日本100名城

くまもとじょう

熊本城

熊本県熊本市

別名 : 隈本城、銀杏城、(千葉城、古城)
旧国名 : 肥後

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熊本城
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トク

熊のお話(熊は関門海峡を渡れるのか?) (2025/11/05 訪問)

熊本に所用で来て早く終わったので、ならばと熊本城をぐるりと一周してきました。

宇土櫓を見ると、櫓の土台石垣の解体工事が終わったところでした(写真①②)。また小天守の下では、石垣の積直し工事がいよいよ始まっていました。クレーンで100~200kgもある石を一つずつゆっくりと下ろし、きっちりとパズルのようにはめ込んでいく様子を見ていると、方向や位置を寸分も間違わずに載せないといけないので、こちらにも緊張感が伝わってきます(写真⑤)。

ではここからは、しんちゃんの好きな熊のお話です。 テレビを見ると毎日のように熊の話題が多いですが、九州には熊がいない事は以前お話したと思います。

熊本はその名の通り地名に「熊」が付き、特にキャラクターが「くまモン」なので、いかにも熊が多い県のように思われがちですが、元々は「隈本」という地名で、加藤清正が隈の字に「畏れる(おそれる)」という意味があるのを嫌って、「熊本」と改名したそうです。20~30年くらい前に祖母・傾山系(大分県と宮崎県の県境)でツキノワクマが目撃されたのが最後で、それ以降現在まで、九州での熊の目撃情報はありません。よって現在九州には熊はいないと宣言されています。その時の熊も野生ではなく、だれかが本州から持ち込んだものだったそうで、自然と絶滅したようです。

本州での南限の生息地は、3年位前までは島根県でしたが、去年から山口県の岩国などで熊が目撃されているので、このあたりが現在の本州で最も南に生息している熊と思われます。

ではいつかは九州にも熊が現れるのではないか? 福岡の某テレビ局で特集がなされていました。専門家の推測によると、熊は泳げますが関門海峡は流れが速すぎて船も多いので、それで現在まで泳いで渡れなかったのではないか?と推測しているようです(なるほど🤔)。しかし油断は禁物と、関門海峡では本当に泳いで渡る熊がいないか、今では常時監視しているそうです。

熊本城をぐるりと一周した後は、城東側にある通町筋で熊本ラーメンを食べました(写真⑨)。そして店を出ると、目の前を何とくまモンが歩いていたのでビックリです(写真⑩)。これからすぐそばにある「くまモンスクエア」に出勤するようです(県庁の公務員なので忙しそう)。手を出すとハイタッチしてくれました。この熊本が日本で唯一、熊と人間が平和に共存できている場所なのかもしれませんね!(🤔???)。
 

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じゅんじん

3度目はチラ見 (2025/10/01 訪問)

閉園されたあとになりましたので加藤神社からです。

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トク

【宮本武蔵】(18)霊岩洞と武蔵塚(武蔵の最期) (2025/07/18 訪問)

宮本武蔵の続き(18)[最終回] です。

武蔵は晩年、細川忠利に客分として招かれ、熊本城そばの旧千葉城があった場所に屋敷を与えられます。現在の熊本年金事務所が建っている場所だそうです(写真⑧⑨⑩)。

細川忠利の客分として熊本に来た武蔵ですが、その忠利は翌年亡くなってしまいました。武蔵はそれから、金峰山の中腹にある雲岩禅寺(写真③)の中にある霊岩洞(写真①②)に籠ります。そして自らの兵法を「二天一流」と名付け、その心得などを記した「五輪の書」を完成させました。これは武蔵の人生の集大成と言ったものではないでしょうか。雲岩禅寺は、桜町バスターミナルから[U3-1]河内温泉センター行のバスに乗り30分、岩戸観音入口で下車し、そこから20分ほど坂道を登った所にありました(写真④)。五百羅漢に囲まれた洞窟で、夏なのに急にひんやりと背筋が寒くなるような、とても霊的な場所でした。

そして1645年、五輪の書を書き終えた武蔵は屋敷に戻りますが、その一週間後に亡くなったそうです(享年64才)。葬儀は忠利の子で2代藩主の細川光尚により盛大に行われ、その遺体は遺言により細川家の参勤交代を見守る場所に葬られ、現在は「武蔵塚」と呼ばれていました(写真⑤⑥)。JR豊肥線武蔵塚駅から徒歩15分、または桜町バスターミナルから[E3-3]光の森行に乗り、武蔵塚公園で降りた場所にありました(写真⑦)。亡くなる前に光尚から届いた手紙には、「江戸から間もなく参勤交代で熊本へ戻るので、その時に会えるのを楽しみにしている」と書かれおり、光尚も武蔵に会いたがっていたようです。

私は、武蔵が晩年に暮らし亡くなった屋敷跡の場所から、熊本城を見上げてみました。五輪の書を書き終えた武蔵は、間もなく尽きるであろう我が命を前に、ここからどんな思いで、この熊本城を見上げていたのでしょうか?(写真⑩)。

しかし、そこでふと疑問が🤔? 武蔵が人生の集大成として書いた「五輪の書」には巌流島の決闘や小次郎の事が一切書かれていません。それはなぜだったのでしょうか?

きっと武蔵は卑怯者と呼ばれ、人生最大の汚点となった巌流島での決闘を思い出し、密かにここから、小次郎の事を偲んでいたからではないでしょうか・・・

以上で宮本武蔵を終わります。途中間違った内容もあるかとは思いますが、そこは何卒御容赦願います。全18回長々と読んでいただき、大変ありがとうございました。
 

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しんちゃん

【赤色立体地図かるた】 (2014/01/09 訪問)

「清正さん 熊本護る 浄池廟(せいしょうさん くまもとまもる じょうちびょう)」

加藤清正公が葬られた浄池廟は熊本城の天守閣と同じくらいの高さとされています。

「熊本城 廟から見守る 清正さん(くまもとじょう びょうからみまもる せいしょうさん)」
細川家の城になっても清正さんは熊本の守り神ですぞ 尾張出身ですぞ

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概要

織豊系城郭の到達点ともいわれる、加藤清正が築いた名城。本丸に大天守と小天守を建て、各曲輪には5棟の五階櫓が並んでいた。大小天守は再建されたものだが、清正流と称された高石垣と櫓12棟はほぼ完全な姿で現存。なかでも三重五階の宇土櫓は「第3の天守」と呼ばれるほど立派。

城郭情報

城地種類 梯郭式平山城
築城年代 文明年間(1469〜1487)
築城者 出田秀信(千葉城)、鹿子木親員(隈本城)
主要城主 加藤氏、細川氏
文化財史跡区分 国重要文化財(櫓11棟、門1棟、塀1棟)、国特別史跡(熊本城跡)
近年の主な復元・整備 加藤清正
天守の現況・形態 連結式望楼型[3重6階地下1階/1600年築/焼失(火災)]、連結式望楼型[3重6階地下1階/1960年再/RC造外観復元]
主な関連施設 外観復元:大小天守、平櫓、馬具櫓、木造復元:西大手門、数奇屋丸二階広間、南大手門、西出丸戌亥櫓、未申櫓、元太鼓櫓、飯田丸五階櫓、本丸御殿大広間、石碑、説明板
主な遺構 曲輪、櫓、門、塀、石垣、横堀
住所 熊本県熊本市中央区本丸、二の丸
問い合わせ先 熊本市教育委員会生涯学習部文化財課
問い合わせ先電話番号 096-328-2111