13【秀長の因幡平定をたどる②】鳥取城(上ノ城)吉川経家と宮部継潤
(2026/05/16 訪問)
天球丸の登山口から、上ノ城を目指します。とても急斜面の登山道を登る事30分、上ノ城(久松山頂上:標高263m)へ到着しました(結構きつい😩)(写真①)。
上ノ城は、一番上から本丸・二ノ丸・三ノ丸・出丸と四段に構築された造りで(写真⑨)、見事な石垣で囲まれていました。これらの石垣は1582年、鳥取攻めの第一の戦功とされ、秀吉から因幡の地を与えられた、「宮部継潤」によって築かれました。そして継潤は、この天守台の上に三重の天守を建てたそうです(写真④⑤⑥)。
1581年(天正9)城主の山名豊国が逃げ出したため、毛利方より派遣された「吉川経家」が1,400の軍勢とともに籠城します。そこに城下の領民2,000以上が逃れて入ってきます。秀吉の米の買占めに会い、兵糧はわずか20日分しかなかったところへ、この領民が経家にとっては大きな誤算となりました。おそらく本丸には兵士が、二ノ丸・三ノ丸には領民が、所狭しとひしめき合っていたのではないでしょうか(写真⑦⑧)。
天守台から北を眺めると鳥取砂丘まで見えました(写真①②)。西には鳥取市街が広がっています(写真③)。天守台から東の方向を見ると、本陣山(太閤ヶ平)がよく見えました(写真⑩)。あの山には秀吉と秀長が陣を敷き、豊臣の旗が数多くなびいていたと思います。また眼下の雁金山城や丸山城(写真③右側)も宮部継潤によって攻められ落城、これにより海からの補給路は完全に断たれ、久松山は豊臣軍3万の軍勢に完全に取り囲まれてしまいました。そして籠城を始めて4カ月、ついに兵糧も尽きてしまいます。俗に言う「鳥取の渇え殺し」です。飢えに苦しむ家臣や領民を見ながら、吉川経家はどんな思いでここから、あの本陣山や眼下の景色を眺めていたのでしょうか?
このまま城を枕に民とともに討ち死にすべきか、いやもし我が命と引き換えにこの民の命を助ける事ができるのなら・・・。経家はこの山上で、究極の選択に悩んでいたのではないでしょうか?
次は写真⑩の本陣山(太閤ヶ平=豊臣秀吉陣跡)を目指し、途中にあるはずの豊臣秀長陣跡を探しながら、行ってみようと思います。
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