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ブレンダ

天守 (2021/03/07 訪問)

天守の看板

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hata

日本100名城 No,030 桜の名所だが、普段は静かな公園です。 (2011/07/16 訪問)

■100城の18城目(初登城)【兜山城】
☆信越1泊2日城攻めの1城目(高遠城→松本城→松代城→春日山城→上田城→小諸城)
【移動手段】車:諏訪から1.0時間強
【駐車場】高遠町歴史博物館前駐車場(無料)
【スタンプ】高遠町歴史博物館○
【天気】快晴
【印象】☆ 公園ですね。絵島囲み屋敷が印象的です。
【お土産】なし
【朝食】デニーズモーニング。
【同行者】姫、息子、犬(柴)
【他】深夜東京発にて諏訪湖SAで仮眠し、下諏訪温泉(共同浴場220円!→諏訪大社下社秋宮(参拝、御柱見学)→朝食(デニーズ)→歴史館。開館時間(9時)前に到着しましたが、スタンプは玄関前の台に置いてあり押印出来ました。囲み屋敷で絵島が28年間幽閉されたとのお話。桜で有名ですので100名城達成後は桜100選めぐりかな?気が早い!
【柴犬のクウ】草が多い公園は良いね!

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ヒロケン

中世の巨大山城 (2021/02/20 訪問)

龍王山城は南城と北城に分かれており、二つの峰の最高所に築かれている中世の巨大山城です。築いたのは、筒井氏をも凌ぐと云われた十市遠忠氏で大和5大豪族の一家です。十市氏は、筒井氏と松永氏の勢力争いに翻弄され、1568年宇陀秋山城の秋山氏に攻められ十市遠勝はほとんど抵抗することなく、龍王山城を捨て十市城へ逃げています。
その後は、しばらく秋山氏が居城しましたが、織田信長の大和侵攻後、信長の命により破却されました。

天理市から国道25号線で天理ダムを目指し、県道247号線に入り、2kmほど南下すると龍王山への林道があります。更に林道を1km程進むと採石場みたいなところがありますが、構わず採石場みたいなところを1km程進むと右手に龍王山城の石碑があります。(石碑がある場所が龍王山北城の入口となります。)石碑をそのまま、進んで行くと龍王山南城の登城口があります。南城・北城ともに駐車スペースがあり、ちょうど中間地点にトイレも完備されています。遺構としては、曲輪・土塁・空堀・石垣・畝堀が残っています。

龍王山城へは4年ぶり3度目の登城で、前回見ることができなかった石垣を確認すべく登城しました。(この日、中世の大和三大山城と云われる信貴山城・龍王山城・椿尾上城を攻略。信貴山城と椿尾上城は初登城‥こちらの方がメインかな(#^.^#))
龍王山山頂付近まで車で行くことができる南城を先に散策し、(多くの登山客で賑わっていました)後から北城を攻略。北城の方が散策する時間がかかるのでこのルートをお勧めします。北城は規模も大きく遺構も結構残っているので、絶対にお勧めの城跡です。
欲を言えば、もう少し見学しやすく整備していただけたらと思います。

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todo94

はるのの湯 (2021/02/27 訪問)

高知県の城では説明板があるだけでも画期的なことなのですが、そこに載っている精細な縄張り図も他ではまずお目にかかることがないかと思います。現在地の表示が縄張り図内に記されていればもっとよかったのですが。

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しげさん

城趾風景 (2021/02/27 訪問)

巨大な土塁はお見逃しなく。

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しげさん

駐車城南側の土塁 (2021/02/23 訪問)

駐車場の南側は城山公園の範囲に入らないみたいですが、曲輪跡だと思われます。

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しげさん

小高神社 (2021/02/27 訪問)

本丸跡に鎮座する小高神社

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昌官忠

利根川沿日帰り攻城⑧:芝原城(中峠城) (2019/05/25 訪問)

中沢城から転戦。車で60分くらいで着きました。
古利根公園入口付近(35.874803、140.075894)に路駐して攻城しました。

1541年(天文10年)に初代河村出羽守勝融が中峠城に入り、1546年(天文15年)には第2代河村修理之亮が城主になります。
1564年(永禄7年)には修理之亮が国府台で北条氏に敗れて戦死し、河村氏は後北条氏の配下となります。
第3代当主は河村山城守、第4代は出羽守で、1590年(天正18年)の小田原城征伐の際には小田原城中に詰めていたが、留守中に中峠城が陥落しました。
その後、同年12月には小金城主の武田信吉が治め、1593年(文禄元年)には徳川家康の料地となり、名前が中峠村(又は芝原村)となりました。
利根川南部の河岸段丘上に築かれた城で、現在は宅地化されていますが一部が自然公園「自然観察の森」として整備されており、空堀や土塁などの遺構を確認することができます。
なお平将門が築城したという伝説もありますが詳細は不明です。

城址の一部が「古利根公園自然観察の森公園」になっているとのことなので、公園入口から攻城しましたが、城址かどうか不安で歩いていると説明板発見。
説明板はあったが、縄張りがよくわからなかった。
攻城時間は15分くらいでした。

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昌官忠

利根川沿日帰り攻城⑦:中沢城 (2019/05/25 訪問)

多古陣屋から転戦。車で30分くらいで着きました。
中沢城址説明板前の空スペース(35.722548、140.319379)に路駐して攻城しました。

中沢城は千葉氏の支城として築かれたと考えられています。
城主には千葉氏の庶流である三谷氏が推定されていますが詳細は不明です。
城趾は農耕地になっていますが、地元で「城山(じょうやま)」と呼ばれる山には土塁や空堀などの遺構が残っているそうですが、確認できませんでした。なお、登城口に説明板があります。

案内板の裏が登城口だと思いますが、藪で塞がれ突入する勇気がなく説明板の写真を撮って撤退しました。
攻城時間は5分くらいでした。

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茶々丸 (2021/03/06 訪問)

 伊豆急下田駅から東海バスに乗り約17分で箕作郵便局にて下車。深根橋を渡ると堤防道路の次の細い道の入口に折れて倒れている深根城址の石柱があります。そこから土蔵の壁に設置してある案内板の所までは約10分くらいで行くことができます。遺構はよくわかりませんでした。折れている深根城址の石柱の西側に行くと北条早雲に滅ぼされた足利茶々丸夫妻の墓の入口を示す石柱が立っています。
ネットを見ていると詰めの城と思われる遺構が西方奥にあるとの情報がありましたが、場所がわからず散策していません。

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TMN97

山形城址 (2021/03/06 訪問)

山形城址

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pascal

長野(工藤)氏重臣の城 家所城(三重県津市美里町)➡城びと未登録 (2019/02/26 訪問)

 伊勢中部に勢力を張った長野(工藤)氏の属城:家所城です。
城びと未登録ながら遺構の残存状態も良く、見どころの多い城址です。


【アクセス(車)】
 津市美里町の広域農道:グリーンロードの辰ノ口の交差点を東に折れ、県道411で300m走った“辰水小学校北”の信号を南に入ると、左手に見えて来る丘が家所城址です。
向かい側の辰水小学校入口に駐車スペース(児童送迎用?)があります。
 城址への入り口は、城山の南側に回り込んだ民家の横にあり、狭い歩道と案内看板があります。


【城の歴史】
 家所城は貞治元年(1362)、家所祐歳により築城されました。
長野氏は源頼朝の側近だった工藤祐経の三男:祐長が伊勢国二郡の地頭に任じられ、安芸郡長野郷に移り住んで“長野氏”を名乗ったのが始まりです。
 家所祐歳は長野氏6代:藤房の三男であり、家所の近郷24ヶ村を貰って家所氏を名乗りました。
以後8代にわたり、長野氏の重臣を務めた訳ですが、『勢州軍記』によると、家所氏の兵力は500人(騎馬50、徒歩250、小者200)だったそうです。
 家所の地は、南の北畠氏領だった一志郡に境を接しており、南北朝~戦国時代に両者は激しく戦っていますから、対北畠の尖兵…という位置付けだった様ですね。

 織田信長の侵攻に際しては、家所氏は抗戦派だった様で、結局は織田信包ではなく、織田信雄の傘下に入っています。
しかし、その後の家所氏の消息については不明で、信雄の羽柴秀吉との抗争の中で没落してしまった様ですね。


【見どころ】
 中世の築城らしく、土塁を巻いた広い主郭があり、居館からスタートした城の様です。
周囲には大規模な横堀が掘られ、東西の尾根上には曲輪群が幾重にも付加されおり、最後には菩提寺(什心寺)も郭内に取り込まれた様で、主郭の物見台下からは寺に向けて“抜け穴”も掘られていた様です。
市の史跡だから保存整備も限定的ですが、時代が進むに連れて機能を強化する進化の具合が良く見られる城です。

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しげさん

本丸跡 (2021/03/06 訪問)

草刈りがしっかりなされているので、お城の形状が良くわかります。

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しげさん

お城入口 (2021/03/06 訪問)

本丸跡に向かう参道です。傾斜が結構キツいです。

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カルビン

勝手に第二次籠城企画 延長戦 [上田原古戦場] (2015/04/30 訪問)

投稿サボり期間長かったのでもう1本upします。


今回は武田晴信が二度に渡って敗戦した(川中島合戦の5回の戦いも結果全て武田晴信の勝ちと言われている中で)VS村上義清との合戦の1敗地・上田原古戦場になります。

それまで負け無しだった武田晴信が軍師・山本勘助不在の際に村上義清を甘くみて戦いを挑み、結果大敗したとされる上田原合戦。

この合戦で晴信は重臣だった板垣信方と甘利虎泰を始め多くの味方を亡くしただけでなく、諏訪や佐久地方の豪族からもソッポ向かれてしまい、後の塩尻峠での小笠原長時との戦いに勝つまで再浮上出来ない程のダメージを受けた訳です。

ただ、武田信虎の家臣だった主だった重臣からこの合戦後に若い家臣を重く登用するように変わった(高坂昌信や秋山信友等)事から、ワザと負けた説も出た程ですが。。。それにしても武田軍の被害大きすぎるのでその説はどうかと・・・


上田原古戦場跡地自体には遺構は無い(近場で利用されたお城や砦は除く)ですが、武田・村上氏両配下の武将のお墓が知っているだけで4ヶ所(無名戦士の墓を含めると5ヶ所)はあるので、訪問された際には上田城を始め周辺の史跡と含めてまとめて訪問されると良いでしょう。
(上田原古戦場だけで結構な範囲なので、車での訪問推奨です)



大河ドラマ「風林火山」の上田原合戦のシーンで、板垣扮する千葉真一さんが討たれた際の晴信役だった市川猿之助(当時は亀次郎)さんのセリフ
「いーたーがーきー!」
が超棒読みでワロタのを刻銘に覚えております(爆笑)

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カルビン

勝手に第二次籠城企画 延長戦 [姉川古戦場] (2015/03/20 訪問)

期末のごたごたで投稿サボっていたので、久しぶりにupします(汗)

今回は織田・徳川軍VS浅井・朝倉軍の対決した姉川古戦場になります。


そもそも浅井の勢力範囲の為か、多くの古戦場に遺構的なものが残っていないのに対し、浅井氏配下に関する史跡が多く転在しており、何も無かった感を味わう事は無いと思います。
なにより解説が充実しているのが目につきました。

一応近鉄バスが走っている様ですが、近くに史跡多い(横山城や石田三成誕生地等)ので、車での訪問が宜しいかと。
(自分もこの時は長期遠征で車でやってきました)

当初兵数の関係から織田信長は織田VS朝倉、徳川VS浅井を想定していたようですが、これがそのまま履行されていたら歴史が変わっていたかも?って歴史研究者達が推測している様なんですね。

本当ならここ見学した後に勢いで小谷城や虎御前山砦を見学するのが多くの方の王道ルートなんでしょうが・・・実はこの1ヶ月前に電車で小谷城攻略したばかりだったんですw
しかもその時は雪の影響で浅井長政自刃の地等、雪の影響で全部見切れなかったのが至極残念だった訳で。。。
(雪に埋もれながらも何とか浅井長政の親父がいた京極丸までは突撃したんですけどね。。。それ以上は無理でしたねorz)

同様に虎御前山砦も雪の為に途中断念しているので、ここは他の未訪問史跡の見学を含めて是非リベンジに来て見たいです。




緊急事態宣言延長はここ最近の人出状況から見ていたしかたないかと。。。だって仕事と日用品や食事の購入以外で外出しない自分から見てもどう見ても不要不急で出歩いている人多く見られますからね。

みんなでもっと気を引き締めないと一向に感染者減らないし、お城巡りに行きたくても行けません。。。頼むよ、本当に(ΦωΦ;)

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カズサン

長篠城眼下、長篠戦が甦って来ます! (2021/03/04 訪問)

 城びと登録未踏城、山城登城を当初より体力的にパスしてましたが皆さんの投稿と城郭放浪記さんの案内で砦の近くに林道と駐車場在りとの情報が有り三河塩瀬城初登城の後R257号線を引き返し長篠方面へ移動。
 車で移動 ルートはR257の有海信号交差点を直進南下、新東名を潜り県道433号線を新東名沿いに走り、また新東名を潜り飯田線を渡り豊川に架かる牛渕橋を渡ると突き当り集落に入る道を細いですが道なりに進むと本久集会所(新城市乗本新井貝津50-1)に当たります、その手前集会所倉庫横に案内看板案内図がり舗装された林道を約900mと小さな看板、細く急ですが舗装され道は良い車の距離計を見ながら駐車場に到着。
 砦の駐車場、林道を片側広くして10台位は可能、トイレは有りません。車で行けて大変助かります初登城です。

 鳶ヶ巣砦へは小さ看板で約300mと有り数分で着きます、余湖図コレクションの俯瞰図で辿って行くと、入口に鳥居の有る7曲輪、横を通って堀切の様な縊れた所を通り6曲輪5曲輪へ同じ様な平坦な曲輪と見えましたが6と5の間に溝?土居?ほ凹みと土盛が有り区別してる様子、5曲輪が高所で鳶ヶ巣山、ここに慰霊石碑、祠、鳶ヶ巣砦戦の解説板、枯れた天正杉展示、尾根伝いに下って4曲輪、3曲輪此処に来ると長篠城が眼下に一望、2曲輪、先端の1曲輪円墳の様な土盛、現在墓地、集落から登って来れる道に繋がってます。
 3曲輪と2曲輪は南西長篠城方面に数段の曲輪が有る様に見えますが後世の段々畑かどうかは分かりません。 降りて来た道をまた昇るのがキツイ、でも長篠城を見ながら武田氏の数陣も北側の見え戦が甦って来ます、武田氏は高みに陣を敷きながら10日近く囲み攻め落とせなかったのか?と思ったりしたり。

 歴史的には先達の方が詳しく投稿されてますので鳶ヶ巣砦で簡単に 天正3年(1575年)武田氏により築かれ長篠合戦の陣城の一つで武田信実(信玄弟)小見山信近が陣を守る、織田・徳川軍が援軍に来ると武田氏の本体は城の押さえ残して設楽ヶ原へ戦場を移す。残った兵に対して徳川氏方の酒井忠次軍が背後から攻め武田信実以下打ち取られた、設楽ヶ原合戦の直前との事。

 この後、長篠城、大通寺三陣所、医王寺山勝頼陣所、天神山陣所を巡ります。

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T-Shionoya

忍城訪問 (2004/05/04 訪問)

過去のお城巡りの振り返り、第4段は埼玉県行田市の忍城。

北の利根川と南の荒川(現在の元荒川)によりつくれた氾濫原の微高地群(自然堤防)を利用した城。
現在は水城公園程度ですが、元々は広い沼があり、その水を生活用水や田園に引き入れる拠点にでもなっていたのでしょうか。

交通面では、江戸期は中山道の鴻巣および熊谷から館林・佐野へ向かう日光脇往還の分岐点。
利根川の川俣の渡しを管理(新郷川俣関所)していました。
江戸時代以前は中山道がどうだったかわかりませんが、川越街道(松山から北は現国道407号線)も近くを通っており、きっと古くから熊谷と館林を結ぶルートがあったのでしょう。

そんな地域に室町中期には成田氏が居城しており、山内上杉氏や北条氏に従属。
秀吉の小田原征伐以降は松平氏や阿部氏が城主となり、阿部氏によって江戸期の城郭整備が行われました。
現在の忍城址公園は、その城郭の一部である本丸エリア。
そこに元々中央小学校と水城公園の間にあった三階櫓や、二ノ丸東隅にあった鐘楼が復興されています。

訪問時は、まず水堀を渡って郷土資料館と三階櫓へ。
裏には本丸南側の土塁が残っています。
ほとんど遺構がない忍城ですが、小さなスペースで江戸期の城が感じられました。

続いては城の南西部の水城公園へ。
元々はこの池が城郭一帯に広がり、天然の要害となっていたのですね。

最後はチョット移動し石田堤史跡公園へ。
忍城といえば石田三成の水攻めを耐え抜き、秀吉の小田原征伐で最後まで落ちなかった北条方の城。
攻め手の三成も28kmにわたる堤を5日とか1週間でつくるとは、当時の土木技術の力を感じます。
小田原征伐以前も、忍城は何度も落ちなかった歴史があり、関東七名城の1つにあげられているのですね。

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赤い城

攻めるにかたし・・・ (2021/02/23 訪問)

甲府南ICから近い場所ですが駐車場はありません。
小屋っぽい建物の傍らに碑があり、先に進みます。
突き当りを右に行くと畑となっていて左に登る道を進むと石碑が。
「攻めるにかたし勝山城」と。
武田氏の城ですが、天正壬午の乱の際に徳川氏が改修したとされます。
石碑の先が恐らく主郭ですが果樹園。
堀のようなところもあるものの遺構かどうかは微妙でした。

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hata

日本100名城 No,029 お城に会いたいときは松本城に来ます。 (2011/07/16 訪問)

■100城の19城目(3回目の登城)【烏城】現存12天守の1城目、国宝5城の1城目。
☆信越1泊2日城攻めの2城目(高遠城→松本城→松代城→春日山城→上田城→小諸城)
【移動手段】車:高遠城から1.5時間強(松本市内は渋滞でした)
【駐車場】お城近くのコインパーキング(20分100円)
【スタンプ】有料ゾーンに入ってすぐ右側の管理事務所○
【天気】快晴
【印象】☆☆☆ 何度きても素晴らしい!
【お土産】なし
【昼食】そばの名店「浅田」に向かいましたが時間が遅くなり売り切れでした。前回も売り切れだったので縁がないのかな?朝食を食べすぎて14時に梓川SAでミラノサンドでした。
【同行者】姫、息子、犬(柴)
【他】水堀は穏やかで城が映えます。
【柴犬のクウ】有料ゾーンはワンコは入れない!

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