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赤い城

遺構なのかどうかは (2026/07/12 訪問)

ニッポン城廻りのエリア限定イベントのためビワイチしてきました。
朽木陣屋の前に立ち寄りました。
国道367号線を北上、細川休憩所の前に車を置きました。

龍松寺の南側の道を登っていくと左に入る道があり、石垣もあります。
登ると広い削平地と廃屋がありました。
この辺りが曲輪のかと思われますが農耕地として利用されていた感じです。
背後の杉林のほうに進んでいくと段になって石垣がありますが遺構なのかは不明です。

この辺りは鮎釣りが盛んなようで近くを流れる安曇川には多くの釣り人がいらっしゃいました。

ところでこの日、高速で飛び石によりフロントガラスにヒビが😭
修理に出すのですが修理終了が8/9予定と。
イオさん、申し訳ありません。
かるた大会は欠席となります😓

【見どころ】
 ・遺構なのかは不明だが石垣

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todo94

和泉の攻城⑦ (2026/07/11 訪問)

貝吹山城からの転戦です。石碑のある近隣には遺構は残っていない様子。移築門があるという小谷城郷土館は7km以上も離れているので断念せざるを得ませんでした。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征25日目:七郎城 (2026/06/04 訪問)

日下津城から車で25分くらいで、説明板登城口付近空スペース(34.521384、132.623004)に着き路駐しました。

築城年代は定かではないようですが、三田氏によって築かれたと云われています。
三田氏は藤原姓で永井庄七郎が祖と伝えられますが、その出自は詳らかではなく、代々三田および永井を称したようです。
天文年間(1532年〜1555年)三田能登守元吉の頃には毛利氏に従っており、1556年(弘治2年)には佐東銀山城番を務めています。元吉の後は弟の元親が家督を継いで厳島合戦などに参陣しています。
元親の家督を付いだのは三田少輔七郎元実で1591年(天正19年)の八カ国御時代分限帳で1220石余を知行しています。
元実の後は三田五郎右衛門吉秀で朝鮮の役に従軍しましたが、帰国後伏見で没しています。
吉秀の後は三田久七郎で関ケ原合戦の後に防長二カ国に転封となった毛利氏に従ってこの地を去っています。

最初、案内標識を見落とし林道のような所まで登ってしまいました。赤テープを捜すが見つからず諦めて下山。
下山中のタンク50m先で案内標識を発見して登城できました。
登山口入口に説明板が設置されています。
堀切や巨大な二重空堀、崩れた高石垣跡らしき痕跡が確認できます。
攻城時間は55分くらいでした。次の攻城先=恵下山城に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征25日目:日下津城 (2026/06/04 訪問)

長見山城から車で10分ちょっとで、ゴミステーション横(34.606989、132.731281)に着き路駐しました。
そこから、登城口(34.605561、132.729625)に向かいました。

築城年代は定かではないようですが、1350年(観応元年・正平5年)以前に毛利親衡によって築かれたと云われています。
1352年(観応3年・正平7年)観応の擾乱において親衡・匡時父子は南朝に属したため北朝方の安芸守護武田氏信に攻められますが、約半年籠城し南朝方の直冬の援軍がくるまで「坂城」に籠っています。
その後、親衡の次男匡時が坂氏を名乗り、この地に土着しました。
1522年(大永2年)毛利氏が大内氏から尼子氏に属した後も、坂広時は大内方に留まることを主張したため、尼子経久から坂氏の攻撃を迫られた毛利元就は、やむなく日下津城を攻め広時を自刃させました。
坂広秀は1523年(大永3年)毛利元就が宗家を相続するにあたっては郡山入城を要請する書状に連署した重臣の一人でした。
翌1524年(大永4年)元就の異母弟相合元綱を担いで宗家を乗っ取ろうとする計画が失敗し謀殺されました。広秀の後は坂氏庶流の志道広良の子元貞が坂氏を継ぎました。
1541年(天文10年)大内家臣の杉氏が「坂要害」に入城しています。これらがこの日下津城にあたると言われています。

登城口から登ると墓地があり、その奥に獣除けの柵が設置されているので、外して入ることができます。
城跡には鋭い斜面を持った曲輪や、堀切、土塁、井戸跡などが残っています。
攻城時間は55分くらいでした。次の攻城先=七郎城に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征25日目:長見山城 (2026/06/04 訪問)

猿掛城から車で25分くらいで、ぴーかるさん投稿の退避場所(34.661175、132.738506)に着き路駐しました。ぴーかるさん、有難うございました。
そこから、長見山城跡登山口(34.660487、132.736594)に向かいました。

築城年代は定かではないようですが、南北朝時代に渡辺氏によって築かれたと云われています。
渡辺氏は摂津国西成郡渡辺発祥の嵯峨源氏で、1336年(建武3年・延元元年)毛利時親が安芸国吉田に下向したときに随行し、代々毛利氏の重臣として仕えました。
1524年(大永4年)渡辺太郎左衛門勝は、日下津城主坂広秀らと尼子の重臣亀井秀綱と通じて、毛利元就の異母弟である相合元綱を擁立しようと画策したが、陰謀は露呈し一族は誅殺されました。
このとき、勝の嫡男虎市は乳母に連れられ備後国甲山城の山内首藤直通を頼って難を逃れました。
虎市は後に渡辺太郎左衛門通と名乗り毛利家臣に復帰しました。1543年(天文12年)毛利元就は大内義隆に従って尼子氏の居城である出雲国月山富田城を攻めたが総崩れとなります。
毛利元就も安芸へ逃れようとしましたが尼子の追撃が激しく危うくなります。このとき渡辺通は毛利元就の甲冑を着用して身代わりとなり、尼子の追撃を引き受け討死しました。
渡辺通の功によって渡辺氏は重用されるようになり、通の嫡男渡辺石見守長は1550年(天文19年)に下麻原(下小原)300貫と代官職に任ぜられたそうです。

長見山城跡登山口そに長見山城登口の石碑があります。
現在は主郭にお堂があり参道がつけられています。
現在城址には堀切や連続竪堀群などを確認でき、本丸跡に小さな石碑が建てられています
浅くなってはいますが、随所に竪堀があります。
攻城時間は25分くらいでした。次の攻城先=日下津城に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征25日目:猿掛城 (2026/06/04 訪問)

五龍城から車で20分弱で、猿掛城跡石碑前(34.680465、132.660434)に着き、先に進んだ教善寺手前に駐車しました。

築城年代は定かではないようですが、明応年間(1492年〜1501年)に毛利元就の父である毛利弘元によって築かれたと云われています。
1500年(明応9年)家督を嫡男の毛利興元に譲ると、次男の松寿丸(後の元就)を連れて多治比猿掛城に隠居しました。
多治比猿掛城は毛利元就が青少年期を過ごした城で、この城で毛利隆元や五龍局も生まれました。
1506年(永正3年)弘元が没した後は毛利元就がそのまま多治比領と猿掛城はを受け継いで分家となりました。
1516年(永正13年)兄の毛利興元が没すると、幸松丸が家督を継ぎますが幼小であったため元就が後見人となりました。
1523年(大永3年)幸松丸もわずか九歳で夭折すると、毛利元就は家臣団に推されて毛利家の家督を継ぎ、吉田郡山城へ入城しました。

教善寺の第二駐車場(猿掛城登城者用)利用。3〜4台可。案内板と、縄張り図の設置あり。
教善寺に向かって100m先の右手に登城口有り。傾斜がきつく滑りやすいので充分な装備が必要。
教善寺の駐車場より約15分で頂上の本丸に到着。事前の予想より早く着いたが、思ったよりきつい登城であった。 時間の都合で出丸と物見丸は未訪問。
山の中腹には毛利弘元夫婦、御杉の方の墓や、弘元の菩提寺の教善寺があります。
攻城時間は45分くらいでした。次の攻城先=長見山城に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征25日目:五龍城 (2026/06/04 訪問)

ホテルから車で30分弱で、五龍城駐車場入口(34.698522、132.756212)に着きました。そこから裏参道から登城しました。

築城時期に関しては諸説あるようですが、南北町時代に宍戸朝家によって築かれたと云われています。
宍戸氏代々の居城で、やがて毛利氏とも争うようになりましたが、宍戸隆家の代に毛利元就の長女(五龍局)を正室に迎え、毛利一門となっています。
隆家は元就、隆元からも重用され、宍戸氏は一門筆頭の扱いを受けました。
五龍城は隆家の孫、9代元続の代に、毛利氏とともに防長へと移封した際に廃城となりました。

城址の遺構は保存状態がよく、土塁や堀切だけでなく、石垣も確認できます。
急勾配の場所に強度不足らしい手すりが付けてありました。
攻城時間は50分くらいでした。次の攻城先=猿掛城に向かいました。

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天守無しがアツい

勝海舟が断食したところ (2026/07/20 訪問)

元は後北条氏が房総里見氏からの攻撃に備えて築かれた城

ただ現在は…城跡というよりは東叶神社⛩️という色合いが強い

浦賀城址=東叶神社の敷地 みたいな

本堂左にある急な階段を登ると…勝海舟が断食したと伝わる場所がある

万延元年(1860年)…勝海舟は咸臨丸の艦長格として…太平洋航海に赴いたわけであるが…その前にこの地にて航海の安全祈願および断食修行🧘をおこなったそう

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カズサン

草刈され水堀・土塁が良く観察出来ました (2026/07/19 訪問)

 余湖図コレクションブログ俯瞰図を良く観て居り城跡の曲輪が奇跡的に水田としてそのまま残り航空写真で眺めても俯瞰図と一致、十数年前より是非探訪したいと思っており、平城京復原大極門・東楼見学に合わせてやっと訪ねる事が出来ました。
 参考資料:余湖図コレクションさんグーグルマップに依る。
 駐車所:無し、新今井団地北の児童公園側道に路駐(34°21'42"N 135°42'11"E h=130m)

 京奈和道五條ICより約1.7km新今井団地北の児童公園路傍に路駐し、徒歩で東の農道を南へ、西の道に廻り、草で茂ってる水堀と思っておりましたが、しっかりと草刈されて主郭の水堀、土塁が南側西側北側と良く観察する事が出来ました。西中央には土橋が架かり石碑が在る、石碑には「小山三箇城址」と刻まれている、三箇氏の城跡、北側の水堀と土塁は草刈がされて内外から眺める事が出来ました。大変ラッキーでした、草刈に感謝。
 周りの道は離合が困難な細い道で児童公園側の道に一時路駐が正解でした、ぐるっと回って約20分程、気温は33℃34℃の暑いさなかでしたが十数年振りに願いが叶い見る事が出来ました。
 写真10番目は余湖図コレクションの俯瞰図です、今回利用させて頂きました、感謝申し上げます。
     

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朝田 辰兵衛

三田公会堂を探したほうが… (2026/06/29 訪問)

虎御前山城から,徒歩での転戦です。猛暑の中なので参考タイムですが…約50分で到着。途中,給水ブレイクは1回。滋賀県のJA系自動販売機がとても安価だったので利用しました。

三田村城(伝正寺)は,住宅街の中にあるので見つけづらいかもしれません。そんな時は,三田公会堂を探したほうが宜しいかと思います。

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張陳

町中にしっかりと残る石垣 (2026/06/30 訪問)

出張ついでに二度目の訪問を果たしました。

津城の一番の見どころは石垣です。
まず、城の北側、堀越しに見える長大な石垣の上には多聞櫓があったそうです。
また、高山神社の東隣くらいには天守台があります。
南西方向からは一番高く見える角度で迫力もありますし、そこから東に移動し、公園から場内に入るところには埋門となっているので、そちらもお見逃しなく。
そして、城跡から少し離れて百五銀行の北側には、今は埋め立てられていますが、内堀の石垣が再現されていますので、そちらも見られると良いと思います。


周辺観光としては、四天王寺がおすすめです。
藤堂高虎の妻の墓や、織田信長の弟信包が城主をしていた縁もあって、信長の生母土田御前の墓もありますし、信長が祈願したとされる仏像もあります。

グルメでは、松阪牛を扱う精肉店の朝日屋をおすすめします。
私はお手頃価格だった松阪牛のチャンジャをお土産に購入しましたが絶品でした。
お米にもお酒にも合いますので、辛いものが大丈夫な方にはオススメです。

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登り石垣跡を見てきました (2026/06/17 訪問)

 城びと先人の投稿のいくつかで、登り石垣があるはずだがわからなかった、とのことを見ました。模擬天守内の縄張り図に登り石垣が書かれているのを発見。本丸北東の広い空堀と土橋を隔てて斜面を落ちていく竪堀の両側に登り石垣があったと。破城されているので、登り石垣跡状態です。
 本丸北東の尾根を断ち切る空堀は、現場説明板によると、日本最大の箱掘構造で、石垣もなく、鉄砲による攻撃を意識して作られているのですと。急峻な山と言い、戦う城です。地図を見ると、錦川が、岩国城がある山の三方を回り込んで流れ、急峻な山体を作っているのですね。
 トクさん、朝田辰兵衛さん、「滋賀と言えば「あ」」と気にかけていただき、恐縮です。庭でも、私のものでもありませんので、存分に盛り上げてください。
 昌官忠さん、中国地方と兵庫県遠征レポートは、24日目まできましたね。痛めた足を治しつつ、悪天候にもめげず、すごいですね。山城の登城口まで来て引き返すことにどれほどの意味があるかと自問されてましたが、実は深い問いかも。

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張陳

有名人たちの子どもの城〜伊賀牛もオススメ (2026/06/19 訪問)

名張城、名張藤堂家邸跡は、元は筒井氏配下の松倉氏の城跡のようですが、藤堂高吉ゆかりの城跡です。
この高吉、もとは丹羽長秀の字指で、はじめは羽柴秀長の養子に、続いて藤堂高虎の養子となり、朝鮮出兵や大阪の陣でも活躍する武将です。
しかし、高虎の実子が生まれたため、藤堂家を継ぐこともできませんでした。
もっとも、このような経歴から、邸内には丹羽長秀らの書状なども展示されていますので、邸内にも立ち寄られることをおすすめします。

付近でお昼を食べるなら、大手門跡方面に進んだ先にあるダイハンがおすすめです。
定食を扱っている喫茶店といった見た目のお店ですが、伊賀牛の焼肉定食を頼んだところ、定食屋さんのご飯とは思えない上質な肉で、とても美味しかったです。
全メニューの中で言えばお値段ははる方ですが、伊賀牛の質を考えればお安いくらいだと思いました。

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宇田城 (2026/07/20 訪問)

 岐阜県養老郡養老町にある城びとには未登録の城址です。大通寺付近が跡地です。応永年間(1368~1374年)土岐悪五郎康貞の子康任が可児郷よりこの地に移り住み築城したと伝わる城です。遺構はありません。説明板がありました。

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金谷城 (2026/07/20 訪問)

 岐阜県養老郡養老町にある城びとには未登録の城址です。金屋川原の合戦跡の石碑の裏にある御井神社付近が跡地です。伊藤氏の城と伝わりっていますが、詳細は不明です。関ケ原の戦いでは西軍に味方しその後廃城となったようです。
石碑も説明板もありません。この付近は鋳物で有名だったようで金屋鋳物師居住の跡の石碑がありました。

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大塚城 (2026/07/20 訪問)

 岐阜県養老郡養老町にあった城びとには未登録の城址です。丸毛氏の城と伝わっています。織田信長、豊臣秀吉に仕えていました。天正17年福束城へ移っています。丸毛氏は関ケ原の戦いでは西軍につき敗退しますが、後に前田家に仕えました。
石碑があります。遺構はないと思われますが、となりのコンクリートの囲いがネットでは井戸跡と記載されている記事もありました

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関ケ原散歩(金屋川原古戦場 岐阜県養老郡養老町) (2026/07/20 訪問)

 関ケ原の戦いにおける古戦場のひとつです。関ケ原の戦いで西軍の敗色が濃厚となると戦わずして退却した毛利秀元・長曽我部盛親・長塚正家らを、東軍の徳永寿昌・市橋長勝・横井時泰らが金屋川原付近で迎え討ちました。この金屋河原の合戦で、東軍は侍81人、雑兵63人の首を挙げたと伝えられています。

 関ケ原の戦いで南宮山とその付近に布陣していた武将たちはどうしたのだろうと以前から思っていました。全く戦わなかったわけではなかったのですね。

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関ケ原散歩(烏頭坂 島津の退き口) (2026/07/18 訪問)

 関ケ原古戦場の標識のある場所はほとんど行ったつもりでしたが、烏頭坂に行っていないことに気がつき行って来ました。
島津の退き口として伝わる関ケ原の戦いにおける島津の撤退戦の舞台となった場所です。関ケ原の戦いで敗色濃厚となった西軍の島津義弘の軍勢は敵中中央突破をして薩摩への帰還を目指しました。島津隊を追撃した東軍の井伊直政・松平忠吉隊を島津豊久が殿となり、この場所で迎撃しました。この戦いで井伊直政、松平忠吉は負傷し、井伊直政はこのときの傷がもとで後に亡くなったと伝えられています。島津の退き口における激戦地です。島津豊久はここで討死したとも、重傷を負いながらもさらに先へ進んで白拍子谷で息を引き取ったとも伝えられています。

 薩摩ベンチが置いてありました。令和2年に復元された鹿児島城鶴丸城の御桜門の部材に使用するため上石津町のケヤキを寄付したお礼にいただいたものです。江戸時代、木曽三川の宝暦治水工事で薩摩藩の人たちに多くの犠牲者がでました。しかし、そのおかげで洪水は少なくなり、その感謝を兼ねて岐阜県と鹿児島県は姉妹県盟約が昭和26年7月27日に結ばれています。

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チェブ

*暑中お見舞申し上げます* (2026/07/04 訪問)

一車線の道路脇に「桑久保城」の案内板があります。
ここから更に細い上り坂を進みます。
「桑久保城」は小さい車なら駐車するスペースがありました。ただ、きちんと駐車したと言うより、これ以上、進めないからエンジンを切った、と言う方が正しいです。
もう一段階上がると写真⑧に到着。
夏草がとても元気ですか、支障なく歩けました。
*近くでビ~ンビ~ンと草刈機の音がします。本当にありがたい事です。

この半分耕された広場の向こうに「桑久保城」の石碑と説明板がありました。
土橋の上で仁王立ち。堀と土塁、草刈されていて見学しやすいです。

「桑久保城」は桑窪 秀春さんか谷口氏が築城したようですが、はっきりしていないようです。
でも、大切にされているのは、はっきりしてます。

この日は30度にならない曇り空。
今日は、35度を越し雷雨予報が出てました。
皆さんの地域はいかがですか?
どちらも暑さ厳しいですよね。

この「桑久保城」の近くに『道の駅 たかねざわ 元気あっぷむら』があります。寄ろうと思ったのですが、大渋滞で諦めました。
どうやら、BBQやグランピング、温泉等もあるようです。
次に登城するのは紅葉の季節がいいなー、と再登城の時は大人数かな?と涼しい季節が楽しみな「桑久保城」攻めでした。

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長町ツインズパパ

出張中の訪問その2(7) (2026/07/10 訪問)

出張の合間を縫って近江八幡市から米原市の城跡を巡りました。最後は、別名「八幡山城」です。2度にわたる出張中に巡った最後の城です。これで琵琶湖周辺9城を制覇しました。

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