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todo94

ゴールデンウイーク翌週・献血ルームに赴く前に (2026/05/10 訪問)

早島陣屋からの転戦です。献血の予約時刻9:00まで、まだ時間はたっぷりとあったので7:30に開園となる岡山後楽園にも立ち寄っていくことにしました。個人的には、三名園の中で最も好きな庭園です。岡山城天守を借景とするなど、最高の庭園だと思います。大河ドラマ「豊臣兄弟!」に宇喜田直家も登場しましたね。宇喜田秀家もこの先、登場するのでしょうか。今回は、城はパスしましたが、そのうち岡山城にも行けたらいいなと思っています。

後楽園近くの献血ルームももたろうではなく献血ルームうららに予約を入れたので、たっぷりと歩くこともできました。無事、血漿成分献血を終え、岡山駅のさんすてにて、ちょっと高めのバラずしを昼食として購入し、自由席が多いひかりを利用して帰路につきました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征4日目:鰐坊山城 (2026/05/14 訪問)

江崎駅から徒歩25分ちょっとで、階段入口(34.652269、131.664120)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、三本松城主(現・津和野城)の吉見氏の出城で、臼井左京亮あるいは秋山筑後守広道が城主だったようです。
天正年間(1573年~1592年)に石見国人領主の益田氏によって攻められ落城、その家臣大谷与三左衛門が守将となったそうです。

道路奥に付いている簡易水道タンクに登るコンクリート階段を登ります。
鬱蒼とした竹やぶで先が見通せず、歩行困難な為、攻城を諦めました。
攻城時間は50分くらいでした。本日の城巡りは、ここがラストです。
歩行歩数=42875歩、歩行距離=30.0Kmです。
本日の宿泊先に向かう為、江崎駅からJR山陰本線で益田駅に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征4日目:櫛山城 (2026/05/14 訪問)

長門大井駅から徒歩20分くらいで、昔あったらしい「吉見正頼・広頼の墓所あり」の看板付近(34.467832、131.436008)に着きました。
そこから「吉見正頼・広頼の墓所」入口付近(34.469134、131.434890)に到着し、宝篋印塔移設を確認しました。
トーダイさんの投稿で櫛山城の情報は何もないとのことでしたので、移設された宝篋印塔を確認する為、周鷹寺に向かいました。
周鷹寺入口(34.468407、131.437897)はここになります。
攻城時間は20分くらいでした。次の攻城先=鰐坊山城に向かう為、長門大井駅からJR山陰本線を利用して江崎駅に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征4日目:前大津宰判勘場跡(城びと未登録 山口県長門市) (2026/05/14 訪問)

亀山城から徒歩5分くらいで、前大津宰判勘場跡碑前(34.370914、131.181975)に着きました。

長州藩は、藩内統治のため周防で9区・長門で8区の行政区に分け宰判勘場(代官所)を設置しました。
前大津宰判勘場は、1650年(慶安3年)に大津郡東部と豊浦郡3村を管轄する宰判勘場として三隅下村(長門市三隅下字豊原)に設けられ、1751年(宝暦元年)に深川村正明市に移され明治まで続いたそうです。

前大津宰判勘場は、現在の長門市役所の位置に設置されていたようです。
宰判勘場が深川の地に移されたことが現在の長門市の市街地の基礎となったようです。
現在は、市役所駐車場の一角に石碑が立てられているだけで、宰判勘場の遺構は何も残っていません。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=櫛山城に向かう為、長門市駅からJR山陰本線を利用して長門大井駅に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征4日目:亀山城 (2026/05/14 訪問)

長門市駅から徒歩10分ちょっとで、法蓮寺入口(34.370392、131.183712)に着き、法蓮寺の墓地の奥から山へ入りました。

築城年代は定かではないようですが、室町時代中期に鷲頭弘忠によって築かれたと云われています。
鷲頭氏は大内氏の庶流で「大内氏庶流鷲頭氏系図」によれば、大内氏十六代盛房の三男盛保が周防国鷲頭庄の地頭となって鷲頭氏を名乗ったことに始まるそうです。
深川城を居城とした鷲頭氏は鷲頭氏三代鷲頭長弘の子盛継より別れた家系で、盛継の孫鷲頭弘忠は長門国守護代を務めていました。
1441年(嘉吉元年)大内氏の第12代当主大内持世が死亡し、大内教弘が跡を継ぎました。
それまでは大内氏と鷲頭氏との仲は良好でしたが、弘忠と教弘は不仲だったと考えられ、1446年(文安3年)4月15日に守護代の任を解かれました。
この間に弘忠と父である鷲頭弘為は本拠である深川城の周辺に支城を築き、教弘の攻撃に備えました。
1448年(文安5年)鷲頭弘忠は大内教弘の大軍に攻められ、深川城は落城、弘忠は一族郎党自刃して果てています。
これに先だって深川城の出城として深川湾に面した丘陵にこの亀山城が築かれました。
その後、亀山城には日置氏が入城しましたが、その後の処遇は不明のようです。

亀山城は長門市役所の東側にある丘陵に築かれていました。
小高い丘陵は亀の形に似ていることから名付けられ、西が首で東が尻だそうです。
立派な堀切が竹林に残っていますが、主郭や西側下段の郭(三郭方面)は竹林の中にあり進むこともできず、よくわかりませんでした。
攻城時間は30分くらいでした。次の攻城先=前大津宰判勘場跡に徒歩で向かいました。

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赤い城

台場公園 (2026/05/28 訪問)

牛骨ラーメンでお腹を満たし所用前にもう一つリア。
境港の台場公園を目指しました。
公園の駐車場を利用して散策します。
中海から日本海に抜ける境水道の入口に設置されました。

全面の砲台跡には高さのある土塁が残っていて灯台も建ちます。
土塁の内側はかなり広くなっていて南側から西側には後背土塁も築かれています。
時間があれば水木しげるロードにも行きたかったのですがまた機会があれば、ということでここで終了。
今回の本目的に取り掛かることとしました。

【見どころ】
 ・公園を取り巻く土塁

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征4日目:萩城下町(PART2) (2026/05/14 訪問)

萩城詰丸跡から指月公園に下りてきました。萩城下町は以下の順番で観光しました。

①:馬來杢旧宅地(34.411354、131.388095)
②:旧児玉家長屋門(34.410402、131.387921)
③:旧祖式家長屋(34.410982、131.386587)
④:堀内鍵曲(34.410626、131.384818)
⑤:旧萩藩江戸藩邸移築門(34.410909、131.383654)
⑥:旧口羽家住宅(34.410827、131.383408)
⑦:古明倫館跡(34.410100、131.386142)
⑧:久坂玄瑞誕生地(34.406153、131.390708)

計画した萩観光時間が45分も早く終わり、玉江駅で50分の電車待ちとなってしまった。
観光時間は40分(移動時間を含む)くらいでした。次の攻城先=亀山城を攻城する為、玉江駅からJR山陰本線で長門市駅へ向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征4日目:萩城 (2026/05/14 訪問)

旧厚狭毛利家萩屋敷長屋から徒歩5分弱で、萩城石碑前(34.416975、131.383694)に着きました。
そこから登山口に向かい、登山口から徒歩15分くらいで、萩城詰丸跡(34.421270、131.381593)に到着しました。

萩城は今回2回目の攻城です。1回目は2019年3月14日に来ました。
前回は時間の都合で詰丸に行くことが出来なかったので、今回は詰丸に登ることを目的に攻城しました。

本丸背後にある指月山山頂に詰丸があります。
土塀や石垣、無数の矢穴があいた岩などが残されていました。眺望はいいです。
攻城時間は40分くらいでした。次の攻城先=亀山城を攻城する前に、萩観光をする為、城下町へ向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征4日目:萩城下町(PART1) (2026/05/14 訪問)

聚楽第(移築裏門)から徒歩15分くらいで、高杉晋作誕生地(34.411686、131.393066)に着きました。萩城下町1は以下の順番で観光しました。

①:高杉晋作誕生地(34.411686、131.393066)
②:萩城城下町(34.413045、131.393787)
③:萩城外堀(北の総門周辺)(34.414474、131.392145)
④:萩城北の総門(34.414619、131.391960)
⑤:旧益田家物見櫓(34.415007、131.391554)
⑥:旧繁沢家長屋門(34.415027、131.391047)
⑦:旧周布家長屋門(34.415165、131.390120)
⑧:旧問田益田邸土塀(34.413927、131.387095)
⑨:旧毛利家別邸表門(34.414730、131.386005)
⑩:旧厚狭毛利家萩屋敷長屋(34.415176、131.382128)
途中、天樹院墓所にもよりました。

萩城からの帰りも観光しました。
観光時間は50分(移動時間を含む)くらいでした。次の攻城先=萩城へ徒歩で向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征4日目:聚楽第(移築裏門) (2026/05/14 訪問)

東萩駅から徒歩15分くらいで、常念寺裏門(34.414207、131.402146)に着きました。
京都の聚楽第跡は2019年2月8日に攻城しましたが、石碑や説明板しかなく、今回は萩に移築された城門目当てに来ました。
萩城は今回2回目の攻城です。1回目は2019年3月14日に行ました。

毛利輝元が萩城の築城時に宿舎にした寺です。
表門は、もともと京都の聚楽第の裏門として建てられたものを輝元が豊臣秀吉から拝領し、1633年(寛永10年)に寄進、移築しました。
写真を撮りましたが、どの角度から撮ろうとしても太陽の光が入ってしまいました。申訳ありません。
国指定重要文化財になっています。
聚楽第(移築裏門)に行く途中に、吉田松陰が収容された野山獄跡がありました。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=萩城へ向かう途中、萩観光をしました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征4日目:高津城(城びと未登録 島根県益田市) (2026/05/14 訪問)

ホテルの朝食を抜いて、高津城(城びと未登録 島根県益田市)を攻城しました。
ホテルから徒歩25分ちょっとで、高津柿本神社楼門前(34.678070、131.821399)に到着しました。

建武年間(1334年〜1338年)高津長幸によって築かれました。
1336年(建武3年・延元元年)益田兼弘・吉川経明の連合軍によって落城しました。
その後、長幸は城を回復しましたが1340年(暦応3年・興国元年)石見守護上野頼兼が率いる北朝方に攻められ落城しました。
1471年(文明3年)益田貞兼が高津城を攻めた記録が伝えられているようですが、その時の城主など詳細なことは定かではないようです。
高津柿本神社はかつて高津松崎(同市高津5丁目)にあったが1608年(慶長13年)に徳川秀忠の命で大久保長安が造営し、1681年(延宝9年)に津和野藩主・亀井滋政により現在地に移築されました。

高津城は現在、柿本神社境内と万葉公園となっている小高い丘陵に築かれた城です。
柿本神社の社務所がある辺りが三の丸、拝殿と本殿がある辺りが二の丸、本殿上の益田第二配水池・稲荷神社辺りが本丸のようです。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=聚楽第(移築裏門)を攻城する為、益田駅からJR山陰本線を利用して東萩駅に向かいました。

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肉球

博物館は解体されました (2026/06/11 訪問)

仕事で大町市方面に行くことになりまだ見学していなかった安曇野市へ移築されている大手門に立ち寄り午後から松本城へ。

二の丸にあった市立博物館は解体撤去され更地になっていました。そのおかげで外堀沿の歩道より天守閣、太鼓門がよく見えるようになっていました。埋め立てられ住宅が立ち並んでいた外堀の南側と西側の建物撤去は終了しており水堀復活ではなく平面復元のようです。三の丸にくたびれた姿で残されていた新井家の屋敷門は修繕されたようです。😊
天守閣内もじっくり見学したかったのですが並ばずに入場出来たものの内部はかなり混雑。寒い時期に再訪かな

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送りバント

20260531須崎台場(福岡県福岡市中央区) (2026/05/31 訪問)

九州一の繁華街・天神の中心部からすぐ、須崎公園内に石積みが残る

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dougen

2026.8.16登城 (2025/08/16 訪問)

神流川古戦場近くの御陣場川沿いに金窪城址公園があり、金窪城址となります。
城址公園と言っても遺構らしい遺構は無く、石碑と解説板があるのみです。
石碑の裏側や周辺に土塁が不明瞭ながら残っています。

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トク

6【秀吉の播磨平定をたどる①】姫路城(官兵衛の石垣が!) (2026/06/11 訪問)

みずほ600号に乗り姫路で下車しました。ここから秀吉の播磨平定をたどる旅を始めようと思います。姫新線に乗り換えようと思ったのですが、待ち時間が2時間もあったので、ならば官兵衛の石垣をもう一度見たいと、駅から姫路城までダッシュで往復してきました。

大天守に圧倒されながら山里曲輪に近づくと、ほれぼれとする野面積の石垣が見えてきます。このあたりには、官兵衛が小寺の家臣時代に土塁で囲んだ館の城があったのではないかと言われています。ドラマにもあったように、官兵衛は自分の城を秀吉に差し出します。そして播磨平定後の翌1581年、秀吉のために石垣で囲み、その上に三重四階の望楼型天守を建てたようです。秀吉は、播磨平定の最中は手狭なため書写山に入ります。そこで記憶を失ったあのドラマの話はフィクションでしょうが(笑)。そして姫路城から因幡平定へ出陣。その後は大坂城を築城し移ったため、秀長が城を預かります。1585年秀長が大和郡山に移ると、代わりにねねの兄「木下家定」が入り16年間続きます(実質は三男の延俊が城代を務める)。天守は関ケ原後に入った池田輝政により壊され、輝政はその位置に現在の白亜の大天守を建てたそうです。と・・・姫路城の方が話されていました(なるほど🤔)。

しかし見ている内にビックリ😱! 山里曲輪の西側は官兵衛の石垣が残っていますが、東側の石垣は何と布で覆われていました。補強工事がなされているようです。はらんだのか崩落したのか、この下は一体どうなっているのでしょうか? とりあえず工事が終わるまで、記念写真は西側から撮った方がよさそうです。

次はJR姫新線に乗り、西播磨の上月城へ向かいます。
 

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todo94

ゴールデンウイーク翌週・岡山の攻城⑥ (2026/05/10 訪問)

岡山駅の近くにはすき家がないので、早島駅にアクセスして早島のすき家にて朝食をとりました。朝田辰兵衛さんにチェックされていたようですが、意図的にすき家を利用している訳は、楽天ポイントが利用でき、月に5回の利用でポイントが15倍になるからなのです。楽天ポイントは既に10万以上たまっているので、結構ポイント利用で食事を賄ってしまっています。国産米、国産野菜使用というのも安心ですしね。

朝食を済ませて向かったのは、早島陣屋です。早島小学校の隣接地にある説明板の近くに堀跡と石橋、そして民家の敷地内に井戸が残っています。早島町の重文に指定されているレンガ造りの早島小学校の門もチェックしておきました。

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赤い城

鳥取藩台場のひとつ (2026/05/28 訪問)

所用で帰省したのですが隙あらば城、ということで早めに出発。
所用の前に立ち寄りました。
まずは未登録の淀江城へ。
淀江駅周辺が城跡ですが遺構はありません。
山中幸盛が尼子氏再興を旗揚げした際の拠点のひとつです。
この日は平日、ちょうど学生の登校時間でコナンラッピングの車両が停まっていました。

次に淀江台場に向かいました。
淀江漁港に隣接する公園で駐車場もあります。
土塁の一部が残っています。
現在は直線的に残るだけでしが当時は両サイドが翼のように伸びていたそうです。
鳥取藩が築いた8つの台場のひとつです。

鳥取で食べたいのが牛骨ラーメン、近くに朝から営業しているお店があったので寄ってみました。
スープに濃厚な肉の香りが広がり、それでいてあっさり🍜
美味しかったです。

【見どころ】
 ・土塁

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征2日目:大西城(尼子十旗⑩ 3城目) (2026/05/13 訪問)

尼子十旗:出雲国尼子氏の主要な家臣団の十の居城
尼子十旗(①白鹿城②三沢城③三刀屋城④赤穴城⑤牛尾城⑥高瀬城⑦神西城⑧熊野城⑨馬木城(夕景城)⑩大西城)
佐世城から車で10分くらいで、登り口(35.341121、132.921314)手前の空スペースに着きました。

築城年代は定かではないようですが、天文年間(1532年〜1555年)に鞍掛久光によって築かれたようです。
1543年(天文12年)大内氏の出雲侵攻に際し、大西高由は尼子氏に従い富田城の防備に着き、宮尾において大内勢を破りました。
1565年(永禄8年)毛利氏の出雲侵攻に際しても、大西高由は尼子氏に従い、富田城塩谷口の守備に当たり、吉川勢の攻撃を凌ぎました。
1566年(永禄9年)富田城は開城し、尼子義久が安芸に幽閉された際、大西高由もこれに従いました。
大西城のその後については不明のようです。

本日の計画時間を大幅にオーバしています。(攻城時間&移動時間の見積もりが甘かったようです)
この後、出雲市駅でレンタカー返却し、浜田駅まで電車で移動することを考えると、大西城(尼子十旗⑩ 3城目)登城は時間的に難しいと判断して登城口で撤退しました。
攻城時間は5分くらいでした。本日の城巡りは、ここがラストです。
歩行歩数=19170歩、歩行距離=13.4Kmです。
本日の宿泊先に向かう為、出雲市駅でレンタカーを返却した後、出雲市駅から電車で浜田駅に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征3日目:佐世城 (2026/05/13 訪問)

三刀屋じゃ山城から車で15分くらいで、金剛山佐世城址入口(35.317152、132.943810)に着きました。

1326年(正中3年)佐世七郎左衛門清信が築城して以来、9代佐世伊豆守正勝まで276年にわたる居城でした。
佐世氏は佐々木頼清(湯頼清)の子清信が大原郡佐世郷を領して佐世氏を名乗った事に始まるそうです。
以来、8代佐世伊豆守清宗まで尼子氏の家老衆として、12万石を領していましたが、1565年(永禄8年)より毛利氏に属し、防州山口に移住しました。
その後、数々の軍功により、1594年(文禄3年)再び佐世城主に迎えられました。
佐世氏は、代々文武共に優れ、特に書画、詩歌の遺品が多い。また敬神崇仏の念も厚く、神社、仏閣を造営するなど、大きな業績を残したそうです。
正勝公には嗣子がなく、1601年(慶長6年)逝去と同時に、甥に当たる防州山口の佐世丹羽守元量が後職に任じられたため、佐世家は断絶しました。

城は佐世川の西岸の城山に築かれており、現在は公園として整備されています。
周辺には川も流れており天然の堀の役割をしていたのでしょう。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=大西城(尼子十旗⑩)に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征3日目:三刀屋じゃ山城 (2026/05/13 訪問)

三刀屋城(尼子十旗③)から車で5分ちょっとで、登山道入口付近(35.294211、132.857737)に着き路駐しました。
そこから、登城口(35.296280、132.858593)に向かいました。

1221年(承久3年)承久の変の功で三刀屋(諏訪部)扶長が三刀屋郷の地頭に任ぜられた際に築城したと伝わっています。
1351年(正平6年、観応2年)に山名氏勢力が籠もった石丸城や1393年(明徳4年)に山名氏や塩冶氏に攻められた三刀屋城は当城だと云われています。
戦国時代になると支城であった現在の三刀屋城(城山)に居城を移したと云われています。

現在、三角点のある山頂一帯の主郭まで登山道が整備されています。
南の高台部分にいくつかの曲輪と空堀があります。
主郭部全体を囲むように切岸があります。
攻城時間は55分くらいでした。次の攻城先=佐世城に向かいました。

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