清正流 扇の勾配 熊本城
(きよまさりゅう おうぎのこうばい くまもとじょう)
ここも未訪、現在復興途上中かと思います。
加藤清正が秀吉の大坂城を参考にして築城した城。
特に石垣の扇の勾配が美しいとのこと。
九州遠征を計画しないと・・・
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2025/08/12 08:46
【赤色立体地図かるた】
清正流 扇の勾配 熊本城
(きよまさりゅう おうぎのこうばい くまもとじょう)
ここも未訪、現在復興途上中かと思います。
加藤清正が秀吉の大坂城を参考にして築城した城。
特に石垣の扇の勾配が美しいとのこと。
九州遠征を計画しないと・・・
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2025/08/05 12:32
【赤色立体地図かるた】
「がまだせと 熊本城に 励まされ」
(がまだせと くまもとじょうに はげまされ)
2016年の熊本地震から、復興を進める熊本城。
ずっと『がんばって』と、祈ってます。
でも最近は、『私も、がんばらないとな!』と、反対に活力をもらってます。
「がまだせ」とは熊本弁で「頑張る」「精を出す」なんだそうです。
今朝、同僚に「扇子」をプレゼントされました。
本日、東京の端っこ40度予報。
パタパタしながら、がまだすばい!
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2025/08/04 10:09
【赤色立体地図かるた】 (2022/07/13 訪問)
西郷も 落とせぬ縄張り 熊本城
(さいごうも おとせぬなわばり くまもとじょう)
1877年(明治10年)、士族の不満を訴えるべく薩摩で挙兵した「西郷隆盛」は、まず九州鎮台「谷千城」が守る熊本城を攻めます。西南の役の始まりです。最初は城全体を包囲し一斉に突破しようと試みます。しかし、連続桝形・49の櫓・18の櫓門とそれらを囲む白川・坪井川があり、城へは容易に近づく事すらできません。ならば今度は、弱点とにらんだ西側に攻撃を集中し攻めようと試みます。しかし加藤清正は270年前の築城時に、西側が弱点である事にすでに気づいていました。それゆえそこに宇土櫓を築き、20mの大堀と60もの鉄砲狭間を持つ長塀を築き、さらに西出丸をも築きました。清正が「ここを落とすには100日はかかるであろう」と豪語したほどの、完璧な縄張りです。
西郷は攻めあぐね、確かに52日たっても落とす事ができません。その時、官軍の援軍が南下し迫ってきたとの知らせを受け、全軍を「田原坂」に移動させ、そこで迎え撃つ事にしました。しかし、輸入したばかりの最新鋭の銃や大砲で装備された援軍に、旧式の銃や大砲と刀では太刀打ちできず、ここで致命的な大敗を喫してしまいます。薩軍はもはや薩摩へ撤退せざるをえませんでした。この時西郷は、こう言い残したそうです。
おいどんは
官軍に負けたとじゃなか
清正公に負けたとでごわす
もし西郷が熊本城を落とし、逆にここで100日間籠城していたら、全国の不平不満士族たちがその間に立ち上がり、状況は変わったかもしれません(ネバたらですが)。宇土櫓は、2032年に復旧する予定です。私はぜひその時に西側にある二の丸からもう一度、西郷が眺めた景色と同じ景色を、眺めてみたいと思っています。
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織豊系城郭の到達点ともいわれる、加藤清正が築いた名城。本丸に大天守と小天守を建て、各曲輪には5棟の五階櫓が並んでいた。大小天守は再建されたものだが、清正流と称された高石垣と櫓12棟はほぼ完全な姿で現存。なかでも三重五階の宇土櫓は「第3の天守」と呼ばれるほど立派。
城地種類 | 梯郭式平山城 |
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築城年代 | 文明年間(1469〜1487) |
築城者 | 出田秀信(千葉城)、鹿子木親員(隈本城) |
主要城主 | 加藤氏、細川氏 |
文化財史跡区分 | 国重要文化財(櫓11棟、門1棟、塀1棟)、国特別史跡(熊本城跡) |
近年の主な復元・整備 | 加藤清正 |
天守の現況・形態 | 連結式望楼型[3重6階地下1階/1600年築/焼失(火災)]、連結式望楼型[3重6階地下1階/1960年再/RC造外観復元] |
主な関連施設 | 外観復元:大小天守、平櫓、馬具櫓、木造復元:西大手門、数奇屋丸二階広間、南大手門、西出丸戌亥櫓、未申櫓、元太鼓櫓、飯田丸五階櫓、本丸御殿大広間、石碑、説明板 |
主な遺構 | 曲輪、櫓、門、塀、石垣、横堀 |
住所 | 熊本県熊本市中央区本丸、二の丸 |
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問い合わせ先 | 熊本市教育委員会生涯学習部文化財課 |
問い合わせ先電話番号 | 096-328-2111 |