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カズサン

6号堀と櫓台-2/7 (2024/11/10 訪問)

 登城前にLRT乗車-1/7の続きです。

 宇都宮LRTに乗車して、飛山城跡駅停車場駐車場から車で飛山城址公園へ、一昨年の11月に登城したのですが月曜日でとびやま歴史体験館は休館日依って駐車場もゲートが閉まり駐車不可、手前の導入路に路駐でしたが本日は日曜日ゲートも開き駐車可。

 駐車場:飛山城址公園とびやま歴史体験館駐車場
 参考資料:グーグルマップに依る。従来よりの登城体験知識による。

 今回はとびやま歴史体験館が開いていますので入場し展示物、展示資料を閲覧、資料をゲットしました、当日は飛山城の探訪体験イベントが有った様で十数人前後の方々が案内ガイドの方と廻り終えた後の様な賑わいでした。

 今回の投稿は6号堀を北から南へ、草刈された堀底と櫓台を櫓台5~3の南まで、丁度櫓台3と2の間でボランティアが草刈の最中でした、場内を廻っれる最中に2号堀と4号堀の間の西端でLTRを鬼怒川に架かるコンクリート架橋上のLTRを撮影する時間待ちで城内巡回されていたボランティア説明員の方に話を聞き、今年の夏は暑くて草の成長が早く草刈が大変だった事と、今日は6号堀南側を草刈中との事、依って城内の探訪を終えてから6号堀の櫓台4、3、その南までを見学させて頂きました。
 
 6号堀虎口~4号堀城門-3/7に続く。
  

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しんちゃん

多様な情報にコミットできる石柱 (2024/11/03 訪問)

綾井城は専称寺の境内を含む西側一帯に築かれていたようです。鎌倉時代に築かれ、南北朝の時代には足利方に属し、戦国時代の城主、沼間日向守任世は織田信長の下で活躍したようです。専称寺東側には堀のような側溝が有り、門の前には城址碑や、うん〇くが三方に刻まれた石柱があります。う〇ちくは綾井城について、お寺について、大園遺跡についてとマルチな情報を伝えてくれます。

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しんちゃん

小田原北条氏の子孫です。あと狭山池 (2024/11/03 訪問)

狭山陣屋の主、狭山藩北条氏は小田原北条氏の子孫とされています。陣屋は上屋敷と下屋敷に分かれ、下屋敷は狭山池に隣接していました。ちなみに狭山池は1400年前からある日本最古のため池だそうです。
上屋敷は東小学校から北側周辺までが屋敷跡で東小学校の東に面している道(県道198号)を北上して行くと小公園があり、そこに立派な石碑があります。

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しんちゃん

大ヶ塚寺内町 大阪府南河内郡河南町大ヶ塚 (2024/11/02 訪問)

大ヶ塚寺内町は高台にあり西に県道27号線、東には石川の支流の梅川が流れ、水運が大坂まで通じていたそうです。南北朝時代には楠木氏の一族により城が築かれたそうです。永禄11年(1568)に織田信長が河内に入り、根来衆が撤退した後、村人が顕証寺に依頼し、根来衆の大ケ塚道場・善念寺を顕証寺の通寺としたことにより寺内町が形成されていったようです。北組と南組の二組に分かれ、北組の中心に顕証寺。南組の中心に大念寺が置かれていたとのことです。

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朝田 辰兵衛

にのまるさんの庭に潜入…🌲 (2024/11/01 訪問)

まだ,にのまるさんの庭の端っこかもしれませんが,これより東京文化財ウィークに合わせて多摩エリアに潜伏します。まずは世田谷城。豪徳寺駅のコインロッカーが空いていて助かりました。ほとんど外国人観光客が席巻しており,スマホ片手に周辺を散策しておりました。
なお,豪徳寺に「東京文化財ウィーク」の幟が立っており,「なに観光地化してんねん!」と便乗ぶりに声が出ました。

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WEST

高田城探訪 (2024/11/14 訪問)

高田城を訪問しました。ここは高田城址公園として整備されています。このお城の見どころは、復興された三重櫓と、水堀や土塁の遺構でしょう。
無料駐車場が公園周囲に数多く設けられ、自動車でもアクセスしやすいお城です。
駐車場から極楽橋に向かいましたが、途中内水堀越しに三重櫓を見ることができます。
極楽橋から本丸跡に入りますが、本丸跡内は中学校があり、その周囲を散策することになります。それでも本丸跡内に残る土塁は壮観ですよ。
また公園内には上越市歴史博物館があります。高田城に関する展示もあり時間があれば見学をお勧めします。

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WEST

春日山城探訪 (2024/11/14 訪問)

上杉謙信のお城で有名な春日山城を訪問しました。
最初は、春日山城跡ものがたり館を訪れ、パンフレットを入手し、隣接する監物堀と呼ばれる総構を見学しました。
ここは春日山城史跡広場として整備され、土塁や堀等が復元されています。
次に春日山神社下駐車場まで移動し、春日山神社に参詣した後、いよいよ山城への登城です。上杉謙信公銅像を見ながら進み、三ノ丸址から二ノ丸址、本丸址と進みました。銅像下から20分強の登城でした。
本丸跡からの眺望は素晴らしく、直江津方面、また日本海を見ることができました。眺望の良さは山城の醍醐味ですね。
その他に井戸丸址、景勝屋敷址、柿崎和泉守宅址、毘沙門堂址、直江山城守宅址と周り、下山しました。
春日山城は本当に良く整備され、訪問し易い山城の一つです。

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カズサン

登城前にLRT乗車-1/7 (2024/11/10 訪問)

 孫の運動会観戦の翌日、孫を宇都宮LRT乗車と飛山城跡探訪と誘ったのですが、「もう乗ったよ!」と一言、娘、孫達、家内は1日買物ショッピングの方が魅力で、私は1日城廻へ。
 宇都宮へ来たら是非、LRT乗車したいと願って居ましたので、早速グーグルマップで調べるとLRT飛山城跡駅に無料の飛山城跡停留場駐車場(宇都宮市竹下1674)が設置されている。
 ナビに住所を合わせるがナビが2年前の設置なので住所番地が無く、地形に合わせてセットする、バッチリ駐車場に到着、砂利舗装で20台以上は可能。

 飛山城跡駅と宇都宮駅東口間を往復乗車、約6.8km程、料金250円、走行時間22分、1時間に5本の運行、平日の朝、夕方時は運行本数多くなっています。
 飛山城跡駅では上りと下りが丁度行きかい上り車両と下り車両を同時に見る事が出来ます、上りの宇都宮東口行きは空いていましたので座れましたが下りの乗車は満員で立ち席、宇都宮大駅で多く方が降りられ座れました、鬼怒川架橋の眺めは飛山城跡の西端崖が遠望出来、景観も素晴らしい眺めでした。また新しいLRTの新しい香りと車内と景観を楽しませて頂きました。
 
 その後車で飛山城へ、徒歩では約1.4km程20分、沿道に幟旗、角々に案内板があり容易く登城できます。
 車は飛山史跡公園とびやま歴史体験館前の駐車場を利用。
 体験館に入り展示物見学と資料をゲット(無料)

 飛山城跡をぐるっと探訪し、飛山城西端崖の2号堀と4号堀の間で宇都宮LRTコンクリート橋が遠望出来ましたので、12分間隔の運行と分かって居ましたので時間待ちをしてコンクリート架橋を走るLTRを撮影しました。
 先に、にのまるさん朝田さんが投稿されて居ましたので触発され楽しませてもらいました。
  
 6号堀と櫓台-2/7に続く。
 

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イオ

とことん津山城(搦手) (2024/09/16 訪問)

(続き)

搦手への石段を下りる途中に裏切手門があり、かつては埋門の上を本丸御殿の表向と奥向を結ぶ七間廊下が通っていました。さらに石段を下りたところが裏鉄門で、鉄板で覆われた門扉の櫓門が設けられていました。裏鉄門に南接する腰巻櫓の石垣は明治に大規模に崩落し、後に少し形を変えて積み直されており、今もその痕跡が見られます。

裏中門へと続く石段を下りる前に、十三番門跡から本丸下段の腰曲輪へ。涼櫓が建っていた本丸北面の石垣沿いに進んだ先には、小姓櫓跡や色付櫓跡があり七番門跡から天守台北下に至る…はずですが、長櫓の下あたりにトラロープが張られていたので、その先は未確認です。石段を下りたところが裏中門の桝形で、裏中門を抜けると搦手側の二の丸です。二の丸の北辺には荒和布櫓、道明寺櫓、干飯櫓が建ち並び、西端の肘櫓に南接する格子門は西側の二の丸へと続いていますが、この先は先ほど探索しているので、北西部の裏下門に向かいます。裏下門は搦手の最後(というか最初?)の櫓門で、門の下には紙櫓と肘櫓に挟まれた石段が続いています。

石段を下りて行き、表門側へ続く南側の三の丸は腰掛跡と十九番門跡のあたりで石垣修復のため通行止めになっているので、北側の裏門から退出しました。裏門の東には薬研堀が水をたたえ、二の丸石垣と薬研堀の間には池上門と番所があったようですが、現在は舗装道になっていて痕跡も見られません。そのまま東に進んで、三の丸を抜けて二の丸に通じる桜門跡まで行きたいところでしたが、麦櫓跡を見上げるあたりまでで通行止め。裏門前まで引き返し、厩堀をぐるりと回り込んで駐車場に戻りました。いくつか取りこぼしはあるものの、さすがは日本三大平山城、豪壮な石垣を存分に堪能した2時間半でした。満足満足。
 

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todo94

『YOASOBI 5th ANNIVERSARY DOME LIVE 2024 “超現実” 』前の攻城③ (2024/11/09 訪問)

中曽根城から西新井駅に向かい、東武伊勢崎線牛田駅で京成関谷駅に乗り換え、青砥駅から徒歩でアプローチしました。朝田辰兵衛さんの投稿の通り、葛西城址公園は工事中でしたので、御殿山公園のみ散策して、いくつかの説明板等を確認してまいりました。

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トク

雲林院と紫式部の墓(紫式部ゆかりの地を訪ねて⑥:最終回) (2024/11/12 訪問)

紫式部が晩年を過ごしたとされる雲林院とその墓を訪れました。地下鉄烏丸線北大路駅からバス大徳寺前で下りて行きました。着いたのが17時頃で寺はすでに閉まっていたので、中の見学はできず残念でした(写真②)。

紫式部(まひろ)は、ここ雲林院で宣孝や道長との思い出や今まで詠んだ歌を「紫式部集」としてまとめながら余生を過ごしたとされています。そして道長の死から3年後の1031年に亡くなったようです(享年59)(1014年説もあり)。墓は雲林院から300m程東のビルの谷間にひっそりとありました(写真①)。

 いづくとも
 身をやる方の
 知られぬは
 憂しと見るも
 永らふるかな

源氏物語はベストセラーになり多くの人に読まれた反面、その内容からか誹謗中傷も多く、墓は心無い者に何度も壊されたそうです。晩年の紫式部はそういった誹謗中傷にも、さぞかし心を痛めていたのではないでしょうか? この歌からは、そういう身の置き場所がないまま生き永らえているという様がとれるような気がします。そして紫式部は辞世の句でこう詠んでいます。

 誰か世に
 永らえて見む
 書きとめし
 跡は消えせぬ
 月見なれとも

私が死んだら、この物語を読む人はいないかもしれない。でもそれでもかまわない。書きたい事はすべて書いたのだから・・・

その後実際は、源氏物語は、室町末期から鎌倉時代に冊子から絵巻物に写本され、つまり綺麗なイラストが付いて分かりやすく読みやすい形になったため、紫式部の予想に反して、ますます多くの人に読まれ、そして後世に残っていったようです。


タイトル「光る君へ」・・・
光る君とは本当はいったい誰の事だったのでしょうか?
そしてその光る君へ紫式部はどんなメッセージを残したかったのでしょうか?

お城と関係ない話を長々として、どうもすいませんでした(終)。
 

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天守無しがアツい

高山神社で前日の補完 (2024/11/03 訪問)

スタンプの受付時間にあと数分…で逃してしまった翌日…私は再び津城へ。実はここのスタンプ設置場所は2ヶ所あり、1つ目は城趾むかいの駐車場(津まんなかガイド詰所)…もう1つは高山神社(城趾そばにある神社)にあるとガイドブックにありました⛩️

まずその神社の境内へ…すると(1枚目)確かに続100名城スタンプが…しかも無人なため「誰かに待たされる感も誰かを待たせる感も無く…まさにフリー😂」という最高の状態で気兼ねなく押印

普段はスタンプ台まで撮影することは無いのですが…何せ今回は惜しかった前の日の切なさを今日挽回ができた流れで…少しテンションが上がっていたからか…その記念としてこれも撮りたくなったのです

そう…最大の目的である100名城スタンプはこれで達成した…けれどそれでハイさよならは礼儀に欠ける…というか私のポリシーがそれを許さない。なので本堂(2枚目)で御賽銭をあげて感謝の合掌🙏もしました

それから城跡に向かい…時間の許す限り散策。前日(11/2)に御城印を購入した際に観光案内所スタッフが渡してくれたパンフレットの中に天守台という表記があり、てっきりここにあるのは櫓のみで天守は無いと思っていたので、そこを確認する事にしました

天守台は高山神社のすぐむかい…階段上がってすぐ右手の場所にあり、今まで見逃してしまうほど地味な印象でした(3枚目)。台の上に上がる階段は無く、下から見上げるのみ

案内板のみが天守台の手前に立ってました。この天守台には初代城主織田信包の代に五層の…藤堂高虎の代に三層の天守が建てられた…しかし関ヶ原の戦いだったり(その時にここ津城は包囲戦がおこなわれたらしい)火災で消失し、以降は再建されぬまま…現在に至る🏯

最後に…城趾むかいの駐車場を遠くから確認。すると白いテントがあり(昨日そこに足を踏み入れた時それは無かったので)「やはりもうスタンプ設置台は撤収してたんだな…」「5-10分遅れだったからもしかしたらまだスタッフさんがいて、頼めば押させてもらえるかもと淡い期待してたけど…時間厳守みたいにすぐ撤収しちゃうなんてキビシー😅」と感じました

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朝田 辰兵衛

玉縄城から徒歩で…🐾 (2024/09/15 訪問)

玉縄城から徒歩で向かいました。だらだら歩いたので,30分くらいかかりました。子供連れの奥様2人が長話しておりましたので,隣接する長福寺の高台に行ってみました。風合いのある冠木門がありましたが,関係性はわかりませんでした。
すっかり暗くなってからようやく公園内を撮影するにいたり,ストレスと疲労感の記憶だけが印象深い散策となりました…。

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しんちゃん

マツオ・デラックス (2024/11/03 訪問)

松尾寺城は山岳寺院を利用した城であったそうですが、それほど険しい感じはしません。北側の社の背後の土盛りは雰囲気がありますが、遺構かどうかは不明です。天正9年(1581)織田信長に攻められ壊滅的な打撃を被りますが、後に豊臣秀頼によって再建されたそうです。
山門に向かって石段を登っていくと左手に首堂があります。源義経が一ノ谷の合戦で討ち取った首を首舟に乗せ松尾寺に送り、それをねんごろに弔ったとのことです。

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しんちゃん

石碑があるでよ (2024/11/03 訪問)

伯太陣屋は渡辺基綱によって築造されたとされています。伯太藩渡辺氏は「槍の半蔵」の異名を取った渡辺守綱の五男を始祖(オリジン)とするようです。現在は宅地になっていて、石碑や武家屋敷跡を示す石碑などが残るのみです。
残りの写真は旅の途中、各地で食したものたちです。やはり食は旅の友であり糧であります。

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しんちゃん

柳生食堂・まかない飯 柳生藩家老屋敷小山田家 (2024/11/02 訪問)

柳生藩家老屋敷は柳生藩1万石の家老であった小山田家の屋敷です。作家の山岡荘八氏がここに移り住み「春の坂道」の構想をここで練ったと伝わってます。いいですねえ‥、こんな古風な屋敷で一年くらい暮らしてみたい。
柳生藩に伝わる武具や山岡氏にかかわる展示がされています。すぐ近くに小山田家の分家があります。こちらは非公開になりますが、本慶に負けない立派な石垣が目を引きます。

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しんちゃん

よくわからん (2024/11/03 訪問)

現地案内板にかつての縄張りが載っていますが、今はだいぶ変わっているようです。近くにある門は常時閉まっているようです。現状=良くわからん‥です。
永禄9年(1566)2月、家原城に籠っていた松永久秀方の泉州衆が城を出て、畠山高政と合流し、上芝で三好義継の軍勢13000と戦いますが敗れて岸和田城に逃れたそうです。永禄11年(1568)9月には織田信長が三好三人衆を破って畿内を平定しますが、12月には三好義継の家臣・寺町左衛門大夫・雀部治兵衛尉らがたてこもる家原城が三好三人衆に攻められ落城したそうです。

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ぴーかる

城跡へは立入禁止 (2024/11/03 訪問)

【御影山城】
<駐車場他>出雲大神宮大駐車場
<交通手段>車

<感想>御影山城の築城の詳細は定かではありません。城びとの城郭情報では主な城主に柳本氏・内藤氏がある。柳本氏は幕府管領を務めていた細川氏の家臣、内藤氏(八木城が本拠地)は細川氏から丹波国守護代を任ぜられた家柄です。また亀岡市のホームページには明智光秀の進軍の際、国衆がここで防戦したと伝えられると書かれています。
 御影山全体が麓の出雲大神宮の御神体であるため入山禁止となっています。山の中腹にある巨石の磐座へは社務所で受付すれば見に行けるとのことでしたが山頂付近の城郭遺構まで行けないとのことでしたので私もパスして神社でお参りのみとしました。山頂付近は石積み、土塁、堀切等良い遺構が多くあるようです。

<満足度>◆◇◇

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虎の子

割と標高差のある山城でした (2024/11/16 訪問)

彦根駅徒歩20分くらいの龍潭寺から上り、切通し、西の丸、本丸と登城し、千貫井やわずかに残る隅石垣などを見てきました。地元のガイドの方によると三の丸や法華丸への道は昔はあったが今はなく、登城道も今は一つなので、上った道を下るルートです
本丸からは彦根城を眼下に見ることができました。千貫井は今は水はないが水があった痕跡はしっかりありました。隅石垣はほんの数個残っているだけで、彦根城に流用されたという話も聞きます。三成の城だから思い込みもあるでしょうが、なんとなく荒廃感がありました
城山全体が寺の所有地とのことで、登城道などの整備も追いつかないのかもしれませんが、入山料などはなく開放いただいているようです。また、龍潭寺付近や登城道で何匹もサルを見かけました。目を合わせたり食べ物を見せないように気を付けてくださいね

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WEST

豊田城探訪 (2024/11/06 訪問)

茨城県常総市にある豊田城を訪問しました。
国道294号を南下していると5重7階の天守閣が視界に入ってきます。高さ48.5mで市内で一番高い建物だそうです。
この豊田城は常総市地域交流センターとして建てられましたが、実際のお城跡は別の場所のようです。
最上階からの眺望は素晴らしく、常総市の街並みや筑波山が良く見えます。また、登城日はあいにく見えませんでしたが、天気が良ければ、富士山も見えるとのこと。
1階のロビーには、城主豊田治親氏の毒殺の場の展示がしてありました。戦国時代の厳しさを見るようです。
ところで、常総市内を走行していると櫓風の建物が散見されます。いくつ位あるのでしょうか?

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