気になる平山優先生のもう一つの話題は、秀吉と茶々の話です。
茶々が名護屋に来た事は一度だけあるようですが、それがいつだったのかははっきりと分かっていないそうです。茶々は、名護屋城の天守は風がとても強いので、天守を嫌って山里丸へ移ったとか。それで秀吉も山里丸で暮らすようになったそうです。山里丸は巨大な石垣をともなった門跡が、破却されずに今でも大部分が残っていました(写真①②③④)。この石垣の上の広沢寺(写真⑦⑧)の横に、秀吉の居館(写真⑤⑥)がありました。確かにここなら本丸が風よけとなってくれそうです。そしてその横には、茶室や月見櫓や船遊びをする場所(写真⑨⑩)も建てられ、兵士たちが朝鮮で戦っている最中も、秀吉はここで優雅に過ごしていたものと思われます。そして茶々がいない間は側室の広子(広沢局)がここにいたそうです。
平山先生は、秀頼が生まれた日(文禄2年8月29日)から280日前に逆算すると、秀吉は母(なか)危篤の知らせを受けた7月に名護屋をいったん離れますが、葬儀が終わって大坂から名護屋に戻ったのが(11月4日)。その直後の11月中旬がちょうど280日前となるので、この頃に茶々は名護屋に居てそして懐妊したのでは、もしそうなら秀頼は秀吉の子に間違えないだろうという見解でした。さあ真実はどうなのでしょうか?
次は小和田哲男先生の講演、(黒田官兵衛の縄張りを読み解く)の中からに続きます。
(P.S)
と言う事は🤔? もしかして11月中旬に茶々が名護屋でなく大坂にいたとしたら、秀頼は秀吉の子ではないと言う事になるのですか?(😱~!)。
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