日本100名城

なごやじょう

名護屋城

佐賀県唐津市

別名 : 名護屋御旅館
旧国名 : 肥前

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名護屋城
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トク

【とことん名護屋城-⑥最終回】加藤清正と小西行長 (2025/11/23 訪問)

最後に私がどうしても行きたかった、この二人の陣跡を訪れました。なぜならば、この二人なくして朝鮮出兵は語れないからです。この二人の対立が火種となり、他の武将たちをも巻き込んで、それが関ケ原へとつながって行きました。

加藤清正の陣は、名護屋城博物館から西へ800mの場所にありました(写真①②)。小西行長の陣は、名護屋城博物館から南東へ500mの地にありました(写真③④)。どちらの陣も遺構は残っていませんが、ここに立ち、目を閉じて、耳を澄ますと、先鋒として渡海し、先を競うように先陣を切って戦った、最強の兵士たちの声が、どちらの陣からも聞こえてくるような気がしました。

さかのぼる事、二人の争いは秀吉の九州征伐の時に始まります。天草氏を攻めた本渡城の戦いで、キリシタン大名である小西行長は、天草のキリシタンたちは保護しようとしたのに対し、加藤清正は禁教令を理由に強引に皆殺しにしてしまったのです。この時から二人は犬猿の仲となります。そして両者は、文禄の役では先を競って平壌まで攻めて行きました。そしてここで戦を中断し、明の使節を迎え和平工作を計ろうとした行長に対し、明国を攻め続け徹底的に戦う姿勢を見せる清正、ここで二人は再び対立します。よほど馬が合わなかったようです。

そして明との和平交渉が決裂し、再び出兵した慶長の役では、負け戦が続き不利な状況になってきたため、戦争の早期終結へと、明との交渉のパイプ役である小西行長を支援する石田三成や大谷吉継らの「文治派」(写真⑤⑥)。最前線で戦ったあげくに負け戦は自分たちのせいと三成に讒言されて憤慨する加藤清正、同じく渡海して戦い、清正を支援した福島正則や黒田長政らの「武断派」(写真⑦⑧)。清正と行長の二人の対立が火種となり始まった争いは、徳川家康が矛先を行長から、自らの邪魔をする三成に向けさせて武断派をさらにたきつけ、前田利家が両者を仲介するも亡くなると、武断派七将は三成襲撃事件を起こし、それがついに全国の諸大名たちまでをも巻き込んだ、関ケ原の戦いへと発展して行った事は、皆さんもよく御存知と思います。

「太閤が 睨みし海の 霞かな」

名護屋城の本丸には、このような歌碑が立っています(写真⑨)。豊臣秀吉は、この二人の争いを望んではいなかったと思います。秀吉がもう少し長生きしていれば、歴史はどう変わっていたのだろうか?🤔などとつい思ってしまいました。

以上で(とことん名護屋城)を終わります。全6回読んでいただき、ありがとうございました😊。
 

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トク

【とことん名護屋城-⑤】はじまりの名護屋城 (2025/11/23 訪問)

次は宮武正登先生の講演の中から、特に私が興味をひかれた内容をピックアップします。

信長は、初めて石垣というもので城を築き(この時は野面積)、その上に「魅せる天主」を建てました。しかし秀吉は、石を割って大きさや形を整え、割った平たい面を表にして見せるように並べるという「魅せる石垣」で城を築きました(打込接の始まりです)。全国から集まった諸大名たちは、まずここで初めて見る石垣に度肝を抜かれた事でしょう。

穴太衆は石を割る・削るという技術は持っていないため、その技術を持っている墓石職人を全国から大量に集めたのではないかと推測されています。そしてわずか半年間という短期間でこの壮大な石垣を造り上げたというのは、当時の秀吉の力を諸大名に見せつけるには十分すぎる程だったのではないでしょうか。

そして茶室・庭園など遊びの空間を城の中に取り入れ、城は戦うだけのものではないと思わせ、昨日まで争っていた大名同士の戦う意欲を無くさせ、茶室で大名間の距離を縮め親睦を計るよう勧めます。そして諸大名は自分の陣城を、秀吉の真似をして造り始めます。最近発掘調査された前田利家の陣跡では、石垣や庭園をともなったその典型例を見る事ができます。

そして秀吉が死に朝鮮出兵が終わると、諸大名は地元へ帰りまたは関ケ原後に与えられた地で「慶長の築城ラッシュ」が始まります。その時に、打込接で石垣を築き、壮大な天守を建て、二ノ丸・三ノ丸とさらにその回りをぐるりと堀で囲み、庭園や茶室といった遊びの空間までをも作ります。つまり、ここ名護屋で見た事・学んだ事を自分たちの城造りに全て取り入れて行ったのです。それで今までの山城に代わる近世城郭が、このようにして全国一斉に建てられましたというお話でした。

よってここ名護屋城は、近世城郭発祥の地【はじまりの名護屋城】だったという訳ですね!

また1615年一国一城令で行われた破却がどのようなものであったか? 大変よく解る例も教えていただきました。特に遊撃丸の破却は典型例のようです。小藩の唐津藩だけでは、この広大な名護屋城の破却は無理~!と泣きつかれ(たかも?)、ならばと幕府は、「建物は全て撤去、そして隅部の上の石垣は絶対に壊せ、そして中間の石垣もV字型に壊せ、そうして二度と櫓や塀が建てられないようにせよ!」と最低限の破却のやり方を、指示したのではないかと思われます。私は皆さんにもぜひここは見てほしい、そして何かを感じてほしい場所だと思いました。

次は最後に、私が個人的に気になる二人、加藤清正と小西行長の陣跡を訪れます。
 

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T-Shionoya

使者を圧倒する名護屋城 (2025/10/23 訪問)

10月の佐賀県観光で訪れた、佐賀県唐津市の名護屋城。

壱岐島に最も近い九州本土のポイントである、東松浦半島最先端の波戸岬に繋がる海抜約90mの丘陵に築かれた城。

豊臣秀吉が大陸への出兵拠点として1591年に築城し、縄張は黒田官兵衛が担当。周囲一帯には全国から集結した武将が陣を構築。
1598年に秀吉が亡くなると全兵撤退となり、関ヶ原の戦いの後には建材が唐津城でリサイクルされた模様。更に一揆での再利用を防ぐため、江戸初期に石垣を破却したと考えられている。

現在は、その破城の姿を残す代表的な城跡で、農地や民家が建つ一部を省きほぼ全域を巡ることが可能。
堀秀治などの陣跡も整備され、博物館も併設する。

訪問時はまだ草に隠れた石垣も多かったが、遺跡感は期待通り。
大手口や東出丸、三ノ丸などの虎口は櫓台を備え、本丸や搦手の虎口は折れと坂を伴う枡形タイプ。特に本丸大手は厳かな雰囲気があり、5層の天守を持った城はただの陣城ではなく、大陸からの使者を圧倒するための道具であったと個人的には解釈。
他にも遊撃丸と二ノ丸西側の石塁や、折れを繰り返す山里口は見逃せないポイント。

堀秀治の陣跡はヤブ化していたが、陣跡でも石垣の枡形虎口を構えていたことに驚かされた、私の城郭巡りの212城目でした。

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トク

【とことん名護屋城-④】黒田官兵衛の縄張りを読み解く (2025/11/23 訪問)

次は小和田哲男先生の講演の中からです。

名護屋城の縄張りは、黒田官兵衛によって作られました。そして普請奉行には、加藤清正・小西行長・黒田長政の三人が命じられました。先生は長年にわたり官兵衛の縄張りを研究されていて、官兵衛には海(または川)側に大手門を築き、三ノ丸→二ノ丸→本丸と渦を巻くように縄張りを築くという傾向があり、それを名護屋城の縄張りにあてはめていくと、現在は搦手門とされている所が実は大手門で、現在二ノ丸とされている所は三ノ丸、現在三ノ丸とされている所が二ノ丸、現在大手門とされている所は搦手門だったのではないか? と読み解かれているそうです。

それを聞き、私も翌日に3時間かけてじっくりと、全ての縄張りを歩いて確認してみました。確かに先生のおっしゃる通りだと思いました。ただ私がもしやと思ったのは、名護屋城の中では、山里丸の門と石垣が群を抜いて一番大きいので、官兵衛が設計した当初はここを大手門にしようとしていたのではないか? と感じました。しかし秀吉が風の強い天守を嫌い、途中からここ山里丸に下りて暮らし始めたので、この時に大手門の機能は弾正丸にあった現在の搦手門とされる場所へ移されたのかもしれません。

現在の大手門とされる場所は、防御も薄いので、私も先生と同じ搦手門だったのではと推測します。この門から太閤道と呼ばれる東出丸までの大手道は、威厳を見せるための道とよく言われますが、本当は単なる荷物の搬入口だったのではないか? 単純に段差を無くして広くし、荷車や馬車で本丸へ兵糧などを運びやすくした、ただそれだけの道だったのではないかと私は感じました。

そしてこの太閤道などで、先生のお話では、左側を通行せよという交通ルールを作ったのも秀吉だとか? おそらく武士は左側に刀を差しているので、刀と刀が当たらないよう左側通行にしたのではと推測されているようです。

名護屋城を訪れる方の大部分は、博物館入口に駐車してスタンプを押し、現在の大手門から真っすぐ伸びるこの太閤道を登り、本丸へ上がって海の景色を眺めたらそれで満足し(写真⑨→⑧)、予想外の広さに時間を取られてしまった、もう時間が無いからとすぐ次の目的地へと移動される方が多いようです。ちょっともったいないです。

それは本丸へ兵糧を運び込むための裏道を通っただけです。名護屋城は、東の海側の山里口から入り、【山里丸①→舟手門②→二ノ丸③→遊撃丸④→弾正丸(搦手門)⑤→馬場⑥→三ノ丸⑦→本丸⑧→天守台】の順で、高石垣を見上げながら、攻め手の気持ちになり、左回りでぐるりと渦を巻くように歩くと、そのすごさと官兵衛の縄張りの見事さがよく解かります。そして途中で見える破却の様子も半端ないです。先生のお話を聞いて初めてその事を知り、そして実際に歩いてその事に気づく事ができました。ありがとうございます。名護屋城に来られたら、2回目はぜひ時間に余裕を持たれ、このルートを歩かれてみる事を、私はオススメします。

次は、宮武正登先生の講演の中から(はじまりの名護屋城)に続きます。
 

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概要

豊臣秀吉が朝鮮出兵の拠点として、九州大名に命じて約半年で完成させた約17万㎡もの巨大な陣城。高石垣で築かれた曲輪が現存し、諸大名の陣屋跡の石垣も多く残っている。発掘調査によって検出された山里口の石段と櫓門跡、さらに天守台の穴蔵が復元されている。

城郭情報

城地種類 梯郭式平山城
築城年代 天正19年(1591)
築城者 豊臣秀吉
主要城主 豊臣氏
文化財史跡区分 国特別史跡(名護屋城跡並陣跡)
天守の現況・形態 望楼型[5重7階/1592年築/解体(廃城)]
主な関連施設 石碑、説明板
主な遺構 曲輪、石垣、横堀(空堀)、井戸跡
住所 佐賀県唐津市鎮西町名護屋3673
問い合わせ先 唐津市観光案内所
問い合わせ先電話番号 0955-82-5774