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トク

31(最終回)【秀長の晩年をたどる⑥】大和郡山城(3/3)春岳院と大納言塚 (2026/03/26 訪問)

最後に、秀長を祀る「春岳院」と秀長の墓(供養搭)である「大納言塚」を訪れ、そこで手を合わせてきました。春岳院には秀長の肖像画・木像・位牌も安置されていて、今年1月から見学できるようになっています。特に「秀長の木像」と「秀長の位牌(実物)」は一見の価値があると思いますので、是非ここは訪れるべき場所だと思いました。写真撮影はできなかったので、パンフレットを御覧下さい(写真①②)。

1590年9月、馬にも乗れずやっとの思いで京都から郡山へ戻った秀長ですが、もう病の悪化が激しくなり、床に臥せたまま動けなくなってしまいます。「積(しゃく)」という腹部にしこりができ激しい痛みをともなう病気だったと興福寺の多聞日記には書かれており、今で言う「大腸がん」のような病気だったのではないかと推測されます。

1582年山崎の戦いの時に嫡男の与一郎を亡くした秀長には、後継ぎがいませんでした。よって側室の子でまだ幼い娘の「みや」に婿養子として秀保(秀吉・秀長の姉「とも」の三男で秀次・秀勝の弟)を急ぎ迎えて婚礼を済ませ、家督を継がせます。秀吉は小田原征伐が終わり、秀長危篤の知らせを受けると、郡山城へ急ぎ見舞いに行きます。やつれた秀長を見て驚き、1000人もの僧侶を集め祈祷させたとか。また慶(ちか)は、秀長が没収した土地を全て寺社へ返上し、その代わりに祈祷するように頼んだそうです。しかしそれらの甲斐もなく1591年(天正19年)1月22日、豊臣秀長はついにこの世を去りました(享年52歳)。雪が深々と降る寒い日だったそうです。

秀長死後、秀吉により郡山城下に「大光院」が建てられ、秀長はそこに葬られました。葬儀には20万人もの人が集まったとか。これは当時の京都の人口に匹敵する程の数で、その参列は永遠と続いていたそうです。いかに秀長が慕われていたかが想像できます。

しかし1595年に娘婿養子(嗣子)の秀保もわずか17才で亡くなると郡山豊臣家は断絶してしまいます。1598年に兄の秀吉までも亡くなると、1599年秀長の家老だった藤堂高虎は、大光院が家康から処分されてしまう事を恐れたのか、「春岳院」に位牌を預け、大光院を墓ごと京都の大徳寺境内に移築したようです。しかし江戸中期の1777年、春岳院の和尚たちにより荒廃した大光院跡地にこの供養塔が建てられ、京都の大光院から分骨したと伝わっています(写真③④⑤⑥)。

あの偉大な秀長が、今はここ(大光院跡地の荒地)にひっそりと眠っている姿を見て、私は何かやりきれない気持ちになりました。秀長があと10年長生きしていれば、秀吉の無謀な朝鮮出兵も止める事ができ、関ケ原も起きる事はなく、豊臣の世が続いて行ったのではないかと、誰もがここで思った事でしょう。

ここで最後にふと疑問が🤔? なぜ秀長は重い病であったにもかかわらず、京都の聚楽第からこの大和郡山まで、命をかけて戻ってきたのでしょうか? 京都からそれが不思議で、その事をずっと考えていました。

それはもしかして、死期を悟った秀長は、やはり愛する妻の「慶」(ちか=慈雲院)に会いたい、そして「慶」と「みや、きく」の二人の娘に囲まれて最期の時を迎えたい・・・その思いが、そうさせたのではないでしょうか? となぜか墓の前でそんな事を、ふと考えてしまいました。

以上で、私の【豊臣秀長をたどる旅】を終わります。この後は、イオさんの【月影の男紀行】にバトンタッチしたいと思います。全31回長々と読んで頂き、ありがとうございました(完😊!)。
 

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イオ

天守と天守曲輪周辺 (2026/04/12 訪問)

金龍紀行として約3年半ぶりの再訪です。前回は城下散策のみだったので、今回は天守に入って金森長近ゆかりの品などを見たいと思います。ジェイドさんの投稿にあるように、結ステーション駐車場が30分以上有料になっており、南登り口近くの亀山南第一駐車場も満車だったので、亀山西駐車場(無料・20台ほど)から登城しました。

西登り口から急な階段を一気に登り、幕末の名君として知られる土井利忠公像に寄り道してから本丸へ。武具蔵の石垣の脇に設けられた模擬城門をくぐると、天守曲輪石垣の上に天守群がそびえ立ち、その手前にお福池があります。お福池は防火用のため池で、金森長近の正室の名に由来するようです。天守曲輪石垣沿いに北に進むと天守曲輪に通じる武者登りがあり、天守曲輪の東側からは石垣の上に天守群が並び建つ定番ショット。元あった天守の形状に基づかない復興天守ながら、これはこれで悪くありません。前週ならまだ桜も残っていたでしょうか。そして駕籠道を登って天守曲輪へ。武者登りを上から見下ろし、天守曲輪からの眺望を楽しんで天守に入ります。大天守内は資料館として歴代城主の遺品が展示されていますが(撮影禁止)、土井期のものが大半で金森長近のものはあまりありませんでした。400年以上前に数年間在城しただけなんだから仕方ないですね。最上階の展望室からは戌山城や長近が開いた城下町が一望できます。小天守の1階には二の丸御殿の模型や説明パネルが展示されていました(こちらは撮影可)。

天守を出ると塩硝蔵跡から武具蔵跡をめぐり、金森長近公像を見上げて本丸東部に向かいます(続く)。
 

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トク

30【秀長の晩年をたどる⑤】大和郡山城(2/3)天守台 (2026/03/24 訪問)

天守台の登り口には、有名な「さかさ地蔵」や「平城京羅生門の礎石」もありました(写真③④⑤)。天守台にはこのような転用石が、発掘調査では表面だけでも1000基発見されたそうです(城びと特集より)。この転用石も、石が取れないため強引に奪ってきたのかと思いきや、全てがそうではなく、領民に1人1個ずつ大きな石(またはバケツ1杯の小石)を持ってこいと御触れを出すと、自分たちの祖先の墓石などを自ら提供した者も多かったそうです。

大和郡山城は豊臣秀長の最後の居城で、晩年を過ごし亡くなった場所である事は、皆さんもよく御存知と思います。秀長は四国平定が終わった1585年、妻の慶(ちか)とともに郡山城に入ります。大和の地は寺社勢力が強く、治めるには難しい土地でした。そこで秀長は、寺社に対しまず検地と刀狩りを行います。寺社から土地や武器を奪い、商人を奈良から郡山へ移動させ経済基盤をも奪います。その代わり紀州の材木で得た利益で、寺社に寄進や貸付を行い仏教に専念させる環境を作る事で、最初はいざこざや対立もかなりあったようですが、何とか良好な関係を築けていったようです。また郡山へ移住した商人たちには「箱元制度」と呼ばれる商人町ごとに特権や独占権を与えて、経済を活性化させて行きました。

秀長は「大坂→四国→大坂→九州→京都」と遠征が続き郡山へはなかなか戻れなかったので、慶(ちか)が寺社や商人との交渉やもめごとの仲裁や領国経営も行うなど、郡山城で女城主として秀長の留守を支え、その存在はかなり大きかったのではないでしょうか? 寺社の日誌などにも度々彼女の存在が記述されているようなので、あくまで推測ですが、何故かそんな気がしてなりませんでした。和歌山城の築城も並行して行われ、桑山重晴が城代として治めたようです。大河ドラマでは頼りない存在でしたが、実際は任される程なので、立派な武将だったのではないでしょうか?

私は天守台から奈良盆地を見渡してみました。かすかに東大寺や興福寺や平城京が見えました(写真⑨)。当時は高い建物や樹木もなかったので、もっとよく見えたと思います。この景色が、秀長が最期に見た景色かと思うと、感慨深かったです。秀長はここで死の直前まで、兄と過ごした信長時代からの日々を、静かに振り返っていたのでしょうね。

この天守台には、秀長が築いた望楼型で三重or五重の金箔瓦で輝く天守が建っていたと推測されていますが、天守の絵図は残っておらず詳細は分かっていないようです(写真⑥)。正保の絵図には天守は描かれていないので、その時には間違えなく無かったようです。天守台では金箔瓦と天守の礎石が発掘調査で発見され、また天守には付櫓があったようです(写真②)。そこで私は、同じく付櫓のある望楼型の松江城が、金箔瓦で光輝くようなイメージを想像してみました。家康により大和郡山城の天守は二条城に、その他は伏見城に移築されたと大工の記録にあるようですが、詳細は不明なようです。できればいつかは詳細が解明され、再建されたらいいなと思いました。

次は(最終回)、秀長の菩提寺と墓所を訪れます。
 

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イオ

南東尾根と南出郭群 (2026/04/12 訪問)

(続き)

主郭南下段の曲輪から南東にのびる尾根の付け根は堀切で遮断されています。尾根筋にも幾条かの堀切があり、その先には南出郭群が広がっています。南出郭群は雲海に浮かぶ「天空の城」越前大野城の展望台として整備されていて、あるいは…と少しは期待していましたが、雲海どころか見事な晴天の下の越前大野城でした(やはり1年半前に来ていれば…)。階段状に設けられた小曲輪群の頂部が南出郭群の主郭で、南東裾には横堀がめぐり、主郭部のような畝状空堀群は見られないものの、南東、北東、南西に派生する支尾根には小さな堀切がありました。以上、2時間弱で戌山城をひとめぐり。

一時的にであれ金森長近の居城となった城でもあり、金龍紀行の一環として登城しましたが、各尾根に幾重にも設けられた堀切といい主郭部を取り巻く畝状空堀群といい、実に見応えのある城でした。戌山城それ自体よりも「天空の城」目当てで訪れる人のほうが多いのかもしれませんが、山城好きならきっと満足できるものと思います。南東麓から鍬掛ルートで登城される方もぜひ展望台から主郭部まで足をのばしてみてください。
 

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にのまる

住宅街の公園の中の緑 (2026/08/16 訪問)

名島城見学後、西鉄バス🚌で香椎東小学校🚏へ。
着いたところは見晴らしのいい坂の上の新興住宅街。香椎台おいの山公園が城址で上下2段の広場になっています。上下段の間は自然の木々が残され、奥にまわると深い堀跡のような地形もあります。それが城の遺構なのかどうかは私には判断できませんでしたが、解説板も設置されており、ここがかつては山城だったことを思い描くことができました。
帰りは博多バスターミナルから高速バスに乗りたかったので香椎神宮からJR線で博多に出ました。香椎神宮までの下り坂は結構長かったですが、おかげで山上の山城と麓の里城(館や屋敷群)をほんの少しですが追体験できました。

todo94さん、大福屋さん情報ありがとうございます。4/29のシルクフェアと「降幡もち店」、覚えておきます😊

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トク

29【秀長の晩年をたどる④】大和郡山城(1/3)追手門と大河ドラマ館 (2026/03/24 訪問)

念願の大和郡山城を訪れました。近鉄奈良駅から大和西大寺駅で乗り換えて近鉄郡山駅まで20分。駅から郡山城までは徒歩10分程でした。駅を降り線路沿いを歩く途中の、東隅櫓と近鉄電車のアングルには感動し、思わずシャッターを押してしまいました!(写真④)。

まずは大河ドラマ館に入りました(写真⑧)。ドラマ館には唯一ここだけではないかと思われる秀長の銅像を見つけました!(写真⑨)。そして出口でちょっと休憩。おみやげコーナーで大和茶だんご(写真⑩)を買って、ドラマ館前のベンチに座って、(写真②)の郡山城を眺めながら食べました(わ!これ美味しい😊!)。

それから鉄筋門の歓迎アーチをくぐり、追手門と追手向櫓前に立ちました。郡山城はこのアングルが最高ですね!(写真①)。追手門に刻まれた金色に輝く豊臣の「桐紋」を見ると思わず身震いがします(写真③)。追手門の先には城址会館があります。明治期の図書館のようです。そこから極楽橋を渡り本丸へ入ります。橋の手前に柳沢文庫(続100名城スタンプ場所)がありました(写真⑤)。スタンプを押し、橋を渡ってふと振り返ると、枝垂れ桜がとてもきれいに咲いていました(写真⑥)。ちょうど桜祭り初日で、ソメイヨシノはまだつぼみでしたが、人はとても多かったです。左側に目をやると柳沢吉保を祀る柳沢神社もありました。郡山は金魚で有名な町ですが、柳沢氏が甲府から持ち込んだのが始まりだそうです(写真⑦)。

そして次は、いよいよ天守台に登ります(続く)。
 

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大石遠江守信重 (2026/09/17 訪問)

 詳細は不明なようですが、大石遠江守信重の館と伝わっています。土塁や空堀が遺されているとの情報もありますが、周囲が住宅となっていて近づくことができません。駐車場から写真を撮り日月神社に寄って退却しました。

 西武鉄道所沢駅から徒歩15分くらいで日月神社に行くことができます。

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山口家継 (2026/09/17 訪問)

 平安時代末期に武蔵七党の村山党から分かれた山口氏の居館跡です。

 西武鉄道狭山線下山口駅から徒歩約5分の場所に石碑と説明板があり土塁が一部残っています。

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山口氏の城 (2026/09/17 訪問)

 この地方を治めていた山口氏が、居城の山口城が防御施設としては弱いため築いた城です。
所沢市のHPによると「郭・土塁・空堀などの遺構が、ほぼ完全な姿で保存されている稀少な城跡ですが、山口貯水池(狭山湖)区域内に属し、東京都水道局管理のため見学はできません。」と書かれています。空堀や土塁などがあるなら少しでも見ることができないものかと淡い期待を抱いて行ってみました。藪になっていてフェンスの外からでは全くわかりません。立入禁止の看板を撮影して退散しました。

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みか

住みたい。笑 (2026/09/12 訪問)

二の丸御殿の中の撮影は出来なかったけど、大政奉還の様子や屏風、欄間など凄かった👏
時間があれば2周したかった!

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イオ

北東尾根と主郭部 (2026/04/12 訪問)

(続き)

主郭部から北東にのびる尾根の付け根も巨大な堀切と竪堀で断ち切っています。北東尾根にはいくつかの小曲輪と堀切が設けられていました。北東尾根付け根の堀切まで戻って西に向かうと、主郭南面には隙間なく畝状空堀群が連なっています。主郭南下段の曲輪を抜けて向かった主郭部西面にもびっしりと畝状空堀群が続いていました。主郭部のほぼ全周を囲むこの凄まじい畝状空堀群。これぞ朝倉の城! という感じですね。そして主郭北下段の曲輪から主郭へ。主郭を囲む切岸はなかなかの高さ、鋭さがあります。戌山城は堀切や畝状空堀群が充実している一方で、土塁はわずかに主郭の北辺に見られるくらいです。

さて、主郭から南下段の曲輪に下りると、南東尾根に向かいます(続く)。
 

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todo94

にのまるさんのクイズに誘われて (2026/09/13 訪問)

にのまるさんに出題していただいた花岡城の絵図をこの前の日曜日に確認して参りました。8年ぶりの攻城なのですが、実は花岡城の麓というか宗教施設の直下には私の行きつけの大福屋さんがあり、日常的にこの界隈には足を伸ばしていました。60歳を過ぎてケーキとパンを食べるのをやめてから、スイーツは大福の一択になっています。店名は「降幡もち店」ですが、看板はなく店名表示も見当たりません。グーグルマップには載っています。花岡城にお越しの際は是非、ご賞味あれ。大福1個160円で、朝7:30開店です。なくなり次第閉店しますし、添加物不使用だと思われますから、半日くらいで餅が固くなってきますので、午前中にお越しいただくことをお薦めします。

肝心の花岡城の絵図は、もっと大きいものを想像していたので実物を見てびっくりしました。

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にのまる

名島城址公園 (2026/08/16 訪問)

大通りから急坂を登りきったあたりかと思いきや、それらしき場所や案内は見あたらず、さらに住宅地をくねくね行った先に城址公園入口がありました。(夜間は施錠されます。)
歩いてきた住宅地もかつての本丸で、本丸の一部が整備された城址公園は決して広いとは言えませんが、歴代城主に小早川隆景、小早川秀秋、黒田長政とビッグネームが連なり、福岡城に現存する名島門も母里太兵衛邸長屋門もここから……と思うと感慨深いものがありました。
見どころである大手門石垣や隅櫓石垣は時期的に草叢に覆われてはいましたが、名島引けも宅地開発も乗り越えて400年余りの歳月をここに在り続けていることに敬意を表したい気分です。

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カズサン

復元中ノ御門が新しいシンボル (2026/09/07 訪問)

 中ノ御門が昨年の3月末に復元完成、擬宝珠橋、表門、枡形内石垣、続き土塀、渡櫓門の各構成物が揃って鳥取城の新しいシンボルと成りました。
 昨年の10月末に復元中ノ御門、渡櫓門を初見学観察しましたが、1年振りに復元中ノ御門と周辺を兄の49日法要の翌日、鳥取に帰ってきたら寄らなくてはと、吉川経家公像の西前県庁駐車場を利用して小雨の中訪ねました。
 久松山に抱かれた鳥取城を内濠沿いから眺めますが、飽きない懐かしい眺めです、擬宝珠橋を渡り、中ノ御門枡形、表門、渡櫓門を抜けて城内へ、家内とサラッと廻りました。
 7月末に亡くなった兄と35年前に長田神社経由で山頂の丸へ登った事が思い出されました、それ以来山上の丸の本丸二の丸三の丸と石垣群を訪ねていません。この年に成ると中々登れません、昔あったロープウェイが有ったらなと思う事しかり。
 新しい資料が有ればと鳥取城跡展示館を訪ねたのですが月曜日で休館でした。残念!

 「惚れ惚れする石垣群」へ続きます。
 

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トク

28【秀長の晩年をたどる③】奈良観光(豊臣秀長と毛利輝元) (2026/03/23 訪問)

京都から近鉄線に乗り、近鉄奈良駅へ着きました。「おお😯ここが奈良の都か~!」恥かしながら奈良県に来たのは初めてです。ここではやる気持ちを抑え、郡山城へ行く前に、せっかくなので先に奈良市内を観光する事にしました(すいません)。

話を少し戻します。豊臣秀長は1588年9月、秀吉に招かれ京に上洛し聚楽第を訪れた毛利輝元を、広島へ帰る前に奈良にも立ち寄るよう誘います。そして自ら馬で出迎え歓迎したとか。「輝元殿~! ようこそおいで下されたー!」。そして「猿沢池→興福寺→東大寺→春日大社」と観光案内をしてもてなしたそうです。夜には深夜まで酒宴を開き、輝元とはとても昵懇の仲になったようです。

実はその背景には、四国や九州平定において、(小早川・吉川軍)を中心とした毛利軍の強さをまざまざと見せつけられた秀吉は、もし朝鮮へ出兵することになれば、西国の毛利の協力が不可欠、逆に毛利を絶対に敵に回してはならぬと考えたようです。そこで秀吉は秀長に、「何とかして毛利が今後も味方となってくれるよう、輝元の機嫌をとってちょ!」と密かに命を下していたのではないでしょうか? 相変わらずの無茶な要求に見事に応える秀長も、本当にすごいですよね。しかしこれが、秀長にとって兄を支える最後の仕事となってしまいました。私もそれに習い、同じルートで奈良を観光してみました。

まずは有名な東大寺へ行きました。これが教科書で見た奈良の大仏か~(写真①②③)、何と😱でかい! もう修学旅行生の気分です。それから奈良公園を散策しました。鹿に囲まれ歩きにくかったです(いったい何百頭いるのだろう?🤔写真④)。そして猿沢池に立ち、ここから興福寺や若草山を眺めてみました。秀長と輝元もここから同じ景色を眺めていたと記録にあります。その時彼らは、どんな話をしていたのでしょうか?🤔 ちょうど五重塔が工事中で素屋根におおわれていたので、奈良で一番と言われる絶景が見られず残念でしたが、秀長はあの塔の上に曲芸師を呼ぶ余興も見せ、輝元を笑わせたりしてもてなしたそうです(写真⑤⑥⑦⑧)。

そして駅前の居酒屋に入ると、メニューに郡山名物「焼き厚揚げと抹茶チュ-イ」と書いてあるのを見つけたので、それを注文して食べてみました(写真⑨)いや~美味しかったです😊。夜は、東横イン近鉄奈良駅前に宿泊しました(写真⑩)。

次は、大和郡山城に登城します。
 

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イオ

北西尾根と小曲輪群 (2026/04/12 訪問)

南北朝期に斯波義種が大野盆地を見渡す犬山頂部に築いた城で、室町中期には朝倉氏の大野郡支配の拠点となりました。朝倉氏の滅亡後、土橋信鏡(朝倉景鏡)が越前一向一揆に討たれると、一揆鎮圧の功により大野郡の3分の2を与えられた金森長近が入りましたが、翌年に越前大野城を築いて移ったことにより廃城となりました。

みくら清水近くの駐車場(無料・6台ほど)から登城開始。みくら清水は戌山城の水源として一日に三度(三くら)水を汲みに下りてきたことから、その名がついたんだとか。説明板のある登城口から10分弱で北西尾根の最初の堀切に到達。少し先に2条目の堀切、さらに進むと巨大な堀切と両端の竪堀で北西尾根からの侵攻に備えています。ロープをたよりに堀切を越えたところからが城域で、土橋のある堀切をはさんでいくつかの小曲輪が設けられています。北端の曲輪の東面と西面には畝状空堀群があるようですが、藪でよくわかりませんでした。小曲輪群の先は城内最大の大堀切と両端の竪堀が主郭部への侵入を阻んでいます。主郭部へと上がる前に北東尾根に行こうと主郭部の東側へと回り込むと、主郭部北面には幅も深さもある畝状空堀群が展開していました(続く)。
 

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歴史案内活動のご案内【R8.9.22(火祝)10:00頃~12:30頃】 (2026/09/22 訪問)

こんにちは。躑躅ヶ崎歴史案内隊のEこと上田絵馬之助です。

シルバーウイークという言葉も定着していますが、
今年は5連休にも9連休にもなりうる配置。
その中の9/20に躑躅ヶ崎館跡での歴史案内活動を行いますので告知します。
※活動は武田神社様に許可をいただき行っていますが、
 当隊は神社とは無関係の有志ボランティアです。

日時:令和8年9月22日(火祝)10:00頃~12:30頃
   ※台風25号接近のため、9月20日から変更します。
場所:武田神社(史跡武田氏館跡・山梨県甲府市)
ガイド:局長・大塚與左衛門/弥三郎景政

❖境内に眠る戦国の史跡を、個性豊かな甲冑ガイドがご案内。
❖時間、コースはご都合・興味にあわせて自由に設定可能。
❖宝物殿、ミュージアムの展示施設も案内可能。
❖ガイドは原則無料(展示施設の入館料等は別途負担ください)。
❖雨天延期の場合あり(Twitter(現✗:@KoufuSamurais)で告知します)。

最近の見どころは西曲輪!
発掘調査によって発見された土塁・階段・水路跡などを整備工事で再現しています。
工事前の姿を知ってる方はきっと驚くほどの変貌ぶりです。
我々も驚きました。

山梨行楽の一環として武田ゆかりの史跡巡りをお楽しみください。
皆さんのご来訪を楽しみにしています。
(E)

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赤い城

鈴江城 徳島県徳島市 (2026/08/09 訪問)

城びと未登録の城で遺構も残りません。
推定地は徳島インター近くの神明神社、国道沿いにあります。
中富川の戦いで戦死した鈴江友明の居城です。

当然撮れ高も少ないのでこの後行った徳島ラーメンです。
以前書いたように徳島ラーメンには茶系、白系、黄系の三系統があります。
有名なのは茶系ですがこの日は鳴門市中心の黄系をいただきました。
黄金スープが綺麗で美味しかったです。
機会があれば三系統食べ比べしてみてください🍜

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にのまる

土塁断面ひろば (2026/08/16 訪問)

水城駅前の土塁断面ひろばに行きました。
大野城まで見渡せます。何年か前に展望台からここまで歩いたのがとても楽しかったので、いつか時間のある時に、今度は逆に水城館に向かって歩いてみたいです。
続100名城スタンプが駅舎内で遠慮がちにいらっしゃいました。

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トク

27【秀長の晩年をたどる②】京都(聚楽第と豊国神社) (2026/03/22 訪問)

大阪からJR京都線(新快速)で京都へ移動し、そして京都駅からバス[9]系統に乗って堀川中立売で降りました。このあたりが聚楽第本丸の東堀あたりだったようで、石碑がありました(写真①)。そこから北東へ500m歩いた場所には、千利休の屋敷跡(現:安部晴明神社)もありました。秀長の死からわずか1カ月後、千利休は秀吉の怒りを買い、ここにあった屋敷で切腹したそうです(写真②③)。ところで肝心の秀長の屋敷はいったいどこにあったのか・・🤔? 結局それはよくわかりませんでした(すいません)。そこからまた同じバスに10分ほど乗り、北へ行った大徳寺の西側に、藤堂高虎が郡山から移したとされる、京都の秀長墓所「大光院」がありました。拝観はできないようなので、門の前で手を合わせてきました(写真④⑤)。

四国平定を終えた1585年、秀吉から紀伊・和泉・大和の100万石が与えられた秀長は、大和郡山城の築城を開始し、居城を姫路から郡山へ移します。そして翌1588年九州平定が終わり、九州から帰還し聚楽第が完成すると、秀吉と秀長は休む間もなくともに大坂から京都へ政事の本拠を移します。そして、後陽成天皇の聚楽第への行幸、妻子を京都に置くように諸大名の説得に奔走、北野大茶会の準備、懐妊した淀君(鶴松)のための淀城築城、京都大仏の建造、並行して自分の郡山城の築城や領国経営なども行わなければならず、戦が終わってからも、かなり多忙な日々を送っていたようです。

私はそれからバス[1]系統と京阪電車を乗り継ぎ、豊国神社へ行きました(写真⑥)。1589年ここには奈良大仏をも凌ぐ秀吉が建てた京都大仏があり(写真⑧⑨)、秀吉死後は秀吉の墓があったそうです。大坂の陣の原因にもなった方広寺の鐘もありました(写真⑩)。しかし大坂の陣の後、大仏や墓は徳川家康により徹底的に破壊されたそうです。明治に入り明治天皇の命で神社が再建され、秀吉の銅像も立てられました(写真⑦)。そう言えば、秀吉の銅像はあちこちにいくつかありますが、秀長の銅像はないですよね🤔。それは何故なのでしょうか?(と思いきや翌日一つだけ見つけました)。

秀長は1588年一度郡山へ戻り毛利輝元一行を接待した後、再び聚楽第に戻ります。その時1989年9月に、雑賀の家臣が材木の利益を着服したという事件が起こり、秀長は秀吉から監督不行き届きを叱咤され、しばらく出仕停止を命じられます。兄弟の間で起きた初めての亀裂です。その影響(ストレス)からか、この頃から秀長の体調の異変が顕著になります。だんだんと咳が止まらず寝込んだようです。1カ月ほど有馬温泉に湯治に行きますが治りません。1590年に秀吉が小田原征伐へ出陣する際には、もはや動けず聚楽第から見送ったそうです。

そしてもう政事を離れ、郡山へ戻る事にしたようです。しかしその時は腹部の痛みが激しくなり馬にも乗れなかったとか。郡山に着くや否やそのまま床に伏せてしまいます。なぜ秀長は、重い病を押してまで郡山へ戻ったのでしょうか🤔?

次は秀長最期の地、奈良・大和郡山へ向かいます。
 

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