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todo94

再度の飛島渡航失敗による代替観光・国宝羽黒山五重塔と出羽三社神社 (2026/07/18 訪問)

羽前松山城からの転戦です。羽黒山五重塔は、現存木造の五重塔の中で唯一の素木造りの五重塔で、杉木立にたたずむその美しさには初めて見た時から魅かれ続けています。13年ぶりに訪れてみると、随神門の手前で協力金500円を支払うようになっていました。三連休の初日、大勢の観光客でにぎわっていましたので、人が映り込まないように写真撮影するのは、かなりの困難が伴いました。時間はたっぷりとあるので22年ぶりに出羽三山神社も目指すことにします。随神門から五重塔を経由して出羽三山神社まで、36分ほどでたどり着くことができました。案内板に山頂まで60分所要とある2446段の石段、上出来だったと思います。ただ残念なことに出羽三山神社の三神合祭殿は、茅葺屋根の葺き替え工事中でした。せっかくなので1000円のお守りは購入しておきました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征28日目:富山城 (2026/06/07 訪問)

今日の天気は一日雨で午後から強雨の予報で、予報通り強雨です。
大安寺駅から徒歩20分弱で、登山口(34.669867、133.892004)に着きました。

築城年代は定かではないが、仁和年間(885年〜889年)に富山重興が築いたと云われています。長い間、富山氏の居城だったようです。
1467年(応仁元年)富山長頼は松田元隆に攻められ自害し富山氏は滅亡し、松田氏の居城としました。
松田元成(元隆の子)は金川城に居城を移し、富山城には元成の弟の親秀が入りました。
1568年(永禄11年)宇喜多直家に松田氏は滅亡に追い込まれ、富山城には直家の弟の忠家が入り、城を拡張しました。
忠家の後は子の詮家が城主でしたが宇喜多氏の内紛で宇喜多家を離れました。詮家は後の坂崎出羽守直盛(千姫事件で有名・津和野城主)です。 
城は1600年(慶長5年)関ケ原の戦い後、小早川秀秋が備前に入封すると廃城となり、いくつかの資材が岡山城に移築されました。

強雨の為、登山口で引き返し登城を断念しました。
攻城時間は5分くらいでした。本日の城巡りは、ここがラストです。
計画では、この後、早島陣屋と常山城を攻城するつもりでしたが、強雨の為、6月9日に変更しました。
歩行歩数=25047歩、歩行距離=17.5Kmです。
本日の宿泊先に向かう為、大安寺駅からJR桃太郎線を利用して岡山駅に戻りました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征28日目:辛川城 (2026/06/07 訪問)

今日の天気は一日雨で午後から強雨の予報で、予報通り強雨です。
備前一宮駅から徒歩15分ちょっとで、桃太郎タンク入口(34.687795、133.859772)に着きました。

辛川城についての築城年代などは不明ですが、初期は宇喜多氏家臣の虫明氏が城主であったと言われています。
虫明氏は、浦上氏・宇喜多氏に追随し、一宮周辺を拠点とした国人層と伝えられています。
1579年(天正7年)毛利家の小早川隆景が15,000の軍勢で宇喜多領の備前に攻め込みました。
宇喜多の臣で、13歳にて初陣であった戸川達安は、この辛川の地で寡兵にも関わらずよく防ぎ、鉄砲や弓で応戦し小早川勢を撃退しました。
のち、この合戦は“毛利の辛川崩れ”と言われています。

桃太郎が描かれた水道タンクの背後の山が城山で、水道施設前の道がそのまま山陽道を高架橋で越え、山の東山腹に続いているようです。
しかし工事中で進入不可&強雨の為、登城を断念しました。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=富山城へ向かう為、備前一宮駅からJR桃太郎線を利用して大安寺駅に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征28日目:賀陽氏館 (2026/06/07 訪問)

今日の天気は一日雨で午後から強雨の予報です。吉備津駅に着いた11時頃はすでに強雨でした。
吉備津駅から徒歩20分弱で、賀陽氏館付近(34.663132、133.844474)に着きました。

賀陽氏館は、古代吉備一族の名族であり、吉備津神社の神官を務めていた賀陽氏の居館と伝えられています。

賀陽氏館は水田のなかにあり、曲輪は周囲よりやや小高くなっています。
かつては土塁があったとされていますが、現状はほぼ消滅しています。
強雨の中、カッパのみで歩いたので、ズボンと靴の中がグショグショです。吉備津駅には乗車待ちの人が多く着替えることができません。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=辛川城へ向かう為、吉備津駅からJR桃太郎線を利用して備前一宮駅に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征28日目:亀山城周辺散策(備中長良山城(城びと未登録 岡山県総社市)) (2026/06/07 訪問)

今日の天気は一日雨で午後から強雨の予報です。
亀山城から徒歩15分くらいで、金毘羅大權(ごん)現鳥居前(34.686278、133.787177)に着きました。

建武年間(1334年〜1338年)世野川左衛門入道祐隣によって築城されたと伝われています。
祐隣は細川定禅の執事として楠正茂の首級を千早城に届けたことで名を馳せました。以後、祐隣の子孫が代々居城して「禰屋(ねや)」と改姓しました。
禰屋氏は、戦国時代には備中の有力国人の一人で、1564年(永禄7年)龍の口合戦では龍の口城を備中の諸将と共に守備して活躍しています。
1582年(天正10年)羽柴秀吉による備中高松城攻めの前哨戦冠山合戦では、長良山城主禰屋七郎兵衛父子らが冠山城にて備中の諸将共々籠城して城の防戦に努めました。
明治時代に陸軍の演習地となったり、神社として改変されたりしています。

服部駅にある地図では長良山城の記載はありますが、亀山城の記載はありません。
別名を八幡山城とも呼ばれ、現在、北の曲輪跡には八幡神社があり、また南の曲輪には石鎚神社と碑が建っているようです。
雨が降っているので、南の曲輪には行かず、北曲輪側の登城口からハイキングコースを歩こうとおもいましたが、電車の時間の都合で登城を断念しました。
観光時間は25分くらいでした。次の攻城先=賀陽氏館へ向かう為、服部駅からJR桃太郎線を利用して吉備津駅に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征28日目:亀山城 (2026/06/07 訪問)

今日の天気は一日雨で午後から強雨の予報です。
岡山駅からJR桃太郎線を利用して服部駅に着きました。
服部駅から徒歩30分くらいで、亀山城北東入口付近(34.677919、133.787450)に着き、そこから、田んぼ沿いの登城口付近(34.677361、133.787146)に向かいました。

佐野氏は「鉢の木を焚いて北条時頼に暖をとらせた」という話で有名な佐野常世の後裔の一族が備中に下向したのが始まりのようです。
天文年間(1532年〜1555年)頃に佐野忠綱が先祖の城を再建して居城とし、1559年(永禄2年)毛利氏に攻められ落城したそうです。
天正年間(1573年〜1592年)頃の城主は佐野忠職で、幸山城主石川氏の家臣だったようです。

田んぼ沿いから山に入れそうな所を捜してウロウロし、中に入りましたが、すぐくじけました。道なき道はを進むのは自分には無理です。
気を取りなおし、廃屋が見える広い道から中を覗いて土塁?石積?と竪堀?らしきものを見つけましたが遺構かどうかは不明です。
攻城時間は30分くらいでした。次の攻城先=備中長良山城(城びと未登録 岡山県総社市)へ徒歩で向かいました。
ちなみに服部駅にある地図では長良山城の記載はありますが、亀山城の記載はありません。

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朝田 辰兵衛

続・姉川古戦場~トクさん御礼~ (2026/06/29 訪問)

トクさん,ご指摘ありがとうございますm(__)m
しかし,判断がビミョーに別れるかと思います。とりあえず,拡大したモノをアップします。
今後,圧縮されるとどうなるのかな…?

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ぴーかる

匂坂城 (2026/06/13 訪問)

【匂坂城】
<駐車場他>駐車場なし。城跡碑の前まで車で行って車から撮影しました。
<交通手段>車

<感想>1泊2日東海ちょこ城道中4城目。現地説明板によると匂坂城は、遠江の国人領主である匂坂氏が1532年にこの地に築城しました。1571年に武田信玄が高天神城攻めの際にこの匂坂城は落城しました。その後は穴山梅雪を置いて守らせていたとあります。
 現地は遺構は残っておらず、畑地にぽつんと説明碑だけがあります。

<満足度>◆◇◇

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トク

辰兵衛さん、霊が写ってますよ!😱~

写真の左下に人らしきものが写っています。この霊のせいかもしれません。

私もついこの間「上月城」で霊を感じました。過去に島原の「原城」などでも感じた事あります。そういう感じやすい(取り憑かれやすい)タイプ、いるようです。気になるのであれば、御祓いを・・・。私は、Welcomeです。 暑い夏が続いておりますが、辰兵衛さんの写真のおかげで、少し涼しくなりました。

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カズサン

御城之口餅と郡山城情報館を目当てに (2026/07/19 訪問)

 今回は平城京跡復原大極門・東楼が主目的の探訪日帰りドライブ、大極門探訪までに時間を取り過ぎ、大和郡山城探訪ではせめて、大和郡山名物の御城之口餅と新しく出来た郡山城情報館の見学は是非果たしたいと思っておりました。
 「御城之口餅」は秀長が秀吉を茶会もてなしの茶菓子として400年の歴史ある銘菓です、郡山市役所南の本家菊屋本店で販売されて居りTVでも放映されています。5時前の入店で残り僅か、前客も購入し残り4箱、2箱ゲットし夜自宅に帰り美味しお茶で頂きました。400年の歴史ある、秀吉も秀長も食した小振りな餡子黄な粉餅です、美味し❣
 駐車場は大和郡山市役所駐車場を利用、土日祝は有料で2時間まで無料、以降は500円との事。

 郡山城情報館へ向かう、鉄御門跡を通って中仕切門を抜けて緑曲輪に今回の大河ドラマ豊臣兄弟に合わせて臨時に出来た駐車場です、5時半で締めるよと聞き急ぎ足で、情報館見学、エアコンが効いてほっと一息、郡山城模型を見学写真を撮るが光、灯りが模型の透明ケースに反射して写真写りは良く無い(写真投稿は控えます)、情報館には資料パンフレットなど備わって居りゲットしました、緑曲輪跡、厩跡がよく整備されている。
 
 本丸・天守台を西の濠外、北の濠外より眺めて追手門を内側より眺めて、復元極楽橋へ、竹林橋趾を抜けて中仕切門、緑曲輪の郡山城情報館前の臨時駐車場へ閉鎖5分前でした。この駐車場は来年の1月31日まで9時から17時半営業、1回500円の様でした。今回は短時間で?無料でした。
 天守台には大勢の見学者で賑わっていました、又NHK大河ドラマ豊臣兄弟館はやまと郡山城ホールで開催中、車で通った感じでは大勢の人で賑わってる様で駐車場への誘導も混んで居ました。
 今回時間も無くサラーっと回っただけです。令和3年11月20日復元極楽橋完成を探訪に訪ねて以来5年振りの郡山城探訪でした。
   

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山形県の名城巡り2つ目は (2026/07/19 訪問)

毎月、一つの都道府県の名城を巡る旅も、今回で5回目で、すっかり私のライフワークとして定着しました。
前日に続いて この日も雨の予報でしたが何とかギリギリ耐えてくれました~。
ということで山形の2つめ(午前の部)は、山形で唯一「日本100名城」に名を連ねている山形城です。
駅から近く「山形城跡」として国指定史跡にもなっています。
城跡も含めた広大な霞城公園の中には最上義光歴史館もあり、御城印や100名城スタンプは、ここで購入・押印できます。

今回も貼った写真に沿って簡単な説明をしていきたいと思います。
「続きを読む」と「すべての写真を見る」の両方を開いてもらえば、写真を見ながら説明を読めるので便利です。

① 最初は恒例の御城印です。上部には最上家の家紋「最上紅花紋(丸に二本引き)」下部には山形城内の最上義光像のシルエットが描かれています。
② 山形城の中で特に印象に残る最上義光公の騎馬像です。その躍動感溢れるダイナミックな姿に圧倒されました。
③ 山形城の顔とも言うべき「二ノ丸東大手門」と大手橋を正面から撮った写真です。堀を渡る大手橋の奥には見事な石垣を備える白壁の櫓門が構え圧倒的なスケール感を醸し出してます。この門は高麗門形式だそうです。
④ 2枚目の「二の丸東大手門」を手前の橋の上からグ~ッと寄って撮りました。門の間から正面に見える桝形の石垣と白壁がいい感じですね♪
⑤ 4枚目と同じ橋の上から櫓、石垣、堀、橋の擬宝珠(ぎぼし)を同じ構図に入れるのに苦労しました。やはり櫓門は映えますね。
⑥ 二の丸東大手門をくぐると山形城の名所ともいえる門内の広い桝形です。左に見えるのが外側から入ってくる東大手門(櫓門)、右側と奥を囲んでいる白壁と頑強な石垣が二の丸の桝形空間の防御構造になります。
⑦ 東大手門の桝形から外に出た所にある「本丸御殿広場」から門を斜め正面に見た構図です。中央に大きな門があり その左右に長く多聞櫓と土塀が連なっていて広い前庭と長い多聞櫓のスケール感が気に入ってます。
⑧ 本丸外郭の空堀に降りて撮りました。左が本丸側の高い石垣、右の盛り土の土塁は二の丸側です。堀底の芝生がきれいに刈られていて美しい構図です。
⑨ 山形城本丸へ渡る大手門から撮った「本丸一文字門」(近年復元)です。門の奥に本丸内側の塀が見えています。
⑩ 山形城本丸の「東大手門(復元門)」と、その前にかかる木橋、本丸の隅石垣を横から見た構図です。

前日に訪れた鶴ケ岡城のスタンプを押し忘れたため早朝3時間掛けて鶴ケ岡城を往復するため、山形城は予定していた半分の時間しか使えず慌ただしく回ることになり残念でした (;´д`)トホホ

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todo94

再度の飛島渡航失敗による代替攻城② (2026/07/18 訪問)

亀ヶ崎城からの転戦です。13年ぶり、3度目の攻城です。丸馬出は今回初チェックで、松山文化伝承館にも初めて入館しました。そこで、縁起の良い鶴亀にちなんで、亀ヶ崎城、鶴ヶ岡城の城名が最上義光によってつけられたということを初めて知りました。これはもう、鶴ヶ岡城にも行くしかないと思い定めましたが、とりあえず飛島で食べようと思って買っておいた昼食を摂り、久しぶりに国宝の五重塔を目指してみることにしました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征27日目:己斐古城 (2026/06/06 訪問)

己斐城から徒歩30分くらいで、高須台入口(34.396627、132.418554)に着きました。

築城年代は定かではないですが、 己斐古城はこの地の豪族である己斐氏の居城です。己斐新城の平原城に対し己斐古城と呼ばれています。
1515年(永正12年)銀山城主武田元繁に攻められるが落城しなかった。時の城主己斐豊後守師道入道宗端は有田城合戦で討死しました。
宗端は2年後の「有田合戦」において討死すると、その子の己斐直之は毛利元就に従い「厳島の合戦」で要害山城の城代をつとめました。

登城口は「高須台第一公園」と旭山神社にあるようですが、自分は高須台から登城し旭山神社側に下城しました。
現在は森林公園として整備されており、主郭を中心に周囲に削平段を設けています。
攻城時間は20分くらいでした。本日の城巡りは、ここがラストです。
歩行歩数=26612歩、歩行距離=18.6Kmです。
本日の宿泊先に向かう為、西広島駅からJR山陽本線を利用して広島駅に戻り、コインロッカーから荷物を取り出した後、岡山駅に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征27日目:己斐城 (2026/06/06 訪問)

広電西広島駅から徒歩30分弱で、小茶臼山登山口(34.406191、132.424413)に着きました。

築城年代は定かではないですが、己斐氏によって築かれた城です。己斐城はに平原城とも呼ばれ、己斐新城が平原城、己斐古城が岩原城、詰城が立石城でありいずれも己斐氏の居城です。
己斐氏は厳島神領衆の出身で動静ははっきりしませんが、 1515年(永正12年)銀山城主武田元繁に攻められるが落城しなかった。時の城主己斐豊後守師道入道宗端は有田城合戦で討死しました。
宗端の子、己斐豊後守直之の時、1554年(天文23年)折敷畑の戦いの前に草津城などと共に毛利元就に攻撃され、落城しました(防芸引分)。
直之は、翌年の厳島の戦いで毛利方の宮尾城の城将として戦い、合戦後に隠居しました。その後、直之の弟、己斐利右衛門興員が城主となりました。
1600年(慶長5年)関ヶ原合戦後に毛利氏が防長2ヶ国に転封になるとともに廃城となりました。

城址は整備されています。
また曲輪などの遺構もきれいに残っています。己斐東小学校の脇にある石段から登城することができます。
攻城時間は30分くらいでした。次の攻城先=己斐古城へ徒歩で向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征27日目:草津城 (2026/06/06 訪問)

草津駅から徒歩10分弱で、登り口(34.381825、132.399713)に着きました。

築城年代は定かではありませんが、厳島神社神主家(藤原氏)配下の神領衆・羽仁氏によって築かれた城です。
戦国時代には、1456年(康正2年)武田信賢によって攻められ落城、1457年(長録元年)大内氏に攻められ落城、1553年(天文22年)毛利元就に攻められ落城しています。
草津城に手中に納めた元就は川の内警護衆を率いる児玉就方を城主にして桜尾城、仁保城、宮尾城とともに陶晴賢を迎え撃つための前線としました。
しかし関ヶ原の戦いによる毛利氏の防長移封後、福島正則が広島城主となると、正則は草津城下の山陽道に大門をつくり、広島の西の関所とし、草津城を壊したとされています。

階段の登り口に「草津城址登山道」の看板があり、山頂には城跡碑と説明板が建てられています。
現在城址には遺構はありませんが、曲輪の形状を確認することはできます。
攻城時間は25分くらいでした。次の攻城先=己斐城へ向かう為、草津駅から広島電鉄宮島線を利用して広電西広島駅に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征27日目:桜尾城 (2026/06/06 訪問)

洞雲寺から徒歩15分くらいで、桂公園入口(34.356721、132.341814)に着きました。

築城年代は定かではないですが、鎌倉時代に吉見氏によって築かれたと云われています。
その後、1221年(承久3年)承久の乱の結果、中原親能の一族である藤原親実が新たな厳島神主となり桜尾城を居城とし安芸国守護も兼ねました。
しかし藤原親実は幕府の要人でもあり、厳島に下向して神職を務めることはなく、代官による支配でした。
その後は代々厳島神主家の居城となっていましたが、大内義興の助力によって京へ帰った足利義稙に随行して上洛した14代藤原興親は、同年末に京で客死。これによって厳島神主家が断絶となりました。
厳島神主家の相続を願った友田興藤は銀山城主武田光和等、安芸の諸豪族の協力を得て桜尾城を占拠します。
これに怒った大内義興は陶興房、弘中下野守を門山城へ送り、その後自身も門山城へと入った。
その後、大内軍は桜尾城を取り巻き陶衆が二重まで切り入った。しかし籠城方も笛太鼓にてはやしたて手強く守ったため、興藤の兄の子藤太郎が神主職を相続する条件で和睦が成立しました。
しかし、1528年(享禄元年)大内義興が亡くなると興藤が再び神領を思うままにし、1541年(天文10年)には大内氏と断交します。
大内義隆はすぐさま門山城へと進み、桜尾城を取り囲むと、籠城していた羽仁、野坂、熊野らは興藤に二心あって城内から逃亡。興藤は城に火をかけて自刃しました。
1553年(天文22年)毛利元就は桜尾城等の厳島神領の諸城を落とし、桜尾城には重臣桂元澄を置いて要とし、大内義隆を討った陶晴賢と対立。
翌年厳島合戦で陶晴賢を撃破。戦いの後に自害した陶晴賢の首実検もこの城で行われました。
その後も桜尾城は桂元澄の居城として続きますが、元澄の死後、毛利元就の四男の穂井田元清に与えられ、その居城になります。
1586年(天正14年)豊臣秀吉が九州征伐を開始。翌年、豊臣秀吉が九州に向かう途中、桜尾城に立ち寄り、厳島神社を参詣しています。
1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いの後、安芸国は福島正則の支配地となり、この時に桜尾城も存在価値を失い、廃城となりました。

現在、桂公園となっている丘陵に桜尾城がありました。
「桜尾城址 桂公園」の石碑と説明碑があるだけで、遺構はありません。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=草津城へ向かう為、広電廿日市駅から広島電鉄宮島線を利用して草津駅に向かいました。
広電廿日市駅で洞雲寺で転んで汚れたズボンをはきかえました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征27日目:桜尾城周辺観光(洞雲寺) (2026/06/06 訪問)

廿日市駅から徒歩10分弱で、洞雲寺入口(34.360174、132.336206)着きました。

1487年(文明19年・長享元年)、当時桜尾城主で嚴島神社の神主でもあった藤原氏の菩提寺として創建されました。
尼子氏と大内氏の勢力争いにより藤原氏最後の代の興藤が滅び、この地は大内氏のものとなりましたが、その大内氏から重臣であった陶氏に移り、さらに厳島合戦で陶氏に勝利した毛利氏側へと変化しました。
厳島合戦に敗れた陶晴賢は桜尾城(現桂公園)で首実検のうえ、この寺に埋葬されています。

毛利元就の重臣桂元澄夫妻、元就の4男毛利元清の宝篋印塔もこの寺にあるということで確認する為、庫裡裏へ向かう途中、転んでしまいました。
ケガはなかったのですが、ズボンが汚れてしまいました。これにくじけてしまい確認せず撤退しました。
観光時間は15分くらいでした。次の攻城先=桜尾城へ徒歩で向かいました。

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にのまる

室蘭本線で海沿いを北上しました。 (2026/06/25 訪問)

東横インの無料朝食をスルーして函館06:02発の特急北斗1号に乗車。約2時間で伊達紋別に到着しました。

館山公園の麓までは徒歩10分くらい。
階段と坂を登ると広い公園が!
インパクト強すぎな大きなタコ🐙の滑り台に引き寄せられ、あやうくここで登城完了✅とするところでした💦

館山チャシの説明板と堀跡、土塁が見られるのは少し奥に進んだところで、緑に覆われているところもありましたが二重の空堀と土塁を確認できました。

次の場所へ行くバスの時間の都合でだて歴史文化ミュージアムに行けなかったのが少し心残りです。またいつか行けるかなぁ。。。

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朝田 辰兵衛

姉川古戦場 (2026/06/29 訪問)

三田村城から,徒歩での転戦です。「血原」というワードを目にしたあたりから,強く霊気を感じました。写真1枚目の周辺で,かなり気持ち悪くなってきました。熱中症とは違う感覚です。
ただ,三田村城は姉川古戦場のついでという位置づけ。滞在時間もこちらのほうが長かったです。
いちおう確認はしましたが,何か心霊のようなモノが写っておりましたらお知らせくださいませ。

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小倉はいろいろ辛かった😅 (2026/07/17 訪問)

小倉駅に着いたら豪雨、湿度88%の中を歩いてやっと着いた小倉城でジュースを買ったら810円のお釣りがジャリ銭で出てきてファーストビックリ😱次の日に地元民オススメの「肉肉うどん」を食べたら、肉がゴロゴロでボリュームタップリ、でも出汁は辛くて、朝8:30から食べるにはキツすぎてセカンドビックリ😅早くもツーアウト!ピンチかと思ったが最後に食べたJR小倉駅の「博多ラーメンshinshin」が美味しくて逆転ホームランでした。なかなか小倉の街は戦国さながらにハラハラドキドキさせてくれますよ。

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