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駿府城

最新技術で文化財を記録―静岡県文化財3Dセミナー開催

令和8年2月17日(火)から18日(水)にかけて、「静岡県文化財3Dセミナー」が開催されました。
本セミナーは、貴重な文化財をより正確に記録し、将来へ確実に伝えていくために、3次元データ化の技術向上を図る取り組みです。静岡県では、デジタルアーカイブの充実を目指し、定期的に研修を実施しています。
今回は、石材や石垣を対象にした撮影実習を中心に実施しました。講師を招き、3D化に適した撮影方法のレクチャーを受けた後、実際に駿府城跡天守台発掘調査現場へ赴き、石垣の撮影を行いました。その後、専用ソフトを用いてデータ処理を行い、撮影した写真から立体的な3Dモデルを作成する工程まで体験しました。
3D化の作業は想像以上に繊細で、精度の高いデータを作成するためには、さまざまな角度から多数の写真を撮影する必要があります。講師からは、撮影時の距離や光の当たり方、重なりを意識した構図の重要性など、精度を高めるための具体的なポイントについて説明がありました。
今後も本市では、最新技術を活用しながら文化財の保存と活用の両立を図り、市民の皆さまにその価値と魅力をわかりやすくお伝えしてまいります。

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トク

【大友宗麟】(1)上原館(二階崩れの変) (2025/12/18 訪問)

大友宗麟の生涯を追ってみました。その様子を13回くらいのまたマイペースで、これから投稿させて頂こうと思います。もし御興味あれば、またよろしくお願いします。

大友宗麟と言えば、戦にとても強い戦国大名だというイメージを持たれている方が多いと思います。しかし実は、本当は戦を好まず、平和な争いのないキリスト教の理想郷を追い求めた、そういう別の素顔も持っていた人物だという事は、意外と知られていないのではないでしょうか?

大友館から南へ1kmほどの、大分市街が見渡せる丘の一角に、ひっそりと残る石碑があります。ここにはかつて、大友家の別宅「上原館」(うえのはるやかた)がありました。実はこの場所で1550年に起きた「二階崩れの変」が、当時まだ20才だった大友義鎮(後の宗麟)にとって大きな心の傷となり、それが原因で彼はキリスト教に没頭するようになったのです。


【二階崩れの変】とは
大友義鎮には二人の弟がいました。次男は「晴英」(後に大内家へ養子に入り、陶晴賢に討たれた大内家最後の当主「大内義長」)、三男は「塩市丸」(後妻の子)でした。義鎮の母は幼い時に亡くなります。後妻として入った継母は、塩市丸とともにこの上原館に住み、父の第20代当主「大友義鑑」は、毎晩大友館から上原館に通っていたそうです。そしてだんだんと前妻の子である義鎮を嫌うようになり、塩市丸の方を溺愛し跡取りにしようと考えるようになりました。それにより家臣も義鎮派と塩市丸派の二つに割れてしまい、武力抗争にまで発展してしまいます。そこで重臣の戸次鑑連(後の立花道雪)の一派は、義鎮は関わらぬよう別府の浜脇館で湯治をするように勧め、その間の深夜に上原館を襲撃! 二階で寝ていた当主の義鑑と継母と塩市丸の三人を、何と惨殺してしまいまいました。これが「二階崩れの変」です。そしてその翌日には義鎮(後の宗麟)が、第21代当主の座に据えられたのでした。

次は、その義鎮(宗麟)が湯治をしていたという「浜脇館」(宗麟隠し湯)に行ってみたいと思います。
 

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青たぬき まろん

冬の高島城 (2026/02/01 訪問)

本丸跡から見下ろす伊那谷

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青たぬき まろん

冬の松本城 (2026/01/29 訪問)

冬の松本城

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青たぬき まろん

冬の高島城 (2026/01/29 訪問)

城びとになって最初に攻略したお城

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イオ

九鬼嘉隆最期の地 (2025/08/03 訪問)

鳥羽城を築いた九鬼嘉隆は、関ケ原の戦いで西軍につくも敗れて答志島に逃れます。家督を継いで東軍についていた九鬼守隆は徳川家康に父の助命嘆願をし許されますが、嘉隆は助命の使者が着く前に九鬼家の将来を案じた豊田五郎右衛門(嘉隆の娘婿)に促されて自刃…。答志島には嘉隆の首塚や胴塚が祀られています。

この週末(といっても半年以上前)は家族旅行で伊勢志摩に行きましたが、城には行かないまでも鳥羽周辺で泊まるのならせめて答志島で、と朝食前に九鬼嘉隆最期の地を中心に答志島の和具地区を散策しました。嘉隆は洞泉庵の境内(現在の答志和具コミュニティセンター)で自刃し、介錯した刀を洗ったとされる池が血洗い池として伝わっています。洞泉庵の先には嘉隆の胴塚が建てられ、さらに先の築上山頂には首塚があるようです。時季的に登山口は藪が茂っていてどうなることかと思いましたが、散策路はおおむねよく整備されていて10分程度で山頂に到着。嘉隆の首は首実検の後、この地に葬られたとされています。山頂からは嘉隆が水軍を率いた鳥羽湾から太平洋までが一望でき、海賊大名と呼ばれた嘉隆が葬られるには相応しい地かもしれないな、としばし手を合わせました。

答志島の細い路地裏は日本遺産の構成資産になっていて、築上山を降りてホテルに戻る間にも八幡祭の炭で書かれた魔除けの「まる八」をいくつも見かけました。魚介も美味しかったですし温泉も気持ちよく、歴史と伝統が今に息づく魅力ある島でした。
 

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赤い城

阿波から讃岐への要衝の地 (2026/02/01 訪問)

城跡までの道路には案内板があり、それに沿って進むと神社前に説明板が立っています。
城跡はここからさらに先にあります。
竜王神社近くの広くなったスペースに車を置きます。

少し入ったところに石碑と説明板があり、その背後から登ります。
急坂で一見道がなさそうですが少し登るとわかりやすく道がついています。
登城路に沿って竪堀が落ち、さらに登ると堀切がありました。
主郭はもう少し登った場所にあります。
虎口を経て主郭へ、横に長い形でした。
さらに進み二郭へ降ります。
二郭の突出部の下に竪堀が見えます。
ここからさらに降りて堀切と竪堀を見学。
ここの堀切は岩盤を削ったものでした。

香川氏配下の財田氏の居城、長宗我部氏の讃岐攻めで落城しました。
竪堀が多用されているのは長宗我部氏の改修によるものかと思われます。
あと、車を置いた竜王神社には伯母淵があり天然の堀となっています 
落城の際に城主の妻や伯母が身を投げた、と伝わっています。

【見どころ】
 ・登城路に沿った竪堀
 ・南側の竪堀
 ・伯母淵

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イオ

対岸と定期船から (2025/08/02 訪問)

江戸末期に鳥羽藩主・稲垣長明が海防のために築いた砲台のひとつです。

遺構はほぼ失われ、説明碑があるくらいだったようですが、砲台跡のホテルが廃業したことにより立入禁止になっているそうなので、先人の皆さまに倣って対岸(鳥羽マリンターミナル)から、そして答志島への定期船から遠望して「行った」ことにさせていただきます。
 

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まにまに

亀ヶ城 (2026/03/01 訪問)

愛知県東栄町にある、お城選択でも出てこないぐらい小さな山城。

ドライブしててたまたまマップに出て来たので寄り道してみたら、思ったよりもしっかり遺構が残ってて、かなり楽しめてしまった!
城跡の近くまでクルマで行けるし、そこから10分ぐらい急勾配の山道をあがると虎口が見えてきて、その先に主郭がありました。
小さな城だと思うけど、予想してたよりも主郭が広い。
虎口と思われる所には石積があったり、土塁もはっきりわかる。
主郭の横には広い平地があったから、多分そこが二の郭かな。これまた結構広い。
主郭までは道がそこそこ整備されてたけど、遺構の表示はないので正確なところはあまり分からないけど。

ドライブついでに寄った割には満喫できちゃいました。

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100名城ビギナー

御城印集めの城巡りを決意してから初めて訪れたのがココ (2026/02/14 訪問)

正確に言えばココを訪れてから「御城印集めの城巡り」を決めました(逆)
犬山城の訪問は実は2度目だったのですが、最初は犬山市の友達に名所巡りの一環として連れて来てもらいササっと天守閣まで登り眺めを見て気を付けて降りて来ました。
むしろ目当ては城下町の食べ歩きで、そのあとモンキーパークや(地元ではモンパと呼ぶらしい)明治村をささっという感じでした。
今回は歴史好きの娘と二人で犬山城のみを徹底的に堪能し、心から感動してしまいました。
さらに娘から御城印(初耳)の存在を教えてもらい収取癖のある私は「御城印集めの城巡り」をライフワークにすることを決心いたしました。
記念すべき1つめのお城なので記念に御城印帳も購入しました(上品な雰囲気です)
それと別名「白帝城」と呼ばれてるそうで、白帝城バージョンの御城印も購入しました(これで2枚目)
来月は岩手県を訪れて「盛岡城」(日本100名城)と「九戸城」(続日本100名城)を巡る予定です。
その際はまた皆さんに、お城や御城印の写真を見てもらおうと思っています。

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ヒロケン

中馬のおひなさんin足助 (2026/02/23 訪問)

中馬のおひなさんin足助は足助の古い町並みに並ぶ民家や商家に古くから伝わるおひなさんや土雛を玄関先や店内に華やかに飾り、道行く人々に町並みを散策していただこうと始まった足助のイベントの一つです。

大正期のおひな様、キャラクター雛、ガラス雛等様々で街道沿いには100体近くのおひな様が飾られています。なかなか楽しく散策することが出来ます。また、飲食店も充実しており、自分は「参州楼」さんで「柔らか二四豚」をいただきました。野菜ソムリエが選ぶ新鮮野菜のサラダバー、スープバー、ドリンクバーがついて1600円(ごはん大盛100円プラス)。柔らかくて真面目に美味かったです。(8番目の画像)

古い町並みやおひな様に興味がある方は行ってみては如何でしょうか。

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送りバント

20171117中津城(大分県中津市) (2017/11/17 訪問)

模擬天守も良いが、様々な石垣も楽しめる。黒田・細川の継ぎ目、穴太積み、唐原山城の石を使ったもの・・・どれもが興味深い

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つね

御城印・関連施設等 (2026/02/27 訪問)

徳満寺・来見寺・布川神社・御城印

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つね

馬出曲輪・空堀・土塁が見所 (2026/02/27 訪問)

布川駅より徒歩約25分程の徳満寺が城跡。西側の金毘羅神社の敷地が馬出跡。その間の土橋と空堀がよく残っています。境内の西側と北西側にも土塁が残っています。町役場のある高台が二の丸跡。寺と役場の間の道路が空堀跡です。城跡のすぐ南東にある「酒のたかつや」で御城印を販売しています。縁のある来見寺・布川神社も徒歩圏内です。

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カズサン

社山城-3/3 二の曲輪編 (2026/02/14 訪問)

 社山城の二の曲輪は本曲輪(南北約70m東西約25m)山頂部と幅約10mの堀切を挟んでL字に東尾根に連なっり本曲輪と同規模です。西側に大土塁が並び南北に2分割に成っており間が本曲輪との堀切に架かる木橋跡?であったと23日の歴史シンポジウム加藤理事の講演。縄張図に本曲輪と二の曲輪間北部に虎口の表示が有り、北の曲輪尾根筋と東の尾根筋の谷筋が往時の大手道と記されている、本曲輪と二の曲輪間の堀切北が大手虎口の様です。
 二の曲輪の中間点に堀切、竪堀が有り、南に虎口がある、土橋で二の曲輪東部へ、東の尾根筋、南の尾根筋に小曲輪が尾根上、斜面上に並んでいる。東部、下部の小曲輪には樹木も茂って居り踏み込んで居ません。社山城全体に樹木、草木が茂って鬱蒼としている。
 今回23日の歴史シンポジウムイベントで本曲輪北西部の一部樹木伐採が景観が開いた唯一の試みでした。今後の景観整備、登城路整備が益々待たれます。
 下城して西側の豊岡小学校西を流れる一雲済川西土手より社山城西部を眺める、磐田台地北端の隘路北の一本高い木が目立つ所が本曲輪です、一雲済川は信玄が遠州を西侵攻し磐田台地西側を北上して社山城を過ぎて在陣した合代嶋を流れて居り社山城から北へ約1km程で合代島です、現在豊岡中学校辺りが字名で「合代島」と成っています。グーグルマップをよくよく眺めても史跡マークで「合代島」は検出されません。
 23日の歴史シンポジウムで、御城印は集めていないし興味も無いのですが、磐田市の3城「社山城、中泉御殿、城之崎城」御城印3枚セット1,000円で販売して居ましたので募金と記念に購入しました。
 
 地理的に少し不便ですが車でのお越しがベターかと思います。磐田市文化財課も力を入れ始めていましたので少しずつですが環境整備も進むでしょう。
 社山城3編に渡って長らくご覧頂きありがとうございました。
   

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かずくん

特別公開 (2026/02/28 訪問)

昨日、攻城しました。

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チェブ

城びと未登録のお城攻め「斎藤氏館実盛塚」。 (2026/02/21 訪問)

埼玉県の熊谷市に小さく「斎藤氏館実盛塚」はありました。福川沿いの土手と住宅の畑の一角にあります。
車はUターン出来る位のスペースがありましたので、駐車し写真を写し退陣しました。

私は斎藤 実盛さんを存じ上げてなかったのですが、以外なところで出会います。
写真⑤の本の中に登場します。
この日のお城攻めのテーマが、この前まで読んでいた『足利兄弟』で活躍した新田 義貞さん縁の地巡り。
そして、図書館で『足利兄弟』を返却し、次に借りたのが『採薬使 佐平次』。
江戸時代、徳川 吉宗さんの頃のお話です。採薬使とは諸国を旅して薬草を採取、研究した方。
そして、文中に『実盛蟲』という不名誉な名前で登場しました。
西国では浮塵子(稲の害虫)を『実盛蟲』というんだとか。
源平合戦時、田圃で討死し稲を食い荒らす蟲に化身した、と、、、。
もう、斎藤 実盛さんがバッタにしか思えなくなりそうです。

実盛さんを改めて調べると、大蔵館の戦いで駒王丸(後の木曽 義仲さん)を保護し木曽に送り届けました。
月日が経ち篠原の戦いで、木曽 義仲さんに討たれました。

昨今の異常気象で、令和の米騒動と騒ぎましたが、誰のせいにもしたくないと思った「斎藤氏館実盛塚」攻めでした。

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todo94

長崎県離島の攻城 (2026/02/22 訪問)

陣笠城からの転戦です。朝田辰兵衛さんご推察の通り、肥前大島城の攻城目的で、平戸港を8:25に出港するフェリーで的山大島に渡りました。片道の運賃は660円です。的山(あづち)港から神浦(かんのうら)へはフェリー到着に合わせてマイクロバスが出ています。何の表示もない黒いワンボックスカーでしたが緑ナンバーが目印です。運賃は100円です。歩いてアプローチする予定だったのでだいぶ時間に余裕ができました。重要伝統的建造物群保存地区の神浦の街並みを楽しむことができてラッキーでした。肝心の城は、城山公園として整備されていて頂上に展望台が設けられています。石積は遺構なのですね。一応、写真は撮っておきました。11:20発のフェリーで平戸に戻りましたが、時間に余裕があったので、本土と橋でつながった最西端の地・戸屋久と最西端のみなとまち・宮ノ浦まで足を伸ばしてしまいました。平戸島の大きさ、奥深さをいやというほど味わう事になりました。

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ぴーかる

後山城 (2026/01/24 訪問)

【後山城】
<駐車場他>小山公民館に駐車しました。
<交通手段>車

<見所>石積み
<感想>1泊2日紀伊半島1周、山城攻略旅2城目。現地説明板によると後山城は13~14世紀頃この地方の一名家である木本盛房が築いたのがはじまりで、のちに豊浦左衛門が屋敷を構えたといわれています。
 城跡は麓屋敷跡で山に入るとすぐに遺構があります。山からの小川に沿って、巨石が沢山あるのでその巨石を積んで石垣が残っています。城跡範囲はそんなに広くなく、防御の遺構も見当たらなかったので、麓居館跡といった感じでした。水門跡見落としました。東側隣の小川焼窯跡の空き地が有料500円もとる駐車場になっていたので、よそ者の駐車に文句言われてトラブルになるのも嫌なので早々に撤収しました。

<満足度>◆◆◇

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天守の風景に誘われて (2026/02/28 訪問)

 今年2回目の登城です。登城予定はなかったのですが、近くまで来て犬山城の天守を遠くから見ていたら、今回も引き寄せられるように登城しました。ヒロケンさんの投稿に2026年3月から拝観料が値上がりすると書いてあったことを思い出し、値上げ前に登城できてよかったと思いました。好きな城なのでもちろん値上げ後も登城するつもりでいます。土曜日はやはり混んでいましたね。

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