みんなの投稿

検索結果・・・「」を含む投稿

関ケ原散歩(金屋川原古戦場 岐阜県養老郡養老町) (2026/07/20 訪問)

 関ケ原の戦いにおける古戦場のひとつです。関ケ原の戦いで西軍の敗色が濃厚となると戦わずして退却した毛利秀元・長曽我部盛親・長塚正家らを、東軍の徳永寿昌・市橋長勝・横井時泰らが金屋川原付近で迎え討ちました。この金屋河原の合戦で、東軍は侍81人、雑兵63人の首を挙げたと伝えられています。

 関ケ原の戦いで南宮山とその付近に布陣していた武将たちはどうしたのだろうと以前から思っていました。全く戦わなかったわけではなかったのですね。

+ 続きを読む

関ケ原散歩(烏頭坂 島津の退き口) (2026/07/18 訪問)

 関ケ原古戦場の標識のある場所はほとんど行ったつもりでしたが、烏頭坂に行っていないことに気がつき行って来ました。
島津の退き口として伝わる関ケ原の戦いにおける島津の撤退戦の舞台となった場所です。関ケ原の戦いで敗色濃厚となった西軍の島津義弘の軍勢は敵中中央突破をして薩摩への帰還を目指しました。島津隊を追撃した東軍の井伊直政・松平忠吉隊を島津豊久が殿となり、この場所で迎撃しました。この戦いで井伊直政、松平忠吉は負傷し、井伊直政はこのときの傷がもとで後に亡くなったと伝えられています。島津の退き口における激戦地です。島津豊久はここで討死したとも、重傷を負いながらもさらに先へ進んで白拍子谷で息を引き取ったとも伝えられています。

 薩摩ベンチが置いてありました。令和2年に復元された鹿児島城鶴丸城の御桜門の部材に使用するため上石津町のケヤキを寄付したお礼にいただいたものです。江戸時代、木曽三川の宝暦治水工事で薩摩藩の人たちに多くの犠牲者がでました。しかし、そのおかげで洪水は少なくなり、その感謝を兼ねて岐阜県と鹿児島県は姉妹県盟約が昭和26年7月27日に結ばれています。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

チェブ

*暑中お見舞申し上げます* (2026/07/04 訪問)

一車線の道路脇に「桑久保城」の案内板があります。
ここから更に細い上り坂を進みます。
「桑久保城」は小さい車なら駐車するスペースがありました。ただ、きちんと駐車したと言うより、これ以上、進めないからエンジンを切った、と言う方が正しいです。
もう一段階上がると写真⑧に到着。
夏草がとても元気ですか、支障なく歩けました。
*近くでビ~ンビ~ンと草刈機の音がします。本当にありがたい事です。

この半分耕された広場の向こうに「桑久保城」の石碑と説明板がありました。
土橋の上で仁王立ち。堀と土塁、草刈されていて見学しやすいです。

「桑久保城」は桑窪 秀春さんか谷口氏が築城したようですが、はっきりしていないようです。
でも、大切にされているのは、はっきりしてます。

この日は30度にならない曇り空。
今日は、35度を越し雷雨予報が出てました。
皆さんの地域はいかがですか?
どちらも暑さ厳しいですよね。

この「桑久保城」の近くに『道の駅 たかねざわ 元気あっぷむら』があります。寄ろうと思ったのですが、大渋滞で諦めました。
どうやら、BBQやグランピング、温泉等もあるようです。
次に登城するのは紅葉の季節がいいなー、と再登城の時は大人数かな?と涼しい季節が楽しみな「桑久保城」攻めでした。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

長町ツインズパパ

出張中の訪問その2(7) (2026/07/10 訪問)

出張の合間を縫って近江八幡市から米原市の城跡を巡りました。最後は、別名「八幡山城」です。2度にわたる出張中に巡った最後の城です。これで琵琶湖周辺9城を制覇しました。

+ 続きを読む

長町ツインズパパ

出張中の訪問その2(6) (2026/07/09 訪問)

出張中の合間を縫って近江八幡市から米原市の城跡を巡りました。番場城は、城びとには見当たりませんでしたが、御城印を入手しましたので投稿します。番場資料館入口で無人販売していました。

+ 続きを読む

長町ツインズパパ

出張中の訪問その2(5) (2026/07/09 訪問)

出張の合間を縫って近江八幡市から米原市に足を伸ばし城跡を巡りました。

+ 続きを読む

長町ツインズパパ

出張中の訪問その2(4) (2026/07/09 訪問)

出張中の合間を縫って近江八幡市内の城跡を訪問しました。

+ 続きを読む

長町ツインズパパ

出張中の訪問その2(3) (2026/07/09 訪問)

出張の合間を縫って近江八幡市内の城跡を巡りました。

+ 続きを読む

イオ

明瞭な遺構はなくても (2026/01/18 訪問)

室町中期に別所則治が美嚢川南岸の台地上に築いた城で、別所氏代々の居城となりました。織田信長の播磨攻めで別所長治は当初は織田方に与するも、後に毛利方についたため羽柴秀吉を主とする織田軍の攻撃を受けました(三木合戦)。秀吉は三木城の周囲に多くの付城を築いて補給を断ち、三木の干し殺しと呼ばれる兵糧攻めの末、城兵の助命を条件に長治ら一族が自害して開城。戦後は杉原家次、前野長康、中川秀政らが城代として入り、中川秀成が豊後国に移ると三木城は豊臣氏の直轄地となっています。関ケ原の戦いの功により池田輝政が姫路城に入ると、支城として家老の伊木氏が城主を務めましたが、一国一城令により廃城となりました。

本丸跡に整備されている上の丸公園の駐車場から登城開始。本丸には天守台と伝わる土壇があります。天守台からは西に美嚢川を見下ろし、別所長治と一族の辞世の石碑が立てられています。また「かんかん井戸」と呼ばれる本丸井戸からは別所氏所用の鐙が出土しているようです。本丸の遺構は天守台と井戸くらいですが、別所長治公の石像や模擬土塀、いくつかの説明板が設けられていていました。本丸南部に鎮座する稲荷神社を抜けて二の丸へ。二の丸との間の道路は堀切跡と思われます。

二の丸跡には歴史資料館と美術館が建てられていて遺構は見られませんが、発掘調査により建物跡や堀跡、井戸跡などが確認され、食料貯蔵用の大甕が発掘されているようです。せっかくなのでみき歴史資料館(無料)を見学してみると、古墳時代から近現代までの三木の歴史について展示されていて、三木城や三木合戦についても図面やジオラマ、出土品を交えて詳しく解説されていました。

鷹の尾曲輪など周辺の曲輪跡もめぐってみたいところでしたが、その辺はまたの機会に。明瞭な遺構はほとんど無いとしても、辞世の石碑とか石像とか、別所長治が地元で支持されていることを強く感じた三木城でした。
 

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

todo94

和泉の攻城⑥ (2026/07/11 訪問)

岸和田城からの転戦です。岸和田駅を経由しましたが、結局、炎天下、歩き通してしまいました。奈良県の貝吹山城攻城を報告した際に、最初、間違えてこちらに投稿してしまっていました。貝吹山城が二つもあるとは思ってもいませんでした。こちらの貝吹山城は大阪によくあるタイプの古墳を利用した城です。小さいながらも前方後円墳の形が分かり、一部ではありますが、濠も残っていました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征24日目:福原城 (2026/06/03 訪問)

仁後城から車で30分ちょっとで、作木八幡神社前の福原城址標柱(34.889515、132.745171)付近に着きました。
そこから、説明板前(34.887989、132.744066)に向かいました。

築城年代は定かではないようですが、城主は天文年間(1532年~1555年)に活躍した佐久木新右衛門と云われています。
佐久木新右衛門は1553年(天文22年)毛利氏側について泉合戦(比婆郡口和町)に加わり、尼子側の敵将米原左馬允を討ち取ったとの逸話が伝えられています。

説明板横に山への進入口がありました。
進入口は針金で止めてあったので、外せば入れるようですが、中はとても登山道には見えないのでやめました。
城址は550m先の標柱と説明板の写真を撮って撤退しました。
攻城時間は20分くらいでした。本日の城巡りは、ここがラストです。
歩行歩数=21391歩、歩行距離=14.9Kmです。
本日の宿泊先に車で向かいました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征24日目:仁後城 (2026/06/03 訪問)

松尾城から車で20分くらいで、説明板前(34.784468、132.740460)に着き写真を撮りました。
そこから、城址への道(34.784268、132.741117)近くの空きスペースに駐車しました。

詳細は不明です。別名を「尼子城」と呼ぶことから尼子氏一族の城、または南天山城主和智誠春の城ともいわれています。
『現地説明板』では、尼子方の仁後城と毛利方の牛首城とで戦が行われたという伝説がある一方で、吉舎(三次市)の和智氏の城であったという説もあるようです。

説明板の南側に橋があり、それを渡り左手付近柵を乗り越えれば城域に行けるようですが、時間の都合で橋付近で撤退しました。
しかたなく、説明板の写真を撮って撤退しました。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=福原城に向かいました。

+ 続きを読む

昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征24日目:松尾城 (2026/06/03 訪問)

高杉城から車で30分くらいで、ゲート右脇横駐車可能スペース(34.728277、132.649505)に着き路駐しました。

14世紀末~15世紀初頭に高橋氏が築城したとされています。
1515年(永正12年)当主である高橋元光が戦死して、弟の弘厚(重光)が松尾城主になります。この頃大内氏から尼子氏に寝返ります。
1516年(永正13年)毛利興元から「松尾要害」の尾頸・麓 を攻撃されます。
1529年(享禄2年)毛利元就を筆頭に大内氏に組みした連合軍により攻められて落城しました。その後、高橋氏は滅亡し、この地は毛利氏の所領となりました。

説明板(34.726727、132.650214)が設けられており、そこから林道を進むと左右に道が分かれます。
自分は西側へ進み動物除け柵近くに駐車しました。時間の都合で動物除け柵前で撤退しました。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=仁後城に向かいました。

+ 続きを読む

昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征24日目:高杉城 (2026/06/03 訪問)

比叡尾山城から車で10分ちょっとで、知波夜比古(ちはやひこ)駐車場(34.777231、132.898866)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、祝(はふり)氏正によって築かれたと云われています。祝氏は現在城址に建つ知波夜比古神社の社司でした。
戦国時代の三好盆地は、山陰側の尼子氏と山陽側の大内氏、毛利氏が激しく抗争した地です。
その中で、この地方の武将である三吉氏、和智氏、江田氏はどちらの勢力につくか不安定な日々でした。
1551年(天文20年)大内義隆が陶晴賢によって討ち取られると江田氏は尼子氏に属することになります。
1553年(天文22年)尼子氏に味方した江田氏は毛利元就の攻撃を受けました。
江田氏の支城であった高杉城には城主祝甲斐守・治部大輔を中心に約1000人が籠城していました。
この城の東北から毛利元就、隆元の軍勢、西から吉川元春の兵士が攻めかかり、祝氏方は全滅しました。
1556年(弘治2年)毛利元就・隆元父子により本殿が再建されたようです。

城跡には現在も知波夜比古神社が建ち周囲を土塁(一部石垣)が囲んでいます。
石垣はお城の石か神社の石積みかは不明です。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=松尾城に向かいました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征24日目:比叡尾山城 (2026/06/03 訪問)

楢崎城から車で50分くらいでで、熊野神社駐車場(34.813741、132.881507)に着きました。
そこから、登山道入口(34.814473、132.884162)に向かいました。

築城年代は定かではないようですが、鎌倉時代に藤原兼範(三吉氏)によって築かれたと云われています。
兼範は承久の乱後に三次に入り、2代兼定が三吉大夫と称して三吉氏を名乗りました。
以後、兼家-信兼-秀高と続き、三吉周辺に所領を広げて備後北部でも有力の国人として勢力を誇ったようです。
1540年(天文9年)、翌1541年(天文10年)と出雲の尼子晴久が吉田郡山城の毛利元就を攻めたとき、尼子方として加わりましたが敗れました。
1542年(天文11年)周防の大内義隆が出雲の尼子晴久を攻めた時には大内氏に従って尼子氏を攻めたが、大内方が劣勢となると尼子方から大内方に靡いていた国人衆が離反して総崩れとなった敗れました。
1544年(天文13年)尼子氏は三吉氏を攻めたが毛利氏の援軍により撃退し以後毛利に属するようになった。
その後、1591年(天正19年)比隈山城を築城し居城を移したため廃城となりました。

本丸近くまで車でいけるようですが、道は狭く離合困難とゆうことで、熊野神社の駐車場を利用して歩いて登りました。熊野神社前に説明板があります。
「登山道」の案内標識&赤いテープがたくさんあり、迷うことなく主郭まで行けます。
巨大な山城で高土塁を用いた曲輪があり、堀切とそこから伸びる竪堀があり、数条もの竪堀が谷底まで伸びておりまさに圧巻です。
攻城時間は80分くらいでした。次の攻城先=高杉城に向かいました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

T-Shionoya

厚い土塁が残る上ノ郷城 (2026/02/21 訪問)

2月下旬に訪れた愛知県蒲郡市の上ノ郷城。

宝飯山地から三河湾に向け緩やかに傾斜する平地の中央からやや北西寄り、西側半分を兼京川に守られた比高10mほどの小さな高台に築かれた城。

築城時期は定かでないが、戦国時代に蒲郡一帯を治めた鵜殿氏一族の本拠。
今川義元の妹が母である鵜殿長照は、桶狭間の後に今川から独立した家康と対立し、1562年に上ノ郷城は陥落。
その後は1590年の関東移封まで、家康方の久松俊勝が城主となります。

現在は、主郭以外の大部分がミカン畑などの農地である市指定史跡の城跡。

訪問時は、城郭部以外に鵜殿長照の墓や小さな資料館を兼ねる西部公民館などにも寄り、所要時間は2時間近く。
熊ヶ池の北西部にも堀と土塁が残るらしいが、非公開のため確認不能。
主郭の発掘調査では石組み遺構も見つかっているようだが、今は埋め戻されている。

見どころは少ないが、郭Ⅱには厚い土塁を備える、私の城郭巡りの229城目でした。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

やなぎぶそん

祝!国指定史跡 (2022/02/12 訪問)

国指定史跡になる前に行けて良かったです。

+ 続きを読む

やなぎぶそん

本丸が素晴らしい (2022/01/22 訪問)

本丸に到着するとすごく気を感じて、素晴らしい雰囲気でした。
周りを土塁に囲まれて堅固さも伝わります。

+ 続きを読む

ぴーかる

小山城 (2026/06/13 訪問)

【小山城】
<駐車場他>吉田町営駐車場(無料)あり。
<交通手段>車

<見所>3重堀・空堀
<感想>1泊2日東海ちょこ城道中1城目。朝一に三保の松原、10時に道の駅にて早めの昼ご飯、11時過ぎにやっと1城目です。だいぶ計画が押し気味ですが、ちょこ城でない予定のメインの城であったのでここはじっくりと。先達の方々がとても多いので城の歴史については割愛します。
 城跡の遺構を散策してから最後に資料館に入館しました。城跡は台地上の突端にあって、かつては東側に大井川が流れていたそうなので河岸段丘の城跡だと資料館のジオラマで分かりました。遺構の見所はやはり堀跡です。三日月堀について、長野県下伊那郡の大島城も駐車場の脇に巨大な三日月堀があるのが一つの見所ですが、距離が離れていても武田氏の城造りの特有さが共通していると感じました。
掘った堀の土を、堀脇に積んで塁にしない(せいぜい馬出しの土居くらい)のも武田氏や北条氏の城の感じがでていました。

<満足度>◆◆◇
<グルメ>登城前に道の駅「そらっと牧之原」にて鰹の3種盛り丼を食べました。ちょうど鰹の時期だったし、とても旨かったので紹介を。お茶も買いましたが産地なのにあまり種類が置いていませんでした。お茶のスイーツのお店は行列でした。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

コウマくん

転用石探し (2026/07/11 訪問)

福知山駅から徒歩15分。市役所付近から丘陵に建つ天守閣が見え始めテンション上がります。
丘陵を登ると望楼型の天守閣が見事です。
野面積みの石垣は転用石が沢山あり探して眺めるのも楽しいです。
天守閣からの眺望も見事で由良川や福知山線などが見えます。
全体的にとても素敵で地元に愛されていると感じました。

+ 続きを読む

ページ2