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ももんじゃ

現存4御殿巡り (2025/12/29 訪問)

現存4御殿最後の掛川城二の丸御殿を制覇!

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チェブ

今年もお世話になりました。 (2025/02/23 訪問)

今年最後の投稿は
『阿蘇神社』
お城じゃないんかーい!と、ツッコミが聞こえてきそうです。

私の住む東京の端っこにある『阿蘇神社』。
昨年の年末に、ある会話から巡ってみました。
今年じゃないんかーい!と、ツッコミも聞こえてきそうです。

『初詣は行く?』の友達の質問に『特に行かない』の回答。TVのCMで流れる神社を想像していたのですが、友達は近所の小さな神社を訪問するそうです。
本来、日々の感謝を伝えるんだから、そうだよなーと納得しました。
でもって、2月に訪問しました。(もはや、初詣でもないですが、、、。)

私が神社と言ったら羽村市の『阿蘇神社』です。

創建は601年。推古天皇の時代です。
多摩川沿いにあり、おそらく多摩川遊歩道の最終地点になります。
説明板には、平将門さん、藤原秀郷さん、北条家の皆さん、徳川家康さんのお名前があり、『えー、みんな来たの?』と単純にミーハー心を躍らせました。
2月の寒い午後の時間、参拝の方々がいらっしゃいます。社殿に手を合わせる皆様。
私だけが、玉砂利をザクザクと歩き回っていました。

ここは小さい頃、友達の家に行く時の近道でした。
改めて社殿を見上げ、こんなに立派な神社だと、感激しました。
蟷螂の彫物が十二支で、写真をパチリ。今年のヘビでもなければ、来年の馬でもなくイノシシ、、、!

今年も皆様の投稿、楽しませていただきました。
家族の事情で、遠出や旅行が難しくなり、お城はスマホの画面からが多くなってしまった1年でした。
また、お城に関係のない脱線話にお付き合いいただき、ありがとうございました。

それでは、良いお年をお過ごしくださいね。

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赤い城

小早川水軍の拠点 (2025/12/07 訪問)

新高山城から竹原を回り、帰りに立ち寄りました。
そんなに時間はかからないと思い説明板前の広くなったスペースに車を置きましたが、近くの床浦神社に広い駐車場があるようです。

まずは浜の方に行ってみました。
堤防では釣り人が糸を垂らしていらっしゃいます。
先に進み見どころの船隠しを遠望。
残念ながら潮が満ちていて歩いて行くことはできませんでした。

引き返し説明板のところから登っていきます。
二郭と三郭の間を登りますがこれは堀切なのでしょうか?
二郭には土塁が少しだけ残っていました。
さらに主郭へ。
広く忠魂碑が建っています。
もちろん瀬戸内海の眺めもよくこの日の疲れを癒す景色でした。

2025年に行った城はもう少し残っていますがレポートは来年に持ち越しです。
今日は城納めで小豆島へ進軍中です。

【見どころ】
 ・船隠し
 ・瀬戸内海の眺望

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todo94

2025年末・鹿児島県の攻城③ (2025/12/26 訪問)

鹿児島城の城カードを購入した後、昼食をとってから、屋久島行きのジェットフォイル乗り場に行ってみると、26日はすべて欠航というありさまでした。12月は観光客も降雨も少なく縄文杉トレッキングのベストシーズンとのことでしたが、強烈な冬型の気圧配置にはかないません。残念ですが、トレッキング、宿泊をキャンセルし、ホテル、レンタカー、帰りの航空便、特急あずさをすべて前倒しして取り直しする作業に追われました。この日は、残った時間で千々輪城(グーグルマップと現地の表記は谷山本城)へ赴いてみました。小規模ながら切り立った空堀や通路は南九州の城ならではのテイストがあります。武者だまりには伊勢神社、土塁の残る主郭には愛宕神社が鎮座していました。愛宕神社の社殿近くからは桜島が望めるのですが、ちょっと樹木にさえぎられてしまっています。指宿枕崎線の高架はよく見えました。鹿児島中央駅に行って17時ちょっとすぎには、薩摩黒豚のしゃぶしゃぶと芋焼酎の晩酌を楽しみました。

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トットコ

久しぶりの100名城巡り (2025/12/27 訪問)

久しぶりに100名城に来ました。
前日の大雪でしたが、何とか辿り着きましたぁ〜!

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T-Shionoya

佐賀城 奇妙な天守台 (2025/10/24 訪問)

10月の佐賀県観光で訪れた2つ目の城が佐賀県佐賀市の佐賀城。

九州最大の平野である筑紫平野の北エリア、嘉瀬川の分流・多布施川が流れる水郷地帯に築かれた城。

龍造寺氏の居城である村中城をもとに、鍋島直茂・勝茂父子が江戸初期に築城。村中城の本丸には諫早屋敷、二の丸には多久屋敷が置かれたと伝わる。
勝茂が初代城主となると、幕末まで鍋島氏10代が継承。
1726年の大火災で天守等を失い、二の丸に御殿を再建。その二の丸御殿も1835年に焼失し、再び本丸に御殿が建てられたとのこと。

現在は佐賀城公園となり、本丸には御殿が復元され、鯱の門と続櫓、本丸御殿の御座間が現存。
本丸以外は公共施設などが建ち姿を変えているものの、それらを囲む広大な水堀は概ね残る。

訪問時は本丸をメインに水堀を1周する計画であったが、時間不足で北堀は断念。
1番の見どころは鯱の門と続櫓だが、復元された本丸御殿もなかなかの広さ。
最も要塞らしさを感じた場所は、天守台の上り口。ところが本丸内からアクセスしようとしたところルートがなく、再び本丸の外へ戻ることに。
諸説あるらしいが、この奇妙なつくりが興味深い、私の城郭巡りの213城目でした。

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しんちゃん

関ヶ原古戦場 長宗我部盛親陣(古) 長束正家陣 (2024/03/31 訪問)

関ヶ原合戦場の陣跡ってみんな怪しい・・なんてこと言ってると周る所が無くなっちゃう。自由に周りましょう・・
長宗我部盛親陣と長束正家陣も微妙な立ち位置にあります。長宗我部は陣跡の比定地が二つあるんですね。
以前、栗原山付近の中腹にある長宗我部盛親陣の投稿をしましたが、栗原山の麓にも陣跡の比定地があります。まあ、途中から山腹に移動したと考えることも出来るけど、ここから戦場までは結構ありますね。
明治期に入っての関ヶ原古戦場の配置図は二つあって、一つは岐阜県の依頼で郷土史家の神谷道一氏が作成した「関ヶ原合戦図志」
これは江戸時代の儒学者・軍学者「山鹿素行」の「武家事記」の影響を受けていると思います。
もう一つが陸軍参謀本部が翌年に発表した「日本戦史関原役」の附図・第五号です。残念ながら私の購入した古い書籍には附図が載っていませんでしたが「地方紙研究」411 に小池絵千花さんが図を載せてくれているので、そちらを参考にさせていただきました。
記憶で書いていますが、「日本戦史関原役」発表の翌年に日清戦争が始まっているので両図の陣跡の差異は意図的なものだと思います。
これはいくらなんでも神谷氏が気の毒ですね。岐阜県側からどのような釈明が有ったかは知りませんが、現在における名誉の回復も不十分だと思います。
両図を確認すると長束の陣も長宗我部の陣も麓に書かれていますね。
毛利秀元が南宮山に登っていれば当然、吉川も南宮山に登ると思います。
神谷氏の「関ヶ原合戦図志」では毛利本隊を押えるように吉川の陣が南宮山の北側に陣取っています。関ヶ原は豊臣恩顧の武将同志が戦うという特殊な状況なので、いつ何が起きてもおかしくはありません。吉川も合戦の様子を逐次確認する必要が有ったと思います。
小早川や東軍先手が離反すれば戦況は一変するので吉川・毛利は自ら家康を討たなくては自分の身が危なくなります。万一のことを考えるとをやはり関ヶ原が見える場所に陣を敷く必要が有ったと思います。
その点においては神谷氏の図の方が信憑性が高いと思いますが、正直な所「関ヶ原合戦図志」の南宮山の形状はかなり怪しい。神谷氏は本当に南宮山一帯を歩いているのだろうか? 個人的には南宮山山頂よりもっと北側の方が秀元陣に相応しいと思います。

長くなりましたが、長宗我部が栗原山や南宮山に軍を進めていたら、長束も山中(さんちゅう)に移動したんじゃないでしょうか?
そういえば安国寺恵瓊はどこにいたんだろう。

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こじくん

滝山城&道の駅 八王子滝山 (2025/12/27 訪問)

3回目の訪問
アクセスはJR八王子駅から西東京バス&徒歩
道の駅 八王子滝山から徒歩数分

道の駅 八王子滝山で昼食
八王子ラーメン880円とジェラート400円
ラーメンは玉ねぎが多く、個人的に好きな味
続100名城スタンプは以前の場所と異なり入口に変更されていた。

堀と土塁がよく残っていて個人的には好きな城。

帰りはJR八王子駅南口の八王子サザンスカイタワー3階にある日本遺産の関連施設で八王子城と滝山城の縄張り等を鑑賞した。

※一部の写真は2021年訪問時のもの。

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しんちゃん

関ヶ原古戦場 平塚為広碑 (2024/04/14 訪問)

ネタが尽きて来ました・・というわけではありませんが(汗)
関ヶ原古戦場 平塚為広碑の投稿です。平塚殿の分身の方にはEXPO会場でお会いして暑い・・もとい熱いハグを頂きました。
どうせなら姫が良いのに~。。いやいや、いろいろな人に会えるのもEXPOならでは。

古戦場にあるのは陣跡の碑ではなく為広本人の碑です。関ヶ原では戸田勝成とともに約600の兵で藤川台に布陣し、病をわずらっていた大谷吉継の代わりに前線の指揮を託されていたと案内板には記されています。
関ヶ原の合戦に関しては後世の創作による部分も多いとされ、実際に大谷吉継が山中に布陣していたかどうかは定かではありません。合戦前に黒田長政や福島正則らが暗躍し小早川秀秋や吉川広家らをすでに凋落していたという説があります。
家康が秀秋をコントロール出来る環境が整っていた可能性もあるわけで、高橋陽介氏の「シン・関ヶ原」にあるように家康の命で秀秋が松尾山に陣を敷いたのであれば、石田三成・宇喜多秀家ら西軍は家康の策によって関ヶ原に釣りだされたとも取れます。
三成らは吉川広家が既に家康と和睦していることを知らないので、彼らが「秀秋が東軍に寝返った」と疑っているのであれば松尾山の秀秋と、家康が遣わす「東軍先手の武将達(豊臣恩顧)」に南宮山に布陣する毛利秀元らが挟撃されることを怖れると思います。
秀秋の真意も確かめる必要があるし、秀秋が翻意したのであれば即座に討ち果たす必要が有るので、歴史的に見て大谷吉継が山中に居る必然性は低いと思います。関ヶ原に関しては、まだわかっていないことの方が多いですね。

ヒロケンさんの投稿にあった吉田城の「山田」の刻印石。懐かしいですね・・修復のさいに家臣から持ち込まれた・・誰でしょうか?
朝日新聞のデジタル版の戸村登さんの記事によると「山田」は蜂須賀家家臣の山田織部佐(宗登)の刻印とされています。織部佐は大阪冬の陣で活躍し秀忠や家康から感状をいただいたとされる人物です(阿波の七感状)。
また仁宇城主である父の宗重の可能性も有るようです。
刻印石は名古屋城の築城には使用されず、採石地に残されていた石で、後に吉田城が改修される際に石垣に使われたとか。

まだまだ知らないこともたくさんあるし、訪れたい場所もいっぱいあります。四国もゆっくり回りたいが現状は厳しいな~

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ヒロケン

鉄櫓と本丸 (2025/11/25 訪問)

吉田城は、豊川・朝倉川を背に本丸を中心とし二の丸、三の丸を配置した半輪郭式の後堅固の城で最も外側にある総堀(今は残っていない)が取り囲む範囲は東西約1400m、南北約700mにも及んでいたとされています。

1590年に池田輝政公が15万石あまりで吉田城に入城すると大規模な整備拡張を実施し、南から西にかけて拡張、また本丸に石垣を積み上げ強固にし、三基の三重櫓と一基の二重櫓を備え、さらに堀を二重・三重に巡らせました。

現在の鉄櫓は、1954年に模擬隅櫓として鉄櫓台の石垣の上に鉄筋コンクリートで建てられ、内部は資料館となっています。また、本丸周辺の石垣には刻印石がありますが、これは名古屋城築城の際に使用されるはずであった石が使用されず、採石場に取り残された石を使用しているためとされています。
しんちゃんさんの投稿にある本丸南多門跡の石垣の前にある「山田」と記された刻印石は、徳島藩主・蜂須賀至鎮公家臣に関連する石で、名古屋城築城の採石地として用いられた蒲郡市西浦町でとれ、名古屋城を築城する際には用いられず採石地に残されていたものを、吉田城改修の際に石垣に使用されたとされています。

自分にとって吉田城鉄櫓は、西に遠征し帰ってきた際に豊川橋の上から見る鉄櫓を見て、豊橋に帰ってきたと実感でき、模擬櫓ではありますが、どこから見てもcuteで愛着がある櫓でとっても気に入っています。

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カズサン

単郭周囲に二重土塁と堀 (2025/10/31 訪問)

 先の副城から豊前の国へ、副城を終えて北北西に約12km程(直線)経路約20km程の光岡城へ、雨もしとしと霞が出ている、光岡城の登城口前に広い駐車場と案内指示板、登城口より舗装された道を約800m程で到着。

 駐車場:北虎口手前に幅広路側帯が駐車場10台はOK、トイレ有(33°31'24"N 131°16'33"E h=130m)
 参考資料:余湖図コレクションさんグーグルマップに依る。

 北の虎口より進入する、主郭外周北側の堀と土塁、西の堀と土塁、内部は広い単郭城跡、余湖図コレクションさんの俯瞰図を参考に歩く、土塁が二重の周り、中が堀に成って居る、東に虎口と土橋がる、堀と土塁がよく残って居る、建物跡の表示木柱も有る、東屋、中程の祠が祀られている。
 草も若干伸びて居る、雨も降ってる状態でしたので歩ける所のみの観察探訪でしたが、麓からの舗装道、駐車場、トイレも完備し探訪し易く以降も良好に残って居る城跡でお勧めです。
 

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カズサン

【豊前 副城】大分県宇佐市 畝城竪堀が見所 (2025/10/31 訪問)

 豊後国東半島未踏の城廻りを終え真玉城より南西に約25km程(直線)経路30km程を経路途中以前に見慣れた道筋には豊後高田城、宇佐八幡神社を望みながら国道367号線と国道500号線が合わさった道沿いに「道の駅いんない」が有り、副城跡最寄りの駐車場と成ります。
 住所:大分県宇佐市院内町副
 駐車場:道の駅いんない(大分県宇佐市院内町副1381-2)
 参考資料:城郭放浪記さん余湖図コレクションさんグーグルマップに依る。

 豊前副城は数年前に城郭放浪記さんの毎月の放浪履歴と昨日のTop10に未閲覧城郭としてヒットし、写真館と縄張図をみて是非機会が有ったら訪ねて畝城竪堀群を見てみたいと思っていた城郭です。今回の企画に入れて初登城。

 雨が又降り始めましたので北側の登城坂道を断念して、車で南側頂上の車2台可能駐車場へ、せめて主郭曲輪Ⅰ東側の畝城竪堀群を一目でも見たいと、傘を差しながら遊歩道を20~30m程歩くと畝城竪堀群が見えます、久しぶりの感動です、雨降りでしたので遊歩道で観察、主郭東下の二重横堀も歩きやい、主郭東虎口、二の曲輪東の尾根土塁もよく観察できる、スロープを登り主郭東虎口から進入、主郭の北土塁、南に高まりには櫓台、歩きやすい東虎口より戻り、南の堀切、切岸沿いの遊歩道でⅡの曲輪へ、東屋、建物を確認して下城しました。
 戦国末期の城跡の様ですが、比高が低く遺構がよく残って居り、畝城竪堀群、二重横堀、堀切、虎口が見所です、二の曲輪北側下は未踏査です。
 雨の中でしたが願いが叶い満足の探訪でした。

 道の駅いんないの「いしばし茶屋」で久しぶりにゆっくりした昼食を頂きました。
   

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しんちゃん

関ヶ原古戦場 黒田長政陣 (2025/10/19 訪問)

関ヶ原古戦場の黒田長政陣は岡山烽火場とも呼ばれています。また竹長重門の陣もあったとされています。
黒田長政は幼いころ豊臣秀吉・竹中半兵衛に命を救われたことがあるので旧知の仲であったと思います。その際に長政の遊び相手の少年が身代わりとなって首が織田信長の所へ送られたと何かの媒体で見ましたが、一般にはあまり知られていないようです。
「美談」の裏側と言うのはあまり覗かない方が良さそうですな。
標高164mの岡山の上からは関ヶ原が良く見えます。案内板にはここに5000の兵が東軍の最右翼として布陣していたとある。小早川秀秋や吉川広家を調略・・と言うよりは向こうの方が東軍に付きたかった気配はありますが、合戦前の長政の働きは戦場での武功以上のものがあったと思います。
関ヶ原に関しては既に多くの人のライフワークとなっています。次々と新説が出てきますが、とりあえず「新旧」まとめて取り込んで自分なりの「歴史」を自分の中で育てていきたいですね。「城びと」ってそれが出来る立ち位置にいると思うんですよ。
自由ですからね・・しがらみ無いし。

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りん

戦国でも歴史的舞台 (2025/12/04 訪問)

家康と秀頼の運命を決めたとも言われる2人の会見が行われた歴史的舞台ですね(*´꒳`*)

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todo94

2025年末・鹿児島県の攻城②【城びと未登録・夏陰城】(鹿児島県鹿児島市) (2025/12/26 訪問)

城山の裏手には。夏陰城という城があります。説明板によると、かつて大きな楠があって暑さ知らずの高涼地であったため夏陰と呼ばれたとか。城山の防備が薄いこの地に兵が置かれ夏陰城と呼ばれるようになったとのことで、鹿児島城(城山)の一部と云ってよいかと思いますが、立派な城址碑が建てられていました。この城山の裏手には、五代友厚誕生地、樺山安武・森有礼生育之地などもあります。西郷隆盛終焉の地、私学校跡とめぐって黎明館に戻り、無事、鹿児島城の城カードを購入することができました。

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シャンシャン

吉川氏ゆかりの史跡巡り② (2025/12/28 訪問)

吉川元春館からすぐ近くにある屋敷跡。こちらも国指定史跡。
吉川元春館と同様の技法の石垣が数十mに渡って残されているが、民有地のため石垣の上は畑になってる。

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シャンシャン

吉川氏ゆかりの史跡めぐり① (2025/12/27 訪問)

国指定史跡の吉川元春館跡。
北広島は雪があるかなーと思っていたけど、思っていた以上に雪が積もっていてびっくり(^^;
でも雪をまとった数十mに渡る石垣は見応え充分!
敷地内の戦国の庭歴史館で発売されたばかりのロゲットカードをGET!

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天守閣について (2025/12/27 訪問)

 1年とちょっとぶりに浜松城へ行って来ました。野面積みの石垣が好きです。
昔から浜松城の天守閣には違和感を覚えていました。天守台に比べて天守閣の面積が狭く不思議な感じがします。天守台は穴蔵構造で地階に井戸があり、1辺約21mのいびつな四角形で西側に八幡台と呼ばれる突出部があり、東側には付櫓と呼ばれる張り出し部分があります。この張り出し部分は、現在は天守閣への入口として利用されています。現在の天守閣は昭和33年に鉄筋コンクリートで作られました。天守台に比べ小さい建物です。昔は、本当は浜松城には天守閣はなかったんじゃないかと思っていましたが、浜松市のHPには「浜松城の天守は第二代城主堀尾吉晴の在城期(1590年頃)に築かれた説が有力だが、17世紀の絵図には天守が描かれていない事から、江戸時代前期には天守が失われていたと考えられる。」とあります。記録はないようですが、瓦の出土や天守台に井戸があることなどから天守閣は短い間ではあったが存在していたという説が有力なようです。「東海の名城を歩く 静岡編」には「その規模から、2階建ての櫓の上に、望楼を載せた漆黒の四重天守が想定される」と書いてありました。実際には今の天守より大きな建物だったのでしょう。
 いろいろと思うところはありますが、今では町にも自分にも馴染んでいます。

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とってぃ

続日本100名城スタンプリベンジ (2025/12/27 訪問)

前回はスタンプを押せなかったので、妻の実家の帰省の道中に。
前回入れなかった致道博物館にも行けました。

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カズサン

曲輪を濠で囲まれた真玉城初登城 (2025/10/31 訪問)

 国東半島未踏の城廻り、安岐城、富来城、岐部城を終えて国東半島北端を廻り込んで国道213号線を西方向約16km程(直線)経路24km程、国道213号線より南東へ約500m程入った真玉寺が豊後高田市真玉城で初登城、このころには雨も止んできました。
 駐車場:真玉寺北の高田高校真玉分校跡地を利用
 参考資料:余湖図コレクションさんグーグルマップに依る。

 真玉寺の東に土橋が有り、周囲は濠で囲まれている、よく濠がよく残ったものだと感心する、土橋を渡って真玉寺の沿革解説板が有り、その文面の中に「真玉氏居館跡」と記されて、文和元年(1352年)木付重実が前真玉氏の跡をついで入部、居館として以来9代238年続く。1590年の小田原征伐の年に滅んでいる。余湖図コレクションさんの解説では真玉統寛が小田和征伐に向かう途中に家臣の山田兼佐の謀反が起こり殺害されたと有りました。
 お寺の南側が歩けるので、東土橋、南側、南土橋を往復し、山門前で参拝、真玉分校跡地へ、分校跡地が内城、北の畑が外城の連郭式平城だった様です。濠に囲まれた曲輪は本丸か?良く分からない寺敷地郭です。
 雨が止んで助かりました。
   

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