いわくらじょう

岩倉城

愛知県岩倉市


旧国名 : 尾張

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ぴーかる

岩倉城 (2024/05/25 訪問)

【岩倉城】
<駐車場他>駐車場はなし。城跡休憩所の裏手に停車しマッハで撮影しました。
<交通手段>車

<感想>日帰り濃尾平野ちょこ城巡りの旅(2022年からの続き)、第3弾1城目。現地説明板によると岩倉城の築城は1479年頃に織田伊勢守系の織田敏広が築城しました。織田敏広は尾張守護代で上四郡(丹羽・葉栗・中島・春日井)を支配し、応仁の乱で東軍についた下四郡(愛知・知多・海東・海西)を支配する織田敏定と対立します。1557年に城主の織田信安は末森城主の織田信行(信長の弟)と同盟を結んでいたため、信長に攻められ1559年に落城します。
 城跡碑を撮影し、大手虎口跡へ走って行きましたが特に何も無かった。城跡休憩所に公衆トイレあります。

<満足度>◆◇◇

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うさ

岩倉城 (2024/02/28 訪問)

ひっそりとあります

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しんちゃん

織田伊勢守家の居城。 (2024/03/10 訪問)

岩倉城は文明11年(1479)に織田兵庫助敏広によって築かれたと現地案内板には記されています。織田伊勢守家はここを拠点とし尾張上四郡(丹羽・葉栗・中島・春日井)を支配しました。城域は東西約91m、南北約171mとされ二重に堀を巡らせていたようです。
弘治3年(1557)岩倉城主・織田信安は信長に反旗を翻した織田信行(信勝)と結び、信長に攻められ永禄元年(1558)浮野合戦で敗れ、翌年3月に岩倉城は落城したそうです。さすが時代の風雲児の信長公ですね。
信長公というと謀反(下剋上)で命を落としたイメージがありますが、彼も主筋を次々と蹴落としてのし上がっていったんですね。

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チェブ

古い石碑。 (2022/05/05 訪問)

愛知県岩倉市の「岩倉城」、織田 敏広さんが築城しました。まだ尾張が、岩倉派と清洲派でバチバチしてる時代です。
その後、尾張統一を目指す信長さんに攻められ落城しました。

県道166号沿いに「岩倉城」の石碑、説明板、不動明王像がありました。道を挟んで向こうに『城跡休憩所』があります。
1560年頃、廃城してるのに 今も『城跡』と大切にされてます。
石碑を見た時、誰かの古いお墓かな?という、たたずまい。なんと石碑は、安政の頃1860年に建てられたそうです。立派です。
余談ですが、1854年に四国から名古屋辺りを数回、大地震が襲いました。復興中か復興後、「岩倉城」も忘れないように石碑を建てたんだと思います。違う意味で、立派です。

到着した時、「岩倉城」の石段に父子が座って話しをしてました。お父さんが息子に、何かを教わってます。
スマホを覗き込む2人。一生懸命に説明する息子さん。
信長さんの時代には考えられない光景です。
石碑を建てた安政の頃、信長さんは どのように語り継がれていたんでしょう?
古い石碑と、今どきの父子を見て 信長さんも、描かれる時代にあった人物像になっている気がした「岩倉城」攻めでした。

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城郭情報

分類・構造 平城
築城主 織田敏広
築城年 文明11年(1479)頃
主な城主 岩倉織田氏(織田伊勢守家)
廃城年 永禄2年(1559)
遺構
指定文化財 市史跡(岩倉城跡)
再建造物 石碑、説明板
住所 愛知県岩倉市下本町城跡124、121
問い合わせ先 岩倉市生涯学習課
問い合わせ先電話番号 0587-38-5818