宮本武蔵の続き(17)です。
譜代大名である小笠原忠真は1632年、徳川家光から九州各地にて不穏な動きがあるため監視せよと、九州目付(九州の外様大名の監視役)を命じられ、播磨明石から豊前小倉に入ります。ここで宮本伊織は、わずか20才で小笠原家家老に抜擢されていました。伊織とともに小倉に入った武蔵は、家老に出世した伊織を頼もしく思ったのでしょう。伊織の屋敷でのんびりと書画などを楽しみながら、この小倉で8年間暮らします。武蔵にとってこの時の小倉での生活が、人生で最も楽しくのんびりと過ごせた時間だったのではないでしょうか?
しかし1637年、島原の乱が勃発します。小笠原藩にも出陣命令が下りました。しかしここで困った事が・・・。戦の経験がある者が家中にほとんどいないのです(つまり戦のやり方を知らない)。家老たちは伊織の父である武蔵に白羽の矢を立て、出陣を要請しました。小倉城の中では、その時の様子が実物大の人形で再現されていました。人形とは思えない、父の出陣を要請され、困惑している伊織の顔がとてもリアルでした(写真②③)。
武蔵この時55才、頼られた武蔵は人生最後の戦と喜んで出陣した事でしょう。しかし結果は悲惨なものでした。先頭に立って石垣を登りますが、敵の投げた石が何とすねに当たってしまい、転げ落ちて負傷してしまったのです(写真⑤)。立てなくなった武蔵は剣を抜く事なく惨めな形で帰国します。武蔵は「自分も年老いたものだ」と語ったそうで、この時の落ち込んだ心境が、共に戦った有馬直純(延岡藩主で元島原藩主だった有馬晴信の子)に宛てた手紙に記されていました。
そして武蔵は恥ずかしくなり、居づらくなったのではないでしょうか? 傷が治ると伊織の反対を押し切り、小倉を出て終の住処を探し始めます。この時の伊織は、逆に島原の乱での活躍が評価され、ついに小笠原藩家老の筆頭にまで出世しました。よって、このまま伊織の世話になりここに居る事は、伊織にも迷惑がかかり、また自分のプライドが許さなかったのでしょう。最初は黒田家を頼り福岡へ行きますが、2代藩主黒田忠之(長政の子で官兵衛の孫)から断られたようです。
しかしその後、細川忠利(忠興の子で島原の乱では先陣を切り活躍した熊本藩初代藩主)から声がかかり、熊本へ客分として招かれる事になりました。実は忠利に武蔵を客分として迎え入れるよう働きかけたのは、巌流島での決闘後に武蔵を鉄砲隊で護衛し杵築で匿った、あの松井興長(この時、熊本細川藩筆頭家老で八代城主)だったようです。近年その手紙が八代で発見され、その事が明らかになったそうです。
次は(最終回)武蔵最期の地、熊本に続きます。
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