「後世へ 戒め残す 名護屋城(こうせいへ いましめのこす なごやじょう)」
江戸時代初期、島原藩松倉氏と一部の幕臣の間でマニラ遠征が計画されていたようですが、絶妙のタイミングで島原の乱が勃発して、計画は頓挫してしまいます。幕府もいささか懲りたのか、この後 急激に鎖国に舵を取ります。
名護屋城の石垣の破却はこの時期ではないかと思います。大陸の情勢次第によっては有用性のある城だと思いますが、それ以上に他国との争いを避けるようにという後世への戒めにも感じます。豊臣秀吉の朝鮮出兵の失敗と、島原の乱に至る経緯を考え、リスクの高さを考慮したのかもしれません。この後、江戸時代を通して幕末まで、国内での争いは限定的で、他国との争いが無かったのは僥倖と言えるでしょう。
将軍や王・皇帝による支配体制の徹底(王道楽土を理想とする)と相互不可侵のもたらした平穏だったと思いますが、植民地支配に味を占めた欧米列強には、その理屈は通じませんでしたね。
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