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姫街道

壮大なスケールで残る城 (2024/03/26 訪問)

初めての訪問。向かいのホテルから見ると高低差の大きい平山城だった事がわかる。案内板の設置も適切。城内に余分な建物があまり無く、スケール感が伝わりやすい。

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カズサン

大野城は木曾三川大野極楽寺公園の中 (2024/03/16 訪問)

 昨年の10月西美濃未踏の城廻りで時間切れ取り残した、更木陣屋、長森城、伏屋城、松倉城を伊木山城、野口館メインの日帰り城廻りをすべて終えて、帰路にはまだ時間も有り、東海北陸道IC経由の途中に在る大野城に寄り登城する。

 駐車場:木曾三川公園内大野極楽寺公園駐車場利用(満車状態でしたが1台の空きが有り駐車)
 参考資料:グーグルマップに依る。スマホで情報ゲット。

 大野城は既に登城した尾張の国に常滑市大野城、愛西市大野城と在り、此処一宮市大野城とで3城と成ります。
 駐車場から西の野球場A面側へ移動約100m弱、A面球場と桜の里公園の間の散策路上北面一画に自然石に刻んだ「大野城跡」碑と磨かれた御影石「大野城跡」解説板が並んであります。
 染井吉野桜が咲いたらさぞ見事な景観な事でしょう。駐車所側にエドコヒガンサクラ系か?少し咲いていましたので写真もアップします。
 野球場は3面とも競技中で大勢の人で賑わっていました、桜の時期は超満員でしょう。

 解説板には、天正12年(1584年)小牧長久手の戦いでは、下奈良、宮後、河田の砦と共に秀吉側の砦として利用された。元石清水八幡宮(京都府)祠官大野伊賀守治定が信長に召し出されてこの地に城館を築く。慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いの前哨戦で東軍の先陣一柳直盛の兵を大野伊賀守治定の子大野才兵衛が案内し岐阜城攻めに加わった。と記されています。(抜粋)
 

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トク

見事な高石垣ときれいな舞鶴城公園を散策 (2024/03/18 訪問)

甲府城を訪れてきました。JR甲府駅を南口から降りると、見事な高石垣と稲荷櫓がすぐの目の前にあり、いきなり圧倒されてしまいました(写真①)。

現在は舞鶴城公園になっていて、市民の憩いの場となっているようです。翌日朝駆けで再登城したのですが、ボランティアの方々が行っているのでしょうか? 早朝から多くの方々が清掃や手入れをされていて、ごみ一つなく芝もきれいに刈られ、とても気持ちよく散策する事ができました(ありがとうございます)。

野面と打込接を併用したこの高石垣は、東日本では珍しくなかなか見られない光景ではないかと思いました。秀吉の命で入った浅野長政・幸長父子が築いたようですが、かなりの技術だと思います。この規模からして、この二人がいかに秀吉から江戸の家康に対する抑えの役を任され、それに応えようとしていたかが推測されます。また再建された鉄門(写真②)や、稲荷櫓もとてもきれいでした。天守台(写真③)に登ると、そこから躑躅ヶ崎館の方向(写真④)や、新府城の方向(写真⑤)も眺める事ができ甲府盆地が一望できました。

江戸期に入り、平岩親吉、徳川忠長(国松=問題を起こした家光の弟)、柳沢吉保など結構有名な人物が城主となっていたのですね。吉保の時代に、御殿などが建てられ、現在のような城が完成されたようです。

夜に宿泊したホテルの窓からは、ライトアップされた甲府城(鉄門など)が目の前に見えて再度感激。ビール片手にずっと眠くなるまで眺めてしまいました(写真⑥夜景はピンぼけしてしまいました(すいません)実際はもっときれいでした)(写真⑦翌朝ホテル前から見た同じ場所です)。


【余談】特急「ふじかわ」号(身延線)
静岡から甲府まで特急ふじかわ号で往復しました(写真⑧)。特急ですが身延線の山深い単線を片道2時間かけてゆっくりと走ります。静岡駅では何と後ろ向きで発車します。そして富士駅でスイッチバック。富士駅から富士宮駅付近までは、車窓から雄大なでっかい富士山をしばらく眺めることができました😲(写真⑨⑩)。では静岡駅で乗車する時、座席の向きを基準に、どちら側の席に座れば富士山がよく見えるでしょうか?🤔 興味のある方は考えてみて下さいね😊!
 

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トベシュン

静岡県7城巡り (2024/03/24 訪問)

静岡県7城巡りしてきました。
山中城跡、興国寺城跡、駿府城跡、諏訪原城跡、高天神城跡、掛川城、浜松城

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トベシュン

静岡県7城巡り (2024/03/24 訪問)

静岡県7城巡りしてきました。
山中城跡、興国寺城跡、駿府城跡、諏訪原城跡、高天神城跡、掛川城、浜松城

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トベシュン

静岡県7城巡り (2024/03/24 訪問)

静岡県7城巡りしてきました。
山中城跡、興国寺城跡、駿府城跡、諏訪原城跡、高天神城跡、掛川城、浜松城

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トベシュン

静岡県7城巡り (2024/03/24 訪問)

静岡県7城巡りしてきました。
山中城跡、興国寺城跡、駿府城跡、諏訪原城跡、高天神城跡、掛川城、浜松城

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トベシュン

静岡県7城巡り (2024/03/23 訪問)

静岡県7城巡りしてきました。
山中城跡、興国寺城跡、駿府城跡、諏訪原城跡、高天神城跡、掛川城、浜松城

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トベシュン

静岡県7城巡り (2024/03/23 訪問)

静岡県7城巡りしてきました。
山中城跡、興国寺城跡、駿府城跡、諏訪原城跡、高天神城跡、掛川城、浜松城

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トベシュン

静岡県7城巡り (2024/03/23 訪問)

静岡県7城巡りしてきました。
山中城跡、興国寺城跡、駿府城跡、諏訪原城跡、高天神城跡、掛川城、浜松城

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赤い城

雨中の白鷺 (2024/03/24 訪問)

当日は讃岐の山城を予定していましたが結構な雨で中止。
予定変更し姫路へ向かいました。

で姫路城です。
これまで何度か登城しましたが城びと登録前。
城びとではまだ「行った」にしていませんでした。
日曜日とは言え朝一番で雨、人も少ないと見積もっての登城です。

大手門もまだ人は少なく有料エリアにもスムーズに入れました。
まずはるの門、と思いましたが人が少ない今のうちに天守へ向かわないと。
ということで順路に沿って進みました。

写真を撮りながら歩いていたのでだんだん人も増えて来ます。
油壁では少しだけ人の切れ目があったのでパシャリ。
安心して大天守へ。
外国人の女性と撮影ポイントが同じらしく譲り合いながら進んでいきます。
英語勉強しておけばよかった、と最近つくづく思います。

天守内の見学を終え、備前丸から下りて行きます。
への門を塀越しに見学して順路を進みいよいよるの門へ。
今回はちゃんと写真も撮れました!

西の丸には雨に打たれながら桜が数輪咲き始め。
もうすぐ春ですね。
奈良村と名が刻んである石垣の石や百間廊下を見学、三の丸広場に戻ったあとはいつものように堀に沿って一周。
これでもまだ見ていないところ沢山ありますね。

最後にイーグレから全景を望み、その大きさを再認識して終了。
世界遺産にふさわしい素敵な城でした。

今回、天気がいまいちだったので天守以外の写真をアップしますね。

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todo94

京阪の城めぐり② (2024/02/24 訪問)

革嶋城からの転戦です。「もずめ」は難読地名に入るかと思いますが、歴史ある地のようですね。肝心の城は私有地で立ち入り禁止となっており、遠目に望むしかありませんが、そこここに案内板、説明板が立てられていて散策は楽しかったです。常夜燈や中海道遺跡の豪族居館と祭殿跡など、確認することができました。

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山屋敷 (2024/03/28 訪問)


 山麓にある山屋敷は山城側を除く三方向に土塁と堀を巡らしてあり、遺構がかなり残っています。

近江鉄道日野駅よりバスに乗り鎌掛バス停下車。バス停から約10分で登城口に行くことができます。

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まずは山城方面へ (2024/03/28 訪問)

 蒲生氏郷の父賢秀が、この地で隠居し生涯を終えたと伝わる城です。尾根上に構築された山城と山麓の山屋敷と表示されている居館部分で構成されています。

 山城は三方向に延びる尾根の上にあり、それぞれの尾根に曲輪が展開し堀切や土塁を見ることができます。伝二ノ丸跡から少し下ったところに石組井戸がありました。伝本丸跡等からの眺望はよく、遺構も思っていたより良好で散策を楽しむことができました。

 山屋敷を進んで行くと伝大手道の案内があり山城へ行く道が整備されています。ただ自分は山屋敷入口付近の尾根を直登して山城へ向かいました。尾根筋に踏み跡があり勘違いしてしまいました。下山するときに正規のルートに気がついて山屋敷へ下りてきました。ただ尾根を登っても踏み跡があり、それほど登りにくいわけではありません。屏風岩の案内が立っている場所に出て、その付近で両方のルートが合流しています。その後も尾根を登りますが、鎖場が2カ所あり難所(それほどでもないかもしれませんが)となっています。

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しんしんちゃん

勝栄寺土塁及び旧境内 毛利元就教訓状発祥の地 (2024/01/02 訪問)

勝栄寺は南北朝時代に建立された寺院で開基は大内弘世の重臣・陶弘政とされています。寺院でありながら周囲に堀と土塁をめぐらせた城館造りで現在も土塁を良く残しています。弘治元年(1555)の厳島合戦で陶晴賢を破った後、大内氏の残党が起こした一揆を鎮圧するため弘治3年(1557)に元就は勝栄寺を本陣とし、一揆を鎮圧したとあります。毛利家の三矢の訓とされる教訓状はここに滞陣中に書かれたとされ、それらは14ヶ条にも及ぶそうです。

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しんしんちゃん

裏切りにてあえなく落城 (2023/12/30 訪問)

神吉城は赤松氏の一族の神吉氏によって築かれたとされています。初代城主は赤松円心の子孫の赤松範次の子・元頼で神吉氏を称したとされています。河岸段丘である神吉集落全域に築かれており、中の丸(本丸)跡である常楽寺を中心に東に東の丸、北に二の丸、西に西の丸が築かれ、周囲に大きな空堀を有していたようです。また本丸の周囲にも空堀が配されていたようです。
天正6年(1578)三木合戦が始まると、城主神吉頼定は別所氏に味方し、三木の大村坂では羽柴軍に勝利するものの、6月23日の神吉合戦では2000の守兵で3万の攻め手と戦ったそうです。この合戦の際、頼定の叔父・神吉貞光が佐久間信盛の調略を受け頼定を暗殺し、城は落城したとされています。

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しんしんちゃん

三木氏の海城 (2023/12/30 訪問)

英賀城は永享年間(1429~41)の初めに赤松祐尚によって夢前川の河口に築かれたとされています。祐介の死後は三木通近が在城し三木氏の城となって規模を広げていったようです。英賀城は一方を海に面した海城のような城であったようです。戦国時代後半に最盛期を迎え、蓮如上人の子・実如上人を迎え英賀御坊が城内に設けられたそうです。城主・三木通秋は城下の門徒と共に大阪の本願寺を助け信長と対立しますが、天正5年からの羽柴秀吉の播磨攻めによって播磨全域に戦場が広がり、天正8年に三木城に続いて落城したそうです。
本丸跡の石碑から北西に800mほどの場所に英賀城跡公園が有り野中口之跡の石碑と模擬石垣が有ります。そこから南にある英賀神社には土塁と石碑が建っていました。他にも岡芝口之跡やら井ノ上口之跡など石碑がいっぱいあって、かなりの城域を持っていたことが伺えます。
見きれまへん‥。

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カズサン

美濃南部城廻り松倉城は木曾川の中 (2024/03/16 訪問)

 昨年10月の西美濃未踏の城廻り時間切れと成って取り残された美濃南部の城廻り最後の城は松倉城、先の伏屋城から南東に約5~6km程の木曽川南側の輪中の中、堤防沿いに碑と案内板が有る。

 駐車場:無し樫大神碑の前に路駐(35°22'14"N 136°51'07"E)、堤防道路下の脇道で通行量少ない。
 参考資料:古城盛衰記さんグーグルマップに依る。

 木曾川南側堤防下に、碑「樫大神」と説明板が有る、堤防の中段に松倉城跡の説明板が立ている。堤防通路に登ると大河木曽川が流れている、戦国激戦の木曽川色々の戦歴がよみがえる、当日は霞状態で岐阜城金華山、先に訪ねた伊木山城を確認する事は出来なかったが対岸北側に三井城跡の山頂部を望むことは出来ました。
 此処から更に西約1km程の所に鬼門に当たるとしての神明神社にも寄りました。
 
 歴史などは史跡松倉城跡説明板をアップしますのでお読みください。
 
 ここの松倉城で昨年10月西美濃未踏の城廻りでリストアップした城跡は廻る事が出来ました。
 まだ時間が残って居ましたので帰路の高速入口の経路途中の尾張大野城へ寄る事にしました。
 

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todo94

京の冬の旅特別公開・西本願寺飛雲閣に続いて (2024/02/24 訪問)

以前の西本願寺飛雲閣の特別公開の際には外観撮影禁止だったのでしたが、今回の京の冬の旅の特別公開は飛雲閣の外観撮影OKということで、急遽、京都へと駆け付けました。3月16日のダイヤ改正による特急の乗継割引廃止前というタイミングも後押しとなって、この土日は京阪の城めぐりです。革嶋城は先達の皆さん同様、革嶋城公園と革嶋春日神社に立ち寄ってみました。

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しんしんちゃん

中世播磨三大城の一つ (2023/12/30 訪問)

中世の御着城は別所氏の三木城、三木氏の英賀城と並んで播磨三大城の一つに数えられていて、当時の姫路城は御着城の出城としての機能を有していたようです。小寺政職の時代に羽柴秀吉の攻撃に会い落城し、その後廃城となったものの、江戸時代に本丸跡の一画に御着本陣が置かれたようです。
本丸跡の一部は御着城公園として整備されていて一画に黒田官兵衛顕彰碑が建ち、北側に城郭風の建造物である姫路市役所東出張所が建ち、その裏手に移築された天川橋があります。道路を挟んで東に御国野市民広場があり、ここが二の丸跡とされ、間の道路は堀跡になると思います。出張所の西手に黒田家廟所があり、黒田官兵衛の祖父重隆公と母明石氏の廟所とされています。
廟所の造営は福岡藩主黒田家が享和2年(1802)に資材を福岡から運び完成させたとされていますが、瓦は深志野で焼かれ、塀は竜山石を使用しているようなので、けっこう現地で調達しているようです。
本丸の発掘調査の際、井戸・石組み溝・建物礎石・掘立柱建物跡・瓦溜り・石組施設などが発掘されています。二の丸からは井戸・石組み溝・建物跡・土塁・埋甕遺構などが見つかっています。井戸は二基発見され、いずれも石組井戸だったようです。どうせ史跡公園として整備されるなら、これらの遺構を見学できるようにしてほしかったですね。
移築された天川橋は元は、姫路藩が文政11年(1828)に、ここから南西200mの天川に架橋した竜山石製の太鼓橋で、橋柱に刻まれた銘文は姫路藩儒者・近藤顧一郎によるもののようです。

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