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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)17日目:山田城 (2024/10/08 訪問)

今日は移動距離が長いので、ホテルでの朝食は抜きで出発しました。
宿泊先のホテルから徒歩40分ちょっとで、草津市立武道館付近(35.024261、135.931559)に着きました。

山田城は、鎌倉時代から室町時代にかけて、この地を支配した山田氏が住んだ城館です。
山田氏は、志那・矢橋とともに当時の良港であった山田港を押さえるためこの地に城を構えたといわれています。

山田城は現在の市立武道館の辺りに築かれていたそうです。現在、遺構はありませんが武道館の表門の所に案内板が設置されています。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=黒川氏城を目指す為、山田バス停から近江鉄道湖国バス➡JR➡甲賀コミュニティバスを乗り継いで鮎河口バス停に向かいました。

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しんちゃん

続・野口城 (2024/10/14 訪問)

向小島城の代替・野口城の続きです。向小島城の投稿なのに、なんで野口城が続いているのか? と思われるかもしれません。
ごもっともです。答えは近くにある良い山城だからです。行ってみたかったんですよ。
南側が旧登城道になりますが、ここはお勧めできません。北に新しい道が付いているので、訪問される方はここから登ってください。この城は訪れて損は無いと思います。主要部と思われる曲輪が三つあります。まず最初に訪問する南西の曲輪。
そして尾根沿いに続く北の曲輪と南東の曲輪です。尾根上に逆Vの字に城域が展開し、ある意味一城三郭の様相を呈しています。
南西の曲輪は急峻な切岸に守られ(ここを直登、直下するはめに)、北と南東の曲輪は尾根上を堀切で幾重にも遮断し斜面を畝状の空堀で防御しています。それほど手入れもされず、雑草が生い茂っていますが遺構はしっかりと残っています。

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しんちゃん

関ヶ原古戦場記念館 小早川秀秋 (2024/10/19 訪問)

菩提山城に行ったついでに関ヶ原古戦場記念館にも寄って来ました。小和田教授がネットで推薦していた本を購入するのが目的の一つです。私にはちょっと物足りないですが、いろいろと面白い情報も載っています。
私は、いずれ小早川秀秋に対する評価が変わるのでは‥?と思っています。日本には江戸時代から続く、若者を侮る「悪い文化」がありますが、秀秋のことは豊臣秀吉も徳川家康も警戒していたと思います。何といっても高台院(ねねさん)の血のつながった実の甥ですからね。
ねねさんを慕う強力な武将は何人かいて、彼らを仮に木下派(高台院派)と呼称すれば、秀秋は木下派のプリンスになるわけです。秀頼が秀吉と血が繋がっていないとしたら、秀秋は将来秀頼に対する脅威になる可能性もあったと思います。
関ヶ原合戦の前でも秀明、福島正則、加藤清正ら木下派の武将たちは十分侮れない勢力であったけど、合戦後は合わせて150万石ほどの強大な勢力になりました。彼らと豊臣恩顧の武将らの仲の良さを考えれば、その中心となる可能性のある秀秋は徳川幕府に対して脅威と感じられた可能性があります。私は秀秋の死に不穏なものを感じています。
関ヶ原の合戦に関する研究では、私は白峰氏の研究が抜きんでていると思います。小和田教授も間接的にではありますが、大谷吉継の陣の背後に宇喜田秀家の陣が有ったことは認めています(地方紙研究411)。実際に曲輪や四条の堀切もありましたね。
木下派の武将たちとの関係性から秀秋が最初から東軍側で有ったことは想定でき、西軍の実質的大将である宇喜田秀家の陣の眼前に陣を張った秀秋の豪胆さは、これまでの評価を覆すのに値するのではないでしょうか。

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ぴーかる

中尾城の支城 (2024/11/03 訪問)

【大山出城】
<駐車場他>次の中尾城で記載します。

<見所>虎口跡・土塁・主郭
<感想>城びと未登録の大山出城は1549年頃に足利義晴・義藤(のちの義輝)父子によって築城されたとされます。中尾城の北西部に位置しており、中尾城の出城として造られたとされるので中尾城での投稿とさせていただきます。
 中尾城から北西部に向かって降り下るルートがありますので、そこから来ました。城跡の曲輪は大きく2段構造になっていて、南側は山のピークで緩傾斜を広く取った曲輪、北側は大きく下がってダイナミックな削平地があります。北端に土塁があります。南のピークと北の下段の切岸を凄く削った感じがあります。また曲輪の北西端に石積み跡の虎口のような跡があります。尾根以外の周囲は崖になっています。中尾城をも含めて1番広い曲輪なので城に入る時、ここに居館(仮の御所)があったかとも考えられます。合戦籠城となった時に上方の中尾城に入るという感じ。でも電気通ってないのにTVアンテナが3つ程捨てられていた(不法投棄?民家があった?)のが気になりました。

<満足度>◆◆◇

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しんちゃん

尾根を断つ堀切と土橋 (2024/10/19 訪問)

小島城はそれほど技巧的な構造では無く、斜面に無数の腰曲輪が続いています。最高所とそこから三段ほど続く腰曲輪が主要部になるようです。構造的には長野県の林大城に似てますね。最高所を本曲輪と仮定して、本曲輪の背後に大きな堀切があり尾根を遮断し、土橋がかかっています。この土橋の存在感が素晴らしく、残存石垣と並んで、当城の見どころだと思います。
下三段目の腰曲輪の西下には石垣が残っています。各所に石が散乱しているので、戦国期にも利用されていたのではないでしょうか。
土岐康行が足利義満に滅ぼされたのが明徳元年(1390)の頃らしいので、遺構との関連が興味深いです。曲輪の配置などは記憶が薄れかかって来たので「余呉くんのお城のホームページ」さんの縄張り図を参考にしています。いつも感謝しています。
城址中腹から下まで大きな竪堀が切られていて、登城道にもかかっているようです。

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しんちゃん

芭蕉句碑 (2024/10/19 訪問)

菩提山城の投稿ラストです。本曲輪は堀切で仕切られ南は二の曲輪になります。西の虎口から台所曲輪(調査のため立入禁止)に至り、台所曲輪の南は三の曲輪に続いています。台所曲輪の東の道から西の曲輪に北上し、北側の遺構まで確認しています。
竪堀や空堀もいくつか見られ、遺構も充実しています。また比較的大規模な城址ながら、曲輪がコンパクトに配されていて散策もしやすいです。今回は三の丸の写真は割愛しています。麓の芭蕉句碑も省略の予定でしたが、一枚省いて載せました。
此の山の 悲しさ告げよ ところほり  はせを翁(芭蕉)
と刻まれています。元禄4年ごろの大凶作の際に、人々がところ芋を掘ってしのいでいる姿を詠んでいるようです。各地を歩いて旅していた芭蕉翁は困窮する人々の生活を身近に感じていたようです。

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chiroru

もう一度は行かないと (2024/11/08 訪問)

東京から京成本線に乗り、大佐倉駅で下車。「えっ(・_・;)どこ?どっち?」となり駅の地図看板みて冷静に頭の中に入れてきた
進路おもいだしながら、線路の側道を歩きながら直進していくと、もしかしてあれかな?とちょっと安心と嬉しさが。
10分ほどで東山虎口に到着です。

東山虎口入った通路は、人が一人通れるくらいの幅で土塁もいい。東山に登る(階段が足元少し不安定)。
空気気持ちよくて見晴らし良かったです。
京成本線と遠くには順天堂大学が見えるし、空気が澄んでくる冬には男体山も見えるんだよーって案内所の方が教えてくれました。

なんとなく順路に沿うようにして進んで、大堀切に向かう通路はここも狭いし急です。いろいろ考えて当時はつくられていたんだろうな
と思えます。案内の看板が要所ごとにあるので助かります。

各郭を満遍なく見学はできなかったけれど、大堀切の狭いとこ抜けて東山馬場まで降りて案内所で続100名城のスタンプ。

帰りはJR酒々井駅から乗車したかったのでタクシー呼んで、待っている間に案内所の方が「ここは、そのまんま残っているから
すごいところななんだよ、またゆっくり来てね、早い時間に来てもらえるとガイドさんと歩いて怖い思いもしなくていいし、詳しく
教えてもらえるよ!」って。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)16日目:荒神山城 (2024/10/07 訪問)

山崎山城から徒歩10分くらいで、荒神山神社遥拝殿(35.231152、136.204720)に着き、そこから徒歩30分かけ本坂コースを登り、荒神山神社(35.233407、136.197419)に着きました。

築城年代は不明のようですが、観音寺城主六角氏の重臣日夏氏累代の居城で、日夏安芸守が荒神山上に城を築いたそうです。(日夏氏は、六角氏の庶流)
山頂にある荒神山神社は、城との関係は定かではないようですが、由緒書きによれば、1864年(慶応4年)神仏混淆を廃止となるまでは、お寺と神社が同居していたそうです。
荒神山神社は、明治維新までは奥山寺といい、宗派は天台宗で織田信長によって比叡山が焼き討ちされたのと前後して奥山寺も焼き払われたそうです。
神社が城域であったならば、信長の近江侵攻までには廃城になっていたそうです。
関ヶ原合戦後、井伊氏が近江に封ぜられた際に、佐和山・磯山とともに新たな築城の候補となったとされますが、最終的には金亀山(彦根城)に築城されました。

本坂コースの登りは短いですが70歳手前の自分には、かなりきつかったです。
荒神山神社周辺に、曲輪らしき削平地と石垣を確認しました。下山途中に雨が降りはじめました。
攻城時間は65分くらいでした。(内訳は本坂コースの登り30分、下り25分、見学10分)
次の攻城先=永原城を目指す為、河瀬駅へ向かう途中、荒神山城下山途中に降りだした雨が強雨に代わり風も吹き始めました。
途中、傘からカッパに切り替えましたが、時すでに遅く、上から下までびっしょり濡れてしまいました。
河瀬駅で服を着替え、本日この後の攻城予定=永原城/桜生城/星ヶ崎城の攻城を断念し、本日の城巡りは、ここをラストにしました。
(上記3城はホテルに帰り、予定を組み直して10/9(水)に攻城することにしました)
本日の宿泊先に向かう前に、八日市駅でコインロッカーより荷物を取り出し、本日の宿泊先の滋賀県の草津駅に向かいました。
本日の攻城徒歩=32248歩、攻城距離=22.57Kmでした。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)16日目:山崎山城 (2024/10/07 訪問)

肥田城から徒歩30分くらいで、山崎山城址無料駐車場&登城口(35.226116、136.204920)に着きました。

築城者は誰なのかは不明のようですが、近江守護の佐々木六角氏配下の在地領主で、1568年(永禄11年)から始まった織田信長の近江侵攻に伴い信長に従った山崎氏が、信長の命により築いたと考えられているようです。
平成6年度に彦根市教育委員会が行った発掘調査により、小規模ながらも石垣を設けた城であったことが分かりました。
この石垣は、安土城の石垣に類似していることから、築城時期は安土城が築かれた天正年間(1573~1592)の初期頃と推定されています。
なお、山崎氏は、豊臣秀吉の時代には摂津の三田(現在の兵庫県三田市)に移封されており、この時期に廃城となったものと考えられています。

城址は公園として整備されており、石垣を確認するのを忘れました。
攻城時間は30分くらいでした。次の攻城先=荒神山城へは徒歩で向かいました。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)16日目:肥田城 (2024/10/07 訪問)

越川城(城びと未登録 滋賀県彦根市)から徒歩10分ちょっとで、城跡説明板前(35.201349、136.207394)に着き、その後、土塁豪跡(35.199217、136.205128)➡水攻堤(35.206342、136.204678)の順番で廻りました。

築城年代は定かではないようですが、大永年間(1521年〜1528年)に六角氏配下の高野瀬隆重によって築かれ、隆重・秀隆・秀純(秀澄)が居城としたと云われています。
高野瀬氏は代々六角氏に仕えていたが、高野瀬秀隆の代に浅井氏に付き、1559年(永禄2年)の「肥田城の水攻め」、1560年(永禄3年)の「野良田表の合戦」の2度にわたり、六角定頼・義賢(承禎)父子に攻められました。六角義賢は城の周囲に土塁を築き、肥田城を水攻めにしたが、土塁が崩れ、水攻めは失敗に終ったそうです。
浅井氏が織田信長によって滅亡すると、高野瀬秀隆は柴田勝家に仕えますが、1574年(天正2年)越前一向一揆に敗れて自害したそうです。
その後、1574年(天正2年)蜂屋頼隆が城主となり、1584年(天正11年)には長谷川秀一が城主となりますが、長谷川秀一が朝鮮の文禄の役で病没すると廃城となったそうです。

城址は、田んぼの中にあります。山王祠があり、城跡碑、説明板もありました。
移動時間を含め、攻城時間は30分くらいでした。次の攻城先=山崎山城へは徒歩で向かいました。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)16日目:越川城(城びと未登録 滋賀県彦根市) (2024/10/07 訪問)

吉田城(城びと未登録 滋賀県豊郷町)から徒歩35分くらいで、石碑前(35.199302、136.212137)に着きました。

越川城の築城年代等は不明ですが、肥田城の支城として築かれたようです。
守備したのは肥田城主高野瀬氏の重臣久木氏とされていますが、久木氏の居城は太堂城とも云われていて、よくわかりません。
久木氏は高野瀬氏とともに江北浅井氏の傘下として、1559年(永禄2年)肥田城水攻めや、その翌年の野良田表の合戦に従軍しました。
浅井氏滅亡後は主君高野瀬秀隆とともに柴田勝家に従ったようです。
1574年(天正2年)信長の命により、勝家が越前一向一揆の鎮圧に出陣したため、久木氏もこれに従軍しました。
しかし、安居の戦いで高野瀬秀隆とともに久木定邦・隆致は自害して果てたようです。

遺構はなく、石碑があるだけです。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=肥田城へは徒歩で向かいました。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)16日目:吉田城(城びと未登録 滋賀県豊郷町) (2024/10/07 訪問)

目加田城から徒歩5分くらいで、石碑説明板前(35.185827、136.232228)に着きました。

吉田城は佐々木秀義の六男、厳秀を祖とする吉田氏の居城です。
戦国時代の状況は不明ですが、京極材宗や辻与兵衛が在城したといわれており、1571年(元亀2年)に織田信長の攻撃により落城するとそのまま廃城になったと思われます。

愛知神社そばにある造り酒屋の岡村本家の東側の小道沿いに石碑と説明板があります。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=越川城(城びと未登録 滋賀県彦根市)へは徒歩で向かいました。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)16日目:目加田城 (2024/10/07 訪問)

下八木口バス停から徒歩30分ちょっとで、目賀田城跡公園入口(35.186797、136.235087)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、目賀田氏によって築かれたと云われ、観音寺城の支城のひとつみたいです。
目賀田氏の出自については定かではないようですが、鎌倉時代には御家人として登場しているそうです。
室町時代には近江国守護佐々木氏の重臣となり、その後は目賀田氏も分家して佐々木六角氏、京極氏、出雲国の尼子氏に仕えたそうです。
織田信長が近江国に進出した後は織田氏に従い、本能寺の変により信長が倒れると明知光秀に従って山崎の合戦に従軍し、羽柴秀吉によって所領を没収されました。

現在、城址は目賀田城跡公園として整備されており、分厚い土塁があります。また、本丸跡にあたる公民館裏に石碑が立っています。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=吉田城(城びと未登録 滋賀県豊郷町)へは徒歩で向かいました。

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カズサン

【下総 成田山新勝寺】千葉県成田市 初参拝 (2024/11/08 訪問)

 孫の運動会を控えた前日に前々より成田山に行きたいと言ってた家内の要望に応えて初参拝しました。
 首都高速を通過するのは怖いので遠回りですが圏央道をぐるっと移動して東関東道から成田ICを出て成田山の駐車場を目指す。

 駐車場:成田山西下の土屋駐車場利用、800円/回
 参考資料:グーグルマップに依る。

 成田不動さんで有名で節分の豆まきでは歌舞伎の名優、横綱、野球有名選手が揃っての豆まきが有名で、家内もそれに綾かって成田山に行きたいと思っていたのでしょう、願いが叶いました。
 成田山は高い丘陵に鎮座し城郭の構え其の物です、山門街の町中を通て総門、仁王門、大本堂境内と石階段を二段に登って行きます、結構きつい急階段です、光輪閣よりエレベーターで昇るとこも出来ます。
 私たちは土屋駐車場から坂道を登って、屋台店屋街を通って西より、釈迦堂、大本堂、同境内、三重塔を見学参拝し、大本堂に入り参拝、家内はおみくじを引き大吉、海外の方も多く参詣されていました、大本堂の裏手に行き、石庭と仏像が並べられてる裏庭を眺める。
 境内では菊祭り、大輪の三本揃菊の鉢が並べられていました、懸崖造りの菊はまだ花が咲き始め状態でもう少ししたら見事な造りに在るでしょう。
 大本堂より一段更に登って平和大塔の方向へ移動、開山堂、額堂ここには沢山の額が飾られて居りまた7代目市川団十郎の石像と有り成田屋との関係が分かります、光明、奥の院、清滝権現堂は色彩鮮やか、弘法大師像、醫王殿、平和大塔(多宝塔)と廻り参拝。

 携帯食をPAで食べて居ましたが昼を大幅に過ぎて門前町の参道街で昼食を頂く、成田山名物うな丼うな重の匂いが漂いますが結構高く、ざるそばに天ぷらうどんで済ませました、午後の2時過ぎと成り、光輪閣の隧道を通て土屋駐車場へ戻る。

 金曜日ですが結構な人出でした。
 

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トク

大津城と三井寺 (2024/11/11 訪問)

大津城跡に行き(写真①)、そこから琵琶湖の景色を眺めた後(写真②)、西へ2kmの高台の所にある三井寺(みいでら)を訪れてきました(写真③④⑤)。この寺は、天台寺門宗の総本山で、天智・天武・持統天皇の産湯があったとされ御井(みい)の寺と呼ばれたのが名前の由来だそうです。

また紫式部の父「藤原為時」は、越後の守として赴任していた最中に、娘の式部(まひろ)が死去してしまったため悲嘆に暮れ、この三井寺に出家し晩年を過ごしたと伝わっています。

そして関ケ原の前哨戦「大津城の戦い」では、毛利元康・立花宗茂・筑紫広門の筑後勢15,000がこの三井寺に陣を敷き、眼下の大津城を攻めます(写真⑥)。しかし守る京極高次も善戦し、なかなか城は落ちません。そこで宗茂は、大友宗麟が臼杵城で所有していた国崩し(大砲)を取り寄せ、この三井寺の観音堂から大津城めがけて何と砲撃! 高次はこれに驚いて降伏し開城しました。関ケ原本戦の1日前の出来事でした。私はまた想像図を作ってみました。こんな感じだったのではないでしょうか?(写真⑦)。

【余談1】近江ちゃんぽん
大津駅前で近江ちゃんぽんを食べました(写真⑧)。長崎より麺は細いし豚骨でもないし・・・と思っていたら「通の食べ方」と書いてあり、「この酢をかけよ!」とあったのでかけて見ると味が一変! さっぱり味でとても新鮮な感覚のちゃんぽんでした(これが近江の味か~!🤔)。

【余談2】東横インフォトコンテスト(珍百景)
大津城跡から今夜泊まる「東横イン琵琶湖大津」が見えたのでそこへ行こうとすると、電車軌道ではないアスファルト道路の上を、何とでっかい電車(四両編成)が走っている?(写真⑨)。そしてホテルの前で間近で見ると、そのでっかい電車は道路の信号が赤になると車といっしょに止まり、青になるとまた車と一緒に動き出しました(何これ~😱珍百景?)(写真⑩)。
 

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カズサン

成田山参拝の帰り初探訪 (2024/11/08 訪問)

 成田山新勝寺に参拝し、その帰路に寺台寺跡を目指し南下の寺台城跡案内指示板は目視確認したのですが駐車地JA跡地が分からず、寺台城跡山麓を一周して断念し、北方の長沼城を目指す。

 駐車場:神社鳥居より西に150m程の所の長沼保育園南の空スペースに駐車、保育園の方に了解を頂く。
 参考資料:城郭放浪記さん、古城盛衰記さん、城びと投稿の皆さん、グーグルマップに依る。

 長沼保育園から集落の道を東へ約150m程歩き、長沼市民の森の大きな標柱が立ち、道より一段高い曲輪に石碑、長沼城址の由来、長沼事件の長沼下戻記念碑(長沼村民苦難の歴史が記載されています)、稲荷神社の鳥居を潜り石階段を登ると中腹に朱の稲荷神社鎮座し、スロープを登ると本曲輪公園広場、その手前に一段下がって枡形虎口の様子、祠が数基祀られている。
 本曲輪南に樹木に囲まれて長沼城址標柱が立つ、結構広い広場で公園整備、北側に櫓台風の見晴台が有ります、登って眺望を観察、北遠くに利根川、干拓された田園が広がっています3時過ぎ西日が当たって奇麗に輝いて居ました。
 北西側に櫓台?土盛り、残念ながら西側の横堀は見学を失念しました。
 長沼城址は独立丘陵に築かれた城で周囲に堀が廻っていた様です。

 歴史は案内板によると、中世戦国期に長沼五郎武俊の居城、長沼氏は結城朝光の末葉で下野の長沼に住した五男朝良の後胤であり、五世の孫朝教がこの地に居城を設けた。長沼五郎はその子孫である。
 明治に入り村民苦難の長沼事件が起こり、解決に福沢諭吉が携わっており、村人の諭吉への報恩が熱く語られています。
 

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todo94

日帰り羽越ドライブでの攻城⑥ (2024/10/20 訪問)

狩川城から一気に県境を越えての転戦です。古舘城址公園はすぐに見つかりました。案内板もあったのにそこからの登城口がどうしても見出せませんでした。無理やり進んでみたら相撲場跡に出られました。因みに下城時も最後に登城路が分からなくなってしまいました。郭の表示板など経年劣化が進んでいてもう少し整備の手が入れば見どころの多い人気の城となりそうなのですが、鉄塔から先の登城路も見つけにくく現状は攻略難易度が高い城と言えるでしょう。おしゃぎり会館にあった三番平後背の巨大堀切の記述についてはちょっと盛りすぎだと思います。最上部はともかく、下の方は自然地形のようでしたので。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)16日目:和田山城 (2024/10/07 訪問)

河曲バス停から徒歩10分弱で、和田神社鳥居横の空スペース(35.1728055、136.1903667)に着きました。

和田山城の築城年代は定かではないようですが、六角氏の居城・観音寺城の支城として、六角義弼によって築かれた城のようです(和田氏による築城説もあり)。
義弼は家臣の田中治部大輔を城主に任命しています。
1568年(永禄11年)の織田信長による近江侵攻の際には六角氏側の最前線の城となりましたが、箕作山城が落城すると城兵は戦わずに城を捨てて敗走しました。

和田神社にある城趾碑から登り、平坦になったところにあるピンクリボンを右に回れば城域に入ります。
資料では遺構は土塁、喰違虎口、櫓台とありましたが、写真を撮ると雑木林にしか見えません。
攻城時間は35分くらいでした。次の攻城先=目加田城を目指す為、河曲バス停から近江鉄道湖国バスで下八木口バス停に向かいました。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)16日目:佐生日吉城 (2024/10/07 訪問)

佐生バス停から徒歩2~3分くらいで、共同墓地登城口(35.173872、136.178605)に着きました。

佐生城の築城年代は定かではないようですが、観音寺城の支城として六角氏の重臣である後藤氏が築いた城です。
後藤氏は藤原秀郷の子孫といわれ、平素は山麓の後藤館に居住しており、その詰城として築かれたようです。
後藤但馬守賢豊は進藤氏とともに「六角氏の両藤」と呼ばれ、六角義賢のもとで宿老として浅井攻めなどに活躍しました。
1563年(永禄6年)に義賢の子である義弼(義治)に謀殺されると「観音寺騒動」の発端となり、1568年(永禄11年)には織田信長によって観音寺城とともに落城させられました。

主郭部周辺に石垣が良好に保存されており、主郭には城主であった後藤但馬守城址の碑が建てられています。
攻城時間は30分くらいでした。次の攻城先=和田山城を目指す為、佐生バス停から近江鉄道湖国バスで河曲バス停に向かいました。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)16日目:箕作城 (2024/10/07 訪問)

おーみ満喫パス(20141007)を利用して、今日1日の交通費(近江鉄道/近江鉄道バス/近江鉄道湖国バス)を節約します。(近江鉄道はICカードが使えないので、おーみ満喫パスを使えば改札が楽です)
今日は移動距離が長いので、ホテルでの朝食は抜きで出発しました。
八日市駅停バスから近江鉄道湖国バスを利用して山本バス停に着きました。
そこから徒歩7~8分くらいで、箕作城登城口(35.139660、136.184269)に着きました。
登城口は貴船神社の階段付近(35.1386194、136.1830392)にもありますが、山本バス停からならこちらの方が近いです。(2~3分は違います)

1467年(応仁元年)に起きた応仁の乱で、六角高頼の観音寺城に対抗して、六角政堯が築城したそうですが、築城年は定かではないようです。
1550年(天文19年)頃、六角定頼が改修しています。
1568年(永禄11年)に織田信長が足利義昭を奉じて上洛する際に観音寺城とともに落城し以後は廃城となったようです(観音寺城の戦い)。

登城路は手入れが行き届いており、快適ですが、尾根までの階段はきつく、大汗をかきました。
攻城した碑は曇空でしたが、主郭からの眺望はまあまあ良かったです。部分的に石垣(主郭の北西あたり)も残っています。
帰ってから気づきましたが、堀切も石垣の写真も撮っていませんでした。頭に記憶されているだけです。
攻城時間は55分くらいでした。次の攻城先=佐生日吉城を目指す為、山本バス停から近江鉄道湖国バスで佐生バス停に向かいました。

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