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しんちゃん

この石なんの石 気になる石 (2024/10/20 訪問)

主郭部は比較的狭く南北に長く連なっています。北上していくと小さな庭園らしき遺構があり、その先に降って行くと土塁や堀らしきものが有りました。目的の物は‥ありました。さりげなくそこに鎮座しています。
グーグルマップにも載っている「この石なんの石 気になる石」です。城址に鎮座している不思議な石というと飛騨市の古川城で見た
「蛤石」を思い出します。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)18日目(最終日):永原城 (2024/10/09 訪問)

桜生城から徒歩35分くらいで、説明板付近(35.091569、136.036370)に着きました。

永原城の築城年代は定かではないようですが、佐々木氏の支族永原氏によって築かれたと云われています。
永原氏の出自は詳らかではないようですが、六角氏に従った国人領主であったそうです。
永原御殿は、江戸初期に将軍上洛の宿舎として造られましたが、将軍上洛が停止されると1686年(貞享3年)廃城となりました。

本丸には土塁や石垣が残っているようですが、土塁修復中の為かつ竹林で私有地という事もあり断念しました。
説明板付近から徒歩2分くらいの上田産業㈱前のこの位置(35.090413、136.035666)に永原御殿跡の看板があったはずですが、失くなっていました。
攻城時間は10分くらいでした。今回の公共交通のみで(東海&関西遠征)城巡りは、ここがラストです。
千葉の自宅に戻る為、家棟団地バス停から近江鉄道湖国バス➡JRを利用して、草津駅に向かいコインロッカーより荷物を取り出してから自宅に戻りました。
本日の攻城徒歩=31898歩、攻城距離=22.32Kmでした。
遠征の総攻城徒歩=602,651歩、総攻城距離=421.79Kmでした。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)18日目(最終日):桜生城 (2024/10/09 訪問)

辻町バス停から徒歩10分くらいで、日吉神社付近(35.071186、136.041070)に着きました。

桜生城の築城年代は、はっきりしないようですが、永禄年間(1558年〜1570年)には澤弾正少弼清光が居住し、1593年(文禄2年)に廃城となったようです。

現在も澤氏の末裔の方が住んでいるそうで宅地を囲むように高土塁が巡り、北西側は水堀になっています。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=永原城へは徒歩で向かいました。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)18日目(最終日):星ヶ崎城 (2024/10/09 訪問)

道の駅竜王かがみの里バス停から徒歩5分強で、道の駅駐車場の南奥にある登山道入口先にある、獣除けフェンス前(35.084786、136.078609)に着きました。

伝承によると、星ヶ崎城は観音寺城の支城として、在地土豪の鏡氏によって築かれた城とされていますが定かではないようです。
北麓にある井上館(鏡城)の詰城として築城されたようです。
鏡氏は佐々木定綱の次男である定重を祖とし、定重の子の久綱が鏡氏を称したことにはじまります。
この久綱は1221年(承久3年)の「承久の乱」 に倒幕軍として出陣し、尾張で討死したため家系は絶えてしまいます。
その後、京極宗家の子左衛門尉貞氏が鏡姓を継ぎ、代々、佐々木氏の旗頭をつとめました。
1563年(永禄6年)六角氏の有力な家臣永原氏などが叛旗を翻した観音寺騒動の際に、六角承禎を当城に迎え対峙したとうです。その後、織田信長に敗れ廃城となりました。
現在城址には主郭部に城址碑が建てられており、周辺には石垣が良好に保存されています。

道の駅竜王かがみの里から西光寺跡を経由して、約20分ちょっとで主郭に到着。石垣、土橋らしきものを確認しました。
攻城時間は40分くらいでした。次の攻城先=桜生城を目指す為、道の駅竜王かがみの里バス停から近江鉄道湖国バスを利用して、辻町バス停に向かいました。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)18日目(最終日):常楽寺城(城びと未登録 滋賀県近江八幡市) (2024/10/09 訪問)

浅小井城から徒歩20分くらいで、常楽寺城跡(35.144269、136.127728)常浜水辺公園に着きました。

常楽寺湊(常楽寺港)が使われるようになったのはいつごろかは定かでありません。
1535年(天文4年)の史料に「常楽寺船人」という記述があることから、近江守護・六角氏のもと琵琶湖舟運の湊(港湾)がすでに16世紀半ばにはあったようです。
つまりは観音寺城の湊として利用されていたようです。
さらに、1575年(天正3年)4月27日には、明智光秀が坂本から船で佐和山に移動中、風待ちで、常楽寺港に寄港しています。
安土城築城にあたって物資の運搬、さらには信長の出陣や移動の際にも常楽寺港の存在は大きな役割を果たしているようです。

常浜水辺公園に隣接する畑地一帯が城跡ですが遺構は残されていません。
安土駅に安土城郭資料館がありますが、時間がないのでパスしました。
攻城時間は10分くらいでした。本来、当初は敏満寺城を攻城の予定でしたが、10/7(月)雨と強風の為中止した、星ヶ崎城と桜生城、永原城をリベンジすることにしました。
次の攻城先=星ヶ崎城を目指す為、安土駅からJR➡近江鉄道湖国バスを乗り継ぎ、道の駅竜王かがみの里バス停へ向かいました。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)18日目(最終日):浅小井城 (2024/10/09 訪問)

北之庄城から徒歩40分くらいで、畑に続く細道(35.143384、136.115153)に着きました。
そこから、多武木神社(35.143597、136.115505)に向かいました。祠の中に多武木神社の説明板がありました。

浅小井城は鎌倉時代に浅小井四郎長家により築かれたようですが、元々居館形式の城を、戦国時代になって拡張修築したと考えられるそうです。
長家は、佐々木氏の一族で蒲生郡浅小井村を領して浅小井氏を称したそうですが、長家の子清長より深尾氏を称し、戦国時代には京極・六角氏に仕えました。
深尾元範は六角高頼より浅小井城築城を命じられ、元徳-元秀と六角氏家臣団の中で勢力を誇ったが、元秀の子秀長が伊庭氏の乱で伊庭氏に与したため、浅小井氏は滅び、1568年(永禄11年)に織田信長の上洛作戦により落城したようです。
1584年(天正12年)には羽柴秀吉に属した池田秀氏が浅小井城主となりますが、池田氏が伊予大洲へ転封となり廃城となったそうです。

畑に続く細道(35.143384、136.115153)を進むと、木立の中に城の説明板があるはずですが、無残な姿になったいました。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=常楽寺城(城びと未登録 滋賀県近江八幡市)へは徒歩で向かいました。

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じゅんじん

団地 (2024/10/18 訪問)

住宅団地になっていました。
近くに真田信繁が休憩したところと戦勝祈願した長吉神社があります。

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トク

石山寺(紫式部ゆかりの地を訪ねて②) (2024/11/11 訪問)

源氏物語発祥の地、石山寺を訪れました(写真①②③)。

私は大津城(びわこ浜大津駅)から京阪石山線に乗り、終点石山寺駅から行きました。現在入口には大河ドラマ館があり、そこではドラマのパネルやドラマでの衣装などが展示されていました(写真⑩)。

入口の東大門から入った紅葉のトンネルは若干色づき始めてはいましたが大部分はまだ青く、ピークは2週間後(28日前後)くらいでしょうか?(写真③外れたらすいません)。その頃に来たら紅葉がとても綺麗だろうな~とは思いますが、今でも京都と周辺はたいへん人が多く、さらにその頃は今の倍以上の人混みが予想されているので、御覚悟なされて行かれた方がよろしいかと(笑)。

石山寺を詣でたまひろは、ここで自分の好きな物語を書く事に没頭して気を紛らわせようと思い立ちます。この本堂の一角で琵琶湖や瀬田川を眺めながら構想を練り書き始めたそうです。その場所が今でも残っていました(写真④)。また紫式部の像(写真⑤)もありました。

まひろはここで、自由な恋愛や社会に出る事も許されず、閉ざされた女性たちのあわれさやはかなさを題材にした物語を書こうと決め書き始めます。しかしそのうわさがだんだんと広まっていき、その才が当時の最高権力者左大臣「藤原道長」の目に止まり、道長はここを訪れ「私のために新しい物語を書いてくれぬか?」と頼みます。まひろと道長の運命の再会でした(写真⑥の本堂で)。

最初は自分の書きたい物と反するので気が進まなかったようですが、結局は道長のために引き受けたようです。そして宮中に上がり、道長の娘で中宮「彰子」の女房(女官で教育担当)となります。

私も、まひろが没頭して書いたというこの場所から、同じように琵琶湖や瀬田川を眺めていると(写真⑦)、そういえばダラダラとした物語を書くのが好きな「紫式部とトクはどこか似ている?」とふと思ったのは私だけでしょうか・・・(🤔?)。

次は宮中「京都御所」へ続きます。
 

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todo94

日帰り羽越ドライブでの攻城⑧ (2024/10/20 訪問)

大川城で時間がかかってしまったので、ここがこの日最後の攻城となりました。立派な城址碑が建ち、空堀も深く、そして折れもあったりするのですが、笹や下草が刈られていないので、見栄えは今一つといったところ。それでも帰りがけにサクッと攻略するには手ごろな城でした。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)18日目(最終日):北之庄城 (2024/10/09 訪問)

豊年橋和船のりば口バス停から徒歩10分弱で、北之庄神社鳥居前(35.145617、136.090274)に着きました。

築城時期・築城者など詳細は不明のようです。観音寺城六角氏関連と考えられるとの事ですが、遺構から織田信長侵攻後にも改修された可能性が指摘されています。

北之庄神社登山口は石段上の小屋の右手を木立の中に入ります。
登山道はよく整備されており、3つの休憩所を経由して城址説明板まで20分ちょっとで到着しまた。
上段曲輪の櫓台(のろし展望台)からは水茎岡山城方面が見え、七ツ池、東枡形虎口など見所満載です。
時間があまりなかったので、かなり端折って回りました。
攻城時間は60分くらいでした。次の攻城先=浅小井城へは徒歩で向かいました。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)18日目(最終日):浮気城 (2024/10/09 訪問)

金ケ森城から徒歩30分ちょっとで、浮気バス停付近(35.051492、136.002229)に着きました。

浮気城は観音寺城主・六角氏の家臣である浮気氏の居城です。
六角氏が織田信長によって滅ぼされると、以後は織田氏、豊臣氏に仕えました。
1570年(元亀元年)に信長が金森御坊の一向一揆衆と対峙した際にこの城を拠点のひとつとして利用したと伝えられています。

住吉神社の辺りにいくつかの土塁と堀らしきものが有りました。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=北之庄城を目指す為、守山駅からJR➡近江鉄道湖国バスを乗り継ぎ、豊年橋和船のりば口バス停へ向かいました。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)18日目(最終日):金ケ森城 (2024/10/09 訪問)

守山駅から徒歩25分くらいで、霊園前(35.055712、135.979328)に着きました。
そこから、徒歩2分くらいで金森御坊説明板前(35.056866、135.979220)に着きます。

金ヶ森城は、築城年代や築城者については定かでないが、川那辺道西の居城と云われており、1182年(寿永元年)に木曽義仲に攻められ、焼失したとされています。 
14世紀後半ごろに、川那辺氏は浄土真宗に帰依し金森には道場が開かれます。1465年(寛正6年)に本願寺法主の蓮如が京を追放されると、川那辺道西はこれを迎え入れました。
翌1466年(寛正7年)蓮如らは金森で蜂起し、比叡山の僧兵らと金森合戦に及びます。この金森合戦が、史上初の一向一揆であるといわれるそうです。
1469年(文明元年)蓮如は堅田へと移ったが、金森は寺内町として発達していきました。
戦国時代には一向衆徒の拠点ともなり石山本願寺と連携したが、織田信長の家臣佐久間信盛によって攻められ落城したそうです。 

金ヶ森城は、金森町地区の中心部にある善立寺一帯に築かれていたそうです。
現在、城の遺構は何も残っていませんが、善立寺南側の小公園内に石碑が建てられています。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=浮気城へは徒歩で向かいました。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)18日目(最終日):青地城 (2024/10/09 訪問)

最終日の今日は本日中に自宅に戻る為、ホテルでの朝食は抜きで出発しました。
草津駅バス停から帝産湖南交通バスを利用して、志津小学校前バス停へ向かいました。
志津小学校前バス停から、草津市立志津小学校の北側にある池の説明板付近(35.004061、135.977125)➡小槻神社(35.001334、135.976832)の順番で廻りました。

青地城の築城は古く、鎌倉時代まで遡り、もともと在地の土豪だった小槻氏を祖に持ち、後に近江守護職の佐々木氏一族・馬淵氏の養子となって青地氏を名乗った青地左衛門尉忠綱が築城・城主となったと考えられているそうです。
ただ築城の時期に関しては諸説あるようですが、青地氏は佐々木七騎の一人として強大な力を持っていたともいわれています。
織田信長によって主君の佐々木氏が滅ぼされた後、青地氏は信長側につき戦国の世を生き延びていったようですが、青地城は1573年(天正元年)頃には廃城になったと考えられているそうです。
信長亡き後は、豊臣秀吉方につき、前田利家、豊臣秀次の家臣に入りますが、この秀次が切腹させられた後は、歴史の表舞台からは身を引いたそうです。

志津小学校と小槻神社の間に土塁、堀などの遺構が残っています
志津小学校の北側の池も堀跡なんでしょうね。
攻城時間は20分くらいでした。次の攻城先=金ケ森城を目指す為、志津小学校前バス停から帝産湖南交通バス➡JRを乗り継ぎ、守山駅へ向かいました。

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鍋山安室 (2024/11/14 訪問)

 大鍋山に本丸、小鍋山に二の丸、下鍋山に出丸が築かれていました。四天王神社脇から登る道が大手道で、途中屋敷跡を経由して本丸などに行くことができます。本丸方面は道も整備され比較的歩きやすくなっています。途中紛らわしい分岐した道がありますが、石柱に「→大手」などと彫ってあり何とか登城することができました。字五名より登る搦手道もあるようですが、今回は確認していません。本丸東側に石垣が残っています。本丸の西側の険しい坂を下りて行くと二の丸です。石柱を確認して引き返しましたが、帰宅後に高山市のHPを見ると「二之丸は巨岩のそびえ立つ自然の要害で、西南隅に石垣が残存する」と記載がありました。ノーマークでしたね(いつものことですが)。その後、本丸へ戻り出丸へ向かいました。途中までの道はよいのですが、堀切を越え登り始めた頃より道がわかりにくくなります。何とか下鍋山を登り出丸の石柱を確認して周囲の曲輪を散策して帰って来ました。

 

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小城小次郎

たった一本の堀に面して門が二つに櫓が五つ (2024/03/02 訪問)

堀一本の縄張と言ってしまえばそれまでだが、この堀に面して門が二つ、櫓が五つも並んでいたそうだ。三日月陣屋を数量・サイズともに倍増させたくらいのイメージを持てばよいということだろうか。迫力満点じゃないか。

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しんちゃん

お〇〇岩 天草郡苓北町 (2023/01/03 訪問)

九州・天草地方を旅した時の写真です。富岡城を目指していた時に立ち寄りました。まあ‥見たまんまです。しかも、鳥居まであるし。
なんでも直に触ると胸が大きくなるそうな‥ちなみに私は触っていませんぞ。

天草四郎乗船の地‥天草郡苓北町坂瀬川
天草四郎率いるキリシタンの一揆軍は富岡城城代・三宅藤兵衛を討ち取りますが、城を落とすことは叶わず、ここから島原に向けて出航したとのことです。

富岡吉利支丹供養碑‥天草郡苓北町富岡字首塚地内
天草・島原の乱で一万余のキリシタンが討ち取られましたが、その首を三分して葬ったのがこの首塚とされています。供養碑は天保4年(1647)に代官・鈴木重成によって建てられたとされています。

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しんちゃん

石垣ビュースポットが3ヶ所 (2024/10/20 訪問)

麓のルートから登城し、主郭(本曲輪)にたどり着くまでにさまざまな遺構が目を楽しませてくれます。頂部からの見晴らしも良く、ハイキングコースとしても人気が有るようで、多くの人が訪れています。途中石垣のビュースポットが3ヵ所あります。二つ目は道の下側に付いているので見落とし注意です。竪堀や腰曲輪群などを確認した後は主郭に向かうところですが、その前に3ヵ所目の石垣を見に行きます。主郭西側の郭にその石垣が有りました。石垣をひとしきり確認したあとは、いよいよ主郭です。

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しんちゃん

古今伝授の里フィールドミュージアム 岐阜県郡上市大和町牧 (2024/10/20 訪問)

篠脇城の麓、東氏館跡庭園から県道を挟んだ先に古今伝授の里フィールドミュージアムがあります。いくつか建物が有って、東氏にまつわる展示の他、レストランなどもあります。和歌文学館には和歌にまつわる展示が多く飾られ、短歌を詠む人なら、一度は訪れたい場所と聞いています。昔は武士といえど和歌などの知識が無いと辞世の句も詠めなかったので、教養は必須だったようです。ただ強いだけではダメだったということですね。わたしもいずれ、歌なども詠めるようになりたいと思いますが、まだまだ先になりそうです。
「よぶこどり」では好きな文学書を読むことが出来、土産物なども売ってます。ここで買ったりんごは香りと味が良いと好評でした。

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しんちゃん

大桑殿屋敷 岐阜県山県市大桑 (2024/10/20 訪問)

大桑殿屋敷は南泉寺境内一帯に築かれていたとされ、土岐氏の屋敷跡とされています。北側の墓地の北の高台に土岐頼純の墓や一族の供養塔があるようです。

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しんちゃん

主郭の周囲に多様な堀の遺構が残る (2024/10/20 訪問)

篠脇城は東氏の城ですね。東氏は鎌倉幕府の功臣・千葉氏の流れをくみ承久2年(1220)郡上郡山田荘を領したとされます。南北朝の時代に南朝方の拠点、越前からの来襲に備え篠脇城を築いたとされています。応仁の乱の際には城主・東常縁が関東に下向している隙に守護代・斎藤妙椿に城を奪われてしまいます。常縁が詠んだ「あるが内に斯る世をしも見たりけり 人の昔の猶も恋しき」という歌が妙椿の耳に入り、かつての友人で歌仲間である常縁の悲嘆と歌に感じ入った妙椿は自分に歌を10首送ってくれれば、奪った所領をすべて返そうと約束します。常縁が歌を妙椿に送ると本当に城と所領を返してくれたそうです。
応仁の乱で敵味方に分かれていたとはいえ、両者ともに争うのは本意ではなかったようです。戦国時代では考えられない話ですが、何となく人間味が有りますね。
篠脇城主要部は主郭の北側に郭を段々に配したものですが、周囲に竪堀や畝状竪堀を周到に配しています。久々に来たし、じっくり遺構をみていこう、と考えていたのですがお腹の調子が悪くさっきからゴロゴロいってます。なんてこったい‥写真を撮りながら下山にかかります。

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