続日本100名城

こくらじょう

小倉城

福岡県北九州市

別名 : 勝山城、指月城、勝野城、湧金城、鯉ノ城
旧国名 : 豊前

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小倉城
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トク

【宮本武蔵】(17)小倉城(島原の乱) (2025/09/27 訪問)

宮本武蔵の続き(17)です。

譜代大名である小笠原忠真は1632年、徳川家光から九州各地にて不穏な動きがあるため監視せよと、九州目付(九州の外様大名の監視役)を命じられ、播磨明石から豊前小倉に入ります。ここで宮本伊織は、わずか20才で小笠原家家老に抜擢されていました。伊織とともに小倉に入った武蔵は、家老に出世した伊織を頼もしく思ったのでしょう。伊織の屋敷でのんびりと書画などを楽しみながら、この小倉で8年間暮らします。武蔵にとってこの時の小倉での生活が、人生で最も楽しくのんびりと過ごせた時間だったのではないでしょうか?

しかし1637年、島原の乱が勃発します。小笠原藩にも出陣命令が下りました。しかしここで困った事が・・・。戦の経験がある者が家中にほとんどいないのです(つまり戦のやり方を知らない)。家老たちは伊織の父である武蔵に白羽の矢を立て、出陣を要請しました。小倉城の中では、その時の様子が実物大の人形で再現されていました。人形とは思えない、父の出陣を要請され、困惑している伊織の顔がとてもリアルでした(写真②③)。

武蔵この時55才、頼られた武蔵は人生最後の戦と喜んで出陣した事でしょう。しかし結果は悲惨なものでした。先頭に立って石垣を登りますが、敵の投げた石が何とすねに当たってしまい、転げ落ちて負傷してしまったのです(写真⑤)。立てなくなった武蔵は剣を抜く事なく惨めな形で帰国します。武蔵は「自分も年老いたものだ」と語ったそうで、この時の落ち込んだ心境が、共に戦った有馬直純(延岡藩主で元島原藩主だった有馬晴信の子)に宛てた手紙に記されていました。

そして武蔵は恥ずかしくなり、居づらくなったのではないでしょうか? 傷が治ると伊織の反対を押し切り、小倉を出て終の住処を探し始めます。この時の伊織は、逆に島原の乱での活躍が評価され、ついに小笠原藩家老の筆頭にまで出世しました。よって、このまま伊織の世話になりここに居る事は、伊織にも迷惑がかかり、また自分のプライドが許さなかったのでしょう。最初は黒田家を頼り福岡へ行きますが、2代藩主黒田忠之(長政の子で官兵衛の孫)から断られたようです。

しかしその後、細川忠利(忠興の子で島原の乱では先陣を切り活躍した熊本藩初代藩主)から声がかかり、熊本へ客分として招かれる事になりました。実は忠利に武蔵を客分として迎え入れるよう働きかけたのは、巌流島での決闘後に武蔵を鉄砲隊で護衛し杵築で匿った、あの松井興長(この時、熊本細川藩筆頭家老で八代城主)だったようです。近年その手紙が八代で発見され、その事が明らかになったそうです。

次は(最終回)武蔵最期の地、熊本に続きます。
 

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トク

【宮本武蔵】(13)小倉城(巌流島の決闘(後編)) (2025/06/18 訪問)

宮本武蔵の続き(13)です。

決闘は関門海峡に浮かぶ「船島」で行われました。門司城代の沼田延元が見聞役を務めます。そして両者に助太刀話は無用、1対1の決闘で行うべし、とされたようです。そこで皆さんが知っている巌流島の決闘は、こんなイメージではないでしょうか?

----(今までの通説)----
小倉藩の剣術指南役である小次郎に、武蔵はどちらが強いのか決闘を申しみ、関門海峡に浮かぶ巌流島で決闘をした。小次郎は長い90cmの刀の使い手、故に武蔵は当日、船の上で櫂を削ってそれより長い115cm木刀を作り、そのせいで2時間も遅刻する。いらだった小次郎は「遅いぞ武蔵、臆したか!」と叫び鞘を投げる。それを見た武蔵は「小次郎、負れたり!」と叫び、燕返しをかわし、一刀両断の元に小次郎の額に一撃を加え、これで小次郎は死して決着がついた!
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しかしこれは吉川英二さんの小説(創作)によるもので、それをまたドラマでおもしろく脚色された内容なので、事実とは全く異なるようです。

この時見聞をしていた沼田延元の家臣の記録(沼田家記)によると、両者はちゃんと遅れず定刻(同時)に着いたそうです。そして武蔵は、最初から持ってきた木刀で一刀両断のもとに勝ち、すぐその場を立ち去ったのは間違えないようです。しかし武蔵はこの時、小次郎にはまだ息があったと事を確かめ、延元に手当てを依頼して去って行きました。木刀なので武蔵は最初から小次郎を殺す気など全く無かったと思われます。ところがその後、隠れていた新免氏の弟子たちが出てきて、何とボコボコに殴って殺してしまったというのです。

どうやら弟子たちは無二斎から「絶対に小次郎を殺せ」と命じられていたのではないでしょうか? 延元も興長の密命を受けていたのか、手当てをするどころかこの弟子たちの行為を黙認したと思われます。

さらにそれだけではありません。後でそれを聞いた小次郎(岩流)の弟子たちが今度は黙っているわけがありません。1対1と決まっていたにもかかわらず、弟子に助太刀をさせた卑怯な武蔵を襲って仇を討とうとします。危険を察した武蔵は沼田延元の屋敷に隠れます。そして細川家家老の松井興長が、自らの鉄砲隊を護衛に付け、武蔵を無二斎のいる中津まで送り届けたそうです。さすがの岩流一族でも、細川軍の鉄砲隊が相手では手が出せなかったというわけですね。

しかしこの結末に地元の人たちの反応は意外でした。武蔵を卑怯者と呼び、正々堂々と決闘をした小次郎の方を称賛し偲んだそうです。そして船島を小次郎の流派「岩流(巌流)」にちなみ「岩流島(巌流島)」と名付け、人々は亡き小次郎をここで供養したそうです。

小倉城では、武蔵が木刀を振り下ろす様子が人形で再現されています。さああなたも小倉城を訪れ、武蔵と勝負してみてはいかがでしょうか!

「城びと、負れたり~!」😱~(写真⑤⑥)。

次は、武蔵が出陣した大坂の陣で関わった水野家の(福山城)を訪れます。
 

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トク

【宮本武蔵】(12)小倉城(巌流島の決闘(前編)) (2025/06/18 訪問)

宮本武蔵の続き(12)です。

この頃、細川忠興はある悩みを持っていました。剣術師南役として客分に迎えた小次郎ですが、横暴な振る舞いが多く藩の秩序を乱していたのです。しかし藩内には誰も勝てる相手がいないのでどうしようもありません。小次郎より強い者が現れれば何とかなるのではと忠興は密かに考えます。

ちょうどその頃、新免流の弟子たち(中津)と岩流の弟子たち(小倉)で、どちらが強いのかというけんかが始まります。ならば小次郎と無二斎の師範どうしで勝負し決着をつけようではないかという話になりますが、年老いた無二斎がこれを拒否したそうです。

この時、新免氏を預かる家老の松井興長が、新免流を継ぐ者で、京都であの有名な吉岡一門を破った宮本武蔵という男がいるという噂を聞き、興長は無二斎を通じて武蔵を小倉に呼び寄せます。武蔵は無二斎から困っているという知らせを受け、小倉に向かいました。忠興と興長は、この武蔵があわよくば小次郎を倒してくれれば・・・、いやいっそ亡き者にしてくれれば・・・、と頭をよぎったのかもしれません。

武蔵が小倉に着いた頃には弟子たちの争いはエスカレートしていました。そしてついに武蔵が無二斎の代わりに決闘することになりました。しかし当時決闘は幕府の御法度、表立ってする事はできません。ましてや細川家が公認した事が幕府にばれると、大問題になってしまいます。よってその決闘は非公認の私的なものとされ、細川領外の関門海峡に浮かぶ「船島」(当時は長州藩領)で行われる事になりました。しかし密かに忠興は、門司城代の沼田延元に見聞させていたようです。

巌流島の正式名称は、今も昔も「船島」です。下関側からは唐戸から毎日、門司側からは門司港駅前から土日祝のみ船が出ています。どちらも所要10分程(約1時間毎)です。私は門司側から上陸しました。坂本龍馬もお龍(おりょう)を連れて訪れた事があるようですね。これは私も初めて知りました。

次は、巌流島の決闘(後編)、今まであまり知られていない「決闘の真実」に迫りたいと思います。
 

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トク

小倉城を読み解く(小倉城サイコー)セミナー (2025/09/27 訪問)

北九州国際会議場で行われた、千田嘉博先生の「小倉城を読み解く」(小倉城サイコー)セミナーに参加させて頂きました(写真①②)。2時間とてもおもしろおかしく講演していただき、楽しい時間を過ごせました。ありがとうございます。(勝龍寺城→田辺城→小倉城)という細川の城には、天守の位置に特徴があったのですね。それに織田→豊臣→徳川と時代の変化に合わせ、本丸や馬出しの位置や形も変化させ、小倉城はその完成形になったそうです。大変参考になりました。

小倉城では、他にも10月にはいろいろなイベントが行われるようです。チラシをもらったので、近々行かれる予定の方、10月どこに行こうか迷っているの方の、御参考にしていただければと思います(写真③④⑤)。


余談【丸天うどん】
帰りに小倉駅のホームで、北九州名物のかしわとごぼう天をドッピングした「丸天うどん」を食べました(写真⑥)。いやこれぞ九州の味! 私は未だに東日本の醬油味うどんはちょっとだめです(すいません)。ところで某テレビ局が行った調査では、九州人はあたりまえのように食べるこの丸天うどんですが、これは九州・山口県にしかないと聞きました。山陽本線のホームの立ち食いうどんを調査したところ、山口県から広島県に入ったとたんにメニューから消えるそうです。広島県の人にインタビューしても「丸天? 何それ?」としか返ってこなかったとか。つまり日本の広島から東には無いという事ですが、皆さんの地域には、丸天うどんというメニューは、本当に無いのでしょうか😲?
 

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城郭情報

城地種類 輪郭式平城
築城年代 慶長7年(1602)
築城者 細川忠興
主要城主 細川氏、小笠原氏
近年の主な復元・整備 小笠原氏
天守の現況・形態 連結式層塔型[4重5階/1609年築/焼失(火災)]、連結式望楼型[4重5階/1959年再/RC造外観復元]
主な関連施設 復興天守、模擬櫓、庭園、石碑、説明板
主な遺構 曲輪、石垣、横堀(水堀)
住所 福岡県北九州市小倉北区城内2-1
問い合わせ先 北九州市小倉北区役所総務企画課広報広聴係
問い合わせ先電話番号 093-582-3339