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イオ

香川元太郎先生…

遅ればせながら香川元太郎先生の訃報に接し心よりご冥福をお祈りいたします。

山城に行き始めて間もない頃、曲輪や堀が藪に蔽われていてわけわからん、という状態になっていたとき、登城口に設置されていたリーフレットに掲載されている香川先生の城郭イラストと照らし合わせて見ることで、なるほどここがこうなっていて、かつてはこんな感じだったのか…と山城の見方がわかってきて、おかげさまで今や山城大好きになっていますが、香川先生のイラストに出会えていなければ、あのまま山城わけわからん、で終わってしまっていたかもしれません。

また、香川先生は歴史考証イラストのみならず迷路絵本の第一人者としても知られますが、図書館で香川先生の迷路絵本を次々と借りてきては子どもと一緒に解いたのもかけがえのない思い出です。特に「忍者の迷路」は伊賀や甲賀にあるような単郭方形の居館にはじまり、高天神城や安土城、寺内町、瀬戸内の海城、赤瓦のグスクが迷路として描かれていて、まさに香川先生の本領発揮、子ども以上に私自身が夢中になってしまいました。

つい先日の「山城に行こう!2024」にも登壇しておられたとのことですし、今なお信じられない思いですが、もうこれからは香川先生の新しい作品を目にすることは叶わないのかと考えると残念でなりません。それでも、香川先生の作品のおかげで山城の楽しさを知り、子どもとの思い出を紡ぐことができたことには感謝しかありません。ありがとうございました。どうぞ安らかにお休みください…。
 

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まにまに

お濠越しに眺めてほしい (2024/10/24 訪問)

層塔型の真っ白な天守が見どころなお城。天守の中は多くが島原の乱についての展示物。ところどころ手書きの説明書きがあったりして昭和レトロな雰囲気。なかなか凄惨な絵もあったりして、当時の大変な状況がよくわかりました。
車で来てしまうと気が付かない可能性があるのですが、実は城の南側や東側のお濠越しにみる石垣の連なりが凄くよかったです。折れが多用され、塀の真っ白な壁と黒々とした石垣のコントラストが奇麗でした。ぜひ城の周りをぐるっと歩いてほしい。

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まにまに

防御力高めの学校 (2024/10/23 訪問)

今は中学校の一角にあり、なんとなくここに城があったのかもなぁという程度の雰囲気があるだけの場所。
中学校の校庭の周りを水堀のように囲う水路があり、防御力高めの学校でした。
見学中に偶然まるまる一匹分の蛇の抜け殻を見つけ、金運上がるかなぁ~。

さらに近くの立花家史料館も見学。あまりお城とは関係ない展示が多いけど、大名家に伝わったお宝をゆっくり拝見できて面白かった。予想していたよりも展示物の量が少なくて残念。きっと展示替えで色々見られるんだろうけど、一度にもっと見られるとよかったな。
隣の御花も建物だけ見学。日の当たる大広間の縁側から見たお庭は綺麗だった。が、その向こうを流れる水路から船頭さんの大きな歌声が聞こえてきてちょっと残念(苦笑)まるで大宴会のようだった。

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まにまに

復興はまだまだ (2024/10/21 訪問)

「熊本城へ行ってきた」というと『あー、もう入れるんだね。元に戻ったんだ』と言われることがほとんどなんだけど、実際にはまだ瓦が落ちたままの建物があったり、ようやく修復の手が入り始めた櫓があったりとまだまだ道半ば。
もちろん大天守・小天守は綺麗に直され、中の展示も素晴らしかったけど、そこから一歩出れば入れない建物や区域だらけ。震災前に城内を歩き回った時の記憶を蘇らせながら、今の姿を見てきました。
まだ数年後経って少しずつ変わっていく姿を見に行こうと思ってます。

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カズサン

星崎城を初登城 (2024/11/24 訪問)

 星崎城は桶狭間合戦の7城砦は探訪済ですが近くの笠寺地区に在り未探訪でしたので今回の電車による探訪で岡崎城を終えて名鉄本星崎駅(モトホシザキエキ)下車で初登城しました。
 本星崎駅で同時に下車したご婦人の方に星崎城の在る笠寺小学校の方向を確認して進行、道のりは4、500m程、中間点に和菓子屋さん在り暫く登って行くと坂の上に現代石垣城壁?、城跡の匂いプンプン、当日は日曜日で名古屋市長選挙の投票日、運よく校門が開いており皆さん投稿の城名石碑、案内板を正面から撮影、本城跡は校庭の様ですが奥に入り込まず校門前後左右で終了、校門下では中日新聞の女性記者が出口調査で立っていました。
 皆さんの投稿で笠寺小学校西の近く「秋葉社」の城名碑は参拝せず未確認です、案内板に標高10m程の高台にある星崎城址との事ですが笠寺小学校自体周囲より高台にあり城址の雰囲気がよく残って居ます。
 周囲は住宅地で道は狭く駐車場は良く分かりませんが、ぴーかるさんの投稿に校門の下三角コーナー隅には1台位と有りました、路駐は可能でしょう。

 帰り道に、行きで気に成っていた和菓子屋さん「本松本店」の薄皮饅頭、やごやんに近い焼きまんじゅう、栗蒸羊羹を土産に購入、店の立看板に「星崎城址」の記名と図案が載っていましたので撮影。
 歴史は星崎城跡案内板をお読みください。
 

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チェブ

2回目攻城で学ぶ。 (2024/12/01 訪問)

2回目の「滝の城」です。
前回、秀吉さんの北条討伐で、浅野 長政さんが「滝の城」を落とした事にミーハー心の目で見てしまった事を反省し再訪しました。
「滝の城」は『滝の城址公園』として整備され駐車場もあります。入口に石碑があり早速、二重堀がお出迎えしてくれます。鳥居が見え土橋を渡ると左手に二の丸。前回ここに車を駐車しました。この日も車とバイクがありますが駐車場として利用して良いかは分かりません。
本丸跡には神社がありました。下にはグラウンドがあり野球やテニスコートがあります。 
本丸から三の丸へ。
三の丸では、家臣と共に茶の湯を楽しんでいたと説明板にあり、戦のない日常を想像。高い所にあるので景色も良いです。
三の丸から二の丸へ門跡を通り虎口、馬出と続きます。
そちらから本丸を眺めると、矢を放ったら簡単に届きそうな印象です。その位、コンパクトです。
「滝の城」は伝えの城の役割だったそうなのでギュッとしているのかな?
宅地化された土地に、まだまだ敵軍に寄せられない遺構があったのかもしれません。
虎口を守る猫武将が、こちらを伺ってます。写真を写そうとスマホをいじっていると至近距離に接近。そのまま、ゆっくり立ち去りました。猫なのにかっこいい。

『行った』をポチッとしたくて足早に、お城攻めしてきましたが、再訪すると新たな発見があり違った見え方もするんだなと3回目攻城を誓う「滝の城」攻めでした。

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todo94

PIKUMIN BLOOM JOURNEY TOKYO DOME CITY2024参戦翌日の攻城⑥ (2024/11/24 訪問)

馬込城からの転戦です。徒歩にてアプローチしました。先達の皆さんと同様、新井宿義民六人衆の説明板、しっかりと拝見させていただきました。

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遠山景重 (2024/12/12 訪問)

 明知遠山氏の居城で、標高530mの山に築かれた天険の地形を巧みに利用した城です。令和6年12月27日まで本丸、出丸で発掘調査が行われていて、この日も関係者の方々がみえていました。遺構はよく残っていて曲輪、竪堀、堀切、横堀、切岸、土塁などを観ることができます。畝状竪堀が一番の見どころだと思っています。
 2年前の全国山城サミット恵那大会に参加したとき以来の登城となりました。よく整備された城址で、気持ちよく散策できます。今回は搦め手登城口より登城し稲荷神社登城口へ下りてきました。

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仲深山砦(明知城周辺観光) (2024/12/12 訪問)

 岐阜県恵那市にある明知城の南の万ヶ洞を隔てた尾根の先端に立地する砦です。「なかのみやまとりで」と読みます。東西2つの曲輪群から構成されていて、東側の曲輪は、背後に二重堀切を設けています。この二重堀切が見ごたえがありました。北側には帯曲輪が巡り竪堀を認めています。掘切を隔てた西側の曲輪にも畝状竪堀群がありました。砦と表示がありますが、城郭として十分楽しめます。歴史など詳細はわかっていないようですが、明知城の南を守る砦か、攻撃のための陣城ではなかったかと説明板に書かれていました。明知城の周辺観光で投稿させていただきます。城びとには未登録です。

 明知鉄道明智駅から徒歩15分くらいの所に登城口の表示があり、約10分登れば城域に到達します。城域は案内もあり登城路もある程度整備されているので概ね歩きやすかった。ただ油断してこけてしまった。

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明智光秀の伝承(明知城周辺観光) (2024/12/12 訪問)

 明智光秀の出生地はいくつかの候補がありますが、恵那市の明智町もそのひとつです。落合砦の説明板を見ると「明智光秀公は享禄元年(1528年)3月10日、ここで生まれたと伝えられています」と書かれていました。明智町を歩くと落合砦の明智光秀産湯の井戸、明智光秀出生地碑、明智光秀公学問所、明智光秀公手植えの楓、明智光秀公御霊廟、お牧の方墓所など明智光秀関連の場所があります。

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しんちゃん

斎藤別当実盛館 大我井神社 (2024/05/05 訪問)

斎藤別当実盛館は埼玉県熊川市妻沼の大我井神社や北側の妻沼小学校の当たりとされています。実盛公は越前国の出身で武蔵国幡羅郡長井庄を拠点としていたため長井別当とも呼ばれています。実盛公は源義朝に従っていましたが、やがて義朝の弟の義賢に従うようになります。義賢が義朝の長男・悪源太義平に殺害されると再び義朝に従いますが、旧恩を忘れず義賢の遺児・駒王丸を信濃国の中原兼遠に送り届けています。駒王丸は後の源義仲で、実盛公は義仲の命の恩人にあたります。
源義朝亡き後は実盛公は平氏に従い、源頼朝が挙兵しても平氏方に留まります。寿永2年(1183)平維盛らと木曽義仲追討に出陣し、加賀国・篠原の戦いで敗れ討ち取られます。石川県・篠原古戦場近くの首洗池のほとりには、実盛公の首を抱えて悲嘆にくれる義仲と樋口兼光、実盛公を討ち取った手塚光盛らの像があります。

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落合砦(明知城周辺散歩) (2024/12/12 訪問)

 岐阜県恵那市にある明知城近くにある砦で明智光秀はこの砦で生まれたとの伝承があり、産湯として使ったとされる井戸が残されています。城びとには未登録です。明知城の支城と考えれていますので、ここで投稿させていただきました。千畳敷公園として整備されています。主郭と出丸があり、周囲には曲輪と思われる平坦地を見ることができます。

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しんちゃん

甘棠院 (2024/05/05 訪問)

足利政氏館は現在・臨済宗円覚寺派の寺院・永安山甘棠院の境内になっています。古河公方二代・足利政氏は嫡子・高基と対立し敗れ、出家して当地の館に引退しました。甘棠院は政氏によって開山されたとされています。
政氏の墓は境内にあるようです。南側に門が設けられ、堀が残っています。西側にも堀が残り、北側にも残っているようです。

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しんちゃん

精忠神社 (2024/09/14 訪問)

壬生城は文明年間(1469~86)に壬生綱重によって築かれたとされています。戦国時代に100年もの間、壬生氏の城として存続しますが、豊臣秀吉の小田原攻めに際して壬生氏も滅んだとされます。江戸時代には日根野氏一万石、阿部氏二万五千石、三浦氏二万石、松平氏四万二千石、加藤氏二万五千石と次々と城主が変わりましたが、正徳2年(1712)鳥居忠秀が近江水口から移封してきてからは明治維新までの160年もの間、鳥居氏三万石(実質四万八千石)が代々の城主となりました。
かつては本丸の周囲を二の丸、三の丸が囲み、東郭、下台郭、正念寺郭の六つの郭で成り、各郭は土塁と堀で囲われていたようです。また東郭の先の大手門は丸馬出しのようになっていたようです。現在は本丸周辺が壬生城址公園として整備されていて、鳥居氏が転封してきた際に建てられた精忠神社は鳥居元忠公を祭神として祀っています。

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ばばよ

工事中 (2024/12/13 訪問)

鹿島神宮駅を出たら右前にある山です。
どこからが正式な登城口かはいまいちわからず。
はるばる行ってみたら、工事中で中に入れませんでした。
なので訪問した城にはカウントしませんでした。
まぁ外からもなんとなくわからんでもないですが...
ご検討中の方は2025年2月以降をお勧めします涙

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WEST

杵築城探訪 (2024/12/03 訪問)

大分県の杵築城を訪問しました。大分空港から自動車で約25分でアクセスできます。
駐車場は城山公園駐車場を利用しました。
杵築城は城山台地に築造されましたが、一国一城令により破却され、現在の天守は昭和に建てられた模擬天守となります。
模擬天守は歴史資料館となっており、杵築城の歴史などの資料が展示してあります。天守の展望室からは、守江湾が望めます。
また、お城の麓には九州の小京都と呼ばれる城下町が広がっており、散策することをお勧めします。坂、武家屋敷などを見ることができますよ。

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コウマくん

紅葉の天守閣 (2024/12/07 訪問)

曇りでしたが赤と黄色に色づいた紅葉と見事な天守閣が雄大で素晴らしかった。木曽川を眺める天守閣からの眺めも最高でうっとりしました。流石は国宝!

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カズサン

東岡崎駅頭から岡崎城登城散歩 (2024/11/24 訪問)

 家康公騎馬像の続きです。
 
 名鉄東岡崎駅頭の徳川家康公騎馬像を初拝見しリバーサイドテラスを乙川沿いの歩道に降りる、乙川の南側川原ではグランピングキャンプテントが並び昨日よりキャンプを楽しまれた方が大勢の賑わい。
 徒歩で岡崎城までは則で約1km程約15分の散歩道。
 乙川も奇麗で澄んでいる、乙川南の歩道も広く歩き易い環境整備、先ず明代橋辺りで岡崎城の天守が見えてくる、進み歩行者専用木橋の桜橋、幅広の木橋で散歩、一時休息に気持ちよく過ごせる、西に進んで豪華なコンクリート架橋殿橋、岡崎城天守が更に良く観える、殿橋を渡り乙川北側の川沿い歩道を進むと、七五三で賑わう家康公所縁の菅生神社、進んで一昨年兄弟夫婦で会食した岡崎ニューグランドホテル、ホテルと茶室庭園城南亭の間の道を菅生曲輪多目的広場、東曲輪の東隅櫓が良く観える、広場には昨日のイベントか?黒ずくめの仮設ステージが残って撤去前、隠居曲輪さくら茶屋、本丸辰巳櫓の下石垣を眺めて、清海堀の南、本丸御門跡に到着。
 この後は松の大木が伐採されスッキリした岡崎城天守閣を初登城50数年ぶりに初見参、リニューアル天守閣に登閣、願いが叶った登城と成りました。

 3編に渡り投稿をご覧頂きありがとうございます。
  

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todo94

PIKUMIN BLOOM JOURNEY TOKYO DOME CITY2024参戦翌日の攻城⑤ (2024/11/24 訪問)

池上氏館からの転戦です。徒歩にてアプローチしました。じゅんじんさんの投稿を拝見して、湯殿神社から梶原景時創建という萬福寺まで脚を伸ばしてみました。源頼朝の愛馬・磨墨の像がありました。羽黒城に行ったときに磨墨塚史跡公園にも立ち寄っているので、ちょっと嬉しくなりました。

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トク

安徳台遺跡(安徳天皇ゆかりの地) (2024/12/09 訪問)

福岡県那珂川市の高台に「安徳台遺跡」という所があります。ここは壇ノ浦の戦いの時、入水した事で有名になった、幼い安徳天皇が1年間ほど源氏から逃れ過ごしていた場所だとされています。私も以前からこの一帯には「安徳」という地名が多く(例えば安徳小学校など)不思議に思っていましたが、やっと謎が解けましました。

安徳天皇は、高倉天皇と建礼門院(平清盛の娘)との間に生まれた子で、幼くして第81代天皇として皇位を継承しました(この時まだわずか満1才)。1183年源氏の台頭により木曾義仲(源義仲)が京を占領すると、都を追われ大宰府へ逃れます。当時太宰小弐の原田種直の所領であった岩門城そばの高台であるこの地に館が建てられ、三種の神器を携え1年程ここで匿われたそうです。

そして安徳天皇3才の時、木曾義仲が追討され亡くなると、京に戻るためいったん屋島に移されますが、そこで源頼朝が台頭してきます。平家追討軍として源義経が屋島に攻め込んだため、安徳天皇は平家の船に乗り込み、瀬戸内海を西へと逃げました。そして壇ノ浦で入水し、悲惨な最期を遂げたようです(参考写真⑤⑥:壇ノ浦安徳天皇入水の地)。この時まだ満6才だったそうです。

ここ安徳台には、幼くして亡くなった安徳天皇を偲び、「安徳宮」が建立されています(写真①)。

次は、その隣にある岩門城に行き、小弐氏の栄枯盛衰を追いたいと思います。
 

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