鶴首城の麓にある陣屋跡です。寛永16年(1639)水谷勝隆により築城が開始されましたが備中松山に転封となったため、後にこの地を治めた山崎氏により完成した陣屋跡です。成羽小学校から成羽美術館付近に築かれていました。石垣がよく残っています。
赤い城さんの投稿で陣屋の存在は知っていましたが、予想以上に石垣が残っていました。
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2025/12/13 14:27
2025/12/13 13:54
天正伊賀の乱の決戦地 (2025/03/30 訪問)
天正伊賀の乱の最終決戦場になったお城で、決戦を経て伊賀勢は織田勢との和睦を勝ち取っている(殲滅されていない!)。外土塁コース、堀底コース、内土塁コースと遊歩道が完備しているのは有難いかぎり。
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2025/12/13 12:56
長篠450年記念 医王寺山は武田の築いた山城なのか? (2025/12/07 訪問)
医王寺山の続きです。長篠城ではないが、私は長篠城と医王寺山はセットだと考えています。「城びと」も「ニッポン城めぐり」も合戦や攻城用の陣所の登録は少ないが、短い期間に築かれているからこそ築城者の意図や「くふう」が込められていると思う。
浅野文庫の諸国古城之図には「勝頼陣城」として描かれていて「三川日記」には医王寺山に3000の兵が陣を配置したと書かれているらしい・・読んだことはないが。実際に周って見ると「もっと入る」んじゃないかなと思った。もちろん伝・勝頼本陣の周囲も含めてだが。
北西の尾根は敵の攻撃を受けやすい場所だと思うが、現状はどうなのだろうか?
尾根の先端部は二ヵ所 二段にわたって石積で補強がしてあるようだった。先端は急峻で林業の人が足場を固めるために築いたのだろうか? だがこんな急なガケみたいな場所を通るのか? 武田方が築いたにしても、あまり武田軍が石垣を築いたというイメージは無い。
個人的に興味のある場所だ。
北側の尾根に周ってみた。伝勝頼本陣とされる丘陵の北を守る位置にある。このあたりは林業が作ったと思われる掘道や土盛らしきものがある。土盛は南側に付いている、私なら北側に付けるだろう。しかし、この林業と言うものはやっかいだ・・全国の山城に林業の爪痕はいっぱい有って遺構と判別がつきづらい。
だが、関ヶ原を周った時に林業が作った扁平地かな?と思っていたら関ヶ原合戦図志には陣所と比定されている箇所が有ったので遺構の可能性が有るケースも有ったりする。何せ明治の時代の本なので杉の植樹が全国で行われる前の話だ。
神谷氏の書いた関ヶ原合戦図志は江戸時代に編纂された武家事記を参考にしていると思われるので正確とは言い難い。
だが高齢の身でありながら関ヶ原を真摯に歩き回って陣所を比定して行ったことは本を読んでみれば良く分かる。だからリスペクトしているわけですよ。
ところで「くふう」や「ひじかた」ぐらい漢字で書かせてもらってよいですか。歴史のサイトだよね・・漢字は日本人の培ってきた財産ですよ。つまらない「言葉狩り」で自分たちの首を絞めるのは良くないですよ。
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2025/12/13 11:29
Re: 自害ヶ岡 時代は東海地方 (2025/11/30 訪問)
関ヶ原の自害ヶ岡を再訪しました。神谷道一氏の記した「関ヶ原合戦図志」だとこの丘陵が西軍の陣地と記してある。現状、丘陵を削り取って東海道新幹線が通り、間に橋が架かって行き来できるようにはなっている。
新幹線が通っているということは国の土地になるのだろうか? 「関ヶ原合戦図志」は小和田教授がユーチューブで紹介していたのだが中古で15000くらいするのでおいそれと手が出せない・・「武家事記」はけっこう安かったのだが。
「関ヶ原合戦図志」は国立公文書館のHPに登録すれば閲覧が出来ます・・ありがたい、ありがたい。明治の難しい漢字で書かれているので読むのは大変だが、古文書に比べるとまだましだ。関ヶ原の歴史に興味のある方は是非読んで欲しいです。
私の記憶だと「関ヶ原合戦図志」が書かれた翌年に参謀本部が今の関ヶ原の陣地を発表して、その翌年には日清戦争が起きている。私は基本的に偶然と思しきものは疑ってかかるので、参謀本部が使えそうな位地から陣所をずらしているものと考える。
当時の大砲は国産化を優先しているので鋳造・前装式の青銅製の大砲だが欠陥品のアームストロング砲なんかよりよほど頼りになると思う。南宮山の尾根上に配置すれば中山道や伊勢街道を通って東京(皇居)を目指す「清軍」を狙い撃ちできる。
「関ヶ原合戦図志」には大垣城の布陣があるが参謀本部の物には無い。本当は陣地の取得にしか興味がなかったんじゃないか??
正直・・南宮山一帯だけ「遺構が無い」のが気になる。「伝・毛利秀元陣」もとても怪しい。毛利も一定の間、南宮山に布陣していたらしいのでもうちょっと何かあっても良いんじゃないか?
いやな考えだが陸軍の命令で「誰か」が土塁などを削り取って扁平してしまったのであろうか??
自害ヶ岡の南側は草ぼうぼうだったので引き返した。おそらく遺構は無いだろう。いずれにしろ野戦砲陣地として陸軍に目をつけられたのなら扁平されて何もないと思う。土塁の端っこでも残っていると良いのだが。
新幹線が元気にビュンビュン走り回っている。「豊臣新幹線」楽しみだ! 東海の時代が来た!!
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2025/12/13 09:20
2025/12/13 07:10
公開終了!! (2025/11/22 訪問)
駿府城さん11月18日、とある煩悩の登城目録さん11月20日の投稿で2025年12月26日(金)をもって、駿府城跡天守台発掘調査現場の一旦公開終了(10月より平日のみの公開)ということは知ってはいましたが、11月22日(土)に駿府城跡に4年ぶりに訪問してきました。
発掘調査現場には2019年2月と2021年12月に2度訪問しておりますが、公開終了と聞くと何だか一目だけでもと思い訪問したしだいですが、復元された東御門、巽櫓、坤櫓、石垣、堀跡など見どころ満載の駿府城、発掘現場が見れないのは残念でありましたが、満足した訪問でした。
本日、12月13日(土)”最後の休日公開日”を特別に設けていただけるとのことで、行きたかったのですが仕事です( ノД`)シクシク…またいつか、公開日を設けていただければと思います。
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2025/12/13 00:59
2025/12/12 23:43
ロボとの遭遇 安土城 (2025/11/08 訪問)
摠見寺の旧跡を抜けて麓まで戻って来ました。途中いくつか郭跡らしい扁平地がありました。麓の石垣のあたりで、なにやらうごめく物体があります。近づいてみると草刈ロボがいました。近くには「草刈り頑張ってます」と書かれた木製のコーンがある。
城址の保全にロボが活躍しているとは・・時代というやつか。ありがとう草刈ロボ これからも特別史跡を守っておくれ。
それにしても片や寺院を通って本丸に至る道も有れば、大手道を曲がった先には石仏が埋まっている。信長の二面性と言うか「狂気」を感じた気がした。この言葉も「刈られて」いずれ使えなくなってしまうのかな?
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2025/12/12 23:07
寄ってけ将軍 (2025/11/30 訪問)
ようやく涼しくなってきたと思ったら、すぐさま冬になってしまいました。夏はやたら長いのに秋は一瞬だったような気がします。
それでもそれなりに紅葉を楽しむことが出来ました。
案内板によるとお茶屋とは江戸・京都の往還に整備された将軍家専用の宿泊施設とのことです。美濃赤坂のお茶屋屋敷は慶長10年(1605)に完成しました。かつては約170m四方の方形区画で四隅には櫓も備えていたとのことです。ちょっとした平城のイメージですね。
今でも周囲に土塁や空堀が残っています。
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2025/12/12 23:07
【鹿屋航空基地史料館】鹿児島県鹿屋市 二式大艇と初対面 (2025/10/29 訪問)
今回の鳥取城復元中ノ御門枡形、福岡城三の丸復元潮見櫓、大刀洗平和記念館の軍機震電、鹿屋航空基地史料館の軍機二式大艇を見学観察するのが今回の九州一周城探訪10日間のメインの課題でした、鹿屋城を終えて、ここ鹿屋が最後の二式大艇との初対面と成りました。
住所:鹿児島県鹿屋市西原3丁目11ー2
駐車場:鹿屋航空基地史料館専用駐車場
参考資料:グーグルマップに依る。
史料館より先に、通りの西側に野外展示されてる二式大艇を見学、フェンスに囲まれていて基地入り口側にフェンス入口が有り、中に入り周囲を廻って見学、大きさにはびっくり、ここの展示機は世界で唯一残されている実機です、全長28.1m、全幅38.0m、全高9.2m、馬力1850馬力×4基、最大速度453.2km/h、航続距離7152km(最大)、武装20㎜機銃5・他、の規模を誇り、昭和15年初飛行、昭和17年正式採用され、偵察・哨戒・輸送など長大な航続距離を活かした任務で活躍し終戦までに167機が製造された。平成16年に鹿屋基地で展示公開されています。
やっと願いが叶って実機を見る事が出来ました感動です。
この後には資料館に入り、無料で入館する事が出来ます、入口を入りロビーの大型ステンドグラスには肝を抜かします、平山郁夫画伯の夕映桜島、素晴らしい作品です。蘇ったゼロ戦の展示、鹿屋特攻作戦の遺影遺書展示、鹿屋海上自衛隊航空部の活躍コーナーも見学いたしました。史料館周囲にも野外展示機が数多くあり、US-1、P-2J、対潜哨戒機、練習機などあり見所満載です。
大変満足して資料館の北側に在る鹿屋市観光物産センターへ土産を漁ると二式大艇のTシャツが有り、今年は着れませんが来年の夏に期待して、色違いの2着購入。
この後はえびの市へ、日向、豊後、国東半島、豊前、周防、備前、播磨と4日残すのみ。
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2025/12/12 21:57
二度目の登城、二式大艇見学をメインとして (2025/10/29 訪問)
南郷城を後にして、南郷城から直線約50km程、経路120km程大隅半島鹿屋市の鹿屋城を目指す、今回のメインテーマの一つ、鹿屋基地の軍機二式大艇見学に合わせて二度目の登城。鹿屋市までは国道3号線バイパス、九州道、東九州道、鹿屋取り付け道と高速道で大幅に時間が稼げる。桜島SAで遅めの昼食チャンポン麺を食べる。
駐車場:城山公園駐車場、トイレ有、余裕の駐車場
参考資料:余湖図コレクションさん城郭放浪記さんグーグルマップに依る。
城山公園駐車場から北西に道に登り北へ約50m程で鹿屋城の虎口大手口に入る、東へシラスの断崖の堀切虎口を通り本丸の城山公園広場、城山展望台は今も健在、平成28年10月24日初登城以来9年振りの再登城。本丸、本丸土塁、城名碑(亀鶴城跡)を確認してサラッと終了。
いざ鹿屋基地へ!・・鹿屋基地野外展示の二式大艇の写真を10番に掲載。
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2025/12/12 20:38
シラス群郭式山城、辿り着けず (2025/10/29 訪問)
伊作城跡を終えて北へ直線約5.5km程、経路約9.5km程の南郷城を目指す、県道22号線を西へ国道270号線に入り北へ、県道35号線を東へ、永吉小学校をへ、永吉小学校西の通りを北へ、ナビに入力した駐車場までたどり着いたが一軒家、人気無し、周辺歩いて眺めたが駐車場分からず、先の道は細く車の返しが出来ないことを不安に思い引き返す。(後から確認したら100m手前でした)
永吉招魂碑案内板の西側に南郷城跡石碑と難読出来ない説明板を写して終了としました。
帰ってから良く余湖図コレクションを精読しましたら駐車場の位置が明瞭に分かり、グーグルマップの精度をアップすると駐車場の位置が明瞭に指示されていました、もう少し事前の調査を精度アップして居たらと後悔しました。この年齢ですから次回は無いかも?
南郷城の構造は切り立った断崖の有るシラス台地に築かれた比高約50~60mの群郭式山城、西から野脛城、根子城、高城(本丸)、東城などの郭で構成されて連郭式にも見える。
歴史は、築城年代は定かでないが平安末期には日置南郷として開発されて桑波多氏が郡司として管理して居た。戦国期、伊作島津氏に従っていたが謀反を翻し、天文2年(1533年)伊作島津忠良(日新公)によって南郷城は攻め落とされた。南郷城の戦は薩摩統一を目指す伊作島津家にとって、最初の攻防戦であった。ここから伊作島津家の快進撃が始まって行く。(城郭放浪記さん余湖図コレクションさんの抜粋)
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2025/12/12 20:30
2025/12/12 07:32
【とことん名護屋城-④】黒田官兵衛の縄張りを読み解く (2025/11/23 訪問)
次は小和田哲男先生の講演の中からです。
名護屋城の縄張りは、黒田官兵衛によって作られました。そして普請奉行には、加藤清正・小西行長・黒田長政の三人が命じられました。先生は長年にわたり官兵衛の縄張りを研究されていて、官兵衛には海(または川)側に大手門を築き、三ノ丸→二ノ丸→本丸と渦を巻くように縄張りを築くという傾向があり、それを名護屋城の縄張りにあてはめていくと、現在は搦手門とされている所が実は大手門で、現在二ノ丸とされている所は三ノ丸、現在三ノ丸とされている所が二ノ丸、現在大手門とされている所は搦手門だったのではないか? と読み解かれているそうです。
それを聞き、私も翌日に3時間かけてじっくりと、全ての縄張りを歩いて確認してみました。確かに先生のおっしゃる通りだと思いました。ただ私がもしやと思ったのは、名護屋城の中では、山里丸の門と石垣が群を抜いて一番大きいので、官兵衛が設計した当初はここを大手門にしようとしていたのではないか? と感じました。しかし秀吉が風の強い天守を嫌い、途中からここ山里丸に下りて暮らし始めたので、この時に大手門の機能は弾正丸にあった現在の搦手門とされる場所へ移されたのかもしれません。
現在の大手門とされる場所は、防御も薄いので、私も先生と同じ搦手門だったのではと推測します。この門から太閤道と呼ばれる東出丸までの大手道は、威厳を見せるための道とよく言われますが、本当は単なる荷物の搬入口だったのではないか? 単純に段差を無くして広くし、荷車や馬車で本丸へ兵糧などを運びやすくした、ただそれだけの道だったのではないかと私は感じました。
そしてこの太閤道などで、先生のお話では、左側を通行せよという交通ルールを作ったのも秀吉だとか? おそらく武士は左側に刀を差しているので、刀と刀が当たらないよう左側通行にしたのではと推測されているようです。
名護屋城を訪れる方の大部分は、博物館入口に駐車してスタンプを押し、現在の大手門から真っすぐ伸びるこの太閤道を登り、本丸へ上がって海の景色を眺めたらそれで満足し(写真⑨→⑧)、予想外の広さに時間を取られてしまった、もう時間が無いからとすぐ次の目的地へと移動される方が多いようです。ちょっともったいないです。
それは本丸へ兵糧を運び込むための裏道を通っただけです。名護屋城は、東の海側の山里口から入り、【山里丸①→舟手門②→二ノ丸③→遊撃丸④→弾正丸(搦手門)⑤→馬場⑥→三ノ丸⑦→本丸⑧→天守台】の順で、高石垣を見上げながら、攻め手の気持ちになり、左回りでぐるりと渦を巻くように歩くと、そのすごさと官兵衛の縄張りの見事さがよく解かります。そして途中で見える破却の様子も半端ないです。先生のお話を聞いて初めてその事を知り、そして実際に歩いてその事に気づく事ができました。ありがとうございます。名護屋城に来られたら、2回目はぜひ時間に余裕を持たれ、このルートを歩かれてみる事を、私はオススメします。
次は、宮武正登先生の講演の中から(はじまりの名護屋城)に続きます。
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2025/12/12 07:16
三連休・山口県の攻城⑧ (2025/11/23 訪問)
築山館からの転戦です。既に12:30を回っていたので昼食をとろうと入った近くの古民家イタリアンレストランが満席で12:50まで時間をつぶすために散策してみました。想定外に昼食に時間がかかってしまいましたが、山口県赤十字血液センターの献血ルームFor Youでの献血は予定通り遂行することができました。今回の城めぐりはこれにて終了。三連休最終日は帰着するだけの予定としました。朝早く帰路に着けば、余裕で自由席に座ることができますので。
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2025/12/12 06:51
提城 鳥取県東伯郡北栄町 (2025/11/25 訪問)
倉吉での所用を終え立ち寄りました。
城びと未登録ですがニッポン城めぐりの登録城です。
駐車場はありません。
国道313号線の広くなったスペースに車を置き、北条川を渡ったところの民家に説明板があります。
当時はこの辺り、小高い丘だったようですが現在は宅地となり遺構はありません。
周囲の道路が何となくですがそれっぽい感じに見えてしまいます。
山田氏の居城で戦国時代には羽衣石城の南條氏の家臣、その後は毛利氏の家臣となりました。
【見どころ】
・近くを流れる北条川(天然の堀?)
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2025/12/11 22:17
どこの家の跡継ぎにもなれなかった (2025/03/30 訪問)
名張藤堂家の陣屋建物の一部を残す。名張藤堂家初代の藤堂高吉は丹羽長秀の実子にして豊臣秀長の養子となった後に藤堂高虎の養子になったが、どの家の跡継ぎにもなれなかったというなかなかレアな人生を辿った人物だ。
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2025/12/11 21:24
長篠450年記念 医王寺山① (2025/12/07 訪問)
「めぐらー」の皆さん、特集だけじゃなくて「みんなの投稿」も見ておくれやす。
今年は長篠の合戦450年ということで「お城EXPO」の二の丸会場でもいろいろ特集が組まれているようです。城めぐりを長くやっていると地形図を見ればどこに何がありそうかだいたい分かるようになってくる。築城者の気持ちになって考えてみると良いですな。
私の地元は愛知なので長篠・設楽ヶ原の古戦場周辺はけっこう周っています。武田勝頼本陣があったとされる医王寺ですが地形図を見ると周囲を丘陵に囲まれているのがわかる。西側から北側にかけて尾根と沢を天然の土塁・掘とし、北側を周回して標高172mのピークに至る。武田勝頼本陣跡とされる丘陵より比高が51m高いこの場所に物見やぐらを築けばより遠くの敵を早く発見することが出来る。
西側には豊川が流れ敵の信仰を妨げてくれている。
北側の尾根を利用すれば退路を確保できる。
地形から見ると武田勝頼はここを三河侵攻の拠点にしようと考えていたのではないかと思います。長篠城と医王寺陣を有効に活用出来たら、史実より有利に織田・徳川の軍勢と戦えたのではないだろうか。
退路を確保したうえで撤退戦に持ち込めたら、あれほど多くの将兵をいたずらに失うことは無かったと思う・・すねえもんの活躍で長篠城を落とせなかったばかりか、まんまと織田信長に不利な戦場に釣りだされてしまったのではないか・・と思う。
地形図から読んで想像が出来るのはこの程度・・あとは実際に周って見るだけです。
実際に周って見ると、天神山陣所の北側に続く尾根は敵を防ぐ格好の防塁だ。伝勝頼本陣との間は深い谷になっていて、下から見上げると圧巻だ。尾根の上は内側を削って扁平地にしてある、つまり郭だ。
各所にある堀らしきものは林業の人が作った道かも知れないのでカウントはしない。扁平地も植樹の為にならしたと考えることも出来るが、遺構の可能性も考えたい。林業による扁平に見えても昔から存在していたり、城郭大系に郭として記載があることも有るからだ。
実をいうと尾根全体に渡ってこのような扁平地が多く見られた。守備にあたる兵士たちの駐屯する場所も兼ねているのかもしれない。
尾根上を周遊して戻って来るのに2~3時間くらいかかった。全体でみると山城に近い構造をしていると思う。
医王寺は克補契嶷(こくほかいぎょく)という僧によって永正11年(1514)に開かれたとされているが、事実上の開基は二代目の琴室契音(きつしつかいおん)とされている。この人物、長篠城の菅沼氏と何かしらの関わりがあるのだろうか?
位置的に長篠城の詰城の位地にあるが、最初からここを城として築かなかった理由も不明だ。だが実際に歩いてみて周囲の地形を城塞として活用したならば、医王寺の守りは非常に固いと思えた。
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2025/12/11 18:25
2025/12/11 14:54
やっと行けました🙌 (2025/08/13 訪問)
18きっぷ5日目。
✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎行き✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎
【名松線】
松阪07:32発
↓
〈家城で乗り継ぎ〉
↓
伊勢奥津08:59着
↓
【路線バス】
伊勢奥津9:14発(月水金運行の美杉東ルート)
↓
北畠神社前09:22着
✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎帰り✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎
【路線バス】
上多気交差点南11:03発(水のみ運行の美杉南ルート)
↓
伊勢奥津11:10着
↓
【名松線】
伊勢奥津11:30発(松阪行き)
↓
このあと伊賀上野城へ行ったので一志で近鉄線に乗り換え。
というルートで行きました。
レンタサイクルは“怖い”という投稿やブログを読んでいたのでアクセス方法がなかなか決められなかったのですが、ちょうどいいバス便のある水曜日の訪問となったので助かりました。お城めぐりでコミュニティバスを使わせていただくことも少なくなく、ありがたいです。
ということで無事北畠城館跡に到着。95個目の続100名城スタンプをいただきました。
北畠顕家公、享年21。
花と散った花将軍。凛々しい立ち姿の銅像がありました。
三大武将庭園のひとつ、北畠氏館跡庭園。
500年を経た今日でも緑に包まれ心安らぐ設えにこの国の伝統美を感じました。
実は同じ列車&バスで来られた方がいらして、彼女もきっと城メグラーさんにちがいない!と思ったのでお声がけして一緒に見学させていただきました。
霧山城は元より、詰城も無理だろうなぁと思っていたのだけれど、その方に勇気をいただき、詰城まで一緒に行ってみることにしました。
北畠氏庭園の裏手の霧山城登山口から九十九折りの山道を10分ほど登りました。どなたかが説明板を読みやすいようにきれいに拭いてくださっていました。ありがとうございます。
真夏の山城に踏み込む予定はなかったのでワンピにナマ足サンダルでしたが、詰城までならこれでも大丈夫でした。
霧山城はまたいつか、気候のいいときに登ってみたいです。
帰りのバス停(「上多気交差点南」)までは少し歩きますが途中に「美杉ふるさと資料館」があるので寄って見学させていただきました。
また、ありがたいことに水曜日は休館のはずの駅前の観光案内所「ひだまり」が臨時開館中で、冷たいお茶のサービスをいただき、名松線キーホルダーを購入することもできました。
線路そばにあった年季の入った給水塔は昭和10年に蒸気機関車への給水のために建てられたもので、昨年、国の登録有形文化財に登録されたそうです。
さまざまな出会いのある思い出に残る時を過ごせました。
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