称したことに始まります。
桂広澄は1523年(大永3年)から続いた毛利家の家督相続争いで元就の弟相合元綱を擁して謀叛を興し坂氏が成敗されると、事件には直接関係はなかったが、坂氏の出ということで自刃して果てました。
家督は広澄の子元澄が相続しており、以後も毛利家の重臣として仕え、1553年(天文22年)には桜尾城主となっています。
桂元澄は1555年(弘治元年)「厳島の戦い」では、陶晴賢に偽の内応書を送って、陶軍を厳島に誘い出すという軍功を挙げています。

登城口は桂峠バス停のすぐ近くです。登城口付近の写真を撮って撤退しました。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=猿喰城に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征23日目:鈴尾城 (2026/06/02 訪問)

天気予報では今日は台風の影響で一日中、大雨ですが強風は一時的なので、レンタカーや宿泊ホテルは予定変更せず、城巡り続行。しかし、山城の登城は危険なので登城口止まりになります。
長期遠征は、台風の少ない5月中旬~6月上旬でいつも計画していますが、今回の遠征は雨の日が多くかつ台風まで来てしまいました。残念です。
阿賀城から車で20分弱で、愛宕山公園駐車場(35.440118、132.816900)に着きました。

1381年(永徳元年・弘和元年)毛利元春の5男広世が福原の地に移り姓を福原と改め築城した城で、元俊に至るまでの219年間福原氏の居城でした。
1497年(明応6年)に毛利元就が生まれたのも、この鈴尾城であったと言われています。(諸説あり)
福原氏は毛利氏の重臣として活躍したが元俊の時、1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いの敗北の結果、毛利氏の防長移封に従って廃城となりました。

説明板と登城口付近の写真を撮って撤退しました。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=桂城に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征23日目:阿賀城 (2026/06/02 訪問)

天気予報では今日は台風の影響で一日中、大雨ですが強風は一時的なので、レンタカーや宿泊ホテルは予定変更せず、城巡り続行。しかし、山城の登城は危険なので登城口止まりになります。
長期遠征は、台風の少ない5月中旬~6月上旬でいつも計画していますが、今回の遠征は雨の日が多くかつ台風まで来てしまいました。残念です。
伊勢ヶ坪城から車で15分くらいで、四之谷本橋(34.595635、132.591494)に着き路駐しました。

築城時期は定かでないようですが、城主は阿賀氏でした。後、戦国時代には毛利氏の家臣・井上越前守光定・左馬之助就任父子2代の居城でした。

説明板と登城口付近の写真を撮って撤退しました。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=鈴尾城に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征23日目:伊勢ヶ坪城 (2026/06/02 訪問)

天気予報では今日は台風の影響で一日中、大雨ですが強風は一時的なので、レンタカーや宿泊ホテルは予定変更せず、城巡り続行。しかし、山城の登城は危険なので登城口止まりになります。
長期遠征は、台風の少ない5月中旬~6月上旬でいつも計画していますが、今回の遠征は雨の日が多くかつ台風まで来てしまいました。残念です。
土居屋敷から車で10分くらいで、登り口付近空スペース(34.551870、132.546958)に着き、そこに駐車しました。

承久の変(1221年)で戦功のあった熊谷氏がこの地に入って伊勢が坪に城を築きました。
その後、戦乱の世になると、当主の熊谷4代直経は防御力の低い伊勢が坪城から、要害堅固な三入高松城に居城を移しました。
しかし繋ぎの城としての役目もあり伊勢ヶ坪城は廃城となることなく存続し、隠居城としての役目も持っていたと云われています。
1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いに敗れた毛利氏の防長移封に従い、伊勢が坪城も他の熊谷氏の城や屋敷同様廃され、熊谷元直は三入の地を離れ、萩へと移っていきました。

説明板と登城口の写真を撮って撤退しました。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=阿賀城に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征23日目:土居屋敷 (2026/06/02 訪問)

天気予報では今日は台風の影響で一日中、大雨ですが強風は一時的なので、レンタカーや宿泊ホテルは予定変更せず、城巡り続行。しかし、山城の登城は危険なので登城口止まりになります。
長期遠征は、台風の少ない5月中旬~6月上旬でいつも計画していますが、今回の遠征は雨の日が多くかつ台風まで来てしまいました。残念です。
三入高松城から車で10分弱で、土居橋先空スペース(34.531767、132.520393)に着きました。
そこから、石垣&説明板付近(34.532635、132.521230)に向かいました。

承久の変(1221年)で戦功のあった熊谷氏がこの地に入って伊勢が坪に城を築きました。
その後、安芸熊谷氏当主・熊谷高直によって、高直自らの居城である三入高松城の城地であった高松山の麓に居館を築いたされ、その居館が土居屋敷(熊谷氏館)とされています。
三入高松城は詰の城としての役割を担い、熊谷氏の日常生活はこの土居屋敷で営まれていたと考えられています。
土居屋敷は守りを考えた居館であり、四角形の敷地には石垣がめぐらされ、居館の西方には根谷川、北には堀を備え、近世的な城郭としての機能もあったようです。
1591年(天正19年)広島城の完成により、当時の当主・熊谷元直もこの住み慣れた三入庄を離れ、広島に移りました。
1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いに敗れた毛利氏の防長移封に従い、当時の当主・熊谷元直も萩に移住し、およそ350年に渡る熊谷氏の三入庄支配は終焉を迎えました。
この時に土居屋敷も破却されたものと思われます。

変電所の南側に石垣が残り、案内板があります。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=伊勢ヶ坪城に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征23日目:三入高松城 (2026/06/02 訪問)

天気予報では今日は台風の影響で一日中、大雨ですが強風は一時的なので、レンタカーや宿泊ホテルは予定変更せず、城巡り続行。しかし、山城の登城は危険なので登城口止まりになります。
長期遠征は、台風の少ない5月中旬~6月上旬でいつも計画していますが、今回の遠征は雨の日が多くかつ台風まで来てしまいました。残念です。
永町山城から車で45分くらいで、高松山登山口上原コース(34.525970、132.526396)に着き、入口付近に駐車しました。

1221年(承久3年)「承久の乱」の戦功により安芸に入った当時の熊谷氏は当初三入荘北端に伊勢ヶ坪城を構え、居城としました。
しかし、戦乱の世になるにつれ、平坦な岡にある伊勢ヶ坪城の防備に不安を感じ、当主の熊谷4代直経は急峻な高松山に居城を構えました。これが三入高松城の始まりです。
しかし、応永年間(1394年-1428年)に築城されたとする説などもあり、正確な築城年月は不明のようです。
戦国時代当初、熊谷氏は安芸武田氏に臣従していましたが、熊谷信直の代になり領土問題などの争議が起こったため武田氏から離反しました。
1533年(天文2年)信直は毛利元就と和議を結び、以後毛利氏の重臣となりました。
同年、熊谷氏の旧主・安芸武田氏の武田光和による攻撃を受けたが落城せず、その防御能力の高さを見せ付けました。
1591年(天正19年)毛利輝元が広島城を築いて移ると、熊谷氏13代高直も城下に移住しました。
1600年(慶長5年)「関ヶ原の戦い」の後に熊谷氏が毛利氏の防長移封に従い安芸国を離れるまで、三入高松城は熊谷氏の居城でした。
1615年(元和元年)の一国一城令で破却され、多くの遺構が消滅しました。

登山口はいくつかあるようですが、本丸までの距離が短そうな上原コースに向かいました。登り口付近に駐車スペースがあります。
登城口の写真を撮って撤退しました。
熊に注意の写真を撮って妻にLINEで送ったら、注意しようがないだろうと突っ込んでいました。
城の北麓に熊谷高直が築いたとされる熊谷氏居館の「土居屋敷」跡にはこの後、向かいます。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=土居屋敷に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征23日目:永町山城 (2026/06/02 訪問)

天気予報では今日は台風の影響で一日中、大雨ですが強風は一時的なので、レンタカーや宿泊ホテルは予定変更せず、城巡り続行。しかし、山城の登城は危険なので登城口止まりになります。
長期遠征は、台風の少ない5月中旬~6月上旬でいつも計画していますが、今回の遠征は雨の日が多くかつ台風まで来てしまいました。残念です。
広島駅でレンタカーを借り、そこから車で20分(大雨の影響で時間がかかった)ちょっとで、説明板前(34.419173、132.513494)に着き路駐しました。

詳細は不明ですが、城主は温科左衛門家行と伝えられています。 温科氏は鎌倉時代末期に安芸に下向した金子氏が在地名を名乗ったのが始まりとも云われていますが定かではありません。
安芸に下った金子氏は玖村(現在の安佐北区落合)に下り恵下山城に籠もったとも伝えられるが不明です。
また、金子慈蓮が1221年(承久3年)に承久の乱の功によって安芸国温科村地頭職を得ています。
1499年(明応8年)温科国親は武田伊豆守元信に叛乱を企てましたが、武田氏によって鎮圧され温科氏は滅亡しました。
この時、本家は滅亡してしまいましたが、一族のうちの一部は大内氏、後には毛利家に仕えるようになりました。

説明板と登城口を撮って撤退しました。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=三入高松城に向かいました。

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来たれ、猛者よ! 「赤色立体地図お城かるた」大会 in 大阪・お城フェス2026!!

昨年、激ムズマニアックかるたとして世に出た「赤色立体地図お城かるた」。
「遊びたいなあ」「でも対戦相手がいない……」とサビシイ思いをしていた皆さまに朗報です。

8月8日(土)~9日(日)「第5回大阪・お城フェス2026」にて、
赤色立体地図お城かるた大会が開催されます!!

かるた制作に全面協力いただいたアジア航測株式会社さん主催で、
初級クラス・中級クラス・上級クラスに分かれ、各クラス12名で戦います。
(クラスは自己申告制。事前予約不要。当日先着順)
入賞者には豪華賞品も!

詳しくは、アジア航測さんのHP(https://www.ajiko.co.jp/news_detail/1807)をご覧ください!!!

「うおおおおお、燃えてきた!」
そうでしょうそうでしょう。
まだかるたをお持ちでない方! 
城びとストア(https://shirobito.stores.jp/items/6948bf5e65f665005d693d26)で事前にお求めいただき、
ぜひ決戦に備えてください。

赤色立体地図お城かるたを制するのは、あなただ!!

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todo94

和泉の攻城③【城びと未登録・和泉高井城】(大阪府貝塚市) (2026/07/11 訪問)

千石堀城からの転戦です。水間鉄道名越駅に向かう途中にあります。千石堀城の古い説明板の方に千石堀城の支城との記述がありました。高井城は小さな児童公園になっていて、そこに説明板が建っていますし、最寄り駅の名越(なごせ)駅にも説明板がありました。

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