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カズサン

「道の駅かわはら」より遠望撮影 (2026/09/06 訪問)

 兄の49日法要で帰省した折、中国道佐用JCTより鳥取道(無料区間)通行、蛇行した千代川(センダイカワ)を渡り、高津原トンネルを抜けると模擬天守成る河原城(丸山城)が眼前に迫って来ます、永年帰省の度に目にする素晴らしい光景です。
 トンネルを抜けて直ぐの「道の駅清流茶屋かわはら」に寄って、最近手に入れたコンデジで光学16倍デジタル30倍の力を試してみようと道の駅に寄り、直線距離約1.3㎞で撮影、丸山城、地元では河原城が有名かも、平成6年のふるさと創生事業で丸山城山頂に模擬天守を作り、展望台/資料館を造り鳥取市街に入る隘路の千代川沿いに古城丸山城跡跡城郭風模擬天守閣が景観として30数年経っても目を楽しませてくれています。
 道の駅では丁度時期の二十世紀ナシと最近評判な新甘泉(シンカンセン)瑞々しく二十世紀梨より若干甘くややブラウン色を販売して居ました。
 試し遠望写真を投稿します。
  

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長野県の城巡り 最後はここ (2026/08/23 訪問)

原則、私の名城巡りは1つの城を1~2時間で見学し、スタンプを押し御城印と(あれば)城カードを購入して次の城へという感じですが、今回巡る城は私と娘にとって特に思い入れのある松本城と上田城だったので、時間は気にせずに思う存分見て歩こうと、1日1つの城に絞って2泊3日で計画を立てました。
そんなわけで最終日ですが、「真田好き」がハンパない娘が何カ月も前から楽しみにしていた上田城です!
徳川軍を撃破した真田一族の城として有名ですよね♪

当日は朝食後そのままホテルをチェックアウトして上田城に着いたのが朝の8時。御城印や真田グッズが買える「上田市観光会館」は9時オープン(上田市立博物館も)なので後回しにして、さっそく二の丸橋を渡り、内堀の外周をぐるりと一周してみました。
その後、東虎口櫓門を通り、真田神社でお参りした後に直書きの御朱印を頂きました(通常版の他に見開き2ページを使ったスペシャル版がめっちゃ綺麗で感動しました!)
その後、西櫓を見て本丸の広場に入りました。
土塁に上がれる場所があったので登って、隅欠や本丸堀を見下ろしながら歩きました。
そうこうしているうちに博物館がオープンしていたので入館しました。
真田氏関係は別館の方に通常展示としてまとめているので別館だけを見学する予定でしたが、何と本館で「上田城・歴代藩主」という特別企画が開催中で、真田好きの娘は大喜びで、じっくり時間を掛けて見学しました。
櫓門手前右に(探していた)真田石を見つけ、その大きさにビックリ!
東虎口櫓門の左右にある南櫓と北櫓の内部を見学できるというので、もちろん見学しました(有料)
その後、西櫓の裏側にある階段を下りて尼ヶ淵に降りました。
尼ヶ淵からは石垣(野面積み、打込み、切込みと色々)や古い地層(段丘崖)が露出しているのを確認できました。
特に西櫓を石垣に近付いて見上げるアングルはもう迫力満点です。
また、けやき並木遊歩道方面に少し歩いて離れた場所から見渡すと虎口門の北櫓を手前に奥に西櫓を一望できました。
この構図は東虎口櫓門と並んで上田城の定番写真としてでネットでも良く見かけるので私も真似をして撮ってみました (^o^)
帰りは、かつて空堀であり、後に鉄道が敷設されたと言う「けやき並木遊歩道」を通って駅があったと言うコンクリートのアーチの辺りを登ると、正面にお目当ての「上田市観光会館」がありました。
館内には真田幸村の銅像があり、一階の売店には10数種類の御城印を始め、武将印など目が泳ぐほど(特に真田好きには堪りません)多くのグッズが並んでいて、ついつい財布の紐も緩んでしまい欲しいものは全部レジに持って行って総額1万円の買い物でした!(^O^)/

この後は例によって投稿した写真に沿って説明をさせていただきます。
① 毎回1枚目は、私の勝手なこだわりで御城印と決めています。ただ今回の上田城、今まで巡った城の中で御城印の種類が飛び抜けて多かったです(最多)「上田市観光会館」の売店になんと12種類もの御城印がありました。正式な御城印(写真左)は2Fの上田市観光案内所で先に購入して1Fの売店に降りると、もう、あるわあるわ、武将印、御城印、真田グッズや真田のお土産、お菓子が一杯! 私は縁を大切にする人間なので売店に並ぶ12種類の御城印を全て購入しました その中で残り数枚と書かれた限定版の御城印が2種類ありました。真田好きの娘は熟考の末に選んだ数枚と見本 (残り僅かの2種は見本を持って行きレジ渡し)を持って会計しようとしたところ、見本2種のうち片方が、私が買った分で完売だったそうで、私のをプレゼントしました。真田好きな娘が持つのが相応しいと思います♪ そんなわけで私の手元にある御城印は合計11枚。もちろん全部を写真投稿するつもりで11枚をどう配置しようか悩んだた結果、1枚目に正式版ともう1枚を並べて、10枚目に3列3段で9枚を一挙公開ということにしました。正式版の隣に配置する1枚はどれに?と頭を悩ました結果、(残り僅かの限定版で私の手元にある)1枚を右隣にと考えました。家に帰って整理する時にネットで調べたところ「攻城団の御城印コレクション」に説明があり「上田城御城印(刺繍版)\1,000」で200枚限定。2024上田城紅葉まつりの際、3日間だけ発売されたレア物と解りました(つまり売れ残り) でも、貴重な和紙を使い城名は刺繍で描かれているこの御城印は二度と手に入らないと思われ私にとって宝物の御城印になりました。
② 2枚目はいつも「この城を代表する景色」に決めています。まあ普通なら正面の顔とも言える再建された東虎口櫓門なんでしょうけど(御城印のイラストも全てがこちら)あえて私はこの写真を選びました。なぜなら城巡りの際は「日本100名城と続日本100名城に行こう」をスタンプ帳として携帯しているのですが、上田城の紹介ページに載っている3枚の写真の中で断トツに大きく写っているメインの写真がこの景色だったからです。尼ヶ淵から見た東虎口門の南櫓(手前)と奥に見える西櫓をフレームに捉えた構図ですが西櫓は現存ですからね。代表的な2つの櫓を主役にイイ感じの雲が青空に入る美しい空を広めに入れて開放感を表現した自信作です! 石垣も楽しめますし、木々で連なる櫓と櫓とと空の対比も気に入っています。
③ そして惜しくも私の2枚目(城を代表する景色)に漏れた東虎口櫓門が3枚目(銀メダル)です。この門を載せるにあたっても、ズームして門を大きく撮った写真と、左右の櫓も写るように引いた写真の方が良いのか、散々悩みましたが、悩んだ時の100名城スタンプ帳! 上田城のページを見ると引いた構図の写真たったのでこちらにしました(バイブルかよヾ( ̄o ̄)) 向かって左が南櫓、右が北櫓です(平成6年再建) この時、人がいなかったのもラッキーでした。狙ったわけではないですが門の奥に真田神社の鳥居が見えていましたね。
④ そして3枚目ですが、これもバイブルの3枚目最後の写真「真田石」に決めました。本丸東虎口の手前右にある城内最大の巨石が石垣の石として普通に使われているのがなんか不思議です。ところが私が撮った石垣の真田石、う~ん、こんなに大きいのに大きさが伝わってこないなぁ。。。と言うことで娘にお願いして横に立ってもらいました。娘は身長160cm代後半なのですが、横に立つと真田石の巨大さが一挙に伝わって大爆笑。見え方の違いを見てもらいたくて両方の写真を上下に結合しました。上が真田石だけ、下が真田石と娘。この見え方のギャップが最高です!
⑤ 上田城にある3つ(以前は七つあったらしい)の櫓の中で、この西櫓だけが江戸時代から現存する唯一の建物です。白い壁、黒い下見板と石垣との組み合わせが上田城の重厚な雰囲気にマッチしています。2枚目の写真の奥に写ってるのが西櫓です。
⑥ その西櫓を下にある尼ヶ淵から見上げた写真も続けて貼っておきます。様々な積み方の石垣と古い地層の上に建つ黒板張りの二重櫓は素晴らしいの一言。青空に湧く躍動感溢れる雲を背景にすると、そのコントラストで西櫓が浮き上がってくるような気がします。
⑦ やはりお城ですから堀の写真も1枚入れておきたいと思いコレを選びました。急な土の法面と水面が細長く続く景観が城の堀らしい風景です。
⑧ 東虎口櫓門を抜けるとすぐ正面に真田神社が鎮座します。左側の写真は参道正面から鳥居を撮ったもので鳥居に架けられた房が五つ下がる太いしめ縄が迫力ありました。右側の写真は境内の回廊の様子で、天井から吊り下げられた風鈴飾りや、左右に並ぶ青や緑の風車の装飾が涼しげで、少しだけですが暑さが和らぎました。( ´Д`)=3 フゥ
⑨ 左側の写真は、けやき並木遊歩道です。実は元々二の丸の堀だったところで、資料によると昭和2年に真田方面行きの電車の線路(上田温泉電軌(株)北東線)が敷設されたそうです。正面のコンクリートのアーチ型トンネルの下が、公会堂下駅(昭和23年に公園前駅と改称)だったとあります。私達が訪れた時もプラットホームの名残りがありました。電車は昭和47年に廃止となり、昭和56年にケヤキ並木遊歩道が完成したそうです。そして、このアーチトンネルの上が二の丸橋だったとは驚きました。二の丸橋と言えば、右側の写真、橋を渡ってすぐのところに、ゆるキャラみたいな変な顔の石柱行燈がありました。気になったので撮っておきましたが娘が調べてくれて謎が解けました! 二の丸橋を表しているそうで。上の横並びの円が二つ(ニの丸)、中涙のようなハが(橋のハ)、口のような三日月の上に鼻のように円が二つ縦に連なっているのが合わせてカタカナの「シ」(橋のシ)を表していて、「二の丸橋」ということらしいです。ちょっと見ただけでは分からないですよね~ 知らなかった方もいるのでは?(^-^)
⑩ 最後は1枚目で紹介しきれなかった9種類の御城印を一挙にご覧いただこうと思います。まず上段の左側は城主だった仙石家版で東虎口櫓門を斜めから捉えたイラストが描かれています。何故か「永楽通宝」の朱印が押されていますが何故かと思い調べたところ、織田信長か平楽通宝のデザインを織田家の旗印として用いており、上田藩主になった仙石忠政の父・秀久が織田家臣時代に信長から拝領した家紋と言うことです。上段の中央は仙石氏と領地を交換する形で上田に入封した藤井松平家版で家紋「五三の桐」を中央に下には仙石版と同じく東虎口櫓門が描かれています。ただしこちらは少し離れて真正面からの構図です(偶然ですが私の3枚目と同じですね) 上段の右側は朱印が無く城名が金文字のバージョンです。東虎口櫓門を少し斜めから捉えたイラスト(写真?)が描かれています。中段の左側は下部に東虎口櫓門のイラスト、右上に真田の六文銭、その下に仙石家の永楽通宝、左下に藤井松平家の五三の桐と、それぞれの家紋が描かれて左上には朝顔という賑やかな御城印です。中段の中央は東虎口櫓門が幻影的に描かれていて私が一番好きな御城印です。中央の大きな意匠は真田家を象徴する六文銭で、六つの丸に四角い穴がある形が正式でハッキリと見てとれますね。中段の左側は珍しい夜の東虎口櫓門が描かれて右上に六文銭、左上に巨大な満月が映っている配置が印象的です。それより「登城記念」の文字の下にある、鳥が丸まってるような意匠?は何なのでしょう? 気になって仕方ありません。ご存じの方がいたら、ぜひ教えて下さい。下段は3枚とも売れ残りと思われますが、せっかくココに来たのですから購入しました。左は「七七七記念バージョン(令和七年七月七日)」です。中央は昨年9月に限定発売された「神無月バージョン」で下の彼岸花が季節を感じさせます。右は昨年開催された「上田城紅葉まつり」の限定版御城印で、なぜ上モミジが紅葉してなく緑のままなのか不思議です(「紅葉まつり」なのに)

今回の長野県城巡りは娘が付き合ってくれたのもあって、最高に楽しい時間を過ごすことができました。
名城中の名城「国宝・松本城」を始め、真田マニアにはたまらない「松代城」「上田城」とどれも名城ばかりで今までの城巡りの中で一番お気に入りの旅になりました♪\(^o^)/

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イオ

中谷山砦(長浜市余呉町池原) (2026/03/28 訪問)

中谷山砦(城びと未登録)は、賤ケ岳の戦いにおいて柴田方が築いた陣城で、原長頼が守将ともいわれますが詳細は不明です。

林谷山砦への分岐(金森長近砦跡)から5分あまりで中谷山砦に到着。主郭東辺の土塁と横堀が登山道に立ちふさがり、北側には喰い違い状に設けられた土塁が北斜面に竪土塁となって続いています。主郭はあまり削平されておらず南側に緩やかに傾斜していて、東辺から南辺にかけて土塁で囲んでいます。主郭の南東側からは切通道が南に下っていて、北側の竪土塁と同じく東側からの侵攻に備えたものでしょうか。主郭の南西から南にのびる支尾根には、ほぼ自然地形の小曲輪群が設けられ、土塁も見られました。

中谷山砦を過ぎると、「滋賀県中世城館分布調査報告書」にいう橡谷山砦に至ります。


> todo94さん
城びと2000城達成おめでとうございます! その4分の1にも満たない身には想像もできない数ですが、今後とも全国各地のレポートを楽しみにしております。
 

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todo94

にのまるさんのクイズの答え (2018/08/26 訪問)

>にのまるさん ご祝辞ありがとうございます。昨日は、にのまるさんの投稿を拝見する前に自分の投稿をしてしまい、失礼いたしました。

実は私、かなりいい加減な城めぐりをしています。ずさんな下調べで見逃しポイントをたくさん作ってしまっています。それを2度、3度と訪れるきっかけにしてしまっているんですよね。この先、どこまで攻城数を伸ばせるかわかりませんが、まだまだ勤労意欲もありますので、土日祝日中心の城めぐりは継続していきたいと思います。来年の誕生日には、大人の休日俱楽部ジパングに加入できる歳になるのですけれども。

さて、クイズの方ですが、かなり忖度をしていただいたように思います。絵図は諏訪湖だとお見受けしました。絵図の実物はまだ見ていないのですが、諏訪湖の北側を俯瞰する構図になっているので、私の自宅に至近の花岡城を回答とさせていただきます。

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赤い城

芝生城 徳島県三好市 (2026/08/09 訪問)

城びと未登録です。
川北街道から案内板に沿って少し北側に入った場所にあります。
周囲は農耕地と民家で遺構はありません。

それでも大きな説明板と立派な石碑が設置され、地元の方の熱意が感じられます。
三好氏発祥の地とされ、三好長慶の生誕地でもあります。
遺構は残らないものの吉野川を望む立地からはそれらしさを感じることはできるかと思います。

【見どころ】
 ・石碑
 ・眺望

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dougen

2025.11.8登城 (2025/11/08 訪問)

京成線東中山駅の西側にある小栗原稲荷神社~多聞寺の背後の高台付近が城ノ台城址となります。
鉄道の敷設や宅地化により、城址であった台地は改変されており、遺構は残っておらず、解説板等の設置も特にありません。

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dougen

2025.11.8登城 (2025/11/08 訪問)

JR市川大野駅の南東にある市川市立第五中学校が大野城址となります。
宅地開発により遺構らしい遺構も残っておらず、辛うじて西側の民家と境のブロック塀の下に土塁の痕跡が残っています。
なお、解説板が設置されています。

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ダイエティシャン

南総里見八犬伝【里見忠義公】ゆかりの地 (2026/09/06 訪問)

打吹山城のある倉吉市は南総里見八犬伝のモデルの【里見忠義公】ゆかりの地。

里見忠義の住居は【山郷神社】周辺にあったと云われる。
里見安房守忠義 主従之びょう】(写真①)は、【山郷神社】(②③)の西方、シイの大木の根元に建立。
山郷神社入口(②)東に駐車場あり。階段を上り、
山郷神社の直ぐ西側に駐車スペースあり(④)(④)から西に伸びるアスファルト道をすすみ、屋根に鯱がある空家を過ぎ(⑤)、田?畑?を直進(⑥)突き当たりに(①)があり。
他経路は、(④)ガードレール付きの下道で、駐車場(⑨)に到着。また(①)の右奥に階段付きの歩道(⑦⑧)を下りると(⑨)に到着。(⑨)の付近に案内板(⑩)
この日は、道路も草等が刈ってある様子で歩きやすかった。

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ダイエティシャン

9月6日(日)里見時代まつり (2026/09/06 訪問)

打吹山城跡のある倉吉市は、南総里見八犬伝のモデルの里見忠義公の最期の地としても有名。毎年9月上旬に【里見時代祭】が開催。今年は39回目。来年27年は40回目の記念の年。
見所は、八犬士のすぐ後ろから、兜をまとった【わんちゃん】も多数参加するところ。今回はわんちゃんの写真は撮れず。

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イオ

毛受の森・金森長近砦 (2026/03/28 訪問)

この日は賤ケ岳の戦いにおける柴田勝家の本陣である玄番尾城から続く行市連峰の尾根上に連なる柴田方の陣城群を一日かけてめぐります。昨年末には積雪で登城を断念させられましたが、さすがに3月末ともなると登山口に雪は全く残っていません。行市山登山口の駐車場に車を駐めて登城…する前に、駐車場の奥には賤ケ岳の戦いに敗れた勝家を脱出させるため身代わりとなって討死した毛受兄弟の墓があり、毛受の森として整備されています。「豊臣兄弟!」の賤ケ岳の戦いの回にも毛受勝照(弟)が出演していましたね。しばし手を合わせました。

さて、戦跡めぐり案内を眺めて陣城めぐりの気分を高めたら、いざ登城開始! 登山口から約15分で林谷山砦への分岐に到達。賤ケ岳の戦いの陣城は所在地や守将について諸説あるようで、一説にはこの分岐のあたりが金森長近が守備していた橡谷山砦とされ、史跡案内図の下に金森長近砦跡の案内表示が落ちていました。言われてみれば周辺には櫓台っぽい土壇や数段の削平地がありますが、「滋賀県中世城館分布調査報告書」では、橡谷山砦はこの先の中谷山砦のさらに先とされています(今回の一連の投稿は同報告書での名称と位置に基づきます)。

林谷山砦へは帰る前に立ち寄ることにして、まずは中谷山砦に向かいます。
 

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todo94

いつでもウォーク:Pikmin Bloom Tour in 横須賀 当日の攻城① (2026/08/30 訪問)

>赤い城さん ご祝辞、ありがとうございます。私の方こそ、赤い城さんの後を追って関八州制覇を目指したいと言いたいところですが、まだまだ、先は長いです。足腰がしっかりしているうちになるべく山城は攻略しておきたいとは思っております。

さて、8月最終日曜日の攻城の報告です。日延べしたいつでもウォーク:Pikmin Bloom Tour in 横須賀の前に朝駆けで河崎氏館に行きました。JR川崎駅から徒歩にてアプローチしました。現在、稲毛神社となっています。拝殿前の狛犬は、阿形が天を、吽形が地を祓うとのことです。弁天池が堀跡とのことですが、公園の整備されすぎた池では昔を偲ぶ縁にはなりません。

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にのまる

todo94さん、おめでとうございます🎊

2,000城到達おめでとうございます🍾
青ヶ台城が記念のお城となったのはお城の選り好みをされず、一城一城丁寧に歩かれた証だと思いました。そしてその後墓所に行き着いたのはきっと導かれたのだろうと。極みまで到達された方にしか味わえない感覚や達成感、語り尽くせない思い出があるかと存じますが、おそらくはゴールではなく通過点。お気持ちは既に次のお城へ向かっていることと思います。
長年この場のみでの交流ですが、今後ともよろしくお願いいたします。

ではおめでとうクイズです。
どこでしょう?
↓↓↓

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赤い城

花駒屋敷 徳島県三好市 (2026/08/09 訪問)

白地城の出城で城びと未登録の城です。
吉野川と馬路川の合流点に位置しています。
近くの道路が広くなったところに車を置きました。
城跡には住吉神社と天満宮、また忠魂碑が建っています。

入口には土塁があり、恐らく虎口だったと思われます。
西側の土塁からは竪堀が落ちますが藪で不明瞭でした。
曲輪は二段になっています。
先端部からは下に伸びる通路があり、石垣もありますが後世のものでしょう。

単純な造りの城ですが白地城と各支城の連携に重要な役割を持っていたと思われます。

todo94さん、2000城到達おめでとうございます🎉
後を追いたいですがなかなか・・
私もにのまるさんの後にクイズ出させて下さいね。

【見どころ】
 ・虎口の土塁

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ヒロケン

二の丸に天守を配する城 (2026/07/10 訪問)

西尾城の城郭構造は梯郭式の平城です。碧海台地の端に築かれており、北から西を流れる矢作川の水利を利用して、水堀りを巡らせ築城されています。特徴は天守が本丸ではなく二の丸にある事です。二の丸の北隅に三重天守が置かれ、城主の住まいとなった御殿も二の丸に置かれました。
本丸には八幡社が祀られ、四隅には三重櫓の丑寅櫓(復元されています)と、今は見る事が出来ませんが、二重櫓の未申櫓、辰巳櫓、戌亥櫓が建てられていたそうです。さらに二の丸には三重の天守の他に二重の丑寅櫓(復元されています)があったとの事です。また、天守台から丑寅櫓へ続く土塀は2カ所に折れを持つ屏風折れの構造で全国的にも珍しい土塀となっています。(復元されています)

城内に建てられている西尾市資料館横にトイレもあり、鍮石門横に駐車場も完備されています。築城当時のものと見られる石垣や土塁、堀などが無料で見学できます。

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ジェイド

巨大な土塁と空堀 (2026/09/05 訪問)

なんといっても興国寺城跡ですばらしいのは、天守台が巨大な土塁の上に備わっているところと、その伝天守台の裏は巨大な空堀になっている点で、今でもその姿を見ることができます。必見です。
ただ残念だったのは、発掘調査で見つかった本丸虎口門跡や三の丸柱穴群等の遺構が、季節の関係もあるかとおもいますが草で埋もれて見えなかった事です。次回は冬に訪れたいと思います。

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todo94

いつでもウォーク:Pikmin Bloom Tour in 横須賀 参戦前日・献血前の観光 (2026/08/29 訪問)

>朝田辰兵衛さん クイズの答え、長崎駅でしたか。参りました。西九州新幹線には2度ほど乗っているので今の長崎駅には行っているのですけれども、旧駅の方はノーチェックでした。最近は市電も使わず、大波止方面に徒歩で直行したりしてしまうのでなかなか旧駅の方に足が向かなかったのです。

さて、節目となった青ヶ台城からは、徒歩にて金沢文庫に行ってみました。金沢文庫を作った北条実時は大河ドラマ「北条時宗」では池畑慎之介さんが演じていましたね。金沢文庫の展示も存分に楽しみましたが、隣接する金沢北条家の菩提寺・称名寺で実時、顕時、貞顕3代の墓を拝むことができたのは大きな収穫です。ちなみに顕時、貞顕の墓は並んでいるのですが、石柱に彫られている名は逆になっています。発掘された遺物によって逆であることが判明したそうです。なお、北条顕時は大河ドラマでは、北ノ庄城天守から飛び降りた山口馬木也さんが演じていました。(あさんがおっしゃる豊臣兄弟!の暴走場面ですよね。)

この後は15:30に予約を入れてあるクロスウェーブ湘南藤沢献血ルームに向かって、無事、血漿成分献血を完遂することができました。雨は献血ルームに向かう時になって漸く降り始めました。

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石田三成 (2026/09/05 訪問)

 天正18年(1590年)豊臣秀吉の関東平定のとき、忍城を水攻めにするため石田三成によって築かれた堤です。全長28キロメートルに及ぶ堤をわずか一週間で作り上げたと伝わります。ただこの水攻めは堤が決壊し、水攻めは失敗に終わります。
石田堤史跡公園付近を散策してきました。

JR北鴻巣駅より徒歩で30分くらい行くことができます。

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朝田 辰兵衛

クイズの答え… (2026/05/04 訪問)

todo94さんがわからなかった場合,わかりそうなのはトクさんとにのまるさんぐらいしか思い浮かびません。トクさんの場合は地の利ということで。にのまるさんは鉄オタにプラスして,たしか長崎駅前の東横インに宿泊されていたという記憶があります。
トクさんからわかりそうな気配を感じたら振ろうかと思いましたが,「いいね」がなかったので即解答といたします。
答えは…JR長崎駅
です。

数年前に訪れた時は工事中で,「随分と離れた場所に造るんだな…」ぐらいしか考えていませんでした。
今年のGWで訪れたら「何,レール残置…?!」と驚きました。
今年,私よりちょっと先に長崎に来られていたtodo94さんは,伊万里ルートで平戸へ行き,的山大島に渡られたと記憶しております。
「もしかして長崎駅には行ってないかも…」
と思い,出題してみました。
新長崎駅の不便な点をひとつ…
「ポストが遠い」という点です。
旧長崎駅前の歩道橋ワキのポストまで,数100m歩かなければなりません。
観光案内所で確認しても,同様の回答です。

私は,琴尾山烽火台へ攻城時,長崎駅から本川内駅まで,JR長崎本線を利用しました。
路線バスで行ってたら気づかなかったと思います。

ということで,次はにのまるさん,お願いします。

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トク

24【秀吉の九州平定をたどる⑤】根白坂の戦い(豊臣秀長VS島津全軍) (2023/11/05 訪問)

根白坂は3年前に訪れました。最寄りのバス停は高城(木城温泉ゆらら)で、その時私は高城から根白坂まで往復5時間かけて歩いて行きました。根白坂は県道が走っているので車だと難なく行けますが、戦った諸将の気持ちを感じたいがために、高城から諸将がたどった道を歩いて行きました。でも後悔したので皆さんは車で行った方がいいと思います(笑)。実際に行ってみると、そこは坂というより標高200mくらいの急斜面の山(峠)で、歩くと思ったよりきつかったです。それだけでなく、ほとんどが私有地で入れず、柵や堀の跡などを探索したくても、できなかったなどの理由もあったので、今回再訪は断念して3年前の写真をまた使わせて頂く事にします(内容もダブリますが御容赦下さい😔)。

1587年、秀長10万の軍勢は東九州から豊後を通過し薩摩を目指して南下、日向へ入ります。そして山田有信1,300が籠城する「高城」を囲みました。島津軍は高城の山田有信を必ず助けに来るであろう、その時必ずここを通るであろう根白坂に、秀長は宮部継潤1万に砦を築かせます。ここで迎え撃つ後詰決戦を考えていたようです。

予想通り薩摩当主の島津義久は自ら出陣。弟の義弘・家久の精鋭3万5千を引き連れて、根白坂の南の山に陣を敷き、有信を助けるため秀長の軍勢と対峙しました(写真⑦)。高城川一帯(写真⑧⑨)は以前にも大友軍を破った地の利がある場所だったので、ここを選んだのかもしれません。

説明板によれば、継潤は地中に深さ1.8mも埋もれた高さ3.6m柵と、幅5.5m深さ3.6mの堀を何重にもめぐらし、島津軍と川を挟んで対峙したとあります(写真③)。どうやらこれを発案したのは、黒田官兵衛のようです。さすがは官兵衛! そしてこの策が勝敗を分ける事になりました。

島津義弘は地の利を生かし、継潤の砦に夜襲を仕掛けます。戸次川での仙石久秀の時と同じ、宮部継潤の砦など簡単に突破できるだろうと甘く考えていたようです。そして夜明けまでに高城まで進んで秀長の陣(松山)を襲い、敵が出てきたところで高城川まで引いて、両側から義久・家久、背後から山田有信の軍勢で囲むという得意の「釣り野伏せ」を仕掛ける作戦だったようです(写真⑧)。

鉄砲で撃ちかけ、その隙に夜陰にまぎれ柵にロープをかけ倒そうとします。しかし倒れません! それもそのはず、地中に深く埋もれているからです。今度は宮部軍が鉄砲を撃ちかけて反撃してきました。島津軍は多くの死傷者を出し空堀は死体で埋まります。しかし死を恐れぬ勇猛果敢な島津軍はひるみません。そのうち弾薬が尽きるであろうと、繰り返し執拗に柵を倒そうと次々に攻めてきます。しかし宮部軍の弾薬は豊富で撃ち続けてきます。深い柵と豊富な弾薬、これらは島津軍にとって想定外でした。空堀は死体の山となります。それでも夜明けが近づき、ついにあと少しで突破できると義弘が思ったその時! 「危ない! 継潤を死なせてはならぬ~!」と、陣営の反対を押し切って出てきた藤堂高虎が加わり、再び膠着状態になります。そして夜が明け、さらに黒田官兵衛・戸川達安(宇喜多)・小早川隆景(毛利)の援軍も到着。重臣島津忠隣(歳久の養嗣子)が討死し、これは不利と見た総大将の島津義久は全軍に撤退を指示しました。

20日後、義久は剃髪して秀吉のいる川内の泰平寺に出向き降伏しました。そして秀吉は、宮部継潤を戦功の第一と賞賛したそうです。こうして九州平定が終わり、残るは小田原の北条のみとなります。

私は秀長の陣があった松山から根白坂を眺めてみました(写真⑨)。戦いが終わった秀長は、どんな思いで根白坂を眺めていたのでしょうか? 実は撤退した数日後、島津家を潰したくない義久は秀長に、自分の命と引き換えに島津家が生き残れるよう、秀吉との間を取り持ってほしいという密書を送ったそうです。秀長は薩摩・大隅の旧領のみ安堵で許す事を秀吉に提案しますが、逆鱗に触れたとか? しかし結局、先の朝鮮出兵まで見据えて考え直し、義久が打首覚悟で剃髪してひれ伏したのを見て、島津を許したそうです。

これで「やっと終わった~!」とほっとしたのもつかの間、この頃から秀長の体調に異変が起きるようになります。

大河ドラマ豊臣兄弟では、これらがどう描かれるのでしょうか? 今から楽しみです。次は、島津歳久による「秀吉暗殺未遂事件」を追いたいと思います。(虎居城)に続きます。
 

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天守無しがアツい

小学校の中に石碑と案内文 (2026/09/04 訪問)

板橋城址は東急東上線のときわ台から歩いて10分ほどの場所にある🚶‍♂️

上板橋小学校🏫校門を入ってすぐの場所に石碑と案内文がある…当時のものではないが…城の痕跡を示すものはそれくらい😅

その小学校の裏手に長命寺…そこも城に関係する施設だったと案内文に示されていた🏠境内にお墓があるだけの平均的なお寺だったが…参拝したからにはという事で100円を賽銭箱に入れてお詣り

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