台場公園にありました。ただ、神奈川台場は2ケ所ある事が分かりました。
+ 続きを読む
検索結果・・・「」を含む投稿
2026/01/23 23:08
2026/01/23 22:59
2026/01/23 22:36
2026/01/23 22:23
2026/01/23 13:57
夕陽に染まる二の丸丑寅櫓と続き屛風折れ土塀 (2025/11/15 訪問)
夕刻の本丸丑寅三重櫓と鍮石門の続です。
本丸の三重丑寅櫓、二の丸二重丑寅櫓も夕陽に染まり始めました、期待した二の丸二重丑寅櫓へは入館できず、その時は閉まって居ました、広場には結構な人が出て居りました、二の丸丑寅櫓を広場側より北の通り県道383号線側から見学撮影、西尾城には3月1日にも訪ねて居り2025年は2度目です、丁度三河国城びと登録最後の登城松平城山城(大田城)を初登城踏破した日で三河の未踏の城陣屋を廻って最後の夕刻でした。
現在3月もそうでしたが県道383線と西の城下河川改修、橋の付け替え工事中で二の丸北西に在る天守台石垣の撮影が工事用機材によって撮影が出来ません。工事は令和8年3月15日に終了の様です。
二の丸二重丑寅櫓と続き屛風折れ土塀土塁の復元は令和2年7月に完成しています、又二の丸天守台は平成26年に復元されています。
帰りも国道23号線(第三の高速道路BP名古屋から浜松)を利用、西尾から入り大渋滞、行きも帰りも大渋滞で高速では有りませんでした。
+ 続きを読む
♥ いいね
14人が「いいね」しています。
2026/01/23 13:18
夕刻の本丸丑寅三重櫓と鍮石門 (2025/11/15 訪問)
知多半島沖の篠島に在る篠島城初登城で愛知県尾張国三河国の城びと登録の城を踏破の後、時間も有り第三の高速道R23への撮り道でもあり西尾城へ寄りました、近い以前しんちゃんの投稿で二の丸丑寅櫓に入れたとの投稿も有り、入れたら二の丸丑寅櫓入城したいとの微かな希望もあり寄った次第。
何時もの二の丸丑寅櫓東の西尾市歴史公園駐車場を利用、夕刻でも混んでおり空いた処に入った次第。
二の丸、本丸、西尾市資料館に寄って約30枚ほど撮影しましたので、本丸三重丑寅櫓と鍮石門の写真を投稿します。
本丸三重丑寅櫓と二の丸鍮石門は平成8年復元で約30年を経過しています。
夕陽の染まる二の丸丑寅櫓と続き屛風折れ土塀に続きます。
+ 続きを読む
♥ いいね
14人が「いいね」しています。
2026/01/23 09:37
ぴーかるさんの回答どおりです (2022/01/02 訪問)
ぴーかるさん、応答をありがとうございます。ぴーかるさんをはじめ、城びと投稿者の皆さんに刺激を受けて、楽しんでいます。
滋賀県は、北部と南部でだいぶん気候が変わります。湖西線では、普段から、京都発近江舞子行き、近江舞子発京都行きの電車が多いのですが、昨日のような大雪警報や強風警報がでると、近江舞子より北の電車が止まります。近江舞子駅の一つ北が打下城最寄りの高島駅です。
昨日は、積雪の影響を懸念して、いつもより早めに家を出ました。近江舞子発の電車は定刻通りでしたが、湖東を走る琵琶湖線の乱れの影響を受けて、山科駅乗り入れが待たされて、京都着が遅れました。
ぴーかるさんの宇佐山城からの写真の端っこに弊宅の位置もあります。
+ 続きを読む
♥ いいね
11人が「いいね」しています。
2026/01/23 07:06
2025年の城納め (2025/12/29 訪問)
1月も終盤になりましたがようやく昨年の城納めのレポートです。
車で行って小豆島の2城を、とも思いましたがフェリー代節約のためこの日は星ヶ城のみの登城です。
土庄港からバスで草壁港へ、ここから寒霞渓ロープウェイへの無料シャトルバスが出ています。
本数が少なく約50分待ち、近くの屋外アートを見ても時間があまります。
シャトルでロープウェイへ、絶景を見ながら寒霞渓に着きます。
シーズンオフかとは思いますがまずまずの人で賑わっていました。
オリーブ豚バーガーで腹ごしらえして星ヶ城へ。
星ヶ城神社を経て西峰に着きます。
手前に堀切、土壇を経て神社が建つ曲輪が西峰です。
その先にも空堀があり、東峰へと道が続きます。
東峰の手前には人工井戸、そこから右に下りると舟形遺構、ここから石を切り出したとされています。
東峰に戻るとこちらにも神社があり、石を積み上げた祭祀遺構が存在感を示しています。
ここからの眺望も素敵、明石海峡大橋や淡路島を望めます。
暫し眺めを楽しんで戻りました。
帰りに見学した西峰下の水の手曲輪の辺りも見どころです。
寒霞渓は景勝地として有名ですが星ヶ城まで足を伸ばす人は少なかったです。
ぴーかるさん、鳥取県・滋賀県コンプリートおめでとうございます㊗️
両県ともにまだ行っていない城が多いのでレポート参考にいたします✨
【見どころ】
・西峰、東峰からの眺望
・舟形遺構
・水の手曲輪
+ 続きを読む
♥ いいね
13人が「いいね」しています。
2026/01/22 23:16
2026/01/22 22:07
祝辞ありがとうございます。
朝田辰兵衛さん、あさん祝辞ありがとうございます。<(_ _)>
朝田辰兵衛さんのクイズ答え:ズバリ弘前城でしょう(*^^)v 本丸南虎口から撮影したアングルです。亀石も写っていますので。昨年ゴールデンウィークに行ってよく憶えています。。今年修繕工事を終えて元の天守台に戻る話題となりそうな城跡ですね。
あさんのクイズ?の答え:今日の宇佐山城かと思います。今日はたしか雪の影響で湖西線が一部不通になっていたかと。ご通勤でしたら大変だったかと思います。雪積もってないですね。滋賀県は あさんに続いてのコンプリートなので嬉しいです。
にのまるさんへ。すみませんが、今週土日に城攻め旅行に行くのでクイズの答え少し遅れるかもしれませんがご了承ください。
+ 続きを読む
♥ いいね
12人が「いいね」しています。
2026/01/22 19:46
「甦る岸和田城」まもなく千秋楽です (2026/01/24 訪問)
🏯 甦る岸和田城
📅 1/24.25がいよいよ最終日
🎤 当日は栢木先生が随時解説💕
👀 この機会をどうぞお見逃しなく✨
+ 続きを読む
♥ いいね
8人が「いいね」しています。
2026/01/22 19:28
128【関ケ原の26人】(26)井伊直政 (直政の戦後処理)
(26人目)井伊直政の続き㉚です。
直政は関ケ原の直後、家康の命で佐和山18万石を賜り、高崎城から佐和山城へ移ります。この時直政は、島津から受けた鉄砲傷が徐々に悪化してきていました。養生すれば治ったかもしれません。しかし直政は戦後処理に奔走します。今不満を持つ西軍諸将を押さえてしまわなければ、第二の関ケ原が起きるのは必定と考えていたからです。
まずは「毛利輝元」の処遇です。
直政は吉川広家と毛利本領安堵の起請文を交わしました。そして輝元自身も家康と起請文を交わしていたと言う説もあります。しかしいざ合戦が終わると、家康は得意の知らぬふり。あくまで120万石の領地を召し上げ切腹させる気でいます。しかし直政は自分を信じ起請文まで交わした広家やそして輝元を何とか助けようと、傷を押してまで大坂城と伏見城を往来し、粘り強く家康との仲介役に徹します。そして何とか周防長門30万石への減封処分で決着する事ができました。輝元も切腹を覚悟していたのでしょうか? 怒るかと思えば、仲介役の直政に大変感謝し大坂を離れて行きました。しかし吉川広家ら家臣たちは納得せず、その火種はくすぶり続けたようです。
次は「真田親子(昌行・信繁)」の処遇です。
秀忠軍を足止めした事に家康は納得せず、打首を考えていました。しかし、真田信之から口添えを懇願され、共に助命嘆願をし、高野山へ幽閉する事で決着しました。
次に「長宗我部盛親」の処遇です。
盛親の所領は没収され、代わって山内一豊が掛川から土佐へ入国しようとした際、長宗我部の残党がこれを妨害します。直政は自らの軍を土佐へ派遣しこれを鎮めました(浦戸一揆)。また親しかった盛親の助命嘆願をし、京都に幽閉する事で決着し、命だけは助ける事ができました。
最後に残ったのが「島津義弘」の処遇です。
家康は自分の命を狙ったあげくに薩摩へ逃げ帰った義弘を絶対に許すつもりはありません。当主の島津義久に義弘を引き渡すよう命じます。しかし弟の義弘を引き渡せば必ず殺されると分かっている義久は絶対に渡しません。それどころか、ならば徳川と一戦辞さずと、薩摩は戦の準備を始めます。これを知った家康は、柳川城に逃げ帰った立花宗茂を取り囲んでいた、黒田如水・加藤清正・鍋島直茂の軍勢を水俣城まで進め牽制させます。直政にとっても自分に鉄砲傷を負わせた島津は憎いはず!・・・🤔
と思いきや、直政は何とここで義弘の助命嘆願を家康にするのです。島津との戦になれば必ず第二の関ケ原にまで発展するのは必定だと思っていたからです。豊臣秀頼も健在で、実は九州の関ケ原での勝利で野望に目覚め陰で糸を引く黒田如水や、秀頼のために築いた巨大な熊本城がこの時ほぼ完成し、万一の時は迎え入れる準備まで着々としている加藤清正、この二人はもはや信用できません。もし義久・清正・如水・宗茂が秀頼を奉じて九州で立ち上がり第二の関ケ原を起こせば、くすぶっている諸将たちも必ず立ち上がります。さすれば次は勝てる保証はどこにもありません。
特に島津と加藤、これらは当時の日本では最強の総勢合わせて10万の大軍勢です。しかも強さからすれば西軍の中心であった宇喜多秀家や石田三成の軍勢の比ではありません。それは朝鮮出兵での活躍などでも実証済みで、彼らは戦の経験も豊富です。わずか1,500の兵だけで、あれだけ徳川軍や井伊直政を苦しめた事でもよく分かります。ゆえに九州で戦うとなれば徳川にとって相当な大損害を覚悟せねばなりません。それどころか勝てる保証はどこにもありません。そうなれば、特にこの時の家康に不満を持っている伊達・上杉・毛利、また秀頼を奉ずれば必ず寝返るであろう福島らの諸将もいます。
しかし義弘を許し薩摩の地を安堵すれば、義久は矛を収めるでしょう。そうなればその他の諸将も大義名分を失ってしまいます。直政は粘り強く家康を説得します。しかし、その最後の願いも叶わぬまま、ここでついに鉄砲傷が悪化、床に伏せって動けなくなりました。そして1602年2月1日(関ケ原の戦いから453日後)、直政の命は尽きてしまったのでした。
島津から受けた鉄砲玉の鉛をきちんと取り除き、そして養生していれば、おそらく治ったのではないかと言われています。今で言う破傷風だったようです。しかし、直政は自分の命と引き換えに、家康の天下を盤石にするため、関ケ原の戦後処理に最後まで奔走したのでした。
次は直政墓所、(清涼寺)へ続きます。
+ 続きを読む
♥ いいね
13人が「いいね」しています。
2026/01/22 18:37
2026/01/22 16:45
耐震工事前に (2026/01/22 訪問)
2028年度以降に耐震工事が始まるという情報をしんちゃんさんが投稿されていたので、行けるときに行っておこうと思い登城してきました。冬の空で曇っていましたが、降雪がなかったのは幸いでした。ただ雪がなくてもとても寒かった。
現在の天守閣は石川数正、康長父子が築いたと伝わっています。
徳川家康が小田原の北条氏の後に関東に移り、それに伴ってこの地を治めていた小笠原氏も関東に移りました。その後にこの地を治めたのが石川数正です。石川数正、康長父子によって松本城は大規模に改修され、城下町も整備されました。数正は天守を建てたと思われますが、現存する五重六階の大天守は子の康長の時代に建てられたと考えられています。城びとの「松本城 国宝天守をもつ唯一の平城」の記事によると数正が建てた天守は、部材を転用して三重四階の乾小天守に改築されたようです。寛永10年(1633)に入った松平直政によって辰巳附櫓と月見櫓が増築され、今の姿になりました。黒い武骨な天守閣にあって月見櫓は平和な時代の象徴でしょう。
今日は空いていましたね。何度か登城していますが、こんなに空いていた記憶がありません。いつも天守閣に入るのに行列ができていましたが、今日は待ち時間は0分で前後に人影なくスムーズに入場でき、天守閣内の階段もすれ違う人や前後に人のいない状況で、ほぼ独占して昇降することができました。おかげでゆっくり観ることができました。天守閣最上階も自分を含めて4人くらいしかいませんでした。この時期が一番空いているようです。ただ繰り返しになりますが、とても寒いです。
+ 続きを読む
♥ いいね
14人が「いいね」しています。
2026/01/22 13:14
土の構造のボリューム感が素敵 (2026/01/10 訪問)
北畠氏の本拠地である多気に通じる中村川流域を守る城の一つです。比高はないですが、重厚な土の作りで、また、城びと先人の指摘のように、縄張りにくふうがあり興味をひかれます。北側の登城口から少し登ると、比較的緩やかな傾斜で東側に向けて斜面を斜めに登らせます。この道はずっと郭から見降ろされているのですね。
ちとわけがあって、南側からアプローチしたのですが、南側からⅠ郭に入る、堀を渡る橋とその先の平虎口が「三重の山城 ベスト50を歩く」の縄張りに見られず、縄張りと現地が合わなくて、どこにいるのかしばしうろうろしてしまいました。
ぴーかるさん、滋賀県&鳥取県コンプリートをおめでとうございます。最近の投稿に「ラスト*城目」とありましたね。滋賀県のラストは打下城にされたのですね。打下城は湖西線から見えます。他にも湖西線から見える城がいくつかあります。コンプリートへのプレゼントに、今朝、湖西線から撮った山城の写真を貼り付けました(写真10枚目)。
+ 続きを読む
♥ いいね
13人が「いいね」しています。
2026/01/21 21:22
ぴーかるさん,滋賀県&鳥取県コンプリートおめでとうございます!
ぴーかるさん,滋賀県&鳥取県コンプリートおめでとうございます!
滋賀県については以前から予告があったように思います。まさか,鳥取県もセットとは…😱
滋賀県も鳥取県もネタがありませんので,2026年に話題となりそうなお城を出題します。
おめでとうクイズは,ズバリお城の名前をお答えください。
行ったことなくても瞬殺できると思います。
私のアトは,にのまるさん大丈夫でしょうか…?
+ 続きを読む
♥ いいね
11人が「いいね」しています。
2026/01/21 20:45
桐山城 (2025/12/06 訪問)
【桐山城】
<駐車場他>浦富海岸駐車場に駐車しました。
<交通手段>車
<感想>日帰り鳥取県制覇旅ラスト3城目。桐山城は南北朝時代以前に塩冶高貞によって築城されたとあります。尼子氏時代には山中鹿之助、豊臣政権下では垣屋光成、関ヶ原後は鳥取城主の池田氏、江戸時代は城下に陣屋を築いて家老の鵜殿氏を入れました。
登城口は<35.590916,134.318930>にありますが、山に入り込むとすぐに「桐山城跡には行けません」の看板があります。登城道はあっているはずと思いつつ一応すすむと、添付写真の大堀切のところで木板の階段が倒壊した場所があり進入禁止となっていましたので、ここで引き返しました。登城道も私有地となっているようで、道も地権者の厚意で整備されていたようです。おそらく暫く再整備される感じはしなかったので不本意ながら行ったポチとします。
これにて先日投稿した滋賀県打下城で城びと滋賀県制覇、この桐山城で城びと鳥取県制覇です。後日滋賀県と鳥取県の百・続百名城以外のマイベスト投稿します。走行距離402㎞無事走破。
+ 続きを読む
♥ いいね
14人が「いいね」しています。
2026/01/21 18:47
赤い城さん,瞬殺ありがとうございます🎊 (2025/04/26 訪問)
「山下公園」大正解です。赤い城さん,瞬殺ありがとうございます🎊
城びとスタッフがよろこぶかな…と思ったのは,「お城EXPO城」をクイズに出すなどということ。フツーなら出さないと思います。
撮影したのは先日のEXPOではなく,神奈川県コンプリートの直前に立ち寄ってみたくなって行きました。
氷川丸なんて,シブイところついたりしませんョ…<笑>。
+ 続きを読む
♥ いいね
12人が「いいね」しています。
2026/01/21 13:02
山見老人会による案内道標は (2025/01/10 訪問)
昨年に、阿坂城に登城し、附けたりとして史跡指定された高城と枳城にも行くつもりが、高城を訪問した時点で日没。およそ1年を経て枳城へ。
城びと先達投稿に「北見老人会道標に従えば迷うことはない」とあり、イオさんは、枳城から遠ざかっていく道に不安を覚えて道を違え、直登になった旨のレポートがあり、しんちゃんさんは、「上の方まで林道がある」と。これらの情報がないまぜになり、結局、登りでは、北見老人会の道標を見ることなく、林道の最高点から、城域に続く尾根(疎林)を西に進んで城に到達。帰りは、老人会設置の道標を見つつ反省。1枚目の写真に、山を登っていく道のガードレールが見えます。これが、しんちゃんさんの言う、林道だろうと(違うんですよ)、そこに取りつくべく、9枚目の写真の右手のミカン畑の間の道を選択。難なくこの林道に進めたので、楽勝と思って登っていきましたが、最高点に至っても、道標がでてきませんでした。素直にまっすぐ行かんといかんよ。
+ 続きを読む
♥ いいね
14人が「いいね」しています。
2026/01/21 12:50
【小和田哲男先生の「遠州における豊臣兄弟の足跡」講演】受講しました (2026/01/18 訪問)
今年も浜松市細江町気賀みをつくし文化センター主催の歴史講座第14弾、「遠州における豊臣兄弟の足跡」と題して講演会が有りましたので受講してきました。
昨年も受講しておりもう14回を数える程に成りました、小和田先生が静岡にいらっしゃるお陰で身近に講演を聞ける事が出来ます、小和田先生は静岡大学名誉教授、文学博士、日本城郭協会理事長、関ヶ原古戦場記念館館長でもあり日本中世史、戦国史の専門家でも有られます、我ら城好きには日本城郭協会理事長としてお城の各種イベント、城びとに寄稿されて大変馴染みも有り身近な存在です。静岡県浜松市在住者としては大変ありがたい限りです。
開催場所:静岡県浜松市浜名区細江町気賀369 みをつくし文化センターホール
講演講師:静岡大学名誉教授・文学博士 小和田哲男氏
講演日時:令和8年1月18日(日)13時30分から15時20分内質疑応答20分
今年の大河ドラマが豊臣兄弟で大変タイムリーな講演でした、会場450名の満席老若男女で先生の人気がすごい処でしょう。
今年の大河ドラマ時代考証「柴裕之編著」の「豊臣秀長」に記されている羽柴家系図がスライドで写しされて講演が始まりました、秀吉秀長の両親が法名で系図で示されたことは柴裕之氏の功績とおっしゃっていました。
秀吉と秀長は父が違うのではないか?と巷間言われていましたが最近の研究では姉のともさん、秀吉、秀長、妹の旭姫は同じ父の兄弟であるとの事。
遠州での秀吉は15歳から18歳を針売り行商の後、松下加兵衛に仕えていたのは有名な話です、松下屋敷の近くに秀吉の鎌研池も有名です、秀吉が鎌の研ぎ具合を確かめるために葦の葉を切った事で遠州七不思議に数えられてる片葉の葦伝説も披露、現在池は公園整備で分からにかも?(太閤素生記より解説も有り)
松下屋敷を出奔した後、信長に仕え、小者から足軽、足軽組頭へねねとの結婚、この頃には秀長も呼ばれている一緒に働き始めた模様、秀吉の妻ねねの名称は、以前おねと時代考証で呼びましたが、ねね呼称が史料で「ね」としか発見されて無く、昔の女性の名には頭に「お」付けて居たので「おね」としたと、この度「ねね」の呼称なる史料が出て「ねね」としたとの先生の話。兄秀吉の出世により永禄4、5年頃には呼ばれたようです。
美濃斎藤家家臣の調略には秀吉の名が出て来る、墨俣一夜城、清須城百間石垣の話は史実か否か、一夜城は木曽川川並衆等の付き合いなども有り、何らかの働きはあった、清須城には当時石垣は無かった、発掘でもまだ見つかっていない。秀長も一緒に働いている。
秀吉の北近江支配、伊勢長島一向一揆との戦い従軍、手取川の戦いで蟄居中の秀吉の代わりに秀長播磨へ、山陰地方は秀長、山陽地方は秀吉と分かれて毛利勢と戦う。
秀吉の天下統一の戦いを共に戦う。賤ケ岳の戦い、小牧・長久手の戦い、紀州攻め、四国攻め。
浜松城主時代の家康と秀長、家康を臣従させる秀長は妹旭と母のなかを説得か?、聚楽第内に家康の屋敷を建てさせた秀長、作事は藤堂高虎、小田原攻めと秀長、秀長は病床にて出陣してないが、秀忠を人質とするように家康に勧めた秀長。
永禄4年(1561年)秀吉25歳、秀長22歳頃から天正18年(1590年)秀長がナンバー2として支えていたと。
質疑応答も約20分程、小学生の質問から声の大きい高齢者まで楽しい会話でした。質問の一つに元気な秘訣を問われて、山城に登るためにとジムでのトレーニング、各種のお仕事、毎日の晩酌と登る応答にはなごみましたが?
先生と同県で在住して身近な環境が有り難い事です。
気賀関所が西隣ですので関所の写真、近くの満開白梅の写真も投稿します。
+ 続きを読む
♥ いいね
13人が「いいね」しています。
✕
人が「いいね」しています。