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シャンシャン

家康お膝元の城 (2026/07/10 訪問)

駿府城に十数年振りに訪問!
レンタサイクルで外堀と中堀をぐるっと回ってじっくり攻城できた。
さすがに家康が住んでいた城だけあって、巨石が整然と積まれた石垣や大きな堀跡などかつての威光が感じられる。
復元された2つの櫓や東御門もけっこう大きくて迫力がある!夜のライトアップも見事!
お天気の中、城内のおでんやで食べた静岡おでんとビールはサイコー!!
天主台の見学ゾーンは期間が過ぎており、残念ながら入ることはできず。どんどん整備が進んでいるようなので、環境が整ったらまた来たい!

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シャンシャン

中世戦国時代の城跡 (2026/07/08 訪問)

茨城県にある、中世戦国時代の城跡。
二重櫓や井楼矢倉、櫓門などが木造復元され、関宿城から移築された藥井門もあり、さらには堀跡や土塁も残されており見どころが多い!
営業時間が過ぎていたため、残念ながら二重櫓や主殿には入れず。
桜もたくさん植えられており、芝生もきれいに整備されているので、春は花見酒ができそう。この城跡はまた来たい!

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シャンシャン

千葉県の先っちょの城 (2026/07/08 訪問)

千葉県の北西、利根川と江戸川の境目にある関宿城。
模擬天守だけど、江戸城の富士見櫓に似ていたとの伝承から、富士見櫓に模して造られている。
周りは高い建物もなく平地にあるので、離れた場所からも見える。かつて城下町があった場所には曲輪跡や堀跡、鍵の手十字路など遺構も残っている。
関宿城から南に下った實相寺には、かつて本丸にあった御殿が客殿として現存しており(千葉県内では唯一現存する本丸の建物とのこと)、さらに南には廃城時に民間に払い下げられた埋門が現存していて、けっこう見どころが多くて楽しめた!

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トク

京都:阿弥陀寺(信長の首はどこへ消えた?) (2023/12/12 訪問)

イオさんに刺激され、私も少し気になっていた本能寺の話題をさせていただきます(すいません)。確かに織田信澄の黒幕説は、誰もが予想していなかった展開でしたね。NHKにあっぱれです!😊

ところで、本能寺の変で信長の首は見つかりませんでした。ならば信長の首はいったいどこへ消えたのか? もし見つかっていれば、光秀の方が天下を取れていたかも? とネバたらを考える明智ファンは多いのではないかと思います。でも明智軍1万5千の軍勢がぐるりと取り囲んでいたので、信長が本能寺から生きて逃げ出せたとはとても思えません。血眼になって探したにもかかわらず、なぜ遺体は見つからなかったとされているのでしょうか? どうやら調べてみたところ、二つの説があるようです。

【説1】清玉上人説
【説2】日海上人説

【説1】に関してはさらに最近、「明智光秀は実は本能寺にはいなかった」という新たな追加説が浮上し、光秀は6km南の鳥羽で信長が逃げて来るのを待ち構えていた、斎藤利光は2km北の二条御所にて信忠を囲んでいた、よってドラマなどとは異なり、「本能寺を攻めたのは実は明智秀満の軍勢のみだった」とも言われているようです。その時、秀満の家臣が信長の家臣たちが遺体を荼毘に付すところを発見するも、終わるまで見逃してくれと頼まれたため、家臣は秀満に報告します。しかし秀満は見逃す事とし、なぜか光秀には報告しなかったようです。その時駆け付けた織田家ゆかりの清玉上人が、成仏させるのは僧の役目と、その遺骨を引き取り阿弥陀寺に運んだとされています。清玉上人はその後、信忠や家臣らの遺骨も引き取り、墓を建てたようです。しかしそれを後に知った秀吉は、百箇日法要を阿弥陀寺で行いたいと清玉上人に申し出ますが、清玉上人が断ったため、自ら大徳寺で盛大に行い、後継者は自分である事をアピールしたようです。

三年前ですが、私はその京都の阿弥陀寺を訪れました(写真①)。確かに信長と信忠の墓があり(写真④)、森蘭丸ら家臣たちの墓もありました(写真⑤)。これを見ると何やら信憑性がありそうですが、でも本当に信長の遺体を、蟻の這い出る隙間もない程の軍勢に取り囲まれている中、怪しまれずに荼毘に付し、熱く焦げた遺骨をこっそりと運ぶ事などできたのでしょうか? 機会があればもう一つの【説2】も、いつか追ってみたいです。

本能寺の変には、現代人には分からない謎が、本当に多いですよね!🤔
 

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todo94

和泉の攻城⑤ 城カードは入手したもののスタンプは捺せず (2026/07/11 訪問)

要家住宅(畠中城)からの転戦です。貝塚駅から南海に乗り、次の蛸薬師駅で下車して徒歩でアプローチしました。城カードの入手が最大の目的でしたが、続100名城のスタンプ帳を忘れてしまうという大失態を演じてしまいました。なので今回は天守には入らず、二の丸にて城カードを購入するにとどめました。近隣にはまだまだ未攻略の城が残っているので、来年あたり、また、狙ってみたいと思います。岸和田城から南海岸和田駅まで歩いただけでかなり疲れてしまったので、駅前で握り寿司の昼食をとりました。冷たい麦茶で生き返りました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征23日目:吉川元春館 (2026/06/02 訪問)

天気予報では今日は台風の影響で一日中、大雨ですが強風は一時的なので、レンタカーや宿泊ホテルは予定変更せず、城巡り続行。しかし、山城の登城は危険なので登城口止まりになります。
長期遠征は、台風の少ない5月中旬~6月上旬でいつも計画していますが、今回の遠征は雨の日が多くかつ台風まで来てしまいました。残念です。
与谷城から車で10分くらいで、吉川元春館駐車場(34.717378、132.466570)に着きました。

1583年(天正11年)吉川元春によって築かれました。
1582年(天正10年)嫡男元長に家督を譲った元春が隠居所として築いたのが吉川元春館です。
1586年(天正14年)吉川元春は元長とともに秀吉による九州征伐に従軍していましたが、豊前国小倉城で没し、元長も翌1587年(天正15年)に日向国都於郡で没しました。
家督は三男広家が継ぎ、吉川元春館はこの広家の時代に完成しました。元長死後は三男広家夫婦の居所として機能したそうです。
1591年(天正19年)吉川広家は出雲国富田城へ転封となり、1600年(慶長5年)関ヶ原合戦で敗れた後は周防国岩国へと移り、安芸国から去っていきました。

城館正面にある立石の間に石を横積みにする独特の石垣が素晴らしく、発掘調査結果から台所と付属屋が復元され、庭園もあります。
ガイダンス施設で展示物とビデオを見ました。
攻城時間は45分くらいでした。次の攻城先=松本屋敷に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征23日目:与谷城 (2026/06/02 訪問)

天気予報では今日は台風の影響で一日中、大雨ですが強風は一時的なので、レンタカーや宿泊ホテルは予定変更せず、城巡り続行。しかし、山城の登城は危険なので登城口止まりになります。
長期遠征は、台風の少ない5月中旬~6月上旬でいつも計画していますが、今回の遠征は雨の日が多くかつ台風まで来てしまいました。残念です。
寺原城から車で2~3分くらいで、説明板前/赤い橋(34.686189、132.4923592)に着きました。

築城年代は定かではないようです。
南北朝の争乱に当って毛利貞親・親衡父子は、南朝方について忠勤を尽しました。ことに親衡は足利直冬や征西将軍懐良親王と気派を通じ、吉田庄を中心に気勢をあげました。
与谷城は親衡が1350年(観応元年)と1367年(正平22年)に拠った城で、最後に吉川実経に攻略されています。

国道261号から寺原集落に入り寺原川沿いの道を走ると、寺原川に架かる赤い余谷橋があり、そこに説明板があります。
説明板と赤い橋の写真を撮って撤退しました。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=吉川元春館に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県町)遠征23日目:寺原城 (2026/06/02 訪問)

天気予報では今日は台風の影響で一日中、大雨ですが強風は一時的なので、レンタカーや宿泊ホテルは予定変更せず、城巡り続行。しかし、山城の登城は危険なので登城口止まりになります。
長期遠征は、台風の少ない5月中旬~6月上旬でいつも計画していますが、今回の遠征は雨の日が多くかつ台風まで来てしまいました。残念です。
今田氏館から車で10分くらいで、西光寺門前空スペース(34.686512、132.500932)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、南北朝時代と云われています。
南北朝の争乱に当って毛利貞親・親衡父子は、南朝方について忠勤を尽しました。ことに親衡は足利直冬や征西将軍懐良親王と気派を通じ、吉田庄を中心に気勢をあげました。
1350年(正平5年・観応元年)城主寺原時親は猿喰城の山形為継・壬生道忠とともに寺原城に籠ったが吉川実経・武田氏信らの攻撃により落城降伏しました。
1542年(天文11年)の大内氏・毛利氏による尼子攻めの後、寺原城・余谷城を吉川氏に与えています。

西光寺の北西背後の山の頂部が城址のようです。時西光寺と北西背後の山の写真を撮って撤退しました。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=与谷城に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征23日目:今田氏館 (2026/06/02 訪問)

天気予報では今日は台風の影響で一日中、大雨ですが強風は一時的なので、レンタカーや宿泊ホテルは予定変更せず、城巡り続行。しかし、山城の登城は危険なので登城口止まりになります。
長期遠征は、台風の少ない5月中旬~6月上旬でいつも計画していますが、今回の遠征は雨の日が多くかつ台風まで来てしまいました。残念です。
今田城から徒歩2~3分で、説明板/標柱前(34.666334、132.503552)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、室町・戦国時代(15~16世紀)に今田氏が拠った北広島町今田の谷の最奥部に位置する城館遺構のようです。

説明板と石碑の写真を撮って撤退しました。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=寺原城に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征23日目:今田城 (2026/06/02 訪問)

天気予報では今日は台風の影響で一日中、大雨ですが強風は一時的なので、レンタカーや宿泊ホテルは予定変更せず、城巡り続行。しかし、山城の登城は危険なので登城口止まりになります。
長期遠征は、台風の少ない5月中旬~6月上旬でいつも計画していますが、今回の遠征は雨の日が多くかつ台風まで来てしまいました。残念です。
猿喰城から車で10分弱で、こぶしの名水駐車場(34.667514、132.503095)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、今田氏によって築かれました。今田氏は山県氏の一族で壬生城主壬生氏、有田城有田氏と同族のようです。
永享年間(1429年〜1441年)に山県満政が今田を領して今田氏を称したことに始まるとされます。
今田氏は安芸国守護武田氏に属していたが、永正年間(1504年~1521年)に武田元繁が大内義興から離反して没落すると、山県領域は吉川領となり、今田氏もまた吉川氏に従いました。
その後、今田氏は吉川一族の経高が家督を継承して吉川氏一族となります。1575年(天正3年)には備中楪城の在番を命じられています。

現在は今田氏城館跡として登山道が整備されています。
今田城への道標が出ており、今田城こぶしの名水も有名です。
今田城こぶしの名水:井戸が掘られてまだ10年余のようですが、まろやかで口当たりのよい水でした。
説明板と登城口付近の写真を撮って撤退しました。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=今田氏館に徒歩で向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征23日目:猿喰城 (2026/06/02 訪問)

天気予報では今日は台風の影響で一日中、大雨ですが強風は一時的なので、レンタカーや宿泊ホテルは予定変更せず、城巡り続行。しかし、山城の登城は危険なので登城口止まりになります。
長期遠征は、台風の少ない5月中旬~6月上旬でいつも計画していますが、今回の遠征は雨の日が多くかつ台風まで来てしまいました。残念です。
桂城から車で30分くらいで、猿喰林道入口(34.651270、132.507679)に着きました。

南北朝の争乱に当って毛利貞親・親衡父子は、南朝方について忠勤を尽しました。ことに親衡は足利直冬や征西将軍懐良親王と気派を通じ、吉田庄を中心に気勢をあげました。
猿喰城は、1350年(観応元年)毛利親衡に呼応した山県為継、壬生道忠が拠った所で、安芸国守護武田氏信によって攻略されました。

登城口付近の写真を撮って撤退しました。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=今田城に向かいました。

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トンガの鼻 (2026/07/16 訪問)

 紀伊水道に突出した岬の先端部(通称 トンガの鼻)に築かれた台場跡です。土塁、石垣などが残っています。
近くにある元番所台場跡である番所庭園へも行きました。台場の遺構はありませんが、きれいに整備された公園で入場料(大人600円)が必要です。
暑い日でしたが、海から風が来るのでなんとか凌げました。

 JR和歌山駅よりバスに乗り雑賀崎遊園バス停下車。10分かからずに雑賀崎台場入口に行くことができます。ただバスの本数は少ないので要注意です。雑賀崎台場入口から徒歩10分くらいで番所庭園へ行くことができました。

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朝田 辰兵衛

虎御前山城散策2/2(信長陣地跡~南側登城口) (2026/06/29 訪問)

虎姫側の南側登城口はとてもわかりづらく感じました。個人的には,これで正解だったと思っています。
この周辺のお城では,眺望と言えば琵琶湖。琵琶湖と言えば竹生島。特別な思いは抱いておりませんが,方角の確認には一役買っております。あさんにお叱りを受けそうですが…<笑>。

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朝田 辰兵衛

虎御前山城散策1/2(北側登城口~信長陣地跡北側竪堀) (2026/06/29 訪問)

🛫福岡空港に降り立ち,4日かけて滋賀県へ。あさんの庭に到達しました。虎御前山城はずいぶん以前から計画しておりましたが,いずれも悪天候に見舞われてスルーしていました。やはり,ここから小谷城を見ないことには始まらない…👀
河毛側の北側登城口から登り,虎姫側の南側登城口へと向かいました。パンフレットのようなしおりが,虎姫側の南側登城口に置いてありましたので,フツーは逆のようですが…<苦笑>。

「赤色立体地図お城かるた」大会 in 大阪ですが,にいがた祭りにバッティングしていますね…。そもそも所用を入れているため,行ける確率は10%以下。また,城びとスタッフに顔が割れているので,しれーっと「初級コース」にエントリーはムリだと思っています。無言で「上級コース」にエスコートされそうな予感…。イオさんと赤い城さんは,「上級コース」で夢の対決を楽しんでください。結果報告をお待ち申し上げます。
今年も,横浜へは初日に顔を出す予定。ナイトプログラムについては,パスする予定です。

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長町ツインズパパ

出張中の訪問その2(2) (2026/07/08 訪問)

出張中の合間を縫って長浜市内の城跡を訪問しました。

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長町ツインズパパ

出張中の訪問村2(1) (2026/07/06 訪問)

出張の合間を縫って長浜市内の城跡を訪問しました。

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トク

17【秀長の毛利攻めをたどる②】備中高松城(2/2)秀吉・秀長陣跡 (2026/05/09 訪問)

次は、豊臣秀吉の陣跡へ行ってきました。高松城から歩いて30分、太閤岩入口と書かれた細い道から入り(写真①)、さらに15分ほど登ると旗が立てられ開けた場所がありました(写真③)。どうやら秀吉は、ここから切腹する清水宗治の姿を見ていたようです(写真④⑤)。またさらに10分程登ると、太閤岩がありました。秀吉はこの岩に腰掛け、水没していく高松城を眺めていたようですね(写真⑥)。

そこから今度は、豊臣秀長の陣跡まで行ってきました。太閤岩入口からさらに南東へ30分程歩き、高速道路のトンネルの西側にあった登山口(写真⑦⑧)から急坂を登る事30分、鼓山(つづみやま)の山頂に秀長陣跡はありました。途中の鉄塔の下あたりから、道がなくなったので、草むらを掻き分けながら進み、ここでいいのかと不安になりましたが、説明板を発見したときは、無事たどり着いたとホットしました(写真⑨)。

でも意外でした。秀長の陣から高松城は全く見えません。ならばなぜここを陣にしたのか? そう言えば水攻めを考案し、また本能寺の変を知り明智光秀を討つ事を進言した黒田官兵衛の話は有名ですが、ここ高松での秀長の話題は聞いた事がありません。ならば秀長は、一体この時ここで何をしていたのでしょうか?

結局分からぬまま帰り、先週そこがドラマで取り上げられ、ドラマでは秀長は戦場を抜け出して安土の信長の元へ行き、出陣を促す役割をしていたようです。どうやら自分が築いたこの鼓山の陣に、信長を迎え入れようと準備していたようですね。しかし本能寺の変が起こり、それどころでは無くなったようです(そうだったのか~😯)。

備中高松駅から出発して、(備中高松駅→備中高松城→宗治自刃の地→秀吉陣跡→太閤岩→水攻め史跡公園→秀長陣跡→吉備津駅)(図⑩)と、結局4時間もかけて歩き回ってしまいました。吉備津駅から1km先にある桃太郎伝説で有名な吉備津彦神社まで行きたかったのですが、鼓山の急傾斜で予想外に体力を消耗してしまい、力尽きて行けなかったのが残念です(笑)。

次は天王山に登り、秀長の山崎の戦いをたどります。
 

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イオ

本能寺の変…とかるた大会⁉

大河ドラマ「豊臣兄弟!」の本能寺の変に関するネタバレ部分があります。未視聴の方はご注意ください。

三英傑周辺の大河ドラマでは本能寺の変をどう描くかはひとつの大きな見どころですが(三英傑周辺でない「真田丸」ではナレ死でした)、「豊臣兄弟!」では秀吉にとっての信長と同様に、明智光秀にとって足利義昭が一生かけて仕えたい主君として描かれていたため、今回は「足利義昭黒幕説」なのかな…と思っていたら前話でまさかの「織田信澄黒幕説」が浮上! これまで秀吉・秀長兄弟と対比させて信長・信勝兄弟を描いていただけに、史実としてはともかく「豊臣兄弟!」ではそれもアリなのか…と思いきや光秀が信澄への協力を拒否してあえなく頓挫。やむなく信澄は光秀が家康を饗応する席で信長に毒を盛るも失敗し、饗応役として心当たりを信長に問い詰められた光秀が返答に窮していると、ビンタ✕2、キック✕4、パンチ✕5に加えてとどめのドロップキック! あまりに見事なドロップキックだったので息詰まるシーンなのに思わず笑ってしまったじゃないですか。でも、ということは「怨恨説」になるのかとも思いましたが…これは何と表現すればいいんでしょうね?

「信長を討て」との義昭の密書は信澄が偽造したものでしたが、義昭にその意思があるのなら偽の密書を上意として信長を討つことも辞さず、という覚悟で斎藤利三に義昭の意向を確認させたところ、義昭の返事は「わしを巻き込むな」というもの…。義昭のスパイとして信長の家臣となった光秀が、信長の疑念を晴らすために比叡山焼き討ちで心ならずも女子供に至るまで撫で斬りにしたところ、義昭から「いつからそのような外道に成り下がった!」と叱責されたことがありましたが、ここに来てまたしても梯子を外されようとは…。「足利義昭黒幕説」ならぬ「義昭に拒否られたけど黒幕役とする説」でしょうか(なんだそりゃ)。「豊臣兄弟!」の義昭は悪い人ではないんだけど、天下人としての覚悟が足りないというか、お坊ちゃんなんですよね。良くも悪くも。光秀ほどの人物が主君と仰ぐに値しない人を主君と思い定めてしまったことが悲劇の始まりというか…。もっとも義昭からすれば、頼んだわけでもない陰謀に加担させられて我が身を危険にさらすことになるのではたまったものじゃないでしょうけど。

以前に、麒麟がくる紀行(明智光秀ゆかりの城めぐり)を続ける中で本能寺の変についていろいろと考えたことがありましたが、「豊臣兄弟!」では「足利義昭黒幕説」や「四国説」、これまでに聞いたことがない「織田信澄黒幕説」などを織り交ぜながら描かれていて、ドラマとして楽しく拝見しました。


ところで……

大阪・お城フェス2026で赤色立体地図お城かるた大会が開催されるとのこと、今年のお城EXPOには行けるかどうかわからないので(さすがに3年連続休日出勤ドタキャンは…)、この機会に行っておきたいところですが、8日は仕事のため9日(日)に参戦したいと思っています。赤い城さん、もし9日で調整可能でしたらご一緒させてくださいませ。
 

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todo94

和泉の攻城④ (2026/07/11 訪問)

和泉高井城からの転戦です。水間鉄道貝塚市役所前駅で下車して徒歩にてアプローチしました。グーグルマップでは、要家住宅(畠中城)となっています。内部は非公開ですが、外から塀と門を見ることができます。

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赤い城

尼子十砦のひとつ (2026/06/28 訪問)

月山富田城の後もう少し時間があったので十神山城へ登城しました。
ふれあいの森の駐車場から登城路がついています。
中海に面した小高い十神山山頂が城跡です。
山頂部には祠がありますが目立った遺構はありません。
眺望も良いはずですが木が茂っていて中海も望めません。
中十神、小十神も出城として機能していたと思われます。
小十神からは中海の見える場所もありました。

この後の所用は三刀屋城下だったので移動の途中でしじみラーメン、昼食としました。

【見どころ】
 ・小十神からの中海

赤色立体地図かるた大会、開催されるのですね㊗️
今のところ当日の参加は微妙ですがなんとか調整したいな🥳

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