大友宗麟の生涯を追う話からちょっと脱線して、秀吉時代に博多の街を復興させた男の話を、少しさせて頂こうと思います。
博多の街は過去4度、焼き討ちに会ったとされています。
① 度目は、元寇の時です。1274年文永の役で博多湾に上陸した蒙古軍は、まず博多の街を焼き払い、住民を虐殺して行きました。
② 度目は、前回お話しした1569年の多々良川の戦いの最中です。立花城を制圧した毛利軍でしたが、大友の軍勢に囲まれてしまったため、小早川隆景は敵の背後の博多の街を焼払い、大友軍を混乱させました。
③ 度目は、1587年島津軍北上の時です。島津軍は立花城に籠る立花宗茂を攻めますが、その最中に博多の街をも焼き払いました。
④ 度目は、1945年太平洋戦争の福岡空襲で焼け野原になりました。
③度目の直後、九州征伐を終えた豊臣秀吉は薩摩から大坂へ帰る途中、島津軍によって焼け野原と化した博多の街を見て唖然としたそうです。そこで博多に20日間滞在し自ら町割りを考え、それを「黒田官兵衛」と博多の豪商で千利休とも親交のある茶人「神屋宗湛」に特権を与えて託し、復興を命じたそうです。その時の区画整理が「太閤町割り」として現在も残っています。そしてこの町割りの単位が、今でも博多祇園山笠の流れの単位となっているそうです。
神屋宗湛は、そのおかげで博多の街が復興できた事に大変感謝し、朝鮮出兵の際には名護屋城へ出向き、秀吉にお礼として「黄金の茶室」を献上したそうです。そして名護屋城で茶会を開き、秀吉や諸大名に茶を点ててもてなしたとか。
現在、宗湛の屋敷があったとされる博多区奈良屋町の跡地には、秀吉を祀る「豊国神社」が建ち、奈良屋町は博多祇園山笠(追い山)の終点になっています。
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