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カズサン

【遠江国分寺】静岡県磐田市 令和7年度復元遅れ工事現場の様子 (2026/10/02 訪問)

 静岡県磐田市では遠江国分寺跡の復元整備計画が進んでおります。今年2月7日と4月3日訪ねました。令和7年度の復元整備工事の期間が3月末から9月25日へと変更して居ました。
 今回9月末を過ぎましたので遠江国分寺跡の復元整備工事の進捗は如何にと探訪しました。

 住所:静岡県磐田市中泉3365(遠江国分寺史跡公園)
 駐車場:磐田市役所北側の駐車場利用、公園の南側。
 参考資料:磐田市HP、グーグルマップに依ります。

 令和7年度遅れ復元整備工事は中門と東回廊ですが、訪ねた当日工事用囲いフェンス、ネットは取り払われて工事外地点より観える様に成って居ましたが、工事用エリアを示す虎ロープが張られて進入禁止状態でした。
 もう少し近くで観たいと思い、東側の現在の国分寺に廻って国分寺裏から観察へ、国分寺側からの進入には虎ロープが張って無く復元金堂跡には入れる、金堂の西東から、復元されて中門、東回廊を良く観る事が出来ました、東回廊は歩けそうでしたので中門の東まで行き観察撮影、ベンガラのモルタル舗装が目に輝かしい、勿論木装基壇での復元です。
 正式公開でもなくそそくさと退散しました。
 遠目で令和8年度復元整備計画工事期間は令和9年2月26日までと工事案内板に記載されていました。
 令和8年度の復元整備工事は、中門跡南前と講堂跡僧房跡周りのサイン等整備工事と案内。

 まだ西回廊は一部出来上がって居ますが金堂との続き西回廊半分が残って居り、金堂前の工事の為に空けてあるのか? 金堂前の灯ろうもまだ残って居ます、東屋、トイレ、ガイダンス施設、散策路も待たれる整備工事です。

 遠江国分寺投稿履歴
 2024年4月11日投稿、訪問2024年4月7日
 2025年4月19日投稿、訪問2025年4月5日
 2026年2月11日投稿、訪問2026年2月7日
 もご参照ください。

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ダイエティシャン

10月18日(日)三の丸広場オープンイベント (2026/10/10 訪問)

10月18日(日)三の丸広場オープンイベントが開催。10月17日(土)前夜祭で、二の丸高石垣のライトアップも開催。詳細は米子城公式サイトへ。
整備で、内堀跡(写真②)建物跡(③)が分かるように。

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天守無しがアツい

北条氏直により築城⛰️ (2026/10/11 訪問)

車で麓の駐車場に停める🅿️
トイレ横の展示パネルをひと通り眺めてから
階段を上って城跡へ🚶‍♂️

第四曲輪…虎口…第三曲輪…

第三曲輪は小さな神社となっており…ここまで来られた事への感謝を告げながら祈る🙏

三代目氏康の頃には関東西半分伊豆半島の一帯が北条氏の勢力範囲

武田氏が駿河に侵攻して三枚橋城を設けたのに対抗して🏯五代目当主氏直もここ長浜城を設けた

ちなみに武田氏と北条氏は…略史によると駿河湾などで合戦を繰り広げたそう🌊⛴️時の武田の主人は勝頼👨‍🦰

先代の信玄に比べると…地味というか劣ってる印象のある勝頼だが…武田氏三代目として恥じないくらいの…戦国武将として及第点の能力は備えていたのかもしれない

長篠の戦いの惨敗も…勝頼率いる武田軍の不甲斐なさというよりは…織田徳川連合軍という相手が悪かった…だって火縄銃を大量に用意して効率よく撃ってくるんだから🔫🔫⚠️

長篠で多くの有能な家臣と兵を失いつつも…駿河湾では北条軍相手に何年も戦いを繰り広げて…信玄の息子に恥じぬ奮闘を見せた勝頼…しかし最後は織田信長に滅ぼされてしまう

その8年後には…豊臣秀吉に対する最後の相手として…勝頼と同じく奮闘して籠城して粘るも…北条氏も降伏🏳️五代でその夢は潰えた

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ヒロケン

なんて日だ‼ (2026/10/05 訪問)

織田信長公が尾張を統一した頃の清州城は守護の城館と同じくらいだったと考えられ、桶狭間の戦いに勝利した信長公はこの清州城から天下統一の第一歩を踏み出しました。
本能寺の変の後、織田家の跡目を決める清州会議後に城主となった信長公の次男、信雄公によって改修された清州城の城郭は、天守を備え東西1.6km、南北2.8kmにも及ぶ巨大な城塞都市であったといわれています。
名古屋城築城時に清州城は廃城となりましたが、清州城の資材が名古屋城築城に使用され、名古屋城西北櫓は清州櫓とも言われており、清州城天守の古材で作られたといわれております。

この日、久しぶりの訪問で清州城天守最上階より見る景色を画像に収めるべく訪れました。清州古城址公園駐車場に車を停め(無料でトイレ完備)古城址を散策、信長社や顕彰碑を堪能後、東海道本線に分断されている清州公園へ、濃姫と信長公像を画像に収め、いよいよ模擬天守に朱色の橋を渡り、目にしたものは「本日休館日」( ノД`)シクシク…おまけにしとしとと雨が( ノД`)シクシク…予報では晴れ、雨具を用意していなかったのでこれまでで退散。小峠さんの「なんて日だ」をつぶやきながら帰宅( ノД`)シクシク…

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トク

大友に仕え龍造寺に滅ぼされた蒲池氏の城(ですが・・😮!) (2026/10/10 訪問)

春色の汽車に乗って ♪
海に連れて行ってよ~♬
煙草の匂いのシャツに ♪
そっと寄り添うから~♬

西鉄「蒲池駅」(写真⑥)で電車を降り、懐かしい昭和のアイドル 松田聖子(本名:蒲池法子)さんの歌を口ずさみながら、駅から歩く事30分、「蒲池城」が建っていたとされる場所に到着しました。国道385線の蒲池城跡交差点のあたりに城が建っていたようです(写真②)。城跡碑(写真①)がひっそりと民家の裏にありました。

さらにその100m南東には、蒲池氏の菩提寺である「崇久寺」がありました(写真③④)。そこには大友に従い耳川の戦いで討死した「蒲池鑑盛」とその一族の墓がありました(写真⑤)。

蒲池氏は平安時代から続く、南筑後地方を治めて一時は20万石も領した名門の国衆でした。そして戦国時代になると、本城を蒲池城から支城であった柳川城に移し、本城と支城を入れ替えたようです。しかし豊後大友氏が筑後を支配するようになると大友に仕え、龍造寺を攻めた今山の戦いに大友軍として加わります。今山の戦いで大友が敗れると、今度は龍造寺に寝返り、沖田畷の戦いに龍造寺軍として加わります。そこで龍造寺隆信が有馬・島津連合軍に敗れ討死するとまたもや大友軍に戻り、今度は耳川の戦いに加わるも、当主鑑盛と三男統安はそこで討死してしまいました。しかし嫡子で次男の鑑蓮は戦わずして裏切り、戦線離脱して柳川に戻って、今度は北上してきた島津氏に寝返ったようです。

それに怒った大友宗麟の重臣筆頭である立花道雪は、何と病を押して立花城から裏切った鑑蓮を討伐しようと出陣しますが、途中の高良山で病死してしまいます。その時「我が死体に鎧兜を着せ、高良山に頭を柳川に向けて埋めよ!」と命じたそうです。よほど大友を裏切った鑑蓮が憎かったのでしょうね。しかしそれでは忍びないと、娘婿養子の宗茂が立花城へ遺体を運び帰ります。

しかし結局は、鑑蓮は龍造寺政家(隆信の嫡子)の騙し討ちで誅殺され、跡を継いだ鑑盛の四男の統春も政家から柳川城を攻められ敗北、蒲池氏は滅ぼされてしまいました。

それから秀吉が九州を平定すると、関ケ原までは立花宗茂の領地となります。そして関ケ原後には田中吉政が柳川城に入りますが、近江の出身である吉政は、蒲池氏の歴史などは知るよしもないため、崇久寺だけを残し、あっさりと蒲池城は取り壊して、この一帯を田畑にしてしまったようです。そして田中氏が二代で断絶すると、再び立花宗茂の領地となります。

ちなみに耳川で亡くなった蒲池鑑盛の三男統安(鑑蓮の弟)の子の応誉は、僧侶となって柳川に良清寺を開き、再度領主となった宗茂の正室で、亡くなった誾千代(道雪の実娘)を弔ったため、その子孫は立花家に召し抱えられ、蒲池の名跡を再興して家老の待遇を受けたそうです。そして松田聖子さんは、その末裔にあたるそうです(😱!)(Wikipediaより)。

赤いスイートピ~♬、のお話でした😊。
 

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肉球

復元三日月堀 (2026/10/09 訪問)

丸馬出しの土塁と三日月堀、外堀の一部が復元され水堀が復活していました。
外構工事が完了してないようで立ち入り禁止になっていますので
柵の外側から撮影してきました。

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諏訪の浮城 (2026/10/08 訪問)

 久しぶりの高島城です。
日根野織部正高吉の築城と伝わっています。当時は城の際まで諏訪湖の水が迫り「諏訪の浮城」と呼ばれていました。本丸、二の丸、三の丸をほぼ一直線に配置した連郭式の城でした。天守の屋根は瓦葺ではなく、檜の薄い板を葺いた杮葺というのは興味深い所です。その後は諏訪氏の居城となり明治まで続きました。湖に浮かぶ当時の姿を見てみたいものです。

 日根野高吉の父親日根野弘就は美濃(岐阜県)出身で最初は斎藤氏に仕え、波乱万丈の人生を送った武将です。岩井三四二の「逆らうて候」という小説で初めて知りました。かなりマイナーな武将ですが、岐阜県出身ということもあり何となく気になっています。あくまでなんとなくですが。その子の高吉は小田原征伐の戦功により、この地を与えられ高島城を築き、城下町を整備しました。

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多田淡路守常昌 (2026/10/08 訪問)

 常昌寺付近が跡地です。
石碑と説明板がありました。日本城郭大系には「遺構は本丸と思われる所、その北側の端に高さ2.5m程の土塁、その他、相当に広い郭を残している」との記載があります。郭は何となくわかりますが、土塁、空堀はよくわかりませんでした。

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朝田 辰兵衛

クモに注意してください…🕷🕸 (2026/09/23 訪問)

JR門司駅から徒歩で向かいましたが,途中からバス路線を歩いていました…。「こんなところにバスは走っていないだろう」という先入観でプランニングしてました。往路は登りなので,往路こそバスが有効です。
しかも,小倉からもある…。
門司駅前からなら,[47]番系統(垣見営業所行き)に乗り,城山霊園前下車。ここから徒歩約15分で登城口到着です。霊園内で迷ったら上空を見上げてください。送電線が空中交差する場所のすぐ近くに登城口があり,パネルがあります。そのワキに,クモの巣払い用として,約120㎝のしなった木の棒を置いておきました。まだ残っていましたらご活用くださいませ。
クモの巣は,何ヶ所か比較的高い位置にあり,クモ自体はデカイです。あまり人が入っていないせいかもしれませんが,途中までは送電鉄塔の巡視路として整備されています。関門連係線との表記があったので,九州が大停電でもしたら,本州から電力を供給するために重要な役割を果たす送電線と考えられます。

猿喰城ですが,登城途中に堀切を通過します。注意していないと見落とします。腰郭は比較的容易に見つけられると思います。
これで,シルバーウィークの九州旅は終わり,越後へと帰還しました…🛫

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dougen

2026.1.10登城 (2026/01/10 訪問)

秩父鉄道永田駅の南側の荒川を渡った先にある畠山重忠公史跡公園が畠山重忠館跡となります。
遺構は残っていませんが、畠山重忠の像や墓があります。
また、近くの浅間神社は物見台の様な地形となっています。

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いんげん丸虫

萩原山の堡 山梨県甲州市 (2026/10/09 訪問)

標高1671m 駐車場から20分位。
甲斐国志によると武田陸奥守信春が
応永20年の乱の後に砦を築いたとされる
場所です。
山頂に50m x 28m の平場があり、段郭
らしき地形も見受けられますが、ほぼ
自然地形です。
現在は[柳沢の頭]と呼ばれ、ハイキング
コースになってますね。
東京都内からは奥多摩湖のわきを通り、
自然の中をドライブして来れますね。

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イオ

鷹巣山城(和歌山県田辺市本宮町大居) (2026/04/25 訪問)

鷹巣山城(城びと未登録)は、築城時期等は不明ながら在地土豪の松本氏の支城とされ、羽柴秀吉の紀州攻めに呼応した堀内氏善の攻撃を受けて落城し、廃城となったようです。

まだ少し時間に余裕があったので、ニッポン城めぐりの登録城である鷹巣山城に向かい、大居墓地の駐車場から登城開始。墓地南端の登城口から山中の墓地へと続く道を進み、竪堀状の登城道(ほぼ直登)を登って行くと数分で尾根筋に到達。鷹巣山城は南東から北にのびる尾根沿いに階段状に曲輪を連ね、北端の頂部に主郭を配しています。主郭南部の土壇に立てられている宝篋印塔は落下した笠部分が前にきちんと置かれていて、鷹巣山城に関係するものなのでしょうか? 主郭の西辺には帯曲輪、北辺には土塁を設け、土塁の先に続く北尾根は二重堀切で遮断しています。内側の堀切の両端は竪堀となって落ち、外側の堀切には土橋が設けられていました。二重堀切で折り返して、東斜面に細長くのびる帯曲輪(城道程度の幅ですが)を通って登城道まで戻ると、東面の切岸にはところどころ石積が施されていました。

40〜50分で手軽に登城できて(比高30m)期待以上に遺構もあり、熊野地方の最後のもう一城にはちょうどいいくらいの城でした。
 

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ニコ・ロビン

100名城の60( ・᷄ㅂ)赤穂城🏯 (2017/10/19 訪問)

忠臣蔵かぁ( ・᷄ㅂ・᷅)…年々、時代劇が減る昨今。今や知らない人も増えたのでは?と思ってしまう。くだらん韓流なんぞ流すくらいなら、面白い時代劇をやって欲しいと思ってしまう…大陸寄りテレビには無理なんかな( ・᷄ㅂ・᷅)、
赤穂も、もう少し頑張らんとねーせっかくの名所が…姫路とかと比べて明らかに寂れてるねー
城自体は、石垣や堀などが残り、建物は復元を頑張っている感じ。
でも本丸のあの訳分からんコンクリの迷路みたいなのは、んーやめたほうが良い気がする…( ・᷄ㅂ・᷅)
横矢掛かりだらけで、五稜郭みたいに感じるね、地図見てなるほどと思ったわ

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ニコ・ロビン

100名城の58( ・᷄ㅂ・᷅ )明石城🏯 (2019/11/13 訪問)

天守は台のみで、作られなかったけど、是非作って残しておいて欲しかった( ・᷄ㅂ・᷅)、
三重三階の櫓が四隅に配置され、迫力があって、西への睨みを効かす、重要なお城、艮櫓や乾櫓は、他への流用の為に解体転用…んー残念😢4つ同時はドローンとかしか見れないけど,是非見たいね
4つの櫓は凝っていて、妻側を交互にしていて、残った坤櫓と巽櫓は妻の向きが違うのがしっかりと見えて、奥行きを感じる!
隣の姫路の様に、大きな天守がある訳ではないが、三重櫓が2つ残っていて、コレはコレで、見た目は整うね
残り2つも何とか復元できないもんかな?この頃になると中井正清によって、フォーマット化されていて、櫓の土台で大体大きさも分かるから、いけそうな気もするけど、、
図面や写真があれば、是非木造復元して欲しいねー

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ニコ・ロビン

100名城の57(ㅂ・᷅ )篠山城 (2026/09/17 訪問)

2度目の登城だけど、毎度ガッカリのお城
縄張りは藤堂高虎、総奉行池田輝政の平山城の名城🏯
堀や縄張りは、藤堂高虎らしいキッチリした正形!
天下普請だから、石垣の石には家紋や目印の刻みがアチコチに
超急ぎで作らせたから、堀の上は櫓や渡り廊下ではなく、土塀に柵だって大書院内の動画でやってた、まぁそうだわな、大阪の陣の為の西の見張りの為に作るわけだから、家康死ぬ前に急ぐわな
天守も土台のみで、まぁ豊臣滅亡したなら、ワザワザ要らんどころか悪用されたら困るから、作らせんよね天守🏯

何がガッカリって、
そもそも大書院は失火で無くし、
大書院の写真の所は、立ち入り禁止???店員に聞いても理解もしてない…分かるだろ普通…
駐車場から、全体写真撮りたくても、どうでもいい所に中継の電柱が他にあるだろ?
展示物のレベルが低い…
草取りが甘い…
職員の質が低い…お客がいてもくっちゃべっていて、問い合わせも答えられない売り子レベル…露骨に不貞腐れる…市の職員とかかな?大事な収入源だから、もうちょい真面目にやったら?
わざわざ行って、良いお城という部分も多いから、毎度( ・᷄ㅂ・᷅)残念な気持ちになるね

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ニコ・ロビン

100名城の56( ・᷄ㅂ)竹田城 (2019/11/14 訪問)

GoogleのCM以来( ・᷄ㅂ・᷅)観光地に
日本のマチュピチュとはよく言ったもんだな
まぁ雲海の写真見るとそう見えるな
現地に行くと、ロープが張ってあってハイキングコースですな
下から見て、遠くに見える石垣がいいね
どこもそうだが、元は土の城だけど、戦国に石垣の城に!
せっかく石を積んだのに数十年で、廃城に…
直轄地になる生野銀山もあるし、こんなところに外様置けんわなぁ

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ニコ・ロビン

100名城の55( ・᷄ㅂ)千早城⛰️ (2022/10/19 訪問)

難攻不落( ・᷄ㅂ・᷅ )千早城⛰️
まぁ金剛山を山登りだな
きついきつい、山登りの格好の方がいいね🥾
ただヘトヘトになったけど、今度はもうちょいまともな格好で来たいな

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dougen

2026.1.4登城 (2026/01/04 訪問)

埼玉高速鉄道新井宿駅の北東側に赤山城址があります。
県の史跡に指定されおり、城址公園として整備され、石碑や解説板が設置されています。
遺構として、郭と空堀が確認できます。

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「北海道の名城巡り」最後はやはり… (2026/09/20 訪問)

松前城は江戸末期に整えられた「日本最北端かつ最後の日本式城郭」で、明治維新後、城の大半が取り壊されましたが、天守は国宝として残されました。
しかし、昭和24年の火災で焼失し、創建当時から現存する建築物は切妻造りの「本丸御門(国指定重要文化財)」と「本丸表玄関」(北海道有形文化財)のみです。
現在の天守は昭和35年に鉄筋コンクリート構造ですが外観は忠実に復元されています。
天守の内部は松前城資料館として利用されています。
また、松前城址を含む松前公園は全国屈指の桜の名所で「日本さくら名所100選」にも選定され250種1万本の桜が咲く様子は圧巻です!
日本100名城スタンプは天守入口で、御城印や城カードは天守入口のの右にある観光案内所で購入できます。

上ノ国から到着し、松前で一番の老舗旅館「矢野」のレストランで昼食をと思ったのですが、この日、朝から「松前マグロ祭り」が開催されていて、順番待ちの人が30人以上…
幸い、あまりの混雑に旅館の方で宴会場を解放してくれることになり、それほど待たずに席に着くことができましたε-(´∀`*)ホッ
松前は大間と並びマグロ漁で有名な港なので、私は本マグロ御膳、娘は一番人気の松前名産・岩海苔御膳に本マグロの刺身を追加で注文しました。
私のマグロ御膳は、もちろん美味しかったのですがマグロばかりで少々飽きてしまいましたが、娘の岩海苔御膳は(特に香りや風味、食感)絶品でした(オススメ!)
松前に来たのに岩海苔だけでマグロを食べないのも勿体ないので刺身の単品を追加、、、なんて娘のセレクトに感心しきりの私でした。

それでは、さっそく写真に沿って説明をさせていただきます。
① 私の勝手なこだわりで毎回1枚目は、御城印の写真と決めています。中央にはダイナミックな書体で「松前城」と見事に描かれています。家紋は松前氏の「丸に武田菱」です(松前氏は若狭武田氏の流れをくむ)その下には松前城天守が描かれていて手書き風な御城印でした。
② 2枚目には毎回「城を代表する景色」を選んでいます。今回はやはり、この構図しかないですね。重要文化財の「本丸御門(現存)」と「天守(外観復元)」を一緒に入れて二の丸側から撮った一枚です。江戸時代末期に北方警備の強化を目的として建設された、切妻造り・銅板葺きの櫓門です。松前城で現存する貴重な建築遺構となっています。
③ 「旧福山城(松前城) 本丸御殿玄関(現存)」です。明治時代に城が取り壊された際、この玄関部分だけは昭和57年まで近くの小学校の正面玄関として実際に使われていたそうです。その後、現在の本丸内に曳屋(建物ごと移動)され、北海道指定有形文化財として保存されています。唐破風の曲線や彫刻の細工が見どころです。
④ 内堀に架かる木橋を石垣と漆喰の狭間壁を背景に撮りました。このまま進むと「天神坂門」に向かいます。家紋と松前城と書かれたのぼり旗が、これから先の期待を膨らませてくれました。
⑤ 城跡に入って最初にくぐる門が、この「天神坂門」です。2002年に復元された高麗門形式の城門で、天神坂を登って三ノ丸へ入る場所にあります。
⑥ 松前城の裏口にある2000年に復元された「搦手二ノ門」に向かう坂道の途中です。切込み接布積(正面)と打込接乱積(右)角で分れた石垣と、白壁の土塀の美しさが目を引きます。また、門の左前には、敵からの目隠しや防御のための土塁「三本松土居」の一部が写り込んでいます。
⑦ 「搦手二ノ門」を正面から撮った写真です。この門は「高麗門」と呼ばれる建築形式で造られていて、2002年に木造で忠実に復元されました。
⑧ 松前城天守の裏手にある本丸広場です。左側に見える大木はクロマツで太い幹と大きな枝ぶりに圧倒されます。芝生内の石碑には「旧松前城本丸御殿玄関」とあります。3枚目の写真の建物が移築される前にあった場所なんでしょうね。
⑨ 大きな屋根の建物がチケット売場です。前に「史蹟 松前城」という石碑が立派だったので主役として撮影しました(券売所は脇役です) 券売所は向かって右側が入口、左側が出口となります。観覧券を購入して右に進むとすぐ、「地下通路」へ降りる階段があり、そのまま進むと天守閣(資料館)内に入ります。
⑩ 最後は本丸広場から撮った松前城天守(外観復元)の雄姿です。江戸時代の最後に造られた城で、戦前は現存天守で国宝にも指定されていました。せっかく戦火を免れたのに、終戦から4年後に失火から類焼してしまったのが、なんとも惜しいですね。もし火事がなかったら、北海道にも一つ(13番目の)現存天守があったと思うと悔しくてなりません!石垣も整然と美しく積まれていますが、調べてみたら、天守台の石垣は築城当時のものがそのまま現存しているそうです。素晴らしい!

松前から車で1時間半の函館に住んでいながら、そして、何度か松前城を訪れていながら、今年の2月までは、城にまったく興味がなく、ただの観光名所としてサラ~っと見ただけで天守内に入った事もありませんでした。
今回の訪城で松前城の素晴らしさ、貴重さ、美しさをたくさん気付かせてもらいました。
城好きになって良かったぁ~(*´∀`).。o○ポワ~ン

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イオ

山深い地の総石垣 (2026/04/25 訪問)

豊臣秀長の熊野支配に抵抗する北山一揆への押さえとして藤堂高虎が築いたとされる城で、熊野の木材搬出のための拠点ともなりましたが、江戸期には役目を終えて廃城となったようです。

間接的には秀長に関係する城でもあるので、月影の男紀行の番外編として約7年ぶりに再訪しました。南東麓の駐車場から登城開始し、登城口すぐの(伝)鍛冶屋敷跡から見上げると山上に連なる東郭の石垣。赤木城に来たなぁ…という気分にさせられます。東郭の門から城内に入り、主郭下段の虎口から連続する枡形を抜けて主郭に至るまで幾度の屈曲を強いられることでしょう。さらに主郭の隅部には折れを設けて横矢が掛かるようになっています。さすがは高虎、堅固な構えです。主郭の外周をまわって北郭を通り抜けた先の北尾根は堀切で遮断されていました。北尾根の堀切で折り返して、今度は西郭へ。西郭は尾根沿いに4段の郭を連ね、礎石建物や水溜と思われる石組遺構が確認されています。西郭の最下段から谷部に降りて行くと、3段の郭からなる南郭が広がっています。礎石建物やかまど跡が確認されるなど生活の場だったようです。

2度目でもあり今回は軽くひとめぐりしただけですが、これほどまでに見事な総石垣の城がこんな山深い地に築かれていることに改めて驚かされました。一揆勢に対する威圧効果は相当なものがあったんじゃないでしょうか。そして次の城へと向かう前に田平子峠刑場跡に立ち寄り、北山一揆殉難者供養之塔に手を合わせて赤木城を後にしました。
 

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