日本100名城

つやまじょう

津山城

岡山県津山市

別名 : 鶴山城
旧国名 : 美作

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津山城
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イオ

とことん津山城(搦手) (2024/09/16 訪問)

(続き)

搦手への石段を下りる途中に裏切手門があり、かつては埋門の上を本丸御殿の表向と奥向を結ぶ七間廊下が通っていました。さらに石段を下りたところが裏鉄門で、鉄板で覆われた門扉の櫓門が設けられていました。裏鉄門に南接する腰巻櫓の石垣は明治に大規模に崩落し、後に少し形を変えて積み直されており、今もその痕跡が見られます。

裏中門へと続く石段を下りる前に、十三番門跡から本丸下段の腰曲輪へ。涼櫓が建っていた本丸北面の石垣沿いに進んだ先には、小姓櫓跡や色付櫓跡があり七番門跡から天守台北下に至る…はずですが、長櫓の下あたりにトラロープが張られていたので、その先は未確認です。石段を下りたところが裏中門の桝形で、裏中門を抜けると搦手側の二の丸です。二の丸の北辺には荒和布櫓、道明寺櫓、干飯櫓が建ち並び、西端の肘櫓に南接する格子門は西側の二の丸へと続いていますが、この先は先ほど探索しているので、北西部の裏下門に向かいます。裏下門は搦手の最後(というか最初?)の櫓門で、門の下には紙櫓と肘櫓に挟まれた石段が続いています。

石段を下りて行き、表門側へ続く南側の三の丸は腰掛跡と十九番門跡のあたりで石垣修復のため通行止めになっているので、北側の裏門から退出しました。裏門の東には薬研堀が水をたたえ、二の丸石垣と薬研堀の間には池上門と番所があったようですが、現在は舗装道になっていて痕跡も見られません。そのまま東に進んで、三の丸を抜けて二の丸に通じる桜門跡まで行きたいところでしたが、麦櫓跡を見上げるあたりまでで通行止め。裏門前まで引き返し、厩堀をぐるりと回り込んで駐車場に戻りました。いくつか取りこぼしはあるものの、さすがは日本三大平山城、豪壮な石垣を存分に堪能した2時間半でした。満足満足。
 

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イオ

とことん津山城(本丸東辺~北端) (2024/09/16 訪問)

(続き)

八番門跡から天守曲輪を出ると、本丸東辺に長大な石垣が見えます。宮川の断崖になっている東辺への備えとして築かれた南北80mにも及ぶ石垣で、石垣上の月見櫓や矢切櫓、太鼓櫓へと続く合坂も設けられています(立入禁止ですが)。石垣南端の石段は上れるようなので行ってみると、太鼓櫓跡の下を通って包櫓跡に行くことができました。いったん表鉄門跡を出て、包櫓跡に東接する十四番門跡から東辺石垣の外側へ。左手には太鼓櫓の石垣が聳え、右手の瓦櫓跡からは眼下の宮川を越えて東方向の眺望が広がっています。東辺石垣を外側から見上げつつ北端まで進むと、石段を下った右手に十二番門跡がありました。

石段を戻り月見櫓の麓を回り込んで十一番門跡から再び本丸に入ると、本丸北端には東側に小天守とも呼ばれた粟積櫓、西側に大戸櫓と長屋櫓が建ち並び、各櫓跡からは北方向の眺望が開けていました。

さて、これで本丸をひとめぐりしたので、搦手側に下りていきます(続く)。
 

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イオ

とことん津山城(本丸~天守曲輪) (2024/09/16 訪問)

(続き)

表鉄門は門扉を鉄板で覆い門内にコの字型に櫓をめぐらせた本丸の正門にあたる厳重な櫓門でしたが、門を抜けて石段を上った左手の櫓南西端が本丸御殿の玄関になっていて、櫓内を通り抜けて本丸御殿に入るという独特な造りだったようです。本丸御殿は本丸を埋め尽くすように建てられ、奥向へ続く箇所には台処門や十番門が設けられていましたが、本丸に建物は現存せず、表鉄門南西の使者櫓、さらに南辺を備中櫓まで続いていた到来櫓と長局も遺らず、長局跡に藤棚とベンチが設けられているのみです。

築城400年を記念して復元された備中櫓に入って100名城スタンプを押印。四足門から切手門へ至る大手道を見下ろす櫓だけに狭間があるのは当然としても、畳敷きに竿縁天井、壁に唐紙、柱に金漆塗の釘隠しというのは櫓というより御殿だよな…と思っていたら、長局を通じて本丸御殿と繋がっていて奥向きの御殿として活用されていたと考えられるとのこと。なるほど納得です。備中櫓から五番門跡を抜けて天守曲輪へ。五番門南側の石垣は変形に伴って積み直した際に土塀と雁木が復元されています。天守曲輪の西半分は多門櫓で囲まれていて、北西隅と南西隅は二階建てになっていましたが、現在は平面表示により櫓跡の位置を確認できるくらいです。

天守台南側の六番門跡(礎石あり)から東側に回り込んで、石段を上ると天守台の穴蔵に至ります。穴蔵には天守を支えた礎石列と「愛の奇石」と呼ばれるハート型の石垣石が見られ、廃城後に設けられた石段から天守台に上ると、城内と城下を360度見渡すことができます。往時はここに四重五階の壮大な層塔型天守が建っていましたが、廃城令により破却されています…。天守台の北側には、石段を下りて左に折れたところに七番門が設けられ、腰曲輪を経て搦手の二の丸に通じていました。門の外には高さ約3mの石垣がああるため、普段は木の階段を用いて通行(戦時には取り外す)していたようです。天守曲輪北東隅の長櫓に南接する八番門跡から天守曲輪を出て、今度は本丸の東辺に向かいます(続く)。
 

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イオ

とことん津山城(二の丸) (2024/09/16 訪問)

(続き)

二の丸へと続く表中門跡の石垣。写真では何度も目にしていましたが、実際にその場に立ってみてあまりの巨大さに驚かされました。この石垣の間を埋める櫓門ってどんな規模だよ…。思い描くとそら恐ろしいほどです。表中門跡を抜けると、まずはすぐ右手の桐の段へと続く石段へ。桐の段には塩蔵、南西隅に表中門前を見下ろす見付櫓、東辺に玉櫓、北東隅には十六番門があったようですが、今は玉櫓跡の櫓台に忠魂碑が見られるくらいです。

表中門跡に戻って広大な石段を二の丸に向かうと、左に二度折れて四足門跡に至ります。四足門の東に隣接していた走櫓は失われましたが、四足門は中山神社の神門として移築現存しているようなので、またの機会にはせひ見に行きたいものです。四足門跡から登城ルートは今度は右に三度折れて切手門跡に向かいますが、その前に二の丸内を散策します。二の丸の南辺には東西60mに及ぶ鉄砲櫓が三の丸に睨みを効かせ、その名のとおり1000挺の鉄砲と2万個の玉が備蓄されていたそうです。二の丸は二の丸台所で仕切られていて、台所西側の二の丸御殿に行くには備中櫓南西下の十七番門を潜る必要があったようです。現在のトイレと自販機のあたりでしょうか。長柄櫓跡へは石垣崩落のため近付けませんが、二の丸西辺を昇櫓跡~塩櫓跡~白土櫓跡とたどって折り返しました。

多門櫓跡の石垣を見上げつつ備中櫓の下を回って切手門跡に向かう途中、ふと見上げると備中櫓の石垣に張り付く人の姿!? 一瞬ぎょっとしましたが、津山城ほどの高石垣になると草刈りにも命綱は必須ですよね。そして長局跡の高石垣を見上げながら切手門跡を抜けて石段を上ると、右手に桐の段を見下ろす弓櫓が、もう一段上には辰巳櫓があったようですが現在はベンチが置かれているくらいです。北東隅の十四番門から本丸東辺にも行けるようですが、まずは表鉄門から本丸に向かいます(続く)。
 

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概要

関ヶ原合戦の後、森蘭丸の弟・忠政が13年間費やして築いた平山城。建物の遺構はないが、本丸・二の丸・三の丸を雛壇状に配した「一二三段」と呼ばれる高石垣の重なりが圧巻。枡形の城門や折が多い石垣など防御性が高く、城の守りを固めていた櫓の中でも巨大な備中櫓が平成17年に復元されている。

城郭情報

城地種類 梯郭式平山城
築城年代 嘉吉元年(1441)
築城者 山名忠政
主要城主 山名氏、森氏、松平氏
文化財史跡区分 国史跡(津山城跡)
近年の主な復元・整備 森忠政
天守の現況・形態 独立式層塔型[4重5階地下1階/1616年築/破却(廃城令)]
主な関連施設 備中櫓、塀、石碑、説明板
主な遺構 曲輪、石垣、横堀
住所 岡山県津山市山下
問い合わせ先 津山市教育委員会生涯学習部文化課
問い合わせ先電話番号 0868-24-8413