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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征24日目:比叡尾山城 (2026/06/03 訪問)

楢崎城から車で50分くらいでで、熊野神社駐車場(34.813741、132.881507)に着きました。
そこから、登山道入口(34.814473、132.884162)に向かいました。

築城年代は定かではないようですが、鎌倉時代に藤原兼範(三吉氏)によって築かれたと云われています。
兼範は承久の乱後に三次に入り、2代兼定が三吉大夫と称して三吉氏を名乗りました。
以後、兼家-信兼-秀高と続き、三吉周辺に所領を広げて備後北部でも有力の国人として勢力を誇ったようです。
1540年(天文9年)、翌1541年(天文10年)と出雲の尼子晴久が吉田郡山城の毛利元就を攻めたとき、尼子方として加わりましたが敗れました。
1542年(天文11年)周防の大内義隆が出雲の尼子晴久を攻めた時には大内氏に従って尼子氏を攻めたが、大内方が劣勢となると尼子方から大内方に靡いていた国人衆が離反して総崩れとなった敗れました。
1544年(天文13年)尼子氏は三吉氏を攻めたが毛利氏の援軍により撃退し以後毛利に属するようになった。
その後、1591年(天正19年)比隈山城を築城し居城を移したため廃城となりました。

本丸近くまで車でいけるようですが、道は狭く離合困難とゆうことで、熊野神社の駐車場を利用して歩いて登りました。熊野神社前に説明板があります。
「登山道」の案内標識&赤いテープがたくさんあり、迷うことなく主郭まで行けます。
巨大な山城で高土塁を用いた曲輪があり、堀切とそこから伸びる竪堀があり、数条もの竪堀が谷底まで伸びておりまさに圧巻です。
攻城時間は80分くらいでした。次の攻城先=高杉城に向かいました。

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T-Shionoya

厚い土塁が残る上ノ郷城 (2026/02/21 訪問)

2月下旬に訪れた愛知県蒲郡市の上ノ郷城。

宝飯山地から三河湾に向け緩やかに傾斜する平地の中央からやや北西寄り、西側半分を兼京川に守られた比高10mほどの小さな高台に築かれた城。

築城時期は定かでないが、戦国時代に蒲郡一帯を治めた鵜殿氏一族の本拠。
今川義元の妹が母である鵜殿長照は、桶狭間の後に今川から独立した家康と対立し、1562年に上ノ郷城は陥落。
その後は1590年の関東移封まで、家康方の久松俊勝が城主となります。

現在は、主郭以外の大部分がミカン畑などの農地である市指定史跡の城跡。

訪問時は、城郭部以外に鵜殿長照の墓や小さな資料館を兼ねる西部公民館などにも寄り、所要時間は2時間近く。
熊ヶ池の北西部にも堀と土塁が残るらしいが、非公開のため確認不能。
主郭の発掘調査では石組み遺構も見つかっているようだが、今は埋め戻されている。

見どころは少ないが、郭Ⅱには厚い土塁を備える、私の城郭巡りの229城目でした。

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やなぎぶそん

祝!国指定史跡 (2022/02/12 訪問)

国指定史跡になる前に行けて良かったです。

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やなぎぶそん

本丸が素晴らしい (2022/01/22 訪問)

本丸に到着するとすごく気を感じて、素晴らしい雰囲気でした。
周りを土塁に囲まれて堅固さも伝わります。

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ぴーかる

小山城 (2026/06/13 訪問)

【小山城】
<駐車場他>吉田町営駐車場(無料)あり。
<交通手段>車

<見所>3重堀・空堀
<感想>1泊2日東海ちょこ城道中1城目。朝一に三保の松原、10時に道の駅にて早めの昼ご飯、11時過ぎにやっと1城目です。だいぶ計画が押し気味ですが、ちょこ城でない予定のメインの城であったのでここはじっくりと。先達の方々がとても多いので城の歴史については割愛します。
 城跡の遺構を散策してから最後に資料館に入館しました。城跡は台地上の突端にあって、かつては東側に大井川が流れていたそうなので河岸段丘の城跡だと資料館のジオラマで分かりました。遺構の見所はやはり堀跡です。三日月堀について、長野県下伊那郡の大島城も駐車場の脇に巨大な三日月堀があるのが一つの見所ですが、距離が離れていても武田氏の城造りの特有さが共通していると感じました。
掘った堀の土を、堀脇に積んで塁にしない(せいぜい馬出しの土居くらい)のも武田氏や北条氏の城の感じがでていました。

<満足度>◆◆◇
<グルメ>登城前に道の駅「そらっと牧之原」にて鰹の3種盛り丼を食べました。ちょうど鰹の時期だったし、とても旨かったので紹介を。お茶も買いましたが産地なのにあまり種類が置いていませんでした。お茶のスイーツのお店は行列でした。

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コウマくん

転用石探し (2026/07/11 訪問)

福知山駅から徒歩15分。市役所付近から丘陵に建つ天守閣が見え始めテンション上がります。
丘陵を登ると望楼型の天守閣が見事です。
野面積みの石垣は転用石が沢山あり探して眺めるのも楽しいです。
天守閣からの眺望も見事で由良川や福知山線などが見えます。
全体的にとても素敵で地元に愛されていると感じました。

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天守無しがアツい

脱走軍(幕府軍)の人徳 (2026/07/04 訪問)

脱走軍(幕府軍)は占領地において負傷兵は敵味方問わず全快するまで介抱🏥

降伏した松前藩兵に対しては…脱走軍に加わるもよし…藩主を慕って津軽へ渡るもよし…農民を志すもよし…つまり各々の自由にさせた

これを見て…「スゲーなんて良心的なんだ😳」「歴史を見ていく上で、新政府軍が正義…幕府軍が悪…のように思わされる事もあったが…どっちが悪よ?」

「この箱館戦争は勧善懲悪で語れるものでは決してなく…あくまで新政府軍🆚蝦夷共和国軍(幕府軍)の…互いの掲げる正義どうしの対決だったんだな🤔」と思わされた

しかし…上記の藩主を慕って津軽へ渡った松前藩兵は…翌年(明治2年)の新政府軍の蝦夷共和国侵攻において…その先頭に立つ🧍

つまり恩を仇で返してしまった…と😂

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イオ

三木城への補給の拠点 (2026/01/18 訪問)

築城時期は不明ながら淡河氏が築いた城で、三木合戦では別所方として三木城への補給の拠点となり、羽柴長秀(秀長)の攻撃を一度は撃退するも丹生山城の落城により開城し三木城に撤退しました。戦後は有馬則頼が入って改修しましたが、関ケ原の戦いの功により三田城に移ると、一国一城令により廃城となりました。

道の駅淡河の駐車場から登城開始。道の駅からは淡河城址の表示と模擬櫓がすぐ近くに見えています。道の駅から浦川を渡って整備された登城道を進むこと約5分で本丸に到達。本丸は畑(半ば藪)になっていますが、東端に模擬櫓(裏手に説明板)が建ち、南辺と西辺を土塁で囲んでいます。南辺の土塁は幅と高さがあり天守台と呼ばれています。天守台には淡河城趾石碑に加えて稲荷社が建てられていて、社殿には淡河城の資料や復元図、淡河合戦図が掲示されていました。本丸南西隅の本丸門を出ると、土橋の両側に土塁と横堀が続いていますが、藪化していて見通しはききません。土橋を渡った先の二の丸は農地として整備され遺構は消滅しています。横堀に沿って南に進んで東に折れた先では横堀が畔で区画され、畔の東側は水堀(といっても登城時は水はほとんど無し)になっていました。二の丸東部の一段高い一角は竹慶寺跡とされ、淡河家廟所が設けられています。竹慶寺跡の南辺には横堀が見られました。

豊臣秀長ゆかりの城めぐり「月影の男紀行」として登城しましたが、現在見られる遺構(天守台や横堀)は有馬期の改修によるものなんだそうで、秀長に関係ないやん…。淡河城攻めの付城(天正寺城・淡河西付城)は関係あるでしょうけど、後の予定もあって今回はパス。稲荷神社掲示の合戦図に秀長の本陣として描かれていた淡河八幡神社に行ってみるも、それらしい痕跡はなく説明板や由緒書にも本陣を示す記述はありませんでした。競馬「有馬記念」の有馬頼寧氏が淡河城主・有馬則頼の子孫であることを知ったのがせめてもの収穫でしょうか。
 

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征24日目:楢崎城 (2026/06/03 訪問)

上下陣屋から車で25分くらいで、無人販売所付近(34.590404、133.173307)に着き路駐しました。
そこから、登城口(34.592760、133.171264)に向かいました。

1333年(正慶2年)楢崎豊武によって築かれたと云われています。 楢崎氏は湯原氏の庶流で湯原親王の後裔雅楽頭豊信の末裔のようです。
大和国宇多郡を領した宇多加賀守豊武が足利尊氏に属して功を挙げ、1333年(正慶2年)に備後国蘆田郡久佐の地頭職となり楢崎山に居住して楢崎氏を称したことに始まるそうです。
楢崎氏は楢崎城を居城として代々続き、楢崎豊景のとき毛利氏に属しました。
1558年(永禄元年)毛利氏が石見国温湯城の小笠原長雄を攻めた際には、楢崎豊景・信景父子は小早川隆景の指揮下で温湯城の後詰めにきた尼子晴久を押さえたそうです。
豊景は毛利氏の備南制覇の過程でその先鋒として活躍し1568年(永禄11年)の神辺合戦では、子息を失いながらも毛利氏のために、藤井氏から神辺城を奪回するのに功があったそうです。
信景の嫡子弾正忠元兼は天正年間(1573~92)毛利氏の部将として美作月田山城を守り、羽柴・宇喜多氏との合戦で功を立てているようです。
城はこうした楢崎氏の盛衰の中で整備され、1600年(慶長5年)同氏の退去と共に廃されたようです。

無人販売所付近から登城口に向かう途中に安全寺の駐車場がありましたが、チェインが張ってあり駐車できません。
登口は安全寺の入口、民家の脇にある細い道を登って突き当りを右に進んで行きました。
堀切付近から赤いテープを目印に登っていきましたが、なかなか着きません。
縄張図では堀切からすぐ着くはずです。もしかして、まったく関係ない山に登ったかもしれません。
登城口と堀切までは間違ってないので、とりあえず投稿します。間違っていたらゴメンナサイ。
攻城時間は60分くらいでした。次の攻城先=比叡尾城に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征24日目:上下陣屋 (2026/06/03 訪問)

有福城から車で5分くらいで、府中市上下歴史文化資料館駐車場(34.694936、133.120929)に着きました。
そこから、代官所跡入口(34.694193、133.122461)に向かい、その後、代官所移築門入口(34.694299、133.120099)に進んで移築門を確認しました。

1700年(元禄13年)江戸幕府によって築かれました。
1698年(元禄11年)福山藩100,000石の水野氏が無嗣子で改易となると、幕府は岡山藩主池田綱政に命じて検地を行い、新石高を150,000石としました。
水野氏の後に福山城主となった松平忠雅は100,000石で、残り50,000石は幕府直轄の天領となり、これを管理するために上下代官所が設けられました。
1717年(享保2年)20,000石が豊前国中津藩領となり、規模が縮小したことで石見国大森代官所の出張陣屋となって明治まで続きました。

代官所は東から北に面して石垣が残っています。また町内の民家に代官所の門が移築現存しています。
上下町は銀山街道に面した町内に古い街並みが残り、上下歴史文化資料館には付近の中世城館や上下代官所に関する展示があります。
攻城時間は25分くらいでした。次の攻城先=楢崎城に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征24日目:有福城 (2026/06/03 訪問)

甲山城から車で40分くらいで、国道432号線沿い空スペース(34.714524、133.111822)に着きました。
そこから、説明板前(34.713001、133.111616)を経由して、登城口付近(34.713347、133.112293)に向かいました。

有福庄は京都の賀茂別雷社の荘園で、1185年(文治元年)土肥実平・遠平父子が有福荘の地頭となって守護所が置いていたようです。
築城年代は定かではないようですが、鎌倉時代に竹内弥次郎兼幸によって築かれたと云われています。
1336年(建武3年・延元元年)竹内兼幸は南朝方として有福城に立てこもったが、北朝方の山内氏・長谷部氏などの攻撃を受け有福城は落城しました。
その後、有福氏の居城となってはじめ尼子氏、後に大内氏、最後に毛利氏に従ったとされます。
有福氏は藤原秀郷の後裔和智筑前守豊実の次男尾越朝実の子元貞がはじめて有福氏を名乗ったとされます。
この元貞の時代、1581年(天正9年)に有福城の普請と番衆を置くように毛利輝元より命じられています。
有福伊賀守元貞の後には嫡子有福玄蕃允貞茂が早世したため、弟の尾越丹波守元久が継いで名乗りを尾越に戻したようです。

有福城は国道432号線の東にある標高525.2mの有福山(鶏足山)山頂に築かれています。
国道432号線沿いに説明板が建っています。
登山口の案内はなく、案内板と城山の間にある民家の脇から登山道があるようですが、時間の都合で説明板の写真を撮って撤退しました。。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=上下陣屋に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征24日目:甲山城 (2026/06/03 訪問)

大富山城から車で35分くらいで、円通寺麓駐車場(34.851541、132.952707)に着きました。
そこから、円通寺(34.852338、132.954323)に徒歩向かいました。

1316年(正和5年)山内首藤家の惣領通資によって築かれたと云われています。 山内氏は相模国鎌倉郡山内荘発祥で源頼朝に従って功を挙げ備後国比婆郡地毘荘の地頭職を得ました。
1355年(文和4年)に通資は甲山城へ居城を移し、蔀山城は弟の五郎通俊に譲られました。通俊は多賀山氏を称し、多賀山内首藤家として代々蔀山城を居城とします。
山内氏は始め比叡尾山城の三吉氏、南天山城の和智氏、大富山城の久代宮氏らと所領の争奪を繰り広げていました。
周防国大内氏の勢力が備後に及ぶと大内氏に従ったが、出雲の尼子氏の勢力が増すと尼子氏に属するようになります。
1540年(天文9年)尼子氏が毛利元就の郡山城を攻めると、山内氏はこれに参戦しましたが尼子氏は敗れました。
1542年(天文11年)には逆に大内義隆が尼子氏の月山富田城を攻めましたが、このときは大内方として参戦するも、尼子方に寝返り大内氏の大敗となりました。
その後、1553年(天文22年)隆通の時、山内氏は毛利に臣従しました。
1600年(慶長5年)関ヶ原合戦の後は防長二カ国に減封となった毛利氏に従い長門へ移り廃城となりました。
江戸時代を通して、山内氏代々は長州藩の寄組(家老職)として藩政の中枢を担ったそうです。

甲山城は半独立丘陵に築かれており、南西山腹にある円通寺は山内家の菩提寺でした。
山腹にある円通寺まで車で登ることができるがやや道が狭いとのことで、自分は麓にある円通寺の駐車場に車を置いて徒歩で登りました。
普通車が円通寺の駐車場に停まっていたので車でも大丈夫そうです。
円通寺本堂左に城跡碑、説明板が建てられており、そこよりフエンス扉を開け閉めし登って行きます。
現地の縄張図を見ると櫓台のある1郭を円形に囲むように北側に2郭、南側に3郭があり、その他東と西、南に郭があるようです。
城域は思っていたより広く、時間の都合で1郭/2郭/3郭のみ見学しました。
攻城時間は60分くらいでした。次の攻城先=有福城に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征24日目:大富山城 (2026/06/03 訪問)

蔀山城から車で45分くらいで、浄久寺手前から林道(34.920537、133.112722)に入り、終点の大堀切付近に駐車しました。
林道に入る前には雨はあがりましたが、前日の台風の影響で林道には倒木や石が散乱しており、何度も車をおりて障害物をどけて走行した為、到着に時間を要しました。

1533年(天文2年)宮高盛が築いたと云われています。
はじめ宮氏は備後比田山城を本拠にしていましたが6代景友が五品嶽城を築いて移り、更に7代高盛が西城へと勢力を伸ばして大富山城へと居城を移しました。
宮氏は、高盛-興盛-景盛-智盛-広尚と5代に渡ってこの地を領しました。
しかし、1590年(天正18年)11代宮広尚のとき毛利輝元の怒りをかい、出雲の塩冶へ領地替えになったようです。
宮広尚に変わって天野元嘉が1600年(慶長5年)まで在城していました。
毛利氏が防長2国に減封となると元嘉も毛利氏に従い周防玖珂郡(天野氏館)へと移ります。
福島正則が安芸広島へと入ると家老長尾一勝が東城五品嶽城へ入ると大富山城は廃城となりました。

大富山城は大富山に築かれています。
主郭は山頂にあり一段下がって腰曲輪が続いており、東側に「あやめの段」、下の曲輪を「菊の段」と呼んでいます。
菊の段の東端に石積された虎口状の遺構があります。
南側の林道が大堀切です。
攻城時間は60分くらいでした。次の攻城先=甲山城に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征24日目:蔀山城 (2026/06/03 訪問)

ホテルから車で40分ちょっとで、説明板付近駐車スペース(35.032942、132.927720)に着きました。

1316年(正和5年)山内首藤家の惣領通資によって築かれたと云われています。 山内氏は相模国鎌倉郡山内荘発祥で源頼朝に従って功を挙げ備後国比婆郡地毘荘の地頭職を得ました。
1355年(文和4年)に通資は甲山城へ居城を移し、蔀山城は弟の五郎通俊に譲られました。通俊は多賀山氏を称し、多賀山内首藤家として代々蔀山城を居城とします。
1526年(大永6年)多賀山通続のとき、尼子氏から大内氏に鞍替えしたことから尼子氏によって攻められ、1529年(享禄2年)に落城しました。
その後、安芸の毛利元就に従っていましたが、1591年(天正19年)19代多賀山通信のとき毛利輝元によって改易となり廃城となりました。

大山神社鳥居から参道があり、大山神社の遊歩道が本丸まで続いているようですが、朝から雨が降っているので鳥居前まで行って引き返しました。
国道432号線南麓に居館跡があり、その少し東の熊野神社鳥居横に城趾碑が建てられています。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=大富山城に向かいました。

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トク

(本能寺の変から天草島原の乱)明智秀満→安田国継→三宅藤兵衛

本能寺のつぶやきの続きです。本当にトクは・・・と思われるでしょうが、ここで私の好きなこの三人の武将の話をどうしてもしたいので、よければお付き合い下さい。(過去の投稿と一部だぶりますがすいません)。

本能寺に実は明智光秀はいなかったのでは? という説がある事を前回させていただきました。やはり光秀には直接主君の信長を攻めるのは、ためらいがあったのではないでしょうか? ならばと泥をかぶる役を買って出たのは、NO.2の明智秀満(左馬之助)だったと思います。左馬之助は若い頃から光秀の右腕として仕えていました。だから左馬之助には、光秀の気持ちが痛いほどよく分かっていたのではないでしょうか?(とここも勝手な推測です)。

本能寺の変の様子が残されている、皆さんも見た事はある有名な絵(写真⑩)を見て下さい。そこには信長を槍で傷を負わせる武将が描かれています。彼の名は秀満の家臣「安田国継」です。よって本能寺に突入したのは、やはり秀満の軍勢であった事はこれで間違えないようです(ドラマ豊臣兄弟では、なぜかNO.3の斎藤利光の軍勢でしたが?)。光秀の軍勢は鳥羽で控えていた後、本能寺が焼け落ちるのを見て、斎藤利光が信忠を攻めていた二条御所に向かい加勢したと一部の記録にあります。それが本当なら光秀は本能寺には立ち寄っていない事になります。よって、焼け落ちてから首を探すまで、秀満に全てを任せていたのではないでしょうか。したがって秀満が見つかりませんでしたと報告すれば、それを信用するしかありません。あるいは顔が判別できないほどだったので、秀満はあえて見逃した事を言わなかったのかもしれません(これも全て推測なのですいません)。

明智秀満はその後、山崎の戦いには参加せず、北陸から南下するかもしれない柴田勝家に備えて安土城を守っていたようです。全軍で山崎にて戦えなかった光秀の苦悩がうかがえます。そして「光秀討たれる」の報が届くと、秀満は安土から坂本城に一族を守るため、何と湖水を渡って戻ったそうです。しかし翌日、秀吉の家臣「堀秀政」の軍勢に囲まれ明智一族は坂本城にて自害し滅びました。坂本の明智家菩提寺である西教寺には、光秀や明智一族の墓があり、この時の様子が資料などで解説されています(なので西教寺は必見だと思います)(写真①②③)。

しかしここで、幼い赤子だった明智秀満の嫡男「藤兵衛(与助)」は、家臣の三宅六郎太夫に連れられ坂本城から助け出されます。そして京都の豪商や叔母の細川ガラシャ(母の妹)に密かに匿われました。同じく生き延びた安田国継は、諸国を転々と流浪する中、唐津藩主「寺沢広高」に見いだされ、家老にまで出世します。そこで関ケ原の直前ガラシャが亡くなるという悲報を聞きますが、同時に藤兵衛(かつての主君秀満の子)が生きていると聞いて驚き、唐津に呼び寄せ広高に推挙しました(写真④)。三宅藤兵衛(重利)はめきめきと頭角を現し、唐津藩筆頭家老にまで出世し、富岡城の城代を任されます(写真⑤)。そして「寺沢堅高(広高の子)」の命により、天草のキリシタン弾圧を先頭に立って行いました。しかしここで不運が、何と耐えかねた農民たちによる天草一揆が勃発! 藤兵衛は本渡城の戦いで討ち死にしてしまいます(写真⑦⑧)。

藤兵衛の四人の子らは、一揆軍から富岡城を守り抜き(写真⑥)、この後は熊本藩細川忠利(ガラシャの子)の軍勢に加わり、原城総攻撃で天草四郎を攻め武功を上げます。そして細川光尚(忠利の子)に召し抱えられ、特に長男重元は家老にまで出世し、三宅家は熊本藩で代々要職を務めていったそうです(写真⑨)。

前回の「麒麟がくる」では、「間宮祥太郎」さんが明智秀満役を演じておられましたが、今回の「豊臣兄弟」では誰も演じてないので、これらのシーンは出てこないとは思いますが、皆さんももし機会があれば、「坂本城(西教寺)→唐津城→富岡城→本渡城(藤兵衛の墓)→熊本城」と明智秀満とその(子・家臣・孫)らの足跡をたどられてみてはいかかでしょうか? 以前(2022年)の城びと特集にも明智秀満は取り上げられた事があるので、詳しくはそちらも御参照下さい。

またまた長い話ですいませんでした。また「あ」さんの地元に足を踏み入れるような内容で申し訳ありませんでした。次は天王山に登り、山崎城(山崎の戦い)に続きます。
 

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ぴーかる

日本三大松原制覇 (2026/06/13 訪問)

【三保の松原】静岡県静岡市
<駐車場他>羽衣公園駐車場(無料)あり。
<交通手段>車

<見所>松林・富士山
<感想>1泊2日東海ちょこ城道中1つ目。2020年に久能山に行きましたが、近い三保の松原には行かなかったので、今回は日本三大松原制覇の為、旅のメインの一つとして訪れました。ちょこ城のメインは愛知県の豊橋・豊川・田原市を中心にしていたので、ここに朝一にきて西へ戻る方向へ城巡りしました。
 静岡ICから国道150号線を東に向かって車を走らせていると左手に日本平の山並みが見えて山峰の端っこに独立した山が見えて、「俺ならここに山城造るねんけどなあ。」なんてつぶやいていたら、久能山でした。前回はロープウェイで北から行ったので景色が全然違って見えました。
 現地到着は8:30頃で人もまばらで良かったですが、曇天で富士山は肉眼で超うっすら見える程度。予報も覆す旅の雨男なので降らなかっただけましか・・・。

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森冠者

畠山重保館はここではありません。

戸塚高校の下に森家の屋敷がありました。
この戸塚高校の敷地は戸塚高校移転の際に譲ったものです。
東寺の新聞記事や、あづまかがみにも森家のことは記録があります。
明治のころの宮内庁の人物資料にも記載があります

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シャンシャン

13番目の現存天守!? (2026/07/10 訪問)

日本で唯一の円郭式城郭である田中城。
かつては本丸を中心に二ノ丸、三ノ丸が円形に広がり、4重の同心円状の水堀が巡らされていた。
現在も所々に堀や土塁、曲輪が残っており、道もかつての縄張りの形状を引き継ぎ同心円状に残っている。
下屋敷には、かつて本丸にあった二重櫓が残っており、大きさ自体は小さいものの立ち位置的には13番目の現存天守と言ってもいいかもしれない(言い過ぎかな?)。
また、ちょっと離れた位置にある旭傳院には、小振りながら田中城から移築された不浄門が残っている。

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にのまる

松前藩すごい。 (2026/06/24 訪問)

新函館北斗駅で富川会館行きのバス乗り場を探していると「戸切地陣屋型花壇」の文字が目に飛び込んできました。あたりを探してみると先の尖った星型の花壇が!すでに3日もこの近くに滞在しているのに全く気づかなかったです。さすが日本で最初の西洋式星形城郭💫このあとの現地訪問への期待も高まります。

時間通りに来てくれたバスで「清川陣屋」下車。“桜が有名”と聞いていましたが、バス停からの上り坂が桜のトンネルになるようです。10分くらいで見晴らしのいい場所につきました。ここも桜の園のようで、すでに時季は過ぎていましたが、たくさんの桜の木がありました。

陣屋跡へはこのまままっすぐ行けますが、東側に外周を歩けそうな道があったのでまずは外から見てみることにしました。草刈りなどの整備をしてくださっているおかげだと思いますが、遠目でも稜堡のラインがわかり、また、同時に閉塞感も強く感じました。この直前に函館四稜郭に行ったので、規模の違いをリアルに感じられたのはいい体験でした。

火薬庫が搦手の外のさらに奥にあるのに気づいたのが遅かったので、結局外周→搦手→大手→搦手→火薬庫→搦手→大手と行ったり来たりしましたが、その分たくさん見られたのでOK🙆‍♀️です。

再建された表門・裏門のほか、郭内にはたくさんの建物が平面復元され、それぞれに説明板もありました。当時は17棟の建物があり120人が守備していたそうです。

乗っ取られるくらいならと、最後は自らの手で焼き払ったそうですが、復活を遂げた!と言ってもいいくらいのすばらしい遺構を見ることができました。


⭐︎あまり参考にはならないと思いますが、バス便、ホントに少ないです。
【行き】
新函館北斗14:06→清川陣屋14:25
【帰り】
清川陣屋16:05→新函館北斗16:24

平日なので↑で行けましたが、休日(学校の長期休み期間も)だと各1日1本で上記のバスはありません。いさりび鉄道の清川口にもバスで行けますが、これはこれで列車との接続が厳しいです。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征23日目:野田山城 (2026/06/02 訪問)

天気予報では今日は台風の影響で一日中、大雨ですが強風は一時的なので、レンタカーや宿泊ホテルは予定変更せず、城巡り続行。しかし、山城の登城は危険なので登城口止まりになります。
長期遠征は、台風の少ない5月中旬~6月上旬でいつも計画していますが、今回の遠征は雨の日が多くかつ台風まで来てしまいました。残念です。
枝の城/館城から車で5分弱で、別所集会所(34.784586、132.439917)に着きました。

詳細は不明ですが、城主は板垣内蔵之助とも伝えられるが詳らかではありません。

集会所前南側の小道を進むと登山口方面です。説明板の写真を撮って撤退しました。
攻城時間は5分くらいでした。本日の城巡りは、ここがラストです。
歩行歩数=4903歩、歩行距離=3.4Kmです。本日は台風の影響で山城の登城はせず、登城口止まりでしたので、ほとんど歩いていません。
本日の宿泊先に車で向かいました。

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