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しんちゃん

昌官忠さんに敬礼 (2025/01/04 訪問)

昌官忠さん、お疲れ様でした。総歩行数79万歩、歩行距離553.2km、一日一万歩歩いても79日分ですね。まるで、江戸時代の人のような歩行距離に素直に脱帽です。皆さん、着実に偉業を達成していますね。
私もそのうち、城攻めに出発できるかな? 先行きはまだ不明です。
厨川柵の投稿になりますが、天昌寺と安倍館稲荷神社の投稿になります。申し訳ないが定番の厨川八幡宮の写真は無いんですね。でも安倍館稲荷神社って面白い社名だと思います。周囲には堀が良く残っていて城館の雰囲気が良く出てます。この辺りだと本丸の南の中館あたりになるようです。フェンスの向こうに堀を挟んで「あべたて保育園」が見えますね。
天昌寺は里館(さたて)跡とされ、安倍氏の厨川柵の一部とされていて、グーグルマップで厨川柵を検索するとここが出てきます。
前九年の役で安倍氏が滅んだ後、空白の時期が続きますが、源頼朝が奥州藤原氏を滅ぼした後、工藤行光が地頭職として定着します。工藤氏ははじめ里館を拠点にしていましたが、安倍館遺跡である厨川城へ拠点を移し、戦国時代には厨川氏の居城だったようです。

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小城小次郎

由来不詳の群郭式のお城 (2024/11/30 訪問)

いわゆる群郭式のお城と解釈でき、立地的には大崎氏一族に関連するお城なのだろうと推察しているのだがその歴史ははっきりしない。公園化されているのは四館分だがそれでも十分な広さを堪能できる。

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ぴーかる

ありがとうございます🐤

あさん、赤い城さん祝辞ありがとうございます。未だ投稿しておりませんが、6月に鳥取県の船上山城に行った時、一昨年のあさんの投稿を頼りに攻略しました。あさんの登った登山道の探勝道(健脚向けコース)を私も負けじと選択して、大石ゴロゴロの場所は私はだいぶ苦戦してやっと登り切りきりました。「あさん、ここを直登したのかーすごいな!」と途中一息いれながらつぶやいたのを覚えています。今となっては楽しかった登山でしたが。皆様今の時期の城巡り熱中症など気を付けて下さい。

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駿府城

「寺子屋駿府城 夏休み特別企画!~楽しく学ぶ歴史~」を開催します!

駿府城公園巽櫓では、小学生の皆さんを対象にした歴史の勉強会「寺子屋駿府城 夏休み特別企画!~楽しく学ぶ歴史~」を開催します!
駿府城、徳川家康、今川義元…静岡の歴史には、興味深い物語が数多く存在します。
「寺子屋駿府城」では、そんな駿府(静岡)に関する歴史の「ハテナ」に、専門家がわかりやすくお答えします。歴史の学習はもちろん、夏休みの自由研究のテーマ探しにも役立つヒントが満載です!

寺子屋駿府城 夏休み特別企画!~楽しく学ぶ歴史~
◆開催日:令和7年8月6日(水)~8月11日(月)
◆時間:10:00~12:00
◆料金:無料 (※別途入館料:大人200円、小中学生50円)
◆対象:小学生 ※同行の中学生や大人からの質問にも対応します
◆申込方法:申込不要!当日直接会場へお越しください
※詳細は駿府城公園公式ホームページをご覧ください。(https://sumpu-castlepark.com/info/archives/3063)

夏休みの思い出に巽櫓で歴史を学んでみませんか?
ぜひお越しください♪

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隠しても痕跡が残る(ブラタモリふう) (2025/07/13 訪問)

 ぴーかるさん城びと登録城1000城登城をおめでとうございます。
 濃尾平野の平城をちょこちょこ巡って、数を稼いできました。平城巡り=石碑巡りとなる中、岩倉城は比較的痕跡が残っています。尾張上四郡の守護代の城館(規模あり)&微高地だからでしようか。
 「愛知の山城ベスト50を歩く」におまけで平城編があり、岩倉城の説明もあります。東の堀跡や南西の堀跡は分かりやすいですが、南東の大手土橋跡は渋いです(写真6)。
 近くの溝口城は、石碑もない。マップでは石碑があるように出てきますが、城びと先人の報告どおり、石碑があるはずの場所は更地になっています。

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岸和田城

青い翼 (2025/07/12 訪問)

7月12日13日、ブルーインパルスの展示飛行では岸和田城空も通過。
ただただ、感動の瞬間でした。

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イオ

あ さんのルートを推奨 (2025/04/26 訪問)

詳細は不明ながら、南北朝期に玉置直虎が増賀山の頂部に築いたと伝わり、山地玉置氏代々の居城となりました。羽柴秀吉の紀州攻めに徹底抗戦するも落城し、廃城となったようです。

上山路小学校前の駐車場から登城開始。あ さんの投稿で案内されている登城口に向かうも、4月下旬ともなるとずいぶん草が伸び盛っていたため、少し北にあるもうひとつの登城口に行ってみました。沢を越えたところから沢沿いに山に入るルートで、最初は道(らしきもの)があったんですが、やがて消え失せ、やむなく沢を渡って急斜面を直登…。しばらく直登すると尾根に出る手前で登城道に合流し、あとは登城道をたどって行きました。

登城口から約20分(直登含む)で馬場と呼ばれる帯曲輪に到達。山頂の主郭からは少し離れていますが、南北に細長く続いています。馬場からも登城道は続いている…はずですが、一帯に杉の落葉が堆積していて道を見失い、ほとんど直登のようになりました。そして主郭西下の帯曲輪に取り付いて主郭へ。主郭の西側には虎口があったようですが、よくわかりません。主郭の東下にも細い帯曲輪があり、南面は急峻な崖になっていました。主郭北下には主郭との間に付曲輪を備えた曲輪が配されています。北にのびる尾根には二重の堀切が設けられ、内側の堀切の両端は竪堀となって落ちていました。

北尾根で引き返して下山する際に登城道をそのまま戻っていくと、特に迷うことも困難な箇所もなく最初に見た登城口に出てきました。最初から素直にあ さんのご案内に従っていれば無駄に直登せずに済んだのに…とも思いますが、あ さんのルートがベストであることを身をもって確認できた、ということにしておきましょう(笑)

さて、鶴ヶ城に続いて田尻城(投稿済)でごっつぁんゴールを決めると、あらぎ島を経由して清水城に向かいました。
 

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todo94

日帰り静岡ドライブ 静岡市清水区・ファンタジー大河ゆかりの人物の墓参り (2025/07/12 訪問)

静岡市清水区の江浄寺に徳川家康の長男・松平信康の墓があると知り、さわやかで昼食をとった後、赴きました。「どうする家康」の信康は心優しすぎるように感じたものです。江浄寺は江尻城内と言ってよい位置にある寺ですので、江尻城主だった穴山梅雪の墓にも足を伸ばすことにしました。霊泉寺はちょっとわかりにくい場所に位置しています。「真田丸」と「どうする家康」での穴山梅雪の描かれ方はあまりに対照的なものでした。「どうする家康」のような善人だったとはとても思えません。武田勝頼が悪者になってしまっていてかわいそうでした。まあ、明智光秀の描かれ方も「麒麟がくる」とは対照的なひどい描かれ方でしたから、私の「どうする家康」に対する評価はどうしても低くなってしまいます。

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赤い城

パノラマビュー (2025/06/28 訪問)

松江EXPOの前に登城しました。
7時頃着いたので三の丸番所が開いてなくスタンプは後回しにしました。
三の丸は発掘調査中で今後も整備が続きそうです。
二の丸の枡形から登って行きます。
二の丸のテニスコートでは暑い朝にも関わらず多くの方が汗を流していらっしゃいました。

こちらも汗だくで登ります。
まずは内膳丸、本丸の北峰にある丸山に所在します。
細長い曲輪でここから本丸を見上げることもできます。
また、内膳丸から遠見櫓にかけて登り石垣が築かれていて海側からの防御を強固にしています。

さらに登ってお馴染みの天守台石垣を見上げました。
やはり圧巻の迫力、朝から興奮状態です✨
四重櫓台、鉄門跡を経て本丸に着きました!
米子市街や大山も望めます。
中海や日本海も見渡せる素晴らしい景色でした。
しばらく景色を楽しんで本丸先の水手御門まで行き引き返し遠見櫓を経て下山しました。

元は山名氏の砦として築かれた米子城、戦国時代には吉川広家が入り築城しました。
関ヶ原の戦い後は中村一忠が入城し大天守などを造営しました。
現在は建物は残りませんが無くても十分楽しめる城でした。

下山したのがちょうど8時半、三の丸番所が開いたので46個目の続100スタンプを押印、尾高城に向かいました。

末筆になりましたがぴーかるさん、1000城到達おめでとうございます✨
レポート参考にしています!
私も追いつきたいですがまだまだですね〜。

【見どころ】
 ・二の丸枡形の石垣
 ・登り石垣
 ・内膳丸から見上げる本丸石垣
 ・天守台からのパノラマビュー

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しんちゃん

黒岩月斉 (2025/01/05 訪問)

黒岩城は北上川の東岸の南北に伸びる丘陵上に築かれていました。館神の祀られている社一帯が「千曳城」跡とされ周囲より高地にあります。南に向かって、「館」跡の正洞寺、上岩崎の黒岩公民館の東側が「館屋敷」跡、下岩崎周辺が「元(本)館」跡、「片月館」跡とされています。
中世和賀氏の時代の複数の城館の総称とされ、北側の上岩崎と南側の下岩崎を合わせて、南北約1km、東西約150mの城域を持っているようです。主要部は北側の上岩崎とされ、下岩崎の元館は和賀氏が最初に和賀郡に移ってきたときの岩崎塞ではないかと考えられています。最後の城主は二子城主の和賀義忠の兄・義宣(黒岩月斉)とされ、盲目であったため黒岩城に分封(分家化)され、新たに千曳城を築いて居住しました。元々当地に居を構えていた小田嶋氏は領地を召し上げられ、2000石の換地を与えられたようですが、後見という名目で「片月館」に据え置かれたようです。

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天守無しがアツい

要害山 本丸 (2025/07/06 訪問)

本丸に到着。その標高は780m
登山して30分で…0mからその高さまで行けるとは考えづらいので…登山口の時点で500mくらいはあるのではないか?⛰️

武田信玄生誕地の石碑…かつて…戦国時代にはこの辺りに武田家の屋敷ならびに庭園があったらしい🏠⛲️庭園の名残り的な大きな石が残っていた🪨麓からあの山道を経て…ここまで運んだと思われる…

昔の人間って…かなりの力持ち🫢

当時は山城が主流…平地に城を設けるようになったのは…江戸時代に近づいた頃…つまり大名同士の戦が無くなり世が平和になってから🏯

信玄はこの辺りで産声をあげ…出陣などで城を出る時は片道30分の山道を下りて…そして戻る時はこの山道を毎回登ってたのか…

往復のしんどい自宅…やれやれだぜ😅

ちなみにここ本丸には(頭の中で当時の様子を思い浮かべながら)20分ほど滞在…ここも日陰にさえ居れば…草木のおかげでそこまで暑くありませんでした🌱🌳

麓の景色も撮ろうかと思ったのですが…木の枝が邪魔してよく見えなかったので止めました

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しんちゃん

高水寺斯波氏 (2025/01/04 訪問)

高水寺城は北上川の西に位置する独立丘陵の上に築かれていました。建武2年(1335)足利尊氏が斯波高経の長子・家長を奥州管領として下向させ、北朝方の勢力の拡大を狙いました。元々、斯波氏は足利泰氏の長男。家氏が斯波郡へ下向し、斯波氏を称したことに始まるとされています。家長以降に本格的な城郭化が進んだと見られ、最頂部が本丸とされています。
本丸には土塁が残り、南部の運動公園周辺が二の丸(若殿屋敷)とされ、本丸の北東が天王平(駐車場)とされ、さらにその先に姫御殿があります。本丸には御殿跡の標識があり、愛宕神社が祀られ、かなりの広さが有りました。
家長以降の斯波氏は7代~10代続いたとされ、足利氏の支流として斯波66郷を支配し「斯波御所」と呼ばれますが、室町時代後期には三戸南部氏との対立が激しくなり、九戸政実の弟弥五郎を入婿に入れるなどして、平静を保ちましたが、やがて家臣の離反が相次ぎ天正16年の石清水右京の訪叛を機に南部信直の攻撃を受け、斯波詮直は大崎氏の下へ逃亡し、戦国大名高水寺斯波氏は消滅しました。

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しんちゃん

土沢城 伊達氏に備えた藩境の城 (2025/01/04 訪問)

土沢城は岩手県花巻市東和町土沢にあります。土沢駅の北東、土沢の街を見下ろす高台に築かれていました。慶長5年(1600)南部氏と伊達氏が境界で対立していた時に伊達領の浮牛城に対抗して築かれたと城郭大系には記載があります。
また現地の案内板には慶長17年(1612)に伊達氏との藩境警備のために盛岡藩の野田内匠頭直盛が縄張りを行い、江刺隆直が入ったと記載されています。
現在は城址公園として整備されていて、訪問しやすい城址です。主な郭として、主郭である御本館、中館、西館、東館があります。
大手橋跡から登って行くと、大手道の脇に桜丸があり、大手門跡を経て主郭である御本館に到着します。南に下がった所に東館跡があり、御本館から北上して行くと、段差を越えたところに中館、西館があります。御本館から西館までの主要部の東側から北側を経て西側まで堀が巡らされているようです。

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にのまる

信越本線乗り通し旅の途中で。 (2025/06/07 訪問)

新宿→高崎→横川→軽井沢→長野→柏崎→長岡→新潟とほぼ乗っているだけの旅に出かけた際、唯一の観光として松代へ足を延ばしました。

長野から路線バスで松代へ。
旧松代駅舎を見学してから観光案内所2階の「花の丸」にて山菜天ぷらそばをいただきました。入口のサンプルよりもボリュームがあってびっくり!とってもおいしかったです。

真田宝物館、真田邸、文武学校を見学後、松代城へ。
昨年架け替えられた太鼓門前橋。まだまだ真っ白でこれから味わい深くなっていくのが楽しみです。
太鼓門、北不明門、天守台、石垣、土塁、埋門。何もかも素晴らしくて、眺めたり潜ったり、とても幸せな時間を過ごしました。

約7年ぶりの訪問はバスの時間もあり(=このあと長野に戻って長野電鉄往復完乗に出かけた)、松代滞在時間は約2時間半。
全然足りませんでした。
長野も新潟も庭みたいな感覚になってきたのでまた行きたいと思います。

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トク

【筑紫広門】(5)久留米大善寺(広門幽閉の地) (2025/05/16 訪問)

筑紫広門の続き(5/6)です。広門が幽閉された久留米の大善寺を訪れました。西鉄大善寺駅から徒歩5分の所です。

寺の入口に立つと(あれ?)、お寺なのに赤い欄干と鳥居がある(写真①)。門をくぐると(あれ?)社務所がある(写真②③)。さらに進むと(あれ?)賽銭箱がある(なぜ?🤔)。

寺と言っても、現在は神仏習合の場所のようです。そしてこの寺は島津氏によって焼き払われましたが、関ケ原後に筑後を治めた田中吉政とその子の忠政により、この地には玉垂宮という神社が再建されました。寺は山門のみ再建され残っています。毎年正月七日には「鬼夜」と呼ばれる伝統の火祭りがあるそうです(写真⑥)。

1586年、勝尾城にて島津氏に敗れた広門は捕らえられ、この大善寺に幽閉されます。その時ここでこんな和歌を詠んだそうです。

 忍ぶれば
 いつか世に出ん折やある
 奥まで照らせ
 山のはの月

その我慢の甲斐あってか、幽閉されてから1カ月後、豊臣秀吉が九州へ上陸すると島津氏は薩摩へ撤退。広門は大善寺を脱出し旧領奪還に動きます。そして勝尾城を守っていた秋月種実より居城を奪い返しました。これを大いに手助けしたのが立花宗茂です。広門と共に戦い旧領奪還に協力しました。

しかし秀吉は、広門には旧領の勝尾城ではなく筑後上妻郡(現在の八女市)に1万8千石を与えます。これにより、勝尾城は廃城となりました。また宗茂には、立花山城に代わり柳川8万石が与えられ、宗茂は大友家臣から豊臣の直臣となりました。

宗茂と広門、この二人は義兄弟としてまた盟友(親友)として、この頃から固い絆で結ばれていったようです。この後、筑前名島城に入った小早川隆景の傘下に入り、二人とも朝鮮(文禄・慶長の役)へ出兵します。そして広門は朝鮮でも宗茂を支え続けます。その広門の支えがあって、宗茂は蔚山でもはや絶体絶命の加藤清正を救出するなどの大活躍をします。隆景から「宗茂の3千は1万に匹敵する」と賞賛されたほどです。そして帰国後も、広門は関ケ原まで宗茂を支え続けて行きました。

最後に、広門が秀吉から与えられた地で、新たに居城とした八女市の福島城を訪れます。
 

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todo94

日帰り静岡ドライブ 駿府城本丸発掘現場・俯瞰編 (2025/07/12 訪問)

本丸堀の脇を通って、2023年に続き本丸の発掘現場を見学してきました。きゃっしるもちょこっと覘いていきます。駿府城の見どころである二ノ丸水路を確認してから、お目当ての静岡市歴史博物館の企画展「十返舎一九と蔦屋重三郎」へと向かいました。この企画展だけだったら150円の料金。国会図書館所蔵の吉原細見、朋誠堂喜三二作「見徳一炊夢」、恋川春町作「金々先生栄花夢」などが惜しげもなく並べられていてびっくりしました。トーハクの特別展のような混雑もなく非常に満足度の高い企画展でした。静岡市歴史博物館に寄託されている「東海道中膝栗毛」ももちろん拝見してまいりましたとも。その後は、県庁別館21階の展望フロアより、駿府城の俯瞰も楽しんできました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征25日目(最終日):泉頭城 (2025/06/08 訪問)

戸倉城から徒歩35分くらいで、柿田川公園石碑前(35.107782、138.901377)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、弘治年間(1555年〜1558年)頃に小田原北条氏によって築かれたと云われています。
泉頭城は、三枚橋城や戸倉城と連携して武田信玄の侵攻に備える国境の城としての役目を担っていました。
1580年(天正8年)頃には武田勝頼が三枚橋城を拠点に小田原北条氏の戸倉城を攻め、1581年(天正9年)笠原政堯が武田氏に寝返り、戸倉城は武田氏の所領となりました。
武田氏が滅亡すると再び北条氏の所領となりましたが、1590年(天正18年)の豊臣秀吉による小田原征伐で、城は破棄され韮山城と山中城へ退いた。
その後、1615年(元和元年)に徳川家康は、美しい景観を備えたこの地に自らの隠居城を築こうとしましたが、築城計画の途中で家康が亡くなったため、再築は実現しませんでした。

現在城址は「日本名水百選」にも認定された「柿田川湧水群」で知られる「柿田川公園」として整備されており、城跡と言うより湧水の有名な公園といった感じです。
帰りのバスの時間が迫っていいるので、第一展望台のみを見学して撤退しました。
攻城時間は10分くらいでした。今回の(東海&関西)遠征は、ここがラストです。
千葉の自宅に帰る為、西玉川バス停からバスで沼津駅に向かい、沼津駅でコインロッカーより荷物を取り出して、帰宅しました。
ちなみに夕食は沼津駅で購入した「港あじ鮨」を新幹線で食しました。
歩行歩数=33177歩、歩行距離=23.2Kmです。
今回遠征での歩行歩数=790340歩、歩行距離=553.2Kmでした。

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昌官忠

(東海&関西)遠征25日目(最終日):戸倉城 (2025/06/08 訪問)

八幡神社前バス停から徒歩5分くらいで、矢崎遺跡案内板付近(35.095157、138.897301)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、北条氏綱によって築かれました。 戦国時代には伊豆国と駿河国の境目の城として重要視された。
三国同盟が破れた後、1568年(永禄11年)から1571年(元亀2年)にかけて武田氏と北条氏との戦いの舞台となりました。
駿河国に侵攻した武田氏と小田原北条氏は戸倉城で戦い、1580年(天正8年)頃には武田勝頼が三枚橋城を拠点に小田原北条氏の戸倉城を攻め、1581年(天正9年)笠原政堯が武田氏に寝返り、戸倉城は武田氏の所領となりました。
武田氏が滅亡すると再び北条氏の所領となりましたが、1590年(天正18年)の豊臣秀吉による小田原征伐で小田原城の落城ととも廃城となりました。

現在は本城山公園となり麓から遊歩道が整備され、山頂部に展望台が置かれています。
攻城時間は30分くらいでした。次の攻城先=戸倉城へ徒歩で向かいました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征25日目(最終日):蛭ヶ小島(城びと未登録 静岡県伊豆の国市) (2025/06/08 訪問)

韮山城から徒歩10分ちょっとで、石碑前(35.051921、138.951981)に着きました。

平治の乱で源頼朝の父・義朝が知多半島で暗殺され、頼朝本人の死罪も確実視されていました。
こうした世情の中、平清盛の継母・池禅尼の命乞いにより、頼朝は奇跡的に助命されたものの、伊豆国の蛭ヶ小島(ひるがこじま)に配流されることなります。
1160年(永暦元年)2月に14歳で配流となり、34歳で旗揚げするまでの20年間をここで過ごしていました。
頼朝の配流された蛭ヶ小島とされる地は、現在、蛭ヶ島公園となっています。

攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=戸倉城へ行く為、韮山駅から電車➡バスの乗り継ぎ、八幡神社前バス停に向かいました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征25日目(最終日):韮山城 (2025/06/08 訪問)

江川邸(城びと未登録 静岡県伊豆の国市)から徒歩5分ちょっとで、登城口付近(35.05484、138.95709)に着きました。

1491年(延徳3年)小田原北条氏の祖、伊勢宗瑞(北条早雲)によって築かれました。
駿河国興国寺城主伊勢宗瑞は、堀越御所の内乱に付け込み堀越公方足利茶々丸を滅ぼして伊豆の領主になると韮山城を築いて居城を移しました。
1495年(明応4年)宗瑞は相模国小田原城を奪い、北条氏の居城が小田原城に移ったのちも韮山城は伊豆支配の拠点として重要視されました。1519年(永正16年)北条早雲は韮山で没しました。
1590年(天正18年)の豊臣秀吉による「小田原征伐」では激しい攻防戦の舞台となりました。
山中城をはじめ、関東の諸城が攻略されるなか韮山城は落城せず、朝比奈泰勝を使者として開城を促し、氏規は開城し退去しました。 この氏規の家系が江戸時代に河内国狭山に大名として続きました。
その後は、関東に入った徳川家康の家臣、内藤信成の居城となりましたが、1601年(慶長6年)に駿府に転封となったため廃城となりました。

城址には現在も曲輪や土塁の跡などが残されており、散策路が整備されていますす。
南北に細長い丘陵は北から南に三の丸、権現曲輪、二の丸、本丸と続いています。
三の丸は、現在テニスコートになっています。
権現曲輪には神社が祀られ、南に土塁と堀切があります。そこからさらに高く成った所に二の丸があります。
二の丸は低い土塁が巡り、南の本丸との間に堀切があります。
攻城時間は40分くらいでした。次の攻城先=蛭ヶ小島(城びと未登録 静岡県伊豆の国市)へ徒歩で向かいました。

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