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キンヤ

街中に遺構が良く残された総構えの平城 (2023/05/27 訪問)

1594年に加藤貞泰により築城され、1610年に伯耆国米子へ移封となるまで、わずか16年のみ使われ廃城となりました。

本丸は方形で中はグランドになり、周囲に高い土塁と堀が巡っています。
但し、南側の土塁は昭和に復元されたようです。
南西側には枡形虎口跡があり、西に土塁が張り出していますが、南側の土塁は失われてます。

個人運営と思われる二ノ丸資料館で見学をお願いすると、館長さんが詳しい説明をして下さり、資料を沢山見せて頂き感謝です。

北側の外堀跡は搦手・東木戸跡から西木戸跡まで東西に長く残っており、数ヶ所で折れがありました。
特に多賀神社裏側の外堀が見応えありました。

「岐阜の山城ベスト50を歩く」の本の縄張り図によると、城下町南西側に土塁跡があるので行ってみると、折れもある土塁がありました。
ただ、後世の堤の可能性もあるかもしれません。

外堀跡まで巡ると総構えで規模の大きさがよく分かり、街中に遺構が良く残された貴重な平城だと思います。

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朝田 辰兵衛

大可島城から徒歩で。 (2023/03/20 訪問)

大可島城から,鞆の浦のシンボルとなっている常夜灯を経由して,鞆城へ。町並に風情があるので,ゆっくりと時間をかけて。
月曜日ということで,鞆の浦歴史民俗資料館は休館日でした。しかし,(雨男なので)天候に恵まれたのでよかったです。同伴の母が晴れ女なんだと思います。

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龍ノ口城(城びと未登録) (2023/04/30 訪問)

備中の兵乱で、毛利氏と宇喜多氏に挟撃され、滅亡した三村氏。一時期、備中の覇者でありながら、知名度は低いです。三村氏を主役にした、井瀬伴著「瀬戸の群狼」を見つけ、これを参考にして、2020〜2021年に、「備中の覇者 三村氏所縁の城を巡る」と題して、備中〜備前の城を訪問し、いくつか投稿しました。
小説の中で、穝所氏の龍ノ口城が、三村氏と宇喜多氏のせめぎあいの重要なポイントになっています。まだ、訪問できておらず長らく気になっていたのですが、リニューアルされた岡山城天守閣を見学するついでに登城してきました。

龍ノ口城は、地理的にも旭川が平地に出る地点、山陽道の渡河点で重要であり、備中勢の最前線でした。城主の穝所元常は、主家の松田氏が備前・宇喜多氏に取り込まれるのに反して備中側につきました。宇喜多直家についての軍記ものでは、宇喜多側に暗殺されたとされることが多いようですが、上記の小説では三村側の弥屋与七郎が、堅城の龍ノ口城を欲しくなり、城の西側の絶壁から突き落としたとしています。
城の北側と西側が絶壁。南に続く尾根には深い堀切があります。さらにその先に、雛壇状の平削地の出丸郭群が。現在は出丸郭群の下の鞍部分に鳥居があり、主郭にある龍ノ口八幡宮への参道になっています。今回は、西側の尾根道を登りました。岩が露出した険しい道でした。主郭西側の絶壁上から岡山城方面もよく見えます。

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ぴんぴん

2回目の訪問 (2023/06/03 訪問)

中世のお城の特徴をほぼ残している非常に貴重なお城です。
今回は資料館で詳しい説明を聞く事ができ大満足でした。

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チェブ

山ユリの森と番犬。 (2023/05/06 訪問)

ゴルフガーデンに石碑があった「多功城」を後にし「児山城」に向かいました。
「多功城」の多功氏の子 児山 朝定さんが築いた「児山城」は、現在 3名の所有者さんと、児山城守り隊の皆さんで整備され、見学しやすくなってます。

2台停められる駐車場に向かう道は外堀と平行。細い道なので、よそ見してたら堀に落ちます。
『児山城 山ユリの森』と大きな看板と説明板があります。歩いて良い場所はロープで区別してるので、守って進みました。
もしかしたら、ロープの外側は山ユリがあるのかもしれません。
内堀を渡ると、土塁で守られた本丸です。
石碑があり、3名の所有者さんのフルネームが刻まれてました。
写真⑦の石礫があり、少し緊迫感。こちらの児山氏は上杉 謙信さんとの戦で、討死してます。
高さのある土塁に虎口が開いていて出ると、
い、犬!!
お、大きい!!
恐る恐る、近くに行くとドーベルマンの置物でした。
横には防犯カメラ作動中の警告板。
植物の持ち出しは窃盗罪になります、との事。
「児山城」は山ユリの森でもありました。
山ユリの花の時期は7月~8月頃のようです。
山ユリと言えば、細川 ガラシャさんの自画像を思い出します。命日も7月、現在の8月位です。
、、、脱線しました。

山ユリが美しく飾る夏の「児山城」を見てみたいと思いました。所有者さんと児山城守り隊の皆さんに感謝です。
置物の番犬にも守られている「児山城」でした。

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しゃちほこ

雪国に潜む城 (2023/01/02 訪問)

お正月に会津若松城(別名鶴ヶ城)に行ってきました。
 この城は1384年に建てられた城で蘆名氏、蒲生氏、伊達氏、上杉氏などの東北の豪族が入城していて、城下町も栄えていました。1869年、松平容保が率いる旧幕府軍が立てこもる会津若松城は新政府軍との激戦の舞台になりました。一日に二千五百発もの弾丸を浴びたともいわれていますが、耐え抜きました。降伏はしましたが、落城はしませんでした。
 期待以上の天守、石垣の迫力に圧倒され、さらに雪が降る冬にいくとより鮮やかで幻想的です。もちろん青空との相性も抜群です。四季折々の景色を楽しめるので皆さん是非行ってみてください。
 あと名物のソースカツ丼もお忘れなく!

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ぎりょう

曳家の天守も男前! (2023/05/22 訪問)

青森三城目は弘前城へ。ご承知のとおり令和3年9月から本丸東面石垣の積み直し工事を実施中で、天守は曳家された状態が続いています。石垣修理の完了後の令和7年に天守の移動、さらに令和8年から2年をかけて天守の耐震補強と保存修理の予定という。東北地方唯一の現存天守が先々までしっかりと保存され、後世に受け継がれることは素晴らしいことです。ただし5年後に自身の足で登城し美しく整備された天守と再会が可能かちょっと考えてしまいました(笑)
桜の時期が終わった平日でしたが、観光客もたいへん多く弘前城の人気の高さを再認識しました。曳家工事のため設置された展望デッキ上から見る天守の姿は、見上げた感覚とは趣をことにしてなかなかの男前でした。
この日は大手門から登城、二の丸未申櫓、辰巳櫓を横目に南内門、本丸から北の曲輪、丑寅櫓、四の丸北門(亀甲門)とゆっくり攻城できました。
その後は、最勝院で最北に建つ五重塔、初代藩主為信の菩提寺である革秀寺で彼の霊廟(いずれも国の重文)を見学。津軽氏の歴史を訪ねることができました。





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カズサン

二の丸・袖曲輪・馬出 (2023/05/25 訪問)

 二度目の登城は未踏の西峰曲輪群を探訪観察、横堀・堂の尾曲輪・井楼曲輪編投稿に続き二の丸跡・袖曲輪・馬出編を投稿します。
 二の丸は西峰曲輪群の本丸に当たる西の丸の北下の平坦地、堀を挟んで北に袖曲輪、西下に馬出、馬出西下に横堀と続く横堀、二の丸西下に切岸と横堀が北に伸びてる横堀と堂の尾切岸土塁曲輪の間に構えています。
 馬出には天正二年戦士者之碑、本間氏清、丸尾義清の戦死址墓石、社が祀られています。

 狭いエリアですが見所満載の曲輪群です。
 

 

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風来坊や

天空の城 (2023/06/01 訪問)

竹田城跡周辺では秋から冬にかけてのよく晴れた早朝に朝霧が発生し、丹波地方の風物詩となっています

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風来坊や

世界文化遺産登録から30周年 (2023/06/01 訪問)

1993年(平成5年)外観の美しさと城としての実用性を兼ね備え、日本の木造城郭建築の代表例としてユネスコの世界遺産リストにその名が登録された。

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風来坊や

岡山市民の日 (2023/06/01 訪問)

登城記念に大手饅頭頂きました。
池田家や小早川家といった歴代城主の家紋などが印刷された特別包装のまんじゅうが配られました。

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風来坊や

因島水軍城より望む (2023/05/31 訪問)

青陰城は海賊ではなく戦国山城であり長崎・青木・余崎などの連絡場所であった。
また、周辺に因島村上氏が残した武具や遺品・古文書など歴史資料を展示している資料館(因島水軍城)があります。

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ぎりょう

青森の「土の城」に感動! (2022/05/21 訪問)

青森探訪の二城目は浪岡城。堀越城からは21km、車で30分ほど。
浪岡城は、南北朝時代に南朝を指揮した北畠親房の子孫、浪岡北畠氏によって1460年代に築城されたという。永禄5(1562)年に親族間の争いが起こり、その後浪岡北畠氏は弱体化し、天正6(1578)年に大浦(津軽)為信に攻められて落城する。廃城後は田畑として使われていたが、昭和15(1940)年に青森県初の国史跡に指定された。昭和52(1977)年から発掘調査が始まると12世紀後半代から16世紀末までの陶磁器や金属製品、武具など大量の遺物が出土しており、古くからこの地方の中心として機能した城館だったことがわかる。
城地は浪岡川の段丘に立地し、南は浪岡川とその氾濫湿地で防御、主曲輪である内館、それを囲む東館、北館、西館など八つの曲輪で構成されている。各曲輪間は中土塁を持つ幅20m程の水掘りで区画されており、中土塁が通路の役目をはたしていたものと想像できる。
北館は広大で、大身の家臣屋敷が並び立つ曲輪であったらしく井戸跡をはじめ遺構を復元展示している。
比高10m程の平城なのだが、各曲輪は広さもあり、中世の「土の城」の構造がとてもわかりやすいと感じた。
城址には「浪岡城案内所」があり駐車場(小型車は24台駐車可)を利用できる。また近隣には発掘調査の出土遺物を展示する「中世の館」もあるのだが第三日曜は休館(前記案内所も)だったため見学できなかった。


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赤い城

津金学校 (2023/05/28 訪問)

明治、大正、昭和の三世代の学舎が残る津金学校の駐車場を利用。
その後ろの諏訪八幡神社周辺が城跡です。
神社西側に土塁と空堀が残っています。
ただしこの時季、空堀は藪と伐採された木枝で覆われ、形を明確に確認することはできませんでした。
空堀の北側は竪堀となっているそうですがこれも確認できず、やはり冬ですかね。
ここの城主津金氏は常陸佐竹氏の一族とされています。
堀底はやっぱり?

写真投稿するのにGoogle Photoにアクセスできなくなったのですが私だけ?
ちょっと不便になりました。

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昌官忠

(長野県&岐阜県方面城巡り)10日目:津屋城 (2023/04/27 訪問)

福束城からの転戦です。本慶寺駐車場(35.255134、136.565504)に駐車しました。

津屋城は、文明年間(1469-1487) 高木氏によって築城され、高須城主・高木盛兼の一族である高木八郎左衛門正家の居城でした。
1600年(慶長5年)関ヶ原合戦で石田三成に味方したため改易となり、廃城となりました。

現在城址は本慶寺の境内となっており、城跡碑と説明板が建てられています。
遺構として空堀、土塁、土橋があるようですが、入口のみ確認して境内を歩きませんでした。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=駒野城に向かいます。

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昌官忠

(長野県&岐阜県方面城巡り)10日目:福束城 (2023/04/27 訪問)

曽根城からの転戦です。福満寺入口前(35.298612、136.623624)に路駐しました。

築城年代は定かではないようですが、1600年(慶長5年)関ヶ原合戦の頃は20,000石を領した丸毛兼利の居城だったそうです。
兼利は西軍に味方したため、東軍に属した松の木城主徳永寿昌や今尾城主市橋長勝らに攻められ福束城は落城し兼利は大垣城へ逃れました。戦後は前田利常に仕えたそうです。

福束城は福満寺の北側一帯に築かれていたそうですが、現在は河川改修によって遺構は消滅しているようです。
福満寺の境内に福束城の説明板が設置されています。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=津屋城に向かいます。

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昌官忠

(長野県&岐阜県方面城巡り)10日目:曽根城 (2023/04/27 訪問)

御茶屋屋敷からの転戦です。曽根城公園専用駐車場(35.403659、136.619731)に駐車しました。

築城年代は定かではないようですが、永禄年間(1558年 - 1569年)初期に稲葉良通(一鉄)によって築かれたと云われています。
稲葉氏は伊予国河野氏の一族で稲葉通貞の時に美濃にきて、土岐氏に仕えたと云われています。
土岐氏が没落すると斎藤氏に仕え、さらに織田信長、豊臣秀吉に仕え1588年(天正16年)郡上八幡に40,000石で移封となりました。
稲葉氏のあと西尾光教が20,000石で入封、関ヶ原合戦では東軍に属して大垣城攻めの功により揖斐城に30,000石で転封となり、曽根城は廃城となりました。
春日局の父は明智光秀の重臣であり甥(実際には従弟)とも言われる斎藤利三で、母は稲葉良通(一鉄)の娘です。後に稲葉正成の妻となっています。

現在は本丸跡に華渓寺があり周辺は曽根城公園となっています。
城塁、石列、堀を確認しました。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=福束城に向かいます。

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昌官忠

(長野県&岐阜県方面城巡り)10日目:御茶屋屋敷 (2023/04/27 訪問)

長松城からの転戦です。ボタン園見物客駐車場(35.389288、136.579689)に駐車し、御茶屋屋敷入口(35.389268、136.579922)に向かいました。

"説明板によるとお茶屋屋敷は、1604年(慶長9年)徳川家康が、織田信長の造営した岐阜城御殿を移築させた将軍専用の休泊所跡のようです。
"

ボタン園の入城は無料ですが、付近の道路は狭いので、車の通行は注意が必要です。
遺構として土塁、横堀(空堀)、井戸跡を確認しました。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=曽根城に向かいます。

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小城小次郎

宇喜多直家はここを起点に膨張していった (2023/01/07 訪問)

児島湾に面した田園地帯にぽっかり浮かぶひょうたんみたいな小山が、宇喜多家雄飛の起点となった乙子城。宇喜多直家の祖父がいたともされるこのお城を浦上家が直家に与えたことから、直家と宇喜多家の膨張が始まっていく。

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赤い城

ふるさと公園 (2023/05/28 訪問)

ふるさと公園に駐車場があります。
公園が主郭部で薬研堀が残っています。
以前は狼煙台があったようですが登城時は無し。
そこから竪堀っぽい部分はありました。
天正壬午の乱の際には北条氏が駐屯地としていたとされます。
この日は早朝の訪問でしたが地元の方が草刈りをされていました。

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