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しんちゃん

馬籠宿 (2019/03/09 訪問)

馬籠宿の投稿です。特徴的な水車と坂の写真を目にした方も多いと思います。城ではないのですが古い日本の風景が広がっていて私は好きです。城びとを始めてからは城ばかりになってしまいましたが、それまでは神社や寺、旧跡めぐりも精力的に行っていました。
古い日本の歴史を丸ごと飲み込んでやろうというエネルギーが有ったのですね。若かったな~(今より)
馬籠宿は中山道43番目の宿場で妻籠宿と並んで人気の観光名所です。妻籠は落ちついた雰囲気がありますが、馬籠は賑やかな所で、観光客がいっぱい来ています。坂を登って行くと石畳の両脇に資料館やカフェなどがひしめいています。この狭さ密度が馬籠の華やかさを増しているのだと思います。
旧本陣跡は藤村記念館となっています。ここは島崎藤村の生家跡で子供時代の勉強部屋なども残っています。お坊ちゃんだったのですね。残念ながら生家は明治28年の大火で焼失してしまいますが、地元の方によって昭和22年に記念館が立てられました。

馬籠は豊臣秀吉の傘下の木曽義昌が治める所となり小牧・長久手の戦いの際には義昌は木曽路の防衛を命じられました。義昌は兵300を送り、山村良勝に妻籠城を守らせ、島崎重通が馬籠城を守りました。
この重通が島崎藤村の祖先にあたり、ここでも歴史が繋がっています。馬籠城も訪問しているのですが写真が消えてしまいました。城の造りとしては妻籠城の方が印象に残っています。

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しんちゃん

黒井城 (2014/07/21 訪問)

兵庫県の黒井城の最初の訪問時の写真です。南東から東曲輪・三の丸・二の丸・本丸と続き石垣が良く残っています。堀は少ないですが、二の丸から本丸に至るまでに三箇所の折れ曲がりがあり侵入を妨げているとTVで言ってましたね。現状だと判別がしづらいですが縄張り図を見ると確かにそうなっています。
続百名城の城は登録される前に6~7割は訪問していたのですが、スタンプを押す際にもう一度再訪してます。城びとを始めてからも可能な限り再訪し600くらいは周ったかな? 新規を合わせると2年ちょっとで1200城ほど廻っています。さすがに全部再訪は厳しいけど、できれば廻りたいね。

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しんちゃん

四谷の千枚田・新城市 (2015/05/24 訪問)

愛知県新城市の四谷の千枚田の投稿です。お城とは全く関連性が無いのですがご容赦いただきたい。鞍掛山の麓の斜面に約400年前に開墾された美しい棚田が広がっています。現在420枚ありますが最盛期には1296枚の田があったそうです。
日本の原風景と呼ばれる光景で、地元や契約者の方々が今でも稲を育て、景観を保っている姿はちょっと感動です。当地の案内板には明治37年に20日あまりも雨が降り続いて、鞍掛山とびんぼう山(通称)の谷間に溜った泥水が山津波を引き起こし、11人の死者が出る惨事になったそうです。そのあと復興に立ち上がった村人たちに寄って、荒れ地を田に変えた(再開墾?)のがこの千枚田と書かれています。

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しんちゃん

(2024/12/31 訪問)

南に天の川が流れ、北東に御館川が流れる大字中佐谷の台地上に笠松城は築かれていました。西以外を河川で守られた要害の地にあります。北側に土塁が有るようですが確認はできていません。案内板によれば正元年間に常陸大掾資幹の孫の佐谷郷の地頭・佐谷左衛門尉実幹によって築かれたとのこと。案内に沿って台地を登って行くと城址碑のある扁平地にたどり着き、そこが主郭のようです。
民家の石垣らしきものがあるけど、当然城址とは無関係です。城の石垣なら良かったんだけどねえ・・

慶長7年(1602)から約40年、志筑藩主本堂氏が居住し笠松城を称したようです。とはいえ本堂氏は8000~8500石の大身旗本で志筑藩はかすみがうら市中志筑あたりになるので、あくまで居住していただけらしい。正保2年(1645)に志筑陣屋が築かれ、寛文8年(1668)本堂玄親の代でようやく本領に引越すことが出来たようです。

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しんちゃん

掻上げ? (2024/12/31 訪問)

本丸の案内板には「この城は、堀と土塁で防備をかためる「掻上げ(かきあげ)城」で・・」と書いてある。なんじゃ? 掻上げって?
スーパーの特売でうってるやつか?(それは掻揚)
土塁はよくわからなかったが、周囲の堀は確認できました。文亀年間(1501~1504)には小山田氏の有力な家臣・菅谷隠岐守貞次が城主でした。菅谷氏は天正元年(1573)7月佐竹氏の攻撃を受け佐竹氏の家臣となり、慶長7年(1602)佐竹氏の秋田国替えによって廃城になったようです。

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しんちゃん

名古屋城 (2024/03/09 訪問)

二の丸の北面の石垣にはめずらしい南蛮たたきの鉄砲狭間(銃眼)があります。南蛮練塀とも。
石灰や砂利、種油などを練り合わせて作ってあるらしく、けっこう頑丈なようです。なぜここにだけそのような変わった技法を用いているのかは不明です。土塀などは無かったのかな? なんとなく西部劇みたいですね。

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しんちゃん

名古屋城 (2024/04/06 訪問)

名古屋城は豊臣家の大阪城への抑えとして慶長15年(1610)2月より天下普請で工事が行われました。石垣の普請は年内にほぼ終了と言う異様なほどのハイペースです。かほどな速さで石垣が積まれたので石材も様々な産地から調達しています。高石垣の中に砂岩や花崗岩が混在している城もあまりないでしょう。
特徴的な部分として二之丸大手二之門の石垣は複数の史料に記載があります。1枚目の写真がそれですが、右下が幡豆石、赤茶けた石が竜山石、幡豆石の上の大きな石が山陽帯花崗岩らしいです。
竜山石は凝灰岩の一種で白亜紀以降の火山活動の堆積物が固まったもので、加工のしやすさから古くから使われているようです。

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カズサン

二の丸内部と土塁 (2025/02/25 訪問)

 先に二の丸大手門跡石垣とその周辺の写真投稿しましたが、二の丸内部、南側の土塁、西側の土塁、南側土塁から南の落ち込んだ切岸、ここも見所、二の丸に鎮座する城山稲荷神社、木々の葉っぱが落ちて見通し良くなった内部の写真投稿致します。
 二の丸へは本丸より中仕切門跡からと西端の土塁上から進入、又東側の大手門階段からの進入、南西堀切からの坂道進入の4ヶ所あります。
 冬枯れの良い一日でした。
 

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カズサン

二の丸大手門跡石垣辺り (2025/02/25 訪問)

 冬枯れ、草刈、灌木伐採されて見易く成った頃かなと今年の2月25日に二俣城跡見学探訪写真撮影に出掛けました、先に西の丸Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ、南の丸Ⅰ、Ⅱ、本丸天守台、本丸東石垣、本丸内部と写真投稿させて頂きましたが、二の丸投稿です。
 二の丸は本丸の一段下がった南側に在り、東に石垣造りの大手門跡が在り見所の一つです、少し崩れていますが大手門北側石垣の東面は本丸北門・搦手門跡までの東側石垣として伸びて居た模様。
 二の丸大手門跡の南側石垣は北より比高が有り、櫓台が在った様な広さが在ります、二の丸の南側の土塁と続き西側に伸びて北に土塁が続きます。
 また二の丸南の土塁が南の丸Ⅰ間の堀切・3号堀と成り北面は急な高切岸に成って見応えがあります。
   
 

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トク

【宮本武蔵】(8)姫路城①(妖怪退治と刑部姫) (2025/06/05 訪問)

宮本武蔵の続き(8)です。

勘当され生活に困ったたけぞう(武蔵)は、1598年16才の頃、木下家定(秀吉の妻ねねの兄)が当時城主を務めていた姫路城へ行き、身分を隠して足軽(門番)のアルバイトをします。

当時の姫路城には、黒田官兵衛が普請し豊臣秀吉が築城した三重四階の天守がありました(写真⑤)。その石垣の一部は今でも残っています(写真②③④)。1587年黒田官兵衛は豊前中津へ国替えとなり、秀吉は大坂城を築城して移ると、代わって木下家定に姫路城が与えられます(写真⑥)。しかしこの時、家定はまだ大坂城で秀吉に仕えていたため、家定の三男延俊(後の日出城主)が城代を務めていました。この時に延俊と面識ができたようで、この15年後に武蔵は日出城(ひじじょう)を訪れているようです。

そして門番を始めてから数カ月後、城に妖怪が出るという奇妙なうわさが広まります。よって門番たちは誰も夜番をやりたがりません。でもたけぞう(武蔵)だけは平気で夜番を勤めたそうです。それが延俊の耳に入り、「彼はいったい何者か?」と調べられ、名高い新免流の武芸者である事がばれてしまいます。たけぞう(武蔵)は木下家の客分として取り立てられ、そして妖怪退治をしてくれぬかと頼まれます。わずか16才なのに・・・

たけぞう(武蔵)がある夜、灯ひとつで天守閣に登り、三階の階段に差し掛かった時、すさまじい炎と地震のような音と振動が!・・・ついに妖怪が現れました! ここでたけぞう(武蔵)は太刀に手をかけ斬りかかると妖怪は退散し静けさが戻ったとか。しかし四階に登るとまた同ように妖怪が現れます。しかしまた斬りかかるとまたも退散したようです。そして四階でまた現れるかもしれないと番をしますが現れず、明け方になるとウトウトと寝てしまいました。ふと目をさますと、そこに美しい「刑部姫(おさかべひめ)」が現れ、「あなたのおかげで妖怪は恐れをなして退散しました。褒美としてこの宝剣を与えましょう」、と白木に入った名刀「郷義弘」が残されていたそうです。

この後、関ケ原後の1602年に入った池田輝政は、姫路城を豪壮な天守に建て替えますが、刑部姫は刑部神社となって、天守最上階に守護神として今でも祀られています(写真⑨⑩)。そのおかげか、姫路城は400年の間に火事や落雷もなく、太平洋戦争時の空襲でも天守に爆弾は落ちませんでした。当時の米兵搭乗員の、「水堀が反射しB29のレーダーには湖か池に映ったので、そこに爆弾は落とさなかった」という証言が残されています。これも刑部姫の御加護でしょうか?

妖怪退治が終わり17才になったたけぞう(武蔵)は、父の無二斎が宇喜多から離反し、利神城攻めの時に知り合った黒田官兵衛を頼って中津へ行く事にしたため、自分も同行する事にしたようです。そして黒田配下の東軍として九州の関ケ原へ出陣します。

次は、その(中津城)を訪れ、たけぞうが負傷したという九州の関ケ原へ続きます。

【注】妖怪退治は後世(江戸期)の創作かもしれませんが、いちおうあったという事にさせて頂き話を進めました(笑)、すいません。
 

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朝田 辰兵衛

もうひとつ,宿題をクリアしました…📓 (2025/07/20 訪問)

この夏,もうひとつ,宿題をクリアしました。赤い城さん,にのまるさんの双方からクイズに出題された岩槻城。赤い城さんからは堀障子,にのまるさんからは八ッ橋が出題されました。
行けたきっかけとなったのは,今年も母の同級会を請け負うこととなり,大宮で開催したこと。前乗りしましたので,これで岩槻駅のコインロッカー問題は解消しました。

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宗春

千葉の城を攻めて御城印を頂こうシリーズその40 岩ヶ崎城 (2025/09/06 訪問)

千葉の城を攻めて御城印を頂こうシリーズその40

香取神宮・佐原の町に行った帰りに寄ってみました。
いきなりの階段の上には稲荷神社があり、社殿に至るまでの階段では3回ほど蜘蛛の巣に引っかかりました。曲輪っぽい部分や土塁っぽい地形は確認できますが、主要な部分は宅地化されていてよくわかりませんでした。

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小城小次郎

お城を眺める城下町 (2025/01/31 訪問)

お城の目の前の古民家宿に泊まると大洲城の夜景を独り占めしたような気分になる。大洲は城下からお城がよく見える町でたぶん昔のお城はみんなこんな風に見えていたのだろうと思わせてくれる。お城っていいなあと思う。

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しんちゃん

老津と大津 (2025/09/07 訪問)

某アプリのリア攻めがしたくて、また来てしまいました。戸田宗光が渥美半島で最初に入った城とされ、豊橋市立家政高等専修学校の周辺が城址になるようです。別名を大津城といい、元々このあたりは大津と言う地名でしたが明治11年に老津村に改名されてしまいました。
元は紫式部の「老津島 島守る神や 諫むらん 波もさはがめ童べの浦」という和歌に由来があるそうですが、紫式部と接点があるのは滋賀県の大津ですね。三河の吉田の地名もなかば強引に豊橋にされてるし、明治政府感じ悪いし、やることが適当過ぎる。

残りの写真は岡崎のもろこしうどんです。時間の都合で岡崎城に寄れなかったので・・ぱっと見 もろこしの量ってこんなもんだっけ、と思いましたが、実は底の方に大量のモロコシが沈んでいます。めちゃくちゃボリュ~ミ~です。でも美味しいし満足です。

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しんちゃん

名古屋城 (2024/04/06 訪問)

名古屋城、天守と天守台の写真です。本丸搦手馬出石垣北面は調査・修復中のようでした。このあたりは熊野石・河戸石・幡豆石・岩崎石などがごっちゃに積まれているようです。産地どころか花崗岩と砂岩など異なる種類の岩が混ざって積まれているようです。河戸石・・強いな。もうちょっと近くで見たいけど、工事中なので近くまでは行けていません。

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しんちゃん

飛鳥寺・蘇我入鹿首塚 (2013/09/28 訪問)

ちょうど歴史探偵で大化の改新をやっていたので。飛鳥寺は588年に蘇我馬子が創立した日本最初の仏教寺院とされています。本尊の飛鳥大仏(釈迦如来)は605年に推古天皇が詔して鞍作島仏師に造らせた日本最古の仏像だそうな。
最初期の仏像なので、後世のものと異なり引き締まった感じですね。う~ん、逆ライザッ〇(ポカッ)近くには蘇我馬子の首塚がぽつんと立っています。飛鳥寺の西には飛鳥の檜舞台「槻(ケヤキの古名)の木の広場」があり、中大兄皇子と藤原鎌足はここの蹴鞠の場で出会ったそうです。672年の壬申の乱の際にはこの広場を軍隊が覆い尽くしたとか。

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シェル

水郡線で城めぐり⑤ 守山城 石垣と空堀が残る (2025/06/17 訪問)

 水郡線の正式な終点 安積永盛駅の一つ手前の駅 磐城守山駅から徒歩10分ほどです。
 郡山駅西口2番のりばの蓬田行の路線バスで「守山小学校」のバス停で下車するルートもあります。
 磐城守山駅から道なりに進み、国道49号線にアンダーパスで入り、学校の先にある接骨院の駐車場の南の路地を進んでいくと、右手側に、二ノ丸・三ノ丸間の空堀と石垣を発見。6月の訪問でしたので、石垣が草に包まれつつありましたが、きれいに残されていました。堀そばの道沿いには説明板も設置されていました。初見で石垣を見逃がしている方が多いようですが、駅側からアクセスすると道沿いなので見つけやすいかもしれません。
 本丸跡は、城山八幡宮になっていて、鳥居のそばに守山城跡の標柱があります。本丸の城塁も良好な形で残っていました。
 守山城を見学後、水郡線を郡山まで乗り通し、初めて水郡線を全線走破しました。水郡線ユーザーなだけに嬉しさもひとしおでした。
 まだまだ水郡線沿線には、お城がたくさんありますので、地元パワーを活かして、攻城した際は、ご紹介していきたいと思います!!

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水郡線で城めぐり④ 藤田城(福島県石川町) 地元の力で主郭・二ノ郭の一部を復元!! (2025/06/17 訪問)

 今回の城めぐりで、実は一番楽しみにしていたお城です。
 城びと未登録ではありますが、素晴らしいお城ですのでご紹介します。
JR水郡線 野木沢駅から藤田城大手口まで徒歩10分ほどです。また路線バスの場合は、福島交通の須賀川-石川間のバスで、野木沢北口のバス停下車。そこから徒歩2分ほどです。
 私の場合は、水郡線の列車と路線バスが無い時間帯に当たってしまい、三芦城(磐城石川)から力業の徒歩戦法で1時間かけて向かいました。(歩道は整備されていましたが、かなりハードですので、おすすめはできません。水郡線や路線バスを活用してください。)
 野木沢駅側の旧道と国道118号の交差点の所に、説明板と城跡への案内板が設置されています。案内板に従い、進んで行くと大手口跡につきます。(野木沢駅と駅からの旧道沿いにも藤田城の案内があります。)
 大手口から主郭までは5分ほどで到着します。
この城の見どころは、なんといっても復元されている物見櫓(井楼)、城柵、冠木門です。石川町と地元の方が協力し、復元したもののようです。まさか水郡線沿いに、ここまで復元が行われている城があるとは、知らなかったので驚きでした!!(もっと有名になっても良いと思います。)
 主郭南側の岩肌の露出と物見櫓の迫力には脱帽です。二ノ郭の冠木門そばに復元建築物の説明板があり、主郭の冠木門を通って主郭跡へ入ると、物見櫓のそばに説明板が設置されています。物見櫓は登ることも可能で、ニノ郭や野木沢駅方面を望むことができました。
 主郭跡の北側に進んで行くと、三ノ郭跡があります。こちらには、虎口や土塁の遺構もかなり良好に残っています。
 個人的に水郡線沿線で、トップクラスにおすすめのお城ですので、皆さんも機会がありましたら、ぜひ訪れてみてください。

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水郡線で城めぐり③ 三芦城(石川城)(福島県石川町) パワースポットと巨大堀切!! (2025/06/17 訪問)

 城びと未登録のお城ですが、遺構が素晴らしかったのでご紹介します。
 JR水郡線 磐城石川駅から徒歩15分ほどです。
 三芦城は、平安時代に石川氏が築城。石川氏の代々の居城となります。戦国時代の天文年間には、田村氏(三春)、蘆名氏(会津)、佐竹氏(常陸)の勢力拡大の圧迫を受けて、石川氏は伊達晴宗の四男 昭光(伊達輝宗の弟・政宗の叔父)を養子として、伊達氏の庇護を図ります。しかし佐竹氏の進出で、佐竹氏の軍門に下ります。天正十七年(1589)の摺上原の戦いで伊達氏が蘆名氏を滅ぼすと情勢は急変し、石川氏は伊達氏に与します。
 その後、豊臣秀吉の奥州仕置では、石川氏は小田原に参陣しなかったため、改易となり、三芦城は廃城となります。石川昭光は、甥の伊達政宗のもとに赴き、御一門筆頭の家格を与えられ、江戸時代を迎えたということです。

 城跡は石都々古和気神社となっています。麓に駐車場、トイレも設置されています。三芦城の説明板は駐車場近くの参道の入口にあります。神社本殿そばの由緒書にも、三芦城について説明が書かれています。
 まずは石都々古和気神社にご挨拶をしましたが、陸奥国一之宮の一つだったようで、とても荘厳な神社でした。参道は、巨石がごろごろあり、パワースポットのオンパレードで寺社巡りされている方にもおすすめです。
 特に石門(鳥居)は巨石の虎口のような雰囲気も感じられて、興奮しました!!
 三芦城の見どころは、山頂の神社の本殿周辺と本殿北側にあります。まず本殿の裏手には、土塁が残っています。神社の建物と比べても、かなり高さがありました。
 本殿の正面から右側の通路を進んで行くと、石川城の城址碑があります。城址碑の近くには、狼煙台や見張台跡もあり、看板が設置されています。そのまま坂を下ると二郭跡に至り、鏡岩というパワースポットがあります。鏡岩から西に進むと、最大の見どころの堀切が残されています。西館と主郭の間の堀切で、かなり大規模です。さすが石川氏の居城だと感じました。
 見学を終えると、ちょうどお昼の時間だったので、駅とお城の間にあったイタリアンの「くっちーな・じらそーれ」というお店で、アサリたっぷりのボンゴレをいただきました。ボリュームがすごくて、とても美味しかったです!!

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徳野陣屋 (2025/09/11 訪問)

 岐阜県可児市にある陣屋跡です。城びとには未登録です。
小早川秀秋の家老であった平岡頼勝が秀秋の死後、屋敷を構えた場所です。平岡頼勝は豊臣秀吉によって小早川秀秋につけられた家老で、関ヶ原の戦いの折には秀秋を徳川方につくように説得した人物として伝わります。秀秋が死去して小早川家が断絶すると流浪の身となりますが、徳川家康に召し出され慶長9年、美濃国内に1万石を与えられ徳野藩を立藩しました。
平岡頼勝は関ケ原の戦いを題材にした小説やドラマにはときどき登場する人物ですが、その後の消息は知りませんでした。

名鉄広見線日本ライン今渡駅から徒歩約10分の場所に説明板がありました。遺構はありません。東へ5分くらいの場所に今回は行っていませんが、平岡頼勝の墓所があります。

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