大友宗麟、神宮寺浦からの続き(4)です。
義鎮(宗麟)が家督を継いだ頃、門司城は周防の大内義隆の領地でした。しかし翌1551年、家臣の陶晴賢の謀反により大内義隆は討死にしてしまいます。そこで義鎮は、陶晴賢と和睦の証として弟の晴英を大内家へ差し出し、晴英は当主となり「大内義長」と名乗ります。そしてその引き換えに門司城は大友家の領地となりました。これにより大友家は西への攻めに専念する事ができ、筑前・筑後・肥前・肥後を平定し六か国の大大名となって行きました。
しかし1555年、毛利元就が厳島の戦いで陶晴賢を討つと、その勢いで大内館の大内義長をも討って周防・長門を手中にし、さらに1558年には関門海峡や博多での貿易の利権を得ようと九州へ進軍します。ここで門司城を預かっていた家臣の高橋鑑種が元就と内通し、門司城が毛利に奪われた事が発覚します。1561年に大友義鎮は1万5千の大軍をもって、門司城奪回に向かいました。すると毛利元就も、長男隆元・三男隆景の軍勢の計1万8千を向かわせます。門司城の戦いの始まりです。
そして大友軍は、いったん鑑種より門司城を奪い返しますが、隆景は得意の水軍を使って夜陰に乗じて攻め入り、見事大友軍を蹴散らして再度奪還したのでした。これにより大友軍は敗走、豊前の国衆らも寝返り、命からがら府内(大分)へ戻りました。大友義鎮にとってはこれが初めての敗戦です。
これを機に、負けたのはキリスト教に没頭する主君のせいと、神社の神主の家柄である奈多夫人(正妻)とは不仲になり、仏教に帰依する多くの家臣たちからは、キリスト教への反発を招いて離反され、妻子や家臣から信頼を失ってしまいます。ゆえに表向きはキリスト教から今度は仏門に入って剃髪し、それから「宗麟」と号して家中をまとめようとしました。しかしそれでもうまくいかず、今度は嫡男である「義統」に大友館を譲り、自らは完成した臼杵城に移り隠居する事で事態を収めようとします(奈多夫人とはもう別居したいという理由もあったかもしれません)。そして戸次鑑連や臼杵鑑速の重臣も剃髪して家臣団を説得するなどの支えもあり、1564年には将軍足利義輝の後ろ盾も得る事で、何とか毛利とも和睦し、事態を収める事ができました。
しかしこのままで宗麟は終わりません。臼杵に移ってからも実質は権力を握り続け、そして何とここから反撃に出るのです。
次は毛利との決戦! 立花城(多々良川の戦い)に続きます。
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