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朝田 辰兵衛

鳥越城散策1/2(主郭までのアクセス) (2026/05/03 訪問)

比高:約27mですが,主郭までのアクセスは注意が必要でした。
まずは,長崎市内の五島町バス停からスタート。桜の里ターミナルへ。ここは,長崎バスとさいかい交通の営業分界点でした。IC可で,料金は【640円】。そして,板の浦行きに乗り換え,雪の浦バス停へ。IC可で,料金は【710円】。川沿いの道を歩き,最初の橋を渡ります。すると,登城口が見えます。徒歩約15分。パネルが設置されているので,すぐにわかります。登城道はV字ターンが2ヶ所あり,夏場はわからりづらいと思います。あとは,山頂目がけて竹ヤブをほぼ直登ですが,ピンクリボンの巻かれたポイントはかなり有効でした。
途中の帯曲輪は2段構成に見えますが,もともとは1段構成だったのかもしれません。私有地のようで,農耕地に造成されたようでした。

この日は雨風が強く,長崎市内は約10分の停電もありました。雨男なので当然予想しておりました。比高の低い城をチョイスして,午前中で引き揚げる予定でしたが,見事にずぶ濡れとなりました…。
この日,雪浦地区では「雪浦ウオーク」というイベントが開催されておりました。鳥越城はウオーキングポイントに設定されておりませんでしたが,私はスタッフにチェックされておりました。
登城が終わり,バス時間まで雪浦地区公民館で雨宿りをしようかと駆け込んだら,「雪浦ウオーク」のスタッフが待機しておりました。よそ者の私にタオル3枚を提供していただき,感謝に堪えません。「越後から来ました」と伝えたらビックリされていました。
スタッフの方々も鳥越城は行ったことがなかったようで,撮影画像を見て石垣に驚かれていました。スタッフからは「お姫さまが住んでた」と伺いました。
雪浦地区のみなさん,大変にありがとうございました!

この大雨,翌日は本州に向かって行きました…。

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HKISD

墨俣城散策 (2026/05/02 訪問)

100名城ではないけどここには色んな歴史がありました。
特に豊臣の出世城ですね。
ここが原点といっても過言ではありませんね。

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HKISD

大垣城散策 (2026/05/02 訪問)

大垣城の天守は見事でした。
関ケ原の戦いがCGで上映されていましたが非常に分かりやすかったです。
堀には川下りがあり丸田舟が味がありました。

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いんげん丸虫

秦泉寺城 高知県高知市 (2026/05/04 訪問)

標高90mの丘陵上にあります。
主に2つの曲輪を堀切で遮断し、南北両端
には竪堀として落ちる数本の連続堀切が
あります。

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ぎりょう

黒岩館 宮城県栗原市栗駒岩ヶ崎 (2026/04/19 訪問)

黒岩館は岩ヶ崎の街並み北側に残る鶴丸城(岩ヶ崎城)から300mほどの至近の場所にあります。そのため鶴丸城の出城かといわれていますが、歴代の城主を見ると戦国時代にこの地を領した富沢氏(葛西氏の分家)以前には、平泉の藤原泰衡の臣若丸郎太夫と伝わっており、平安末期には既に存在していたものと思われます。
鶴丸城の本丸から北西の独立した比高70mほどの嶺を城地にしており、最高部に東西35m、南北50mほどの削平された平場(主曲輪)を中心に、東側に帯曲輪、南西側にニノ曲輪、三ノ曲輪を配した縄張です。
鶴丸城本丸下の入口部から北に延びる道を進むと、ほどなく左側に湾曲して登る林道があります。今回はその林道を80mほど歩き、比較的傾斜の緩いところから登り、主曲輪西側に入ることができました。その後は主曲輪を取り巻く帯曲輪、ニノ曲輪を歩きました。
主曲輪の西端からニノ曲輪北端には土塁があり三ノ曲輪まで降りています。外舛形虎口のようにも見えますがはっきりしません。
鶴丸城はこれまで何度か登っていますが黒岩館は今回初めて登りました。黒岩館は決して出城といった狭小なイメージではなく、鶴丸城築城以前はこの城がこの地域の拠点であったものと感じました。

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送りバント

20260503城島城(福岡県久留米市) (2026/05/03 訪問)

城島天満宮や城島小学校などが城跡に建っている。現地説明板によると、1912年まで小学校の周囲に堀が残っていたものの、埋めて運動場を拡張したため、現在遺構は残っていないらしい

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小城小次郎

伊東マンショの像が立つ (2025/05/31 訪問)

五城郭と呼ばれる中心部分に加えて七つの出城で町屋をも囲む巨大な城塞都市。五城郭を巡るだけでも小さな山城五つ分の体力を要するのでは。本丸に五城郭内で生まれた伊東マンショの像が新たに立てられていた。

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送りバント

20260503生津城(福岡県久留米市) (2026/05/03 訪問)

周辺の耕地整理により往時の面影はないが、八幡宮本殿裏手にある「城内大神宮」の自然石は、生津城の鎮護神として城内に祀られていたものを開田に伴って遷座したものらしい

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城好きのメガネ

「小島陣屋」 (2026/04/06 訪問)

<オススメ>★★★★★
小島陣屋は譜代大名・松平信孝が立藩。2代目・信治が陣屋を構えた。陣屋は最大4mにもなる石垣を多用した3段構成の曲輪からなる。幕末は、松平信敏は新政府軍に加わり、廃藩置県まで164年間にわたり同地を治める。御殿書院は、移築復原されている。現在、石垣などが遺されている。

<アクセス>
JR興津駅 小島南 バス亭下車 徒歩10分

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城好きのメガネ

「田中城」 (2026/04/06 訪問)

<オススメ>★★☆☆☆
1570年に武田信玄が「元来堅固の地に候」と称え、遠江侵攻の拠点となった。長篠の合戦後、徳川家康に対する駿河防衛拠点となり武田勝頼の命で山県昌景が改修を行う。度重なる徳川軍による攻撃を受けるが、武田氏滅亡とともに降伏開城する。徳川家康の関東移封後は、横田村詮(中村一氏家老)が入城した。1616年、徳川家康は田中城に立ち寄り、茶屋四郎次郎に供されて鯛の天ぷらを食した。これが家康の死因とする説がある。現在曲輪・移築櫓・横堀(水堀)などが遺されている。

<アクセス>
JR西焼津駅 徒歩20分

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ぴーかる

勅使館 (2026/03/14 訪問)

【勅使館】
<駐車場他>説明板前に停めました。
<交通手段>車

<感想>日帰り大聖寺城と福井山城旅1城目。勅使館は平安時代の終わりから南北朝時代に造られた地方豪族の館跡です。城びと情報では主な城主に勅使河原氏がいます。
 朝6時頃到着。休校日だが小学校の敷地内にあるため邪魔にならないように朝一に来ました。遺構は埋め戻されているようですが、掘立柱跡の地が2箇所残されています。堀跡などはのこされていないようです。撮影をして終了しました。

<満足度>◆◇◇

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HKISD

岐阜城散策 (2026/05/02 訪問)

ゴールデンウイークという事もあり駐車場は満車、近くの河川敷に停めてバスで
岐阜城の行くためのロープウエイは約1時間待って乗りました。
天守からの見晴らしが最高すぎました。

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HKISD

高島城散策 (2026/05/01 訪問)

諏訪湖付近の高島城。上諏訪駅から歩いて10分ほどでしたが交差点から見る橋と天守が良かったです。

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昌官忠

秩父鉄道沿線城巡り④:千馬山城 (2026/05/05 訪問)

2026年5月11日~6月11日まで中国地方と兵庫県のお城を攻城する予定です。
1年ぶりの遠征に向け、事前の足ならし攻城(①中央線&京王線沿線城巡り、②三浦半島城巡り)に続く第3弾は日帰り秩父鉄道沿線城巡りです。
秩父鉄道沿線城巡り4城目は千馬山城(ラスト)です。
親鼻駅より徒歩35分位で、龍ヶ谷城説明板(36.069570、139.124448)を経由して、千馬山城登城口(36.070608,139.127140)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、用土新左衛門(藤田康邦)により築かれた、あるいは改修されたと云われています。
藤田康邦は1546年(天文15年)小田原北条氏に降伏して、四男氏邦を養子に迎えて家督を譲ります。
この康邦が用土氏と名乗りを変えていますが、千馬山城の用土新左衛門は藤田氏の分家筋の用土氏と推測されているようです。
北条氏邦が城主をつとめた鉢形城の支城としての役割がありました。1561年(永禄4年)に長尾景虎、1569年(永禄12年)には武田信玄に攻撃されますが撃退しています。
しかし、1590年(天正18年)豊臣秀吉による小田原征伐では鉢形城とともに落城し、廃城となりました。

登り口の民家に看板があります。看板の表示は全て「龍ヶ谷城」です。遠くないところに別の龍ヶ谷城があるので紛らわしいですね。
遺構として、郭、堀切、横堀、竪堀、土塁などが確認できます。
攻城時間は50分くらいでした。日帰り秩父鉄道沿線城巡りはここがラストです。千葉の自宅に帰ります。
歩行歩数=38927歩、歩行距離=27.2Kmです。長期遠征前のいい運動になりました。

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昌官忠

秩父鉄道沿線城巡り③:天神山城 (2026/05/05 訪問)

2026年5月11日~6月11日まで中国地方と兵庫県のお城を攻城する予定です。
1年ぶりの遠征に向け、事前の足ならし攻城(①中央線&京王線沿線城巡り、②三浦半島城巡り)に続く第3弾は日帰り秩父鉄道沿線城巡りです。
秩父鉄道沿線城巡り3城目はで天神山城す。
樋口駅より徒歩30分位で白鳥神社登り口(36.121049,139.115449)に着きました。

天文年間に山内上杉氏の重臣である藤田重利(康邦)によって築かれた城です。
1546年(天文15年)の河越夜戦以降に北武蔵に勢力を伸ばしてきた北条氏康に重利は1549年(天文18年)に降伏しました。
1560年(永禄3年)に上杉謙信が関東侵攻を開始すると藤田氏は上杉方につきましが、同年に北条氏によって攻め落とされました。
1564年(永禄7年)頃に北条氏康の四男である氏邦が入城します。
氏邦は1568年(永禄11年)から翌年の間に鉢形城に居城を移しましたが、その後も天神山城は使われ続け、1590年(天正18年)の小田原征伐の際に、鉢形落城と共に開城したといわれています。
1970年(昭和45年)観光を目的として本丸跡に模擬二重櫓(鉄筋コンクリート製)が建設されましたが、採算があわず倒産し模擬天守を含む周辺の建物は放置されて、現在に至ります。

白鳥神社脇から人一人分ほどの山道を15分くらい登るとボロボロの模擬天守が見えて来ます。
このボロボロの模擬二重櫓は城好きよりも廃墟マニアが好みそうです。
2の郭から出郭に下りれそうですが、急斜面の為、諦めました。
遺構として、郭、堀切、横張、竪堀などが確認できます。
特に本郭と2の郭間の堀切は見事です。(観光客用に橋が架けてあります)
攻城時間は55分くらいでした。次の攻城先=千馬山城に向かう為、樋口駅から電車で親鼻駅に向かいます。

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昌官忠

秩父鉄道沿線城巡り②:花園御岳城 (2026/05/05 訪問)

2026年5月11日~6月11日まで中国地方と兵庫県のお城を攻城する予定です。
1年ぶりの遠征に向け、事前の足ならし攻城(①中央線&京王線沿線城巡り、②三浦半島城巡り)に続く第3弾は日帰り秩父鉄道沿線城巡りです。
秩父鉄道沿線城巡り2城目は花園御岳城です。
花園城の諏訪神社(登城口)より徒歩15分位で、花園御岳城登城口/少林寺側(36.124230,139.170252)に着きました。

詳細は不明です。藤田氏の居城である花園城の支城として築かれたと考えられています。

なお登城口は山麓の五百羅漢で有名な少林寺にあり、ハイキングコースとなっています。
少林寺から五百羅漢に沿って登っていくと五百羅漢の説明板と仏像がある広場があります。
一瞬、郭かな?と思いましたが、違うようで、その広場の入口の左(円良田湖方面)に下る道を進みます。
すると、すぐに円良田湖方面は右と示す標柱があり間違えて、そちらに進んでしまいました。
円良田湖まで降りてから、間違えに気づいて、再び標柱まで逆戻り。
正しくは、標柱無視して尾根筋を直進していくと二郭に至り、そこを越えると主郭の御嶽神社です。
土塁や横堀などの遺構が確認できます。
攻城時間は50分(道を間違えた時間ロスを含む)くらいでした。次の攻城先=天神山城に向かう為、波久礼駅から電車で樋口駅に向かいます。

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昌官忠

秩父鉄道沿線城巡り①:花園城 (2026/05/05 訪問)

2026年5月11日~6月11日まで中国地方と兵庫県のお城を攻城する予定です。
1年ぶりの遠征に向け、事前の足ならし攻城(①中央線&京王線沿線城巡り、②三浦半島城巡り)に続く第3弾は日帰り秩父鉄道沿線城巡りです。
秩父鉄道沿線城巡り1城目は花園城です。
寄居駅駅より徒歩30分弱で、諏訪神社(登城口)(36.120796,139.173868)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、平安時代末期に藤田政行によって築かれたと云われ、関東管領・山内上杉氏の重臣、藤田氏代々の居城でした。
その後、北条氏邦を養子に迎えて本拠を鉢形城に移してからは支城として使われたようです。氏邦に家督を譲った藤田康邦の隠居城だったともいわれます。
秩父谷への街道を抑える重要な支城でしたが、1590年(天正18年)豊臣秀吉による小田原征伐軍によって攻められ落城しました。

諏訪神社から登城しました。諏訪神社の社殿の右側に花園城と書かれた木製の看板と、よくみないと気づかないレベルの細い道が登城口です。
そこから木に巻かれたカラーテープを辿ると城跡に辿り着きます。
土塁や堀切、竪堀だけでなく、石積も残っています・
堀切や竪堀は圧巻です。見事です。感動しました。
攻城時間は60分くらいでした。次の攻城先=花園御岳城へ徒歩で向かいます。

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you

智を構え 多勢を凌ぐ 黒の城 彼の堅牢さ 面影もなし (2026/05/05 訪問)

約2年ぶりの登城でした。


名の通っている「有岡城」は、信長から摂津三十八万石の守護に任命された荒木村重が城名を改めたことに始まります。

鎌倉時代末期に当地近辺を支配していた伊丹氏が小さな居館を築いたのが伊丹城の始まりとされます。具体的な時期は不明ですが、楠木正儀ら南朝方と、北朝方の赤松光範を助けた森本基長との間で伊丹川原合戦が起こり、一ヶ月後に伊丹城が南朝方の攻撃を受けたと綴る史料が残っていることから、南北朝期には城が既に存在していたようです。

戦国期の畿内政治史を描いた『細川両家記』には、細川高国と澄元の対立において伊丹氏は高国方であったことが記されており、澄元方で播磨守護の赤松義村が摂津に攻め入って伊丹城を包囲しますが、落とすことができず播磨に逃げ帰ったとあります。しかし数年後に澄元方の総攻撃を受けついに落城、城を守っていた伊丹但馬守、野間豊前守が"天守"で切腹しました。

ここで、敢えて天守を強調しました。
これまでは、伊丹城の天守が文献上の初見とされていました。しかしこれは現在否定されており、文献の写本段階で「主殿」が「殿主」に誤写され、その後も「殿守」→「天守」と転化したことが明確になっています。

伊丹城はその後も細川晴元、三好長慶らの攻撃を受けますが、『細川両家記』には「伊丹城計(ばかり)堅固也」とあり、城の堅固さを繰り返し記しています。

荒木村重の謀反の噂が流れ、籠城戦の火蓋が切って落とされたのは天正6年(1578)のことです。もとは池田城主の池田勝正に仕えていましたが、勝正が信長に降伏したのをきっかけに信長に仕え、尼崎城・芥川城・高槻城・茨木城などを攻略、池田城も手中にしました。石山合戦の際に村重の部下に内通者がいたことや、一族が明智光秀の丹波攻略の際に波多野氏と手を組み抗ったことで、光秀の恨みを買ったなどの噂をきっかけに村重は籠城戦を決意したといいます。10ヶ月ほど続いた籠城の末、村重は援軍を要請するため城を一度抜け出しますが、そのまま帰ってくることはありませんでした。戦後、信長は一族郎党すべてを惨殺したと伝わりますが、村重だけが生き延び、秀吉に仕えています。本能寺の変で信長が没した後、伊丹は秀吉の直轄領となり、城は荒廃の一途を辿りました。


伊丹城はいわゆる総構の城です。主郭の東側に猪名川が流れ、西側の内郭に侍屋敷、外郭に町屋が建っていました。主郭と内郭の間および内郭と外郭の間に堀を設けて区画しており、現在主郭から西に200mほどの場所に「大溝筋跡」が保存されています。また、城域の南端に「鵯塚砦」、西に「上臈(女郎)塚砦」、北は台地続きを掘り切って「岸砦」を築いていました。上臈(女郎)塚砦は現在の墨染寺の辺りとされ、お寺の入口左手に伊丹の俳人である鬼貫の碑が建っています。


伊丹城のように、城郭を鉄道路線が貫いている例が他にもいくつかあります。色々思うところはありますが、地域の方々の善意によってほんの一部だけでも遺構が保存・復元されるのは大変喜ばしいことです。ぽつんと建っている石碑、局地的に盛り上がっている土地、不自然な位置に設けられたクランクなど、毎日通っていて見向きもしないあの場所が実は、形を変えつつも往時の名残を留めている城郭遺構だったりして。

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にのまる

信虎誕生屋敷

川田館(躑躅ヶ崎以前の甲斐統治の中心地)から東に4km、徒歩約1時間。
信虎公のお母さんの実家があったところだそうで、武田三代の始まりの地だと思うと感慨深かったです。
一段高いぶどう園の周囲には今も水堀が巡っており、発掘調査で掘立柱建物跡も確認されたそうです。

富士山も見放題で楽しいお散歩でした。

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Pylori

お堀が素晴らしい高岡城 (2026/04/30 訪問)

市街地なのに外堀まで残っていてワクワク

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