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恐竜ワールド勝山の城 ~七里壁は一見の価値あり~ (2025/08/20 訪問)

 えちぜん鉄道 永平寺・勝山線の終点 勝山駅から徒歩15分ほど。
 本来は、福井県立恐竜博物館に向かう予定だったのですが、バスを乗り過ごしてしまう失態を起こし、勝山駅で1時間待ちに…(我ながらお恥ずかしいかぎり…)
ただ1時間あれば勝山城を見学できると思い、急遽、予定を変更して見学してきました。

 勝山城は九頭竜川沿いの河岸段丘上に築かれた近世城郭です。郊外に模擬天守の博物館がありますが、元々のお城は市街地にありました。かつては天守台や本丸の土塁などが残存していたようですが、現在は、勝山市役所などになっていて本丸周辺は、遺構らしいものは確認できませんでした。勝山市民会館前に城址碑と説明板が設置されています。また藩政期の建物である藩校の成器堂の講堂が現存しています。
 城の遺構は無いのかなと思っていたら、駅からの本丸までの道中で、「七里壁」という石垣をたまたま発見。日本遺産にも指定されているようで、脇に説明板が設置されていました。
 説明板を読んでみると、「七里壁」は、九頭竜川沿いの河岸段丘の段丘崖を指す言葉で、勝山ではそこに石垣を構築。これを境目にして勝山の城下町は、上側に勝山城や武家屋敷という武士のエリア、下側に寺社や商家が置かれたとのこと。いわゆる外堀的な役割を果たした石垣で、数少ない勝山城の遺構といえると思います。
 しかも、九頭竜川の河原の石を用いた、玉石積で積まれています!!
 なかなか見られない玉石積が、まさか勝山で見学できるとは、思いませんでした。ぜひ勝山を訪れた際は、皆さんにも見てほしいです!!

 ここから城とは関係ありませんが
勝山城を見学後、無事、次の恐竜博物館行のバスに乗車。博物館の常設展と特別展を見学してきました。常設展は、全身骨格が所狭しと展示されていて、とんでもない迫力でした。さすが恐竜王国…
 開催されていた特別展では、映画『ジュラシックパークⅢ』で知られるスピノサウルスを中心とした獣脚類の化石が展示されていました。泳ぐ姿で復元されているスピノサウルスの骨格は迫力満点でした!!

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長崎城(福井県坂井市) 新田義貞墓所&明智光秀・𤋮子ゆかりの地 (2025/08/19 訪問)

 ハピラインふくい(旧北陸本線) 丸岡駅から徒歩40分。
 バスの場合は、丸岡駅または丸岡バスターミナルから「舟寄」で下車。徒歩12分。称念寺脇にトイレと駐車場があります。
 時宗の道場 長崎称念寺が城郭化した城で、堀と土塁で構成された平城だったようです。太平記に「長崎城」と記載があり、南北朝時代には南朝方の武将新田義貞が拠点の一つとして機能していたようです。
 現在も称念寺となっていて、明瞭な城の遺構はみられませんでしたが、境内に新田義貞の墓所があります。そして明智光秀が美濃を追われた際、この称念寺の門前で寺子屋を開いて暮らしていたようです。光秀の妻 𤋮子が髪を売って光秀を支えたエピソードの舞台はこの地らしく、この逸話を題材にした松尾芭蕉の句碑が境内に設置されています。句碑のそばには、明智家の家紋にもあしらわれている桔梗の花が植えられています。
 説明板によると、称念寺の住職が朝倉氏の連歌会に光秀を推挙。牢人で資金不足に悩んでいた光秀を見て、𤋮子が髪を売って、準備を整えたことで、連歌会は成功し、朝倉氏に仕官する道が開けたとのことです。逸話は知っていましたが、朝倉に仕官するきっかけの出来事だったことは知らなかったので、とても勉強になりました。また諸説あるようですが、細川ガラシャ(たま)の生誕の地の候補の一つにもなっているようです。
 私が明智光秀好きというのもありますが、光秀要素満載で、とても楽しめる史跡でした!!丸岡城からバスで来ることもできるのでおすすめです。
 そして、近くには、福井銘菓の一つ 五月ヶ瀬の直営店の舟寄庵があります。
 訪問した日は、午前中でもかなり暑かったので、五月ヶ瀬味のジェラートをいただきました!!
 香ばしく甘いピーナッツ味でとても美味しかったです。(猛暑ということで、おまけでうちわも頂けました。)

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越前の国府の城 (2025/08/21 訪問)

 本題の前に、熊本県を震源とする大きな地震が九州で発生しました。九州の皆さんには、心からお見舞いを申し上げます。遠征中のトクさんもご無事なようで安堵いたしました。
 また新潟県では、大雨の被害が出ているようです。私も4月に訪れた新潟駅周辺が水没したニュースを拝見し、他人事のように思えませんでした。朝田さんも無事の様子で良かったです。
 地震で熊本城や八代城では、かなりの被害が生じたようで、言葉を失いましたが、まずは皆さんの安全と早期のライフラインの復旧を心からお祈りしたいと思います。

さて、今回は越前府中城のご紹介です。
 ハピラインふくい(旧北陸本線) 武生駅から徒歩3分。
 本来は訪問の予定にはなかったのですが、指定した新幹線までの時間を活用して、見学してきました。
 武生駅前の交差点を出てすぐの越前市役所付近が城跡にあたります。越前市役所前に発掘された石垣、城址碑、説明板が設置されています。歩道脇に野面積の石垣が復元されていて、城跡の雰囲気が感じられていいですね。しっかり裏込石も復元されているのもポイントが高いです!!
 今回、弾丸だったため、見学は見送りましたが、市内の正覚寺に表門、龍泉寺に城内の勘定奉行所の表門が移築されています。
 府中城は、元々は越前の国府が置かれていた場所で、朝倉氏滅亡後、織田信長によって府中を与えられた前田利家によって本格的な城として築城されたようです。関ヶ原の戦い以降は、結城秀康に与えられ、重臣本多富正が城主として入城。改修を行ったとされています。一国一城令の際も本多家は大名格の御附家老であったため、例外的に支城として存続が許され、明治まで本多家の居城となっていました。

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todo94

日本海の離島の攻城【城びと未登録・釜屋城】(新潟県粟島浦村) (2026/07/19 訪問)

飛島航路が欠航していた前日も粟島のフェリーは運航していました。飛島よりだいぶ南に位置していて梅雨前線から離れていたということもありそうですし、何より、想像以上に素晴らしいフェリーが就航しているのも粟島の強みにはなっていそうです。粟島に上陸して向かったのは、島の南西端に位置する釜谷城。港からは5km以上の道のりになります。炎天下、平坦な海岸沿いの道をひたすら進み、最後は上りが続いていったん下ったところが登城口の八幡神社入口です。八幡神社が鎮座する郭が主郭で、その先には八幡鼻という展望スポットがあります。釜谷城自体、見張り番所といった性格の城だと思いますが、八幡鼻は釜谷城の出丸、遠見として機能していたのではないかと感じられました。天気予報に反して青空が広がり、絶景を堪能することができました。

※粟島に最も近い登録城は、村上城ではありませんが、フェリーが発着する岩船港最寄りの城ということで、村上城で投稿させていただきました。

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赤い城

秀吉の出世城 (2026/07/12 訪問)

この日ラストのリアは長浜城です。
秀吉が築いた出世城として知られています。
駐車場に車を置いて模擬天守方面へ進みます。
この日は多くの人がいらっしゃいました。
公園は市民の憩いの場でもあり、また大河ドラマの影響もあるのでしょうね。

まずは模擬天守に入ります。
展示物を見学し最上階へ。琵琶湖を一望、竹生島や彦根方面も望むことができます。
そういえば朝田さんにクイズを出して頂いた眺め、思い出したのは降りてからで写真を撮っていないことが悔やまれます😓
北側にある築城当時の石を使用した石積を通り太閤井戸と廻り車に戻りました。

【見どころ】
 ・模擬天守からの眺望

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征31日目:置塩城 (2026/06/10 訪問)

置塩城の溝口駅からJR播但線で姫路駅に戻ってきましたが、姫路駅から宮置バス停に向かうバスの接続が悪く30分待ちになりました。
宮置バス停から徒歩20分くらいで、置塩城登山口(34.917986、134.677286)に着きました。

1469年(文明元年)赤松政則によって築かれ、播磨・備前・美作3ヶ国の守護職・赤松氏の本城として使われました。
赤松氏は嘉吉の乱によって一時没落していましたが、南朝方から神璽を取り戻した功によって、政則の家督相続が認められ加賀半国の守護として復興しました。
その後政則は、応仁の乱で細川勝元の命で播磨へ攻め込み、旧領の回復に努め、代々の居城であった白旗城から置塩城へ居城を移しました。
1577年(天正5年)赤松則房は羽柴秀吉の播磨平定に従って、1585年(天正13年)の四国征伐に功があり、阿波国住吉に10,000石の所領を得て阿波国住吉城に移り置塩城は廃城となりました。
羽柴秀吉が姫路城を改修した際に、置塩城の用材を転用したといわれており、姫路城の「と」の門は置塩城大手門を移築したものといわれています。

登城道は整備され距離は長く、緩やかな登り坂はやや滑りやすいですが、そんなにきつくは無いです。
城内はさすが播磨最大の山城と言われるだけありとても広く、主郭に二の郭、三の郭の他、至る所に残る石垣など見所満載です。
巨大山城ですので隅々まで見学するなら時間に余裕をもって攻城した方が良いと思います。
たくさん写真を撮りましたが、ピンボケが多くピンボケ写真は投稿を控えました。
攻城時間は95分くらいでした。本日の城巡りは、ここがラストです。
本日の宿泊先に戻る為、宮置バス停から神姫バスを利用して姫路駅に向かいました。
歩行歩数=33581歩、歩行距離=23.5Kmです。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征31日目:恒屋城 (2026/06/10 訪問)

溝口駅から徒歩40分くらいで、恒屋城登城口(34.943796、134.718609)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、嘉吉年間(1441年~1444年)赤松氏の幕下恒屋氏によって築かれたと云われています。
1576年(天正4年)羽柴秀吉の軍に攻められ落城したようです。

登城口手前に恒屋城跡駐車場があります。登山道は整備されており、登城口には杖も用意されています。戦友の杖を鶴居駅に置き忘れた自分には助かりました。
横堀や畝状竪堀が良く残っており見ごたえがあります。前城や後城から見る眺望も素晴らしかったです。
麓から見える旗は前城のものでした。
攻城時間は65分くらいでした。次の攻城先=置塩城を攻城する為、溝口駅からJR播但線と神姫バスを利用して宮置バス停に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征31日目:鶴居城(稲荷山城) (2026/06/10 訪問)

鶴居バス停から徒歩15分くらいで、鶴居城登城口(35.024355、134.746130)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、明徳年間(1390年〜1394年)頃に赤松則村(円心)の孫の永良則綱によって築かれたと云われています。
則綱の孫である3代・彦太郎泰秀が拾一城(豊地城)に居城を移したのちも城代を置いて維持されていました。
しかし、1441年(嘉吉元年)に起きた「嘉吉の乱」で落城し、赤松氏は但馬の山名持豊に攻め込まれ、山名氏の支配下に置かれました。
その後、赤松政則は応仁の乱(1467年~1478年)中に失地を回復、1488年(長享2年)に播磨を奪回すると、家臣の広瀬近江守親茂・雅親父子が城主をつとめました。
稲荷山城の城主となった広瀬近江守雅親は、谷城主も兼ねていましたが、1560年(永禄3年)に討死したと云われています。
同じく谷城は、永禄の頃戦火ににかかり焼失廃城となり、両城とも同じ運命を辿ったと考えられています。

現在は登山道が整備されています。
神崎総合病院バス停から鶴居バス停に向かうバスがなく、バス待ちになったこと&兵庫県市川町コミュニティバスの経路が逆で到着に時間を要しました。
その為、当初は登城する予定でしたが、登城してしまうと電車に間に合わず、本日最終攻城予定の置塩城に行けなくなることを考えて登城口で撤退しました。
鶴居城と置塩城を天秤にかけて置塩城を優先しました。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=恒屋城を攻城する為、鶴居駅からJR播但線を利用して溝口駅に向かいました。
少し慌てていた為、前回(一年前の東海関西遠征)と今回(中国地方と兵庫県遠征)の31日目までを共にした戦友の杖を鶴居駅に忘れてしまいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征31日目:福本陣屋 (2026/06/10 訪問)

姫路駅からJR播但線と兵庫県神河町/上小田線バスを利用して福本バス停に着きました。
福本バス停から徒歩5分くらいで、福本揚羽ホール駐車場入口(35.057460、134.773883)に着きました。

池田輝澄は、姫路藩主池田輝政の四男で山崎藩主として68,000石を領していましたが、1640年(寛永17年)御家騒動により改易となりました。
1662年(寛文2年)輝澄が没すると子の政直は神崎郡・印南郡内に10,000石が与えられて大名に復し、1663年(寛文3年)福本に陣屋を置きました。
10,000石を領して大名となった福本藩池田氏(松平氏)でしたが、1665年(寛文5年)政直が嗣子なく没しました。
その所領10,000石は弟政武に7,000石、弟政済に3,000石に分割されました。政済は旗本となり、政武は交代寄合としてそのまま福本陣屋を居所としました。
1687年(貞享4年)政武が没すると、家督を継いだ政森は二男政親に1,000石を分知したため、以後6,000石の交代寄合となりました。
1868年(明治元年)池田喜通の時、高直しにより10,000石を越えたため再び諸侯に列しましたが、1870年(明治3年)に鳥取藩と合併し廃藩となりました。

福本陣屋は現在の大歳神社境内に築かれており、藩邸は大歳神社の社殿の所にあったそうです。
南にある庭園は池泉回遊式庭園と呼ばれ、元禄年間(1688年〜1704年)の古図面そのままに現存する貴重なものだそうです。
石垣や土塁が一部残っているとのことで捜しました。神社の拝殿横に土盛りがあり石積も一部ありましたが遺構には見えません。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=鶴居城を攻城する為、神崎総合病院バス停から兵庫県市川町コミュニティバスを利用して鶴居バス停に向かいました。

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トク

今だ鹿児島に足止め

いろいろと御心配して頂き、ありがとうございます。何とかして鹿児島を脱出して福岡に戻る方法を、状況を調べながら検討している所です。仕事もこれ以上欠勤するわけにもいかないし、楽観していた自分が甘かった😩。

新幹線も、熊本から南はまだ数日かかるらしいです。JR在来線と高速道路は八代周辺はほぼ壊滅状態です。一般道も多く寸断しています。復旧はかなり長期に渡りそうです。

八代城も本丸にある神社は完全に倒壊。石垣もかなり被害があるらしいです (地元のニュースより)。

いちばん大変なのは、この酷暑です。暑いを通り越して、もう熱波です。復旧に携われている方々、家を失った方々、停電でエアコンが使えない方々など、本当に大変だと思います。被害は思った以上に大きそうです。

とりあえず明日は、宮崎から大分方向に行ってみようと思います。(今また揺れました😱!)

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にのまる

遠距離バスがありがたいです。 (2026/06/26 訪問)

この日も東横インの無料朝食をスルーして06:02函館発の北斗1号で新函館北斗→はやぶさ10号で木古内へ移動しました。
木古内の道の駅「みそぎの郷 きこない」は開店前だったので近所をお散歩したりセイコーマートで食糧調達したりして時間をつぶし、07:38発の松前営業所行きのバスに乗車、09:10松城着。

帰りのバスまで滞在予定時間は約2時間。2度目の訪問なので頭の中でコースを考えてまわりました。
搦手二の門から入城し、まずは松前城資料館です。復興天守として建てられてから60有余年。本丸御門と並び立つ姿はこの場所になくてはならない景色の一部だと感じます。木造再建計画もあるそうで、和式最後の天守が甦るのは素晴らしいと思う一方で、今在る天守が紡いできた歴史も大切しなければと思いました。

城域をさくさく歩いてから松前家墓所へお参りに。そのつぎに松前藩屋敷。ここは前回訪問が冬期休館に入る直前でなんだか寂しかったので、記憶のアップデートの意味もありじっくり見学しました。

木古内からの長いバス旅。途中下車してみてみたいところもありますし、3度目があるなら今度は桜の季節に訪れたいです。

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朝田 辰兵衛

10年後に再び…

10年後に再び襲った熊本地震。違う断層が動いたとのこと…。
遠征中のトクさん,ならびに九州地方の方々,謹んでお見舞い申し上げます。
高速道路の段ずれ復旧には,かなり時間を要すると思います。新潟県中越沖地震がいい例です。
鳥栖ジャンクションに車両は溜まっていないのかな…?
todo94さんの予想どおり,九州新幹線の復旧が早いと思います。続いて,西鉄天神大牟田線かな…と。

越後の大雨…
にのまるさん,ご心配いただき,ありがとうございますm(__)m
実は,28年前にも同じ事象がありました。
経験者は新潟市内でどこが低いかわかっており,迅速な対応ができています。
新潟駅は低いです。周囲の雨水を勢いよく集めるようになっています。
私の自宅は県道(新発田街道)沿いで,表門側が高く,裏門側が1mほど低いつくりになっています。
裏門側の倉庫は1m冠水。経験により大事なモノは入れてありません。
ちなみに裏門側の知人宅は,床上浸水となりましたが,速攻で1階の畳を2階に上げたそうです。スゲ~!
ま,本日の夜も雨のピークが来そうなので,油断できませんが…近況まで。

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todo94

再度の飛島渡航失敗による代替攻城③の3 藩校致道館、鶴岡アートフォーラム (2026/07/18 訪問)

10年前に続く熊本での大地震。熊本城の復興、さらに伸びてしまいそうですし、ライフラインの復旧にはかなり時間がかかりそうですが、皆さんのご無事をお祈りいたします。鹿児島で足止めのトクさんもご無事の様子でよかったです。九州新幹線の再開はさほど時間はかからないのではないかと思います。

さて、無料で見学できる藩校致道館ですが、建物は立派だし、見どころも多いかなり充実したスポットだと思います。ここから駐車場に戻る途中に鶴岡アートフォーラムがあり、この日が初日の特別展覧会「ロートレックとベル・エポックの巴里-1900年」が開催されていました。横綱柏戸記念館は迷うことなくあきらめ、700円を支払って特別展覧会を見ていくことにしました。筒井康隆の「ロートレック荘事件」を読んで以来、ロートレックには興味を持ち続けていたのです。飛島に渡ることはできませんでしたが、充実した1日になりました。

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赤い城

宮部城 滋賀県長浜市 (2026/07/12 訪問)

まずは昨夜の地震ですが九州の皆さん、お見舞い申し上げます。
トクさんも遠征中だったとのこと、まずはご無事で何よりです。
熊本城や八代城にも被害があったようで心苦しいです😨

さて、近江遠征ですが田上山城の後立ち寄ったのが宮部城、城びと未登録です。
今回の大河ドラマで浅井攻めのキーマンとして描かれた宮部継潤の居城です。
城跡は宮部神社となっていて遺構はなさそうです。
神社の由緒に宮部継潤についても書かれています。
周囲の水路が堀跡なのかな〜、と。

【見どころ】
 ・堀跡と思われる水路

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征30日目:徳倉城 (2026/06/09 訪問)

金川城の道林寺丸側登城口(34.798949、133.9302886)から徒歩60分くらいで、案内板前(34.777435、133.901284)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、 南北朝時代に須々木氏の居城であったといわれますが定かではないようです。
金川城主で西備前一帯に勢力を拡げた松田氏の一族宇垣氏が代々居城とし、天文年間(1532年〜1555年)から1562年(永禄5年)頃には宇垣一郎兵衛が城主でした。
1568年(永禄11年)宇喜多直家によって金川城の松田氏が滅ぼされると、徳倉城も宇喜多氏の手に落ち、宇喜多の重臣遠藤河内守が城主となります。
関ヶ原合戦によって宇喜多氏が滅び、小早川秀秋が備前に入部すると廃城となりました。

説明板案内板前の登山口から登った方が近いと思い攻城しましたが失敗しました。
大手道と合流するまではちゃんとした道ではないので、少し遠回りでも大手道攻城口付近(34.778170、133.899634)からの攻城をお薦めします。
主郭にはかって妙見宮があった関係で、改変されているようですが、本丸の高石垣が素晴らしい。また堀切等の遺構も見れます。
攻城時間は65分くらいでした。本日の城巡りは、ここがラストです。
本日の宿泊先に向かう為、金川駅からJR津山線で岡山駅に向かい、コインロッカーより荷物を取り出して姫路駅に向かいました。
歩行歩数=37775歩、歩行距離=26.4Kmです。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征30日目:金川城 (2026/06/09 訪問)

金川陣屋(城びと未登録 岡山県岡山市)近くの御津登山口(34.799053、133.934992)から攻城しました。
ひたすら階段を登り二ノ丸に至ります。下城は道林寺丸登城口側(34.798949、133.9302886)に下りて、難波抱節宅長屋門を確認しました。

築城年代は定かではないようですが、承久年間(1219年〜1222年)に松田盛朝によって築かれたと云われています。
1483年(文明15年)の福岡合戦では、山名氏の援軍を得た松田元成が赤松・浦上氏の籠る福岡城を攻撃し、翌年攻略しました。
しかし、勢い付いて浦上氏の居城である三石城を攻略しようと侵攻したが反撃にあい敗走中に自刃しました。
1568年(永録11年)宇喜多直家によって攻められ、松田元輝・元賢が討死して落城し、松田氏は滅亡しました。宇喜多氏はその後、浮田春家を城主にします。
関ヶ原合戦で宇喜多氏が滅亡すると小早川秀秋が備前に入国しましたが、このとき支城となったかどうかは定かではないようです。
小早川氏に替わり池田氏が入封すると家老日置忠俊を置いたが一国一城令により廃城となりました。

本丸までは整備された登山道ですが、御津登山道は1210段の丸太階段が続くのでキツイ登りとなりました。
井戸も多く残されており、特に本丸の井戸は大きかった。
攻城時間は65分くらいでした。次の攻城先=徳倉城へ徒歩で向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征30日目:金川陣屋(城びと未登録 岡山県岡山市) (2026/06/09 訪問)

金川駅から徒歩15分弱で、石垣付近(34.798887、133.935352)に着きました。

1632年(寛永9年)に岡山藩池田氏家老・日置忠俊によって築かれました。
1617年(元和3年)日置氏は池田光政が因幡鳥取へと国替えになった際には因幡鹿野を領していました。
1632年(寛永9年)池田光政の備前岡山への国替え従い金川へ入り14,000石を領しました。この時金川城跡の麓に陣屋を形成したと見られています。
日置氏は2代忠治の時に2,000石を加増され以後12代忠尚の時に明治を迎えました。

金川陣屋は岡山市北区役所御津支所の地に築かれていました。
東から南にかけて陣屋当時の石垣が現在も残っています。
観光時間は5分くらいでした。次の攻城先=金川城へ徒歩で向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征30日目:八浜城 (2026/06/09 訪問)

八浜市民センターバス停から徒歩10分弱で、両児山公園駐車ふたごやま(34.551577、133.940343)に着きました。
最初ナビの案内に従って歩いていましたが、途中、八浜城跡への案内標識を見つけ、その指示従って登城しました。予定より10分早く着きました。

1581年(天正9年)頃宇喜多氏によって築かれました。
1581年(天正9年)宇喜多直家が没すると、毛利氏は元就四男の穗田元清を大将として児島へ侵攻し、麦飯山城を拠点に児島を制圧しようとしました。
これに対抗して宇喜多氏は宇喜多忠家・基家を主将として八浜城に陣を構え、1582年(天正10年)柳畑の浜辺で合戦となり、宇喜多基家はこの戦いで流れ弾にあたって討死します。
宇喜多勢は浮き足立ち毛利軍の追撃を受けたが、八浜七本槍と呼ばれる武将の活躍で陣を立て直し、毛利の追撃を退けました。
その後は、秀吉と毛利氏の和議により境目の城である八浜城は役割を終えたとされます。

現在は両児山公園となっており、駐車場も完備されています。
畝状竪堀群がよく残っているのは北城の八浜八幡宮側で、公園になっている南城には城址碑があり、堀切と結合した折れを伴う横堀が一見の価値ありです。
攻城時間は30分くらいでした。次の攻城先=金川陣屋(城びと未登録 岡山県岡山市)を攻城する為、八浜市民センターバス停から両備バス玉野渋川特急線とJR津山線を利用して金川駅に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征30日目:常山城 (2026/06/09 訪問)

常山駅からから徒歩5分ちょっとで、常山駅側攻城口(34.529914、133.890692)に着きました。

文明年間(1469年〜1487年)上野氏によって築かれたといわれていますが定かではありません。
上野氏は松山城主三村元親の血縁となり一翼を担うが毛利氏が三村元親を松山城に攻め自刃させると最後の拠点である常山城に迫った。
1575年(天正3年)城兵わずか二百に対して毛利軍数千が押し寄せたため上野隆徳の妻(三村元親の妹)も鎧を身につけ侍女ともども奮戦し自害したと伝わっています。その後は毛利氏が城番を置きました。
1583年(天正11年)中国国分により、児島は宇喜多領となり、重臣の戸田秀安を置きました。 関ヶ原合戦で宇喜多氏が滅亡すると小早川秀秋が入封し重臣伊岐真利を置きました。
小早川氏断絶後に入封した池田氏はこの城を廃し下津井城の改修に資材を転用したといわれています。

城跡は案内板等も設置されていないので縄張図を持参した方が便利だと思います。
登城路は綺麗に整備されていますが、前日に降った雨で、滑ります。気を付けて登って行きます。
登城路や曲輪に石仏が多く設置され、井戸、曲輪、土塁、石垣があります。眺望は曇っていてよく見えませんでした。
攻城口から惣門丸まで30分、惣門丸から本丸まで10分でした。
本丸に展望台がありますが危険の為、登れません。
また北二の丸には鶴姫らを祀った「女軍の墓」があります。
攻城時間は90分くらいでした。次の攻城先=八浜城を攻城する為、常山駅からJR宇野みなと線と両備バスを利用して八浜市民センターバス停に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征30日目:早島陣屋 (2026/06/09 訪問)

早島駅から徒歩10分くらいで、戸川家陣屋址碑(34.604541、133.827426)に着きました。

1627年(寛永4年)庭瀬城主戸川達安が死去により遺領は嫡男正安が嗣ぎ、1628年(寛永5年)に正安は弟安尤に3,400石(早島戸川家)、安利に3,300石(帯江戸川家)分知して、両家は直参旗本に列せられました。
元禄年間(1688~1704年)2代安明の時、普請に取り掛かり完成したという陣屋跡。以後安宅まで13代旗本戸川家陣屋として明治まで続きます。
その後、1702年(元禄15年)に早島戸川家2代安明は、六男安通に中庄中島400石を与え分家させました。
庭瀬の戸川本家は4代安風で断絶するが、戸川達富が名跡を嗣いで備中撫川5,000石を領した。また、本家2代正安の子安成より妹尾戸川家が分知されました。

現在の早島小学校や戸川家記念館一帯が陣屋跡で堀跡や石橋が残されています。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=常山城へ向かう為、早島駅からJR瀬戸大橋線とJR宇野みなと線を利用して常山駅に向かいました。

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