大友宗麟、立花城からの続き(6)です。
今度は立花山の麓にある、名島城と多々良川を訪れました。名島城は、西鉄貝塚線「名島駅」から徒歩15分の所にあります。
名島城は多々良川の河口に位置し、1532年に立花鑑載が立花城の出城として築いたのが始まりとされています。その後、多々良川の戦いで負けた小早川隆景が、1587年豊臣秀吉の九州征伐後に筑前の国を賜り、立花城は山城で不便なため、海に面したこの名島城を総石垣造りの城に大改修して、小早川水軍の最前線基地にします。そして隆景は、ここから朝鮮(文禄の役)へ出兵しました。隆景死後は養子の小早川秀秋が入り、再び朝鮮(慶長の役)へ出兵します。しかしそこでの行いが秀吉の怒りを買い、越前北ノ庄へ左遷させられますが、秀吉死後に家康の計らいで再びこの名島城に復帰します。そして関ケ原へ! 関ケ原後に秀秋は岡山城へ移り、代わって中津から黒田官兵衛・長政父子がこの名島城に入ります。しかし手狭なため、新たに福岡城を築城し、名島城は一国一城令で廃城になったという歴史があるようです。
当時の遺構はほとんど残っていませんが、大手口であった場所にわずかな小早川隆景時代の石垣と(写真③④)、海岸には水軍基地の痕跡がありました(写真⑧)。そしてここにあった名島門と石垣の石は、黒田長政によって福岡城へ移されたようです(写真⑤)。
門司城の戦いの敗戦から何とか立て直した大友宗麟は、まず1569年毛利と通じ寝返っていた、秋月種実(古処山城主)・高橋鑑種(宝満山城主)・立花鑑載(立花城主)を討伐して筑前・筑後を再び平定し、家臣の結束を固めます。
その間、毛利元就は月山富田城で尼子氏と戦っていました。そして尼子義久を滅ぼすと、立花城を奪回すべく再び九州へ進軍します。吉川元春・小早川隆景の毛利全軍3万5千(70才になった毛利元就も長府まで出陣)、対する大友軍も、戸次鑑連・臼杵鑑速らの大友全軍4万(大友宗麟も高良山まで出陣)、計7万5千の大軍勢が、立花山の麓で名島城から上流の多々良川で対峙します。どちらも全軍で出陣しているので、両者ついに本気で雌雄を決しようとしていたのが分かります。
しかし半年間も睨み合いが続き、両者とも動きません(いや動けません)。小早川隆景と戸次鑑連の名軍師どうしがお互いを警戒し、門司城での失敗は繰り返すまいと知恵比べになったため、軽率には動けなかったものと推測されます。しかしここで、尼子家再興を目指した尼子勝久と山中鹿介が、月山富田城を攻めたとの報告が入ります。背後を突かれた毛利は、大友どころではなくなり、元就はあわてて全軍に撤退を指示、吉田郡山城へ戻るよう命じました。特に小早川隆景は筑前を手放す事に最後まで反対し、悔しがったようです。
これで宗麟は門司城までをも奪還し、毛利勢を九州から一掃できました。しかし再び毛利勢の侵攻や筑前の国衆の寝返りを恐れたのか、宗麟の命で重臣筆頭の戸次鑑連が立花道雪と改名し立花城に入ります。思えばこの道雪を遠ざけた宗麟の判断が、大友家の滅亡への始まりだったのかもしれません。そして道雪死後は、娘婿の宗茂が家督を継ぎ、立花城を島津の侵攻から守りきった事は、皆さんもよく御存知と思います。
私は、名島城から1.5km程上流にある名島橋まで行ってみました(写真⑨)。両者が対峙した場所は、国道3号・福岡都市高速・JR鹿児島本線・西鉄貝塚線などの橋や鉄橋がかかる、今では交通の大動脈に変わっていました。そして私は、ここから立花山を見上げてみました(写真⑩)。小早川隆景や立花道雪はどんな思いで、ここからあの立花山を見上げていたのでしょうか? 敵はどう仕掛けて来るのだろうか・・・? 名軍師同士、お互い牽制し合い、立花山を見上げながら、策を練っていたのではないでしょうか?
次は、この多々良川の戦い最中に宗麟が本陣を敷いた(高良山)に続きます。
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