みんなの投稿

検索結果・・・「」を含む投稿

昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征8日目:法勝寺城 (2026/05/18 訪問)

米子駅でレンタカーを借り、そこから車で20分くらいで、山頂入口(35.337069、133.326418)付近に着きました。

築城年代は不明のようですが、『山名系図』によれば古くは山名満幸が法勝寺周辺を知行していたという事から、山名氏による築城と考えられています。
1564年(永録7年)毛利氏によって修復されると、吉川元春に従属していた備中国の有力国人・三村家親が城主となりました。
三村家親は八橋城を攻略するなど活躍しました。
関ヶ原合戦後、伯耆一国の領主として中村一忠が入封すると廃城となりました。
また、毛利遠江守本紹が城主のときに山中鹿之介に攻められ、本紹は19歳の若さで自刃したという悲話が伝えられており、登城口にある城址碑の脇に本昭の墓があります。

現在城址は「法勝寺公園」として整備されており、土塁や空堀などの遺構が確認できました。
攻城時間は20分くらいでした。次の攻城先=鏡山城に向かいました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征8日目:米子駅周辺の散策 (2026/05/18 訪問)

宿泊先のホテルの朝食前に、飯山城(城びと未登録 鳥取県米子市)と米子城の攻城と米子駅周辺を散策しました。

感応寺(米子城)から徒歩5分弱で、彫刻ロード入口(35.422789、133.330367)に着きました。
加茂川沿いの彫刻ロードを歩きながら、たくさんの彫刻を見た後、米子駅に向かう途中にある白鳥オブジェ(35.422556、133.334428)を見ました。
自分には芸術センスが全くありませんので良し悪しがわかりません。
米子駅前だんだん広場で、「山陰鉄道発祥の地米子碑」と「銀河鉄道オブジェ」を見ました。
攻城時間は25分(移動時間を含む)くらいでした。次の攻城先=法勝寺城を攻城する前に、ホテルに戻って朝食を食べました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征8日目:米子城 (2026/05/18 訪問)

宿泊先のホテルの朝食前に、飯山城(城びと未登録 鳥取県米子市)と米子城の攻城と米子駅周辺を散策しました。
飯山城(城びと未登録 鳥取県米子市)から徒歩10分くらいで、感応寺入口(35.422969、133.328509)に着きました。

浜田城は今回2回目の攻城です。1回目は2019年11月07日に来ました。
前回、湊山に登り立派な石垣と眺望を楽しみました。
今回は感応寺にある米子城移築門と感応寺南側の愛宕山にある伯耆米子長尾家墓所と伯耆米子藩主中村一忠公の墓のお参りに来ました。

感応寺は鳥取県米子市砥園町に境内を構えている日蓮宗の寺院です。感応寺の創建は1600年(慶長5年)中村一忠が日長上人を招いて開いたのが始まりと伝えられています。
日長上人は日向上人を開祖、日朝上人を2世、自らを3世として寺観を整え中村一忠の菩提寺として庇護されました。
1609年(慶長14年)に一忠が20歳の若さで死去すると垂井勧解由、服部若狭の2人が殉死し3人が境内に葬られました。
江戸時代に入ると徳川家康の側室である養珠院(お万の方)が日蓮宗(本山:身延山久遠寺・山梨県身延町)に帰依したことで、徳川頼宣(初代紀州藩主:養珠院の長男・家康の10男)が紀州藩にも感応寺を創建した為、静岡、和歌山と共に日本法華三感応寺に数えられました。

感応寺山門は1863年(文久3年)の火災で類焼しなかった唯一の建物で一間一戸、入母屋、銅板葺、四脚楼門、上層部は真壁造り白漆喰仕上げ、花頭窓付、江戸時代末期に米子城の古材を再利用して建てられたと伝えられています。
感応寺境内には一忠の五輪塔が建立され、一忠と殉死した2人の家臣の木像が御影堂に安置していましたが、御影堂は1903年(明治42年)に朽ちた為、現在は本堂で祀られ、「中村一忠墓地(附:中村一忠主従木像三体)」として米子市指定史跡に指定されているそうです。
攻城時間は15分くらいでした。ホテルに戻る前に米子駅周辺の散策をしました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征8日目:飯山城(城びと未登録 鳥取県米子市) (2026/05/18 訪問)

宿泊先のホテルの朝食前に、飯山城(城びと未登録 鳥取県米子市)と米子城の攻城と米子駅周辺を散策しました。
宿泊先のホテルから徒歩20分ちょっとで、登り口の祠付近(35.424394、133.326427)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、近世米子城の一部として取り入れられ采女丸と呼ばれていますが、本城とは独立した丘陵にあって独立性が高いとされています。
1603年(慶長8年)の米子城騒動の舞台となり、家老横田内膳村詮が主君中村一忠によって殺害されると、横田氏一族が飯山城に籠もって一忠に反旗を翻しましたが鎮圧されました。
このとき、横田方の剣豪柳生五郎右衛門(但馬守宗矩の兄)が、中村方の武将矢野助之進らとわたりあい、十文字槍をしごいて、中村方を多数討ち取ったという武勇伝は有名です。
城址には英霊塔、麓には伝・剣豪柳生五郎右衛門宗章の墓があります。

登り口にコンクリートの階段があり、頂上まで上ると飯山城の主郭に着きます。山頂部は公園となっています。
パンフレットには「高石垣で囲まれた三段の曲輪がある」とありますが、山頂部の側面は藪が多く「高石垣」と呼べる程の石垣遺構は確認できませんでした。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=米子城(感応寺にある米子城移築門)に徒歩で向かいました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

朝田 辰兵衛

昌官忠さん,尼子十旗コンプリート,おめでとうございます🎉

昌官忠さん,尼子十旗コンプリート,おめでとうございます🎉
プロフィールを拝見いたしました。70代で達成ですか…感服いたします。とくに今年は,クマへの準備がハンパないほど必要で,そんな中での達成は価値があると思います。
私は「クママップ」というサイトでクマ出没情報を入手しておりますが,もっと有効な情報源がありましたら,公開していただければ幸いです。

画像はクイズではありません。ちょっとでも癒やされれば幸いです。♪サザンの音楽が似合います♬

+ 続きを読む

カズサン

笹ユリの咲く頃 (2026/05/26 訪問)

 勝間田城に笹ユリが咲く頃かな?と用事で牧之原市へ、諏訪原城を終えて、お昼前でしたが南進して勝間田城へ、以前二の曲輪土塁法面ススキの中にひっそりと咲く笹ユリを令和3年(2021年)6月18日に発見、撮影し投稿しておりましたので、笹ユリを見たさに1年振りに登城しました、当日は貸切状態ゆっくりと探訪。
 笹ユリは登城路の第三曲がり点の山側のすすきの中に発見、三の曲輪内部にも笹ユリが点在、しかし草藪が有り眺めるだけ、北尾根曲輪上段の下にやや群生、東尾根曲輪西側の裾に若干群生、しばし東尾根曲輪内部で景観を俯瞰する、富士山は目ではやや霞んで確認する事は出来ますが、写真に撮って確認すると投稿には堪えません。富士山静岡空港を遠望しながら霞んで見える富士山も見て雄大な景色を堪能する、何時もながら良い景色です。
 本曲輪、南尾根曲輪、堀切、5連続堀切方向を眺めながら下城。

 萱は伸びてますが遊歩道は問題無、笹ユリを見て、5年前の二の曲輪土塁法面笹ユリは今回発見できず、でも他の所に咲いており満足の探訪でした。
 また5年前の三の曲輪北側の杉林の伐採景観整備されてすっきりし大変奇麗に現在も景観を保っております。良い景色です。
   

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

イオ

天守の移築元は… (2025/12/13 訪問)

江戸前期に徳川秀忠の命により松平定綱が宇治川・桂川・木津川・巨椋池が合流する中洲に築いた城で、廃城となった伏見城に代わって京都防衛の役割を担いました。松平定綱が美濃国大垣に移ると永井尚政が入り、木津川を付け替えて城下を拡張しています。そして、石川氏、戸田松平氏、大給松平氏と譜代大名が次々と入れ替わった後、稲葉氏が明治まで12代続きました。幕末には鳥羽伏見の戦いで敗れた幕府軍の入城を拒否し、戦いの趨勢を決した一因ともなっています。明治には廃藩に伴って廃城となり、本丸の一部を除いて遺構のほとんどが失われました。

京阪本線・淀駅から登城開始。本丸跡は淀城跡公園として整備されていて、5番出口を出て少し行くと天守台の石垣が見えてきます。天守台へ続く門は開いていたので天守台には登れましたが、穴蔵への門は閉ざされていました。天守台には伏見城の天守が移築される予定だったのが二条城へ移築されることになったため、代わりに二条城の天守が移築されています。その二条城の天守は大和郡山城の天守を移築したものとされ、郡山城天守台で確認された礎石と淀城天守図面の柱の配置が一致するんだとか。

天守台から多聞櫓なり塀なりが設けられていたであろう本丸南辺の石垣の上を南西隅の月見櫓跡へ。石垣外周には本丸南辺から西辺にかけて内堀が続いています。本丸西辺の石垣内側には淀城址の石碑が、本丸北西隅の丹波櫓跡には明治天皇御駐蹕之址の石碑が立てられていました。丹波櫓に隣接していた枡形虎口は失われていますが、廊下橋があったとされる内堀あたりは埋め立てられて、石垣の石材が並べられていました。その他、公園として整備されている本丸跡には淀城の説明板や「山城國淀城圖」、稲葉氏の家祖とされる稲葉正成(春日局の夫)を祭神とする稲葉神社が祀られています。

さて、本丸跡はこんなところで、続いては巨椋池の干拓により失われた淀城の痕跡をたどって城下を散策してみるとしましょう(続く)。
 

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

todo94

雨の大阪での一日① (2026/06/20 訪問)

岸和田城の城カード購入を目的に大阪行きを計画したのですが、この土曜は週間予報でずっと雨予報でした。城めぐりの計画は白紙に戻して金曜夜に家を出ましたが、なんと、財布を家に置き忘れてしまうという大失態。悪いことは重なるもので名古屋に到着してみると、東海道新幹線は浜松での人身接触事故で大混乱。名古屋で途中下車し、運よく楽天ペイで決済できるサウナを見つけ何とか、泊をとることができました。土曜日は大阪周遊パス3500円をネットで購入し、周遊パスで利用できる施設をめぐるという計画にいたしました。大阪城へは大阪城公園駅からアクセス。青屋門、極楽橋、山里丸を通って天守前に到着。開館30分前には列に並びましたが、外国人観光客が次々に列にならんで行きます。人気の天守は朝一番で訪れるに限ります。大阪周遊パスで豊臣石垣館にも入館することができます。天守は外国人観光客で大混雑しますが、豊臣石垣館は非常に快適に見学、動画視聴ができました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征7日目:牛尾城(尼子十旗⑤ 10城目) (2026/05/17 訪問)

尼子十旗:出雲国尼子氏の主要な家臣団の十の居城
尼子十旗(①白鹿城②三沢城③三刀屋城④赤穴城⑤牛尾城⑥高瀬城⑦神西城⑧熊野城⑨馬木城(夕景城)⑩大西城)
布広城から車で35分弱で、標識付近の空スペース(35.334587、133.029830)に着きました。

応仁の乱(1467年~1477年)後、京極氏に従った牛尾氏により築城されたようです。
牛尾氏は信濃国の神氏の支流中沢真直が大原郡牛尾荘を領して牛尾氏を名乗った事に始まるようです。
牛尾氏はもともと出雲守護・京極氏に従っていましたが、戦国時代に尼子氏の重臣となりました。
1542年(天文11年)大内氏が出雲に侵攻すると、牛尾幸清は月山富田城の守備に当りました。
1563年(永禄6年)毛利氏が月山富田城に迫ると、幸清・久信父子は富田城に入りました。
1566年(永禄9年)城内の兵糧が底を突き、開城し、義久は捕らえられ、安芸国へ送致されます。幸清・久信父子も毛利氏に降伏しました。
1569年(永禄12年)山中幸盛が率いる尼子残党勢に牛尾幸信が合流し、牛尾城に拠ります。
1570年(元亀元年)布部山の戦いで尼子勢は惨敗を喫し、牛尾城も毛利輝元に攻められ落城しました。

牛尾城を登城してしまうとレンタカー返却後、松江駅から米子駅に向かう電車に間に合いそうになかったので登城口で引き返しました。
ちなみに、米子駅で米子名物の牛骨ラーメンを食べようとしましたが、目指すお店は日曜日は休みでした。
お店の閉店前にあわせて電車に乗ったのに残念です。こんなことなら牛尾城を登城すればよかった。
牛尾城(尼子十旗⑤)の攻城で、尼子十旗をコンプリートしました。
攻城時間は5分くらいでした。本日の城巡りは、ここがラストです。
歩行歩数=29883歩、歩行距離=20.9Kmです。
本日の宿泊先に向かう為、松江駅でレンタカーを返却した後、松江駅から電車で米子駅に向かいました。

+ 続きを読む

昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征7日目:布広城 (2026/05/17 訪問)

三沢城(尼子十旗⑨)から車で5分くらいで、登城口&説明板付近の空スペース(35.203607、132.971181)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、三沢氏によって築かれたと云われ、 三沢氏の支族である布広氏の代々の居城と伝えられています。
毛利元就が尼子氏討伐のため、1562年(永禄5年)に出雲へ侵攻を開始すると、それまで尼子氏の配下だった三沢氏は毛利氏に寝返りましたが、布広氏は尼子方に残り、鍋坂城に拠りました。
1580年(天正8年)頃、三沢氏14代為虎は鍋坂城を攻めて城主布広左京亮を討ち、鍋坂城を廃城としたとされています。

登城口に説明板と標柱が建っています。
平坦地から上に上がる道がわからなかった為、諦めて撤退しました。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=牛尾城(尼子十旗⑤)に向かいました。

+ 続きを読む

昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征7日目:三沢城(尼子十旗⑨ 9城目) (2026/05/17 訪問)

尼子十旗:出雲国尼子氏の主要な家臣団の十の居城
尼子十旗(①白鹿城②三沢城③三刀屋城④赤穴城⑤牛尾城⑥高瀬城⑦神西城⑧熊野城⑨馬木城(夕景城)⑩大西城)
夕景城(尼子十旗⑨)から車で30分弱で、みざわの館駐車場(35.203077、132.965039)に着きました。

1304年(嘉元2年)に三沢為長によって築かれたと云われています。
1531年(享禄4年)三沢為国の代で尼子氏に敗れると家臣として仕えました。
1539年(天文8年)尼子晴久が安芸国吉田郡山の毛利氏を攻めた際には、三沢為幸が従軍しましたが、元就家臣井上七郎に討ち取られました。為幸が討死したとき嫡子為清はわずか四歳でした。
1541年(天文10年)大内義隆がに月山富田城を攻めた際に寝返り、さらに毛利氏が台頭すると臣従しました。
1589年(天正17年)三沢為虎は三沢領を没収され毛利輝元に幽閉されました。その後、釈放されて長門国厚狭郡に10,000石の所領が与えられました。
関ヶ原合戦後も毛利氏に属し、毛利秀元を当主とする長府藩が立藩されると付家老として2,700石が与えられ、三沢氏は家老として代々続いたそうです。

みざわの館の手前左側に登城口があります。登城口からは20分くらいで本丸に着きます。
登山口から直ぐに大手石垣があり、案内もしっかりしており、眺望も最高です。
みざわの館が閉まるちょっと前に着いたので、あわてて攻城しました。
攻城時間は30分くらいでした。次の攻城先=布広城に向かいました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征7日目:夕景城(尼子十旗⑨ 8城目) (2026/05/17 訪問)

尼子十旗:出雲国尼子氏の主要な家臣団の十の居城
尼子十旗(①白鹿城②三沢城③三刀屋城④赤穴城⑤牛尾城⑥高瀬城⑦神西城⑧熊野城⑨馬木城(夕景城)⑩大西城)
湯谷城から車で60分弱で、金言寺入口(35.099567、133.059438)に着きました。

明徳年間(1390~1394)以前に、山名師氏の子供氏綱が功により足利義満よりこの地を給せられ摂津国馬来郷より来住して築城した説があります。
馬来氏は清和源氏山名流で山名師義の五男満綱が摂津国馬来村に住んで馬来氏を称したことに始まるとされ、出雲守護職となった山名氏に従って下向したとの説があります。
しかし、馬来氏が清和源氏であることを示す一次資料がないこと、摂津国に馬来村の地名がないことや山名氏側の家系図に師氏の子氏綱が存在しないこと等より、信憑性は不明です。
1391年(明徳2年)明徳の乱において馬来満綱は山名方につき討死します。
戦国時代に尼子氏に従うようになります。
1560年(永禄3年)毛利氏に属していた三沢為清らに攻められ落城すると、馬来氏も毛利氏に仕えています。

登り口は無いので直登しかないことより、遠景を眺めて終わりにしました。
金言寺は大イチョウが有名なお寺で、ここにある夕景城の説明を確認して攻城としました。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=三沢城(尼子十旗②)に向かいました。

+ 続きを読む

昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征7日目:湯谷城 (2026/05/17 訪問)

布部城から車で60分弱で、多里地域振興センタ駐車場入口(35.116460、133.201299)に着きました。

湯谷城の城主等、歴史については不明です。

旧多里小学校跡の体育館南東側から登るとすぐ平坦地とその上に居館跡があります。
居館跡の高土塁を確認しました。
そこから山稜の方に向かって登って行きました。赤テープはありましたが、途中から分からなくなってしまい撤退しました。
攻城時間は30分(昼食こみの時間です)くらいでした。次の攻城先=夕景城(尼子十旗⑨)に向かいました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征7日目:布部城 (2026/05/17 訪問)

寺山城(尼子十砦⑨)から車で10分くらいで、布弁神社駐車場入口(35.300578、133.146882)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、布部城は月山富田城の外郭に当る支城で、富田城へ通じる主要な街道を押さえる位置にありました。
1570年(元亀元年)尼子再興軍と毛利方の天下分け目の合戦(布部合戦)の舞台となりました。
初め尼子方が優勢でしたが、布部山の背後を突かれ次第に劣勢となり、富田城奪還の夢かなわず総退却、山中幸盛と立原久綱は末次城へ帰還。その後、真山城へ移ったそうです。

布弁境内の東側の遊歩道を登ってゆくと大堀切があり右手に2郭があります。
2郭左を回り込むように北に行くと、主郭との間に堀切があります。
主郭には愛宕神社、休憩小屋、説明板が建てられいて、眺望が素晴らしいです。
ピンボケ写真を2枚投稿しています。すみません。
攻城時間は25分くらいでした。次の攻城先=湯谷城に向かいました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征7日目:寺山城(尼子十砦⑨ 2砦目) (2026/05/17 訪問)

尼子十砦:出雲国尼子氏の本城月山富田城の周囲を固める支城群
尼子十砦(①十神山城②神庭横山城③三笠山城④赤崎山城⑤亀遊山城⑥高尾城⑦高守山城⑧勝山城⑨寺山城⑩安田要害山城)
三笠山城(尼子十砦③)から車で5分弱で、王子神社付近空スペース入口(35.354296、133.168347)に着きました。
その後、廿原堤神社空スペース入口(35.353838、133.165383)➡尼子持久の墓駐車場入口(35.350503、133.163465)の順番で巡りました。

築城年代は定かではないようで、城主は福山肥後守あるいは土居大隅守と伝えられています。

王子神社裏手から城跡へ続く道は藪化が凄くて途中で断念しました。
廿原提神社は堀尾吉晴の次女「小那姫」を祀った神社です。
攻城時間は20分くらいでした。次の攻城先=布部城に向かいました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

ダイエティシャン

浜田城2️⃣~【豊臣兄弟の城 完全ガイド】執筆者によるトークイベント (2026/06/21 訪問)

浜田城から車で東に約10分、カフェ【ミモザウイズスペース】にて、【豊臣兄弟の城 完全ガイド】の執筆者の1人で、浜田城の歴史城郭愛好家である小川さんのトークイベントがありました。全国や島根県内の豊臣兄弟の関連のお城の紹介をしていただきました。お城に対するお考えに感銘を受けました。本の縄張り図も見ごたえがあり、お薦めです。
カフェも素敵な場所で、浜田城攻城の前後に立ち寄るのに良い場所だと思いました。

+ 続きを読む

ダイエティシャン

浜田城1️⃣~城跡 (2026/06/21 訪問)

浜田城跡を攻城。今日は日曜日ということもあり、ボランテイアガイドの方がいらっしゃいました。お話を伺うと、知らない知識を得ることが出来、興味が尽きません。
写真③の石垣の花形が可愛らしいです。これは、出丸の石垣を崩した時に出てきたの裏込め石だそうです。
ニノ門の升形虎口にある写真④は、所々赤くなっています。石州口の戦いで消失した跡と云われているそうです。
本丸からの眺め(⑤)で、浜田城がここに築かれた所以が分かります。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

ぴーかる

郷柿沢館 (2026/05/10 訪問)

【郷柿沢館】
<駐車場他>駐車場はなし。<36.718298, 137.367680>に停車してダッシュで撮影しました。
<交通手段>車

<感想>1泊2日富山ちょこ城巡り1000㎞旅18城目。お城の詳細はちょっと読みにくいですが、現地説明板の添付写真をご覧下さい。
ここも弓庄城と同じ土肥一族の居館跡で現在は西養寺になっています。水堀の一部が残っていました。

<満足度>◆◇◇

+ 続きを読む

トク

8【秀吉の播磨平定をたどる③】御着城(小寺政職と黒田官兵衛) (2026/06/11 訪問)

姫路駅から各停で2駅目、御着駅で下車しました。ここから御着城へは徒歩で10分程です。現在の城跡の本丸は姫路市役所東出張所、二ノ丸は運動公園になっていました。本丸の東側には、官兵衛の祖父と生母の墓もありました。

黒田家は官兵衛の祖父から三代、ここ御着城で小寺氏に仕えます。官兵衛は小寺政職の家老を務め、小寺姓を名乗る事を許されました。そして織田に付くよう主君政職を説得し、政職の名代として小寺官兵衛と名乗り、秀吉と行動を共にします。

しかし1579年、荒木村重が謀反を起こし、村重を説得するため有岡城に行った官兵衛が帰ってこないため、官兵衛も寝返ったと勘違いした政職は、自分も毛利に寝返ります。それにより翌1580年、秀吉から攻められ御着城は落城しました。

私はこの城に立つと、何故か「片岡鶴太郎」さんを思い出してしまいました(笑)。

次は、官兵衛が幽閉された、荒木村重の有岡城へ向かいます。
 

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征7日目:三笠山城(尼子十砦③ 1砦目) (2026/05/17 訪問)

尼子十砦:出雲国尼子氏の本城月山富田城の周囲を固める支城群
尼子十砦(①十神山城②神庭横山城③三笠山城④赤崎山城⑤亀遊山城⑥高尾城⑦高守山城⑧勝山城⑨寺山城⑩安田要害山城)
道の駅広瀬・富田城駐車場から車で5分弱で、広瀬中央公園駐車場(35.360751、133.168745)に着き、その後、登城口付近(35.361505、133.167720)に向かいました。

築城年代は定かではないようですが、1391年(明徳2年)伯耆守護の山名満幸(山名播磨守満幸)が、後円融上皇の御領であった出雲・仙洞領の「横田荘」を横領し、代官となった石原宗政が築いたのが、出雲・三笠山城と伝わってます。
その後、室町幕府3代将軍・足利義満は、当時1ヵ国の守護と大勢力になっていた山名一族を抑えるため,山名満幸を丹波に追放します。
そのため「明徳の乱」となり、山名氏の勢力は減退し、三笠山城は破却されたとされています。
戦国時代になると、西村治右衛門が出雲・三笠山城に入っており、尼子十砦のひとつになりました。
1565年(永禄8年)毛利元就が月山富田城を攻めた際、毛利方の軍勢が布陣したといわれています。
山中鹿之助は、三笠山にかかる三日月に向かって「願わくば我に七難八苦を与え給え」と祈ったと伝わる、月見の名所のようです。

赤テープを目印に登りますが、本丸の目印がないので、どこが終点かわからなかった。
三笠山山頂部分で平坦地になっていたので、ここが主郭と自分で認定しました。
攻城時間は65分くらいでした。次の攻城先=寺山城(尼子十砦⑨)に向かいました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

ページ2