みんなの投稿

検索結果・・・「」を含む投稿

しんちゃん

勝山・大垣市 徳川家康本陣跡・・なのだが (2025/10/19 訪問)

大垣市の安楽寺の背後にそびえる勝山(岡山)は関ヶ原の合戦に向かう徳川家康が本陣を構えた場所とされています。ですが現状、土地の所有者によって立入が規制されているため訪問することはできません。麓に「関ヶ原合戦慰霊碑」や勝山の碑があるのでそれを撮影させていただきました。
太平洋戦争の際には砲台が設置され高射砲が置かれたとされています。頂部には「第四一〇二部隊高射砲陣地跡」の石碑があるらしく、ネットで見るとかつては「家康物見台」という展望台があったようですが撤去されているようです。
設置されていたのはおそらく八八式七糎高射砲、もしくは九九式八糎高射砲だと思われ、AI先生の予想では七糎(センチ)のほうでした。
八八式は口径75mm・射高9100m・重量2.5tの比較的コンパクトな高射砲です。九九式は口径88mm・射高10420m・重量6.5tの強力な高射砲ですが米軍のB29は高度1万~1万5000mを飛行できるので迎撃は難しそうです。
例の「玉城」にも砲台跡が有るようですが高射砲陣地であったかは不明で、いずれにしても標高300mそこそこではB29を撃墜するのは難しいでしょう。南宮山周辺の史跡が軍事用施設に利用されていたことは興味深く、私は南宮山は陸軍に軍事用施設として重視されていたのではないかと考えています。
とはいえ野戦砲(砲台)陣地として利用価値が高かったのは飛行機が登場するWWⅠまでで、太平洋戦争では大口径の高射砲を設置するのには厳しい地形にあり、なおかつ設置した所で超高度を飛行できるB29を迎撃するのは困難だったと予測でき、南宮山には高射砲の陣地は設営されていなかったと推測します。
試作に近い五式十五糎高射砲であれば26000mの射高があるので、どこからでもB29をバタバタ落とせたんだけどね~

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

BUGTI

令和8年3月で閉城 (2025/12/13 訪問)

来年3月で閉城するとのことで久しぶりに訪れました。天守はコンクリートとはいえ史実に基づいて外観復元されています。私は堀も含めた北西からの景色が好みです。先週行われた説明会には参加できなかったものの、発掘された石垣を柵の外から何とか見ることができました。地上に遺構は残っていないものの、城の近くの街中には「堀跡」の案内表示や石垣のモニュメントがいくつも作られていました。広島は戦災で多くを失ったからこそ、歴史を伝えることを大事にしている街なのだと感じます。

+ 続きを読む

朝田 辰兵衛

大宮公園駅から散歩気分で…🐾 (2025/11/03 訪問)

東武野田線の大宮公園駅から,徒歩約10分で土呂の地蔵堂に到着。向い側に土塁。ちょっと歩くと東大宮メディカルセンターがあり,隣接する駐車場がどうやら土呂陣屋のピン位置になります。不審者扱いされないうちに即退散しました…。

+ 続きを読む

御屋敷跡 遊歩道武士の道 (2025/12/13 訪問)

 昨年も来ましたが、近くまで来たので寄ってきました。本丸付近は整備されていて歩きやすい城址です。
本丸の北西に「御屋敷跡 遊歩道武士の道」の標識が建っています。以前来た時から気になっていました。「戦国の魅惑が残る、土岐高山城・下街道」というHPの高山宿復元想像図を見ると搦手にあたる道のようです。そこから門があったような地形を通り降りて行きました。途中で道がわからなくなりましたが、ピンクリボンなどを頼りに何とか下りて砂防ダム付近から退城することができました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

二ノ丸 太鼓丸 三村氏居館跡 (2025/12/11 訪問)

 二ノ丸、太鼓丸、三村氏居館跡を追加で投稿します。
二の丸と表記されている場所は小曲輪群からなり、一部には石積みもみられます。出丸といった方がいいような気もしますが、日本城郭大系にも二の丸と書いてありました。

  成羽美術館近くの成羽川にかかる橋を渡って5分くらいの場所に三村氏居館跡があります。三村氏居館跡は三村家親が築営した平城で、成羽城とも呼ばれていました。鶴首城は有事の詰の城、三村氏居館跡は平時の館と考えられています。土塁に囲まれた居館で、土塁、石垣、堀の一部が残っているようですが、下調べ不足で行っていません。説明板と井戸跡を確認して退却しました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

三村家親 (2025/12/11 訪問)

 文知5年(1189)河村四郎清秀が奥州攻めの軍功として源頼朝よりこの地に知行を得た際に築城したとされています。天文2年(1533)に三村家親が成羽に入ると拡大整備しました。城は標高320mの山頂に位置しています。高梁市立成羽小学校の裏にあるなりわ太鼓丸公園に登城口があります。倒木を越えなければいけない場所もありますが、登城路は概ね整備され案内標識も多くあり迷うことはありません。太鼓丸を経由して登って行き、途中で二の丸との分岐があります。いくつかの資料で二の丸と表記されていますが、出丸のような位置にあります。まずは本丸方面に向かい散策しました。本丸周囲には曲輪が展開し周囲には石積みが少し残っています。南側には二重の堀切、竪堀などがありました。西側にある竪堀群などは落ち葉の堆積もありわかりにくい状況です。近くには井戸跡と思われる場所もありました。

 
 

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

カズサン

義弘26年居城の飯野城・義弘公を大河ドラマに! (2025/10/30 訪問)

 二式大艇を見学の後は東九州道、国道10号線、宮崎道経由えびの市のホテルへ、1泊して飯野城に近いホテルでしたので朝食後探訪開始、国道268号線信号交差点飯野中学校入口を北上し川内川を渡り直ぐに堤防沿いを降りて北へ亀橋を渡ると民家前に飯野城案内板、道なりに進むと大手冠木門を潜り駐車場に着く。

 駐車場:飯野城専用駐車場広くはない、トイレ無
 参考資料:余湖図コレクションさん城郭放浪記さん古城盛衰記さんグーグルマップに依る。

 大手冠木門から駐車場、本丸登城路はアスファルト舗装道、幟旗がそこかしこに立っている「義弘公を大河ドラマに!」とアッピールして居る。登城路を歩き本丸へ食違い虎口の様な本丸大手、本丸は広く北側に城名碑(亀城)、飯野城と島津義弘説明板、飯野城復元図付き本丸説明板が有り南に東屋、南西に物見曲輪への虎口があり枡形との看板が有るが良く分からない、虎口から南へ物見下郭と物見台郭、眺望は素晴らしいはずですが霧島連山の雲か霧か霞か懸かりやっと韓国岳が分かる程度、物見台にも「義弘公を大河ドラマに!」の幟旗、以前訪ねた栗野城にも同じ幟旗がありました。
 本丸、物見曲輪以外にも北側に三の丸、東側に二の丸、駐車場の近くに射場が縄張図、余湖図コレクションさんの俯瞰図に在りますが指示看板の先は草が茂り進入を躊躇い、本丸と物見曲輪までとしました。

 歴史は、島津義弘は父貴久の命を受け、伊東氏の勢力から飯野城を守るため、永禄7年(1564年)精兵60人を率いて加世田をたち、11月飯野城に入った。
 義弘は飯野城に30歳から56歳までの26年間居城し、数々の合戦に出陣した。元亀3年の木崎原合戦で伊東氏に大勝、天正6年の高城合戦で大友氏を破り、肥後の相良氏、肥前の龍造寺氏を次々と破り九州をほぼ制覇したが、秀吉の九州征伐で島津氏は薩摩、大隅、日向の三国体制に縮小。天正18年(1590年)6月栗野城に移った。島津義弘は享年85歳で生涯を閉じた。

 地元の方々は島津義弘のNHK大河ドラマ化を待ち望んでいます、希望が叶うといいですね!

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

成羽陣屋 (2025/12/11 訪問)

 鶴首城の麓にある陣屋跡です。寛永16年(1639)水谷勝隆により築城が開始されましたが備中松山に転封となったため、後にこの地を治めた山崎氏により完成した陣屋跡です。成羽小学校から成羽美術館付近に築かれていました。石垣がよく残っています。
 
 赤い城さんの投稿で陣屋の存在は知っていましたが、予想以上に石垣が残っていました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

小城小次郎

天正伊賀の乱の決戦地 (2025/03/30 訪問)

天正伊賀の乱の最終決戦場になったお城で、決戦を経て伊賀勢は織田勢との和睦を勝ち取っている(殲滅されていない!)。外土塁コース、堀底コース、内土塁コースと遊歩道が完備しているのは有難いかぎり。

+ 続きを読む

しんちゃん

長篠450年記念 医王寺山は武田の築いた山城なのか? (2025/12/07 訪問)

医王寺山の続きです。長篠城ではないが、私は長篠城と医王寺山はセットだと考えています。「城びと」も「ニッポン城めぐり」も合戦や攻城用の陣所の登録は少ないが、短い期間に築かれているからこそ築城者の意図や「くふう」が込められていると思う。
浅野文庫の諸国古城之図には「勝頼陣城」として描かれていて「三川日記」には医王寺山に3000の兵が陣を配置したと書かれているらしい・・読んだことはないが。実際に周って見ると「もっと入る」んじゃないかなと思った。もちろん伝・勝頼本陣の周囲も含めてだが。

北西の尾根は敵の攻撃を受けやすい場所だと思うが、現状はどうなのだろうか?
尾根の先端部は二ヵ所 二段にわたって石積で補強がしてあるようだった。先端は急峻で林業の人が足場を固めるために築いたのだろうか? だがこんな急なガケみたいな場所を通るのか? 武田方が築いたにしても、あまり武田軍が石垣を築いたというイメージは無い。
個人的に興味のある場所だ。
北側の尾根に周ってみた。伝勝頼本陣とされる丘陵の北を守る位置にある。このあたりは林業が作ったと思われる掘道や土盛らしきものがある。土盛は南側に付いている、私なら北側に付けるだろう。しかし、この林業と言うものはやっかいだ・・全国の山城に林業の爪痕はいっぱい有って遺構と判別がつきづらい。
だが、関ヶ原を周った時に林業が作った扁平地かな?と思っていたら関ヶ原合戦図志には陣所と比定されている箇所が有ったので遺構の可能性が有るケースも有ったりする。何せ明治の時代の本なので杉の植樹が全国で行われる前の話だ。
神谷氏の書いた関ヶ原合戦図志は江戸時代に編纂された武家事記を参考にしていると思われるので正確とは言い難い。
だが高齢の身でありながら関ヶ原を真摯に歩き回って陣所を比定して行ったことは本を読んでみれば良く分かる。だからリスペクトしているわけですよ。

ところで「くふう」や「ひじかた」ぐらい漢字で書かせてもらってよいですか。歴史のサイトだよね・・漢字は日本人の培ってきた財産ですよ。つまらない「言葉狩り」で自分たちの首を絞めるのは良くないですよ。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

しんちゃん

Re: 自害ヶ岡  時代は東海地方 (2025/11/30 訪問)

関ヶ原の自害ヶ岡を再訪しました。神谷道一氏の記した「関ヶ原合戦図志」だとこの丘陵が西軍の陣地と記してある。現状、丘陵を削り取って東海道新幹線が通り、間に橋が架かって行き来できるようにはなっている。
新幹線が通っているということは国の土地になるのだろうか? 「関ヶ原合戦図志」は小和田教授がユーチューブで紹介していたのだが中古で15000くらいするのでおいそれと手が出せない・・「武家事記」はけっこう安かったのだが。
「関ヶ原合戦図志」は国立公文書館のHPに登録すれば閲覧が出来ます・・ありがたい、ありがたい。明治の難しい漢字で書かれているので読むのは大変だが、古文書に比べるとまだましだ。関ヶ原の歴史に興味のある方は是非読んで欲しいです。

私の記憶だと「関ヶ原合戦図志」が書かれた翌年に参謀本部が今の関ヶ原の陣地を発表して、その翌年には日清戦争が起きている。私は基本的に偶然と思しきものは疑ってかかるので、参謀本部が使えそうな位地から陣所をずらしているものと考える。
当時の大砲は国産化を優先しているので鋳造・前装式の青銅製の大砲だが欠陥品のアームストロング砲なんかよりよほど頼りになると思う。南宮山の尾根上に配置すれば中山道や伊勢街道を通って東京(皇居)を目指す「清軍」を狙い撃ちできる。
「関ヶ原合戦図志」には大垣城の布陣があるが参謀本部の物には無い。本当は陣地の取得にしか興味がなかったんじゃないか??

正直・・南宮山一帯だけ「遺構が無い」のが気になる。「伝・毛利秀元陣」もとても怪しい。毛利も一定の間、南宮山に布陣していたらしいのでもうちょっと何かあっても良いんじゃないか?
いやな考えだが陸軍の命令で「誰か」が土塁などを削り取って扁平してしまったのであろうか??

自害ヶ岡の南側は草ぼうぼうだったので引き返した。おそらく遺構は無いだろう。いずれにしろ野戦砲陣地として陸軍に目をつけられたのなら扁平されて何もないと思う。土塁の端っこでも残っていると良いのだが。
新幹線が元気にビュンビュン走り回っている。「豊臣新幹線」楽しみだ! 東海の時代が来た!!

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

いんげん丸虫

天ヶ城 福井県小浜市 (2025/11/24 訪問)

標高266mの山城です。
麓の羽賀寺に駐車可能で、獣避け柵を開け
ひたすら登ります。道は整備されていて
藪漕きは無いのですが、かなりの急斜面で
設置されている綱ロープにつかまりつつ
30分くらいの登りです。
景色、2重堀切がみどころですね。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

ヒロケン

公開終了!! (2025/11/22 訪問)

駿府城さん11月18日、とある煩悩の登城目録さん11月20日の投稿で2025年12月26日(金)をもって、駿府城跡天守台発掘調査現場の一旦公開終了(10月より平日のみの公開)ということは知ってはいましたが、11月22日(土)に駿府城跡に4年ぶりに訪問してきました。
発掘調査現場には2019年2月と2021年12月に2度訪問しておりますが、公開終了と聞くと何だか一目だけでもと思い訪問したしだいですが、復元された東御門、巽櫓、坤櫓、石垣、堀跡など見どころ満載の駿府城、発掘現場が見れないのは残念でありましたが、満足した訪問でした。

本日、12月13日(土)”最後の休日公開日”を特別に設けていただけるとのことで、行きたかったのですが仕事です( ノД`)シクシク…またいつか、公開日を設けていただければと思います。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

シャンシャン

福山城ライトアップ (2025/12/09 訪問)

福山駅の新幹線ホームからライトアップされた福山城を望む。
白亜の城郭群が夜空に照らし出されてきれい。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

しんちゃん

ロボとの遭遇 安土城 (2025/11/08 訪問)

摠見寺の旧跡を抜けて麓まで戻って来ました。途中いくつか郭跡らしい扁平地がありました。麓の石垣のあたりで、なにやらうごめく物体があります。近づいてみると草刈ロボがいました。近くには「草刈り頑張ってます」と書かれた木製のコーンがある。
城址の保全にロボが活躍しているとは・・時代というやつか。ありがとう草刈ロボ これからも特別史跡を守っておくれ。
それにしても片や寺院を通って本丸に至る道も有れば、大手道を曲がった先には石仏が埋まっている。信長の二面性と言うか「狂気」を感じた気がした。この言葉も「刈られて」いずれ使えなくなってしまうのかな?

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

しんちゃん

寄ってけ将軍 (2025/11/30 訪問)

ようやく涼しくなってきたと思ったら、すぐさま冬になってしまいました。夏はやたら長いのに秋は一瞬だったような気がします。
それでもそれなりに紅葉を楽しむことが出来ました。
案内板によるとお茶屋とは江戸・京都の往還に整備された将軍家専用の宿泊施設とのことです。美濃赤坂のお茶屋屋敷は慶長10年(1605)に完成しました。かつては約170m四方の方形区画で四隅には櫓も備えていたとのことです。ちょっとした平城のイメージですね。
今でも周囲に土塁や空堀が残っています。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

カズサン

【鹿屋航空基地史料館】鹿児島県鹿屋市 二式大艇と初対面 (2025/10/29 訪問)

 今回の鳥取城復元中ノ御門枡形、福岡城三の丸復元潮見櫓、大刀洗平和記念館の軍機震電、鹿屋航空基地史料館の軍機二式大艇を見学観察するのが今回の九州一周城探訪10日間のメインの課題でした、鹿屋城を終えて、ここ鹿屋が最後の二式大艇との初対面と成りました。

 住所:鹿児島県鹿屋市西原3丁目11ー2
 駐車場:鹿屋航空基地史料館専用駐車場
 参考資料:グーグルマップに依る。

 史料館より先に、通りの西側に野外展示されてる二式大艇を見学、フェンスに囲まれていて基地入り口側にフェンス入口が有り、中に入り周囲を廻って見学、大きさにはびっくり、ここの展示機は世界で唯一残されている実機です、全長28.1m、全幅38.0m、全高9.2m、馬力1850馬力×4基、最大速度453.2km/h、航続距離7152km(最大)、武装20㎜機銃5・他、の規模を誇り、昭和15年初飛行、昭和17年正式採用され、偵察・哨戒・輸送など長大な航続距離を活かした任務で活躍し終戦までに167機が製造された。平成16年に鹿屋基地で展示公開されています。
 やっと願いが叶って実機を見る事が出来ました感動です。
 この後には資料館に入り、無料で入館する事が出来ます、入口を入りロビーの大型ステンドグラスには肝を抜かします、平山郁夫画伯の夕映桜島、素晴らしい作品です。蘇ったゼロ戦の展示、鹿屋特攻作戦の遺影遺書展示、鹿屋海上自衛隊航空部の活躍コーナーも見学いたしました。史料館周囲にも野外展示機が数多くあり、US-1、P-2J、対潜哨戒機、練習機などあり見所満載です。
 大変満足して資料館の北側に在る鹿屋市観光物産センターへ土産を漁ると二式大艇のTシャツが有り、今年は着れませんが来年の夏に期待して、色違いの2着購入。

 この後はえびの市へ、日向、豊後、国東半島、豊前、周防、備前、播磨と4日残すのみ。
 

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

カズサン

二度目の登城、二式大艇見学をメインとして (2025/10/29 訪問)

 南郷城を後にして、南郷城から直線約50km程、経路120km程大隅半島鹿屋市の鹿屋城を目指す、今回のメインテーマの一つ、鹿屋基地の軍機二式大艇見学に合わせて二度目の登城。鹿屋市までは国道3号線バイパス、九州道、東九州道、鹿屋取り付け道と高速道で大幅に時間が稼げる。桜島SAで遅めの昼食チャンポン麺を食べる。

 駐車場:城山公園駐車場、トイレ有、余裕の駐車場
 参考資料:余湖図コレクションさん城郭放浪記さんグーグルマップに依る。

 城山公園駐車場から北西に道に登り北へ約50m程で鹿屋城の虎口大手口に入る、東へシラスの断崖の堀切虎口を通り本丸の城山公園広場、城山展望台は今も健在、平成28年10月24日初登城以来9年振りの再登城。本丸、本丸土塁、城名碑(亀鶴城跡)を確認してサラッと終了。
 いざ鹿屋基地へ!・・鹿屋基地野外展示の二式大艇の写真を10番に掲載。
   

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

カズサン

シラス群郭式山城、辿り着けず (2025/10/29 訪問)

 伊作城跡を終えて北へ直線約5.5km程、経路約9.5km程の南郷城を目指す、県道22号線を西へ国道270号線に入り北へ、県道35号線を東へ、永吉小学校をへ、永吉小学校西の通りを北へ、ナビに入力した駐車場までたどり着いたが一軒家、人気無し、周辺歩いて眺めたが駐車場分からず、先の道は細く車の返しが出来ないことを不安に思い引き返す。(後から確認したら100m手前でした)
 永吉招魂碑案内板の西側に南郷城跡石碑と難読出来ない説明板を写して終了としました。

 帰ってから良く余湖図コレクションを精読しましたら駐車場の位置が明瞭に分かり、グーグルマップの精度をアップすると駐車場の位置が明瞭に指示されていました、もう少し事前の調査を精度アップして居たらと後悔しました。この年齢ですから次回は無いかも?

 南郷城の構造は切り立った断崖の有るシラス台地に築かれた比高約50~60mの群郭式山城、西から野脛城、根子城、高城(本丸)、東城などの郭で構成されて連郭式にも見える。
 歴史は、築城年代は定かでないが平安末期には日置南郷として開発されて桑波多氏が郡司として管理して居た。戦国期、伊作島津氏に従っていたが謀反を翻し、天文2年(1533年)伊作島津忠良(日新公)によって南郷城は攻め落とされた。南郷城の戦は薩摩統一を目指す伊作島津家にとって、最初の攻防戦であった。ここから伊作島津家の快進撃が始まって行く。(城郭放浪記さん余湖図コレクションさんの抜粋)

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

じゅんじん

土塁と石垣 (2025/11/23 訪問)

家臣思いの天野さんのお城

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

ページ1