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にのまる

【赤色立体地図かるた】

「空角の経始 令和も健在 宇和島城」
(あきかくのなわ いまもけんざい うわじまじょう)

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柳津城 (2025/09/13 訪問)

 美濃斎藤氏の家臣である竹腰摂津守重直の居城と伝わります。岐阜県岐阜市にある城びと未登録の城址です。摂津守が1556年(弘治2年)に起きた斎藤道三と息子義龍のよる「長良川の戦い」で、義龍側として参加し戦死。その後、叔父の成吉摂津守尚光(竹腰尚光)が城主となり、義龍に仕えました。城は後に起こった大洪水で廃城となっています。竹腰氏は没落しますが、後に竹腰正信が徳川家康に仕えます。正信の母お亀の方は夫正時と死別後、徳川家康の側室となり尾張徳川藩の藩祖となる義直を出産します。この縁で正信は家康に仕えるようになったようです。その後、正信は尾張藩の附家老となり、竹腰氏は幕末まで尾張徳川家を支えました。
 現在城址は光澤寺の境内となっており、遺構はありません。本堂裏に城址碑、門の前に説明板が建てられています。

名鉄柳津駅から徒歩5分くらいで行くことができます。

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森部古戦場と森部城(岐阜県安八郡安八町) (2025/09/13 訪問)

 前田利家の織田家への復帰が叶えられたことで知られる合戦跡です。美濃を支配していた斎藤義龍が急死すると、跡を継いだ龍興が14歳と若年であったため織田信長は美濃へ侵攻します。この地で織田軍1500、斎藤軍6000と数の上では劣勢でしたが、信長は斎藤勢を打ち破りました。
織田信長に仕えていた前田利家は信長の寵愛を受けた同朋衆の拾阿弥を、愛用の笄を盗んだことから斬り倒してしまい織田家から追放されました。帰参を望む前田利家は桶狭間の戦いに無断で参加し武将首を取る成果を挙げましたが、織田家へ戻ることは許されません。そしてまたも無断で参加したのが森部の戦いです。この戦いで利家は斎藤勢の中で「首取り足立」と猛将と恐れられていた足立六兵衛を討ち取ります。足立六兵衛は信長に「足立の首は、城一つ攻め滅ぼしたも同然」といわせたほどの武将でした。他にも首を取った前田利家は織田家への復帰が許されます。
「鎧掛けの松」は首実験のおり、信長が鎧を掛けた松と伝えられています。現在は二代目の松が「出世の松」として植えられています。NHK大河ドラマ「利家とまつ」を記念して、信長、利家がこの地から出世していったという縁起にあやかって「出世の松」植樹となったようです。首実検はしたのが、近くの薬師堂で説明板などがありました。

「出世の松」から北に約1.2Km歩くと森部城跡(城びと未登録)があります。遺構はありません。南隣の金峯神社は本郷城主稲葉正成の屋敷跡です。

おまけ
 近くに三洋電機が2001年12月に建設した巨大建造物「ソーラーアーク」がありました。新幹線で名古屋から京都方面へ行くときに右手に見えてくる建造物ですが、ここにあったのですね。

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本郷城 (2025/09/13 訪問)

 岐阜県羽島市にある城びとには未登録の城址です。
稲葉正成が慶長6年(1601)より元和9年(1622)まで葉栗郡内と中島郡内を合わせてほぼ一万石を領して居城とした城です。説明板によれば城域は神明神社の西に広がる水田2ヘクタール程であり、明治14年以前には城の内と呼ばれていました。遺構はなく神明神社に石碑があり裏に説明板が彫られています。
 稲葉正成は、以前は小早川秀秋に仕えていた武将で関ケ原の戦いでは平岡頼勝と共に徳川家康に内通し秀秋を東軍に寝返らせる事に成功した武将ですが、経歴を見ているとなかなか興味深い人物です。妻は後に春日局となる福ですが、彼女が徳川家光の乳母になった後は離縁しています。

 新幹線岐阜羽島駅もしくは名鉄新羽島駅より徒歩約10分の場所にあります。

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しんちゃん

再建大手門 (2024/12/31 訪問)

ここに来るまでに既に幾つか訪問してきたので、二の丸の角櫓を見に行くことは出来ませんでした。とはいえ、この日の目的は再建された大手門を見る事だったのでヨシとします。しかし、大手門の裏側はずいぶんあっさりしている。こんな構造だったのか。後ろにも目をつけるんだって誰か言ってなかったか? 門は以前は藥医門しかなかったので、ずいぶんイメージが変わった。
中はどうなっているのか興味があるな。

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カズサン

二俣城の堀切それぞれ (2025/02/25 訪問)

 二俣城には南側先端の南の丸Ⅱ南下に一号堀、南の丸Ⅰと南の丸Ⅱの間に二号堀・切岸、南の丸Ⅰと二の丸の間に三号堀・切岸、本丸と北の丸の間に四号堀・堀切、北の丸の北側に五号堀・堀切(現在は北の集落への道路と二俣城専用駐車場に成って遺構は判りずらい)、南の丸Ⅰの西下に二号竪堀、西の丸Ⅱの南下に一号竪堀が存在しています。本丸に在る二俣城案内パネルに二俣城実測縄張図が掲示されて居ますのでご確認ください。
 今だ、一号堀と一号竪堀は未確認です。
 
 今年の2月25日冬枯れの樹木の葉っぱが落ちて、草刈、樹木伐採の清掃整備が出来上がった頃を見図って出掛けました、晴天世良い一日でした。今回の投稿で2025/02/25撮影の写真投稿は終了です。
 続いて鳥羽山城を同じく探訪しましたの続いてタイミングを見て投稿させて頂きます。
   

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カズサン

北の丸・旭ヶ丘神社 (2025/02/25 訪問)

 二俣城の北の丸は尾根先端を五号堀・堀切で北の浜松市天竜区役所に在る笹岡城・二俣古城から南に天竜川に沿って伸びる尾根筋を切断されております。現在は北に伸びる尾根筋道、二俣城駐車場で5号堀遺構は少し見にくくなっています。
 北の丸の北側東側は切岸崖に成り、西側も切岸崖ですが崖下に登城路が付けられて4号堀・堀切本丸と切られて、本丸北門・食違い門跡と北の丸はコンクリ橋で続いています。
 北の丸内部は現在旭ヶ丘神社が鎮座し、日清、日露、満州事変、大東亜戦争で亡くなられた二俣町英霊351柱が祀られて居ます、二俣の靖国神社・招魂社の様な神社です。
 鳥居を潜って神社の裏側北側の崖は畏れ多く深入りはしていません、神社参拝してぐるっと見渡して終了です。
 

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しんちゃん

名古屋城 (2024/03/09 訪問)

本丸御殿の東側に「山田」の刻印を発見しました。以前吉田城で石垣の崩壊に伴う修理を行いましたが、その際に一割ほどの石が交換石としてよけられています。安全を確保するための処置ですが、あまりに綺麗に並べ直してあったので一見、別の石垣になったのかと焦りました。吉田城の本丸南側の橋の近くにはその時外した「山田」の刻印のある石を飾ってあります。
吉田城の石は名古屋城築城時に余った石材のおさがりを頂いているので、当然名古屋城にも「山田」の刻印のある石はあります。たまたま本丸御殿の東側の石垣の中に「山田」の刻印石を見つけた時は、思わずガッツポーズでした(小さくね)。
この刻印は蜂須賀家政の嫡子・至鎮の家臣・山田氏にちなんでいるようです。至鎮の受け持ちは西の丸とされ本丸南東部は長州藩主・毛利秀就で、たしかこの人は蒲郡市周辺で採石を行い、地元の古墳の石まで持っていこうとしてたのではなかったか? イボ石が真っ二つになっていました。蒲郡市の竹島の石燈籠の乗っている巨石にも矢穴の跡があります。毛利秀就の家臣が石垣に刻んだ刻印は「二」の文字が使われているようです。
今度探してみようかな。

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しんちゃん

名古屋城 (2024/03/09 訪問)

天下普請で築かれた名古屋城の石垣は築城を開始したその年の内に、ほぼ積み上げてしまったようです。本当かな~? ちょっと信じられないスピードですね。穴太衆の技術もさることながら、石の採集や運搬、加工や積み上げなど、どのように役割分担をして効率化を図って来たのか興味があります。それぞれにドラマがあって面白そうですね。
でも、築城開始の数年前までどの大名も豊臣恩顧でブイブイいわしてたのに、人間コロッと変わるものですな。人情紙風船~

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ぷあー

岡山城 (2025/05/19 訪問)

岡山城

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ぷあー

彦根城 (2024/04/21 訪問)

2回目

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にのまる

【赤色立体地図かるた】

「元親像に会いたくて……岡豊城」
(もとちかぞうにあいたくて……おこうじょう)

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にのまる

【赤色立体地図かるた】

「城山に 青石キラリ 徳島城」
(しろやまに あおいしキラリ とくしまじょう)

「守りの要 支える舌石 徳島城」
(まもりのかなめ ささえるしたいし とくしまじょう)

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しんちゃん

歴史は謎 (2024/12/31 訪問)

木田範宗の墓は木田余城跡の一角に設けられています。木田余城は範宗によって築かれたとされ範宗は主君・小田氏治と対立し、氏治の命を受けた菅谷氏に誘殺されたと書物に記載があるようです。
時期は手這坂の戦(1569)の後とされますが、被疑者にも被害者にも諸説あるようです。結局謎につつまれているのだけど、歴史の真否に関しては、なかなか断言できることではないですね。大事なのは考えることだと思います。
常に新しい情報を入れて、考えまくることが重要だと思います。私は、城人ならではの形で様々な歴史に対しての「気づき」が有るのではと考えています。実際に自分の目で見て考えねば解らないことがあると思いますね。

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しんちゃん

馬籠宿 (2019/03/09 訪問)

馬籠宿の投稿です。特徴的な水車と坂の写真を目にした方も多いと思います。城ではないのですが古い日本の風景が広がっていて私は好きです。城びとを始めてからは城ばかりになってしまいましたが、それまでは神社や寺、旧跡めぐりも精力的に行っていました。
古い日本の歴史を丸ごと飲み込んでやろうというエネルギーが有ったのですね。若かったな~(今より)
馬籠宿は中山道43番目の宿場で妻籠宿と並んで人気の観光名所です。妻籠は落ちついた雰囲気がありますが、馬籠は賑やかな所で、観光客がいっぱい来ています。坂を登って行くと石畳の両脇に資料館やカフェなどがひしめいています。この狭さ密度が馬籠の華やかさを増しているのだと思います。
旧本陣跡は藤村記念館となっています。ここは島崎藤村の生家跡で子供時代の勉強部屋なども残っています。お坊ちゃんだったのですね。残念ながら生家は明治28年の大火で焼失してしまいますが、地元の方によって昭和22年に記念館が立てられました。

馬籠は豊臣秀吉の傘下の木曽義昌が治める所となり小牧・長久手の戦いの際には義昌は木曽路の防衛を命じられました。義昌は兵300を送り、山村良勝に妻籠城を守らせ、島崎重通が馬籠城を守りました。
この重通が島崎藤村の祖先にあたり、ここでも歴史が繋がっています。馬籠城も訪問しているのですが写真が消えてしまいました。城の造りとしては妻籠城の方が印象に残っています。

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しんちゃん

黒井城 (2014/07/21 訪問)

兵庫県の黒井城の最初の訪問時の写真です。南東から東曲輪・三の丸・二の丸・本丸と続き石垣が良く残っています。堀は少ないですが、二の丸から本丸に至るまでに三箇所の折れ曲がりがあり侵入を妨げているとTVで言ってましたね。現状だと判別がしづらいですが縄張り図を見ると確かにそうなっています。
続百名城の城は登録される前に6~7割は訪問していたのですが、スタンプを押す際にもう一度再訪してます。城びとを始めてからも可能な限り再訪し600くらいは周ったかな? 新規を合わせると2年ちょっとで1200城ほど廻っています。さすがに全部再訪は厳しいけど、できれば廻りたいね。

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しんちゃん

四谷の千枚田・新城市 (2015/05/24 訪問)

愛知県新城市の四谷の千枚田の投稿です。お城とは全く関連性が無いのですがご容赦いただきたい。鞍掛山の麓の斜面に約400年前に開墾された美しい棚田が広がっています。現在420枚ありますが最盛期には1296枚の田があったそうです。
日本の原風景と呼ばれる光景で、地元や契約者の方々が今でも稲を育て、景観を保っている姿はちょっと感動です。当地の案内板には明治37年に20日あまりも雨が降り続いて、鞍掛山とびんぼう山(通称)の谷間に溜った泥水が山津波を引き起こし、11人の死者が出る惨事になったそうです。そのあと復興に立ち上がった村人たちに寄って、荒れ地を田に変えた(再開墾?)のがこの千枚田と書かれています。

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しんちゃん

(2024/12/31 訪問)

南に天の川が流れ、北東に御館川が流れる大字中佐谷の台地上に笠松城は築かれていました。西以外を河川で守られた要害の地にあります。北側に土塁が有るようですが確認はできていません。案内板によれば正元年間に常陸大掾資幹の孫の佐谷郷の地頭・佐谷左衛門尉実幹によって築かれたとのこと。案内に沿って台地を登って行くと城址碑のある扁平地にたどり着き、そこが主郭のようです。
民家の石垣らしきものがあるけど、当然城址とは無関係です。城の石垣なら良かったんだけどねえ・・

慶長7年(1602)から約40年、志筑藩主本堂氏が居住し笠松城を称したようです。とはいえ本堂氏は8000~8500石の大身旗本で志筑藩はかすみがうら市中志筑あたりになるので、あくまで居住していただけらしい。正保2年(1645)に志筑陣屋が築かれ、寛文8年(1668)本堂玄親の代でようやく本領に引越すことが出来たようです。

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しんちゃん

掻上げ? (2024/12/31 訪問)

本丸の案内板には「この城は、堀と土塁で防備をかためる「掻上げ(かきあげ)城」で・・」と書いてある。なんじゃ? 掻上げって?
スーパーの特売でうってるやつか?(それは掻揚)
土塁はよくわからなかったが、周囲の堀は確認できました。文亀年間(1501~1504)には小山田氏の有力な家臣・菅谷隠岐守貞次が城主でした。菅谷氏は天正元年(1573)7月佐竹氏の攻撃を受け佐竹氏の家臣となり、慶長7年(1602)佐竹氏の秋田国替えによって廃城になったようです。

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しんちゃん

名古屋城 (2024/03/09 訪問)

二の丸の北面の石垣にはめずらしい南蛮たたきの鉄砲狭間(銃眼)があります。南蛮練塀とも。
石灰や砂利、種油などを練り合わせて作ってあるらしく、けっこう頑丈なようです。なぜここにだけそのような変わった技法を用いているのかは不明です。土塀などは無かったのかな? なんとなく西部劇みたいですね。

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