鯰江城からの転戦です。山城サミットに加盟しているこの城の攻城は、かなり昔に試みているのですが、西側からアプローチして立入禁止のフェンスに阻まれてしまっていました。今回は、北側の貴船神社の登城口から快適な登城路を進んで無事攻略することができました。城址碑は一本目の鉄塔の裏手、城址迄200m地点に傾いて立っていました。鉄塔建設時に遺構はかなり破壊されてしまったそうですが、眺望は素晴らしい山城でした。
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2025/11/10 07:12
滋賀ドライブでの攻城② (2025/11/08 訪問)
鯰江城からの転戦です。山城サミットに加盟しているこの城の攻城は、かなり昔に試みているのですが、西側からアプローチして立入禁止のフェンスに阻まれてしまっていました。今回は、北側の貴船神社の登城口から快適な登城路を進んで無事攻略することができました。城址碑は一本目の鉄塔の裏手、城址迄200m地点に傾いて立っていました。鉄塔建設時に遺構はかなり破壊されてしまったそうですが、眺望は素晴らしい山城でした。
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2025/11/09 22:05
神戸城 ポツンと独特な天守台 (2025/09/28 訪問)
暑さの和らいだ9月末に訪れた三重県鈴鹿市の神戸城。
鈴鹿川北側の丘陵と鈴鹿サーキットのある丘陵に挟まれた低地エリアの中央部に築かれた城。
亀山城を本拠とする関氏の分家・神戸氏は沢城を拠点としていたが、1500年代中頃に北東約1kmの神戸城を築城して移転。
1571年に織田信長の三男・信孝が神戸氏の家督を継ぐと、1580年に5層の天守を建設。海寄りを通っていた伊勢街道を城下に引き込んだのもこの頃でしょうか。
本能寺の変の後は城主が度々替わり江戸初期には一旦廃城となるものの、1651年から陣屋が置かれ、1700年代中頃には本多忠統が神戸城を再興。二之丸北東隅にシンボルの二重櫓が築かれ、以後、幕末まで本多氏7代が城主に。
現在は本丸とその南と西の堀が神戸公園となり、二之丸と三之丸には高校が建つ。
実際に訪れると水路が多く、凡その外堀形状を知ることが可能。
しかし城のオーラは弱く、公園化された堀から1段高い本丸上の、丸みを帯びた石材からなる独特な天守台だけが静かに佇んでいる印象。
亀山製紙室山工場跡の移築門、顕正寺の移築大手門、神戸の見付、蓮花寺の移築太鼓櫓も巡り、南北約10kmに散らばるアイテム集めをしたような、私の城郭巡りの211城目でした。
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2025/11/09 21:54
2025/11/09 21:47
黒田官兵衛 (2025/11/07 訪問)
久ぶりの中津城です。「黒田と細川の石垣の境」など見ながら散策しました。街中にも大手門跡の石垣など遺構があります。
かつて城下町の周囲には堀があり、その城内側には通称おかこい山といわれる土塁が構築されていました。多くは開発により姿を消しましたが、一部復元されて遺構が残存している場所があります。鷹匠町と金谷口に行って来ました。
JR中津駅から模擬天守のある本丸までは徒歩15分くらいで行くことができます。
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2025/11/09 20:36
菅谷館 (2025/11/08 訪問)
クラブツーリズムにて行った
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2025/11/09 20:31
杉山城 (2025/11/08 訪問)
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2025/11/09 20:23
忍城 (2025/11/08 訪問)
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2025/11/09 20:15
唐沢山城 (2025/11/08 訪問)
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2025/11/09 20:01
笠間城 (2025/11/07 訪問)
クラブツーリズムにて行った
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2025/11/09 19:25
土浦城 (2025/11/07 訪問)
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2025/11/09 18:04
奈垣にある下山甲斐守城 (2025/11/02 訪問)
下山甲斐守城はこの奈垣の近くの比奈知に
もありますね。まったく同名です。
城跡近くまでコンパクトカーなら来れます。
方形の高土塁、周囲に堀を巡らし、明確な
虎口がみられる丘城です。
凄く良い状態で残ってますね。
休日の朝に訪城しましたが、たまに遠くで
ホシガラスが鳴くくらいで、ほぼ静寂、全
くの無風、凛とした空気の中で広大な遺構
に一人でいると不思議な気分になりますね。
ちょっと不気味な感じがありつつ、超贅沢
な趣味だなーと。。。
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2025/11/09 17:14
野仲重房 (2025/11/07 訪問)
長岩城の野仲重房が建久年間に築城したと伝わります。戦国時代は平田掃部介の居城でした。豊臣秀吉の命により黒田長政が攻略した後は黒田氏の重臣であった栗山善助(利安)の居城となりました。
城域は3つに区分されます。現在、平田城址として公園となっている場所は戦国時代の平田城部分(南台)です。北側に城主や重臣の屋敷地となっていた部分(北台)、西端の大堀切と土塁線で西側の防衛ラインを構成する区域があります。登城口には別名の平田城の幟、説明板があります。獣除けの柵を開けて(もちろん閉めて)登ると5分くらいで登城することができました。周囲には石垣が残っています。パンフレットが置いてあり城の詳細な情報が掲載されていました。登城中に読めばよかったのですが、帰って来てから読みと見逃した石垣もあることがわかりました。北側と西側の城域にも行ってみたかったのですが、登城路がわからず断念しました。
白米と書いて「まったけ」と読みますが、ずっと「はくまいじょう」だと思っていました。登城するために城びとサイトなどを確認すると「まったけ」と読むことを知りました。説明板や幟は平田城となっていました。大分県の名勝耶馬渓「立留まりの景」近くにあり城址から観ることができます。
JR中津駅からバスに乗り平田バス停下車。バス停から耶馬三橋のひとつ馬渓橋を渡り徒歩5分くらいで登城口に行くことができます。
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2025/11/09 16:47
中間統胤 (2025/11/07 訪問)
中間氏の居城と伝わっています。黒田氏が豊前の領主となると中間統胤は黒田官兵衛の傘下に加わりました。中間統胤は黒田氏の信任も厚く、そのまま城番として置かれました。関ケ原の戦いの後、黒田氏の筑前に移封により統胤もこれに従い一ツ戸城を去り、細川氏がこの地を治めます。城跡に残る石垣は細川氏の時代に整備されたものです。
登城口は北側と南側の2カ所ありますが、北側からの道を選択しました。林道を少し歩くと案内があり最初は比較的緩やかな整備された道を登って行きます。途中から急坂になり足元も悪くなりますが、山の形状から想定範囲内です。山頂には複数の曲輪があり、周囲には石垣が点在していました。予想していたより多くの石垣があり、苔むしていていい雰囲気を醸し出していました。少し下りると竪堀と思われる地形もありました。登城口近くにある神社も城の一部ですが、遺構はよくわかりません。
獣除けの柵を開けてすぐに猪と遭遇しましたが、幸いすぐに走り去って行きました。熊がいないということで九州へ来たのに、まさか猪に遭遇するとは肝を冷やしました。
JR中津駅よりバスに乗り一ツ戸バス停下車、徒歩2~3分くらいで登城口の獣除け柵まで行くことができす。説明板もあります。
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2025/11/09 16:27
おいでよ東京の端っこ「羽村市郷土博物館」の巻。 (2025/11/09 訪問)
最近分かった事がありまして、私の住む東京の端っこ羽村市には、お城がありません。
間坂と言う地名があり、あきる野市の「戸倉城」小宮氏と、青梅市の「勝沼城」三田氏との境界線なんだとか。
際っ際なので、ないようです。
お話を『城びと』に戻し、『日本城郭協会大賞』の記事を読み地元のボランティアさんの活躍が羨ましく、我が街にも歴史継承している団体がないか調べ、観光協会が主催する講座に参加させてもらいました。
お城目当てで参加しましたが、鉄道やお蚕、神社のお話がメインでした。でも、『東京の端っこも捨てたもんじゃないな』が感想で、観光協会お薦めの『羽村市郷土博物館』を訪れました。
これが、とても面白くて投稿させていただきます。
すでに脱線していますが、大丈夫でしょうか?
『羽村市郷土博物館』は無料。駐車場もあります。
館内は羽村市の歴史です。写真を写して良いか確認しましたら自分用でお願いします。とのことでした。
羽村市は江戸時代、江戸の町に水を流す事業を仰せつかってましたので、関わりが分かります。農村から近代化を辿りました。
外には、赤門が移築してあります。
徳川幕府に仕えていた眼科医の鈴木家の門を、『大菩薩峠』の作家、中里介山さんが譲り受け自慢していたそうです。(自慢て、、、)
それから旧下田家住宅でボランティアの方とお話ができ、江戸時代末期の建物の話しを伺いました。
写真⑦はよく見ると、『水』と彫られてます。屋根の端は銀杏の形にして、どちらも火事にならない、おまじないなんだとか。囲炉裏の飾りマスは目を開けて、火の番をする等など江戸時代の粋な感じが伝わります。
神棚のダルマは煤だらけ。囲炉裏の煤でいい味が出てます。
それから、多摩川の堰に行き『玉川兄弟』をパチリ。
この方々、玉川上水に貢献した兄弟です。
が、もしかしたら羽村市の人ではないかも、と新たな資料が出てきたそうです。
徳川家康さんが江戸の街を作りました。
でも、たくさんの人々の知恵と努力で、江戸の街が彩られたのだと思います。
これからも先人たちの貢献を、いろんな町で出会えたらいいなと、笑顔で帰路につきました。
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2025/11/09 16:24
神籠石系山城 (2025/11/07 訪問)
神籠石系山城です。第一水門へ行って来ました。入口に説明板があります。列石の石は中津城築城の時に運び出され利用されたようです。
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2025/11/09 16:19
七社宮 (2025/11/07 訪問)
大畑城は元歴元年(1184年)に緒方惟栄により築城され一族の加来氏が城主を勤めました。天正15年、豊前に移封された黒田孝高と豊前国人衆の間で戦が勃発すると加来氏も国人衆に味方しましたが、黒田氏に攻め落とされました。
七社宮付近が城址ですが遺構はないと思われます。入口に説明板がありました。
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2025/11/09 14:41
2025/11/09 14:35
佐田親景 (2025/11/06 訪問)
応永6年(1399)築城と伝わる城井宇都宮氏の分家である佐田氏の居城です。
城域は本丸を中心とした部分と複数の砦より構成されています。いろいろな方がネットなどに掲載されている縄張り図を見ると主郭付近をaとして、gまでの点在する砦が記載されています。元になっているのは大分県教育委員会の大分の中世城館2004に記載されていた縄張り図だと思われます。自分は城郭放浪記さんのHPにあった縄張り図を主に散策の参考にしました。主要な部分aのみならずb~gのすべての砦へ行くつもりでしたが、午後からの登城となったため日没が近くa、b、dとcの一部しか行っていません。宇佐市立佐田小学校近くの登城路が整備されています。途中倒竹などありましたが、概ね歩きやすい道でした。砦dを越えると空堀があり、主要部分(a)となります。空堀、竪堀が曲輪周囲によく残っていて見ごたえがありました。砦dは登城路にあり佐田小学校の生徒さんが作ってくれた標識がありましたが、砦b、砦cには標識も案内板もありません。ただそれほど藪ではなく難渋することなく行くことができました。
本丸を中心とした曲輪と周辺の遺構(a)が予想以上に楽しく時間を取ってしまいました。また砦b、cにも空堀が良好に遺っている所もありました。次の機会があれば時間を取ってすべての砦を散策したいものです。
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2025/11/09 14:02
2025/11/09 13:54
時枝惟光 (2025/11/06 訪問)
応永年間に時枝惟光が築城したと伝わります。遺構はありません。石碑があり、裏の説明文が彫られています。
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