最後に私がどうしても行きたかった、この二人の陣跡を訪れました。なぜならば、この二人なくして朝鮮出兵は語れないからです。この二人の対立が火種となり、他の武将たちをも巻き込んで、それが関ケ原へとつながって行きました。
加藤清正の陣は、名護屋城博物館から西へ800mの場所にありました(写真①②)。小西行長の陣は、名護屋城博物館から南東へ500mの地にありました(写真③④)。どちらの陣も遺構は残っていませんが、ここに立ち、目を閉じて、耳を澄ますと、先鋒として渡海し、先を競うように先陣を切って戦った、最強の兵士たちの声が、どちらの陣からも聞こえてくるような気がしました。
さかのぼる事、二人の争いは秀吉の九州征伐の時に始まります。天草氏を攻めた本渡城の戦いで、キリシタン大名である小西行長は、天草のキリシタンたちは保護しようとしたのに対し、加藤清正は禁教令を理由に強引に皆殺しにしてしまったのです。この時から二人は犬猿の仲となります。そして両者は、文禄の役では先を競って平壌まで攻めて行きました。そしてここで戦を中断し、明の使節を迎え和平工作を計ろうとした行長に対し、明国を攻め続け徹底的に戦う姿勢を見せる清正、ここで二人は再び対立します。よほど馬が合わなかったようです。
そして明との和平交渉が決裂し、再び出兵した慶長の役では、負け戦が続き不利な状況になってきたため、戦争の早期終結へと、明との交渉のパイプ役である小西行長を支援する石田三成や大谷吉継らの「文治派」(写真⑤⑥)。最前線で戦ったあげくに負け戦は自分たちのせいと三成に讒言されて憤慨する加藤清正、同じく渡海して戦い、清正を支援した福島正則や黒田長政らの「武断派」(写真⑦⑧)。清正と行長の二人の対立が火種となり始まった争いは、徳川家康が矛先を行長から、自らの邪魔をする三成に向けさせて武断派をさらにたきつけ、前田利家が両者を仲介するも亡くなると、武断派七将は三成襲撃事件を起こし、それがついに全国の諸大名たちまでをも巻き込んだ、関ケ原の戦いへと発展して行った事は、皆さんもよく御存知と思います。
「太閤が 睨みし海の 霞かな」
名護屋城の本丸には、このような歌碑が立っています(写真⑨)。豊臣秀吉は、この二人の争いを望んではいなかったと思います。秀吉がもう少し長生きしていれば、歴史はどう変わっていたのだろうか?🤔などとつい思ってしまいました。
以上で(とことん名護屋城)を終わります。全6回読んでいただき、ありがとうございました😊。
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