(東海&関西)遠征12日目:豊地城
(2025/05/26 訪問)
久下城から車で50分くらいで、観音堂南側(34.881309、135.014922)に着き、路駐しました。
そこから、観音堂(34.881773、135.014906)向かいました。豊地城は道路を挟んで反対側にあります。
築城年代は定かではないようですが、金谷経氏の居館と伝わります。
守護が赤松氏、山名氏時代も城館としては機能していたようです。
1336年(建武3年・延元元年)に北朝方によって焼き払われました。
応仁年間(1467年〜1469年)頃になると国人の依藤氏(よりふじ)の居城となりました。
1483年(文明15年)赤松政則は真弓峠で山名政豊に大敗すると、重臣の浦上則宗らは東条に諸将を集めて会談を行い赤松政則を追放しました。
1530年(享禄3年)別所村治(就治)は柳本賢治の援軍を得て豊地城に攻め入りますが、浦上村宗の援軍と柳本賢治が陣中で急死(暗殺とも)し、依藤氏は攻勢に転じて別所勢は敗走しました。
しかし、1559年(永禄2年)頃には依藤氏は別所氏によった滅ぼされました。
その後、永禄年間(1558年~1570年)は別所重棟が城主となりました。
1578年(天正6年)別所氏本家の長治、兄の吉親が織田氏から離反しますが、重棟は羽柴秀吉に従いました。
1580年(天正8年)三木城合戦で別所氏が滅ぼされると豊地城も秀吉の命で城は破却されました。
重棟は1585年(天正13年)に但馬八木城、15,000石を秀吉から与えられました。
現在は観音堂の所に石碑があり、南側は堀跡、東には高土塁が残っていますが、周辺は田んぼになっています。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=平井山本陣へ向かいました。
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