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カズサン

【肥後 陣ノ内城】熊本県上益城郡 小西氏時代の巨大な壕と土塁 (2025/10/28 訪問)

 陣ノ内城は陣内館(城郭放浪記さんの呼称)、陣ノ内館とも呼ばれて居り令和2年に陣ノ内館から陣ノ内城に改めています。令和3年10月に国指定史跡に制定されました。
 住所:熊本県上益城郡甲佐町大字豊内字陣ノ内、甲佐町役場東側の標高100mで約500m程先の丘陵上に在ります。
 参考資料:城郭放浪記さん陣ノ内城リフレット、グーグルマップに依る。陣ノ内城のリフレットは甲佐町役場のHPにて出力可能です。
 駐車場:南虎口の一つ折れた下道アスファルト舗装道に幅広部分が有り路駐、駐車可能。

 規模は:東西210m以上、南北190m以上の北西と南東に虎口を持つ方形の城跡です。壕は箱堀で幅20m程、深さ5m程。内郭の東面から北面に幅広の土塁だ伸びて居ます。現在内部は耕作地に成っております。
 
 歴史は:阿蘇氏の遺構が有り、織豊期小西氏が肥後南半分を領有した期間に改修構築された模様、甲佐町のリフレットでは小西行長の城郭を現在まで良好に残し貴重な城郭と言えますと記載あり。

 今回の探訪は、鳥取城からスタートした九州一周10日間の城探訪5回目で、城郭放浪記さんの昨日のトップ10を日々閲覧してる中でこれは凄い是非見たいの願望を4、5年振りに叶えたものです。2020年11月に近くの堅志田城を探訪して折り、3km程と近くでしたのでその時寄って居ればと悔やんだものです。
 
 登城ルートは城郭放浪記さんのルートをなでて北側の湯田集落側からの道を車で登りました細くて狭い道でひやひやでした、駐車場が有るとの情報でそのまま道なりに進み、陣ノ内城跡北東角に到着、駐車場をスルーしたみたいで、その角に路駐し、北側の堀北の道を東西行き来し速足、指示に従い南の土と石ころの道を北から南へ虎口方向へ、道は狭く先の登城道より狭し冷や冷やです、南虎口付近はアスファルト舗装道で一安心、虎口付近に路駐して、本郭へ進入、内部は畑、果樹園に成っており広い曲輪です、中央に資料箱が有り陣ノ内城のリフレットが有りゲット、幅広の土塁が東から北側、西へ伸びて居る。
 壕と土塁は大変な土木作業、確かに織豊系を彷彿させます。下城ルートは南側のアスファルト舗装道を三つ曲がりして東へ、県道220号に出て、西200m程で国道443号線、北に500m程で甲佐町の役場です。
 登城ルートは南からのアスファルト舗装道がお勧めです、一曲がり下に路駐、駐車エリアが有り大変登城が便利です、令和3年10月に国史と成り整備したのでしょう、城内には幟旗が4年経っていますが多くたなびいていました。
 大変満足し願いが叶った初登城でした、城びとに登録されていないのが残念です。
 

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つば九郎

神奈川県の城巡り 神奈川台場 (2025/02/18 訪問)

神奈川駅から徒歩20分でした。権現山城、青木城攻城後に徒歩で向かいました。神奈川台場公園に復元された石積みと説明版、民家の奥に遺構の石積みを見ることができます。攻城時間は20分でした。

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つば九郎

神奈川県の城巡り 青木城 (2025/02/18 訪問)

神奈川駅から徒歩10分でした。駅を挟んだ反対側に権現山城があります。城址は現在は、本覚寺の境内となっております。なにより、幕末に本覚寺はアメリカ総領事館が置かれていたことでも知られております。横浜から1駅ですしね。攻城時間は15分でした。

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つば九郎

神奈川県の城巡り 権現山城 (2025/02/18 訪問)

神奈川駅から徒歩10分でした。神奈川駅のホームから見上げて見えるところにあります。現在は幸ヶ谷公園となっております。公園全体が高台で丘になっており、城らしさは感じられます。線路を挟んだところに青木城があるので、攻城の際は、いっしょにどうぞ。攻城時間は20分でした。

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todo94

滋賀ドライブでの攻城⑨ (2025/11/09 訪問)

前日は好天に恵まれましたが、この日は朝から雨の一日。予定していた甲賀市の城めぐりはすべて取りやめました。折角、水口に泊をとったので、水口城には脚を伸ばします。幸い、雨は傘が必要ない程度の小降りでしたので、水口高校のグランドを囲む濠周りを一周してみました。初めて櫓台を目にすることができました。10時を待って水口城史料館に入館、水口歴史民俗資料館との共通券を購入しました。ここで大池寺のことをお聴きしましたので当然、赴くことにします。拝観者は私一人で、小堀遠州作庭の蓬莱庭園を堪能させていただきました。献血の予約は午後3:45でしたが、時間が有り余っていたので、2時間近く早く血液センターに赴いてしまいました。予約のキャンセルが出て予定より早く、献血をすることができてラッキーでした。

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赤い城

やっぱり危険 (2025/11/02 訪問)

3連休なのに東京出張、宿は武蔵境でした。
翌日どこへ行こうかなと。
にのまるさんにお声掛けして八王子城かな、とも思いましたがご迷惑であってもよろしく無いですし久々に戸吹城へ向かいました。

秋川駅から徒歩40分くらい、根小屋城とも呼ばれ、滝山三城の一つです。
細い尾根は崩れやすく危険、南曲輪のみ見学可能です。
それでも横堀や枡形、東側には堀切から落ちる竪堀もあり見応えはあります。
ただ、手前の竹林は立入禁止なので竪堀に降りることは自重しました。
とりあえず危険な城であることを再確認した登城でした。

後日城びとのレポート見ると同日朝田さんが八王子城に行かれてました。
またもニアミスでした😌
最後の写真は東小金井駅前で食べた油そばです。
美味しくいただきました。

【見どころ】
 ・祠周辺の枡形
 ・東側の堀切と竪堀
 ・南曲輪北西部の横堀

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しんちゃん

明智光秀像 (2025/11/15 訪問)

明智長山城は明智城とも呼ばれています。康永元年(1342)土岐頼貞の十男・土岐頼兼によって築かれたとされ、以降明智氏の居城となりました。明智光秀とのゆかりも深く、令和2年に大河ドラマ「麒麟がくる」が放送されたことを記念して本丸に光秀の銅像が建てられました。この日はすこぶる良い天気で、本丸の光秀氏が妙にカッコ良く見えたので角度を変えて撮りました。

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カズサン

令和7年錦秋の鳥羽山城 (2025/11/26 訪問)

 二俣城の次に徒歩では西の丸、天竜川沿い堤防道で1.2km程の鳥羽山城へ、私は車で急坂を登り駐車場へ、3台程駐って居り数人の方が夫々紅葉を楽しんでいました。
 紅葉も大手門跡辺りが輝いており見所、東門は緑楓のままですが上の方は紅葉で色付き始めでしたが丁度見頃でした。大手道、本丸を観て20分程で終了、二俣城と合わせて50分程でしたが素晴らしい時間を過ごせました。
 鳥羽山城の紅葉写真を投稿しますのでご鑑賞ください。

 又二俣城と鳥羽山城合わせて植生整備事業を令和8年1月23日間で実施中です、2月に成れが両城とも樹木灌木伐採剪定されて見易く成る事でしょう。2月3月が探訪最適な時に成るでしょう。
 

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カズサン

令和7年錦秋の二俣城 (2025/11/26 訪問)

 雨上がりの昨日午前中、晴天で空も澄切って居り絶好の紅葉撮影日、遠州では遠江一宮の小國神社の紅葉がニュースになり賑わってるとの報道で7ヶ月振りに二俣城の紅葉は如何かと登城しました。
 しっかりと紅葉して目の保養、しっかりと脳裏に焼き付けてきました。人は少なく静かに楽しめます。
 何時ものポイントを廻って撮影しましたので紅葉の二俣城の写真を鑑賞ください。

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しんちゃん

紅葉と堀切 (2025/11/12 訪問)

久々に鈴岡城を訪問しました。紅葉も綺麗ですが、やはり堀切に心が惹かれます。いつ見ても良い堀です。戦国時代に小笠原氏は三家に分かれ争っていましたが天文23年(1554)の武田信玄の伊那侵攻に際し鈴岡小笠原氏の小笠原信定は敗れ落城しました。
その戦いで信玄配下となった松尾小笠原氏が信濃先方衆として活躍し松尾城を奪還して、鈴岡城は松尾城の支城となりました。

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しんちゃん

土塁の一部 (2025/11/23 訪問)

案内板によると横田城は平安時代末ごろに築かれたとされ養和元年(1181)木曽義仲が越後の平氏の軍勢と戦った時に使用されたそうです。応永7年(1400)の大塔合戦の際には信濃守護小笠原長秀がこの城に籠って村上氏や大文字一揆らと戦っており、
川中島の戦いの際には甲斐方の原大隅守が籠ったとされています。土塁の一部が残っていて稲荷社が置かれています。この周辺が殿屋敷と呼ばれ本郭あたりになるようです。

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いんげん丸虫

石山城 福井県あおい町 (2025/11/22 訪問)

標高187mの山城です。登り口に
駐車スペースがあり、看板もあり
ます。細長い尾根に曲輪が並び、
派生する尾根には2重、3重の堀切
が多数あります。段曲輪も明確に
残ってます。

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小倉左近将監實澄 (2025/11/27 訪問)

 小倉氏の居城と伝わります。散策道が整備され主郭や周辺の曲輪等が概ね散策しやすくなっています。ただ場所によっては倒木や藪で歩きにくい所もありました。主郭は東西約54m、南北約45mの方形で、周囲は高さ約4mの土塁で守られています。曲輪跡、堀切、土橋、横堀、竪堀、貯水池等が残っています。土留めと考えられる石積みも一部ですがありました。

 遺構もよく残り、見学路もある程度整備もされ、標識等各所に設置されていて楽しく散策することができました。
八幡神社右手の登り口には、城跡の解説シートなどが置かれています。わかりやすい縄張り図もありました。

近江鉄道桜川駅から日野町営バスにより西佐久良バス停下車、徒歩約1分で登城口である八幡神社周辺に行くことができます。

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近江鉄道朝日大塚駅 (2025/11/27 訪問)

 六角氏の家臣であった大塚氏の居館跡と伝わっています。どこまでが城域かはわかりませんが、土塁と水堀が一部残っています。内堀跡の石柱を見つけるのに苦労しましたが、次の電車まで時間があったので、行ったり来たりして何とか見つけることができました。藪で見えにくくなっています。

 近江鉄道朝日大塚駅下車、目の前が城址です。

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つば九郎

神奈川県の城巡り 藤沢御殿 (2025/11/26 訪問)

車で攻城しました。白旗神社に駐車は、させていただきました。皆さんが書かれておられるように、御殿の遺構を感じられるようなものは、なさそうでしたので、場所のみ確認して、義経弁慶ゆかりの白旗神社や義経の首を洗ったとされる井戸を巡ってきました。攻城時間は30分でした。

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つば九郎

神奈川県の城巡り 梶原景時城 (2025/11/26 訪問)

車で攻城しました。かつて薬師堂があり、大きな説明パネルが設置してある場所に駐車しました。すぐそばにコインパーキングもあります。この近辺は、鎌倉殿ゆかりの遺構が数多く見られるところで、ここもその一つですね。攻城時間は30分でした。

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カズサン

14年振りの再登城 (2025/10/27 訪問)

 竹崎城を終えて肥前鹿島城へ、14年前に登城した折りのDVD保存写真が再生不可能(読み取りできず)となり、いつかタイミングを見て写真保存のために訪ねたいと思っておりましたが、今回の鳥取城復元中ノ御門桝形渡櫓、福岡城三の丸復元潮見櫓、軍機震電、二式大艇探訪見学の10日間の探訪企画に島原半島経由で肥前鹿島城を入れて企画しました。
 国道206号線を佐賀県鹿島市方向へ約直線で20km程、経路で25km程で目的の駐車場に到着、諫早湾干拓堤防道路でショートカット出来たお陰かまだ陽も残り写真撮影は大丈夫、急ぎ足で探訪撮影。

 駐車場:鹿島城跡本丸東下段下の城内公園駐車場を利用。
 参考資料:余湖図コレクションさん城郭放浪記さんグーグルマップに依る。

 ルートは、駐車場城内公園➡本丸東下段郭の北東虎口櫓台石垣➡東下段郭北側、内堀を北から南に眺めて➡本丸北側内濠、赤門、表裏観察➡北東の陣屋跡➡下段東下郭北東虎口に戻り➡下段下の東側高石垣を下の通りより北から南へ、南東角の石垣を観察➡武家屋敷通りを探訪して➡本丸東下段郭の南側途中階段から郭内へ➡松陰神社参拝、三の鳥居、二の鳥居、一の鳥居を通って駐車場へ、暗くなり車で➡北側の大手門を観察探訪、暗くなりフラッシュ撮影。

 取り敢えず肥前鹿島城の写真を50枚保存管理する事が出来ました。
 
 この後は明日の肥後と天草島未踏の城、再登城の為に予約した宇土のホテルへ直行。
 

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カズサン

竹崎かにで有名な竹崎城 (2025/10/27 訪問)

 肥前釜蓋城址を終えて島原半島未踏の城再登城の城廻り第8弾の竹崎城を目指す、直線では18km程ですが、諫早市を廻り込んでの道だと相当掛かるかなと思っていたのですが、ナビは諫早湾干拓堤防道路経由を指示で約36km程、初めて社会問題されて居た諫早湾、その干拓道路を初通過、結構風が強い印象でした、海沿いは景色も気分も良く、竹崎島に在る竹崎城址へ到着初登城、その後竹崎城址展望台へ車は展望台専用駐車場を利用、トイレ有、駐車場前に有名な渡りかにの一種である竹崎かにの料理店が有りましたが、時間は過ぎて営業終了。

 竹崎城址は展望台駐車場から70m程戻り、道沿いに土塁、石垣、標柱、説明板が設置されてる、入り込みませんでしたがサラッと見て終了、竹崎城址展望台へコスモスが奇麗に咲いているが午後に少し入り逆光気味の写真に成りました、展望台から有明海越しに雲仙普賢岳を眺める雄大な景色。時間がマッチしたら有名な「竹崎かに」料理でも頂けたのですが看板を見て終了。

 歴史は、戦国時代、肥前の龍造寺氏と島原の有馬氏の国境境目の城で争っていた、沖田畷の戦いの頃は龍造寺氏の城、戦が終わって島津氏によって攻め落とされる。その後も龍造寺氏鍋島氏の城として改修維持されていたが、島原の乱後に取り壊された。
 

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カズサン

城郭風の展望台が目を惹きます (2025/10/27 訪問)

 チョイ寄りの島原城景観ビューポイントを訪ねて、島原半島未踏の城再登城の城廻り第7弾釜蓋城を目指し、ナビは山越、百花台公園までは道は良いのですが峠を越える辺りから道が狭く曲がりくねった山道、直線では14~15km程、経路では約30km程でしたが対向車も無く釜蓋城跡のグランド下駐車場へ到着、トイレ有。

 参考資料:城郭放浪記さんグーグルマップに依る。

 釜蓋城は初登城、駐車場から階段を登って行くと広いグラウンドに上がります、野球用のバックフェンスも有り、野球場、多目的運動場の様です、グラウンド東側の高台に城郭風の展望台が有り目を惹きました、展望台へは南下から階段が有りよく整備されています。展望台に昇り下界を見下ろすとこれまた有明海の反対側、東シナ海が見下ろせます。
 城郭風展望台の北郭には、釜蓋城由来記板、ドン・ミゲルの立派な石碑が立っています。所謂、天正遣欧少年使節であったドン・ミゲルはこの釜蓋城主の子息だったそうです。
 城郭風展望台を鑑賞して、展望台からの眺望、東シナ海の眺望を楽しんでサラッと終えました。
 

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トク

(2/2)加藤清正が島津への備えとした城 (2025/11/15 訪問)

佐敷城の続き(2/2)、今度はお城の様子です。

豊臣の九州征伐の後の1588年、肥後の北半分(隈本)は加藤清正に、南半分(宇土)と天草は小西行長に与えられます。さらに宇土の南(芦北)は清正に飛地として与えられました。そして家臣の「加藤重次」が清正の命でここ芦北に佐敷城を築城します。清正と行長は犬猿の仲だったので、どちらかと言うとこの時は、行長を背後から牽制するための城だったのではないかと私は推測しています。

しかし清正と重次が朝鮮へ出兵(文禄の役)で留守中の1592年、島津軍の「梅北国兼」は朝鮮へ出兵する船が到着するまでの間、兵2,000をここで待たせてくれと称して油断させて滞在し、だまし討ちで佐敷城を攻めるという事件が起きてしまいます(梅北の乱)。留守居役が何とか守り切ったようですが、清正はこれでだました島津を警戒するようになります。

九州の関ケ原の後、肥後全土を与えられた加藤清正は、1607年重次に命じて佐敷城を大規模に、今度は対島津の城として総石垣の城に改修させました。現在残っている縄張りや石垣は、この時のものと思われます。確かに本丸から南の薩摩に向かって二ノ丸・三ノ丸・南出丸と段々に連郭式に構築され、いかにも南の島津を睨みつけるような縄張りになっています。四方を壁に囲まれた要塞堅固の山頂には、東側の薩摩街道から攻め登ってくる事を想定していたのでしょうか、東側に追手門・二ノ丸東門・本丸東門と三つの桝形虎口が連続して配置され、その下を東出丸と南出丸で固めるという強固な造りとなっていました。しかし結局、関ケ原後の島津は、義弘の件で謹慎中の身となってしまったので、攻めてくる事はありませんでした。追手門には「天下泰平国土安穏」と刻まれた瓦も出土されました。加藤重次は改修しながらも、実は島津との戦を望んでいなかった、関ケ原も終わり、このまま戦もなく日本と肥後と加藤家が安泰となる事を願っていたのでは、という当時の心境が推測されます。

城はわずか8年後の1615年には一国一城令で破却され、天草島原の乱の翌年1638年、後に肥後に入った細川忠利により、再度徹底的に破却されたようです。石垣は1997年に復元され、今では総石垣の1607年当時の雰囲気がよみがえっています。そして確かに石垣の上半分(隅部と天端部)は石が落とされ塀や建物が建てられないようになっているので、そこに少しだけ破却の跡を感じる事ができました。

私は山頂の本丸から、眼下の八代海や薩摩街道を眺めてみました。「加藤と島津、強者どもが夢の跡」という光景が目に浮かんでしまいました。

この先は、ではなぜその加藤家は滅びてしまったのか? 八代城からわいた疑問をもう少し追って行きたいと思います。
 

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