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小城小次郎

たった一本の堀に面して門が二つに櫓が五つ (2024/03/02 訪問)

堀一本の縄張と言ってしまえばそれまでだが、この堀に面して門が二つ、櫓が五つも並んでいたそうだ。三日月陣屋を数量・サイズともに倍増させたくらいのイメージを持てばよいということだろうか。迫力満点じゃないか。

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しんちゃん

お〇〇岩 天草郡苓北町 (2023/01/03 訪問)

九州・天草地方を旅した時の写真です。富岡城を目指していた時に立ち寄りました。まあ‥見たまんまです。しかも、鳥居まであるし。
なんでも直に触ると胸が大きくなるそうな‥ちなみに私は触っていませんぞ。

天草四郎乗船の地‥天草郡苓北町坂瀬川
天草四郎率いるキリシタンの一揆軍は富岡城城代・三宅藤兵衛を討ち取りますが、城を落とすことは叶わず、ここから島原に向けて出航したとのことです。

富岡吉利支丹供養碑‥天草郡苓北町富岡字首塚地内
天草・島原の乱で一万余のキリシタンが討ち取られましたが、その首を三分して葬ったのがこの首塚とされています。供養碑は天保4年(1647)に代官・鈴木重成によって建てられたとされています。

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しんちゃん

石垣ビュースポットが3ヶ所 (2024/10/20 訪問)

麓のルートから登城し、主郭(本曲輪)にたどり着くまでにさまざまな遺構が目を楽しませてくれます。頂部からの見晴らしも良く、ハイキングコースとしても人気が有るようで、多くの人が訪れています。途中石垣のビュースポットが3ヵ所あります。二つ目は道の下側に付いているので見落とし注意です。竪堀や腰曲輪群などを確認した後は主郭に向かうところですが、その前に3ヵ所目の石垣を見に行きます。主郭西側の郭にその石垣が有りました。石垣をひとしきり確認したあとは、いよいよ主郭です。

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しんちゃん

古今伝授の里フィールドミュージアム 岐阜県郡上市大和町牧 (2024/10/20 訪問)

篠脇城の麓、東氏館跡庭園から県道を挟んだ先に古今伝授の里フィールドミュージアムがあります。いくつか建物が有って、東氏にまつわる展示の他、レストランなどもあります。和歌文学館には和歌にまつわる展示が多く飾られ、短歌を詠む人なら、一度は訪れたい場所と聞いています。昔は武士といえど和歌などの知識が無いと辞世の句も詠めなかったので、教養は必須だったようです。ただ強いだけではダメだったということですね。わたしもいずれ、歌なども詠めるようになりたいと思いますが、まだまだ先になりそうです。
「よぶこどり」では好きな文学書を読むことが出来、土産物なども売ってます。ここで買ったりんごは香りと味が良いと好評でした。

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しんちゃん

大桑殿屋敷 岐阜県山県市大桑 (2024/10/20 訪問)

大桑殿屋敷は南泉寺境内一帯に築かれていたとされ、土岐氏の屋敷跡とされています。北側の墓地の北の高台に土岐頼純の墓や一族の供養塔があるようです。

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しんちゃん

主郭の周囲に多様な堀の遺構が残る (2024/10/20 訪問)

篠脇城は東氏の城ですね。東氏は鎌倉幕府の功臣・千葉氏の流れをくみ承久2年(1220)郡上郡山田荘を領したとされます。南北朝の時代に南朝方の拠点、越前からの来襲に備え篠脇城を築いたとされています。応仁の乱の際には城主・東常縁が関東に下向している隙に守護代・斎藤妙椿に城を奪われてしまいます。常縁が詠んだ「あるが内に斯る世をしも見たりけり 人の昔の猶も恋しき」という歌が妙椿の耳に入り、かつての友人で歌仲間である常縁の悲嘆と歌に感じ入った妙椿は自分に歌を10首送ってくれれば、奪った所領をすべて返そうと約束します。常縁が歌を妙椿に送ると本当に城と所領を返してくれたそうです。
応仁の乱で敵味方に分かれていたとはいえ、両者ともに争うのは本意ではなかったようです。戦国時代では考えられない話ですが、何となく人間味が有りますね。
篠脇城主要部は主郭の北側に郭を段々に配したものですが、周囲に竪堀や畝状竪堀を周到に配しています。久々に来たし、じっくり遺構をみていこう、と考えていたのですがお腹の調子が悪くさっきからゴロゴロいってます。なんてこったい‥写真を撮りながら下山にかかります。

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朝田 辰兵衛

こち亀の聖地へ…🔫 (2024/10/14 訪問)

カルビンさんとチェブさんの投稿で,葛西城に来たらJR亀有駅をセットにしないとつまらないな…と感じていました。実際にはモニュメントが駅前ロータリーに3ヶ所ありました。
御殿山公園はゴミのポイ捨てが気になりました。
葛西城址公園は工事中で立ち入れず…何か新たな発見に期待します。

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エボママ

素晴らしいお城でした (2024/01/05 訪問)

名古屋城に行きました。
豪華絢爛。煌びやかで徳川家の栄華が表れている城でした。

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エボママ

石垣が魅力です (2024/11/12 訪問)

江戸城を想い、皇居に行ってきました。石垣が圧巻でした。もう一度、じっくりゆっくり行きたいです。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)17日目:佐久良城 (2024/10/08 訪問)

西佐久良バス停から歩いてすぐ、城址碑説明板前(35.045303、136.254641)に着きました。
そこから八幡神社に行く途中に登り口があり、設置してあるポストの中に貸出縄張図及び各種資料が入っています。

築城年代は定かではないようですが、「応仁の乱」において東軍に属して活躍した小倉左近将監実澄(實澄)の居城として知られています。
実澄は1505年(永正2年)に没し、その二代後には蒲生定秀の三男実隆(實隆)が養子に入っているが、1564年(永禄7年)実隆は小倉右近太夫との合戦で討死しました。
その後、小倉氏は衰退して蒲生氏に取り込まれたようです。

散策路は整備されており案内表示も充実していますが、山に入ると真っ暗で雨も降ってきました。
土塁と堀切、土橋などを確認することができ、北山腹には馬洗池もあります。
真っ暗の中、傘をさしている状態で撮った写真はブレまくりピンボケ状態です。
なんとか見える状態の写真を投稿しましたが、写りの状態はご容赦ねがいます。
町営の最終バスの時間が迫っているので、攻城時間は25分くらいで撤退しました。
暗くなったので、次の攻城先の後藤館は断念し、本日の城巡りは、ここをラストにしました。
本日の宿泊先に戻る為、西佐久良バス停から日野町営バス➡近江鉄道➡JRを乗り継出で草津駅に向かいました。
本日の攻城徒歩=24159歩、攻城距離=16.91Kmでした。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)17日目:日野中野城 (2024/10/08 訪問)

仁正寺陣屋(城びと未登録 滋賀県日野町)から歩いてすぐ、城跡碑と堀切と石垣と橋が目に入りました。

日野城は蒲生氏郷の祖父、蒲生定秀が1533年(天文2年)から3年ほどかけて日野の地に本格的に築城したそうです。
定秀以降の蒲生氏の本城で、氏郷はこの城で生まれ、若くして戦国武将の器量を備えていました。
蒲生氏は蒲生賢秀の代に織田信長の臣下となり、1582年(天正10年)本能寺の変が起こった時には、賢秀とその子蒲生氏郷は織田信長の妻妾一族をこの城に迎え入れました。
1584年(天正12年)氏郷は伊勢国松ヶ島12万石に移封し、その後田中吉政、長束正家と城代が入り、1600年(慶長5年)関ヶ原の戦い以降廃城となりました。
1620年(元和6年)市橋長政が中野城跡の一部に陣屋を構え仁正寺藩の陣屋として明治維新まで続いたそうです。

日野川ダム建設に伴い、本丸以南が破壊されたようですが、涼橋神社と稲荷神社の先に横堀や土橋が残っており、主郭部の近くには、「蒲生氏郷公産湯の井戸」があります。
攻城時間は30分くらいでした。次の攻城先=佐久良城を目指す為、大窪北バス停から日野町営バスで西佐久良バス停に向かいました。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)17日目:仁正寺陣屋(城びと未登録 滋賀県日野町) (2024/10/08 訪問)

日野川ダム口バス停から徒歩5分弱で、中野城跡入口(35.009505、136.266080)に着きました。

仁正寺陣屋は市橋長政によって築かれた陣屋です。
市橋氏は信長・秀吉・家康に仕え、越後三条40,000石を領していた市橋長勝が死去すると嗣子なく改易となりますが、家康の信任が厚かったことから養子の長政に改めて20,000石が与えられました。
長政は廃城となっていた旧中野城の一角を利用して陣屋を構えると代々相続して明治を迎えました。なお幕末の1865年(文久2年)には仁正寺藩から西大路藩へ改称しています。

中野城跡の北側に「藩主市橋氏邸趾」の石碑が建てられています。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=日野中野城へは徒歩で向かいました。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)17日目:佐治城 (2024/10/08 訪問)

小佐治公民館バス停から徒歩15分くらいで、秋葉神社鳥居前(34.940719、136.216474)に着きしました。南側に枡形池と説明板があります。

1062年(康平5年)平業国が伊豆国より佐治郷に移り佐治城を築いて佐治氏を名乗ったようです。
永禄11年(1568年)に六角氏が滅亡後、佐治為次は織田信長より安堵され、1571年(元亀2年)には14,000石を領したようです。
しかし1584年(天正12年)小牧・長久手の戦いにおいて羽柴秀吉は甲賀武士を七番備えに配したが、徳川家康からの内応を求める書状に秀吉が怒り、翌年根来寺攻めに置いて紀伊川治水の命を受けます。
更に領地没収の命が下されると一族は佐治城に籠城して滅亡したそうです。

堀跡といわれる桝形池や堀、土橋、虎口などがありましたが、どこまでが遺構なのかはわかりません。
バスの時間が迫っているので、攻城時間は10分くらいで撤退しました。
次の攻城先=仁正寺陣屋(城びと未登録 滋賀県日野町)を目指す為、和野バス停から甲賀コミュニティバスで平町バス停に向かい、そこから徒歩で水口石橋駅に向かい、近江鉄道➡近江鉄道湖国バスを乗り継いで日野川ダム口バス停に向かいました。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)17日目:土山城 (2024/10/08 訪問)

近江土山バスから徒歩5分ちょっとで、城址碑前(34.938892、136.286686)に着きました。城址碑の左の通路より攻城、奥に説明板が見えます。

築城年代は定かではないようですが、文明年間(1469年〜1487年)に土山盛忠によって築かれたと云われています。
土山氏は音羽野城主・頓宮四方介利盛の二男、土山鹿之助盛忠を祖とする甲賀の名門でした。
土山左近太夫盛綱が城主の1582年(天正10年)、織田信長の家臣である滝川一益によって攻められ落城しました。
その後、「小牧・長久手の戦い」の際に羽柴秀吉がこの城を改修して在城したという説もあります。

城址には土塁や堀切、虎口などの遺構が良好な状態で残っています。
攻城時間は35分くらいでした。次の攻城先=佐治城を目指す為、近江土山バス停から甲賀コミュニティバスで小佐治公民館バス停に向かいました。

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トク

紫式部邸=廬山寺(紫式部ゆかりの地を訪ねて①) (2024/11/10 訪問)

大河ドラマ「光る君へ」も終盤に入ってきたので、紫式部ゆかりの地を訪ねてきました。しばらく5回くらいのシリーズでお伝えしようと思います。お城の話題から外れて申し訳ありませんが、癒し旅に少しでもなれればと思います。よろしくお願いします。

まず最初に、紫式部邸(まひろの家)を訪れました。現在は「廬山寺(ろざんじ)」というお寺になっていました(写真①②③④)。まひろはここで生まれ育ちます。父の藤原為時が漢詩の師であったため、幼い頃から漢詩を憶え教養を身につけます。弟の惟規(のぶのり)は憶えが悪かったため「そなたが男であったらのう・・」と父は嘆いていたとか。しかし父には官職がなく貧しい暮らしが続いていたようです。この廬山寺の庭を眺めていると、数々のそのドラマのシーンが浮かんできました(写真⑤)。

まひろが26才になった時、父には越前守の官職が与えられ、まひろは20才以上も年上の「藤原宜孝」と結婚します。当時の貴族は一夫多妻制で、身分の低いまひろは妾(めかけ=正妻ではない)となり、この家で暮らし続けます。よって通い婚だったようです。そして1年後には娘「賢子(かたこ)」が生まれます。しかしその幸せもつかの間、2年後に宣孝は病で亡くなり、シングルマザーとなったまひろは、また貧しい生活に逆戻り。当時は貴族の女性が働く事は許されず、家にいて子供を育てるのが当たり前だったので、働きたいがままならない。どうしようもないまひろは気を紛らわすため、石山詣に出かけました。

まひろの家のすぐ目の前には、土御門第邸(つちみかどてい=藤原道長の屋敷)がありました(写真⑤⑥)。意外とご近所さんだったんですね! と思いきや中間には土塀と清和院御門があり(写真⑦)、塀の向こうとこちらでボールを投げれば届きそうなくらいの距離に住んでいるのに簡単には行き来できない、身分の違いを感じさせられる場所でした。

鎌倉時代に入ると、この邸宅は「廬山寺」となります。その後、明智光秀が比叡山延暦寺を焼き払った時に、この廬山寺も焼き払おうとしますが、正親町天皇から止められ、そこで光秀は自ら持っていた守り神の「念持仏」を奉納したそうです。寺院内には、その仏像が今でも残っており、今回の特別公開で運よく見る事ができました(撮影不可)。

では次は、まひろが詣でた「石山寺」へ向かいます。
 

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todo94

日帰り羽越ドライブでの攻城⑦ (2024/10/20 訪問)

大川城からの転戦です。今回の目的は城カードのゲットでしたが、しっかり天守台まで登ってきました。三の丸は工事中で立入禁止となっていました。中世の土の城の部分も土砂災害を受けていて立ち入ることができません。石垣で固められた本丸を楽しめただけで良しとします。続100名城のスタンプを過去に2回捺印した際には入館しなかったおしゃぎり会館に初めて入館しました。祭りにはさほど興味はないのですが、2階に城の展示があったので入館は正解でした。村上城の前に訪れた大川城の掲示もありましたので。窓から村上城の遠景も楽しむことができました。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)17日目:大河原氏城 (2024/10/08 訪問)

高尾城(城びと未登録 滋賀県甲賀市)から徒歩10分ちょっとで、民家左手登り口(34.958821、136.336297)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、長享年間(1487年〜1489年)に大河原源太によって築かれたと云われています。
大河原家・黒川家ともに、近江守護職六角氏(観音寺城主)との繋がりは深く長享・明応の乱(1487~1501)に戦功をたてました。
六角氏が9代将軍足利義尚に攻められた長享の乱 「鈎の陣の戦い」に参戦しての勲功により感状を与えられた甲賀二十一家の一で両家ともに「地域連合惣」の北山九家の一です。
大河原源太が鮎川を、 黒川久内が黒川・黒滝の地を領有し以後代々子孫が世襲していますが、六角氏が衰退により甲賀五十三家も弱体化していく中、1585年(天正13年)羽柴秀吉によって解体されて共に滅びました。

時間ロス(バス到着遅延&黒川氏城での迷子時間)と高尾城(城びと未登録 滋賀県甲賀市)で転んでカッパ/ズボン/靴が泥だらけ状態。
このままの状態では、バスにも電車にも乗れないので鮎河口バス停で着替えました。
上記より、大河原氏城攻城の時間がなくなり、遠景の写真を撮って攻城としました。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=土山城を目指す為、鮎河口バス停から甲賀コミュニティバスで近江土山バス停に向かいました。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)17日目:高尾城(城びと未登録 滋賀県甲賀市) (2024/10/08 訪問)

鮎河城案内板付近から徒歩5分弱で、鷹尾山地蔵堂墓地横登り口(34.959527、136.343205)に着きました。

現地案内板よると、建武年間(1334年~1338年)頓宮弥九郎が築城したとされますが、戦国期に黒川氏が改修したと考えられます。

地蔵堂左手背後、墓地の裏手に入口があります。 
高尾城の案内標識はありますが、急斜面のけもの道で雨が降って滑りまくりました。
案の定、転んで滑り落ちた為、途中で断念して引き返しました。
カッパ/ズボン/靴が泥だらけです。このままではバスにも電車にも乗れません。
攻城時間は20分くらいでした。次の攻城先=大河原氏城へは徒歩で向かいましたが、攻城は諦めるしかありません。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)17日目:鮎河(館)城&鮎河城山上の城 (2024/10/08 訪問)

黒川氏城から徒歩10分くらいで、鮎河城山上の城民家横登り口(34.957096、136.342925)に着きました。
ここから、正等院跡まで路はありますが、先は看板はあるが踏み跡がないようですが、バス遅延及び黒川氏城での迷子時間を取り戻す為、鮎河城山上の城は登城を諦めて、鮎河城(館)阯に向かいました。

現地案内板によると、南北朝期に南朝に属した頓宮弥九郎(鮎河弥九郎)が南朝の拠点とした城のようです。
1338年(建武5年)頓宮弥九郎は兵を挙げ鮎河城に立て篭もりましたが、北朝方の佐々木秀綱に属した山中橘六、小佐治右衛門、美濃部兵衛三郎らの軍に攻められ落城しました。

北側山上に高尾城、東側山上に鮎河城と説明があります。
ちなみに、鮎河城案内板はこの付近(34.958716、136.343356)にあります。

鮎河(館)城
 城跡は田んぼになっていますが、城址碑の立つ付近が虎口ように見えます。ただ、現在、この地は伝承地とされているようです。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=高尾城(城びと未登録 滋賀県甲賀市)へは徒歩で向かいました。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)17日目:黒川氏城 (2024/10/08 訪問)

貴生川駅バス停から鮎河口バス停に向かうバスの中で、「甲賀コミュニティバス一日フリー乗車券」を購入しました。今日はこの乗車券で交通費を浮かせます。
鮎河口バス停から徒歩5分ちょっとのウグイ川公園駐車場入口(34.955353、136.338925)から、ガソリンスタンド背後を進むとのフェンス扉に着きました。

黒川氏城は甲賀の有力国人である黒川玄蕃佐が築いた城と伝えられています。
黒川氏は六角氏に従っていましたが、六角氏が織田信長に敗れて近江を追われるとその後は信長に仕えています。
しかし1585年(天正13年)秀吉に命じられた紀伊川堤防修築工事失策の責任を問われて領地没収、廃城となりました。

鮎河口バス停に15分遅れで到着しました。
雨が降りはじめた為、カッパ装着で攻城開始です。現在城址は山林となっています。
本丸跡周辺には石垣や屋敷の跡などが残っており、屋敷跡から主郭まで見どころいっぱい(自分は堀切が好物なので満足しました)の城跡でした。
下山時、道に迷ってしまいかなり時間のロスをしました(来た道を戻るだけなのに迷子になるとは、方向音痴の自分がなさけない)。
時間のリカバリの為、次の鮎河城山上の城は登城を諦め、鮎河城(館)の確認だけにします。
攻城時間は60分(迷子の時間を含みます)くらいでした。次の攻城先=鮎河城へは徒歩で向かいました。

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