日本100名城

みとじょう

水戸城

茨城県水戸市

別名 : 馬場城、水府城
旧国名 : 常陸

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水戸城
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あき

御三家のお城 (2025/03/25 訪問)

お休みを取っていたけど用事が無くなったので日帰りで行ける水戸へ行ってきました まずはバスに乗り徳川斉昭公が造った兼六園へ 梅はほとんど散ってましたが美しい庭園でした(でもやっぱり咲いている時期に行きたい) 水戸駅へ戻り昼食を取りいざ水戸城の散策へ 駅を出て左側に行きまずは水戸警察署を目指します 途中の小学校も門が冠木門だったり白壁だったりと雰囲気が良いです そして三の丸の空堀と土塁へ とても良く残っていて見ていて楽しいです 先に進み東武館の前を右へ 復元された北柵御門 鹿島神社にお参りしながら弘道館へ勤王精神の生まれた場所 ここから尊皇攘夷の理念が全国へ広がったのですね 光圀公がはじめた大日本史の展示など興味深く 最後の将軍慶喜もここで学んだと思うと感慨深いです 弘道館を出て大手門へ 大手橋の下は堀切を利用した道路 深いなぁ 復元された大手門も素晴らしいです そこから復元された二の丸角櫓へ 中を見学できます 格子からの景観はちょっと残念かな〜 もとの道に戻り白壁に沿って歩いて杉山門を通って薬医門へ 橋の下は堀切を利用した線路 ここも深い! 現存の薬医門は高校の敷地の中にあります 春休みなので生徒さんはあまりいませんでしたがお邪魔しないように写真撮らせて頂きました 電車の時間が迫っていたので写真撮りつつ早歩きで駅へ 駅前ロータリーからも二の丸角櫓が見えます 黄門様の像を眺めてお土産買って 電車に乗り込みました 水戸城周り巡って弘道館見学して2時間位でした

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まさお

関東100名城達成! 水戸城ドライブ (2025/02/16 訪問)

新車2回目のドライブで関越道・外環道・常磐道経由で水戸城と偕楽園に行ってきました。
弘道館・水戸黄門神社・大堀切・二中見晴し台・二の丸角櫓・大手門と回りました。
偕楽園は時期が早すぎたせいか、まだ梅はほとんど開花していませんでした。

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天守無しがアツい

大日本史の功罪 (2024/05/11 訪問)

1枚目右が水戸城の御城印…3種類販売されてましたが、「スタンダードタイプだけ買えばいいかな」と思ったのでそれにしました。北澤売店という土産店で…それ以外に城カードと徳川光圀のマンガも買いました

(Wikipedia)https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%BD%B0%E8%80%83%E9%A4%A8

徳川光圀が「大日本史」の編纂を始めたのは30歳(数え歳)の時…兄と弟がお互いに家督を譲り合って…しまいには2人とも国を出るという兄弟愛の物語などが描かれた史記(司馬遷が書いた中国の歴史書)に感銘を受けて「もっと書に触れて人としての道を極めよう」「史記のような国の歴史を1つにまとめた壮大な歴史書を私も作りたい」と考えたのがきっかけだそう

その編纂施設は彰考館と名づけられ、館員の佐々十竹(助さんのモデル)に史料収集のため諸国を調査させ、貴重な古記録や文書を写して江戸へ持ち帰らせた…一方で安積澹泊(格さんのモデル)には佐々および他の館員が全国から持ち帰った多くの収集史料をさばいてもらい、編纂に貢献してもらったわけです

大日本史はその膨大なる量のため、光圀の生存時までに完成することはなく、過程の途中にて彼は病没👼 そもそも「大日本史」というタイトル名が決まったのも彼の死後(1715年)

彰考館(2枚目、なお正確に言うなら跡地。現在ここは市立第二中学校の敷地となってる🏫)は当初…江戸の小石川にあったものを光圀の晩年に、水戸城内に移転。大日本史は本紀と列伝の主に二つから構成されており、光圀の存命中に本紀は「百王本紀」として完成📖…彼の死後…50年もの中断期間も経て事業は継続され、1906年に本紀73巻…列伝(后、皇子、皇女、群臣などについて記録したもの)170巻…その他154巻…全397巻226冊が完成

明暦の大火をきっかけに編纂施設を設けて事業を開始したのが1657年…完成が1906年…巻数は397巻…連載年数および巻数を意識するとワンピースやこち亀を軽く超えるハードボリュームと言えましょう😂

3枚目は弘道館にて撮影した大日本史の原本。これがこの藩校にてテキストとして使用され、藩士がこれで学んでいった

ざっと見ると…大日本史二の表紙に「仁徳天皇…雄略天皇…」と記載があります。仁徳天皇とは(仁徳天皇陵との説で有名な)大仙古墳に関係すると思われる歴史上の人物…古墳時代…ということは二巻では古墳時代の日本史について記述がなされている?と推測できます

4枚目は3枚目の反対側から撮影したもの。八十一にて「比企能員…北条義時 三浦義村」の記載が表紙にあり、つまりこの巻では鎌倉時代前期についての記載がなされてる🥴

ちなみにこの大日本史…(私自身はそれを1冊も読んだ事ありませんが、聞いた話によると)南北朝の騒乱においては南朝(つまり後醍醐天皇側)を正統と見做し、その中でも天皇に最期まで尽くし殉じていった楠木正成をベタ褒め…尊皇の鏡として扱っているそうです

そう表現された作品を江戸時代に、多くの人間が読み…強く影響された人間が尊王攘夷志士となり…彼らからリスペクトされ理想とされていた存在が正成…そして明治維新からしばらくして、明治政府の役人(その多くが元尊王攘夷志士)によって皇居の側に正成像が造られたと…(過去記事URL)http://tsukimushi.blog.jp/archives/24056840.html

余談として大日本史に対する個人的見解を盛り込ませていただくと…

良く捉えれば尊王攘夷思想を作り上げて維新志士に大きな影響を与えて明治維新の礎となった日本が世界に誇る歴史長編物語📖

悪く捉えれば多くの若者を尊王攘夷思想に染め上げて幕末の日本をカオスに陥れた悪魔の本👿…その一例が天狗党👺

と言った具合かな?😅

(館内で放映されているアニメ)
https://youtu.be/LvtlE7Pu1NA?si=Xss3s2ygCaKGXb8i

彰考館の隣に「二の丸展示館」という無料で入れる施設があり、入ってみるとテレビが置かれており、アニメが繰り返し放映されてました。それが↑URLの動画

小学5年の男子(水戸光)と女子(千波葵)が剣道の試合中ぶつかった際にタイムスリップ…七郎麿(後の徳川慶喜)と徳川斉昭(葵からは烈公様と呼ばれてる)と出会い、出来たばかりの藩校…弘道館で「弘道館の名の由来」を斉昭が問い、七郎麿が「人よく道を広む、道人を広めるにあらず(人が道を広めるのであって道が人を広めるのでは無い…事を行うのは人、弘道館は道を広める人を育てる)孔子の論語の言葉です😏」と模範解答…

葵のスマホ見て「印籠か?」と不思議がる斉昭と七郎麿…「気を張るのが弘道館なら気を休めるのが偕楽園」と一張一弛を語る斉昭。スマホで記念撮影(撮影した時に葵の腕先が太くなってる…ちょっと作画崩壊?😅)…それから現代に戻るも、撮影画像にはきちんと4人の姿が写っており「夢じゃないみたい…😆」と不思議な体験をする…内容

館内には展示スペースもあり、(弘道館と同じく)大日本史の展示がここにもありました。あと水戸城のジオラマ(5枚目)も🏯…それを見るとこの城には弘道館だけでなく、他にも二の丸に大きな屋敷(屋形)があったりと、城としての政治的機能が備わっていたようですが、今は別の建物…二の丸には水戸第三高等学校…本丸には水戸第一高等学校🏫…が存在

年表(6枚目)…水戸城に関連する出来事がここに紹介されており、この右下に数行だけ…天狗党および諸生党の騒乱が記載されてます。けれどあくまでそれだけ…

実は天狗党、浪人や農民を中心として集めた貧民集団…尊攘のヤル気だけあれど金が無いために近隣の住民から略奪や放火などをおこなった犯罪的集団でもあり、それが民衆から嫌われて当事者は皆世を去ってしまった今もなお、その悪評が受け継がれてタブー扱い…「天狗党特集なんてとんでもない」なのかもしれませんね👺

展示館とは直接の関係はありませんが、水戸城からの帰り際に水戸駅前の水戸黄門像(7枚目)を目にしました。黄門様…助さん角さん…全国を旅して、悪党を目にすると「この印籠が目に入らぬか!」というのはかなり有名なセリフですが…所詮それはドラマのフィクション

黄門のモデル(徳川光圀)は全国旅なんかしてないし、助さんのモデルだけが大日本史編纂のための史料集めに全国を巡った…だからこの像もウソと言えばそれまでなのですが、せっかく来たから…ということで解説文を読み撮影したわけです

今回の水戸城訪問…「朝から夕方近くまで時間あるから、城全部巡れるだろう😚」と最初は考えてました。けれど思ったより展示品見物およびスマホ雑務に時間をかけてしまい、二の丸展示館までで終わりました

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天守無しがアツい

天狗党 知られざる幕末 (2024/05/11 訪問)

(水戸の弘道館HP)https://kodokan-ibaraki.jp/

JR水戸駅から歩いて10分ほどの場所に位置する水戸城…三の丸に位置する区域の中に弘道館という幕末に水戸藩校として開設された施設があります🏫 今回はそこを見学

実はこの弘道館…幕末…というか明治元年に壮絶な出来事がおこなわれた場所でもあり、(1枚目の)校門の右柱には何と弾痕が残ってます😅

この校門は現在は閉鎖されており利用禁止…右脇の料金所でチケットを購入→勝手口のような所から正庁に入る流れ🚶‍♂️

その正庁も玄関は閉鎖されており、そことは別に観覧者出入口があり、そこから入館します。(2枚目の)諸役会所の奥に「尊攘」と二文字で書かれた掛軸があり、それだけでこの藩校の過激さが伝わってくる気がしました🖌️

ちなみにこの弘道館…江戸城無血開城の際に最後の将軍、徳川慶喜が恭順謹慎していた場所でもあり、その部屋(至善堂 御座の間)も一般公開されてはいました…ただ…何とその部屋で「論語」の朗読会がおこなわれていたのです

中年の女性講師が「子曰く学びて時にこれを習う…」と一文読み上げ、続けて参加者が皆で同じ文を読む…流れ。場の空気的に部屋の撮影がしづらかったので、ここはただ展示文を読んで通り過ぎるだけにさせてもらいました

ちなみに慶喜の幼名は七郎麻呂と言い、御座の間の隣…二の間、三の間で勉学に励んでいたそうです。水戸藩は徳川御三家(他に尾張藩と紀伊藩)の中で最も将軍後継から縁の遠かった存在…14代将軍の座を慶福(よしとみ)と争った時も、紀伊藩の方が格上という事で血統が重視され(大老井伊直弼の独断もある)慶喜はなれませんでした…

けれど幼い時から勉学に励んで培った教養…そして腐らずに自分の役割をこなし続けた姿勢が、その後の将軍後継職→家茂(慶福)の死後に晴れて将軍就任…という流れを呼び込んだということでいいのかな?

この弘道館…日本遺産に認定されているそうで、他に…足利学校(栃木県)…閑谷学校(岡山県)… 咸宜園跡(大分県)…の4校を1組にして世界遺産登録を目指す動きも紹介されていました(http://www.kyouikuisan.jp/)

正庁内を一周した後、「二の間に弘道館の全体を描いた資料が展示されており、さっきは見学しただけだったが、やっぱりあれも撮影したい」「ついでに館内をもう一周しよう🚶‍♂️」と考えて再び二の間へ

その資料の名は弘道館鳥瞰図(こうどうかんちょうかんず)…この展示品は昭和40年に模写したものと説明文にあり、原本の存在は確認できてない…つまり現在は失われている…(でも原本が無いと模写はできないはず。なので昭和40年から現在までの間に失くなってしまったと思われる😅…何故?)

その絵を見る限り…当時の弘道館は文館、武館、医学館…などの施設を含んだ、現在よりも建物の数が多くて敷地面積も広い施設…総合大学のような存在だったと思われます。けれど…全ての厄災は弘道館の戦い…建物の殆どは焼失→学制(明治5年)発布による閉校…県庁舎に図書館に小学校が(かつて弘道館の敷地内だった場所に)設立…それに伴う規模縮小という歴史的流れを経て現在に至ると

(水戸藩および天狗党を分かりやすく紹介した2本立ての動画)
https://youtu.be/98_NgKHqbAo?si=yZHoA1bmdTY1As17
https://youtu.be/blwmkQxAUV4?si=hx6P-Yb8A1QEulwz

幕末を扱ったドラマ…漫画…書物はたくさんあり、学校の歴史の授業でも「薩英戦争」「禁門の変」「薩長同盟」「大政奉還」「戊辰戦争」という具合に習うと思います

では…その中で水戸藩および天狗党…そして弘道館の戦い…について扱った作品がどのくらいあるか?歴史の授業で習うか?教科書および資料集に掲載されているか?

隅から隅まで調べたわけではありませんが、その答えは「とても少ない」ようです。水戸藩に関しては徳川斉昭が安政の大獄に連なる形で謹慎させられた…桜田門外の変で井伊直弼を暗殺した主要メンバーが水戸藩士だった…程度(しかも何故主要メンバーが水戸藩士なのかについての説明は無し)

高校日本史の資料集を確認してみたら、「幕末における日本各地の内乱」という図に天狗党の乱が一応あり、「筑波山で挙兵し京都へ向かうも敦賀で捕らえられ352名が処刑された」という内容の記載だけはありました(でも授業で習った覚えは全くありません👺)

弘道館の戦いについては全く無い…(と思います)。弘道館そのものについては「幕末における日本各地の藩校」という図で資料集に乗ってこそいましたが、明治元年に発生した天狗党の残党と諸生党の戦乱についての記載は無かったし、「マンガ日本の歴史」では薩摩長州幕府の人物は出てきても水戸藩は…全然😅

大河ドラマでは…(調べる前は「きっと無いであろう」と先入観を抱いていたのですが、「徳川慶喜」に登場シーンがありました(慶喜が水戸藩出身という接点からの登場と思われる)。リーダー武田耕雲斎とサブリーダー(?)藤田小四郎率いる天狗党が水戸城に銃撃して攻め込もうとし、それに応戦する諸生党(https://youtu.be/1hYCO21nXuc?si=mB3sEytJq24fnDdn)

私も天狗党およびその泥沼の争い…を知ったのは本当につい最近。それ以前は「天狗党?何ソレ?😅」でした…そんな私に水戸藩および天狗党の壮絶な過去を教えてくれたのが、上記URLの2本立て動画…

それを見てから私は水戸藩にダークホースなる存在感を感じて「現地へ赴いてより知りたい、肌で味わいたい👺」という気分になった。あの動画が私の肩を押してくれた…と思います

正庁の展示を二周してから…出口付近に置いてある感想ノートにコメントを残しました✏️ いずれ水戸城を訪れることになっていたとしても…あの動画を見たor見てない…とでは見学し終えての感想がまるで異なるものになっていたと思うから

かつて水戸藩は天狗党(尊王攘夷派)と諸生党(佐幕派)で壮絶な争いをし、天狗党は筑波山で挙兵後に二手に分かれ、一方は京都にて将軍後継職に就いてる慶喜を擁立すべく向かうも、逆に討伐の兵を送られて(尊王攘夷に味方すると幕府に知れて自分の立場が危うくなるのを恐れた)京都手前の敦賀にて(幕府側の)加賀藩に投降…そのうち352名が斬首…藤田小四郎も首を刎ねられ、武田耕雲斎は切腹

もう一方も那珂湊の戦いで諸生党および幕府からの援軍に敗れて壊滅…諸生党は天狗党の家族まで殺し、武田耕雲斎の一族は悉く処刑。それから数年後…戊辰戦争で倒幕軍が有利になると(土佐藩邸に匿われていた)天狗党の残党が立ち上がり諸生党に襲いかかります…

諸生党は会津藩に味方になるよう頼もうとするも会津戦争で会津藩が倒幕軍の前に降伏。弘道館に立て篭もり天狗党との一戦…激しい銃撃戦となり、校門の柱に弾痕が残った🔫 館内はほぼ全焼…諸生党は弘道館を脱出して逃走するも追撃してきた天狗党により全滅…血で血を洗う殲滅戦が明治元年10月におこなわれた🔥

今は校門の弾痕以外その地獄絵図の面影は見られない、ここ弘道館…4枚目は対試場および違う角度から見た正庁。こうして見ると「今は」のどかですね😅

斉昭が弘道館の創立者でありますが、弘道館碑なるものを敷地内に設けており、それを雨風による侵食から防ぐために建設されたのが(5枚目の)八卦堂🏠 戦時中に水戸空襲で焼失…それからしばらく碑は野晒しになってしまうも、八卦堂は再建され、近年になり碑が補修工事されて現在に至る…この日は一般公開されてました

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概要

鎌倉時代に馬場氏が築いた館を、佐竹義宣や徳川頼房が改修し、徳川御三家の居城にふさわしい連郭式の城が築かれた。台地上の本丸に二の丸と三の丸を連ねて配し、石垣を用いず土塁と堀で守りを固めていた。三の丸跡の空堀の深さなどが、その防御力の高さを物語る。御三家でありながら三重五階の御三階櫓を天守代用としていた。

城郭情報

城地種類 連郭式平山城
築城年代 建久年間(1190〜1199)
築城者 馬場資幹
主要城主 大掾氏(馬場氏)、江戸氏、佐竹氏、徳川氏
文化財史跡区分 国特別史跡(藩校)、県史跡(水戸城跡(塁及び濠))、県指定文化財(旧水戸城薬医門)
近年の主な復元・整備 佐竹義宣、徳川頼房
天守の現況・形態 三階物見[3重/1609年築/焼失]、独立式層塔型御三階櫓[3重5階/1766年再/焼失(空襲)]
主な関連施設 石碑、説明板
主な遺構 曲輪、門、藩校、土塁、横堀(空堀)
住所 茨城県水戸市三の丸1他
問い合わせ先 水戸市役所
問い合わせ先電話番号 029-224-1111