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ダイエティシャン

浜田城1️⃣~城跡 (2026/06/21 訪問)

浜田城跡を攻城。今日は日曜日ということもあり、ボランテイアガイドの方がいらっしゃいました。お話を伺うと、知らない知識を得ることが出来、興味が尽きません。
写真③の石垣の花形が可愛らしいです。これは、出丸の石垣を崩した時に出てきたの裏込め石だそうです。
ニノ門の升形虎口にある写真④は、所々赤くなっています。石州口の戦いで消失した跡と云われているそうです。
本丸からの眺め(⑤)で、浜田城がここに築かれた所以が分かります。

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ぴーかる

郷柿沢館 (2026/05/10 訪問)

【郷柿沢館】
<駐車場他>駐車場はなし。<36.718298, 137.367680>に停車してダッシュで撮影しました。
<交通手段>車

<感想>1泊2日富山ちょこ城巡り1000㎞旅18城目。お城の詳細はちょっと読みにくいですが、現地説明板の添付写真をご覧下さい。
ここも弓庄城と同じ土肥一族の居館跡で現在は西養寺になっています。水堀の一部が残っていました。

<満足度>◆◇◇

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トク

8【秀吉の播磨平定をたどる③】御着城(小寺政職と黒田官兵衛) (2026/06/11 訪問)

姫路駅から各停で2駅目、御着駅で下車しました。ここから御着城へは徒歩で10分程です。現在の城跡の本丸は姫路市役所東出張所、二ノ丸は運動公園になっていました。本丸の東側には、官兵衛の祖父と生母の墓もありました。

黒田家は官兵衛の祖父から三代、ここ御着城で小寺氏に仕えます。官兵衛は小寺政職の家老を務め、小寺姓を名乗る事を許されました。そして織田に付くよう主君政職を説得し、政職の名代として小寺官兵衛と名乗り、秀吉と行動を共にします。

しかし1579年、荒木村重が謀反を起こし、村重を説得するため有岡城に行った官兵衛が帰ってこないため、官兵衛も寝返ったと勘違いした政職は、自分も毛利に寝返ります。それにより翌1580年、秀吉から攻められ御着城は落城しました。

私はこの城に立つと、何故か「片岡鶴太郎」さんを思い出してしまいました(笑)。

次は、官兵衛が幽閉された、荒木村重の有岡城へ向かいます。
 

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征7日目:三笠山城(尼子十砦③ 1砦目) (2026/05/17 訪問)

尼子十砦:出雲国尼子氏の本城月山富田城の周囲を固める支城群
尼子十砦(①十神山城②神庭横山城③三笠山城④赤崎山城⑤亀遊山城⑥高尾城⑦高守山城⑧勝山城⑨寺山城⑩安田要害山城)
道の駅広瀬・富田城駐車場から車で5分弱で、広瀬中央公園駐車場(35.360751、133.168745)に着き、その後、登城口付近(35.361505、133.167720)に向かいました。

築城年代は定かではないようですが、1391年(明徳2年)伯耆守護の山名満幸(山名播磨守満幸)が、後円融上皇の御領であった出雲・仙洞領の「横田荘」を横領し、代官となった石原宗政が築いたのが、出雲・三笠山城と伝わってます。
その後、室町幕府3代将軍・足利義満は、当時1ヵ国の守護と大勢力になっていた山名一族を抑えるため,山名満幸を丹波に追放します。
そのため「明徳の乱」となり、山名氏の勢力は減退し、三笠山城は破却されたとされています。
戦国時代になると、西村治右衛門が出雲・三笠山城に入っており、尼子十砦のひとつになりました。
1565年(永禄8年)毛利元就が月山富田城を攻めた際、毛利方の軍勢が布陣したといわれています。
山中鹿之助は、三笠山にかかる三日月に向かって「願わくば我に七難八苦を与え給え」と祈ったと伝わる、月見の名所のようです。

赤テープを目印に登りますが、本丸の目印がないので、どこが終点かわからなかった。
三笠山山頂部分で平坦地になっていたので、ここが主郭と自分で認定しました。
攻城時間は65分くらいでした。次の攻城先=寺山城(尼子十砦⑨)に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征4日目:月山富田城付近散策② (2026/05/17 訪問)

新宮党館から徒歩10分くらいで、塩治掃部介墓所入口(35.364889、133.193883)に着きました。
新宮党館から道の駅広瀬・富田城駐車場に戻る途中にあったので覗いてみました。

①:塩部掃部介墓所入口(35.364889、133.193883)
  尼子恒久を一時、追放したという戦国武将の墓。墓石と説明板がありました。
②:堀尾忠氏公墓入口(35.365020、133.193196)
  塩治掃部介墓所の南の小川に架かる鉄板を渡ると案内板あります。
  墓は山の上にあり、着くまでに予定より時間がかかりました。
③:山中鹿介幸盛屋敷跡(35.367018、133.188363)
  案内標識に従い階段を登るとあります。石碑がありました。
観光時間は45分くらいでした。次の攻城先=三笠山城へ車で向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征7日目:新宮党館 (2026/05/17 訪問)

毛利元秋公の墓入口(35.368775、133.187735)から徒歩10分弱で、新宮党館跡標識付近(35.366923、133.193491)に着きました。

尼子軍最強をうたわれた精鋭集団「新宮党」の館跡です。
尼子国久の最後は晴久に誅殺されました。
その原因は①出雲での勢力が晴久を凌駕していた為②新宮党一党の横柄な振舞い③毛利元就の陰謀などが伝わっています。

館跡は本当に何もない草が生い茂る原っぱですが、太夫神社と墓石があります。
尼子国久、誠久、敬久の墓石がありました。(墓石が4基ありましたが、あと1基は誰のものでしょう?)
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=三笠山城に行く為、月山富田城付近を散策しました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征4日目:月山富田城付近散策① (2026/05/17 訪問)

足立美術館から車で10分弱で、尼子家代々奥津城入口(35.368909、133.186528)に着きました。新宮党館に行く途中にあったので覗いてみました。

①:尼子家代々奥津城入口(35.368909、133.186528)
  墓標があるのみでした。
②:毛利元秋の墓入口(35.368775、133.187735)
  毛利元就の5男元秋の墓ですが、石垣が立派でした。
観光時間は15分くらいでした。次の攻城先=新宮党館へ徒歩で向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征7日目:足立美術館 (2026/05/17 訪問)

熊野城(尼子十旗⑧)から車で30分くらいで、足立美術館駐車場入口35.381782、133.197803)に着きました。

庭園は素晴らしいですが、ガラス越しや柵越しの鑑賞で庭に直接入ることはできません。
魯山人館の作品も見ることが出来ました。
平日でしたが、作品を見るのに少し並んで待つ感じです。
開館時間は9:00~17:30(4月~9月)で、入館料は2500円でした。
観光時間は45分くらいでした。次の攻城先=新宮党館を攻城する前に、月山富田城付近を散策しました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征7日目:熊野城(尼子十旗⑧ 7城目) (2026/05/17 訪問)

尼子十旗:出雲国尼子氏の主要な家臣団の十の居城
尼子十旗(①白鹿城②三沢城③三刀屋城④赤穴城⑤牛尾城⑥高瀬城⑦神西城⑧熊野城⑨馬木城(夕景城)⑩大西城)
春日城から車で20分くらいで、農村公園空スペース(35.353859、133.061937)に着き、説明板の写真を撮りました。
そこから、登城口標柱付近(35.355888、133.059190)に向かいました。登城口前に路駐しました。

築城年代は定かではないようですが、戦国時代に、尼子義久に従っていた熊野久忠が築いたとされています。
本丸下に建立したと言う、阿弥陀堂の寄進者として、1534年(天文3年)熊野兵庫介久忠とあるようです。
ただし、近くに、出雲一の宮である「出雲・熊野神社」があり、平安時代に熊野大社の神主である熊野氏が築いたとも考えられています。
1563年(永録6年)毛利元就が三刀屋城主三刀屋氏、三沢城主三沢氏などを率いて熊野城に押し寄せたが、熊野氏はこれを退けました。
しかし、1566年(永禄9年)尼子氏の本城富田城が開城したため、熊野城主熊野久忠も毛利氏に降伏しました。
1569年(永禄12年)尼子勝久ら尼子再興軍が、月山富田城を攻撃しますが、熊野久忠も加わり、出雲・熊野城を奪還すると、尼子再興軍の拠点になりました。
1570年(元亀元年)布部山の戦いで尼子再興軍が大敗した際には、諸城と共に熊野城も開城・降伏しました。
天正年間(1573年~1593年)富田城を預かっていた天野隆重は荷が重すぎると、毛利元就の四男毛利元秋を富田城主に迎え、自身は熊野城に退いて元秋を補佐しました。

南西の登城口から案内看板的確で歩きやすいように整備してありました。
山麓の農村公園に案内板が設置されています。
攻城時間は40分くらいでした。次の観光先=足立美術館に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征7日目:春日城 (2026/05/17 訪問)

宿泊先のホテルから車で10分弱で、春日神社参道入口(35.424721、133.112992)に着き、付近に駐車しました。

築城年代は定かではないようです。
1468年(応仁2年)出雲守護代の尼子清貞は下河原宗左衛門尉らが楯籠もる春日城を攻め落としていますが、尼子清貞の家臣神保与三左衛門尉、西木彦左衛門尉が討死している記録があるようです。

春日城は春日神社の裏手にある山に築かれています。
山に登る場所を捜して堀切を見つけたが、その間に予定時間を15分オーバ。
主郭まで登るのは断念しました。
攻城時間は30分くらいでした。次の攻城先=熊野城(尼子十旗⑧)に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征7日目:古城山城(城びと未登録 島根県出雲市) (2026/05/17 訪問)

宿泊先のホテルの朝食前に、古城山城(城びと未登録 島根県出雲市)を攻城しました。
宿泊先のホテルから徒歩10分くらいで、緑化公園入口(35.426626、133.128995)に着きました。

築城年代、築城者や城主も不明です。

緑化公園入口の道を先に進むと大堀切が見えてきました。結構高いです。
この右手側が城内のようですが、城内に行く道が無く、ロープを使って城塁を直登しました。下山時、やはり転びました。
結構大変でしたが、登った先はきちんと削平されており、高土塁がありました。
中央に素掘りの井戸があるはずなのですが、見つけられませんでした。
主郭と反対側(左手側)の山に登ってみましたが何もありません。
攻城時間は25分くらいでした。次の攻城先=春日城を攻城する前に、ホテルに戻って朝食を食べました。

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ぎりょう

金箔瓦出土の城 (2026/06/14 訪問)

自身が所属する古文書を読む会の「移動研修会」、今年度は隣県山形市に。今回のメインの訪問地は山形城跡と最上義光歴史館です。今回も会員の約半数、38名の会員さんが参加しました。例年のごとく4月末に担当役員で下見会を実施し、最上義光歴史館さんを訪問し学芸員さんから、同館のサポータークラブ『義光会』さん、山形市観光ボランテイアガイド協会さんの紹介をいただきました。
訪問当日は山形城跡の発掘調査ご担当の市職員さんからも山形城跡のご説明、ボランテイアガイドさんからは最上義光歴史館の展示や、悲劇のヒロイン駒姫の供養塔がある専称寺をご説明をいただきました。
山形城は1986年に国史跡指定され、その翌年から遺跡整備を開始、発掘調査も進められて、段階的な復元整備が進められています。これまで二ノ丸東大手門、本丸一文字門、大手橋が復元され、城郭の景観が徐々によみがえっています。
発掘調査ご担当者さんからこれまでの発掘調査の成果をお話しいただいた中で、本丸跡からの金箔瓦出土の説明がありました。
金箔瓦は織田信長の安土城に始まり、その後権力を受け継いだ豊臣秀吉が大坂城や聚楽第、伏見城で用いて、権力誇示に利用したものです。山形城跡での出土は、当時、最上義光が豊臣秀吉の信認を得ていたことの証と考えられます。
城跡からの金箔瓦の出土は、南東北ではここ山形城、会津若松城、仙台城、現南相馬市に有った相馬氏の本拠地小高城の四ヵ所だけとことです。出土した金箔瓦は最上義光歴史館の山形城コーナーに展示されており、観ることができます。




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チェブ

振り出しに戻る。 (2026/06/14 訪問)

夕方子供を、JR西国分寺駅に送って行ったついでに「三田城」に寄り城しました。
本当は、城びと特集記事『武蔵国分寺復元体験アプリ』で紹介された『武蔵国分寺跡』に行こうと思っていたのですが、後日、友達と巡る予定がありますので、「三田城」へ。
*あの記事の文章が面白く毎回、笑顔になります。

それから、「三田城」が頭の隅っこにいたのは、東京都の西多摩地区に流れるローカルテレビで、武州青梅三田弾正手作り甲冑隊と、村山党の皆様が紹介されていた事です。

三田氏の本拠地は青梅市だよなーと思い、再度「三田城」へ。
ちなみに青梅市の由来は平 将門さんのエピソードによります。、、、長くなるので割愛します。
三田氏は平 将門さんの後裔なんだそうです。
青梅市と「三田城」のある国立市は車で1時間くらいの距離です。

城山公園に駐車場があります。ここから公園に入らず坂を上がります。すると右手に遺構が見えて来ますが、私有地。
もうちょっと先に入口があります。
堀底でしょうか?歩くと左右の土塁の竹が良い雰囲気を演出してくれてます。
すると、前から自転車の男の子達が。抜けると広場になっていて、たくさんの小学生と親御さんが帰り支度をしてました。
ビジターセンターのような建物がありバリアフリーのトイレもありました。

「三田城」は鎌倉御家人の津戸氏等、築城者が不明なようです。
ん!!前に来た時も、同じ事を思って同じように納得した事を思い出しました!!

青梅市には『三田弾正くん最中』という和菓子があるそうです。テレビでは『武者もムシャムシャ食べられます。』
って。
この次は『三田弾正くん最中』を持って再登城しようと思った「三田城」攻めでした。

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朝田 辰兵衛

帰りにココに立ち寄りました…👣 (2026/05/06 訪問)

福岡空港に荷物を預け,福岡地下鉄で貝塚駅へ。西鉄貝塚線に乗り換えて香椎宮前駅下車。徒歩約30分で到着。香椎台おいの山公園です。モニュメントがなければ,後生に語り継がれることが難しい城のひとつといえます。

🛫6月25日から福岡空港に飛び,6月30日に伊丹空港から越後に帰還する旅に出ます。還暦前年に課された連続休暇取得で西日本縦断旅を計画。天気予報では,私に雨雲が寄り添うカンジです。それでも,くもり程度に変われば,6月26日に山口県岩国市の未投稿城「成君寺山城」を攻めてきます。雨がすごかったら「亀居城」に変えます。

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小城小次郎

ほぼ完璧に残る方形の城館 (2025/08/11 訪問)

松山市郊外に大きな土塁と広い水堀をほぼ完璧に残す方形城館が現存する。河野氏重臣の平岡氏が拠ったお城は関ヶ原の戦いに乗じて毛利方が伊予に侵攻した際にも平岡氏が毛利方を導き入れたという。よく壊されなかったな。

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カズサン

皐月の頃・丸馬出群 (2026/05/26 訪問)

 諏訪原城には丸馬出が七か所存在して居ます、牧之原市に用事のチョイ寄り探訪で二の曲輪中馬出、二の曲輪北馬出周りを紹介写真投稿しましたので、残りの二の曲輪大手馬出、東内馬出、南馬出、東馬出の皐月の頃の萱の茂った、竹の茂った状態の写真を投稿します。
 東馬出からも富士山が遠望できるのですが今回は霞も掛かり目で確認できるのですが写真でははっきりしません、又大手馬出は茶畑の崖外周で確認できるのですが今回は足を踏み込んで居ませんので割愛致しますので写真投稿は4ヶ所の丸馬出しのみです。
 

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カズサン

内堀の底を見る (2026/05/26 訪問)

 諏訪原城の堀底へは入り込む事が出来ませんが、唯一内堀、カンカン井戸の在る堀底で雄大な堀を体感する事が出来ます、本曲輪は武田氏の時代の築造とも言われて居り、武田氏が造り徳川氏が改修した内堀、諏訪原城です。
 牧之原市に用事が有りチョイ寄りで景観整備されている二の曲輪中馬出周りと本曲輪の笹ゆりを初鑑賞した後、カンカン井戸経由しましたので堀底、内堀底より雄大な堀を鑑賞体感(何回も体感して居ます)しましたので前後の写真を投稿します。
 外堀もどこか一か所でも堀底体験体感が安易に出来る施設を作って頂くとありがたいのですが?
  

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征6日目:玉造要害山城 (2026/05/16 訪問)

金山要害山城から車で20分くらいで、玉作湯神社駐車場(35.413472、133.010856)に着き、そこから登り口/説明板付近(35.413238、133.011772)に向かいました。

築城年代は定かではないようですが、1332年(元弘2年)頃に湯荘留守職の諏訪部扶重によって築かれたと云われています。
後醍醐天皇が隠岐へ配流されたさいに同行した湯庄の富士名判官義網の留守中に、諏訪部扶重が築城して反乱を企てたがこの争乱で焼失しました。
その後、出雲守護佐々木泰清の七男頼清が湯氏を称して城を改修し居城としました。
その後の動向は定かではないようですが、1542年(天文11年)には湯佐渡守家綱の名が記録に残り、その古墓が城内の一角に残るそうです。
また、1558年(永禄元年)の玉作湯神社棟札に地頭代湯菊丸の名が残っています。湯氏は尼子の重臣となった家系が亀井茲矩で因幡国鹿野藩、石見国津和野藩の家系として続きました。

玉造要害山城は玉造温泉街の奥にある玉作湯神社の背後の丘陵に築かれています。
登城口から一ノ平まで200mの表示で登りはじめましたが、自分にとって道なき道の竹林を進み三ノ平に着きました。
しかし、問題はそこからで、二ノ平、一ノ平方向が方向音痴の自分には全くわかりません。
こんな小規模な城跡で迷子になるなんて笑えません。情けないですが、ここで撤退です。
どちらに向かっても道路方向には出れそうなので下山しました。
攻城時間は20分くらいでした。本日の城巡りは、ここがラストです。
歩行歩数=40260歩、歩行距離=28.1Kmです。
本日の宿泊先に車で向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征6日目:金山要害山城 (2026/05/16 訪問)

高瀬城(尼子十旗⑥ 6城目)から車で15分くらいで、ゴミステーション付近空スペース(35.381263、132.915187)に着き路駐しました。
そこから徒歩5分くらいで、南宍道駅の登山道付近(35.379901、132.917917)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、宍道氏によって築かれたと云われています。
宍道氏は出雲国守護京極高氏(佐々木道誉)の孫秀益が、宍道を領して宍道八郎と名乗った応仁年間(1467年~1469年)から、天正年間(1573年~1592年)までの約130年間の間、この地方で勢力を誇った宍道氏の本拠地です。
宍道氏は尼子氏の重臣でしたが、1540年(天文9年)尼子晴久が毛利元就の安芸国吉田郡山城攻めに参陣するも、大内氏の援軍によって尼子氏は敗走、その後大内義隆が出雲国富田城の尼子晴久を攻めると、他の多くの国人同様に大内氏へ寝返りました。
しかし、大内氏が尼子氏を攻めあぐねると多くの国人が尼子氏方へと寝返り大内方は敗走、この時宍道氏は大内氏とともに山口へと落ち延びます。
その後、大内義隆が陶晴賢によって討たれると、陶晴賢を倒した毛利元就に属して1562年(永禄五年)に雲芸攻防戦(1562~1566)の先陣をきって出雲国へ復帰し、旧領を回復しました。
しかし、関ヶ原合戦によって毛利氏が防長二ヶ国に減封となるとそれに従って防長へと移りました。

城は金山要害山の西の峰を主郭として築かれています。
山麓には城主・宍道氏が常住したと伝える御居出成(おいでなり)があり、他にも二ノ成、茶臼成、出張成、天狗成、長成など、48の成(なり)が要害山にあるといわれています。
48の成(成(なり)一般的に丸(まる)と同等の意)とは多数の曲輪で構成された山城です。
今回は時間の都合で、北側の成には行っていません。
詰成と二の成の間に大堀切があり、北側には桝形の虎口が残っています。
詰成(山頂)からは宍道湖が見えました。
また、詰成(山頂)の眼下には支城といわれる宍道要害山、佐々布要害山方向が見通せます。
攻城時間は45分くらいでした。次の攻城先=玉造要害山城に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征6日目:高瀬城(尼子十旗⑥ 6城目) (2026/05/16 訪問)

尼子十旗:出雲国尼子氏の主要な家臣団の十の居城
尼子十旗(①白鹿城②三沢城③三刀屋城④赤穴城⑤牛尾城⑥高瀬城⑦神西城⑧熊野城⑨馬木城(夕景城)⑩大西城)
神西城(尼子十旗⑦)から有料道路を利用して車で25分くらいで、登り口付近(35.371321、132.860472)に着き路駐しました。

築城年代は定かではないようですが、南北朝時代の暦応年中(1338年〜1341年)に、建部伊賀(建部内蔵伊賀)と言う武将が築いたとも、平氏が築いたとも伝わっています。
戦国時代に入ると、月山富田城の尼子氏の重臣である、尼子十旗の米原綱広が出雲・高瀬城主となりました。
出雲の米原氏は、佐々木六角氏の一族で、14代当主・六角定頼の甥・六角治綱が、米原氏の養子となって近江国米原郷を領したのが始まりとされます。
その後、米原治綱が尼子経久に仕えて軍功を立て、家臣となりました。
1562年(永禄5年)米原綱寛のとき毛利氏に降伏し、毛利氏に従って豊後大友氏との戦いに従軍していましたが、1569年(永禄12年)尼子勝久が再興をはかり出雲に入国すると帰国し尼子方へ復帰しました。
しかし毛利氏によって尼子再興軍も次第に勢力を削がれ、高瀬城と真山城(新山城)を残すのみとなり、1571年(元亀2年)3月高瀬城が落城、綱寛は真山城へと逃れその真山城も同年8月落城しました。
この後は吉川元春が入城し尼子再興軍一掃の拠点となりますが、尼子氏が滅亡すると廃城となりました。
なお、元春は父である毛利元就の訃報をこの城で受け取っています。

登り口より1.4Kmの遊歩道を歩き、山頂へ向かう予定でしたが、高瀬城(尼子十旗⑥ 6城目)到着時点で計画の65分オーバでしたので、ここで断念し攻城完了としました。
本日は攻城時間(移動時間+登城時間)の見積もりが甘く、予定がグダグダになりました。
登り口折り返しケースだけでなく、城びと未登録のお城も2つ攻城を断念しています。情けないです。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=金山要害山城に向かいました。

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