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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征17日目:鷲尾山城 (2026/05/27 訪問)

余崎城から車で30分ちょっとで、城照庵付近(34.480821、133.188086)に着きました。
今日は1日、雨の予報です。小雨が降っていること&城照庵で駐車していたら下からレッカー車が登ってきました。
レッカー車に駐車場所を開ける為、登城を取りやめ、ここで撤退しました。

1336年(建武3年・延元元年)杉原信平・為平兄弟によって築かれたと云われています。
杉原(椙原)氏は丹波国椙原発祥で桓武平氏。平貞盛を祖としているが、平清盛の四代孫秀衡の子恒平を養子に迎えていることから平秀衡の後裔とも称しています。
椙原胤平の子、信平・為平兄弟は再興をかけて九州へ落ちた足利尊氏にしたがって九州の多々良浜の戦いで功を挙げ、木梨十三か村(尾道・後地・栗原・吉和・久山田・木原・猪子迫・白江・三成・市原・木梨・小原・梶山田)を領し鷲尾山城を築いたそうです。
鷲尾山城主は信平・光守・元盛・元直・光恒と続きましたが、1543年(天文12年)尼子晴久の軍勢によって攻められ鷲尾山城は落城、杉原光恒は自刃して果てました。
光恒の子隆盛(始め高盛・元清とも)は大内義隆の助力を得て鷲尾山城主となり釈迦ヶ峰城と改めました。
1572年(元亀3年)石原忠直に攻められ落城。高盛も討死してその子元恒は本郷城主古志豊長を頼り、後に小早川隆景の助力で石原氏を討って釈迦ヶ峰城を取り戻しました。
1584年(天正12年)元恒は千光寺山城を築いて移り廃城となりました。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=勝山城に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征17日目:余崎城 (2026/05/27 訪問)

青木城から車で20分くらいで、進入口(34.360333、133.210644)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、弘治年間(1555年〜1558年)に村上吉充によって築かれたと云われています。
因島村上氏の当主村上吉充は1555年(弘治元年)厳島合戦において毛利氏に与し、その恩賞として向島と宇賀島を与えられました。
村上吉充は余崎城を築いて長崎城から移り居城としたが、1567年(永禄10年)には青木城を築いて居城を移し、余崎城には城代として鳥居次郎資長が在城しました。

現在城址周辺は私有地の為、立入禁止になっています。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=鷲尾山城に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征17日目:青木城 (2026/05/27 訪問)

青影城から車で15分くらいで、重井東港前付近(34.345023、133.147126)に着きました。
今日は1日、雨の予報です。小雨が降っていますが、案内標識の城跡まで5分の表示で登城決行です。
そこから重井郵便局前にある説明板を確認して、登城口(34.345060、133.147291)に向かいました。

築城年代は定かではないようですが、1567年(永禄10年)年因島村上氏六代村上新蔵人吉充が向島の余崎城より移り居城としたと伝えられています。
因島村上氏六代村上新蔵人吉充は「第一次木津川口の戦い」で織田方の水軍を壊滅させ、石山本願寺に兵糧を搬入することに成功したことで知られています。
三原瀬戸、布刈瀬戸、備後灘を押さえ、さらに三原城の前面に位置する実戦的な水軍城でした。

入口は因島郵便局から北へ進んだ住宅の横の看板を目印に階段を登って行きます。 途中に石垣の遺構らしきものが有ります
本丸跡に龍王神社が祀られ、説明板が建てられています。
攻城時間は20分くらいでした。次の攻城先=余崎城に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征17日目:青影城 (2026/05/27 訪問)

長崎城から車で10分くらいで、はっさく交流館駐車場入口(34.301335、133.168437)に着きました。
今日は1日、雨の予報です。本格的に雨が降っています。はっさく交流館の駐車場でしばらく様子を見ましたが止みそうにないので登城を諦めました。

築城年代は定かではないようですが、村上義弘による築城とも伝えられています。
因島村上氏はその居城を長崎城、向島の余崎城、青木城、そして青陰城へと移したと云われ、その後村上氏の家臣救井氏が城主となったと伝えられています。
攻城時間は20分(ほとんど様子見の時間)くらいでした。次の攻城先=青木城に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征17日目:長崎城 (2026/05/27 訪問)

鳴滝山城から車で50分弱で、説明板付近(34.281280、133.181284)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、 南北朝時代に因島村上氏が最初に因島に築いた城と伝えられています。
その後180年間本城として使用され、1557年(弘治3年)村上新蔵人吉充が向島の余崎城へ移るまで続き、その後は村上吉之が城主となったそうです。

長崎城跡には現在、ナティーク城山と言う観光ホテルが建っています。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=青陰城に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征17日目:鳴滝山城 (2026/05/27 訪問)

三原駅でレンタカーを借り、そこから車で35分(途中、道を間違えリカバリに時間を要した)くらいで、鳴滝山城駐車場(34.408146、133.150676)に着きました。
今日は1日、雨の予報です。弱雨なので登城することにしました。駐車場から鳴滝山城登城口(34.407373、133.151078)に向かいました。

最初の築城は不明ですが、鎌倉末期の元享年間(1321年〜1324年)に宮地次政によって築かれたと云われています。
この宮地氏は、備中・宮地が出身の武将とされ、宮地次政が初代です。
室町幕府より備後守護に任じられた渋川義行が一時、備後・鳴滝城(備後・鳴滝山城)に入っていたともあります。
その後、宮地廣義、宮地廣俊、宮地恒躬(みやち-つねみ)と3代続きました。
1423年(応永30年)宮地恒躬の時、大平山城の木頃経兼に急襲され落城しました。
宮地恒躬は逃れるも討死し、正室である木梨杉原氏の娘「鈴御前」は、捕らえられて殺害されたとされ「鈴姫のほこら」があるそうです。
その子・宮地明光(みやち-あきみつ)は、鳴滝城の奪還を果たせず清原氏を頼ると、因島の備後・天神山城を与えられたようです。
こうして、因島村上氏の傘下となり、因島の備後・大江城に移りますが、その後、没落したようで、三原・仏通寺にて仏門に入り、瑞厳と号したともあります。

駐車場から300mで城址の表示です。
登城口付近にいらっしたご婦人に登るのは無理だよと云われましたがとりあえず登城。
石積の写真を数ヶ所で撮りました。
登城路は草が深く弱雨ですが、滑って2度転びました。登城は無理と判断し途中で撤退しました。この時点でズボンは濡れ、靴の中はベッショリです。
攻城時間は30分くらいでした。次の攻城先=長崎城に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征17日目:賀儀城 (2026/05/27 訪問)

宿泊先のホテルの朝食前に、賀儀城を攻城しました。
今日は1日、雨の予報です。雨の強弱を見ながら登城するか登城口で撤退するか現地で判断することとします。
三原駅からJR呉線で忠海駅に着きました。忠海駅から徒歩10分弱で、賀儀城入口(34.333882、132.988385)に着きました。
そこから、海岸降り口(34.332969、132.987427)に回って、舟隠しの内部を確認しました。
賀儀城を攻城後、浦宗勝公菩提所の勝運寺(34.336778、132.985700)に足を延ばしました。

築城年代は定かではないようですが、浦氏によって築かれました。
浦氏は小早川宣平の七男氏実が豊田郡浦郷を所領して浦氏を称したことに始まり、代々小早川氏に従いました。
浦氏は五代元安に嗣子がなかったため、乃美家氏の子賢勝に家を継がせます。
賢勝の子が浦宗勝(乃美宗勝)で、毛利元就が厳島で陶晴賢を敗った厳島合戦において、村上水軍を味方にするべく外交をした人物として有名です。
1565年(永禄8年)忠海・賀儀城は改修され、小早川水軍の本拠地となっています。

賀儀城は現在は公園となっており、大きな岩が主体となっています。
井戸もあったようですが、危険な為、現在は埋められているとの事ですが、見なかったような。
この城の最大の見所が「舟隠し」と呼ばれるもので、海に面した南側にポッカリと口が開いています。攻城時は干潮ではなかったので中に入れませんでした。
また、近隣の乃美宗勝公(浦宗勝)墓所の勝運寺までは城址から徒歩10分ほどで着きます。
ちなみに、床浦神社忠海のウバメガシ樹叢(じゅそう)は広島県天然記念物です。
小雨でしたが、カッパを着ていてもズボンは濡れ、靴の中はベッショリです。ホテルに戻って着替えます。
攻城時間は40分くらいでした。次の攻城先=鳴滝山城を攻城する前に、ホテルに戻って朝食を食べる為、忠海駅からJR呉線で三原駅に戻りました。

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天守無しがアツい

戦闘民族アイヌ人💪🧔‍♂️ (2026/07/04 訪問)

(参考URL)https://www.city.hakodate.hokkaido.jp/docs/2018032900043/

かつて和人の拠点だった場所
小林氏という和人の一族が支配していたが…1457年のコシャマインの戦いにて陥落

(コシャマインの戦い wikipedia)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%9E%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

そのコシャマインは翌年に戦死…最終的には和人の勝利に終わり…小林氏が再度ここを治めるも

1512年に再びアイヌの蜂起が起こり…再度陥落🏳️主人の小林◯太郎良定が戦死…小林氏は松前藩に従属してこの城は廃館となった

すぐ側は海のため🌊「地震が起きませんように😖」とひたすら心の中で願いながら見学…津波が押し寄せたら…ひとたまりもないであろう場所だったから😱

100名城スタンプは休憩所の中にあり…その向かいにはトイレもある(粗末と言えば粗末だけど🚻)木製の扉を開けてスタンプを出すのだけど…その扉が開けづらいので…私はそれを何とか開けたはいいものの…捺印後に元通り閉まらなくなり…少し端がはみ出た状態でそこを去る事に😅

御城印は…ネットで調べた限りは無い…駐車場も無いので来訪の際はバスが好ましい🚍志海苔というバス停が最寄り🚏

製鉄技術も文字も持ち合わせておらず…和人と比較して武装的にかなり不利だったと思われるアイヌ…それでも2度…この館を陥落させていると(案内文を読んで)初めて知り…

アイヌの兵士ってどんだけ戦闘能力高かったんだ?おそらく和人は(戦国時代のような)甲冑を着て…対してアイヌは比較的簡素な防具…おそらく縄文弥生レベルの防具や武具で戦っていたのが目に浮かぶ

コシャマインの戦いでこの館を陥落させて…短期的勝利こそあげたものの…シャクシャインの戦い(この2世紀後に起こる…同じくアイヌと和人の戦い)では騙し討ちにあったりもして…やがて明治時代になるとほぼ無抵抗で日本領に組み込まれてしまう😅

つまり長期的に見れば…和人に負けて…征服されてしまった

けれどそう言えば…アイヌって樺太やシベリアの辺りにも住んでおり…モンゴル帝国が黄金期を迎えていた頃に(日本と同様)侵攻を受けるも…(これも日本と同じく)撃退したとかなんとか…YouTube動画で見た気がする

つまり(政治的外交的能力は低かったかもだけど)集団の戦闘能力は高かったのではないか?

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朝田 辰兵衛

三入高松城散策2/2(本丸~二の丸) (2026/06/27 訪問)

本丸から二の丸へ下りました。このラインはけっこう慎重になります。運が良ければ井戸跡を散策し,南西側登城口付近まで行けるかと思いましたが,もともと斜度がキツイ上に足元がかなり緩んできたので,ここまでとしました。
来た道を戻り,東側登城口へと向かいました。

広島駅に戻ったのは昼過ぎでした。予測が見事に的中し,白市駅~糸崎駅間での運転見合わせは解消されました。安堵して,山陽線を東へと向かいました…🚊

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朝田 辰兵衛

三入高松城散策1/2(東側登城口~鐘の段) (2026/06/27 訪問)

6月27日,朝の時点では,白市駅~糸崎駅間で運転見合わせの状態でした。すでにダブルタイフーンの影響は阪神エリアに移っており,線路の確認が取れ次第,運転再開するだろうと予測。予測が外れたら広島駅~福山駅間を新幹線移動しようと考えました。
この予測が的中したからよかったものの,悪い方向に拡大して外れたら,目も当てられない状況でした…👀

なので,広島駅から午前中で攻城できる城を探しました。さらに,クママップで🐻クマが出没していないか確認。三入高松城が浮上しました。ここは10年ほど前に土砂崩れを起こしているエリア。この状況を踏まえ,南西側登城口からは危険と判断。広島可部パークゴルフ先の東側登城口へと向かいました。
東側虎口付近の畝状竪堀は,降雨により足元が非常に緩かったので散策断念しました。

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主目的は、厳島神社より宮尾城 (2026/06/17 訪問)

 平日でもあり、フェリーの客はほぼインバウンド。フェリーから降りてすぐに厳島神社に向かう観光客とお別れして、宮尾城へ。登り口の階段から、鹿が下りてきました。宮尾城は、小ぶりながら、急斜面に守られていました。特に、南側は急峻。尾根が伸びる東側は、険しい堀切がありました。陶軍が本陣を置いた、塔の岡は、かなり近くに見えます。大軍を擁する陶軍は、陸路を正攻法で行けば、毛利軍を圧倒できたであろうに。あるいは、尼子軍を跳ね返した、吉田郡山城に籠られれば、やっかいと考えたのでしょうか。
 街角のごみボックスにインバウンド対策を垣間見ました。訪問前後に、TV番組で、宮島が何回か取り上げられ、面白く見てます。

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トク

14【秀長の因幡平定をたどる③】太閤ヶ平(豊臣秀長陣跡) (2026/05/16 訪問)

上ノ城からの景色を満喫した後は、本陣山(太閤ヶ平)を目指しました。ここからは、軽いアップダウンが続く、よく整備された自然遊歩道を歩きます(写真①②)。

歩き始めて40分、落ちそうで落ちない倒木があり、その下をよく見ると畝状竪堀と土塁らしきものがあります(写真③④)。これが地図上にある「大防衛ライン」と思われます(地図⑧)。これはもし攻められた時の最終防御ラインであり、当時はおそらくこれは秀吉の陣と秀長の陣を密に結ぶ連絡通路も兼ねていたのではないかと推測しました。という事は、このあたりに秀長の陣があったはず🤔?

そのすぐ先に、50m先展望台の標識を見つけたので行ってみました(写真⑤⑥)。展望台から開けた景色があり、その先には丸山城が見えました。しかし久松山(鳥取城)は見えません。でも目の前にある場所まで行けばよく見えそうです。という事は・・・🤔? このあたりも陣の一部かとは思いますが、どうやら目の前の場所が、秀長が久松山(鳥取城)を眺めていた場所だという事になります(写真⑦)。おそらく直線距離で100mくらいなのですが、しかしそこに行ける道はなく、無理して掻き分けて入れば行けるのかもしれませんが、雑木や枯葉も多いのですべって滑落などしてはと思い、大事をとって断念しました(でも後で後悔😩整備してほしいなあ~)。秀長はあそこからどんな思いで、吉川経家が籠る久松山を眺めていたのでしょうか?

またそこからは、毛利方の雁金山城や丸山城に果敢に攻め込み、敵が海から川を利用して兵糧を運び込むのを阻止する、宮部継潤の姿も秀長には見えていたと思います。「でかした継潤!」秀長はあの陣から思わずそう叫んでいたのではないでしょうか?

ではこのままもう少し歩き、本陣山の山頂(秀吉陣跡=太閤ヶ平)を目指します。
 

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イオ

曲輪と見紛う土塁 (2026/01/04 訪問)

戦国期に六角氏により破却された音羽城に代わる居城として蒲生定秀が築いたとされ、本能寺の変では蒲生賢秀と賦秀(氏郷)が織田信長の妻妾一族を保護して籠城しています。賦秀が伊勢国・松ヶ島に移封になると城代が置かれましたが、江戸初期に廃城となりました。

日野川ダム駐車場から登城開始。南部はダムに沈み、残る部分も住宅地と農地になっていますが、主郭北辺に土塁と横堀が遺っています。土塁は高さがある上に幅広く、最初は稲荷神社が鎮座する土塁上が主郭で、切通道をはさんだ向かい側の凉橋神社がある土塁が出曲輪かと思っていました。両神社ともに江戸期の仁正寺藩の創建であり、切通道や石垣は廃城後に改変されたもののようです。土塁の外側には幅のある横堀が続き、西側は空堀、東側は水堀になっています。主郭跡には中野城跡の説明板や中野城趾石碑が立てられ、道路沿いに蒲生氏郷公産湯の井戸も見られます。主郭南下段の曲輪跡の茶畑南端には土塁が、主郭南西辺には横堀が遺っている…にはいますが、ほぼ竹藪と化していました。主郭北西辺の横堀のさらに北側にも横堀が遺っています。

蒲生氏郷出生の城、くらいの認識でしたが、現存する遺構は限られるものの、主郭北辺の土塁は分厚く高く横堀は幅広く、思いのほか見応えがありました。
 

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征16日目:三原城 (2026/05/26 訪問)

本日の宿泊先のホテルに向かう前に三原城を攻城しました。

三原城は今回3回目の攻城です。(1回目は2019年11月8日、2回目は2019年11月2日)ただし、夜間や早朝の為、ちゃんと見れていないのでリベンジになります。
濠と天守台の石垣、小早川隆景像を写真に収めました。
観光時間は15分くらいでした。本日の城巡りは、ここがラストです。
歩行歩数=35602歩、歩行距離=24.9Kmです。
5/24に痛めた左足首も万全ではありませんが、明日以降の山城攻城は大丈夫そうです。でも明日の天気予報は一日、雨です。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征16日目:笠岡代官所(城びと未登録 岡山県笠岡市) (2026/05/26 訪問)

笠岡城から徒歩15分ちょっとで、笠岡代官所跡(34.507669、133.507478)に着きました。

笠岡は、1600年(慶長5年)に徳川氏の直轄領となり、1619年(元和5年)に備後福山の水野氏の所領となりました。
1698年(元禄11年)には、再び幕府の直轄領となり、1700年(元禄13年)笠岡に初めて代官所が設けられ、以後幕末まで42代170年の代官支配が行われました。
これらの代官の中には、「いも代官」として有名な14代井戸平左衛門正明や、1798年(寛政10年)に郷校「敬業館」を創立した30代早川八郎左衛門正紀がいます。
代官所は明治まで続き廃藩置県の後は小田県庁となりました。
小田県庁は、1871年(明治4年)に廃藩置県の布告によって設置された深津県が、1872年(明治5年)には小田県と改称され、その県庁が笠岡に置かれました。
当時小田県(備中・備後のうち東部五郡)のほか岡山県(備前)、北条県(美作)の三県が置かれていましたが、うちでも小田県は約53万石の最も大きい県であったそうです。
1875年(明治8年)には、小田県は岡山県に合併されました。

笠岡代官所は笠岡小学校に築かれていました。現在、小田県庁時代に妹尾陣屋から移築された表門が現存しており、付近に石碑や説明板が設置されています。
攻城時間は5分くらいでした。
本日の宿泊先に行く為、笠岡駅から福山駅に戻り、コインロッカーより荷物を取り出して三原駅に向かいます。
まだ時間が早いので、三原駅で三原城を攻城することにしました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征16日目:笠岡城 (2026/05/26 訪問)

笠岡駅から徒歩20分弱で、笠岡城跡(34.501224、133.506279)に着きました。

1331年(元徳3年・元弘元年)陶山藤三義高によって築城されたと云われています。
永正年間(1504年〜1521年)あたりまでは陶山氏の居城として代々続くが、大内氏の勢力が及ぶと井上春忠が城主となりました。
弘治年間(1555年〜1558年)頃になると能島村上氏の一族村上隆重が改修したといわれ、大内氏が陶氏に滅ぼされその陶氏が毛利氏に破れるとそれに属しました。
「関ケ原の戦い」以後は徳川家康の所領となり、小堀遠州の父である小堀正次が代官として置かれました。
1898年(明治31年)に笠岡湾の埋め立てのために古城山の山頂部が削り取られたため、遺構はほぼ残っていないようです。
現在は笠岡古城山公園として整備されています。

笠岡駅北口から右手にある地下道を通り駅南側から徒歩約20分弱。
遺構は無くなっており、説明板は確認しました。山頂の衣笠山からの眺望は素晴らしい。
お猿さんがいました。下城は稲富神社側へ降りました。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=笠岡代官所(城びと未登録 岡山県笠岡市)に徒歩で向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征16日目:倉敷散策(笠岡城を攻城する前の観光) (2026/05/26 訪問)

次の攻城先=笠岡城を攻城する前に、倉敷を観光しました。
倉敷駅から徒歩10分くらいで、国指定重要文化財大橋家住宅(34.697216、133.768279)に着きました。
倉敷は今回2回目の観光です。1回目は2018年6月16日に次男と来ました。今回は、以下の順番で観光しました。

①:国指定重要文化財大橋家住宅(34.697216、133.768279) 9:00~17:00
②:倉敷物語館(34.596882、133.770193) 9:00~19:00
③:倉敷美観地区(34.595739、133.771766) ①より徒歩3分190m
④:きびそばと郷土料理(34.594903、133.772418) ②より徒歩3分190m
 ➡冨来屋本舗本館(11:00~15:30 注文終了19:00) きびそばとたこめし
  月曜休み土日は11:00~15:00のみ 夜:16:30~20:00
 ➡通りの横に倉敷プリンの店あり(10:00~17:30)
 ➡店の前に桃太郎からくり博物館 10:00~17:00
⑤その他、大原美術館(9:00~17:00)2000円  などあり  

リュックに熊よけ鈴をつけていたので、大原美術館で音がでないようにしてほしいと云われました。
冨来屋本舗本館で、きびそばとたこめし&地ビールをいただき、通りの横の店で倉敷プリンを食べました。
まだまだ行きたい所はありましたが、電車の出発時間が迫っており、ここで断念です。
観光時間は100分くらいでした。次の攻城先=笠岡城を攻城する為、倉敷駅からJR山陽本線で笠岡駅へ向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征16日目:備中福山城 (2026/05/26 訪問)

幸山城から備中福山城に向かう際、備中福山城に登る山道がわからずウロウロしました。
ここでもまた登山者に助けられ進入口を教えてもらいました。登っていったらベンチがあったので一応登山道だと思うので案内板がほしい。
あとでわかりましたが、自分は福山山頂直登コースに向かいましたが途中で引き返してました。登山者に教えてもらった進入口は、そこに向かう途中に山に入る道でした。
結果的に、このルートは長い階段を登ることはなかったので5/24に痛めた左足首に負担をかけずに山頂まで行くことが出来ました。
結果、20分近くウロウロしましたが、幸山城から徒歩40分弱で備中福山城に着きました。

築城年代は定かではないようですが、鎌倉時代末期に真壁小六是久によって築かれたと云われています。
1335年(建武2年)足利尊氏に味方する佐々木信胤らが福山城に籠もったため、後醍醐天皇側の軍勢が攻撃を仕掛けましたが、撃退されました。
1336年(建武3年)九州に敗走した足利尊氏を追撃する新田義貞の軍が福山城に立て籠もり、九州から東上する足利尊氏軍を迎え撃ったが敗れた福山城合戦の舞台となりました。
1571年(元亀2年)の尼子再興軍の備中侵攻の際、幸山城の留守を預かっていた日幡六郎兵衛らは農民を率いて福山城に出て、南の浅原峠を守った。
1582年(天正10年)毛利輝元の家臣・門司親宗が在城しました。

山頂からの眺望がすごく良く、土塁や列石等の遺構も見られます。
帰りは1234段の階段を下りて福山登山道歴史広場口(34.645759、133.752807)方面に向かいました。
攻城時間は55分(進入口~福山登山道歴史広場口のまで時間)くらいでした。次の攻城先=笠岡城を攻城する前に、倉敷を観光する為、清音駅からJR伯備線を利用して倉敷駅に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征16日目:幸山城 (2026/05/26 訪問)

清音駅から徒歩40分くらいで、福山登山道ふれあい広場口(34.652848、133.755353)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、延慶年間(1308年〜1311年)前後に庄資房によって築城されたと云われています。
資房は1333年(正慶2・元弘3年)六波羅が攻められた時に死亡し資氏が継いで在城したが、資政の時に猿掛城を築き拠点を移した為、その後は備中守護代の石川氏へと城主が替わっています。
1567年(永禄10年)の明禅寺合戦において石川久智も戦傷がもとで没しました。
1571年(元亀2年)尼子氏が備中に南下備中北部を制圧し勢いを付けて幸山城に攻め寄せた。
このとき、石川久智の子久式は毛利軍に加わって九州へ出陣していたため落城してしまいますが、毛利氏の援軍を得て幸山城を奪還しました。
1582年(天正2年)毛利氏が宇喜多氏と同盟したことによって、三村氏が毛利氏から離反した(備中兵乱)。
城主石川久式は三村元親と義兄弟の関係から三村方となり、幸山城には重臣友野石見守らを入れて守らせ、自身は兵を率いて松山城へ籠城した。
しかし、幸山城は毛利方に降伏、松山城も毛利氏によって攻め落とされ三村元親は切腹、久式も逃亡したが討死、あるいは岡谷城で自刃した。
毛利氏の領国支配のもとで清水宗治が一時居城しますが、備中高松城の役ののちは宇喜多領となり、庭瀬城主となった岡氏の家臣が在番しますが、関ヶ原合戦ののちに廃城となりました。

方向音痴の自分は登り口がわからずウロウロしましたが、登山客のご夫婦?に助けられ登り口発見。
現在は登山道が整備されています。
周囲は切り立った岩山になっており、滑落しないように気をつけて下さい。
福山城とともに攻城すると「幸」「福」セットになるようです。
攻城時間は40分(登り口がわからずウロウロした時間を含む)くらいでした。次の攻城先=備中福山城に徒歩で向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征16日目:神辺城 (2026/05/26 訪問)

福山駅のコインロッカーに荷物を預けた後、始発電車で福山駅からJR福塩線を利用して神辺駅に到着しました。
神辺駅から徒歩30分くらいとで、神辺歴史民俗資料館登城口(34.537537、133.385804)に着きました。

1335年(建武2年)元弘の乱(南北朝争乱)で戦功をあげた朝山次郎左衛門景連によって築かれたと伝えられています。
以来神辺城は備後国の守護職の居城として使われ、仁木義長・細川頼春・高師康・上杉顕能・渋川義兼・山名時義が守護となり一時期を除いて山名氏の備後支配がつづきそれぞれ守護代が居城しています。
1538年(天文7年)出雲国尼子方となった山名氏に対して、大内氏は銀山城主杉原理興に命じて神辺城を攻略させます。これによって神辺城は杉原氏に与えられ、山名理興と名乗りました。
1542年(天文11年)大内氏は尼子氏の居城出雲富田城を攻めましたが国人衆の離反もあって敗走し、このとき理興も大内方から尼子方につきました。
翌1543年(天文12年)大内氏は神辺城に押し寄せますが容易に落城せず持久戦となり、1549年(天文18年)ようやく神辺城を攻略。神辺城には大内義隆の家臣青景隆著を置ました。
大内氏が滅亡した後は杉原盛重が城主となり毛利氏に属しました。盛重は毛利氏に従って各地を転戦し、伯耆国尾高城主も兼ねるなど勢力を拡大します。
しかし、1582年(天正10年)神辺城を任されていた盛重の子元盛と景盛の間で争いが起こり、神辺城は毛利氏の直轄となり、1591年(天正19年)には毛利元就の子毛利元康が城主となりました。
1600年(慶長5年)関ヶ原合戦の後、毛利氏が防長二カ国に減封となると安芸国広島城主として入封した福島正則の家老福島丹波守正澄が神辺城主となりました。
しかし福島氏は1619年(元和5年)改易となり、替わって備後国100,000石として入封した水野勝成が福山城を築くまで一時在城し、1622年(元和8年)廃城となりました。
1619年(元和5年)の水野氏が福山城築城の際には、神辺城の櫓楼や門などが取り壊され移築されたといわれています。

神辺駅から徒歩で攻城しました。
現在山頂は吉野山公園として整備され、東側には福山市神辺歴史民俗資料館が建てられています。
登城口からすぐの毛抜堀切は見事、また主郭の南側面には石垣が露出しています。
櫓跡や本丸からの眺望は素晴らしい。
攻城時間は30分くらいでした。次の攻城先=幸山城を攻城する為、神辺駅から井原鉄道を利用して清音駅に向かいました。
井原鉄道はICカードは利用できません。券売機もお札は1000円札のみです。

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