佐倉城は石垣を一切使わずに築かれており、また天守は建てられず、三重櫓(御三階櫓)を天守の代用としていました。現在は佐倉城址公園として整備されており、国立歴史民俗博物館が建てられています。博物館の横に復元整備された角馬出があり、その奥に公園化された曲輪や土塁を見ることができます。また水堀も残っています。
国立歴史民俗博物館はかなり見ごたえのある博物館で、時間がいくらあっても見きれないほどの展示内容でした。
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2026/01/17 10:38
国立歴史民俗博物館はかなり見ごたえがあります (2019/07/05 訪問)
佐倉城は石垣を一切使わずに築かれており、また天守は建てられず、三重櫓(御三階櫓)を天守の代用としていました。現在は佐倉城址公園として整備されており、国立歴史民俗博物館が建てられています。博物館の横に復元整備された角馬出があり、その奥に公園化された曲輪や土塁を見ることができます。また水堀も残っています。
国立歴史民俗博物館はかなり見ごたえのある博物館で、時間がいくらあっても見きれないほどの展示内容でした。
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2026/01/17 10:28
天然の要害です (2019/07/05 訪問)
南方が谷になっている半島状の丘陵地に建ち、残る三方が湿地帯に囲まれた天然の要害です。よく整備されていて、土塁や空堀などの遺構がほぼ完全な状態で残っています。各所に説明看板があり見学しやすい城址です。
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2026/01/17 10:21
中ノの門堀跡もお忘れなく見学を (2019/08/11 訪問)
川越市立博物館前の無料駐車場を利用しました。博物館の川越城下復元模型で全体像を掴むことができます。
川越の蔵造りの街並みや有名な「時の鐘」からもさほど遠くなく徒歩で行けます。
川越城中ノの門堀跡の堀の深さは圧巻ですので、お見逃しなく。
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2026/01/17 10:05
山の神曲輪から見下ろす景色は絶景 (2019/10/03 訪問)
無料駐車場がありますので車で行く方は安心です。
大手口手前にある"滝山城跡"の石碑近くにある案内板の所に滝山城城攻めマップが置いてあるのでそれを入手して回ると良いと思います。 山の神曲輪から見下ろす景色は絶景です。
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2026/01/17 09:58
まずはガイダンス施設の見学を (2019/10/03 訪問)
無料の八王子城跡公園駐車場が利用出来ます。
駐車場の隣りにあるガイダンス施設がありますので、このガイダンス施設を見学してパンフレットを入手してから城址を回るのが良いと思います。私はまず八王子神社の上の本丸跡に行った後に下山し、その後でガイドさんにガイドしてもらいました。
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2026/01/17 09:47
綺麗に整備されています (2019/12/25 訪問)
駐車場がありますので車で行きやすい。
中学校の敷地を一部通って城址に行けます。
綺麗に整備されていて、土塁や堀の形状がよくわかります。
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2026/01/17 08:41
20030905弘前城(青森県弘前市) (2003/09/05 訪問)
まだ天守石垣が改修される前という古い訪問だが、日本縦断の鉄旅途中に弘前駅から徒歩で訪問。小ぶりながら存在感ある天守や現存する立派な門、水堀などを楽しんだ
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2026/01/17 08:21
大江那波氏の居城 (2025/11/10 訪問)
城びと登録未踏の城探訪は今村城に次いで那波城へ、今村城から南東に約5.5km程、名和幼稚園南端西の通り約25m程南のの路傍東方に那波城址本丸跡の石碑が立っている。
那波氏の居城で先に訪ねた今村城は支城に当たる、利根川の北東側に当たり今村城とは利根川支流韮川で結ばれている。
駐車場:無し、名和幼稚園の西通り東方に幅寄せ路駐。
参考資料:余湖図コレクションさんグーグルマップに依る。
路駐場所から石碑を確認見学、碑には「那波城址 本丸跡」と刻まれ、裏面に碑文?が刻まれてるが良く分からない「此処に城あ・・」とは読めるのですが擦れてか?判読不明。石碑の北に名和幼稚園、東に伊勢崎市第二中学校と周りは田圃。
余湖図コレクションさんの俯瞰縄張図によると、方形の本丸を三重の堀、水堀で方形に囲んだ輪郭式城郭だった様です。現在は田圃畑、住宅に囲まれています。
石碑から南東経路約550m程の所に昌雲寺が在り、那波城内に在ったと有り、余湖図コレクションさんの俯瞰縄張図には南東角の曲輪に堀に囲まれて昌雲寺が記述あり、城門と那波城の名が記述されてる説明板などが有るとの情報で参拝し見学する。
昌雲寺住所:群馬県伊勢崎市堀口町665、参拝者駐車場有り。
昌雲寺には昌雲寺の説明立札と、山門新築石盤落慶記念碑石盤が在り寺の来歴が記されて居り那波城、那波氏との関りが分かる。しかし山門は伊勢崎藩勝手門が明治初めに寄進移築された旨の記述、昭和の終り頃山門は老朽化し倒壊、平成25年に再建された薬医門との事。
昌雲寺から北西方向経路約730m程の名和小学校に石碑が在るとの事で訪ねる。
名和小学校住所:群馬県伊勢崎市堀口町502-1
名和小学校校門より入り、来客用駐車場に駐めて事務所を訪ね了解を得る、石碑の場所を尋ねて、石碑を校内側から名和小学校東の通りから眺めて見学。通路側からはネットが東面全体に貼られて石碑は見えずらい、校内側からは狭い隙間からギリギリ斜めで撮影、裏面の碑文は杉木立が迫り撮影出来ない。石碑隣に説明立看板で理解出来ました。
其れに依ると、那波城址碑は那波城址を永遠に記念するために建てられたと、昭和9年11月7日、当時の名和村長青木周次郎が中心に成って建立。碑文には大江姓那波氏が鎌倉時代から戦国時代まで活躍した歴史が刻まれている。との記述。
400年近い大江姓那波氏の領有してる那波城探訪でした。
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2026/01/16 22:31
おめでとうございます🎉
赤い城さん、城びと登録城900城達成おめでとうございます👏👏👏👏👏👏👏👏👏
早速ですが、おめでとうクイズです。
どこからの眺望でしょう?
↓↓↓
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2026/01/16 22:11
よく整備されていて見学しやすかった (2019/12/25 訪問)
県立嵐山史跡の博物館駐車場に車を停めて見学。よく整備されていて見学しやすかった。但し跡地には、イノシシやマムシが出ると看板がありましたので、周りに気を配っておいたほうが良いと思います。
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2026/01/16 21:49
2026/01/16 18:45
冬季間は上田市観光会館時間短縮!要注意
前回は休館、今回は17:30に着いたが、17:00までだった。
リベンジならず
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2026/01/16 13:46
石碑と案内板で往時を偲ぶ (2025/11/10 訪問)
城びと未踏の阿内城(宿阿内城)を初登城して南東の未踏の城「今村城」を目指す、南東に直線で約5km程、関東平野田圃の中、民家の前に城名石碑と案内板が並んで立っている。
遠く北方向には赤城山、西方向に榛名山、妙義山を望む関東平野のど真ん中、関東平野は広い。
駐車場:無し、トイレ無、案内板・城名碑の前に路駐(36°19'38"N 139°06'34"E h=70m)
参考資料:余湖図コレクションさんグーグルマップに依る。
余湖図コレクションさんの俯瞰縄張図によると広瀬川(現地案内板は韮川)西岸段丘に三角形の本丸を中心に周りを囲む曲輪で輪郭式の縄張だった様です、案内場の説明に東西南北約400mの範囲と記述されていた。
現地は現在耕地整理で田圃に成っており堀や、曲輪の遺構は確認できない。
歴史は、戦国時代に在位、那波の両郡を領有した那波氏の居城の一つ、伊勢崎風土記によれば那波宗俊が築城、上杉氏、武田氏、織田氏、北条氏の勢力に翻弄された様です。案内板には最後の行に「現存する城郭遺構の少ない中世平城遺構として、大変貴重なものと成って居る」と記述も有ります。
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2026/01/16 10:20
127【関ケ原の26人】(26)井伊直政 (島津の退き口(3/3))
(26人目)井伊直政の続き㉙です。
隠れて鉄砲を構える「柏木源藤」、それを指揮をするのはあの「川上四郎兵衛」です。直政の馬のひずめの音がだんだんと聞こえてきました。そして直政の姿が見えた瞬間、「松井三郎兵衛」が突然と現れ道をふさぎ立ちはだかります。行く手を塞がれた直政の馬は驚き、そして立ち止まりました・・・。 その時です!!・・・😱!
四郎兵衛の『撃てー!』という号令のもと、源藤の鉄砲が火を噴きます。その距離わずか20m。そしてその弾は見事に直政の脇腹に命中! と思いきや鉄砲玉をも通さない鉄の甲冑を着ていたため、弾は跳ね返されます。しかし、その跳ね返った弾が、何と運悪く自分の腕に当たってしまい、直政は負傷して落馬! 気を失ってしまいました。
この間に島津豊久は、峠を下り白拍子谷(しらべしだに)まで逃げて行きます。しかしほっとしたのもつかの間、ここでまた別の馬のひずめ音が、松平忠吉がここで追い付きました(父上殿~!)。松井三郎兵衛は「ここは私が! 川上殿は豊久公をお守り下されー!」と言い残し、刀を抜きに馬上の忠吉に向かって「ちぇすとー!!」と叫び斬り込みます。そして忠吉もこれにより負傷し落馬してしまいました。
ここで追い付いた直政の家臣達に対し、三郎兵衛は豊久の逃げる時間を稼ぐため盾となり戦います。しかし多勢に無勢、ここで三郎兵衛は壮絶な討死を遂げてしまいました。そして落馬して意識を失い倒れていた直政と忠吉は、家臣たちに助けられます。家臣たちはこれ以上深追いするのはやめ、負傷した直政と忠吉の手当てが先と陣へ連れ帰りました。
またその時の様子をイラストで作ってみました。おそらくこんな風に、直政への最後の捨て奸は行われたのではないでしょうか?(写真③)。
ここまでは断片的な記録をつなぎ合わせて考えてみた私の想像で、証拠は何もありません(なので御容赦下さい)。しかしこの場所をよく見ると、脇には何故か?・・・お地蔵様がありました(写真④)。説明は何も書かれていません。私はおそらくこのお地蔵様は、一見道祖神のように見えますが、実はここで亡くなった松井三郎兵衛を弔うために、当時の地元の人々が建てたのではないかと思いました。敗者を弔うため、あえて何も書けなかったのではないでしょうか? 私にはそう思えてなりませんでした・・・。
そしてその先の白拍子谷で豊久はもはや動けず、翌朝には自刃して果てました(写真⑤)。川上四郎兵衛と柏木源藤は、豊久公を荼毘に臥すよう瑠璃光寺(写真⑥⑦)の住職と村人に頼み、そして義弘を追い無事合流して、薩摩の帖佐館(義弘の居城)まで帰還する事ができました(写真⑧⑨)。1,500人いた島津軍も、無事帰還できたのはわずか36人だったそうです。
次は、直政が最期の居城とした(佐和山城)へ続きます。ここからは直政の余命を賭けた戦後処理を追いたいと思います。
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2026/01/16 07:18
じゃ山って? (2025/12/21 訪問)
三刀屋氏が三刀屋城に移る前の居城です。
国道54号線から北に進んだ集落に登城口があり、ここに車を置きました。
小型車ならばさらに車で登れ、駐車場もあります。
登城口には登山記録簿があったので記帳、机をお借りし登ります。
少し登ったところを案内板に沿って右に、ここからしばらく登ります。
ここも雨と落ち葉で滑りやすく、結構脚を消耗しました😅
ようやく主郭部西側の三重堀切に到達、かなり埋まっていますが何とか認識できました。
これ、畝堀のようです。
ここからまずは西側に進んでみました。
こちらにも曲輪があり、櫓台のような部分もありました。
引き返し主郭部へ、詰め丸には説明板も設置されています。
堀切をはさんだ広い曲輪が主郭、その先は尾根に続き堀切も施されています。
主郭部の西側にも曲輪が段になっていて井戸跡や池がありました。
尼子十旗の三刀屋城に移る前の三刀屋氏の居城、じゃ山は城山が訛ったものと言われているようです。
地元の方により程よく整備されています。
これで城びと登録城、「行った」900城となりました。
【見どころ】
・三重堀切(薄いが)
・主郭と詰め丸の間の堀切と土橋
・東側尾根の堀切
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2026/01/15 23:34
今年もよろしくお願いいたします。
ご無沙汰しております。
お城EXPO‘25。
かるた大会での大勝利を目標にMakuake で早々にかるたをポチッ。届くのが直前のようだったので、城びとサイトで発表された読み札一覧を穴が空くほど読み込み、編集部さんの“赤色立体地図クイズ”では朝田さん、イオさんに先んじようと躍起になり、と準備もばっちりだったのですが、実家の父の具合が急変し、急遽帰省。お城EXPOは不参加となりました。
新年のご挨拶もできず、まだバタバタした日が続いていますが、城びとのみなさま、今年もどうぞよろしくお願いいたします。
【今年の目標】
・投稿をさぼらない(←パクリ)
・続100名城コンプリート
・お城EXPO以外のイベントも積極参加
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2026/01/15 22:10
天守閉城前に (2026/01/15 訪問)
広島城の天守閣は五重で入母屋造の基部を持つ望楼型天守で、元々は東南に小天守を伴う連結式の天守でした。戦前は国宝に指定されていましたが、昭和20年8月6日、米軍機が落とした原子爆弾によって広島の市街地は壊滅、そして爆心地より約980メートルの位置にあった広島城の天守閣などの建物も倒壊しました。戦後、昭和33年に鉄筋コンクリート建てで大天守は外観復元天守として再建されました。それもコンクリートの劣化、耐震性の問題や設備の老朽化などの理由から今年の3月22日で閉鎖、しばらくして取り壊す予定となっています。その後は木造で再建することが検討されています。
皆様の投稿から天守閣が閉鎖になることを知りました。しばらく登城していないので、天守が閉鎖になる前に行って来ました。
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2026/01/15 21:40
二上山城 (2025/12/06 訪問)
【二上山城】
<駐車場他>私が行ったルートは駐車場はありませんが、<35.544765,134.324853>のヘヤピンカーブの所に待避所があるので停めた。
<登城口>私が行ったルートの登城口は<35.542933, 134.324024>に側溝に鉄板を敷いた箇所があるのでそこから進入します。倒木があるので倒木を超えると古い遊歩道が現れますので道はすぐ分かります。ストック・手袋要です。
<交通手段>車
<見所>曲輪・竪堀・石列
<感想>日帰り鳥取県制覇旅1城目。二上山城は南北朝時代の文和年間(1352~1355年)に因幡国守護となった山名氏によって守護所として築城されたと伝えられます。その後守護所は布施天神山城に移りますが、城は城主が変わり一国一城令の頃まで機能していたようです。
登城ルートはいくつかあるようですがよく分からなかったので、Googleのストリートビューを散々見て上記ポイントがハイキングコースになってそうだったので、行ってみると一応朽ちていましたがルートは残っていました。先達方の投稿通り、東の出城を過ぎて山の鞍部を越えると木の板の階段が倒壊して散乱しているゾーンに。また積雪があったので登るのに相当苦労しました。ゾーンを過ぎると最初の曲輪と思われる場所に着きます。モルタルで改変されていますが、崩れた石積みの虎口遺構が明瞭に残っています。次に切岸を登りきると二郭(二の平)に着きます。二郭は長大な曲輪で先端が土塁、最奥に巨石の石列が残っていて建造物の礎石のようでした。曲輪の虎口そばに堀切と看板がありましたが側道に接する片側竪堀が配されています。主郭には半周帯曲輪が巻いていて搦手側は急斜面で小さな腰曲輪に石列(石積み跡)・大竪堀があります。主郭の切岸には少しだけ石積み遺構が見受けられ、大手の反対側に遊歩道が残っていて登れます。主郭は楕円状の広大な曲輪で3日ほど前に降った雪が積もっていて遺構がよく分かりませんでした。
主郭の積雪に足跡が・・・添付写真にあります。大きさは人の握りこぶしくらいで爪痕もくっきり残っていたので鹿や猪とは違うたぶんあいつでしょう。背筋がゾッとしました。足跡は人が入れない藪に消えていたので、本当に出る時は藪から突然出てくることと思います、皆様も十分ご注意を。
城跡は中国山陰地方独特の連段となった広大な曲輪が見応えありました。二郭は眺望が良く、岩美町・日本海・城びと登録の道竹城・桐山城が望めます。積雪であまりトライできませんでしたが斜面の石積み遺構がもっとあるかもしれません。
<満足度>◆◆◇
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2026/01/15 12:27
豊臣期和歌山城 (2026/01/09 訪問)
県民のほとんどにとって和歌山城は「徳川御三家の城」ですが、昨年あたりからは大河ドラマにちなんで地元でも「豊臣兄弟が築いた城」としてPRされています(さすがに大河ドラマ館とまではいきませんが)。ということで、仕事で近くに行ったついでに「月影の男紀行」として豊臣期の和歌山城をめぐってきました。
和歌山城は羽柴秀吉が紀州攻めの後、雑賀衆らに睨みをきかせるべく羽柴秀長に築かせた城で、ほどなくして秀長が大和郡山城に移ると桑山重晴が城代となり、関ケ原の戦い後に浅野幸長が入城するまでの約15年間桑山氏が城代を務めました。ここでは秀長の築城時と桑山氏による改修をあわせて豊臣期和歌山城とします。なお、豊臣期の呼称はほとんど伝わっていないようなので、本丸や天守曲輪などは浅野期以降の呼称によります。
さて、まずは岡口門から入城。現存する岡口門は徳川期のものですが、豊臣期には岡口門の位置に大手門があったようです。岡口門から三ノ丸を抜けて表坂を上って行くと、右手に本丸(豊臣期二ノ丸)南面の石垣が続き、南東隅部の石垣の下には岩盤が露頭しています。和歌山城は虎伏山と呼ばれる緑泥片岩(紀州青石)の岩山に築かれているため、あちこちに岩盤の露頭が見られます。松ノ丸から本丸表門を抜けた先には二段に積まれた高石垣が広がり、180度ターンして進む間に石垣の上から狙われ放題であることを感じます。
現在の天守曲輪は豊臣期には本丸と呼ばれていて、北西部に小さな天守が建てられていたようです。現在は天守曲輪の周囲を外観復元された連立式天守群が一周していますが、改修はされているとしても天守曲輪(豊臣期本丸)の石垣は豊臣期からのもので、随所に転用石が用いられています。天守曲輪北面の転用石は立ち入り禁止で見られませんが、大天守南東隅の袋狭間の下に見える明らかに色の違う石材は転用石だと思われます。それにしても、近隣で石材が採れない大和郡山城に転用石が多いのはともかく、岩盤を削ればいくらでも採石できるはずの和歌山城で転用石を運んでくる必要ある? と思っていたら、築城前の虎伏山には寺院があったとされ、寺院を移転させた後に残った石を転用したと考えられるんだとか。なるほど、削り出すより既にあるものを転用するほうが手っ取り早いということですか。
裏坂を下りていく途中にも転用石や岩盤の露頭が見られます。裏坂を下りたところには浅野期以降に台所門が設けられ、豊臣期の緑泥片岩の野面積石垣に和泉砂岩の打込接石垣を継ぎ足していることがはっきりとわかります。そして本丸北面の石垣から天守曲輪北面の石垣を眺めて歩き、浅野期に拡張された鶴ノ渓から虎伏山の南側へ。天守曲輪西面の石垣は浅野期のものなので今回はスルーして、天守曲輪南面から松ノ丸南面にかけての二段に積まれた高石垣を眺めました。平たく剥離する緑泥片岩による野面積のため高く積むのは困難ながら、二段に積むことによってかなりの高さになっています。
そして岡口門に戻って豊臣期和歌山城をひとめぐり。他の城だとぱっと見だけで築城・改修時期を判別するのは難しいですが、和歌山城は緑泥片岩の野面積石垣は豊臣期、和泉砂岩の打込接石垣は浅野期か徳川期、花崗斑岩の切込接石垣は徳川期と、私などの素人目にもわかりやすいのがありがたいですね。
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2026/01/15 06:49
青春18きっぷを使っての攻城② (2026/01/04 訪問)
名古屋に泊を取って、早朝に出発。青春18きっぷの3日目は三重県赤十字血液センターにて無事献血を済ませた後、紀勢本線→関西本線→草津線→東海道本線→奈良線→京阪電鉄のルートでリニューアルした京都競馬場にアクセスし、京都金杯に参戦してきました。勿論、馬券は外しました。レースが終わった後、薬師堂址碑経由で近くの淀古城(妙教寺)に行ってみましたが、「諸事情のため見学お断り」の掲示があったため、境内に立ち入ることは遠慮させていただきました。ということで、近寄っての城址碑の撮影はできませんでした。今回の青春18きっぷを使っての攻城はこれにて終了。世間が仕事始めとなる4日目に苔寺(西芳寺)拝観の予約を取ることができたので、世界遺産登録物件の静寂の世界を十分に味わうことができました。参加者12人のうち、ちょうど半分の6人が外国人観光客でしたが、アジア系の外国人はいませんでした。中国人観光客が来なくなったおかげで、非常に安い金額で京都のホテルに泊まることができたのもラッキーでした。
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