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シャンシャン

因島の城巡り② (2026/06/12 訪問)

因島水軍の本拠地、青影城。
登山口まで細い離合困難な道を車で登る。登山口からは比較的しっかり整備されていて登りやすい。
石垣があったけど、城の遺構ではなくたぶん昔の段々畑のような感じだった。
本丸からの景色は青木城以上の絶景!瀬戸内海の島々と海が広々と見渡せる。

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シャンシャン

因島の城巡り① (2026/06/12 訪問)

しまなみ海道の因島の城巡り。ひとつめは青木城。
小振りな城だけど、遺構としては郭がしっかり残っていて、石垣も当時のものかわからないけど少し確認できた。
頂上からの景色は抜群!因島水軍が島々を渡る船をここから監視していたんだろうなーとロマンを膨らませてみる。
因島大橋がよく見える映えスポットも近くにあって、無料で入れる福山大学のこじんまりした水族館も楽しい。

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トベシュン

宮城・山形・福島の続100名城5城と宮城の100名城2城巡り (2021/06/21 訪問)

宮城・山形・福島の続100名城5城と宮城の100名城2城巡り 山形「鶴ヶ岡城跡」「米沢城跡」、福島「向羽黒山城跡」「三春城跡」、宮城「白石城址」「多賀城」「仙台城」、おまけ「鶴ヶ城址(会津若松城址)」を巡ってきました。

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トベシュン

宮城・山形・福島の続100名城5城と宮城の100名城2城巡り (2026/06/21 訪問)

宮城・山形・福島の続100名城5城と宮城の100名城2城巡り 山形「鶴ヶ岡城跡」「米沢城跡」、福島「向羽黒山城跡」「三春城跡」、宮城「白石城址」「多賀城」「仙台城」、おまけ「鶴ヶ城址(会津若松城址)」を巡ってきました。

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トベシュン

宮城・山形・福島の続100名城5城と宮城の100名城2城巡り (2025/06/21 訪問)

宮城・山形・福島の続100名城5城と宮城の100名城2城巡り 山形「鶴ヶ岡城跡」「米沢城跡」、福島「向羽黒山城跡」「三春城跡」、宮城「白石城址」「多賀城」「仙台城」、おまけ「鶴ヶ城址(会津若松城址)」を巡ってきました。

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トベシュン

宮城・山形・福島の続100名城5城と宮城の100名城2城巡り (2026/06/20 訪問)

宮城・山形・福島の続100名城5城と宮城の100名城2城巡り 山形「鶴ヶ岡城跡」「米沢城跡」、福島「向羽黒山城跡」「三春城跡」、宮城「白石城址」「多賀城」「仙台城」、おまけ「鶴ヶ城址(会津若松城址)」を巡ってきました。

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トベシュン

宮城・山形・福島の続100名城5城と宮城の100名城2城巡り (2026/06/20 訪問)

宮城・山形・福島の続100名城5城と宮城の100名城2城巡り 山形「鶴ヶ岡城跡」「米沢城跡」、福島「向羽黒山城跡」「三春城跡」、宮城「白石城址」「多賀城」「仙台城」、おまけ「鶴ヶ城址(会津若松城址)」を巡ってきました。

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トベシュン

宮城・山形・福島の続100名城5城と宮城の100名城2城巡り (2026/06/20 訪問)

宮城・山形・福島の続100名城5城と宮城の100名城2城巡り 山形「鶴ヶ岡城跡」「米沢城跡」、福島「向羽黒山城跡」「三春城跡」、宮城「白石城址」「多賀城」「仙台城」、おまけ「鶴ヶ城址(会津若松城址)」を巡ってきました。

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トベシュン

宮城・山形・福島の続100名城5城と宮城の100名城2城巡り (2026/06/20 訪問)

宮城・山形・福島の続100名城5城と宮城の100名城2城巡り 山形「鶴ヶ岡城跡」「米沢城跡」、福島「向羽黒山城跡」「三春城跡」、宮城「白石城址」「多賀城」「仙台城」、おまけ「鶴ヶ城址(会津若松城址)」を巡ってきました。

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トベシュン

宮城・山形・福島の続100名城5城と宮城の100名城2城巡り (2026/06/19 訪問)

宮城・山形・福島の続100名城5城と宮城の100名城2城巡り 山形「鶴ヶ岡城跡」「米沢城跡」、福島「向羽黒山城跡」「三春城跡」、宮城「白石城址」「多賀城」「仙台城」、おまけ「鶴ヶ城址(会津若松城址)」を巡ってきました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征10日目:会下城 (2026/05/20 訪問)

本日は15:00頃から雨が降る予報なので、雨が降りだす前に多くのお城を攻城します。
鹿野城から車で10分ちょっとで、案内板前付近(35.498326、134.033448)に着き路駐ました。

築城年代は定かではないようですが、永禄年間(1558年~1570年)頃には毛利方の軍勢が在城していたそうです。
元亀・天正年間(1570年~1592年)の城主は逢坂与十郎で、村の前の田圃に屋敷があったそうです。
しかし、敵に攻められ細工谷の難坂を越えて青屋へ落ちていった後、城はほどなく落城したようです。

最高所の大きな窪みのある郭が主郭のようです。(主郭付近の写真は手違いで削除してしまいました)
背後に高土塁、堀切が見られ、南側は水道施設が埋設されています。
攻城時間は30分くらいでした。次の攻城先=大崎城に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征10日目:鹿野城 (2026/05/20 訪問)

本日は15:00頃から雨が降る予報なので、雨が降りだす前に多くのお城を攻城します。
防己尾城から車で15分くらいで、城山神社鳥居手前スペース(35.459354、134.063602)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、因幡国守護の山名氏に属していた志加奴氏によって築かれたと云われています。
1543年(天文12年)に尼子晴久が因幡へ侵攻したさい、志加奴入道は鹿野城に籠城して討死しています。
尼子氏が衰退して毛利氏が台頭すると鹿野城も毛利氏に属しましたが、1581年(天正9年)羽柴秀吉が鳥取城を攻めたとき、配下にいた旧尼子家臣の亀井茲矩によってによって落城させられました。
亀井茲矩はこの功によって13,800石が与えられ鹿野城主となりました。
関ヶ原合戦では東軍に属して加増を受け38,000石、さらに1612年(慶長17年)二代亀井政矩が5,000石の加増を受け、43,000石となりました。
1617年(元和3年)亀井政矩は石見国津和野へ転封、鹿野藩は鳥取藩池田家の所領となり、鹿野城も廃城となりました。
1638年(寛永15年)播磨国山崎藩主の池田輝澄はお家騒動により改易となります。
改易となった輝澄は鳥取藩主池田光仲にお預けとなって因幡国鹿野に堪忍料10,000石を与えられます。
再び鹿野藩が成立しますが、1662年(寛文2年)輝澄が没すると子の政直に10,000石が与えられ、播磨国福本藩を立藩して大名に復しました。
1868年(明治元年)鳥取東館藩が鹿野に藩庁を移し、鹿奴藩を称しましたが、翌1869年(明治2年)に鳥取藩に合併し消滅しました。
この鹿奴藩は、1685年(貞享2年)鳥取藩主池田光仲の次男・池田仲澄が新田25,000石を分与されたことに始まり、5,000石の加増を受けて30,000石を領しました。
藩庁は設けず鳥取城の東側に居所を構えたことにより東館藩と呼ばれたようです。

現在は鹿野城跡公園として整備されており、天守台や石垣などの遺構が残っています。
麓には近世に整備された本丸と二の丸(出丸)があり、今でも水堀が残されています。
麓の本丸・二の丸は鹿野学園の敷地ですが、観光用の遊歩道が設置されています。
攻城時間は35分くらいでした。次の攻城先=会下城に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征10日目:防己尾城 (2026/05/20 訪問)

本日は15:00頃から雨が降る予報なので、雨が降りだす前に多くのお城を攻城します。
布勢天神山城から車で10分くらいで、湖山池公園駐車場付近(35.504401、134.133423)に着きました。

防己尾城は鳥取城の支城で、当時は吉岡城と呼ばれていました。
吉岡氏は丸山城を本拠としていましたが、1573年(天正元年)頃に箕上山城に本拠を移し、その後1579年(天正7年)に吉岡将監定勝が防己尾城を築いて新たな本拠としたそうです。
天正9年(1581年)織田信長の武将羽柴秀吉が鳥取城を攻めたとき、定勝は秀吉の軍勢の背後を奇襲するなど度々脅かしました。
秀吉は三津ヶ崎本陣山城に本陣を構えて防己尾城を攻めたが、将監の弟右近に千生瓢箪の馬印を奪われるなどして敗れ、攻め落とすことができませんでした。
力攻めは不利と悟った秀吉は兵糧攻めに切り替え、糧食つきた吉岡一族は降伏して城を出て、毛利氏の本拠である安芸国など諸国を放浪の末、因幡国にもどって帰農したと伝えられています。

現在、城地は城跡公園となっていおり、土塁、曲輪跡、竪堀跡などが残っています。
本丸には、「防巳尾城址」の石碑、説明板が建てられており、本丸から湖山池が見えますです。
雨が降りだす前に多くのお城を攻城したいので二の丸には行ってません。
観光時間は20分くらいでした。次の攻城先=鹿野城に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征10日目:布勢天神山城 (2026/05/20 訪問)

本日は15:00頃から雨が降る予報なので、雨が降りだす前に多くのお城を攻城します。
市場城から車で30分弱で、説明板入口付近空スペース(35.510355、134.175553)に着きました。

1466年(文正元年)山名勝豊によって築かれたと云われていますが、勝豊は1459年(長禄3年)に没しており、この年代には疑義がもたれています。
勝豊は二上山城から布勢天神山城を築いて守護所を移したそうです。以降、代々因幡山名氏の居城として続きます。
1563年(永禄6年)山名豊数は鳥取城を本拠として離反した武田高信の猛攻を受けて布勢天神山城を退去し、鹿野城に退きます。
1573年(天正元年)尼子氏の援助を受けた豊数の弟・山名豊国が武田高信を鳥取城から追い、守護所を鳥取城に移転させ、天神山城は廃城になったそうです。

布勢天神山城は湖山池の東岸、天神山と呼ばれる小山に築かれています。
現在は鳥取緑風高校の敷地になっていますが、城跡へは遊歩道が設けられており散策することができます。
主郭には井戸があり、櫓台の崩れた石積みや堀切などを見ることができます。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=防己尾城に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征10日目:市場城 (2026/05/20 訪問)

本日は15:00頃から雨が降る予報なので、雨が降りだす前に多くのお城を攻城します。
山崎城から車で20分弱で、登城口(35.417415、134.313263)前の公民館に着きました。

築城年は定かではないようですが、室町時代前期、因幡毛利氏によって築城され、以後同氏の本拠地となったようです。
毛利氏は大江広元を祖とする一族で、毛利元就で著名な安芸毛利氏とは同族です。市場城(私部城)の毛利氏は鎌倉時代頃に入部し地頭として在地しました。

1479年(文明11年)毛利次郎貞元は因幡国守護山名豊時に対して反乱軍を起こし、細川氏や赤松氏と結んで山名氏と戦いましたが、翌年には但馬国守護山名政豊によって鎮圧されます。
1489年(延徳元年)第2次毛利次郎の乱を起こした城主・毛利貞元は山名豊時に攻められ市場城(私部城)にて自害しました。
1504年(永正元年)私部志谷口合戦では毛利方と思われる土師四郎左衛門尉が山名豊重方の武将・北川与三左衛門尉によって討捕らえられています。
1560年(永禄3年)山名宗詮方の武将・中村政重父子らと毛利氏との間で合戦が行われ(私部表合戦)、毛利左近丞らが戦死しています。
1564年(永禄7年)経緯不明ですが、但馬山名氏との関係改善がなされたようで、山名宗詮が市場城に入っています。
その後も毛利氏・尼子氏・山名氏などが複雑に入り乱れる情勢が続き、尼子勝久・山中幸盛の挙兵以降、因幡毛利氏は尼子方に属しました。
1573年(天正元年)幸盛の娘婿(養女)の亀井茲矩が城を任されている。その時、茲矩はまだ17歳だったそうです。
1574年(天正2年)山中幸盛が入城し、「安芸毛利氏と対抗するための拠点」として利用していますが、翌年には安芸毛利氏の猛攻によって二の丸・三の丸まで攻め込まれ落城しました。
因幡毛利氏は落城後、安芸毛利氏に降りましたが、1580年(天正8年)には羽柴秀吉によって落城させられ、城主・毛利豊元らは山名豊国の鳥取城へ逃れたそうです。
1581年(天正9年)当城は安芸毛利方の包囲下に置かれ、秀吉方は長期の籠城を余儀なくされており、当城に但馬からの兵糧が運ばれたものの、城内の士気は低下していたそうです。
毛利豊元の退城の後、但馬有子山城から山名氏政が領地替えとなり入城し、当城より軍勢を引き連れ、鳥取城攻めに加わりました。
山名氏政は当城より軍勢を引き連れ、鳥取城攻めに加わった。
1582年(天正10年)山名氏政は播磨加古郡へ再び領地換えとなり、市場城は廃城となりました。

市場城は市場集落の南方の山頂に築かれており、市場集落から登山道が山頂まで続いています。
登山道は落葉で滑り易く、雨がふったら危険だと思います。
登山道は「カエル岩」を経て山頂の主郭に至るようですが、西の郭付近で赤テープを見失い迷子の危険性があるので引き返しました。
登城口前にある案内板に縄張図とともに説明がされています。
攻城時間は40分くらいでした。次の攻城先=布勢天神山城に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征10日目:山崎城 (2026/05/20 訪問)

本日は15:00頃から雨が降る予報なので、雨が降りだす前に多くのお城を攻城します。
鳥取駅でレンタカーを借り、そこから車で30分弱で、殿ダム展望所駐車場(35.447223、134.341811)に着きそこから、登城口(35.446470、134.341267)に向かいました。

築城年は定かではないようですが、室町時代頃に因幡毛利氏が築城したと言われ、一族の山崎毛利氏が居城しました。
天文年間(1532年~1555年)に城の立地する大萱(おおかや)郷が但馬と通じる要所であることに目をつけた本家に攻撃され(山崎城の戦い)落城、山崎毛利氏滅亡後は私部本家のものとなりました。
山崎城主の毛利氏は大江広元の後裔で私部城主の毛利氏や安芸の毛利氏と同族でした。

扇ノ山系末端の山頂部に位置するが、周囲の山が城山より高いため見晴らしはあまり良くありません。
現在は登山道が整備されているので主郭まで行くことができます。
主郭には現在、東屋が建てられており、主郭の北側や側面などに石積が点在しています。周囲にも石がたくさん転がっていました。
攻城時間は30分くらいでした。次の攻城先=市場城に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征10日目:鳥取駅周辺散策 (2026/05/20 訪問)

宿泊先ホテルの朝食前に、新山城の攻城と鳥取駅周辺を散策しました。
本日は15:00頃から雨が降る予報なので、雨が降りだす前に多くのお城を攻城します。
新山城から徒歩40分弱で、因幡の麒麟獅子舞像(35.494083、134.227032)に到着し、その後、沢井手公園入口付近(35.491901、134.226281)に移動しました。

鳥取駅前では麒麟獅子舞像と夢時計、「TOTTRI」文字モニュメントが確認できます。
沢井手公園は鳥取鉄道記念物公園とも呼ばれ、小さい駅とポイント切り替えがありました。
攻城時間は20分(移動時間含む)くらいでした。次の攻城先=山崎城を攻城する前に、ホテルに戻って朝食を食べました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征10日目:新山城 (2026/05/20 訪問)

宿泊先ホテルの朝食前に、新山城の攻城と鳥取駅周辺を散策しました。
本日は15:00頃から雨が降る予報なので、雨が降りだす前に多くのお城を攻城します。
宿泊先ホテルから徒歩45分弱で、徳尾配水池障壁付近(35.497905、134.201060)に着きました。

築城年代は1513年(永正10年)布勢天神山城の築城と同時期とも、天文年間(1532年~1555年)とも云われています。
付近には因幡守護であった山名氏の守護所・布勢天神山城が存在しており、守護の居城を守る重要な軍事拠点であったものと推測されています。
1545年(天文14年)には因幡山名氏重臣の中村政重が城番に任じられています。廃城年代についても今のところ不明のようです。

入口が施錠され中に入れません。ホテルから45分近くかけて歩いてきたのに残念です。
遠望の写真を撮って撤退です。
攻城時間は5分くらいでした。次の観光先=鳥取駅周辺散策に徒歩で向かいました。

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カズサン

二の丸御殿銀杏型石垣 (2026/05/26 訪問)

 カサブランカ百合を逆川遊歩道沿いに鑑賞し、三の丸、本丸、二の丸と廻り二の丸御殿の玄関先石段の東側の石垣を何となく見ていましたら飾り石垣に目が留まりました、銀杏型石垣との事、浜松に在住して五十数年経ち掛川城への登城も五十数年経ちますが、飾り石垣の銀杏型石垣との事は初めての認識でした、五十数年経っても新たな発見、観察が雑だった事なのでしょう。
 同じ城に登城しても新たな視点で眺めると新たな発見認知に遭遇するものです。
 ネットで調べて見てもハッキリした事は判りませんが、一豊の時代、江戸期太田氏の時代地震後の復旧修復時代か?良く分かっていないそうですが、石垣職人の粋な仕事が判る石垣です。
 

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カズサン

皐月末緑深まる掛川城 (2026/05/26 訪問)

 外堀代わりの逆川左右百合を見ようと寄った今年2度目登城、先に洋種百合カサブランカ鑑賞と掛川城天守群を投稿しましたが、皐月末で緑も深まり、葉桜緑の木々越しに見上げる天守閣、建物も見逃せません、緑、青空、白亜の天守の姿を投稿します。
 4月3日の桜の時期から1ヶ月半後の登城でした。
 

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