みんなの投稿

検索結果・・・「」を含む投稿

昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征4日目:萩城下町(PART2) (2026/05/14 訪問)

萩城詰丸跡から指月公園に下りてきました。萩城下町は以下の順番で観光しました。

①:馬來杢旧宅地(34.411354、131.388095)
②:旧児玉家長屋門(34.410402、131.387921)
③:旧祖式家長屋(34.410982、131.386587)
④:堀内鍵曲(34.410626、131.384818)
⑤:旧萩藩江戸藩邸移築門(34.410909、131.383654)
⑥:旧口羽家住宅(34.410827、131.383408)
⑦:古明倫館跡(34.410100、131.386142)
⑧:久坂玄瑞誕生地(34.406153、131.390708)

計画した萩観光時間が45分も早く終わり、玉江駅で50分の電車待ちとなってしまった。
観光時間は40分(移動時間を含む)くらいでした。次の攻城先=亀山城を攻城する為、玉江駅からJR山陰本線で長門市駅へ向かいました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征4日目:萩城 (2026/05/14 訪問)

旧厚狭毛利家萩屋敷長屋から徒歩5分弱で、萩城石碑前(34.416975、131.383694)に着きました。
そこから登山口に向かい、登山口から徒歩15分くらいで、萩城詰丸跡(34.421270、131.381593)に到着しました。

萩城は今回2回目の攻城です。1回目は2019年3月14日に来ました。
前回は時間の都合で詰丸に行くことが出来なかったので、今回は詰丸に登ることを目的に攻城しました。

本丸背後にある指月山山頂に詰丸があります。
土塀や石垣、無数の矢穴があいた岩などが残されていました。眺望はいいです。
攻城時間は40分くらいでした。次の攻城先=亀山城を攻城する前に、萩観光をする為、城下町へ向かいました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征4日目:萩城下町(PART1) (2026/05/14 訪問)

聚楽第(移築裏門)から徒歩15分くらいで、高杉晋作誕生地(34.411686、131.393066)に着きました。萩城下町1は以下の順番で観光しました。

①:高杉晋作誕生地(34.411686、131.393066)
②:萩城城下町(34.413045、131.393787)
③:萩城外堀(北の総門周辺)(34.414474、131.392145)
④:萩城北の総門(34.414619、131.391960)
⑤:旧益田家物見櫓(34.415007、131.391554)
⑥:旧繁沢家長屋門(34.415027、131.391047)
⑦:旧周布家長屋門(34.415165、131.390120)
⑧:旧問田益田邸土塀(34.413927、131.387095)
⑨:旧毛利家別邸表門(34.414730、131.386005)
⑩:旧厚狭毛利家萩屋敷長屋(34.415176、131.382128)
途中、天樹院墓所にもよりました。

萩城からの帰りも観光しました。
観光時間は50分(移動時間を含む)くらいでした。次の攻城先=萩城へ徒歩で向かいました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征4日目:聚楽第(移築裏門) (2026/05/14 訪問)

東萩駅から徒歩15分くらいで、常念寺裏門(34.414207、131.402146)に着きました。
京都の聚楽第跡は2019年2月8日に攻城しましたが、石碑や説明板しかなく、今回は萩に移築された城門目当てに来ました。
萩城は今回2回目の攻城です。1回目は2019年3月14日に行ました。

毛利輝元が萩城の築城時に宿舎にした寺です。
表門は、もともと京都の聚楽第の裏門として建てられたものを輝元が豊臣秀吉から拝領し、1633年(寛永10年)に寄進、移築しました。
写真を撮りましたが、どの角度から撮ろうとしても太陽の光が入ってしまいました。申訳ありません。
国指定重要文化財になっています。
聚楽第(移築裏門)に行く途中に、吉田松陰が収容された野山獄跡がありました。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=萩城へ向かう途中、萩観光をしました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征4日目:高津城(城びと未登録 島根県益田市) (2026/05/14 訪問)

ホテルの朝食を抜いて、高津城(城びと未登録 島根県益田市)を攻城しました。
ホテルから徒歩25分ちょっとで、高津柿本神社楼門前(34.678070、131.821399)に到着しました。

建武年間(1334年〜1338年)高津長幸によって築かれました。
1336年(建武3年・延元元年)益田兼弘・吉川経明の連合軍によって落城しました。
その後、長幸は城を回復しましたが1340年(暦応3年・興国元年)石見守護上野頼兼が率いる北朝方に攻められ落城しました。
1471年(文明3年)益田貞兼が高津城を攻めた記録が伝えられているようですが、その時の城主など詳細なことは定かではないようです。
高津柿本神社はかつて高津松崎(同市高津5丁目)にあったが1608年(慶長13年)に徳川秀忠の命で大久保長安が造営し、1681年(延宝9年)に津和野藩主・亀井滋政により現在地に移築されました。

高津城は現在、柿本神社境内と万葉公園となっている小高い丘陵に築かれた城です。
柿本神社の社務所がある辺りが三の丸、拝殿と本殿がある辺りが二の丸、本殿上の益田第二配水池・稲荷神社辺りが本丸のようです。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=聚楽第(移築裏門)を攻城する為、益田駅からJR山陰本線を利用して東萩駅に向かいました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

肉球

博物館は解体されました (2026/06/11 訪問)

仕事で大町市方面に行くことになりまだ見学していなかった安曇野市へ移築されている大手門に立ち寄り午後から松本城へ。

二の丸にあった市立博物館は解体撤去され更地になっていました。そのおかげで外堀沿の歩道より天守閣、太鼓門がよく見えるようになっていました。埋め立てられ住宅が立ち並んでいた外堀の南側と西側の建物撤去は終了しており水堀復活ではなく平面復元のようです。三の丸にくたびれた姿で残されていた新井家の屋敷門は修繕されたようです。😊
天守閣内もじっくり見学したかったのですが並ばずに入場出来たものの内部はかなり混雑。寒い時期に再訪かな

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

送りバント

20260531須崎台場(福岡県福岡市中央区) (2026/05/31 訪問)

九州一の繁華街・天神の中心部からすぐ、須崎公園内に石積みが残る

+ 続きを読む

dougen

2026.8.16登城 (2025/08/16 訪問)

神流川古戦場近くの御陣場川沿いに金窪城址公園があり、金窪城址となります。
城址公園と言っても遺構らしい遺構は無く、石碑と解説板があるのみです。
石碑の裏側や周辺に土塁が不明瞭ながら残っています。

+ 続きを読む

トク

6【秀吉の播磨平定をたどる①】姫路城(官兵衛の石垣が!) (2026/06/11 訪問)

みずほ600号に乗り姫路で下車しました。ここから秀吉の播磨平定をたどる旅を始めようと思います。姫新線に乗り換えようと思ったのですが、待ち時間が2時間もあったので、ならば官兵衛の石垣をもう一度見たいと、駅から姫路城までダッシュで往復してきました。

大天守に圧倒されながら山里曲輪に近づくと、ほれぼれとする野面積の石垣が見えてきます。このあたりには、官兵衛が小寺の家臣時代に土塁で囲んだ館の城があったのではないかと言われています。ドラマにもあったように、官兵衛は自分の城を秀吉に差し出します。そして播磨平定後の翌1581年、秀吉のために石垣で囲み、その上に三重四階の望楼型天守を建てたようです。秀吉は、播磨平定の最中は手狭なため書写山に入ります。そこで記憶を失ったあのドラマの話はフィクションでしょうが(笑)。そして姫路城から因幡平定へ出陣。その後は大坂城を築城し移ったため、秀長が城を預かります。1585年秀長が大和郡山に移ると、代わりにねねの兄「木下家定」が入り16年間続きます(実質は三男の延俊が城代を務める)。天守は関ケ原後に入った池田輝政により壊され、輝政はその位置に現在の白亜の大天守を建てたそうです。と・・・姫路城の方が話されていました(なるほど🤔)。

しかし見ている内にビックリ😱! 山里曲輪の西側は官兵衛の石垣が残っていますが、東側の石垣は何と布で覆われていました。補強工事がなされているようです。はらんだのか崩落したのか、この下は一体どうなっているのでしょうか? とりあえず工事が終わるまで、記念写真は西側から撮った方がよさそうです。

次はJR姫新線に乗り、西播磨の上月城へ向かいます。
 

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

todo94

ゴールデンウイーク翌週・岡山の攻城⑥ (2026/05/10 訪問)

岡山駅の近くにはすき家がないので、早島駅にアクセスして早島のすき家にて朝食をとりました。朝田辰兵衛さんにチェックされていたようですが、意図的にすき家を利用している訳は、楽天ポイントが利用でき、月に5回の利用でポイントが15倍になるからなのです。楽天ポイントは既に10万以上たまっているので、結構ポイント利用で食事を賄ってしまっています。国産米、国産野菜使用というのも安心ですしね。

朝食を済ませて向かったのは、早島陣屋です。早島小学校の隣接地にある説明板の近くに堀跡と石橋、そして民家の敷地内に井戸が残っています。早島町の重文に指定されているレンガ造りの早島小学校の門もチェックしておきました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

赤い城

鳥取藩台場のひとつ (2026/05/28 訪問)

所用で帰省したのですが隙あらば城、ということで早めに出発。
所用の前に立ち寄りました。
まずは未登録の淀江城へ。
淀江駅周辺が城跡ですが遺構はありません。
山中幸盛が尼子氏再興を旗揚げした際の拠点のひとつです。
この日は平日、ちょうど学生の登校時間でコナンラッピングの車両が停まっていました。

次に淀江台場に向かいました。
淀江漁港に隣接する公園で駐車場もあります。
土塁の一部が残っています。
現在は直線的に残るだけでしが当時は両サイドが翼のように伸びていたそうです。
鳥取藩が築いた8つの台場のひとつです。

鳥取で食べたいのが牛骨ラーメン、近くに朝から営業しているお店があったので寄ってみました。
スープに濃厚な肉の香りが広がり、それでいてあっさり🍜
美味しかったです。

【見どころ】
 ・土塁

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征2日目:大西城(尼子十旗⑩ 3城目) (2026/05/13 訪問)

尼子十旗:出雲国尼子氏の主要な家臣団の十の居城
尼子十旗(①白鹿城②三沢城③三刀屋城④赤穴城⑤牛尾城⑥高瀬城⑦神西城⑧熊野城⑨馬木城(夕景城)⑩大西城)
佐世城から車で10分くらいで、登り口(35.341121、132.921314)手前の空スペースに着きました。

築城年代は定かではないようですが、天文年間(1532年〜1555年)に鞍掛久光によって築かれたようです。
1543年(天文12年)大内氏の出雲侵攻に際し、大西高由は尼子氏に従い富田城の防備に着き、宮尾において大内勢を破りました。
1565年(永禄8年)毛利氏の出雲侵攻に際しても、大西高由は尼子氏に従い、富田城塩谷口の守備に当たり、吉川勢の攻撃を凌ぎました。
1566年(永禄9年)富田城は開城し、尼子義久が安芸に幽閉された際、大西高由もこれに従いました。
大西城のその後については不明のようです。

本日の計画時間を大幅にオーバしています。(攻城時間&移動時間の見積もりが甘かったようです)
この後、出雲市駅でレンタカー返却し、浜田駅まで電車で移動することを考えると、大西城(尼子十旗⑩ 3城目)登城は時間的に難しいと判断して登城口で撤退しました。
攻城時間は5分くらいでした。本日の城巡りは、ここがラストです。
歩行歩数=19170歩、歩行距離=13.4Kmです。
本日の宿泊先に向かう為、出雲市駅でレンタカーを返却した後、出雲市駅から電車で浜田駅に向かいました。

+ 続きを読む

昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征3日目:佐世城 (2026/05/13 訪問)

三刀屋じゃ山城から車で15分くらいで、金剛山佐世城址入口(35.317152、132.943810)に着きました。

1326年(正中3年)佐世七郎左衛門清信が築城して以来、9代佐世伊豆守正勝まで276年にわたる居城でした。
佐世氏は佐々木頼清(湯頼清)の子清信が大原郡佐世郷を領して佐世氏を名乗った事に始まるそうです。
以来、8代佐世伊豆守清宗まで尼子氏の家老衆として、12万石を領していましたが、1565年(永禄8年)より毛利氏に属し、防州山口に移住しました。
その後、数々の軍功により、1594年(文禄3年)再び佐世城主に迎えられました。
佐世氏は、代々文武共に優れ、特に書画、詩歌の遺品が多い。また敬神崇仏の念も厚く、神社、仏閣を造営するなど、大きな業績を残したそうです。
正勝公には嗣子がなく、1601年(慶長6年)逝去と同時に、甥に当たる防州山口の佐世丹羽守元量が後職に任じられたため、佐世家は断絶しました。

城は佐世川の西岸の城山に築かれており、現在は公園として整備されています。
周辺には川も流れており天然の堀の役割をしていたのでしょう。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=大西城(尼子十旗⑩)に向かいました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征3日目:三刀屋じゃ山城 (2026/05/13 訪問)

三刀屋城(尼子十旗③)から車で5分ちょっとで、登山道入口付近(35.294211、132.857737)に着き路駐しました。
そこから、登城口(35.296280、132.858593)に向かいました。

1221年(承久3年)承久の変の功で三刀屋(諏訪部)扶長が三刀屋郷の地頭に任ぜられた際に築城したと伝わっています。
1351年(正平6年、観応2年)に山名氏勢力が籠もった石丸城や1393年(明徳4年)に山名氏や塩冶氏に攻められた三刀屋城は当城だと云われています。
戦国時代になると支城であった現在の三刀屋城(城山)に居城を移したと云われています。

現在、三角点のある山頂一帯の主郭まで登山道が整備されています。
南の高台部分にいくつかの曲輪と空堀があります。
主郭部全体を囲むように切岸があります。
攻城時間は55分くらいでした。次の攻城先=佐世城に向かいました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征3日目:三刀屋城(尼子十旗③ 2城目) (2026/05/13 訪問)

尼子十旗:出雲国尼子氏の主要な家臣団の十の居城
尼子十旗(①白鹿城②三沢城③三刀屋城④赤穴城⑤牛尾城⑥高瀬城⑦神西城⑧熊野城⑨馬木城(夕景城)⑩大西城)
日倉城から車で25分くらいで、浄土寺駐車場(35.291236、132.877241)に着き、三刀屋城移築復元門を確認した後、三刀屋城駐車場(35.292756、132.871426)に向かいました。

築城年代は定かではないようですが三刀屋氏によって築かれました。
三刀屋氏は1221年(承久3年)の「承久の乱」で功のあった諏訪部扶長を祖とし、もともとは北側に位置する三刀屋じゃ山城(石丸城)を居城としており、三刀屋城はその支城でしたが、戦国時代に居城を移しています。
1542年(天文11年)周防大内氏が出雲の国人衆を率いて出雲に侵攻すると、三刀屋氏は降伏し大内氏と尼子氏の居城月山富田城へと侵攻します。
しかし、出雲国人衆は尼子氏に再び寝返り大内氏は嫡子義房を水死させる大敗を喫しました。
1562年(永禄5年)毛利氏が出雲に侵攻すると降伏し、以後毛利氏に属して各地で転戦します。
1588年(天正16年)三刀屋久扶は毛利輝元に随行して上洛した際、徳川家康と面会したため輝元から疑われ領地を没収されました。
その後、出雲に堀尾氏が入部すると支城の一つとして石垣造りの山城へと改修されたが、一国一城令によって廃城となりました。

現在城址は公園として整備されており、石垣や土塁などの遺構を確認することができます。
山頂の本丸まで舗装道がついていますが、山頂は舗装されていないので手前の駐車場に停めるのが無難だと思います。
山頂に主郭には崩れている石垣造りの天守台ともいわれる物見櫓台があります。
攻城時間は30分くらいでした。次の攻城先=三刀屋じゃ山城に向かいました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

カズサン

嵯峨源氏系箕田源氏三代の館跡 (2026/05/30 訪問)

 熊谷市成田氏館跡を終えて群馬県埼玉県国道17号線沿いの未踏の城廻り七城目の箕田館跡を目指します、南東へ約10km箕田館跡の箕田氷川神社前に若干の路駐エリアをグーグルマップ航空写真より確認しましたので直接ナビに設定し進行。
 着きましたら神社前には先客あり、17時過ぎ夕方の交通混雑時期、帰宅車両に遭遇し一時門前南の私有駐車場に路駐、やり過ごし西の満願寺参拝者駐車場一時利用。
 箕田氷川神社、箕田古墳2号の墳丘に祠箕田氷川神社鎮座、墳丘下に案内解説板が有り「箕田古墳群」と「箕田二号墳」の解説が並列で記載されて居り、箕田二号墳の解説文の中に「本墳の南側一体は箕田館の推定であると、武蔵守源仕の名も記されいる」。辛うじて箕田館の事が分かる程度、遺構などは見当たらない。
 
 嵯峨天皇からの流れ嵯峨源氏、嵯峨天皇三代孫、源仕は西国の藤原純友乱に功をあげて武蔵守に成っている、子に宛、孫に綱と三代箕田源氏、箕田郷の居館を構え箕田を名乗る。
 三代綱は渡辺綱として有名です、父宛は父仕と西国で藤原純友の乱に功を挙げるが若くして没した、綱は幼くして両親を失ったため、従母である多田満仲の娘に引き取られて、摂津国渡辺庄で育ったことから渡辺姓を名乗った。長じて源頼光に仕え、共に大江山の酒吞童子退治で有名な物語です。(帰宅後、氷川八幡神社の解説板、氷川八幡社と箕田源氏と箕田碑解説板をネットで探し、抜粋加筆)、またこの解説板は、とある煩悩の登場目録さん2025/07/12投稿写真、しんちゃん2024/07/07投稿写真に掲載されています。しんちゃん久しく投稿が有りませんがいかがお過ごしでしょうか?
 
 箕田館跡から南東に約3kmに伝源経基館跡が在り箕田仕(源仕)は源経基に仕え功を挙げている。

 箕田館跡を終えて、荒川に架かる川幅日本一の橋を渡り、以前もこの辺の探訪で渡り済みです、架橋通行し圏央道川島ICから入り浜松へ、今回の箕輪城復元本丸西虎口門探訪見学、保渡田古墳群、かみつけの里博物館、三ツ寺Ⅰ遺跡、群馬県立歴史博物館で古墳と埴輪の見学、群馬県埼玉県国道17号線沿いの未踏の城7城探訪で走行距離約730kmでした。
 長々の投稿ご覧いただきありがとうございました。
  

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

ぴーかる

仏生寺城 (2026/05/10 訪問)

【仏生寺城】
<駐車場他>舟橋村役場に停めました。
<交通手段>車

<感想>1泊2日富山ちょこ城巡り1000㎞旅15城目。城びと情報によると仏生寺城は15~16世紀前半に細川氏によって築城されました。遺構は発掘調査で曲輪、横堀、井戸、堀立柱建物跡が発見されたそうです。
 現在城跡地は舟橋村役場になっており表面観察の遺構は残っていません。しゃあないので役場を撮影しました。

<満足度>◆◇◇

+ 続きを読む

イオ

落葉に埋もれた説 (2025/11/29 訪問)

南北朝期に山名義理が大野守護所北側の城ケ峰に築いた城で、戦国末期まで大野城の支城として機能したようです。

南麓の県道から住宅地を抜けて「舗装はされているけど、このまま進んで大丈夫か?」と不安になるような細い山道を進み、「市民の森」への分岐の道路脇に路駐して登城開始。市民の森を抜けてさらに西へ笹藪をかき分けながら登った先に主郭と思しき削平地が開けていますが、こちらも笹とススキに覆われていて何が何やら…。城びと先達によれば、ほとんど読めない説明板がこの辺にあるはずだけど…と探していると、鳥獣保護区の表示が立てかけられた木のそばに半ば落葉に埋もれていました。そのせいでなお一層読めなくなっていますが、城であることが表示されているものはこの説明板の他にはないので、落葉を払って木に立てかけておきました。主郭から西に進むと藪は多少ましになり、南辺に土塁が続いているのが見られます。土塁に折れを設けた箇所もあり、南斜面には竪堀を幾条か落としていて、ようやく城らしい遺構が見られました。明徳の乱では尾根沿いに日方城を含む4つの支城が築かれたようですが、どこまでが日方城かよくわからないので、主郭西側の曲輪っぽいところで探索を終了しました。

この日は市民の森で草刈りが行われていましたし、ぴーかるさんの写真を見るに日方城も時には綺麗に刈られているようですが、笹やススキが伸び盛る早さにはなかなか追いつけていないようです。
 

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

todo94

ゴールデンウイーク翌週・岡山の攻城⑤ (2026/05/09 訪問)

幸山城からの転戦です。備中福山城、幸山城で想定以上に時間を要してしまったため、この日の攻城はここで終了とすることにしました。宇野線の茶屋町駅が最寄り駅です。といっても2km以上の道のりです。天城高校のグラウンドの手前に「お茶屋のあと」の石碑が建っています。茶屋町の駅名や地名はこれに由来するのでしょう。近くの静光寺には陣屋の移築総門がありますが、正福寺にある下津井城の移築城門だけのチェックだけで帰路についてしまいました。隣接地といってよい場所だっただけにかなり残念です。機会があったら再訪したいと思います。

+ 続きを読む

昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征3日目:日倉城 (2026/05/13 訪問)

赤穴瀬戸山城(尼子十旗④)から車で45分くらいで、登城口案内板前駐車場((35.190399、132.818400)に着きました。山頂まで400mくらいです。

築城年代は定かではないようですが、1542年(天文11年)大内義隆が出雲の尼子氏を攻めた頃には多賀山通定が城主だったようです。
毛利元就が出雲に進攻したとき、毛利軍の中継地点として重要な位置をしめたようです。
1591年(天正19年)多賀山氏は改易されるので、日倉城も廃城となったと思われます。

現在は公園として整備されています。
主郭は山頂にあって平坦で標柱が建っています。
攻城時間は35分くらいでした。次の攻城先=三刀屋城(尼子十旗③)に向かいました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

ページ2