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しんちゃん

七日町通り ぶらタモ~リ🕶️ (2024/09/17 訪問)

会津若松城の御三階(櫓)を見に行きながら七日町通りをブラタモリして来ました。毎月七の付く日に市が立ったことから名づけられた町で、江戸時代には会津五街道のうち、下野「日光)、越後、米沢の三つの街道が通る重要な場所でした。
城下町の西の玄関口にあたるため会津の繁華街でもありました。御三階の向いの店では新選組グッズやかき氷などを売っています。まだ暑い時期だったのでかき氷は最高にウマ~でした。
ヒジカタ歳三はイチゴ味・・・血の色にしか見えん。沖田総司は抹茶、斎藤一はブルーハワイ。う~ん todo平助(メロン味)にしよう。
ちなみに、これを食べると呪いでカメラを一眼レフにしたくなる・・ということはなかったので、ご安心下さい。
個人的には永倉新八や井上源三郎も欲しいけど、売れ行きはちょっと心配だ。現役の七日町駅には駅カフェが付いていてオシャーな感じです。地名は「なのか」ですが駅名は「なぬか」と読みますぞ。
しばらく歩いていくと会津新選組記念館がありました。自販機や青いポストがいい感じです。
ちなみにヒジカタをド・カタと勘違いするこのおバカAI そろそろどうにかしてください。

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しんちゃん

石ノ森萬画館 🛸 (2025/01/03 訪問)

石ノ森萬画館は宮城県石巻市中瀬にある石ノ森章太郎氏の先品をメインに扱ったミュージアムです。石ノ森氏は1998年に60歳の若さで亡くなってしまいましたが、生前から構想されていたマンガランドの遺志を引き継ぎ、2001年7月にオープンしました。
石ノ森氏が生前、漫画を萬画と表現していたことから「石ノ森萬画館」と名が付いています。
2011年の震災で大きな被害を受けましたが、街の復興と共に営業を再開しました。石巻城のすぐ近くになるので、是非立ち寄って欲しいです。仮面ライダーシリーズがあるのも先生のおかげなんですね。
・・あっ 忍者が何か覗いてる。🥷

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todo94

日帰り静岡ドライブ 駿府城の城カードゲット編 (2025/07/12 訪問)

駿府城は2023年のファンタジー大河の年に、大河ドラマ館目当てで訪れています。今回のお目当ては、静岡市歴史博物館の企画展示「十返舎一九と蔦屋重三郎」。そちらに向かう前に、駿府城に入城します。前回スルーした東御門の中の撮影スポットには、竈門炭治郎が立っていました。映画公開が目前に迫っていますからね。その近くには、臨済寺にある年に2回しか公開されない竹千代手習の間が再現されていました。臨済寺の公開でいただいた今川家の赤鳥紋のマグカップは現在でも愛用しています。辰巳櫓の出口近くの売店で無事、城カードを購入。ついでに絵葉書も買ってしまいました。辰巳櫓を出ると目の前には本丸堀。ここから、本丸の発掘現場へと向かいます。

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昌官忠

(東海&関西)遠征25日目(最終日):江川邸(城びと未登録 静岡県伊豆の国市) (2025/06/08 訪問)

韮山駅から徒歩20分くらいで、江川邸入口(35.054808、138.959903)に着きました。

「江川邸」は国指定史跡「韮山役所跡」の中にあり、国指定重要文化財です。
韮山県(伊豆全体、八王子・大宮周辺)を統制していた、江川家の武家屋敷です。
主屋は、1600年頃建てられ、単層入母屋造りの壮大な建物で、「小屋組づくり」と呼ばれる幾何学的な屋根裏の木組みは、今日でいう免震構造になっているそうです。

36代江川太郎左衛門英龍(坦庵)は名代官として知られ、海防の必要性から沿岸測量、韮山反射炉やお台場の建設、わが国最初の洋式帆船建造や種痘の実施、パン製造など多大な業績を残しました。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=韮山城へ徒歩で向かいました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征25日目(最終日):狩野城 (2025/06/08 訪問)

柿木橋バス停から徒歩10分弱で、狩野城跡駐車場付近(34.9393057、138.9260677)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、平安時代末期に狩野氏によって築かれたと云われています。
狩野氏は藤原南家工藤氏の一族で伊豆国狩野荘発祥。狩野維景が土着して狩野氏を称した事に始まるそうです。
約300年にわたって、狩野氏はこの城を本拠に中伊豆地方に勢力を誇りました。絵師として有名な狩野派の先祖でもあります。
1493年(明応2年)北条早雲が伊豆へ侵攻すると開城して降伏しました。
その後、一族は小田原に移って北条氏の家臣団の中枢で活躍したそうです。

駐車場(農村公園と表示されている)に登城口があり、「武将『狩野一族」と絵師『狩野派』のふるさと」というパンフと攻城者用の杖が置いてありました。
登城口から本郭まで、緩かな登りの左回り(20分)と少し急な右周り(15分位)がありますが、自分は右周りを選択。西郭、二重橋、本郭とコンパクトに連なっています。
登城路はよく整備されており縄張り等もよくわかりました。また、駐車場にトイレがありました。
突然の大雨(天気予報では曇だったのに)に早めに攻城を切り上げ、屋根がついた柿木橋バス停に退避しました。
攻城時間は45分くらいでした。次の攻城先=江川邸(城びと未登録 静岡県伊豆の国市)に向かう為、柿木橋バス停からバス➡電車を乗り継いで、韮山駅に向かいました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征25日目(最終日):修善寺観光 (2025/06/08 訪問)

狩野城へ行くバス時間(修善寺駅➡柿木橋バス停)が30分以上あった為、修善寺観光をしました。

徒歩30分以内で帰ってこれる場所として以下を巡りました。
 ①湯川橋(34.979368、138.946211)と②湯川橋説明板(34.979835、138.946268)
  湯川橋は踊り子との出会いを『伊豆の踊子』の元になった有名な橋です。
  川端康成は彼女たちと天城トンネルまでの間で二度会っており、最初に出会ったのが修善寺近くの湯川橋になり、川端康成の人生を大きくかえた出会いでした。
  湯川橋は狩野川に流れる桂川に架かる橋で修善寺橋近くにあります。もうすこし綺麗な橋かと思っていたのですが、ひょっとしたら大正7年から替わっていないのかもしれません。
  橋のたもとには、「伊豆の踊子」についての紹介看板が立っていて、小さいながら駐車場もありました。

 ③愛童将軍地蔵前(34.979907、138.947778)
  修禅寺に幽閉されていた鎌倉二代将軍・源頼家が非業の死を遂げたことを知った地元の人々によって建てられた笠冠地蔵です。
  元は月見ヶ丘の中腹にありましたが、昭和36年に道路拡張工事で山の一部が削られたため、修善寺橋の西北のたもとに移されました。
  幽閉されていたころの頼家は、修禅寺の山を下り、狩野川のほとりの月見ヶ丘にのぼって月を眺めてその憂さを晴らし、また里の子どもを集め共に遊びながら、鎌倉に残したわが息子・一幡に思いを馳せていたといいます。
  23歳の若さで無残に暗殺されたことを知った里の人たちはとても悲しみ、浄財を集めて月見ヶ丘に地蔵を建立しました。
  源頼家は、里の子ども達を大変かわいがった将軍であったので『愛童将軍地蔵』と呼ばれています。(伊豆市観光情報サイトより)
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=狩野城に向かう為、修善寺駅からバスで柿木橋バス停に向かいました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征25日目(最終日):長浜城 (2025/06/08 訪問)

ホテルから沼津駅に向かい、沼津駅のコインロッカーに荷物を預けた後、沼津駅からバスで長浜城跡バス停に向かいました。
長浜城入口(35.017568、138.888007)は長浜城跡バス停のすぐ側です。
本来は中継ポンプ場側の登り口から登城するのが一般的なのかもしれませんが、沼津駅からバスできた為、長浜城跡バス停側から攻城しました。

築城年代は定かではないようですが、長浜城は室町時代から北条氏に仕えていた大川氏の居城で、北条氏の水軍根拠地、重須湊を守るために築かれました。
1579年(天正7年)北条氏はこの長浜城を普請して駿河湾の水軍の拠点とし、武田氏に備えて北条水軍の事実上の統括者である梶原景宗が長浜城に派遣されました。
その翌年には「駿河湾海戦」と呼ばれる、武田氏と北条氏双方の水軍による大規模な海戦も起こっています。
1589年(天正17年)頃には大川兵庫が城番となっていましたが、1590年(天正18年)豊臣秀吉による小田原征伐で、北条氏は水軍を下田城や小田原城に集めたため、長浜城の機能は低下していたようです。

現在は国の史跡に指定され、一部の建物などが建てられ史跡公園として整備されています。
山頂の主郭から東へ三段の曲輪、北の岬先端に向かって三段の腰曲輪がある。主郭部などには掘立柱建物跡があった。
主郭と二郭は復元された櫓の階段を上って、一階と二階で出入りするようになっていて面白い。
攻城時間は30分くらいでした。次の攻城先=狩野城へ行く為、伊豆三津シーパラダイスバス停からバス➡電車➡バスを乗り継ぎ、柿木橋バス停に向かいました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征25日目(最終日):沼津城 (2025/06/08 訪問)

宿泊先のホテルの朝食前に、沼津城を攻城しました。
宿泊先のホテルから徒歩15分弱で、三枚橋城石垣(35.097165、138.858296)に着き、
その後、中央公園(35.098758、138.859617)➡城岡神社前(35.100483、138.859490)の順番で巡りました。

築城年代は諸説あり定かではないようです。 1579年(天正7年)武田勝頼が城を修築して小田原北条氏に備え、香坂昌信を城主としたが、この頃は三枚橋城と呼ばれていたようです。
1582年(天正10年)武田氏が滅亡すると徳川家康は松平康親を派遣して守備させました。
江戸時代になると大久保忠佐が上総国茂原から20,000石で三枚橋城に入封した。
しかし、1613年(慶長18年)忠佐が嗣子なく没して大久保家は断絶となり、三枚橋城は廃城となりました。
その後は、天領となっていましたが、1777年(安永6年)水野忠友が三河国大浜13,000石に7,000石を加増され、三枚橋城跡に沼津城を築き、沼津水野藩(50,000)の城下町として栄えました。
水野氏は以後八代続き明治に至り、1868年(明治元年)徳川家達が駿河国に入国すると、上総国菊間に転封となりました。

公園南側裏手の通りには川郭の石碑、案内板があります。
大手町の中央公園内に案内板と石碑があります。
中央公園を北側に一本向こう側に行くと沼津城の守護神を奉る城岡神社があり、御由緒に沼津城の記載があります。
攻城時間は25分くらいでした。次の攻城先=長浜城を攻城する前に、ホテルに戻り朝食を食べました。

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しんちゃん

シャトレーゼ 🍰 (2025/01/04 訪問)

ぴーかるさん1000城達成おめでとうございます。(のっかり) あと2000城ですぞ(オーエス)。
でも実際は1100以上行ってたりして・・私はとりあえず「行った」城は行ったをつけちゃうけど、写真が古かったり消えちゃったりしてる場合はリピートで回ってます。実は500城以上リピートで回っているんですよ。
盛岡城もリピートです。いつ来ても見事な石垣です。だれですか? イチゴの無いショートケーキとか言った人は?(自分やん)
盛岡藩南部氏の居城で、桜山神社から登って行き、二の丸から渡雲橋を渡って、本丸に渡ります。この時は渡雲橋は工事中で渡れませんでしたが、雪景色の盛岡城を楽しむことが出来ました。
確か移築門は前回訪問した時に見に行ったと思うけど写真が残っているだろうか? また徳清倉庫には二の丸にあった勘定奉行所が移築されているようですよ。

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にのまる

清水門復元プロジェクト (2025/05/17 訪問)

ぴーかるさん、城びと登録城1,000城到達おめでとうございます🎉
“千里の道も一歩から”
城びと風に言うと
“千城の道も一城から”
もちろんゴールではなく通過点だと思いますのでますますお元気でぶっ飛ばしてください!

5月17日。
ぴーかるさんが大雨の中東京駅に降り立たれたのとほぼ同時刻に、私は東京駅を出発し東北新幹線で新白河に向かいました。
白河駅に着いて観光案内所と道場門跡に寄り、開店と同時に入店した「鈴木食堂」さんでごまラーメンをいただいた頃には雨も小降りに。

会津門から入城し最初に歴史館へ行きました。何度行っても新たな学びと楽しさのある、小峰城訪問時には欠かせない施設です。
続いて「どっちが先でも……」な50円引き券を手に二の丸茶屋でとうふソフトクリームをいただきました。

お腹が満たされたところで城内見学に繰り出します。

この日いちばん見たかったのは復元工事が始まった清水門です。何もないところからお城の構築物が出来上がっていく過程を見られるなんて!と、とても楽しみでした。
本丸方面への見学用昇降階段が設置されていたのでそこから上がります。
今だけ設置のこの階段、普段は見上げるしかない石垣が目と鼻の先で、触ることだってできる!と、感動そして大興奮してしまいました。
そして抜け出たところはまさかの帯曲輪門。楽しすぎでした。

ここから右に行くか左に行くか悩みますが、やはり清水門を上から見てみたいので右へ。

お一っ、見える!!

既存の石垣の上に四角い積み石。ここに土塀建てる?小さいのは裏込め石……ではないかな?コンクリ礎石?柱が建つの?
と、築造工程などまるでわからないので見たまま思ったままですが、三重櫓、前御門に続いての復元が楽しみでなりません。

2年前に小峰城一石城主プロジェクトへの寄付で城主証をいただきました。今回は「瓦記名参加者募集」のチラシがあったので帰宅後、早速申し込みました。
3500円の寄付で記名用のシールが送られてくるのでそこに名前やメッセージを書いて返送。清水門の瓦に貼っていただいた写真を送っていただけるというプロジェクトです。
お城の復元に些少ながらも関わることができ、また自身の思い出にもなるすてきな企画に参加できてよかったです。

御三階櫓内を見学し、帯曲輪へまわります。
東日本大震災からの復旧を遂げた本丸石垣。多くの方々の多方面からの尽力の賜物であることを忘れないでいたいと思いました。

阿武隈川を眺めたら、最近のお気に入りの通称“蛇尾の石垣”へ。
初めて見たときの感動は少しも薄れないまま。今回はさらに見やすくなっていて、石垣鑑賞ウォーキングを存分に楽しみました。

太鼓櫓を見てから最後に戊辰薩藩戦死者のお墓に行きました。前回ピクミンに教えてもらいながら階段の上まで上がらなかったことを後悔していたのでお参りできてよかったです。

やっぱり小峰城大好きだ!ということを再確認した一日でした。

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チェブ

今でも討たれます。 (2025/06/28 訪問)

皆さんが大絶賛の『小幡城』。
迷いました。

『小幡城』は、お城専用の駐車場があります。
入口は90m手前とあったので、反対側ではなく向こう側に間違えて歩いて行きました。
高速道路の上を渡ります。もう少しだと思ったところで、キツネかタヌキかハクビシンかが横切りました。
追いかけて行くと、写真③を見つけ間違えてしまった事に気付きました。
90mと書いてくれているのに、野生動物に気を取られ400mも歩いてしまった、、、。
振り出しに戻って手前を90m行くと、入口から立派な土塁が待ち構えてました。
すぐ近くに高速道路があるので、『ここ、削られないで良かったー。』が最初の感想です。
右手に説明板があります。
「小幡城」は室町時代と鎌倉時代に築城した2説がありました。
廃城も、天正18年と慶長7年の2説。『どちらの説が正しくても、土塁が風化されずに高いまんまって!』が、入口付近の感想です。
そして、お邪魔したとたんに『怖い』が連発です。
堀底を歩いているので、周りが同じように見え、どの位置にいるのか不安になります。
虫除けにハッカ油を振りかけてましたが、虫足軽が襲いかかります。
何度か、入口に戻って入ってを繰り返しましたが、怖くて奥に進めませんでした。

ずっと土塁の上から睨まれていたような気がします。
こんなに迫力のあるお城は、久しぶりだった「小幡城」攻めでした。

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しんちゃん

瑞鳳殿 (2025/01/02 訪問)

瑞鳳殿は仙台市青葉区にある伊達政宗の霊廟です。仙台城の東側、蛇行する広瀬川に突き出した丘陵上(経ヶ峯)に建てられており、伊達家の菩提寺である瑞鳳寺より上へ階段で登って行きます。この日はちょうど、伊達政宗像の公開がされていたので、良い機会と思い訪問しました。両脇には伊達政宗が無くなった際に殉死したとされる家臣15名+陪臣5名の供養塔(宝篋印塔)が並んでいます。
付近には二代・忠宗の廟所である感仙殿、三代・綱宗の廟所である善応殿が並んで建っていますが、いずれも工事中です。
感仙殿の近くには伊達家の墓地である妙雲界廟があり、他にも5代・吉村以降の藩主の夭折した子女の墓である御子様御廟があります。
この時代なりの事情もあってか、御子様御廟は他の墓所より離れた場所にありました。

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しんちゃん

ヒートスター (2025/01/02 訪問)

あまりの暑さに隣のバアさんがぶっ倒れました、大丈夫? うちのオカン(80)もすっかり元気が有りません、去年は8月ごろだったので今年は一月早いです。この暑さは年寄りには酷すぎますわ。呑気に「城攻め」している場合じゃ無くなってきちゃったよ。
シオシオのパー・・早く涼しくなっておくれ。先長え~~

根添館の投稿です。坪沼盆地の中央の丘陵に築かれ一の丸、二の丸が連なり土塁の一部が残り、案内板が立っています。城主は不明で11世紀の「前九年の役」で戦った安倍一族の支城の一つとされ、一族の滅亡と共に落城したと伝わっています。
八幡太郎義家は村田、菅生を経て侵攻してきますが、安倍氏の激しい抵抗を受け、坪沼の道内寺に本陣を敷きやっとのことで根添館を落城させたとのことです。「城びと」の標示は根添城ですが、案内板には「館」と記載があるので根添館で投稿させていただきます。

根添館の入り口は少しわかりにくく、周囲をうろついているうちにっ暗くなってきてしまった。坪沼農園の看板が目印で、その手前の細い道を進んで、丘の方(城址の方角)に歩いて行くとたどり着くことが出来ます。

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しんちゃん

伊達氏二十要害 (2025/01/03 訪問)

鶴頭城は別名・西館とも呼ばれ鳴瀬川の東に面した丘陵の上に築かれていました。天正年間(1573~1585)には大崎氏の支配下にありましたが、その後伊達氏の支配するところとなり伊達氏二十要害の一つとして機能しています。慶長16年(1611)伊達氏家臣・後藤信康が当地を拝領し、その子の近元が西館に移り明治維新まで続きました。
かつては主郭(居所)の周囲に堀が巡らされ、周囲を下屋敷が帯郭のように囲み、その周囲を二重の堀で囲まれていたようです。居所跡には神明社が祀られています。todo94さんの投稿にある移築されたとある城門は情報不足のため訪問していません。遠出だとちょくちょく手を抜くことが有るので、知っていても必ずしも訪問していたとは限らないのですが。

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しんちゃん

蜂谷森公園 (2025/01/03 訪問)

彫堂七館は七舘八沢と呼ばれる丘陵一帯に築かれています。主要な郭(館跡)は八つ有り、西から山前館、長館、小館、陣館、狼之介館、彫堂館が連なり、小館の南に大舘、狼之介館の南に笹館が築かれていたようです。
長館の東側が道路によって隔てられ、小館・陣館・狼之介館が蜂谷森公園として整備されています。狼之介館の東にタンクのある郭(彫堂館)があり、手前に大きな堀切があり橋が架かっています。公園から彫堂館周辺までが散策しやすくなっていて、彫堂七館の投稿はここがメインになると思います。それ以外の郭は宅地化が進んでいて、ウェルカムの空気はありません。興味はありますが。
主要な館の一つと見られる小館跡には社が祀られ、陣館の間に堀切が切られ橋が架かっています。他にも遺構があったかもしれませんが、暑さで記憶が飛びかかっています。申し訳ないが、ご自分の目で確かめてください、駐車場も有り、訪問もしやすい良い城址&公園だと思います。
地理的に大崎氏に関わる武将の一族の館跡だと考えられているようです。南北朝の時代に奥州管領吉良氏と畠山氏が対立した際に、吉良方についた大崎氏が色麻川(鳴瀬川)を隔てて蜂森に陣取り、長世保に拠った畠山氏と遠矢の合戦を行ったとする記録が残っているようです。

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小城小次郎

留守政景の留守は留守職だった (2024/11/30 訪問)

留守政景が葛西・大崎氏への備えとして岩切城から移り、小田原の役で所領を失った時の姿を残す。全体が公園になっていて散策しやすく、特に切岸は今も美しい。留守の姓は陸奥国留守職がその由来だということを初めて知った。

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渡辺綱 (2025/07/10 訪問)

 平安時代、箕田源氏三代、源任、源宛、源(渡辺)綱が居住したとされる館跡です。箕田二号墳の南側一帯に箕田館はあったと推定されていますが、正確にはわかっていません。箕田二号墳、満願寺、氷川八幡神社、宝持寺周辺を散策しました。遺構はないと思われます。
 源綱は後に摂津国西成郡渡辺に移住し渡辺を名乗り、摂津源氏の源頼光に仕えました。源頼光四天王のひとりで、都の一城戻橋の上で茨木童子の腕を源氏の名刀「髭切りの太刀」で切り落とし、源頼光らとともに酒呑童子を討ち果たしたと伝わっています。

 満願寺と宝持寺に一休さんが寝ていました。満願寺は真言宗、宝持寺は曹洞宗の寺です。臨済宗の一休さんが他宗の寺で堂々と昼寝しているとは、さすがです。(満願寺の石像には名前がありませんが、同じような石像なので一休さんだと推測しました)

 JR北鴻巣駅から徒歩10分くらいで箕田二号墳、満願寺に行くことができます。

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六孫王経基城址 (2025/07/10 訪問)

 JR鴻巣駅から徒歩15分くらいの場所にあります。土塁、空堀が残っていて街中にある館跡としてはよく残っていて楽しく散策しました。櫓台のような土壇の上に石碑がありました。自分はよく読めませんでしたが、「六孫王経基城址」と書かれているようです。
 源経基といえば平将門との確執が伝わる人物ですが、本当に彼の館であったかどうかは確かではないようです。

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昌官忠

(東海&関西)24日目:安倍城 (2025/06/07 訪問)

西ヶ谷運動場入口バス停に着き、そこから徒歩30分くらいで、西ヶ谷登り口付近(35.010370、138.343441)に着きました。
じつは、静岡駅でバス停を間違え、西ヶ谷運動場入口バス停とは、まったく違う方向に向かってしまいました。
途中で気づき、慌てて静岡駅に戻りました。(たまたま出発時間が同じで、隣のバス停だったので、間違えてしまいました。大幅な時間のロスです。)

築城年代は定かではないようですが、南北朝時代に狩野介貞長によって築かれたと云わています。
南朝方の重要な拠点だったようですが、北朝方の駿府今川氏(今川範国)に1338年(延元3年/暦応元年)に攻められ、そのころ廃城になったようです。

ハイキングコースを利用して登ります。案内標識が要所要所にあるので、迷うことなく本丸まで辿り着けます。
結構きつい登山になります。遺構はあまり残っていないようですが、本丸からの眺望は素晴らしいです。
本丸の先(東側)に二の曲輪や三の曲輪、堀切があるようですが、本丸に着いたことに満足してしまい、行くのを忘れてしまいました。ここまで登ってきたのに残念です。
攻城時間は120分(西ヶ谷登り口往復)くらいでした。本日の城巡りは、ここがラストです。
本日の宿泊先に行く為、静岡駅から電車で沼津駅に向かいました。
歩行歩数=29170歩、歩行距離=20.4Kmです。

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小田顕家 (2025/07/10 訪問)

 種垂城址公園として整備されています。遺構はありません。説明板と石碑がありました。
上種足バス停から徒歩5分くらいで行くことができます。

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