柏原城の北西側にある居館跡の写真も投稿させていただきます。居館と主郭との間や居館の周囲にも堀切などの遺構が良く残っています。規模は大きくは無いのですが、少数で織田の大軍相手に持ちこたえたと言われる城址としての矜持は感じます。しかし、この城1600人も籠ることが出来るんですね。ぎゅうぎゅう詰めになる気もするけど。
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2024/07/17 19:54
2024/07/17 19:54
2024/07/17 19:35
溝口城 (2024/05/25 訪問)
【溝口城】
<駐車場他>駐車場はなし。横の豊山町商工会に駐車できそう。ファミリーマート豊山町中之町店に買い物して駐車しました。
<交通手段>車
<感想>日帰り濃尾平野ちょこ城巡りの旅、第3弾3城目。溝口城の情報は少なくよく分かりません。城びとの城郭情報によると築城年1573年、築城者は溝口富之助となっています。築城年が戦国時代末で、溝口氏は稲沢市の溝口村(西溝口城)とここの豊場村を領有していたことから溝口秀勝の血縁の者の築城かもしれません。
現地は公園になっていて、城跡碑は無く、戦没者の慰霊碑や土地改良碑があるだけです。
<満足度>◆◇◇
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2024/07/17 11:27
10年以上前ぶり (2024/07/15 訪問)
もう少し紫陽花の色が濃くて梅雨の晴れ間に登城した記憶がありました。
当時は日々の忙しさで疲れていて、高櫓の二階で涼風に当たりながら休憩したなぁと思い出しながら。
前回の登城ではおそらく素通りしていたであろう箇所も満遍なく見学。入場口でいただく案内紙の見取り図そのもの忠実に復元
してあり手入れも施されています。戦国時代の山城見学にはとても勉強になります。
見学後は、足助の町並で散策をおすすめします。
中でも和菓子屋「両口屋」さんで今の時期しか出ない「白パン」はとても懐かしい味で美味しいです。
(今もつくられていること願います!)
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2024/07/17 08:04
熱田神宮となごやめし (2024/05/25 訪問)
地元のとある集まりの旅行で名古屋に行きました。観光もしますが食い倒れ旅的な面が強く、今年のお目当ては「なごやめし」。
名古屋入りして最初は熱田神宮から。私は熱田神宮にお参りするのは初めてで、草薙神剣が鎮座する古社だけに、まずは宝物館や草薙館で刀剣を観て…と思っていたら、同行者はまっすぐに本宮に向かって参拝を終えるや当然のように駐車場に戻って行き、滞在時間はまさかの25分…。何とか信長塀だけは見ましたが、宝物館や草薙館のみならず周辺の源頼朝出生地にも行きたいし、早々に再訪が決定しました。…かと思えば、その地の名物は見逃さないのが食い倒れ旅たる所以で、東門前のきよめ餅総本家でお土産にきよめ餅を購入。お店でもひとついただきましたが、こしあんを羽二重餅でくるんだ定番の風味ながら、なるほど名物になるのも頷ける上質な美味しさでした。
熱田神宮を後にして、昼食は炭焼うな富士でひつまぶし、午後からは犬山城と城下町観光&食べ歩き(別途投稿します)、夕食は一鳳にしきで名古屋コーチン(酒が入ったので写真撮り忘れ)、その後は錦で飲んで、締めは麺処 龍でカレーうどん。観光(城めぐり)としてはやや物足りないものの、なごやめしを存分に満喫した一日でした。
余談ながら翌日は伊勢神宮にお参り。もちろん参拝もしましたが、参拝後におかげ横丁で伊勢うどんと手こね寿司を食べ、赤福本店で一服。翌日もしっかり食い倒れ旅でした(笑)
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2024/07/17 07:16
2024/07/17 00:41
伊賀土豪達の最後の籠城戦 (2024/02/18 訪問)
先日、「しんしんちゃん」がやらかしてしまったので、「しんちゃん」が替りを務めさせていただきます。築城は永禄年間に滝野上野介貞清によって成されたとされ、第二次天正伊賀の乱(1581)では伊賀土豪が最後まで織田軍に抵抗した城として知られます。1600余人で三万を超える織田軍に対して勇敢に戦いましたが、最後には和議に応じて開城し、城主滝野吉政は帰農したとのことです。
城址は高善山の北西の丘陵地に築かれており、主郭を中心に周囲に二重の土塁、二重の堀が良く残っています。さらに北西には居館跡があり、東側の土塁と空堀が残っています。主郭には「お滝女郎化粧井戸」とアナグマの巣があります。ちょっと見ただけでは居るのかどうかわからないですね。そっとしておきましょう。
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2024/07/17 00:00
2024/07/16 23:40
登城出来ない (2024/07/15 訪問)
近くの道の駅一向一揆の里で、スタンプと御城印を、ゲットできますが、令和4年豪雨と今年の地震の影響で登城はできません。
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2024/07/16 23:35
本丸 (2024/07/13 訪問)
本丸は地震の影響で入れません。途中の駐車場までは車で上がれるようですが、私には道が分かりませんでした。
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2024/07/16 21:52
月見山こどもの森公園 (2024/07/06 訪問)
月見山への坂道を登ると登城口があり、駐車スペースもあります。
登城口の説明板には縄張り図もあるのが嬉しいですね。
まずは主郭へ。
あまり高くは無いですが土塁が残っています。
こどもの森ですがここでは遊べそうに無いような・・。
ここから北西に伸びる尾根を進んでみました。
途中堀切もあり、先端部の曲輪からは竪堀も落ちています。
駐車場まで引き返し、改めて縄張り図を見ると駐車場から下にも遺構がありそう。
とりあえず降りてみました。
多分ですが塹壕跡と竪堀も。
藪蚊の猛攻もあり、じっくりと見学することはできませんが優良物件であることには間違い無さそうです。
歩き回ればもっと遺構に出会えそう。
麓には古戦場の石碑も立っています。
冬に再訪かな?
それにしてもこどもの森っぽくはありません。
近くにアスレチック場もあるようですがそっちがメインかな?
行ってないので不明ですが。
近くにある道の駅やすにはルナピエナスイカがあるとのことで寄ってみました。
立体栽培のスイカでとても甘〜い。
たまたま在庫があったので持ち帰りで購入。
やっぱり美味し買ったです!
通常は予約の上配送手続きをするのだとか。
通販にも対応しているとのこと。
今シーズンはおそらく終了していると思うので興味ある方は来年かな?
おすすめです(写真撮る前に食べちゃいました)!
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2024/07/16 20:04
2024/07/16 19:54
九之坪城 (2024/05/25 訪問)
【九之坪城】
<駐車場他>駐車場はなし。城跡碑の奥の健康ドーム駐車場前に少し停車し撮影しました。
<交通手段>車
<感想>日帰り濃尾平野ちょこ城巡りの旅、第3弾2城目。現地説明板によると斯波氏の家臣であった梁田政綱は主家衰退後に織田信長に仕え戦功によりこの地を与えられました。九之坪城は当時「此壺城」といい当時の地侍の館であったのを改築したものと伝えられています。廃城の時期や経緯については明らかになっていません。
現地は現在シルバーセンターになっていて遺構は残っていません。センター前に城跡碑があるので撮影しました。
<満足度>◆◇◇
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2024/07/16 11:52
彦根八景荒神山城 (2024/06/24 訪問)
荒神山神社が荒神山城に当たるとの事、車で頂上まで行けると分かり、荒神山神社参拝し初登城。
駐車場:荒神山神社参道前駐車場(35°13'59"N 136°11'50"E )10台は可能、50m車道を登り展望所に駐車も可能。
参考資料:古城盛衰記さんグーグルマップに依る。
山崎山城から西と近く、一の鳥居を潜って約3km程の狭いが舗装された道を登る、要所要所で軽くクラクションを鳴らして安全確認注意喚起。
参道前駐車場に駐めて、緩やかな登り道を展望台へ、琵琶湖が見えて絶景です、そこは「彦根八景 うみ風渡る荒神山」として平成7年5月1日制定されています。
荒神山神社に展望台側から入り参拝、拝殿、社殿、社務所と立派な造り、皆さんがよく投稿されてる参道石段と両脇の石垣を降りながら確認、東山麓から続く石畳参道はだいぶん苔むしています、駐車場への参道石段を下りて終了。
城郭に関する案内解説板など無く、どこまでが城跡の遺構なのかは良く分かりません、荒神山神社由緒記は有り神社、奥山寺の歴史が記されて居り、城に関しては関ケ原後井伊直政が彦根に配されたとき、「荒神山に築城の計画があったという」の文が城に関する事のみ。
荒神山神社の起源は今から2300年前、奥山寺は天平2年行基菩薩の創建、織田氏の時代には比叡山の焼き討ちと同じく奥山寺も焼き討ちにあっています。江戸期以降井伊家の崇敬を受ける。明治に成っれ神仏分離により奥山寺を廃し、新しく社殿を造営し荒神山神社と称す。(荒神山神社由緒記抜粋)
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2024/07/16 11:45
2人の距離 (2017/07/04 訪問)
「老中の城」佐倉城(千葉県佐倉市)。代々9人もの老中が配置された特別な城ですが、幕府の要職ともなると、それぞれ一筋縄では行かない問題も抱えていたようで。
江戸を守る東の要。一方、西国から江戸が攻撃された際には将軍家が退避する地と定められていたといいます。三重の天守をはじめ、櫓や本丸御殿、8基もの大規模な櫓門が備わった重要拠点でしたが、残念ながら現在、建造物はほとんど残っていません。それでも、結構なサイズの城址をつぶさに歩き回ることで、この城がもつ意味合いが見えてきます。
前身は中世城郭。徳川家康の関東入国後、徐々に改修し完成は1617年ごろ。石垣を用いない土造りで、空堀は結構な深さ。北には印旛沼があり、湿地帯に掘られた水堀が本丸周辺を巡っています。ちなみに100名城スタンプは、復元された角馬出の空堀。渋い。
「出世城」というよりは、むしろすでに幕府の重鎮になった人物がその都度配されたという印象でしょうか。城内(二の丸入り口付近)にはそんな中のひとり、佐倉藩5代藩主・堀田正睦(1810-64)の銅像。藩内の蘭学を盛んにし、幕末期の老中首座として「開国に尽力」(佐倉市)した御仁。加えて、その近くにはアメリカ初代駐日総領事であるタウンゼント・ハリスの立ち姿、、。んー、どこか微妙な並び。
定説では不平等条約とされる日米修好通商条約。交渉で米側から圧をかけられまくった窓口が堀田一派だったはず。事実、調印後、最後まで朝廷の賛同を得られなかった失策により老中を罷免されます(*結果的に無勅許で踏み切ったのは大老・井伊直弼)。
もちろん、ハリスの存在が「開明派」の堀田を外交の舞台に引き上げたという点で2人の関係性は特別なのかもしれませんが、もし仮に今、堀田自身がこの距離での並びを見せられたら何と言ったか。興味は尽きないのであります。
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2024/07/16 06:58
献血後の攻城 (2024/07/13 訪問)
予定通り、献血プラザ佐賀での成分献血を終え、ローソンにて軽い昼食を調達した後に赴きました。民家の前に立派な城址碑が建っていますが、樹木の葉の陰になっていました。夏場ということで平地の城をチョイスしたのですが、城址碑も冬枯れの季節の方が良いみたいですね。近くの崇久寺には蒲池氏墓碑がありました。城址碑の説明板は「崇久寺」なのですが、寺の説明板の字は「祟」になっていました。いくら何でも寺名に「たたり」という字を使ったりはしないと思いますが、いかがでしょう。
この後は、柳川の松濤園や柳川城を狙っていたのですが、再訪の地はパスして、初攻城の城へと急ぎます。
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2024/07/16 00:51
八王子城 心霊スポット (2024/06/29 訪問)
(参考URL)https://youtu.be/ewqbeIGDGFo?si=b7c1nffc8QTBcl9G
https://youtu.be/WyP61-3hQwQ?si=qz01HIRwx1NZKjmQ
https://youtu.be/tDEIZTpsbwA?si=YihxDL4VifYjuBLW
https://youtu.be/cleWwWerKe0?si=BzHOMnWmAXA92i6w
八王子城御主殿から続く階段を降りると川のある場所に出ます。そこの水は滝のように激しく流れており、そこの片隅に(八王子城の戦いにて)亡くなった人々を弔う場所(1枚目)があります🪦
天正18年(1590年)天下統一最後の戦…前田利家、上杉景勝、真田昌幸らの部隊15000が八王子城に侵攻。対して北条側は領民を含めて3000…大軍相手に城の各防御機能を生かして善戦。豊臣側に大きな損害を出させるも、別動隊による奇襲により北条側は総崩れ…
城は半日で陥落し、氏照正室はじめ城内の婦女子は自刃もしくは御主殿の滝に身を投げた🏳️💀 北条側の武将や婦女子が滝の上流で自刃し次々と身を投げて、滝は三日三晩赤く染まったという言い伝え
1枚目にここで亡くなった方々の供養塔、ならびに御主殿の滝の説明書が見えると思います。この左手に滝…というか流れの激しい川があります。「敵の手にかかるくらいなら…」「敵の慰み物になってまで生き長らえたくない」という考えのもと…ここに飛び込んだ
八王子城自体が実は心霊スポットとして有名と言えばそうなのですが、その中でもヤバいのがここ…御主殿の滝および本丸だそうです
滝では北条側の人々が次々と飛び込んで自害…本丸ではおそらく北条の僅かな守備隊と豊臣側の大軍が交戦し修羅場と化したのでしょう💀 その関係で…出るそうです…霊が👻
城の入口を入って通路を進み、途中に(2枚目の)橋がかかってます🌉 これは北条氏統治時のものではなく、近年になって造られた(もしくは復元した)ものだそうです。そしてこの下あたりに御主殿の滝および供養等がある
私がここを訪れたのは16時頃…少々暑く、滝の近くでは観察用具を置きながらバードウォッチングをしてるオジサンもいるくらい…のんびりしてました。ここが心霊スポットなんて微塵も感じさせないくらい…あの時代に自刃して果てた人々は数百年後がこんな光景になっているなんて思いもしなかったでしょうね😅
私は霊感が無いようで、(時間的に本丸まで行くのが無理で手短に見学できる御主殿跡を選んだわけですが)御主殿を歩いた限りは霊の気配および寒気は全く感じませんでした。帰りのバスが18時までしかないので、その一本前の17時に乗って帰路に着いたわけですが…もし夜もここにいたら…また異なる姿がそこに現れていた…のだろうか👻😅
あと参考URLでこの城の心霊スポットとしての一面を紹介した動画を幾つかあげさせてもらってますが、私は霊夢と魔理沙の動画好きなため、それが多めになってるのは否めません…
霊夢と魔理沙のでは、「その昔、豊臣秀吉の大軍によりこの城が攻め落とされ多くの人間が死んで霊となり、彼らの啜り泣く声が聞こえてくる…ヤバいヤバい」と概要的にヤバいとだけしか紹介してない…のに対し、一番最後の動画では実際に夜に現地を訪れた若者が、何かいるという気配…雰囲気の重さ…微かな女の声…を感じて多かれ少なかれ恐怖する…リアリティが感じられます(でも私から見ると過剰演出して盛ってる部分あるような気もしますけど😅)
蛇足ですが…供養塔から川底までは3-4mはありそうでしたが、緩やかな土手となっており、川底も浅いと言えばそんな感じでした…なので…「滝に飛び込んで自害」という言い伝えを聞いて…
「ここに飛び込んで…そのまますぐに死ねたのかな?」と正直思ってしまいました…喉を掻っ切ったりして瀕死の状態で飛び込むならまだしも…ただ飛び込んですぐにあの世行き…には見えなかったから。それとも…当時はもっと川の水量が多かった?🏞️
余談ですが…少し前にダークギャザリングという深夜アニメが放送されており、その中にもここがH城という名前で登場してます。興味のある方はU-NEXTやDMM TVなどの有料動画サイトで探してみましょう
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2024/07/16 00:36
109【関ケ原の26人】(26)井伊直政 (直政と天正壬午の乱(2/3)-平塩寺) (2024/03/18 訪問)
(26人目)井伊直政の続き⑪です。
「天正壬午の乱」の時、直政が滞在していたのでは?とされている「平塩寺」を訪れてきました。JR身延線「市川本町駅」から徒歩5分の所です(写真⑨⑩)。
当時廃寺だった平塩寺は、後の江戸時代に天台宗に改宗され「宝寿院」として再建され、現在もその姿は残っていました(写真①②)。街道沿いに江戸期には陣屋もあり門前町として栄えていたようです(写真⑧)。宝寿院の中には、愚痴を聞いてくれる「供智(愚痴)聞き地蔵」なるものがありました。私も日頃から溜めこんでいたものを、長々と聞いてもらいました。おかげですっきりしました!(笑)。さあ日頃から悩みや不満を溜め込んでいる・・・そこのあなた!→→→(😲ドキ!)。 愚痴を聞いてもらいに、ぜひ訪ねてみてはいかがでしょうか? すっきりしますよ~!(笑笑)(写真③④)。
さらに歩いて10分程坂を登った所には甲斐源氏の祖碑がありました。甲斐源氏の祖と言われる源義清公の館がここにあったようです。その場所は現在は「熊野神社」になっていました(写真⑤⑥)。そう考えると、ここは陣を敷くには最適な場所のようですね。
家康と直政は、当時このあたり一帯を支配していた「大鳥居氏」の仲介により、武田の旧臣たちを集め、味方に引き入れる事ができたのではないかと言われています。1582年3月の武田攻めの時にも家康と直政はここを訪れて、この平塩寺を本陣としています。その時に武田から離反した大鳥居氏と親しくなり、その後も直政と大鳥居氏との間には、何度か手紙のやりとりがあり関係が続いていたようです。そして武田が滅亡し、主君を失った彼らは本領を安堵してくれる新たな主君を探していました。
まず直政の家臣達が手分けして旧臣たちと対面し、家康様に従うとの起請文を書かせます。約800の兵が集まったようです。そしてこの地を知り尽くしたその旧臣たち800が、各地でゲリラ戦を展開、北条軍をかく乱します。背後から突然襲ったり補給路を断つなどしたため、北条軍は(武田の亡霊が出た😱~)と大混乱! 黒駒の戦いなどで劣勢だった徳川軍の勝利に大いに貢献しました。
そしてこの旧臣たちを、最後に取りまとめたのが直政です。1582年10月に活躍した旧臣たち一人一人を家康に対面させるという儀式を行い、家康は彼らを家臣とし本領を安堵するという朱印状を発行します。
では直政は、ここでどうやって彼らから信頼されるようになったのでしょうか?(🤔?)
直政はその朱印状に、「井伊兵部少輔直政がこれを受け承る」と添え書きをします。つまり(家康様とあなた方の仲介役を今後はこの直政が責任を持って行います)と付け足す事で、彼らの不安を払拭し、彼らの心をつかんでいったようです。後にこれらの兵が直政に与えられ、直政は侍大将となり、武田の赤備えを引き継いだ「井伊の赤備え」隊がここに誕生します。
私は、熊野神社の高台(写真⑦)から新府城の方向に向かってここに立ち、目の前にこの武田の赤備えの旧臣たちが控えている姿を想像し、直政になったつもりでこう叫びました。
「この井伊兵部少輔直政が、これを受け承ったー!」
でも兵部少輔なんていう肩書、よく思いつきましたよね。それとも平安時代からの由緒ある井伊家に伝わる元々の官位だったのでしょうか? しかし彼らの心をつかむには、十分な一言だったようです。
次は、北条との和睦交渉(小田原城)に続きます。
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2024/07/15 23:12
いつまでもこの姿が守られてほしい (2024/01/13 訪問)
市街地の中に奇跡的に土塁を残すこのお城の西側を南北に貫く市道「道意線」は富松城の土塁を基準線にしているのではなかろうか。道路拡幅と地主さんの心変わりがない限りこの土塁はいつまでも守られるだろう。守られてほしい。
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