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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征14日目:津山まなびの鉄道館 (2026/05/24 訪問)

津山城から25分くらい歩いて、津山まなびの鉄道館(35.053240、133.999520)に到着しました。

ディーゼル機関車、扇型機関車庫、転車台、ジオラマなどを見学できます。
津山城の入場券を見せたら特別入館券=240円で入館しました。
自分は鉄道マニアでなく鉄道知識もありませんが、十分楽しめます。
観光時間は15分くらいでした。
この後の当初予定は、矢筈城➡草苅氏居館(城びと未登録 岡山県津山市)➡矢筈城主草苅景継墓所(城びと未登録 岡山県津山市)を巡る予定でした。
持参している痛み止めは飲みましたが、湿布薬がない状態で山城の矢筈城登城は無理だと判断し本日の城巡りは、ここまでとしました。
当初攻城予定の城びと登録城が攻城できなかったのは、今回遠征では矢筈城は初めてになります。(何だかんだいっても今日までは登城口までは行っていました)
本日の宿泊先に向かう為、津山駅から、JR快速ことぶき&山陽本線を利用して福山駅に向かいました。
ちなみに湿布薬は福山駅のマツキヨで購入しました。ホテルの部屋入出可能時間前に福山駅に着いたため、ホテル付近で尾道ラーメンを食しました。
歩行歩数=18602歩、歩行距離=13.0Kmです。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征14日目:津山城 (2026/05/24 訪問)

衆楽園から徒歩15分弱で、津山城裏門入場券売場(35.063674、134.004436)に着きました。
しかし、裏門からは入城できず、あわてて表門に向かいました。
そこから、以下の順番で観光しました。
①:天守台跡(35.062777、134.004686) 
 津山城の営業時間=8:40~19:00、備中櫓=9:00~16:30
②:鶴山館(35.061488、134.006475)➡営業時間=9:00~17:00
②:大谷碧雲居句碑(35.061282、134.006827)
③:津山城宮川門跡(35.060963、134.006999) 石垣
④:竹下雨町句碑(35.061362、134.007643)➡左足首をひねってしまい、行ってません

津山城は今回2回目の攻城です。1回目は2019年3月16日に来ました。
前回、城内は備中櫓を含め一通り回ったつもりでしたが、鶴山館を見落としていたので、今回は鶴山館メインで攻城しました。
鶴山館に行ったら、工事中で中が見れませんでした。
津山城下城時、階段で左足首をひねってしまい、軽い捻挫の状態になりました。
今回の遠征、5/18(月)に高尾城で右ふくらはぎを痛め、右ふくらはぎが治ったら今日(5/24)は左足首軽い捻挫と負傷続きです。
津山まなびの鉄道館へ向かう道すがら薬局を捜し湿布薬を購入しようとしましたが、本日は日曜日でドラックストア含め薬局は全て閉まってました。
攻城時間は60分くらいでした。次の攻城先=矢筈城を攻城する前に、津山まなびの鉄道館へ徒歩で向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征14日目:衆楽園(津山藩主の別邸) (2026/05/24 訪問)

宿泊先のホテルから徒歩25分くらいで、衆楽園入口(35.069877、134.0057320)に着きました。
衆楽園は入場料は無料で7:00~18:00の間、開いています。
津山藩主の別邸だったそうです。
池を周遊するように小道があり、とても景色がいいです。
観光時間は30分くらいでした。次の攻城先=津山城へ徒歩で向かいました。

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赤い城

休日出勤 (2026/06/20 訪問)

この日は午後から岡山で仕事、休日出勤です。
他に用もないので早めに出かけて岡山城周辺を散策しました。
前回朝市が開かれていて見れなかった旭川沿いを歩きました。
東門跡から河川敷に降り、石垣に沿って歩きます。
この時季なので石垣も草木で隠れる部分が多く少し残念。
それでも二の丸素軒屋敷跡、さらには二の丸伊木長門屋敷内櫓跡を支える石垣を見学できます。

引き返し、遊歩道に沿って歩きせっかくなので本丸にもいきました。
この日は雨、早めの時間でもあり登城者はやや少なめでしょうか。
少し天守を眺めたあと、中には入らず月見櫓へ。
貴重な現存する建物です。

お昼も近づいてきたので月見櫓を支える石垣を見上げながら撤退しました。
車を置いていた近くに大手門跡があるのですが遺構はなさそうでした。

お昼は岡山名物のデミカツ丼、ボリューミーでもあり午後の仕事の活力になりました。

【見どころ】
 ・旭川沿いの石垣
 ・月見櫓と石垣

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征13日目:三星城 (2026/05/23 訪問)

JR林野駅から徒歩10分くらいで、明見三星稲荷神社鳥居前(35.012799、134.146813)に到着しました。

築城年代は定かではないようですが、応保年間(1161年〜1163年)に渡辺長寛によって築かれたといわれています。
南北朝時代(1336年~1392年)には赤松氏に属していた後藤氏の本拠でしたが、南朝方の山名氏が美作に侵攻しこの城も落城しています。
後藤勝基の代の1561年(永禄4年)に宇喜多直家の息女・千代を妻に迎え、美作東部を支配するまでに勢力を広げました。
しかしその後、1575年(天正3年)に直家が主君である浦上氏を天神山城から追放し、美作への侵攻を開始すると旧浦上家臣らと結んで抵抗しましたが、1579年(天正7年)に落城しました。

美作中央病院横の明見三星稲荷神社の赤い鳥居から登れます。
曲輪等の遺構が残ってますが特に西の丸の土塁、その下の畝状竪堀群、西の丸から伸びる登り土塁が見応えがあります。
標柱や看板が登城口の分岐点や史跡跡に立っているのでわかりやすいです。
また山麓の屋敷跡には勝基の墓として五輪塔が建立されています。
二ノ丸下の灯り装置横の岩場をロープを使って登りますが、結構怖いです。また、山肌が脆く滑りやすいので、トレッキングシューズをおすすめします。
自分は電車の時間の都合で、二ノ丸までで引き返し主郭へは行っていません。
攻城時間は55分くらいでした。本日の城巡りは、ここがラストです。
本日の宿泊先に戻る為、林野駅からJR姫新線で津山駅に向かいました。
歩行歩数=36182歩、歩行距離=25.3Kmです。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征13日目:上月城 (2026/05/23 訪問)

上月駅から徒歩10分ちょっとで、上月歴史資料館付近の遊歩道入口(34.977738、134.3246629)に到着しました。
ちなみに本日は土曜日なので、上月歴史資料館(10:00~16:00)は開いていましたが、靴を脱いでの見学だった為、靴下がグショグショの自分は遠慮しました。

築城年代は定かではないようですが、鎌倉時代末期に上月景盛が大平山に上月城を築いたのが始まりとされるようです。
1441年(嘉元年)4代景家の時、嘉吉の乱が発生し、上月氏の嫡流は滅び、上月城は播磨・備前・美作三国の境界に位置する地理的要素から攻防の的となりました。
1538年(天文7年)に尼子氏に攻略され落城した後、1557年(弘治3年)に赤松一門で「西播磨殿」と呼ばれたと伝わる政元が置塩城から入城。大内氏らとの激しい攻防戦の末、宇喜多直家によって攻め落とされます。
1577年(天正5年)織田信長の部将羽柴秀吉が福原城を攻略して上月城を攻めます。
上月城は赤松政範が籠もり宇喜多直家が救援に駆けつけますが、高倉山に本陣を構えていた羽柴秀吉によって上月城は落城し、政範は自刃して果てた。
その後、尼子勝久が入城しましたが、1578年(天正6年)毛利軍に攻められ、三木城攻めに手を焼いた秀吉軍に見放されてあえなく上月城は落城、尼子氏は滅亡しました。

現在は土塁や石垣、堀切などの遺構が残るほか、本丸に赤松氏の供養塔、麓には尼子氏の供養塔が残されています。
二ノ丸と三ノ丸の間で利神城方面の眺めます。
攻城時間は40分くらいでした。次の攻城先=三星城を攻城する為、上月駅からJR姫新線で林野駅に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征13日目:福原城 (2026/05/23 訪問)

佐用駅から徒歩20分弱で、神社下(34.9961758、134.351466)に到着しました。

築城年代は定かではないようですが、建武年間(1334年〜1338年)佐用範家によって築かれたと云われています。
その後、赤松三十六衆のうち福原氏がこの城を継いだので、福原城と言われているようです。
1577年(天正5年)播磨国に侵攻した羽柴軍によって落城し、城主福原則尚は城に火を放ち高尾山円福寺で自刃しました。
落城時は城兵と城内の者すべてが斬られるという凄惨な状況だったそうです。
現在の福原城跡にある社は福原霊社と言い、城主福原氏を祀っており、頭脳明晰だった城主にあやかってお参りする人もいるそうです。

主郭の土塁の上に福原霊社があって、ここに説明板もあります。
土塁の背後は切り通し状になっていて堀切のようです。
主郭の北側に廻ると、土塁がわかり易く、また、堀跡かなと思われる窪みが土塁に沿って巡っています。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=上月城を攻城する為、佐用駅からJR姫新線を利用して上月駅に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征13日目:三日月陣屋 (2026/05/23 訪問)

三日月駅から徒歩10分弱で、表門・移築城門(34.989309、134.433840)に到着しました。
そこから、三日月陣屋館前(34.990779、134.431459)に向かい、物見櫓(現存)/中御門(復興)/通用門(復興)を確認した後で、広業館(移築)列祖神社(34.991074、134.430195)に向かい、三日月藩御家中寄進石鳥居と三日月藩九代藩主森俊滋奉納石灯籠を確認しました。
ちなみに本日は土曜日なので、三日月陣屋館(10:00~16:00)は開いていました。

三日月藩森氏は1676年(延宝4年)津山藩主森長武が弟長俊に、美作国勝山郡内に15,000石を分与したことに始まります。
三日月藩森氏は長俊の後、長記・俊春・俊韶・快温・長義・長篤・長国・俊滋と九代続いて明治に至ります。
快温も嗣子なく新見藩主関長誠の二男長義を養子に迎え、長義もまた赤穂藩主森忠賛の五男長篤を養子に迎えています。
三日月陣屋は津山藩森家の改易に伴って、その分家である森長俊がこの地に新規立藩し、1697年(元禄10年)に築いた陣屋です。
以降明治までの174年間、森氏によって治められましたが、廃藩置県により陣屋は解体されました。

表門、物見櫓を含む中御門や旧藩校広業館などの遺構を見て回れます。
三日月陣屋には前面に石垣と堀による仕切が残されています。
三日月陣屋館内に陳列されている瓦や鎧、発掘物などを見学しました。
攻城時間は30分くらいでした。次の攻城先=福原城を攻城する為、三日月駅からJR姫新線を利用して佐用駅に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征13日目:赤松氏居館(城びと未登録 兵庫県上郡町)白旗城 (2026/05/23 訪問)

白旗山細野登山口から徒歩10分ちょっとで、南下進入口(34.912997、134.357674)に到着しました。
説明板はここ(34.913196、134.358150)にあります。

築城年代は定かではないようですが、赤松円心則村の屋敷跡と伝えられ、則村の三男の頃には守護の館が建てられたと伝えられています。

現在は空き地となっていて、説明板がある以外、何もありません。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=三日月陣屋を攻城する為、河野原円心駅から智頭急行とJR姫新線を利用して三日月駅に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征13日目:白旗城 (2026/05/23 訪問)

ホテル最寄りの津山駅からJR姫新線を利用して河野原円心駅に着きました。
河野原円心駅から徒歩30分弱で、白旗山細野登山口(34.910548、134.3662896)に到着しました。

築城年代は定かではないようですが、1333年(元弘3年)頃に赤松円心則村によって築かれたと云われています。
1335年(建武2年)新田義貞が大軍を率いて白旗城を包囲しましたが、50日あまりの籠城を耐え抜き落城しなかったそうです。
しかし、1441年(嘉吉元年)嘉吉の乱では山名軍によって落城、赤松氏は城山城で一時滅亡したそうです。

登城口手前で白旗城を見ると白旗城はもやの中です。このもやは本丸に着いてもはれませんでした。
小雨が降る中カッパを着て、白旗山 細野登山口より攻城。
登城路は途中まではなだらかな道ですが、そこから先は、尾根に出るまで岩だらけの酷道が続きます。
二の丸から侍屋敷跡(伝)経由での大手段郭は多くの石積みが残りますが、こちらも崩落した石で足場が悪いので注意が必要です。
登山道が整備されているとはいえ、酷道ですのでトレッキングシューズでの登城をお勧めします。
登山口から本丸まで75分。案内標識がいたる所にあるので迷わず本丸まで行けます。
下山は55分。下山時、12回滑り4回転びました。靴もズボンもカッパも泥だらけです。
下山して登城口に着いた時は雨は止んでいました。
でもカッパの中はサウナ状態。流れる汗がしょっぱい。上下一式、廻りを気にしながら登山口で着替えました。
攻城時間は140分くらいでした。電車まで少し時間があったので、赤松氏居館(城びと未登録 兵庫県上郡町)に向かいました。

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ぴーかる

若栗城 (2026/05/10 訪問)

【若栗城】
<駐車場他>城跡公園の公衆トイレ側に駐車しました。
<交通手段>車

<感想>1泊2日富山ちょこ城巡り1000㎞旅23城目。お城の詳細は現地説明板の添付写真をご覧下さい。また補足で、主な城主が詳細は不明だが、不悪糺斎右京輔とか織田太郎左衛門とも言われ、言い伝えではこの不悪糺斎右京輔の娘が上杉軍の攻撃の時に奮戦したと説明板にあります。変わった名の姓なので、地元の成り上がり武士なのかもしれない。三方囲みの土塁が良く残っていました。この城跡が巡った城跡の中で一番立山連峰がきれいに望めました。

<満足度>◆◇◇

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朝田 辰兵衛

ダブルタイフーンに向かって…🌀🌀 (2026/06/25 訪問)

「ダブルタイフーン」という表現を使用した理由は,ドンピシャの「仮面ライダーV3」世代だからです…<笑>。
🛫福岡空港へは無事に飛びました。雨は降っていましたが,直方陣屋へも難なく移動できました。ただし,公園までのアプローチ道に落ち葉や木々が散乱しており,キャリーバッグ持ちにはしんどそうだったので,公園散策は断念しました。
直方駅ですが,直方陣屋と反対側の東側出口には,魁皇関の銅像があります。腰の雰囲気が似ています。相撲ファンの方は必見。

なお,この後,宿泊先の岩国駅前のホテルへ向かいましたが,山口県内の在来線が全て運休ということを下関駅で知りました。路線バスで新下関駅へ。新幹線で新岩国駅へ。新幹線も,途中で1時間ばかり運転見合わせがありました。新岩国駅から路線バスで岩国駅へ。錦帯橋経由でしたが,すでに真っ暗で確認できませんでした。

昌官忠さん,尼子十旗,尼子十砦,鳥取県コンプリート,おめでとうございます🎉
前回投稿にレスがなかったので,こういうノリは好かないのかな…と思いました。
クイズを出題することも可能ですので,OKの場合はレス願います。

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たか

本願寺攻めの砦 (2026/06/24 訪問)

仕事の関係で近くに来たため少し寄道をしてみました。
皆さんの書かれてる通り月江寺の門は閉められており、雨模様なので写真だけ撮って退散しました。

丁度大河ドラマで佐久間信盛が追放されるところ(攻城した際はまだ放送してなかった)が放送されていました。
討ち死にした塙直政は調べるとどちらかと言えば文官タイプで武闘派ではなかったそうです。

直政が討ち死にしたあと本願寺側がここまで勢いよく攻めたのを織田信長が自ら援軍として駆け付け2700もの首を取ったとされていますが、まさに鬼神ですね…恐ろしい…
その際に足を鉄砲で撃たれていたとのことなので想像を絶する鬼の形相だったんだろうなぁ…

それだけ必死だったんだからお前何やってんだって佐久間信盛も言われて仕方なかったのかな。
ただ高野山に追放は恐ろしすぎる(切腹より良いのか?)

いやー見るところが無いと想像で楽しめるという事がよくわかりました(笑)

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トク

12【秀長の因幡平定をたどる①】鳥取城(下ノ城)池田氏32万石の威風 (2026/05/16 訪問)

豊岡から鳥取まで1日1本の直通普通列車に乗り2時間30分、鳥取駅に到着しました(写真⑩)。鳥取県は初見参です(ここがカズさんの故郷か~🤔)。これから100名城の「鳥取城」から秀吉の本陣「太閤ヶ平」までを目指そうと思います。

到着後は「東横イン鳥取駅北口」へ宿泊しました(写真⑨)。北口は最近再開発されたような感じで、ホテルは新築できれいでした。そして翌朝、今日は長期戦となるので、無料朝食を腹いっぱい食べて、コインロッカーに荷物を預け、ペットボトル2本と汗拭きタオル3枚を駅構内のコンビニで買ってリュックに入れ、今回初めて九州では売っていないので通販で買った熊鈴を下げて、いざ出陣です!

駅前から「くる梨循環100円バス(緑コース)」に乗り「仁風閣・県立博物館」で下車しました(写真⑨)。まず「吉川経家」様に御挨拶します。経家様と久松山、いいアングルです(写真②)。どうやら自分の命と引き換えに、鳥取の民の命を救った経家様は、今でも鳥取市民のヒーローのようです。

擬宝珠橋から中ノ御門をくぐります(写真①③④)。すでにここで鳥取藩32万石の格式を感じます。この先は工事通行止めだったので、再び堀に出て北ノ御門から入り、仁風閣(仮設)で100名城スタンプを押し登城開始しました。途中に築かれている高石垣に圧倒されながら二ノ丸へ。二ノ丸には登り石垣もありました(写真⑤⑥)。

この後、上ノ城まで登る途中で気づいたのですが、この久松山(きゅうしょうざん)は、山全体が岩盤でできた花崗岩がむき出しの山で、途中に石切り場の跡のような場所がいくつもありました。築城に必要な石の調達には事欠かなかったようですね。

そして北ノ御門から登る事20分、天球丸(池田長吉の姉天球院の居所)まで登ると鳥取市街が一望できます(写真⑥)。でもあれ? 有名な巻石垣はどこ? と思ったらすぐ下に見えました(写真⑧)。知らない間に通り過ぎてしまったようです(笑)。

城を利用して健康づくりの散歩をされている方も多く見かけました。鳥取城は市民の健康つくりの場にもなっているようで、うらやましいというか住んでみたいと感じました。

ではここ天球丸から、まず上ノ城(久松山(写真①②)の山頂)を目指して、登山を開始します。次は上ノ城に続きます。
 

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斎藤新五利治 斎藤道三末っ子 (2026/06/28 訪問)

 しんちゃんさんの2025年11月の投稿を挟んで公式さん(半布里コミッティさん)の投稿が続くので、城びとからの投稿を挟みます。 
 信長の美濃侵攻の中で、加治田城佐藤道利の娘婿の斎藤新五利治が、加治田城城主を継いだのですと。また、堂洞城に嫁いでいた佐藤道利の娘が、加治田城から、よく見える場所で磔にされたと(写真7)。加治田城は堂洞城を見下ろす位置にあり、本当なんですね。詳しくは、しんちゃんさん投稿をご覧ください。
 清水谷公園からの林道を行くのがおすすめのようですが.清水谷に入ってすぐに、写真1の表示を見つけたので、ここから登ってみました(地蔵堂ルート)。林道を行くと、加治田城北側を巡り、梨割り山を経て、西から城域に入りますが、地蔵堂ルートでは、東側から直接城域に入ります。主郭虎口には石垣の痕跡が。
 激しい雨の後でしたが、良く整備されていて、問題なく、散策できました。真新しいのぼりも。公式さん投稿では、主郭説明板に登城者カウントの二次元バーコードが貼ってあるはずなのですが、直近の強い風雨で、飛ばされたようです。残念。
 加治田城もチャートの山体で、南と北は急斜面で、東西に伸びる尾根に、郭を設けています。大手道は南麓の公民館脇からなのですが、未整備と。城域にも、大手道の表示がありますが、「未整備」と書いてありました。
 

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イオ

関ケ原の戦い陣跡めぐり (2025/12/28 訪問)

この日は金龍紀行として賤ヶ岳の戦いでの金森長近の陣跡に行くつもりでしたが、さすがは近畿で有数の豪雪地帯、山麓の登城口でさえ雪に覆われており、進むにつれてどんどん雪が深くなってきたため途中で登城を断念…。一日かけて柴田軍の他の陣跡もめぐる予定だったため他の城の縄張図は持参しておらず、どうしたものかと思案した結果、この日あわせてポチ制覇する予定だったニッポン城めぐりの「豊臣一族ゆかりの北近江」イベントに加えて、岐阜県から愛知県にまわって「豊臣新幹線 天下統一行き 第一章 立身の章」もあわせてポチ制覇することに決定。とはいえ一日中車を走らせてスマホをポチして回るだけではあまりに虚しいので、別の機会に行くつもりだった関ケ原の戦いでの金森長近の陣跡に(ついでに前回の取りこぼしも)行くことにしました。

脇坂安治陣(関ケ原町藤下)
松尾山北麓、名神高速南側の側道から南に入ったところに石碑と説明板が立てられています。周囲の平坦地は駐屯地でしょうか。藤堂高虎の調略により内応を約していましたが、小早川秀秋隊の内応を期に大谷吉継隊に攻めかかり、東軍の勝利に貢献したのは周知のとおり。松尾山城に続いて訪れるつもりが道路工事中で近付けなかったのを6年越しでようやく回収できました。

金森長近陣(関ケ原町関ケ原)
関ケ原合戦陣形図によれば金森長近は東山道の北側、相川のあたりに生駒一正、織田長益、古田重勝らと並んで布陣していたようで、現地に石碑や説明板は見当たりませんでしたが、この辺かなぁ…というあたりに行ってきました。それにしても、跡継ぎもちゃんといるのに御年77歳にして天下分け目の大合戦の前線で戦う長近…。やはり只者ではありません。

徳川家康岡山本陣(大垣市牧野町)
徳川家康は関ケ原本戦前日に赤坂に入り、岡山に本陣を置きました。戦時中に高射砲台が置かれたためか遺構は消滅しているものの、山頂には岡山本陣址の石碑や模擬物見台が設けられている…ようですが、現在は立入禁止になっていて確認できません。立入禁止の立札越しに岡山本陣跡の写真を撮って撤退しました。岡山本陣では遠藤慶隆と同行して金森長近と可重(慶隆の娘婿)も家康に面会しているようです。


…これでようやく昨年分の投稿を完了。もう7月だというのに…。「真田丸」は面白かったけど、やっぱりサボってる場合じゃありませんでした(笑)
 

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todo94

大人の休日俱楽部パス 飛島渡航失敗翌日・江戸城三十六見附めぐりの続き③ (2026/06/28 訪問)

国の重要文化財に指定されている3つ目の門は外桜田門。ここも幾度か訪れたことがあります。そのまま東に向かうと日比谷公園があります。日比谷門跡には石垣が残っていました。次の馬場先門跡は説明板のみの設置で遺構はないようです。この日の三十六見附めぐりはこれにて終了。東京駅に向かって日本酒に合いそうな駅弁を購入してから、上越新幹線に乗り込みました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征12日目:神楽尾城 (2026/05/22 訪問)

院庄館から車で20分弱で、神楽尾公園駐車場(35.079787、133.993141)に着き、そこから登城口(35.083699、133.988670)に向かいました。

築城年代は定かではないようですが、 正平年間(1346年〜1370年)に宇都宮教定が在城していたと云われています。
1532年(天文元年)出雲の尼子経久が美作に侵攻し、山名氏兼の守る神楽山城を落とします。
1566年(永禄9年)尼子氏が安芸の毛利氏によって滅ぼされると、神楽尾城は毛利氏の支配下に入り大蔵甚兵衛尉尚清と千場三郎左衛門が置かれました。
1579年(天正7年)神楽尾城の毛利勢は宇喜多側の荒神山城を夜襲したが、荒神山城主花房職秀が事前にこれを察知して撃退、逆に神楽尾城を攻められて落城しました。

赤い城さんが「ハイキングコースとして整備され、歩き易い登城路です。案内板もあるので迷うことない。」と投稿されていました。
その為、安心して小原ルートで登城しましたが、やってしまいました。
登城口のずいぶん手前から山の中に入ってしまいました。当然、城跡ではないので何もありません。
本当に情けない話です。登城口まで行っていれば問題はなかったのですが、レンタカー返却時間が迫っていたので焦っていたようです。
攻城時間は60分くらいでした。本日の城巡りは、ここがラストです。
本日の宿泊先に行く為、津山駅でレンタカーを返却してホテルに向かいました。
ちなみにホテルに戻る前に津山駅で、津山名物のホルモンうどんを食べました。
歩行歩数=32058歩、歩行距離=22.4Kmです。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征12日目:院庄館 (2026/05/22 訪問)

葛下城から車で20分弱で、石橋前(35.061259、133.943153)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、鎌倉時代(1180年~1336年)初期の頃から美作守護館としてあったと考えられています。
1347年(正平2年)山名時氏は赤松貞範と戦い、笹向城・高田城を攻め、自ら院庄館を落として居城としました。
1571年(元亀2年)には宇喜多氏がこれを奪い片上秀胤に与えました。この地は、宇喜多・毛利氏の争奪戦がくり広げられた地です。
1603年(慶長8年)信濃川中島より森忠政が美作一国を領して入封。院庄館の修築を試みたが、この地は適地ではなく津山築城となりました。
太平記によれば、1331年~1333年(元徳3年~元弘3年)に起こった「元弘の変」に敗れた後醍醐天皇が隠岐に配流される時、院庄館にて児島高徳が『天莫空勾践。時非無范蠡。』の十文字の詩を記したと云われる伝承地のようです。
院庄館は、明治になって後醍醐天皇と児島高徳を祀る作楽神社境内となっています。

現在は、作楽神社の境内となり土塁と堀跡の一部が残っています。
土塁の周辺に残る堀は、明治になって作楽神社建立の際に掘られた堀のようです。
境内には児島高徳の銅像もありました。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=神楽尾城に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征12日目:葛下城 (2026/05/22 訪問)

高田城から車で35分弱で、櫓のある所の道路脇(35.111831、133.890671)に着き路駐した後、葛下城駐車場(35.109489、133.889157)に徒歩で向かいました。

築城年代は定かではないようですが、応仁の乱(1467年~1477年)の頃、赤松氏は旧領美作回復の為、美作岩屋城を配下大河原氏に守らせました。
この時期に葛下城は築かれたと考えられており、城主にはその一族大河原大膳大夫が配されたそうです。
美作は1513年(永正10年)頃より赤松氏の執事である浦上氏が支配下に置いていました。
出雲の尼子経久は浦上氏当主・村宗死後の浦上宗景・政宗の兄弟不和による内紛の混乱に乗じ1532年(天文元年)尼子詮久らを大将に美作に侵攻、一時は美作の大半を制圧するに到りました。
1540年(天文8年)赤松・浦上両氏の反攻や周防の大内氏の石見侵入により尼子氏は出雲に撤退する事となります。
その後、美作には備前天神山城の浦上宗景が侵入し勢力を広げます。
1541年(天文13年)尼子経久の跡を継いだ孫の尼子晴久は、叔父である新宮党の尼子国久と宇山久信に命じ美作に大攻勢を仕掛け、この戦いで葛下城も落城、大河原氏は没落し葛下城は尼子の属城となりました。
1565年(永禄8年)頃には安芸の毛利氏が美作に勢力を伸ばし始め、翌1566年(永禄9年)に月山冨田城の尼子氏を攻め滅ぼし葛下城も毛利氏の勢力下に入ります。
葛下城には毛利氏配下の中村頼宗が在城し大規模に毛利氏の拠点城郭として拡張整備を行ったと考えられています。
1582年(天正11年)の本能寺の変を受け、秀吉は毛利氏と和議を結び、隆梁川以東を秀吉側の宇喜多氏に割譲しましたが、葛下城主だった毛利方の浅山氏は、和議に反対して籠城しました。
浅山氏は、毛利氏の説得により、1583年(天正12年)に城を明け渡すことに同意しますが、城明け渡しに際し城に火を放ち自刃し、葛下城は廃城となりました。

時間の都合で登城口付近で撤退しました。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=院庄館に向かいました。

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