みんなの投稿

検索結果・・・「」を含む投稿

駿府城

7月30日(水)鬼瓦を作ってみよう!―つくって・飾って・学べる夏のものづくり体験―

日本の伝統的な工法によって復元された坤櫓。その坤櫓の鬼瓦など、自分だけのオリジナルミニ鬼瓦を一緒に作ってみませんか?作品製作後、一旦お預かりし、後日瓦職人で焼き上がり完成となります。完成した作品は坤櫓内で展示させていただきます。

鬼瓦を作ってみよう!
◆開催日:令和7年7月30日(水)
◆開催時間:①10:00~10:50 ②11:00~11:50
※希望時間帯についてはご希望に添えない可能性がございます。
◆会場:コミュニティホール七間町1階ホール(静岡市葵区七間町12-4)
◆参加対象:どなたでもご参加OK ※小学4年生以下の方は保護者同伴でお申し込みください。
◆募集人数:40名(応募者多数の場合は抽選)各回20名程度
◆参加料:2,000円(材料・焼成費込み)※完成作品の配送をご希望の場合は、着払いでの発送となります。
◆申込方法:往復はがき、ホームページよりお申し込みください。 ※詳細は添付画像をご覧ください。
◆申込期限:令和7年7月21日(月・祝)必着
※詳細は駿府城公園公式ホームページをご覧ください。(https://sumpu-castlepark.com/info/archives/3067)
世界に一つだけの「思い出」と「作品」を、夏の坤櫓で作ってみませんか?ぜひご参加ください♪

+ 続きを読む

トク

【筑紫広門】(3)猫尾城(黒木城) (2025/05/17 訪問)

筑紫広門の続き(3/6)です。八女市黒木町にある猫尾城(黒木城)を訪れてきました。勝尾城の戦いの前に、広門の不可解な行動ついてお話します。

猫尾城は、矢部川と笠原川に囲まれた標高240mの山城です(写真①)。JR羽犬塚駅から黒木行の堀川バスに乗り50分、終点黒木で下車します。そこから山頂の本丸まではさらに徒歩で50分です。途中には有名な「黒木の大藤」がありましたが(写真②)、藤の花はすでに散っていたのが残念でした。大藤の横の水路には鯉が泳いでいました(写真③)。酒蔵や白壁もあり、黒木町は城下町の雰囲気がよく残っています。

この大藤を過ぎてすぐにある、黒木中学校の横から登城します(写真①)。車の方はもう1km先を左折すると頂上近くまで行ける道路があるようです(地図⑧)。徒歩での登城路は枯れ葉が多いも舗装されていたので歩きやすかったです(写真④)。山頂に着くと神社がありました。ここが猫尾城本丸です(写真⑤)。大友との戦いで討死した黒木氏家臣を弔う慰霊碑がありました(写真⑥)。神社とその向側には算木積みの石垣がありました。江戸時代にはここに街道の番所があったので、この石垣はその時のものかもしれません(写真⑦)。この石垣で本丸は囲まれていたようです。本丸以外は野面積でした。山頂本丸からは眼下には黒木町の町並みが、遠くには筑後平野や有明海までもかすかに見えました(写真⑨)。

広門はここを訪れてはいませんが、間接的にここであったある戦いが、実は広門の人生のターニングポイントにつながったと言っても過言ではないと思ったので、今回私は訪れました。

1584年に龍造寺隆信が沖田畷の戦いで島津家久に討ち取られると、同年すぐに大友義統(宗麟の嫡子)は、龍造寺に奪われた大友の領地を奪還するため、まず龍造寺配下の黒木氏の猫尾城を攻めます。しかしなかなか落ちません。そこで、立花道雪と高橋紹運が北から援軍として駆け付け、猫尾城はついに落城します。そして次に、道雪と紹運は同じく龍造寺配下であった蒲池氏の柳川城攻めにとりかかります。しかし何とここで道雪が病死してしまうのです。

この隙に広門は、島津の命で手薄になっている紹運の宝満山城と岩屋城を背後から襲い、難無くこれらを攻め落とします。しかし私がわからないのはここからです(🤔?)。広門はこのままこの二城を支配し島津軍の到着を待つのかと思えば、何と・・・道雪の跡を継いだ道雪の娘婿で紹運の実子(長男)で立花山城の城主となった「立花宗茂」と和睦の交渉をします。そして、宝満山城主で宗茂の弟である「立花直次」に自分の娘(加祢姫)を嫁つがせる事で紹運も同意したため、和睦は成立しました。なぜ広門は耳川の戦い(1578年)に負け、没落中であった大友氏に近づこうとしたのでしょうか? ここが未だによくわかりません。なぜ島津氏を裏切って大友氏と手を組み、北上してくる島津氏に対抗しようとしたのでしょうか? しかしこの判断は、結果的には裏目に出てしまいます。

そしてその2年後1586年、島津は九州制覇を目指して北上を開始します。当主の島津義久は裏切った広門を絶対に許す気はありません。義久の命を受け九州を西上する島津忠長(島津四兄弟の叔父)は、2万の大軍をもって真っ先に広門が籠る勝尾城を包囲します。対する筑紫軍はわずか3千! もはや絶体絶命です。さあどうする広門! 次は勝尾城の決戦に続きます。

位置関係が分かりにくいと思いましたので地図を作ってみました。よければ参考として下さい(写真⑩)。

【余談】この黒木町は女優「黒木瞳」さんの出身地で、猫尾城の登城口にある黒木中学校の卒業生だそうです🤔(写真①)。
 

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

イオ

東の城 (2025/04/20 訪問)

詳細は不明ながら、南北朝期に南朝方の浅間氏や保田氏が藤白山系に築いたとされ、山名義理により北麓に大野守護所が置かれると、守護所の背後を守る山城として機能したと考えられます。その後、紀伊国守護は山名氏から大内氏、畠山氏へと代わり、畠山基国が守護所を広に移した後も戦国末期まで活用されましたが、畠山氏の没落とともに廃城となったようです。

森林公園 雨の森駐車場から登城開始。大野城は「東の城」と「西の城」と呼ばれる二つの曲輪群からなり、東の城の登城口まで林道が通じているようですが、雨の森からの高低差はほとんどない上に、途中から未舗装になるらしいので無難に徒歩を選択。駐車場から約20分で登城口に着きました。

案内表示に従って登城口から階段を上って行くと送電鉄塔があり、振り返ると市街から和歌浦方面の眺望が開けています。さらに上って道をそれると主郭北裾に浅い堀切がありました。堀切から直登した主郭は三段の曲輪からなり、頂部に大野城趾の石碑と文字が消えてしまった説明板が立てられています。主郭から西尾根へと下りたところには藪化した堀切があり、南側に竪堀となって落ちていました。

西尾根には尾根に沿っていくつかの曲輪群が展開し、北辺には尾根を削り残した土塁が設けられています。曲輪群は堀切により東西に区画され、堀切の南側は竪堀となってずっと下まで続いています。竪堀に下ろされたトラロープを頼りに下りて行くと、西尾根曲輪群の南面には竪堀群と腰曲輪が縦横に設けられ、南側への警戒感が窺えます。

さて、竪堀群から尾根まで戻って、尾根伝いに西の城を目指します(続く)。
 

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

小城小次郎

車で横づけできるありがたい山城 (2024/11/03 訪問)

地誌類を辿ると断続的に依田氏の名が登場する。千曲川を臨む断崖の上にあるが上から行くと平坦で駐車場もあって車で横づけできる便利なお城なのでこっち方面で最後に立ち寄る一城にはうってつけ。最後の写真は石垣かなあ。

+ 続きを読む

昌官忠

(東海&関西)遠征218日目:三瀬館 (2025/06/04 訪問)

三瀬砦から徒歩15分くらいで、三瀬館入口(34.404813、136.419095)に着きました。
そこから、北畠具教胴塚(34.405657、136.419448)➡三瀬館➡北畠神社分岐点(34.403991、136.417377)の順番で巡りました。

1571年元亀2年()北畠具教によって築かれたと云われています。
1569年(永禄12年)北畠具教は大河内城で織田信長の軍勢と戦いますが、信長の次男信雄を養子に迎えて家督を譲ることで和睦となり、隠居して大河内城より三瀬館に移りました。
しかし、1576年(天正4年)に織田信雄が差し向けた客により謀殺されると、信長の命で森清十郎が城主となりました。

数段に削平された曲輪と石垣からなる館跡です。背後の愛宕山に見張り台があるようですが行っていません。
攻城時間は40分くらいでした。本日の城巡りは、ここがラストです。
本日の宿泊先に行く為、伊勢市駅に戻り荷物をコインロッカーより取り出した後、伊勢市駅から電車で松阪駅に向かいました。
歩行歩数=33020歩、歩行距離=23.1Kmです。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

(東海&関西)遠征21日目:三瀬砦 (2025/06/04 訪問)

三瀬谷駅から徒歩20分ちょっとで、三瀬砦案内板/進入口(34.401268、136.426326)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、永禄年間(1558年〜1570年)に三瀬左京によって築かれ、元和年間(1615年~1624年)に廃城になったとと云われています。
三瀬左京は北畠具教の家臣ですが、1576年(天正4年)三瀬館の北畠具教を殺害した時の一人長野左京進と同一人物ではないかとの説もあるようです。
近くの慶雲寺は三瀬氏の菩提寺で、三瀬氏の位牌や三瀬氏最後の武将・三瀬左京祐の木造が安置されているそうです。

砦の周囲は高土塁によって囲まれ、内部には古井戸もあります。
現在は八幡社が祀られています。東側虎口に城址碑と案内板があります。
攻城時間は35分くらいでした。次の攻城先=三瀬館へ徒歩で向かいました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

(東海&関西)遠征21日目:八柱神社(津村バス停横) (2025/06/04 訪問)

津村バス停で乗換時間が少しあったので、バス停横の八柱神社を見学しました。
一の鳥居と道にはみ出る御神木の楠。この木の伐採を避けるため、バイパスができたといわれています。大きい御神木の楠(写真撮り忘れました)。
御本殿横に建つ祠ですが、噂でこの祠の写真を撮ると鳥居が歪んで見えると聞き、試しに撮影して見ました。確かに何となく微妙に歪んで見える?かな。

伊勢市駅で電車の待ち時間に伊勢うどんを食しました。(自分には出汁がちょっと甘すぎます)
攻城時間は10分くらいでした。次の観光先=三瀬砦を目指す為、津村バス停からバス➡電車を乗り継ぎ、三瀬谷駅に向かいました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

(東海&関西)遠征21日目:一之瀬城(西の城) (2025/06/04 訪問)

一之瀬城には、一之瀬城(東の城)と一之瀬城(西の城)があるので別々に投稿します。
一之瀬城(東の城)から徒歩5分くらいで、西の城登り口(34.351117、136.586461)に着きました。

一之瀬城(西の城)は青木山城とも呼ばれています。一之瀬城(東の城)の支城と考えられています。
登り口から入ると向井将監屋敷(脇出殿屋敷)があり、いくつかの堀切を挟んで、主郭に辿り着きます。
主郭西側に四重堀切があり、そこから一旦下り、さらに登った先に二条の堀切があります。(標識は空堀となっています)
小さいながら堀切の連続は圧巻でした。
攻城時間は35分くらいでした。次の攻城先=三瀬砦を目指す為、脇出バス停からバス➡電車を乗り継ぎ、三瀬谷駅に向かいました。
当初の予定では、脇出バス停からバスで津村バス停に向かい、そこでバスを乗り継ぎ五ヶ所バス停に到着。そこから五ヶ所城を攻城する予定でした。
しかし、津村バス停で痛恨のミス。五ヶ所バス停に向かう方向と逆の場所に立っていた為、目の前でバスが通り過ぎてしまいました。
ショックのあまり暫し茫然。しかたなく、予定を変更し、バスで伊勢市駅に向かい、そこから電車で三瀬谷駅に向かうことにしました。
五ヶ所城攻城のリベンジはちょっと難しいかもです。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

(東海&関西)遠征21日目:一之瀬城(東の城) (2025/06/04 訪問)

一之瀬城には、一之瀬城(東の城)と一之瀬城(西の城)があるので別々に投稿します。
一之瀬公民館バス停から徒歩2~3分くらいで、一之瀬神社参道入口(34.351135、136.589876)に着きました。

南北朝期、愛洲氏の城で、1337年(延元2年)愛洲太郎左衛門は後醍醐天皇の皇子、宗良親王をお迎えし北朝と戦ったとされ、城は愛洲氏の支城として続きます。
愛州氏は宝徳年間(1449年~1552年)頃には五ヶ所城へ居城を移しています。
1575年(天正3年)北畠信雄が田丸城へ入城するにともない、田丸具忠は田丸城を出て一時、一ノ瀬城に入ったとされます。

一之瀬神社参道入口に駐車場とトイレがあります。城内を散策するルートが設定されており見学し易く整備されています。
城跡は一ノ瀬神社となっていて、本殿背後の高台が主郭のようです。主郭を挟んで本殿反対側の北側下に堀と土塁があります。
登り口に地元作成の資料があり、堀切や土塁を見学しました。
攻城時間は25分くらいでした。次の攻城先=一之瀬城(西の城)へ徒歩で向かいました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

(東海&関西)遠征21日目:おかげ横丁 (2025/06/04 訪問)

「おかげ横丁」を覗いてみましたが、朝早い為、多くのお店は開いていません。
観光時間は10分くらいでした。次の攻城先=一之瀬城(東の城)を目指す為、神宮会館前バス停からバスを乗り継ぎ、一之瀬公民館バス停に向かいました。

+ 続きを読む

昌官忠

(東海&関西)遠征21日目:皇大神宮(伊勢神宮 内宮) (2025/06/04 訪問)

ホテルから15分くらい歩いてJR伊勢市駅に着き、コインロッカーに荷物を預けました。
その後、伊勢市駅前からバスに乗り、内宮前バス停に着きました。ちなみに、本日は三重バスの利用が多いので、バス車内で「みちくさきっぷワイド」を購入しました。
内宮前バス停から徒歩2~3分で、宇治橋鳥居前(34.458969、136.722907)に着きました。

「伊勢神宮を参拝するなら外宮から」というのが昔からの習わしです。
内宮だけ、または外宮の一方だけの参拝は「片参り」と言われて、縁起が良くないという話もあります。
本日の朝早く、豊受大神宮(伊勢神宮 外宮)には参拝済なので、皇大神宮(伊勢神宮 内宮)参拝で両宮参拝となります。
コースは内宮60分コース(宇治橋~参集殿:9ヶ所)で巡りました。
重々しく力強い、新鮮な空気が漂うパワースポットでした。
観光時間は60分くらいでした。次の攻城先=一之瀬城(東の城)を目指す前に、「おかげ横丁」を覗いてみました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

(東海&関西)遠征21日目:豊受大神宮(伊勢神宮 外宮) (2025/06/04 訪問)

前日の風邪も早めに飲んだ薬(攻城遠征時はいつも常備しています)とたっぷりとった睡眠で、なんとか持ち直しました。
宿泊先のホテルの朝食前に、朝5時からあいているようなので、豊受大神宮(伊勢神宮 外宮)を観光しました。
ホテルから徒歩15分くらいで、豊受大神宮入口(34.489170、136.704379)に着きました。

「伊勢神宮を参拝するなら外宮から」というのが昔からの習わしです。
内宮だけ、または外宮の一方だけの参拝は「片参り」と言われて、縁起が良くないという話もあります。
さすがに罰はあたらないと思いますが、せっかくお参りに行ったのに、縁を結べないのは勿体ないので、まずは外宮を参拝しました。
コースは外宮60分コース(火除橋~度会国御神社・大津神社:18ヶ所)で巡りました。

火除橋から先は「左側通行」となります。
なぜ左側通行なのかというと、伊勢神宮の公式サイトでは参道の外側を通って神前に進んだ参拝者の「慎みの心」の表れと考えられています。
重々しく力強い、新鮮な空気が漂うパワースポットでした。
観光時間は65分くらいでした。次の攻城先=皇大神宮(伊勢神宮 内宮)を攻城する前に、ホテルに戻り朝食を食べました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

天守無しがアツい

民家の裏 (2025/06/29 訪問)

大雄山線岩原駅から徒歩10分
御城印は大雄山駅の改札口にて1枚300円で発売

民家の駐車スペースに矢印の標識
それに従って歩き…草を突っ切って進むと城跡想定図並びに墓石に辿り着ける

けれどそのショートカットを知らない私は…わざわざ周囲をぐるっと反時計回りに歩く形で…遠回りしてしまった🚶

城跡想定図を見て…そこから自分なりに学び…墓石に手を合わせて合掌🙏しかし虫が払っても払っても飛び回ってくるので…あまり長居はできなかった😅☀️

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

しんちゃん

星に願いを (2025/06/29 訪問)

今日は七夕みたいです。星に願いを奏でましょう。明日はきっといいことがありますよ。

富長城は日本海に面した微高の丘陵地の上に築かれていました。元弘年間に名和氏に協力した荒松氏によって築かれたと伝わり、戦国時代には西伯の土豪・福頼佐右衛門尉が在城したと伝わっています。
富長神社一帯が城址とされ、社殿の背後に土塁を備え、北西は櫓台の跡とされています。東側には堀切があり橋がかかっています。主郭の西側にも堀があったと思うのですが、今は埋まっているようです。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

じゅんじん

高崎が夜! (2025/02/11 訪問)

ここは2度目も夜でした。
象がいます。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

じゅんじん

川沿い (2025/02/11 訪問)

住宅地の片隅の公園に城址碑がありました。

+ 続きを読む

じゅんじん

山名発祥の地? (2025/02/11 訪問)

本丸にはご子孫筆の城址碑がありました。近くの山名八幡宮には山名氏の碑があります。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

にのまる

壮観! (2025/04/24 訪問)

おもろまち駅前からバス2本で行きました。1本目のバスが渋滞で30分近く遅れ、コザでの乗り継ぎがダメかと思いましたが、2本目も遅れてきたのでセーフでした。
5日間の滞在中、モノレールよりバス移動の方が多く、あたふたする場面も何度かありましたがそれも良い経験でした。

勝連城跡前でバスを降りてはじめにあまわりパークへ。新しくて気持ちいい!まだ整備中でさらに大きな施設になるようです。
続100名城93個目のスタンプを押していざ登城。

なのですが、見上げる石垣の迫力にドキドキが止まりません。。。
早く行きたい気持ちとずっとここで見上げていたい気持ちがせめぎ合い、落ち着け自分……という感じでした。

発掘された遺構により証しされる史実と語り継がれてきた伝承からイメージされるのはこれまでに体験したことのない世界観。まだ見ぬ世界がこの世には溢れていて、時間をかけてそれらひとつひとつと出会っていく楽しさをしみじみと思いました。

それぞれの郭の特徴や役割、貴重な水源である「カー」や祈りの場などからグスクのイメージも大分掴めてきました。
そして素晴らしい景観も存分に楽しみました。行けてよかったです。


朝田さんへ。
勝山城、やっぱり怖いです😱
すごいーーー。
ちなみにその日、私は今年2度目の新潟にいました。
弥彦線と越後線完乗して弥彦山山頂の奥宮まで行って、夕ご飯はCoCoLo新潟の燕三条ラーメン潤さんで中華そばをいただきました。おいしかったです!

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

しんちゃん

弁慶坂から本丸へ (2025/01/03 訪問)

千石城は県道242号線の東の丘陵上に築かれていて、三の丸が駐車場になっています。三の丸から南に二の丸、本丸と続き周囲に曲輪などが残っています。今回は南の県道沿いから「弁慶坂」を登って行って本丸からアクセスしています。
弁慶坂を登って行くと周辺に曲輪などが見られるため、駐車場から訪問するより多めに城址の雰囲気を楽しむことができます。

遠藤盛遠(文覚上人)もしくは、その後裔によって築かれたとされ、天正16年(1588)には遠藤高康が千石館の主であったとされています。
同年の中新田合戦では伊達の軍勢が千石館を基地として参集し、天正18年の大崎一揆の平定に際して、伊達政宗が入城しており、遠藤氏は伊達氏に従い大崎氏と対抗していたと見られ、千石館はその拠点であったようです。
遠藤氏が領地替えになった後も、江戸期を通して使用されますが、館主である茂庭良元が慶安4年(1651)に上野館に隠居し、子の定元も上野館に移り、千石館には三の丸に家臣が一名置かれるのみとなりました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

朝田 辰兵衛

松平元康の兵糧入れ… (2025/03/22 訪問)

桶狭間古戦場に来たらここは外せないということで,やって来ました。それまで比較的臆病だった松平元康が,大高城の兵糧入れをキメたことで,精神的に自立していくターニングポイントとなった場所だと思っております。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

ページ4