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ダイエティシャン

十神山城3️⃣中十神 (2025/12/16 訪問)

中十神にも行きました。山頂から分岐まで下り、分岐から中十神までは2、3分でした。

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ダイエティシャン

十神山城2️⃣登城道、山頂 (2025/12/16 訪問)

登城道は整備されていて、道標もあり迷うこともなく山頂に着きました。この日は近辺で工事音も鳴り響き、熊等の恐れも少なく感じました。草の茂みの間から、中海の海岸、なぎさ公園(キャンプ場)が見えました。

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ダイエティシャン

十神山城1️⃣駐車場、登城口 (2025/12/16 訪問)

尼子十砦の一つと十神山城を攻城。駐車場から十神山山頂まで約10分ほどでした。山頂は草に覆われ、眺めは良くなかったです。

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トク

【とことん名護屋城-⑥最終回】加藤清正と小西行長 (2025/11/23 訪問)

最後に私がどうしても行きたかった、この二人の陣跡を訪れました。なぜならば、この二人なくして朝鮮出兵は語れないからです。この二人の対立が火種となり、他の武将たちをも巻き込んで、それが関ケ原へとつながって行きました。

加藤清正の陣は、名護屋城博物館から西へ800mの場所にありました(写真①②)。小西行長の陣は、名護屋城博物館から南東へ500mの地にありました(写真③④)。どちらの陣も遺構は残っていませんが、ここに立ち、目を閉じて、耳を澄ますと、先鋒として渡海し、先を競うように先陣を切って戦った、最強の兵士たちの声が、どちらの陣からも聞こえてくるような気がしました。

さかのぼる事、二人の争いは秀吉の九州征伐の時に始まります。天草氏を攻めた本渡城の戦いで、キリシタン大名である小西行長は、天草のキリシタンたちは保護しようとしたのに対し、加藤清正は禁教令を理由に強引に皆殺しにしてしまったのです。この時から二人は犬猿の仲となります。そして両者は、文禄の役では先を競って平壌まで攻めて行きました。そしてここで戦を中断し、明の使節を迎え和平工作を計ろうとした行長に対し、明国を攻め続け徹底的に戦う姿勢を見せる清正、ここで二人は再び対立します。よほど馬が合わなかったようです。

そして明との和平交渉が決裂し、再び出兵した慶長の役では、負け戦が続き不利な状況になってきたため、戦争の早期終結へと、明との交渉のパイプ役である小西行長を支援する石田三成や大谷吉継らの「文治派」(写真⑤⑥)。最前線で戦ったあげくに負け戦は自分たちのせいと三成に讒言されて憤慨する加藤清正、同じく渡海して戦い、清正を支援した福島正則や黒田長政らの「武断派」(写真⑦⑧)。清正と行長の二人の対立が火種となり始まった争いは、徳川家康が矛先を行長から、自らの邪魔をする三成に向けさせて武断派をさらにたきつけ、前田利家が両者を仲介するも亡くなると、武断派七将は三成襲撃事件を起こし、それがついに全国の諸大名たちまでをも巻き込んだ、関ケ原の戦いへと発展して行った事は、皆さんもよく御存知と思います。

「太閤が 睨みし海の 霞かな」

名護屋城の本丸には、このような歌碑が立っています(写真⑨)。豊臣秀吉は、この二人の争いを望んではいなかったと思います。秀吉がもう少し長生きしていれば、歴史はどう変わっていたのだろうか?🤔などとつい思ってしまいました。

以上で(とことん名護屋城)を終わります。全6回読んでいただき、ありがとうございました😊。
 

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赤い城

鞆城 広島県福山市 (2025/12/06 訪問)

城びと未登録ですが信長に追放された足利義昭を迎えて毛利氏が築いた城、歴史的にも意味を持つ城です。
本丸には歴史民俗博物館が建ち、有料駐車場もあります。
ここまでの道はやや狭く、観光客もそれなりにいるので海辺の駐車場を利用するのがよいかもしれません。

駐車場からすぐに石垣がありますが発掘調査で出てきた石を再築したもので当時の姿とは異なるようです。
この日は歴史民俗博物館は展示替えのため休館、本丸からは瀬戸内海が望めます。
本丸の南西側には石塁が僅かに残っています。

下山し、鞆の浦の街を少し散策しました。
二の丸と三の丸の石垣も少しだけ残っています。
派手な観光地ではありませんが何となく風情を感じる街並みです。

【見どころ】
 ・本丸に少し残る石塁
 ・本丸からの眺望
 ・鞆の浦の街並み

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しんちゃん

栗原山三画点 長宗我部盛親陣 (2025/10/19 訪問)

栗原山の山頂・三画点に到着しました。途中には扁平地がたくさんあった。関ヶ原の周囲の山々や丘陵はほぼ陣地に転用できる。
赤色立体地図で見るとすごいことになるんじゃないかな? 個人的には関が原の周囲の山々全部を史跡認定したいぐらい。明治の頃から現代まで、けっこう遺構の破壊や開発が進んでしまったのではないだろうか?
一応・・自害ヶ岡も「戸田左門覚書」では石田三成の陣があったと書かれているので・・今は新幹線と高速が通っている。
本当に三成の陣が有ったのかは分からないけど・・だから一応。。。

だいぶ寄り道したけど、そこから長宗我部盛親陣跡に進みます。神谷氏の「関ヶ原合戦図志」や参謀本部の「日本戦史関原役」の挿絵だと長宗我部陣は比較的麓にあるけど、こちらの長宗我部陣はけっこう比高の高い山の中腹にある。ここからは眺めが非常に良いです。
ここからだと大垣も良く見えるだろう。毛利軍が大垣城の後詰を考えていたのなら、この場所にも兵を配置したほうが合理的な気がする。
ただ合戦の際には関ヶ原が良く見える場所に陣を移した方が良いだろう。当然吉川も南宮山に登っているはずだ。
関ヶ原の戦いは、誰がどう転ぶかわからないので常に戦場を俯瞰しておく必要が有ると思う。吉川は合戦の前日に家康と和睦を行っているが、小早川や東軍の豊臣恩顧の武将たちの動き次第では、参戦を余儀なくされると思うから。
参謀本部の比定した毛利秀元陣跡からは伊勢街道しか見えない。しかもなぜここにだけ堀や土塁などの遺構があるのか? 史跡認定すらされていないのが、なんとも怪しい。

余談ですが「日本戦史関原役」ヤフオクで購入しました。けっこう古い本だけど安かったです。良くも悪くも関ヶ原史に大きく関わってる書物なのでとりあえず読んでおこう・・と

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しんちゃん

静けさや・・ (2025/11/23 訪問)

松代城の前身は武田信玄の命で築かれた「海津城」とされています。近くには同じ長野県の日本百名城・松本城がありますが、松本城の喧騒に比べて松代場周辺はとても静かです。
二日も続けてあんな混雑する城は疲れてしまうので、松代城の静けさはとても助かります。太鼓門や南北の櫓門、石垣などが復元されており十分に楽しむことが出来ました。

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いんげん丸虫

能登野城 福井県若狭町 (2025/11/24 訪問)

約100mの丘城です。
八幡川沿いにあり土塁の廻った3つの
曲輪に堀切、横堀が配置されてます。
バラけてしまってますが石積みも見ら
れますね。

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朝田 辰兵衛

交番留守中で安堵…✌ (2025/11/03 訪問)

ここは,世田谷の深沢城以来の危険ポイント。交番が留守中でなければ,ほぼほぼ職質は免れないでしょう。職質されたら…たぶん,撮影データ全消去されたうえに,長時間拘束されたと思います。
埼玉県では,公共交通機関が存在しないような厳しい場所がありますが,違う意味で厳しい場所をポチできました。

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駿府城

田安徳川家史料寄託記念「徳川御三卿 田安徳川家~静岡藩主家達の生家~」を開催します!

明治時代に静岡藩主となった徳川家第16代当主徳川家達(いえさと)は、徳川御三卿(ごさんきょう)のひとつ田安徳川家の出身です。田安徳川家からこのたび貴重な資料が静岡市へ“寄託(=大切な資料を預け、専門的に保管・活用してもらうこと)”されたことを記念し、特別企画展を開催します。
八代将軍吉宗の子・宗武(むねたけ)を初代とし、将軍家を支えてきた名家・田安徳川家。これまで大切に受け継がれ、人目に触れる機会の少なかった書画や古文書を中心に、歴代当主たちの足跡を紹介します。静かに歴史を伝えてきた資料を通して、田安徳川家の姿にゆっくりと触れていただける企画展です。どうぞこの機会にぜひお立ち寄りください。

◆会期:令和8年1月24日(土)~3月8日(日)9:00~18:00(展示室入場は閉館30分前まで)
◆会場:静岡市歴史博物館 3階企画展示室
◆休館日:月曜日(国民の祝日・休日の場合は開館、翌平日休館)※2月2日(月)・16日(月)は臨時開館
◆観覧料 ※詳細は添付画像をご覧ください。

静岡市歴史博物館では、その他にも学芸員によるトークや工作体験など申込不要・無料でご参加いただけるイベントを実施しています。詳細は静岡市歴史博物館公式HP(https://scmh.jp)をご覧ください。

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atsufumi

武田勝頼公もお越しになった!いざ戦国へ (2025/12/12 訪問)

🍁 武節城(ぶせつじょう)攻略! 戦国の風を感じる山城跡
城攻め!今回は豊田市北部の要衝、武節城へ参上⚔️!

道の駅から「こちらからどうぞ!」の看板に誘われ、お手軽にタイムスリップできるのが最高です。山城初心者にもおすすめ!

⛰️ トンネルの上に眠る山城のロマン
国道トンネルの真上に位置するこの城は、まさに要害の地!

主郭や曲輪を巡りましたが、惜しくも楓の葉は見事な散り際を迎えた後…!🍁 その絨毯だけが、秋の名残を教えてくれました。

ですが、ここからが本領発揮。

🛡️ 土の城郭、武士の息遣いを追う
武節城の魅力は、人工的な石垣ではなく、土の堀切や力強い土塁といった、戦国時代そのままの姿を残す素朴な造り!

自然の地形を巧みに利用した、昔ながらの山城の構造がたまりません!

土塁の力強さや、堀切の深さを間近に見ると、当時の武将たちがこの地で繰り広げた緊迫のドラマに思いを馳せてしまいます。

手軽に登れて、歴史を深く感じられる武節城。

知られざる戦国のロマンを求めるなら、ぜひ訪れてみてください!

#武節城 #戦国時代の城 #山城巡り #土の城 #土塁 #堀切 #豊田市 #道の駅からのアクセス抜群 #城活

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atsufumi

落ち葉さらさら (2025/12/12 訪問)

🏯 大給城(おぎゅうじょう)探訪記!絶景と巨石に心躍る🔥
豊田市の大給城へ、いざ出陣!

駐車場から続くのは、息をのむような急坂。この季節、落ち葉の絨毯に足を取られそうになりながら、一歩一歩、慎重に歴史を登っていきます。

🐻 噂の「KUMAさん」遭遇?(笑)
最近巷で噂の「KUMAさん」🐻の気配は残念ながらなし!ちょっとヒヤヒヤ、でもちょっぴり期待しちゃうドキドキ感を胸に、山道を突き進みました。

✨ 圧倒的な遺構の数々
巨石!

石垣!

壮大な堀切!

武者たちが駆け抜けたであろう、ロマン溢れる遺構の数々に心奪われます。まさに**「山城の醍醐味」**!感動の連続でした!

🏙️ 物見からの「天空の絶景」!
そして、たどり着いた物見台の巨石!ここからの眺めは、まさにご褒美でした!

遠くには、名古屋駅のビル群がミニチュアのように輝いて見え、まるでタイムスリップしたかのような気分に。

快晴の空の下、最高の景色を独り占め!✨

大給城、歴史好きにはたまらない**「穴場」**です!最高の城攻め日和に感謝!また近いうちに登りたいな!

#大給城 #山城 #城攻め #豊田市 #巨石 #絶景スポット #歴史ロマン #名古屋まで見えた

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カズサン

やっと辿り着けた渋谷城 (2025/12/02 訪問)

 城びと投稿始めてから渋谷城を認知してからの投稿、今回の登城も外苑イチョウ並木からの約2km程のぶらぶら散歩で足腰パンパン状態で「やっと着けた!」の思いです。
 渋谷城へは青山学園大学の西の通り(八幡通り)を南下して首都高を抜けて、東より金王八幡神社が故地の渋谷城跡へ到着、東山門を潜り本殿を参拝、渋谷駅側よりは小高い河岸段丘上に築かれてとの雰囲気が感じられます。
 渋谷城の遺構、遺物として渋谷城砦の石一個と説明板が金王八幡宮本殿の左側に野外展示されている、源義朝とのつながりがある金王丸御影堂、金王桜、修復記念碑を観て終了。

 歴史は、この辺りの高台は平安時代末期から渋谷氏一族の居城の跡で、東に鎌倉街道(現八幡通り)、西に渋谷川が流れ、北東には黒鍬谷を有し、更に数ヶ所に湧水が有ると言う好条件を備えていた、渋谷城は大永4年(1524年)、北条氏綱と上杉朝興の高輪原の戦いの時、渋谷氏が交戦中だった北条軍の別動隊により襲われ焼き払われしまった。(渋谷城砦の石、説明板より)
 金王丸御影堂の説明板には、渋谷金王丸常光(御祭神)17歳の時、源義朝に従い保元の乱、平治の乱を戦い後出家し、土佐防昌俊と称し義朝の御霊を弔いました。また頼朝とも親交が深く鎌倉開幕にも尽力。義経追悼の命を受け、文治元年(1185年)10月23日夜、心ならずも義経の館に討ち入り勇ましく最後を遂げました。と記載されています。

 渋谷城金王八幡宮を終えて渋谷駅へ、駅周辺、駅自体が大改造されて迷子に成るほどナビでも良く分からない、やっと渋谷駅の指示板を見つけて渋谷駅へ、途中に三階?辺りから初めて渋谷川を遠望しました、奇麗に整備されて川が甦っています。
 渋谷駅の山手線ホームに辿り着き、昔からの渋谷駅に来たと実感、様変わりです。

 東京で家内と食事でもと思ったのですが歩き疲れすぎて食欲もなく、疲れには鰻重が最適と浜松に帰ってうな重を食べようと、東京駅中で土産を買い浜松へ18時半着、浜松駅浜名湖産ウナギ店でうな重を食べほっと一息つきました。東京は歩きが重なります、25,000歩でした。
   

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カズサン

【外苑イチョウ並木】東京都港区 黄金色のイチョウ並木 (2025/12/02 訪問)

 江戸城・皇居乾通り抜け紅葉狩り、北の丸、田安門、靖国神社参拝を終えて、家内の願いを叶えるために神宮外苑イチョウ並木見学へ、地下鉄半蔵門線九段坂下駅乗車し青山一丁目駅下車、地下鉄駅深度が大きく足腰にはきつい。
 青山通りを渋谷方向へ約100m程歩くと目的の神宮外苑イチョウ並木の南端、約北へ350m程に左右の歩道に二列の銀杏並木が連なっている壮観で圧倒されるしかも大勢の人波、初めての体験でしたが貴重な黄金色外苑イチョウ並木でした。
 住所:東京都港区北青山2丁目付近

 新しいく建て替えられた国立競技場を家内が先の東京オリンピックマラソン競技でチケットをゲットして居たのですが武漢コロナウイルス禍で中止に成り入場出来ず、外観だけでも見たいと約北西に150m歩いて国立競技場とご対面。

 この後は約2km程先の渋谷城跡へ、地下鉄一駅なので久しぶりに家内と青山通りをぶらぶら歩き、銀ブラならぬ青ブラ、途中疲れてマツダ車ショールームの喫茶コーナーでコーヒーとケーキを頂き一息つく事が出来ました。箱根駅伝で有名な青山学園大学前で大学校内の黄金色銀杏並木を校門外より見学見事です。
 城では無いのですが、黄金色の神宮外苑イチョウ並木写真を投稿させて頂きます。
 
   

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赤い城

指月山と石垣 (2025/11/30 訪問)

ようやく登城することができました。
南門そばの無料駐車場に車を置き枡形の南門から入城。
すぐに本丸の門がありますがまずは東門に。
こちらも枡形で石垣が素敵です。
ここから北に向かい、途中から海岸に出ます。
日本海も穏やかで気持ちいいお散歩です。
潮入門から先は丸い石が転がっていて石垣と海に映えます。
釣り人もいらっしゃいますね🐟️

北櫓台の石垣から内側に戻り、東園跡の毛利氏時代の土塀の名残を見ながら本丸入口方面へ戻ります。
が、まだ入らず西側へ。
天守台と背後の指月山を見上げました。
もちろんこの後「登るぞ!」との意思確認も兼ねて。
西門から本丸に入り天守台の登ったあとスタンプを押しに本丸の門へ。
スタンプは74個目、毛利家萩屋敷長屋との共通入場券を購入しました(長屋は行きませんでした)。

で、詰丸である指月山へ登ります。
途中竪堀っぽい地形も見ながら約20分、詰丸要害門のある虎口に到着です。
脇の石垣は雰囲気あり、虎口は枡形になっています。
詰丸は二段の曲輪から成り、水槽や石を切り出した跡が残っています。
ここから石を採っていたのですね。
もちろん日本海の眺望もGood🤩
登った甲斐がありました。

城下町も歩いて見たかったのですが相方を待たせているので下山して終了。
また来ることにします。

【見どころ】
 ・北櫓台の石垣
 ・天守台とそれに続く石垣の雁木
 ・詰丸の虎口
 ・詰丸の切割石
 ・詰丸からの眺望

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トク

【とことん名護屋城-⑤】はじまりの名護屋城 (2025/11/23 訪問)

次は宮武正登先生の講演の中から、特に私が興味をひかれた内容をピックアップします。

信長は、初めて石垣というもので城を築き(この時は野面積)、その上に「魅せる天主」を建てました。しかし秀吉は、石を割って大きさや形を整え、割った平たい面を表にして見せるように並べるという「魅せる石垣」で城を築きました(打込接の始まりです)。全国から集まった諸大名たちは、まずここで初めて見る石垣に度肝を抜かれた事でしょう。

穴太衆は石を割る・削るという技術は持っていないため、その技術を持っている墓石職人を全国から大量に集めたのではないかと推測されています。そしてわずか半年間という短期間でこの壮大な石垣を造り上げたというのは、当時の秀吉の力を諸大名に見せつけるには十分すぎる程だったのではないでしょうか。

そして茶室・庭園など遊びの空間を城の中に取り入れ、城は戦うだけのものではないと思わせ、昨日まで争っていた大名同士の戦う意欲を無くさせ、茶室で大名間の距離を縮め親睦を計るよう勧めます。そして諸大名は自分の陣城を、秀吉の真似をして造り始めます。最近発掘調査された前田利家の陣跡では、石垣や庭園をともなったその典型例を見る事ができます。

そして秀吉が死に朝鮮出兵が終わると、諸大名は地元へ帰りまたは関ケ原後に与えられた地で「慶長の築城ラッシュ」が始まります。その時に、打込接で石垣を築き、壮大な天守を建て、二ノ丸・三ノ丸とさらにその回りをぐるりと堀で囲み、庭園や茶室といった遊びの空間までをも作ります。つまり、ここ名護屋で見た事・学んだ事を自分たちの城造りに全て取り入れて行ったのです。それで今までの山城に代わる近世城郭が、このようにして全国一斉に建てられましたというお話でした。

よってここ名護屋城は、近世城郭発祥の地【はじまりの名護屋城】だったという訳ですね!

また1615年一国一城令で行われた破却がどのようなものであったか? 大変よく解る例も教えていただきました。特に遊撃丸の破却は典型例のようです。小藩の唐津藩だけでは、この広大な名護屋城の破却は無理~!と泣きつかれ(たかも?)、ならばと幕府は、「建物は全て撤去、そして隅部の上の石垣は絶対に壊せ、そして中間の石垣もV字型に壊せ、そうして二度と櫓や塀が建てられないようにせよ!」と最低限の破却のやり方を、指示したのではないかと思われます。私は皆さんにもぜひここは見てほしい、そして何かを感じてほしい場所だと思いました。

次は最後に、私が個人的に気になる二人、加藤清正と小西行長の陣跡を訪れます。
 

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小城小次郎

桜町中将の城 (2025/03/30 訪問)

隣接する滝川雄利の滝川氏城と同様に、桜町中将と呼ばれた織田信雄が第二次天正伊賀の乱に際して設けた拠点という。民家の脇を抜ける登城路にはちょいと抵抗感あるが林の中に厳然と残る真四角な土塁と堀には圧倒される。

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しんちゃん

栗原城・栗原山 (2025/10/19 訪問)

九十九坊を通って尾根にたどり着くとなだらかな扁平地のような場所が栗原山へ続いている。兵を潜ませるには格好の場所だ・・と考えてしまう 悪いクセだが。
尾根にたどり着いて南に進んですぐの場所に栗原城跡がある。城址と言ってもコノ字状の土塁が付いている簡素なものだが、ここで土塁を見れるのは嬉しい。象鼻山も気になるが、まずは栗原山のピークを目指す。けっこう歩くが、道中に扁平地が多数あるので全く退屈しない。人工的なものかどうかはさておいて、これだけの数があれば多数の兵を駐屯できるだろう。
しかし石田三成が大垣城に籠城して南宮山に籠った毛利が後詰を行うという作戦であったのなら、南宮山よりは長宗我部陣のほうが大垣をよく俯瞰できるのではないだろうか・・と思ったりもした。

神谷道一氏の関ヶ原合戦図志の挿絵だと南宮山北尾根から象鼻山まで吉川・毛利の陣が南北にに連なっているように見える。だが、この南宮山の絵はなんとも怪しいなあ。形状だけ見ると栗原山と象鼻山を除いた南宮山の形状に似ているが、毛利秀元の陣の近くに「南宮山1353尺」の文字の記載がある。
南宮山山頂を毛利秀元陣とするなら栗原山周辺には宍戸就宗(おそらく毛利家家臣)なる人物が配されていることになる。
逆にこの絵が南宮山のみを表しているのなら宍戸就宗は南宮山山頂に配され、毛利秀元は北尾根の扁平地の辺りに位置することになる。この位地の方が関ヶ原を俯瞰できるので個人的にはその方がしっくりくる。神谷氏の推測だと吉川広家も南宮山に登って秀元の頭を押さえていることになる。
小池絵千花さんの論文には吉家広家が南宮山に登っていたと考えられる記述がありました「吉川家文書之二」
広家は(南宮山は)高山で関ヶ原は良く見えなかったとしらばっくれていますが、実際は良く見えていたと思います。

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しんちゃん

長宗我部盛親陣 栗原山・栗原九十九坊跡 (2025/10/19 訪問)

長宗我部盛親陣跡とされる場所は二つあるようです。「とある煩悩の登城目録」さんが訪問した陣跡は栗原山の南東 標高153mぐらいの山の中腹にあります。道中には栗原九十九坊と呼ばれる寺院跡があり多数の扁平地が残っています。
淳仁天皇の天平宝字の頃(757~764)には不破郡栗原山に天台山正覚院末久保寺双寺として九十九坊があったとされています(案内板より)。鎌倉時代にも隆盛を極めたが建武二年(1335)足利、新田両氏の戦いで兵火にかかり消失したとのことです。
案内板のある場所から栗原山頂部まではけっこう距離がああるのですが、扁平地が多数続いています。途中「栗原城」と呼ばれる城址もあり周囲には土塁が残っています。

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たか

伊東氏48城なのに… (2025/12/08 訪問)

なにも見当たらない。
畑に向かって左側から登った方もいるようですがわたしは無理そうなのでスルーです。

伊東氏48城
もっと整備して頂けたら…
お願いします。

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