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山形県の名城巡り最後は (2026/07/19 訪問)

毎月、一つの都道府県の名城を巡る旅も、今回で5回目。
すっかり私のライフワークとして定着してきました。
7月の名城巡りは山形県でしたが、最後に訪れたのが 続日本100名城「米沢城」で現在は「米沢城址・松が岬公園」として整備されています。
上杉景勝が入部してから明治維新まで上杉家の居城として米沢藩政の中心になりました。
また伊達政宗生誕の地としても知られます。
今回も貼った写真に沿って簡単な説明をしていきたいと思います。

① 毎回1枚目は恒例の御城印です。上部の大きな朱印は上杉家の家紋「竹に雀(竹と向かい合う二羽の雀の紋)」です。下部には往時の米沢城と城下町の様子を描いた墨絵が配されています。
② 本丸跡に鎮座する上杉神社へ向かう参道です。舞鶴橋の左右に大きな石灯籠 奥には鳥居と社殿へ続く道が伸びて周りを木々と堀が囲む景色です。白い幟は上杉謙信が用いた旗印で「龍」は不動明王「毘」は毘沙門天を表します。
③ そして、もちろん外せないのが「上杉謙信公之像」ですよね。像だけの写真にするか迷いましたが、像だけの写真は皆さんアップしてるので こちらの謙信像エリア全体の写真を貼ることにしました。
④ 内堀に架かる「菱門橋」を堀の外側から石垣と一緒に捉えました。堀の水面に赤い橋が写り込んでいるのが気に入っています。この堀から園内への出入りはできません。
⑤ 堀の幅が特に広くなってる所から堀越しに石造りの舞鶴橋と堀端を斜めに見た構図です。舞鶴橋をどうしても貼りたかったのですが近づくと人物や顔が目立っちゃうので、アングル的にも距離的にも良いこの写真にしました。
⑥ 上杉神社 神門の内側から本殿を狙った写真です。格子扉も入れたかったのでこういう構図になりました。石畳の参道が拝殿までまっすぐ伸びているのと左右の玉砂利、社殿を守るように背後を囲む木立の雰囲気がいいですね。
⑦ 公園の外周路から撮った米沢城の雄大なお堀で、ド~ンと雄大に真っすぐ続き、奥には小さく赤い菱門橋がアクセントになっていて気に入ってます。水面に写り込んだ木々と青空がきれいで、米沢城らしさが伝わる一枚です。
⑧ 外堀に沿って歩いていたらカーブの辺りで良い場所を見つけました。一瞬風が止んで、赤い菱門橋、緑の木々、青い空が堀の水面に鮮明に写り込んでいます(偶然ですが) 今回アップした写真の中で一番気に入っています。
⑨ 堀の出口に向かって歩いていたら 偶然、池泉風日本庭園を見つけました。小さな池と島状の築山、石碑やモミジの木がコンパクトですがバランス良く組み合わされていて美しさに引き込まれました。
⑩ 上は上杉神社の入口の様子で石の鳥居と社号標、左右の石灯篭が一緒に収まるように斜めから撮りました。下は右が上杉神社の御朱印、左が「なせば成る なさねば成らぬ 何事も」で有名な上杉鷹山を祀る松岬神社の御朱印です。

前日 鶴ケ岡城のスタンプを押し忘れたため、この日、早朝 往復3時間掛けてスタンプを押しに行ったため、時間がなくなってしまい駆け足での見学になってしまい残念でしたが、上杉神社以外にもお堀のスケールの大きさや、城内各所の美しさは思ってた以上に素晴らしかったです。
不思議なのは、これほどの歴史があり、整備され管理もいが行き届いて みんなに愛されているのに、なぜ、国の指定史跡になっていないのでしょうか?

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安藤伊賀守守就戦死の地跡が近くに (2026/07/25 訪問)

 近くへ来たので寄ってきました。2回目の投稿となります。
西美濃三人衆のひとり安藤守就の居城跡です。石碑と説明板がある場所は本丸の一部と考えられています。大井神社東側を西北の隅として東西160m、南北340mの場所が北方城址と推定されています。水堀で囲まれていました。

 安藤守就は土岐氏、斎藤氏に仕えていましたが、織田信長の美濃進行時に織田方に従っています。それなりの武勲はあげていたようですが、天正8年(1580)甲斐武田氏に内通したとの嫌疑で追放されました。天正10年(1582)本能寺の変で明智光秀に信長が討たれると北方城に戻ろうとして、これを阻む稲葉一鉄と戦いになります。北方合戦として伝わる戦いで守就とその一族は壮絶な戦死を遂げました。その戦死の地と伝わる場所が北方城から西北へ約600m離れた場所にあります。

 帰りは樽見線北方真桑駅を利用しました。駅に「織田信長が愛したまくわうり発祥の地」の看板がありました。美濃国本巣郡真桑村(現岐阜県本巣市)が本種発祥の地もしくは特産地として知られ、村の名前から真桑瓜の名が生まれました。天正3年(1575年)6月29日、織田信長が正親町天皇に真桑瓜を2籠献上したことが記録に残っています。信長自身も好んで食べていたと伝わっています。
ただ私が住んでいる地域のスーパーではまくわうりは見たことがないような気がします。

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チェブ

お休み?閉園? (2026/07/04 訪問)

予定なしの暇な土曜日、本格的に暑くなる前に、たくさんお城攻めをしておこうと、けしからん考えのまま出陣。
1つでも『行った』をポチッとする為に「赤見城」攻めをしました。

「赤見城」は平安時代、足利 俊綱さんが築城したようです。戦国時代には佐野氏の家臣、赤見氏が治めています。

「赤見城」は保育園の入口横に石碑と標柱がありました。高い土塁が保育園をグルリと守っているようで、中の様子が分かりません。
土塁には登ってどうぞ、という感じの階段がありました。
私は子供が保育園生だった時、土曜日もお世話になっていたので土塁に登って仁王立ちは自重しました。
私は写真①の前に路駐しました。この反対側は民家です。
保育園関係者、近隣住民から不審がられてはと、退陣しました。

先ほど、この「赤見城」のある保育園が閉園している事を知りました。でも入口はキレイだったので、また復活したのかもしれません。
土曜日に暇、なんて子供が小さい時には考えられませんでしたが、今は時間を贅沢に過ごせた、と思いたい「赤見城」攻めでした。

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にのまる

出会い。 (2026/06/25 訪問)

最寄駅まで約4km、しかも列車本数が少ない駅なので訪問は難しいかと思っていたのですが、館山チャシ最寄りの伊達紋別駅からバスが出ていることがわかり、行程に組み入れました。(館山チャシ麓の「伊達駅通」から乗車しました。)

バスに揺られること45分。「陣屋」で降車しました。
徒歩数分で民俗資料館(とんてん館)に到着。受付で「こんにちは!」をして早速館内見学を……と思ったのですが、次の場所へ向かうバスまで1時間くらいしかないので、先に陣屋跡の見学をすることにしました。

幕末に江戸幕府から蝦夷地の沿岸警備を命じられた南部藩の陣屋です。工期は半年。
杉並木を進むと正面左手に虎口を備えた立派な土塁が見えてきました。が、右手の杉林の中に石碑と墓石が見えたので先にそちらを見てみることにしました。石碑は火薬庫跡を示すもので、墓石はこの地で亡くなった藩士の墓、杉林は藩士が日除けとして在任当時植えたものだそうです。

陣屋は土塁に囲まれた方形で東と南側に虎口があり、海に面した南側(表門側)の土塁の外側は水堀、その外側にさらに土塁が築かれていました。ちょうど業者の方が草刈りなどのお手入れをしていらして、とても素晴らしい状態の土塁を見せていただくことができました。
室蘭本線の線路がすぐそばを走っており、電車来ないかなぁとしばらく待ってみましたが来ませんでした。(余談)

内陣には発掘調査で発見された礎石や石畳を元に建物が平面復元され、当時の暮らしぶりが目に浮かぶようでした。
時代の移り変わりと共に13年という短い期間で廃棄されたそうですが、今はこうして後世の人たちに歴史を伝えるという役目を担っています。現地に立つことで感じる時代の変遷や当時の人々の息遣い。土塁や堀、建物礎石などの遺構と共に、過酷な自然環境の中で遠い故郷を思いながら亡くなり葬られた藩士のことも記憶しておかなければと思いました。

民俗資料館に戻り、帰りのバスの時間まで館内を見学しました。
縄文時代の室蘭の遺跡の発掘品〜開拓の道具〜昭和の懐かしい生活用品や家電まで、目がキラキラしてくるものが溢れていて、帰りのバス停で出会ったご近所の方が「以前は観光バスで来る団体もいたのよ」と仰っていた理由がよくわかりました。バスの到着が遅れていたのでその方とずっとおしゃべりしていたのですが、「内地からひとりでわざわざこんなところへ?」と驚いておられました。(城めぐりあるある)
「この“陣屋”というバス停の2文字にも感動する」と答えたのですがその気持ちが伝わったかどうか……。


北の大地の海岸沿いの小さな町で大切に守られている遺跡。そこには連綿と続く忘れてはいけない日本の歴史の証がありました。
まだまだこの国には私の知らない歴史がたくさん。今後どれだけ行けるかわかりませんが、有名無名に関わらず、ひとつひとつの出会いを大切に、そして楽しんでいければいいなと思いました。

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todo94

再度の飛島渡航失敗による代替観光・国宝羽黒山五重塔と出羽三社神社 (2026/07/18 訪問)

羽前松山城からの転戦です。羽黒山五重塔は、現存木造の五重塔の中で唯一の素木造りの五重塔で、杉木立にたたずむその美しさには初めて見た時から魅かれ続けています。13年ぶりに訪れてみると、随神門の手前で協力金500円を支払うようになっていました。三連休の初日、大勢の観光客でにぎわっていましたので、人が映り込まないように写真撮影するのは、かなりの困難が伴いました。時間はたっぷりとあるので22年ぶりに出羽三山神社も目指すことにします。随神門から五重塔を経由して出羽三山神社まで、36分ほどでたどり着くことができました。案内板に山頂まで60分所要とある2446段の石段、上出来だったと思います。ただ残念なことに出羽三山神社の三神合祭殿は、茅葺屋根の葺き替え工事中でした。せっかくなので1000円のお守りは購入しておきました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征28日目:富山城 (2026/06/07 訪問)

今日の天気は一日雨で午後から強雨の予報で、予報通り強雨です。
大安寺駅から徒歩20分弱で、登山口(34.669867、133.892004)に着きました。

築城年代は定かではないが、仁和年間(885年〜889年)に富山重興が築いたと云われています。長い間、富山氏の居城だったようです。
1467年(応仁元年)富山長頼は松田元隆に攻められ自害し富山氏は滅亡し、松田氏の居城としました。
松田元成(元隆の子)は金川城に居城を移し、富山城には元成の弟の親秀が入りました。
1568年(永禄11年)宇喜多直家に松田氏は滅亡に追い込まれ、富山城には直家の弟の忠家が入り、城を拡張しました。
忠家の後は子の詮家が城主でしたが宇喜多氏の内紛で宇喜多家を離れました。詮家は後の坂崎出羽守直盛(千姫事件で有名・津和野城主)です。 
城は1600年(慶長5年)関ケ原の戦い後、小早川秀秋が備前に入封すると廃城となり、いくつかの資材が岡山城に移築されました。

強雨の為、登山口で引き返し登城を断念しました。
攻城時間は5分くらいでした。本日の城巡りは、ここがラストです。
計画では、この後、早島陣屋と常山城を攻城するつもりでしたが、強雨の為、6月9日に変更しました。
歩行歩数=25047歩、歩行距離=17.5Kmです。
本日の宿泊先に向かう為、大安寺駅からJR桃太郎線を利用して岡山駅に戻りました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征28日目:辛川城 (2026/06/07 訪問)

今日の天気は一日雨で午後から強雨の予報で、予報通り強雨です。
備前一宮駅から徒歩15分ちょっとで、桃太郎タンク入口(34.687795、133.859772)に着きました。

辛川城についての築城年代などは不明ですが、初期は宇喜多氏家臣の虫明氏が城主であったと言われています。
虫明氏は、浦上氏・宇喜多氏に追随し、一宮周辺を拠点とした国人層と伝えられています。
1579年(天正7年)毛利家の小早川隆景が15,000の軍勢で宇喜多領の備前に攻め込みました。
宇喜多の臣で、13歳にて初陣であった戸川達安は、この辛川の地で寡兵にも関わらずよく防ぎ、鉄砲や弓で応戦し小早川勢を撃退しました。
のち、この合戦は“毛利の辛川崩れ”と言われています。

桃太郎が描かれた水道タンクの背後の山が城山で、水道施設前の道がそのまま山陽道を高架橋で越え、山の東山腹に続いているようです。
しかし工事中で進入不可&強雨の為、登城を断念しました。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=富山城へ向かう為、備前一宮駅からJR桃太郎線を利用して大安寺駅に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征28日目:賀陽氏館 (2026/06/07 訪問)

今日の天気は一日雨で午後から強雨の予報です。吉備津駅に着いた11時頃はすでに強雨でした。
吉備津駅から徒歩20分弱で、賀陽氏館付近(34.663132、133.844474)に着きました。

賀陽氏館は、古代吉備一族の名族であり、吉備津神社の神官を務めていた賀陽氏の居館と伝えられています。

賀陽氏館は水田のなかにあり、曲輪は周囲よりやや小高くなっています。
かつては土塁があったとされていますが、現状はほぼ消滅しています。
強雨の中、カッパのみで歩いたので、ズボンと靴の中がグショグショです。吉備津駅には乗車待ちの人が多く着替えることができません。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=辛川城へ向かう為、吉備津駅からJR桃太郎線を利用して備前一宮駅に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征28日目:亀山城周辺散策(備中長良山城(城びと未登録 岡山県総社市)) (2026/06/07 訪問)

今日の天気は一日雨で午後から強雨の予報です。
亀山城から徒歩15分くらいで、金毘羅大權(ごん)現鳥居前(34.686278、133.787177)に着きました。

建武年間(1334年〜1338年)世野川左衛門入道祐隣によって築城されたと伝われています。
祐隣は細川定禅の執事として楠正茂の首級を千早城に届けたことで名を馳せました。以後、祐隣の子孫が代々居城して「禰屋(ねや)」と改姓しました。
禰屋氏は、戦国時代には備中の有力国人の一人で、1564年(永禄7年)龍の口合戦では龍の口城を備中の諸将と共に守備して活躍しています。
1582年(天正10年)羽柴秀吉による備中高松城攻めの前哨戦冠山合戦では、長良山城主禰屋七郎兵衛父子らが冠山城にて備中の諸将共々籠城して城の防戦に努めました。
明治時代に陸軍の演習地となったり、神社として改変されたりしています。

服部駅にある地図では長良山城の記載はありますが、亀山城の記載はありません。
別名を八幡山城とも呼ばれ、現在、北の曲輪跡には八幡神社があり、また南の曲輪には石鎚神社と碑が建っているようです。
雨が降っているので、南の曲輪には行かず、北曲輪側の登城口からハイキングコースを歩こうとおもいましたが、電車の時間の都合で登城を断念しました。
観光時間は25分くらいでした。次の攻城先=賀陽氏館へ向かう為、服部駅からJR桃太郎線を利用して吉備津駅に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征28日目:亀山城 (2026/06/07 訪問)

今日の天気は一日雨で午後から強雨の予報です。
岡山駅からJR桃太郎線を利用して服部駅に着きました。
服部駅から徒歩30分くらいで、亀山城北東入口付近(34.677919、133.787450)に着き、そこから、田んぼ沿いの登城口付近(34.677361、133.787146)に向かいました。

佐野氏は「鉢の木を焚いて北条時頼に暖をとらせた」という話で有名な佐野常世の後裔の一族が備中に下向したのが始まりのようです。
天文年間(1532年〜1555年)頃に佐野忠綱が先祖の城を再建して居城とし、1559年(永禄2年)毛利氏に攻められ落城したそうです。
天正年間(1573年〜1592年)頃の城主は佐野忠職で、幸山城主石川氏の家臣だったようです。

田んぼ沿いから山に入れそうな所を捜してウロウロし、中に入りましたが、すぐくじけました。道なき道はを進むのは自分には無理です。
気を取りなおし、廃屋が見える広い道から中を覗いて土塁?石積?と竪堀?らしきものを見つけましたが遺構かどうかは不明です。
攻城時間は30分くらいでした。次の攻城先=備中長良山城(城びと未登録 岡山県総社市)へ徒歩で向かいました。
ちなみに服部駅にある地図では長良山城の記載はありますが、亀山城の記載はありません。

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朝田 辰兵衛

続・姉川古戦場~トクさん御礼~ (2026/06/29 訪問)

トクさん,ご指摘ありがとうございますm(__)m
しかし,判断がビミョーに別れるかと思います。とりあえず,拡大したモノをアップします。
今後,圧縮されるとどうなるのかな…?

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ぴーかる

匂坂城 (2026/06/13 訪問)

【匂坂城】
<駐車場他>駐車場なし。城跡碑の前まで車で行って車から撮影しました。
<交通手段>車

<感想>1泊2日東海ちょこ城道中4城目。現地説明板によると匂坂城は、遠江の国人領主である匂坂氏が1532年にこの地に築城しました。1571年に武田信玄が高天神城攻めの際にこの匂坂城は落城しました。その後は穴山梅雪を置いて守らせていたとあります。
 現地は遺構は残っておらず、畑地にぽつんと説明碑だけがあります。

<満足度>◆◇◇

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トク

辰兵衛さん、霊が写ってますよ!😱~

写真の左下に人らしきものが写っています。この霊のせいかもしれません。

私もついこの間「上月城」で霊を感じました。過去に島原の「原城」などでも感じた事あります。そういう感じやすい(取り憑かれやすい)タイプ、いるようです。気になるのであれば、御祓いを・・・。私は、Welcomeです。 暑い夏が続いておりますが、辰兵衛さんの写真のおかげで、少し涼しくなりました。

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カズサン

御城之口餅と郡山城情報館を目当てに (2026/07/19 訪問)

 今回は平城京跡復原大極門・東楼が主目的の探訪日帰りドライブ、大極門探訪までに時間を取り過ぎ、大和郡山城探訪ではせめて、大和郡山名物の御城之口餅と新しく出来た郡山城情報館の見学は是非果たしたいと思っておりました。
 「御城之口餅」は秀長が秀吉を茶会もてなしの茶菓子として400年の歴史ある銘菓です、郡山市役所南の本家菊屋本店で販売されて居りTVでも放映されています。5時前の入店で残り僅か、前客も購入し残り4箱、2箱ゲットし夜自宅に帰り美味しお茶で頂きました。400年の歴史ある、秀吉も秀長も食した小振りな餡子黄な粉餅です、美味し❣
 駐車場は大和郡山市役所駐車場を利用、土日祝は有料で2時間まで無料、以降は500円との事。

 郡山城情報館へ向かう、鉄御門跡を通って中仕切門を抜けて緑曲輪に今回の大河ドラマ豊臣兄弟に合わせて臨時に出来た駐車場です、5時半で締めるよと聞き急ぎ足で、情報館見学、エアコンが効いてほっと一息、郡山城模型を見学写真を撮るが光、灯りが模型の透明ケースに反射して写真写りは良く無い(写真投稿は控えます)、情報館には資料パンフレットなど備わって居りゲットしました、緑曲輪跡、厩跡がよく整備されている。
 
 本丸・天守台を西の濠外、北の濠外より眺めて追手門を内側より眺めて、復元極楽橋へ、竹林橋趾を抜けて中仕切門、緑曲輪の郡山城情報館前の臨時駐車場へ閉鎖5分前でした。この駐車場は来年の1月31日まで9時から17時半営業、1回500円の様でした。今回は短時間で?無料でした。
 天守台には大勢の見学者で賑わっていました、又NHK大河ドラマ豊臣兄弟館はやまと郡山城ホールで開催中、車で通った感じでは大勢の人で賑わってる様で駐車場への誘導も混んで居ました。
 今回時間も無くサラーっと回っただけです。令和3年11月20日復元極楽橋完成を探訪に訪ねて以来5年振りの郡山城探訪でした。
   

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山形県の名城巡り2つ目は (2026/07/19 訪問)

毎月、一つの都道府県の名城を巡る旅も、今回で5回目で、すっかり私のライフワークとして定着しました。
前日に続いて この日も雨の予報でしたが何とかギリギリ耐えてくれました~。
ということで山形の2つめ(午前の部)は、山形で唯一「日本100名城」に名を連ねている山形城です。
駅から近く「山形城跡」として国指定史跡にもなっています。
城跡も含めた広大な霞城公園の中には最上義光歴史館もあり、御城印や100名城スタンプは、ここで購入・押印できます。

今回も貼った写真に沿って簡単な説明をしていきたいと思います。
「続きを読む」と「すべての写真を見る」の両方を開いてもらえば、写真を見ながら説明を読めるので便利です。

① 最初は恒例の御城印です。上部には最上家の家紋「最上紅花紋(丸に二本引き)」下部には山形城内の最上義光像のシルエットが描かれています。
② 山形城の中で特に印象に残る最上義光公の騎馬像です。その躍動感溢れるダイナミックな姿に圧倒されました。
③ 山形城の顔とも言うべき「二ノ丸東大手門」と大手橋を正面から撮った写真です。堀を渡る大手橋の奥には見事な石垣を備える白壁の櫓門が構え圧倒的なスケール感を醸し出してます。この門は高麗門形式だそうです。
④ 2枚目の「二の丸東大手門」を手前の橋の上からグ~ッと寄って撮りました。門の間から正面に見える桝形の石垣と白壁がいい感じですね♪
⑤ 4枚目と同じ橋の上から櫓、石垣、堀、橋の擬宝珠(ぎぼし)を同じ構図に入れるのに苦労しました。やはり櫓門は映えますね。
⑥ 二の丸東大手門をくぐると山形城の名所ともいえる門内の広い桝形です。左に見えるのが外側から入ってくる東大手門(櫓門)、右側と奥を囲んでいる白壁と頑強な石垣が二の丸の桝形空間の防御構造になります。
⑦ 東大手門の桝形から外に出た所にある「本丸御殿広場」から門を斜め正面に見た構図です。中央に大きな門があり その左右に長く多聞櫓と土塀が連なっていて広い前庭と長い多聞櫓のスケール感が気に入ってます。
⑧ 本丸外郭の空堀に降りて撮りました。左が本丸側の高い石垣、右の盛り土の土塁は二の丸側です。堀底の芝生がきれいに刈られていて美しい構図です。
⑨ 山形城本丸へ渡る大手門から撮った「本丸一文字門」(近年復元)です。門の奥に本丸内側の塀が見えています。
⑩ 山形城本丸の「東大手門(復元門)」と、その前にかかる木橋、本丸の隅石垣を横から見た構図です。

前日に訪れた鶴ケ岡城のスタンプを押し忘れたため早朝3時間掛けて鶴ケ岡城を往復するため、山形城は予定していた半分の時間しか使えず慌ただしく回ることになり残念でした (;´д`)トホホ

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todo94

再度の飛島渡航失敗による代替攻城② (2026/07/18 訪問)

亀ヶ崎城からの転戦です。13年ぶり、3度目の攻城です。丸馬出は今回初チェックで、松山文化伝承館にも初めて入館しました。そこで、縁起の良い鶴亀にちなんで、亀ヶ崎城、鶴ヶ岡城の城名が最上義光によってつけられたということを初めて知りました。これはもう、鶴ヶ岡城にも行くしかないと思い定めましたが、とりあえず飛島で食べようと思って買っておいた昼食を摂り、久しぶりに国宝の五重塔を目指してみることにしました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征27日目:己斐古城 (2026/06/06 訪問)

己斐城から徒歩30分くらいで、高須台入口(34.396627、132.418554)に着きました。

築城年代は定かではないですが、 己斐古城はこの地の豪族である己斐氏の居城です。己斐新城の平原城に対し己斐古城と呼ばれています。
1515年(永正12年)銀山城主武田元繁に攻められるが落城しなかった。時の城主己斐豊後守師道入道宗端は有田城合戦で討死しました。
宗端は2年後の「有田合戦」において討死すると、その子の己斐直之は毛利元就に従い「厳島の合戦」で要害山城の城代をつとめました。

登城口は「高須台第一公園」と旭山神社にあるようですが、自分は高須台から登城し旭山神社側に下城しました。
現在は森林公園として整備されており、主郭を中心に周囲に削平段を設けています。
攻城時間は20分くらいでした。本日の城巡りは、ここがラストです。
歩行歩数=26612歩、歩行距離=18.6Kmです。
本日の宿泊先に向かう為、西広島駅からJR山陽本線を利用して広島駅に戻り、コインロッカーから荷物を取り出した後、岡山駅に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征27日目:己斐城 (2026/06/06 訪問)

広電西広島駅から徒歩30分弱で、小茶臼山登山口(34.406191、132.424413)に着きました。

築城年代は定かではないですが、己斐氏によって築かれた城です。己斐城はに平原城とも呼ばれ、己斐新城が平原城、己斐古城が岩原城、詰城が立石城でありいずれも己斐氏の居城です。
己斐氏は厳島神領衆の出身で動静ははっきりしませんが、 1515年(永正12年)銀山城主武田元繁に攻められるが落城しなかった。時の城主己斐豊後守師道入道宗端は有田城合戦で討死しました。
宗端の子、己斐豊後守直之の時、1554年(天文23年)折敷畑の戦いの前に草津城などと共に毛利元就に攻撃され、落城しました(防芸引分)。
直之は、翌年の厳島の戦いで毛利方の宮尾城の城将として戦い、合戦後に隠居しました。その後、直之の弟、己斐利右衛門興員が城主となりました。
1600年(慶長5年)関ヶ原合戦後に毛利氏が防長2ヶ国に転封になるとともに廃城となりました。

城址は整備されています。
また曲輪などの遺構もきれいに残っています。己斐東小学校の脇にある石段から登城することができます。
攻城時間は30分くらいでした。次の攻城先=己斐古城へ徒歩で向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征27日目:草津城 (2026/06/06 訪問)

草津駅から徒歩10分弱で、登り口(34.381825、132.399713)に着きました。

築城年代は定かではありませんが、厳島神社神主家(藤原氏)配下の神領衆・羽仁氏によって築かれた城です。
戦国時代には、1456年(康正2年)武田信賢によって攻められ落城、1457年(長録元年)大内氏に攻められ落城、1553年(天文22年)毛利元就に攻められ落城しています。
草津城に手中に納めた元就は川の内警護衆を率いる児玉就方を城主にして桜尾城、仁保城、宮尾城とともに陶晴賢を迎え撃つための前線としました。
しかし関ヶ原の戦いによる毛利氏の防長移封後、福島正則が広島城主となると、正則は草津城下の山陽道に大門をつくり、広島の西の関所とし、草津城を壊したとされています。

階段の登り口に「草津城址登山道」の看板があり、山頂には城跡碑と説明板が建てられています。
現在城址には遺構はありませんが、曲輪の形状を確認することはできます。
攻城時間は25分くらいでした。次の攻城先=己斐城へ向かう為、草津駅から広島電鉄宮島線を利用して広電西広島駅に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征27日目:桜尾城 (2026/06/06 訪問)

洞雲寺から徒歩15分くらいで、桂公園入口(34.356721、132.341814)に着きました。

築城年代は定かではないですが、鎌倉時代に吉見氏によって築かれたと云われています。
その後、1221年(承久3年)承久の乱の結果、中原親能の一族である藤原親実が新たな厳島神主となり桜尾城を居城とし安芸国守護も兼ねました。
しかし藤原親実は幕府の要人でもあり、厳島に下向して神職を務めることはなく、代官による支配でした。
その後は代々厳島神主家の居城となっていましたが、大内義興の助力によって京へ帰った足利義稙に随行して上洛した14代藤原興親は、同年末に京で客死。これによって厳島神主家が断絶となりました。
厳島神主家の相続を願った友田興藤は銀山城主武田光和等、安芸の諸豪族の協力を得て桜尾城を占拠します。
これに怒った大内義興は陶興房、弘中下野守を門山城へ送り、その後自身も門山城へと入った。
その後、大内軍は桜尾城を取り巻き陶衆が二重まで切り入った。しかし籠城方も笛太鼓にてはやしたて手強く守ったため、興藤の兄の子藤太郎が神主職を相続する条件で和睦が成立しました。
しかし、1528年(享禄元年)大内義興が亡くなると興藤が再び神領を思うままにし、1541年(天文10年)には大内氏と断交します。
大内義隆はすぐさま門山城へと進み、桜尾城を取り囲むと、籠城していた羽仁、野坂、熊野らは興藤に二心あって城内から逃亡。興藤は城に火をかけて自刃しました。
1553年(天文22年)毛利元就は桜尾城等の厳島神領の諸城を落とし、桜尾城には重臣桂元澄を置いて要とし、大内義隆を討った陶晴賢と対立。
翌年厳島合戦で陶晴賢を撃破。戦いの後に自害した陶晴賢の首実検もこの城で行われました。
その後も桜尾城は桂元澄の居城として続きますが、元澄の死後、毛利元就の四男の穂井田元清に与えられ、その居城になります。
1586年(天正14年)豊臣秀吉が九州征伐を開始。翌年、豊臣秀吉が九州に向かう途中、桜尾城に立ち寄り、厳島神社を参詣しています。
1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いの後、安芸国は福島正則の支配地となり、この時に桜尾城も存在価値を失い、廃城となりました。

現在、桂公園となっている丘陵に桜尾城がありました。
「桜尾城址 桂公園」の石碑と説明碑があるだけで、遺構はありません。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=草津城へ向かう為、広電廿日市駅から広島電鉄宮島線を利用して草津駅に向かいました。
広電廿日市駅で洞雲寺で転んで汚れたズボンをはきかえました。

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