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朝田 辰兵衛

2026年の城はじめ…🏰 (2026/02/21 訪問)

遅ればせながら,2026年の城はじめをアップします。
ここをチョイスした理由は,高崎駅で上越新幹線から両毛線に乗り換えたのですが,タイミングの関係で「伊勢崎駅終点」だったこと。効率よく散策できれば,小山駅行きにちょうど良く間に合うハズ…と。ま,けっこうギリでしたが,間に合いました。自分自身の回復具合にも「よしよし」と。
チェブさん予想の「群馬県」,正解です!

伊勢崎陣屋ですが,時鐘撮影時に,自分自身の影が入り込まないようなポイント選びが大変でした。しかし,雨男の私の城はじめが晴天に恵まれたワケなので,嬉しい気持ちが勝りました。

さて,2026年の目標ですが…
①長崎県の未投稿城を解消する(5月)
②赤色かるた城の全訪城(9月)
③山梨県城びと登録城コンプリート(10月または11月)

全て,天候によって流れてしまいます。9月は自身2度目の対馬を予定。金田城もしっかり満喫したいです。山梨県も源太ヶ城という標高の高い城を残していますので,天候次第で翌年に持ち越す可能性もあります。
そうそう,3月20~23日は,関西エリアに出没します。天候も悪くなさそうで安堵しております。

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足軽クロックス

上遠野城(別名 八潮見城)御城印発売

上遠野城の御城印の第三弾が3月24日㈫より販売されます!今回は上遠野城の春ver.に加え、和紙を水切りし桜色に染めた八潮見城(別名)の春ver.も作製したとの事です。昨年の4月より販売している通常版もリニューアル!協力隊が地域活性化を図り遠野和紙を使用し作製した御城印です!

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天守無しがアツい

胡蝶記〜若き信長 (2026/03/14 訪問)

(参考URL)https://rekishi-kanko.pref.aichi.jp/place/place5.html

桶狭間の戦いの際…信長は清洲城→熱田神宮→この地に馬で移動🐎この砦の下に兵を集結させて桶狭間…今川義元の本陣へ攻め込んだ

しかし現在…砦の面影はかけらも無く…ただの公園🛝サッカーをする子供たち⚽️私に向かって吠える犬🐶しかいなかった😅周りは家だらけ

公園の面積からして…おそらくここも…当時の規模をかなり縮小して跡地として残してるパターンだと思う

善照寺砦がどういう建物だったか?イメージを得たい方は「胡蝶記〜若き信長」というアニメをご覧になって下さい…第一話と最終話に出てきますので

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足軽クロックス

上遠野城(別名 八潮見城)

本丸 野面積み石垣

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足軽クロックス

三芦城 (2025/11/21 訪問)

本丸 石都々古和気神社鳥居

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足軽クロックス

小峰城

石垣

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todo94

宮崎県の攻城④その1 麓から本丸迄 (2026/03/07 訪問)

三納城からの転戦です。せっかく近くまで来てちょうどよい時間も確保できそうだったので、立ち寄っていくことにしました。宮崎県の城の中で私の最も好きな城が都於郡城なのです。これが4回目の都於郡城ですが、伊東氏の本城だけあって非常に見ごたえがあります。初めて来たのは2007年4月下旬でした。3月は4月より緑色が淡いのですが、見栄えがとても良く感じます。桜の花が咲いている時期は、曲輪をきれいに見渡すことができなくなるので、3月上中旬はこの城の魅力をもっともよく感じることのできるベストシーズンなのではないかと思います。都於郡小学校が所在する道の角には、「伊東満所生誕の地」の大きな看板と説明板が立っています。広い駐車場にレンタカーを停めて、トイレの建物の脇に設置されているパンフレットをいただいてから、本丸を攻めていきます。伊東マンショの像、なだらかな土塁などチェックしつつ、二の丸との間の巨大な空堀も本丸から見下ろして二の丸へと進んでいきます。

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日本で最も美しい山城 (2026/03/12 訪問)

 山頂部にある天守は大垣城の天守をモデルに昭和8年(1933年)に建てられた日本最古の木造模擬天守です。天守台は不整八角形で、模擬天守は天守台よりも一回り小さく建てられています。江戸時代には天守があったとい形跡はないようで、実際にはどのような建築物があったのか興味があります。模擬天守には否定的な考えをもっている自分ですが、この天守は心の風景に溶け込んでいて馴染んでしまいました。司馬遼太郎が「悲しくなるほど美しかった」と絶賛したこの城は今では街のシンボルとなっています。

 公共交通を利用して郡上市へ来るのが長良川鉄道が風情もあっていいと思うのですが、本数が減っています。他の交通機関としてはJR岐阜駅より郡上八幡城の登城口である郡上八幡城下町プラザまで高速バスが出ていて1時間10分くらいで行けます。

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遠藤盛数 (2026/03/12 訪問)

 3年とちょっとぶりの登城です。
1559年(永禄2年)遠藤盛数が東常慶と争った赤谷山城の戦いのときにこの地に陣を構えたのが郡上八幡城の始まりとだれています。
この城は天守台や桜の丸、松の丸などがある山頂部分と、本丸や二の丸がある山麓部分から構成されていました。山麓部に本丸跡があるのは、1759(宝暦9)年よりこの地を治めた青山幸道が旧二の丸を本丸、旧本丸を桜の丸・松の丸と改めたからと伝わります。山麓部の城山公園「山内一豊と妻の像」の近くに本丸跡、その南にある岸剱神社付近に二の郭の説明板が設置してありました。
 城の北側、尾根には堀切が2カ所あり搦手からの敵に備えています。最初の堀切は首洗い井戸がある駐車場になっています。北尾根には遊歩道が整備されていて歩いて行くと土橋と堀切と思われる地形を見ることができました。さらに進んで行くと「からめての戦い」の説明板があり、門があったのか石垣を少し見ることができます。
 近くには小駄良川と吉田川が流れ天然の堀となっていました。
郡上の街歩きも風情があって楽しいのですが、今回は時間がなく城周辺のみを散策しました。

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足軽クロックス

鶴ヶ城

鶴ヶ城天守閣

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足軽クロックス

山形城

山形城跡本丸一文字門大手橋

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送りバント

20030323杵築城(大分県杵築市) (2003/03/23 訪問)

見栄えのする天守もだが、そこから見た引き潮の海も印象に残った

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イオ

御殿跡めぐり (2025/08/31 訪問)

養翠園(と湊御殿奥御殿)に続いては、和歌山城の御殿跡と移築建物をめぐります。

湊御殿(和歌山市湊御殿)
紀州藩二代藩主・徳川光貞が造営した別邸で、歴代藩主の隠居所となりました。十一代藩主・徳川斉順は江戸城本丸御殿に倣った壮麗な御殿を新たに造営し、隠居所にとどまらない藩の政庁として機能しましたが、十三代藩主・徳川慶福(後の十四代将軍・家茂)の命により政庁機能は二ノ丸御殿に戻され、湊御殿は廃されたようです。現在、湊御殿跡は宅地化されて正確な位置も不明ですが、大浦街道西側・舟津町バス停のすぐ北に湊御殿跡の標柱が立てられています。また、養翠園に奥御殿が、感応寺(和歌山市鷹匠町)に女中部屋が移築(非公開)されています。

湊御隠殿(和歌山市有田屋町)
初代藩主・徳川頼宣が造営した隠居所で、頼宣はこの地で亡くなりました。頼宣の没後、湊御隠殿は廃されて遺構は見られませんが、跡地には光明寺が入って現在に至ります。

西浜御殿(和歌山市西小二里・和歌山市西浜)
二代藩主・徳川光貞が造営した別邸(西浜中学校西側)と、十代藩主・徳川治宝が造営した隠居所(現・和歌山工業高校)の2か所が西浜御殿と呼ばれています。治宝の西浜御殿は図面が遺っているものの、いずれも遺構は消滅しており、和歌山工業高校の西門脇に西浜御殿跡の標柱が立っているくらいです(その標柱も樹木に隠れて文字も消えかかっていますが…)。

巌出御殿(和歌山県岩出市清水)
初代藩主・徳川頼宣が造営した御殿で、参勤交代の際の宿所とされ、五代藩主・徳川吉宗が幼少期の大半を過ごしたと伝わります。巌出御殿は江戸中期に廃され、御殿跡の御殿山も昭和の河川改修で失われましたが、御殿の一部が横浜市の三渓園に「臨春閣」として移築されています。お城EXPOのついでに見に行きたいと思ってはいるんですが、未だ果たせずです。なお、御殿跡近くにはいわで御殿の名を冠した健康施設があり、敷地内にいわで御殿の由来と沿革の説明板が立てられています。

あわせて和歌山城の移築建物にも。

光恩寺(和歌山市大垣内)
本丸御殿の台所が庫裡として移築されています。棟瓦には三葉葵紋が用いられ、庫裡内には虎や鵞鳥の杉戸絵もあるようですが、内部は非公開のため未確認です。本丸御殿も本堂として移築されるはずでしたが、移築工事中の暴風雨で倒壊してしまったんだとか。何とも惜しいことです…。

宗善寺(和歌山市和歌浦中)
女中門が山門として移築されたと伝わります。鬼瓦に三葉葵紋、屋根の四隅には桃型の留蓋瓦が用いられています。
 

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小城小次郎

広大なエリアをてくてくてく (2025/04/26 訪問)

上城戸から下城戸までてくてく歩いて移動。上城戸の大土塁も良いし下城戸の巨石石垣の威圧感もまた良い。広大な空間に広がる戦国の街並みもまた良い。一乗谷駅近くに2022年にオープンした新しい資料館もまた良い。

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みゆき

広島城 閉城 (2026/03/08 訪問)

御城印づくりに参加

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ジェイド

散策しました (2026/03/05 訪問)

二条城に訪問した後に聚楽弟の散策をしました。
直江兼続屋敷跡→桂昌院殿御生家菩提寺→聚楽弟南掘鵲橋乃旧蹟→聚楽弟南外堀跡→豊臣秀勝邸跡伝承地→南北方向の堀跡→本丸西堀跡→本丸東堀跡→北の丸北堀石垣跡→上杉景勝屋敷跡→黒田如水屋敷跡→千利休屋敷跡(晴明神社)
というルートで回りました。
ほとんどがもう面影もなくただ碑が建っているだけでしたが、中には土地の高低差によって堀があった様子がうかがえたりする場所もありました。最後の晴明神社は陰陽師安倍晴明公をお祀りする神社という事で多くの人で賑わっていました。

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ジェイド

いつ訪れても心が落ち着きます (2026/03/05 訪問)

Webページより入場券を事前に購入しようと思いましたが、なぜかカードでの決済がうまくいかず事前購入できませんでした。
訪問当日は入場のためにたくさんの人が並んでいたらどうしようかと思いながら向かいましたが、幸運にもさほど並んでおらず10分くらいで入城できました。100名城スタンプと御城印は一回り回って最後の場所にある大休憩所にありますので、見逃すことはないと思います。
東大手門→唐門→二の丸御殿→二の丸庭園→本丸櫓門→本丸庭園→天守閣跡→本丸御殿→旧二条城の石垣→西南隅櫓→北中仕切門→清流園→大休憩所というルートで一通り見学しました。
今回は4,5回目の訪問ですが、いつ訪れても心が落ち着き、当時の様子を想像することができます。

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トク

【大友宗麟】(4)門司城の戦い(関門海峡争奪戦) (2025/12/21 訪問)

大友宗麟、神宮寺浦からの続き(4)です。

義鎮(宗麟)が家督を継いだ頃、門司城は周防の大内義隆の領地でした。しかし翌1551年、家臣の陶晴賢の謀反により大内義隆は討死にしてしまいます。そこで義鎮は、陶晴賢と和睦の証として弟の晴英を大内家へ差し出し、晴英は当主となり「大内義長」と名乗ります。そしてその引き換えに門司城は大友家の領地となりました。これにより大友家は西への攻めに専念する事ができ、筑前・筑後・肥前・肥後を平定し六か国の大大名となって行きました。

しかし1555年、毛利元就が厳島の戦いで陶晴賢を討つと、その勢いで大内館の大内義長をも討って周防・長門を手中にし、さらに1558年には関門海峡や博多での貿易の利権を得ようと九州へ進軍します。ここで門司城を預かっていた家臣の高橋鑑種が元就と内通し、門司城が毛利に奪われた事が発覚します。1561年に大友義鎮は1万5千の大軍をもって、門司城奪回に向かいました。すると毛利元就も、長男隆元・三男隆景の軍勢の計1万8千を向かわせます。門司城の戦いの始まりです。

そして大友軍は、いったん鑑種より門司城を奪い返しますが、隆景は得意の水軍を使って夜陰に乗じて攻め入り、見事大友軍を蹴散らして再度奪還したのでした。これにより大友軍は敗走、豊前の国衆らも寝返り、命からがら府内(大分)へ戻りました。大友義鎮にとってはこれが初めての敗戦です。

これを機に、負けたのはキリスト教に没頭する主君のせいと、神社の神主の家柄である奈多夫人(正妻)とは不仲になり、仏教に帰依する多くの家臣たちからは、キリスト教への反発を招いて離反され、妻子や家臣から信頼を失ってしまいます。ゆえに表向きはキリスト教から今度は仏門に入って剃髪し、それから「宗麟」と号して家中をまとめようとしました。しかしそれでもうまくいかず、今度は嫡男である「義統」に大友館を譲り、自らは完成した臼杵城に移り隠居する事で事態を収めようとします(奈多夫人とはもう別居したいという理由もあったかもしれません)。そして戸次鑑連や臼杵鑑速の重臣も剃髪して家臣団を説得するなどの支えもあり、1564年には将軍足利義輝の後ろ盾も得る事で、何とか毛利とも和睦し、事態を収める事ができました。

しかしこのままで宗麟は終わりません。臼杵に移ってからも実質は権力を握り続け、そして何とここから反撃に出るのです。

次は毛利との決戦! 立花城(多々良川の戦い)に続きます。
 

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イオ

養翠園と湊御殿奥御殿 (2025/08/31 訪問)

この日は和歌山城周辺の大名庭園や御殿跡、移築建物をめぐりました。

養翠園(和歌山市西浜)は紀州藩十代藩主・徳川治宝が造営した庭園で、海浜部に位置しながら海の景色でなく天神山や章魚頭姿山の山の景色を借景とした池泉回遊式大名庭園です。田畑の四季の実りを庭園の景観とした北の庭は失われていますが、海水を取り入れた3500坪に及ぶ潮入の池を中心に、稲荷社と弁天社を祀る守護神島に三ツ橋と太鼓橋を架け、藩主別邸の養翠亭(現存・建物内は通常非公開)、狐山や鴨寄せを設け、潮の干満に応じて三浦樋と薬研樋の2つの樋門で潮入の池の水位を調整していました。薬研樋の奥は御船蔵になっていて、船で来遊した藩主は御船蔵から御馬場に上陸し、帰りも御馬場で供揃えをして乗船したのだとか。

御船蔵から養翠園を退出したところには、湊御殿の奥御殿が移築されています。現在見られるのは十一代藩主・徳川斉順が新築した建物で、明治以降、個人宅に移築されていたものを和歌山市が購入して再移築したものです。内部も公開されていて、係員さんに案内いただきながら三葉葵紋の飾金具が施された書院造の部屋や「唐人人物画」などの杉戸絵を見学することができました。養翠園の半券提示で観覧無料になるので、養翠園とあわせてどうぞ。


> あ さん

早速の平須賀城レポート、ありがとうございます。全くの荒れ放題も覚悟していましたが、一応整備はされているんですね。ただ、ススキや茨がのびる早さに追いついていない、と。今週末は天気も良さそうなので赤松城とあわせてリベンジして、来週末あたりに写真ともども投稿するようにいたします。
 

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ほにゃにゃら

550年特別版御城印販売開始と勝間田城址見学会

550年特別版御城印を2026年4月5日より販売開始します
当日は、静岡古城研究会会長望月保宏先生・静岡古城研究会会員小城小次郎先生による山城見学会、森林ウォーキングを行います
御城印への日付入れ・見学者限定御城印の抽選会も行います。
御城印収集家交流ブース・
スイーツ・地元特産のお茶や野菜・キッチンカーによる食品販売
caravan noteによるギターとトランペットの演奏

御城印販売は9時~
山城見学会は13時~
15時終了になります

詳しくはパンフレットをご参照ください

今回の御城印は他にない漆黒に金色のキラキラ箔押しした逸品になっていますのでぜひとも手に入れてください。

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