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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征31日目:恒屋城 (2026/06/10 訪問)

溝口駅から徒歩40分くらいで、恒屋城登城口(34.943796、134.718609)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、嘉吉年間(1441年~1444年)赤松氏の幕下恒屋氏によって築かれたと云われています。
1576年(天正4年)羽柴秀吉の軍に攻められ落城したようです。

登城口手前に恒屋城跡駐車場があります。登山道は整備されており、登城口には杖も用意されています。戦友の杖を鶴居駅に置き忘れた自分には助かりました。
横堀や畝状竪堀が良く残っており見ごたえがあります。前城や後城から見る眺望も素晴らしかったです。
麓から見える旗は前城のものでした。
攻城時間は65分くらいでした。次の攻城先=置塩城を攻城する為、溝口駅からJR播但線と神姫バスを利用して宮置バス停に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征31日目:鶴居城(稲荷山城) (2026/06/10 訪問)

鶴居バス停から徒歩15分くらいで、鶴居城登城口(35.024355、134.746130)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、明徳年間(1390年〜1394年)頃に赤松則村(円心)の孫の永良則綱によって築かれたと云われています。
則綱の孫である3代・彦太郎泰秀が拾一城(豊地城)に居城を移したのちも城代を置いて維持されていました。
しかし、1441年(嘉吉元年)に起きた「嘉吉の乱」で落城し、赤松氏は但馬の山名持豊に攻め込まれ、山名氏の支配下に置かれました。
その後、赤松政則は応仁の乱(1467年~1478年)中に失地を回復、1488年(長享2年)に播磨を奪回すると、家臣の広瀬近江守親茂・雅親父子が城主をつとめました。
稲荷山城の城主となった広瀬近江守雅親は、谷城主も兼ねていましたが、1560年(永禄3年)に討死したと云われています。
同じく谷城は、永禄の頃戦火ににかかり焼失廃城となり、両城とも同じ運命を辿ったと考えられています。

現在は登山道が整備されています。
神崎総合病院バス停から鶴居バス停に向かうバスがなく、バス待ちになったこと&兵庫県市川町コミュニティバスの経路が逆で到着に時間を要しました。
その為、当初は登城する予定でしたが、登城してしまうと電車に間に合わず、本日最終攻城予定の置塩城に行けなくなることを考えて登城口で撤退しました。
鶴居城と置塩城を天秤にかけて置塩城を優先しました。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=恒屋城を攻城する為、鶴居駅からJR播但線を利用して溝口駅に向かいました。
少し慌てていた為、前回(一年前の東海関西遠征)と今回(中国地方と兵庫県遠征)の31日目までを共にした戦友の杖を鶴居駅に忘れてしまいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征31日目:福本陣屋 (2026/06/10 訪問)

姫路駅からJR播但線と兵庫県神河町/上小田線バスを利用して福本バス停に着きました。
福本バス停から徒歩5分くらいで、福本揚羽ホール駐車場入口(35.057460、134.773883)に着きました。

池田輝澄は、姫路藩主池田輝政の四男で山崎藩主として68,000石を領していましたが、1640年(寛永17年)御家騒動により改易となりました。
1662年(寛文2年)輝澄が没すると子の政直は神崎郡・印南郡内に10,000石が与えられて大名に復し、1663年(寛文3年)福本に陣屋を置きました。
10,000石を領して大名となった福本藩池田氏(松平氏)でしたが、1665年(寛文5年)政直が嗣子なく没しました。
その所領10,000石は弟政武に7,000石、弟政済に3,000石に分割されました。政済は旗本となり、政武は交代寄合としてそのまま福本陣屋を居所としました。
1687年(貞享4年)政武が没すると、家督を継いだ政森は二男政親に1,000石を分知したため、以後6,000石の交代寄合となりました。
1868年(明治元年)池田喜通の時、高直しにより10,000石を越えたため再び諸侯に列しましたが、1870年(明治3年)に鳥取藩と合併し廃藩となりました。

福本陣屋は現在の大歳神社境内に築かれており、藩邸は大歳神社の社殿の所にあったそうです。
南にある庭園は池泉回遊式庭園と呼ばれ、元禄年間(1688年〜1704年)の古図面そのままに現存する貴重なものだそうです。
石垣や土塁が一部残っているとのことで捜しました。神社の拝殿横に土盛りがあり石積も一部ありましたが遺構には見えません。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=鶴居城を攻城する為、神崎総合病院バス停から兵庫県市川町コミュニティバスを利用して鶴居バス停に向かいました。

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トク

今だ鹿児島に足止め

いろいろと御心配して頂き、ありがとうございます。何とかして鹿児島を脱出して福岡に戻る方法を、状況を調べながら検討している所です。仕事もこれ以上欠勤するわけにもいかないし、楽観していた自分が甘かった😩。

新幹線も、熊本から南はまだ数日かかるらしいです。JR在来線と高速道路は八代周辺はほぼ壊滅状態です。一般道も多く寸断しています。復旧はかなり長期に渡りそうです。

八代城も本丸にある神社は完全に倒壊。石垣もかなり被害があるらしいです (地元のニュースより)。

いちばん大変なのは、この酷暑です。暑いを通り越して、もう熱波です。復旧に携われている方々、家を失った方々、停電でエアコンが使えない方々など、本当に大変だと思います。被害は思った以上に大きそうです。

とりあえず明日は、宮崎から大分方向に行ってみようと思います。(今また揺れました😱!)

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にのまる

遠距離バスがありがたいです。 (2026/06/26 訪問)

この日も東横インの無料朝食をスルーして06:02函館発の北斗1号で新函館北斗→はやぶさ10号で木古内へ移動しました。
木古内の道の駅「みそぎの郷 きこない」は開店前だったので近所をお散歩したりセイコーマートで食糧調達したりして時間をつぶし、07:38発の松前営業所行きのバスに乗車、09:10松城着。

帰りのバスまで滞在予定時間は約2時間。2度目の訪問なので頭の中でコースを考えてまわりました。
搦手二の門から入城し、まずは松前城資料館です。復興天守として建てられてから60有余年。本丸御門と並び立つ姿はこの場所になくてはならない景色の一部だと感じます。木造再建計画もあるそうで、和式最後の天守が甦るのは素晴らしいと思う一方で、今在る天守が紡いできた歴史も大切しなければと思いました。

城域をさくさく歩いてから松前家墓所へお参りに。そのつぎに松前藩屋敷。ここは前回訪問が冬期休館に入る直前でなんだか寂しかったので、記憶のアップデートの意味もありじっくり見学しました。

木古内からの長いバス旅。途中下車してみてみたいところもありますし、3度目があるなら今度は桜の季節に訪れたいです。

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朝田 辰兵衛

10年後に再び…

10年後に再び襲った熊本地震。違う断層が動いたとのこと…。
遠征中のトクさん,ならびに九州地方の方々,謹んでお見舞い申し上げます。
高速道路の段ずれ復旧には,かなり時間を要すると思います。新潟県中越沖地震がいい例です。
鳥栖ジャンクションに車両は溜まっていないのかな…?
todo94さんの予想どおり,九州新幹線の復旧が早いと思います。続いて,西鉄天神大牟田線かな…と。

越後の大雨…
にのまるさん,ご心配いただき,ありがとうございますm(__)m
実は,28年前にも同じ事象がありました。
経験者は新潟市内でどこが低いかわかっており,迅速な対応ができています。
新潟駅は低いです。周囲の雨水を勢いよく集めるようになっています。
私の自宅は県道(新発田街道)沿いで,表門側が高く,裏門側が1mほど低いつくりになっています。
裏門側の倉庫は1m冠水。経験により大事なモノは入れてありません。
ちなみに裏門側の知人宅は,床上浸水となりましたが,速攻で1階の畳を2階に上げたそうです。スゲ~!
ま,本日の夜も雨のピークが来そうなので,油断できませんが…近況まで。

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todo94

再度の飛島渡航失敗による代替攻城③の3 藩校致道館、鶴岡アートフォーラム (2026/07/18 訪問)

10年前に続く熊本での大地震。熊本城の復興、さらに伸びてしまいそうですし、ライフラインの復旧にはかなり時間がかかりそうですが、皆さんのご無事をお祈りいたします。鹿児島で足止めのトクさんもご無事の様子でよかったです。九州新幹線の再開はさほど時間はかからないのではないかと思います。

さて、無料で見学できる藩校致道館ですが、建物は立派だし、見どころも多いかなり充実したスポットだと思います。ここから駐車場に戻る途中に鶴岡アートフォーラムがあり、この日が初日の特別展覧会「ロートレックとベル・エポックの巴里-1900年」が開催されていました。横綱柏戸記念館は迷うことなくあきらめ、700円を支払って特別展覧会を見ていくことにしました。筒井康隆の「ロートレック荘事件」を読んで以来、ロートレックには興味を持ち続けていたのです。飛島に渡ることはできませんでしたが、充実した1日になりました。

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赤い城

宮部城 滋賀県長浜市 (2026/07/12 訪問)

まずは昨夜の地震ですが九州の皆さん、お見舞い申し上げます。
トクさんも遠征中だったとのこと、まずはご無事で何よりです。
熊本城や八代城にも被害があったようで心苦しいです😨

さて、近江遠征ですが田上山城の後立ち寄ったのが宮部城、城びと未登録です。
今回の大河ドラマで浅井攻めのキーマンとして描かれた宮部継潤の居城です。
城跡は宮部神社となっていて遺構はなさそうです。
神社の由緒に宮部継潤についても書かれています。
周囲の水路が堀跡なのかな〜、と。

【見どころ】
 ・堀跡と思われる水路

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征30日目:徳倉城 (2026/06/09 訪問)

金川城の道林寺丸側登城口(34.798949、133.9302886)から徒歩60分くらいで、案内板前(34.777435、133.901284)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、 南北朝時代に須々木氏の居城であったといわれますが定かではないようです。
金川城主で西備前一帯に勢力を拡げた松田氏の一族宇垣氏が代々居城とし、天文年間(1532年〜1555年)から1562年(永禄5年)頃には宇垣一郎兵衛が城主でした。
1568年(永禄11年)宇喜多直家によって金川城の松田氏が滅ぼされると、徳倉城も宇喜多氏の手に落ち、宇喜多の重臣遠藤河内守が城主となります。
関ヶ原合戦によって宇喜多氏が滅び、小早川秀秋が備前に入部すると廃城となりました。

説明板案内板前の登山口から登った方が近いと思い攻城しましたが失敗しました。
大手道と合流するまではちゃんとした道ではないので、少し遠回りでも大手道攻城口付近(34.778170、133.899634)からの攻城をお薦めします。
主郭にはかって妙見宮があった関係で、改変されているようですが、本丸の高石垣が素晴らしい。また堀切等の遺構も見れます。
攻城時間は65分くらいでした。本日の城巡りは、ここがラストです。
本日の宿泊先に向かう為、金川駅からJR津山線で岡山駅に向かい、コインロッカーより荷物を取り出して姫路駅に向かいました。
歩行歩数=37775歩、歩行距離=26.4Kmです。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征30日目:金川城 (2026/06/09 訪問)

金川陣屋(城びと未登録 岡山県岡山市)近くの御津登山口(34.799053、133.934992)から攻城しました。
ひたすら階段を登り二ノ丸に至ります。下城は道林寺丸登城口側(34.798949、133.9302886)に下りて、難波抱節宅長屋門を確認しました。

築城年代は定かではないようですが、承久年間(1219年〜1222年)に松田盛朝によって築かれたと云われています。
1483年(文明15年)の福岡合戦では、山名氏の援軍を得た松田元成が赤松・浦上氏の籠る福岡城を攻撃し、翌年攻略しました。
しかし、勢い付いて浦上氏の居城である三石城を攻略しようと侵攻したが反撃にあい敗走中に自刃しました。
1568年(永録11年)宇喜多直家によって攻められ、松田元輝・元賢が討死して落城し、松田氏は滅亡しました。宇喜多氏はその後、浮田春家を城主にします。
関ヶ原合戦で宇喜多氏が滅亡すると小早川秀秋が備前に入国しましたが、このとき支城となったかどうかは定かではないようです。
小早川氏に替わり池田氏が入封すると家老日置忠俊を置いたが一国一城令により廃城となりました。

本丸までは整備された登山道ですが、御津登山道は1210段の丸太階段が続くのでキツイ登りとなりました。
井戸も多く残されており、特に本丸の井戸は大きかった。
攻城時間は65分くらいでした。次の攻城先=徳倉城へ徒歩で向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征30日目:金川陣屋(城びと未登録 岡山県岡山市) (2026/06/09 訪問)

金川駅から徒歩15分弱で、石垣付近(34.798887、133.935352)に着きました。

1632年(寛永9年)に岡山藩池田氏家老・日置忠俊によって築かれました。
1617年(元和3年)日置氏は池田光政が因幡鳥取へと国替えになった際には因幡鹿野を領していました。
1632年(寛永9年)池田光政の備前岡山への国替え従い金川へ入り14,000石を領しました。この時金川城跡の麓に陣屋を形成したと見られています。
日置氏は2代忠治の時に2,000石を加増され以後12代忠尚の時に明治を迎えました。

金川陣屋は岡山市北区役所御津支所の地に築かれていました。
東から南にかけて陣屋当時の石垣が現在も残っています。
観光時間は5分くらいでした。次の攻城先=金川城へ徒歩で向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征30日目:八浜城 (2026/06/09 訪問)

八浜市民センターバス停から徒歩10分弱で、両児山公園駐車ふたごやま(34.551577、133.940343)に着きました。
最初ナビの案内に従って歩いていましたが、途中、八浜城跡への案内標識を見つけ、その指示従って登城しました。予定より10分早く着きました。

1581年(天正9年)頃宇喜多氏によって築かれました。
1581年(天正9年)宇喜多直家が没すると、毛利氏は元就四男の穗田元清を大将として児島へ侵攻し、麦飯山城を拠点に児島を制圧しようとしました。
これに対抗して宇喜多氏は宇喜多忠家・基家を主将として八浜城に陣を構え、1582年(天正10年)柳畑の浜辺で合戦となり、宇喜多基家はこの戦いで流れ弾にあたって討死します。
宇喜多勢は浮き足立ち毛利軍の追撃を受けたが、八浜七本槍と呼ばれる武将の活躍で陣を立て直し、毛利の追撃を退けました。
その後は、秀吉と毛利氏の和議により境目の城である八浜城は役割を終えたとされます。

現在は両児山公園となっており、駐車場も完備されています。
畝状竪堀群がよく残っているのは北城の八浜八幡宮側で、公園になっている南城には城址碑があり、堀切と結合した折れを伴う横堀が一見の価値ありです。
攻城時間は30分くらいでした。次の攻城先=金川陣屋(城びと未登録 岡山県岡山市)を攻城する為、八浜市民センターバス停から両備バス玉野渋川特急線とJR津山線を利用して金川駅に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征30日目:常山城 (2026/06/09 訪問)

常山駅からから徒歩5分ちょっとで、常山駅側攻城口(34.529914、133.890692)に着きました。

文明年間(1469年〜1487年)上野氏によって築かれたといわれていますが定かではありません。
上野氏は松山城主三村元親の血縁となり一翼を担うが毛利氏が三村元親を松山城に攻め自刃させると最後の拠点である常山城に迫った。
1575年(天正3年)城兵わずか二百に対して毛利軍数千が押し寄せたため上野隆徳の妻(三村元親の妹)も鎧を身につけ侍女ともども奮戦し自害したと伝わっています。その後は毛利氏が城番を置きました。
1583年(天正11年)中国国分により、児島は宇喜多領となり、重臣の戸田秀安を置きました。 関ヶ原合戦で宇喜多氏が滅亡すると小早川秀秋が入封し重臣伊岐真利を置きました。
小早川氏断絶後に入封した池田氏はこの城を廃し下津井城の改修に資材を転用したといわれています。

城跡は案内板等も設置されていないので縄張図を持参した方が便利だと思います。
登城路は綺麗に整備されていますが、前日に降った雨で、滑ります。気を付けて登って行きます。
登城路や曲輪に石仏が多く設置され、井戸、曲輪、土塁、石垣があります。眺望は曇っていてよく見えませんでした。
攻城口から惣門丸まで30分、惣門丸から本丸まで10分でした。
本丸に展望台がありますが危険の為、登れません。
また北二の丸には鶴姫らを祀った「女軍の墓」があります。
攻城時間は90分くらいでした。次の攻城先=八浜城を攻城する為、常山駅からJR宇野みなと線と両備バスを利用して八浜市民センターバス停に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征30日目:早島陣屋 (2026/06/09 訪問)

早島駅から徒歩10分くらいで、戸川家陣屋址碑(34.604541、133.827426)に着きました。

1627年(寛永4年)庭瀬城主戸川達安が死去により遺領は嫡男正安が嗣ぎ、1628年(寛永5年)に正安は弟安尤に3,400石(早島戸川家)、安利に3,300石(帯江戸川家)分知して、両家は直参旗本に列せられました。
元禄年間(1688~1704年)2代安明の時、普請に取り掛かり完成したという陣屋跡。以後安宅まで13代旗本戸川家陣屋として明治まで続きます。
その後、1702年(元禄15年)に早島戸川家2代安明は、六男安通に中庄中島400石を与え分家させました。
庭瀬の戸川本家は4代安風で断絶するが、戸川達富が名跡を嗣いで備中撫川5,000石を領した。また、本家2代正安の子安成より妹尾戸川家が分知されました。

現在の早島小学校や戸川家記念館一帯が陣屋跡で堀跡や石橋が残されています。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=常山城へ向かう為、早島駅からJR瀬戸大橋線とJR宇野みなと線を利用して常山駅に向かいました。

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トク

地震で足止め

鹿児島のお城を巡っておりました。揺れてる! とは思いましたが、大丈夫だろうと高速バスで帰ろうと鹿児島中央駅まで来ると、止まっている😱! 明日も運休らしい (橋が崩落したらしい)。新幹線も止まっている。鹿児島から出られなくなってしまった😵~! 熊本城の石垣の一部にまた被害も出たとの事。大丈夫かな? 八代城は? 地震は恐いですね。ホテルも運良く取れたのて、何とかなるまで、しばらくもう少し、鹿児島で城巡ろうかな🤔? そのうち動くだろう (楽観的でしょうか?)

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にのまる

元陣屋 (2026/06/25 訪問)

モロラン陣屋見学後、バスで東室蘭→電車で白老→市街地循環バス“ぐるぽん”で陣屋資料館と移動しました。
今回の遠征で幕末から明治維新にかけての道南の歴史に触れてきましたが、ここ仙台藩白老元陣屋でもたくさんの知らなかったことを学べました。
(元陣屋の「元」が拠点という意味だということも初めて知りました。)
いくつかの陣屋をまわって、共通点もありますが、個別の事情や矜持による個性も感じられ、抗うことのできない時代の要請の中に身を置きつつも決断、団結、行動した人たちがいたことを知り得たのは大きな学びでした。

資料館見学後、現地に繰り出したのですが、内曲輪や鹽竈神社で満足していたら内曲輪を遥かに上回る広さの外曲輪が待ち受けており、遺跡調査中の虎口に、(過去にも終わりはないんだな)と感じたりもしました。以前は訪問先でブルーシートを見るとがっかりしたものですが、場数を踏むうちに、ブルーシートにわくわくするようになってきました。

思った以上に広かったのでバスに間に合わなかったら大変!走って戻り、最後に「ウポポイ(民族共生象徴空間)」に行きました。14時を過ぎていて参加型のイベントが少ないからということで入場料は半額でした。アイヌのことを学ぶ機会はあまりないので、帰りに本を一冊購入しました。(只今3冊併読していてまだ読み終えていません。)


新潟の浸水、朝田さん大丈夫でしょうか。
トクさん、九州のみなさん、ご無事でしょうか。
熊本城や八代城のことを思いますが、人命第一。どうかご無事でありますように。

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イオ

紀伊国統治の転換点 (2026/02/06 訪問)

室町中期に紀俊連が築いた城で、戦国期に太田左近が改修し、羽柴秀吉の紀州攻めでは最後まで抵抗するも、水攻めを受けて城兵の助命を条件に太田左近らが自害して開城。太田城は焼き払われて廃城となりました。

6年半ほど前に本丸跡(来迎寺)と大立寺の移築門、水攻め堤は見ていますが、周辺にいくつか見落としがあったので、近くの年金事務所に来たついでに登城しました。来迎寺の北東約100mには戦火から保護して太田城の守護神となった太田城毘沙門天が祀られています。来迎寺の北北東約120mの道路脇には「太田城跡の屋敷地」の説明板が立てられており、発掘調査で溝で区画された屋敷地と石組みの井戸跡が確認されているようです。和歌山駅東口から東に約280mの歩道脇(南側)には「太田城の堀跡」の説明板が立てられていて、堀幅約10m、深さ約3m、堀底からは鉄砲玉製造用の鉛のインゴットが発掘されているようです。和歌山駅東口駅前には太田城主 太田左近像と説明板が立てられていました。

この6年半の間にさらに整備されたようなので秀吉軍が築いた水攻め堤にも。信用金庫の駐車場、そして車道沿いから水攻め堤を眺めつつ向かうと、車道から南に入ってすぐに水攻め堤跡への案内表示が設けられていました。前はこんな登城(登堤?)ルートはなかったよな…と思いながら案内に従って進んだ先に水攻め堤があり、仮設の階段で堤に登れるようになっています。以前は文化住宅の前に立てられていた説明板が階段の脇に移設されていました。それだけと言ってしまえばそれだけですが、日本三大水攻めに数えられる水攻めの痕跡をこうして目にすることができるのはありがたいことです。

太田城の開城により紀伊国は紀州攻めの副将を務めた羽柴秀長に与えられ、紀南での一揆に悩まされつつも、和歌山城を築いて宗教勢力と土豪が割拠する難治の地とされた紀伊国を治めていくことになります。太田城はその転換点となった城なんですね。
 

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todo94

再度の飛島渡航失敗による代替攻城③の2 庄内神社、大宝館 (2026/07/18 訪問)

致道博物館からは、濠沿いに進んで裏手から庄内神社に向かいました。ぎりょうさんは私の前日に訪れていたのですね。庄内神社にそんなお宝の展示があったとは、全く気が付きませんでした。出羽三山神社に続いて1000円のお守りを購入することで頭がいっぱいだったのだと思います。

藤沢周平記念館はパスして、入館無料の大寶館へと向かいます。2027年3月30日まで開催される企画展・28代目木村庄之助と横綱柏戸のコーナーをはじめ、展示はくまなく拝見させていただきました。横綱柏戸記念館にも足を伸ばしてみようかと考えつつ、藩校致道館に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征29日目:明禅寺城 (2026/06/08 訪問)

今日の天気は曇のち15:00頃から雨の予報です。現在、雨が降っています。
沼城から車で20分弱で、恩徳寺北側駐車場(34.665681、133.962196)に着きました。
そこから、登山道入口(34.666015、133.962244)に徒歩で向かいました。

築城年代は定かではないようですが、1566年(永禄9年)宇喜多氏によって築かれたと云われています。
1567年(永禄10年)の「明禅寺崩れ」と呼ばれる戦いの舞台となったことでも知られています。
『備前軍記』などによれば、宇喜多直家に父三村家親を暗殺された三村元親が、報復のため備前に侵攻して明禅寺城を攻め落としました。
宇喜多氏は明禅寺城を奪還するために城を包囲したところ、三村元親が大軍を率いて後詰にきました。
宇喜多氏は明禅寺城を攻め落とし、その勢いで後詰の三村元親の軍勢も討ち破り大勝したそうです。
しかし、この合戦は後世編纂史料でしか確認されておらず、詳細は不明のようです。

雨の為、登城せず、登山道入口と恩徳寺の写真を撮って撤退しました。
攻城時間は10分くらいでした。本日の城巡りは、ここがラストです。
歩行歩数=31664歩、歩行距離=22.1Kmです。
岡山駅でレンタカーを返却し、本日の宿泊先に徒歩で向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征29日目:沼城 (2026/06/08 訪問)

今日の天気は曇のち15:00頃から雨の予報です。現在、雨は本降りです。
大廻小廻山城から車で10分ちょっとで、農道導入路近くの三角コーナ(34.705827、134.035562)に路駐しました。
そこから、宗形神社鳥居入口(34.705810、134.036295)に徒歩で向かいました。

築城年代は定かではないようですが、1532年(天文初年)頃に宇喜多直家の舅である、中山信正によって築かれました。
信正は金川城松田氏に従っていましたが、その勢力が衰えると天神山城浦上氏に従いました。
信正は1559年(永禄2年)直家によって謀殺され、その直家はのちに金光宗高をも謀殺して岡山城に居城を移すまで、沼城に14年間在城しました。
直家の後は舎弟浮田春家が砥石城から移りましたが、1602年(慶長6年)岡山に移封された小早川秀秋によって廃城となり、主要建造物は岡山城へと移築しました。

宗形神社への階段を上がれば本丸で、一段高い櫓台には宗形神社が鎮座しているようです。
大雨&路駐した場所が悪く走行車が気になった為、宗形神社鳥居入口で撤退しました。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=明禅寺城に向かいました。

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