南北朝時代に南朝方の春日顕国がたてこもったと伝わる城です。龍ヶ崎歴史民俗資料館の駐車場に説明板が設置されていて、登城路が整備されています。空堀、曲輪、土塁などの遺構が残っています。どこまで当時の状態を遺しているのかはわかりませんが、奥の祠のある曲輪まで行ってみました。
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2026/07/04 17:08
2026/07/04 16:44
2026/07/04 16:23
2026/07/04 16:10
2026/07/04 15:50
熊本城外回り (2026/06/20 訪問)
さすがの熊本城、ものすごい数の投稿と写真ですなあ。前回登城は、だいぶん前、本丸御殿が再建されて(2008年)しばらくしてからでした。今回は、震災からの復旧状況・工事を見学するのと、熊本城が立つ、阿蘇山からの火砕流の高まりを実感するのを目的にして、参りました。
熊本城の前身となった隈本城は、砦規模で、火砕流のほんの先端にあったのを知りました。火砕流の高まり(茶臼山)全体は大きすぎて、縄張りのしようがなかったのでしょう。長塀前を東に進み、熊本城東側の東竹の丸の石垣(法面)が火砕流台地の高さと急峻さを感じさせてくれました(写真3)。北大手門前の堀は、火砕流の大地を大きく掘り切っています(写真4)。二の丸は、写真1のように、観光用の縄張り図には描かれないことが多いです。上級武士の屋敷地&豊前街道、豊後街道を引き込んだ二の丸の際(きわ)の処置が気になってました。西側の堀、南側の石垣を見てきました。二の丸の西端から天守閣を眺めるととても遠いです(写真9)。まだ、この西側に三の丸があるとは、巨大です。
市役所の14階にレストランがありランチしつつ、熊本城を眺められました。熊本城の後、水前寺公園に行きましたが、雨脚が強くなり、通路が小川になって、ゆっくり景色を眺めている余裕はありませんでした。阿蘇山も雨雲の中で残念。
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2026/07/04 15:36
2026/07/04 15:22
岩崎城:2024年2月24日:その他城-48 (2024/02/24 訪問)
無料駐車場、模擬天守、資料館有り。
小牧長久手の戦いの激戦場の一つ。
(長久手古戦場の碑は別のところ)
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2026/07/04 06:09
(中国地方と兵庫県)遠征15日目:大可島城 (2026/05/25 訪問)
福山城(岡本家長屋門)から徒歩5分ちょっとで、圓福寺入口(34.381686、133.383089)に着きました。
1342年(康永元年・興国3年))岡部出羽守によって築かれたと云われています。
ここは南北朝時代鞆争奪の古戦場で,現在は陸続きとなり円福寺が建てられているが、かつては島であり、そこに大可島城があったそうです。
1342年(康永元年・興国3年)南朝方の伊予川之江城は、北朝方によって攻撃され、南朝軍は川之江に援助に向ったが、途中北朝側の備後勢と燧灘で遭遇し大合戦となり、折からの風で鞆方向に流されました。
そこで鞆を攻撃し占領、大可島を詰城として拠点を構えました。これに対して北朝側は鞆の小松寺に陣し、激戦十余日に及んだが、南朝軍は本拠川之江城危うしの報に、備後服部の桑原重信を残し伊予に引き返しました。
北朝軍は南朝方が籠もる大可島城を猛攻して落城させ、桑原氏を滅ぼしました。世にいう鞆合戦の城跡で、城地にある石塔は桑原一族の墓と伝えられています。
戦国時代には織田信長に京を追われた足利義昭が鞆城に滞在していたため、警護として因島村上氏の一族・村上亮康が大可島城に在城していました。
城址は圓福寺の本堂になっています。圓福寺境内に説明板が設置され、入口の脇に桑原一族の墓と伝えられる墓地があります。
本堂の屋根に乗っている狛犬が鯱を思わせてお城のイメージを彷彿とさせます。
海沿いの高台にあるので、瀬戸内海の島々がキレイに見えましたが、岬側は私有地のようです。
攻城時間は25分(鞆の浦歴史民俗資料館駐車場までの徒歩移動含む)くらいでした。次の攻城先=相方城に向かいました。
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2026/07/04 06:05
(中国地方と兵庫県)遠征15日目:福山城(岡本家長屋門) (2026/05/25 訪問)
鞆城から徒歩5分弱くらいで、岡本家長屋門前(34.498551、133.367113)に着きました。
もとは福山城内にあったものを福山城が廃城となり、長屋門が民間に払い下げられました。
醸造業(保命酒・薬酒)を営んでいた岡本家がこれを譲り受け店舗として使用したそうです。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=大可島城に向かいました。
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2026/07/04 06:02
(中国地方と兵庫県)遠征15日目:鞆城 (2026/05/25 訪問)
常国寺から車で25分弱で、鞆の浦歴史民俗資料館駐車場(34.384181、133.381506)に着きました。
鞆は古代から潮待ちの港として栄え、軍事的にも枢要の地でした。そのため南北朝時代には港湾施設の近くに大可島城が築かれていましたが、市街部に城は存在しなかったそうです。
1336年(建武3年)には多々良浜の戦いに勝利した足利尊氏が京に上る途中、この地で京の光厳天皇より新田義貞追討の院宣を受領しており、足利氏にとって縁起の良い土地でした。
鞆城の前身となるのが1553年(天文22年)頃に、毛利元就の命により備後地方の豪族である渡辺氏が市街中心部の丘陵に築いた鞆要害だそうです。
鞆要害は尼子氏への抑えとして築かれたもので、その規模・構造はよく分っていないが、城域は発掘調査の結果などから概ね鞆の浦歴史民俗資料館一帯であったと推定されているようです。
その後、1576年(天正4年)室町将軍足利義昭が毛利氏を頼って京を落ち、移り住んだのが鞆であり、その居所として築かれたのが鞆城と云われています。
関ヶ原合戦(1600年(慶長5年))後に毛利氏が防長二カ国に減封となると、安芸国広島に入部した福島正則が支城として改修して三層の天守をあげ、大崎玄蕃を城主としました。
1615年(元和9年)一国一城令により築きかけた天守は三原城へ移し,福島正則の後をうけて入封した水野勝成は長子勝俊の居館をここに置きました。
勝俊が福山藩主を継ぐと鞆奉行所として重臣荻野新左衛門重富が在所し明治維新まで鞆の管理がなされたそうです。
その後、廃城となっていましたが水野勝成が福山に入部すると、長子水野勝俊の居所が三の丸に置かれました。勝俊が福山藩主を継ぐと鞆奉行所として重臣荻野新左衛門重富が在所したようです。
現在は鞆城山公園や鞆の浦歴史民俗資料館の敷地となっています。(攻城したのが月曜日だった為、休館日でした)
民俗資料館に続く車道のところに案内板があり、隅石垣には様々な印が付けられています。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=福山城(岡本家長屋門)に徒歩で向かいました。
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2026/07/04 05:56
(中国地方と兵庫県)遠征15日目:常国寺 (2026/05/25 訪問)
一乗山城から徒歩5分弱で、常国寺入口(34.419173、133.352887)に着きました。
常国寺は、広島県福山市熊野町にある日蓮宗のお寺で、当時沼隈半島一帯を領有していた渡辺兼によって、1486年(文明18年)建立されたそうです。
常国寺は室町幕府崩壊期、織田信長に追われて逃れてきた室町幕府の15代将軍・足利義昭が、毛利輝元の庇護下で鞆幕府を開きました。
この鞆幕府の所在地となったのが渡辺民部少輔元の一乗山城であり、渡辺氏の菩提寺であったこの常国寺も幕府の重要な政務機関となっていました。
義昭は渡辺氏の格別の働きに感謝し、白傘袋と毛氈鞍覆の使用を許して守護大名格としたが、その際に常国寺にも唐門を贈ったそうです。
渡辺元はこれを将軍門と名付け、現在でも市重文として残っており、総けやき造で、鏡板には桐紋が彫られています。
自宅に戻って写真を確認したところ、唐門の写真を撮り忘れていました。
山頂にある足利義昭公の供養塔は時間の都合で行っていません。
観光時間は15分くらいでした。次の攻城先=鞆城に向かいました。
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2026/07/04 05:49
(中国地方と兵庫県)遠征15日目:一乗山城 (2026/05/25 訪問)
神辺城の移築書院がある明王院からから車で20分くらいで、貯水池手前の説明板(34.422092、133.352567)を確認し、そこから一乗山城駐車場(34.420119、133.353340)に着きました。
そこに車を駐車して、常国寺南東の登城口(34.417924、133.354629)に向かいました。
築城年代は定かではないようですが、1339年(建武3年)、渡辺持が戦功で足利尊氏から山田庄(城のある福山市熊野町)を与えられ中山城(福山市草戸町)を居城としました。
その後、文明年間(1469~1487年または、永正年間(1504~21年)に後裔の渡辺兼が毛利にしたがって功があり、一乗山城を築城し移っています。
1534年(天文3年)大内・毛利軍が亀寿山城の宮親忠を攻めた時には渡辺兼もこれに従い、1552年(天文21年)の志川滝山城攻めでは渡辺房が毛利軍に加わっているようです。
1576年(天正4年)足利義昭が毛利氏を頼って鞆に入ると、渡辺元と景父子が義昭の警固を務めたそうです。
関ヶ原合戦(1600年(慶長5年))で毛利氏が防長二カ国に減封となると、廃城となりました。
城主の渡辺景は一時浪人をしたのち通安寺の住職となり、息子らは福山城主となった水野氏に仕え三男は常国寺の住職となったそうです。
本丸まで遊歩道が整備されており、堀切、畝状竪堀群、石積が良く残っています。
攻城時間は35分くらいでした。次の攻城先=常国寺に徒歩で向かいました。
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2026/07/04 05:44
(中国地方と兵庫県)遠征15日目:神辺城(移築書院) (2026/05/25 訪問)
福山駅でレンタカーを借り、そこから車で20分くらい(出勤時間帯で道路混雑)で、明王院駐車場(34.478393、133.347435)に着きました。
明王院は,中道山円光寺明王院と称し,国宝の「本堂」「五重塔」を有する真言宗大覚寺派の古刹として知られています。
もとは西光山理智院常福寺といい,807年(大同2年)弘法大師の開基と伝えられています。
その後,鎌倉時代後期の南都西大寺流律宗の勧進活動や草戸千軒の繁栄の影響もあり,鎌倉時代末期に本堂再建,室町時代前期に五重塔を建立など,”中世・西国屈指の寺院”になります。
1619年(元和5年)水野勝成が福山藩主として入府してからはその庇護を受けます。
三代水野勝貞は常福寺に,城下神島町の歴代藩主の祈願寺となっていた明王院を合併し,当時の住職宥仙は,寺号を明王院と改め今日に至ります。
明王院には神辺城から移築したと言われている向唐破風が特徴の書院があります。
書院以外にも移管建造物があります。
①木造十一面観音立像を祀る1321年に建てられた本堂(国宝)
②高さ29m、1348年に建てられた五重塔(国宝)
➡和様、唐様、大仏様を組合わせた全国で5番目に古い五重塔
③屋根の両端に龍頭瓦が付けられている1614年に再建した山門
④閻魔大王を中心に十王が祀られる閻魔堂
⑤三代福山藩主水野勝貞が寄進した鐘が下がる江戸時代初期の鐘楼
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=一乗山城に向かいました。
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2026/07/04 05:38
(中国地方と兵庫県)遠征15日目:福山城 (2026/05/25 訪問)
福山城(東外堀&惣門番所)から徒歩10分くらいで、福山文化公園紹介看板付近(34.490915、133.362417)に着き、そこから福山城へ入りました。
福山城は今回2回目の攻城です。1回目は2019年3月13日に来ました。
前回、一通り見学しましたが、今回は福山城の外周を追加で見学しました。
ただし、早朝攻城の為、改装された天守閣の福山城博物館は開いてなく中に入れませんので、外から眺めるだけです。
・馬場跡/東坂三階櫓跡/二の丸東側石垣/外三番櫓(鬼門櫓)跡
・東揚楯御門跡/鹿角菜櫓跡/冠木門/亭櫓跡/伏見御殿跡/鏡櫓文書館
・月見櫓/御湯殿/本丸御屋敷跡/番所跡/筋鉄御門/伏見櫓
・鐘櫓/内九番櫓(火灯櫓)跡/御台所門跡/人質櫓跡
・八方よしの松/黄金水/内七番櫓(荒布櫓)跡/棗(なつめ)門跡/内六番櫓跡
・天守閣(福山城博物館) 9:00~17:00
~ここから、見学した福山城の外周編です~
①:福山城三の丸西御門櫓台跡(35.489086、133.358659) 石垣
②:福山城番所跡/③:福山城石組水路/④:福山城西内濠跡
⑤:福山城外九番櫓跡/T⑥:福山城邊前周邊介紹看板
攻城時間は80分くらいでした。次の攻城先=明王院に移築された神辺城(移築書院)を見る前に、ホテルに戻って朝食を食べました。
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2026/07/04 05:31
(中国地方と兵庫県)遠征15日目:福山城(東外堀&惣門番所) (2026/05/25 訪問)
宿泊先のホテルの朝食前に、神辺城の移築門と福山城東外堀&惣門番所を攻城しました。
旧福山城東外堀(34.498551、133.367113)の石碑は實相寺にあり、そこから徒歩5分ちょっとで惣門番所(34.494839、133.366409)に着きます。
蓮池川に大きな門と太鼓橋があり、「惣門番所」「願掛橋」と呼ばれています。
惣門は城下の表門として番所が置かれ、その傍らには江戸時代に西国街道から城下に入るための橋だった「土橋」があります。
福山市丸ノ内のマンション建設地より、福山城外堀の石垣が出土、発掘調査を経て、一部が實相寺に移築されました。
観光時間は15分(移動時間含む)くらいでした。次の攻城先=福山城に徒歩で向かいました。
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2026/07/04 05:27
(中国地方と兵庫県)遠征15日目:神辺城(移築門) (2026/05/25 訪問)
昨日の左足首軽い捻挫は湿布薬で固めました。平地は問題ないですが、山城攻城が心配です。
そういう意味で本日の難関は相方城(比高170m)、高越山城(比高140m)、猿掛城(比高220m)、鬼身城(比高200m)となります。
登城するか否かは現地に着いた時の左足首の状態で考えることとし、本日の攻城開始です。
宿泊先のホテルの朝食前に、神辺城の移築門と福山城東外堀&惣門番所を攻城しました。
宿泊先のホテルから徒歩25分弱で、實相寺(ジツソウジ)山門前(34.498469、133.367435)に着きました。
現在まで残る神辺城の建築物の遺構といわれています。
福山藩主が阿部家の時に移築されたようです。
神辺城が廃城後に福山城等に使われてたということでしょうね。
現在まで残る神辺城の建築物の遺構といわれているのは、實相寺(ジツソウジ)山門と明王院の書院&庫裏になるようです。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=福山城(東外堀&惣門番所)に徒歩で向かいました。
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2026/07/03 21:25
平成12年訪問記 (2000/10/07 訪問)
(学校の修学旅行でつけた日誌より)
今日は函館めぐりだった
五稜郭公園に着き、周りを散策したが、普通の公園ぐらいにしか感じなかった
タワーもあったが上には登らなかった
しかし、中の展示は明治維新の人物がたくさんでてきて面白かった
移動は函館市内特有の市電で移動した
こういう体験をするのも良い思い出になる
(ちなみに画像は今年(令和8年)の再訪において撮影したもの…当時のではありません)
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2026/07/03 20:44
宮崎城 (2026/05/10 訪問)
【宮崎城】
<駐車場他>城山駐車場でも上ノ山駐車場どちらでもよい。
<交通手段>車
<見所>堀切・曲輪
<感想>1泊2日富山ちょこ城巡り1000㎞旅ラスト24城目。現地説明板によると1182年、宮崎城はこの地の豪族である城主宮崎太郎康長が北陸宮(以仁王の第一王子)を迎え御所を造営されたのがはじまりとされます。戦国時代には上杉氏、佐々氏、前田家の家臣などが城主となります。江戸時代には国境の関所が設けられ廃城となります。
城山駐車場に駐車し登城しました。こちらから行くと本丸の手前の曲輪は陸軍が造ったもので、そこの公園から本丸に直結で行けます。本丸は広い帯曲輪が取り巻いています。本丸から段々に二の丸・三の丸と降りて行って、切り通し道をかなり降った所に上ノ山出丸跡があります。上ノ山出丸跡がちょうど上ノ山駐車場になっています。各々の曲輪は堀切で仕切っています。二の丸の法面石垣は古いもののように感じました。
これにてこの旅終了、山城シーズンも終わり、ちょこ城を荒稼ぎできる地域を地図を眺めて、千里浜も行きたかったし、この地域に決定しました。千里浜はドライブウェイ出来ませんでしたが、またの機会として登城は計画通り遂行できました。
<旅を終えて>富山県はまだまだ山城の登城が残っていて語るには少し足りないですが、高岡市周辺の平城跡は一向宗、富山市の平城跡は地方豪族、東に行くにしたがって上杉氏の影響力が出てきて椎名氏などの上杉氏に従属する豪族の城が出てくるように感じました。加賀の大聖寺城に行ってからの、この越中国の石碑や土塁の一部しか残っていない城跡だけれども戦国時代、一向宗の影響力がこの辺りまであった事がよくわかった旅でした。
走行距離1045㎞無事走破。
<満足度>◆◆◇
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2026/07/03 20:12
さて誰の城館だったのだろう (2025/09/07 訪問)
武田○○館なる伝承地を並べてみると上杉禅秀の乱に加担した武田信満の館がはっきりしない。信満の没年とほぼ等しい頃に開基された清白寺は連方屋敷の至近にある。状況証拠的にはここが信満の館なのだろうと思う。
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2026/07/03 16:08
素敵な城さんぽ時間を過ごせました。 (2026/05/31 訪問)
蒲池城見学後、徒歩で向かいました。
柳城中学校の一角に天守台と石垣、水堀。校庭に天守台が現存するなんて羨ましすぎです。外から見上げるだけでしたが生徒さんたちは登り放題かも⁈
周辺を少し散策して御花と立花家史料館へ。御花は結婚式のため一部入場制限されていましたが、西洋館はため息が出るくらいステキで、2階から見下ろす庭園もとても素晴らしかったです。また、城下絵図や天守模型、そしていちばん見たかったずらりと並ぶ金箔押桃形兜も見られて大満足でした。
立花家史料館はお雛様セットやお人形セットなどどれもこれもかわいらしくて姫気分で見入ってしまいました😊
帰りは水辺の散歩道(城北コース)を通りつつ西鉄柳川駅へ。天神から高速バス「ふくふく号」で下関に戻りました。
朝田さん、さすが雨男さんですね!あの大雨の中、よくぞご無事で。
下関駅〜新下関を路線バス移動……遠かったでしょう?お疲れさまでしたm(_ _)m
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