鞠智城からの転戦です。一寸榎のバス停から菊池温泉行のバスに乗り10分、菊池温泉市民広場で下車しました。広場には「菊池武光」の像がドンとあります。彼は地元のヒーローのようです。そして像の背後に見える山が「隈府城」です。菊池氏の時代は「守山城(菊池本城)」と呼ばれていたようです。
菊池氏は元寇でも活躍した事が蒙古襲来絵詞にも残る、鎌倉時代から300年続き室町時代には肥後国守護も務めた名門でした。最も有名になったのは南北朝時代の菊池武光です。武光は九州に逃れてきた南朝方の懐良親王(後醍醐天皇の子)を助けるため、北朝方である大宰府の小弐氏を筑後川の戦いで破り勝利します。その時に血のついた刀を洗ったとされる場所が「太刀洗」という地名で今でも残っています(陸軍航空隊があった場所です)。
菊池氏は戦国時代まで続きますが、子がなく嫡流が途絶えると内乱が発生、これに乗じて侵攻してきた大友義鑑(宗麟の父)に乗っ取られ、菊池氏の家老だった赤星親家に与えられます。しかし大友宗麟が耳川の戦いで島津氏に敗れ衰退すると、同じく家老だった隈部親永が龍造寺氏と手を組み、城を奪い取ります。その後の秀吉の九州征伐では、親永は北上する島津氏と戦ったため、秀吉からは領地を安堵され、従来の守山城を改修し隈府城と改名しました。
九州征伐後は、佐々成正が肥後(隈本城)に入りますが、隈部親永は成正の検地に反発し一揆を起こします(肥後国衆一揆)。小早川秀包(久留米城主)黒田官兵衛(中津城主)らに鎮圧されますが、これにより隈部氏は滅亡し、隈府城は廃城となってしまいました。佐々成正も秀吉から許されず切腹となったようです。その後は肥後に入った加藤清正によって統治され、赤星氏はここで清正から家臣として取り立てられたとか。ちょっとややこしい話ですが、菊池にはこんな歴史があるようです。
菊池温泉市民広場のバス停前には足湯♨があり、熊本駅行のバスまで20分あったので、浸かりながらバスを待ちました。鞠智城から1日中歩き回って足が疲れたので、この温泉はとても効きました!😊。
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