武田信玄の生誕地と伝わります。
多数の虎口が迎えてくれます。
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2026/06/28 12:08
2026/06/28 11:59
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宮城県の名城巡り2つめは「国府 多賀城」です♪ (2026/06/21 訪問)
私のライフワーク「(続)日本100名城巡り」、6月は宮城県の名城を歴女の娘と巡りました。
宮城県2つ目の名城は日本100名城にも選ばれている「多賀城」です。
多賀城は城と言うより政庁跡です。
中世(平城・平安時代)の古代城柵で陸奥国府が置かれていた東北の拠点でした。
2024年に巨大な南門が復元され魅力が倍増しました。
他、城の中央部にある政庁跡も見所で、訪れた時は「多賀城跡あやめまつり」の最終日で、かなりの雨の中、せっかくなので、あやめ園まで足を伸ばしました。
今回も例によって、アップした写真に沿って簡単な説明を入れていきたいと思います。
「続きを読む」と「すべての写真を見る」の両方を開いてもらえば、写真を見ながら説明を読めるので便利です。
PCだったら画面分割して説明と写真を並べて見較べるとさらに見やすいですよ!
① 最初は毎回恒例の御城印です。復興された南門を右下に置き、シンプルですが剛毅で美しい字体が心に刺さりました。
② 復元されてからは多賀城跡の顔となった「南門」に向かう広い通路の真ん中に立ち門を正面から撮りました。漆塗りの二重門と左右に伸びる築地塀が特徴です。
③ 南門が復元されるまでは、この多賀城政庁跡が多賀城を代表する風景で今でも100名城スタンプはこの景色です。前方の高い部分にある基壇で政庁の正殿と分かります。古びた「多賀城址」石碑もスタンプに表示されています。
④ 西側にこのあるお堂は、「国宝 多賀城碑」を納めた木造瓦葺きの覆屋で、縦長の自然石の碑が安置されていました。格子にカメラを突っ込み中の石碑を直に撮ってきました。下は「多賀城碑(古文書)」の説明板です。
⑤ 丘を登る途中に見えた南門を見上げるアングルで撮りました。手前の「多賀城跡」とか書かれた黒い標柱も入れた構図、個人的に気に入ってます。
⑥ 復元された南門の内側に立ち城の外側に伸びる政庁南大路をとらえました。多賀城らしさが良く出ている一枚として気に入っている写真です。
⑦ 手前から奥に段状に並んだ四角い台は当時の建物の「礎石建物跡」を示す表示台です。一番奥の「復元建物」は政庁関連施設を模した休憩・案内スペース。周囲に並んでいる黒い杭は建物の敷地範囲を示す区画を示しています。
⑧ 「多賀城政庁跡の復元建物と解説板ぶ建物群跡」 手前の四角い台と丸い柱は建物跡を示す礎石表示、斜面に沿って並ぶ黒い杭は建物や区画の境界線を示す表示です。奥の屋根だけ復元されている建物は「政庁跡復元建物」です。
⑨ 「多賀城政庁跡と解説板」手前にある大きな石製の解説板は政庁跡の変遷を説明する案内板です。その奥に柱だけ復元された大きな建物が「政庁南面の復元建物」。その周囲に、礎石を模した丸い柱が並ぶ建物跡表示があります。
⑩ 最後は限定版の御城印の紹介です。左側は復元された南門が大きくアヤメと描かれ、右側は南門は小さく紫陽花が大きく配された、どちらも「多賀城跡あやめまつり」期間限定の御城印で私たちが訪れたのは最終日でした(ギリ)
今回の多賀城訪問は、ネットでは中世の政庁で遺構も少ないと書かれていたため、正直、あまり期待していなかったのですが、巨大な南門が復元されたのを機に跡内を再整理したらしく、豪雨ではありましたが存分に楽しめました~(あやめまつり最終日に滑り込めたしね♪(^_-)-☆)
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2026/06/28 05:53
(中国地方と兵庫県)遠征10日目:二上山城 (2026/05/20 訪問)
本日は15:00頃から雨が降る予報です。雨は降ったりやんだりの状態です。
芦屋城から車で25分くらいで、二子山第2駐車場(35.539343、134.325085)に着き説明板を確認した後、高野坂古墳公園(35.539590、134.324608)へ向かいました。
そこから、登城口の中国自然歩道入口(35.539719、134.324497)へ向かいました。
南北朝時代の文和年間(1352年~1355年)に因幡の守護山名時氏の居城として作られました。
1466年(文正1年)湖山池のほとりに山名勝豊が、布施天神山城へ拠点を移すまで因幡国を統治する城でした。
山名勝豊が居城を移したのち治安が悪化したことから、領民が相談し但馬山名より三上兵庫頭を二上山城主として迎えました。
しかし、二上山城は山高く不便であったので番兵を置いて、三上兵庫頭は道竹城を築きそちらを居城としました。
1581年(天正9年)羽柴秀吉による鳥取城攻略によって毛利氏勢力は因幡を去り、旧巨濃郡は垣屋光成が領することとなりました。
垣屋氏は浦富の桐山城を居城としたが、1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いで垣屋恒総が西軍に与して滅んだ頃に、二上山城も廃城になったと考えられるようです。
熊出没注意の看板&ぽっぽつ雨で登城口で撤退しました。
攻城時間は10分くらいでした。本日の城巡りは、ここがラストです。
本日の宿泊先に行く為、鳥取駅でレンタカーを返却してホテルに向かいました。
歩行歩数=31327歩、歩行距離=21.9Kmです。
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2026/06/28 05:48
(中国地方と兵庫県)遠征10日目:芦屋城 (2026/05/20 訪問)
本日は15:00頃から雨が降る予報です。雨は降ったりやんだりの状態です。
桐山城から車で20分弱で、城山園地駐車場(35.624876、134.4367485)に着きました。
築城年代は定かではないようですが、城主は但馬山名氏家臣の塩冶塩冶周防守高清でした。
1580年(天正8年)羽柴秀吉による但馬侵攻で落城すると、高清は鳥取城主・吉川経家を頼って落ち延び、翌年には再び雁金城と丸山城で秀吉と戦い、いずれも敗れて最後は自害しました。
その後は鳥取城代となった宮部善祥坊継潤の持ち城となり、「関ケ原の戦い」後に山崎家盛の弟である宮城右京進頼久が城主となりましたが、山麓に陣屋を築いて廃城となりました。
芦屋城は日本海に面した城山に築かれており、現在は遊歩道が整備され駐車場から歩いて15位で頂上に着きます。
主郭は無線塔のたつ最高所で西端は築山のような削り残しの壁と井戸とされる窪みがあります。
登城口に案内板が建てられています。
攻城時間は30分くらいでした。次の攻城先=二上山城に向かいました。
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2026/06/28 05:42
(中国地方と兵庫県)遠征10日目:桐山城 (2026/05/20 訪問)
本日は15:00頃から雨が降る予報です。ぽっぽつ雨が降ってきました。
浦富台場から車で5分弱で、浦富海岸駐車場入口(35.590837、134.320165)に着きそこから、浦富(ウラドメ)アルプスいわし山ルート入口(35.590863、134.319042)に向かいました。
築城年代は定かではないようですが、南北朝期以前に塩冶周防守によって築かれたと云われています。
1572年(元亀3年)には山中鹿之介が因幡支配の拠点として一時在城したと云われています。
天正8年(1580年)羽柴秀吉による鳥取城攻めのさい、垣屋播磨守光成が桐山城に在城し、1581年(天正9年)10,000石を領して桐山城主となりました。
光成の子の垣屋隠岐守恒総は、1600年(慶長5年)関ヶ原合戦で西軍に属して伏見城、大津城を攻めたが、関ヶ原で西軍が敗れると高野山へ逃れて自刃、桐山城主垣屋氏は滅亡しました。
1617年(元和3年)池田光政が鳥取藩主となると、重臣池田加賀守政虎を浦富城に配しました。これが桐山城とされるようです。
1632年(寛永9年)池田光政との国替えで鳥取城に入った池田光仲は、家老の鵜殿氏を浦富に配し、桐山城下の垣屋氏居館跡に鵜殿大隅陣屋を築きました。
以降、幕末まで浦富は鵜殿氏による支配が続いたそうです。
小雨が降る中、山城に登城する勇気がなく登城口で撤退しました。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=芦屋城に向かいました。
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2026/06/28 05:37
(中国地方と兵庫県)遠征10日目:浦富台場 (2026/05/20 訪問)
本日は15:00頃から雨が降る予報です。ぽっぽつ雨が降ってきたかな?
道竹城から車で5分くらいで、浦富第2駐車場入口(35.590078、134.329580)に着きそこから、浦富台場公園入口(35.589867、134.328853)に向かいました。
江戸末期、鳥取藩内に築かれた台場名所の内のひとつ。現在6ヶ所(由良台場跡 境台場跡 淀江台場跡 橋津台場跡 浦富台場跡 赤崎台場跡)が残っています。
農民等が積極的に協力して築造し、西洋式の城塞プランが採用されるなど、藩築造の台場としては極めて特徴的で、幕末史の理解に欠くことのできない重要な遺構のようです。
浦富台場跡は藩執政職にあった鵜殿長道が浦富海岸に築いた因幡に現存する唯一の台場跡です。
東西約100mで、土塁の幅は10m前後、高さ3m前後を測り、前方土塁の平面形は2ヶ所に稜をもつ特異なもので、西洋式の城塞プランが取り入れられているそうです。
1863年(文久3年)沿岸防備の為に築かれた台場の一つです。 これを築くにあたっては付近の農民が動員されその後も農民兵によって守備されてたそうです。
浦富お台場公園として整備され、12斤砲、6斤砲、5寸径砲等4門の大砲が備えられていたそうです。
浦富台場の攻城で、鳥取藩内に築かれた残存台場6ヶ所コンプリートしました。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=桐山城に向かいました。
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2026/06/28 05:33
(中国地方と兵庫県)遠征10日目:道竹城 (2026/05/20 訪問)
本日は15:00頃から雨が降る予報です。ぽっぽつ雨が降ってきたかな?
鳥取砂丘から車で15分くらいで、岩美中学校前空スペース(35.574412、134.331403)に着きました。
築城年代は定かではないようですが、天文年間(1532年〜1555年)末期頃に三上兵庫頭豊範によって築かれたと云われています。
三上兵庫頭豊範は但馬国守護山名祐豊の弟とも云われる人物で、仏門から還俗して山名豊弘と名乗り、その後に三上兵庫頭豊範と称したそうです。
1466年(文正元年)山名勝豊が居城を二上山城から布施天神山城へと移したことから、治安が悪化し、領民が相談し但馬山名より三上兵庫頭豊範を二上山城主として迎えました。
しかし、二上山城は山高く不便であったので番兵を置いて、三上兵庫頭豊範は道竹城を築きここを居城としました。
因幡山名氏滅亡後、因幡守護には但馬より山名豊定が入り、因幡一円は完全に但馬山名氏の支配下に入ったかに見えました。
しかし、永禄年間(1558年~1570年)になると、山名氏の宿老として鳥取城に入っていた武田高信が山名氏に離反、道竹城にあった三上兵庫頭豊範も武田高信と同盟しました。
1564年(永録7年)因幡守護山名豊数に急襲され落城、三上兵庫頭豊範も討死、城も廃城となったようです。
道竹城は岩美高校や岩美中学校の西側の小山の山頂に築かれていました。
岩美高校や岩美中学校に立ち入る勇気がなく、遠景の写真を撮って撤退しました。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=浦富台場に向かいました。
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2026/06/28 05:29
(中国地方と兵庫県)遠征10日目:鳥取砂丘 (2026/05/20 訪問)
本日は15:00頃から雨が降る予報なので、雨が降りだす前に多くのお城を攻城します。
丸山城から車で10分弱で、鳥取砂丘砂の美術館駐車場入口(35.540126、134.237013)に着きました。
まずは、砂丘観光リフトを利用して砂丘観光リフト砂丘駅に向かい、広大な砂丘を満喫。
ちなみに、砂丘観光リフトは片道300円(往復500円)9:30~16:00運行で5分程度で着きました。
その後、鳥取砂丘砂の美術館(9:00~18:00 800円)に向かい、砂像の迫力を体感。
今日はここまで曇空ですが雨は降っていません。しかし、15:00を過ぎていますのでそろそろ降りそうです。
観光時間は60分くらいでした。次の攻城先=道竹城に向かいました。
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2026/06/28 05:24
(中国地方と兵庫県)遠征11日目:丸山城 (2026/05/20 訪問)
大崎城から車で20分弱で、ローソン駐車場(35.520948、134.226515)に着きそこから、登り口(35.521626、134.224195)に着きました。
1581年(天正9年)羽柴秀吉の鳥取城攻撃の前に吉川経家が鳥取城の出丸として築きました。
この城は毛利水軍から鳥取城へと輸送する中継地としても活用され、ここで水揚げされた輸送物資が雁金城を経由して鳥取城に運ばれたそうです。
羽柴秀吉は雁金城を落とし因幡沖の制海権を押えることで鳥取城の落城を待ち、1581年(天正9年)10月24日吉川経家が自刃し開城、この城に籠っていた奈良日本助、塩冶周防守、佐々木三郎左衛門も自刃したそうです。
城を守った奈良日本助、塩冶周防守、佐々木三郎左衛門については吉川経家から再三、助命するよう嘆願されていましたが、秀吉の命により、周辺を荒らした海賊・山賊という罪によって自刃させられました。
門扉が閉まってました。しかたがないので、遠景の写真を撮って撤退しました。
自宅にもどってから、門扉の写真を確認しました。
鍵はついているが閂にかかっていないので、もしかしてはいれるのではと思い、確認しなかったのを悔やんでいます。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=道竹城に向かう前に鳥取砂丘を見学しました。
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2026/06/28 05:19
(中国地方と兵庫県)遠征10日目:大崎城 (2026/05/20 訪問)
本日は15:00頃から雨が降る予報なので、雨が降りだす前に多くのお城を攻城します。
会下城から車で20分弱で、大崎城跡駐車場(35.524621、134.106389)に着きそこから、入口消化ボックス(35.524359、134.104870)に向かいました。
築城年代や築城者は不明のようですが、1544年(天文13年)尼子晴久の因幡侵攻の際、大崎城は攻略されたそうです。この時の城主が誰であるかも不明のようです。
1581年(天正9年)羽柴秀吉による鳥取城攻めのときの城主は諸説あるようで、樋土佐右衛門、あるいは田公高次で、毛利方の城でした。
鳥取城攻めの際には毛利方の城として泊、勝山城とともに攻撃目標に挙げられおり、松井康之の水軍によって城の山下が焼き払われたが、落城までには至らなかったようです。
しかし、その後、樋土佐右衛門は宮部継潤を通じて秀吉に降り、宮部継潤の家臣となったそうです。
1582年(天正10年)吉川経家の孝養に報いるとして因幡国へ侵攻した吉川元春は、杉原氏率いる1500の軍勢を大崎城へ差し向けました。
当時、大崎城は木下民部大輔ら因幡国人衆800余名が守っていましたが、不意を突かれた木下氏ら混成軍は総崩れとなり、460余名が討ち取られ瞬く間に落城したそうです。
以降、大崎城に関する記述は見えず、まもなく廃城となったと考えられています。
主郭は山頂にあり土塁が残っています。主郭下と3郭付近に崩れた石積が残っていました。
攻城時間は40分くらいでした。次の攻城先=丸山城に向かいしました。
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2026/06/28 00:02
20260531曲渕城(福岡県福岡市早良区) (2026/05/31 訪問)
国道263号線を挟んで曲渕ダムの対面にある小高い丘、現在の山神社が主郭跡という。小ぶりな城だが、険しい斜面に囲まれている
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2026/06/27 20:24
上杉景勝後詰めに来たが・・・ (2026/05/10 訪問)
【天神山城】
<駐車場他>青山佐渡守・豊後守父子の墓近辺に停めました。
<交通手段>車
<見所>曲輪・土塁
<感想>1泊2日富山ちょこ城巡り1000㎞旅21城目。天神山城は松倉城の支城として上杉氏が1554年に築城し城代に長尾景直を置いたと伝わります。魚津城の戦いでは救援に来た上杉景勝がこの城に陣を置きました。
山上城跡といった感じで、山頂に主郭を置いて、副郭を両サイドに配置した縄張りです。主郭には櫓台兼土塁があり、北方向の眺望が望めます。ここも先に行った魚津城と同じくTVの「歴史探偵」で放送しておりましたネ。城跡から見える眺望は、魚津城はもうちょい右方向で木々が邪魔して見えない感じがしました。アスファルト道に竪堀が2条ありますが、結構細いです。近くにある民族博物館は時間の関係でパスしました。
<満足度>◆◆◇
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2026/06/27 16:37
10【秀吉の播磨平定をたどる⑤】三木城(別所長治と三木の干し殺し) (2026/06/12 訪問)
播磨で織田に最後まで抵抗した、別所長治の三木城へ行って来ました。JR明石駅南口から神姫バス[20]社行に乗り50分「神鉄三木駅」で下車(写真⑨)。ここから歩いても15分程ですが、私はさらに神戸鉄道に乗り換え1駅の「上の丸駅」で下車しました。駅の横から階段を登ると(写真⑩)、三木城の本丸に到着です(写真①②)。
本丸には別所長治の像や辞世の句碑(写真③④)、兵糧を運ぶ抜け穴に使われたと言い伝えがある「かんかん井戸」もありました。井戸の横でなびく別所三氏(長治と叔父の賀相と重棟)の旗を見ると、なぜか身が引き締まります(写真⑤)。また二ノ丸には歴史博物館もあり、三木合戦の様子が解説されています。布陣図もありました。よく見ると・・・何と😯!秀長の子「与一郎」の名前があるではありませんか!(写真⑥赤丸)。もしかしたら初陣だったのかもしれませんね。ドラマでは与一郎は慶(ちか)の連れ子だとされていますが、藤堂高虎の記録には秀長と慶との実子と記されており、この時はすでに元服も済ませ妻をも娶っていたようです。しかしこの2年後の山崎の戦いの最中または直後の頃に亡くなっているようです(死因は不明)。
1578年毛利へ寝返った別所氏に対し、秀吉は数万の軍勢で取り囲み兵糧を断つ作戦に出ます。俗に言う「三木の干し殺し」です。そして1年10カ月に渡る籠城戦の末、長治の切腹をもって城兵の命は救われ、三木城は落城しました。
今はただ うらみもあらじ 諸人の
いのちにかはる 我身と思えば (写真④)
本丸からは、秀吉・秀長が陣を敷いていた平井山が見えました(写真⑧)。飢えに苦しむ家臣を見ながら、別所長治はどんな思いでこの句を詠み、あの平井山を眺めていたのでしょうか?
次はその平井山に登ってみようと思います。
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2026/06/27 15:58
少しの雨なら大丈夫。 (2026/06/20 訪問)
ぜんぜん、『お城を探す』の『行った』をポチッとできていない この頃です。
しかも、予定のない土日は雨予報ばかり。今週も台風で籠城中です。
先週、雨予報でしたが整備された城址公園、「難波田城」へお邪魔しました。
2回目の「難波田城」。
前回は、寒い季節で強風。今回は雨。悪天候でも受入れてくれる「難波田城」です。
駐車場完備で地元の方々の憩いの場でもあります。
「難波田城」は扇谷上杉氏の家臣、難波田氏のお城です。
その後、北条家傘下になり、運命を共にしました。
説明板に『羽祢蔵合戦』とあり、調べてみたら南北朝時代の足利 尊氏・義直の兄弟ゲンカでした。
最近『足利兄弟』を読んだはずなのに、すっかり忘れてます、、、。
整備されてますので、あまり足元は気になりません。お城攻めをしている事も忘れる感じです。水掘や木橋、とても綺麗になってます。
花菖蒲や、蓮の花を観賞でき、田植え体験の準備がされてました。
資料館では、地元の方々の講座が開かれていて賑やかです。
もう少し外を歩こうと思い敷地内の「難波田氏館」へ。そこから裏側に通じる道があります。すると『古民家エリア』に到着しました。
前回は分からなかったのですが、資料館を中心に『お城エリア』と『古民家エリア』に分かれてました。
こちらは大きな水たまりができてました。
藁葺き屋根から、雨だれが追いかけっこ。
小さいお店『ちょっ蔵』があり、個人的にこちらエリアの方が楽し、め、、、いや、お城エリアも良かったです。
風化された土塁や虎口。
想像するお城攻めも好きですが、綺麗に整備され、地元の方々が楽しく過ごせるお城に迷い込むのも好きです。
私はすっかり忘れてしまっていた難波田氏。地元の方々が大切に繋げている「難波田城」でした。
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2026/06/27 15:14
濃尾平野北側に多いチャートの山体 (2026/05/30 訪問)
関市中心に位置する、孤立した比高90mの小山です。山の南西中腹の駐車場から、登城しました。登城道にチャートの露頭。硬そうです。土木作業はたいへんでしよう。
尾根の本丸手前に、展望台あり、関市周辺の城が眺められます。
急峻な斜面で守られていますが、小城であり、織田の大軍には抗しきれないですね。
昌官忠さんの中国地方と兵庫県遠征記投稿は、三分の一まできましたね。まさに怒涛ですなあ。
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