何回姫路城に登城出来るかなぁと、22日には朝から大阪城に、帰ってから姫路城やっぱり、入城制限が23日は朝一に多過ぎて、ゆっくり見れず。駆け足でした。23日は手話言語の国際デーでブルーでした。25日は観月会に行って見ようかなぁと思います。
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2026/09/24 17:31
2026/09/24 16:39
名古屋犬山の旅、3つ目の城 (2026/07/12 訪問)
この夏の旅行についてだ。
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2026/09/24 08:20
「扇の芝」定点観測 (2026/08/29 訪問)
和歌山城南西部の砂の丸は、その名の通り砂丘に造成された曲輪であることから外周には水堀に代えて高石垣をめぐらせ、見通しをきかせるために南西隅部には芝を植えた三角地を設けていました。三角地は扇に見立てて「扇の芝」と呼ばれ、城下の人々にとって馬場(西側)や射場(南側)での武術練習を見物できる憩いの地だったようですが、廃城により扇の芝が払い下げられると建物が建ち並び往時の姿は失われていました。和歌山市では10年前に整備計画を改訂し、扇の芝の復元に向けて土地の公有化を進めてきましたが、昨年度に建物の撤去が完了し、今年7月4日には市民参加で芝張りイベントが開催され、127年ぶりに扇の芝が往時の姿を取り戻しました。
扇の芝の復元の話は以前から耳にしていましたが、和歌山ローカルのニュースでついに芝が張られたことを知り、他の用事のついでに見に行ってきました。まず県庁前交差点の歩道橋から扇の芝の全景を。建ち並んでいた建物が撤去され、植栽された芝の奥には砂の丸高石垣、そして木々の上には連立式天守群がそびえています。電柱と電線がちょっと邪魔ですが、天守群がよく見えるように木々を刈り揃えれば和歌山城の新たなビュースポットになる予感! 歩道橋を北に渡り、さらに北側の歩道橋を東に渡って扇の芝へ。芝は養生中のためまだ立ち入りできませんが、芝の向こうに屏風折れの高石垣、木々の合間には天守が覗いています。芝だけでなく建物に隠れていた砂の丸高石垣も草木が刈られて綺麗になっていました。扇の芝北西角部の歩道沿いには扇の芝の標柱が立てられています。かつては扇の芝の存在を示すものがこの標柱しかなかったことを思うと感慨深いものがありますね。
そういえば、以前に復元整備途中の扇の芝あたりを撮った写真があったはず、と思って探してみていくつか見付けましたので、ついでに載せておきます。3年ほど前(2023/10/28)に撮影したもので、更地になっているところもあれば建物も残っている状態の扇の芝(写真8)と、建物が無くなって道から見えるようになっているけれど、草木が茂った状態の石垣(写真9)です。これも定点観測といえるでしょうか。扇の芝が公開されたら(令和9年度予定)またレポートしたいと思います。
> トクさん
【豊臣秀長をたどる旅】、興味深く拝見しました。大河ドラマに先行して晩年までたどってしまわれる行動力(あるいは計画性)はさすがですね。及ばずながら確かにバトンタッチされました…と言いたいところですが、私のほうは年内どころか来年中には何とか…という体たらくなので、気長にお待ちいただければ(笑)
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2026/09/23 22:40
2026/09/23 20:46
「長曾我部元親」陣跡(秀長に敗れた元親のその後) (2026/09/22 訪問)
大河ドラマ豊臣兄弟(第36話)では、1585年の四国平定で、秀長軍により一宮城で敗れ降伏する長曾我部元親の姿が描かれました。ではその後の元親はどのような人生を歩んだのでしょうか?
そのヒントを探しに、肥前名護屋城(前田利家陣跡)から、南に10分(500m)程歩いた所にある、「長曾我部元親陣跡」を訪れました。この小高い山(標高50m)に陣は築かれていたようです。標柱から右側に細い道がありますが私有地のようなので、畑仕事をされている方に許可をもらい入りました。畑の先に石垣跡を見つけました。おそらく元親が築いたものと思われます。その先には人工的に削った曲輪か建物の跡らしき場所も多々ありましたが、荒れた竹藪だらけの整備されていない細い道で、蚊の大軍にも襲われたので、ゆっくり見る事ができず早々に撤退しました(整備してほしいなあ~😩かゆい)。しかしあくまで私の推測ですが、元親はここで屈辱に耐える日々を送っていたのではないでしょうか?
秀長に敗れた翌1586年、元親は仙石秀久の配下となり、戸次川の戦いに行きますがそこで敗れ、秀久のせいで最愛の嫡男「信親」を亡くした事は「鶴賀城」でお伝えしました。そして土佐に帰り、居城を「岡豊城」から海に近い「浦戸城」に移し水軍を強化します。この頃から「姫若子」と呼ばれていた元親の女っぽい性格?は変わり、「鬼若子」と呼ばれる怒りっぽい性格になったとか(本当かな🤔?)。小田原征伐→文禄の役→慶長の役と、秀吉から水軍を中心とした海上輸送の裏方(兵站輸送)ばかりをを命じられ、そのイライラからか家臣にも当たりちらし、独断で物事を決めるようになったそうです。後継ぎも二男・三男を通り越し、家臣の反対を押して四男「盛親」と勝手に決めてしまいます。その直後の秀吉が没した翌1599年に、元親も急な病で没したようです。結局、四国統一まであと一歩と迫りながら敗れ、転げ落ちるように人生後半は、屈辱とイライラに耐えた人生だったのかもしれません🤔。
その盛親も、翌1600年の関ケ原で西軍に付くも敗れて京都に幽閉され、長曾我部家は家康より土佐を召し上げられ改易されてしまいます。しかし盛親は1615年大坂の陣にて再び立ち上がりますが、またも敗れ、京都の三条河原で処刑され、長曾我部家は断絶したようです。
この荒れ果てた小高い山を眺めていると、長曾我部家の悲しい結末(栄枯盛衰)を想像せずにはいられませんでした。
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2026/09/23 18:02
地震と豪雨の被害もあって
本丸の後は遊佐氏館跡に戻り、石垣を観察しました。残っている石垣は低石垣であり、城内ではここだけかと。
その後温井屋敷跡を通って二の丸へ向かうと、二の丸石垣が見られますが、一部シートがかかっています。また九尺石も同じくシートがかかっており、見えませんでした泣。
二の丸から三の丸へ向かうところでは標高差が大きいおかげで、急な階段でした。その証に、二の丸と三の丸には大きな堀切が残っています。
山城といっても、駐車場から見所はすぐ見ることができ、探訪しなすいお城でした。
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2026/09/23 17:48
長森城の跡地に建った切通陣屋は長森騒動を誘発した (2025/11/24 訪問)
南北朝期に土岐氏の本拠にもなっていた長森城の故地に19世紀になって磐城平藩の飛地管理のために切通陣屋が作られた。飛地時代は飛地ならではの苦労もあったようで長森騒動という大きな騒動もあったそうだ。
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2026/09/23 13:26
脱線注意報発令。勝山城内、遺構以外に注目の巻。 (2026/07/04 訪問)
暑くなる前にと7月に攻めた「勝山城」。
無料の駐車場がありました。何かイベントがあるのか交通整理をしている方々が駐車場の案内をしてくれました。
勝山城址公園、さくら市ミュージアム、氏家ゆうゆうパークと、いろんな目的の方々が目指す方向に歩いて行きます。
まずはと、奥に旧森家の長屋門がありました。写真は写してませんが蔵もあります。蟻地獄の巣(?)があり、子供達が大騒ぎでした。私も小さい頃は残酷な遊びをしたものです。
あと、地蜘蛛もいました。もう、地蜘蛛の袋は触れません。
下の虫ばかり気を取られ、鬼怒川方面に進みました。
桜の見本園があり、花の季節はいろんな種類の桜が見られるのかもしれません。そちらから本来の目的、「勝山城」攻めです。
ビ~ンビ~ンと、草刈機で散策しやすいようにしている最中です。ありがとうございます、と伝えたかったのですが、草刈機をこちらに向けないように堀中腹で待ってくださいましたので、お背中に会釈して足早に通過しました。
川側に写真⑤⑥、雪姫と紅葉姫、乙姫のお話。「勝山城」の遺構も立派だったので、戦も多かったはず。姫達のお話が昔話風に書かれてました。
さくら市ミュージアムに到着。(写真が多いので遺構は次回の投稿で紹介します。)
この日は妖怪のイベントがあるようで、家族連れが多かったです。外には縄文時代の住居跡が移築してありました。説明板には、勝山城内から型どりして移築した、とあります。氏家氏、使ってたのかなー?と、どうでも良い事に疑問。その他、明治時代の鉄道の橋脚等々展示してありました。
東京の端っこは、平均30度位の8月でした。
と、言っても急に暑く急に涼しい、蒸し蒸しの夏でした。でもって、雨と台風です。
私は図書館で本を借りた際、少し募金をするようにしています。昨今、たくさんの自然災害があり、その数だけ募金箱が増えてます。
城びとの『行った』をポチッとする為に通った地域を、今では他人事とは思えなくなっている今日この頃です。
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2026/09/23 12:16
2026/09/23 11:58
2026/09/23 11:27
坤櫓&西側土塀の復元 始動!! (2025/08/20 訪問)
約1年半ぶりの福井訪問。前回来た時は、雨模様で消化不良に終わったので、今回はリベンジマッチです。
まずは本丸跡に建つ福井県庁へ。県庁で行われている福井城坤櫓復元募金に微力ながら寄付させていただきました。県のエントランスで案内を受けて、担当部署の方へ。めったに他県の県庁を訪れることは無いので、少し緊張しました。募金の記念として、限定の御城印をいただきました。御城印には、坤櫓の復元図がデザインされていてめちゃくちゃカッコいいです!!
完成は令和11年度を予定しているようです。福井に三重櫓がよみがえるのは楽しみです!!
その後、福井に滞在している間、涼しくなっている朝と夕方を見計らって、福井城周辺を散策しました。
坤櫓の工事が開始され、本丸の水堀はだいぶ水が抜かれていました。水位が下がり、普段は水の中の石垣も露出して見ることができたのですが、個人的に注目したのが、福井城内堀公園の西側の石垣です。福井城の本丸は全体的に布積みの石垣が多いと思っていたのですが、ここは谷積み(落し積み)で積まれていたので、けっこう驚きましたね!!
本丸周辺を散策したあと、南側の北ノ庄城跡、下馬御門跡、北側の舎人門遺構とその隣にある福井藩主の別邸の養浩館も見学。養浩館の庭園は想像越えてきましたね。陽の光が池の水に反射して、天井をキラキラ照らしているのが、とても素敵な庭園でした。養浩館は夕日のコントラストが非常に良いので、夕方に行かれるのがオススメです。
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2026/09/23 11:17
2026/09/23 10:54
2026/09/23 10:49
2026/09/23 10:38
2026/09/23 09:30
2026/09/22 21:08
転身を重ねて (2025/11/24 訪問)
旗本徳山氏は土岐氏から養子を迎えているので血統的には土岐氏だとか。斎藤・織田・柴田・丹羽・豊臣・前田・徳川と主を変えたと言われる徳山則秀は大名こそ逃したがよくぞこれだけ転身を重ねられたものだとつくづく感心。
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2026/09/22 13:15
2026/09/22 12:38
100名城の7(ㅂ・᷅ )多賀城 (2024/04/25 訪問)
日本三大史跡( ・᷄ㅂ・᷅ )多賀城
戦国でよくある城というより( ・᷄ㅂ・᷅)街…都…行政とかもする場所なんだよなぁ
奈良時代のお城かぁ。普段見ている江戸や戦国の城とは違って、中々趣がある。
時が経っているだけあって、残っているものも少ないけど、綺麗に発掘、復元しているから、壮大な雰囲気が味わえる。
国宝多賀城碑も、聞いたことがあったけど,実物見れて感動した( ;∀;)
西って、結局どういう意味なんだろ?
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2026/09/22 12:10
100名城の6( ・᷄ㅂ・᷅)盛岡城🏯 (2024/04/24 訪問)
中々行く機会無いな( ・᷄ㅂ・᷅)盛岡
冷麺もいいけど、今回の目的は奥州の名城🏯盛岡城
巨大な石垣が残る公園になってる。縄張り見てても、普通に公園散歩してるみたいだな
城好きとしては寂しいが、公園としてはそう思えるのがいい公園なんだろうね( ・᷄ㅂ・᷅)
元は奥州の南部の城で、巨大なお城。もう少し痕跡や建物が残っていると嬉しいね
⚡️電撃ネットワークの南部虎弾⚡️は子孫かと思ったらそもそも本名じゃないらしい
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