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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征15日目:大可島城 (2026/05/25 訪問)

福山城(岡本家長屋門)から徒歩5分ちょっとで、圓福寺入口(34.381686、133.383089)に着きました。

1342年(康永元年・興国3年))岡部出羽守によって築かれたと云われています。
ここは南北朝時代鞆争奪の古戦場で,現在は陸続きとなり円福寺が建てられているが、かつては島であり、そこに大可島城があったそうです。
1342年(康永元年・興国3年)南朝方の伊予川之江城は、北朝方によって攻撃され、南朝軍は川之江に援助に向ったが、途中北朝側の備後勢と燧灘で遭遇し大合戦となり、折からの風で鞆方向に流されました。
そこで鞆を攻撃し占領、大可島を詰城として拠点を構えました。これに対して北朝側は鞆の小松寺に陣し、激戦十余日に及んだが、南朝軍は本拠川之江城危うしの報に、備後服部の桑原重信を残し伊予に引き返しました。
北朝軍は南朝方が籠もる大可島城を猛攻して落城させ、桑原氏を滅ぼしました。世にいう鞆合戦の城跡で、城地にある石塔は桑原一族の墓と伝えられています。
戦国時代には織田信長に京を追われた足利義昭が鞆城に滞在していたため、警護として因島村上氏の一族・村上亮康が大可島城に在城していました。

城址は圓福寺の本堂になっています。圓福寺境内に説明板が設置され、入口の脇に桑原一族の墓と伝えられる墓地があります。
本堂の屋根に乗っている狛犬が鯱を思わせてお城のイメージを彷彿とさせます。
海沿いの高台にあるので、瀬戸内海の島々がキレイに見えましたが、岬側は私有地のようです。
攻城時間は25分(鞆の浦歴史民俗資料館駐車場までの徒歩移動含む)くらいでした。次の攻城先=相方城に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征15日目:福山城(岡本家長屋門) (2026/05/25 訪問)

鞆城から徒歩5分弱くらいで、岡本家長屋門前(34.498551、133.367113)に着きました。

もとは福山城内にあったものを福山城が廃城となり、長屋門が民間に払い下げられました。
醸造業(保命酒・薬酒)を営んでいた岡本家がこれを譲り受け店舗として使用したそうです。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=大可島城に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征15日目:鞆城 (2026/05/25 訪問)

常国寺から車で25分弱で、鞆の浦歴史民俗資料館駐車場(34.384181、133.381506)に着きました。

鞆は古代から潮待ちの港として栄え、軍事的にも枢要の地でした。そのため南北朝時代には港湾施設の近くに大可島城が築かれていましたが、市街部に城は存在しなかったそうです。
1336年(建武3年)には多々良浜の戦いに勝利した足利尊氏が京に上る途中、この地で京の光厳天皇より新田義貞追討の院宣を受領しており、足利氏にとって縁起の良い土地でした。
鞆城の前身となるのが1553年(天文22年)頃に、毛利元就の命により備後地方の豪族である渡辺氏が市街中心部の丘陵に築いた鞆要害だそうです。
鞆要害は尼子氏への抑えとして築かれたもので、その規模・構造はよく分っていないが、城域は発掘調査の結果などから概ね鞆の浦歴史民俗資料館一帯であったと推定されているようです。
その後、1576年(天正4年)室町将軍足利義昭が毛利氏を頼って京を落ち、移り住んだのが鞆であり、その居所として築かれたのが鞆城と云われています。
関ヶ原合戦(1600年(慶長5年))後に毛利氏が防長二カ国に減封となると、安芸国広島に入部した福島正則が支城として改修して三層の天守をあげ、大崎玄蕃を城主としました。
1615年(元和9年)一国一城令により築きかけた天守は三原城へ移し,福島正則の後をうけて入封した水野勝成は長子勝俊の居館をここに置きました。
勝俊が福山藩主を継ぐと鞆奉行所として重臣荻野新左衛門重富が在所し明治維新まで鞆の管理がなされたそうです。
その後、廃城となっていましたが水野勝成が福山に入部すると、長子水野勝俊の居所が三の丸に置かれました。勝俊が福山藩主を継ぐと鞆奉行所として重臣荻野新左衛門重富が在所したようです。

現在は鞆城山公園や鞆の浦歴史民俗資料館の敷地となっています。(攻城したのが月曜日だった為、休館日でした)
民俗資料館に続く車道のところに案内板があり、隅石垣には様々な印が付けられています。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=福山城(岡本家長屋門)に徒歩で向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征15日目:常国寺 (2026/05/25 訪問)

一乗山城から徒歩5分弱で、常国寺入口(34.419173、133.352887)に着きました。

常国寺は、広島県福山市熊野町にある日蓮宗のお寺で、当時沼隈半島一帯を領有していた渡辺兼によって、1486年(文明18年)建立されたそうです。
常国寺は室町幕府崩壊期、織田信長に追われて逃れてきた室町幕府の15代将軍・足利義昭が、毛利輝元の庇護下で鞆幕府を開きました。
この鞆幕府の所在地となったのが渡辺民部少輔元の一乗山城であり、渡辺氏の菩提寺であったこの常国寺も幕府の重要な政務機関となっていました。
義昭は渡辺氏の格別の働きに感謝し、白傘袋と毛氈鞍覆の使用を許して守護大名格としたが、その際に常国寺にも唐門を贈ったそうです。
渡辺元はこれを将軍門と名付け、現在でも市重文として残っており、総けやき造で、鏡板には桐紋が彫られています。

自宅に戻って写真を確認したところ、唐門の写真を撮り忘れていました。
山頂にある足利義昭公の供養塔は時間の都合で行っていません。
観光時間は15分くらいでした。次の攻城先=鞆城に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征15日目:一乗山城 (2026/05/25 訪問)

神辺城の移築書院がある明王院からから車で20分くらいで、貯水池手前の説明板(34.422092、133.352567)を確認し、そこから一乗山城駐車場(34.420119、133.353340)に着きました。
そこに車を駐車して、常国寺南東の登城口(34.417924、133.354629)に向かいました。

築城年代は定かではないようですが、1339年(建武3年)、渡辺持が戦功で足利尊氏から山田庄(城のある福山市熊野町)を与えられ中山城(福山市草戸町)を居城としました。
その後、文明年間(1469~1487年または、永正年間(1504~21年)に後裔の渡辺兼が毛利にしたがって功があり、一乗山城を築城し移っています。
1534年(天文3年)大内・毛利軍が亀寿山城の宮親忠を攻めた時には渡辺兼もこれに従い、1552年(天文21年)の志川滝山城攻めでは渡辺房が毛利軍に加わっているようです。
1576年(天正4年)足利義昭が毛利氏を頼って鞆に入ると、渡辺元と景父子が義昭の警固を務めたそうです。
関ヶ原合戦(1600年(慶長5年))で毛利氏が防長二カ国に減封となると、廃城となりました。
城主の渡辺景は一時浪人をしたのち通安寺の住職となり、息子らは福山城主となった水野氏に仕え三男は常国寺の住職となったそうです。

本丸まで遊歩道が整備されており、堀切、畝状竪堀群、石積が良く残っています。
攻城時間は35分くらいでした。次の攻城先=常国寺に徒歩で向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征15日目:神辺城(移築書院) (2026/05/25 訪問)

福山駅でレンタカーを借り、そこから車で20分くらい(出勤時間帯で道路混雑)で、明王院駐車場(34.478393、133.347435)に着きました。

明王院は,中道山円光寺明王院と称し,国宝の「本堂」「五重塔」を有する真言宗大覚寺派の古刹として知られています。
もとは西光山理智院常福寺といい,807年(大同2年)弘法大師の開基と伝えられています。
その後,鎌倉時代後期の南都西大寺流律宗の勧進活動や草戸千軒の繁栄の影響もあり,鎌倉時代末期に本堂再建,室町時代前期に五重塔を建立など,”中世・西国屈指の寺院”になります。
1619年(元和5年)水野勝成が福山藩主として入府してからはその庇護を受けます。
三代水野勝貞は常福寺に,城下神島町の歴代藩主の祈願寺となっていた明王院を合併し,当時の住職宥仙は,寺号を明王院と改め今日に至ります。

明王院には神辺城から移築したと言われている向唐破風が特徴の書院があります。
書院以外にも移管建造物があります。
①木造十一面観音立像を祀る1321年に建てられた本堂(国宝)
②高さ29m、1348年に建てられた五重塔(国宝)
 ➡和様、唐様、大仏様を組合わせた全国で5番目に古い五重塔
③屋根の両端に龍頭瓦が付けられている1614年に再建した山門
④閻魔大王を中心に十王が祀られる閻魔堂
⑤三代福山藩主水野勝貞が寄進した鐘が下がる江戸時代初期の鐘楼
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=一乗山城に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征15日目:福山城 (2026/05/25 訪問)

福山城(東外堀&惣門番所)から徒歩10分くらいで、福山文化公園紹介看板付近(34.490915、133.362417)に着き、そこから福山城へ入りました。

福山城は今回2回目の攻城です。1回目は2019年3月13日に来ました。
前回、一通り見学しましたが、今回は福山城の外周を追加で見学しました。
ただし、早朝攻城の為、改装された天守閣の福山城博物館は開いてなく中に入れませんので、外から眺めるだけです。
・馬場跡/東坂三階櫓跡/二の丸東側石垣/外三番櫓(鬼門櫓)跡
・東揚楯御門跡/鹿角菜櫓跡/冠木門/亭櫓跡/伏見御殿跡/鏡櫓文書館
・月見櫓/御湯殿/本丸御屋敷跡/番所跡/筋鉄御門/伏見櫓
・鐘櫓/内九番櫓(火灯櫓)跡/御台所門跡/人質櫓跡
・八方よしの松/黄金水/内七番櫓(荒布櫓)跡/棗(なつめ)門跡/内六番櫓跡
・天守閣(福山城博物館) 9:00~17:00

~ここから、見学した福山城の外周編です~
①:福山城三の丸西御門櫓台跡(35.489086、133.358659) 石垣
②:福山城番所跡/③:福山城石組水路/④:福山城西内濠跡
⑤:福山城外九番櫓跡/T⑥:福山城邊前周邊介紹看板
攻城時間は80分くらいでした。次の攻城先=明王院に移築された神辺城(移築書院)を見る前に、ホテルに戻って朝食を食べました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征15日目:福山城(東外堀&惣門番所) (2026/05/25 訪問)

宿泊先のホテルの朝食前に、神辺城の移築門と福山城東外堀&惣門番所を攻城しました。
旧福山城東外堀(34.498551、133.367113)の石碑は實相寺にあり、そこから徒歩5分ちょっとで惣門番所(34.494839、133.366409)に着きます。

蓮池川に大きな門と太鼓橋があり、「惣門番所」「願掛橋」と呼ばれています。
惣門は城下の表門として番所が置かれ、その傍らには江戸時代に西国街道から城下に入るための橋だった「土橋」があります。
福山市丸ノ内のマンション建設地より、福山城外堀の石垣が出土、発掘調査を経て、一部が實相寺に移築されました。
観光時間は15分(移動時間含む)くらいでした。次の攻城先=福山城に徒歩で向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征15日目:神辺城(移築門) (2026/05/25 訪問)

昨日の左足首軽い捻挫は湿布薬で固めました。平地は問題ないですが、山城攻城が心配です。
そういう意味で本日の難関は相方城(比高170m)、高越山城(比高140m)、猿掛城(比高220m)、鬼身城(比高200m)となります。
登城するか否かは現地に着いた時の左足首の状態で考えることとし、本日の攻城開始です。
宿泊先のホテルの朝食前に、神辺城の移築門と福山城東外堀&惣門番所を攻城しました。
宿泊先のホテルから徒歩25分弱で、實相寺(ジツソウジ)山門前(34.498469、133.367435)に着きました。

現在まで残る神辺城の建築物の遺構といわれています。
福山藩主が阿部家の時に移築されたようです。
神辺城が廃城後に福山城等に使われてたということでしょうね。
現在まで残る神辺城の建築物の遺構といわれているのは、實相寺(ジツソウジ)山門と明王院の書院&庫裏になるようです。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=福山城(東外堀&惣門番所)に徒歩で向かいました。

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天守無しがアツい

平成12年訪問記 (2000/10/07 訪問)

(学校の修学旅行でつけた日誌より)
今日は函館めぐりだった

五稜郭公園に着き、周りを散策したが、普通の公園ぐらいにしか感じなかった

タワーもあったが上には登らなかった

しかし、中の展示は明治維新の人物がたくさんでてきて面白かった

移動は函館市内特有の市電で移動した

こういう体験をするのも良い思い出になる

(ちなみに画像は今年(令和8年)の再訪において撮影したもの…当時のではありません)

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ぴーかる

宮崎城 (2026/05/10 訪問)

【宮崎城】
<駐車場他>城山駐車場でも上ノ山駐車場どちらでもよい。
<交通手段>車

<見所>堀切・曲輪
<感想>1泊2日富山ちょこ城巡り1000㎞旅ラスト24城目。現地説明板によると1182年、宮崎城はこの地の豪族である城主宮崎太郎康長が北陸宮(以仁王の第一王子)を迎え御所を造営されたのがはじまりとされます。戦国時代には上杉氏、佐々氏、前田家の家臣などが城主となります。江戸時代には国境の関所が設けられ廃城となります。
 城山駐車場に駐車し登城しました。こちらから行くと本丸の手前の曲輪は陸軍が造ったもので、そこの公園から本丸に直結で行けます。本丸は広い帯曲輪が取り巻いています。本丸から段々に二の丸・三の丸と降りて行って、切り通し道をかなり降った所に上ノ山出丸跡があります。上ノ山出丸跡がちょうど上ノ山駐車場になっています。各々の曲輪は堀切で仕切っています。二の丸の法面石垣は古いもののように感じました。
 これにてこの旅終了、山城シーズンも終わり、ちょこ城を荒稼ぎできる地域を地図を眺めて、千里浜も行きたかったし、この地域に決定しました。千里浜はドライブウェイ出来ませんでしたが、またの機会として登城は計画通り遂行できました。

<旅を終えて>富山県はまだまだ山城の登城が残っていて語るには少し足りないですが、高岡市周辺の平城跡は一向宗、富山市の平城跡は地方豪族、東に行くにしたがって上杉氏の影響力が出てきて椎名氏などの上杉氏に従属する豪族の城が出てくるように感じました。加賀の大聖寺城に行ってからの、この越中国の石碑や土塁の一部しか残っていない城跡だけれども戦国時代、一向宗の影響力がこの辺りまであった事がよくわかった旅でした。
走行距離1045㎞無事走破。

<満足度>◆◆◇

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小城小次郎

さて誰の城館だったのだろう (2025/09/07 訪問)

武田○○館なる伝承地を並べてみると上杉禅秀の乱に加担した武田信満の館がはっきりしない。信満の没年とほぼ等しい頃に開基された清白寺は連方屋敷の至近にある。状況証拠的にはここが信満の館なのだろうと思う。

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にのまる

素敵な城さんぽ時間を過ごせました。 (2026/05/31 訪問)

蒲池城見学後、徒歩で向かいました。

柳城中学校の一角に天守台と石垣、水堀。校庭に天守台が現存するなんて羨ましすぎです。外から見上げるだけでしたが生徒さんたちは登り放題かも⁈

周辺を少し散策して御花と立花家史料館へ。御花は結婚式のため一部入場制限されていましたが、西洋館はため息が出るくらいステキで、2階から見下ろす庭園もとても素晴らしかったです。また、城下絵図や天守模型、そしていちばん見たかったずらりと並ぶ金箔押桃形兜も見られて大満足でした。
立花家史料館はお雛様セットやお人形セットなどどれもこれもかわいらしくて姫気分で見入ってしまいました😊

帰りは水辺の散歩道(城北コース)を通りつつ西鉄柳川駅へ。天神から高速バス「ふくふく号」で下関に戻りました。

朝田さん、さすが雨男さんですね!あの大雨の中、よくぞご無事で。
下関駅〜新下関を路線バス移動……遠かったでしょう?お疲れさまでしたm(_ _)m

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トク

13【秀長の因幡平定をたどる②】鳥取城(上ノ城)吉川経家と宮部継潤 (2026/05/16 訪問)

天球丸の登山口から、上ノ城を目指します。とても急斜面の登山道を登る事30分、上ノ城(久松山頂上:標高263m)へ到着しました(結構きつい😩)(写真①)。

上ノ城は、一番上から本丸・二ノ丸・三ノ丸・出丸と四段に構築された造りで(写真⑨)、見事な石垣で囲まれていました。これらの石垣は1582年、鳥取攻めの第一の戦功とされ、秀吉から因幡の地を与えられた、「宮部継潤」によって築かれました。そして継潤は、この天守台の上に三重の天守を建てたそうです(写真④⑤⑥)。

1581年(天正9)城主の山名豊国が逃げ出したため、毛利方より派遣された「吉川経家」が1,400の軍勢とともに籠城します。そこに城下の領民2,000以上が逃れて入ってきます。秀吉の米の買占めに会い、兵糧はわずか20日分しかなかったところへ、この領民が経家にとっては大きな誤算となりました。おそらく本丸には兵士が、二ノ丸・三ノ丸には領民が、所狭しとひしめき合っていたのではないでしょうか(写真⑦⑧)。

天守台から北を眺めると鳥取砂丘まで見えました(写真①②)。西には鳥取市街が広がっています(写真③)。天守台から東の方向を見ると、本陣山(太閤ヶ平)がよく見えました(写真⑩)。あの山には秀吉と秀長が陣を敷き、豊臣の旗が数多くなびいていたと思います。また眼下の雁金山城や丸山城(写真③右側)も宮部継潤によって攻められ落城、これにより海からの補給路は完全に断たれ、久松山は豊臣軍3万の軍勢に完全に取り囲まれてしまいました。そして籠城を始めて4カ月、ついに兵糧も尽きてしまいます。俗に言う「鳥取の渇え殺し」です。飢えに苦しむ家臣や領民を見ながら、吉川経家はどんな思いでここから、あの本陣山や眼下の景色を眺めていたのでしょうか?

このまま城を枕に民とともに討ち死にすべきか、いやもし我が命と引き換えにこの民の命を助ける事ができるのなら・・・。経家はこの山上で、究極の選択に悩んでいたのではないでしょうか?

次は写真⑩の本陣山(太閤ヶ平=豊臣秀吉陣跡)を目指し、途中にあるはずの豊臣秀長陣跡を探しながら、行ってみようと思います。
 

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todo94

大人の休日俱楽部パス 飛島渡航失敗翌日・越乃Shu*kura乗車前の攻城 (2026/06/28 訪問)

大人の休日俱楽部パスが利用できる期間は、乗って楽しい列車の指定席をとるのに非常な困難が伴います。この日曜、最初は海里を狙っていたのですが、指定席が取れませんでした。越乃Shu*kuraも始発の上越妙高からの券は取れなかったのですが、長岡-十日町間の指定席が取れた次第です。列車の到着までの時間を使って長岡城の城址碑をめぐってみました。長岡城の前回攻城はコロナ禍前の8年前まで遡ります。しりとり後の攻城は今回が初めてでした。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征14日目:津山まなびの鉄道館 (2026/05/24 訪問)

津山城から25分くらい歩いて、津山まなびの鉄道館(35.053240、133.999520)に到着しました。

ディーゼル機関車、扇型機関車庫、転車台、ジオラマなどを見学できます。
津山城の入場券を見せたら特別入館券=240円で入館しました。
自分は鉄道マニアでなく鉄道知識もありませんが、十分楽しめます。
観光時間は15分くらいでした。
この後の当初予定は、矢筈城➡草苅氏居館(城びと未登録 岡山県津山市)➡矢筈城主草苅景継墓所(城びと未登録 岡山県津山市)を巡る予定でした。
持参している痛み止めは飲みましたが、湿布薬がない状態で山城の矢筈城登城は無理だと判断し本日の城巡りは、ここまでとしました。
当初攻城予定の城びと登録城が攻城できなかったのは、今回遠征では矢筈城は初めてになります。(何だかんだいっても今日までは登城口までは行っていました)
本日の宿泊先に向かう為、津山駅から、JR快速ことぶき&山陽本線を利用して福山駅に向かいました。
ちなみに湿布薬は福山駅のマツキヨで購入しました。ホテルの部屋入出可能時間前に福山駅に着いたため、ホテル付近で尾道ラーメンを食しました。
歩行歩数=18602歩、歩行距離=13.0Kmです。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征14日目:津山城 (2026/05/24 訪問)

衆楽園から徒歩15分弱で、津山城裏門入場券売場(35.063674、134.004436)に着きました。
しかし、裏門からは入城できず、あわてて表門に向かいました。
そこから、以下の順番で観光しました。
①:天守台跡(35.062777、134.004686) 
 津山城の営業時間=8:40~19:00、備中櫓=9:00~16:30
②:鶴山館(35.061488、134.006475)➡営業時間=9:00~17:00
②:大谷碧雲居句碑(35.061282、134.006827)
③:津山城宮川門跡(35.060963、134.006999) 石垣
④:竹下雨町句碑(35.061362、134.007643)➡左足首をひねってしまい、行ってません

津山城は今回2回目の攻城です。1回目は2019年3月16日に来ました。
前回、城内は備中櫓を含め一通り回ったつもりでしたが、鶴山館を見落としていたので、今回は鶴山館メインで攻城しました。
鶴山館に行ったら、工事中で中が見れませんでした。
津山城下城時、階段で左足首をひねってしまい、軽い捻挫の状態になりました。
今回の遠征、5/18(月)に高尾城で右ふくらはぎを痛め、右ふくらはぎが治ったら今日(5/24)は左足首軽い捻挫と負傷続きです。
津山まなびの鉄道館へ向かう道すがら薬局を捜し湿布薬を購入しようとしましたが、本日は日曜日でドラックストア含め薬局は全て閉まってました。
攻城時間は60分くらいでした。次の攻城先=矢筈城を攻城する前に、津山まなびの鉄道館へ徒歩で向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征14日目:衆楽園(津山藩主の別邸) (2026/05/24 訪問)

宿泊先のホテルから徒歩25分くらいで、衆楽園入口(35.069877、134.0057320)に着きました。
衆楽園は入場料は無料で7:00~18:00の間、開いています。
津山藩主の別邸だったそうです。
池を周遊するように小道があり、とても景色がいいです。
観光時間は30分くらいでした。次の攻城先=津山城へ徒歩で向かいました。

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赤い城

休日出勤 (2026/06/20 訪問)

この日は午後から岡山で仕事、休日出勤です。
他に用もないので早めに出かけて岡山城周辺を散策しました。
前回朝市が開かれていて見れなかった旭川沿いを歩きました。
東門跡から河川敷に降り、石垣に沿って歩きます。
この時季なので石垣も草木で隠れる部分が多く少し残念。
それでも二の丸素軒屋敷跡、さらには二の丸伊木長門屋敷内櫓跡を支える石垣を見学できます。

引き返し、遊歩道に沿って歩きせっかくなので本丸にもいきました。
この日は雨、早めの時間でもあり登城者はやや少なめでしょうか。
少し天守を眺めたあと、中には入らず月見櫓へ。
貴重な現存する建物です。

お昼も近づいてきたので月見櫓を支える石垣を見上げながら撤退しました。
車を置いていた近くに大手門跡があるのですが遺構はなさそうでした。

お昼は岡山名物のデミカツ丼、ボリューミーでもあり午後の仕事の活力になりました。

【見どころ】
 ・旭川沿いの石垣
 ・月見櫓と石垣

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征13日目:三星城 (2026/05/23 訪問)

JR林野駅から徒歩10分くらいで、明見三星稲荷神社鳥居前(35.012799、134.146813)に到着しました。

築城年代は定かではないようですが、応保年間(1161年〜1163年)に渡辺長寛によって築かれたといわれています。
南北朝時代(1336年~1392年)には赤松氏に属していた後藤氏の本拠でしたが、南朝方の山名氏が美作に侵攻しこの城も落城しています。
後藤勝基の代の1561年(永禄4年)に宇喜多直家の息女・千代を妻に迎え、美作東部を支配するまでに勢力を広げました。
しかしその後、1575年(天正3年)に直家が主君である浦上氏を天神山城から追放し、美作への侵攻を開始すると旧浦上家臣らと結んで抵抗しましたが、1579年(天正7年)に落城しました。

美作中央病院横の明見三星稲荷神社の赤い鳥居から登れます。
曲輪等の遺構が残ってますが特に西の丸の土塁、その下の畝状竪堀群、西の丸から伸びる登り土塁が見応えがあります。
標柱や看板が登城口の分岐点や史跡跡に立っているのでわかりやすいです。
また山麓の屋敷跡には勝基の墓として五輪塔が建立されています。
二ノ丸下の灯り装置横の岩場をロープを使って登りますが、結構怖いです。また、山肌が脆く滑りやすいので、トレッキングシューズをおすすめします。
自分は電車の時間の都合で、二ノ丸までで引き返し主郭へは行っていません。
攻城時間は55分くらいでした。本日の城巡りは、ここがラストです。
本日の宿泊先に戻る為、林野駅からJR姫新線で津山駅に向かいました。
歩行歩数=36182歩、歩行距離=25.3Kmです。

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