日本100名城

あいづわかまつじょう

会津若松城

福島県会津若松市

別名 : 鶴ヶ城

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会津若松城
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夏の雪だるま

戊辰戦争激戦の城 (2015/11/01 訪問)

福島県会津若松市の百名城の一つ若松城(鶴ケ城)です。若松城は、会津若松市街地南側にあり湯川右岸台地西端に本丸、東側に二の丸、三の丸、台地下に北出丸、西出丸を配し東西1.8㎞南北1.3㎞の規模を有していました。明治7年に天守閣を始めすべての建物が取り壊されましたが、昭和41年に現在の天守閣を再建、また黒鉄門なども復元され、鶴ケ城公園として整備されています。会津を領した佐原氏が、故郷の相模国三浦郡芦名に因み芦名氏を称し、この地に1384年7代直盛のとき築城し黒川城と称したのが始まりです。1589年伊達政宗に摺上原の合戦で芦名氏は敗れ、伊達政宗の城となりますが、小田原北条氏を平定した豊臣秀吉が、政宗から会津を召し上げ蒲生氏郷に与え、1592年蒲生氏が近世城郭に改造、名も蒲生氏の出身地にある「若松の杜」に由来する若松城と命名。1593年7層の天守閣が完成、鶴ケ城に改名したと言われています。氏郷の子秀行の時、御家騒動のため転封になると、上杉景勝が120万石で会津に入国。しかし、1600年関ヶ原の戦いで徳川家康に敵対したため米沢に移されます。その後蒲生氏秀行、そして加藤嘉明が入城。加藤氏は7層だった天守を5層に改築。その加藤氏も改易となり、1643年保科正之が23万石で会津に入っています。正之は二代将軍秀忠の四男で保科家の養子となっていたもので、三代正容のとき松平氏を称しています。幕末、会津藩松平氏は京都守護職となり新撰組を配下に討幕派の薩長浪士を取り締まったことから、明治維新で新政府から征討対象とされたため、会津藩は、国境の会津へ入る母成峠・中山峠・勢至堂峠・日光口の内、主要街道であった中山峠に主力を置き守備。しかし新政府軍は手薄な母成峠を主力部隊で攻めわずか一日で峠を突破、会津藩は予備隊の少年兵である白虎隊まで前線に投入しましたが戦線を突破され、新政府軍に会津若松城下への突入をゆるし城下は炎上。これを見た白虎隊生き残りは落城したと思い飯盛山で自刃したと言われています。会津藩は3万の新政府軍に囲まれ若松城に前線から撤退した藩兵3千と婦女子2千で1ケ月籠城したものの、力尽き降伏開城しています。

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ひろべえ

念願だった会津若松城登城 (2016/08/12 訪問)

家族で信州・東北旅行の際に念願叶って訪れることができました。思えば年末大型時代劇「白虎隊」に感銘を受けて30年。一度は行きたいお城でした。宿泊先から朝5時30分に三の丸から登城。天守の外観の美しさに圧倒されました。北出丸から降伏式が行われた甲賀町通り、甲賀町口郭門跡を訪ねる。9時からは家族と再び登城。天守・麟閣を訪れました。その後、阿弥陀寺で移築されている御三階や藤田五郎の墓、飯盛山を訪れたところで時間切れ。また訪れたい城下町です。

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マルボロマン

鶴ヶ城 (2015/07/18 訪問)

白虎隊のお墓で涙が出ました。

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わき☆れーじ

戊辰戦争150年で (2018/12/02 訪問)

天気もよく天守閣から見る風景はとても良かったです。戊辰戦争150年ということで、特別展示もありました。

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概要

豊臣秀吉の命令で奥州を支配することになった蒲生氏郷が黒川城を大改修。七重の天守を築き上げ、名称も黒川から若松に改めた。天守は加藤嘉明によって五重に改修され、平成22年には屋根瓦が江戸時代と同じ赤瓦に葺き替えられた。3つの曲輪で囲むようにして本丸を守る、実戦的な縄張が特徴的。

城郭情報

城地種類 平山城
築城年代 至徳(元中)元年(1384)、文禄元年(1592)、寛永16年(1639)
築城者 葦名直盛、蒲生氏郷、加藤明成
主要城主 葦名氏、蒲生氏、加藤氏、松平(保科)氏
文化財史跡区分 国指定史跡
近年の主な復元・整備 平成13年に干飯櫓・南走長屋を復元、平成23年に赤瓦に葺き替え
天守の現況・形態 層塔型 五重五階 鉄筋コンクリート造(再建)
主な関連施設 茶室麟閣、若松城天守閣郷土博物館
主な遺構 本丸、二の丸、三の丸の一部、北出丸、西出丸、石垣、堀
住所 福島県会津若松市追手町
問い合わせ先 会津若松観光公社
問い合わせ先電話番号 0242-27-4005