(中国地方と兵庫県)遠征10日目:鹿野城
(2026/05/20 訪問)
本日は15:00頃から雨が降る予報なので、雨が降りだす前に多くのお城を攻城します。
防己尾城から車で15分くらいで、城山神社鳥居手前スペース(35.459354、134.063602)に着きました。
築城年代は定かではないようですが、因幡国守護の山名氏に属していた志加奴氏によって築かれたと云われています。
1543年(天文12年)に尼子晴久が因幡へ侵攻したさい、志加奴入道は鹿野城に籠城して討死しています。
尼子氏が衰退して毛利氏が台頭すると鹿野城も毛利氏に属しましたが、1581年(天正9年)羽柴秀吉が鳥取城を攻めたとき、配下にいた旧尼子家臣の亀井茲矩によってによって落城させられました。
亀井茲矩はこの功によって13,800石が与えられ鹿野城主となりました。
関ヶ原合戦では東軍に属して加増を受け38,000石、さらに1612年(慶長17年)二代亀井政矩が5,000石の加増を受け、43,000石となりました。
1617年(元和3年)亀井政矩は石見国津和野へ転封、鹿野藩は鳥取藩池田家の所領となり、鹿野城も廃城となりました。
1638年(寛永15年)播磨国山崎藩主の池田輝澄はお家騒動により改易となります。
改易となった輝澄は鳥取藩主池田光仲にお預けとなって因幡国鹿野に堪忍料10,000石を与えられます。
再び鹿野藩が成立しますが、1662年(寛文2年)輝澄が没すると子の政直に10,000石が与えられ、播磨国福本藩を立藩して大名に復しました。
1868年(明治元年)鳥取東館藩が鹿野に藩庁を移し、鹿奴藩を称しましたが、翌1869年(明治2年)に鳥取藩に合併し消滅しました。
この鹿奴藩は、1685年(貞享2年)鳥取藩主池田光仲の次男・池田仲澄が新田25,000石を分与されたことに始まり、5,000石の加増を受けて30,000石を領しました。
藩庁は設けず鳥取城の東側に居所を構えたことにより東館藩と呼ばれたようです。
現在は鹿野城跡公園として整備されており、天守台や石垣などの遺構が残っています。
麓には近世に整備された本丸と二の丸(出丸)があり、今でも水堀が残されています。
麓の本丸・二の丸は鹿野学園の敷地ですが、観光用の遊歩道が設置されています。
攻城時間は35分くらいでした。次の攻城先=会下城に向かいました。
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