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WEST

福井城探訪 (2025/09/30 訪問)

福井城を訪問しました。福井駅からお城入口の御本城橋まで徒歩で約5分で着けます。このお城は街中のお城で、訪問し易いです。
最初に内堀と石垣の立派さに圧倒されますね。さすがに、結城秀康公が天下普請で築いたお城です。
本丸内部は県庁があり、時代は異なりますが、街の中心地の役割を持っているようです。
その他の見どころは、再建された御廊下橋と山里口御門、それに天守跡です。特に天守台は切込接の石垣で、天守が残っていれば荘厳でしょう。
夜間は内堀の石垣がライトアップされますので、散歩がてら寄るのも良いと思います。
なお、福井城は現在、坤櫓復元プロジェクトが実施されており、訪問時お堀の一部の水抜きがされていました。水面下の石垣が見えるのはこの時期だけです。
福井城跡内には建物の遺構はありませんが、自動車で10分程度の瑞源寺には本丸御殿の遺構があります。都合がつけば、立ち寄ってみるのも良いと思います。

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WEST

丸岡城探訪 (2025/09/30 訪問)

丸岡城を訪問しました。ネット情報で、天守の大規模修理が2025年12月から2年間の予定で行われるとのことでしたので、急遽訪問を決めました。
アクセスは北陸新幹線福井駅を降り、越前バスにて向かいました。バス所要時間は約50分です。
丸岡城は地震倒壊を乗り越えて修復再建された現存天守です。その外観は望楼型の古い建築形式で、非常に価値があるお城でもあります。
見どころの野面済みの天守石垣、建物は石瓦の屋根で壁には石落、狭間を見ることができます。建物内部の部材を見ると築城後約400年の重みを感じます。
特に昇降する階段が非常に急であり、注意が必要です。
私事ですが、これで現存12天守をすべて訪問できました。

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赤い城

児童公園 (2025/08/09 訪問)

名鉄知立駅から徒歩7分。
西町児童遊園が古城跡です。
立派な石碑と江戸時代の様子を伝える屏風の絵を描いた案内板が立っています。
周囲より少し高くなっていますが遺構は無さそうです。
桶狭間の戦いで今川方の城として機能していました。

江戸時代には将軍が上洛する際の宿泊所となり、旧東海道が直ぐ側を通ります。
旧東海道は公園の北東でクランクしており城の匂いもします。
この道を少し北に曲がり進むと知立神社があります。
先述の説明板にも描かれていました。
ここには於万の方の石碑があります。
結城秀康の母、於万の方の実家でもあり、東海道三社の一つにも数えられる立派な神社でした。

出張の後延泊しての城めぐりはここまで。
猛暑でバテたのとスマホの充電も怪しくなったので名駅まで戻ります。
新幹線までの時間はビールでクールダウンしたことは言うまでもありません🍻

【見どころ】
 ・側を通る旧東海道のクランク
 ・知立神社

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しんちゃん

長篠・設楽ヶ原の戦い 北畠信雄本陣地(新御堂山陣所) 原隼人昌胤の墓 (2025/09/28 訪問)

織田信長の旗本陣のある平井神社より東にほどなく行くと織田信長の次男・信雄の本陣が有った八幡神社があります。八幡神社に矢部公民館が隣接しているので、車はここに駐車させていただくと良いでしょう。信雄の陣は合戦時には最後尾にあたります。この時、信雄はまだ18歳なので合戦の様をここで良く見ておくようにとのことでしょうか。北東側すぐ近くに織田信長の嫡子・信忠の陣も有ります。織田信長の戦地本陣は信忠の陣の東北東800mの所にあり、設楽原PA(下り)からすぐ近くです。武田軍の相手は徳川家康や家臣の佐久間達に任せている感じですね。大変ですな家康さん。

設楽原歴史資料館の南には武田二十四将の一人、原昌胤の墓があります。原氏は美濃土岐氏の庶流とされています。上野国では土屋昌続らと共に上野衆の取次を行い人脈も有ったようです。二十四将の中では地味なイメージがありますが、要所要所で活躍してるようです。
設楽ヶ原の戦いで討死しています。

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しんちゃん

新城の彼岸花 土屋昌続の墓 (2025/09/28 訪問)

長篠・設楽ヶ原の古戦場に向かう途中、新城城の近くの車道沿いに彼岸花の群生地が有りました。古戦場の周りには武田軍の名だたる武将の墓や供養塔がたくさんあるのですが、各所に彼岸花が咲いており供養に来ているような気がしてきます。
土屋昌続(次)の墓は設楽原資料館のやや北東にあります。
昌続は武田二十四将の一人で、重臣の中では最も若い部類に入ります。「片手千人切り」で有名な土屋惣蔵昌恒の兄に当たり、初陣は激戦で知られる第四次川中島の戦いとされています。また元亀3年(1573)の三方ヶ原の戦いでは徳川方の鳥居忠広と一騎打ちを行い、忠広を討ち取っています。忠広は後に徳川十六神将と呼ばれるようになり、十六神将と二十四将の一騎打ちが行われた稀有な例になると思います。数々の戦で武功を挙げてきた昌続ですが設楽ヶ原の戦いでは真田信綱、真田昌幸とともに天王山に陣を敷き、馬防柵の二段目までを突破したが火縄銃の一斉射撃を受け討死したとされます。誰に討たれたのかすら分からぬ非業の最期と言えるのではないでしょうか。昌続の墓の脇には従士の温井左近の塚があります。良く見ると木の影から頭だけ出ています。
温井は昌続が討たれた後、すかさず首を斬り取り、信州まで逃れたところで首を埋め、殉死したとされています。壮絶ですな。

さらに北上すると堀 無手右衛門(むずえもん)の墓があります。無手右衛門は勝頼の叔父・一条信龍の家臣で長篠・設楽ヶ原の戦いでは織田・徳川連合軍相手に殿を務め、討死したとされていますが、この時点では生存していたとする説もあるようです。

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しんちゃん

武田軍ストッパー   (2025/09/28 訪問)

吉田城の投稿です。自宅から一番近い続百名城でたまに散歩に行っています。地味な印象の城址ですが実は三河侵攻を狙う武田軍は一度もこの城を敗れていないんですね。元亀2年(1571)武田信玄は徳川家康との密約を反故にして大井川を越え、12000の兵を以て遠江と三河に兵を進めました。信玄は足助城や長篠城などを落としながら吉田城へ進軍。家康は吉田城を守る酒井忠次から知らせを受けただちに浜松城から吉田城へ向かいました。二連木城で忠次が敵を引きつけている間に、家康は吉田城に入ることが出来ましたが、この時に多大な損害を出したとされています。家康と忠次が吉田城に籠って守りを固めたので、信玄も無理強いはせずに甲斐に引き返しました。
この時、忠次と武田方がどのような交渉をしたのかは知れませんが、この時期の忠次の活躍は目覚ましいものがあります。この翌年、信玄は3万(諸説あり)もの大軍を率いて青崩峠から侵攻し、三方ヶ原の戦いに至ります。
長篠・設楽ヶ原の合戦の前にも武田勝頼の軍勢が吉田城まで攻め込んで来ています。その時、家康が吉田城に引き籠っているので勝頼は長篠城攻めに引き返しています。

※二連木城の投稿の内容を一部修正しました。

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江戸城天守を再建する会オンライン講演会「天守台の石垣について」~なぜ名古屋城木造天守再建計画は進まないのか~ (2025/10/08 訪問)

10月8日(水)19:00~20:30 講師:三浦正幸広島大学名誉教授 参加自由(参加費無料:申込不要)
視聴用URL:https://us02web.zoom.us/j/87602396159 資料:https://5.gigafile.nu/1012-c3780cb1d367ebcb13d27e5dd5e9fe80d
2016年に策定された名古屋城天守閣木造再建計画は、関係者間で現存石垣の上に木造天守を再建することに疑念が提起され、
現在に至っても、合意が成立せず、計画は停滞しています。江戸城天守再建を考えるに当たっても、これは避けて通ることの
できない重要課題となります。当会顧問三浦正幸名誉教授が、新たな視点から、解決策を提言します。

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tsuchinari

海城萩城 (2025/10/06 訪問)

萩城本丸から北側の海岸線を歩くと、
強固な石垣に目を奪われる。
比較的新しい石垣に日本海の波が直接打ち寄せる様子を見ていると、萩城が海城であることに気づかされる。

城として存在していた時代から現在も変わらず、
このように城自体が海に剥き出しになっている城は
私の知る限り此処萩城だけではないかと思う。

とても壮観に立つ石垣と、勢いよく打ち寄せる日本海の荒波と、この日の真っ青な空のコラボレーションがとても美しく、心が癒された。

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左大弁

忍城 (2025/10/07 訪問)

行田市郷土博物館と三階隅櫓セットで約45分。
その後、本丸内ぐるっと約15分の計約1時間で攻城完了。
現代では沼地がなくなってしまい、忍城の難攻不落さが感じにくくなっていました…

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駿府城

駿府城跡天守台発掘調査現場および「発掘情報館きゃっしる」の開館日変更・閉館のお知らせ

駿府城跡天守台発掘調査現場および「発掘情報館きゃっしる」は新たな展示施設整備工事に伴い、下記の通り開館日を変更し、閉館いたします。

・2025年10月1日(水)より:平日のみの開館(土日祝は休館)
・2025年12月26日(金):公開終了・閉館
なお、開館時間(9:00~16:30)の変更はありません。

現在、駿府城をより体感いただけるよう、デジタル技術を活用した天守のVR(仮想現実)映像を制作中です。2026年にはプレ公開を予定し、2027年4月の新施設オープンにあわせて本格公開を目指しております。
長きにわたりご来館いただきました皆さんに心より感謝申し上げますとともに、新たに生まれかわる展示施設にぜひご期待ください。

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駿府城

「駿府城夏まつり」に出店しました!

9月20日(土)・21日(日)に駿府城公園で開催された「駿府城夏まつり」に皆さん足を運ばれたでしょうか?
「駿府城夏まつり」は、学生と地元企業が協力して作り上げる、音楽ステージや飲食ブースなど、多彩な企画が魅力のイベントです。会場は多くの来場者でにぎわい、夏の終わりを華やかに盛り上げました。
駿府城公園エリア活性化連絡会では、駿府城にまつわるDVDの上映やフォトスポットの設置、限定の御城印やビール販売を行いました。
20日は不安定な天候に見舞われ、21日は猛暑となりましたが、多くの方々にブースにお立ち寄りいただき、静岡の歴史とまちの魅力にふれていただく機会となりました。

静岡市には、徳川家康公ゆかりの史跡をはじめ、美味しいグルメや文化に触れられるスポットが数多くあります。市街地からのアクセスも良い駿府城公園を拠点に、歴史探訪や散策を楽しんでみてはいかがでしょうか?ぜひ静岡市へ、そして駿府城跡天守台発掘調査現場へお越しいただき、静岡ならではの歴史の奥深さを体感してください。

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左大弁

広い城 (2025/10/07 訪問)

先ずは資料館で約20分お勉強してから攻城。
城内は広く、本曲輪が道路でぶった切られる程!
ただ説明文があまり無いので、見て周るだけなら約40分あれば周れそうです。
ここも堀が深く、城域が広いので、攻城戦は大変だっただろうと思いました!

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トク

【宮本武蔵】(14)福山城(大坂の陣と腰掛岩) (2025/06/06 訪問)

宮本武蔵の続き(14)です。

巌流島での決闘の後、松井興長の鉄砲隊に守られ中津に着いた武蔵は、おそらく事の状況を無二斎に報告し、そのまま豊後杵築(細川藩の飛地で興長の領地)で匿われたと思います。そこで細川忠興と良好な関係であった隣国日出藩(日出城)の、あの姫路城で世話になった「木下延俊」(妻は細川忠興の妹)にも会いに行き、両家の客分として一年ほど剣術などを教えて過ごしていたのではないでしょうか。きっと延俊とは、あの妖怪退治の話で盛り上がったかもしれませんね。

しかし1613年の徳川家康と豊臣秀頼の会見が二条城で行われた後、にわかに徳川一門に不穏な動きが始まります。この時密かに家康から譜代大名に対し、豊臣との戦支度の命が下ります。巌流島から一年が経ち、いつまでも杵築に居るわけにもいかないと思っていた矢先、武蔵は刈谷城主「水野勝成」に招待されたので三河に行く事にしました。勝成は出奔中に、一時中津で黒田官兵衛に仕えていたとの記録があります。その時に面識があったのかもしれません。そしてこの時の勝成は、関ケ原では大垣城を攻め、守っていた府内城主の福原直高や富来城主の垣見家純などを討った功績で、家康から過去の出奔を許され刈谷3万石の城主となっていました。

勝成は戦を知らない若い家臣たちに剣術や兵法を教え、息子「勝俊」の初陣を補佐してほしいと頼んだようです。そして1615年、勝俊の守役である家老の中川将監(志摩之助)の軍に加わって大坂の陣に出陣します。その時の様子が、福山城に残る水野家の資料に残っている事から、武蔵が参陣していた事は間違えないようです。

結局、水野軍は大野治房を破るなどして、無事に勝俊は初陣を飾りました。ここで武蔵は将監から、三男の「三木之助」を養子にしてほしいと懇願され、断れず養子に迎える事にします。

大坂の陣の功績で、勝成には大和郡山6万石を経て福山10万石が与えられ、1622年福山城を築城します。そして完成すると、完成祝いにその当時明石にいた武蔵は福山に招待され、将監の屋敷に泊まり接待されたようです。その屋敷跡には、武蔵が腰かけたという「腰掛岩」が残っていました。私もその岩に座り、そこから福山城を見上げてみました。武蔵はどんな事を考えながら、ここから福山城を見上げていたのでしょうか? 将監と酒を酌み交わしながら、意外と大坂の陣での話や三木之助は今どうしているのかなどの話をしながら、福山城にかかる月を見上げていたのかもしれませんね。

次は、明石に行く前にしばらく滞在した(姫路城)に続きます。
 

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左大弁

堀と土塁 (2025/10/07 訪問)

平城に分類されると思いますが、大きく深く高さのある堀と土塁は、城の起源・本質を物語っているかと。
資料館20分、史跡30分で合わせて約1時間程で見て回れそうです。

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左大弁

行くべき城です! (2025/10/07 訪問)

車で攻城。
嵐山小川I.Cから左に行くと菅谷館ですが、杉山城は右。
説明文には山城とありますが、山城に付き物の登山は無いので、周りやすいお城です。
それにしても、複雑な構造、配置の各郭、堀、土塁は見応えの塊!
ポイントにある説明文とイラストが、当時の攻城戦を想像させてくれ、5点評価の5点をつけたいお城です。
尚、城内結構広く、色々周って約1時間は必要かと。

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todo94

日帰りドライブで北陸の城めぐり⑥ (2025/09/27 訪問)

古国府城からの転戦です。高岡古城公園の北端にある駐車場に車を停め、古竹藪、三の丸、明丸と進んで鍛冶丸にある高岡市立博物館に入館しました。無事、城カードをゲットし、展示も一通り拝見させていただきました。初めて高岡城に来たときは二の丸と本丸をつなぐ通路の石垣だけに萌えていました。地味な100名城だと正直思っていました。いま改めて見てみると、本丸周りの濠なんか、すごく広くて深いですよね。重機のない時代にこれだけの土木量、感嘆せざるを得ません。入り組んだ水濠もこれだけ保存状態が良くて大規模な城はそうはないでしょう。その魅力を写真で伝えるのはなかなか難しいようには思いますけれども。城カードの写真が航空写真を用いているのはナイスチョイスだと思いました。

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しんちゃん

長篠・設楽ヶ原の戦い 平井神社・織田信長旗本陣跡 (2025/09/28 訪問)

新城市上平井にある平井神社から極楽寺跡周辺は織田信長が合戦に望んで最初に本陣にしたとされています。平井神社の清め水の奥に「織田信長旗本陣跡」の石碑があり、織田信長が幟(のぼり)旗や旗指物を林立させたとされています。
平井神社の北東に信長が陣を張ったとされる極楽寺跡がありますが以前より藪化が酷くなった上に、私有地の可能性を考慮して近くで撮影するにとどめました。

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しんちゃん

壬生寺 新選組ゆかりの地 (2016/02/20 訪問)

京都市中京区の壬生寺は新選組ゆかりの地です。北の八木邸は新選組の最初の屯所として使われ、屯所が西本願寺に移転してからも壬生寺は引き続き新選組の兵法調練場として使用されました。境内には近藤勇の銅像や新撰組の関係者を弔った壬生塚が有ります。
八木邸で近藤らに襲われ落命した芹沢鴨や平山五郎の墓もあり、池田屋騒動で討死した奥沢栄助ら三人や、規律を犯して切腹した葛山武八郎など葬られている人たちは様々です。
不手際で処刑された勘定方の河合耆三郎の墓も有り、墓碑は耆三郎の家族によって立てられたとされています。近藤勇の胸像の脇には近藤の遺髪塚もあります。

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しんちゃん

鳥居強右衛門勝商墓所  (2014/03/27 訪問)

長篠・設楽ヶ原の合戦の英雄・鳥居強右衛門勝商(かつあき)の墓所は二つあります。一つは長篠城の近くの新昌寺、もう一つは新城市作手鴨ヶ谷にある甘泉寺です。当地は強右衛門の妻の故郷であるとされ、境内には強右衛門と妻の墓が並んで立っています。
織田信長が強右衛門の功績を湛えて墓を立てたという伝承も有り、こちらが首塚、新昌寺は胴塚とされています。比較的人が多い新昌寺と較べてこちらは静謐な雰囲気があふれています。

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左大弁

広いです! (2025/10/06 訪問)

車を搦め手側駐車場に置いて攻城しましたが、広いです!
ぐるっと一回りすると、1時間は必要。
高崎市役所箕郷支所にスタンプとともに資料もあるそうなので、まずそちらに行くべきでしたが、知らずに直接行ったので、ちょっと非効率な周り方をしたかも…
ちなみに、搦め手は最初は大手だったそうで、井伊直政の時に南西に今の大手を作ったそうです。

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