中村城は一般的には相馬中村城の方が周知の方も多いと思う。歴史はかなり古く、はじめに坂上田村麻呂によって築かれたとされています。南北朝時代には中村朝高によって館が築かれたとされ、代々中村氏の居城であったが戦国時代に相馬氏の城になりました。相馬氏の本城は小高城であったので、中村城には城代が置かれました。
慶長16年(1611)相馬利胤は、本城を中村城に移し、中村藩6万石の城として、見事な近世城郭として改修を施しました。本丸を中心に堀や曲輪が配されていますが、かつては本丸北側を空堀とすることで外周に二重の水堀を設け(蓮池を内堀に転用)実質、三重の堀切を設け北側への防御を固めて有りました。有事の際には内堀から水を引き北側に三重の水堀を展開することが可能だと思います。
藤堂高虎も津城の西側に用水路を設けて、実質的に三重の水堀にしようと計画していましたが、思いとどまっています。外様で6万石の藩が三重の水堀を設ければ、幕府の要らない警戒を招くという判断だと思います。
北の伊達氏に対する警戒と幕府に対する配慮からの折衷案ではないでしょうか。本丸の南側には鉢巻石垣が残っていて、東二の丸との間の堀切が残っており、赤い橋が架かっています。本丸南側の水堀は埋められ広場となっています。
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