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翡翠

中津城 (2024/05/04 訪問)

駐車場から見た中津城もとっても良かったです。おっくんとくろかんくんが、お出迎えしてくれました。

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しんちゃん

「がもう」じゃなくて「かもう」 (2025/05/08 訪問)

蒲生城は標高160mの龍ヶ山の丘陵を利用した、周囲8km余りの県内有数の大規模城郭とされています。二の丸近くに駐車場があり、そこまで車で行くことが出来ます。二の丸から北上して行くと馬場跡にいたり、そこから本丸に入ります。本丸は五段の連郭になっていますが、整備されているのは一部で、残りはヤブになっています。最北の段を本丸の主要部として、その北側に土塁が残っています。
本丸と二の丸を仕切る道の周囲は断崖絶壁となっており、かなりの高さがありました。
保安4年(1123)宇佐八幡宮の留守職・藤原教清の子・舜清によって築かれたとされています。その子孫は蒲生姓を称し、18代範清の時に菱刈重豊の支援を得て島津貴久しますが、島津義弘の奮戦で重豊は自刃し、範清は城に火を放って祁答院氏を頼って逃れました。
これで430余年にわたる蒲生氏の支配は終わりを告げ、あとには比志島美濃守が地頭として入りました。

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しんちゃん

悲しきセブン党の末路 (2025/05/09 訪問)

わたくし今だにWin7などを使用しているシーラカンス野郎でございます。好きなんですよセブンが・・。
これまで「城びと」もセブンで、なんとかやって来れたのですが、最近仕様変更があったのか、いろいろ不具合が出てくるようになってきてしまいました。けっこうギリギリまで粘るたちで、地デジに切り替わるときもギリギリまでアナログ放送を見ていました。
好きなんですよ、マイナー路線ってやつが・・。ゲーム機も メガドラ→サターン→ドリームキャスト→消滅 という、まるで
「異世界おじさん」のような・・。セブンだとなにが困るかと言うと
①編集が出来ない
②グーグルマップが紙芝居みたいになってる
③「いいね」がつけられない
けっこう不便です。おまけで「ぴーかるさん」のアイコンだけへんな表示になってます。なんで?
セブン党にとっては世知辛い世の中です・・イレブン買うしかないか(へなへな)。。

馬渡城は別名・蛇塚城といい、城址は個人宅になります。この日は結構雨が降っていて、一声かけようにも人気が全くないので、通りすがりに外から城址にあった古墳を撮らせていただきました。城主の蛇塚定家(蛇塚九郎)は打越城主・林原与三隆益の孫に当たるため、この城は打越城より後に築かれたと考えられています。近くにある七城温泉ドーム一帯は「陣の内」と呼ばれ、当時は兵舎があったと推測され、現在は模擬天守風の建物が建っています。

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朝田 辰兵衛

碑は仮設置中です… (2025/06/08 訪問)

現在,碑は仮設置中です。定位置は,todo94さんの投稿画像を参照ください。仮設置中の場所が分かりやすいように,トイレも一緒に写し込みました。
現在の碑の場所は社への下り口で,もしかしたら虎口かな…と。トイレの設置と公園整備で改変されている可能性もあるので,何とも言えませんが…。

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トク

花菖蒲 (2025/06/11 訪問)

梅雨に入り、雨が一週間も降り続きうんざりする今日この頃、こんな雨でもどこか気軽に行ける場所はないか探していると、福岡城の花菖蒲園で花が咲いていると知り、見に行ってきました。花菖蒲園は、福岡城内の南西にある「南丸多門櫓(現存櫓)」の下にあり、なかなかの風情がありました。下之橋御門の紫陽花もきれいでした。
 

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カズサン

八丁目城-2/2 南曲輪・八幡館編 (2025/06/06 訪問)

 八丁目城-1/2 本曲輪・愛宕館編の続です。

 八丁目城本曲輪・愛宕館を終えて大手道を降りて大手口まで戻る、左手の登城路を南曲輪(八幡館)へ進み登る、南曲輪までは4段の曲輪が在り、祠と墓石の曲輪、巨木の江戸ヒガン桜が植わってる曲輪、江戸ヒガン桜は樹齢450年、稙宗、晴宗、輝宗、実元、成実の時代には植わっていたかも?、帯曲輪、南曲輪・八幡館と多段で曲輪が重なっている。
 本曲輪には忠魂碑と小さな祠が祀られている、本曲輪の案内板には「八丁目城の第2の曲輪、南端は物見とした」と記されてる。
 遊歩道は草刈がされて歩きやすい。

 比高も低く草刈整備されて見学しやすく成って居ます、常の環境保全に感謝です。

 旧松川小学校は体育館が松川地区体育館として住民の活用施設と成って居る、西隣には松川いきいき交流センターとしてゲートボール場に成っており当日もゲートボール競技を住民が楽しんでいました。
 最近はゲートボールよりグラウンドゴルフが盛んなのですが、まだまだ根強いものが有る様です。
 
 この後はしんちゃんが紹介投稿してる、南東に1.5km程の【陸奥 土合館】を目指します。
 

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カズサン

八丁目城-1/2 本曲輪・愛宕館編 (2025/06/06 訪問)

 多賀城復元外郭南門と東北歴史博物館で約3時間半充分堪能して、東北道沿いの未踏の城は?と探し、直近のしんちゃん投稿の八丁目城は比高も比較的低く足腰の弱い私でも登城できるのではと目的を定めました。
 多賀城ICから東北道南下約100km超、福島市の福島松川SICを降りて東に約1km程の旧松川小学校跡体育館を目指す。

 駐車場:松川地区体育館(旧松川小学校)下のグラウンド、もう一段下の駐車場、利用。
 参考資料:余湖図コレクションさん城郭放浪記さん城びと投稿者グーグルマップに依る。

 県道52号線沿い旧小学校入り口に白い「八丁目城址」の標柱が立っている、グラウンドの駐車エリアに駐めて、いざ登城グラウンドの北東隅の坂道脇に、古木手造りの「八丁目城址」標柱と解説板がある、表には文章解説、裏には八丁目城址案内図、坂道を登って東横に「まつかわ西幼稚園」、北に大手口、大手道が北上に真直ぐ伸びて居る、草刈されて歩きやすい、大手口の指示案内板に北に愛宕館(本曲輪)西に八幡館(南曲輪)と出ている、北の本曲輪を目指す、両脇は多段曲輪の様ですが、畑耕作が続いていた畑跡かも?、現在は草が茂っている、多段曲輪の切岸が連なり見ごたえあり、愛宕神社下の階段を登って帯曲輪、東側に愛宕神社鎮座、奇麗にして祀られている、帯曲輪から虎口階段を登って本曲輪(愛宕館)内部へ、カラスが二羽鳴き叫びうるさい、この時期はカラスの繁殖中?以前青森県の七戸城でカラスに襲われた経験があり、急いで下城。
 
 歴史は案内板に依ると
 八丁目城は伊達稙宗桑折西山城の支城として築かれた。伊達稙宗と子息晴宗と争った天文の乱の頃には稙宗が在城、勝利した晴宗は清野備前守・遠江守父子を城主に据えた。
 遠江守が晴宗の子輝宗に切腹させられた後、復帰した堀越能登守はやがて伊達氏に背き、二本松畠山氏に通じたが天正2年(1574年)大森城主伊達実元(サネモト)(晴宗の弟)が、この城を奪回した。
 実元が八丁目城に隠居した後は、その子成実(シゲザネ)が、また天正14年以降は政宗の重臣片倉小十郎景綱が、大森城主として八丁目城を支配した。
 天正18年の秀吉の奥州仕置により破却廃城、おおよその城構えは残されて現在に至る。

 八丁目城-2/2 南曲輪・八幡館編に続く。
  

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イオ

野上八幡山本陣(和歌山県紀美野町小畑) (2025/02/09 訪問)

野上八幡山本陣(城びと未登録)は、野上荘を領する高野山勢が戦国期に野上八幡宮背後の八幡山に築いた陣城で、根来寺勢との抗争の舞台となったようです。

寺中城に向かう道中に位置することから、ついでに登城しました。南麓の野上八幡宮内から主郭まで舗装道が通じているようなので車で行くつもりでしたが、道が思ったより狭かったことにひるんで野上八幡宮の駐車場から徒歩で登城しました(結果から言えば、道が狭いのは境内付近だけなので、車で問題ないと思います)。

いくつかの分岐を経て電波塔の横を過ぎたところに野上八幡山本陣の主郭が広がっています。主郭は駐車場兼広場として整備され、奥の櫓台には八王子厳島神社が祀られていました。神社奥の腰曲輪の脇を下って行くと堀切があり、堀切の先が副郭…ですが、柵で囲まれた通信施設によって占められています。通信施設の北側を回り込むと、副郭東辺には土塁があり、竪堀が南側に設けられていました。副郭から少し下って尾根の鞍部を上ったところには平坦地が広がっていて、駐屯地とも考えられます。この平坦地から東に急斜面を下りて行くと寺中城の登城口(埋谷池の堤)に至ります。

主郭は駐車場兼広場、副郭は通信施設に改変されていて、明瞭な遺構は数えるほどですが、西側から寺中城に向かう場合はどうせ野上八幡山本陣を通り抜けることになるので、ちょっと意識を向けてみるのも悪くないかと。
 

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todo94

万博翌日の攻城① (2025/05/11 訪問)

ゴールデンウイークで多くの皆さんは遊び疲れているだろうと、4連休明けの次の土曜日には、大阪・関西万博に行ってきました。西ゲートからの入場で10時の予約だったのに9:30には、場内に入ることができました。午前中に予約なしで、人気のイタリア館に入ることができたのは非常にラッキーだったと思います。日本館は13時の事前予約が取れていて12:50には入館できました。コモンズA、C、D、スペイン館、フランス館、ブルガリア館、タイ館、シンガポール館、アメリカ館と夜8時過ぎまで十分に万博を楽しむことができました。翌日は、おまけのようなものですが、折角ですので、近鉄南大阪線で恵我ノ荘駅にアクセスし、一津屋城に朝駆けです。厳島神社がその故地で社殿は墳丘の上に建っています。松原第七中学校のあたりにあった本城の出城とのことです。

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赤い城

妙見山城 鳥取県鳥取市 (2025/05/28 訪問)

仕事での所用を終え、近くの妙見山城へ立ち寄りました。
城びと未登録城です。
近くは集落になっていて駐車場はありません。

杉崎神社のあたりが曲輪の跡のようです。
さらに奥は竹藪ですが土塁のような地形もあります。
遺構なのかどうかは不明ですがそれらしい感じもします。

城主の秋里玄蕃允は秀吉の鳥取城攻めの際に吉川経家について鳥取城へ入城、妙見山城は廃城となりました。

【見どころ】
 ・杉崎神社周辺の曲輪跡

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昌官忠

(東海&関西)遠征1日目:糟塚砦(城びと未登録 愛知県豊川市) (2025/05/15 訪問)

赤坂陣屋の移築陣屋門(城びと未登録 愛知県豊川市)から自転車で20分くらいで、龍徳院山門前(34.799046、137.366115)に着きました。

1562年(永禄5年)東三河統一を目指す松平元康が主に牧野氏の牛久保城や吉田城を攻略ための拠点として築いた砦で、小笠原新九郎長晟が城主として入っていました。
1564年(永禄7年)の吉田城攻めの際、家康はこの砦に陣を張っています。
その後、1586年(天正14年)に菟足神社神主であった川出宮内大輔良政が砦跡地に龍徳院を開いたと伝えられています。

糟塚砦は龍徳院の境内に築かれていました。龍徳院の北背後に土塁と空堀が残っているようですが、よくわかりませんでした。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=牟呂城(城びと未登録 愛知県豊橋市)へ自転車で向かう予定でしたが、太ももが悲鳴をあげているので、本日の城巡りは、ここをラストにしました。
歩行歩数=17236歩、歩行距離=12.1Kmですが、自転車での移動が50Km以上はあると思います。痛めた太ももで頑張りました。
本日の宿泊先に向かう前に、エコチャリ豊橋駅前通りで自転車を返却し、豊橋駅に寄って荷物をコインロッカーより取りだしてホテルに向かいました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征1日目:赤坂陣屋の移築陣屋門(城びと未登録 愛知県豊川市) (2025/05/15 訪問)

赤坂陣屋跡は名電赤坂駅方面にある為、攻城するとなると、時間が遅くなるので、移築陣屋門の見学のみすることにしました。
今川義元公墓所(城びと未登録 愛知県豊川市)から自転車で25分ちょっとで、法雲寺山門前(34.833062、137.336089)に着きました。

1601年(慶長6年)から天領となった赤坂の地には遠江国中泉陣屋の出張陣屋として赤坂陣屋が設けられました。
以降、明治まで続いて三河県役所となりましたが、1872年(明治5年)に廃藩置県で廃止されました。

名電赤坂駅方面(豊川市赤坂町)の赤坂陣屋跡には遺構は残されていないようなので、移築陣屋門は遺構と云えば遺構です。
豊川市白鳥町の法雲寺に移築された陣屋の山門(薬医門)は、急用の場合等に注進の侍が早馬に乗ったまま通り抜けられるように普通の門より高くなっているそうです。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=糟塚砦(城びと未登録 愛知県豊川市)に自転車で向かいました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征1日目:一色城(城びと未登録 愛知県豊川市) (2025/05/15 訪問)

瀬木城(城びと未登録 愛知県豊川市)から自転車で10分くらいで、一色城土塁跡前(34.811652、137.385242)に着き、その後、牛頭山大聖寺入口(34.810861、137.384737)に向かいました。

一色時家は室町時代の足利氏の一族で、1439年(永享11年)に吉良の地よりここに来て一色城を築きます。
しかし、家臣の波多野全慶に討たれてしまい、その波多野全慶も同じ一色氏の家臣だった牧野古白に討たれてしまい、結局、一色城は牧野氏のものになります
その後、牧野古白は今橋城(後の吉田城の前身の城)を築いて移り、二男・成勝を城主にしました。この時から一色城は牛久保城(牛窪城)と改名されます。
牛頭山大聖寺は、かつての一色城の中にあります。つまり城の中にあった寺です。その一色城を築いたのが一色時家です。
牛頭山大聖寺にはその一色時家の墓も残されています。また、今川義元公の墓もあります。

この今川義元公の墓は、今川義元の胴体を埋めた胴塚(どうづか)と呼ばれるものです。
なぜここに今川義元の遺体を埋めた胴塚があるのか?話は桶狭間合戦にさかのぼります。
1560年(永禄3年)の桶狭間の戦いで今川義元は織田信長に討たれました。
そして首は織田軍に持っていかれ、須ヶ口といところに晒されるのですが、戦場には胴体だけが残りました。
残兵たちは泣く泣く義元の胴体を駿河に連れ帰ろうとしますが、桶狭間合戦起こったのは旧暦の5月19日。現在の暦でいうと6月上旬くらいです。
当然、遺体は傷んでいきます…『とても駿河までお連れすることはできない…』そう考えた兵たちは、まだ今川氏の勢力圏だった東三河の大聖寺に遺体を埋めることにしました。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=赤坂陣屋の移築陣屋門(城びと未登録 愛知県豊川市)へ自転車で向かいました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征1日目:瀬木城(城びと未登録 愛知県豊川市) (2025/05/15 訪問)

行明城(城びと未登録 愛知県豊川市)から自転車で5分くらいで、説明板付近(34.813934、137.401723)に着きました。

1493年(明応2年)牧野成時(古白)が豊川右岸地域に勢力を拡大してゆく過程で牧野城に次ぎ築いた城です。
同年、成時は主人であった一色時家を討ち滅ぼして長山一色城を乗っ取った波多野全慶を灰塚野で討ち破り、一色城に移ると、牧野城には長男牧野能成、瀬木城には次男牧野成勝を置きました。
1505年(永正2年)成時は今橋城を築いて居城を移すと、成勝は一色城に移り、瀬木城は廃城となりました。

主郭は神明社の境内で西側に深い堀があり、虎口の鳥居の両端に幅のある土塁があります
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=今川義元公墓所(城びと未登録 愛知県豊川市)へ自転車で向かいました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征1日目:行明城(城びと未登録 愛知県豊川市) (2025/05/15 訪問)

勝山城(城びと未登録 愛知県豊川市)から自転車で20分くらいで、羽衣の松付近(34.802763、137.401086)に着きました。
そこから、ガードレール側のこの場所(34.802328、137.401257)より土塁&堀跡の写真を撮りました。

築城年代は定かではないようですが、建久年間(1190~1199年)頃に星野荘の地頭であった星野日向守によって築かれたと云われています。
南北朝時代には星野行明なる人物が現れますが、星野日向守との関係、両者の実在性については不明な点が多いようです。

行明城は豊川と豊川放水路との間付近に築かれていました。 主要部は豊川放水路によって消滅していますが、豊川側の土手に近い宅地の裏側に土塁と堀の一部が現存しているようです。
城址近くには星野行明にまつわる伝説の羽衣の松、行っていませんが、星野氏の菩提寺である行明寺と星野氏の崇敬社である行明神社があるそうです。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=瀬木城(城びと未登録 愛知県豊橋市)へ自転車で向かいました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征1日目:勝山城(城びと未登録 愛知県豊川市) (2025/05/15 訪問)

和田城(城びと未登録 愛知県豊橋市)から自転車で5分くらいで、三上7区集会所入口(34.819066、137.438207)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、1333年(元弘3年)三河熊谷氏となる熊谷直鎮が足利尊氏の六波羅攻めに従って功を挙げ、八名郡の地を賜って築いたようです。
文明年間(1469~87年)には、熊谷重実が宇利荘に移住し宇利城を築いています。

三上七区集会所のところに石碑と案内板が設置されています。
川東公会堂の左側一帯が本丸、道を挟んだ右側一帯が二の丸であったとされます。また、本丸跡には井戸が残されているようですが、みつけられませんでした。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=行明城(城びと未登録 愛知県豊川市)へ自転車で向かいました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征1日目:和田城(城びと未登録 愛知県豊橋市) (2025/05/15 訪問)

月ヶ谷城から自転車で10分くらいで、城址東の道路側(34.811714、137.438087)に着きました。

別名、嵯峨城ともいいます。築城年は定かではないようですが、南北朝時代に和田民部によって築かれたとされ、その後、永禄年間(1558~69年)に渡辺久左衛門、1570年(元亀元年)には息子の渡辺図書助浄,渡辺山城守茂も居城したとされます。
当初は不明ですが、最終的には松平氏(徳川氏)に付き、図書助の子孫は旗本になったそうです。

和田城(豊橋市)は馬越川に面した段丘端に築かれており、春興寺の東側一帯となっています。
主郭は現在は竹林と化しています。主郭西側には土塁とその外側に空堀(横堀)が残されています。
なお、春興院は戦国時代に和田城主・渡辺氏が菩提寺として創建した寺です。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=勝山城(城びと未登録 愛知県豊川市)へ自転車で向かいました。

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シェル

小金牧を管理する陣屋 (2024/06/26 訪問)

 最寄り駅はJR武蔵野線 新八柱駅または京成松戸線(新京成線)八柱駅です。駅から徒歩5分ほどの門前公園のところに説明板が設置されています。説明板によると、江戸時代に幕府によってつくられた小金牧(馬の牧場)を管理する陣屋だったようです。
 門前公園の北西側の八柱さくら通りの歩道沿いにも、金ヶ作陣屋の標柱が立っています。
 陣屋跡周辺には、松戸市立博物館があります。この博物館では、松戸市の小金城の模型や常盤平団地の実物大模型、野外に実物大の竪穴住居などが展示されています。かなり見ごたえたっぷりの博物館なので、金ケ作陣屋とセットで見学してみてください。

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シェル

常陸国の里見氏 (2024/06/11 訪問)

 JR友部駅から東に徒歩約30分で到着。小原城は、房総の里見氏発祥の城として知られています。
 里見氏は鎌倉公方に奉公衆として仕えており、里見家基は鎌倉公方足利持氏に小原を与えられます。この際、小原には家基の弟の満俊が入ります。永享の乱または結城合戦で家基が亡くなると、家基の子とされる里見義実は安房に渡り、のちに安房里見氏として房総半島で勢力を拡大していきます。一方で家基の弟 満俊の家系は小原に残り、代々、小原城主を務めたようです。
 城跡は、小原地区一帯に広がり、公民館と御城稲荷神社付近が本丸跡です。本丸跡は土塁が良好に残っています。また土塁そばのゲートボール場は、かつて水堀だったようで、平成の始めまで残っていたようです。

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しんちゃん

島津義弘の城館跡 (2025/05/08 訪問)

文禄3~4年(1594~5)に行われた太閤検地の後、帖佐は島津義弘に与えられ、義弘は文禄4年に居城を栗野松尾城から帖佐へと移しました。現在、城館跡には稲荷神社が建ち、当時の物と見られる石垣が残っています。東側が大手とされ大手門跡が残っています。
義弘は慶長10年(1605)に平松城へと移り、帖佐の地は江戸時代には麓(外城)の一つになりました。帖佐館の南250mにある帖佐小学校の地に帖佐郷の地頭仮屋が置かれ、当地の行政の中心となりました。別府川沿いの納屋町には藩の御用蔵が置かれ、物流の拠点として栄え、帖佐麓は船の出入りで賑わったとのことです。

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