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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征25日目:猿掛城 (2026/06/04 訪問)

五龍城から車で20分弱で、猿掛城跡石碑前(34.680465、132.660434)に着き、先に進んだ教善寺手前に駐車しました。

築城年代は定かではないようですが、明応年間(1492年〜1501年)に毛利元就の父である毛利弘元によって築かれたと云われています。
1500年(明応9年)家督を嫡男の毛利興元に譲ると、次男の松寿丸(後の元就)を連れて多治比猿掛城に隠居しました。
多治比猿掛城は毛利元就が青少年期を過ごした城で、この城で毛利隆元や五龍局も生まれました。
1506年(永正3年)弘元が没した後は毛利元就がそのまま多治比領と猿掛城はを受け継いで分家となりました。
1516年(永正13年)兄の毛利興元が没すると、幸松丸が家督を継ぎますが幼小であったため元就が後見人となりました。
1523年(大永3年)幸松丸もわずか九歳で夭折すると、毛利元就は家臣団に推されて毛利家の家督を継ぎ、吉田郡山城へ入城しました。

教善寺の第二駐車場(猿掛城登城者用)利用。3〜4台可。案内板と、縄張り図の設置あり。
教善寺に向かって100m先の右手に登城口有り。傾斜がきつく滑りやすいので充分な装備が必要。
教善寺の駐車場より約15分で頂上の本丸に到着。事前の予想より早く着いたが、思ったよりきつい登城であった。 時間の都合で出丸と物見丸は未訪問。
山の中腹には毛利弘元夫婦、御杉の方の墓や、弘元の菩提寺の教善寺があります。
攻城時間は45分くらいでした。次の攻城先=長見山城に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征25日目:五龍城 (2026/06/04 訪問)

ホテルから車で30分弱で、五龍城駐車場入口(34.698522、132.756212)に着きました。そこから裏参道から登城しました。

築城時期に関しては諸説あるようですが、南北町時代に宍戸朝家によって築かれたと云われています。
宍戸氏代々の居城で、やがて毛利氏とも争うようになりましたが、宍戸隆家の代に毛利元就の長女(五龍局)を正室に迎え、毛利一門となっています。
隆家は元就、隆元からも重用され、宍戸氏は一門筆頭の扱いを受けました。
五龍城は隆家の孫、9代元続の代に、毛利氏とともに防長へと移封した際に廃城となりました。

城址の遺構は保存状態がよく、土塁や堀切だけでなく、石垣も確認できます。
急勾配の場所に強度不足らしい手すりが付けてありました。
攻城時間は50分くらいでした。次の攻城先=猿掛城に向かいました。

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天守無しがアツい

勝海舟が断食したところ (2026/07/20 訪問)

元は後北条氏が房総里見氏からの攻撃に備えて築かれた城

ただ現在は…城跡というよりは東叶神社⛩️という色合いが強い

浦賀城址=東叶神社の敷地 みたいな

本堂左にある急な階段を登ると…勝海舟が断食したと伝わる場所がある

万延元年(1860年)…勝海舟は咸臨丸の艦長格として…太平洋航海に赴いたわけであるが…その前にこの地にて航海の安全祈願および断食修行🧘をおこなったそう

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カズサン

草刈され水堀・土塁が良く観察出来ました (2026/07/19 訪問)

 余湖図コレクションブログ俯瞰図を良く観て居り城跡の曲輪が奇跡的に水田としてそのまま残り航空写真で眺めても俯瞰図と一致、十数年前より是非探訪したいと思っており、平城京復原大極門・東楼見学に合わせてやっと訪ねる事が出来ました。
 参考資料:余湖図コレクションさんグーグルマップに依る。
 駐車所:無し、新今井団地北の児童公園側道に路駐(34°21'42"N 135°42'11"E h=130m)

 京奈和道五條ICより約1.7km新今井団地北の児童公園路傍に路駐し、徒歩で東の農道を南へ、西の道に廻り、草で茂ってる水堀と思っておりましたが、しっかりと草刈されて主郭の水堀、土塁が南側西側北側と良く観察する事が出来ました。西中央には土橋が架かり石碑が在る、石碑には「小山三箇城址」と刻まれている、三箇氏の城跡、北側の水堀と土塁は草刈がされて内外から眺める事が出来ました。大変ラッキーでした、草刈に感謝。
 周りの道は離合が困難な細い道で児童公園側の道に一時路駐が正解でした、ぐるっと回って約20分程、気温は33℃34℃の暑いさなかでしたが十数年振りに願いが叶い見る事が出来ました。
 写真10番目は余湖図コレクションの俯瞰図です、今回利用させて頂きました、感謝申し上げます。
     

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朝田 辰兵衛

三田公会堂を探したほうが… (2026/06/29 訪問)

虎御前山城から,徒歩での転戦です。猛暑の中なので参考タイムですが…約50分で到着。途中,給水ブレイクは1回。滋賀県のJA系自動販売機がとても安価だったので利用しました。

三田村城(伝正寺)は,住宅街の中にあるので見つけづらいかもしれません。そんな時は,三田公会堂を探したほうが宜しいかと思います。

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張陳

町中にしっかりと残る石垣 (2026/06/30 訪問)

出張ついでに二度目の訪問を果たしました。

津城の一番の見どころは石垣です。
まず、城の北側、堀越しに見える長大な石垣の上には多聞櫓があったそうです。
また、高山神社の東隣くらいには天守台があります。
南西方向からは一番高く見える角度で迫力もありますし、そこから東に移動し、公園から場内に入るところには埋門となっているので、そちらもお見逃しなく。
そして、城跡から少し離れて百五銀行の北側には、今は埋め立てられていますが、内堀の石垣が再現されていますので、そちらも見られると良いと思います。


周辺観光としては、四天王寺がおすすめです。
藤堂高虎の妻の墓や、織田信長の弟信包が城主をしていた縁もあって、信長の生母土田御前の墓もありますし、信長が祈願したとされる仏像もあります。

グルメでは、松阪牛を扱う精肉店の朝日屋をおすすめします。
私はお手頃価格だった松阪牛のチャンジャをお土産に購入しましたが絶品でした。
お米にもお酒にも合いますので、辛いものが大丈夫な方にはオススメです。

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登り石垣跡を見てきました (2026/06/17 訪問)

 城びと先人の投稿のいくつかで、登り石垣があるはずだがわからなかった、とのことを見ました。模擬天守内の縄張り図に登り石垣が書かれているのを発見。本丸北東の広い空堀と土橋を隔てて斜面を落ちていく竪堀の両側に登り石垣があったと。破城されているので、登り石垣跡状態です。
 本丸北東の尾根を断ち切る空堀は、現場説明板によると、日本最大の箱掘構造で、石垣もなく、鉄砲による攻撃を意識して作られているのですと。急峻な山と言い、戦う城です。地図を見ると、錦川が、岩国城がある山の三方を回り込んで流れ、急峻な山体を作っているのですね。
 トクさん、朝田辰兵衛さん、「滋賀と言えば「あ」」と気にかけていただき、恐縮です。庭でも、私のものでもありませんので、存分に盛り上げてください。
 昌官忠さん、中国地方と兵庫県遠征レポートは、24日目まできましたね。痛めた足を治しつつ、悪天候にもめげず、すごいですね。山城の登城口まで来て引き返すことにどれほどの意味があるかと自問されてましたが、実は深い問いかも。

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張陳

有名人たちの子どもの城〜伊賀牛もオススメ (2026/06/19 訪問)

名張城、名張藤堂家邸跡は、元は筒井氏配下の松倉氏の城跡のようですが、藤堂高吉ゆかりの城跡です。
この高吉、もとは丹羽長秀の字指で、はじめは羽柴秀長の養子に、続いて藤堂高虎の養子となり、朝鮮出兵や大阪の陣でも活躍する武将です。
しかし、高虎の実子が生まれたため、藤堂家を継ぐこともできませんでした。
もっとも、このような経歴から、邸内には丹羽長秀らの書状なども展示されていますので、邸内にも立ち寄られることをおすすめします。

付近でお昼を食べるなら、大手門跡方面に進んだ先にあるダイハンがおすすめです。
定食を扱っている喫茶店といった見た目のお店ですが、伊賀牛の焼肉定食を頼んだところ、定食屋さんのご飯とは思えない上質な肉で、とても美味しかったです。
全メニューの中で言えばお値段ははる方ですが、伊賀牛の質を考えればお安いくらいだと思いました。

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宇田城 (2026/07/20 訪問)

 岐阜県養老郡養老町にある城びとには未登録の城址です。大通寺付近が跡地です。応永年間(1368~1374年)土岐悪五郎康貞の子康任が可児郷よりこの地に移り住み築城したと伝わる城です。遺構はありません。説明板がありました。

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金谷城 (2026/07/20 訪問)

 岐阜県養老郡養老町にある城びとには未登録の城址です。金屋川原の合戦跡の石碑の裏にある御井神社付近が跡地です。伊藤氏の城と伝わりっていますが、詳細は不明です。関ケ原の戦いでは西軍に味方しその後廃城となったようです。
石碑も説明板もありません。この付近は鋳物で有名だったようで金屋鋳物師居住の跡の石碑がありました。

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大塚城 (2026/07/20 訪問)

 岐阜県養老郡養老町にあった城びとには未登録の城址です。丸毛氏の城と伝わっています。織田信長、豊臣秀吉に仕えていました。天正17年福束城へ移っています。丸毛氏は関ケ原の戦いでは西軍につき敗退しますが、後に前田家に仕えました。
石碑があります。遺構はないと思われますが、となりのコンクリートの囲いがネットでは井戸跡と記載されている記事もありました

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関ケ原散歩(金屋川原古戦場 岐阜県養老郡養老町) (2026/07/20 訪問)

 関ケ原の戦いにおける古戦場のひとつです。関ケ原の戦いで西軍の敗色が濃厚となると戦わずして退却した毛利秀元・長曽我部盛親・長塚正家らを、東軍の徳永寿昌・市橋長勝・横井時泰らが金屋川原付近で迎え討ちました。この金屋河原の合戦で、東軍は侍81人、雑兵63人の首を挙げたと伝えられています。

 関ケ原の戦いで南宮山とその付近に布陣していた武将たちはどうしたのだろうと以前から思っていました。全く戦わなかったわけではなかったのですね。

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関ケ原散歩(烏頭坂 島津の退き口) (2026/07/18 訪問)

 関ケ原古戦場の標識のある場所はほとんど行ったつもりでしたが、烏頭坂に行っていないことに気がつき行って来ました。
島津の退き口として伝わる関ケ原の戦いにおける島津の撤退戦の舞台となった場所です。関ケ原の戦いで敗色濃厚となった西軍の島津義弘の軍勢は敵中中央突破をして薩摩への帰還を目指しました。島津隊を追撃した東軍の井伊直政・松平忠吉隊を島津豊久が殿となり、この場所で迎撃しました。この戦いで井伊直政、松平忠吉は負傷し、井伊直政はこのときの傷がもとで後に亡くなったと伝えられています。島津の退き口における激戦地です。島津豊久はここで討死したとも、重傷を負いながらもさらに先へ進んで白拍子谷で息を引き取ったとも伝えられています。

 薩摩ベンチが置いてありました。令和2年に復元された鹿児島城鶴丸城の御桜門の部材に使用するため上石津町のケヤキを寄付したお礼にいただいたものです。江戸時代、木曽三川の宝暦治水工事で薩摩藩の人たちに多くの犠牲者がでました。しかし、そのおかげで洪水は少なくなり、その感謝を兼ねて岐阜県と鹿児島県は姉妹県盟約が昭和26年7月27日に結ばれています。

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チェブ

*暑中お見舞申し上げます* (2026/07/04 訪問)

一車線の道路脇に「桑久保城」の案内板があります。
ここから更に細い上り坂を進みます。
「桑久保城」は小さい車なら駐車するスペースがありました。ただ、きちんと駐車したと言うより、これ以上、進めないからエンジンを切った、と言う方が正しいです。
もう一段階上がると写真⑧に到着。
夏草がとても元気ですか、支障なく歩けました。
*近くでビ~ンビ~ンと草刈機の音がします。本当にありがたい事です。

この半分耕された広場の向こうに「桑久保城」の石碑と説明板がありました。
土橋の上で仁王立ち。堀と土塁、草刈されていて見学しやすいです。

「桑久保城」は桑窪 秀春さんか谷口氏が築城したようですが、はっきりしていないようです。
でも、大切にされているのは、はっきりしてます。

この日は30度にならない曇り空。
今日は、35度を越し雷雨予報が出てました。
皆さんの地域はいかがですか?
どちらも暑さ厳しいですよね。

この「桑久保城」の近くに『道の駅 たかねざわ 元気あっぷむら』があります。寄ろうと思ったのですが、大渋滞で諦めました。
どうやら、BBQやグランピング、温泉等もあるようです。
次に登城するのは紅葉の季節がいいなー、と再登城の時は大人数かな?と涼しい季節が楽しみな「桑久保城」攻めでした。

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長町ツインズパパ

出張中の訪問その2(7) (2026/07/10 訪問)

出張の合間を縫って近江八幡市から米原市の城跡を巡りました。最後は、別名「八幡山城」です。2度にわたる出張中に巡った最後の城です。これで琵琶湖周辺9城を制覇しました。

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長町ツインズパパ

出張中の訪問その2(6) (2026/07/09 訪問)

出張中の合間を縫って近江八幡市から米原市の城跡を巡りました。番場城は、城びとには見当たりませんでしたが、御城印を入手しましたので投稿します。番場資料館入口で無人販売していました。

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長町ツインズパパ

出張中の訪問その2(5) (2026/07/09 訪問)

出張の合間を縫って近江八幡市から米原市に足を伸ばし城跡を巡りました。

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長町ツインズパパ

出張中の訪問その2(4) (2026/07/09 訪問)

出張中の合間を縫って近江八幡市内の城跡を訪問しました。

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長町ツインズパパ

出張中の訪問その2(3) (2026/07/09 訪問)

出張の合間を縫って近江八幡市内の城跡を巡りました。

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イオ

明瞭な遺構はなくても (2026/01/18 訪問)

室町中期に別所則治が美嚢川南岸の台地上に築いた城で、別所氏代々の居城となりました。織田信長の播磨攻めで別所長治は当初は織田方に与するも、後に毛利方についたため羽柴秀吉を主とする織田軍の攻撃を受けました(三木合戦)。秀吉は三木城の周囲に多くの付城を築いて補給を断ち、三木の干し殺しと呼ばれる兵糧攻めの末、城兵の助命を条件に長治ら一族が自害して開城。戦後は杉原家次、前野長康、中川秀政らが城代として入り、中川秀成が豊後国に移ると三木城は豊臣氏の直轄地となっています。関ケ原の戦いの功により池田輝政が姫路城に入ると、支城として家老の伊木氏が城主を務めましたが、一国一城令により廃城となりました。

本丸跡に整備されている上の丸公園の駐車場から登城開始。本丸には天守台と伝わる土壇があります。天守台からは西に美嚢川を見下ろし、別所長治と一族の辞世の石碑が立てられています。また「かんかん井戸」と呼ばれる本丸井戸からは別所氏所用の鐙が出土しているようです。本丸の遺構は天守台と井戸くらいですが、別所長治公の石像や模擬土塀、いくつかの説明板が設けられていていました。本丸南部に鎮座する稲荷神社を抜けて二の丸へ。二の丸との間の道路は堀切跡と思われます。

二の丸跡には歴史資料館と美術館が建てられていて遺構は見られませんが、発掘調査により建物跡や堀跡、井戸跡などが確認され、食料貯蔵用の大甕が発掘されているようです。せっかくなのでみき歴史資料館(無料)を見学してみると、古墳時代から近現代までの三木の歴史について展示されていて、三木城や三木合戦についても図面やジオラマ、出土品を交えて詳しく解説されていました。

鷹の尾曲輪など周辺の曲輪跡もめぐってみたいところでしたが、その辺はまたの機会に。明瞭な遺構はほとんど無いとしても、辞世の石碑とか石像とか、別所長治が地元で支持されていることを強く感じた三木城でした。
 

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