日本100名城

なごやじょう

名護屋城

佐賀県唐津市

別名 : -

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名護屋城
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くろもり

太閤の野望とある女性の一生 (2014/01/01 訪問)

築城当時は、大坂城に次ぐ巨大城郭だったそうなので、破却するのも大変だったらしく、石垣が多く残っていました。

山里丸跡に広沢寺というお寺が建っているのですが、地元の肥前垣添城主・名護屋経勝の娘で豊臣秀吉の側室となった広沢局に由来するお寺でした。

広沢局は20歳で秀吉の側室となったそうですが、秀吉が名護屋城に滞在したのは1年2ヶ月程で、秀吉は広沢局を名護屋城に残したまま大坂に帰ってしまい戻ってきませんでした。それから5年程して秀吉が亡くなったので、広沢局は26歳の若さで出家したそうです・・・

秀吉の側室になったことで、名護屋氏としては恩恵も多かったのだろうとは思いますが、広沢局の一生を考えるとやるせなくなります。

戦国時代なんだからそんなことは当たり前で、広沢局は恵まれている方だったのかもしれませんが。太閤の夢跡の名護屋城より、広沢局のことの方が心に残ってしまいました。

遺構について全然書いてなく申し訳ないですが、広沢寺には加藤清正が朝鮮から持ち帰ったと伝わる蘇鉄がありました。5枚目の写真です。加藤清正が好きな方は広沢寺に行けば見られますよ。

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にのまる

京をもしのぐ寒さ… (2019/01/01 訪問)

名護屋城博物館で温まってから、気持ちのワンコインでガイドマップをいただき、寒風吹きすさぶ中を東出丸、三の丸、本丸と進みました。陣城でこんなの築かせる御仁の怪物ぶりと果てしない妄想には、時代の寵児どころではない恐ろしさを感じてしまいます。破壊され転がっている巨石にも廃城の哀れさはなく、寧ろ豪快で、この姿さえ計算済みだったのではないかと思うほどでした。
奥州でこんな人にケンカを売った九戸政実らの勇気はすごかったんだなと、なぜだかここで九戸城を思い出し…。
そして怪物くんの叶えられなかった夢をぶっ潰した家康はもっとすごいなと思ったり。

本丸の天守台で強風MAXになり、吹き飛ばされそうになりながらも踏ん張りました。3秒ぐらいは立っていられたんじゃないかと思います。
水手通路と伝馬場には行けたけれど、遊撃丸や二の丸、弾正丸は眺めるだけだったし、山里口や、博物館から直接行ける木下延俊陣跡にも行かなかったのが心残り(寒さに負けた^^;)
現在確認されている陣跡は150くらいと博物館で聞きました。白地図を作って塗りつぶしながらまわったら楽しくてたまらないだろうな♪

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小城小次郎

名護屋城

10年余りの間に築城され、拡張され、破壊された歴史を有する巨城には、天正期から慶長期までの築城術がぎゅーっと凝縮されている。

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たかりん

太閤の夢の跡 (2017/09/29 訪問)

大陸出兵の陣城というにはあまりに大きなスケールでした。当然、建造物は復元含めて全くありませんでしたが、各曲輪とその周囲の石垣だけでもその規模に驚きました。またパンフによると周囲には戦国オールスターの様に陣跡が点在してます。比較的よく整備された堀秀治陣跡だけ見てきました。

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概要

豊臣秀吉が朝鮮出兵の拠点として、九州大名に命じて約半年で完成させた約17万㎡もの巨大な陣城。高石垣で築かれた曲輪が現存し、諸大名の陣屋跡の石垣も多く残っている。発掘調査によって検出された山里口の石段と櫓門跡、さらに天守台の穴蔵が復元されている。

城郭情報

城地種類 平山城
築城年代 天正20年(1592)
築城者 豊臣秀吉
主要城主 豊臣氏
文化財史跡区分 国指定特別史跡(大正15年史跡、昭和30年特別史跡指定)
近年の主な復元・整備 昭和63年から名護屋城跡は石垣(山里口等)、本丸多聞櫓跡、二の丸長屋建物跡、陣跡は堀秀治陣跡(能舞台跡)などを復元整備
天守の現況・形態 徹底的に破壊を受けた天守台石垣のみ残る
主な関連施設 佐賀県立名護屋城博物館
主な遺構 本丸、二ノ丸、三ノ丸、弾正丸、山里丸、陣跡、石垣、水堀
住所 佐賀県唐津市鎮西町名護屋3673
問い合わせ先 唐津市観光案内所
問い合わせ先電話番号 0955-82-5774