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朝田 辰兵衛

カズサンさん,大正解です🎉 (2025/08/10 訪問)

「槍」で正解していただけて,安堵しました。
ヒントですが,「槍」でダメなら「守」「綱」で考えておりました。それでもダメなら「どこかに『の』を挿入して続けて読んで」と…<笑>。
いろいろな方が,槍の半蔵や渡辺守綱を語られているので,私からは割愛させていただきます。
この日は,すぐ近くまで線状降水帯が接近しており,このアングル撮影中に土砂降りとなりました。移築門も含めて周辺の散策は断念しました…。

さて,次はにのまるさん,お願いします。もしかして,名護屋城向かってますか…?
私はすでに福祉関連の予定が入っており,名護屋城欠席です。

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トク

(2/2)八代城と松井興長 (2024/11/14 訪問)

八代城の続き(2/2)です。

1632年加藤家改易後は、豊前小倉藩主の「細川忠興」が肥後へ入りますが、その時に家督と熊本城は子の「忠利」に譲り、忠興はこの八代城に入って隠居します。忠興死後は、筆頭家老の「松井興長」が城代として八代城へ入ります。そしてこの頃に、本丸御殿を含めた城全体がほぼ完成したようです。

松井興長と言えば🤔?・・・そうです! あの巌流島で決闘をした宮本武蔵が、小次郎の弟子たちから襲われる所を、鉄砲隊で護衛し自らの領地で匿った・・あの人物です! 興長は忠興の四男立孝を本丸に入れ、自らは忠興が隠居所としていた北ノ丸に入ります。興長死後の北ノ丸は松井神社となり、興長は今もここで祀られているそうです(写真⑥)。

松井神社の西隣には、興長の孫(三代)直之が建てた「松濱軒(松井文庫)」が立派な庭園とともに残されていました(写真①-⑤)。そこには、興長が「小次郎を倒した木刀とはどのような物であったのか?」と問うたので、武蔵は「このような物です」と同じものを自ら削って再現し興長へ渡したと伝わる物や、武蔵が興長に宛てた手紙や、武蔵が書いて送った「戦気」の掛軸など、興長と武蔵の親密な関係を示す資料が展示されていました(撮影は禁止)。

続100名城スタンプは松濱軒の向かいにある「お祭りでんでん館」にありました(写真⑦)。また八代市博物館で復元模型を見たかったのですが、休館中(26年3月まで)で見る事ができず残念でした。

帰りは市役所前から、巡回みなバス(今度は左回り)で新八代駅へ戻りました。帰りのバスまでまだ30分あり、目の前の市役所1階ロビーで八代市が生んだスーパースター「八代亜紀」のギャラリー展があっていたのでちょっと覗いてきました(写真⑧)。それを見たら、晴れているにもかかわらず、帰りのバスの中で「雨雨降れ降れもっと降れ~♪、私のいい人連れてこい~♬」と口ずさんでしまい、隣に座っていたおばあちゃんから笑われてしまいました(😩~)。

今夜は新八代駅前に宿泊し、次は新八代駅から(佐敷城)を目指します。
 

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カズサン

東空閑城はヒガシコガジョウと呼称します (2025/10/27 訪問)

 島原半島未踏城廻り第三弾は山田城に次いで東空閑城へ、雲仙市役所近くの山田城から国道251号線を島原方向へ以前訪ねた神代陣屋前を通り約20km程走行して信号の無い交差点で店仕舞いのパチンコ店の北を西入りし約40m程の所を南へ川を渡って約100m程の所に坂を登って境ノ松公民館が有り西横の公園エリアに駐車可能。私は川辺りが工事用鉄板で覆われて居ましたので手前の店仕舞いパチンコ店西の駐車エリアに一時路駐。

 参考資料:余湖図コレクションさん城郭放浪記さんグーグルマップに依る。

 城跡を訪ねたら丁度夏草葛や小竹に覆われた城跡を3人程で草刈中でした。標柱と説明板を確認撮影し、壕切?確認、少し南側住宅地高台に登って城域を眺める、草刈の人と少し話をして20分程で終了しました。
 グーグルマップの航空写真を見ると国道251号線、島原鉄道に切断されていますが、城域が有明海に突出てる様子が窺えます。
 グーグルマップに史跡マークには「東古閑城説明板」と成って居ます、現地の案内板は「東空閑城跡空壕」です。

 歴史は、東空閑城は有馬氏の家臣古賀越後の居城で古賀城とも言う、城之江川(現在の境の松川)沿いの舌状台地の先端に築かれた戦国時代の平城です。
 天正7年(1579年)に佐賀の龍造寺氏に攻められ古賀越後は城を枕に先史したと言う。
  

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カズサン

朝田辰兵衛さんの投稿城写真クイズの答え (2020/03/17 訪問)

 愛知県(尾張国三河国)城びと登録城郭制覇応援メッセージと朝田辰兵衛さんの投稿城写真クイズの答え。
 昨日のヒント、「槍」でピンときました。

 確かに土塁上に石碑が在りますますが、ほとんどの方は石碑の正面から撮影されます、裏斜めからの撮影は流石の目の付け所。
 該当城郭は槍の半蔵こと尾張徳川付家老渡辺守綱の「寺部城・寺部陣屋」で土塁に残る石碑を写した写真でしょう。
 私の写真、城びと投稿寺部城写真、グーグルマップストリートビューで確認しました。
 令和2年3月17日登城時、寺部城址石碑と石碑の有る土塁全景写真を掲載します。

 ※ 赤い城さん、朝田辰兵衛さん、しんちゃん、にのまるさんへ
   応援メッセージありがとうございました。

   また、今回の「赤色立体地図お城かるた」で北海道勝山館の読み札で選ばれていました、恐れ多い事ですがありがとうございます。

 

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つば九郎

神奈川県の城巡り 村岡城 (2023/03/04 訪問)

車で攻城、近くのコインパーキングを利用しました。玉縄城攻城後、徒歩で20分で移動でした。周りより、若干高台になっており、城感はあります。普通に遊具もある児童公園です。攻城時間は15分でした。

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宗春

会社休暇取って福島県の城を攻めて来ました④三春城 (2025/11/12 訪問)

鉄野郎の友人と、スペーシアX・リバティ会津その他を乗り継いで会津若松入りし、レンタカーで福島県の城(会津若松・向羽黒山・二本松・三春・白河小峰)を攻めて来ました。その④三春城

ここも二度目で、前回結構しっかり見て回ったのですが、標柱が新設されていて見どころがわかりやすくなっていました。こーゆーの、いいですね。他のお城でももっともっとやってほしいです。

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宗春

会社休暇取って福島県の城を攻めて来ました③二本松城 (2025/11/11 訪問)

鉄野郎の友人と、スペーシアX・リバティ会津その他を乗り継いで会津若松入りし、レンタカーで福島県の城(会津若松・向羽黒山・二本松・三春・白河小峰)を攻めて来ました。その③二本松城

二本松城も二度目なので新鮮味はなく、しかも前と同じ「二本松菊人形」の期間だったため、三の丸は菊人形展で占拠されていました(有料ゾーン化)(怒)
更に「秋限定御城印」も3年前と同じデザインだったため購入しませんでした。少しは変えればいいのに(怒)

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にのまる

おめでとうクイズわからない🤦など。

カズさん、愛知県制覇おめでとうございます。
クイズ第二弾考え中です。
朝田さんのおめでとうクイズ、ヒントが追加投入されていましたが、わかりません!!きっと私、行っていないです(><)

かるたの読み札、早速みなさんの作品を読ませていただきました。
朝田さんも書かれていましたが、赤い城さんの新高山城&高山城、秀逸すぎる!「そうそうそうそう、城かるたの面白さはこういうところにあるのよ!」ってさっきから感動しています。選定委員の方々もきっとそう思ったにちがいありませんっ!前回の小田原城のかまぼこの句もお気に入りです。
朝田さんの岡豊城、目に浮かぶ元親像。句では像に触れていないのに像が目の前に現れて愉しくてしかたありません!
イオさんの新宮城。地元の方の視点と感覚!外野から眺めているだけでは詠めない句だととても勉強になりました。
勝連城の句のようにすてきに言葉を操れたらいいなと思ったり、飯盛城取るの難しい!って思ったり、早く実物を手にしたいです。赤色立体地図を理解できるようにもならないと!

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しんちゃん

自害ヶ岡(峰) 神谷道一氏 (2025/10/19 訪問)

「赤色立体かるた」の読み札が発表されました。よかった私のも有った。正直、一枚も選ばれていないのではと思っていました。
選んでもらうことを前提に投稿していなかったのですが、良かった。できれば秀吉関係が良かった(ポカッ!)

自害ヶ岡は松尾山の伝小早川秀秋陣の北に位置する丘陵です。「関ヶ原の合戦」より「壬申の乱」の方で有名で、西麓には大友皇子が自害して果てたとされる三本杉がありますが「戸田左門覚書」にはここに石田三成の陣が有ったと記載が有ったはずです。
戸田左門とは大垣城の城主・戸田氏鉄のことで「覚書」は江戸時代に新井白石によって編纂されたらしいので、二次史料に当たります。最近読んだ高橋陽介氏の著書「シン・関ヶ原」にも「戸田左門覚書」の記載がありますが、高橋氏は石田三成の陣を自害ヶ岡とは考えていないようです。
「信長公記」でおなじみの太田牛一が慶長6年ごろに「関ヶ原合戦双紙」を徳川家康に献上しています。いわば徳川家の「お墨付き」で書かれたことになりますか。ネットでも閲覧が可能ですが、書体が昔のままなのでほぼ読めません。
ただ宇喜多秀家が山中の陣から天満山に移動したと書かれているようで、白峰旬氏らの一次史料による説とは内容が異なります。

なんとなくここから歴史がねじ曲がってしまっている予感がしますが「慶長年中卜斎記」を記した家康に仕えた医師・板坂卜斎は関ヶ原のことは太田殿が行うので・・といった発言をしていたらしいので・・
徳川方に都合が良いように忖度した内容に仕上がっている可能性があると思います。事実と異なっていても上様のお墨付きの内容に異論を唱えるのは勇気がいることなので、藤堂高虎などが後年書いた著書でも「鵜呑み」には出来ないと思います。

明治の郷土史家「神谷道一」氏の書いた「関ヶ原合戦図志」では自害ヶ岡の丘陵一帯に西軍の陣が想定されていますが、翌年に陸軍の発表した「日本戦史関原役」の配陣では麓に下されています。日清戦争の前年なので、野戦砲陣地として確保されたのかもしれません。
同様に神谷氏は南宮山の尾根一帯に毛利・吉川の陣を想定していますが、これも陸軍によってはるか南の窮屈なスペースに追いやられてしまっています。当時の陸軍の野戦砲は鋳造の青銅製の前装式ですが西南戦争のころに使われていた大砲より性能は上です。
南宮山上はなだらかな丘陵が続いているので、あらかじめ野戦砲を設置しておけば伊勢街道や東山道を通って東京を目指す敵軍を砲撃することが可能です。
「関ヶ原合戦図志」には大垣城周辺の布陣の記載もありますが「日本戦史関原役」にはありません。時間もなく逼迫していたので砲台陣地だけを確保したかったのかもしれません。
神谷氏は「関ヶ原合戦図志」を作成する際に山鹿素行の「武家事紀」を参考にしていると思います。小和田教授と白峰氏のやりとりで白峰氏は「武家事紀」の誤記を指摘していますが、その箇所は神谷氏が綺麗に修正してあります。
記憶で書いているので詳細を省いて申し訳ないのですが、神谷氏は江戸時代以降に最も真摯に関ヶ原の歴史に向かい合った一人だと思います。
残念ながら「武家事紀」には山中の「ヤ」の字も無いので「関ヶ原合戦図志」が事実と即していない部分もあるとは思いますが、私は敬意を払いたいと思います。
悲しいことに戦後に「日本戦史関原役」の陣形図がそのまま受け継がれている上に、自害ヶ岡の丘陵は東海道新幹線と高速道路によってブチ削られています。ここに西軍の陣地があったかは分かりませんが可能性は有ったと思います。
もんか省も政治家も何を考えているのか分かりません。元々「関ヶ原合戦図志」は岐阜県の依頼で製作された経緯があるので今のままでは神谷氏に顔向けできませんぞ。

「戸田左門覚書」「関ヶ原合戦図志」「関ヶ原合戦双紙」はネットで閲覧・ダウンロードが可能です。
「武家事紀」は老後の楽しみに古~い本を購入して保存してあります。

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朝田 辰兵衛

読み札決定!

ついに「赤色立体地図お城かるた」の読み札が決定しましたネ!
ひとりの当選上限2城と推察しました。50城しかないので妥当だと思います。
前回の小田原城に続き,赤い城さんが楽しいところを射止めましたネ!
上五の句で「新幹線」が来たら要注意です!!!
赤い城さんは,何か受賞するのでは…と思います。
とりあえず,私の所感です。

カズサンさんへ…
コンプおめでとうクイズですが,3連休明けまで待ちたいと思います。
ヒント…槍

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しんちゃん

大久保彦左衛門ゆかり 愛知県幸田町 (2025/11/14 訪問)

愛知県幸田町は「大久保彦左衛門」こと大久保忠教ゆかりの地です。忠教は小田原城の城主・大久保忠世の弟で「三河物語」の著者でもあります。「天下のご意見番」として「講談」の中で、初陣である鳶ヶ巣文殊山の話をしながら将軍や大名に諫言するといった場面が見受けられますが江戸時代の話なので、ほぼ創作と考えた方が良いと思います。
幸田町にある八百富神社の周辺は旗本大久保氏の二千石の領地を治めていた「坂崎陣屋」の跡地です。坂崎村・葉栗村・桑谷村を治めるための役所ですが、旗本大久保氏は江戸住まいのため金澤氏や三浦氏がここで実務を行っていたようです。案内板には周囲に石垣があると書かれているのですが、はっきりとそれと分かる物は見当たりません。

「彦左公園」はSONY・GMO幸田工場の西側に隣接し市民の憩いの場となっています。

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「赤色立体地図お城かるた」読み札フレーズ決定!

いつも城びとをご愛顧いただき、誠にありがとうございます。
多くの皆さまにご投稿いただいた「赤色立体地図お城かるた」の読み札フレーズ、
かるたにする50城を発表いたします!!

本当に力作(なかには肩の力が抜ける珍作)ぞろいで、
選ばれなかった作品でも、選択できないのが惜しいものばかりでした。

ご投稿いただいた皆さま、本当にどうもありがとうございました!

「「赤色立体地図お城かるた」読み札フレーズ決定!」
https://shirobito.jp/article/2093

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しんちゃん

幻の籠城戦 (2025/10/19 訪問)

いや~ 城郭放浪記さんには誰も勝てないです。あの方は全国で一万城くらい回られてるんじゃないでしょうか? どんな人なんでしょうね。愛知だけでも結構の数の城があって、私も訪問していない山城がけっこうあります。

大垣城の投稿です。大垣城に石田三成ら西軍が籠城して、包囲している東軍を南宮山に後詰として入っている毛利秀元とで挟撃する計画が有ったという説が有ります。
「黒河内長三宛 保科正光書状」には大垣城に西軍二万が籠っていると記され、大垣城の様な小城にそれだけの軍勢が入ったらすぐにいっぱいになってしまうだろうと意見が書かれています(白峰旬氏著 新視点関ヶ原合戦参照)。当時の人も大垣城は小城で籠城には向かないという認識だったんですね。
大垣城のボランティア(?)の方に聞いてみたら、当時は無かったはずの外堀Cの位地に河川から水を引いて、外堀Bのあたりに堀を作ったんじゃないかという話がありました。
たしかにそれなら西軍全部とはいかないが、数万の兵が籠ることは出来る。でも本当ですかね?
江戸時代には新たに堀が整備され、現在は埋め立てられているので立証するすべはないけれど、それにまつわる文献が出てくると面白いな。私は西軍の籠城のプランは他にも有ったんじゃないかと考えています。

ここでもらったカードは羽柴秀長です。2026の大河ドラマの実質的な主人公?ですかね。豊臣政権のブレーキ役だった秀長が死んで、秀吉が狂気に走って豊臣政権崩壊の原因を作ったみたいな結末になるのでしょうか。
私は秀吉は最期まで「秀吉」だったと思います。「関ヶ原」にもいろいろ「新説」が出ているし、晩年の秀吉に関してもいろいろ「新説」が出てきても良いと思っています。

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つば九郎

神奈川県の城巡り 玉縄城 (2023/03/04 訪問)

車で攻城、近くのコインパーキングを利用しました。城址が女子校の清泉女学院になっていることが知られております。一番見たいところが見れないのは残念ですが、周辺を歩いていると、規模の大きさは実感できますし、首塚や七曲坂に太鼓櫓跡、龍寶寺など、見どころは多かったです。村岡城址も徒歩圏内です。攻城時間は45分でした。

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カズサン

山田城址公園として整備されてる (2025/10/27 訪問)

 雲仙市役所近くのビジネスホテルに泊まり朝一番で初登城、9年前の平成28年6月20日原城を初探訪しましたが雨で傘を差しながらの探訪で再訪したいの願いで今回の企画に入れて島原半島未踏の城探訪とし、昨日の好武城から2城目の山田城に成ります。

 駐車場:広場のトイレ前に駐める。公園北側の展望台下に砂利駐車場有り。
 参考資料:余湖図コレクションさん城郭放浪記さんグーグルマップに依る。

 国道251号線、雲仙市役所交差点を南へ約600m程、所々に案内標識有り、坂を登り山田城址公園トイレ前に到着。
 先ず山田城址公園案内図で全体を把握、北の展望台へ登る、階段途中に山田城の案内陶板有り、展望階で北方向の有明海を望む、物見台跡の独立曲輪、次に二の丸?祠が祀られてる、次に南へ本丸、各曲輪とも堀切で別れている、各曲輪を取り囲む三の丸?三の丸?登城路の脇に石垣が見られる。
 展望台からの眺めは素晴らしい、朝もやなのか遠くは靄で霞んでいました。

 歴史は、南北朝時代、島原半島経略の北朝軍の拠点であった。そのために九州探題今川了俊等がたびたび滞在した事があったが、後に在地土豪の山田一族の居城となった。
 山田氏は代々主家有馬氏の重臣として活躍した。慶長19年(1614年)有馬氏の転封に伴い、山田氏も主家とともに延岡に移ったために廃城と成った。(山田城址案内陶板抜粋)
  

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出展ブース紹介記事、公開! (2025/12/20 訪問)

滋賀県・安土が終わり、今週末~初めに名護屋城ときて、いよいよ来月は横浜!
出展いただくブース紹介の記事を公開いたしました。
どうぞみなさま、お楽しみください!
https://shirobito.jp/article/2092

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宗春

会社休暇取って福島県の城を攻めて来ました②向羽黒山城 (2025/11/11 訪問)

鉄野郎の友人と、スペーシアX・リバティ会津その他を乗り継いで会津若松入りし、レンタカーで福島県の城(会津若松・向羽黒山・二本松・三春・白河小峰)を攻めて来ました。その②向羽黒山城

今年熊の目撃情報があったようなので、Amazonで熊撃退スプレーを購入して携帯しました。熊に出くわさなかったのは良かったです。

二の曲輪と一の曲輪だけ歩きましたが、一の曲輪の竪堀がデカくて感動すら覚えました。城全体もかなり大きなものだったようです。

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カズサン

石垣がよく残ってる大村氏の城 (2025/10/26 訪問)

 大村市で玖島城、三城城、坂口館と登城しているのですがその都度パスしていた大村純治築城と伝わる好武城へ初登城しました。
 感動の連続、甦った福岡城三の丸潮見櫓、幕末動乱期築城の犬鳴別館、築後の歴史的名城赤司城、大刀洗平和記念館の震電実物大模型を見学探訪後、肥前島原半島原城と未踏の城廻りの初めてして大村市好武城へ。
 大分道筑後小郡ICより高速に乗り長崎道東そのぎICより降りて国道34号線を南下約9~10km程をの福重交差点を西入、約150m程の所に寿古公民館(大村市寿古町443-1)が有る。車はこの辺でストップ道が細く集落へは進入不可。
 駐車場:特に無し、公民館前の土手横に1台路駐可能?既に炉駐車有り、郡川土手に上がり幅広道が有り既に数台路駐が有り空きスペースに駐める。

 路駐した郡川北土手より、少し小高い丘に好武城の石垣が見えている、寿古公民館側より集落へ入るが家々の前に城郭造りの石垣を思わせる石垣が集落に点在してる、登り詰めると緩いフェンス門が在り広場、ゲートボールかグランドゴルフ場なのか掃き清められている。
 ここが好武城跡本丸なのか?南面に二段の石垣が残って居り、西、東にも石垣、北面は下部が石垣で上は土塁の様子、本丸内部西に低い石垣の列が南北に残って居る、虎口狭小な枡形が南に西を向いた構造、虎口には白い好武城跡標柱が立っている。
 石垣と虎口周りが良く残って居る、南は郡川が外堀、グーグルマップの航空写真を見ると西側の大村湾側は干拓がされて居り、築城当時は海が迫って河川の入口を治める海城の様でも有ったのかと思い起こされる。
 参考資料:余湖図コレクションさん城郭放浪記さんグーグルマップに依る。

 長年気に成って居た好武城を初探訪でき感謝です、民有地が多いですがこれからも整備保存を宜しくお願い致します。
 
※しんちゃんへ
  愛知県(尾張国三河国)城びと登録城郭制覇応援メッセージありがとうございます。
  城郭放浪記さんの踏破愛知県城郭には足元にも及びません。高齢者ですからボチボチ参ります。
 

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赤い城

鳥取藩の台場の一つ (2025/10/26 訪問)

幕末に鳥取藩が置いた8つの台場の一つで最も東側にあります。
夏は海水浴で賑わう浦富海岸から道路を挟んだ場所にあります。
公園になっていて土塁が綺麗に残っていました。
ここに4つの大砲が置かれていたそうです。

この辺りの海岸は山陰海岸ジオパークで地形的な見どころも多いです。
この日はエリ限で駆け足での訪問でしたがゆっくり見て回りたいです。

【見どころ】
 ・土塁
 ・日本海の眺望

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しんちゃん

交代寄合の陣屋 (2025/10/19 訪問)

西高木家は交代寄合の旗本・西高木家の陣屋です。高木家は他にも東高木家と北高木家があり交代で江戸に参勤し、大名並の格式を持っていました。2300石の陣屋にしては立派な石垣を持っています。この石垣は養老山系で採取される河戸石を使っていたと思います。河戸石は砂岩ですが頑丈で名古屋城の二の丸の石垣の東面と北面にも使われています。
ここで貰った城カードは明智光秀でした。この人は西高木家陣屋とは関係ないはずなんだけど・・数値(戦闘力?)が5000と妙に高い。秀吉と同じは盛り過ぎじゃないかな。ちなみに最後の一枚の羽柴秀長の数値は4000でした。なんじゃい、この数値?

道中ではススキとセイタカアワダチソウが合戦をしています。ススキもしぶといけどアワダチソウ相手だと分が悪い。やつら根っこに毒を持っていて周囲の植物を枯らすというエグイ技を持っています。案外「雑草カード」とか作ってバトルすると盛り上がるんじゃないでしょうか。負けるなススキ!
世の中には「雑草」という名の草は無いそうです。

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