豊後森藩資料館で丁寧な説明をお聞きした後、まずはお城以上にお城らしい末廣神社を見学。特に御長坂、清水御門は角牟礼城訪問前に是非見ていただきたい。 その後、三の丸まで車移動し、見事に残る石垣を堪能
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2026/03/20 15:25
20190413角牟礼城(大分県玖珠郡玖珠町) (2019/04/13 訪問)
豊後森藩資料館で丁寧な説明をお聞きした後、まずはお城以上にお城らしい末廣神社を見学。特に御長坂、清水御門は角牟礼城訪問前に是非見ていただきたい。 その後、三の丸まで車移動し、見事に残る石垣を堪能
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2026/03/20 08:45
まずは支尾根から (2026/03/15 訪問)
室町中期に守護・畠山氏の南部平野支配の拠点要害として築かれた城で、畠山氏に仕えた野辺氏が城主を務めましたが、戦国期に畠山氏内紛の中で野辺氏は没落し、湯川氏の勢力下になったようです。
激ヤブ状態の登城道に阻まれて2年あまり。その後、登城したという人はなかなか現れず、やはり自分で行ってみるしかないか、と思っていたところに、あ さんの登城レポートに勇気をもらって再挑戦しました。登城口から登って行くと、前回敗れ去ったシダとイバラの激ヤブはきれいさっぱり刈られていて、登城に何の支障もありません。あとは梅林の柵沿いにひたすら登って行くだけ…ではあるんですが、かなりの急坂で思ったより大変です。登城道がダメなら直登も辞さず、などと息巻いていましたが、直登せずに済んで良かった…。
登城口から約15分で北尾根の出曲輪に到達。北尾根を主郭部に向かうと鞍部の手前から西側に竪堀を落とし、鞍部の西辺には土塁が続いています。鞍部から少し登ったところに二重に堀切が設けられ、それぞれ両端で竪堀となって続いています。堀切西端の竪堀から西側には計6条の竪堀が連続し、先人の投稿では大いに見応えがありますが、現状は藪に覆われていて見づらい状態でした。連続竪堀の西端は西尾根を遮断する堀切になっていて、両端は竪堀となって落ちています。南端の竪堀の奥にも竪堀があり、こちらは主郭部からはるか下まで続いていました。西尾根の小曲輪群を探索した後は、北尾根付け根の堀切まで戻って東尾根に向かいます。
主郭部東面の踏み跡をたどって東尾根へ。東尾根の付け根は堀切と竪堀で断ち切り、東尾根にはいくつかの小曲輪が設けられています。眼下には南部川が流れ、こちらもかなりの急斜面です。なかなかの堅城ぶりですね。そして残るは主郭部のみ。主郭部は背丈より高いススキとイバラで覆い尽くされているそうなので、そんな中を往復はしたくないと先に支尾根の遺構をめぐりましたが、いよいよ覚悟を決めてススキの草原に突入するしかないようです(続く)。
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2026/03/20 00:09
エアボウ (2026/03/14 訪問)
善照寺砦から500mほどの場所にある城跡
と言っても城の遺構は全くなく…一言で言えばただの公園
今川義元が信長軍の奇襲に遭い、その首を取られた後も城主の岡部元信率いる今川軍はここ鳴海城を守り孤軍奮闘⚔️
しかし最終的には義元の首を受け取って降伏…城を明け渡したそう🏳️
あれから450年ほどが経ち…その地も今は公園
土曜にも関わらず誰もいない…子供もいない
なので園内を一人散策…遊具の上に登って城内から信長軍に向けて矢を放ち防戦する今川兵をイメージしながら…エアギターならぬエアボウ(矢を放つマネ)してみました🏹(笑)
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2026/03/19 21:21
栃木ラストは… (2026/02/23 訪問)
栃木ラストは,ミラーのような城址碑。表面はバッチリ回避できましたが,裏面はしっかり「うつっとるやんけ~!」。こんな曇りの日でも油断できないんですね…。誰か磨いているのかなぁ。
横田城,おそるべし。
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2026/03/19 20:59
龍松山城 (2026/01/25 訪問)
【龍松山城】
<駐車場他>城跡まで車で上がれます。
<交通手段>車
<見所>曲輪
<感想>1泊2日紀伊半島1周、山城攻略旅10城目。現地説明板によると龍松山城は南北朝時代から富田川流域で勢力を誇った室町幕府奉公衆の山本氏の居城である。また16世紀前半の守護畠山氏の分裂の戦乱にこの城が巻き込まれたとあります。
城跡は広い主郭を中心に大きい腰曲輪として二郭、主郭の背後を三郭としています。二郭には虎口と周辺に石垣遺構が見られます。主郭には土塁が無い代わりに高い切岸を備えて下方は鉢巻き石垣になっていたようで、現地説明板の辺りに石垣遺構があります。主郭の東側の杉林に横堀・堀切があるようだが上から下へ降りる道が無く断念しました。主郭の西側の2の段と呼ばれる所はミカン畑に改変されていました。
<満足度>◆◆◇
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2026/03/19 20:02
2026/03/19 19:07
2025.4.20登城 (2025/04/20 訪問)
北里大メディカルセンターの西側の荒川沿いの河岸段丘上に石戸城址があります。
現在、農地や宅地となっていますが、縄張図を見る限りほぼそのまま郭跡の区画が残っています。
また、東側の北本自然観察園との間には沼があり、北条氏邦が石戸城攻めの際に一夜で堤を作った伝承がある堤が残っています。
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2026/03/19 13:38
2025.4.20登城 (2025/04/20 訪問)
桶川北本ICの南側にある城山公園が三ツ木城址となります。
城山公園となっていますが、城址部分はあまり整備されていません。
明確な登城道が無く未整備の竹林になっていますが、城址広場から外側の土塁上に入ることができます。
未整備ということもあり、逆に立ち入る人もいない様なので、遺構として土塁や空堀が良好な状態で残っています。
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2026/03/19 11:14
漫画刊行イベント「夕雲の城 乱世の岐路」開催します!
漫画「夕雲の城」の続編、「乱世の岐路」を刊行します。
岐阜県立関高等学校の地域研究部の皆さんの調査、踏査協力を得て、続編が完成しました。
是非ご来場ください。
日時 : 2026年3月20日(祝) 午後1時~午後3時30分頃
場所 : タウンホールとみか 大ホール
★参加無料
★当日ロビーにてマンガ頒布 (1冊400円)
★歴史PRブースを開設
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2026/03/19 10:12
【大友宗麟】(6)多々良川の戦い(決戦!毛利VS大友) (2026/01/06 訪問)
大友宗麟、立花城からの続き(6)です。
今度は立花山の麓にある、名島城と多々良川を訪れました。名島城は、西鉄貝塚線「名島駅」から徒歩15分の所にあります。
名島城は多々良川の河口に位置し、1532年に立花鑑載が立花城の出城として築いたのが始まりとされています。その後、多々良川の戦いで負けた小早川隆景が、1587年豊臣秀吉の九州征伐後に筑前の国を賜り、立花城は山城で不便なため、海に面したこの名島城を総石垣造りの城に大改修して、小早川水軍の最前線基地にします。そして隆景は、ここから朝鮮(文禄の役)へ出兵しました。隆景死後は養子の小早川秀秋が入り、再び朝鮮(慶長の役)へ出兵します。しかしそこでの行いが秀吉の怒りを買い、越前北ノ庄へ左遷させられますが、秀吉死後に家康の計らいで再びこの名島城に復帰します。そして関ケ原へ! 関ケ原後に秀秋は岡山城へ移り、代わって中津から黒田官兵衛・長政父子がこの名島城に入ります。しかし手狭なため、新たに福岡城を築城し、名島城は一国一城令で廃城になったという歴史があるようです。
当時の遺構はほとんど残っていませんが、大手口であった場所にわずかな小早川隆景時代の石垣と(写真③④)、海岸には水軍基地の痕跡がありました(写真⑧)。そしてここにあった名島門と石垣の石は、黒田長政によって福岡城へ移されたようです(写真⑤)。
門司城の戦いの敗戦から何とか立て直した大友宗麟は、まず1569年毛利と通じ寝返っていた、秋月種実(古処山城主)・高橋鑑種(宝満山城主)・立花鑑載(立花城主)を討伐して筑前・筑後を再び平定し、家臣の結束を固めます。
その間、毛利元就は月山富田城で尼子氏と戦っていました。そして尼子義久を滅ぼすと、立花城を奪回すべく再び九州へ進軍します。吉川元春・小早川隆景の毛利全軍3万5千(70才になった毛利元就も長府まで出陣)、対する大友軍も、戸次鑑連・臼杵鑑速らの大友全軍4万(大友宗麟も高良山まで出陣)、計7万5千の大軍勢が、立花山の麓で名島城から上流の多々良川で対峙します。どちらも全軍で出陣しているので、両者ついに本気で雌雄を決しようとしていたのが分かります。
しかし半年間も睨み合いが続き、両者とも動きません(いや動けません)。小早川隆景と戸次鑑連の名軍師どうしがお互いを警戒し、門司城での失敗は繰り返すまいと知恵比べになったため、軽率には動けなかったものと推測されます。しかしここで、尼子家再興を目指した尼子勝久と山中鹿介が、月山富田城を攻めたとの報告が入ります。背後を突かれた毛利は、大友どころではなくなり、元就はあわてて全軍に撤退を指示、吉田郡山城へ戻るよう命じました。特に小早川隆景は筑前を手放す事に最後まで反対し、悔しがったようです。
これで宗麟は門司城までをも奪還し、毛利勢を九州から一掃できました。しかし再び毛利勢の侵攻や筑前の国衆の寝返りを恐れたのか、宗麟の命で重臣筆頭の戸次鑑連が立花道雪と改名し立花城に入ります。思えばこの道雪を遠ざけた宗麟の判断が、大友家の滅亡への始まりだったのかもしれません。そして道雪死後は、娘婿の宗茂が家督を継ぎ、立花城を島津の侵攻から守りきった事は、皆さんもよく御存知と思います。
私は、名島城から1.5km程上流にある名島橋まで行ってみました(写真⑨)。両者が対峙した場所は、国道3号・福岡都市高速・JR鹿児島本線・西鉄貝塚線などの橋や鉄橋がかかる、今では交通の大動脈に変わっていました。そして私は、ここから立花山を見上げてみました(写真⑩)。小早川隆景や立花道雪はどんな思いで、ここからあの立花山を見上げていたのでしょうか? 敵はどう仕掛けて来るのだろうか・・・? 名軍師同士、お互い牽制し合い、立花山を見上げながら、策を練っていたのではないでしょうか?
次は、この多々良川の戦い最中に宗麟が本陣を敷いた(高良山)に続きます。
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2026/03/19 10:00
2025.4.5登城 (2025/04/05 訪問)
丹沢湖最北部に第六天バンガロー跡地があり、中川城址となります。
現在、バンガローは営業していないため、道路は車両通行止めとなっていますが、駐車場に停めて徒歩で登城ができます。
真っ暗なトンネルを抜け、しばらく行くとバンガロー跡地で城址となりますが、立入禁止の立札があるため、郭内部の散策は困難ですが、道路沿いの主郭や櫓台は確認できます。
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2026/03/19 08:43
有馬温泉豊公めぐり (2025/09/13 訪問)
湯山館の再建のみならず慶長伏見地震で大きな被害を受けた有馬温泉の復興に尽力した豊臣秀吉は、有馬温泉において今なお顕彰されており、あちこちに見られるゆかりの地をめぐってみました。
温泉寺
行基が建立した古刹で、秀吉に同行した北政所が大火で焼失した薬師堂の再建費用を寄進しています。
愛宕山公園
公園北端に秀吉が愛用したとされる亀の手洗鉢(と説明板)がある…にはあるんですが、半ば草に埋もれて見えにくい上に「ひっつき虫」の巣窟で、両脚ともにびっしりとひっつき虫まみれになり、取るのに30分ほどを費やしてしまいました…。
瑞宝寺公園
明治に廃寺となった瑞宝寺跡が公園として整備され、紅葉の名所「日暮しの庭」には秀吉が囲んだとされる石の碁盤があり、旧瑞宝寺の山門は伏見城からの移築と伝わります。
茶人太閤像・ねねの像
有馬温泉駅から温泉街に向かう道中にあり、茶人姿の秀吉とねねが有馬川をはさんで見つめ合うように立てられています。
金の湯
秀吉とは直接関係ありませんが、せっかく有馬温泉に来てるんだから…ということで最後は金の湯で疲れを癒し、ありまサイダーてつぽう水で一日を締めくくりました。
なお、有馬温泉は前年にも訪れており、瑞宝寺公園と茶人太閤像・ねねの像の写真は2024/06/08撮影のものです。
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2026/03/19 07:03
模擬天守が目印 (2026/02/15 訪問)
国道からもよく見える模擬天守が目印です。
道路沿いに駐車場があり、少し登ると模擬天守に着きます。
この辺りが二の丸のようです。
耐震の問題で模擬天守は閉館、中に入ることは出来ません。
川島神社との間の道路は堀切跡かな〜と思いながら神社に参拝。
その背後の丘に登ってみました。
土塁のようにも見えますが明治から大正時代の石切場でもあり、その後は公園化のためほぼ遺構は残りません。
公園の北西部には阿波青石の岩盤が露出しています。
そこから岩の鼻と呼ばれる展望台へ。
ミニ四国八十八ヶ所もありました。
展望台からは吉野川を眼下に望み、天然の堀となっています。
また、川島浜と呼ばれる川湊もありました。
阿波九城のひとつ、遺構はほぼ無いのですが水陸の交通の要衝に置かれた城ということがよくわかります。
【見どころ】
・岩の鼻からの眺望
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2026/03/18 21:03
広島城天守閉城まであとわずか (2026/03/18 訪問)
広島城天守閉城まであとわずかになりました。天守閉城記念御城印を購入。
新たに歴史館が建築中でした。
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2026/03/18 12:56
険しいにもほどがある が、落城したのか。杣山城(2/2) (2026/03/15 訪問)
山頂に続く尾根の西端に西御殿を含む大小17の平坦地があり、西の急斜面の下に大きな堀切が見えます。本丸まで300mほどあります。途中に袿掛岩と名付けられた岩場があり、尾根に立ちふさがっています。南側は断崖になっています。落城時、夫人や女房たちが、この岩に袿をかけて飛び降りたとの言い伝えがあります。
本丸付近はやや広く、帯郭や小郭が点在します。北に下ると東御殿があります。ここからも下山できますが、犬戻り駒返しの岩場に行きたいので、再び、本丸へ。東御殿から見ても、そちら方向の尾根がかっくんと落ちています。本丸から100mほど下ると、写真10の標識あり。「はしご有り 足元注意」の標柱が傾いている時点で、もう怖いです。写真9のような鉄梯子が2段設置されています。急なのも怖いけど、降りた先が狭く、すぐに断崖なのがとても怖いです。犬戻り駒返しを超えても城域は続きます。東西に150mほどある細い尾根上の平坦面にも途中三か所に堀切が設けられています。東端に下山道があり、急ではあるが、岩場がない道で、麓の花はす温泉裏に降りました。
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2026/03/18 07:57
城館さながらの湯治施設 (2025/09/13 訪問)
湯山館(湯山御殿)は豊臣秀吉が有馬温泉での湯治施設として造営しましたが、慶長伏見地震で倒壊。2年後に再建されるも秀吉は訪れることなく亡くなり、江戸初期に徳川氏により取り壊されて、跡地には極楽寺と念仏寺が建てられました。秀吉の没後400年を経て、阪神淡路大震災で倒壊した極楽寺庫裏の建て替え工事に伴う発掘調査で湯山館の湯殿が確認され、太閤の湯殿館として公開されています。
神戸電鉄・有馬温泉駅から温泉街を抜けて湯山館へ。受付で入館料(一般200円)を払って太閤の湯殿館に向かうと、眼前に湯山御殿の庭園が広がっています。発掘調査で確認された遺構を埋没保存しつつ、遺構の真上に往時の庭園を再現したとのこと。館内には岩風呂や蒸し風呂が出土した状態で展示されていて、蒸し風呂の直上には浴室も復元されています。また、湯山御殿についての古文書や発掘調査による出土品、説明パネルが展示されています。
太閤の湯殿館を出て庭園の背後に見える石垣のほうに行ってみると、発掘調査で発見された湯山館の野面積み石垣が続いていて、石垣上面の帯曲輪は周囲に多聞塀をめぐらせ、北端には隅櫓の存在が確認されています。天下人の湯治施設ともなると城館さながらの構えなんですね。石垣への道沿いには豊太閤之塔が立てられていて、説明板によれば湯山館の温泉は秀吉が戯れに杖で掘ったら湧き出てきたものなんだとか。太閤の湯殿館の隣には極楽寺、道向かいには念仏寺があり、念仏寺はねねの別邸跡とのことで、やはり湯山館は極楽寺から念仏寺にかけて建てられていたようです。
秀吉は文献上確認できるだけでも有馬温泉を9回訪れており、文禄3年4月には金森長近も同行しています。湯山館の造営前なので太閤の湯殿館で目にした岩風呂や蒸し風呂に入ったわけではないものの、ひと回り以上年長の長近が秀吉を背負って入湯したとの記録もあるようで、文化人のイメージでしたがパワー系の一面もあるんですね。さすがは戦国の荒波を乗り越えてきた武将ですなぁ。また、これも湯山館の造営前ながら、豊臣秀長も体調を崩しがちになってから幾度も有馬温泉に湯治に訪れているようです。
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2026/03/17 20:14
コブコブ畝状竪堀群 (2026/01/25 訪問)
【要害山城】
<駐車場他>馬谷城跡登城口に車を寄せて停めれます。
<交通手段>車
<見所>畝状竪堀群
<感想>1泊2日紀伊半島1周、山城攻略旅9城目。現地説明板によると要害山城は馬谷城とも呼ばれており、安宅氏の最前線基地としての役割をしていたようです。北にある山本氏の龍松山城と境界、北・西側を意識した防御構造になっています。
登城口に現地説明板があります。登山道は丸太石階段が整備されているので難なく登れます。やがて尾根筋を断ち切る堀切が現れます。尾根の上が尾根曲輪になっているようです。ここから城跡ですが、周囲はシダがまあまあ多いです。城跡は小さい主郭を中心に東西に腰曲輪を設けています。西側に堀切と高い切岸があり、主郭の北側と西側に畝状竪堀群を設けています。西側の畝状竪堀群は主郭の横堀から派生しているので、各々コブがあって見応えがあります。砦レベルの小さい城跡ですが、なかなかの見応えでした。
<満足度>◆◆◆
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2026/03/17 18:48
THE 栃木…だっぺ(●^o^●) (2026/02/21 訪問)
両毛線に揺られながら栃木駅へ。皆川城への最寄り駅だし,東武日光線が交わる駅なので,ちょっと見ておこうと思い途中下車。ただの途中下車のつもりでしたが,勝手に栃木城へと向かっておりました…👣👣👣
水堀はあまりキレイとはいえません。水が流れていないからだと思います。坂本與兵衛ギャラリー近くのラーメン屋さんは激コミ。坂本與兵衛ギャラリーへは入館しませんでした。何か抵抗を感じてしまい…。
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2026/03/17 16:21
河村城探訪 (2026/03/09 訪問)
河村城を訪問しました。このお城は平安時代に築城された山城ですが、戦国時代には小田原北条氏の支配下にあり、甲斐方面からの侵攻に備える防御拠点として機能していました。しかし、豊臣秀吉の小田原攻めにて廃城となりました。現在は河村城址歴史公園として整備され、駐車場やトイレなどの設備が整っています。縄張は丘陵地の尾根上に築かれ、郭を区切る空堀や土塁が地形に沿って配置されています。特に特徴的なのが障子堀であり、その構造が復元整備されており、山中城と同系統の築城技術を確認できます。
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2026/03/17 16:07
足柄城探訪 (2026/03/09 訪問)
足柄城を訪問しました。東名足柄スマートICから車で約30分の距離にあります。数台停められる駐車場スペースがあり、自動車でのアクセスがお勧めです。ただ、途中はカーブが多く道幅の狭い区間も続くため運転には注意が必要です。この城は足柄峠の稜線上に築かれ、相模国と駿河国を結ぶ交通の要衝を押さえる位置にあるます。豊臣秀吉の小田原攻めの際に北条市の重要拠点となった城でもあります。現在は足柄城址公園として整備され、五連郭から成る縄張が確認できます。二の郭からは富士山を望むことができますが、この日は残念ながら山頂付近に雲がかかっていました。次は是非天候の良い日に訪れたいです。
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