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昌官忠

(東海&関西)遠征18日目:有馬本城(城びと未登録 三重県熊野市) (2025/06/01 訪問)

鈴木孫一終焉の地(城びと未登録 三重県熊野市)から徒歩10分ちょっとで、津ノ森遺跡説明板前(33.877036、136.079611)に着きました。
そこから、有馬本城跡付近(33.880025、136.080393)➡安楽寺入口(33.880832、136.080280)➡産田神社の順番で巡りました。

築城年代は定かではないようですが、鎌倉時代頃に有馬氏によって築かれたと云われています。
有馬氏は熊野別当家の出といい、榎本氏がこの地に来て産田神社の神官となり有馬氏を名乗ったと云われています。
南北朝時代には当初南朝方であったが、後に北朝方に転じ1382年(永徳2年)北山合戦で兄弟三人とも討死したそうです。

応永年間(1394年〜1428年)頃の有馬和泉守忠永の頃には東は九鬼・行野、西は阿田和までを領しました。
その子有馬和泉守忠親に嫡子なく、甥の河内守忠吉を養子として跡を継がせ忠親は鬼ヶ城に隠居しましたが、後に実子が生まれ忠親は忠吉を自刃させます。
このことが親族の怒りを招き北山郷の者と協議して忠親の鬼ヶ城を攻め、忠親は防ぐことができず自刃しました。
その後、忠親の実子孫三郎が家督を継いだが、孫三郎に子がなく、新宮の堀内出羽守氏重の二男楠若を養子に迎え忠勝と名乗りました。
しかし、1574年(天正2年)堀内父子が病没したため、忠勝は堀内家の家督も継ぎ、名を堀内安房守氏善と名乗ったそうです。

安楽寺の南側に広がる畑とそのすぐ隣の宅地一帯が城跡です。
何にしても一面畑で何も分からないので、有馬氏が庇護していたという安楽寺へ行って見ました。
産田神社の東方にある安楽寺は1444年(文安元年)有馬忠永が大内教弘の頃の周防から海雲を招き創建しました。
安楽寺には堀内安房守の墓、説明板がありました。
攻城時間は30分くらいでした。次の攻城先=口有馬城(城びと未登録 三重県熊野市)に徒歩で向かいました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征18日目:鈴木孫一終焉の地(城びと未登録 三重県熊野市) (2025/06/01 訪問)

宿泊先のホテルの新宮駅から電車で有井駅に着きました。
有井駅から徒歩5分ちょっとで、鈴木孫一終焉の地(33.873358、136.086766)に着きました。

戦国時代、紀州雑賀に、日本最強を誇った傭兵集団、雑賀衆がありました。
雑賀衆は「雑賀を制する者全国を制す」といわれるほどに高い戦闘能力を誇った鉄砲集団であり、織田信長最大の敵として食い下がりました。
その雑賀衆の頭目が雑賀孫一(孫市とも)であり、その墓だとされるものが熊野市有馬町にあります。
雑賀孫一の生涯は謎に包まれていますが、関ヶ原で西軍に付き、その敗戦後、この地に逃れ、ひっそりと隠れ棲み、生涯を終えたとここでは伝えられています。
雑賀孫一は鈴木姓であり、熊野は鈴木姓発祥の地。また雑賀孫一の家紋は八咫烏紋。八咫烏は熊野の神使です。

「信長の野望」ゲームでの雑賀孫一は確か知略値、武勇地ともに高かった。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=有馬本城(城びと未登録 三重県熊野市)に徒歩で向かいました。
ちなみに新宮駅から三重方面のJRはICカードは使えません。現金のみの精算になります。

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昌官忠

(東海&関西)遠征18日目:新宮駅周辺 (2025/06/01 訪問)

新宮駅から有井駅への始発電車まで少し時間があったので、新宮駅前を散策しました。

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しんちゃん

道がわかりにくく直登。主郭下の三段の郭 (2025/06/30 訪問)

石見城は国指定史跡(ひいては世界遺産)に指定された城館の一つで、温泉氏の城と考えられています。とはいえ国の史跡に相応しい調査や整備がされているとは言いづらく、詳細不明の謎の城のままです。
城郭放浪記さんやダイエティシャンさんの記事を見て、石垣のある民家跡から入るんだなと認識していましたが、結局良く解らず力技で直登することになりました。登城道は城址南側に付いているのですが、案内板すら無い有り様です。
道沿いに進むと民家跡の石垣が見えてきますが、奥手の石垣の木の近くにピンクリボンが付いています。これを登城時は見過ごしていたんですね。下山する時はピンクリボンを辿って行くと降りることが出来ました。これと逆の手順で登れば良いわけで、木に結んであるリボンを頼りに登って行けば自然と城址にたどり着くはずです。比高は130Mほどありますが、緩い斜面を登れば直登はそれほど難しくは無いでしょう。
城址東側の扁平地に取りついた後は、西の主郭に向かって進んで行きます。
ちょっと記憶が薄れかかっていますが、主郭の北側に回り込んでから、主要部に入って行きます。主要部は四段構造になっていて、主郭の東に二段の腰郭があり、三段目の郭は広く手前に深い堀切があります。主郭直下にも堀切があり、主要部から東に行った先にも堀切が有りました。

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しんちゃん

初登城(💢 ) (2025/06/30 訪問)

矢滝城は標高634M、比高430Mの矢滝城山の頂部に築かれています。石見銀山の支配権をめぐる拠点の一つとされ、享禄元年(1528)には築かれていたと見られます。
城址に至る道は広くは無いが、一応県道ではあるので十分5ナンバーの車でたどり着きます。時期的に育ちまくった雑草がバシバシ当たりますが、道中草刈りもやっていたので改善されるかな?
トンネルの東出口の付近に案内のパネルがあり、南側に登城道が付いています。ちょっと心配になるけど、トンネルの上を迂回して北側の城址に向かっていくので問題なし。登城道の近くではスマホの地形図が圏外でしたが、登っているうちに、改善しました。ただし、人工衛星「みちびき」に対応してないアプリは使用できるか解りません。
道は良く整備されていて比高の高さをそれほど感じずに気持ちよく登れる。ただ、主郭、二郭(南郭)とも酷い藪で、特に二郭は侵入する気にならない。特にこの時期は激ヤブに好んで入る人はいないだろう・・藪の怪人を除いては。
山中に熊のエサになるようなものは無く、特に熊の気配は無かった。とはいえ、島根県は特に熊が多いので、常に気を付ける必要はあるが。主郭周辺からの眺望はなかなかのものだった。藪をかきわけながらにはなるのだが。

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天守無しがアツい

行田市郷土博物館 (2025/07/01 訪問)

秩父鉄道 行田市駅から徒歩15分
忍城…その中心的建物である行田市郷土博物館を見学

入口で御城印(来場記念)と御城印帳を購入
前者は200円、後者は1500円

100名城スタンプを押す
試し押ししてからスタンプ帳に押したものの…城番号が見えずちょっと失敗した感あり😔

展示室では撮影NGのものが多く…今回は数を絞っての撮影

小田原平定(1590年)における…忍城を水攻めした際に秀吉軍が北条側に送った手紙…女子供年寄りは逃がしていいから早く降伏するように…という内容の手紙が展示されていた

忍城には侍・足軽など3000人が立て籠もり…石田三成を大将とする大規模な水攻めがおこなわれたが…籠城を続けて…何と本拠地の小田原城が落ちるまで降伏しなかったという…その徹底抗戦ぶりが凄まじい😳

まるで天下の覇者になれる可能性を一日でも長く残すんだ…みたいな

落城後は徳川家康の関東転封に伴い、(家康の四男)当時13歳の忠吉が城主となる。しかし彼は1607年に28歳の若さで病死…それから老中・阿部忠秋…奥平松平氏…と色々城主が代わって明治維新を迎えて…廃城となり城のほとんどは取り壊された

展示室には忠吉の肖像画も展示されていた…というか家康の息子の早死に多くないか?信康…秀康…そして忠吉

家康が長生きしたというのもあるけど…親父より早く逝ってるし…👼👼👼

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しんちゃん

堀・土塁・郭などの遺構が多い (2025/05/29 訪問)

せっかく島根県でお城EXPOをやっているので、高尾城を再訪することにしました。前回は北東の道から攻城を試みたのですが、よく吼える犬のいる家のオヤジにこの山は私有地なので入っちゃダメだと言われたので、素直に引き下がったのですが、実際には城福寺から登城できるみたいです。
どうやら私が訪問する数日前にぴーかるさんが既に訪問していたようでした。正式な攻略者が現れたので、前回投稿した出城の投稿は無印(フリー)の方に回したので、興味のある方は「高尾城」で検索してみて下さい。
暑い中、あちこちの城を回って来たので、少し記憶が薄れかかっています、なんとか思い出して見ると、主郭自体はそれほど広くはありませんが、西側と北東の尾根にスロープが伸びていて、その箇所は登りやすくなっています。
西側の尾根先には急な堀切がかかっていて、ここを滑り降りる時にストックを一本、折ってしまいました。
北東の遺構は尾根を削って北側に郭を複数設けて有り、尾根自体は郭群の南側に土塁のようにそびえたち、長い土橋(もしくはスロープ)となって主郭方向から続いています。なかなか面白い縄張りの造り方をしていると思いました。本来、大手はこちらの側に付いていたのでは?と考えると・・少しだけ、あのオヤジがうらめしいですな。
ぴーかるさんの投稿にある通り南側の尾根の堀切の遺構は見事です。城福寺の南のコンクリートの階段を登ると竪堀が二本見えてきます。ここから先は、直接遺構に取りつくことになります。
尾根に二重の堀切がかかっていて尾根の両側に竪堀となって続いています。尾根上を主郭に向かって進んで行くと、土塁を備えた郭が有って、その先に二重の堀がかかっていて、竪堀となって下に続いています。実は堀切がもう一本あって、東側へ三本の竪堀が降りて行き、その先で合流して一本の竪堀となって下に続いています。この遺構を見た時に、この城はマニアックなやつだと確信しました。
藪に覆われており、少し怪しいのですが堀の中に畝のような物も有りました。下田城にあるような奴だと思います。
南側は搦め手だと思うのですが、コンクリの階段を登り切った先の東側に土塁を備えた郭があって、なかなかの広さを持っていました。思ったより多くの郭があり、堀や土塁・郭を多く備えた山城だと思います。一度、赤色立体とやらで見てみたいですね。

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イオ

楠木正儀の十七支城 (2025/03/23 訪問)

南北朝期に在地土豪の平岩茂直が楠木正成の挙兵に応じて築き、後醍醐天皇を迎えようとしたと伝わります。その後、楠木正儀の十七支城のひとつとして改修されるも、北朝方の畠山国清らの猛攻により落城しました。現在見られる遺構は戦国期に改修されたもので、畠山氏の内紛において活用されたと考えられます。

駐車場はないので、府道沿いの邪魔にならなさそうなところに路駐して登城開始。乗合タクシー停留所脇の案内表示に従って峠道を進むと此山頂平石城址の石碑があり、その少し手前から山中に入って約5分でハイキングコースの分岐(案内表示あり)に至ります。分岐から尾根道を少し行くと平石城です。

平石城は単郭の山城で、分岐からの北西尾根を堀切で遮断しています。堀切を越えて階段を上った主郭は北西から北東に折れるL字型をしていて、中央部に平岩氏の墓所と城跡碑、説明板があります。主郭の周囲には横堀状の帯曲輪がめぐっていて、北東と南東の支尾根の付け根では浅い堀切となっています。そのまま主郭の周囲をひとめぐりすると、ところどころに主郭の切岸と帯曲輪が見られました。

周囲をひとめぐりしても所要15分程度の小さな城ですので、何かのついでにどうぞ。
 

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赤い城

焼け跡痛々しい (2025/06/22 訪問)

今年の3月に大規模な山火事が発生したエリアにあります。
周辺からも黒くなった山が見え、火災の恐ろしさを認識しながらの登城です。
世田薬師の裏手からハイキングコースがついていて歩きやすくなっています。

しばらく登ると大きな石仏が!
聞くところによると麓にお住まいの方が一人で彫られたものだとか。
テレビでも取り上げられたことがあるそうです。
そして凄いのは背後まで焼け跡があるのに石仏は無傷であること。
神仏のパワーなのでしょうか。

さらに登ると世田薬師の奥の院。
ここも背後まで焼け跡があります。
世田山城の曲輪のひとつなのでしょうか。

山頂が主郭で虎口から入ります。
眺望も良く達成感、ただ案内板は黒く煤けていました。
石のベンチには小枝で「世田山フッカツ!」と。
元の姿に戻るには時間がかかりそうですが手軽なハイキングコースとして賑わって欲しいです。

北に下りると浅い堀切があります。
この尾根を先に進むと笠松山に繋がっています。
南側は巨石が守り、ここからの眺望は気持ちよかったです。
高所恐怖症の方は厳しいかもですね。

古代、伊予の国府は今治に置かれ、伊予の中心地でした。
南北朝時代に細川氏に攻められた際にはここで籠城しました。

それにしてもこの日は暑く、低山でもハードに感じました。
夏の山城、水や塩タブレットなど万全の備えが必要ですね。

【見どころ】
 ・北側の堀切
 ・南側の眺望


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昌官忠

(東海&関西)遠征17日目:衣笠城 (2025/05/31 訪問)

峰山城から車で25分くらいで、建物北空スペース(33.748424、135.424592)に路駐しました。そこから、右に進むと衣笠山頂に着きます。

築城年代は定かではないようですが、文永年間(1264年〜1275年)に愛州八郎経信によって築かれたのが始まりと云われています。
愛洲氏は南北朝時代には南朝方として活躍し、龍松山城主山本氏らと共に57年間の永きにわたり吉野朝を支えました。
1476年(文明8年)紀伊国守護職畠山氏の内訌による戦いで、政長方であった愛洲氏に対して義就方の日置久木城主小山家長に攻め込まれ落城しましたが、その後奪い返しています。
1585年(天正13年)秀吉の南征軍に攻められ衣笠城は落城、愛洲氏12代当主綱俊は雑賀に逐電したそうです。

城跡までは農道を登り、主曲輪横の駐車場まで行くことが出来ます。
農道は狭く、みかん農家の方の車とすれ違います。自分も4度すれ違い、そのたびにどちらかが避難箇所まで車を移動しました。
主郭には土塁や空堀が残されており、中央に石碑と説明板がありました。
攻城時間は25分くらいでした。本日の城巡りは、ここがラストです。
本日の宿泊先に行く為、紀伊田辺駅でレンタカーを返却し、紀伊田辺駅から電車で新宮駅に向かいました。
歩行歩数=19636歩、歩行距離=13.7Kmです。

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昌官忠

(東海&関西)遠征17日目:峰山城 (2025/05/31 訪問)

平須賀城から車で15分くらいで、ビニールハウス横付近(33.759261、135.358393)に路駐しました。
ビニールハウス横の小道から県道199号線の作業場入口を捜しますが見つかりません。
しかたなく、地元の方4人に峰山城と作業場入口の写真を見せて尋ねました。
3人の方は知らない、わからないの回答。1人の方は以前にも聞かれたことがあるが、山の中をかき分けていくしかないと云われました。
30分くらいウロウロし、県道199号線の作業場入口を発見しました。少し登り始めましたが、その先からの道がなくなりお手上げ状態。
この後、衣笠城攻城後の電車の時間が気になり、タイムオーバで断念しました。

築城者等についての詳細は不明のようですが、室町時代、亀山城主湯川氏の一族・湯川光長により築かれ、湯川氏代々の居城となったといわれています。
攻城時間は40分くらいでした。次の攻城先=衣笠城へ向かいました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征17日目:平須賀城 (2025/05/31 訪問)

鶴ヶ城から車で30分くらいで、平須賀城跡説明板付近路駐(33.816656、135.333496)に路駐しました。

築城年代は定かではないようですが、室町時代に野辺弾正忠忠房によって築かれたと云われています。 野辺氏は源経基の子満快の後裔だそうです。
忠房の後は光快ー光房ー春弘と続き、光房は、1562年(永禄5年)の若江の戦いで討死し、その後を春弘が継ぎ、幡山城(要害城)を築き移ったようです。 
平須賀城はその後も機能していたようですが、1582年(天正10年)春弘が討死し、弟の春和が継ぎますが、同年、湯川氏に離反を企て、湯川氏に攻められ、春和は逃亡して野辺氏の紀州での領有を失ったようです。

当初は主郭まで行く予定でしたが、予定時間を大幅にオーバしていましたので、説明板の写真を撮って撤退しました。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=峰山城へ向かいました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征17日目:鶴ヶ城 (2025/05/31 訪問)

龍松山城から車で40分くらいで、上山道小学校付近(33.891794、135.491936)に駐車しました。
登城口からの登城路が見つけられず、彷徨いながら見つけた登城路ですが、彷徨い時間が長く途中でタイムアップとなり断念しました。

築城年代は定かではないようですが、城主は南北朝時代に北朝方として戦功を上げた、玉置下野守直虎の名が伝わっています。
1585年(天正13年)豊臣秀吉の紀州攻めで、玉置惣左衛門太夫は秀吉軍と戦いましたが敗れ落城しました。

後で調べたら、あさんの登城口の写真と明らかに違います。
写真と同じ場所をグーグルマップで調べたらGPS座標は(33.891794、135.491936)でした。駐車場所から北に徒歩4分270mの場所でした。
攻城時間は60分くらいでした。次の攻城先=平須賀城へ向かいました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征17日目:龍松山城 (2025/05/31 訪問)

安宅大野城(城びと未登録 和歌山県白浜町)から車で35分くらいで、国道311号沿い立て看板付近(33.716366、135.470144)を経由して、2郭に通じる地点(33.718881、135.469443)に着きました。駐車可能な二の丸はもっと先になります。

築城年代は定かではないようですが、天文年間(1532年〜1555年)室町幕府の奉公衆をつとめた山本忠行によって築かれたと云われています。
1585年(天正13年)羽柴秀吉の紀州攻めでは三ヶ月に及んで対峙し和睦となりました。
しかし、翌年和睦の為に、大和郡山城の羽柴秀長を訪れた山本康長ら13人はその帰路藤堂高虎の館にて謀殺されたそうです。

山頂にある主郭と二郭は広く公園となっていますが、自分が行った時は草が深く歩きにくかったです。
主郭は山頂にあり、大きな曲輪で周囲に土塁が巡ります。
攻城時間は25分くらいでした。次の攻城先=鶴ヶ城へ向かいました。

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しんちゃん

畝状竪堀もあるのだが・・ (2025/06/30 訪問)

温湯城は石見小笠原氏によって築かれたとされています。14世紀には築かれていたとされ、永禄元年(1558)小笠原長雄が城主の時に、毛利氏と尼子氏の石見銀山の争奪戦で毛利元就に攻められ、なんとか持ちこたえるも翌永禄2年、江の川が増水したため尼子氏の援軍を得られず、小早川隆景の説得を受け、降伏・開城しました。
城址北側の道沿いに案内があり登城道が付いているので、すぐわかります。本丸や周辺の曲輪まで道が付いてるので迷いはしませんが、この山の土は砂礫を含んでいて崩れやすいため、道が各所で斜傾化しているので注意が必要です。
道沿いに畝状竪堀があるのですが、形状が判別しづらいので良く見ないと解りません。改めて、写真を確認しても、やはりわかりにくい。
的場と呼ばれる曲輪を見た後は城址の南側を西に迂回し二の丸に向かいます。東の尾根の先へ進むと、毛利元就が温湯城攻略のために築いた会下山城へたどりつくようです。
二の丸の次は本丸へ向かいます。本丸は二段の構造になっています。ここからは元来た道を戻りながら訪れていない曲輪を回ります。今回はバセンバはパスして、寺屋敷と蔵屋敷を確認してから下山します。
正直、朝から暑いですが、まだ今なら山の中や日影なら耐えられます。すでに一年の内1/3は暑い状況ですので、登れるうちは夏場でもたまに山城に登りたいですね。熱通称対策として某アプリで購入した経口保水液が重宝しています。夏山で飲むと、メチャメチャ旨いです。体にしみこんできますね。

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しんちゃん

主郭周辺でニアミス (2025/06/28 訪問)

三刀屋「じゃ山」城は三刀屋氏代々の居城で、戦国時代に三刀屋城を築いて移るまでは、この城を本拠としていました。麓の看板を見ると坂を登って行った先に駐車場が有り、近くの家の方が屋外にトイレを用意してくれているようです。私は少し不安が有ったので歩いて登りましたが、お気遣いには感謝します。
駐車場から城址に道が続いていて、道は整備されていて登りやすい。浅めの堀切が尾根に二重にかかっていて、進んだ先に西の尾根に二重の堀がかかっている。これも浅いが、なんとか形状は判断できる。
まずは東の主郭を目指して登ります。主要部はけっこう複雑で南東側に周囲より一段高くなった郭が有り、間を堀切で区分けしてある。このあたりが主郭だと思うが断定は出来ない。ここに近づいたところで、大きな動物が走ってくる音がする。「どどどっ」って感じで、正直な~んにも出来ない。もちろんクマスズは付けています。
大きな音が茂みの中から近づいてどこかへ走り去って行った。逃げてくれたから良いが、これが秋田の熊なら襲ってきそうだわ(笑)。
正直な話、今は熊はどこにでもいるけど、島根は別格だと思う。あまり島根の人は山に入る習慣が無さそうなので、大きな事故は少ないが、こないだも長野で人が襲われて死んでいるし、油断はならない。クマスズを付けているだけでもけっこう効果は大ですぞ。
さっきのやつはイノシシかも知れないが、どちらにしろあまり会いたくはない。少しの間、周辺を散策して、やり過ごしてから戻ることにした。
周囲は切り立っていて堀切も良く見えないし、無事に戻る方が重要だ。しかし、いきなりニアミスするとは、下の方で立ちションしたのが良くなかったかな。暑いので、水ばかり飲んでるし。

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ぴーかる

二俣城 (2025/05/04 訪問)

【二俣城】
<駐車場他>二俣城駐車場6台分程あり。
<交通手段>車

<見所>天守台・石垣・石垣虎口跡・堀切
<感想>日帰り今シーズン山城ラスト旅1城目。第43回日本100名城、続日本100名城に負けない名城で特集された二俣城に行ってきました。上記駐車場から山道を進むと、主郭北側堀切に出ます。堀切から北側に北の丸があり神社になっています。社殿の背後に薄い土塁が残っています。北側の食い違い虎口を入ると広い主郭があります。中心の西よりに天守台があります。一部後世の積み直しがされているようですが、堂々とした荒積みの天守台は見応えがあります。主郭の東斜面にも石垣が残されています。二の丸は主郭の南側に仕切り土塁があり、少し段が下がっていて副郭といった感じになっています。二の丸の南東に石垣の大手虎口跡があり圧巻の見応えです。二の丸の南に堀切・南の丸Ⅰ、その南に堀切があり南の丸Ⅱは藪化して入れませんでした。西の丸の曲輪群は切岸斜面の削平地で、ここにも石垣が残されています。西の丸を抜けて徒歩で鳥羽山城を巡り、鳥羽山城に行ったあと、北側の清龍寺にある二俣城井戸櫓と岡崎信康廟を見学しました。

<満足度>◆◆◆

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シャンシャン

お城EXPO in 松江2025 (2025/06/29 訪問)

お城EXPO in 松江に来場!
城関係のイベントは初参加。講演会、ひこにゃんやくまモンのイベント、限定御城印や限定ロゲットカードもGETできて大満足!
松江城はこれまで行ったことがなかった城の裏側を中心に見学。松江城はどの角度から見ても風情があってかっこいい!

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シャンシャン

岐阜~滋賀の城探訪④ (2025/06/28 訪問)

琵琶湖のほとりに建つ長浜城。
天守は犬山城や伏見城を模したという模擬天守。元々の天守は現在秀吉像のある場所に建っていたとのこと。なので、おそらく天守台の石垣なんかも積み直されたものと思われる。
でも琵琶湖沿いの広い空をバックにするとすごく映える。

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シャンシャン

岐阜~滋賀の城探訪③ (2025/06/28 訪問)

豊臣秀吉(当時は木下藤吉郎)が一夜で城を建て、その後の出世の足掛かりになったとされる墨俣城。
現在ある天守は大垣城をモデルに建てられた模擬天守。実際には簡易な建築や柵で構成されたものだったらしい。
でも川のすぐそばに建つ白亜の天守は青空の下非常に映えてる(^^)
天守からは岐阜城が小っちゃく見えた。

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