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但馬富士 (2026/03/20 訪問)

 但馬富士と呼ばれる標高約201mの三開山にある城址です。主郭を中心に三方に延びる尾根に曲輪を連郭式に配置しています。曲輪周囲には多くの竪堀があり東側には二条の堀切がありました。ただ浅くなって見づらくなっているものもあります。縄張り図で畝状空堀群が描かれています。その場所を見ると雰囲気は残していますが、落ち葉の堆積もありよくわかりません。北側を少し下りた所には瑞宝寺趾、千畳敷といわれる居館跡、水の手などがあります。千畳敷周囲には石積みがあるとの情報があり、それらしき所を撮影しました。
 登城路はいくつかありますが、自分は瑞峰寺よりのルートを利用しました。尾根道と谷を通るルートがありますが、どちらも整備されていて比較的歩きやすい登城路です。早朝から登城開始したこともあり、主郭に着くころまでは霧が出ていて霧の中の散策となりました。途中から視界がよくなり下山を始めた頃には霧はなくなっていました。

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小出吉英 (2026/03/19 訪問)

 慶長9年(1604年)、小出吉英によって有子山の麓に築城されました。隅櫓、登城門、登城橋が復元されています。近くまで来たので久しぶりに寄ってきました。野面積みの石垣が魅力的な城址です。
 有子山城には時間の関係もあり今回は行っていません。

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太田昌明 (2026/03/19 訪問)

 太田集落北側の丘陵にあり丹後宮津から出石に抜ける街道を押される要衝に築かれた城です。鎌倉時代の太田昌明の居城と伝わります。
 丘陵のほぼ中央になる堀切を挟んで標高165mの東の城域と標高172mに位置する西の城域からなっています。西側の主要な郭近くにある大堀切は圧巻で、周辺には畝状空堀群を見ることができます。期待以上の遺構でした。ただ、この日は雨の影響で堆積した落ち葉と水分をたっぷり含んだ土の影響で滑りやすく散策に難渋しました。

 JR豊岡駅前よりバスに乗り、出石バス停で乗り継いで太田バス停下車。バス停から徒歩1分くらいで登城口に行くことができます。獣除けの柵を開けて(もちろん閉めて)登城します。登城路は倒竹などあり思っていた以上に荒れていました。よく見ると登城路と思われる坂道などがあるのですが、すぐにはわかりません。この日は登城時には雨が降っていて、先にも述べましたが落ち葉の堆積した足元はかなり滑りやすい状態でした。西城の大空堀近くの斜面を移動しているときに滑って転倒してしまいました。撮影した写真も雨と足元を気にしてぶれていたのが多かった。晴れた日に来たかったですね。

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チェブ

城びと未登録のお城攻め「村田氏館」「田代三喜生誕地」。 (2026/01/17 訪問)

『お城を探す』の中「斎藤氏館」の近所に「村田氏館」があります。
毛呂山町平山地区にある「村田氏館」は住宅街の中。写真③④辺りのようですが、遺構かは分かりません。近くに『古宮神社宮殿遺跡』の碑があり、そちらに村田氏のお名前を探しましたが見当たりません。
住宅街だったので早々に退陣しました。

そして、「田代三喜生誕地」へ。
こちらは毛呂山町から越生町へ移動します。
越生町古池の民家の角にピカピカの石碑がありました。
田代 三喜さんは医師、曲直瀬 道三さんのお師匠さんです。『曲直瀬 道三 乱世を医やす人』を読み、田代 三喜さんを知りました。
曲直瀬 道三さんは、三好 長慶さんや松永 久秀さん、毛利 元就さん他たくさんの先人たちの診療をしました。
田代 三喜さんと曲直瀬 道三さんは『足利学校』近くで出会います。

私は本やTVで、先人の活躍を知ります。著者の描き方、ドラマの作り方でイメージが決まってしまいます。
でも、いろんな縁の地を巡る事で、オリジナルの人物が出来上がってきます。
今日飲んだ花粉症の薬も、もともとは先人の知恵から出来た薬。
先人のおかげで今日の私が元気なんだと思った「田代三喜生誕地」訪問でした。

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土塁のボリュームも素敵です。 (2026/03/16 訪問)

 イオさん、平須賀城登城報告をありがとうございます。私が登城したときは、地元の方による、登城ルートの確保が済んだところで、その後すぐに、城域の草刈りがなされたのですね。私、副業でお庭の手入れ請負をしており、背丈を超えるススキ群を草刈り機で10m四方くらい刈り取ったことがありますが、ススキが高く太くなると手ごわく、なかなか大変でした。平須賀城のあの広い面積かつ斜面含みを刈りきるのは、かなり大勢が根気を詰めて取り組んだものと推定します。本当にありがたいことです。
 そして、前田慶次殿、長らくの連載をご苦労様でした。くふうがある、くせ強の記事を楽しく拝見しておりました。改めて、感謝申し上げます。
 さて、小丸城です。本丸の石垣や石組み登城口は素晴らしいですが、土塁や郭のなごりの微高地も良いですね。本丸を囲むように二の丸があって、常安楽院の西裏の北西隅の土塁の高まりが櫓台と見受けました。説明板には、「本丸、二の丸、三の丸と隅櫓の遺構がよく残されている」とあって、隅櫓がどの郭にあったのか判然としませんが、きっと、常安楽院裏の北西隅が隅櫓跡と思います。三の丸が、野々宮廃寺あたりではないかと思います。二の丸には、ふきのとうやつくしが生えており、春の訪れがやや遅いのだなあと感じました。

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ヒロケン

総石垣の平山城 (2026/03/14 訪問)

新宮城は紀伊の南東端、熊野川河口南岸にある丹鶴山と呼ばれる独立丘陵上(標高約60m)に築かれた総石垣の近世城郭で丘陵東部に本丸があり、熊野灘沖を行き来する船を監視することができた。
切り込み接ぎの高石垣で築かれた本丸は北東隅に天守台(昭和27年の台風接近の大雨の影響で一部の石垣が崩落)、北東隅に埋門の搦め手門があります。鐘ノ丸の石垣は、完成度の高い石積みで構成された曲輪で、水野氏が浅野氏築城の二の丸を麓に移して配置した曲輪です。出丸は発掘調査で出丸側から橋脚の礎石が見つかり、橋で本丸と結ばれていたとの事です。
水の手曲輪は熊野川に接した舟入石垣の遺構が残り、発掘調査の後整備されて公開されています。松ノ丸に通ずる石段の坂道も整備されており通行することが出来ます。

7年ぶり4度目の訪問で、何度訪れても切り込み接ぎ、打ち込み接ぎ、野面積みの石垣を堪能することが出来、石垣好きにはたまらない城跡の一つです。5台程停められる駐車場、トイレも完備されています。また、大手門、駐車場脇に新宮城跡散策マップも置いてあり見どころを見逃す心配もありません。

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ぴーかる

ミカン畑の山頂に (2026/01/25 訪問)

【衣笠城】
<駐車場他>城跡まで車で上がれないことはないです。道が狭いので途中に墓地があるので墓地の駐車場(3台分程)に停めて徒歩がいい。
<交通手段>堀切

<見所>曲輪
<感想>1泊2日紀伊半島1周、山城攻略旅11城目。現地説明板によると衣笠城は鎌倉時代に愛州氏によって築城されたとされます。また畠山氏が守護を務めた紀伊国において応仁・文明の乱で衣笠城は激戦地になったとされています。
 城跡は主郭を中心に西下段に副郭があり、主郭の北側と東側にかけて広い帯曲輪があります。さらに北東側に竪堀が1条あります。副郭の西側に堀切があり遮断しています。主郭から南側を通って南西面は車両道が改変されていて、南西側にミカン畑の作業小屋がありこの辺一帯は城跡の一部であれば改変されているかもしれません。

<満足度>◆◆◇

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HKISD

南関城散策 (2026/03/20 訪問)

豊前街道お茶屋を抜けて南関城へ駐車場は3台ほど停めれるトイレある駐車場に
お茶屋を抜けて登山口に本丸までは道が分からず断念しました。

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HKISD

大間城跡 (2026/03/20 訪問)

跡地は神社になっていて公民館がありました。
近くに駐車スペースがない為50mm先に停める場所があったのでそこに停めて散策しました。

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にのまる

奥山荘城館群の中心 (2025/12/08 訪問)

水堀、土塁、折れ虎口、馬出状の曲輪。
静寂の中で東国荘園の方形居館の歴史を肌で感じることができました。

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トク

秀吉時代に博多の街を復興させた男「神屋宗湛」 (2026/03/20 訪問)

大友宗麟の生涯を追う話からちょっと脱線して、秀吉時代に博多の街を復興させた男の話を、少しさせて頂こうと思います。

博多の街は過去4度、焼き討ちに会ったとされています。

① 度目は、元寇の時です。1274年文永の役で博多湾に上陸した蒙古軍は、まず博多の街を焼き払い、住民を虐殺して行きました。
② 度目は、前回お話しした1569年の多々良川の戦いの最中です。立花城を制圧した毛利軍でしたが、大友の軍勢に囲まれてしまったため、小早川隆景は敵の背後の博多の街を焼払い、大友軍を混乱させました。
③ 度目は、1587年島津軍北上の時です。島津軍は立花城に籠る立花宗茂を攻めますが、その最中に博多の街をも焼き払いました。
④ 度目は、1945年太平洋戦争の福岡空襲で焼け野原になりました。

③度目の直後、九州征伐を終えた豊臣秀吉は薩摩から大坂へ帰る途中、島津軍によって焼け野原と化した博多の街を見て唖然としたそうです。そこで博多に20日間滞在し自ら町割りを考え、それを「黒田官兵衛」と博多の豪商で千利休とも親交のある茶人「神屋宗湛」に特権を与えて託し、復興を命じたそうです。その時の区画整理が「太閤町割り」として現在も残っています。そしてこの町割りの単位が、今でも博多祇園山笠の流れの単位となっているそうです。

神屋宗湛は、そのおかげで博多の街が復興できた事に大変感謝し、朝鮮出兵の際には名護屋城へ出向き、秀吉にお礼として「黄金の茶室」を献上したそうです。そして名護屋城で茶会を開き、秀吉や諸大名に茶を点ててもてなしたとか。

現在、宗湛の屋敷があったとされる博多区奈良屋町の跡地には、秀吉を祀る「豊国神社」が建ち、奈良屋町は博多祇園山笠(追い山)の終点になっています。
 

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イオ

山城めぐりができるのは… (2026/03/15 訪問)

(続き)

東尾根から主郭部東面の帯曲輪や腰曲輪を通り過ぎて一気に最高所の主郭へ。主郭のススキは刈られていますが、それはあ さんの主郭の三角点の写真で想定のうち。主郭からは南部平野から南部湾までが一望でき、南部支配の拠点であることを実感します。そして主郭から北側を見下ろすと広がるススキの大草原……じゃない!? 大草原どころか立っているススキは一本もなく、全て綺麗に刈られて足元に敷き詰められています。あ さんの登城からわずか半月でまさかこんなことになっていようとは。

主郭部は南端最高所の主郭から北方向に四段の曲輪を連ね、東面と西面に帯曲輪や腰曲輪をめぐらせています。発掘調査が実施された際に伐採されたのか四段の曲輪に立木はなく(だからこそススキが伸び盛る)、足元に積まれたススキで堀や土塁がわかりづらくなっている点はあるものの、曲輪の形状や切岸の鋭さは一目瞭然。四段の曲輪の下段にも曲輪群があり、こちらも綺麗に刈られています。四段目の曲輪の切岸の下には横堀(城道?)がめぐり、主郭部下段の西辺には武者隠し状の土塁が見られました。

正直なところ、支尾根の遺構は見られても主郭部はススキの大草原と大草原内部の先が見通せない写真を撮って終わりかな、くらいに思っていましたので、嬉しい想定外でした。それにしても、敷き詰められたススキの量から考えても主郭部全域を刈りこむのは相当なご苦労だったでしょうし、ススキだけでなくイバラとも格闘しながらの作業だったはず、と考えるとただただ頭が下がる思いです。それも普通に登ってくるだけでも大変な急坂を草刈機を担いで…。放置すればあっという間にヤブに沈んでしまう山城をこうして維持整備して下さっている方々がいるからこそ山城めぐりができているんだということを改めて痛感した平須賀城でした。この場を借りて心より感謝申し上げます。

登城前の想定とずいぶん違った結果になりましたが、あ さんご依頼の「現状の写真」の投稿はとりあえず果たせたということでご容赦を。いずれまたススキに沈んでしまうのかもしれませんが、登城を検討しておられる方がいるなら、今がチャンスですよ!
 

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にのまる

江上館へ行く前に。 (2025/12/08 訪問)

周囲は新しい住宅地で、ここだけよく残ったなぁと思っていたら、開発前の発掘調査で屋敷跡が確認されたため、国史跡として後世に遺すことになったとのことでした。
すごいなぁ。。。

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チェブ

毛呂 季光! (2026/01/17 訪問)

2回目の「毛呂氏館」訪問です。
前回同様、長栄寺さんの駐車場をお借りします。
そして同様に供養塔に手を合わせ、裏山の山道に踏み入る事なく退陣しました。
写真④が毛呂氏館に続く道です。

次の目的地に向かう途中で信号待ちをしていると本屋さんがありました。そこには、手書きで『毛呂 季光』とありました。
毛呂 季光さん、気になります。
毛呂氏は源頼朝さんの重臣で、吾妻鏡にも出てきますが詳しい功績が分かっていないそうです。2代目以降、表舞台に登場しません。ずっと後の豊臣 秀吉さんの北条討伐で、毛呂氏は再度登場します。

『鎌倉殿の13人』には毛呂氏は登場しませんでした。『豊臣兄弟!』では出演するかなー?。
毛呂氏の功績をもっと調べようと思った「毛呂氏館」攻めでした。

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送りバント

20060505岡城(大分県竹田市) (2006/05/05 訪問)

竹田は亡き父の故郷で、岡城は小さな頃から何度も訪れている思い出の場所。ゆっくり時間をかけて堪能すべき素晴らしい城址

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送りバント

20190413角牟礼城(大分県玖珠郡玖珠町) (2019/04/13 訪問)

豊後森藩資料館で丁寧な説明をお聞きした後、まずはお城以上にお城らしい末廣神社を見学。特に御長坂、清水御門は角牟礼城訪問前に是非見ていただきたい。 その後、三の丸まで車移動し、見事に残る石垣を堪能

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イオ

まずは支尾根から (2026/03/15 訪問)

室町中期に守護・畠山氏の南部平野支配の拠点要害として築かれた城で、畠山氏に仕えた野辺氏が城主を務めましたが、戦国期に畠山氏内紛の中で野辺氏は没落し、湯川氏の勢力下になったようです。

激ヤブ状態の登城道に阻まれて2年あまり。その後、登城したという人はなかなか現れず、やはり自分で行ってみるしかないか、と思っていたところに、あ さんの登城レポートに勇気をもらって再挑戦しました。登城口から登って行くと、前回敗れ去ったシダとイバラの激ヤブはきれいさっぱり刈られていて、登城に何の支障もありません。あとは梅林の柵沿いにひたすら登って行くだけ…ではあるんですが、かなりの急坂で思ったより大変です。登城道がダメなら直登も辞さず、などと息巻いていましたが、直登せずに済んで良かった…。

登城口から約15分で北尾根の出曲輪に到達。北尾根を主郭部に向かうと鞍部の手前から西側に竪堀を落とし、鞍部の西辺には土塁が続いています。鞍部から少し登ったところに二重に堀切が設けられ、それぞれ両端で竪堀となって続いています。堀切西端の竪堀から西側には計6条の竪堀が連続し、先人の投稿では大いに見応えがありますが、現状は藪に覆われていて見づらい状態でした。連続竪堀の西端は西尾根を遮断する堀切になっていて、両端は竪堀となって落ちています。南端の竪堀の奥にも竪堀があり、こちらは主郭部からはるか下まで続いていました。西尾根の小曲輪群を探索した後は、北尾根付け根の堀切まで戻って東尾根に向かいます。

主郭部東面の踏み跡をたどって東尾根へ。東尾根の付け根は堀切と竪堀で断ち切り、東尾根にはいくつかの小曲輪が設けられています。眼下には南部川が流れ、こちらもかなりの急斜面です。なかなかの堅城ぶりですね。そして残るは主郭部のみ。主郭部は背丈より高いススキとイバラで覆い尽くされているそうなので、そんな中を往復はしたくないと先に支尾根の遺構をめぐりましたが、いよいよ覚悟を決めてススキの草原に突入するしかないようです(続く)。
 

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天守無しがアツい

エアボウ (2026/03/14 訪問)

善照寺砦から500mほどの場所にある城跡
と言っても城の遺構は全くなく…一言で言えばただの公園

今川義元が信長軍の奇襲に遭い、その首を取られた後も城主の岡部元信率いる今川軍はここ鳴海城を守り孤軍奮闘⚔️

しかし最終的には義元の首を受け取って降伏…城を明け渡したそう🏳️

あれから450年ほどが経ち…その地も今は公園
土曜にも関わらず誰もいない…子供もいない

なので園内を一人散策…遊具の上に登って城内から信長軍に向けて矢を放ち防戦する今川兵をイメージしながら…エアギターならぬエアボウ(矢を放つマネ)してみました🏹(笑)

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朝田 辰兵衛

栃木ラストは… (2026/02/23 訪問)

栃木ラストは,ミラーのような城址碑。表面はバッチリ回避できましたが,裏面はしっかり「うつっとるやんけ~!」。こんな曇りの日でも油断できないんですね…。誰か磨いているのかなぁ。
横田城,おそるべし。

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ぴーかる

龍松山城 (2026/01/25 訪問)

【龍松山城】
<駐車場他>城跡まで車で上がれます。
<交通手段>車

<見所>曲輪
<感想>1泊2日紀伊半島1周、山城攻略旅10城目。現地説明板によると龍松山城は南北朝時代から富田川流域で勢力を誇った室町幕府奉公衆の山本氏の居城である。また16世紀前半の守護畠山氏の分裂の戦乱にこの城が巻き込まれたとあります。
 城跡は広い主郭を中心に大きい腰曲輪として二郭、主郭の背後を三郭としています。二郭には虎口と周辺に石垣遺構が見られます。主郭には土塁が無い代わりに高い切岸を備えて下方は鉢巻き石垣になっていたようで、現地説明板の辺りに石垣遺構があります。主郭の東側の杉林に横堀・堀切があるようだが上から下へ降りる道が無く断念しました。主郭の西側の2の段と呼ばれる所はミカン畑に改変されていました。

<満足度>◆◆◇

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