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零汰

大分に行く

ユーロもコパも無事に終わりスペインとアルゼンチンが各々の大会で順当に優勝。漸く仮眠だけで乗り越える不健康な生活から抜け出せました。ユーロもコパの様に延長戦は無しにして即PKではだめでしょうか?延長PKが終わるのが朝7時前でそれから仮眠はキツイものがあります。決勝を待ったかのように梅雨が明けた様子、堪らず不健康を引きずりながら18~20日の3日間で大分県を中心に城訪問に車で出掛けました。

3日間で登録城は14か所、その他の山城6か所、唐原山城に向かう最中に宇佐・中津市の平野に点在する無名な城跡20か所程度訪問してきました。驚く事に平野部の無名な城跡は石碑・表示のみの城跡は少なく、6割程度の城跡で何かしら遺構を見る事が出来ました。空堀アリ、水堀アリ、状態の良い曲輪や陣屋門などとしっかり楽しむ事が出来ました。皆様のお住まいの地域でも埋もれた無名な城跡廻りをしてみたら違った楽しみを味わえるのでは無いでしょうか。

大分県の登録城未訪問3か所
・山野城・・・・1時間半~2時間ほど掛かりそうなので今回無名な城跡廻りに時間が掛かり過ぎて断念
・水賀城・・・・半時計周りで廻っていましたが途中でスルーしてました。国東半島に入った頃に気が付いて引き返したく無く断念
・鳥岳城・・・・途中まで訪問(写真1~5)滑る登山道から登りましたが伐採により登山道が破壊された上に立入禁止。前情報よりこちらはハードな訪問だとの事、その上直登も加わる事を考えてしまって挫けました。

他にも1か所挫けた城跡もありましたが全体的に良いシリースでした。写真6~10は登録城のダイジェストです。北海道関連の後に個別投稿する予定です。

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しんちゃん

大瀬崎の鈴木繁伴館跡  (2024/07/14 訪問)

鈴木館は駿河湾に突き出た沼津市の大瀬崎先端の神池の周辺に築かれていました。館の遺構は残っていないようですが、駿河湾に面し周囲360度を警戒することが出来、南に大瀬神社が建てられています。
館の主・鈴木繁伴は鎌倉時代後期から南北朝の時代の武将です。人気漫画「逃げ上手の若君」の時代の人ですね。ちょうど今、深夜帯でアニメがやっています。キャラはかわいいけど内容は子供向けじゃないですね。元々少年ジャンプは青年向きの内容も含んでいるので不思議ではないですが(北斗の拳とか)。
鈴木繁伴は北条方として熊野で護良親王と戦いましたが幕府滅亡後、建武3年(1336)伊豆国江梨村に潜伏します。観応2年(1351)薩埵峠の戦いでは足利直義に味方し、またも敗れたので江梨村に逃れて定着したようです。鈴木館は繁伴の初期の居館とされ、ここで大瀬神社の祭祀にいそしんだとのこと。この周辺は家族連れのダイバーが大勢来ています。比較的内湾なのでダイビングに向いているのでしょうか。

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しんちゃん

了仙寺 MoBS黒船ミュージアム (2024/07/17 訪問)

了仙寺は下田市七軒町にある日蓮宗の寺院で、下田条約締結の地として国の史跡に指定されています。下田条約は嘉永7年(1854)3月に結ばれた日米和親条約の補修を目的とし、内容は9条に及び、下田港・函館港への米人の駐留の許可、日米双方の犯罪人の裁きの方針、長崎港の追加開港などが記されています。Wikiには日米追加条約として記載があり下田協定や下田協約とも呼ばれているようです。
境内はこじんまりとしていていますが、広さは幕末のころから変わっていないようです。絵画等では比較的広めに描かれていますが、あれは米兵をいっぱい描きたかったからだそうです。他にも境内には下田奉行の墓所や横穴遺跡があり、黒船ミュージアムが隣接しており、開港や異文化交流に関する展示が充実しています。

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you

原田しろあと館スタッフの皆様 ありがとうございました (2024/07/20 訪問)

城跡と旧羽室家住宅(原田しろあと館)を訪問しました。

【原田城跡】
天正6年(1578)、謀反を起こし伊丹城(有岡城)に移った家臣の荒木村重を討つために、織田信長が改修した付城。
原田城は北城と南城から構成されており、天文16年(1547)の内紛で北城が落城して以降は南城が原田氏の拠点とされていたそうです。
南城は開拓が進んでおり遺構は消滅していますが、有岡城の戦いの際に利用された土塁は北城(館内)に現存しています。
当時この土塁からは西方面に有岡城を望むことができたそうです。また、信長軍が付城として利用した池田城、刀根山城などがこの原田城とともに有岡城の東側を囲っています。

荒木村重はこの戦乱で家族を捨てて尼崎城→毛利方へ移り、のちの本能寺の変によって信長の手を搔い潜ったという話をしろあと館のスタッフからお聞きしました。なかなかしぶといですね、、、


【旧羽室家住宅】
時間があったので、ついでですが国登録有形文化財に指定されている旧羽室家住宅の見学も行ってきました。
見学の際は館内の方が丁寧に説明してくださいました。
2階は立入禁止になっていましたが、1階は当時の家主さんの趣味・嗜好がほぼそのままの状態で残っており、和洋折衷の古式ゆかしい雰囲気がなんとも魅力的でした。
ついでのつもりで来たはずでしたが、見学後は応接室でスタッフの方々とお城トーク等で盛り上がりました。
長々と付き合っていただき本当にありがとうございました。
この投稿が届いていることを願うばかりです。


原田しろあと館は土日のみ開館しており、月によって色々なイベントが催されています。
また、季節の移り変わりを感じられる花が植えられおり、館内を四季が彩ります。
時間ができれば秋頃もう一度お伺いして、紅葉を観に行きたいと思っています。

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しんちゃん

白銀の遠州灘 そして浜松道中 (2024/06/01 訪問)

リハビリがてら遠州の山城を攻めてきた帰り道、浜名バイパス(無料)を通っていたら遠州灘がやたらキレイに見えるじゃないですか。夕方7時近くなのに海がめっちゃ明るい。光の塩梅もあるのかもしれないが、海ってこんなに白く光るんだな。
浜名バイパス(国道1号)が2車線から1車線に変化するあたりに幾つか休憩所があり、遠州灘を眺望することが出来ます。こういうサービスは評価できますね。できれば国1は最初から全部片側2車線で作って欲しかったですな!
こうして見ると遠州灘も捨てたもんじゃない。世界は海でつながっているんだよな~。いいことも悪いことも「山ほど」あるけど。
このちょっと前には有玉神社で参拝して来ました。例のキンタマ落としの谷の投稿以来、金運が下がってきているんですわ。停止違反でポリコウに捕まるわ、家の屋根は壊れてくるわで出費が重みます。落としたツキ(玉)を拾いに来たんですね。
そのあとは石松で浜松餃子定食、餃子は肉餃子です。ぐるっと回したやつの写真が欲しかったけど、一人じゃ食べきれないんですね。ここではなんといっても餃子が主役!浜松は餃子の街です。個人的には宇都宮のほうが旨いと思うけど(ボカッ)。
‥‥一言多いしんちゃんでした。

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零汰

オチリシチャシ・ルイオピラチャシ (2024/05/09 訪問)

シベチャリ川流域チャシの残り3か所のうちの2か所です

オチリチャシ(写真1.2)
共同墓地内にあるようですが入口には開閉式のフェンスがあり小心者の私は中に入る事をためらってしまいました。(写真2はフェンスの穴からなるべく奥を撮りました)

ルイオピランチャシ(写真3.4)
牧草地の先の柵向こうの林の中にあるようです。右側林の中を迂回して行く方法もありましたが小心者の私は熊が怖くてためらってしまいました。こちらは内陸にある上に周囲に人の気配がない場所です。
道路にゲートがあります。ナビで裏側から辿り着いたのですが出られなくなって来た道路を引き返しました。何の為のゲートか不思議です。

2か所見れなかったので、残り1か所は挫けて行かず仕舞でした。

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モト

コンパクトですが城の縄張りが把握しやすく見学しやすいと思います。 (2024/06/26 訪問)

隆守院の横に登城口がありました。
登城口を登ってすぐ城跡の碑がありました。
登城道より本丸の切岸を確認しながら山頂に登ります。
本丸跡があり、そこから降ると順に二の丸、三の丸を見る事ができました。
それぞれ二の丸からの本丸、三の丸からの二の丸を見た切岸のある段々が城跡の雰囲気を強く感じる事ができました。

築城は文明年間(1469年〜1487年)と言われているそうで、
麻生遠江守家延(家信とも)によって築かれたと云われる。 花尾城合戦で大内氏と和睦した家延が岡ノ荘二十八ヶ村が与えられ、岡城を築いたといいます。
城郭放浪記より参照

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赤い城

南海の名城 (2024/07/06 訪問)

今回初登城、ようやく訪れることができました。
駐車場に車を置き、まずは内堀沿いを1周します。
追手門を見ながら南側へ、高知県庁が建つところは下屋敷跡です。
西側へ回り、桜山を経て搦手門、ここからも登城できますがさらに回りを進みました。
この日は梅雨というのに暑くてすでに汗だくです。

追手門より登城、板垣退助の像を見下ろしながら杉ノ段へ、まずは三ノ丸から天守を見上げ休憩。
水分補給はmustです。
人の写らないタイミングを待ちながら写真を撮っていたので結構な休息になりました。

さらに二ノ丸を経て詰門を通り本丸です。
天守だけでなく御殿などの建物も現存、素晴らしいです。
スタンプは天守内の券売所横においてあります。

天守から降り、搦手方面に向かいました。
馬場跡は梅林に、その下には御台所屋敷跡があります。
八幡宮跡から二ノ丸の石垣を見上げながら進み、今度は一段降りて三ノ丸の石垣を見上げ杉ノ段に戻ってきました。

暑さもありヘトヘト、これでも見切れていないところもあるのでまた来ます。
周辺グルメもリサーチしておかないと。



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todo94

立花道雪 (2024/07/13 訪問)

鷹尾城攻城時に降り始めた雨は、通り雨だったようで、生津城に着いたときはすっかりあがっていました。生津城は西牟田家周(いえちか)による築城で、耳川合戦敗退の大友氏から龍造寺氏に寝返って西牟田城から生津城に移ったとのことですが、立花道雪により攻め落とされています。八幡宮の城内大神宮の祠は生津城より遷座されたとのことです。

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しんちゃん

なんだかんだで山城跡 (2024/07/13 訪問)

久能山城の投稿。今回は最新のものを載せさせていただきます。階段を下から登って一の門に到着。天候に恵まれれば、さらに良い眺望を得られるのですが、今回は曇天のため今一つです。古い縄張りでは上に向かって幾段にも曲輪が連なっているのですが、現状は東照宮として改変が成されているので雰囲気を味わうのみになります。本殿のあたりが本丸と見られ、御廟所の東上にみられる扁平地が愛宕社の曲輪のようですが、柵があり進めません。そもそも不敬であるし、行けたとしてもいろいろと面倒です。
下から眺めるのみとなりますが、御廟所の周囲には山城の曲輪としての雰囲気がまだ残っているようです。東照宮の始祖の宮として改変が成されていますが、山頂のあたりにはまだネイティブな遺構が残っている気がします。

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ぴーかる

大留城 (2024/05/25 訪問)

【大留城】
<駐車場他>駐車場はなし。子安神明社(城跡)前に駐車しました。
<交通手段>車

<感想>日帰り濃尾平野ちょこ城巡りの旅、第3弾6城目。大留城は1546年に村瀬作左衛門というものが築城しました。小牧長久手の戦いでは池田恒興が三河中入り作戦で大留城で軍議を開き村瀬作左衛門も従軍したが翌日徳川家康軍に敗れ討死し城もその後廃城となったようです。
 現地城跡は庄内川に面した平城で現在は子安神明社という神社になっています。中央に土塁跡のような土盛があり城跡碑があります。本殿の裏側に堀跡があるようでしたがコンクリ壁の裏側だったようで気づきませんでした。城跡の説明板はありません。

<満足度>◆◇◇

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トク

110【関ケ原の26人】(26)井伊直政 (直政と天正壬午の乱(3/3)-和睦の使者) (2023/12/08 訪問)

(26人目)井伊直政の続き⑫です。
北条氏の居城小田原城を訪れてきました。日曜だったこともあり、人が多かったです(写真①②)。訪れたのは秋の終わりで、紅葉がきれいでした(写真③:暑い日が続いていますので、この写真で少しでも涼しい気分になって頂ければ幸いです)。また天守からは、ちょうど石垣山に沈む夕日もきれいに見えました(写真⑧⑨)。私も使者になったつもりになって登城してみました。すると、馬出門や銅門などには北条の家紋「三つ鱗(みつうろこ)」の旗がたくさんなびいていて、まさに敵地の中を歩いている感じがして、何かとても緊張してしまいました(写真④⑤⑥)。直政も同じ事を感じたのでしょうか?

現在の小田原城は、家康の側近であった「大久保忠世」が築き始めた石垣に、家光の側近で春日局の子と孫である「稲葉正勝・正則」の時代に築かれた天守に基づいて再建されたものではないかと思います(写真⑦)。北条時代は天守や石垣もなく土造りの城だったようです。秀吉から攻められる直前には、全長9kmの見事な総構えで囲まれていて、その中には10万の人々が暮らし、当時としては日本最大規模の城郭だったとか。私も“しんちゃん“さんと同じく、北条時代のそんな城郭を見て見たい気持ちになりました。

1582年、天正壬午の乱は黒駒の戦いの後、織田信雄の仲介でいったん両者は撤退し、改めて和睦のため直政は北条氏とのその和睦の使者という大役に抜擢されます。そして直政は、甲斐信濃は徳川、西上野は北条(両者切り取り次第干渉せず)、また家康の次女「督姫」を北条氏直に嫁がせるという条件で、見事に和睦を成立させました。

私は小田原城を眺めながら考えてみました。なぜ家康は交渉役に、ベテランの酒井忠次や石川数正ではなく、また中堅の本多忠勝や榊原康正でもなく、家臣団で最も最年少でまだこの時22才の井伊直政を大抜擢したのでしょうか? またそれに見事に応えた直政もすごいと思います。なぜ彼にはこれほどの交渉力があったのでしょうか? 家康はそこまで見抜いていたのでしょうか? 見た目は美男子でかつ小柄(推定165cm)であったらしい直政が、あの強者の武田の旧臣たちをも取り込み、北条氏をも屈服させたこの交渉力は相当なものだと思います。彼の交渉力は、この後の関ケ原でも発揮されます。彼が今の時代に生きていて外務大臣になっていたら、日本はどうなっていただろうか?🤔 なんてまたふとまたありえない事まで想像してしまいました(笑)。

最後に、小田原といえばかまぼこだと思い、駅で(少し贅沢な)おつまみかまぼこを買って新幹線の中で食べました。これはいける! なかなかの美味でした(写真⑩)。

北条と和睦した後は、秀吉との決戦(小牧・長久手の戦い)です。
次は、「井伊の赤備え」デビューの舞台(小牧山城)を訪れます。
 

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渡辺崋山 (2024/07/20 訪問)

 田原城周辺の街を散策していると藩校跡の石碑や渡辺崋山に関連した史跡などがありました。自分としても田原藩というと城主であった戸田氏や三宅氏よりも渡辺崋山を思い浮かべます。城内にあった田原市博物館でも渡辺崋山の展示は多かったと思います。

 この日は暑かったのでゆっくり散策というわけにはいかず早々に退散しました。

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戸田宗光 (2024/07/20 訪問)

 久しぶりの登城です。明治時代の廃城後に多くは取り壊されましたが、曲輪、石垣、堀などが一部ですが残っています。再建された桜門や二の丸櫓がいい雰囲気を醸し出しています。城址から南へ行くと惣門跡や大手通りなどがありました。

 豊橋鉄道渥美線三河田原駅から徒歩約15分で城址にある田原市博物館まで行くことができます。

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しんちゃん

ロープウェーで天空から登城 (2013/09/01 訪問)

先日、伊豆半島をめぐる前に久能山に行ってきました。4回ぐらい来てますかね、ここも。二回は日本平からロープウェーで渡って、二回は下から登ってます。どちらも風情が会って良いですよ。下から登ると少ししんどいですが攻め手の気分になれるし、石段や石垣(いずれも後世のもの)を楽しむことが出来ます。すこし調子が戻ってきましたね‥考えてみれば城人を初めてから一年ちょっとで新規とリピートで500~600は回っているので、ちょっと飛ばしすぎたんですよ(アホですか)。もともと山城をいくつか登ってヒーヒー言ってる「しんちゃん」ではないです。
ロープウェーで日本平から東照宮に渡ると、ちょっとした神様気分に浸れます(?)。気分は徳川家康公ですかね。東照大権現おな~り~ってか。
写真は最初に訪問した時のものなので、いささか古いです。でも階段登城からは味わえない景色なので先に掲載させていただきます。

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しんちゃん

熱海の城跡といえばココ (2024/07/16 訪問)

熱海と言えば熱海城という怪しい「お城」が有名ですが、城びとの城では網代城になります。教安寺に城址碑があり、そこからの眺めもなかなかですが、より高所に江戸時代の石丁場があるので寄って来ました。伊豆半島も僻地の割には見所が多く、もっとゆっくりしたかったのですが、時間の制限もあり全部は見切れていません。でも、なんとか伊豆の城びとの城は回ることが出来ました。
「古城盛衰記」さんによると網代中学校跡の北側に入り口があり、山頂の朝日山公園に曲輪があるとのことですが、認識不足で至っていません。すぐ近くまで寄っていたものの、いささか惜しいことをしたと思います。
「城郭放浪記」さんにも記載があるので参考にするべきでした。
網代城は南北朝の時代に聞間氏によって築かれたのが発端とされ、戦国時代には北条氏家臣とおぼしき岡本善左衛門尉が城主を務めたとされますが、諸説あるようです。岡本善左衛門尉に関しては北条氏規の朱印状に名前が出ており、伊豆多賀郷の代官・百姓に貸し付けた兵糧が返済されずトラブルになっていたようです。「早く取り立てろ」と催促されていたようで、氏規さんもけっこうイライラ来てたのが伝わってきます。

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チェブ

『信松院』の巻き。 (2024/04/20 訪問)

八王子の「横山党館」から車で10分弱。「八王子城」や「滝山城」からなら30分位の場所に『信松院』があります。
八王子市 台町 3-18-28
『信松院』の道路を挟んだ所に駐車場もあります。

武田 信玄さんの娘 松姫が過ごした『信松院』。
こちらに たどり着くまで、大変な道のりを越えて来ました。
松姫と言えば、織田 信長さんの嫡男 信忠さんと婚約したが、破棄になり尼さんになったくらいしか知りませんでした。
写真⑨の本、『疾風に折れぬ花あり』は、武田家の衰退近い「高遠城」から始まります。松姫は、仁科 盛信さん、武田 勝頼さん、小山田 信成さんの娘を託され八王子に逃れて来ました。

『信松院』は青い屋根のかわいらしい御寺さんです。
入口には松姫像。この細いお身体から、前向きに生きる様を教えていただきました。
中にはカフェもあります。松姫が手植した松があったようです。
『信松院』には松姫のお墓があります。
お墓は、松の木が。こちらは手植した松ではなさそうですが、お墓を守っているかのように枝の伸ばしています。

私の他にもお参りしている方がいらっしゃいました。

この八王子市は松姫様を慕い旧武田家の方々が集まってきたそうです。
先人たちの足跡は武将だけではなく、姫たちも戦い紡いで今があるのだと再確認した『信松院』参拝でした。

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しんちゃん

ペリーロード (2024/07/15 訪問)

車中泊で下田まで来たのですが暑かったですね~ ネットの予報では夜25度くらいだったんだけど実際は29度。だいぶ違うねぇ~。5年前のデータでやってるんじゃないの?
下田といえば下田城だけど、ここは母方の実家でもあるので、下田城→ペリーロード→叔父の家と訪問して、ソバいただいて2時間くらいお邪魔して次に向かいました。次はもうちょっとゆっくりさせていただきます。
下田は本当に狭い町ですが見どころはたくさんあります。ペリーやハリスが来航したり、吉田松陰が密航を企てたりと材料には事欠かない上に、ダイナミックな自然や海水浴場があったりします。下田公園に駐車して(無料)ペリーの像を見てからペリーロードに向かいます。澤村邸(無料)からペリーロードを眺め、異国情緒漂う街並みを歩いていきます。このあと叔父の家で何か食べてくつもりだったので、食事等は摂りませんでしたが、おしゃれな喫茶店やレストランがあちこちにあります。
長楽寺にも寄っていきます。日米和親条約や日露和親条約の批書交換が行われた場所で境内は広くはありませんが、風情を感じることはできます。

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しんちゃん

土肥金山 伊豆市土肥 (2024/07/14 訪問)

雨期明け直前、ギリ大丈夫かなと思って伊豆半島を車中泊で回ってきました。予報では夜は25度くらいだからハンディの扇風機回せば大丈夫かな‥と思っていたのですが実際は29度、冗談じゃないですわ。夜中の2時にギブアップしてエンジンかけてエアコンつけてしのぎました。ネットの天気予報は当てにならんぜよ(毎回これ言ってる)南伊豆~西伊豆は暑かった。
土肥金山、正確には土肥金山郷土資料館です。
内容は金鉱跡の洞窟と資料館の二本立てで金鉱跡は結構広いです。中には大山祇神社が祭られ、工 夫達の人形が至る所に配置されています。鉱山では女性も働いていたようで、労働者たちの憩いの場である風呂場にはムフフな人形も置いてあります。中は暑くて皆、裸に近い格好で働いていたというし混浴だったのかな?
史料館にはあの大久保長安の人形もありました。慶長11年(1606)から伊豆の奉行を務め金山の管理もしていたようです。いわゆる「やらかし系」で子孫は悲惨な目にあってますが、それは置いといて、展示物には大判・小判や千両箱など金や金属に関する展示が充実しています。中でも目を引くのがギネスにも登録された重さ250kg、時価33億円の金塊です。いま円がクッソ安いので、もっと価値は上がってるんじゃないですかね。触ることが出来るので、皆さん必ずおさわりしていきます。
嬉しそうな、ちょっぴり寂しそうな、何とも言えない表情が良いですね。なでなでなでなで‥ なでなでなでなで‥

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モト

古代の人の技術力の高さを感じる土塁跡です。 (2024/07/19 訪問)

ただの土塁、されど土塁と改めて感じる場所でした。
古代からこの技術力があるのはすごい。
一見ただの公園にも見える場所ですが我々城好きにはロマンを感じる場所です。

以下は案内文から参照
鎮西山から南に延びる八藤丘陵と二塚山丘陵をふさぐように築かれた土塁である。築成当時は両丘陵を東西につないでいたと思われるが、中央を流れる船石川により分断されている。規模は全体で300m。東側で幅10~15m、高さ1~1.5m。西側で幅34~40m、高さ4~5mである。堤体は種類の違う土を交互に積んで叩き締める「版築技法」が用いられている。この土塁の築造時期については、出土遺物が少ないため断定できないが、版築の技法、周辺の遺跡の状況等から、7~8世紀頃と推定されている。築成目的については、灌漑施設説、防衛施設説、道路跡説、併用説などがある。古代における大規模かつ高度な土木技術を示すものとしても重要である。

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