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POYO58

三の丸、二の丸、本丸 (2026/03/24 訪問)

三の丸へ向かうと先に御下門跡が見えてきます。桝形にはなってないようですが、左側にはかなり高い高石垣が見えます。これが唯一三の丸へと続いている門なのでここからしか攻められません。
そのあといくつか石段を登っていくと三の丸に到着します。ここでは籠城時に塩を保存していたと考えられています。三の丸にも石垣が点在しています。三の丸と二の丸には二つのルートがあり、西側に二の丸へ続く石段が現存しています。東側には二つを結ぶ中御門があったとされ、大きな桝形虎口となっています。おそらくこれが場内最大の堅固な門となっています。
中御門を突破すると二の丸にたどり着きます。二の丸には大きな御殿があったとされています。
その後石段を登っていくと本丸にたどり着きます。本丸はなかなか標高の高いところにつくられています。本丸には天守閣ではなく護摩堂がたてられていたと予想されており、今は礎石が残っています。
では次は西外曲輪へ向かいます。続く

にのまるさん、あさん、歓迎の言葉ありがとうございます。最近投稿さぼり気味でしたが、これからもお城の情報を皆さんと共有していきたいと思っています!

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県下最大級の城域を誇る山城ですと。よく整備されていました。 (2026/08/13 訪問)

 城びと先人の投稿を見て、行きたい城にノミネート。暑い盛りですが、比高が100mほどであり、登城道や城域が整備されていそうなので、訪問してきました。先人に倣って、山中城址駐車場を使い、東の舞木口から登城。登城口には、山中城ののぼりが立っています。尾根に登り切ってすぐに大規模な深い堀切があります。東の郭前に馬出もあって、山城ながら重厚な作りです。郭、堀もたくさんあり、家康重臣の酒井家所領の重量感があります。
 山中城は北に東海道を見下ろす位置にあり、また、このあたりの東海道は、豊川と岡崎とを隔てる山々の間の比較的細い谷を通っており、重要拠点なのがわかります。説明板に「(織田信秀軍と今川義元軍が激突した)小豆坂合戦の時には今川氏の重要拠点となり」と書かれています。近くに名鉄の車両検査場もありました。これも重要拠点か。
 Ⅰ郭に扁平な石が塔状に積まれていました。登城口のイラストにも描かれてたので、そこそこ以前に積まれたものかと。現地に説明板なく、由来はわかりません。登城道にも扁平に割れそうな岩の露頭がありましたので、現地調達でしょう。地質図で見ると、泥質片岩のようです。

 POYO58さん:大学合格と城びと復帰、おめでとうございます。
 イオさん:お約束いただいていた、湯浅城の次回の公開日の情報をありがとうございます。スケジュール表に書きこみました。

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じゅんじん

遠州の雄 (2026/05/06 訪問)

ここを取れば遠江をとれるらしい。徳川武田戦いの地ですね。

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小城小次郎

堀に水が引き込めたとか (2025/10/26 訪問)

有事の際には堀に水も入れられたとの伝承を有するが台地上のこのお城にどうやって水をもってきたのだろう。「岩原」を開発した領主が見栄を張ったのかもと思うとちょっと微笑ましい。領主に関係しそうな石塔が主郭上に並ぶ。

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にのまる

説明板と城址碑 (2026/08/10 訪問)

千船駅から少し歩きましたが大和田小学校前に説明板があり、柵の隙間からでしたが城址碑も撮れました。
かるた大会出陣からの城めぐり。この日はここで終わりにすることにしました。


POYO58さん、お久しぶりです。
受験お疲れさまでした。
そして城びと復帰、おめでとうございます🎊
充実の大学生生活を送られますように❗️

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POYO58

約10年ぶりの攻城 (2026/03/24 訪問)

熊本城に行った二日後に人吉城に行きました。
人吉城は、1198年(建久9)地頭として相良長頼が入り、それ以降明治まで35代670年間相良氏がこの地を支配した。城として整備されたのは11代相良長続の時代1448年(文安5)ではないかとされる。その後18代頼房から20代長毎にかけて石垣普請を含めた大改修が行われ、御館と呼ばれる当主の居宅も設けられ、本丸・二の丸・堀・矢倉門が完成。また、日本三大急流の一つといわれる球磨川と、その支流の胸川を天然の堀とし、多くの船着き場を設け水運をうまく活用した。
この説明通り、人吉城を見たとき、貿易のしやすい場所に立っているなと実感しました。
北西の長い石垣ははねだし石垣となっており、このはねだし石垣はおそらく、この人吉城と五稜郭、品川台場でしか見れません。なかなか貴重です。
はねだし石垣を過ぎると水の手門が見えてきます。復元長塀もみることができ、当時の様子が想像されます。水の手門は球磨川に直接続いており、船着き場だったと予想されます。さらに、水の手門を過ぎると、米御蔵跡も見られ、米の貿易もされていたと想像されます。
では次は本丸へと向かっていきます。続く

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POYO58

自分の小学校時代お世話になった城 (2026/03/22 訪問)

マジで久しぶりの投稿となりました。みなさん覚えていらっしゃいますか?
長い受験戦争がやっと終わりました。残念ながらあと1問たりず第一志望校は落ちてしまいましたが、国立の後期試験で名古屋工業大学に合格しました。私立は受けたところはすべて受かり、一番高いところで東京理科大学にも合格しました。
今は名古屋工業大学に通い、軽音サークルに入ってバンドでギターをやってます。

受験が終わった直後に車で熊本に帰省しました。しかも行く途中で後期の合格発表をみました笑笑

熊本城は加藤清正によって茶臼山という台地に高い築城技術で建築されました。その後は細川忠利が城主となり、以後細川家が熊本城を収めることになりました。
難攻不落の城とはいえども、戦国時代に熊本城を攻められた記録はないですが、明治時代に入ると、西南戦争で十分な役割を果たしました。

昔熊本に住んでいた時、通っていた小学校が、どの窓からも熊本城が見えるところだったので、毎日地震から復旧していく熊本城を見守りながら、成長してきました。

あの地震から10年がたちましたが、天守は完全復興し、石垣もだんだん復活していました。ただ、櫓の撤去がさまざまなところでされており、少しショックでもありました。

1ヶ月前にも熊本におおきな地震がありましたね。イオンモールは昔よく行ってたところだったので、爆発の事件はほんとに衝撃的でした。熊本のみなさんほんとにがんばってください。応援しています。

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みか

江戸城 (2026/08/26 訪問)

やっと城びとアプリにも慣れてきので初の投稿。暑すぎたのであまり人もいなくて見やすかった。本当に綺麗な石垣でした。忠臣蔵好きなので松の廊下跡に行きたかった✨️

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イオ

湯浅党の本城 (2026/03/01 訪問)

平安末期に湯浅宗重が広保山城に代えて築いた城で、湯浅党の本城として湯浅氏代々の居城となりました。南北朝期には南朝に与したため、守護・山名義理に攻められて落城。その後、後南朝勢力の拠点となるも、守護・畠山氏の攻撃を受けて落城し廃城となったようです。

湯浅城は、藤並館(藤並城)とともに湯浅党城館跡として国史跡指定されたのを機に湯浅町の管理となり、年数回の一般公開時以外は登城できなくなっていますので、BUGTIさんの投稿でこの日の一般公開に狙いを定めて周辺の湯浅党の城とあわせて行ってきました。多目的広場の駐車場から登城口へ向かうと、前方に見えてくる小山が城跡でしょうか。受付で縄張図のついた案内紙を受け取り、湯浅城址の石碑を横目に普段は施錠されている登城口の門をくぐって城内へ。

登城口から谷沿いに登って行くと登城道は南北に分岐していますが、順路に従って南へ。寄り道した南西の支尾根にはいくつかの曲輪が設けられ、今登ってきた道と西麓から南麓を見下ろす位置にあります。登城道に戻って東に進むと、主郭の南東下に城内最大の曲輪が広がっています。発掘調査により鎌倉期の土器や建物礎石が確認されているようですが、現状は竹林となっています。南辺にあるらしい土塁は激しい竹藪になっていて確認できませんでした。北西に一段上がったところが副郭で、主郭の南下から東下に続いています。副郭には湯浅城址石碑が立てられていました。副郭の北辺は尾根を削り残した土塁で、東の曲輪との間に設けられた堀切の土橋となって続いています。東の曲輪の北東辺にも一部土塁が見られました。副郭に戻って主郭へ。主郭は南北二段になっていて、上段に井戸跡と思しき窪みがあります。主郭の西には堀切をはさんで西の曲輪があり、土橋が通じています。主郭と西の曲輪の北面は急斜面ですが、さらに土塁や竪堀を設けて北側からの侵攻に備えられていました。主郭からの登城道を西に下って行くと、道沿いに武者隠しと思しき土塁があり、その先にテーブルとベンチの設けられた展望台があります。現在は樹木が茂っていて眺望はききまませんが、西側の見張台だったと思われます。展望台から登城道を下って最初の分岐で湯浅城をひとめぐり。平安末期以来の歴史の古い城ですが、室町中期の廃城にしては進んだ防御設備もあり、戦国期にも改修・活用されていたのかもしれませんね。

駐車場に戻る途中、湯浅温泉 湯浅城の外観写真を撮りました。ローカル局のテレビCMでお馴染みでもあり、和歌山県民の大半は「湯浅城」というとこの白亜の天守風旅館を思い浮かべると思います。実際、家内に湯浅城に行くと伝えると「何か会合でもあるの?」と尋ねられましたので。今回は外観だけでしたが、またの機会には天守閣内にあるという文化財展示室を見学して、日帰り入浴して帰りたいものです。

なお、次の一般公開は令和9年1月24日(日)の予定です。
https://www.town.yuasa.wakayama.jp/site/rekishi-bunka/4737.html

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にのまる

城址碑2基 (2026/08/10 訪問)

地下鉄千日前線玉川駅の2番出口から地上に出てすぐ、JR野田駅利用だと改札を出て左に100メートルくらい歩いた交差点の斜向かいのマンション入口にひとつめの城址碑があり、そこから徒歩数分の極楽寺にふたつめの城址碑がありました。

〈メモ📝〉
・地下鉄玉川駅とJR野田駅は近い。
・JR野田駅と阪神野田駅・野田阪神駅は近くない。

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赤い城

足利義昭の居城 (2026/07/18 訪問)

地下鉄の丸太町駅が最寄りですがこの日は今出川駅で降り、京都御苑を散歩しました。
かなり広いので西側を北から南に歩くのみです。
御所や蛤御門を見学、南西の端には移築復元された二条古城の石垣があります。

道路を渡り石碑方面へ。
石碑は平安女学院の北東隅にありました。
石碑に沿った道路が内堀跡のようですが心眼で見るしかありません。

信長が足利義昭のために築城した城ですが本能寺の変では妙覚寺から救援に駆けつけた信忠が入り防戦、ここで自害することになりました。

【見どころ】
 ・移築復元された石垣

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朝田 辰兵衛

鷹取城散策2/2(えぐ水登山ルート上部~鷹取城) (2026/07/13 訪問)

車道からすぐに山に入ります。登山口はわかりやすいです。途中,Y字路がありますが,険しい右側をチョイスします。
しばらく進むと車道に出ずに鷹取城へとアクセスできます。あえて車道に出てアクセスすることも可能です。
えぐ水登山口からは,徒歩約100分で到着。湧水ポイントで補充した水分【0.5L】消費。さらに【0.25L】消費。
夏場ということで,畝状竪堀はかすかに確認できた程度…<泣>。
しかしながら,赤色かるたのイメージはつかめました。アポロチョコを半分つぶしたカンジです。
なお,下山時に湧水ポイントで水分【0.5L】補充し,プラス水分補給。
田主丸駅バス停到着までに,水分【0.5L】消費。【0.25L】を持ち帰りました。

えぐ水登山ルートの情報入手先は「YAMAP」です。みなさん,車か単車で攻城されてますね…。体力のあるうちに徒歩もいいかも…。高齢のご夫婦2組とすれ違いました。やはり,湧水ポイントがいいのかもしれません。
ラストに,西鉄久留米駅内の「おみき茶屋」で食べた日替わり定食を。【880円】でリーズナブルでした。

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dougen

2025.11.3登城 (2025/11/03 訪問)

JR北柏駅の北西に松ヶ崎城址があります。
街中の小山に残る城址ですが、城址の遺構も残っており、市の史跡として整備されていますので、安心して城址散策が楽しめる城址です。

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朝田 辰兵衛

鷹取城散策1/2(えぐ水登山ルート下部) (2026/07/13 訪問)

ここも一日がかりの登城となりました。
スタートは西鉄久留米駅。電車ではなくバス。3番のりばから,田主丸駅バス停を目指します。
田主丸駅バス停からは徒歩。県道719号線,平原自然公園を経由して,えぐ水登山口に到着。ここまでで徒歩約90分。猛暑日ということもあり,水分は【0.5L】消費。
ここは,登山ルート沿いに湧水ポイントがあります。感謝です。消費した水分【0.5L】補充。
さらにうれしいのは,地元の小学生が書いたと思われる,ペイントストーンがルート沿いに置いてあることです。これで,道に迷う心配ありません。ダブル感謝です。
ここから,にのまるさんが苦手とする沢を渡るポイントが連発します。計5ヶ所あります。
①③は,増水時には濡れる覚悟で。②④の足元は比較的安定しています。⑤は幅が広いので大丈夫かな…と思いますが,判断ビミョーです。
沢を渡りきると黒板が現れます。とりあえず,サインしておきました…<笑>。
黒板があったので山頂近いのかと思ったら,甘かったです。一旦車道に出て,車道をしばらく進むと再び登山口が出てきます。
車道をそのまま進んで行っても鷹取城にアクセスできますが,再び登山したほうがかなり近道になります。

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御器所西城(佐久間盛政生誕の城) (2026/08/27 訪問)

 名古屋市昭和区にある佐久間盛政生誕の地と伝わる城址です。
城びとには未登録で2回目の投稿になります。空堀や土塁が残っていたようですが、今はよくわかりません。現在は徳川義直と徳川慶勝を祀る尾陽神社となっています。

 佐久間美作守によって築かれたと伝えられています。
佐久間氏は相模の三浦義明の4男である多々良義春の嫡男家村が佐久間姓を名乗ったことに始まります。佐久間の苗字はその所領である安房国佐久間(現在の千葉県安房郡鋸南町上佐久間,下佐久間)に由来します。その後は和田義盛の嫡男である常盛の子、朝盛を養子とし佐久間氏を継がせました。承久の乱後、上総国夷隅郡(現千葉県勝浦市近辺)と尾張国御器所(現名古屋市昭和区)を恩賞として賜りまます。 この御器所が後の戦国時代の佐久間氏の拠点となりました。佐久間盛政が柴田勝家に従って北陸へ遠征し尾山城主となったころに廃城になったようです。
桶狭間の戦いで丸根砦を守って玉砕した佐久間盛重、織田家の宿老として活躍し後に追放された佐久間信盛、賤ケ岳の戦いで活躍した佐久間盛政はみんなこの一族です。

 御器所(ごきそ)という地名は熱田神宮へ供える土器(御器)を作る職人が住んでいたことに由来します。

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dougen

2025.11.3登城 (2025/11/03 訪問)

JR北柏駅の北にあるウィングホール柏斎場が布施城址となります。
特に遺構は残っていませんが、解説付きの石碑が設置されています。
利根川を望む高台にあることが往時を偲ばれます。

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トク

20【秀吉の九州平定をたどる①】戸次川の戦い(九州平定の前哨戦) (2026/04/14 訪問)

汽車は行くよ~♪
煙はいて~♪
トンネル越えれば竹中だ~♬

また再びこの古い昭和の歌を口ずさみながらJR豊肥本線「竹中駅」で降り、国道10号線に挟まれた地を流れる大野川(旧名:戸次川(へつぎがわ))の川岸に立ちました。実はここは、九州平定の前哨戦「戸次川の戦い」が行われた場所です(写真①⑩)。でも「南こうせつ」さんにとっては楽しい思い出の場所だったようです。

耳川の戦いから6年後の1586年(天正14年)4月、豊後に侵攻した島津軍に対し、もう豊後を守り切るのは困難と判断した大友宗麟は、恥を忍んで大坂城に出向き、秀吉に助けを求めます。この時に秀長は、できたばかりの大坂城西ノ丸にある自分の屋敷で接待し、相談に乗ったと伝えられています。

これで九州へ出兵する大義名分ができたと喜ぶ秀吉ですが、すぐには出兵できぬ理由がありました。それは小牧長久手で敗れた「徳川家康」の存在です。そこで同年9月に、前年の四国攻めで屈服させた、「長曾我部元親」「十河存保」と新に讃岐を与えた「仙石秀久」を軍監として加え、先遣隊(四国連合軍)として出兵させました。

同年10月には、家康に対して妹の「あさひ」と母の「なか」を人質に差し出し、家康が大坂城に出向く事により和睦が成立しました。これにより秀吉は関白(秀長は大納言)に任じられ姓を「羽柴」から「豊臣」と改め、島津へ停戦命令を発しますが、島津はこれを拒否します。

島津四兄弟の末弟「島津家久」は、順調に日向を北上して豊後に攻め入り、同年12月には大友の重臣「利光宗魚」が守る、この竹中の「鶴賀城」を取り囲みます(写真③)。四国連合軍は、府内上原館で大友義統(宗麟の子)と合流し、鶴賀城の麓の戸次川を挟んで、島津家久と対峙しました(写真⑧)。ここでどう戦うか軍議を行いますが・・・まとまるわけがありません。それもそのはず、秀久・元親・存保は、前年までの四国攻めでは、いずれも敵同士だったからです。

元親が関白様の指示を仰ぐようにと止めたにもかかわらず、秀久は全軍に対して川を渡り島津軍を攻撃するよう命令を出します。そこを家久は得意の「釣り野伏せ」で撃滅! 仙石秀久は長曾我部軍・十河軍を見捨て、何と海を渡って勝手に四国へ逃げ帰ってしまいました。そして元親は愛する嫡男の「信親」を失ってしまいます(写真⑨)、

鶴賀城は訪れる人も少ない(=行きづらい)場所ですが、利光宗魚の墓が残る「成大寺」(写真②⑦)から登城すると、途中滑りやすい所もありましたが、本丸まで30分程で登る事ができました。途中には「のろし台」や「倉庫跡」「堀切」「切岸」「畝状竪堀」が、今でもとてもよく残っています(写真⑤⑥)。

この大惨敗に秀吉は激怒します! 軍規違反の仙石秀久には、讃岐を召し上げて改易し高野山へ追放しました。そして関白秀吉自ら九州へ出陣して島津討伐する事を決意し、大納言秀長にその準備を命じます!

もしよければ下記アドレスのYouTubeで、「南こうせつ」さんの歌を聴きながら読んで頂ければ幸いです。変な昭和おやじの長い投稿で、どうもすいませんでした~!

https://www.uta-net.com/movie/50043/
次は、秀長軍九州上陸の地(豊前松山城)へ続きます。
 

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イオ

鎌倉期以来の遺構が良好に (2026/03/01 訪問)

有田川中流域の河岸段丘上に築かれた城館で、鎌倉期から南北朝期にかけては湯浅党他門・藤並氏の城館でしたが、湯浅氏が南朝に与して没落すると藤並氏も勢力を失い、戦国期には堅田(片田)氏が城主となったようです。

城跡南辺の堀跡に設けられた見学者用駐車場から登城開始。駐車場脇には説明板が立てられています(北辺の堀の外にもあります)。藤並城は単郭方形の城館で、城内の北半分はみかん畑になっていますが、外周の土塁と堀は良好に遺っていて、南東隅の開口部は虎口だったと推定されています。虎口から城内に入って、外周の土塁と堀を東辺から南辺まで反時計回りにひとめぐり。北辺から北西隅にかけての土塁と堀は特に状態が良く、土塁に登ったり堀に下りたり、存分に堪能させてもらいました。西辺から南辺にまわると土塁上に小さな説明板があり、南辺の土塁は鎌倉期に築かれ、室町期と戦国期に改修されていることが発掘調査により確認されたんだとか。15分もあればひとめぐりできる小さな城館ですが、鎌倉期以来の遺構が良好に遺っており、大いに見応えがありました。

なお、藤並城へは集落の狭い道を抜けて行く必要がありますが、駐車場のある城跡南側の道へは車では東側からしか入れない(西側からは狭すぎて無理)のでご注意を。案内表示は随所にあるものの、本当にここを曲がって大丈夫なのか? と集落内を何度も行ったり来たりさせられてしまいました…。
 

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にのまる

お城フェスのあとで。 (2026/08/10 訪問)

大阪・お城フェスのあと、周辺のお城をいくつかまわりました。
はじめに向かったのが三津寺砦です。大通り沿いのビルと一体化しているお寺でした。ビルの中にはシティホテルもあり、ここに宿泊すればお城に泊まったことになるのかな?と思いましたが、お値段を調べてみると私の定宿の3倍くらいでした。

街中でも真夏は水分補給は必須。自販機やコンビニがそこらじゅうにある安心感。ありがたいです。

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赤い城

建勲神社と船岡山公園 (2026/07/18 訪問)

地下鉄北大路駅からバスに乗り換え建勲神社前で降ります。
最寄りは船岡山となります。

建勲神社は織田信長を祀り、敦盛の歌碑が設置されていました。
船岡山城はこの背後の山上を主郭としています。
主郭からは京都市内、また五山の送り火の左大文字を望みます。
広く削平されていますが遺構はなさそうです。

下山は船岡山バス停方面へ、途中に横堀を見ることができました。
意外と良好に残っていました。

応仁の乱で西軍が陣を置いた場所だったことからこの周辺は西陣と呼ばれています。

【見どころ】
 ・横堀
 ・眺望

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