128【関ケ原の26人】(26)井伊直政 (直政の戦後処理)
(26人目)井伊直政の続き㉚です。
直政は関ケ原の直後、家康の命で佐和山18万石を賜り、高崎城から佐和山城へ移ります。この時直政は、島津から受けた鉄砲傷が徐々に悪化してきていました。養生すれば治ったかもしれません。しかし直政は戦後処理に奔走します。今不満を持つ西軍諸将を押さえてしまわなければ、第二の関ケ原が起きるのは必定と考えていたからです。
まずは「毛利輝元」の処遇です。
直政は吉川広家と毛利本領安堵の起請文を交わしました。そして輝元自身も家康と起請文を交わしていたと言う説もあります。しかしいざ合戦が終わると、家康は得意の知らぬふり。あくまで120万石の領地を召し上げ切腹させる気でいます。しかし直政は自分を信じ起請文まで交わした広家やそして輝元を何とか助けようと、傷を押してまで大坂城と伏見城を往来し、粘り強く家康との仲介役に徹します。そして何とか周防長門30万石への減封処分で決着する事ができました。輝元も切腹を覚悟していたのでしょうか? 怒るかと思えば、仲介役の直政に大変感謝し大坂を離れて行きました。しかし吉川広家ら家臣たちは納得せず、その火種はくすぶり続けたようです。
次は「真田親子(昌行・信繁)」の処遇です。
秀忠軍を足止めした事に家康は納得せず、打首を考えていました。しかし、真田信之から口添えを懇願され、共に助命嘆願をし、高野山へ幽閉する事で決着しました。
次に「長宗我部盛親」の処遇です。
盛親の所領は没収され、代わって山内一豊が掛川から土佐へ入国しようとした際、長宗我部の残党がこれを妨害します。直政は自らの軍を土佐へ派遣しこれを鎮めました(浦戸一揆)。また親しかった盛親の助命嘆願をし、京都に幽閉する事で決着し、命だけは助ける事ができました。
最後に残ったのが「島津義弘」の処遇です。
家康は自分の命を狙ったあげくに薩摩へ逃げ帰った義弘を絶対に許すつもりはありません。当主の島津義久に義弘を引き渡すよう命じます。しかし弟の義弘を引き渡せば必ず殺されると分かっている義久は絶対に渡しません。それどころか、ならば徳川と一戦辞さずと、薩摩は戦の準備を始めます。これを知った家康は、柳川城に逃げ帰った立花宗茂を取り囲んでいた、黒田如水・加藤清正・鍋島直茂の軍勢を水俣城まで進め牽制させます。直政にとっても自分に鉄砲傷を負わせた島津は憎いはず!・・・🤔
と思いきや、直政は何とここで義弘の助命嘆願を家康にするのです。島津との戦になれば必ず第二の関ケ原にまで発展するのは必定だと思っていたからです。豊臣秀頼も健在で、実は九州の関ケ原での勝利で野望に目覚め陰で糸を引く黒田如水や、秀頼のために築いた巨大な熊本城がこの時ほぼ完成し、万一の時は迎え入れる準備まで着々としている加藤清正、この二人はもはや信用できません。もし義久・清正・如水・宗茂が秀頼を奉じて九州で立ち上がり第二の関ケ原を起こせば、くすぶっている諸将たちも必ず立ち上がります。さすれば次は勝てる保証はどこにもありません。
特に島津と加藤、これらは当時の日本では最強の総勢合わせて10万の大軍勢です。しかも強さからすれば西軍の中心であった宇喜多秀家や石田三成の軍勢の比ではありません。それは朝鮮出兵での活躍などでも実証済みで、彼らは戦の経験も豊富です。わずか1,500の兵だけで、あれだけ徳川軍や井伊直政を苦しめた事でもよく分かります。ゆえに九州で戦うとなれば徳川にとって相当な大損害を覚悟せねばなりません。それどころか勝てる保証はどこにもありません。そうなれば、特にこの時の家康に不満を持っている伊達・上杉・毛利、また秀頼を奉ずれば必ず寝返るであろう福島らの諸将もいます。
しかし義弘を許し薩摩の地を安堵すれば、義久は矛を収めるでしょう。そうなればその他の諸将も大義名分を失ってしまいます。直政は粘り強く家康を説得します。しかし、その最後の願いも叶わぬまま、ここでついに鉄砲傷が悪化、床に伏せって動けなくなりました。そして1602年2月1日(関ケ原の戦いから453日後)、直政の命は尽きてしまったのでした。
島津から受けた鉄砲玉の鉛をきちんと取り除き、そして養生していれば、おそらく治ったのではないかと言われています。今で言う破傷風だったようです。しかし、直政は自分の命と引き換えに、家康の天下を盤石にするため、関ケ原の戦後処理に最後まで奔走したのでした。
次は直政墓所、(清涼寺)へ続きます。
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