関ヶ原合戦場の陣跡ってみんな怪しい・・なんてこと言ってると周る所が無くなっちゃう。自由に周りましょう・・
長宗我部盛親陣と長束正家陣も微妙な立ち位置にあります。長宗我部は陣跡の比定地が二つあるんですね。
以前、栗原山付近の中腹にある長宗我部盛親陣の投稿をしましたが、栗原山の麓にも陣跡の比定地があります。まあ、途中から山腹に移動したと考えることも出来るけど、ここから戦場までは結構ありますね。
明治期に入っての関ヶ原古戦場の配置図は二つあって、一つは岐阜県の依頼で郷土史家の神谷道一氏が作成した「関ヶ原合戦図志」
これは江戸時代の儒学者・軍学者「山鹿素行」の「武家事記」の影響を受けていると思います。
もう一つが陸軍参謀本部が翌年に発表した「日本戦史関原役」の附図・第五号です。残念ながら私の購入した古い書籍には附図が載っていませんでしたが「地方紙研究」411 に小池絵千花さんが図を載せてくれているので、そちらを参考にさせていただきました。
記憶で書いていますが、「日本戦史関原役」発表の翌年に日清戦争が始まっているので両図の陣跡の差異は意図的なものだと思います。
これはいくらなんでも神谷氏が気の毒ですね。岐阜県側からどのような釈明が有ったかは知りませんが、現在における名誉の回復も不十分だと思います。
両図を確認すると長束の陣も長宗我部の陣も麓に書かれていますね。
毛利秀元が南宮山に登っていれば当然、吉川も南宮山に登ると思います。
神谷氏の「関ヶ原合戦図志」では毛利本隊を押えるように吉川の陣が南宮山の北側に陣取っています。関ヶ原は豊臣恩顧の武将同志が戦うという特殊な状況なので、いつ何が起きてもおかしくはありません。吉川も合戦の様子を逐次確認する必要が有ったと思います。
小早川や東軍先手が離反すれば戦況は一変するので吉川・毛利は自ら家康を討たなくては自分の身が危なくなります。万一のことを考えるとをやはり関ヶ原が見える場所に陣を敷く必要が有ったと思います。
その点においては神谷氏の図の方が信憑性が高いと思いますが、正直な所「関ヶ原合戦図志」の南宮山の形状はかなり怪しい。神谷氏は本当に南宮山一帯を歩いているのだろうか? 個人的には南宮山山頂よりもっと北側の方が秀元陣に相応しいと思います。
長くなりましたが、長宗我部が栗原山や南宮山に軍を進めていたら、長束も山中(さんちゅう)に移動したんじゃないでしょうか?
そういえば安国寺恵瓊はどこにいたんだろう。
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