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POYO58

綺麗な青空と青い木曽川 (2014/03/15 訪問)

美濃金山城の後、可児市内の丸亀製麺で昼食を済ませ、名鉄に乗って犬山城へ行きました。名鉄犬山駅で降りてそこから歩いていきました。失礼ではありますが、金山城の時とは大違いで犬山駅周辺には人がたくさんおり、歩きにくい感じでした。途中城下町を通って行きました。城下町を訪れるのは2年ぶりで、2年前城下町にて飛騨牛のたこ焼きを買ったつもりが普通のたこ焼きを買ってしまったというドジなことをしてしまいました。ちなみに僕はタコが苦手なので尚更最悪でした。でも美味しかったです♪

そんな話はどうでもいいとして、城下町を歩いているとこの前イオさんが犬山城周辺の史跡探検の投稿をされていましたので、僕も注意しながら歩いていると、江戸時代の武家屋敷や大手門発掘調査地も確認できました。大手門の発掘調査見たかったです…。そうそうそういえば坂本城の石垣、せっかく見つかったのに立ち入りが今禁止されているそうです。人が集まりすぎるリスクもあると思いますが、なんとか調査結果をこれから先も見せて欲しいものです。

それもどうでもいいとして、混雑した城下町を歩き、とうとう入り口まで辿り着きました。とりあえず今まで通りに黒門跡、空堀、鉄砲櫓台、天守閣と順番に探訪して行きました。なんとも今日はいい青空でお出かけ日和だったんですが、犬山城で綺麗な桜がなんとまだ咲いていませんでした。3月15日ですよ!もう咲いてる気がしたんですけどねー。今年は桜が咲くのが遅いそうですね。また結構寒いしまだ。小学生の頃女の子の友達が、「今は地球温暖化が問題になってるけど、イギリスの専門家は氷河期が起こるって言ってるよ。」とかようわからんことを言ってるのを聞いたんですけど、確かに温暖化とは思えない感じの気温だし、むしろ寒くなってますよね〜。

そんなのはどうでもいいんですが、天守閣の屋上から見える景色は最高でした😀 なんとも木曽川の青と青空がマッチしてて癒されましたね。友達も声を出して眺めてました♪犬山城を築いた織田信康さん、または城主の成瀬さんも同じ景色を眺めていたのではないでしょうか?

その後は犬山橋へと向かいます。続く

評価★★★☆☆

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空と城と散歩

長浜城訪城 (2024/02/16 訪問)

長浜城に行って来ました。家族で行ったので近くの黒壁スクエアまで散歩して観光しました🚶
オムライスとガラスのお雛様が娘のお気に入り✨
風が強く御城印と一緒の写真が撮れませんでしたが、空も晴れて気持ち良かったです☀️
天守からの眺めが良かったです♪将軍さまもこれを眺めていたとは、感激🤩風寒かったけど☺️

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WEST

逆井城探訪 (2024/03/22 訪問)

逆井城を訪問しました。逆井城は戦国時代に築城された後北条氏のお城とのことです。
ここは逆井城跡公園として整備され、駐車場もあり、自動車でのアクセスには問題ありません。
公園内には、土塁や空堀の一部が現存し、また二層櫓、井楼矢倉、主殿などの建物も復元されています。そのため、当時の姿をイメージし易いと思います。なお二層櫓、主殿は内部を見学ができますよ。
建物群の中で主殿前の門は関宿城から移設されたものだそうです。関宿城の廃城後、紆余曲折があったと思いますが、良く残ったものです。

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WEST

小田城探訪 (2024/03/22 訪問)

小田城を訪問しました。小田城は鎌倉から戦国時代に活躍した小田氏の居城館とのことです。
隣接した小田城跡歴史ひろば案内所に駐車場があります。案内所内ではお城に関する展示やパンフレットが用意されていますので、寄ってみることをお勧めします。
見どころは、発掘調査を基に復元整備されたお堀、土塁です。これにより、当時の居城館の姿をイメージできると思います。
木橋で結ばれた東曲輪跡、南西馬出跡もよく整備されており、茨城のお城探訪のお薦めの一つかと思います。
お城散策後に龍勝寺に寄りました。このお寺の山門は小田城からの移設だそうです。案内所から徒歩5分程度で行くことができます。

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WEST

真壁城探訪 (2024/03/22 訪問)

真壁城を訪問しました。真壁城は戦国時代に築城された真壁氏のお城とのことです。
自動車での訪問で、駐車場は本丸跡にある市立真壁体育館の駐車場を利用しました。
駐車場(本丸跡)の城址説明看板の横のボックスにパンフレットがあります。
城内の一部ではまだ調査中の箇所もありましたが、良く整備され散策し易いお城かと思います。
城内の散策は本丸から、二の丸、中城、外曲輪の順に回りました。見どころは、お堀、土塁です。土塁は復元整備されたものもありますが、外曲輪の鹿島神社寄りの土塁は現存するものだそうです。
なお、お城の西側地区は城下町となっており古い町並みがあります。真壁城訪問の際には、是非寄ってみてください。

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todo94

建国記念の日の攻城③ (2024/02/11 訪問)

城郭放浪記さんの情報をもとに米津城攻略を目指したのですが、どうにも登城路が見いだせず、撤退のやむなきに至りました。ここで大きく時間をロスしてしまい、夕刻には松山市の大街道献血ルームに献血の予約を入れてあったので今回の愛媛の城めぐりは由並本尊城がトリとなりました。ふたみシーサイド公園から遠望できますが、かなり急峻な岩山であることが見て取れます。天一神社の左脇に本尊山への登山口表示がありますが、侍さんの投稿写真にある予讃線には踏切がありません。違法行為となってしまいますが、ここ以外には登山道がないので仕方ありません。列車の本数は少ないのですが、見通しが悪いので注意が必要です。伊江島のタッチューの規模を大きくした感じで眺望は抜群でした。山頂部の下に平坦な部分がありましたが、おそらく、郭なのだと思います。

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ぴーかる

基肄城 (2024/02/10 訪問)

【続百名城67城目】
<駐車場他>基肄城跡駐車場は現在整備工事中で進入禁止なので水門跡駐車場を利用するのがよいかと。<33.444293, 130.507239>の道路脇に停めました。
<交通手段>車

<見所>北帝門跡・水門跡・礎石群・石塁
<感想>1泊2日久留米・佐賀の旅1城目。工事中の駐車場から遊歩道があるのを知らずに、草スキー場の斜面を駆け上り基山山頂、基肄城跡まで登りました。基山山頂付近の遺構を見てから、時計回りに大礎石跡⇒北帝門跡⇒東北門跡⇒南水門 北に戻って、米倉礎石群⇒鐘楼跡⇒つつみ跡⇒土塁跡⇒丸尾礎石群と巡り山頂に戻り終了しました。
 印象に残ったのは、北帝門跡の崩れた石塁と、名称は無い(X2という札が木にかけてあります)が、北帝門跡から東北門に至る遊歩道の脇にあった礎石群には曲輪壁に石塁が残されていて見応えがありました。山中の所々に残る石塁があり、それを探す楽しさ、また礎石群の礎石のでかさには圧倒されます。古代の建築物の大きさを想像させます。
 古代山城の山の尾根上数キロを取り囲む縄張りを巡るのに超歩くのは覚悟していましたが、やっぱり4時間歩き通しは疲れました。しかし城跡散策の心地よい疲労感でした。

<満足度>★★★
<グルメ>登城前に「丸幸ラーメンセンター基山本店」にて腹ごしらえ。翌日、久留米ラーメンの有名店を食べたのですが、自分的にはこちらの方が豚骨が濃くて美味しかった。

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しんしんちゃん

危ないので主郭(詰城)には行かないで (2024/01/28 訪問)

戸吹城は滝山三城とも呼ばれ、滝山城の支城とも呼ばれますが詳細は不明です。加住丘陵の支脈の上に築かれていて、城址を構成する加住礫層は砂岩、チャート、硬砂岩などを主体とした非常に脆く崩れやすい地層です。
南の馬出部(郭)と周辺を走る横堀は確認できますが、そこから先はとても危なくて進めません。というか進んではダメですね。
正直、城びとの先人の皆さんの投稿が無ければ行っていたかもしれません。くわばら‥くわばら‥。文政6年(1826)に完成された「武蔵名勝図会」にも記載が有り「秋山へ接せしところは大抵崩れ落ちて、広狭知れず。ド人云いつのころ何人の住居ということを伝へざれども、古老の伝ふるに住居せし墟にあらず。築営半ばにも至らず、相応の地にあらざるゆえにや、その築営を止めしということを伝うと云」とのことです。江戸時代でさえこの状態なのですから、現在はさらに崩落が進み、とても渡れる状態ではありません。

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カズサン

堀江のまちを知る・巡る講座・見学会 (2024/03/23 訪問)

 先日浜松市中央区庄内協働センター主催で「知られざる浜名湖畔の城下町 講座:堀江のまちをしる 見学会:堀江のまちを巡る」が開催され、抽選50人に入り受講してきました、講座は二日に分けて開催。
 講師は浜松市文化財で発掘調査現地説明会でよく解説されてる鈴木一有さんです。

 座学は
 大澤氏の系譜と堀江の略歴
 中世堀江居館跡?の考察、歴史地理学による堀江居館跡を古い地籍図での発掘実験考察。
 戦国期の堀江城考察、地籍図で古の入江の発掘考察、堀江城西と舘山寺から南に伸びる砂州の間に船着き入江、湊が有った様です。堀江城の水城形態が浮かんできました。
 周辺に散見される塚墓、宝篋印塔のある塚などの紹介
 史跡マップ、武田信玄攻城の陣地と堀江城の相関図(舘山寺公共駐車場の観光案内所のチラシ棚に有ります)
 など

 見学会探訪は2週間後小雨の中決行
 Ⅰ、地籍図より浮かんできた大澤氏の堀江居館跡の見学探訪、残る田圃痕が元堀跡?館跡の周辺に残存か?
 現地は住宅街で町村合併で堀江村が消えて地元の方が堀江の名を残そうと「ほりえ公園・堀江児童遊園地」を整備し「ほりえ」が目を引く、堀江館跡?に当たる「住所:浜松市中央区舘山寺町254」、旧道に当たる寺東の坂標柱が堀江居館に入る道を指名しているようです、ほりえ公園の西下に高低差のある段丘は西の堀江湊に伸びて居館跡の端の段差で降りて湊に至る。
 
 Ⅱ、堀江城跡の探訪(駐車場:舘山寺公共駐車場利用、無料、トイレ完備、舘山寺観光案内所有り)
 駐車場から浜名湖パルパル遊園地側へ舘山寺バス停前に堀江城跡解説板有り、バス停前の通りは大堀切の跡、遊園地側の堀江城から御陣山南から西の入江水路跡、内浦、北側、東側と一周する、御陣山南には陣屋跡に建つホテルの前に入江だったころを表すモニュメントの小舟が据えれれて入江の雰囲気を出す、御陣山のホテルは閉鎖撤去されて更地に成っているが進入禁止。北側からはホテルが撤去されて御陣山の曲輪及び曲輪稜線がよく観える、堀江城の西裾に堀江城の大看板あり。パルパルに入園すると堀江陣屋鬼瓦が野外展示されているそうです。
 雨の中約2時間講師の鈴木さんの解説で今まで認識して居なかった堀江城の新しい発見が有りました、雨でしたので晴れた日にもう一度探訪したいと思います。

 庄内協働センター、浜松文化財課の大勢の職員さんに大変お世話になりありがとうございました。
 
 
 
 

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しんしんちゃん

主郭におわすは「キノコの山」か「きこりの切株」か? (2024/01/25 訪問)

戸倉城は駿河国と伊豆国の境目の城として重要な位置にあり、狩野川に突き出した独立高地の頂部に築かれています。掛川城を退去した今川氏真が寄ったこともあり、武田方と北条氏のあいだで争奪戦がありました。
現在は本城山公園として整備されており北麓に駐車場があり登城道が整備されています。登城道の途中に堀切などの遺構が残っており、比高にして60mほど登ると主郭に至ります。主郭周辺部は太平洋戦争の際に高射砲陣地として改変を受けており、かつての形状とは異なる箇所があるようです。主郭の中心に変なキノコがあります。‥いや切株をあしらった展望台のようですね。切株にしても変な形ですが、安全のために周囲に壁を設けたのと、床面積を広くとるためにこのような形状になったようです。でも展望台からは富士山が良く見えます。
主郭から南西に道が続いていて途中に堀切があり土橋がかかっています。そういえば城郭放浪記さんの記事に主郭南東方向に切り出した石が散乱しているとありました。肝心なところを見損ねてますね。

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トク

98【関ケ原の26人】(25)島津豊久 (関ケ原-島津の退き口②(白拍子谷))

(25人目)島津豊久の続き⑪です。烏頭坂を脱出した島津豊久は伊勢西街道を入り勝地峠にたどり着きます(写真①②)。ここでわずかに生き残った家臣達は、豊久を逃がすべく、追ってくる井伊直政・松平忠吉に向かって最後の捨て奸を敢行しました。

そして何とか峠を越え「白拍子谷(しらべしだに)」に入った豊久ですが、ついにここで力が尽きてしまいます。庄屋の家に匿われ村人たちが手当をしますが、叔父の島津義弘が伊勢東街道に無事逃げた事を聞くと、おとりの役目を果たした事に安堵し、夜が明ければ直政軍が追ってくるであろう。このまま匿った事が分かれば村人たちに迷惑がかかってしまう、もはやこれまでと庄屋の家を出てこの小川のほとりで自刃したそうです。

私も直政軍が追ってこないか、後ろを振り返りながら、逃げるように関ケ原駅前で借りた電動ママチャリを必死でこぎ、勝地峠の坂を越え、峠で遭遇し追ってくる3匹の野生の猿からも必死で逃げ、関ケ原からもう2時間も全力でこぎ続けて、白拍子谷までやって来ました。心臓はバクバク、足はもうガクガク、もはや私の方が死にそうです(😩~)。そして、豊久が自刃したとされる地にやっとたどり着き、そこに立ってみました。豊久はどんな思いでこの地で自刃したのでしょうか? 無残に破れている島津の丸十字の軍旗が、豊久の無念さを象徴しているようで、なぜかとても悲しかったです(写真⑤)。

そしてその遺体は、この近くの瑠璃光寺にて荼毘に付されたと伝わっています。瑠璃光寺にも行ってみました(写真⑦)。荼毘に付された地には豊久の墓が建てられていました(写真⑧)。そして瑠璃光寺の鐘には、この時の様子が記されているとの事です(写真⑩)。

島津豊久(享年31才)
直政らの大軍を相手に臆せず果敢に殿を務め、義弘の身代わりとなって戦い、そして見事な最期を遂げました。この若くして島津の将来のために自ら犠牲を買って出た豊久に、私は特別賞(トク別賞)をあげたいと思います。

次は、いよいよ最後(26人目)に続きます。
 

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チェブ

城びと未登録のお城攻め「立川 照重館」。 (2024/03/23 訪問)

雨予報で遠出をキャンセルしました。
ホームセンターで買い物した後、晴れてきました。
なんだか悔しくて、近くにお城はないか調べてみたら「立川 照重館」があり向かいました。
立川 照重さんは北条家 家臣です。

東京都 昭島市 中神町 1丁目3ー3
『福厳寺』が「立川 照重館」跡です。
「立川氏館」と同じように、多摩川の河岸段丘の上にあり、遠くに北条 氏照さんが居城した「滝山城」のある山も見えます。
『福厳寺』の案内板は文字が薄くなっていて、きちんと読めなくなっています。
北条 時頼さんのお名前が記載されてました。
後の方に、『立川 宮内少輔一族の館』とあります。

「立川氏館」から「立川 照重館」は歩いて1時間弱。車なら15分位です。
因みに、「立川 照重館」がある昭島市は、クジラの化石が発見されました。
なので、至るところにクジラの物があります。くじらロードや、くじら商店街、くじら公園。街灯も くじら。マンホールも くじらです。

夕方、帰ろうと信号待ちをしていたら、花束を抱えた学生達を見かけました。
卒業式があったのでしょう。
やっぱり、雨が降らなくて良かったのかもしれないと「立川 照重館」を後にするのでありました。

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todo94

建国記念の日の攻城② (2024/02/11 訪問)

中尾城からの転戦です。細いミカン畑内の道に車を入れる勇気はとてもありませんでしたので、延々と歩いて攻城しました。浄水場向かいの説明板のあるあたりも城の郭の雰囲気はありました。トーダイさんが撤退された鉄塔の立つ郭にも踏み込んでみました。空堀、土塁が視認できましたが、竹藪に埋もれてしまっていました。

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Tokyobay

外堀石垣跡?~水道橋~ (2024/02/22 訪問)

遊園地や野球場があるので子供の頃からよく来た場所だが、当時から変わった名前の駅名だなあと思っていた。そして本当に「水道の橋」があったことを知ったのは数年前。それにしても都会のど真ん中に遊園地が残っているのは奇跡的。というよりも徳川屋敷庭園が残っている方が奇跡的というべきか。とは言え、風景というのは当たり前になってしまえば気にすることもない。ましてや歴史プレートに目をやったり写真を撮るのは外国人観光客と一部のモノ好き日本人。大勢の人々が行きかう場所だが、殆どの人は通り過ぎるのみ。
それはそれとして、護岸工事で補強された部分が花壇になっているものの、神田川の上流部分に目をやると石垣跡か?と思える部分がある。ちなみに下流側にも石垣っぽいのがあるが、これは護岸工事時にイメージ的に作られたものだろう。尚、江戸時代の「水道の橋」があったのは現在の水道橋から100M程下流の場所で、外堀の城内城外双方に案内がある。

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Tokyobay

立派な模擬天守と中世遺構のコントラスト (2024/03/21 訪問)

何度目かの訪問。ちょっとした高台に立派な模擬天守があるものの、中世の遺構も少々残っている。そのコントラストが何とも言えない。模擬天守内は歴史博物館になっており、案内の方が親切に説明してくれる。桜祭りの準備なのか主郭部分で屋台の組み立てを行っており、土塁跡等は充分に見学することはできなかった。

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HKISD

平戸城散策 (2024/03/24 訪問)

平戸城を散策。見晴らし最高でしたね。松浦家の歴史も学べました。オランダとの貿易も学べました。

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T-Shionoya

三重堀の小山城訪問 (2006/03/26 訪問)

久々に過去の城郭巡りの振り返り。第23弾は静岡県榛原郡吉田町の小山城。

駿遠国境ラインの南端を抑えるポイントで、大井川西岸の河口部に近い牧之原台地の東端部、比高約20mの尖った台地の先端に築かれた、小規模ながら3つの曲輪から成る連郭式の城。

武田・徳川の今川領侵攻の際、争奪の地となるものの、1571年に武田家臣の馬場信春が砦を改修し小山城を築城。
大熊長秀などが城主となり、武田氏滅亡の1582年まで武田が支配。

現在は能満寺山公園として整備され、二の郭上段に三重の模擬天守がそびえ立つ城跡。
2006年訪問時の記憶はほぼなく、三重堀においては頭から完全に消失状態。
そこで前回投稿した諏訪原城のついでに寄ると、まずは崖上のいかにもな地形にあることを実感。
少々見にくいが台地を断ち切る円弧状の三重堀は一見の価値があり、他にもとにかく堀の数が充実。

模擬天守が目立つものの、中世からの舌状台地城郭が十分に存続・復元されている印象の小山城でした。

※写真1,2,8枚目は昨年末に撮影

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POYO58

城外にも見どころが

搦手道を下ること約15分後、だんだん明るくなってきて出口が見えてきました。そこから大きな広場へ降りてみると何やら四角の形になっているのがわかったので下へ行ってみるとやっぱり米蔵跡でした。約15メートルほどの長さの大きな石垣が建ってました。今は公園として整備されているようですがこんなところで遊べるのでしょうか?近くには樹齢150年の大きな大きな木がたってました。

2年ぶりの再攻城も楽しませていただきました♪
次は犬山城へ向かいます。

スタンプは戦国山城ミュージアムで押すことができます。

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ぴーかる

挙母城 (2024/01/27 訪問)

【挙母城】
<駐車場他>豊田市美術館駐車場
<交通手段>車

<感想>日帰り松平郷の旅ラスト7城目。挙母城の築城は1782年に挙母藩藩主の内藤氏が築城し桜城から移転しました。復興隅櫓の櫓台石垣が現存だとか、移築の米蔵があるとか知らずに、下調べなしに行っちゃったので撮影不足に終わってしまいました。 
これにてサブタイトル トヨタ車以外でトヨタ市の城跡攻めたるぞ!旅終了、以前行った市場城もそうだし、今回巡った城跡も整備力がよかった、豊田市すごいネ。423㎞無事走破。

<満足度>◆◇◇

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しんしんちゃん

福島正則の築こうとした総石垣の海城 (2024/01/04 訪問)

鞆城の始まりは元亀4年(1573)に織田信長によって京都を追われた足利義昭をかくまうために築かれた鞆要害とされています。足利義昭公は天正4年(1576)頃から当地に滞在しており要害もそのころに築かれたと思います。
現在の縄張りは関ヶ原の合戦の後に、安芸・備後国を領有した福島正則によって大改修されたもので、工事は慶長14年(1609)まで行われてましたが、完成を待たずに破却されています。
本丸跡は鞆の浦歴史民俗資料館になっていて周辺に石垣が残っています。特徴的な回の刻印のある石が複数見受けられ、三の丸の移築石垣にも回の刻印がありました。三の丸の石垣は病院建設時に23m北側の道路に面した場所に移されていますが、向きは180度近く変えられているようです。かつての石垣は海岸線に面し、福島氏改修時には軍船を係留できる海城であったことを示しているようです。

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