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しんちゃん

草津宿周辺 (2024/02/11 訪問)

滋賀県草津市には東海道五十三次の52番目の宿場町、草津宿が有りました。中山道が合流する場所でもあり、全国でも珍しい本陣建物が現存し、国の史跡にも指定されています。南西に200mほどの場所に草津宿街道交流館があり、錦絵の版画刷の体験をすることが出来ます。
道中には寿司清さんがあり、「本陣セット」や「はこずしセット」をリーズナブルな値段でいただくことが出来ます。「はこずし」は草津の名物ですが、本陣セットを注文すれば、お寿司とはこずしをバランス良くいただくことが出来ます。
写真は許可をいただいて投稿してますよ。

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しんちゃん

訪問は最新の注意を払って (2024/02/11 訪問)

桜生城は六角氏家臣の沢氏の居城とされ、今でも子孫の方が住んでいるようです。土塁や水堀が往時をしのばせますが、これ全部私有地じゃないのかな。 申し訳ありませんが写真を掲載させていただきます。戦国末期のオーソドックスな平城のようで、僅かな微高地にはなりますが、この程度であれば平城という扱いになるわけですね。ご住居が主郭と見られ、隣接する扁平地も曲輪と見られます。

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しんちゃん

砦というよりは居館跡のような。 (2024/02/18 訪問)

三瀬砦は南は宮川、西は宮川に流れ込む大谷川に挟まれた河岸段丘上に築かれている城館跡で、城主は「三瀬の変」の下手人の一人・長野左京進という説と、北畠家臣・三瀬左京という説が有るようです。また二人は同一の人物でもあるという説もあるようですが、真実はわかりません。主要部は東側に配された曲輪で、周囲を土塁で囲まれ東に虎口が付いています。
また東側と北側には石垣が積まれてあったとされ、土塁の中にも石積みが見え隠れしています。この石積が土塁の形状保持の為のものか、石垣の中込石の用途であるかは不明です。奈良の椿尾上城でも土塁の中の石積を見たような気がします。
主郭から西側、河岸段丘の先端に向けても曲輪が連なっているようです。主要部より少し小高い位置にある曲輪には社が祭られ、西側には少し低くなった位置に曲輪がありました。そこから西側には訪れていませんが、先にも遺構があるようです。

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ぴーかる

超マッハで (2024/05/25 訪問)

【小幡城】
<駐車場他>駐車場はなし。城跡板がある月極駐車場横に停車しました。
<交通手段>車

<感想>日帰り濃尾平野ちょこ城巡りの旅、第3弾10城目。城跡の説明は1枚だけ撮影した説明板があるので割愛します。説明板がある主要部は周囲から高台になっていて、車で来ても結構な坂道を登ります。周囲の道路は狭く、車を停める所が見当たらなかったので月極駐車場に車体を半分入れて超マッハで1枚だけ撮影しました。周囲の高台からの眺望と土手を撮影したかったのですが‥‥。

<満足度>◆◇◇

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零汰

ユオイチャシ (2024/05/09 訪問)

写真1をご覧ください、綺麗な空堀に見えませんか。
加工はされているようですが、こんな空堀を直に見てみたいです。
しかしこれは違います。ただの谷だそうです。
チャシの横濠は写真2で、二重濠でモルタルで保護しています。
端部は先程の谷に彫り込んでいます、若い雑草は愛敬って事で。

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しんちゃん

おやまあですわ (2024/04/20 訪問)

赤い城さん、情報ありがとうございます。田村神社‥ユニークな神社だと思っていたら城址でもあったとは‥知らんかった
あたいもまだまだね!(誰?)
私もかつては城めぐりと合わせて、全国の名のある神社仏閣を周っていたのですが‥そ~んなにご利益は無かったので、今は城めぐりがメインです。また香川県に行った際には田村神社を訪れて日曜市うどんを頂きたいと思います(城跡は?)

河合城は室町時代に播磨守護職であった、赤松氏の東播磨の拠点として築かれたようです(案内の石版参照)。嘉吉元年(1441)の嘉吉の乱の際には赤松満祐が将軍・足利義教の首を持って入城したとあります。主郭の周囲は宅地と畑地となっており、東西に曲輪が配され周囲を堀が巡っていたようです。かつての堀跡に沿うように側溝が元気にその姿をアピールしてくれています。

最近スマホのネット接続が非常に悪く、皆さんへの「いいね」が遅れがちになっています。そんなわけで遠出の際にはご容赦願います。

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朝田 辰兵衛

山形県と秋田県で甚大な決壊アリ… (2024/06/01 訪問)

にのまるさん,日本海側をご心配くださり,ありがとうございます。新潟県は新発田市でちょいと被害がありましたが,時間が解決しそうなレベルです。
どちらかというと,山形県と秋田県で甚大な決壊があり,長期戦となりそうです。
山形県は,新庄城の南西側(岩鼻館と清水城の中間付近)で最上川が決壊。秋田県は,本荘城の南東側(石沢川との合流地点)で子吉川が決壊。時間が解決しそうな小さいものを挙げればキリがありません。
JRは羽越線が運休してます。これは,鶴岡市内よりも酒田市内の被害の影響がメインと思われます。にのまるさんが乗車を検討しているであろう「海里」は,しばらく無理だと思います…。

久しぶりに山形県の城を投稿しますが,長瀞城は住宅地を水堀が囲っており,すぐに溢れそうなレベルです。大雨にはならなかったエリアですが,真っ先に心配になりました…。

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赤い城

一宮城 香川県高松市 (2024/07/14 訪問)

少し前にしんちゃんさんがレポートされていた田村神社、ここも城趾なんです。
田村神社大宮司の居館で香西氏が長宗我部氏に攻められた際には西光寺の戦いに参加しています。
広大な境内に居館があったとのことですが遺構は残りません。
南側のことでんの線路や83番札所一宮寺との間の道路が堀だったのかな?と想いを巡らせます。

田村神社では日曜にうどん屋さんが営業しています。
日曜市うどんとして親しまれており、一玉200円、温か冷を選びます。
この日は冷で食べましたが作り置きの麺でコシはあまりないので温がいいかな。
まぁ、ここで麺のコンディションをどうこう言うのは違うと思います。
出汁は美味しかった!
一宮廻りをされている方はぜひ日曜の朝にご参拝ください。

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肉球

一回りしてみました・5 (2024/07/13 訪問)

赤橋から本丸へ入り相馬神社をお参り。
本丸南西部には築城当時天守閣が存在していたようです。
黒橋を下り西二の丸へまわると天守閣が存在していた付近の
石垣が崩れ落ち手付かずのままでした。
なんとか保護してもらいたい思いです。
二時間半の散歩でした。

お城から南の正西寺の山門はお城からの移築門。
一昨年の地震で屋根の部分が倒壊し少し可哀想な姿に。
東へ少し離れた長命寺の山門もお城から移築されたようですが
こちらは無事な姿。安堵

五回も投稿失礼しました🙇



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肉球

一回りしてみました・4 (2024/07/13 訪問)

妙見曲輪から南二の丸を歩き本丸へ。
お馴染みの本丸鉢巻石垣を眺めながら進むと
丸土張という馬出しがあります。
5枚目の画像土塁の間の通路を進むと北二の丸へ。
城内を北へ進む通路はいずれも狭いように感じます。
赤橋を渡ると本丸です。

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肉球

一回りしてみました・3 (2024/07/13 訪問)

北三の丸の外側を周り再び北三の丸内部へ。
蓮池西側の土橋をパシャリ。
土橋の西側は水堀があったようですが今は埋め立てられ水田に。
西三の丸の外側を歩き西山口門跡から西三の丸内部を歩き再び土橋の方へ。
西三の丸内部は山城と思えるくらいの細い道に西二の丸の高い切岸が続いてます。
土橋の内側には小さいながら枡形が存在。
こちら側は大軍が出入り出来るような感じではなく通用口的な存在か。
来た道を戻り妙見曲輪へ。

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柏原城(滋賀県) (2024/07/25 訪問)

 滋賀県米原市にあり城びとには未登録の城址です。
鎌倉時代初期の武将佐々木信綱3男が六角氏の祖・泰綱、4男が京極氏の祖・氏信です。京極氏の初代となった京極氏信は、最初は柏原城を居城としました。菩提寺として清瀧寺を創建しています。遺構は残っていませんが、石碑がありました。清瀧寺の境内には京極家墓所、初代氏信より数えて5代目佐々木道誉(京極高氏)が愛したとされる道誉桜などがあります。また三重塔は江戸時代に丸亀藩主となった京極高豊が建立したものです。高豊の父で初代丸亀藩主・京極高和の院号から徳源院としました。この徳源院は居館跡で清滝山に詰城(清瀧山砦)があったようですが、今回は行っていません。

柏原宿は中山道60番目の宿場町で、その風情を楽しむことができます。ゆっくり散策するともりでしたが、途中から空が暗くなりゴロゴロと鳴り始めたため早々に退却しました。

 JR柏原駅より徒歩20分くらいで城址には行くことができます。

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国友鉄砲ミュージアムと国友城 (2024/07/25 訪問)

 長浜城からも近いので長浜城の周辺観光で投稿させていただきます。
前から鉄砲生産地として歴史に登場する国友集落(滋賀県長浜市国友町)へ行きたいと思っていました。国友村は戦国時代を舞台にした小説を読んでいると度々登場します。鉄砲伝来の翌年に将軍足利義晴が管領細川晴元を通じて国友村の鍛冶に鉄砲を作ることを命じ、半年後に2挺を献上したということが始まりとされています。実際には違うのではないかという説もあるようです。ただ戦国時代多くの鉄砲が生産されていたことは確かなことです。どうして国友なのだろうと昔から思っていました。納得する答えが見つかったわけではりませんが、それなりに楽しんで散策していきました。国友鉄砲ミュージアム(国友鉄砲の里資料館)は多くの火縄銃の他に大筒などの展示あり、製造工程もわかりやくすくビデオなどで説明がありました。火縄銃を持って重さを体験できます。館内展示の撮影もOKということなので撮影させていただきました。
 国友城という石碑がありました。国友に城があったとは聞いたことがなかったのですが、国友氏の館跡といわれています。遺構は水路が堀の痕跡ともいわれていますが、土塁などは見当たりません。城びとには未登録な城址です。
近くには国友河原合戦の石碑もあります。
 全部を回りきれたわけではありませんが、鍛冶師、台師、金具師の館跡等も散策しました。その中でも江戸時代に活躍した国友一貫斎は有名ですね。日本初の反射望遠鏡を作ったことは知っていましたが、その他にも気砲(空気砲)、懐中筆、玉燈なども作っています。

 長浜駅からバスに乗り国友鉄砲の里資料館前下車。乗車時間は20分くらいです。

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にのまる

かるた楽しみです😊

遅ればせながら100名城かるた販売決定おめでとうございます。
詳細発表楽しみにしています。

朝田さん、「ソースカツ丼」ではなくて「タレカツ丼」でした💦失礼しました。
私がいただいたのは確かに須坂屋そばさんのざる蕎麦とミニタレカツ丼のセット(1,000円)でした!あとグレープフルーツサワーだったかな?
バスセンターのカレーのバスセンターも以前と変わっていないようで…。
実は須坂屋さんを頭に置きつつ、ほかのお店はどうだろう?と新潟駅近くを彷徨い、CoCoLo南館2Fの小嶋屋さんとガレッソ1Fの幸乃蔵さんを覗いてみたのですが、満席だったりで、須坂屋さんに落ち着きました。須坂屋さんも混んでいて数組待ちでしたが、それが却って地元の方々に紛れ込んで普通に晩御飯をいただいているような感覚を味わえてよかったです。

最近、新潟・群馬・福島がマイブームなので、次回訪問時にはご紹介くださったお店に行ってみようと思います。

ところで、新潟、山形、秋田方面は大雨の影響がかなり出ているようですが大丈夫でしょうか。大事に至りませんように。

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しんちゃん

成田・成田・成田・・徳川 (2024/05/05 訪問)

成田氏館に再訪したついでに、成田氏ゆかりの寺にも寄ってきたので、過去の投稿を含め成田氏づくしで行かせていただきます。
成田氏の祖は藤原鎌足子孫・道宗の子・助高(資隆)とされ、天喜元年(1053)に成田の地に館を構え成田氏を称したとされています。その後「関東八家」と呼ばれるまでに勢力を拡大し、親泰の代に忍氏を滅ぼし、忍城主になったようです。
熊谷市の龍淵寺には成田氏の墓が七基あり宝篋印塔は16代長康・17代氏長・12代開基家時のものとされ、板碑は19代重長の子房長のものとされています。21年の写真になりますが名古屋の平和公園には「のぼう様」こと成田長親公の墓があり、尾張藩7代・徳川宗春公の墓もあります。
宗春公は徳川吉宗に従わなかった廉で、死後も罪人扱いを受け、その墓には鎖が巻かれ、11代将軍家斉の時代にようやく許されたとされています。同様の扱いを受けた人物に三代将軍・家光の同母弟忠長公がおり、この人物についても思う所があるので、また関東を訪問した後に追って投稿したいと考えております。

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外堀周辺散策 (2024/07/25 訪問)

 JR長浜駅から東側にある北国街道、大手門通りとその周辺には大手門跡などの城に関連した石碑があります。外堀跡は水路として残っています。当時は幅30mあったと石碑に彫ってありました。街にも武者隠れ道など興味深い場所がありました。通りはおしゃれな店が多くありました。
 昼飯は翼果楼さんで焼鯖そうめんをいただきました。

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羽柴秀吉 (2024/07/25 訪問)

 久しぶりの長浜城です。羽柴秀吉の城として有名な城ですが、遺構はほとんどありません。それなりに周囲を散策し石碑などから当時の規模を想像して楽しんできました。

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ぴーかる

じょうじょうじょう (2024/05/25 訪問)

【上条城】
<駐車場他>駐車場はなし。城跡碑がある月極駐車場フェンス前に停車しました。
<交通手段>車

<感想>日帰り濃尾平野ちょこ城巡りの旅、第3弾9城目。上条城の築城は1218年に小坂光善という鎌倉時代の武将によって築城されました。築城した後に小坂光善は近江国に移り住みましたが室町時代に子孫が上条城に戻り林氏に改称します。織田信長の時代に林氏は領地を信長に献上して帰農します。城は信長の家臣の尾張吉田城主である小坂雄吉に与え城の大改修を行います。小牧長久手の戦いでは林氏は池田恒興軍の道案内等を務めますが、秀吉の撤兵条件として取り壊す諸城うち上条城も含まれていて城は廃城となります。廃城後林氏は大庄屋として明治まで残ります。
 城跡地の本丸跡は現在月極駐車場になっています。土塁や天守台が残されているようですが、ガードフェンスが立てられていてほとんど見ることができません。林氏の末裔で明治の農民運動家、林金兵衛重勝の石碑があります。

<満足度>◆◇◇

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しんちゃん

鴻巣御殿 日本一小さい御殿跡 (2024/05/05 訪問)

埼玉県鴻巣市にある鴻巣御殿跡は文禄2年(1593)徳川家康によって鷹狩や視察などの目的に築造されました。その後、寛永7年(1630)に至るまで徳川将軍家三代によって使用されたとのことです。かつての敷地の広さは1.4ヘクタールにも及びましたが、いまは小さな東照宮が民家の間に祀られているのみです。かつて御殿地に祀られていた東照宮は明治三十年代に鴻神社に合祀され、御殿跡の比定地も明らかではなかったのですが平成6年の試掘調査によって、一部が確認されたようです。
現地には「江戸図屏風」の一部の写しのパネルがあり、かつての壮大さを窺い知ることが出来ます。

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イタさん

跡地は本城寺境内 (2024/07/24 訪問)

山門脇の案内板に、室町時代中頃に酒井定隆の居城があった場所で、今でも周囲には空堀と土塁の跡が残っています。本城寺は下総国に・・・云々、と載っている。酒井氏が土気城に移るまで機能していたらしい。夏草の生い茂る時季で遺構が分かりづらく、やはり冬場が最適でしょうか。また本堂裏手は行けるが、居住建屋の背後辺りに遺構があるらしいが、承諾がとれず奥は遠慮した。

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