曽井城は野崎病院のある丘陵上に築かれていて、東西約400m、南北約300mの城域を持っていました。南西部に主郭があったとされ、南側の一段高い場所は櫓台のような雰囲気です。北側の一段低い場所は二の丸とされ、それぞれの郭跡に病院の施設や駐車場などが築かれているようです。北側の道路から病院の駐車場まで到達でき、駐車場の脇に新しい案内板が設置されていました。
おかげで普請者扱いされずに済みますが、病院の敷地内なので、散策などはせずに戻りました。
見落としましたが、病院の北東に位置する曽井公民館の脇に登城路の一部が残っているようです。
曽井城は南北朝時代(1375~81)頃に伊東氏の一族(曽井氏か)によって築かれ、戦国期は伊東氏48城の一つとなり、伊東義祐没落後の島津氏による支配を経た天正15年(1587)豊臣秀吉の九州平定の後、伊東祐兵に与えられました。その際の改修工事では黒田官兵衛が総指揮を取ったと伊東家の家請に記されているそうです。その後、江戸幕府の一国一城令によって廃城になっています。
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