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小城小次郎

鍬作りから戦国武将とは (2023/12/09 訪問)

この城に拠った曲渕氏は一介の鍬作り(つまり鍛冶屋?)から成り上がったとされ、龍造寺氏の安楽平城攻めに際しては龍造寺方についた原田氏の指揮下で道案内を務めたとか。変わった経歴の武将が出るのも戦国の世ならではか。

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天守無しがアツい

大日本史の功罪 (2024/05/11 訪問)

1枚目右が水戸城の御城印…3種類販売されてましたが、「スタンダードタイプだけ買えばいいかな」と思ったのでそれにしました。北澤売店という土産店で…それ以外に城カードと徳川光圀のマンガも買いました

(Wikipedia)https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%BD%B0%E8%80%83%E9%A4%A8

徳川光圀が「大日本史」の編纂を始めたのは30歳(数え歳)の時…兄と弟がお互いに家督を譲り合って…しまいには2人とも国を出るという兄弟愛の物語などが描かれた史記(司馬遷が書いた中国の歴史書)に感銘を受けて「もっと書に触れて人としての道を極めよう」「史記のような国の歴史を1つにまとめた壮大な歴史書を私も作りたい」と考えたのがきっかけだそう

その編纂施設は彰考館と名づけられ、館員の佐々十竹(助さんのモデル)に史料収集のため諸国を調査させ、貴重な古記録や文書を写して江戸へ持ち帰らせた…一方で安積澹泊(格さんのモデル)には佐々および他の館員が全国から持ち帰った多くの収集史料をさばいてもらい、編纂に貢献してもらったわけです

大日本史はその膨大なる量のため、光圀の生存時までに完成することはなく、過程の途中にて彼は病没👼 そもそも「大日本史」というタイトル名が決まったのも彼の死後(1715年)

彰考館(2枚目、なお正確に言うなら跡地。現在ここは市立第二中学校の敷地となってる🏫)は当初…江戸の小石川にあったものを光圀の晩年に、水戸城内に移転。大日本史は本紀と列伝の主に二つから構成されており、光圀の存命中に本紀は「百王本紀」として完成📖…彼の死後…50年もの中断期間も経て事業は継続され、1906年に本紀73巻…列伝(后、皇子、皇女、群臣などについて記録したもの)170巻…その他154巻…全397巻226冊が完成

明暦の大火をきっかけに編纂施設を設けて事業を開始したのが1657年…完成が1906年…巻数は397巻…連載年数および巻数を意識するとワンピースやこち亀を軽く超えるハードボリュームと言えましょう😂

3枚目は弘道館にて撮影した大日本史の原本。これがこの藩校にてテキストとして使用され、藩士がこれで学んでいった

ざっと見ると…大日本史二の表紙に「仁徳天皇…雄略天皇…」と記載があります。仁徳天皇とは(仁徳天皇陵との説で有名な)大仙古墳に関係すると思われる歴史上の人物…古墳時代…ということは二巻では古墳時代の日本史について記述がなされている?と推測できます

4枚目は3枚目の反対側から撮影したもの。八十一にて「比企能員…北条義時 三浦義村」の記載が表紙にあり、つまりこの巻では鎌倉時代前期についての記載がなされてる🥴

ちなみにこの大日本史…(私自身はそれを1冊も読んだ事ありませんが、聞いた話によると)南北朝の騒乱においては南朝(つまり後醍醐天皇側)を正統と見做し、その中でも天皇に最期まで尽くし殉じていった楠木正成をベタ褒め…尊皇の鏡として扱っているそうです

そう表現された作品を江戸時代に、多くの人間が読み…強く影響された人間が尊王攘夷志士となり…彼らからリスペクトされ理想とされていた存在が正成…そして明治維新からしばらくして、明治政府の役人(その多くが元尊王攘夷志士)によって皇居の側に正成像が造られたと…(過去記事URL)http://tsukimushi.blog.jp/archives/24056840.html

余談として大日本史に対する個人的見解を盛り込ませていただくと…

良く捉えれば尊王攘夷思想を作り上げて維新志士に大きな影響を与えて明治維新の礎となった日本が世界に誇る歴史長編物語📖

悪く捉えれば多くの若者を尊王攘夷思想に染め上げて幕末の日本をカオスに陥れた悪魔の本👿…その一例が天狗党👺

と言った具合かな?😅

(館内で放映されているアニメ)
https://youtu.be/LvtlE7Pu1NA?si=Xss3s2ygCaKGXb8i

彰考館の隣に「二の丸展示館」という無料で入れる施設があり、入ってみるとテレビが置かれており、アニメが繰り返し放映されてました。それが↑URLの動画

小学5年の男子(水戸光)と女子(千波葵)が剣道の試合中ぶつかった際にタイムスリップ…七郎麿(後の徳川慶喜)と徳川斉昭(葵からは烈公様と呼ばれてる)と出会い、出来たばかりの藩校…弘道館で「弘道館の名の由来」を斉昭が問い、七郎麿が「人よく道を広む、道人を広めるにあらず(人が道を広めるのであって道が人を広めるのでは無い…事を行うのは人、弘道館は道を広める人を育てる)孔子の論語の言葉です😏」と模範解答…

葵のスマホ見て「印籠か?」と不思議がる斉昭と七郎麿…「気を張るのが弘道館なら気を休めるのが偕楽園」と一張一弛を語る斉昭。スマホで記念撮影(撮影した時に葵の腕先が太くなってる…ちょっと作画崩壊?😅)…それから現代に戻るも、撮影画像にはきちんと4人の姿が写っており「夢じゃないみたい…😆」と不思議な体験をする…内容

館内には展示スペースもあり、(弘道館と同じく)大日本史の展示がここにもありました。あと水戸城のジオラマ(5枚目)も🏯…それを見るとこの城には弘道館だけでなく、他にも二の丸に大きな屋敷(屋形)があったりと、城としての政治的機能が備わっていたようですが、今は別の建物…二の丸には水戸第三高等学校…本丸には水戸第一高等学校🏫…が存在

年表(6枚目)…水戸城に関連する出来事がここに紹介されており、この右下に数行だけ…天狗党および諸生党の騒乱が記載されてます。けれどあくまでそれだけ…

実は天狗党、浪人や農民を中心として集めた貧民集団…尊攘のヤル気だけあれど金が無いために近隣の住民から略奪や放火などをおこなった犯罪的集団でもあり、それが民衆から嫌われて当事者は皆世を去ってしまった今もなお、その悪評が受け継がれてタブー扱い…「天狗党特集なんてとんでもない」なのかもしれませんね👺

展示館とは直接の関係はありませんが、水戸城からの帰り際に水戸駅前の水戸黄門像(7枚目)を目にしました。黄門様…助さん角さん…全国を旅して、悪党を目にすると「この印籠が目に入らぬか!」というのはかなり有名なセリフですが…所詮それはドラマのフィクション

黄門のモデル(徳川光圀)は全国旅なんかしてないし、助さんのモデルだけが大日本史編纂のための史料集めに全国を巡った…だからこの像もウソと言えばそれまでなのですが、せっかく来たから…ということで解説文を読み撮影したわけです

今回の水戸城訪問…「朝から夕方近くまで時間あるから、城全部巡れるだろう😚」と最初は考えてました。けれど思ったより展示品見物およびスマホ雑務に時間をかけてしまい、二の丸展示館までで終わりました

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天守無しがアツい

昔は渋谷城 今は金王八幡宮 (2024/06/16 訪問)

(渋谷城wikipedia)https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%8B%E8%B0%B7%E5%9F%8E

今や大都会の渋谷…しかし平安時代末から16世紀にかけてまではこの辺りにも城が存在していたそうです。渋谷氏という一族の居館があり、天然の要塞じみた場所に存在していた

しかし1524年に北条氏と上杉氏の交戦の最中に、北条側の別働隊の攻撃により焼き払われた(おそらく渋谷氏は上杉側だったのでしょう)。武蔵高輪原…今で言う高輪プリンスホテルの辺りで侍どうしの戦がおこなわれた…なんか現代のイメージとのギャップを感じざるを得ませんね⚔️

(金王八幡宮wikipedia)https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E7%8E%8B%E5%85%AB%E5%B9%A1%E5%AE%AE

渋谷城の面影を今に伝える物は(1枚目の)石1つ🪨 現在ここは金王八幡宮という神社になってます⛩️ 金王とは金王丸…土佐坊昌俊(源義経を暗殺しようとしたが捕えられて処刑された)の幼名であると、境内にある御影堂(2枚目)の案内板にはあったのですが、wikipediaによるとそれを裏付ける証拠は無いそうです

(土佐坊昌俊wikipedia)https://ja.m.wikipedia.org/w/index.php?title=%E5%9C%9F%E4%BD%90%E5%9D%8A%E6%98%8C%E4%BF%8A&diffonly=true#%E9%87%91%E7%8E%8B%E4%B8%B8%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6

土佐坊と言うと「義経様お命頂戴😁」と義経に切りかかるも避けられて取り押さえられ、頼朝に暗殺を命じられたとゲロって斬首される…悪役というイメージがどうしてもあるため、案内板の「勇ましい最期をとげられた」という無理矢理ポジティブな表現にどうしても違和感を覚えました😂

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ぴーかる

松岡城 (2024/04/20 訪問)

【松岡城】
<駐車場他>松源寺・松岡城跡駐車場10台分程あり。
<交通手段>車

<見所>空堀・堀切・土塁・切岸
<感想>日帰り飯田・伊那地方河岸段丘平山城の旅5城目。現地説明板によると松岡城は南北朝時代に市田郷の領主松岡氏によって築城されたとされます。戦国時代に大改修が加えられたと考えられ、1588年に徳川家康によって松岡氏は改易され廃城となりました。
 城跡は天竜川によって削られた河岸段丘の城で、南東端の谷から北西側の丘陵地に連郭の曲輪が5つあります。各曲輪は空堀で遮断していて曲輪と同じ5つの堀があります。北と南が深い谷になっています。北西側の丘陵地と城を遮断する「5の堀」は深い幅広で見応えがあります。主郭は最奥の南東端にあり広大です。主郭虎口跡から大手道もそのままの遺構のようで、主郭には直線に段状になった所があります。建物があったと思われます。虎口跡や主郭内部に石列が残ります。主郭には帯曲輪が巻いていて帯曲輪からの主郭切岸は見応えあります。主郭の南東斜面は谷のやや緩斜面になっていて、ひな壇状の小さい曲輪や竪土塁で防御を固めています。現地縄張り図にある畝状竪堀群は見るために降りましたが、表面観察では見受けられませんでした。城跡は公園整備されていて非常に散策しやすく、堀底に降りてスケールの大きさを楽しめます。いい城跡でした。
 松源寺は井伊直政の父、井伊直親が9歳から10年間避難先となったお寺で当時は現在ある位置より2㎞程西方にあったそうです。

<満足度>◆◆◇

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零汰

(2024/05/21 訪問)

〇〇館など遠い昔武士の発生の頃に存在していて、特に平地に数多くあった方形型の館跡は開発で消滅しており、私は部分的に残っている遺構の断片しか見た事が無かったです。開発から逃れた地域ではしっかりと残っているのでしょうけど。

陣屋ですが、基本構造は鎌倉時代の館跡を大きくしたようでした。平地にあり、2か所の門・四方を土塁と空堀で囲っていて書物でよく見る武士発生当時の館の図の実物が目の前にあるようでした。

館の出来始めた時点を1200年代としてこちらの陣屋は1800年代、600年経っても基本形状は変わらず築造するのは何故なんだろう?この形状が最強だからなのでしょうか?それとも日本人の特性で慣例だからとか〇〇藩もこうだからそれに合わせよう等の理由なのでしょうか?確かに江戸時代末期で戦の心配は想像できない時期だったので前に倣い他藩に倣いもあったかもしれませんね。それにしても600年変わらずって首を傾げたくなりますがきっとこの形状が最強だったのでしょう。

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チェブ

土塁は遊び場? (2024/05/04 訪問)

仙台市の住宅街にある「富沢館」はフェンスで囲われた公園でした。立派なL字の土塁があります。
近くの住宅は比較的新しく、幼い子供のいる ご家族がなん組か遊んでいました。
説明板がありましたが、少し遠くに車を路駐して歩きました。
説明板の写真を写し、土塁へ。

わわわっ、崩されている (゚Д゚)!!
近くに置いてあるプラスチック製のシャベルには、かわいいお名前が書いてありました。
こんな子供用のシャベルで、土塁って崩れてしまうのか?はたまた、子供武将たちの執念か?

土塁の中を、こんな状態で見たのは初めてだった「富沢館」攻めでした。

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しんしんちゃん

良い城跡だとは思うんだけど。 (2024/04/29 訪問)

大平城は本丸にたどり着くまでが大変ですが、ひとたび裏手に回り込めば、比較的楽に散策が可能です。尾根上に東西に曲輪が連なり、先を堀切で防いでいます。本丸の周辺にも腰曲輪が配され、北西にも曲輪が続きます。この時は、まだ気候が良かったので気持ちよく散策が出来ました。問題は帰り道です。行きと同じようにヤブシダが行く手を塞ぎます。
とにかく出曲輪までたどり着かないといけません。ルートがわかっているのに、非常に進みづらい。案内板も文字が消えかかっているし、ちょっと手入れが必要だと感じました。

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しんしんちゃん

柿本城 (2024/04/29 訪問)

元亀3年(1572)10月、盟約を破って武田信玄が徳川家康の治める遠江に侵攻してきました。戦国時代の約束なんてこんなもんです。この時、山県昌景の率いる5千の軍勢が5百の兵が守る柿本城に押し寄せてきました。当時15歳の城主・鈴木平兵衛重好(重時の嫡子)は満光寺の玄賀和尚らの仲介で和議を結んで開城し、伊平小屋山砦に逃れたそうです。
この時、満光寺と山県昌景の間にパイプが出来たのかは不明です。でも三方ケ原の合戦で逃げてきた家康はニワトリが鳴かなかったら命を落としていたかもしれないわけで、なにか引っかかるものがあるんですね。いやいや、人を疑っちゃいけないよ!‥でも戦国時代 お人よしだと命が幾つあっても足りません。寺領三石って結局ニワトリのエサ代だったんですかね?

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chiroru

名物 唐造りの天守閣 (2024/06/14 訪問)

観光で何度も訪れたお城ですが、視点を変えてからの訪問は初めてでした。

石垣や堀も十分に見れたり、いろいろな角度から天守閣も眺め、門跡も辿りました。

名物の唐造りの天守閣は新幹線から見えたりしたらいいだろうなぁなんて思ったりもしました。

こちらも名物、「ぬか炊き」おしろテラスで購入!

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10Q-Nobu

念願の山城へ (2024/06/16 訪問)

ずっと行きたいと思っていた山城、月山富田城を遂に見ることができた。
安来駅からバスで向かったのですが、遠目に見えた段階で山頂を平たく整地した形であれが富田城だとすぐに分かります。
城内に入っても三の丸に上がる手前の急斜面を七曲りの道で登るのはインパクトあります。
頂上の景色はもちろん素晴らしく、行く価値のある城です。

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イオ

天花寺城(三重県松阪市嬉野天花寺町) (2024/04/27 訪問)

天花寺城(てんげいじじょう・城びと未登録)は、中村川西岸の段丘上に位置し、天花寺氏の居城とされますが、織田信長の伊勢攻めの際に北畠氏の命により佐藤氏らが籠城した記録が見られるくらいで、詳細は不明です。

近くに駐車場がないので、天花寺町交差点付近の空きスペースに駐めさせてもらって登城開始。城域の真ん中を県道が南北に通っていて、交差点から県道沿いに北に向かい縁石が途切れたところから東の山中に入ると、すぐに曲輪Ⅱ西辺の土塁と横堀が見えてきます。さらに東に進んだ先でも曲輪Ⅱと主郭の間の横堀が北へと続いていました。主郭の大半は竹と笹に覆われていますが、周囲を囲む土塁は明瞭に遺り、南側には外枡形状に土塁を設けた虎口が開口しています。南東辺の土塁上を北に進むと、南東側は切り立った断崖になっていて、段丘の突端に築かれていることが実感できました。主郭から北東にのびる尾根は二重の堀切で遮断しています。

主郭一帯は竹藪と化していることもあり、時季的にタケノコを掘り返した跡があちこちに見られ、イノシシの生息域なんだろうな…と覚悟はしていましたが、堀切付近の樹木に刻まれた傷痕は……まさかクマもいるんでしょうか!? そう考えると藪の中でガサガサいう音(鳥…だと思いたい)にも震え上がって、主郭西隣の曲輪Ⅱは横堀周辺をざっと見ただけで県道まで引き返しました。

県道の西側にも曲輪が続いているようなので、竹に掴まりながら斜面を登ると竹藪と化した削平地が広がっています(クマが怖くても行くんかい!)。発掘調査では建物の痕跡は見つからず信長の伊勢攻めの際に籠城した兵の野営地と考えられるようで、遺構としては区画溝が見られるくらいでした。また、天花寺町交差点南西の山中には天花寺城南端の堀切があるようなので、西側から回り込んで行ってみると、藪に覆われてはいるものの、大規模な堀切が設けられていました。堀切を越えた先には出曲輪と思しき小曲輪群も見られます。

県道から入ってすぐに横堀に土塁、虎口や二重堀切が見られる点はおすすめですが、クマではなかったとしてもイノシシには遭遇しかねないので、登城時は充分にご注意下さい。
 

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しんしんちゃん

横須賀城の遺構 (2024/05/25 訪問)

横須賀城もなかなか遺構が豊富です。掛川市山崎にある撰要寺には不明門が移築されており、城主である大須賀氏の墓所が有ります。向かって右が初代城主・大須賀康高公の墓で、左が二代 / 五代藩主の大須賀忠政公の墓になります。
掛川市役所大須賀支所の敷地内には、民家として使用されていた横須賀町番所が移築されています。造りもしっかりしいるし、なんとなく生活感が漂っています。先日にも投稿しましたが、掛川市西大淵の本源寺には搦手門が移築されています。道は狭いですが、運が良ければネコ番兵に遭遇できるかもしれません。

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しんしんちゃん

鈴木長門守重勝 (2024/04/29 訪問)

柿本城は井伊谷三人衆の一人、鈴木長門守重勝によって標高190mの子路山に築かれたとされています。「道の駅 三河三石」の裏山にあたり、道の駅から満光寺を経由してすぐに本丸にたどり着くことができます。本丸南側に緩やかな斜面が壇状に連なり、本丸の周囲には柵列と門が再現されていて、なかなか山城の雰囲気が出ています。
本丸南西にはちんまりとした三の丸があり、そこから北西の二の丸に道が続いています。本丸の東には最高所となる出丸があり、全ての曲輪を問題なく周遊することが可能です。

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しんしんちゃん

水攻めは失敗だけど、堤に名前が残る。 (2024/05/05 訪問)

石田堤は豊臣秀吉の小田原征伐の際に、石田三成が忍城を水攻めするために築きました。映画「のぼうの城」で有名だとおもいます。
総延長は28kmにおよび、一週間の突貫工事で行われましたが、増水した水量に耐えられず、堀切橋のあたりで堤防が決壊し水攻めは失敗に終わったそうです。
もしくは、堤防より忍城本丸のほうが僅かに高地にあったため完全に水没しなかったという説もあるようです。
水攻めの発案には豊臣秀吉も関与していたという説もあり、忍城攻略に失敗しても、特にお咎めもなく三成が重用されているのを見ると、太閤にとって忍城攻略は取るに足らぬ小事だったようです。それよりも実務能力に長ける三成を戦で失うほうが問題だったのではないでしょうか。

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小城小次郎

遠隔赴任のサラリーマンのような (2023/12/09 訪問)

安楽平城督であった小田部氏の苗字の地だが大友氏家臣の大津留氏の庶子だったであろう鎮元がここに領地を得て初めて小田部を名乗ったらしい。小田部城を社宅として与えられ安楽平城に赴任したサラリーマンといったところか。

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カズサン

奥州藤原氏系樋爪氏の居館 (2024/05/22 訪問)

 高水寺城を終えて南下約4km程の国道4号線沿い明石小学校、薬師神社、五郎沼辺りが樋爪館跡全体に成るようです。
 樋爪館は東北城探訪3日目岩手県4城目で初登城。

 駐車場:五郎沼古代蓮南のジャリ駐車場は有る、私は橋爪館跡史跡マーク地に路駐、箱清水公民館の東前道幅寄せ路駐。
 参考資料:余湖図コレクションさんグーグルマップに依る。

 箱清水公民館と薬師神社参道がグーグルマップの樋爪館跡史跡マーク地、同じエリアに薬師神社由緒と大荘厳寺跡の石碑、明石小学校北東角に樋爪館跡案内板、五郎沼の蓮池に平泉から株分けされた古代蓮が植わってる、更に南に砂利道の公園駐車場、東は五郎沼、五郎沼駐車場の北側に樋爪館跡周辺の想像歴史絵図、橋爪館の解説板、五郎沼の蓮のいわれパネルが掲示されている。
 想像絵図を見ると平泉の館を小型にした古代ロマンあふれる館跡の様でした、政庁、御殿、寺社、五郎沼と周辺の町屋、五郎沼から北上川を介して平泉への河川交通が容易に考えられます。

 案内板によると
 樋爪館は奥州藤原氏初代清衡の4男で清綱、樋爪氏を名乗り拠点とした、平泉北方の砂金や馬、漆、米などの物産を流通する要所としてと街道、北上川を使い平泉へと繋がっていた。
 頼朝の奥州討伐に樋爪氏も抵抗するも抗いがたく館に火を放ち北の逃亡した。清綱の子太郎俊衡が頼朝に奥州藤原家中唯一一人許されて、この地の戻って寺の住職に成ったという。
 想像絵図を見ると栄華の頃が偲ばれ、史跡は標柱に案内板で830年前の流れを感じる樋爪館跡探訪でした。

 この後は、東北城探訪岩手県5城目寺林城、6城目毒沢城へ登城移動し、先の5月26日と27日に投稿済です。
   

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ぐっちゃん

弘前城 (2023/09/20 訪問)

市役所の駐車場に車を停めて本丸に向かいました。車いすでも十分見学できますよ。

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10Q-Nobu

気軽な登城で良い景色を (2024/06/15 訪問)

鳥取県内移動して太閤ヶ平、鳥取城に続いて米子城も見てきました。
米子駅から街中歩いても行ける好立地。登城口の枡形はキッチリ石垣で固められ期待が高まります。
上まで登ると米子市内から境港越しに日本海を望め、素晴らしい景色です。
登り口もいくつもあるので何度でも楽しめそうです。

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零汰

市街地で出入り自由 (2024/05/09 訪問)

こちらの陣屋跡は市街地で隣に小学校が建っていました。現地に着くと柵で囲っている事もなく道路から自由に出入り出来てあっけにとられた感じでした。(写真6)自分の子供時代でしたら、土塁や空堀を駆け回り銀玉鉄砲片手に気軽に遊んでいた事でしょう。そんな身近に感じられる雰囲気の場所でした。

大半の遺構は新旧小学校の建設で焼失したそうですが、現存する範囲も思いの外広く楽しめました。何よりも陣屋跡の遺構をそれまで見た事がありませんでしたので尚更です。(その後になって立ち竦む程の陣屋跡を見るようになりますがこの時はそう思いました)一部復元か所もあるかもしれませんが土塁・空堀は残っていますし立派な石碑が2つ、案内板が1つ設置されています。

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10Q-Nobu

見る順番を間違えた。 (2024/06/15 訪問)

太閤ヶ平から下りてきて、そのまま鳥取城を見に行きました。
有名な球状の石垣も見応えある立派な城なんですが、太閤ヶ平を先に見た所為で上から見下されている感があり、テンション上がりませんでした。
鳥取城→太閤ヶ平の順で見ることをオススメします。

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