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シェル

小金牧を管理する陣屋 (2024/06/26 訪問)

 最寄り駅はJR武蔵野線 新八柱駅または京成松戸線(新京成線)八柱駅です。駅から徒歩5分ほどの門前公園のところに説明板が設置されています。説明板によると、江戸時代に幕府によってつくられた小金牧(馬の牧場)を管理する陣屋だったようです。
 門前公園の北西側の八柱桜通りの歩道沿いにも、金ヶ作陣屋の標柱が立っています。
 陣屋跡周辺には、松戸市立博物館があります。この博物館では、松戸市の小金城の模型や常盤平団地の実物大模型、野外展示の竪穴住居などが展示されています。かなり見ごたえたっぷりの博物館なので、金ケ作陣屋とセットで立ち寄ってみるのがおすすめです。

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シェル

常陸国の里見氏 (2024/06/11 訪問)

 JR友部駅から東に徒歩約30分で到着。小原城は、房総の里見氏発祥の城として知られています。
 里見氏は鎌倉公方に奉公衆として仕えており、里見家基は鎌倉公方足利持氏に小原を与えられます。この際、小原には家基の弟の満俊が入ります。永享の乱または結城合戦で家基が亡くなると、家基の子とされる里見義実は安房に渡り、のちに安房里見氏として房総半島で勢力を拡大していきます。一方で家基の弟 満俊の家系は小原に残り、代々、小原城主を務めたようです。
 城跡は、小原地区一帯に広がり、公民館と御城稲荷神社付近が本丸跡です。本丸跡は土塁が良好に残っています。また土塁そばのゲートボール場は、かつて水堀だったようで、平成の始めまで残っていたようです。

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しんちゃん

島津義弘の城館跡 (2025/05/08 訪問)

文禄3~4年(1594~5)に行われた太閤検地の後、帖佐は島津義弘に与えられ、義弘は文禄4年に居城を栗野松尾城から帖佐へと移しました。現在、城館跡には稲荷神社が建ち、当時の物と見られる石垣が残っています。東側が大手とされ大手門跡が残っています。
義弘は慶長10年(1605)に平松城へと移り、帖佐の地は江戸時代には麓(外城)の一つになりました。帖佐館の南250mにある帖佐小学校の地に帖佐郷の地頭仮屋が置かれ、当地の行政の中心となりました。別府川沿いの納屋町には藩の御用蔵が置かれ、物流の拠点として栄え、帖佐麓は船の出入りで賑わったとのことです。

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ナマズ

新しく公開された豊臣時代の石が (2025/05/27 訪問)

時間があったので最近開館した豊臣石垣館に行ってきました
大阪の陣の戦果の跡や福智山城や大和郡山城で
いっぱい見た転用石を見
充実した一日になりました

帰り開館記念の御城印?も買い満足気に帰宅しました

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しんちゃん

困った・・ (2025/05/08 訪問)

自分のPCはWin7なんだけど、ここ数日「城びと」サイトとの反応が良くない。「いいね」がつけられないし、グーグルマップとの連携が全くできない。ほかにもいろいろ・・。さすがに7にはもう対応していないんだろうか? こないだまで問題なかったんだけど。

国分城は慶長9年(1604)島津義久によって築かれました。この城に移る前に義久が居住していたのが富隈城で、国分城はより大隅国との国境に近い位置にあるようです。裏山にある「隼人城」は国分城の詰の城としての役割も担っていたとされ、現在は城山公園として整備されています。
国分城の跡地には霧島市立国分小学校が建てられ、周囲には石垣と堀が残されています。また堀沿いに旧南門とされる「朱門」が再移築されています。

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ぴーかる

粟住山城 (2025/03/30 訪問)

【粟住山城】
<駐車場他>登城口前に平地があり停めれます。
<交通手段>車

<見所>眺望
<感想>日帰り尼子十砦旅ラスト5城目。この城は尼子の城ではないようです。現地説明板によると粟住山城は築城年代、城主とも不明で江戸時代初期に津山城築城に際して粟住矢倉という人物がこの山から建材を持ち出したことから粟住という地名がついたといわれています。中世のお城ということは間違いなさそうなので、結局は当時の城名も城主も不明ということでしょう。
 車で城跡まで向かう途中で山頂に1本松が残る山が見えるので、あの山が粟住山城跡だとすぐ分かります。登城口から主郭までは目立った遺構は見受けられません。1箇所だけ土塁堡塁のような場所があります。主郭の南側に薄い堀切があり主郭に入ります。主郭は山頂部分を水平に切り取ったような広い曲輪で土居はありません。副郭との間や側面に竪堀があるようですが灌木が茂って現在は表面観察では分かりません。主郭の北側に堀切があり副郭があります。私の腰上あたりまで灌木が茂っているので散策は不可です。副郭の北端から切岸を降りる踏み跡がありますが、急斜面で尻もちつきそうで降りるの止め、ここまでとしました。北側には曲輪が連段となっているようです。ロープか何か持参するといいでしょう。

 これにて日帰り旅終了。この日は往路が雨で、城跡に登り始めると雪が降って、下山して次に向かう移動は晴れて、次の城跡に着いたらまた降雪のタイミングで運が悪かった。船上山城も予定していましたが積雪で通行止めで、あとからでしたが尼子十砦制覇ならずで散々でしたが、気持ちを切り替え、今回は怪我無く城攻めができて、のちの楽しみが増えたと思います。走行距離662㎞無事走破。

<満足度>◆◆◇

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天守無しがアツい

しとどの窟 (2025/06/07 訪問)

湯河原駅からタクシーでバス停までアクセス🚕
バスは廃線になったらしい
レンタサイクルはあるけど…山道の勾配がキツいし車の邪魔になってしまうと思われるからやめたほうがいい

バス停には数台のバイクが止めてある。ライダーにとってここはそこそこ名所なのか?自動二輪の免許持ってる方はバイクもあり🏍️

トイレはバス停付近にあるだけ🚻しかもかなりボロくて虫がブンブン飛んでる。水道は蛇口から水が出るだけで石鹸は無し

トンネルを抜けて…地蔵がたくさんある場所を過ぎて…下り坂を進む…道の両側には灯籠や地蔵が並ぶ

矢印板を過ぎると待ってるのは上り階段…それを上りきると…窟が目の前に

かつてここは…もっと入口が狭くて…身を隠すのに適していたが…関東大震災で崩落…今の丸見えな窟になったそう

今でさえ…ここまで来るのに一苦労な場所😓
あの頃(治承四年)はおそらく今よりも道が整備されてない分、もっと大変だったはず

「(権力を独占して威張り腐ってる)平家を倒せ✊」という以仁王…つまり朝廷からの綸旨を受けて…流刑先の伊豆で挙兵した源頼朝

しかし平家側の軍勢は圧倒的…多勢に無勢で…石橋山の戦いに敗れた頼朝は…敗走して足柄の山奥にあるこの窟に…家臣と身を潜めた

「ここまで来れば…見つかるまい☺️」「こんな辺鄙で山奥…とても人の住むような場所じゃないところまで…」と

しかし…平家にとって頼朝は…宿敵源氏の神輿的存在…負けて散り散りになってるとは言え…生かしておけばいつまた反乱分子に担がれるか分からない…おまけにあの時…20年前に平治の乱で(まだ子供…かつ平清盛の母が「タヒんでしまった自分の息子にそっくりだから」と助命嘆願した理由で…)処刑せずに伊豆に流罪で許してやったのに…

今度こそ…◯す💀

平家側は…ネズミ一匹逃さないスタンスで…隈なく一帯を探した…何としても頼朝の息の根を止める💀そして平家側の武将…梶原景時が…頼朝一行が窟に隠れてるところを…みぃーちゃったーのである

しかしその時…景時の頭に…一つの考えがよぎった

「こいつ(頼朝)を引き渡せば褒美が多少もらえて…こいつはほぼ間違いなく◯刑だろう」「でもそれでいいのか景時?そうなれば平家一門がのさばり…平家じゃなければ人間じゃないという空気の世の中に逆戻りだぜ」

「おまけにあいつら(平家)…おれたち関東の武士を蔑ろにして…天皇家と婚姻関係結んで…朝廷とばかり仲良しこよししてやがる」「あれはおれたちが望んだ世の中じゃない…我らが求めてるのは…独立した武士の政権…武士の求めてるものを理解し、その利益を代表してくれる存在だ…」

「そうと分かればこいつ…生かしておいたほうが…これから先…面白くなるんじゃね😆😁😏」

こうして頼朝は命拾いし…窟から(真鶴半島にある)船出の浜まで移動…小舟一艘で上総国(千葉県)まで渡るという離れ業をやってのけて…一定数の武士を味方に引き入れて…源氏の拠点である鎌倉に凱旋した

戦いにボロ負けして味方は数騎になり…普通ならこんな負け馬には乗りたくないというのが…人間の心情(かと思います)

けれど敗走中に…どんどん味方が集まって…勢力を盛り返す事ができるとは…どれだけ平家の政治に不満を持つ人間が多かったか…という何よりの証拠なのでしょう🤔

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しんちゃん

島津義久の隠居城 (2025/05/08 訪問)

富隈城は島津16代義久によって築かれました。東西約150m、南北約250mの方形の城館で、南側にNHKの無線中継施設があり、その北側が駐車場とゲートボール場、残りの部分が富隈稲荷神社と見張り台の様な小山という一風変わった構造となっています。
豊臣秀吉の九州平定後の文禄3年(1594)の検地の結果、義久は内城を去らざるを得なくなり、文禄4年(1595)~慶長9年(1604)までの10年間をここで過ごしたとされています。こののち義久は国分に国分城を築いて移っていきました。
野面積の石垣に肥後八代の刻印が見られることから、種山石工の手によるものとされています。東南隅の道路脇の巨石は加藤清正の寄進石とされ、肥後国産と見られています。

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朝田 辰兵衛

5つの曲輪で構成されています✋ (2025/06/07 訪問)

「大館」「西館」「新城館」「北館」「八幡館」で浄法寺城。当時にもスーパー戦隊らしき猛者ユニットが存在していたら面白いかな…と,勝手に想像を膨らませて散策しました。
「八幡館」はレッド格かな…。令和のビジュアルでは,残りは全てグリーン格(色味が…<笑>)。「西館」はブルー格(南側に寺があるので)。「大館」はイエロー格。「新城館」はピンク格。「北館」はグリーン格。と,勝手に格付けして楽しみました。

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たか

石倉城の次に行ってみた (2025/06/07 訪問)

御城印のイベントの為、前橋に行った際に石倉城から厩橋城へ行ってきました。
大きな中央大橋を渡りまずは東照宮へ。
非常に煌びやかでとても素晴らしくまずは手を合わせてからいざ攻城。

県庁の部分が本丸だと思っていたら違ったのですね。
立派な土塁が残っておりしっかりと堪能ができました。
先程書いた通りイベントがあったせいか何人か来ていたのでなんだか嬉しい気分になりました。
関東の華素敵でした。
帰りに前橋駅で御城印を買って帰ろうと思ったらすごい種類があって選ぶのもできずに全部買ってしまいました。
今月は節約しないとです(笑)

新前橋駅から石倉城、前橋城に行って前橋駅まで歩くと約2万歩でした。

余談ですがスマホのナビで前橋城と入れて行くとなぜか県庁も越えたところにマークがあります。
なんでだろうと帰りに見たら「前橋城」というラーメン屋さんだった。
お城に対する愛情なのかと思ったらなんだかほっこりしてしまいました。
開いてなかったので残念ではありますが口コミ見ると美味しくて混んでいると書かれていました。

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たか

遺構は見当たらない (2025/06/07 訪問)

御城印のイベントに参加するついでに攻城してきました。
新前橋駅から歩くと20分くらいはゆうにかかります。
他の方が書かれている通り二の丸公園に城址跡の碑と説明板があるだけで遺構は見当たりません。
ここを武田信玄など名だたる武将が争ったというとなんだかワクワクした気持ちになりました。

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カズサン

多賀城-4/4 名残余韻点描編 (2025/06/06 訪問)

 多賀城-3/4 復元城前官衙編の続です。

 外郭南門、城前官衙跡、多賀城跡ガイダンス施設見学を終えて、以前より訪ねたいと思っていた東北歴史博物館へ、ガイダンス施設から直線で約500m程、歩いてと思ったのですが係りの方が訪ねたら車が便利ですよと駐車場も広くと道順を教えて頂きました、ナビに入れていましたがナビより係りの方の道順、案内道路標識が最適でした。
 写真も沢山90枚近く撮り、復元多賀城の名残と捨てがたい余韻をもう一度投稿させて頂きます。

 東北歴史博物館は、(通常展示@460)東北地方の歴史を石器時代から縄文、弥生、古墳、城柵多賀城創建時、藤原三代、武士の時代、現在と見ごたえのある展示でした。

 4編に渡り長々とご覧頂きありがとうございます。
  

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カズサン

多賀城-3/4 復元城前官衙編 (2025/06/06 訪問)

 多賀城-2/4 復元外郭南門細部編の続です。

 復元された多賀城外郭南門をなめる様に見学観察させて頂き、時間も朝早く見学者は殆どなく、地元の方が犬の散歩、ウォーキングなどで少し散見される程度、南門前に散歩者がいると時間を待って無人状態で撮影し終えて、南大路を遮断してる泉塩釜線を越えて政庁南大路の東丘に新たに復元整備された城前官衙地区を見学、昨年一昨年は一部工事規制が有るものの見学可能エリアが有り一部投稿もさせて頂きました、しかし説明板解説板にはシートが被せて有り内容を見る事が出来ませんでしたが、今回は晴れて全開されて見る事が出来ました。
 復元官衙の主屋は瓦屋根だった様ですが展示建物は透明の屋根板で覆われている、柱は素柱で木の温もりが伝わる、西と東に夫々4基の床張り建物が半柱で展示されている。
 南下大路側に創建当時の外郭南門跡の半柱基壇が説明板付きで展示されている。
 南大路からの南門の眺め、政庁方向の眺めも素晴らしい、法面には今盛りのサツキが咲、コスモスの様な黄色の花が南大路西法面を覆っている。
 ゆっくりと見学する事が出来ました。

 官衙跡、南門を見学の後、ガイダンス施設に初入場し見学、施設は無料です、三面の大型プロジェクタースクリーンに映し出される多賀城の歴史映像が素晴らしい。見てから多賀城を探訪散策するのが良いのかもしれません。
 見終わった頃には大勢の観光客がお越しでした、早めに写真撮影終わって良かったと安堵。
 
 多賀城-4/4 名残余韻点描編に続く。
 

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カズサン

多賀城-2/4 復元外郭南門細部編 (2025/06/06 訪問)

 多賀城-1/4 復元外郭南門外観編の続です。

 先に復元外郭南門の外観、外回り写真を投稿しましたので、細部の写真を投稿させて頂きます。
 二階南門の二階部、庇部、庇の木組み、大扉、南門天井の木組み、格子模様、築地塀の版築拡大、桜が咲いた頃はさぞ見事だった事でしょう葉桜を入れた南門、新しく出来た多賀城跡ガイダンス施設全景を掲載します。

 多賀城-3/4 復元城前官衙編に続く。
 

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カズサン

多賀城-1/4 復元外郭南門外観編 (2025/06/06 訪問)

 多賀城の復元外郭南門が多賀城創建1301年の令和7年4月25日一般公開されました。待ち切れず公開前昨年9月18日、一昨年5月24日に南門両翼築地塀工事素屋根工事中に見学しましたが、やっと工事の規制、素屋根が取れて創建当初?(政庁Ⅱ期に該当)の南門の姿が甦ってきました。
 孫の運動会観戦で宇都宮へ来て居ましたので観戦の翌日朝早く東北道を飛ばして250km程、インター前から見えてきますが多賀城ICを降り、すぐ近くの多賀城跡ガイダンス施設前の駐車場に到着、利用、ガイダンス開館20分前でしたので先に南門を見学へ登る、ウキウキ感激のスロープ遊歩道でした。
 政庁南大路の南端より朱に染まり朝日に輝く外郭南門に初対面、1300年を超えた古代ロマン、悠久の時空を感じます、平城京の朱雀門、大極殿、大極殿院南門も既に復原されて朱の建物が目を引き、同じように多賀城も目を引き、宮城県として多賀城政庁の復元も計画されて居るようです、益々目が離せませんが私が生きてる内にお願いしたいが?

 南門の南正面、築地塀の東側、西側、西から裏に廻って裏正面と築地塀の裏側、裏から南門を通り、大扉、格子模様の天井、二階櫓階、大屋根の瓦、築地塀の版築を観察見学と、近くから遠くから西から東からと舐める様に見学させて頂きました。

 城前地区の復元建物、半柱地表表示基壇、説明板を見学して、ガイダンスへ多くの人が見えていました、先に南門を見学したので人が混まない内に写真撮影出来てラッキーでした。

 多賀城-2/4 復元外郭南門細部編に続く。
 

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昌官忠

(東海&関西)遠征1日目:月ヶ谷城 (2025/05/15 訪問)

左京殿城(城びと未登録 愛知県豊橋市)から自転車で10分くらいで、木橋登山口(34.807127、137.465645)に着きました。

西郷弾正左衛門信員が築城したといわれています。
今川氏に属していましたが、1521年~28年(大永~享禄初年)頃より松平清康に従った後、1562年(永禄5年)今川氏の武将・朝比奈泰長に攻められ落城しました。

今日が遠征初日なのに自転車で転んでしまい、太ももを痛めました。
しばらく休んで登りはじめましたが、山城はちょっと無理そうなので、途中で下山しました。
幸い、本日の残りの攻城予定は平城なので無理をせず、次の和田城(城びと未登録 愛知県豊橋市)に向かうことにしました。
攻城時間は35分くらいでした。これから先に登り坂がないのを祈るばかりです。

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駿府城

【ラジオ出演のお知らせ】6月17日(火)S-Wave「shizuoka Vibes TAKE5」に出演します!

歴史文化課では、今年4月よりS-Waveラジオの番組内コーナー「shizuoka Vibes TAKE5」に月に1回出演し、静岡市の文化財や各地に息づく歴史の魅力をお届けしています。
このコーナーでは、静岡市内の町名の由来や、地域の移り変わり、歴史が感じられるスポットなど、パーソナリティの方との会話形式で分かりやすく紹介しています。
次回の放送は 6月17日(火)17:20~17:30 です!
今回は、駿府城跡天守台発掘調査に携わった調査員が出演予定で、発掘調査で明らかになった駿府城の姿や、歴史の魅力についてお話しします。

◆放送日:6月17日(火)
◆番組名:S-Wave「shizuoka Vibes TAKE5」
◆放送時間:17:20~17:30
番組はこちらからお聴きいただけます→https://s-wave769.jp/
※環境によっては聴けない場合があります。あらかじめご了承ください。

ぜひご聴取ください!

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昌官忠

(東海&関西)遠征1日目:左京殿城(城びと未登録 愛知県豊橋市) (2025/05/15 訪問)

赤岩城(城びと未登録 愛知県豊橋市)から自転車で石巻山城(城びと未登録 愛知県豊橋市)に向かい、登り坂のきつさに音をあげ、石巻山城の攻城を途中断念。
気を取りなおし、次の攻城先=左京殿城(城びと未登録 愛知県豊橋市)の林道入口(34.799389、137.473139)に着きました。
自転車の移動時間はわかりません。(途中まで石巻山城を目指していたので)

築城年は定かではないようですが、小枝左京進の居城とされます。
1523年(大永3年)年、西郷弾正左衛門正員に駆逐され、土地を捨てて逃亡したと伝えられています。
同年、この地を押領した西郷正員は月ヶ谷城を築いて本城とし今川に属しました。城名は城主だった小枝左京進に由来するそうです。

遺構として、曲輪、空堀、石積み、土塁などが残されています。
攻城時間は30分くらいでした。次の攻城先=月ヶ谷城へ自転車で向かいました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征1日目:赤岩城(城びと未登録 愛知県豊橋市) (2025/05/15 訪問)

エコチャリ豊橋駅前通りで普通自転車(電動はありませんでした)を借りました。
電動自転車がないことで、今後の予定を変更せざるえません。(登り坂道結構きつそうなので)
そこから、自転車で45分くらいで、砂防ダム広場(34.766745、137.447193)に着きました。
登城道は3つあるようです。①赤岩寺本堂左裏の石段、②赤岩寺と墓地間を流れる赤石川沿いの石段、そして③山門右手に見える砂防ダムに向かう遊歩道です。
自分は③の赤岩寺の東側に砂防ダムに向かう遊歩道を選択し、砂防ダムの直下まで自転車で登り、左手前の方に向かう山道を行き、右側に登って行くルートを選択しましたが、遊歩道入れませんでした。
遊歩道以外の①&②は選択せず、攻城はここで断念して次に向かいます

築城年代は定かではないようですが、天文年間(1532~55年)、牧野新次郎あるいは戸田左門の居城または、今橋城主・牧野氏、二連木城主・戸田氏の詰城といわれ、今川方の船形山城、山麓の鎌倉街道を睨んで築かれたようです。

赤岩寺は726年創建で普門寺とならんで源頼朝ゆかりの寺だそうです。赤岩寺の山門は立派でした。
登城道は3つあるようです。①赤岩寺本堂左裏の石段、②赤岩寺と墓地間を流れる赤石川沿いの石段、そして③山門右手に見える砂防ダムに向かう遊歩道です。
自分は③の赤岩寺の東側に砂防ダムに向かう遊歩道を選択し、砂防ダムの直下まで自転車で登り、左手前の方に向かう山道を行き、右側に登って行くルートを選択しましたが、遊歩道入れませんでした。
遊歩道以外の①&②は選択せず、攻城はここで断念しました。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=石巻山城(城びと未登録 愛知県豊橋市)へ自転車で向かいましたが、登り坂がきつくて途中断念。
気を取りなおし、次の攻城先=左京殿城(城びと未登録 愛知県豊橋市)へ自転車で向かいました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征1日目:大崎城(城びと未登録 愛知県豊橋市) (2025/05/15 訪問)

大崎北バス停から徒歩5分くらいで、幸稲荷神社入口(34.722330、137.344821)に着きました。
その後、大崎城址標柱付近(34.720754、137.344891)に徒歩で向かいました。

1505年(永正2年)牧野古白が築いた今橋城(吉田城)は、翌1506年(永正3年)に伊勢宗端(後の北条早雲)の侵攻で落城となり、古白も討死しました。
代わって戸田憲光の次男戸田(金七郎)三郎兵衛尉宣光(戸田三郎左衛門と同一人物か)が城主となりました。
1519年(永正16年)牧野古白の遺児三成、信成兄弟が今川軍の援軍と共に今橋城を攻め、奪取、戸田宣成は田原城へ逃れました。
この頃、大崎城は伊庭藤太の居城でしたが、戸田宣成の入城で本格的な改修が行われました。
1546年(天文15年)今川義元の攻撃で今橋城は落ち、翌1547年(天文16年)田原城も竹千代の人質事件で落城となり、支城の大崎城も廃されました。
1601年(慶長6年)織田信長の娘五徳姫に仕えた経歴を持つ中島与五郎重好が大崎城東側隣地に607石で陣屋を構えました。三河湾に影響力を持つ水軍を有し、将軍上洛時の渡海警備職を担っていたようです。
三河湾に影響力を持つ水軍を有し、将軍上洛時の渡海警備職を担っていた。
その後、重春-重貞-昌央-勝英-勝邦-隆功-隆賢-隆成と9代続き、1868年まで交代寄合旗本として存続し、明治に至ったようです。幕末の石高は1040石余でした。

神社手前一帯が大崎陣屋跡で、神社へ続く道〔中央〕辺りに大手門・練兵場が在り、豊橋平安寮の場所が侍女・家臣の屋敷、一段低い北側の耕地に領主の居館(御殿)・役所・台所・蔵があったようです。
龍源院の境内も曲輪だったところで、山門への参道脇に大崎城の標柱が建てられています。
主郭は、土塁と空堀が周囲を巡らされ、東に土橋を伴った虎口が開かれていますが、竹藪なので、深く入りこめませんでした。
攻城時間は20分くらいでした。次の攻城先=赤岩城(城びと未登録 愛知県豊橋市)へ向かう前に、自転車を借りるため、大崎北バス停から豊鉄バスで小田原バス停に向かい、そこからエコチャリ豊橋駅前通り向かいました。

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