水堀、土塁、折れ虎口、馬出状の曲輪。
静寂の中で東国荘園の方形居館の歴史を肌で感じることができました。
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2026/03/21 11:34
2026/03/21 10:15
秀吉時代に博多の街を復興させた男「神屋宗湛」 (2026/03/20 訪問)
大友宗麟の生涯を追う話からちょっと脱線して、秀吉時代に博多の街を復興させた男の話を、少しさせて頂こうと思います。
博多の街は過去4度、焼き討ちに会ったとされています。
① 度目は、元寇の時です。1274年文永の役で博多湾に上陸した蒙古軍は、まず博多の街を焼き払い、住民を虐殺して行きました。
② 度目は、前回お話しした1569年の多々良川の戦いの最中です。立花城を制圧した毛利軍でしたが、大友の軍勢に囲まれてしまったため、小早川隆景は敵の背後の博多の街を焼払い、大友軍を混乱させました。
③ 度目は、1587年島津軍北上の時です。島津軍は立花城に籠る立花宗茂を攻めますが、その最中に博多の街をも焼き払いました。
④ 度目は、1945年太平洋戦争の福岡空襲で焼け野原になりました。
③度目の直後、九州征伐を終えた豊臣秀吉は薩摩から大坂へ帰る途中、島津軍によって焼け野原と化した博多の街を見て唖然としたそうです。そこで博多に20日間滞在し自ら町割りを考え、それを「黒田官兵衛」と博多の豪商で千利休とも親交のある茶人「神屋宗湛」に特権を与えて託し、復興を命じたそうです。その時の区画整理が「太閤町割り」として現在も残っています。そしてこの町割りの単位が、今でも博多祇園山笠の流れの単位となっているそうです。
神屋宗湛は、そのおかげで博多の街が復興できた事に大変感謝し、朝鮮出兵の際には名護屋城へ出向き、秀吉にお礼として「黄金の茶室」を献上したそうです。そして名護屋城で茶会を開き、秀吉や諸大名に茶を点ててもてなしたとか。
現在、宗湛の屋敷があったとされる博多区奈良屋町の跡地には、秀吉を祀る「豊国神社」が建ち、奈良屋町は博多祇園山笠(追い山)の終点になっています。
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2026/03/21 08:34
山城めぐりができるのは… (2026/03/15 訪問)
(続き)
東尾根から主郭部東面の帯曲輪や腰曲輪を通り過ぎて一気に最高所の主郭へ。主郭のススキは刈られていますが、それはあ さんの主郭の三角点の写真で想定のうち。主郭からは南部平野から南部湾までが一望でき、南部支配の拠点であることを実感します。そして主郭から北側を見下ろすと広がるススキの大草原……じゃない!? 大草原どころか立っているススキは一本もなく、全て綺麗に刈られて足元に敷き詰められています。あ さんの登城からわずか半月でまさかこんなことになっていようとは。
主郭部は南端最高所の主郭から北方向に四段の曲輪を連ね、東面と西面に帯曲輪や腰曲輪をめぐらせています。発掘調査が実施された際に伐採されたのか四段の曲輪に立木はなく(だからこそススキが伸び盛る)、足元に積まれたススキで堀や土塁がわかりづらくなっている点はあるものの、曲輪の形状や切岸の鋭さは一目瞭然。四段の曲輪の下段にも曲輪群があり、こちらも綺麗に刈られています。四段目の曲輪の切岸の下には横堀(城道?)がめぐり、主郭部下段の西辺には武者隠し状の土塁が見られました。
正直なところ、支尾根の遺構は見られても主郭部はススキの大草原と大草原内部の先が見通せない写真を撮って終わりかな、くらいに思っていましたので、嬉しい想定外でした。それにしても、敷き詰められたススキの量から考えても主郭部全域を刈りこむのは相当なご苦労だったでしょうし、ススキだけでなくイバラとも格闘しながらの作業だったはず、と考えるとただただ頭が下がる思いです。それも普通に登ってくるだけでも大変な急坂を草刈機を担いで…。放置すればあっという間にヤブに沈んでしまう山城をこうして維持整備して下さっている方々がいるからこそ山城めぐりができているんだということを改めて痛感した平須賀城でした。この場を借りて心より感謝申し上げます。
登城前の想定とずいぶん違った結果になりましたが、あ さんご依頼の「現状の写真」の投稿はとりあえず果たせたということでご容赦を。いずれまたススキに沈んでしまうのかもしれませんが、登城を検討しておられる方がいるなら、今がチャンスですよ!
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2026/03/20 21:47
2026/03/20 17:39
毛呂 季光! (2026/01/17 訪問)
2回目の「毛呂氏館」訪問です。
前回同様、長栄寺さんの駐車場をお借りします。
そして同様に供養塔に手を合わせ、裏山の山道に踏み入る事なく退陣しました。
写真④が毛呂氏館に続く道です。
次の目的地に向かう途中で信号待ちをしていると本屋さんがありました。そこには、手書きで『毛呂 季光』とありました。
毛呂 季光さん、気になります。
毛呂氏は源頼朝さんの重臣で、吾妻鏡にも出てきますが詳しい功績が分かっていないそうです。2代目以降、表舞台に登場しません。ずっと後の豊臣 秀吉さんの北条討伐で、毛呂氏は再度登場します。
『鎌倉殿の13人』には毛呂氏は登場しませんでした。『豊臣兄弟!』では出演するかなー?。
毛呂氏の功績をもっと調べようと思った「毛呂氏館」攻めでした。
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2026/03/20 16:35
20060505岡城(大分県竹田市) (2006/05/05 訪問)
竹田は亡き父の故郷で、岡城は小さな頃から何度も訪れている思い出の場所。ゆっくり時間をかけて堪能すべき素晴らしい城址
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2026/03/20 15:25
20190413角牟礼城(大分県玖珠郡玖珠町) (2019/04/13 訪問)
豊後森藩資料館で丁寧な説明をお聞きした後、まずはお城以上にお城らしい末廣神社を見学。特に御長坂、清水御門は角牟礼城訪問前に是非見ていただきたい。 その後、三の丸まで車移動し、見事に残る石垣を堪能
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2026/03/20 08:45
まずは支尾根から (2026/03/15 訪問)
室町中期に守護・畠山氏の南部平野支配の拠点要害として築かれた城で、畠山氏に仕えた野辺氏が城主を務めましたが、戦国期に畠山氏内紛の中で野辺氏は没落し、湯川氏の勢力下になったようです。
激ヤブ状態の登城道に阻まれて2年あまり。その後、登城したという人はなかなか現れず、やはり自分で行ってみるしかないか、と思っていたところに、あ さんの登城レポートに勇気をもらって再挑戦しました。登城口から登って行くと、前回敗れ去ったシダとイバラの激ヤブはきれいさっぱり刈られていて、登城に何の支障もありません。あとは梅林の柵沿いにひたすら登って行くだけ…ではあるんですが、かなりの急坂で思ったより大変です。登城道がダメなら直登も辞さず、などと息巻いていましたが、直登せずに済んで良かった…。
登城口から約15分で北尾根の出曲輪に到達。北尾根を主郭部に向かうと鞍部の手前から西側に竪堀を落とし、鞍部の西辺には土塁が続いています。鞍部から少し登ったところに二重に堀切が設けられ、それぞれ両端で竪堀となって続いています。堀切西端の竪堀から西側には計6条の竪堀が連続し、先人の投稿では大いに見応えがありますが、現状は藪に覆われていて見づらい状態でした。連続竪堀の西端は西尾根を遮断する堀切になっていて、両端は竪堀となって落ちています。南端の竪堀の奥にも竪堀があり、こちらは主郭部からはるか下まで続いていました。西尾根の小曲輪群を探索した後は、北尾根付け根の堀切まで戻って東尾根に向かいます。
主郭部東面の踏み跡をたどって東尾根へ。東尾根の付け根は堀切と竪堀で断ち切り、東尾根にはいくつかの小曲輪が設けられています。眼下には南部川が流れ、こちらもかなりの急斜面です。なかなかの堅城ぶりですね。そして残るは主郭部のみ。主郭部は背丈より高いススキとイバラで覆い尽くされているそうなので、そんな中を往復はしたくないと先に支尾根の遺構をめぐりましたが、いよいよ覚悟を決めてススキの草原に突入するしかないようです(続く)。
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2026/03/20 00:09
エアボウ (2026/03/14 訪問)
善照寺砦から500mほどの場所にある城跡
と言っても城の遺構は全くなく…一言で言えばただの公園
今川義元が信長軍の奇襲に遭い、その首を取られた後も城主の岡部元信率いる今川軍はここ鳴海城を守り孤軍奮闘⚔️
しかし最終的には義元の首を受け取って降伏…城を明け渡したそう🏳️
あれから450年ほどが経ち…その地も今は公園
土曜にも関わらず誰もいない…子供もいない
なので園内を一人散策…遊具の上に登って城内から信長軍に向けて矢を放ち防戦する今川兵をイメージしながら…エアギターならぬエアボウ(矢を放つマネ)してみました🏹(笑)
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2026/03/19 21:21
栃木ラストは… (2026/02/23 訪問)
栃木ラストは,ミラーのような城址碑。表面はバッチリ回避できましたが,裏面はしっかり「うつっとるやんけ~!」。こんな曇りの日でも油断できないんですね…。誰か磨いているのかなぁ。
横田城,おそるべし。
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2026/03/19 20:59
龍松山城 (2026/01/25 訪問)
【龍松山城】
<駐車場他>城跡まで車で上がれます。
<交通手段>車
<見所>曲輪
<感想>1泊2日紀伊半島1周、山城攻略旅10城目。現地説明板によると龍松山城は南北朝時代から富田川流域で勢力を誇った室町幕府奉公衆の山本氏の居城である。また16世紀前半の守護畠山氏の分裂の戦乱にこの城が巻き込まれたとあります。
城跡は広い主郭を中心に大きい腰曲輪として二郭、主郭の背後を三郭としています。二郭には虎口と周辺に石垣遺構が見られます。主郭には土塁が無い代わりに高い切岸を備えて下方は鉢巻き石垣になっていたようで、現地説明板の辺りに石垣遺構があります。主郭の東側の杉林に横堀・堀切があるようだが上から下へ降りる道が無く断念しました。主郭の西側の2の段と呼ばれる所はミカン畑に改変されていました。
<満足度>◆◆◇
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2026/03/19 20:02
2026/03/19 19:07
2025.4.20登城 (2025/04/20 訪問)
北里大メディカルセンターの西側の荒川沿いの河岸段丘上に石戸城址があります。
現在、農地や宅地となっていますが、縄張図を見る限りほぼそのまま郭跡の区画が残っています。
また、東側の北本自然観察園との間には沼があり、北条氏邦が石戸城攻めの際に一夜で堤を作った伝承がある堤が残っています。
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2026/03/19 13:38
2025.4.20登城 (2025/04/20 訪問)
桶川北本ICの南側にある城山公園が三ツ木城址となります。
城山公園となっていますが、城址部分はあまり整備されていません。
明確な登城道が無く未整備の竹林になっていますが、城址広場から外側の土塁上に入ることができます。
未整備ということもあり、逆に立ち入る人もいない様なので、遺構として土塁や空堀が良好な状態で残っています。
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2026/03/19 11:14
漫画刊行イベント「夕雲の城 乱世の岐路」開催します!
漫画「夕雲の城」の続編、「乱世の岐路」を刊行します。
岐阜県立関高等学校の地域研究部の皆さんの調査、踏査協力を得て、続編が完成しました。
是非ご来場ください。
日時 : 2026年3月20日(祝) 午後1時~午後3時30分頃
場所 : タウンホールとみか 大ホール
★参加無料
★当日ロビーにてマンガ頒布 (1冊400円)
★歴史PRブースを開設
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2026/03/19 10:12
【大友宗麟】(6)多々良川の戦い(決戦!毛利VS大友) (2026/01/06 訪問)
大友宗麟、立花城からの続き(6)です。
今度は立花山の麓にある、名島城と多々良川を訪れました。名島城は、西鉄貝塚線「名島駅」から徒歩15分の所にあります。
名島城は多々良川の河口に位置し、1532年に立花鑑載が立花城の出城として築いたのが始まりとされています。その後、多々良川の戦いで負けた小早川隆景が、1587年豊臣秀吉の九州征伐後に筑前の国を賜り、立花城は山城で不便なため、海に面したこの名島城を総石垣造りの城に大改修して、小早川水軍の最前線基地にします。そして隆景は、ここから朝鮮(文禄の役)へ出兵しました。隆景死後は養子の小早川秀秋が入り、再び朝鮮(慶長の役)へ出兵します。しかしそこでの行いが秀吉の怒りを買い、越前北ノ庄へ左遷させられますが、秀吉死後に家康の計らいで再びこの名島城に復帰します。そして関ケ原へ! 関ケ原後に秀秋は岡山城へ移り、代わって中津から黒田官兵衛・長政父子がこの名島城に入ります。しかし手狭なため、新たに福岡城を築城し、名島城は一国一城令で廃城になったという歴史があるようです。
当時の遺構はほとんど残っていませんが、大手口であった場所にわずかな小早川隆景時代の石垣と(写真③④)、海岸には水軍基地の痕跡がありました(写真⑧)。そしてここにあった名島門と石垣の石は、黒田長政によって福岡城へ移されたようです(写真⑤)。
門司城の戦いの敗戦から何とか立て直した大友宗麟は、まず1569年毛利と通じ寝返っていた、秋月種実(古処山城主)・高橋鑑種(宝満山城主)・立花鑑載(立花城主)を討伐して筑前・筑後を再び平定し、家臣の結束を固めます。
その間、毛利元就は月山富田城で尼子氏と戦っていました。そして尼子義久を滅ぼすと、立花城を奪回すべく再び九州へ進軍します。吉川元春・小早川隆景の毛利全軍3万5千(70才になった毛利元就も長府まで出陣)、対する大友軍も、戸次鑑連・臼杵鑑速らの大友全軍4万(大友宗麟も高良山まで出陣)、計7万5千の大軍勢が、立花山の麓で名島城から上流の多々良川で対峙します。どちらも全軍で出陣しているので、両者ついに本気で雌雄を決しようとしていたのが分かります。
しかし半年間も睨み合いが続き、両者とも動きません(いや動けません)。小早川隆景と戸次鑑連の名軍師どうしがお互いを警戒し、門司城での失敗は繰り返すまいと知恵比べになったため、軽率には動けなかったものと推測されます。しかしここで、尼子家再興を目指した尼子勝久と山中鹿介が、月山富田城を攻めたとの報告が入ります。背後を突かれた毛利は、大友どころではなくなり、元就はあわてて全軍に撤退を指示、吉田郡山城へ戻るよう命じました。特に小早川隆景は筑前を手放す事に最後まで反対し、悔しがったようです。
これで宗麟は門司城までをも奪還し、毛利勢を九州から一掃できました。しかし再び毛利勢の侵攻や筑前の国衆の寝返りを恐れたのか、宗麟の命で重臣筆頭の戸次鑑連が立花道雪と改名し立花城に入ります。思えばこの道雪を遠ざけた宗麟の判断が、大友家の滅亡への始まりだったのかもしれません。そして道雪死後は、娘婿の宗茂が家督を継ぎ、立花城を島津の侵攻から守りきった事は、皆さんもよく御存知と思います。
私は、名島城から1.5km程上流にある名島橋まで行ってみました(写真⑨)。両者が対峙した場所は、国道3号・福岡都市高速・JR鹿児島本線・西鉄貝塚線などの橋や鉄橋がかかる、今では交通の大動脈に変わっていました。そして私は、ここから立花山を見上げてみました(写真⑩)。小早川隆景や立花道雪はどんな思いで、ここからあの立花山を見上げていたのでしょうか? 敵はどう仕掛けて来るのだろうか・・・? 名軍師同士、お互い牽制し合い、立花山を見上げながら、策を練っていたのではないでしょうか?
次は、この多々良川の戦い最中に宗麟が本陣を敷いた(高良山)に続きます。
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2026/03/19 10:00
2025.4.5登城 (2025/04/05 訪問)
丹沢湖最北部に第六天バンガロー跡地があり、中川城址となります。
現在、バンガローは営業していないため、道路は車両通行止めとなっていますが、駐車場に停めて徒歩で登城ができます。
真っ暗なトンネルを抜け、しばらく行くとバンガロー跡地で城址となりますが、立入禁止の立札があるため、郭内部の散策は困難ですが、道路沿いの主郭や櫓台は確認できます。
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2026/03/19 08:43
有馬温泉豊公めぐり (2025/09/13 訪問)
湯山館の再建のみならず慶長伏見地震で大きな被害を受けた有馬温泉の復興に尽力した豊臣秀吉は、有馬温泉において今なお顕彰されており、あちこちに見られるゆかりの地をめぐってみました。
温泉寺
行基が建立した古刹で、秀吉に同行した北政所が大火で焼失した薬師堂の再建費用を寄進しています。
愛宕山公園
公園北端に秀吉が愛用したとされる亀の手洗鉢(と説明板)がある…にはあるんですが、半ば草に埋もれて見えにくい上に「ひっつき虫」の巣窟で、両脚ともにびっしりとひっつき虫まみれになり、取るのに30分ほどを費やしてしまいました…。
瑞宝寺公園
明治に廃寺となった瑞宝寺跡が公園として整備され、紅葉の名所「日暮しの庭」には秀吉が囲んだとされる石の碁盤があり、旧瑞宝寺の山門は伏見城からの移築と伝わります。
茶人太閤像・ねねの像
有馬温泉駅から温泉街に向かう道中にあり、茶人姿の秀吉とねねが有馬川をはさんで見つめ合うように立てられています。
金の湯
秀吉とは直接関係ありませんが、せっかく有馬温泉に来てるんだから…ということで最後は金の湯で疲れを癒し、ありまサイダーてつぽう水で一日を締めくくりました。
なお、有馬温泉は前年にも訪れており、瑞宝寺公園と茶人太閤像・ねねの像の写真は2024/06/08撮影のものです。
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2026/03/19 07:03
模擬天守が目印 (2026/02/15 訪問)
国道からもよく見える模擬天守が目印です。
道路沿いに駐車場があり、少し登ると模擬天守に着きます。
この辺りが二の丸のようです。
耐震の問題で模擬天守は閉館、中に入ることは出来ません。
川島神社との間の道路は堀切跡かな〜と思いながら神社に参拝。
その背後の丘に登ってみました。
土塁のようにも見えますが明治から大正時代の石切場でもあり、その後は公園化のためほぼ遺構は残りません。
公園の北西部には阿波青石の岩盤が露出しています。
そこから岩の鼻と呼ばれる展望台へ。
ミニ四国八十八ヶ所もありました。
展望台からは吉野川を眼下に望み、天然の堀となっています。
また、川島浜と呼ばれる川湊もありました。
阿波九城のひとつ、遺構はほぼ無いのですが水陸の交通の要衝に置かれた城ということがよくわかります。
【見どころ】
・岩の鼻からの眺望
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