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足軽クロックス

鶴ヶ城

鶴ヶ城天守閣

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足軽クロックス

山形城

山形城跡本丸一文字門大手橋

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送りバント

20030323杵築城(大分県杵築市) (2003/03/23 訪問)

見栄えのする天守もだが、そこから見た引き潮の海も印象に残った

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イオ

御殿跡めぐり (2025/08/31 訪問)

養翠園(と湊御殿奥御殿)に続いては、和歌山城の御殿跡と移築建物をめぐります。

湊御殿(和歌山市湊御殿)
紀州藩二代藩主・徳川光貞が造営した別邸で、歴代藩主の隠居所となりました。十一代藩主・徳川斉順は江戸城本丸御殿に倣った壮麗な御殿を新たに造営し、隠居所にとどまらない藩の政庁として機能しましたが、十三代藩主・徳川慶福(後の十四代将軍・家茂)の命により政庁機能は二ノ丸御殿に戻され、湊御殿は廃されたようです。現在、湊御殿跡は宅地化されて正確な位置も不明ですが、大浦街道西側・舟津町バス停のすぐ北に湊御殿跡の標柱が立てられています。また、養翠園に奥御殿が、感応寺(和歌山市鷹匠町)に女中部屋が移築(非公開)されています。

湊御隠殿(和歌山市有田屋町)
初代藩主・徳川頼宣が造営した隠居所で、頼宣はこの地で亡くなりました。頼宣の没後、湊御隠殿は廃されて遺構は見られませんが、跡地には光明寺が入って現在に至ります。

西浜御殿(和歌山市西小二里・和歌山市西浜)
二代藩主・徳川光貞が造営した別邸(西浜中学校西側)と、十代藩主・徳川治宝が造営した隠居所(現・和歌山工業高校)の2か所が西浜御殿と呼ばれています。治宝の西浜御殿は図面が遺っているものの、いずれも遺構は消滅しており、和歌山工業高校の西門脇に西浜御殿跡の標柱が立っているくらいです(その標柱も樹木に隠れて文字も消えかかっていますが…)。

巌出御殿(和歌山県岩出市清水)
初代藩主・徳川頼宣が造営した御殿で、参勤交代の際の宿所とされ、五代藩主・徳川吉宗が幼少期の大半を過ごしたと伝わります。巌出御殿は江戸中期に廃され、御殿跡の御殿山も昭和の河川改修で失われましたが、御殿の一部が横浜市の三渓園に「臨春閣」として移築されています。お城EXPOのついでに見に行きたいと思ってはいるんですが、未だ果たせずです。なお、御殿跡近くにはいわで御殿の名を冠した健康施設があり、敷地内にいわで御殿の由来と沿革の説明板が立てられています。

あわせて和歌山城の移築建物にも。

光恩寺(和歌山市大垣内)
本丸御殿の台所が庫裡として移築されています。棟瓦には三葉葵紋が用いられ、庫裡内には虎や鵞鳥の杉戸絵もあるようですが、内部は非公開のため未確認です。本丸御殿も本堂として移築されるはずでしたが、移築工事中の暴風雨で倒壊してしまったんだとか。何とも惜しいことです…。

宗善寺(和歌山市和歌浦中)
女中門が山門として移築されたと伝わります。鬼瓦に三葉葵紋、屋根の四隅には桃型の留蓋瓦が用いられています。
 

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小城小次郎

広大なエリアをてくてくてく (2025/04/26 訪問)

上城戸から下城戸までてくてく歩いて移動。上城戸の大土塁も良いし下城戸の巨石石垣の威圧感もまた良い。広大な空間に広がる戦国の街並みもまた良い。一乗谷駅近くに2022年にオープンした新しい資料館もまた良い。

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みゆき

広島城 閉城 (2026/03/08 訪問)

御城印づくりに参加

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ジェイド

散策しました (2026/03/05 訪問)

二条城に訪問した後に聚楽弟の散策をしました。
直江兼続屋敷跡→桂昌院殿御生家菩提寺→聚楽弟南掘鵲橋乃旧蹟→聚楽弟南外堀跡→豊臣秀勝邸跡伝承地→南北方向の堀跡→本丸西堀跡→本丸東堀跡→北の丸北堀石垣跡→上杉景勝屋敷跡→黒田如水屋敷跡→千利休屋敷跡(晴明神社)
というルートで回りました。
ほとんどがもう面影もなくただ碑が建っているだけでしたが、中には土地の高低差によって堀があった様子がうかがえたりする場所もありました。最後の晴明神社は陰陽師安倍晴明公をお祀りする神社という事で多くの人で賑わっていました。

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ジェイド

いつ訪れても心が落ち着きます (2026/03/05 訪問)

Webページより入場券を事前に購入しようと思いましたが、なぜかカードでの決済がうまくいかず事前購入できませんでした。
訪問当日は入場のためにたくさんの人が並んでいたらどうしようかと思いながら向かいましたが、幸運にもさほど並んでおらず10分くらいで入城できました。100名城スタンプと御城印は一回り回って最後の場所にある大休憩所にありますので、見逃すことはないと思います。
東大手門→唐門→二の丸御殿→二の丸庭園→本丸櫓門→本丸庭園→天守閣跡→本丸御殿→旧二条城の石垣→西南隅櫓→北中仕切門→清流園→大休憩所というルートで一通り見学しました。
今回は4,5回目の訪問ですが、いつ訪れても心が落ち着き、当時の様子を想像することができます。

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トク

【大友宗麟】(4)門司城の戦い(関門海峡争奪戦) (2025/12/21 訪問)

大友宗麟、神宮寺浦からの続き(4)です。

義鎮(宗麟)が家督を継いだ頃、門司城は周防の大内義隆の領地でした。しかし翌1551年、家臣の陶晴賢の謀反により大内義隆は討死にしてしまいます。そこで義鎮は、陶晴賢と和睦の証として弟の晴英を大内家へ差し出し、晴英は当主となり「大内義長」と名乗ります。そしてその引き換えに門司城は大友家の領地となりました。これにより大友家は西への攻めに専念する事ができ、筑前・筑後・肥前・肥後を平定し六か国の大大名となって行きました。

しかし1555年、毛利元就が厳島の戦いで陶晴賢を討つと、その勢いで大内館の大内義長をも討って周防・長門を手中にし、さらに1558年には関門海峡や博多での貿易の利権を得ようと九州へ進軍します。ここで門司城を預かっていた家臣の高橋鑑種が元就と内通し、門司城が毛利に奪われた事が発覚します。1561年に大友義鎮は1万5千の大軍をもって、門司城奪回に向かいました。すると毛利元就も、長男隆元・三男隆景の軍勢の計1万8千を向かわせます。門司城の戦いの始まりです。

そして大友軍は、いったん鑑種より門司城を奪い返しますが、隆景は得意の水軍を使って夜陰に乗じて攻め入り、見事大友軍を蹴散らして再度奪還したのでした。これにより大友軍は敗走、豊前の国衆らも寝返り、命からがら府内(大分)へ戻りました。大友義鎮にとってはこれが初めての敗戦です。

これを機に、負けたのはキリスト教に没頭する主君のせいと、神社の神主の家柄である奈多夫人(正妻)とは不仲になり、仏教に帰依する多くの家臣たちからは、キリスト教への反発を招いて離反され、妻子や家臣から信頼を失ってしまいます。ゆえに表向きはキリスト教から今度は仏門に入って剃髪し、それから「宗麟」と号して家中をまとめようとしました。しかしそれでもうまくいかず、今度は嫡男である「義統」に大友館を譲り、自らは完成した臼杵城に移り隠居する事で事態を収めようとします(奈多夫人とはもう別居したいという理由もあったかもしれません)。そして戸次鑑連や臼杵鑑速の重臣も剃髪して家臣団を説得するなどの支えもあり、1564年には将軍足利義輝の後ろ盾も得る事で、何とか毛利とも和睦し、事態を収める事ができました。

しかしこのままで宗麟は終わりません。臼杵に移ってからも実質は権力を握り続け、そして何とここから反撃に出るのです。

次は毛利との決戦! 立花城(多々良川の戦い)に続きます。
 

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イオ

養翠園と湊御殿奥御殿 (2025/08/31 訪問)

この日は和歌山城周辺の大名庭園や御殿跡、移築建物をめぐりました。

養翠園(和歌山市西浜)は紀州藩十代藩主・徳川治宝が造営した庭園で、海浜部に位置しながら海の景色でなく天神山や章魚頭姿山の山の景色を借景とした池泉回遊式大名庭園です。田畑の四季の実りを庭園の景観とした北の庭は失われていますが、海水を取り入れた3500坪に及ぶ潮入の池を中心に、稲荷社と弁天社を祀る守護神島に三ツ橋と太鼓橋を架け、藩主別邸の養翠亭(現存・建物内は通常非公開)、狐山や鴨寄せを設け、潮の干満に応じて三浦樋と薬研樋の2つの樋門で潮入の池の水位を調整していました。薬研樋の奥は御船蔵になっていて、船で来遊した藩主は御船蔵から御馬場に上陸し、帰りも御馬場で供揃えをして乗船したのだとか。

御船蔵から養翠園を退出したところには、湊御殿の奥御殿が移築されています。現在見られるのは十一代藩主・徳川斉順が新築した建物で、明治以降、個人宅に移築されていたものを和歌山市が購入して再移築したものです。内部も公開されていて、係員さんに案内いただきながら三葉葵紋の飾金具が施された書院造の部屋や「唐人人物画」などの杉戸絵を見学することができました。養翠園の半券提示で観覧無料になるので、養翠園とあわせてどうぞ。


> あ さん

早速の平須賀城レポート、ありがとうございます。全くの荒れ放題も覚悟していましたが、一応整備はされているんですね。ただ、ススキや茨がのびる早さに追いついていない、と。今週末は天気も良さそうなので赤松城とあわせてリベンジして、来週末あたりに写真ともども投稿するようにいたします。
 

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ほにゃにゃら

550年特別版御城印販売開始と勝間田城址見学会

550年特別版御城印を2026年4月5日より販売開始します
当日は、静岡古城研究会会長望月保宏先生・静岡古城研究会会員小城小次郎先生による山城見学会、森林ウォーキングを行います
御城印への日付入れ・見学者限定御城印の抽選会も行います。
御城印収集家交流ブース・
スイーツ・地元特産のお茶や野菜・キッチンカーによる食品販売
caravan noteによるギターとトランペットの演奏

御城印販売は9時~
山城見学会は13時~
15時終了になります

詳しくはパンフレットをご参照ください

今回の御城印は他にない漆黒に金色のキラキラ箔押しした逸品になっていますのでぜひとも手に入れてください。

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ぴーかる

熊野水軍安宅氏居館跡 (2026/01/25 訪問)

【安宅本城】
<駐車場他>八幡神社駐車場に駐車しました。
<交通手段>車

<感想>1泊2日紀伊半島1周、山城攻略旅7城目。現地説明板によると熊野水軍の一翼を担った安宅氏が築いた城館群が安宅氏城館跡であるとあります。熊野水軍を率いて淡路も勢力下にしていたが、同族争いのあと衰退します。
 橋から遠目で居館跡の石垣が見えます。現場の方に近づいても私有地で人のお宅になっているようなので、周囲を撮影して終了しました。次に詰め城の八幡山城を攻めます。居館跡と詰め城がフラッグが2つあるお得な城びとポイント。

<満足度>◆◇◇

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イオさんのリクエストに応えて投稿、そしてイオさんにお願い (2026/02/28 訪問)

 イオさん、リクエストをありがとうございます。次に投稿しようとしてたので、渡りに船と、投稿いたします。結論から言うと、登城道は問題ありません。が、城域はすすきと茨がぼうぼうです。
 皆さんが投稿しておられる登城口までも激細道でした。登城口から梅林との境の電気柵まで、そして、電気柵沿いもまだ藪ってません。ピークに至って、「着いた」と思ったら、まだなんですね。出丸かもとか。鞍部を超えると、大きな堀切があって、本格的な城域です。
 城域は、背丈よりも高いすすきと、それに紛れ込む茨とで、なかなかです。城びと先人のレポートでは、すすきが刈り取られていますが、私が行ったときは刈り取られてませんでした。郭の段々は認識でき、山城のボリューム感はひしひしと感じるのですが、すすきをかき分けて登るのに気を取られて、写真を撮るのを忘れてました。イオさんに現状の写真を撮って投稿をお願いしたい。

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dougen

2025.3.23登城 (2025/03/23 訪問)

秩父鉄道持田駅の北側ある久伊豆大雷神社が皿尾城址となります。
遺構としては僅かに土塁が残るのみですが、周りが田んぼになっており、往時は湿地だったことを想像すると難攻不落な平城だったことが偲ばれます。
私は見つけることができませんでしたが、城址の石碑も設置されている様です。

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イオ

連戦連敗にリベンジ

あ さん、赤松城へのルートの詳細なご案内ありがとうございます。無念の連戦連敗から2年あまり、ようやくリベンジの気力が湧いてきて、ちょうど今週末に苗代川池ルートで再挑戦する予定でした。おかげさまで安心して(けれど油断せずに)登城できそうです。

それと、田尻城に続いて平須賀城に行かれたようですが、問題なく登城できましたでしょうか? 2年前は現地で案内されている登城道は激ヤブ状態で断念せざるを得なかったので、今回も難しいようなら別のルート(直登も辞さず)を探すしかないかな、とも思っているんですが…。

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todo94

宮崎県の攻城③ (2026/03/07 訪問)

穂北城からの転戦です。この城も城址公園として整備されています。城址公園への入り口の表示が見当たりませんでしたが、急傾斜地の標柱の建っている細い道を進んでいくとトイレを備えた駐車場にたどり着くことができました。グーグルマップにも表示されている道です。城址碑のような入り口表示の左手を下っていってはいけません。右手の道を登っていくときれいに整備された主郭に達します。そこまでに見ることができるシラスの切り立った堀切はいかにも南九州の城といった味わいがありました。堀切、空堀の中には倒竹があったりしますが、私が最も好きな宮崎県の城・都於郡城とはまた違った野趣に富んだ魅力を感じることのできた城でした。

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トク

【大友宗麟】(3)神宮寺浦(宗麟が築いた南蛮貿易の拠点) (2026/01/18 訪問)

大友宗麟、浜脇館からの続き(3)です。

当主の座に据えられた義鎮(宗麟)は、自分にはそんなつもりはなかったにもかかわらず、自分のために父・継母・弟が殺され、それが一生心の傷となって残ります。それから戸次鑑連(後の立花道雪)や臼杵鑑速を中心とした大友軍は、数々の戦に勝ち続けますが、その度に多くの人々が犠牲になる姿を見た義鎮は、その後の戦は重臣に任せて、本当は戦を好まず、最前線に立つ事はありませんでした。

二階崩れの変の翌1551年、義鎮は「フランシスコ・ザビエル」と出会い、大友館に招き入れます。そして心の救いを求めて、何とキリスト教に没頭していったのです。それからイエズス会に豊後でのキリスト教の布教を許可します。

しかしここで義鎮は、布教の条件としてイエズス会に南蛮との貿易の仲介を求めます。最初はそのおかげで貿易による富を得て、鉄砲に必要な鉛や硝石が手に入り、大友家はますます戦に勝ち続けて領土を拡大し、九州六か国(豊後・豊前・筑前・筑後・肥前・肥後)を制し、九州最大の大大名になって行きました。ポルトガルの地図にも、豊後(BVNGO)と日本の中でもまるで独立国ように扱われ、義鎮の事を英知に満ちた国王だとザビエルは称賛し国へ報告していたようです。

大分市の北側の海岸に、神宮寺浦という場所があります(現:大分市春日浦)。義鎮はここに大きな港を作り、ポルトガル船や東南アジアの船が多数ここに寄港できるようにして、貿易を盛んにしたと伝えられています。神宮寺浦公園には宗麟の銅像と石碑が建てられていました。また近くには、航海の安全を祈ったとされる春日神社もありました。そして現在その貿易港があった海岸は、何とフェリー乗り場になっていました(神戸六甲アイランド行「さんふらわあ」乗り場、毎日就航)。

義鎮が当主となってから、連戦連勝で勝ち進んだ大友軍でしたが、1561年の毛利と対峙した「門司城の戦い」で大友軍は初めて敗戦を経験します。戦に勝っている間は不協和音も小さいのですが、これがきっかけで、負けたのは義鎮がキリスト教に没頭するせいと、神社の神主の家柄である奈多夫人(正妻)とは不仲になり、仏教に帰依する家臣たちからキリスト教への不満が爆発し、それで謀反や裏切りが家中で起こるまでに発展してしまい、大友家はピンチを迎えます。そこから義鎮はどうやって大友家を立て直し、家中をまとめていったのでしょうか?

次は、その不協和音の原因となった門司城(門司城の戦い)に続きます。
 

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カズサン

【筑前 犬鳴別館】福岡県若宮市 福岡藩幕末最後の城館 西虎口搦手裏門周辺 (2025/10/26 訪問)

 昨年11月26日に初投稿しました「筑前 犬鳴別館」未投稿写真が多く残って居ましたので初回投稿写真に重ならない様に写真選択して投稿させて頂きます。(城びと登録されていない城館です)

 住所:福岡県若宮市犬鳴(犬鳴ダム北へ約2km)
 詳細は初回の投稿をご覧ください。

 初回は西虎口搦手裏門辺りの写真投稿が少なかったので集中掲載しました、西虎口の石垣、階段も良く残って居ます、上段南面石垣が一部崩落して折り修復が待たれます。
 3月末から4月初めは本丸広場に植わってる桜がさぞ見事に咲揃う事でしょうでしょう、目に浮かびます。
 
 
 

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イオ

街なかの中世平城 (2025/08/09 訪問)

南北朝期に安見清儀が築いたと伝わりますが、現在見られる遺構は戦国期に安見宗房または安見右近が築いたもののようです。

交野市役所の駐車場から登城開始。交野城(現地の表記では私部城)は西から東へ二郭、本郭、三郭、四郭と郭を連ね、四郭の南側に出郭を構えた連郭式平城で、本郭の南側に城址碑と説明板が立てられていますが、本郭内には立ち入りできません。本郭と二郭の間の大きな堀切は駐車場を拡張するのか南半分が整備され、こちらも立入禁止になっていました。周囲より一段高い二郭には説明板が立てられ、西辺にあった土塁は失われたようです。井戸も見付けられませんでした。二郭の南側には本丸池と呼ばれる水堀跡が遺っています。三郭と四郭は住宅地になっていて遺構は見られず、四郭から南に少し行ったところの光通寺が出郭です。光通寺は周囲より一段高くなっていて、それらしい雰囲気があります。

交野市役所に戻る前に交野代官所(交野市私部)にも寄り道。江戸前期に設けられた旗本高家・畠山氏の代官所で、交野城主・安見氏の家臣だった北田氏が代官を務めました。北田家住宅として代官所の建物は現存していますが、現在もご子孫が住んでおられるので内部は通常非公開です。それでも周囲を歩くと長屋門や漆喰の白壁、見事な切込接石垣が見られました。
 

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二番槍 (2026/03/08 訪問)

 イオさんが南側尾根道の麓までの激細道で脱輪しそうになり撤収したあと、しんちゃんさんが北側から一番槍をつけました。今回は、軽自動車にてイオさんと同じく南側からアプローチしました。尾根道に上がってしまえば、ところどころシダをかき分けながらも特に支障なく赤松城にたどり着けます。問題は、どう尾根道に上がるかです。
 まず、尾根道に上がろうとするまでの道のりを説明しておきます。苗代川池の出口に至る細い道を写真7のところまで行きます。数十mほど過ぎるとUターン・駐車スペースがあります。写真7の右側の道を行くと、突き当りに、壊れた砂防ダムがあります。ここから、チョイスは三つあります。①谷を行く(国土地理院地図の道)、②尾根を行く(ヤマレコ先人)③林道を行く。砂防ダムを渡り、その延長で谷を行くと、最後に谷頭を上ることになりますが、激しく直登することになります。砂防ダムを渡り、右にずれて尾根を上っていく方がよいです。鹿と目があいました。砂防ダムから左手を見るともう一つの砂防ダムがあり、その上を渡ると先に林道があります。写真10のように土砂崩落個所がありますが、歩いていくぶんには支障ありません。じつは、1週間前に城域まであと15分くらいのところまでいったのですが、日没が近づき撤収しての再チャレンジでした。
 たどりついた主郭は結構広いです。主郭を中心に南北に尾根があり、郭が配置されています。土塁やスロープ状の土橋を見ることができます。石垣の痕跡が見られます。赤松城の「赤松」は、播磨の赤松氏(室町幕府四職)が紀州の一揆鎮圧を命じられ、築城したことが由来なのですと。

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