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しんちゃん

結局 大池か・・  さらば金魚 (2024/06/29 訪問)

香川先生の書かれた高天神城の図にも堰が築かれた大池が描かれています(ググってみてください)。大事な水の手なのでここを城兵が守っていたのではないでしょうか。
広島藩主浅野家に伝わる浅野文庫所蔵「諸国古城之図」の中に「高天神城」もあって、大池は枯れ、はるか南東に溜め池が描かれています。伝承が確かであれば、井伊直政によって堰を切られた大池の水がここに溜り、農業などに転用する目的で新たに堰を築いたのかもしれません。良く見ると大池の下流に二重の堰の跡らしいものも見えます。残念ながら現在の周囲の地形は大幅に変わっており、それらの遺構を確認することは出来ません。
掛川市の文化財課の方に聞いてみると、二の丸跡の発掘調査で大量の瓶(かめ)が見つかったそうです。瓶の中には穀物などの有った形跡は無かったそうなので、雨水や大池の水を溜め置いたものでしょう。やはり城内では水を自給できなかったようです。
ちなみに「かな井戸」の猫の話や「諸国古城之図」などのヒントもこの方から頂きました。おそらく、この御人は全部見当がついていると思うんですよ。知っていて、はっきりとは教えてくれない・・「自分で考えて見なさい」ということだと思います(感謝)。
自分の考えが及ぶのはここまでです。「高天神城」の水の手の新しい情報があったら是非、教えていただきたいと思います。

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しんちゃん

高天神城の水の手の謎 (2025/01/19 訪問)

高天神城の築かれている山は古大井川の流れが運んできた堆積物によって成る高天神礫層で形成されています。この地層、とても水はけが良いです。逆に言えば非常に水持ちの悪い山です。
そんな山に築かれているので、高天神城の城兵は水の確保に苦労したと思います。三日月池(金魚・・)は通年水を湛えていますが、これは下にコンクリートを張って有るためです。規模も小さいので水の手の候補からは除外します。

水の手と思われる箇所は三つ。一つ目は井戸曲輪にある「かな井戸」、城内にある井戸らしい井戸はここだけです。
二つ目は二の丸の北の谷を降って行った先にある「沢」・・でも今年1月に訪問した時には水は流れていませんでした。冬季には沢の水も枯れているようなので、これは水の手としては有力ではありません。
三つ目は・・現在の大池のある場所に築かれていたであろう「ため池(大池)」江戸時代に書かれた古城の図には大池の南東へしばらく行った先に池らしきものが描かれています。

かな井戸に話を戻すと、かな井戸のある曲輪はおおよそ標高110m前後の位置にあります。数年前、かな井戸にのら猫が落ちたという事件があり、その救出作業の際に井戸の深さがおよそ13mであることが解りました。救出者の証言では井戸の側面に採掘の跡は無かったとのことです。
24年の6月21日ごろに、ある程度のまとまった量の雨が降ったので翌日に訪問してみました。井戸の底の標高は※標高97m前後だと思いますが、登城道の脇から水がどんどん染みだしていました。それが※標高97mあたりの場所なので、おそらく井戸にはほとんど水が溜まっていないはずです。実際に「かな井戸」には水が溜っているようには見えず、この程度の雨では役にたたないようです。
6月末に記録的な大雨が降ったので、訪問してみると数mは水が溜っているようでした。でも、すぐに下に染みだしていってしまうと思います。かな井戸がなぜ残されていたのかは不明ですが、これも水の手としては機能が不足しているようです。

となると残っているのは「大池」のみ。現在の大池の近くに池曲輪と呼ばれる曲輪があります。おそらくここから水を汲み上げていたのではないでしょうか?

※投稿内の標高の注記は記憶による部分が多いです。改めて地理院地図で調べた結果、一部を修正いたしました。

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しんちゃん

三日月井戸の金魚はどこに? (2025/01/19 訪問)

イオさんの「麒麟がくる紀行」楽しく読ませてもらいました。このところ会社が暇なので、空いた時間でこっそり読んでいます。できればまとめて読みたいので各々持論をまとめておけるコーナーみたいなものが有ると嬉しいですね。
高天神城は比較的近いので、24年から4度ほど来ています。トクさんの投稿にあった「高天神城の水の手」は私も気になっていたので調査も兼ねています。高天神城の武田方の命運が尽きた天正9年(1581)の城攻めは、乾燥した冬季に決着が付きました。
この際に井伊直政が間諜(忍者?)を用いて、用水を切り落としたので速やかに落城した、という逸話が残っています。城内の水源になりそうな場所は限られていますが、おおよその見当はついています。
久々に来たので北側の登城道の途中にある三日月井戸を見に行きます。この井戸は湧水が溜って出来た天然の井戸なのですが、2019年以前から金魚が住みついています。おそらく誰かが持ち込んだのでしょうが、井戸に自生する藻などを食べて生活しているようです。一時期より減ったものの三匹が生き残っていたのですが元気にしているかな・・?
居ない・・金魚がいなくなっています。猫の仕業でしょうか? それとも誰かが連れ去ってしまったのかな?
水の手も気になりますが、こちらも気になるわ・・

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にのまる

一期一会の出会いあり (2025/01/24 訪問)

佐伯駅から徒歩で最初に向かったのは城友さんおすすめのごまだしうどんのお店、味愉嬉食堂さん。以前ごまだしをクール便でいただいたことがあり、こんど佐伯城にいく時には是非お店に、と思っていました。
味変過程が楽しくて美味しいごまだしうどんをいただき、マスターともたくさんお話しして、お土産にごまめを購入してから登城スタート。
前回は登城の道から登って翠明の道から下ったので、今回は独歩碑の道から登ってみました。3つの道の中ではいちばん緩やかな道です。ここからしか見られない眺めもあり、楽な道だからと避ける必要もないなと思いました。
本丸で暫し景色を楽しんでから、前回行かなかった若宮の道を下って雄池と雌池に行ってみました。どちらも石垣で囲われており、地下からの湧水と斜面から流れる雨水を溜めていたそうで、さらに県指定天然記念物のオオイタサンショウウオの産卵場所になっているそうです。(現地解説板でお勉強。)これからは山城に行ったら水の手に注目してみようと思いました。
北出丸、本丸に戻ってきたところで地元の方がお声がけ下さり、城下の景色を見ながら佐伯の戦前からの歴史についてお話しくださいました。
初訪問であれば二の丸や西出丸の方へ行きたいからとお話を断っていたかもしれませんが再訪なので絶対にそちらへ行かなければならないということもないので、その方のお話を伺いながら独歩碑の道から一緒に下山しました。地元の方だからこその思いもお聞かせいただけてとてもいい時間を過ごせました。
城下の方々との触れ合いが楽しい佐伯城訪問でした。

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トク

【対馬4城を巡る】(1)清水山城(2/2) (2025/03/22 訪問)

(1城目)清水山城の続き(2/2)です。

三ノ丸からさらに20分程登ると二ノ丸に着きました。入口は、巨石で積み上げられた内桝形虎口になっていて、その上は櫓台になっていました(写真①②③)。大きさは東西50m南北30mで平たく削られています。この二ノ丸が一番大きいようです。という事は、ここには多くの兵が待機できる建物があったのかもしれません。

そしてさらに15分程登り、山頂の一ノ丸へ着きました。麓からは見学時間も含め約60分かかりました。登山道には岩のでこぼこが多いので、底の薄い靴でなく軽登山用の靴がオススメです。ここから見下ろした厳原の眺めはとても気持ちよく、やはりここまで登ってきた甲斐がありました(写真⑤)。

一ノ丸の虎口は二重になっていて、直進できないよう喰違い虎口になっていました(写真⑥⑦)。しかし全体的に自然の大きな岩盤が残っていて平坦な場所は無く、とても兵が待機できる場所だったとは思えません(写真⑨)。おそらく建物も無かったと思います。ならばなぜここをこのような厳重な虎口まで作って一ノ丸にしたのか? 意図がわからずちょっとモヤモヤです。これでは兵站基地としての役目は不可能です。兵站基地や御座所としての役割は、結局麓の金石城が担っていたのではないかと思いました。よって清水山城の築城は監視所としての役割もありますが、もしかして秀吉の威厳を示し渡海におびえる兵士たちを鼓舞する事が目的だったのでは?

現在の山は木に覆われ、登り石垣は下からは全く見えませんが(前回写真①②)、当時は木など無かったのでよく見えていたと思います。よってここ清水山城は、本当は兵站基地としてではなく、一ノ丸には豊臣の旗を立て、それを朝鮮へ渡る兵士たちに下から見上げさせ、さらに兵士たちはこの三ノ丸から一ノ丸までの二つの上から睨みつけるような500mにわたる長大な登り石垣を見た瞬間に、もう太閤様には逆らえない、我々は朝鮮へ渡り戦うしかない・・・そう思わせ最後の覚悟を決めさせるための城だったのではないか?・・・と思ってしまいました🤔。

次は(2城目)金石城へ続きます。
 

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イオ

麒麟がくる紀行(謎に満ちた生涯)

(続き)

明智光秀の首は粟田口に晒された後に蹴上付近に首塚を築いて埋められたと伝わり、江戸中期に首塚の石塔婆が白川橋近くの現在の位置に移されて、明智光秀首塚(京都市東山区)として守り継がれています。また、京都府亀岡市の谷性寺にも光秀の首塚が祀られています。谷性寺本尊の不動明王を深く崇敬していた光秀が、自らの首を谷性寺に埋めるよう溝尾茂朝に託したんだとか。京都府宮津市の盛林寺にも光秀の首塚があります。こちらは細川忠興に嫁いでいた玉のもとに届けられた首を葬ったもののようです。生誕地が6か所もある光秀ともなれば首塚の3か所くらいは当たり前ですよね……って、キングギドラじゃないんだから(笑)

首塚は3か所(もっとあるかも?)ですが、供養塔や位牌や光秀像はあちこちに祀られています。生誕地のうち、岐阜県可児市の天龍寺には日本一大きな光秀の位牌(と木像)が安置され、岐阜県恵那市の龍護寺には光秀の御霊廟(おはか)が、岐阜県山県市の中洞白山神社の奥には光秀の墓と伝わる桔梗塚があります。越前には朝倉氏に仕えていた頃に住んでいた東大味地区に「あけっつぁま」と呼ばれる墨塗りの光秀木像を祀った明智神社(福井市)があり、光秀の領地では、坂本城下の西教寺(滋賀県大津市)には光秀と一族の墓や光秀と熙子の位牌が、周山城下の慈眼寺釈迦󠄀堂(京都市右京区)には「くろみつ大雄尊」と呼ばれる墨塗りの光秀座像が、福知山城下の御霊神社(京都府福知山市)には福知山の町を開き水害を治めた光秀が祭神として祀られています。御霊神社には「明智家法」など、光秀のものとされる書状も三通伝えられているようです。また、光秀が討たれた明智薮を寺領とする本経寺(京都市伏見区)の境内にも光秀の供養塔が建てられています。

さて、大河ドラマ「麒麟がくる」では光秀の最期は描かず、どこかで生きているんじゃないか、との希望を抱かせるようなラストでしたが(ネタバレすみません)、源義経がジンギスカンになったように、真田幸村が豊臣秀頼を護って薩摩に落ち延びたように、光秀にも生存説はいくつかあり、最も有名なものは南光坊天海として徳川家康に仕えたという説でしょうが、生誕地のひとつ、岐阜県山県市の中洞地区にも生存説が伝わっていて、曰く、山崎の戦いの後に討たれたのは影武者で、光秀本人は故郷の中洞に落ち延びて暮らした後、家康の求めに応じて関ケ原の戦いに向かう途中、増水した川に流されて亡くなったとのこと。上記の桔梗塚は「溺死した光秀」の墓なんですね。

…ということで、6か所の生誕地に始まり、美濃や越前での動静も不詳、本能寺の変の動機は日本史最大の謎ともいわれ、首塚は3か所あり生存説もいくつかあるという光秀の謎に満ちた生涯をたどってきましたが、没後440年を経た今なおあれこれ取り沙汰されるのは、そうしたくなるだけの魅力ある人物だということなんでしょうね。この5年あまりの間にも坂本城三の丸の石垣が発見されたように、これからも光秀の謎を解く手掛かりとなる発見があることを期待して、私の麒麟がくる紀行をひと区切りとしたいと思います。長らくお付き合いいただきありがとうございました。
 

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赤い城

栗隈城と支城群 香川県丸亀市 (2025/03/15 訪問)

城びと未登録で西長尾城の支城です。
県道に案内板があり、そこから山の方に向かうと説明板が立っています。
駐車スペースもあったのでここに車を置きました。

登城口を少し進み防獣柵を開けて進むとすぐに支城の一つ、城ノ岡城があります。
尾根を利用した広い平坦地で館跡とされます。
さらに進むと田村城、田村上総介の居館です。
段になった曲輪が連続します。
さらに進み、主郭への案内板を過ぎたところに星濡城。
ここは竹藪で入れません。
長宗我部氏の侵攻により城が放棄された際、見上げた星が滲んで見えたことからこの名が付いたそうです。

主郭方面にも道が付いていて程なく尾根道に到着。
さらに登って行きます。
西の曲輪群は段になって曲輪が並んでいます。

登ったところに北側の切岸が阻みます。
この曲輪下を回りさらに進むと主郭となります。
縄張図にはその先に三重堀切が描かれていますが埋まっていて若干の痕跡を残すのみです。
ヤグラと呼ばれる高台の先にも三重堀切、こちらも埋まっています。

引き返し先ほどの切岸まで戻り、東に降りると大流城。
ここは整備されていません。

派手な遺構は無いマイナー城ですが歩きやすい城でした。

【見どころ】
 ・西の曲輪群
 ・三重堀切の名残

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小城小次郎

「天空の城」より高くて大きい (2024/05/12 訪問)

金森長近が越前大野城を築くまで斯波・朝倉による地域支配拠点であったお城からは「天空の城」大野城がよく見える。戦国期城郭の戌山城の方が近世城郭の大野城よりずっと高くてずっと大きいという事実にふと気付く。

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朝田 辰兵衛

ここは地名消滅の危機から碑が建った… (2025/02/24 訪問)

碑に刻印された説明書きを読むと,住居表示変更で「日向」の地名消滅を惜しみ,有志により建立されたとあります。これからも時代は,さまざまな消滅危機を繰り返すことでしょう。「何かを残して語り継いでいこう」という志はとても素晴らしいことです。
佐原城のような残し方もあれば,この真鳥山城のような残し方,いろいろあっていいのではと思います。大事なのはそこから先人たちの心を,今を生きる私たちがどれだけ感じ取れるかが問題。碑なんかは,そのきっかけにすぎません。
いつまでも,いつまでも,豊かな心を育んでいきたいと思います。

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しんちゃん

御三階 斎藤一墓所 (2024/09/17 訪問)

福島県会津若松市にある阿弥陀寺の境内には、かつて会津若松城の本丸に建っていた御三階が移築されています。外観は三階、内装は四階で藩主の密議の場として使用されたと伝わります。戦闘向きの建物ではありませんが、通常の櫓と違った優美さを感じます。
また境内には戊辰戦争の戦死者が埋葬されており、明治維新後に藤田五郎と名乗った、新選組三番隊組長・斎藤一の墓もあります。
藤田五郎と名乗っていた、くだりは「るろうに剣心」でもやってましたね。

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しんちゃん

12世紀の遺構? (2024/09/17 訪問)

陣が峯城は平安時代の末期に使用されていた城館とされています。城館のある会津蜷河荘は永久2年(1114)に藤原忠実の領地であったとされ、その配下の者が城館と土地を管理していたと思われます。
川西公民館の周辺が城館跡とされ、周囲に二重の堀が配され、入り口の設けられた西側には土塁が残ります。12世紀の貴重な城館遺構が残っていることが国の史跡に登録された理由になっています。

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ぴーかる

西高木家陣屋 (2025/01/18 訪問)

【西高木家陣屋】
<駐車場他>上石津郷郷土資料館駐車場に駐車し資料館100円に行きました。
<交通手段>車

<見所>石垣・長屋門・東高木家土蔵と石垣
<感想>美濃国石津郡を領有する高木家は高木貞利が関ヶ原の戦いで東軍の先鋒隊として参加し2000石の旗本として与えられたのが始まりとします。高木家は高木貞利の西高木家、高木貞友の東高木家、高木貞俊の北高木家の3家に分かれて交代寄合となり以降3家が隔年交代で参勤交代をします。高木家は明治まで存続しました。
 先達方の投稿で石垣が見応えありそうで行きたい城にリストアップしていました。最初に資料館に行き、そのあと周辺散策をしました。資料館は撮影禁止で陣屋の地形模型等があります。リーフレットも無くてちょっと侘しい資料館でした。陣屋は牧田川の西側の河岸段丘上のへりに築かれていて、その西側から広い平地が続いています。西高木家が3家の中で最大で2300石だが大名格だけあってもっと石高あるように感じました。虎口跡と東側法面の石垣が見応えありました。
 この日は滋賀・三重・岐阜の残していた城を攻略しました。城びとフラッグの穴埋め的な気分で行きましたが采女城は予想外に素晴らしかった。368㎞無事走破。

<満足度>◆◆◇

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しんちゃん

彦根道中 (2025/02/09 訪問)

2月に彦根に雪が降ったというニュースを見て、高速の通行止めが解除されたと同時に行ってきました。ちょっと雪の日の城めぐりが楽しくなってきています。あとは雪用の靴を準備すれば心強いかな。現在、除雪用のスコップは買って車に積んであります。
高速道路には雪は有りませんでしたが、彦根に降りた途端、雪国のような景色に。
彦根市はけっこう開けていますが、雪の多い地域のようです。周囲は雪が積もっていますが、近江ちゃんぽんの店はしぶとく営業しています。でも雪が除雪しきれていないので車を5台しか置くことが出来ない。とりあえず置けるところに置きます。
雪の彦根城もなかなか良かった。玄宮園も良かったですね。
そのまま某アプリの城攻めをしながら大津周辺を回りました。この辺りには雪がほとんどない。夕食は「まことや」の牛骨ラーメン。
最後の写真は、市場城攻めの後に食べた洋食屋のハンバーグディナー。たまにはラーメン以外のものも食べないと。でもフォークとナイフだけだと少し食べつらい。箸とスプーンが欲しいな。

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イオ

麒麟がくる紀行(三日天下)

(続き)

織田信長と信忠を討ち京を制圧した明智光秀は安土城に侵攻しましたが、山岡景隆は光秀の誘いを拒んで瀬田の唐橋(滋賀県大津市)を焼き落として抵抗し、頼みとしていた細川藤孝・忠興父子は信長の喪に服することを表明して嫁いでいた娘・玉を味土野(京都府京丹後市)に幽閉、筒井順慶の協力も得られず、光秀の目論見は次第に破綻していきます。

そして最大の誤算は毛利の大軍と対峙していたはずの羽柴秀吉がわずか9日間で尼崎まで引き返してきたこと(中国大返し)。織田信孝・丹羽長秀らと合流し、中川清秀、高山右近ら摂津衆を味方につけて兵力を増しつつ迫りくる羽柴軍を京への入口にあたる山崎で迎え撃つべく、光秀は勝龍寺城(京都府長岡京市)に入って恵解山古墳(長岡京市)または境野一号墳(京都府大山崎町)に本陣を置き、円明寺川(現 小泉川)をはさんで羽柴軍と激突しました。小泉川東岸の天王山夢ほたる公園には山崎合戦古戦場の石碑と説明板が建てられており、公園からは天王山がすぐ近くに見えます。「天下分け目の天王山」と云われるように、山崎の戦いは天王山をめぐって激しい争奪戦が展開されたようなイメージがあり、実際、天王山のハイキングコースには山崎合戦之地の石碑や説明板が建てられていたり、秀吉が馬印を掲げたと伝わる旗立松があったりしますが、天王山はせいぜい前哨戦の地であって、主戦場はあくまで東麓の湿地帯だったようです。とはいえ、旗立松展望台からは主戦場がよく見渡せ、やはり羽柴軍にとって天王山を確保する意味は大きかったんだろうとは思いますが。

3倍ともいわれる兵力差の中、奮戦するもついには総崩れとなった明智軍は勝龍寺城に撤退し、その夜、光秀は再起を期して北門から脱出して坂本城に向かう途中、小栗栖で落ち武者狩りにより討たれたとされます。光秀が討たれた地は明智薮(京都市伏見区)と呼ばれ、明智薮の北東約1.2kmには明智光秀胴塚の石碑と説明板があります。明智薮で負傷しながらも何とか逃れてきたが、坂本城まではたどり着けないと悟って胴塚の地で自刃した、といったところでしょうか。そして光秀の首は信孝のもとに届けられて、まず本能寺跡で、次いで粟田口(京都市東山区)で晒されたと伝わります。光秀が天下を手中にしたのはわずか12日間のことでした…(続く)。

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todo94

献血前の攻城④ (2025/03/15 訪問)

宍戸陣屋の移築表門からの転戦です。グーグルマップの湯崎城のポイントは完全に民家の敷地になっていますので写真撮影もしなかったし立ち入りもしませんでした。グーグルマップにただ「神社」と表記されている神社の脇は空堀のように見え、主郭の果樹園につながっています。本覚寺方向へ道沿いに回り込んでいくと城址碑を見つけることができました。こちらの方ははっきりと空堀が確認でき、主郭にもつながっています。シェルさんの投稿のおかげで城址碑を見つけることができました。ありがとうございました。

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赤い城

ラスボス征した後に (2025/03/09 訪問)

矢筈城で満足した後もう1城。
ということで医王山城です。
美作と因幡をつなぐ街道の要衝で南北朝時代以前より残っています。

岩尾寺の裏手に駐車場があり、すぐに登城口があります。
ここにも熊出没注意の看板があります。
急な九十九折りの坂道を登り、途中の薄い堀切を経て20分くらいで主郭に到着。
主郭には虎口があり、石垣が守ります。
また、眼下には湾曲した加茂川の流れを望みます。

虎口からまずは北側の尾根を降ります。
浅い堀切がありますが藪で不明瞭、この先は塩屋ケ城へと尾根道が続いているようです。

引き返し南側へ、主郭の土塁は石積で補強されていました。
さらに二の丸、三の丸へと進みます。
三の丸には素敵な土塁が残っています。
この先がこの城のメイン、石垣を経てまずは見事な大堀切からの竪堀。
大堀切は岩盤を削ったものでした。
さらには放射状に落ちる畝状竪堀。
南側の備えは強固なものになっています。

南北朝時代以降山名、赤松、尼子、浦上、毛利等相次いで支配者が代わった城です。
毛利の時代には秀吉と宇喜多の軍に攻められましたが2年に渡り死守。
落ちることはありませんでした。

メインディッシュの矢筈城でお腹いっぱいかと思ってましたがデザートは別腹でした。
2週前の鍛錬の成果かな?

【見どころ】
 ・主郭虎口の石垣
 ・主郭土塁を支える石積
 ・三の丸の土塁
 ・三の丸下の大堀切と竪堀
 ・放射状に落ちる畝状竪堀

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しんちゃん

どうする 数正?

おととしの大河ドラマ「どうする家康」では石川数正が徳川旗下の主戦派の勢いを削ぐために豊臣秀吉の元へ出奔したという演出が成されました。実際に三河から駿河までの城址を散策して見ると肌で感じるものがあります。
武田の城跡で縄張りが改修されたとされる、古宮城と諏訪原城は続百名城に登録されています。縄張りもかなり気合が入っていますね。東海道だけでなく迂回路にある山中の城も改修を受けているようです。山中にある城はそれほど規模も大きくないので、遺構や郭などの増築を受けているのでは? と思います。
特に本丸内に郭を増築するというのはヤバイ改修ですね。投降は考えずに城主の切腹を前提にしている縄張りに見えます。三河武士団は特に家康公への忠誠心が高いので、これらの改修を自発的にやっている可能性は有りますね。これは第二次世界大戦前と終戦前の日本に通じるヤバさです・・ちょっとハイになっている感じですね。
こんな無茶な戦を続けたら、貴重な人材や領土を失い続けて、たとえ徳川家が滅びなかったにしても、大いに勢力を失う結果になっていたと思います。
家康公もそのことは解っていたと思います。結果的に数正の出奔で一番得をしたのが家康公ですからね。

妄想・・・・・・・・・・・・・
数正「殿~~ サルにゲッチュウ(スカウト)されちゃったYo~」
家康「主戦派もうるさいし・・ユー そのままゲッ忠されちゃいなYo 」
数正「!! それでは私ひとりだけ悪者ではありませんか?」
家康「悪いようにはせぬ・・」 後の時代、石川家は当然のように改易。
う~ん・・ 家康酷いなあ。そんな酷いことはさすがにしないかな・・でも伏見城の例もあるし・・いざとなると非情な決断を下す男・家康。

実際の所はどうなんですか? 数正さん??

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三浦の晃ちゃん

整備されています (2025/03/23 訪問)

綺麗に整備されています。見学がしやすいです。空堀と土塁が見事です

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三浦の晃ちゃん

アメリカ領事館 (2025/03/23 訪問)

今は、幕末にアメリカ領事館だった本覚寺が建っています。

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三浦の晃ちゃん

権現山合戦 (2025/03/23 訪問)

権現山合戦という戦いの舞台です。今は、公園になっています。

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