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朝田 辰兵衛

うふふ… (2026/07/10 訪問)

長崎県では雨が多いのに,隣の佐賀県では猛暑に見舞われることが多いです。この日の気温は37℃でした。暑熱順化と佐賀県の空気感に順応するため,JR牛津駅から徒歩。約30分で到着。とくに迷うこともありません。ウォーミングアップに最適です。

撮れ高が少ないので,ここ3年連続で食事をしている「うふふ」の和風ハンバーグ定食を。JR佐賀駅舎内にあります。
佐賀で驚いたのが,新潟県の岩塚製菓が販売している「味しらべ チーズあじ」が【315円】だったこと。新潟市内のスーパーではだいたい【178円】が相場です。ほぼ倍近くて…😨

そうそう,トクさんの八代情報ありがとうございました。
先日,九州新幹線復旧と書き込みましたが,まだだったんですね…。たしか,臨時便に殺到したと記憶しておりましたが…。
引き続き,情報いただけると助かります。

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イオ

北側の登城道を推奨 (2026/02/15 訪問)

南北朝期に関氏一族の峯政実が築いたとされ、峯盛祐が長島一向一揆との戦いで討死して峯氏が滅亡すると岡本良勝が城主となりました。賤ヶ岳の戦いの前哨戦では滝川益重の攻撃を受けて落城し、大軍で奪還に押し寄せた羽柴秀吉軍に頑強に抵抗するも兵糧が尽きて開城。織田信雄の城として家臣の佐久間正勝が入りました。秀吉と信雄が不和となると秀吉の命を受けた蒲生氏郷らに攻められて落城。その後、廃城となったようです。

峯城に続いて古城に行くこともあり、ぴーかるさんご案内の柴崎公民館の駐車場に駐めさせてもらって、北側の登城口から登城開始。ソーラーパネルを横目に進んだ先の墓地から案内表示に従って山中に入ると、かんざし井戸と呼ばれる石組の井戸があります。手書きの説明板によれば、峯城の落城時に城主の奥方が金のかんざしを付けて入水したと伝わるのだとか。かんざし井戸から登城道を進んだ先に枡形虎口があり、虎口を抜けると北尾根の曲輪群が東西に連なっています。曲輪群の西端で折り返して本丸へ。

案内表示に従って南に進み、虎口を抜けたところが本丸北の曲輪群で、西辺の土塁にもうひとつの虎口が開口していました。北曲輪群と本丸との間は堀切が尾根を遮断し、堀切の先には本丸西辺の土塁が続いています。本丸西側に広がる帯曲輪から見上げる土塁はかなりの高さで、北西隅には堀切を見下ろす櫓台があり、西辺中央部の幅広くなったあたりは天守台と伝わります。(伝)天守台の周囲にはわずかに石垣が遺り、瓦片が散乱していました。本丸の東側に虎口があるようなので土塁を下りてみましたが、笹と倒木の激ヤブ状態だったため探索を断念…。土塁沿いに南から東に折れて進んだ先に南東隅の虎口があり、虎口脇の土塁突端には櫓台が設けられていました。

本丸南の曲輪群を見た後、来た道を戻るかこのまま南の登城口に向かうか迷いましたが、南の登城口脇にある説明板を見ておきたかったのでそのまま進みました。しかし、概ねよく整備されていた北側の登城道に比べて南側の登城道は藪化していて、藪を避けようと谷側に下りていくと今度は泥濘にはまり込んでにっちもさっちも…。結局、登城道に戻って藪を突破することで登城口にたどり着き、説明板も確認できましたが、この後に行くつもりの古城へは遠回りになった上に、藪漕ぎをし足もとをドロドロにしてまで説明板を見なければならなかったのかというと…。登下城には北側の登城道からの往復をおすすめいたします。2月でこの状態ですからね。

…と、本丸や南登城道など整備が追いつかない箇所もありつつも、それ以外はおおむね良く整備され、高く急峻な土塁、虎口と虎口脇の櫓台など見応えのある城でした。
 

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todo94

北海道のチャシ・陣屋めぐり⑦ (2026/08/11 訪問)

北海道4日目は、旭川からレンタカーでチャシをめぐります。旭川から80km以上離れている上名寄チャシを目指しました。開発局の表示は6/14。零汰さんの投稿にある4/14より2大きい数字ですね。横堀のある方まで踏み込まずに帰ってきてしまったということです。あまり未練はありませんけれども。ちなみにこのチャシは名寄市ではなく下川町にあります。市町村訪問ポイントを稼ぐことができました。グーグルマップに載っているモニュメントもチェックしました。名寄市では北国博物館に寄っていきました。除雪の編成・キマロキの屋外展示に萌えました。士別市、剣淵町では道の駅、和寒町では三浦綾子の旧宅を移築した塩狩峠記念館、比布(ぴっぷ)町では、比布神社に立ち寄って、市町村訪問ポイントを荒稼ぎしてしまいました。

今回利用したのは、7日間有効の北海道東日本パスです。自宅と羽田空港の往復にも使いました。特定特急券を購入すれば、新青森-新函館北斗間は新幹線にも乗れますし、IGR岩手銀河鉄道、青い森鉄道にも乗れるので、片道は鉄道、片道は航空機という旅程も考えられます。北海道普通列車の旅には青春18きっぷより安くて使い勝手の良い北海道東日本パスが断然、お薦めです。1週間のまとまった休みをとれるかどうかが問題かもしれませんが、7日間使い切らなくても青春18きっぷより安いので購入する価値はあると思います。私も8月8日は根室半島をレンタカーで回ったので鉄道は全く利用しませんでした。

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赤い城

秀忠の陣城 (2026/07/16 訪問)

夏休みが終わったのでレポートを再開します😊
大阪出張中の城めぐりです。
午前中の仕事を終え、午後の予定まで時間があったので立ち寄りました。
この日は鶴橋駅から徒歩で20分。
鶴橋駅前の商店街は西のコリアンタウンで美味しそうなキムチが並んでいました。

岡山砦ですが現在は御勝山公園になっています。
大坂の陣で徳川秀忠が陣を置いた場所です。
元は古墳ですが前方後円墳の前方部分は道路の造成で消滅、後円部分のみが残ります。
ただし柵で囲まれているので中には入れません。
歩道橋から見おろすことはできますが城の遺構は見られませんでした。
徳川方の勝利にちなんで地名が岡山から御勝山に変わったそうです。

帰りは最寄りの桃谷駅まで徒歩で15分くらいでした。

【見どころ】
 ・古墳

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つちのこ

ハイキングツアー参加 (2026/08/15 訪問)

賤ヶ岳周辺の山城は初訪問のため、今回奥びわ湖観光ボランティアガイド協会さん主催のツアーに参加し登城しました。
ガイドさんからは、各曲輪に残る虎口や堀切について、また山頂から見える柴田軍の砦、佐久間信盛の攻めてきたルート等について分かりやすく説明していただきました。
田上山城では実際に戦闘の舞台ではなかったとのことですが、400年以上経っても綺麗に残っている馬出や横矢桝形から顔を出し、横矢をかけてみる真似などして、当時の兵士の気分も味わえました。

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りょ

遺跡 (2026/08/15 訪問)

朝倉氏関連の遺跡

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りょ

工事中 (2026/08/15 訪問)

耐震工事中にいけば、特別な御城印がもらえる

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たか

南部御城印プロジェクト⑤ (2026/08/09 訪問)

明日の月曜日は御城印発売所の休館日が多く本日は大変です。
金沢柵から一気に鍋倉城に向かいます。

遠野市立博物館にてご城印を購入。
そしてワリイン2つ目!

●根城×鍋倉城『八戸弥六郎直義』
根城南部家(遠野南部家)当主は代々、八戸弥六郎を名乗り、藩の筆頭家老を務めた。直義は元和6年(1620)分家新田家から養子に入り家督を継ぐ。寛永4年(1627)藩主の命で八戸から遠野に村替し、藩境警護にあたりながら遠野の礎を築く。

1869年明治時代まで残っていたとは凄い。郭や道なども整備されていてしっかりと堀などの遺構も残っています。
景色が見れる櫓もありますし、散策中のひらけた箇所からも高低差があるため良い景色が広がります。
熊に注意の看板もあるためぐるりと回って退散しました。
ちなみに本丸近く(三の丸)のところまで狭いですが車で上がれて駐車場もあります。

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たか

南部御城印プロジェクト④ (2026/08/09 訪問)

前回は青森方面で活動したので今回は岩手(盛岡周辺)での攻城です。
新幹線で北上駅に行って2泊しながら四方八方攻める作戦としました。

まずはこのプロジェクトでも行き辛い金沢柵です。
後三年合戦金沢資料館へレンタカーを使って向かいます。
目当ての御城印を購入して、ここでこのプロジェクト初ワリインです!
因みに説明はこう書いてあります。

●種里城×金澤城『金澤御先祖津軽』
津軽藩の官撰史書「津軽一統志」附巻によると、種里城主南部光信を始祖とする津軽家の御祖先は、出羽仙北金澤に所領を有していた金澤右京亮だとされている。金澤右京亮の子孫は、下久慈を経て津軽に移ったという。

あと2城ともワリインがあるようなのでこれは相手側に行ったときの楽しみにしよう!

実際の城址にも向かいました。
資料館の女性が地図を使って道を教えて頂きその通りに行ってみました。
駐車場にトイレがあり入り口のところに石碑がありました。
「納豆発祥の地」
確か昔話かなにかで戦の時に兵隊さんが煮豆を持って出陣して、発酵してしまい納豆になった話を思い出しました。
わたしの大好きな納豆の話はここだったのかと感動しました。

本丸や北の丸、二の丸など綺麗に整備されておりとても美しい。
金澤八幡宮に兜杉など見ごたえもあります。

最後に西の丸址にも行ってひらけたところから景色を撮って攻城終了としました。

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姫街道

野面積みに親近感 (2026/08/13 訪問)

天守と大手から天守に続くつずら折りの城道の石垣が、野面積みが多く、地元の浜松城に似ていて親近感を感じた。
堀幅が広く、城がより大きく見えた。

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トク

地震から3週間経った八代城 (2026/08/16 訪問)

令和の熊本地震(7月28日)から、3週間が経った八代城を訪れました。通行止めだった高速道路「松橋~えびの」間が開通したので、車で行きました。あんなに大きくずれた橋桁が、たった17日で修復できるとは、日本の道路技術には驚きです。しかし、九州新幹線と在来線はいずれも「熊本(宇土)~水俣間」で、未だ不通ですので御注意下さい。

八代ICを下りて西へ10分、八代城へ到着しました。しかし・・・そこで見た光景に、私は唖然としました。ここは昨年も訪れたのですが、その時とは全く様相が変わっていました。もう見るに堪えない光景です。石垣は北東隅部から欄干橋(市役所前)までの約200mに渡って崩れ落ちていました(写真②③④)。南側の石垣にも崩落がありました(写真⑤)。また本丸に鎮座する八代宮は、ぐしゃりとつぶれていました(写真①)。幸いにもけが人はいなかったそうです。国の名勝である「松濱軒」も1階はつぶれ半壊状態で、その正門と資料館は、完全に倒壊してがれきの山になっていました(写真⑥⑦)。興長を祀る「松井神社」もつぶれていました(写真⑧)。西側などの残った石垣も遠くから見ると一見無事そうですが、近づいてよく見ると、はらんでいたり石のずれが何カ所もあるので、再び地震がきたら崩落する危険があるように感じました。

八代城は、加藤忠広(清正の子)が家老の加藤正方に命じて築城した城で、細川時代からは家老の松井氏が代々城主を務めた、築城400年を迎えたばかりの続100名城でした。それが400年後の今になってこんな事になるとは・・・、360年間存続し続けた松井家の別邸(松濱軒)も、今になってまさか壊れるとは・・・。復旧には相当な時間(年月)がかかりそうな気がします。

スタンプ場所の「お祭りでんでん館」は休館中で、今訪れてもスタンプは押せないようです。街のあちこちはまだ断水しています。道路は段差や亀裂が多く、また倒壊したままの家も多数ありました(写真⑩)。ブルーシートがかけられた家も多く、避難生活を送られている方がまだ大勢おられるようです。1日も早く復旧され、皆さんが元の生活に戻られる事を願うばかりです。
 

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イオ

とことん亀山城(東三之丸周辺) (2026/02/15 訪問)

(続き)

東三之丸(亀山市東丸町)
東三之丸は本多期に二之丸東側に整備された曲輪で、二之丸側を除く三方を外堀が囲み、東に大手門、北西に江ヶ室門が、南東隅には東大手櫓が設けられていました。県道沿いの駐車場には東三之丸跡の標柱が立てられており、周囲にはいわく有りげな石が並べられています。標柱の裏の説明書きを見てみると、発掘調査で出土した大手門石垣の石材なんだとか。東三之丸は重臣の屋敷地だったようで、標柱の道向いには家老名川大右エ門氏家屋敷跡の石碑も見られました。大手門は大手門櫓と大手脇櫓からなる枡形門でしたが、遺構は失われて説明板と錆びた標柱が立てられているのみです。大手門は東海道に直結し、門を出たところには高札場が設けられていました。高札場ならぬ酒屋さんの広告場の脇に高札場の説明板が立てられています。そのほか、江ヶ室門跡に標柱が立てられていたようですが、見当たりませんでした。

江戸口門(亀山市本町)
板倉期に築かれた惣構東端の城門で、番所を設けて東海道の往来を監視していました。土塁と土塀で区画された3つの枡形と平櫓を擁する厳重な造りだったようですが、遺構は失われ説明板が立てられているのみです。

遍照寺(亀山市西町)
二之丸御殿の式台・書院が本堂として移築されています。鬼瓦に石川氏家紋の笹竜胆紋が、千鳥破風には上り亀、下り亀の装飾瓦が見られます。

…ということで、亀山城をとことんめぐってみましたが、明瞭な遺構は数えるほどながら、主なところにはほとんど標柱や説明板が立てられていて、いくつかの復元整備とあわせて期待以上に見応えがありました。次の機会には今回見られなかった亀山市歴史博物館と加藤家屋敷、そして本丸多門櫓内を見学したいものです。
 

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つちのこ

坂本城周辺 (2026/08/14 訪問)

本丸跡石垣を見ようと、県道脇のあぜ道を進んでびわ湖にたどり着きました。が、水位が高くちょこっとしか見れませんでした。
その県道を歩いて気づいたのは、本丸があったと思われるエリアの県道(歩道部分)は赤く塗装され、桔梗の家紋が施されていたこと。
城址公園の光秀公石像にも桔梗の花が添えられていました。地域に愛される御殿様ですね。
城門が移築されている聖衆来迎寺、西教寺も行きました。西教寺は境内に風鈴が施され、多くの方が参拝される映えスポットでした。
三ノ丸跡にも行ったのですが、今は近づくことができません。一番近付けるであろう道にも「私有地のため通行禁止」との張り紙がありました。

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todo94

ゴールデンカムイの聖地巡礼 (2026/08/10 訪問)

桂ヶ岡砦からは、延々と歩いて、計算通り9時前に博物館網走監獄に到着です。2年前、ゴールデンカムイの聖地巡礼した際には、網走に足を伸ばすことができなかったので、今回は外さないよう、網走のホテルを半年以上前に押さえておきました。第4舎房の天井には、ゴールデンカムイの白石由竹の名前の由来となった脱獄王・白鳥由栄もいらっしゃいます。時間にはゆとりがあったのでじっくりと映像も含めて見学することができました。駅に向かう途中には、本物の網走刑務所がありますのでこちらにも寄っていきます。網走監獄で紹介されていた横須賀刑務所製作の「ブルースティック」を試しに購入しておきました。この日の午後は、石北本線を乗り通し、旭川にアクセスしました。最高気温20℃未満の網走と違って、旭川は普通の暑さでした。

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天守無しがアツい

白旗神社 (2023/02/05 訪問)

藤沢御殿…私も詳しくは知らないのだが…現在の藤沢市民病院あたりに存在したらしい

市民病院を撮影した事はないが…その付近にある伝義経首塚および首洗い井戸

あと白旗神社の境内およびそこで授与した御朱印…ならフォトにたまたま残っていたので…ここに紹介します

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T-Shionoya

ハイレベルな玄蕃尾城 (2026/04/05 訪問)

4月初旬に訪れた1つ目の城は、福井県敦賀市と滋賀県長浜市の県境に位置し、技巧的な縄張で知られる玄蕃尾城。

近江国の柳ケ瀬から敦賀へ抜ける刀根越え久々坂峠の北尾根上、東の眼下には北国街道が通る標高約450mの交通の要衝に築かれた城。

1583年の賤ヶ岳の戦いにおける柴田勝家の本陣であるが、築城時期と築城者は不明。
越前国統治のための交通政策、もしくは賤ヶ岳の戦いに備えて柴田勝家が築いたとも、それ以前に朝倉氏家臣が築いたともいわれている。

現在は、堀と土塁が良好に残る続100名城の城跡。

訪問日は大雨の翌日で、急峻な地形を感じながら駐車場に到着。
峠から階段を上り切ると尾根上は割と広く、城外のここまで柴田軍の駐屯場所だった可能性もあるでしょうか?
その平らな尾根上を進んで行くと霧の中から人工的な土の造形が出現し、南郭と虎口郭の連結部や、北郭から馬出を挟んで主郭北側虎口に到る構造は最高に魅力的。

要塞感の高いハイレベルな防御システムを備えた玄蕃尾城が、私の城郭巡りの213城目となりました。

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ryu

杷木神籠石 (2026/03/11 訪問)

九重スキーの帰りに探訪。

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ヒロケン

五重六階の天守台 (2026/08/10 訪問)

神戸城址は、現在本丸部分が公園となっており、五重六階の天守を支えた天守台が残っています。丸みを帯びた川石が野面積みで積まれているのが特徴です。また、天守台の構造から見ると付け櫓がある天守だったようで付櫓から天守に入る構造であったと思われます。
また、本丸の周りにには堀の一部が残されておりますが、神戸城の縄張り図を見ると往時の堀と比べ随分と幅が狭くなっているように思われます。

神戸氏は織田信長の伊勢侵攻の折、信長の三男信孝を婿養子に迎え信長と和睦。織田信孝は神戸城の大改修を行い五重六階を擁する城を完成させています。信長公が本能寺の変で倒れた後は、兄の織田信雄によって信孝公は自刃させられた後、神戸城主は目まぐるしく変わり滝川雄利→一柳直盛→石川氏三代→本多氏と変わり明治維新を迎え廃城となっています。

他にも神戸城の遺構としては、江戸時代に建てられた?鐘楼が蓮華寺に残っているそうですが、次回神戸城を訪問する際に見学したいと考えています。

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吉良氏をはじめ、今川氏、一色氏という名高い一族は、全て西尾市が発祥の地であることは歴史的に意義深いところです、と (2026/08/13 訪問)

 城びと先人の投稿を見て、行きたい城にノミネート。しんちゃんさん、カズサンさんは、近場なことからか何度も訪問され、整備や公開の進展が追えます。屏風折れ土塀が基礎の土塁まで三角に飛び出しているのを実際に見て、「ほっほう」。二の丸の天守台外下に「緊急防災対策河川整備」の看板がありました。二の丸の西側の川の整備と河岸の公園化が進められています。二つの丑寅櫓再建、鍮石門再建、天守台整備などどんどん手を入れているのですね。今回は、「法人事業税超過課税」もアピールされてます。
 資料館に、「吉良荘の成立:..吉良氏をはじめ、今川氏、一色氏は全国的にも名高い一族で、全て西尾市が発祥の地であることは歴史的に意義深いところです」と。室町幕府の三管領四職の中の斯波、畠山、細川、一色、山名などは、室町時代になって急に表舞台に現れてきて違和感があったのですが、吉川英治 私本太平記に、全て、各地に土着した足利一族であることが書かれていて、納得しました。足利尊氏は、各地の一族を従えて大勢力になったのですなあ。今川、吉良もその流れです。因みに、四職の赤松と京極(佐々木)は、足利一族外です。

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下社城(柴田勝家生誕の城)と一色城 (2026/08/15 訪問)

 柴田勝家生誕の城と伝わる下社城とその祖父の城一色城へ行って来ました。両城とも名古屋市名東区にあり城びとには未登録の城址です。以前にも投稿したことがありますが、近くに行く機会があり寄ってきました。

下社城
 柴田勝家は享禄3年(1530年)にこの城で生まれたと伝わっています。
天正3年(1573年)に柴田勝家は越前の地を与えられ北ノ庄城を本拠地としました。この時に下社城は廃城になったようです。
城址には明徳寺が建ち柴田勝家公誕生地の石碑、説明板、城址碑がありますが遺構はありません。小高い丘にあり要害の地であったと思われます。

一色城
 柴田勝家の祖父と伝わる柴田源六勝重が15世紀末に尾張守護・斯波氏の命で今川氏の進行に備えて築いたとされる城です。
神蔵寺と西一社貴船神社周辺の高台にあったとされ遺構は残っていません。神蔵寺に柴田勝重の墓があります。 この神蔵寺は柴田源六勝重が創建したと創建五百周年碑に記載されています。

 柴田源六勝重は一色氏の家臣と伝えられ領国の越後新発田から尾張の斯波氏を頼って来たという説があります。また日本城郭大系には斯波高経四代の子孫義勝が越後新発田城主となって以来柴田を姓にしたといわれ、一説には義勝の孫が勝家に当たると伝えられているとの記載がありました。諸説あるということで詳細はわからないということでしょう。新潟県の新発田出身で、同じ発音の柴田姓になったことは確かというところですかね。

一色城は地下鉄東山線一社駅から徒歩約9分です。そこから下社城までは徒歩約15分でした。

 

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