佐野市のホームページの概略に、築城は平安時代末の治承2年(1178)足利俊綱とされ、源頼朝と志田義広が戦った志田義広の乱では志田方として、室町時代の古河公方と関東管領上杉氏が対立した享徳の乱では古河公方方として戦っている。
戦国時代の永禄2年(1559)に佐野氏の支配下になり、唐沢山城の支城として、足利長尾氏の備えを担うことになる。天正18年(1590)秀吉の北条氏攻めで、佐野天徳寺宝衍が、北条方から唐沢山城を奪還し、天正20年(1592)に隠居時に赤見城を隠居所している。慶長19年(1614)の佐野家改易とともに廃城となる。
主郭の南東隅に欠けた土塁を補うように保育園が建っている。当然園内は入れないが、東の標柱部から土塁に階段が設けられている。上がって端まで行けるが、下の主郭は一周フェンスが囲っているので当然入れない。北東の民家フェンス手前から西へ入れる。先に水堀が見え、二重(あるいは三重)の土塁の一部が残っている。二重目の外から土塁に上がれば、下で見えた堀が折れて南に延びている。土塁の西は堀跡の名残で水路が通っている。土塁から園の屋根がわずかに見え、内側土塁の高さが確認出来る。
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