説明版に、多々良沼に突出した「荒間崎」と呼ばれた半島部に築かれた城で、江戸初期の刀鍛冶の作刀に「鶉古城打」と銘があるため、この名はすでに使われていたようだ。城の西南端から北に高さ3m、長さ250mの土塁と、その西側に沿って空堀がある。鎌倉幕府滅亡時、北条高時の弟の僧慧性・荒間朝春らともに逃れて、ここに築城した。応永年間(1398~1428)多々良四郎忠致の居城となり・・・云々と書かれている。
周囲は多々良沼公園として市民の憩いの場所になっている。奥の駐車場の前には高い土塁が続いていて、階段で上り城内へ入れる。ここの南に土塁の欠けた場所があり本来の虎口だったのか。城内には水路が曲がりながらあるが遺構かは不明。北側に土塁はないが、いかにも堀に見える溝があるが、説明板に載ってないので違うのだろう。その北には多々良沼が見える。東端からは沼が一望でき、細く伸びた先には浮島弁財天が祀られている。土塁の欠けた手前に城址の標柱と説明板が立っている。
+ 続きを読む









