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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征10日目:会下城 (2026/05/20 訪問)

本日は15:00頃から雨が降る予報なので、雨が降りだす前に多くのお城を攻城します。
鹿野城から車で10分ちょっとで、案内板前付近(35.498326、134.033448)に着き路駐ました。

築城年代は定かではないようですが、永禄年間(1558年~1570年)頃には毛利方の軍勢が在城していたそうです。
元亀・天正年間(1570年~1592年)の城主は逢坂与十郎で、村の前の田圃に屋敷があったそうです。
しかし、敵に攻められ細工谷の難坂を越えて青屋へ落ちていった後、城はほどなく落城したようです。

最高所の大きな窪みのある郭が主郭のようです。(主郭付近の写真は手違いで削除してしまいました)
背後に高土塁、堀切が見られ、南側は水道施設が埋設されています。
攻城時間は30分くらいでした。次の攻城先=大崎城に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征10日目:鹿野城 (2026/05/20 訪問)

本日は15:00頃から雨が降る予報なので、雨が降りだす前に多くのお城を攻城します。
防己尾城から車で15分くらいで、城山神社鳥居手前スペース(35.459354、134.063602)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、因幡国守護の山名氏に属していた志加奴氏によって築かれたと云われています。
1543年(天文12年)に尼子晴久が因幡へ侵攻したさい、志加奴入道は鹿野城に籠城して討死しています。
尼子氏が衰退して毛利氏が台頭すると鹿野城も毛利氏に属しましたが、1581年(天正9年)羽柴秀吉が鳥取城を攻めたとき、配下にいた旧尼子家臣の亀井茲矩によってによって落城させられました。
亀井茲矩はこの功によって13,800石が与えられ鹿野城主となりました。
関ヶ原合戦では東軍に属して加増を受け38,000石、さらに1612年(慶長17年)二代亀井政矩が5,000石の加増を受け、43,000石となりました。
1617年(元和3年)亀井政矩は石見国津和野へ転封、鹿野藩は鳥取藩池田家の所領となり、鹿野城も廃城となりました。
1638年(寛永15年)播磨国山崎藩主の池田輝澄はお家騒動により改易となります。
改易となった輝澄は鳥取藩主池田光仲にお預けとなって因幡国鹿野に堪忍料10,000石を与えられます。
再び鹿野藩が成立しますが、1662年(寛文2年)輝澄が没すると子の政直に10,000石が与えられ、播磨国福本藩を立藩して大名に復しました。
1868年(明治元年)鳥取東館藩が鹿野に藩庁を移し、鹿奴藩を称しましたが、翌1869年(明治2年)に鳥取藩に合併し消滅しました。
この鹿奴藩は、1685年(貞享2年)鳥取藩主池田光仲の次男・池田仲澄が新田25,000石を分与されたことに始まり、5,000石の加増を受けて30,000石を領しました。
藩庁は設けず鳥取城の東側に居所を構えたことにより東館藩と呼ばれたようです。

現在は鹿野城跡公園として整備されており、天守台や石垣などの遺構が残っています。
麓には近世に整備された本丸と二の丸(出丸)があり、今でも水堀が残されています。
麓の本丸・二の丸は鹿野学園の敷地ですが、観光用の遊歩道が設置されています。
攻城時間は35分くらいでした。次の攻城先=会下城に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征10日目:防己尾城 (2026/05/20 訪問)

本日は15:00頃から雨が降る予報なので、雨が降りだす前に多くのお城を攻城します。
布勢天神山城から車で10分くらいで、湖山池公園駐車場付近(35.504401、134.133423)に着きました。

防己尾城は鳥取城の支城で、当時は吉岡城と呼ばれていました。
吉岡氏は丸山城を本拠としていましたが、1573年(天正元年)頃に箕上山城に本拠を移し、その後1579年(天正7年)に吉岡将監定勝が防己尾城を築いて新たな本拠としたそうです。
天正9年(1581年)織田信長の武将羽柴秀吉が鳥取城を攻めたとき、定勝は秀吉の軍勢の背後を奇襲するなど度々脅かしました。
秀吉は三津ヶ崎本陣山城に本陣を構えて防己尾城を攻めたが、将監の弟右近に千生瓢箪の馬印を奪われるなどして敗れ、攻め落とすことができませんでした。
力攻めは不利と悟った秀吉は兵糧攻めに切り替え、糧食つきた吉岡一族は降伏して城を出て、毛利氏の本拠である安芸国など諸国を放浪の末、因幡国にもどって帰農したと伝えられています。

現在、城地は城跡公園となっていおり、土塁、曲輪跡、竪堀跡などが残っています。
本丸には、「防巳尾城址」の石碑、説明板が建てられており、本丸から湖山池が見えますです。
雨が降りだす前に多くのお城を攻城したいので二の丸には行ってません。
観光時間は20分くらいでした。次の攻城先=鹿野城に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征10日目:布勢天神山城 (2026/05/20 訪問)

本日は15:00頃から雨が降る予報なので、雨が降りだす前に多くのお城を攻城します。
市場城から車で30分弱で、説明板入口付近空スペース(35.510355、134.175553)に着きました。

1466年(文正元年)山名勝豊によって築かれたと云われていますが、勝豊は1459年(長禄3年)に没しており、この年代には疑義がもたれています。
勝豊は二上山城から布勢天神山城を築いて守護所を移したそうです。以降、代々因幡山名氏の居城として続きます。
1563年(永禄6年)山名豊数は鳥取城を本拠として離反した武田高信の猛攻を受けて布勢天神山城を退去し、鹿野城に退きます。
1573年(天正元年)尼子氏の援助を受けた豊数の弟・山名豊国が武田高信を鳥取城から追い、守護所を鳥取城に移転させ、天神山城は廃城になったそうです。

布勢天神山城は湖山池の東岸、天神山と呼ばれる小山に築かれています。
現在は鳥取緑風高校の敷地になっていますが、城跡へは遊歩道が設けられており散策することができます。
主郭には井戸があり、櫓台の崩れた石積みや堀切などを見ることができます。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=防己尾城に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征10日目:市場城 (2026/05/20 訪問)

本日は15:00頃から雨が降る予報なので、雨が降りだす前に多くのお城を攻城します。
山崎城から車で20分弱で、登城口(35.417415、134.313263)前の公民館に着きました。

築城年は定かではないようですが、室町時代前期、因幡毛利氏によって築城され、以後同氏の本拠地となったようです。
毛利氏は大江広元を祖とする一族で、毛利元就で著名な安芸毛利氏とは同族です。市場城(私部城)の毛利氏は鎌倉時代頃に入部し地頭として在地しました。

1479年(文明11年)毛利次郎貞元は因幡国守護山名豊時に対して反乱軍を起こし、細川氏や赤松氏と結んで山名氏と戦いましたが、翌年には但馬国守護山名政豊によって鎮圧されます。
1489年(延徳元年)第2次毛利次郎の乱を起こした城主・毛利貞元は山名豊時に攻められ市場城(私部城)にて自害しました。
1504年(永正元年)私部志谷口合戦では毛利方と思われる土師四郎左衛門尉が山名豊重方の武将・北川与三左衛門尉によって討捕らえられています。
1560年(永禄3年)山名宗詮方の武将・中村政重父子らと毛利氏との間で合戦が行われ(私部表合戦)、毛利左近丞らが戦死しています。
1564年(永禄7年)経緯不明ですが、但馬山名氏との関係改善がなされたようで、山名宗詮が市場城に入っています。
その後も毛利氏・尼子氏・山名氏などが複雑に入り乱れる情勢が続き、尼子勝久・山中幸盛の挙兵以降、因幡毛利氏は尼子方に属しました。
1573年(天正元年)幸盛の娘婿(養女)の亀井茲矩が城を任されている。その時、茲矩はまだ17歳だったそうです。
1574年(天正2年)山中幸盛が入城し、「安芸毛利氏と対抗するための拠点」として利用していますが、翌年には安芸毛利氏の猛攻によって二の丸・三の丸まで攻め込まれ落城しました。
因幡毛利氏は落城後、安芸毛利氏に降りましたが、1580年(天正8年)には羽柴秀吉によって落城させられ、城主・毛利豊元らは山名豊国の鳥取城へ逃れたそうです。
1581年(天正9年)当城は安芸毛利方の包囲下に置かれ、秀吉方は長期の籠城を余儀なくされており、当城に但馬からの兵糧が運ばれたものの、城内の士気は低下していたそうです。
毛利豊元の退城の後、但馬有子山城から山名氏政が領地替えとなり入城し、当城より軍勢を引き連れ、鳥取城攻めに加わりました。
山名氏政は当城より軍勢を引き連れ、鳥取城攻めに加わった。
1582年(天正10年)山名氏政は播磨加古郡へ再び領地換えとなり、市場城は廃城となりました。

市場城は市場集落の南方の山頂に築かれており、市場集落から登山道が山頂まで続いています。
登山道は落葉で滑り易く、雨がふったら危険だと思います。
登山道は「カエル岩」を経て山頂の主郭に至るようですが、西の郭付近で赤テープを見失い迷子の危険性があるので引き返しました。
登城口前にある案内板に縄張図とともに説明がされています。
攻城時間は40分くらいでした。次の攻城先=布勢天神山城に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征10日目:山崎城 (2026/05/20 訪問)

本日は15:00頃から雨が降る予報なので、雨が降りだす前に多くのお城を攻城します。
鳥取駅でレンタカーを借り、そこから車で30分弱で、殿ダム展望所駐車場(35.447223、134.341811)に着きそこから、登城口(35.446470、134.341267)に向かいました。

築城年は定かではないようですが、室町時代頃に因幡毛利氏が築城したと言われ、一族の山崎毛利氏が居城しました。
天文年間(1532年~1555年)に城の立地する大萱(おおかや)郷が但馬と通じる要所であることに目をつけた本家に攻撃され(山崎城の戦い)落城、山崎毛利氏滅亡後は私部本家のものとなりました。
山崎城主の毛利氏は大江広元の後裔で私部城主の毛利氏や安芸の毛利氏と同族でした。

扇ノ山系末端の山頂部に位置するが、周囲の山が城山より高いため見晴らしはあまり良くありません。
現在は登山道が整備されているので主郭まで行くことができます。
主郭には現在、東屋が建てられており、主郭の北側や側面などに石積が点在しています。周囲にも石がたくさん転がっていました。
攻城時間は30分くらいでした。次の攻城先=市場城に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征10日目:鳥取駅周辺散策 (2026/05/20 訪問)

宿泊先ホテルの朝食前に、新山城の攻城と鳥取駅周辺を散策しました。
本日は15:00頃から雨が降る予報なので、雨が降りだす前に多くのお城を攻城します。
新山城から徒歩40分弱で、因幡の麒麟獅子舞像(35.494083、134.227032)に到着し、その後、沢井手公園入口付近(35.491901、134.226281)に移動しました。

鳥取駅前では麒麟獅子舞像と夢時計、「TOTTRI」文字モニュメントが確認できます。
沢井手公園は鳥取鉄道記念物公園とも呼ばれ、小さい駅とポイント切り替えがありました。
攻城時間は20分(移動時間含む)くらいでした。次の攻城先=山崎城を攻城する前に、ホテルに戻って朝食を食べました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征10日目:新山城 (2026/05/20 訪問)

宿泊先ホテルの朝食前に、新山城の攻城と鳥取駅周辺を散策しました。
本日は15:00頃から雨が降る予報なので、雨が降りだす前に多くのお城を攻城します。
宿泊先ホテルから徒歩45分弱で、徳尾配水池障壁付近(35.497905、134.201060)に着きました。

築城年代は1513年(永正10年)布勢天神山城の築城と同時期とも、天文年間(1532年~1555年)とも云われています。
付近には因幡守護であった山名氏の守護所・布勢天神山城が存在しており、守護の居城を守る重要な軍事拠点であったものと推測されています。
1545年(天文14年)には因幡山名氏重臣の中村政重が城番に任じられています。廃城年代についても今のところ不明のようです。

入口が施錠され中に入れません。ホテルから45分近くかけて歩いてきたのに残念です。
遠望の写真を撮って撤退です。
攻城時間は5分くらいでした。次の観光先=鳥取駅周辺散策に徒歩で向かいました。

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カズサン

二の丸御殿銀杏型石垣 (2026/05/26 訪問)

 カサブランカ百合を逆川遊歩道沿いに鑑賞し、三の丸、本丸、二の丸と廻り二の丸御殿の玄関先石段の東側の石垣を何となく見ていましたら飾り石垣に目が留まりました、銀杏型石垣との事、浜松に在住して五十数年経ち掛川城への登城も五十数年経ちますが、飾り石垣の銀杏型石垣との事は初めての認識でした、五十数年経っても新たな発見、観察が雑だった事なのでしょう。
 同じ城に登城しても新たな視点で眺めると新たな発見認知に遭遇するものです。
 ネットで調べて見てもハッキリした事は判りませんが、一豊の時代、江戸期太田氏の時代地震後の復旧修復時代か?良く分かっていないそうですが、石垣職人の粋な仕事が判る石垣です。
 

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カズサン

皐月末緑深まる掛川城 (2026/05/26 訪問)

 外堀代わりの逆川左右百合を見ようと寄った今年2度目登城、先に洋種百合カサブランカ鑑賞と掛川城天守群を投稿しましたが、皐月末で緑も深まり、葉桜緑の木々越しに見上げる天守閣、建物も見逃せません、緑、青空、白亜の天守の姿を投稿します。
 4月3日の桜の時期から1ヶ月半後の登城でした。
 

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ぎりょう

伊達家「元亀の変」の主戦場 (2026/06/14 訪問)

じいさん仲間の歴史ツアー、今回は米沢市と置賜地方に。この日から東北南部も梅雨入りし、雨の中を車を走らせて川西町へ。ここは井上ひさしの生誕地。先ずは彼の蔵書を保管・展示している「遅筆堂文庫」へ。その後は町中に残る小松城跡を訪れました。
この城は越後街道と長井街道が交差する、いわゆる交通の要衝を押さえる目的で、戦国期には伊達氏の重臣が配されていました。伊達輝宗が父晴宗から譲り渡された伊達家の権力を掌握するきっかけとなる「元亀の変」(1570年)ではこの城が主戦場となりました。輝宗に謀反をおこした中野宗時や城主の牧野久仲が籠城しますが、輝宗の素早い攻撃により落城したようです。
我々が到着したころはちょうど雨が強まり、他のメンバーが車で待機するなか、私ひとりが傘を差して攻城、南北に連なる曲輪跡や、大手口、土塁跡を観ることができました。町中にある平城で、主曲輪は中学校跡地で運動公園に、北の曲輪は集合住宅、西の小曲輪は新山神社となっており、だいぶ改変されているようですが、主曲輪を巡る土塁はよく残っていると感じました。

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6月は宮城県の名城を巡ってきました (2026/06/20 訪問)

私のライフワーク「(続)日本100名城巡り」ですが、6月は宮城県の名城を歴女の娘と巡って来ました。
城巡りを始めてから記念すべき10城目が美しい天守を持つ白石城で良かった~
今回の城巡りの旅は、両日ともビッシリと雨に祟られてしまいましたが、それでも、こんな素敵な城を見ると、雨なんか忘れて夢中になって見て回りました。
今回は娘の勧めもあり、ボランティアガイドの方に説明をお願いすることにしました。
なので、ビュースポットはもちろん、城の造りや構造、真田氏との外戚関係、片倉小十郎の人となりなどを丁寧に説明していただき、自分たちで来て見るだけでは一生知ることのできなかったことをたくさん教えてもらい、極上のおやじギャグに大爆笑しつつ天守最上階でのお別れでした(Kさん、ありがとうございました!)

今回も例によって、アップした写真に沿って簡単な説明を入れていきたいと思います。
「続きを読む」と「すべての写真を見る」の両方を開いてもらえば、写真を見ながら説明を読めるので便利です。
PCだったら画面分割して説明と写真を並べて見較べるとさらに見やすいですよ!

① 最初は毎回恒例の御城印です。左側は通常版、右側はアジサイの季節限定バージョンになります。
② ボランティアガイドのKさんが、白石城が一番カッコ良く見えるビューポイントだと教えてくれました。手前にある「白石城」のプレートが埋め込まれた巨石もいい味出してますね。
③ 大手一ノ門と野面積みの迫力ある石垣の組み合わせが絶妙です。奥に大手二ノ門(櫓門)の瓦屋根と鯱が見えます。これもガイドさんに教えられたビュースポットです。
④ 白石城の魅力の一つでもある石垣の迫力が伝わる一枚です。見た目10mはあろうかという高い石垣の上に16mの三階櫓(天守)がそびえ立つ様は圧巻です。
⑤ 天守の最上階に上がり、廻り縁の高欄から見た眺めです。この日はあいにくの雨降りだったので蔵王連峰を見る事はできませんでしたが、「もし快晴だったら」と想像力を掻き立てて1人楽しんでました♪
⑥ 天守から大手一ノ門、二ノ門を見下ろした眺めです。二ノ門(櫓門)の様子や、門と門の間の枡形の様子がハッキリと判ります。ネットでもあまり見掛けないアングルの写真なので貼らせていただきました。
⑦ 天守横に立つ鐘撞堂です。普通は堂の中を見ることはできませんが、ガイドさんのお陰でお堂の中に吊られた鐘を見ることができました。鐘は火事や敵襲などの緊急事態に、城中と城下町に知らせるための合図だったそうです。
⑧ ガイドさんイチ押しの2枚目の構図もモチロン素晴らしいですが、一ノ門の外、ちょうど桝形の裏側からのこのアングルも私の心に刺さりました! 手前の石垣や天守左の狭間を備えた櫓の石垣の違いがよく分かります。天守下の野面積み、切込接、打込接と三種類の石垣が見ることができるのは珍しいとの説明を受けました。
⑨ このアングルも私、何気に好きなんですよね。大手一ノ門を出た所で撮りました。下部は野面積み、上部は切込の石垣。その上に狭間を備えた白い漆喰の壁。右上に天守と鯱がチラリと写っている、、、私のお気に入りです。ちなみに、四角い狭間と丸い狭間がありますが、四角いのは弓、丸いのは鉄砲用だとガイドさんに教えていただきました。
⑩ 白石城と言えば、伊達政宗の一番の腹心・片倉小十郎ですよね。大坂夏の陣での奮戦で「鬼の小十郎」と称されるほどの強さや、血筋を残したい真田幸村の娘たちを保護し片倉家に迎えた逸話など、武勇だけでなく人間としても立派な人物だったそうです。その片倉小十郎景綱公の徳を称えた巨大な(高さ10m!)石碑です。位置関係が判るように天守と入城口階段もチラリと入れてみました。

今回の白石城訪問は、ボランティアガイドをお願いしたので、とても深く知ることができました。
ガイドのKさんは代々、白石に住み、伊達宗政の家臣で当時の資料にも名前が載っているのを見せてもらいました。
白石に来て感じたのは、城関係者だけでなく市民の皆さんが白石城をとても大切に思って愛しているのが伝わってきました。
それにしても、史実に忠実に木造復元された見事な天守を持つこの城が、100名城ではなく「続」になってるのが不思議でなりません。

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todo94

大阪スマートパスで献血前の攻城 (2026/06/21 訪問)

財布なしでは鉄道の切符も購入できないので、献血の予約を入れてある12:30まで大阪駅周辺でぶらぶらしていようかとも思いましたが、大阪メトロとJR大阪環状線等が乗り放題となる大阪スマートパス1000円をKANSAI MaaS アプリ(2025年に万博を見に行った際にインストール済でした。)で購入することができましたので、大阪メトロ最南端のなかもず駅から4kmほど歩いて家原城に足を伸ばすことにしました。遺構は消滅してしまっているようですが、広場に城名が残っています。近くの家原寺には行基菩薩誕生塚の表記がグーグルマップにあったので行ってみましたが、家原寺の開門は午前10時でした。ブロック塀越しの写真は撮っておきました。なかもず駅に戻る途中では、世界遺産「百舌鳥・古市古墳群」の構成資産で7番目の大きさを誇る前方後円墳・ニサンザイ古墳(国史跡)に立ち寄っていきました。長距離を歩いて汗だくになってしまったので、大阪メトロで鶴見緑地に乗り付け、楽天ペイでの支払いができる温泉にも入って万全の態勢で献血に臨むことができました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征9日目:富長城 (2026/05/19 訪問)

石井垣城から車で20分弱で、富長神社参道入口(35.499747、133.476434)に着きました。
すみません。自分が駐車した場所は私有地でした。近所の方に注意されました。もう少し西側に駐車スペースがあると云われました。
その時、富長城のイメージ図をお見せしたところ、ちょっと違うとの指摘を受けました。
いろいろ説明されましたが、あまり覚えていません。申訳ありません。

築城年代は定かではないようですが、元弘年間(1331年~1334年)頃に名和氏家臣・荒松兵庫によって築かれたとも云われています。
室町時代には福頼左衛門尉の居城で、1524年(大永4年)に尼子の伯耆攻めで落とされたと伝えられています。

富長城は、現在「富長神社」境内となっています。
富長神社の境内となっている曲輪は周囲は高土塁が巡っています。
攻城時間は15分くらいでした。本日の城巡りは、ここがラストです。
本日の宿泊先に行く為、米子駅でレンタカーを返却し、米子駅から電車で鳥取駅に向かいました。
本日の攻城は、前日に痛めた右ふくらはぎに負担をかけない為、城びと未登録のお城の攻城中止&山城は基本的に登城口撤退にしました。
その為、攻城完了が当初計画より4時間近く早く終了したので、早めに鳥取のホテルに入り、足を休めました。
歩行歩数=19666歩、歩行距離=13.7Kmです。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征9日目:石井垣城 (2026/05/19 訪問)

船上山城から車で30分弱で、説明板付近(35.514051、133.583618)に着き路駐しました。

築城年代は定かではないようです。
1333年(元弘3年/正慶2年)伯耆国守護代の糟屋弥次郎元覚が在城しましたが、後醍醐天皇を奉じて船上山城に挙兵した名和長年によって攻められ落城しました。
まもなくして付近の国人・赤坂掃部助が居城、その後、箆津(のづ)豊後守敦忠が居城し、以後は箆津氏代々の居城となりました。

20分以上、縄張り図を見ながら春日神社神社付近をウロウロしたが、見つけられません。
自宅に戻って確認したら、自分がウロウロした場所より、もう少し北側だったようです。
方向音痴の自分がなさけないです。
攻城時間は30分(ほとんどウロウロした時間です)くらいでした。次の攻城先=富長城に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征9日目:船上山城 (2026/05/19 訪問)

赤崎台場(城びと未登録 鳥取県琴浦町)から車で30分弱で、船上山登山口展望駐車場(35.432319、133.602903)に着きました。

船上山城のある船上山は大山の北東に伸びる稜線上にあり、古くは平安仏教の山岳霊場で智積寺という寺院がありました。この智積寺がのちに寺院城郭と化したらしいです。
南北朝時代初めの1333年(正慶2年/元弘3年)伯耆の豪族・名和長年が隠岐を脱出した後醍醐天皇をこの地に迎えて行宮を築き、来攻してきた鎌倉幕府軍を撃退しました。
天皇方の勝利は全国各地の反鎌倉幕府勢力を決起させ、鎌倉幕府は足利尊氏と新田義貞によって滅ぼされ、後醍醐天皇は名和長年などに護衛されて京へ帰還しました。
建武の新政崩壊後も寺院城郭は存続していたらしく、1524年(大永4年)の尼子氏による伯耆攻略戦「大永の五月崩れ」の際に一山焼失したと伝えられています。
また、智積寺は文禄年間(1592年~1596年)に解散したという言い伝えもあります。

前日、高尾城(尼子十砦⑥ 3城目)で痛めた右ふくらはぎに負担をかけない為、登山口までとし登城は断念しました。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=石井垣城に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征9日目:赤崎台場(城びと未登録 鳥取県琴浦町) (2026/05/19 訪問)

八橋城から車で5分くらいで、赤崎台場入口(35.517811、133.635645)に着きました。

江戸末期、鳥取藩内に築かれた台場名所の内のひとつ。現在6ヶ所(由良台場跡 境台場跡 淀江台場跡 橋津台場跡 浦富台場跡 赤崎台場跡)が残っています。
農民等が積極的に協力して築造し、西洋式の城塞プランが採用されるなど、藩築造の台場としては極めて特徴的で、幕末史の理解に欠くことのできない重要な遺構のようです。
赤崎台場跡は、菊港や藩倉の防備を目的に、武信佐五右衛門が責任者となって1863年(文久3年)に築造されました。
昭和30年代に道路建設に伴って埋立てられましたが、平成25・26年度に発掘調査を行ったところ、3段構造の土塁が東西約50mにわたって残っていることが分かったそうです。
平面形はほかの鳥取藩台場と異なり、半円形のようです。台場には六尾反射炉で製造された大砲が当初3門、後に4門設置されたようです。

現在は空き地となっていて、その一角に案内板が建っています。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=船上山城に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征9日目:八橋城 (2026/05/19 訪問)

槻下豪族館から車で10分くらいで、八橋駅前(35.503364、133.673757)に着き、そこから登城口(35.503821、133.673650)に向かいました。

築城年代は定かではないようですが、行松正盛によって築かれたと云われています。
1524年(大永4年)出雲の尼子経久によって攻められ(大永の五月崩れ)落城し、その後は吉田左京亮が入城しました。
ただし、現在ではこの説は否定されており、東伯耆地方への尼子氏の進出は天文年間(1532年~1555年)以降と推定されているそうです。
1565年(永録8年)備中松山城主三村家親が毛利氏の援軍を得て来襲し、籠城していた尼子部将吉田源四郎は城門を開き敵軍を突破して尼子本城の富田城に逃亡しました。
後に毛利部将杉原盛重が城主となり尾高城と共に羽衣石城の南条氏の押えとしました。
1580年(天正8年)南条元続・元清兄弟、二波にわたって八橋城を攻撃します。
1581年(天正9年)杉原盛重病死し、二男杉原景盛が在城。杉原景盛は兄元盛を謀殺しますが、1582年(天正10年)吉川氏に攻められ戦死。
豊臣氏と毛利氏との和睦成立後は、毛利氏の所有となりますが、1584年(天正12年)南条氏は八橋より赤崎原へ出陣しているので、この頃、八橋城を回復した模様。
1600年(慶長5年)中村一忠が伯耆一国を領して米子へ入部すると、叔父の中村一栄が30,000石で八橋城主となります。
1609年(慶長14年)中村一忠が嗣子なく没して改易となると、美濃国今尾より市橋長勝が21,000石で入封しますが、1616年(元和2年)に越後国三条に43,000石で転封となりました。
1617年(元和3年)池田光政が因幡・伯耆の領主となると池田長明が入りましたが、一国一城令によって廃城となりました。
1632年(寛永9年)池田光仲が入封すると家老・津田元匡が入り陣屋を構え、以後津田氏が続いて明治に至ります。

八橋城は山陰本線八橋駅の北にある丘陵に築かれていました。
西が本丸、東が二の丸とされ周囲には堀が巡っていたようですが、遺構らしきものは確認できませんでした。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=赤崎台場(城びと未登録 鳥取県琴浦町)に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征9日目:槻下豪族館 (2026/05/19 訪問)

由良台場から車で10分弱で、槻下神社側の三叉路付近空スペース(35.487742、133.715121)に路駐して、入口付近(35.487823、133.716169)に向かいました。

築城年代は定かではないようですが、鎌倉時代に岩野弾正の居城であったと伝えられています。

現在、竹藪に覆われていますが、横堀や土塁、曲輪といった遺構を確認することができます。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=八橋城に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征9日目:由良台場 (2026/05/19 訪問)

青山剛昌ふるさと館から車で5分弱で、お台場公園南側駐車場入口(35.498859、133.756488)に着きました。

江戸末期、鳥取藩内に築かれた台場名所の内のひとつ。現在6ヶ所(由良台場跡 境台場跡 淀江台場跡 橋津台場跡 浦富台場跡 赤崎台場跡)が残っています。
農民等が積極的に協力して築造し、西洋式の城塞プランが採用されるなど、藩築造の台場としては極めて特徴的で、幕末史の理解に欠くことのできない重要な遺構のようです。
由良台場跡は、高島秋帆に西洋砲術を学んだ武信潤太郎を総指揮者として、伯耆5台場のうち最も早く着手され、1864年(文久4年)に完成しました。
平面形が正八角形を真横に二分した形で、東西125m、南北80m、土塁の高さ5m、総面積8,000平方メートルの遺構がほぼ完全に残っています。
鳥取藩史によると、台場には近くの六尾反射炉で製造された60斤砲、24斤砲、15斤砲、5寸径砲各1門が配備されたそうです。

現在、史跡周辺は公園として整備され、高い土塁に囲まれています。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=槻下豪族館に向かいました。

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