「海風に 宴の残り香 名護屋城」
(うみかぜに うたげののこりが なごやじょう)
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2025/09/14 07:11
【赤色立体地図かるた】
「海風に 宴の残り香 名護屋城」
(うみかぜに うたげののこりが なごやじょう)
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2025/08/22 19:49
【赤色立体地図かるた】 (2020/01/03 訪問)
「後世へ 戒め残す 名護屋城(こうせいへ いましめのこす なごやじょう)」
江戸時代初期、島原藩松倉氏と一部の幕臣の間でマニラ遠征が計画されていたようですが、絶妙のタイミングで島原の乱が勃発して、計画は頓挫してしまいます。幕府もいささか懲りたのか、この後 急激に鎖国に舵を取ります。
名護屋城の石垣の破却はこの時期ではないかと思います。大陸の情勢次第によっては有用性のある城だと思いますが、それ以上に他国との争いを避けるようにという後世への戒めにも感じます。豊臣秀吉の朝鮮出兵の失敗と、島原の乱に至る経緯を考え、リスクの高さを考慮したのかもしれません。この後、江戸時代を通して幕末まで、国内での争いは限定的で、他国との争いが無かったのは僥倖と言えるでしょう。
将軍や王・皇帝による支配体制の徹底(王道楽土を理想とする)と相互不可侵のもたらした平穏だったと思いますが、植民地支配に味を占めた欧米列強には、その理屈は通じませんでしたね。
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2025/08/15 19:03
【赤色立体地図かるた】
太閤が 夢見し跡の 名護屋城
(たいこうが ゆめみしあとの なごやじょう)
名護屋城では、石垣の破却跡を見る事ができます。でもよく見ると中途半端に終わっているのが分かります。それゆえ破却中の様子を想像できます。破却を行ったのは唐津藩主「寺沢広高」です。1602年家康の命で天守や御殿などの建物を解体し、それを自身の唐津城の築城に再利用したと伝わっています。そして1615年一国一城令で本格的に石垣の破却が始まりますが、あまりに立派すぎて唐津藩の力だけでは十分に壊せなかったようです。そして子の「寺沢堅高」の代になり、唐津藩の領地である天草でのキリシタン弾圧や、農民による天草一揆がはじまると、もう破却どころではなくなり、最後1637年には天草島原の乱の責任で堅高は切腹し寺沢家は断絶となります。乱の後に代わって入った大久保氏により、幕府の命で再度破却が試みられますが、やはりこれは無理と断念したのが実情ではないでしょうか? とりあえず天端石をとり石垣の隅部を破却して自然に崩し、この上にすぐには建物が建てられない状態にして、そこでもう力尽きたという感じです。また朝鮮との国交回復をしたのは唐津藩ではなく、対馬藩金石城主の「宗義智」で、人質を朝鮮へ返し謝罪する事を条件に交渉がなされているので、名護屋城の破却は、朝鮮との関りというより幕府の一城令によるものが強く、しかも完璧にはほど遠いまま終わったというのが実情ではないかと私は思います。
秀吉の朝鮮出兵には、安宅船が使われました。この船は帆と櫂で進むので、1日せいぜい50kmぐらいの航海が限界ではないかと思います。漕ぎ手を休ませながら天候や風向(夏は南風、冬は北風、春は西風)や潮の流れなどの好条件がそろわないと進めないので、そういった必要性から壱岐・対馬には兵站基地として勝本城や清水山城が築かれました。
今年も「名護屋城大茶会」が11月23-24日に行われます。また名護屋城歴史博物館では、朝鮮出兵の様子などが詳しく解説されており、安宅船の特大模型や、蔚山の戦いを描いた巨大絵図、特に再現された「黄金の茶室」は必見です! 唐津城とセットで訪れられたら、より分かりやすく楽しめるのではないかと思います。詳しくはHPで。
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2025/08/14 22:55
【赤色立体地図かるた】 (2020/01/03 訪問)
「壱岐対馬 最短出征 名古屋城(いきつしま さいたんしゅっせい なごやじょう)」
壱岐島・対馬と経由して、ほぼ直線ルートで朝鮮半島に到達しています。なんとも・・戦争の時は最短で出かけて行って、平和な時代には迂回して長崎に来てる。まあ直でやりとりするよりはワンクッション入れた方がお互いに良いのかもしれない。
名護屋城の破却は「島原の乱」の後と考えられています。ここは比較的一揆の場所に近いので、破城は念入りに行われたと思います。
まあ、豊臣秀吉の陣城でもあったし、朝鮮への配慮もあったのかも。
1630年代の島原藩では幕府の役人を巻き込んでフィリピンのマニラ侵攻を計画する動きが有りましたが、「島原の乱」勃発により計画は完全に頓挫し日本は鎖国に入っています。一揆軍はスペインの援軍を期待していた向きもあるようなので「島原の乱」は日本のフィリピン侵攻を妨げたいマニラ総督府の工作も関わっている可能性もあるのではないでしょうか?
だとしたら、彼らの思惑どうりに行き過ぎて少し面白くない。
赤色立体地図は国土地理院地図以上に地形がわかりすぎて少し危険です。「有事」の際には某国が工〇船で大量に侵攻してきて、山中を拠点にしながら都市部に〇スや細〇で攻撃を仕掛けることも可能なわけです。普通の人にはただの「赤くて気持ち悪い地図」だけど、見る人が見れば、どこをどう通れば目的地に行けるかすぐに解ってしまいますね。
国も環境省も熊を野放しのままだし、この国は国民の命を守る気が、全然無いように感じます。城址の形状を見るのには便利なんですけどね。
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豊臣秀吉が朝鮮出兵の拠点として、九州大名に命じて約半年で完成させた約17万㎡もの巨大な陣城。高石垣で築かれた曲輪が現存し、諸大名の陣屋跡の石垣も多く残っている。発掘調査によって検出された山里口の石段と櫓門跡、さらに天守台の穴蔵が復元されている。
城地種類 | 梯郭式平山城 |
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築城年代 | 天正19年(1591) |
築城者 | 豊臣秀吉 |
主要城主 | 豊臣氏 |
文化財史跡区分 | 国特別史跡(名護屋城跡並陣跡) |
天守の現況・形態 | 望楼型[5重7階/1592年築/解体(廃城)] |
主な関連施設 | 石碑、説明板 |
主な遺構 | 曲輪、石垣、横堀(空堀)、井戸跡 |
住所 | 佐賀県唐津市鎮西町名護屋3673 |
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問い合わせ先 | 唐津市観光案内所 |
問い合わせ先電話番号 | 0955-82-5774 |