寒霞渓の嶮岨山にあります。星ヶ城があるので星ヶ城山と今ではなっているそうです。お城感はあまりないです。
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2025/03/26 12:58
#36 方士城 (2025/03/22 訪問)
寒霞渓の嶮岨山にあります。星ヶ城があるので星ヶ城山と今ではなっているそうです。お城感はあまりないです。
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2025/03/26 10:17
【対馬4城を巡る】(1)清水山城(1/2) (2025/03/22 訪問)
対馬にある4城を訪れてきました。まずは(1城目)清水山城から始めたいと思います。またよろしくお願いします。
博多港からジェットフォイルで135分、下対馬の厳原港に到着です。港からまず清水山城を見上げました。二ノ丸、三ノ丸の石垣がよく見えます(写真①②)。次に港から徒歩10分の「観光情報館ふれあい処つしま」に行き、清水山城と金田城の縄張り図などのパンフレットなどを頂きました(写真③⑩)。ここには金田城のスタンプもありました(金田城に行かなくても押せました)。でも明日ちゃんと登城しますのでお許しを!(笑)
観光情報館の目の前にあるショッピングセンター入口前に大きなコインロッカーがあるので荷物はそこに預けるか、東横インホテルもすぐ前にあるので、宿泊される方は先に預けてから登城されたらいいかと思います。コインロッカーは外(24H可)なので、昌官忠さんは10kgも背負って登らなくても、ここにあったのになあ・・・と思いました。
清水山城は、厳原町の標高208mの清水山の尾根沿いに、山上に一ノ丸・中腹に二ノ丸・下段に三ノ丸と段々と斜面を沿うように配置され、東西長さ500m高低差120mの二つの石垣(20m幅の曲輪を二つの登り石垣が囲む)で築かれていました。
秀吉は軍監の毛利高政(角牟礼城主)に命じて築かせたとされています。しかし近年では、宗義智(対馬金石城主)を中心に、相良長毎(肥後人吉城主)・高橋直次(筑後三池城主で立花宗茂の実弟)・筑紫広門(八女福島城主)らが加勢して築いたのではないかという説が有力なようです。そして築城後は兵站基地として使用し、いずれ秀吉自身が朝鮮へ渡る時の御座所にしようと考えていたようですが、秀吉死後に朝鮮から撤退後、すぐに廃城となったようです。
観光情報館の斜め前にある対馬博物館の脇から登山道があるので、道標に従い登って行きました(写真④)。約15分で三ノ丸に着きました。石垣が平坦に削られた櫓台の跡があります(写真⑤)。石垣隅部は複数方向へ攻撃できるよう突出した石垣になっています(写真⑥)。ベンチがあったのでまず一息休憩すると、厳原の街並みと厳原港がすでにもうここからよく見えました(写真⑧)。この日は天気がよく心地いい潮風も吹いていたので、とても気持ちよかったです。
ここから二ノ丸・一ノ丸を目指して、さらに登って行こうと思います(写真⑨)。
(2/2)へ続きます。
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2025/03/26 08:22
麒麟がくる紀行(本能寺の変)
(続き)
明智光秀が安土城で徳川家康の饗応に務めていたところに備中高松城包囲中の羽柴秀吉から援軍要請があり、織田信長は自ら出陣することを決断するとともに、光秀の饗応役の任を解いて援軍の先陣を命じました。坂本城に戻って出陣の準備を整えた光秀は亀山城に入り、愛宕権現に参籠しておみくじを引き、里村紹巴らを招いて「ときは今 あめが下しる 五月かな」の発句で知られる連歌の会(愛宕百韻)を開催しました。この愛宕権現は通説では京都市右京区の総本宮 愛宕神社(未訪)を指しますが、京都府亀岡市の元愛宕とも呼ばれる愛宕神社だとする説もあるようです。また、本能寺の変に先立って谷性寺(亀岡市)本尊の不動明王に「一殺多生の降魔の剣を授け給え」と誓願したとも伝わります。
そして光秀は1万3千の軍勢を率いて亀山城を出陣します。目指すは…信長の宿所・本能寺!! 足利高氏の旗挙げの地として知られる篠村八幡宮(亀岡市)で戦勝祈願し、山陰道の老ノ坂越で本能寺(京都市中京区)に向かったとされますが、1万を超える大軍でもあり、唐櫃越や明智越の3ルートに分かれて進軍したとも云われます。また、摂丹街道の法貴峠にある屏風岩は、摂津に向かうと見せかけて進軍してきた光秀が、この地で引き返して本能寺に向かったと伝わることから明智戻り岩と呼ばれています(丹波攻めの際、屏風岩に行く手を阻まれて(又はこの先に敵はいないと報告を受けて)引き返した、とも云われます)。
明けて天正10年6月2日、本能寺を包囲した明智軍に攻めかかられ、信長自身も弓に槍にと応戦するも炎に包まれる御殿の奥で自刃しました。本能寺跡は高校と福祉施設になっていて西側と北東隅に石碑が建てられているのみです。焼失した本能寺は秀吉により東北東1.4kmの位置に再建され、信長公廟や本能寺の変での戦没者の合祀墓が設けられています。また、本能寺近くの妙覚寺に逗留していた織田信忠は、本能寺の変の報を受けて二条御新造(二条御池城・京都市中京区)に籠城するも奮戦及ばず自刃。二条御池城も遺構は消滅していますが、室町通と両替町通に石碑が建てられています。
かくして光秀は信長・信忠ともに討ち果たし、天下を手中にするに至りました(続く)。
ところで本題からは外れますが、本能寺の変の動機や原因は日本史最大の謎とも云われ、研究者のみならず作家や歴史好きから様々な説が提唱されていますが、諸説ある 中で、私は「光秀単独犯」による「不安説」を採りたいと思います。
こうして麒麟がくる紀行をまとめ直す上で、改めて光秀の生涯を追いかけてみて一番驚いたのは、丹波攻めの最中もあちこちの合戦に駆り出されていること。そのせいでせっかく攻略した城を奪い返されたり、元上司(足利義昭)から妨害工作されたり、過労で倒れたり、不遇な頃から献身的に支えてくれた妻を亡くしたり、心身ともに大変な思いをして丹波平定を成し遂げても安息の日は訪れず、次は中国攻め、四国攻め、さらには九州攻め…と続いていくのだとしたら、決して若くはない光秀がこの先も信長の求める結果を出し続けられるか不安に駆られても無理からぬことだと思いますし、結果を出せなくなれば過去にどれほどの功績があろうと佐久間信盛らのように切り捨てられるのは明白とあっては心が休まるはずもありません。本能寺の変の直前の光秀がことさらに信長を称揚する言動をしているのも、「今の自分があるのは全て信長さまのおかげなんだから、余計なことは考えずひたすら信長さまのために働けばいいんだ」と自分に言い聞かせていないと不安に押しつぶされてしまいそうだからとしか思えません。さらに長宗我部への対応では秀吉に出し抜かれてメンツを失い、織田家中での地位にも不安を覚えるようになってきたところに降ってわいたような好機……! 各方面軍はそれぞれ京を遠く離れ、京には信長と信忠がわずかな供回りで滞在しているのみ。
「…ああそうか、この二人を討ち取ればもう不安に苛まれずに済むんだ…」
採るべき道が定まれば実行面においては水も漏らさぬ布陣で見事に二人を討ち取るも、そもそもが周到に計画された犯行ではなかったため、実行の後に様々な齟齬をきたして…というところじゃないでしょうか。光秀ほどの人物が周到に計画していればもっと違った展開になったはずだとも思いますし。何ら具体的な根拠に基づく考えではありませんが、自分が光秀の立場に置かれたらそんな感じになるかなぁ…ということで。もっとも私には光秀のような能力はないので、謀反を起こしても信長を取り逃がしてしまいそうですが(笑)
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2025/03/26 07:19
献血前の攻城③ (2025/03/15 訪問)
海老ヶ島城からの転戦です。未訪の湯崎城に向かうのに、最短距離の真壁城近くを通るのは山越えがあってちょっと時間がかかりそうだったので、北関東道を利用しました。友部インターで降りたところ、近くに宍戸陣屋の移築表門があったので、立ち寄った次第です。2年前にこの表門は見そこなってしまっていたので、漸く本懐を遂げることができました。
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2025/03/26 00:23
お返事ありがとうございます。
あさん、お返事ありがとうございます。
豊臣期の石垣です。
大坂城、まだまだ見てみたいところがたくさんあるのですが、地理も鉄道網も難しくて単独ではスイスイとまわれません💦
滋賀の山城は八幡山城でしょうか?
ロープウェイと反対側?
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2025/03/25 22:43
にのまるさん、お祝クイズをありがとうございます。 (2025/03/20 訪問)
豊臣時代の石垣ですね。それ以上は調べました。三の丸京橋口の石垣を発掘、移設復元したものなんですね。知りませんでした。
大阪城豊臣石垣館の先行内覧会にも行かれたのではないですか。太閤なにわの夢募金に寄付した人の特典とか。
お返しに、滋賀の山城の写真を添付します。県外から来られた方は、こちらの方角からは、眺めることはなかなかないのではないでしょうか。木が伐採されて、麓からも石垣が見えるようになりました。
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2025/03/25 21:28
御三家のお城 (2025/03/25 訪問)
お休みを取っていたけど用事が無くなったので日帰りで行ける水戸へ行ってきました まずはバスに乗り徳川斉昭公が造った兼六園へ 梅はほとんど散ってましたが美しい庭園でした(でもやっぱり咲いている時期に行きたい) 水戸駅へ戻り昼食を取りいざ水戸城の散策へ 駅を出て左側に行きまずは水戸警察署を目指します 途中の小学校も門が冠木門だったり白壁だったりと雰囲気が良いです そして三の丸の空堀と土塁へ とても良く残っていて見ていて楽しいです 先に進み東武館の前を右へ 復元された北柵御門 鹿島神社にお参りしながら弘道館へ勤王精神の生まれた場所 ここから尊皇攘夷の理念が全国へ広がったのですね 光圀公がはじめた大日本史の展示など興味深く 最後の将軍慶喜もここで学んだと思うと感慨深いです 弘道館を出て大手門へ 大手橋の下は堀切を利用した道路 深いなぁ 復元された大手門も素晴らしいです そこから復元された二の丸角櫓へ 中を見学できます 格子からの景観はちょっと残念かな〜 もとの道に戻り白壁に沿って歩いて杉山門を通って薬医門へ 橋の下は堀切を利用した線路 ここも深い! 現存の薬医門は高校の敷地の中にあります 春休みなので生徒さんはあまりいませんでしたがお邪魔しないように写真撮らせて頂きました 電車の時間が迫っていたので写真撮りつつ早歩きで駅へ 駅前ロータリーからも二の丸角櫓が見えます 黄門様の像を眺めてお土産買って 電車に乗り込みました 水戸城周り巡って弘道館見学して2時間位でした
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2025/03/25 21:15
本丸の堀が残る。 (2024/09/17 訪問)
浜崎館は日橋川の南に位地し、県道326が城址の中央を通っています。城東稲荷神社の周辺に本丸の堀が残っていますが、立入禁止とあるので周囲から眺めるに留まっています。観応3年(1352)に三浦若狭守(芦名直盛?)が真壁政幹の代官・薄景教らを率いて河沼郡の合川・浜崎城・蜷河庄政所館を攻めていることが「真壁文書」に記載されているので、そのころには既に存在していたようです(現地案内板より)。
現在の浜崎城跡は慶長6年(1601)蒲生秀行の家臣・蒲生主計介郷貞が水害を避け移した浜崎城跡を指しています。
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2025/03/25 20:19
采女城 (2025/01/18 訪問)
【采女城】
<駐車場他>駐車場はなし。<34.929929,136.573471>のポイントが橋の交差の待避所になっていて、2台程駐車できる。
<交通手段>車
<見所>横堀・曲輪・切岸
<感想>現地の由来書き板によると采女城は、1260年三重郡の地頭となった後藤基秀がこの采女山に築城したのが始まりとされます。以来三百有余年後藤氏が続きますが、1568年に織田信長によって落城します。
城跡は大きく9つの曲輪に分けられていて、各曲輪は周囲を横堀で囲んで単体で独立した曲輪構造になっています。7郭は6郭の下段、9郭は斜面の削平地で横堀は備えていないが、それ以外の郭は深い横堀と郭は土居で囲んでいて、ひとつひとつの郭を見て巡るのが非常に楽しかった。登城口から少し登ると、正面に虎口郭が立ち塞がっています。虎口郭から右方向の堀底道を進むと8郭、左方向に進むと5郭に行きます。5郭南側の横堀を降り渡ると6・7郭に行けます。主郭の奥に2・3郭があり、3郭西側堀切を渡り4郭があります。3・4郭の南側が谷になっていて谷底郭になっていた様子で所々段が残っています。4郭の西側がスロープ状の斜面を降りて行くと小さな9郭の削平地があります。
こういう城郭構造は近畿(三重県だけど、もう近畿に入れちゃえ!)には珍しく、後日談になりますが、埼玉県の比企城跡群の1つ、武蔵松山城と非常によく似ていて、武蔵松山城に行った時にこの城跡がフラッシュバックしました。築城年代と場所と築城者が全然違えど、似た城郭構造のお城もあるもんだと感心しました。見応えある城跡です。
<満足度>◆◆◆
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2025/03/25 20:13
日枝神社が西城跡 (2024/09/17 訪問)
青山城は鎌倉時代初期の関東武士・佐原十郎義連の孫、五郎左衛門尉盛時の子孫の佐原氏(加納殿)の居館が有ったとされています。かつては東城と西代があったとされますが、現在確認できるのは西城のみで、日枝神社の一帯に築かれていたようです。
日枝神社の置かれた丘陵の頂部が、物見台で、周囲にも郭がありますが、確かにこの時期は藪がきつくて散策には向いていません。北と南に郭があり、土塁が残されているようです。
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2025/03/25 19:54
壮大な土の城 (2025/03/15 訪問)
新府城は武田勝頼が長篠の合戦に大敗した後の天正9年に築いた城です。西は七里岩の断崖絶壁で北と東には堀を配しいています。大手は南に付きますが、三日月堀や丸馬出、枡形虎口に小型の枡形などが複合して防御力を高めています。見ていて、一番テンションが上がるのが、この南側の遺構です。本丸は非常に広く、この新府城の特徴ともいえる部分です。
本丸以外にも二の丸・馬出・東三の丸・西三の丸などの曲輪を備えていて防御力も高いです。北側が搦め手になりますが、堀を迂回して攻め込んで来る敵を東と西の鉄砲出構が迎え撃ちます。矢もビュンビュン飛んで来るので乾門までたどり着くのは困難だと思います。
甲州流築城術の集大成とも言える城ですが、天正壬午の乱の際に徳川家康が本陣を敷いたとされるので・・微妙に嫌な予感が・・
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2025/03/25 19:47
大河原氏城 (2025/01/18 訪問)
【大河原氏城】
<駐車場他>うぐい川公園駐車場
<交通手段>車
<感想>先達の投稿からここは私有地?の山なようなので、憚られました。入り口正面の写真を撮影して終了しました。おまけで行ったポチさせてもらいます。m(_ _)m
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2025/03/25 18:51
2019.12.27登城 (2019/12/27 訪問)
島田市北部の山間部にある石上地区に石上城址があります。
城址は市の史跡に指定されていますので、整備がされており、問題なく散策できます。
遺構としては、小規模ながら郭跡や堀切などの遺構が確認できます。
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2025/03/25 18:41
どの季節においても,一長一短を感じる城…🏰 (2025/03/15 訪問)
三の丸は雪が深くかなり緩かったため,私が歩くことで全層雪崩を誘発する危険を感じました。土塁の下を右に行くと井戸があるハズでしたが,突入を断念しました。
ただ,本丸~二の丸間の堀切を撮影するには,ベストシーズンだったと思います。他の方の投稿を拝見しても,かなり厳しい季節に攻城されたようで,イイ画像はなかったように思います。
天守台背後下に物見のような曲輪がありましたが,ここも私が歩くことで全層雪崩を誘発する危険を感じました。
どの季節においても,一長一短を感じる城だと思いました…。
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2025/03/25 18:38
城びと未登録のお城攻め「内守谷城」 (2025/03/01 訪問)
前回、投稿した「弘経寺」から、欲を出して「内守谷城」へ転戦。
こちらは、どなたがいつ頃に築城したのかは不明です。
単純に名前から「守谷城」と関係があるのかもしれませんが、位置的には「菅生城」が近いです。
車では不向きな道路が続きます。細いしアスファルトはヒビだらけ。これはJAFが助けに来れないレベルです。
ナビの案内では曲がれと指示しますが、側溝に落ちそうです。
ぐるっと大回りして「内守谷城」に到着。
『香取神社』がありました。
遺構等は分かりません。雰囲気は、あります。
新しい赤いニット帽を目深にかぶった大黒様がいらっしゃいます。
誰のお城かは分かりませんが、近隣の方々が大切にされているのが分かった「内守谷城」攻めでした。
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2025/03/25 17:59
続々・『城めぐりのきっかけ』告白リレー
ヒロケンさん、とある煩悩の登城目録さん、『城めぐりのきっかけ』告白リレーへのご参加ありがとうございます。ほんの思いつきからこうして皆さまのお話を伺えて、ありがたいやら自らを省みてお恥ずかしいやらですが…。
ヒロケンさん
人生というのはいろんな人や物事との出会いによって紡がれていくものなんだなぁ、と改めて。ヒロケンさんを城めぐりに導いた先輩が早逝されたことは言うべき言葉もありませんが、自分のことを忘れずにこうして城めぐりを続けていてくれることは、きっと喜んでおられますよね。私もヒロケンさんの先輩のように、死後も誰かに思い返してもらえるような人との関わり方をしていきたいものです(城めぐりに限らず)。
とある煩悩の登城目録さん
やっぱり100名城スタンプラリーの影響力は大きいんだなー、と。最初は何となくだったとしても、小谷城のような名城に出会ってスイッチが入るきっかけになるという意味でも。そしてさらにハマれば(続)100名城に限らず、城びと登録城にも限らずに行くようになる……全くもって共感しかありません。とある煩悩の登城目録さんの投稿を拝見して小谷城にもまた行きたくなりましたし、良い城には何度でも再訪したいですよね。
ところで…
あさん、遅ればせながら大阪・京都コンプリートおめでとうございます。滋賀と奈良はコンプ済み、兵庫もリーチとなると近畿で残すは和歌山のみですね。先日、和歌山の未投稿4城は県民としての責務、などと申しましたが、あれは「オレの獲物だ、手出し無用」という趣旨ではなく「和歌山中南部の人跡未踏の城に県外から来てもらうのも申し訳ないしなぁ…」というようなものなので、行こうというお気持ちがあれば、どうぞ気兼ねなく一番槍つけちゃって下さい。
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2025/03/25 17:40
残雪の若桜鬼ヶ城 (2025/03/09 訪問)
鳥取からJR因美線とバスを乗り継いで若桜町に着く。
若桜町観光案内所で荷物を預け、若桜鬼ヶ城の情報を収集すると、まだ雪が残っていて登城は危険なのでおすすめはできない、登るなら自己責任でお願いしますとのこと。
冬眠から早起きしたクマと出会うと嫌なので、持ってくるのを忘れた熊鈴を借りて登城する。
八幡広場登山口から登るも登り出しから思った以上に雪が残り、踏み抜くと膝下までイボる。
予想外の雪山登山となったが、山頂の本丸からの眺望は素晴らしい。下山は六角石垣を見て周回、町民体育館登山口に下山する。
スタンプが置いてある観光案内所の方はとても親切で登城前にぜひ立ち寄ることをお勧めする。
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2025/03/25 17:32
鳥取城探訪 (2025/03/08 訪問)
わかさ氷ノ山スキーと兼ねた山城探訪。
鳥取駅から100円循環バス「くる梨」緑コースで仁風閣で下車。
北の御門跡から入り、西坂下御門→三階櫓跡を経由して、まず山上ノ丸(久松山山頂)を目指す。仁風閣前から約30分で山頂。
天守跡からは鳥取市街や鳥取砂丘を遠望できる。
東坂の上城門跡、登石垣を見て下山。
山麓の山下ノ丸で天球丸→巻石垣→太鼓御門跡→復元工事中の中ノ御門→西坂下御門→二ノ丸登石垣→三階櫓跡と見てまわる。
仁風閣は保存修理のため長期休館中でガイダンス施設「鳥取城・仁風閣展示館」にスタンプがある。
探訪後、鳥取砂丘に向かい、砂丘を散策する。
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2025/03/25 16:44
2019.11.14登城 (2019/11/14 訪問)
野崎駅の西側にある三箇菅原神社が三箇城址となります。
遺構は残っていませんが、城址の石碑が設置されています。また、三箇神社の解説板に三箇城についても触れられています。
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