飯田城から徒歩5分(天王バス停に向かう途中)くらいで、崇信寺に着きました。
天方山内氏の菩提寺です。飯田城主山内氏3代の墓があるようですが確認していません。
境内は飯田古城の縄張り内に建てられいます。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=安倍城へ行く為、天王バス停からバス➡電車➡バスを乗り継ぎ、西ヶ谷運動場入口バス停に向かいました。
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2025/07/12 05:08
2025/07/12 05:05
(東海&関西)遠征24日目:飯田城 (2025/06/07 訪問)
天王バス停から徒歩15分くらいで、城址入口(34.804737、137.921868)に着きました。
飯田城は山内対馬守道美の孫である山内大和守通泰によって築かれた城です。
1569年(永禄12年)に徳川家康の家臣である榊原康政・大須賀康高らに攻められ落城し、通泰も討死しました。
1572年(元亀3年)には武田信玄の軍勢によって攻め落とされ、約5年ののちに徳川氏が奪還しましたが、そのまま廃城となったようです。
主郭周囲に土塁や櫓台、堀などの遺構が残っています。
物見曲輪に城址碑と説明板が建てられています。
攻城時間は20分くらいでした。次の攻城先=飯田古城(城びと未登録 静岡県森町)へ徒歩で向かいました。
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2025/07/12 05:05
2025/07/12 04:57
(東海&関西)遠征24日目:天方城 (2025/06/07 訪問)
静岡駅から電車で遠州森駅に向かい、そこからバスで遠州森町バス停に着きました。
遠州森町バス停から徒歩35分ちょっとで、説明板前(34.848229、137.949469)に着きました。
築城年代は定かではないようですが、応永年間(1394年〜1428年)初期の頃に首藤山内対馬守道美によって築かれたと云われています。
戦国時代に武田、徳川の攻防戦が繰り広げられた天正時代頃の陣城です。
現在は城ヶ平公園としてよく整備されており、山頂の展望台からはるか遠く、太平洋や南アルプス、遠州一円も眺められます。
説明板前に着いて、主郭の方を見ると野生の鹿がこちらをみています。
刺激しないように横堀を回り込み主郭に近づくと、鹿は振り向き、こちらをみています。
奈良公園の鹿は人に慣れていたので怖くはなかったけど、野生の鹿は怖いので、早々に退散することにしました。
山頂にある主郭は、南を除く三方に横堀を巡らし、円形に近い形をしています。
展望台からの眺望は良かったです。
攻城時間は25分くらいでした。次の攻城先=飯田城を目指す為、遠州森町バス停からバスで天王バス停に向かいました。
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2025/07/12 04:51
2025/07/12 04:47
(東海&関西)遠征24日目:駿府城 (2025/06/07 訪問)
宿泊先のホテルの朝食前に、駿府城を攻城しました。
宿泊先のホテルから西郷隆盛・山岡鉄舟会見の碑(34.974812、138.386370)を経由して、東御門前(34.977779、138.384886)に着きました。
駿府城は今回2回目の攻城です。前回は7年半前の2017年12月17日に次男と二人で来ました。
時間的に東御門や巽櫓、坤櫓(見忘れました)には入れませんが、外観だけでも見たくて寄りました。
ちなみに、建物の営業は午前9時~午後4時30分(入館は午後4時まで)で、月曜日は休館です。
攻城時間は25分くらいでした。ホテルへの戻る前に静岡駅北口にある銅像等を見に行きました。
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2025/07/12 00:35
瑞川寺山門 (2025/01/03 訪問)
古川第一小学校が城址とされ、室町時代に七代大崎教兼の子が居を構えたとされています。その後、大崎氏の家臣・古川刑部持煕や古河弾正忠隆の居城であったが大崎氏が改易になった後は木村伊勢守吉清の子・清久が入りました。天正19年(1591)の葛西大崎一揆により清久が失脚し、伊達政宗の家臣・鈴木元信が入りますが、正保2年(1645)三代・宗良は桃生郡深谷に移され、古川は仙台藩の直轄地になりました。
現状遺構は見当たりませんが、古川三日町の瑞川寺に「古川城の搦手門を寺門風に改造して寄進された」とされる山門が残っています。
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2025/07/12 00:14
日戸館 (2025/01/04 訪問)
日戸館・補足の投稿になります
正慶年間(1332~34)南部氏11代信長の時代に河村秀清が日戸村を与えられ、この八幡森の丘陵に日戸館を構えて日戸氏を名乗ったとされています。東から西に上館(主郭)中館(二郭)下館(三郭)が配され、上館が最高所になります。郭の周囲には土塁が残り、南側には堀や土塁が配されています。
宮城から北上して岩手に入るに従い、雪が深くなってきました。通常の登山靴で歩き回れるのは、このぐらいの城址がいっぱいでしょう。
出来ればGWに訪問したいですね。
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2025/07/11 21:49
江戸城外濠見附編 (2025/05/17 訪問)
【百名城80城目】
<駐車場他>未調査
<交通手段>新幹線・移動は都営地下鉄および東京メトロ1日券
<感想>城びと1000城登城記念、1泊2日江戸満喫旅。3回に分けて投稿します。この初回は外濠・見附跡編、2回目は寄り道編、3回目は江戸城内部編とします。
週間天気で、5/17の予報が曇り・雨の予報が2・3転して結局1日目は15時頃まで希にある一日中大雨の日とぶつかりました。新大阪6時発の新幹線で東京8時半過ぎ着、いきなりの大雨でしたが徒歩で和田倉門跡まで行って、和田倉休憩所にてスタンプ押印しました。
かなり降っていましたが、予定通り1日目は半分は地下鉄移動となるので江戸城西側の外濠見附巡り、2日目を内部巡りに決め、スタンプ押印後、和田倉門跡⇒馬場先壕・日比谷壕を南下して日比谷見附跡⇒増上寺⇒太田道灌城跡⇒国会議事堂前・彦根藩井伊家上屋敷跡⇒赤坂門跡⇒弁慶壕⇒真田壕⇒四谷見附跡⇒市ヶ谷門跡土橋石垣⇒新見附壕・外濠公園⇒牛込見附跡の順で巡りました。1日目はこのあと、築土城跡・御殿山城跡・牛込城跡⇒東大赤門⇒因州池田屋敷黒門⇒浅草へ行って、東京スカイツリーのビューポイント撮影と浅草寺に行って終了しました。東京の宿泊代は高いので、50分間電車に揺られ、川崎第一ホテル溝ノ口にて宿泊しました。
<食事>1日目昼食は関西には無い、初の「富士そば」のかつ定食を食べました。豚ではない謎肉のかつ・・・う~ん。1日目夕食は溝ノ口駅前の定食屋を調べていて、22時までのはずが、21時半に着いたら閉まってるー。結局松屋でカレー。
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2025/07/11 21:46
神取山城 宮城県石巻市神取 (2025/01/03 訪問)
神取山とかいて「かんどりやま」と読みます。「城びと」の城ではありませんが、投稿させていただきます。鹿嶋神社の参詣道を登ると程なくして主郭にたどり着きます。麓の案内板には高さ(比高)40m、東西300m、南北100mの山全体が城址とされています。
城主は岡野長満、鈴木山城守等、葛西家臣と伝わり天正18年には葛西総大将大原飛騨守胤重と精強700騎が籠って最後の抵抗をしたと書かれています。鹿嶋神社と浄水場が主郭と見られ、西に空堀を挟んで二の丸が有るようですが浄水場の敷地に入りたくなかったのか、この時は訪問していません。
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2025/07/11 21:38
要害山 登山道 (2025/07/06 訪問)
甲府駅からタクシーで要害山登山道入口まで🚕
小さいけど駐車場あり…その近くには仮設トイレが一基あり
(私は登る前にそこで済ませた)
入口の案内板…並びにレンタルの杖が置いてある。料金は「値段はお気持ちで結構です」…200円払う
入口から急な坂…杖なしでの行進は厳しいかも
杖には熊よけの鈴が付いてる🛎️という事はこの辺り熊が出るのか?🧸😅
真夏のため日差しが差すところだと暑い…というか日光の熱がキツイ…けれど日陰に入るとそうでもない…汗をかくので水分補給は必要だが…木々に覆われた環境のおかげで山道は日陰が多くて…少なくとも日陰で休んでる間はそこまで暑くなかった
田んぼに囲まれた自然豊かな場所の方が(自然が熱を吸い取ってくれるからか)涼しい…コンクリ製の建物やアスファルトに囲まれた都市部の方がヒートアイランド🌃熱がこもりやすくて暑くなりやすい🥵
という話を「近頃の日本の暑さがヤバい」的なYouTube動画ならびにコメントで見た覚えあるが…この日要害山と甲府市内のアスファルトに覆われた都市部で過ごして…それは真実であると思えた
倒木…気が倒れたままの箇所が3箇所…跨いで避けて進む🚶♂️中腹にある武田不動尊で10分ほど休憩…山頂まで無事に着けるよう祈る🙏
入口から山頂までは30分…幾人かの登山客とすれ違う。ここにはロープウェイの類は一切無く…頼れるのは己の足腰のみ🚶♂️富士登山と同様である…けれど標高は780m…つまり富士山の足元にも及ばない
もちろん富士五合目から山頂までの距離ならびに所要時間はこんなもんじゃない…今回の要害山訪問は…(御城印と100名城スタンプは入手済みであり)あとは現地訪問…そうする事での完全達成もあるが、近い将来予定してる富士登山への予行演習という意味合いもあった
ここもキツイと言えばキツイ…けれどここを無事にクリアできなければ…富士山なんて到底無理なのだから🗻
竪堀跡…土塁…門跡を目にする…現在ここには建物の類は一切無い…けれど武田氏がここを居城としていた頃は…厳重な造りの門および門番が存在していたらしい
山道は狭くて急な勾配…敵の侵入を受けたとしても…そう易々と進めない造りにはなっているが…城の関係者…武田氏側の人間が城と麓を行き来するのもしんどいだろうな…とかなり思えた
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2025/07/11 21:21
梅ヶ森館と桜ヶ森館 (2025/01/03 訪問)
小野城は南の梅ヶ森館と北の桜ヶ森館の二ヵ所が有るようです。梅ヶ森館は「お館山公園」となっており、主郭まですぐに到達することが出来、眺望も良好なのですが、西側の尾根に続く郭は藪に覆われて判別が難しい、堀切があるのは解るけど草がぼうぼうです。
桜ヶ森館にも道が続いていて、主郭に到達することはできますが、正直あまり城址らしい感じはしなかった。とりあえず、行くには行ったけどと言う感じです。
小野城は鎌倉権五郎景正の子孫・長江義景が居住し、文治年間(1185~90)に源頼朝より深谷を与えられて以降、長江月鑑の代まで代々長江氏の居城であったようです。
長江氏は初め大崎氏に従っていましたが、伊達氏の勢力が拡大すると伊達氏を頼るようになり、天正16年(1588)伊達氏の大崎氏攻めの軍監として長江勝景が出兵しています。しかし、大崎攻めで苦戦し伊達政宗との関係が悪化してくると出羽に逃れようとして討たれ長江氏は滅んだとされています。
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2025/07/11 20:28
月に願いを 🚀🌝 (2025/06/28 訪問)
今日はバックムーンらしいです。バックと言ってもT-バックのバックじゃないですよ。英語圏で雄シカのことをバック(buck)というらしくて、7月は雄シカの角が生え変わる時期の為、7月の満月のことをバックムーンというらしいですわ。
由良台場は幕末に鳥取藩によって築かれた台場の一つで昔、藩倉が置かれた由良湊に築かれました。鳥取藩によって築かれたとは言っても、藩の財源が乏しかったため費用は大・中庄屋や豪農らによって賄われ、総人数のべ7万5000人が動員されたようです。由良台場は周囲に高さ4.5mの土塁を設け、四門の砲座を備え、由良湊近くの六尾反射炉で製造された大砲が設置されました。
一部復元もあるでしょうが、良く形状を残しており三段の土の造形はアートのようにも見えます。
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2025/07/11 16:15
【筑紫広門】(4)勝尾城(3/3:勝尾城の戦い) (2025/05/15 訪問)
筑紫広門の続き(4/6)です。勝尾城は標高498mの城山山頂にあり、筑紫氏館からさらに健脚でない私の足でも60分の登山でした。実はこの勝尾城の真下には、現在は九州新幹線が走っています(写真②:真下は九州新幹線で最も長い全長12kmの那珂川トンネル、右中央が新鳥栖駅、左が鳥栖駅と鳥栖市街)。
筑紫氏館にある登山口から登りました。途中岩場などもあり傾斜がきつく滑りやすい所もあるので気をつけて下さい(写真⑧)。登山道を登り切るとまず大手曲輪がありました(写真③)。ここの曲輪は段々になっています。という事は、ここに多くの兵が待機していた防御の中心で、ここで攻め登って来た島津軍と壮絶な戦があったのではないかと推測しました。さらに登ると本郭に着きました。本郭には島津との戦いで亡くなった兵への供養と思われる、石碑とお地蔵様があります(写真④⑤)。そして伝物見岩からは鳥栖市街が一望できる素晴らしい眺めでした。心地よい風も吹いていたのでとても気持ちよかったです(写真①②)。東橋バス停からは途中見学も含めると2時間かかり山頂まで着きました。誰もいなかったので、物見岩に座って30分間、この雄大な景色を眺めながら、ゆっくりとおにぎりを食べました。東橋でバスを降りてからここまで、飲料自販機すらなかったので注意して下さい。私はたまたま飲み物食べ物を、鳥栖駅前のコンビニで買ってバスに乗ったので、これはもう大正解でした!
帰りに東の伝二の丸へ寄りました。本郭との間を遮断する大堀切があり、その先の北面には高さ4mの二段積みの強固な石垣も築かれていました(写真⑥⑦)。下の堀の底から見上げるとなかなかの迫力です😯!(ここで矢や鉄砲で撃たれたら万事休すですね!)。そこから来た道へ戻るつもりがまたもや道を間違えてしまい、遠回りしてしまいましたが、標識と地図に何とか助けられ、来た道へ無事合流する事ができました(笑)(写真⑨)。
1584年に立花宗茂と和睦した広門は、北上してくる島津軍に対抗するため、筑紫氏館とそれをぐるりと取り囲む勝尾城を含めた周辺の5つの支城の防備を強化し、さらにその外城の防備をも固めます。この勝尾城の石垣や、以前モトさんが見られた一ノ岳城の石垣も、おそらくこの時期に築かれたものと思われます。
そして1586年いよいよ島津軍の北上が始まります。そしてその大軍はまず寝返った筑紫広門に向けられ、広門は勝尾城に籠城し、島津忠長2万の大軍がそれを取り囲みました。
そして最大の山場は、広門の子である「筑紫春門」が奮戦し、「川上右京亮(忠堅)」との一騎打ちであったようです。その直後、怒涛のように攻め登って来る島津軍に広門はついに敗れ、転々と山中にある支城に隠れながら逃走するも結局は捕まり、久留米の大善寺に幽閉されてしまいます。
私は伝物見岩に立ち、鳥栖市街を眺めてみました(写真②)。春門を失った広門は、この眼下に島津2万の大軍で埋め尽くされている光景を、どんな思いでここから眺めていたのでしょうか?
そして私は、あの勇ましい広門がなぜここで討死または自害をせず、捕らわれてでも生き延びる道を選ぼうとしたのか?・・・とても不思議に思いました🤔。この2週間後に同じ島津忠長軍に囲まれ、家臣763名とともに岩屋城にて全員壮絶な討死をした、あの高橋紹運とは対照的だなと思いました。どうやら筑紫家には、主君は何としてでも生き延びて血を絶やすな!・・・という家訓があったようです。
次は、広門が幽閉された大善寺を訪れます。
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2025/07/11 13:21
神代植物公園「バラフェスタ」とともに。 (2025/05/11 訪問)
神代植物公園の「春のバラフェスタ」を見がてら行ってきました。
色とりどりのバラたちが広い園内に零れるほどに咲き誇っていて、どれがいちばん好きって言えないくらい素敵な世界でした。
バラ園ではジェラート、深大寺に移動してお蕎麦をいただいてから深大寺城の登城口でもある水生植物園へ。
深大寺城はコロナの頃、運動不足解消のために歩いて来て以来です。櫓台は入れなさそうな感じでしたが、二郭の空堀に土橋、土塁は壮観で惚れ惚れします。一郭のそのままな雰囲気もよかったです。昔の地図と合わせてかつての姿を想像して楽しみました。
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2025/07/11 09:51
島原城 登城 (2025/07/09 訪問)
100名城スタンプで空白が多い九州のお城に行ってきました。
長崎市内に宿泊して、西九州新幹線にも初搭乗、島原鉄道に乗り継いで島原に到着。
駅近で登城しやすいとはいえ猛暑の季節はお城巡りには不向きですね。暑すぎです。
登城後に寄った、酒蔵を改装した「島原ランチ、カフェの店 Luna Base(ルナベース)」にて島原名物のそうめん、かんざらしをいただきました。
なんとそのお店には、千田嘉博先生のサイン色紙が飾ってありました。昨年の秋に来られていたようです。なんか嬉しくなってしまった。
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2025/07/11 04:57
(東海&関西)遠征23日目:稲垣西城(城びと未登録 三重県津市) (2025/06/06 訪問)
稲垣城(城びと未登録 三重県津市)から、そのまま山中を西に向かい、しばらくすると、稲垣西城(城びと未登録 三重県津市)に着きました。
1529年(享禄2年)に北畠氏から稲垣の地を与えられた川原田相模守実秀によって築かれたと云われています。
1584年(天正12年)実秀の子隆秀が城主であったとき蒲生氏郷によって攻められ落城、隆秀は山田野に逃れました。
その後、氏郷に内応していた岡村修理亮、その子・修理允が居城したが、天正年間(1573年~1592年)長野左京進と争い、自害したようです。
主郭の北側には堀切、南東下には堀がありました。
稲垣城(城びと未登録 三重県津市)からの下城は、万福寺東鉄階段付近(34.655750、136.325387)に向かいました。
階段付近は結構、籔がひどく足元が見えません。
攻城時間は15分くらいでした。本日の城巡りは、ここがラストです。
本日の宿泊先に行く為、関ノ宮駅から電車で松阪駅に戻り、コインロッカーより荷物を取り出した後、松阪駅から電車で静岡駅に向かいました。
静岡駅での夕食はしらす丼、お土産にお茶を購入しました。
歩行歩数=22306歩、歩行距離=15.6Kmです。
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2025/07/11 04:52
(東海&関西)遠征23日目:稲垣城(城びと未登録 三重県津市) (2025/06/06 訪問)
稲垣北城(城びと未登録 三重県津市)から稲垣城道標に戻り、今度は南側に回ります。しばらくすると、稲垣城(城びと未登録 三重県津市)に着きました。
1529年(享禄2年)に北畠氏から稲垣の地を与えられた川原田相模守実秀によって築かれたと云われています。
1584年(天正12年)実秀の子隆秀が城主であったとき蒲生氏郷によって攻められ落城、隆秀は山田野に逃れました。
その後、氏郷に内応していた岡村修理亮、その子・修理允が居城したが、天正年間(1573年~1592年)長野左京進と争い、自害したようです。
稲垣城はいくつかの小さな郭で構成されており、各郭間に堀切がありました。
主郭は高土塁で囲まれ東中央に虎口があり、郭2と土橋でに繋がっています。
主郭の西背後と東側(郭2との間)、郭2の西側にも堀切がありました。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=稲垣西城(城びと未登録 三重県津市)へ徒歩で向かいました。
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2025/07/11 04:46
(東海&関西)遠征23日目:稲垣北城(城びと未登録 三重県津市) (2025/06/06 訪問)
山田野城から徒歩30分くらいで、稲垣城道標前(34.655825、136.327555)に着きました。
1529年(享禄2年)に北畠氏から稲垣の地を与えられた川原田相模守実秀によって築かれたと云われています。
1584年(天正12年)実秀の子隆秀が城主であったとき蒲生氏郷によって攻められ落城、隆秀は山田野に逃れました。
その後、氏郷に内応していた岡村修理亮、その子・修理允が居城したが、天正年間(1573年~1592年)長野左京進と争い、自害したようです。
稲垣城道標から北側の山に直登します。
谷に面した南端部分の主郭に土塁と堀切、堀切の東端部が土橋なっています。
主郭の北側は平坦地になっていて、その先に土塁と堀、その北側にやや離れて堀切がありました。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=稲垣城(城びと未登録 三重県津市)へ徒歩で向かいました。
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2025/07/11 04:41
(東海&関西)遠征23日目:山田野城 (2025/06/06 訪問)
家城城から徒歩40分くらいで、登城口付近(34.643060、136.3147830)に着きました。
天正年間(1573年~1592年)に長野左京進が築城したとされています。
長野左京進は北畠具教の家臣であり、1568年(永禄11年)織田信長が伊勢に進行し、北畠氏は大河内城に籠城しましたが、その際、左京進は奮戦しました。
しかし、北畠氏が織田氏陣営に吸収され、左京進も信雄の家臣となります。
1576年(天正4年)三瀬館に隠居していた具教を左京進は、柘植、滝川らと殺害しています。それ以後にこの地を与えられ築城したと思われます。
北畠(織田)信雄と羽柴(豊臣)秀吉が対立した1584年(天正12年)には信雄から蒲生氏郷を通じて秀吉方に寝返ったとされます。
同様に蒲生氏郷に内応していた小倭の岡村修理亮とは仲が悪く、その子清次郎に津の半田山で殺されました。
その後、城は織田信包が守岡金助にこの城を与えたとされます。
城跡には倒木が多いですが、土塁、堀切、竪堀などが確認できます。
攻城時間は45分くらいでした。次の攻城先=稲垣北城(城びと未登録 三重県津市)へ徒歩で向かいました。
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