大友宗麟、大友館からの続き(10)です。
大友家没落の原因となった地「高城」、ここはかつて、大友全軍と島津全軍が激突した場所でした。
1578年、島津に追われた日向の伊東義祐が宗麟に助けを求めに来ると、宗麟は娘が嫁ぐ伊東氏を助け日向の国(宮崎県)を奪還するため、臼杵から豊後全軍5万をもって出陣します。しかし宗麟は延岡まで来たところで、何故か日向の国を(ヒムカ)と名付け、全国からキリシタンを集めたキリストの理想郷(ムジカ)の国をこの地に作ろうと、進軍を止め神社仏閣を壊し、その建設に没頭し始めたのです(それが宗麟の真の目的だったのでしょうか?)。
しかし主力軍4万はそのまま南下し、山田有信と島津家久が籠る高城を取り囲みます(写真①②③)。ここで3カ月経っても宗麟からの攻撃命令は出ません。それどころか宗麟はムジカの建設にますます没頭して行きました。宗麟は理想郷が完成するまで島津に邪魔されないよう牽制するだけで、本気で戦をする気はなかったのかもしれません。そんな主君に家臣たちはいらだち、総大将を任された田原紹忍(宗麟の正妻奈多夫人の兄)と、血気に逸る田北鎮周や佐伯宗天などの重臣との間で、口論が陣中で始まってしまいました。もはや大友軍はまとまりがなくなったようです。
その時です! 有信を助けるべく当主の島津義久を総大将とする島津主力軍3万が根白坂に到着します。そして島津軍は坂を下りこの高城川の近くまで攻めて来ました。ここで大友軍が応戦するため松山之陣を下りると(写真⑥)、島津軍はなぜかUターン、一斉に逃げるように引いて行きます。「島津軍など恐れるに足らず!」。そしてこの時、田北鎮周や佐伯宗天らは、薩摩の当主義久の旗印を発見します。その旗印を見たとたん「敵の総大将じゃ~! 今が義久の首を獲る千載一遇のチャンス!」とばかりに暴走、島津軍を追撃し深追いしました(これが罠です!)。すると両側に潜んでいた島津義弘と島津以久に取り囲まれます。危ないと思った後詰の田原紹忍は彼らを助けに行きますが、今度は高城にいた山田有信と島津家久が城を出て、紹忍の背後を囲みました。これが島津得意の「釣り野伏せ」です。四方を完全に囲まれ、見事に罠にかかった大友軍は大敗。田北鎮周や佐伯宗天はこの切原川の河原で戦死したそうです(写真④⑤)。
戦が終わると、松山之陣の後方の丘に、山田有信により大友軍と島津軍の戦死者を供養したとされる供養塔が立てられました。そしてその地は、「宗麟原」と名付けられていました(写真⑦⑧⑨⑩)。
この後、大友軍は豊後に逃げ帰ろうと北へ敗走します。対する島津軍は耳川で追いつきます。そこで大友軍は、さらに大量の戦死者を出してしまいます。次は、大友軍がとどめを刺された耳川と、宗麟の本陣があった無鹿を訪れます。
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