1594年に加藤貞泰により築城され、1610年に伯耆国米子へ移封となるまで、わずか16年のみ使われ廃城となりました。
本丸は方形で中はグランドになり、周囲に高い土塁と堀が巡っています。
但し、南側の土塁は昭和に復元されたようです。
南西側には枡形虎口跡があり、西に土塁が張り出していますが、南側の土塁は失われてます。
個人運営と思われる二ノ丸資料館で見学をお願いすると、館長さんが詳しい説明をして下さり、資料を沢山見せて頂き感謝です。
北側の外堀跡は搦手・東木戸跡から西木戸跡まで東西に長く残っており、数ヶ所で折れがありました。
特に多賀神社裏側の外堀が見応えありました。
「岐阜の山城ベスト50を歩く」の本の縄張り図によると、城下町南西側に土塁跡があるので行ってみると、折れもある土塁がありました。
ただ、後世の堤の可能性もあるかもしれません。
外堀跡まで巡ると総構えで規模の大きさがよく分かり、街中に遺構が良く残された貴重な平城だと思います。
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