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つちのこ

須知城 (2026/07/19 訪問)

南北朝時代に須知氏によって築城されたといわれており、明智光秀による丹波攻めの際に落城、その後は丹波攻めの拠点として使われたらしいです。
京丹波観光協会で頂いた須知城のパンフによると、登り口は明石口と琴滝の2つがあるが、登りやすいのは明石から、とあったのでそちらから向かうことに。駐車場は麓の玉雲寺にありますが、カーナビで玉雲寺を設定すると山の反対側から向かう、一般車は通行不可のルートを案内されるので注意。パンフに記載されたとおりに向かえばたどり受けました。
明石登城口から約40分で頂上まで到着。休憩するようなスポットがなく歩きっぱなしです。登り切ると、そこから左右に曲輪が伸びています。3郭の石垣が綺麗に残っていました。主郭である1郭は脇からぐるっと回り込むと、4mの高石垣が見えました。下りは琴滝へ下りる道を下りました。確かに明石より急な坂でした。杉木立の森を抜けていくと、水量豊富な琴滝に出ます。 登城ですれ違う方は1組だけでしたが、琴滝には入れ替わり人が訪れていました。
帰りに玉雲寺にお邪魔したところ、境内には桔梗が見頃となっていました。このお寺は明智の丹波攻めの際に焼失したものの、明智光秀により再建されたといわれています。その繋がりで桔梗、なんでしょうか。

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トク

18【秀吉の天下分け目をたどる】山崎の戦い(秀長はここで何をしていた?) (2026/06/13 訪問)

天下分け目「山崎の戦い」を過去「明智光秀」の目線で追いましたが、今回は「羽柴秀長」目線で追ってみようと思い、再び天王山へ登りました。

新大阪駅の東横イン新幹線口東に宿泊した後、JR京都線快速(高槻から各停)に乗り山崎で下車しました(写真⑩)。この日は気温32度、山崎歴史資料館をざっと見て、夏恒例スマホのカメラが暑さでまた起動しなくなりそうだったので、駅前のコンビニで氷・ポカリスエット2本・汗拭きタオル2枚を買い、リュックに詰めてスマホを冷やしながら、万全の熱中症対策とカメラ対策で、いざ登山を開始します。

最初の「宝積寺」までの15分は舗装された急坂が続きます。宝積寺は秀吉が陣を張った場所とされています。土曜だったせいか、山崎の戦いの劇が催され、大勢の観光客が見物していました(写真⑤)。そこから自然遊歩道に入り、そして山頂にある「山崎城」へ向かいます。暑かったので、ゆっくり休み休みで登り、駅から約1時間30分かけて山頂へ到着しました。山崎城は、山崎の戦いが終わった翌月に、秀吉により山崎の地を統治するため築かれた城です。しかし大坂城が完成すると廃城になったようです。天守台や石垣がわずかに残っていました(写真①②③④)。しかし山頂からの眺望はわずかで、東大阪市あたりが少し見えただけでした。

でも途中の「旗立松展望台」からは、山崎合戦の地が一望できます(写真⑥⑦)。また絵巻による解説の大壁画もありました。これを眺めていると、またもやふと疑問が🤔?

絵巻では、合戦の様子を秀吉が天王山から眺めている姿が描かれています(写真⑨の赤矢印の部分です)。ドラマでもたぶん・・・そう描かれるだろうと思います。しかし当時の記録には、合戦が始まった頃に秀吉はまだ到着していなく、12km後方の富田に信孝とともにいた、そして合戦が終わる頃やっと後方4kmまでたどり着いたとあります。つまり合戦には、どうも間に合っていなかったようです。また布陣図(写真⑧)を見ると、秀長は天王山のこの旗立松から左の斜面に、官兵衛はそこからさらに左の斜面へ布陣しています。そして眼下の西国街道と淀川沿いの平地で先陣を切って戦っていたのは、中川清秀・高山右近・池田恒興です。 何か気づきませんか? そうです! 彼らは荒木村重の与力だった、村重を裏切って寝返った者たちです😯!

という事は・・・🤔? 「ひょうたんの旗印」をここ旗立松に立てたのは、もしかして秀長だったのではないでしょうか?(あくまで私の推測ですが・・)。まだ到着していない秀吉を、すでに到着しておまえたち三人をここから監視しているぞ! というふうに見せかけ、この三人が本当に秀吉に付く気があるのか、また裏切りはしないか、ここからまさかの時に備え、その時は自分が駆け下りようと、状況を見極めていたのではないでしょうか。結局この三人は、ひょうたんの旗印を見て必死になって戦い、ほぼこの三人の軍だけで明智軍を破ります。そして大勢が決まったのを見て、官兵衛は山を下り側面を攻め、勝龍寺城に追い討ちをかけています。光秀にとってもこの三人の寝返りは、誤算だったのかもしれません。逆に秀吉にとっては、天下への道が開けた、うれしい誤算だったのかもしれませんね。

でもドラマの次回予告編を見ると、これらの私の推測とは異なり、秀長と官兵衛は光秀を生け捕りにしようと、天王山に陣を張っていたとされているようです。そんな余裕があったとは、私にはとても思えないのですが・・🤔。むしろ逆で、官兵衛は本気で光秀の首を取ろうと、山を駆け下り勝龍寺城まで追って行ったのではないでしょうか?(本能寺での失敗を自分たちはしないために)。さあ皆さんの意見はいかに?(ところで与一郎はどうなるの😱?)

長くなりすいませんでした。
次は、秀長の(四国平定)を追って、長曾我部元親との決戦「一宮城」へ向かいます。
 

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カズサン

【大和 平城京】奈良県奈良市 大極門と東楼が復原されました (2026/07/19 訪問)

 今回の日帰り奈良探訪は、平城京跡に復原された大極門と東楼を一目見たいと暑さの中挙行しました。駐車場は距離的に大極門に近い、奈良文化財研究所平城京跡資料館の専用駐車場を利用。駐車場はほぼ満車状態で数台の空きでラッキーでした。
 住所:奈良県奈良市佐紀町528-1(大極門)

 駐車場から東方向、徒歩で約4、500m、先に平成22年の遷都1300年祭に完成した大極殿を南正面から眺めて、今回の目的である大極門を裏から攻める、東に建つ東楼も裏から攻めて、東楼の門の間より朱雀門を眺めて、大極門より南正面へ、大極門、東楼、素屋根の架かった西楼建設前状態を全景で眺めて、西楼素屋根南前に掲示されてる、工事内容、建物概要などの掲示を読み、又大極門へ、同じ方が大極門辺りで佇んで居ましたので声を掛けたら文化財課の方、この暑さでボランティアの方々は高齢にてボランティア活動の説明公報を休んでいるので職員の方が出張ってるとの事でした、少々会話し説明を聞きました。ありがとうございました。
 大極門は令和4年3月完成。
 東楼は令和8年3月完成
 大極殿は平成22年(2010年)の奈良遷都1300年を記念して完成、この年に訪ねています、奈良遷都は710年。
 朱雀門は平成10年(1998年)完成。合わせて東院庭園も完成。

 西楼は素屋根が架かり整備工事前、後2~3年後には完成なのかな?大極殿院の西楼が完成すると、大極門から大極殿を囲む版築土塀の築地回廊屋根付きが完成すると1300年前の姿が更に甦ってきます。あと何年か?10年はかかるのでしょうか?楽しみですが生きているか?生きていても歩けるか? との時間との戦いです。
 西楼が完成までは頑張りたい。

 この後整備事業現場に近い西側に復原事業情報館に寄って閲覧、スライドショーも鑑賞、資料も頂きました。トイレは南の別棟に完備してあり大変助かります。今回の日帰り奈良探訪の大極門・東楼見学で数年前からの願いが叶いました。

 ※私事ですが。
 この後近鉄西大寺駅も近いので、安倍総理襲撃現場に寄って現地確認し黙祷を捧げる。近くの有料駐車場を利用。
 此処の現場には安倍総理受難の碑、説明碑、説明板も有りません、残念な事です。小さな碑でも欲しい所です。
 現場の写真を撮って終えました。
    

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つちのこ

最後の一色 (2026/07/12 訪問)

小説を読んでから訪れました。
城山公園駐車場(20台ほど駐車可)には城跡や近隣の遺跡についての案内板がありました。駐車場から徒歩すぐで登城口ですが、登城口へ入る前から曲輪群が見えてきます。
初心者の私が見ても、いたるところに曲輪などの遺構があるのが分かり興奮しました。
登城口には鳥居があり、郭の一つには稲荷社がありました。主郭には立派な石碑があります。
登城口から主郭まですぐ(寄り道なしだと5分ほど)なので、初心者にはもってこいかもです。

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イオ

慈眼寺山城(兵庫県三木市久留美) (2026/01/18 訪問)

慈眼寺山城(城びと未登録)は、三木合戦における織田方の付城で、美嚢川北岸の慈眼寺背後の山上に位置し、有馬則頼が布陣したと伝わります。

山陽自動車道側道沿いの慈眼寺山城への案内表示手前の広くなったあたりに路駐して登城開始。舗装道から右手の階段を登ったところが主郭です。主郭は南北に細長く、南端からは平井山本陣から三木城までを一望する眺望が開けています。また主郭内には三木城合戦砦址の碑が立てられ、水神八大龍王が祀られています。主郭北端には低い土塁がめぐり、小さな石仏が祀られていました。発掘調査では主郭で礎石建物跡が検出しているほか周囲に空堀がめぐらされていたようですが、現状では確認できません。主郭の東側には小さな腰曲輪が幾段かあり、東に派生する支尾根にも段状の平坦地があります。北尾根と西尾根にも曲輪らしき平坦地がありますが、削平は甘く灌木が茂っていました。

時間が許せばまだまだ他の付城群にも行きたいところでしたが、今回はこの辺で。「織豊系陣城事典」などというマニアックな本を買ってしまうと、100名城も続100名城もまだ半分にも達しないのに、陣城(付城)めぐりをしたくなってしまうのが困りものです(笑)
 

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征26日目:広島城周辺観光(平和記念公園) (2026/06/05 訪問)

広島城から徒歩15分ちょっとで、原爆ドーム説明板前(34.394975、132.453566)に着きました。

平和記念公園は以下の順番で廻りました。
①:原爆ドーム説明板前(34.394975、132.453566)
②:平和の時計塔(34.395386、132.452378)
③:原爆被災説明板(34.395031、132.452821)
④:平和の鐘(34.394886、132.452448)
⑤:原爆供養塔(34.394428、132.452005)
⑥:原爆の子の像(34.394134、132.452797)


原爆ドームは、第2次世界大戦末期に人類史上初めて使用された核兵器により、被爆した建物です。
ほぼ被爆した当時の姿のまま立ち続ける原爆ドームは、核兵器の惨禍を伝えるものであり、時代を超えて核兵器の廃絶と世界の恒久平和の大切さを訴え続ける人類共通の平和記念碑です。
攻城時間は50分くらいでした。本日の城巡りは、ここがラストです。
歩行歩数=33351歩、歩行距離=23.3Kmです。
本日の宿泊先に徒歩で向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征26日目:広島城 (2026/06/05 訪問)

新白島駅から徒歩15分くらいで、大鳥居前(34.401335、132.461500)に着きました。

広島城は今回2回目の攻城です。前回は2019年3月13日に来ました。
天守閣、平櫓、多聞櫓、太鼓櫓、表御門などを確認しました。
ちなみに正面から天守閣の写真は多数の観光客の顔がバッチリ写っている為、投稿せずに東小天守跡から撮った写真を投稿します。
攻城時間は30分くらいでした。宿泊先のホテルに戻る前に原爆ドームを見学する為、平和記念公園に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征26日目:府中出張城 (2026/06/05 訪問)

天神川駅から徒歩20分くらいで、登城口付近(34.393806、132.509458)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、応永年間(1394年〜1428年)白井胤時によって築かれたと云われています。
白井氏は千葉上総介忠常の後裔義胤が上野国白井山田荘を領して白井氏と名乗り、その子胤時が下向して出張城を築いて居城としたそうです。
白井氏ははじめ安芸国守護の銀山城武田氏に属し、1495年(明応4年)武田元信より「安芸国仁保島海上諸公事」が認められ、仁保島付近を航行する所船からの勘過料を徴収する権利を得ています。
白井氏は主に水軍を持って勢力を張っていたようで、1527年(大永7年間)には周防国大内氏に属し、1539年(天文8年)には武田氏の川内警固衆を敗っています。
陶晴賢が大内義隆を討つと、その後、台頭してきた毛利元就によって追われ、白井氏は大内氏の宇賀島水軍と合流します。
1555年(弘治元年)には矢野保木城にて大内方として毛利に抵抗していた野間隆実を援護するため、呉浦や仁保島、海田などを襲撃します。
しかし、陶晴賢が厳島合戦において毛利元就に敗れると、後に白井氏は小早川隆景に降りました。

城址の周囲は住宅に囲まれており、出張城跡位置図で西側からアプローチしました。
登った所はお墓で城跡らしきものは何もありません。
しかたなく城山の周りをグルット一周してみましたが、進入路を見つけることはできませんでした。
住宅地なので、あまりウロウロすると不審者に間違われるので諦めて撤退しました。
ちなみに天神川駅の広島駅方面と向洋駅方面のホームは離れており、駅入口も違います。気を付けてください。
攻城時間は25分くらいでした。次の攻城先=広島城を攻城する為、天神川駅からJR山陽本線を利用して新白島駅に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征26日目:大須和城 (2026/06/05 訪問)

安芸川尻駅から徒歩10分弱で、案内板付近(34.232367、132.687590)に着きました。

詳細は不明ですが、案内板によれば16世紀の初め頃には、水軍の武将として多賀谷氏・及美氏・得益氏が「仁方・川尻」を共同支配していたそうです。

大須和城は安芸川尻駅の西側にある丘陵に築かれており、現在は須和(諏訪)神社の境内となっています。
主郭の南背後はやや緩いですが、大堀切があります。
攻城時間は20分くらいでした。次の攻城先=府中出張城を攻城する為、安芸川尻駅からJR呉線とJR山陽本線を利用して天神川駅に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征26日目:大須和城周辺(有崎城(城びと未登録 広島県呉市)) (2026/06/05 訪問)

呉観光から徒歩10分弱で、石碑前(34.245084、132.549674)に着き、その後、大歳神社(34.245835、132.549092)に向かいました。

詳細は不明ですが、 城主は呉衆の山本氏、石田氏あるいは矢野城主野間氏の一族などが伝えられています。

大歳神社の参道にある鳥居の脇に「有崎城」の石碑が建っています。
神社境内とその南にある公園を除いて宅地となっており、遺構はありません。
攻城時間は15分くらいでした。呉で呉カレーを食べるか大須和城にすぐ向かうか悩みましたが、電車がすぐ来たので、大須和城に向かうことにしました。
次の攻城先=大須和城を攻城する為、呉駅からJR快速安芸路ライナーとJR呉線を利用して安芸川尻駅に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征26日目:大須和城周辺(呉観光) (2026/06/05 訪問)

呉駅から徒歩15分くらいで、軍艦大和主砲砲弾(34.239420、132.560824)に着きました。

呉観光は以下の順番で廻りました。
①:軍艦大和主砲砲弾(34.239420、132.560824)
②:大和トミュージアム(34.241429、132.556256) 入場券は1000円でした。
③:海上自衛隊呉資料館入口(34.241839、132.555355)
観光時間は50分くらいでした。次の攻城先=有崎城(城びと未登録 広島県呉市)へ徒歩で向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征26日目:矢野城 (2026/06/05 訪問)

広島駅からJR呉線と広島電鉄バスを利用して矢野天神バス停に着きました。
矢野天神バス停から徒歩2~3分で、矢野天神橋登城口(34.337368、132.541112)に着きました。

1335年(建武2年)熊谷四郎三郎入道蓮覚によって築かれたと云われています。
1445年(文安2年)に野間重能が室町将軍・足利義政より矢野の地を与えられ、以降は野間氏の支配となります。
野間氏は大内氏の支配下に入り、近隣の平賀氏や小早川氏と争いを繰り返し勢力を拡大しますが、1555年(天文24年)に当主の野間隆実が陶側についたため、毛利元就の軍勢によって攻められます。
隆実は降伏したものの許されず、一族は虐殺され、野間氏は滅亡することとなり同時期に矢野城も廃城になったと推測されています。

現在城址には県指定史跡として石碑が建てられています。
さらに発喜山の山頂付近にも曲輪が残されており、ここを「発喜城」と呼び、詰の城にしていたと考えられているようです。
小さな案内標識付近に住んでいるご婦人に「最近、矢野城付近で熊が出て発喜山方面に逃げた」目撃情報の話がされ気を付けなさいと云われました。
この話にビビり発喜城への登城は諦め矢野城で引き返しました。
攻城時間は60分(登り時間は35分くらい)くらいでした。
発喜城(城びと未登録 広島県広島市)の登城を止めた為、バスの時間があわず、矢野駅まで歩きました。
次の攻城先=大須和城を攻城する前に、呉観光と有崎城(城びと未登録 広島県呉市)を攻城する為、矢野駅からJR呉線を利用して呉駅に向かいました。

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カズサン

【大和 五條代官所】奈良県五條市 高石垣と長屋門が現存 (2026/07/19 訪問)

 二見城初探訪の後、五條新町通りに松倉重政顕彰碑が二見城入城400年記念事業で地元の方々により建てられて居り見学をする、その折五條代官所駐車場(二見城から北に0.9km程)を利用しましたので、傍まで来て寄ら居ない手は有りません、家内を車に置いて平成26年5月以来12年振り2度目の登城を致しました。(五條代官所は城びと未登録です)
 住所:奈良県五條市新町3丁目3-1(五條市民俗資料館)

 現在の五條代官所は長屋門と両サイドの在る多聞櫓内部が五條市民俗資料館に成っており無料で閲覧できます、駐車場は長屋門南端下の専用駐車場完備。
 元の天領五條代官所は文久3年(1863年)8月、明治維新の魁と言われる天誅組の義挙により、前の五條市役所の位置に在った、五條代官所が焼き討ちにあい、元治元年(1864年)10月幕府が現在の地に代官所を新たに建てた。長屋門、南端の高石垣は現存構造物です。
 長屋門内部の五條市民俗資料館は天誅組関連の資料が多く展示されています。
 屋外に86型蒸気機関車(金剛・ハロー号)が展示されて居り懐かしさが込み上げて来ました。
   

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シャンシャン

見て楽しい!日本の城づくり (2026/07/18 訪問)

福山城の隣にある広島県立歴史博物館でやっている企画展「見て楽しい!日本の城づくり」へ。
いろいろな城の縄張図や城に関する記述がある古文書など興味深い展示会だった。
展示を見た後、福山城の周囲を散策。何回も来てるけど、青空に映える白亜の天守はかっこいい!
福山城だけでなく岡山城も広島城も、中国地方に残っていた貴重な天守が空襲で燃えてしまったのが惜しすぎる。

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7月は山形県の名城を巡りました (2026/07/18 訪問)

毎月、一つの都道府県の名城を巡る旅も、今回で5回目で、すっかり私のライフワークとして恒例となりました。
今回は東北5県目になる山形県の名城3つを巡ってきました。
土日を使っての一泊旅行に加え30℃を超える蒸し暑さで、かなりハードな道中でした~
新幹線を仙台で降りレンタカーで2時間超1つめの名城「鶴ケ岡城」を訪れました。
酒井家の城で見事な堀と石垣が城跡の雰囲気を漂わせますが、城内に入ると入口に大寶館、本丸中心に「庄内神社」があるので、城と言うより公園と言った感じでした。

今回も貼った写真に沿って簡単な説明をしていきたいと思います。
「続きを読む」と「すべての写真を見る」の両方を開いてもらえば、写真を見ながら説明を読めるので便利です。

① 最初は毎回恒例の御城印。中央の大きな朱色の紋は庄内藩主・酒井家の家紋をあしらったデザインで左下の朱印は鶴ヶ岡城本丸跡に鎮座する荘内神社の印。
② 鶴岡公園を代表する風景と言えば「大寶館」。白い下見板張りの外壁と赤い八角の屋根が特徴の洋風建築。堀と石垣と石橋が一緒に入るアングルを見つけました。
③ 堀に掛かる石橋の上から金峯山を望む景色。左右に土塁状の高まりが続いていて、ここが城の外周部だったことが解かります。堀の雄大さと水面に写り込んだ木々が気に入っています。
④ 鶴ヶ岡城本丸跡に建つ「荘内神社」の表参道と大鳥居。奥に見えている社殿が荘内神社、手前の大きな鳥居と真っすぐ伸びる参道が本丸中心部へと続いている感じがいいですね。下は御朱印で左から通常版・七夕版・月替わり版となります。
⑤ 荘内神社の境内。上が石鳥居と「庄内神社」と刻まれた社号標、下は本殿真正面からのカットで七夕飾りがカラフルで夏らしい雰囲気で風流です。
⑥ 鶴岡公園の顔とも言える「大寶館」を正面から捉えました。大正時代に建てられた洋風建築でお堀に突き出したような位置にあります。アングル的には2枚目の方が好きですが建築としても素晴らしいので載せました。
⑦ 大寶館は堀の内側ですが、この「致道館」は堀の外側に建っています。どちらも白い木造の洋風建築で中央に小塔を備えた外観が特徴的ですね。庄内藩酒井家が開いた藩校で藩士の指定などを教育した学問所です。
⑧ 致道館見学の帰りに歩いていたらこの美しい風景に出会いました。外堀越しに撮った写真ですが石垣と水面のラインが美しく曇り空でしたが水面に木々の緑が映り込んでいて やわらかい雰囲気に写っています。
⑨ 鶴ヶ岡城は大部分が土造りですが要所には石垣が組まれています。角の部分が綺麗に折れていて算木積みの処理が見えます。石垣の上に古い松が並んでいるのも城郭らしさ感じられてgood!(公園の中心が神社なので)
⑩ 堀端に整備された菖蒲や水辺植物のエリア。手前から奥へと続く木道が自然に視線を奥に誘導してくれています。水面や草の色がしっとり落ち着いて写るので意外と絵になりますね。

この鶴ケ岡城訪城にはアホな後日談がありまして。。。(~_~;)
仙台からレンタカーで2時間以上掛けて鶴ヶ岡城に。
見学後、御城印は社務所で購入なのですが荘内神社の素敵な御朱印が色々種類あってどれにするか悩みに悩み選んだ3種類の御朱印(写真4枚目の下)を入手してすっかり満足して1時間半以上かけて山形市内のホテルに夕方着きました(合わせて4時間)。昼夕食兼用で大好物のそばを食べることにしました。
そばに関しては大食漢の私ですが、美味しい山形の板そばをたらふく食べて さすがに苦しくなりホテルの部屋のベッドに倒れ込みました。
2時間ほど寝て8時過ぎに起きて翌日訪れる2つの城のマップや見所、撮影ポイントなどをチェックして準備万端!
寝る前に最後、持参した百名城の本間 淳一の説明を読んでいる途中「ハッ!?」そして確かめて「ガビィィーン!!」なんと鶴ケ岡城のスタンプを押して来なかったことに気付き、もう頭がホワイトアウト状態。
また、いつか来た時でもと考えましたが、今回の3城で100名城、続100名城はコンプリートなので、もう山形に城巡りで来ることはないんです。
完璧主義の私は意地でももう一度片道1時間半の鶴ケ岡城に行きスタンプだけ押して山形城へ(運転だけで3時間)
山形城では予定していた散策ルートを諦めて要所だけを巡り半分ほどの時間で次の米沢城へ(所要時間1時間) 
ここ同様に時間的に予定していたルートを端折って予定時間の半分でポイントだけを回りました(≧▽≦)
レンタカーや新幹線の時間もあるので泣く泣く米沢城を車で後に仙台に向かいました(1時間以上、、、泣)
3城に共通する点は、どれも見事な堀を構えていて、期待以上の旅を満喫できました。(アホな私の素ボケでちょっと残念だったけど)

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イオ

平井村中村間ノ山付城(兵庫県三木市平井) (2026/01/18 訪問)

平井村中村間ノ山付城(城びと未登録)は、三木合戦における織田方の付城で、竹中半兵衛重治が布陣したと伝わります。平井山本陣の北側の尾根上に位置し、本陣との間の谷部にある長福寺には羽柴秀吉が居住していたことから、本陣と長福寺への北側からの攻撃に備えるための付城と考えられるようです。

秀吉本陣跡駐車場から登城開始。ため池の間を抜けて山道を登り、林道に出て少し進んだところの登城口に(伝)竹中半兵衛陣所跡の案内表示があります。登城口から階段を登りきったところが主郭です。主郭は四方を土塁で囲み、南辺の虎口から入る造りだったようですが、現在は西辺の土塁を破壊して登城道が通されています。主郭の東端には説明板が立てられ、その奥は急峻な崖になっています。小さいながらも堅固な造りだな…と思っていたら、説明板によれば土砂崩れによって生じた崖なんだとか。主郭のほか、北西斜面には2段の細長い帯曲輪が設けられていました。

駐車場に戻る前に平井山本陣西麓の竹中半兵衛の墓に寄り道。田んぼの奥の土塀で囲まれた一角に半兵衛の墓石が祀られ、説明板や墓誌が立てられています。また、平井の墓所から南東に約1.2kmの栄運寺の裏山にも半兵衛の墓とされる上部が落下した墓石がありました。「豊臣兄弟!」でも半兵衛の死は大きく取り上げられていましたが、当地では長らく篤く供養され続けているようです。


> 赤い城さん

フロントガラス破損とは災難でしたね。今回が最初で最後のかるた大会でもないでしょうし、またの機会があればぜひ^^
 

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赤い城

信長を助けた朽木氏の城 (2026/07/12 訪問)

鎌倉時代から明治維新までこの地を治めた朽木氏の居城です。
有名な金ヶ崎の退き口の際、朽木元綱は朽木越えの道を案内し京へと逃しました。
近くには信長の隠れ岩もあります。

陣屋跡ですが駐車場があり、かつては資料館も建っていました。
現在は井戸跡と土塁、石垣の一部が残るだけです。
背後には詰城である西山城もありますがこの日は日帰りの予定なので登城は自重。
次に来れる機会があれば攻めたいな、と。

【見どころ】
 ・井戸跡
 ・土塁

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todo94

和泉の攻城⑧ (2026/07/11 訪問)

伯太陣屋からの転戦です。専稱寺が其の故地で門前の石柱に説明が彫り込まれていました。この日の攻城はこれにて終了。阪和線富木駅まで歩いて大阪駅にアクセスしました。阪急グランドビルの献血ルームはかつて25階にあったのですが、今は1階下の24階にあり、献血ルーム名も阪急グランドビル24になっています。久しぶりのトリマによる血小板成分献血はとても時間がかかりましたが、無事、858回目の献血を終えることができました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征25日目:仁保城 (2026/06/04 訪問)

水晶城から車で35分くらいで、黄金山公園駐車場(34.366512、132.490446)に着きました。

仁保城は武田氏の警固衆であった白井氏の支城のひとつであったと考えられています。
広島湾頭に浮かぶ要害の山城で、仁保島と呼ばれていたことから仁保島城ともいいます。1495年(明応4年)武田氏は府中城主白井光胤に仁保城の警護を命じました。
1541年(天文10年)武田氏滅亡後、独立した毛利元就の軍勢によって攻め落とされ、以後は香川氏が城番をつとめました。
1555年(弘治元年)「厳島の戦い」に先立っておこなわれた「仁保島合戦」では陶方の三浦房清の攻撃を香川光景が撃退しています。
その後、1591年(天正19年)までに毛利家臣の三浦元忠が仁保城を守っています。

現在は山頂に広島FM放送黄金山送信所が建っており、遺構はほとんど残っていません。
雨の影響で少しガスっていますが、広島市を360°見渡せる素晴らしい場所です。
車で攻城出来ますが、道幅はちょっと狭めです。
攻城時間は15分くらいでした。本日の城巡りは、ここがラストです。
歩行歩数=18362歩、歩行距離=12.8Kmです。
広島駅でレンタカーを返却して、本日の宿泊先に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征25日目:水晶城 (2026/06/04 訪問)

佐東銀山城から有料道路を利用して車で30分くらいで、臼山八幡神社下の空スペース(34.415150、132.380693)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、 源平合戦の時は源氏方の佐々木国正の居城であったようです。
1508年(永正5年)大内義興に従い上洛していた厳島神主藤原興親が亡くなると、厳島神領を大内氏の直轄領としました。
1518年(永正15年)大内氏の重臣であった杉甲斐守が水晶城の城番となります。
しかし、1523年(大永3年)厳島神主家の一族である友田興藤が、神主家の家督を相続できなかったことに不満を持ち、謀反を起こし水晶城を攻撃、城を捨てて逃走した杉甲斐守を討ち取ります。
乱の鎮圧後、水晶城には改めて麻生鎮里(麻生家宣の子とされる)が城番として入城し、その周辺の支配にあたりました。
しかし、1554年(天文23年)毛利元就と陶晴賢が敵対すると元就は佐伯郡の諸城を攻略した。 この時の城主麻生鎮里は元就に降伏しました。
毛利氏の支配が確定的となると、この水晶城よりも海に面した桜尾城が重要視されるようになり、また、城の規模が巨大過ぎて、多くの人員が確保できないと守れないというマイナス面も考慮され、この水晶城も廃城となったようです。

臼山八幡神社本殿階段下に登城口があります。
雨が降っているので山登りはせず、案内標識を確認して撤退です。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=仁保城に向かいました。

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