今日の天気は曇のち15:00頃から雨の予報ですが、和気駅南駐車場についた12時前には小雨が降っていました。
富田松山城から車で25分くらいで、和気駅南駐車場(34.796376、134.152398)に着きました。
そこから、最上稲荷鳥居入口(34.799241、134.148300)に向かいました。
この城には最初、恒次(経次)氏が居城していたようです。恒次氏は和気郡新田庄内に地盤をもつ土豪で、1511年(永正8年)頃、恒次新左衛門尉家員なる者が和気にいたようです。
1553年頃(天文後期)天神山城に浦上宗景が蜂起し兄政宗に叛旗をひるがえすと、政宗は恒次新左衛門と森氏を恩賞をもって誘い、味方して天神山城の通路をふさぐよう命じています。
恒次氏らの不穏な動きを知った宗景は、先手を打って彼らを攻撃し、未然に滅ぼしたそうです。
恒次氏を押えて和気地方を制した宗景は、北曽根城に宿老明石行雄(景親)の弟(長男とも)である明石三郎左衛門景行を入城させます。
1568年(永禄11年)景行は城の東にある由加神社に征矢を寄進しています。主君宗景は播磨出兵に着手しており、戦勝を祈願して奉納したのかもしれません。
1574年(天正2年)宇喜多直家が浦上氏から離反し毛利輝元を頼んで謀叛すると、景行は行雄とともに宇喜多氏方についています。
景行は直家に仕え活躍したものの、1577年(天正5年)「上月城の戦い」で羽柴秀吉に敗れ、討死しました。
その後、一族の明石右近が城主となりましたが、豊臣秀吉の朝鮮出兵に従軍し1593年(文録2年)戦死したため廃城となりました。
和気富士の頂上にあり、和気駅からだと徒歩30分ほど、攻城口からだと20分くらいで着きます。
攻城口から、ずっと階段を登って行く感じです。和気富士と言われるだけあって、美しい形の山で、登っていく途中の景色も良かったです。
現在城址には石垣や土塁などの遺構が良好に保存されていました。
攻城時間は60分くらいでした。次の攻城先=太鼓丸城(城びと未登録 岡山県和気町)に向かいました。
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