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T-Shionoya

使者を圧倒する名護屋城 (2025/10/23 訪問)

10月の佐賀県観光で訪れた、佐賀県唐津市の名護屋城。

壱岐島に最も近い九州本土のポイントである、東松浦半島最先端の波戸岬に繋がる海抜約90mの丘陵に築かれた城。

豊臣秀吉が大陸への出兵拠点として1591年に築城し、縄張は黒田官兵衛が担当。周囲一帯には全国から集結した武将が陣を構築。
1598年に秀吉が亡くなると全兵撤退となり、関ヶ原の戦いの後には建材が唐津城でリサイクルされた模様。更に一揆での再利用を防ぐため、江戸初期に石垣を破却したと考えられている。

現在は、その破城の姿を残す代表的な城跡で、農地や民家が建つ一部を省きほぼ全域を巡ることが可能。
堀秀治などの陣跡も整備され、博物館も併設する。

訪問時はまだ草に隠れた石垣も多かったが、遺跡感は期待通り。
大手口や東出丸、三ノ丸などの虎口は櫓台を備え、本丸や搦手の虎口は折れと坂を伴う枡形タイプ。特に本丸大手は厳かな雰囲気があり、5層の天守を持った城はただの陣城ではなく、大陸からの使者を圧倒するための道具であったと個人的には解釈。
他にも遊撃丸と二ノ丸西側の石塁や、折れを繰り返す山里口は見逃せないポイント。

堀秀治の陣跡はヤブ化していたが、陣跡でも石垣の枡形虎口を構えていたことに驚かされた、私の城郭巡りの212城目でした。

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ぎりょう

いつ来ても楽しい鶴岡市③ (2025/11/24 訪問)

湯田川温泉の隼人旅館の内湯と、旅館の側にある共同浴場でゆっくりと朝風呂を楽しんだ後は、鶴岡市街地へ。向うのは鶴ヶ岡城跡でしたがあいにくの雨模様。そこで致道博物館で雨宿りと考えました。城址の南西側の三の丸跡に位置し、旧庄内藩主御隠殿や庭園、旧鶴岡警察署庁舎、旧西田川郡役所など見どころの多い博物館です。御隠殿には鶴ヶ岡城関連の展示もあり、上杉氏、最上氏統治時代の大宝寺城を、酒井氏が入部後、三代五十余年を掛けて二の丸、三の丸を整備構築した、平城ながら堅固な姿を復元模型によって知ることができます。また国指定名勝の酒井氏庭園は四季折々の美しさがあります。
雨があがれば城址をゆっくりと散策しようと考えていましたが、二の丸の堀付近だけで終了。これまで春夏秋に何度か訪れているのですが、雪の季節は来たことがありません。海のもの、山のものと美味しい食材が多い鶴岡市、次は燗酒の合う季節にと思いました。

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ぎりょう

中新田「所」拝領の只野家在郷屋敷を訪ねて (2025/12/13 訪問)

今年が只野真葛(江戸中期の女性文学者・国学者)の没後200年にあたり地元加美町で開催された記念講演に参加しました。 
旧中新田町(現加美町)は戦国期には奥州探題大崎氏の拠点中新田城の城下町、奥州街道が整備される以前も出羽方面への街道が通る宿駅であり、江戸時代には仙台藩の地方知行制の中新田「所」(「城」、「要害」に準ずる要地)が置かれた場所。宝暦7年以降は、真葛が嫁いだ只野家1,200石(家格は着座)の知行地でした。大崎氏の中新田城址は町の北側なのですが、町の南西部に「城内」(現在の地名は旧館)と呼ばれる地域があり、子供心に不思議に感じたものでした。古くからの宿駅で、商業の街として栄えて来た中新田町民には藩政期はともかく、維新の後には只野家の知行地「中新田所」との意識は低かったのでしょうか。
「町史」掲載の只野家在郷屋敷は旧宿場町集落の南西側、鳴瀬川の左岸に位置し、集落とは、田んぼと畑、志田江川、股川で区切られ、東西80間、南北70間(約150m×130m)の居屋敷を中心に南北に家中の侍屋敷40件、足軽屋敷35件が並び建っていました。
北側に表門、南側に裏門を備えた広大な只野家居屋敷跡はすっかり民家となってしまいました。今回は中新田高校正門から南側に延びる家中屋敷街、かつて堀の役目を果たした志田江川や股川、宿場町から居屋敷に繋がる大手道の食い違い虎口に当時を思い描くだけ。気候のよい季節に再確認したいと感じました。

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ヒロケン

武田氏三代の館跡 (2025/10/25 訪問)

武田氏館跡は、武田信虎公・武田信玄公・武田勝頼公が居住し政治を行った戦国大名武田氏の館跡です。

武田氏館跡の初期は主郭のみで守護館の伝統を踏まえた方形単郭の構造でしたが、武田信玄公嫡男義信公の婚姻に際し西曲輪が増築されます。北側一帯には味噌曲輪・稲荷曲輪が増設され、勝頼公の時代までに付属曲輪群も含め館機能の拡充が進み、全国最大級の居館となります。
武田氏が滅びると、織田・豊臣・徳川の各武将は武田氏館跡を再利用し、大規模な改修が実施され主郭北側隅に天守台、南西に梅翁曲輪、大手を守る防御施設が築かれ、甲府城築城後まで甲府の政治・経済の中心でした。

武田氏館跡には10年ぶり3度目の訪問で、館跡の北側には信玄公が生まれたとされる要害山城・南側には武田氏滅亡後に築城された甲府城があり、どちらの城に行くにも車で行くにはアクセスがよく良い立地条件なのですが、10年も訪問していなかったので訪問してきました。
戦国最強を誇る武田信玄公が450年程前に、この地に居たと思うと唯々感激でした。

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チェブ

模擬天守の中で学ぶ? (2025/11/23 訪問)

前回投稿した「油井ケ島城」がよしみを通じていた「騎西城」に転戦。
2回目の登城です。
「油井ケ島城」から車で5分位で模擬天守が見えてきました。
学習センターと図書館側の駐車場を利用しました。こちらに二の丸跡の碑があります。裏側から模擬天守へ。
模擬天守は資料館になっていて、前回はお休みでした。
この日は開館、無料だしお邪魔するかと入城。
以外にも(?)見学している方々がいらっしゃいました。
中には発掘調査での出土品や農具等が展示してあります。
最上階では、何組かカメラを構えてました。順番を待つ感じで展示物を見ると、中学生による障子堀の製作品があります。
猫足軽の旗指物には『学力向上!』とあり、皆、障子堀にはまってました。( ´Д`)!。頑張って下さい。

上から土塁が見え、移動。バス停のある道路をまたぎます。
土塁の上には登る事ができないようです。2〜3メートル位の高さがあり、では、どうぞ、と言われても登る自信がありませんが、、、。
『私市城跡』と立派な石碑が建ってました。

久しぶりに上ばかり見ていた「騎西城」攻めでした。

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カズサン

乾通り抜けで観察した建物、遺構 (2025/12/02 訪問)

 乾通り抜けで皇居、江戸城を一部見学観察しましたので、現存建物、遺構の写真を投稿します。
 東京駅から和田倉門枡形石垣より入り、巽櫓と富士見櫓を遠望、二重橋と伏見櫓を遠望、坂下門、宮内庁庁舎横より富士見櫓を遠望、是非見たい観察したいと思っていた富士見多聞櫓との初対面、感激です写真集では見て居ましたが実物との対面は感激、内部に入れるのかな?乾通りに門長屋現存、名前は聞いていた道頓濠も実態を確認、本丸からの西桔橋門跡の遺構と橋、よく皇族の方々が利用されている乾門を裏表より観察、人が多く少なくなったところで写真撮影。
 江戸城は20代の頃皇居一周して櫓や門、濠、土塁を歩きながら撮影して50年以上経ってしましました、現在は歩いてはほぼ無理状態、一部でも見学観察出来て大変ありがたい。感謝です。
  

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なお

安土城跡訪問 (2014/04/30 訪問)

安土駅から徒歩で安土城大手口へ。大手口から山頂の天主台跡を散策。帰りは、摠見寺経由で百々橋口経由で退城しました。
講談社学術文庫 復元安土城(内藤昌)は、とても参考となります。

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なお

彦根城3回目の訪問(彦根城博物館完成後) (2014/04/30 訪問)

この日は、守山から琵琶湖線を使い彦根に移動。
彦根駅から徒歩で佐和口から入城し、彦根城博物館を見学した後、天秤櫓前の堀切を通り鐘の丸から天秤櫓を通り太鼓門櫓を抜け、
本丸(天守)へ。その後は、西の丸三重櫓前の堀切を通り玄宮園へ。
帰りは、彦根駅へ向かい駅前商店街にて昼食。
その後の予定は、彦根駅から琵琶湖線にて安土へ。

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カズサン

令和7年秋の乾通り抜け紅葉を観てきました (2025/12/02 訪問)

 今年11月29日から12月7日まで乾通り抜け紅葉見学は開催され、家内と新幹線で久しぶりの東京見学、上京です。
 以前から情報が在り、春か秋かに江戸城皇居の入れない所を見てみたいと思いも有り、家内の神宮外苑イチョウ並木、国立競技場を観たいとの希望も叶える企画をたて先ずは東京駅へ。
 東京駅丸の内側の駅舎も素晴らしく復元しイチョウ並木も今を盛りに色付いている、皇居前広場は坂下門へ誘導されている厳重な警戒態勢、数多くの荷物検査、金属検査前には順番を待つ列で渋滞、あまり時間を待たずに坂下門へ。
 後は人の流れで宮内庁庁舎前から乾通りを紅葉見学、外国の人日本人も多く道一杯に流れて紅葉を楽しんでいました。今まで見学眺望して居なかった富士見多門櫓は初体験、写真では見て居ましたが実物をみて感激で、本丸の高石垣、蓮池濠、乾濠、西桔橋門跡、道灌濠と遺構と建物を観てる時間が多く成って居ました。
 紅葉は赤に黄色、冬桜も一本咲いていました、目の保養を楽しませてもらいました、乾門まで約800mを堪能しました、又警備の方も質問を明快に答えてくれ感謝です。
 

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いんげん丸虫

麻生野城 福井県若狭町 (2025/11/24 訪問)

標高200mの山城です。
看板等は一切ありません。麓の宝重寺圜明堂
に駐車可能です。
背後の獣避け柵を開け、急斜面を直登します。
尾根上ピークを主郭とし曲輪が並びます。
堀切は大小約10箇所あり、風格ある遺構です。

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にのまる

忍者市駅! (2025/08/13 訪問)

北畠城館見学を午前中で終えて伊賀上野城へ行きました。
100名城スタンプ2巡目も順調にまわっています(^.^)
伊賀上野城、写真映えするポイントがたくさんありました!

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カズサン

城山公園として整備 (2025/10/30 訪問)

 義弘公を大河ドラマに!の幟旗が揺れる飯野城を終えて、南東方向直線約12.2km程経路15.2km程の小林城を目指す。国道268号線を小林方向へ、本町交差点で国道265号線を北へ、約1.2km程で大手橋交差点を山手の東に入る狭い舗装路地の坂道です、最後の急坂で駐車場到着。

 駐車場:小林城城山公園駐車場、集落の方が使用する広場、GG場ゲートボール場の様です。
 参考資料:古城盛衰記さんグーグルマップに依る。

 駐車場広場は広く、城跡側はシラス台地を削った崖に成って居る、入口近くに山の神神社、入口を少し下がって小林城址説明板、コンクリート護岸より登城路、細い道で遊歩道山手に登る様に丸太階段と手摺が本丸まで続いてる、草刈されて居るが小笹が茂って歩きずらい。本丸に上がるが木製の本丸標識は崩れ倒れている、小笹藪本丸周囲を歩き、低い土塁、切岸を確認、余り踏み込めず、登城路途中に二の丸の虎口土塁?、登城路下西に三の丸が有る様ですが未確認。
 石氷川が蛇行して東、北、西を護っている、南は急峻なシラス崖、独立小山を活用して築城。

 歴史は、小林城は伊東48城の一つ、永禄7年(1564年)から天正4年(1576年)の間島津氏と伊東氏の攻防が有り、天正4年伊東氏の高原城落城で小林城は開城し島津氏の領有と成る、義久、義弘、歳久の活躍が伝わっています。元和元年の一国一城令によって廃城。
 廃城後は小林麓とて地頭仮屋、家臣団の集落は残された。(小林城址説明板による)

 小林市には現役時代出張時に小林市えびの市湧水町人吉市を含めて訪ねて居ましたので、その時代から小林に城跡があったな?と思っておりやっと二十数年ぶりに登城が叶いました。加世田城・別府城と同じ思いです。

 この後は215km程を宮崎道高原IC経由東九州道佐伯ICより佐伯城へ進行します。
 

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しんちゃん

お城地蔵大菩薩 (2025/11/30 訪問)

羽島市映画資料館が城址とされています。関ヶ原の戦いの前には織田秀信の家臣・杉浦重勝が城主を務めていましたが、8月22日に東軍に城を包囲され、奮闘するも城に火をかけ自害したとのこと(案内板による)。西にある竹鼻別院の前にはお城地蔵がおりました。
ながいこと忘れられてきた竹ヶ鼻城の戦いの犠牲者を弔おうと町の某志が供養塔をたてようとしたが、戦時下の情勢の悪化で中断されたと案内板には書かれています。戦後に町内の有志がその意志を継ぎ、塔に代わってお城地蔵を建立したとのこと。
良い話ですな・・その後不思議な霊験が現れ城跡辺の蓮田から一茎双蓮の花が咲き、この霊験の有難さが四方に伝わってお城地蔵は一躍有名になったそうな。チャンチャン
ちょっとあやしくなってきましたが、お城の魂(城魂)が「ありがとう」ってお礼を伝えたとのことですな。

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しんちゃん

勝山・大垣市 徳川家康本陣跡・・なのだが (2025/10/19 訪問)

大垣市の安楽寺の背後にそびえる勝山(岡山)は関ヶ原の合戦に向かう徳川家康が本陣を構えた場所とされています。ですが現状、土地の所有者によって立入が規制されているため訪問することはできません。麓に「関ヶ原合戦慰霊碑」や勝山の碑があるのでそれを撮影させていただきました。
太平洋戦争の際には砲台が設置され高射砲が置かれたとされています。頂部には「第四一〇二部隊高射砲陣地跡」の石碑があるらしく、ネットで見るとかつては「家康物見台」という展望台があったようですが撤去されているようです。
設置されていたのはおそらく八八式七糎高射砲、もしくは九九式八糎高射砲だと思われ、AI先生の予想では七糎(センチ)のほうでした。
八八式は口径75mm・射高9100m・重量2.5tの比較的コンパクトな高射砲です。九九式は口径88mm・射高10420m・重量6.5tの強力な高射砲ですが米軍のB29は高度1万~1万5000mを飛行できるので迎撃は難しそうです。
例の「玉城」にも砲台跡が有るようですが高射砲陣地であったかは不明で、いずれにしても標高300mそこそこではB29を撃墜するのは難しいでしょう。南宮山周辺の史跡が軍事用施設に利用されていたことは興味深く、私は南宮山は陸軍に軍事用施設として重視されていたのではないかと考えています。
とはいえ野戦砲(砲台)陣地として利用価値が高かったのは飛行機が登場するWWⅠまでで、太平洋戦争では大口径の高射砲を設置するのには厳しい地形にあり、なおかつ設置した所で超高度を飛行できるB29を迎撃するのは困難だったと予測でき、南宮山には高射砲の陣地は設営されていなかったと推測します。
試作に近い五式十五糎高射砲であれば26000mの射高があるので、どこからでもB29をバタバタ落とせたんだけどね~

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BUGTI

令和8年3月で閉城 (2025/12/13 訪問)

来年3月で閉城するとのことで久しぶりに訪れました。天守はコンクリートとはいえ史実に基づいて外観復元されています。私は堀も含めた北西からの景色が好みです。先週行われた説明会には参加できなかったものの、発掘された石垣を柵の外から何とか見ることができました。地上に遺構は残っていないものの、城の近くの街中には「堀跡」の案内表示や石垣のモニュメントがいくつも作られていました。広島は戦災で多くを失ったからこそ、歴史を伝えることを大事にしている街なのだと感じます。

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朝田 辰兵衛

大宮公園駅から散歩気分で…🐾 (2025/11/03 訪問)

東武野田線の大宮公園駅から,徒歩約10分で土呂の地蔵堂に到着。向い側に土塁。ちょっと歩くと東大宮メディカルセンターがあり,隣接する駐車場がどうやら土呂陣屋のピン位置になります。不審者扱いされないうちに即退散しました…。

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御屋敷跡 遊歩道武士の道 (2025/12/13 訪問)

 昨年も来ましたが、近くまで来たので寄ってきました。本丸付近は整備されていて歩きやすい城址です。
本丸の北西に「御屋敷跡 遊歩道武士の道」の標識が建っています。以前来た時から気になっていました。前に来た時は獣の痕跡に怖気づいたこともあり、ここからの下山を断念しています。「戦国の魅惑が残る、土岐高山城・下街道」というHPの高山城復元想像図を見ると搦手にあたる道のようです。そこから門があったような地形を通り降りて行きました。途中で道がわからなくなりましたが、ピンクリボンなどを頼りに何とか下りて砂防ダム付近から退城することができました。

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二ノ丸 太鼓丸 三村氏居館跡 (2025/12/11 訪問)

 二ノ丸、太鼓丸、三村氏居館跡を追加で投稿します。
二の丸と表記されている場所は小曲輪群からなり、一部には石積みもみられます。出丸といった方がいいような気もしますが、日本城郭大系にも二の丸と書いてありました。

  成羽美術館近くの成羽川にかかる橋を渡って5分くらいの場所に三村氏居館跡があります。三村氏居館跡は三村家親が築営した平城で、成羽城とも呼ばれていました。鶴首城は有事の詰の城、三村氏居館跡は平時の館と考えられています。土塁に囲まれた居館で、土塁、石垣、堀の一部が残っているようですが、下調べ不足で行っていません。説明板と井戸跡を確認して退却しました。

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三村家親 (2025/12/11 訪問)

 文知5年(1189)河村四郎清秀が奥州攻めの軍功として源頼朝よりこの地に知行を得た際に築城したとされています。天文2年(1533)に三村家親が成羽に入ると拡大整備しました。城は標高320mの山頂に位置しています。高梁市立成羽小学校の裏にあるなりわ太鼓丸公園に登城口があります。倒木を越えなければいけない場所もありますが、登城路は概ね整備され案内標識も多くあり迷うことはありません。太鼓丸を経由して登って行き、途中で二の丸との分岐があります。いくつかの資料で二の丸と表記されていますが、出丸のような位置にあります。まずは本丸方面に向かい散策しました。本丸周囲には曲輪が展開し周囲には石積みが少し残っています。南側には二重の堀切、竪堀などがありました。西側にある竪堀群などは落ち葉の堆積もありわかりにくい状況です。近くには井戸跡と思われる場所もありました。

 
 

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カズサン

義弘26年居城の飯野城・義弘公を大河ドラマに! (2025/10/30 訪問)

 二式大艇を見学の後は東九州道、国道10号線、宮崎道経由えびの市のホテルへ、1泊して飯野城に近いホテルでしたので朝食後探訪開始、国道268号線信号交差点飯野中学校入口を北上し川内川を渡り直ぐに堤防沿いを降りて北へ亀橋を渡ると民家前に飯野城案内板、道なりに進むと大手冠木門を潜り駐車場に着く。

 駐車場:飯野城専用駐車場広くはない、トイレ無
 参考資料:余湖図コレクションさん城郭放浪記さん古城盛衰記さんグーグルマップに依る。

 大手冠木門から駐車場、本丸登城路はアスファルト舗装道、幟旗がそこかしこに立っている「義弘公を大河ドラマに!」とアッピールして居る。登城路を歩き本丸へ食違い虎口の様な本丸大手、本丸は広く北側に城名碑(亀城)、飯野城と島津義弘説明板、飯野城復元図付き本丸説明板が有り南に東屋、南西に物見曲輪への虎口があり枡形との看板が有るが良く分からない、虎口から南へ物見下郭と物見台郭、眺望は素晴らしいはずですが霧島連山の雲か霧か霞か懸かりやっと韓国岳が分かる程度、物見台にも「義弘公を大河ドラマに!」の幟旗、以前訪ねた栗野城にも同じ幟旗がありました。
 本丸、物見曲輪以外にも北側に三の丸、東側に二の丸、駐車場の近くに射場が縄張図、余湖図コレクションさんの俯瞰図に在りますが指示看板の先は草が茂り進入を躊躇い、本丸と物見曲輪までとしました。

 歴史は、島津義弘は父貴久の命を受け、伊東氏の勢力から飯野城を守るため、永禄7年(1564年)精兵60人を率いて加世田をたち、11月飯野城に入った。
 義弘は飯野城に30歳から56歳までの26年間居城し、数々の合戦に出陣した。元亀3年の木崎原合戦で伊東氏に大勝、天正6年の高城合戦で大友氏を破り、肥後の相良氏、肥前の龍造寺氏を次々と破り九州をほぼ制覇したが、秀吉の九州征伐で島津氏は薩摩、大隅、日向の三国体制に縮小。天正18年(1590年)6月栗野城に移った。島津義弘は享年85歳で生涯を閉じた。

 地元の方々は島津義弘のNHK大河ドラマ化を待ち望んでいます、希望が叶うといいですね!

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