宮本武蔵の続き(18)[最終回] です。
武蔵は晩年、細川忠利に客分として招かれ、熊本城そばの旧千葉城があった場所に屋敷を与えられます。現在の熊本年金事務所が建っている場所だそうです(写真⑧⑨⑩)。
細川忠利の客分として熊本に来た武蔵ですが、その忠利は翌年亡くなってしまいました。武蔵はそれから、金峰山の中腹にある雲岩禅寺(写真③)の中にある霊岩洞(写真①②)に籠ります。そして自らの兵法を「二天一流」と名付け、その心得などを記した「五輪の書」を完成させました。これは武蔵の人生の集大成と言ったものではないでしょうか。雲岩禅寺は、桜町バスターミナルから[U3-1]河内温泉センター行のバスに乗り30分、岩戸観音入口で下車し、そこから20分ほど坂道を登った所にありました(写真④)。五百羅漢に囲まれた洞窟で、夏なのに急にひんやりと背筋が寒くなるような、とても霊的な場所でした。
そして1645年、五輪の書を書き終えた武蔵は屋敷に戻りますが、その一週間後に亡くなったそうです(享年64才)。葬儀は忠利の子で2代藩主の細川光尚により盛大に行われ、その遺体は遺言により細川家の参勤交代を見守る場所に葬られ、現在は「武蔵塚」と呼ばれていました(写真⑤⑥)。JR豊肥線武蔵塚駅から徒歩15分、または桜町バスターミナルから[E3-3]光の森行に乗り、武蔵塚公園で降りた場所にありました(写真⑦)。亡くなる前に光尚から届いた手紙には、「江戸から間もなく参勤交代で熊本へ戻るので、その時に会えるのを楽しみにしている」と書かれおり、光尚も武蔵に会いたがっていたようです。
私は、武蔵が晩年に暮らし亡くなった屋敷跡の場所から、熊本城を見上げてみました。五輪の書を書き終えた武蔵は、間もなく尽きるであろう我が命を前に、ここからどんな思いで、この熊本城を見上げていたのでしょうか?(写真⑩)。
しかし、そこでふと疑問が🤔? 武蔵が人生の集大成として書いた「五輪の書」には巌流島の決闘や小次郎の事が一切書かれていません。それはなぜだったのでしょうか?
きっと武蔵は卑怯者と呼ばれ、人生最大の汚点となった巌流島での決闘を思い出し、密かにここから、小次郎の事を偲んでいたからではないでしょうか・・・
以上で宮本武蔵を終わります。途中間違った内容もあるかとは思いますが、そこは何卒御容赦願います。全18回長々と読んでいただき、大変ありがとうございました。
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