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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征3日目:赤穴瀬戸山城(尼子十旗④ 1城目) (2026/05/13 訪問)

尼子十旗:出雲国尼子氏の主要な家臣団の十の居城
尼子十旗(①白鹿城②三沢城③三刀屋城④赤穴城⑤牛尾城⑥高瀬城⑦神西城⑧熊野城⑨馬木城(夕景城)⑩大西城)
二ツ山城から車で50分ちょっとで、登城口手前空スペース(34.995900、132.717221)に向かい路駐しました。
そこから、登城口(34.995941、132.717949)はすぐ先です。

1377年(永和3年・天授3年)佐波常連によって築かれたと云われています。 佐波氏は三善氏の一族で石見国安濃郡佐波の発祥。
応仁の乱では赤穴幸清は京極氏に従って京で戦い、1470年(文明2年)には尼子氏に従って神西城を攻めています。
1541年天文9年()尼子晴久は安芸の毛利元就の郡山城へ攻め入ると、赤穴光清もこれに従っています。
この戦いで尼子氏が敗れると、1542年(天文11年)には周防の大内義隆が陶晴隆、毛利元就などを従えて出雲へ侵攻しました。
このとき周囲の国人が尼子から大内へ寝返る中、赤穴光清は尼子方として瀬戸山城に籠城し、地の利を生かして大内軍と戦ったが、二ヶ月に及ぶ籠城戦の末に光清は討死しました。
月山富田城を攻めた大内義隆が敗れると赤穴氏が再び瀬戸山城へ戻り、郡連が後見人となって赤穴久清が家督を継ぎました。
1562年(永禄5年)今度は毛利元就が出雲へ侵攻し武名ヶ平城に陣を構えた。赤穴久清は降伏開城し、以後毛利氏に従いました。
関ヶ原合戦に敗れた毛利氏は防長二カ国に減封となり、赤穴氏もこれに従って萩へ移りました。
代わって出雲国へ入部した堀尾吉晴の家臣松田左近吉久が瀬戸山城主となり、この時代に近世城郭として改修しましたが、1615年(元和元年)の一国一城令により廃城となりました。

登城路は800mで整備され登りやすい。大手門あたりから石垣が見え始めます。
石垣が素晴らしいうえに、案内板や道標が充実していました。熊よけ鐘でなくフライパンが下がってました。
攻城時間は65分くらいでした。次の攻城先=日倉城に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征3日目:二ツ山城 (2026/05/13 訪問)

温湯城から車で30分ちょっとで、登山口林道入口(34.862001、132.522859)に着きました。ここから車で5分くらいで4~5台程度駐車可能な駐車場に着きます。
登山口林道入口には説明板とパンフレットありました。林道終点に駐車場があり、西の丸まで120mとあります。

築城年代は定かではないようですが、1223年(貞応2年)富永祐純の子朝祐が出羽郷・久永荘の地頭としてこの地に入り、出羽氏を称して二ツ山城を築いたといわれています。
南北朝時代には出羽氏は北朝方だったため、1361年(正平16年・康安元念)南朝方の阿須那高橋氏に攻略され落城しました。
1530年(享禄3年)毛利元就に攻められ高橋氏が滅ぶと、出羽氏は出羽郷を回復し二ツ山城に復帰しました。
1591年(天正19年)出羽氏は、出雲の頓原由岐に移封となってこの地を去り、二ツ山城は廃城となったようです。
1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いに敗れた毛利氏に従い、出羽氏は長州萩へ移りました。

駐車場から2~3分歩くと三重堀切があります。この上が天神丸で、泉水の段を経由して西の丸に至ります。
二ツ山という名が示す通り、東西二つの峰がある山で西の峰に西の丸、東の峰に本丸が設けられています。
遊歩道はあるので、東の堀切から下り林道に出て、林道から竪堀を幾つか見ながら駐車場に戻りました。
攻城時間は50分くらいでした。次の攻城先=赤穴瀬戸山城(尼子十旗④)に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征3日目:温湯城 (2026/05/13 訪問)

市山城から車で35分くらいで、登り口付近空スペース(34.982770、132.503592)に着き車を駐車した後、登り口(34.982367、132.501944)に向かいました。

築城年代は定かではないようですが、小笠原氏によって築かれたと云われています。
当初は赤城を居城としていましたが、四代小笠原長氏または五代小笠原長義の頃に温湯城を築いて本城とし、赤城は出城になったと伝わっています。
1335年(建武2年)足利尊氏が反旗を翻すと、小笠原氏は七尾城主益田兼見とともに北朝方として戦っています。
小笠原氏は尼子氏についていましたが、1558年(永禄元年)に吉川元春によって攻められると、翌1559年(永禄2年)開城・降伏しています。
1560年(永禄3年)吉川元春の管理下になり、番衆が置かれたそうです。

登り口から登りはじめ、分岐点を左に進み山頂にある主郭を目指しました。右に行くと蔵屋敷と呼ばれる曲輪があるようですが、時間の都合で断念しました。
畝状の竪堀群(結構埋まってます)を過ぎると寺屋敷と呼ばれる曲輪、バセンバ(馬洗場?)と呼ばれる曲輪を経由して主郭に着きました。
主郭の東側に、堀切と竪堀が確認できました。下りきって反対側へ登って行くと、毛利方が布陣した絵下山城に着くようですが、時間なく断念。
案内あれど登山道は細く、落葉で滑り易く危険です。軍手は必須。
攻城時間は60分くらいでした。次の攻城先=二ツ山城に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県佐用町)遠征3日目:市山城 (2026/05/13 訪問)

宿泊先のホテルから車で50分(通勤通学時間帯で道路が混んでいた)くらいで、藤長寺進入口手前(34.942462、132.320235)に着き、付近で路駐しました。

築城年代は定かではないようですが、南北朝時代に天野氏によって築かれたと云われています。
桜井荘地頭職であった天野氏の城で、1339年(延元4年、暦応2年)北朝方の天野氏に対して南朝方の福屋兼行、高津長幸、都野神主、長瀬八郎などが市山城を攻めています。
その後の動向は定かではないようですが、戦国時代には福屋氏の城であったと考えられ、永禄年間(1558年~1570年)に福屋氏が毛利氏に反したとき、毛利方の吉川氏の城となったそうです。

本日の攻城予定上、早めのレンタカー返却が必要な為、市山城の登城は諦め、藤長寺を見学して撤退しました。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=温湯城へ向かいました。

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天守無しがアツい

2回目の来城 (2026/06/14 訪問)

1度目の来場は令和6年1月🏯
この時は天守内の床が非常に冷たくて…足が凍傷になるかと思えた🥶

あの時は御城印こそ3枚セットで購入したけど…100名城スタンプと100名城カードは未入手…なので補完の機会を伺っており…2年半後にとうとう実行🚄🚶

売店でスタンプとカードを入手✌️松本城マグネットに紅茶を購入してから天守へ🏯

1度目の来場で撮影した写真をチェック…それとは異なる所を撮影…前回の訪問で天守内の展示はだいたい細かく見てるので…今回は(前回より)ファストバージョン🏃

戦国時代における城内の女性の役割として…鉄砲の弾づくり火縄づくり…というのがあったらしい🔫ジェンダーバイアスの関係で戦闘には参加しない…その代わりに弾薬を作る事で多かれ少なかれ城に貢献…城に必要な人間としての役割を務めていた

これを見て…「東日本大震災で(男性が復興作業や瓦礫の除去に駆り出されるなか)炊事をやらされる事に文句を言ったり拒否する女性がいたという話をネットの話で聞いたことある😓」

「変なフェミニズム被れ…女性の性役割解放…女性の権利ばかり意識した結果そうなってるんだろうな😒ここに紹介されてる戦国時代の女性を見よ👩‍🦰」

「男性と比べて危険性は少ないけど…己にできるだけの役割は全うしている…おそらく文句など言わずにやっていたのだろう…それに比べて今の女性って(もちろん全員とは言わないけど)ワガママになってないか?」

「それがあの震災における避難所で…「男の人と一緒に寝たくない〜😖」「炊き出しを女にやらせるなんて差別😜」と主張した女輩に表れているんだよ」と思ってしまった😅

最上階には松本城の保存に関する紹介…明治初期の西欧化の影響で…旧物破壊思想のもとここの天守も売却・破壊の危機に晒されたが…市川量造の尽力により(一度競売された)天守を買い戻し保存に貢献…その後ここで博覧会が開催もされた

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HKISD

名島城跡散策 (2026/06/12 訪問)

名島神社の駐車場に止めて散策(分かりにくかった)
海添いの景色が良かったです。

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T-Shionoya

築城時期が気になる幡豆寺部城 (2026/02/09 訪問)

愛知県には3つの寺部城があるらしい。
今回は西尾市のパンフレットで存在を知り、海辺の観光と共に訪れた幡豆寺部城。

三河湾の中央部に位置する三ヶ根山、その南西麓の小さな平地に東から突出した標高約30mの小丘陵に築かれた城。
南麓を屋敷とし、西側は小野ヶ谷川が天然の堀。

築城時期は不明だが、1514年に小笠原定政が奪還したと伝わる寺部城小笠原氏の居城。
今川氏や家康に従属してきた寺部城小笠原氏は、1590年に上総国周准郡に移封となり、間もなくして城も廃されたと考えられてきた。

現在は本丸と二の丸が三河湾を望む公園として整備され、小さな社も立つ。

実際に訪れると、コンパクトな城ではあるが城砦らしさを持っており、特に本丸東側の堀は城の広さにそぐわぬサイズ感。
また先月開催された講演会によると、最近の説では移封前の寺部城は南麓の屋敷のみで、丘陵上の遺構は移封後に信元の弟の信吉が築いた可能性があるとのこと。

築城時期が実に気になる幡豆寺部城が、私の城郭巡りの226城目となりました。

※写真10枚目は5月に撮影

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カズサン

のぼうの城で有名な成田氏の旧居館跡 (2026/05/30 訪問)

 中条氏館址(常光院)の探訪を終えて、南に約3km群馬県埼玉県国道17号線沿い未踏の城廻り六城目成田氏館を目指す。グーグルマップにて位置を確認すると成田氏館跡史跡マーク地は国道17号線上之交差点5差路の細い一方通行の道で北から南へ約250m進行して道の西右、私有地の中に標柱と石碑がこじんまりとフェンスに囲まれて立っている。
 駐車場:標柱の東に泰蔵院参拝者駐車場が有り一時利用させて頂いた。
 参考資料:余湖図コレクションさんグーグルマップに依る。

 標柱の説明では、成田氏館跡は藤原鎌足の子孫、藤原道宗の子である助高(資隆)が天喜元年(1053)に、成田の地に館を構え、成田氏を名乗った。その後、成田氏は「関東八家」と称されるまでに勢力を拡大し、成田親泰が忍城主となるまでの400年余、この地に住み続けた。と記載されている。
 秀吉の小田原征伐時(1590)、忍城水攻め総大将石田三成と忍城城代総大将成田長親(のぼう)との攻防戦は映画などで有名です、小田原城が降伏した後迄降伏しなかった。
 石碑と標柱しかない史跡マーク地では思いを馳せるのも難しい。

 次に帰路の圏央道川島IC目指すために、未踏の箕田館跡に向かいます。
   

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つちのこ

高浜城跡(2026.5.9) (2026/05/09 訪問)

一帯が城山公園として整備されています。明鏡洞など日本海の絶景が見応えあり。パンフレットは公園内の逸見昌経公銅像前に設置されてます。御城印は高浜町の佐伎治神社社殿で購入できました(300円)。駐車場は20台ほど。隣接の海水浴と競合です。5月の週末でサーフィン客が多くほぼ満車ですが無料でした。夏場は混みそうです。

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つちのこ

こんなところに… (2026/06/13 訪問)

まさかこんなところに?という立地でした。
小浜市内を流れる北川、多田川、南川という3本の河川が、海に向かって集約されてきたその河口部分にあります。目的地に向かうにつれ道が細くなり、車1台すれ違えるか?(いや多分無理)くらいの路地を進んだ先にありました。城跡には小浜神社(御祭神は小浜藩初代藩主酒井忠勝)が創建されています。石垣が残るのみですが、結構立派な造りで見応えはありました。
駐車場は神社鳥居横に3台ぶんほど。お出かけ日和の土曜日の昼前30分ほど滞在しましたが、訪れる人は他に2組でした。

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todo94

ゴールデンウイーク翌週・岡山の攻城④ (2026/05/09 訪問)

備中福山城からの転戦です。幸山と福山、あわせて幸福とは中々しゃれています。遊歩道の途中にある妙見展望台と八畳岩を経由して迷わずに幸山城にたどり着くことができました。最高所はグーグルマップでは幸山城東曲輪となっていて、鞍部を越えた城址碑のある曲輪が主郭にあたるようです。帰路はすぐに見覚えのある堀底道になりました。もうちょっと見やすく案内表示が設置してあれば、福山城より先に攻城することができたと思うのですが。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征2日目:三隅城 (2026/05/12 訪問)

針藻城から車で20分くらいで、説明板&石碑(34.776442、131.981060)付近の駐車場に着きました。

築城年代は定かではないようですが、鎌倉時代に三隅氏(兼信か?)によって築かれたと云われています。
三隅氏は益田氏の一族で、1229年(寛喜元年)益田兼高の次兼信が三隅一帯を領して三隅氏を名乗ったことに始まるようです。
1281年(弘安4年)鎌倉幕府は元軍の襲来を受け、西日本海沿岸一帯に砦を築かせた。三隅氏も高城山に築城を開始し、3代信盛・4代兼連(かねつら)により本城と十指に余る出城を完成させました。
南北朝時代、三隅兼連は南朝方に与し、1336年(延元元年)北朝方に与した益田氏の益田城を攻めました。
1342年(暦応5年・興国3年)には北朝方の上野頼兼が諸城を落として三隅城へと攻め寄せたが、これを撃退します。
さらに1350年(観応元年・正平5年)高師泰が大軍を率いて石見国の諸城を落とし三隅城を包囲しますが、これも落城するには至らず、翌年には包囲を解いて引き上げました。
1352年(正平7年)には三隅兼知が男山八幡で討死し、1355年(文和4年・正平10年)三隅兼連も足利直冬に従って上洛し東坂本で討死しました。そして七代直連の時に益田兼見に従います。
1552年(天文21年)大内義隆を討った陶晴賢は、益田藤兼と結んで三隅城を攻め落としました。
しかし、その陶晴賢も毛利元就に敗れ、三隅氏は周布晴氏と謀って毛利氏に反抗するが1570年(元亀元年)毛利氏によって三隅氏は滅亡しました。

高城山頂上に主郭があります。三隅城からの眺望は、日本海まで一望でき素晴らしい。草が深いです。
攻城時間は25分くらいでした。本日の城巡りは、ここがラストです。
歩行歩数=29269歩、歩行距離=20.4Kmです。
本日の宿泊先に向かう為、車で浜田駅方面に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征2日目:針藻城 (2026/05/12 訪問)

周布城から車で20分くらいで、はりも山公園入口(34.788887、131.935616)付近に着き、入口先の空スペースに路駐しました。

築城年代は定かではないようですが、1281年(弘安3年)の弘安の役以後、三隅城主3代の兼盛が鎌倉幕府の命令により、蒙古再来の防備のために築城したと云われています。
1428年(正長元年)大賀氏が城主となって以来、三隅氏の海事を担当したそうです。
戦国時代、針藻城主が尼子氏に味方したため、1557年(弘治3年)毛利氏の武将・益田藤兼に攻められて落城しました。

現在は公園となって、展望施設が建てられています。
石垣が残っているとのことでしたが、確認できませんでした。
三隅城に向かう途中、説明板&石碑(34.787784、131.938011)を路駐して確認しました。
攻城時間は20分くらいでした。次の攻城先=三隅城に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征2日目:周布城 (2026/05/12 訪問)

櫛島城から車で65分くらいで、聖徳寺駐車場入口(34.854616、132.025820)に着きました。
聖徳寺本堂左側の縄張図入りの説明板を確認して、聖徳寺南側塀横進入口(34.853829、132.026355)より、墓を経由して尾根まで登りました。

築城年代は定かではないようですが、文永年間(1264年〜1275年)に周布兼定によって築かれたと云われています。
兼定は益田兼季の二男で、石見国周布郷一帯の地頭職を譲られ周布氏を称した事に始まるそうです。
南北朝時代の1337年(延元2年)南朝方の周布兼宗は三隅兼連とともに長門国賀年城を攻めました。
1339年(延元4年)北朝方の石見国守護上野頼兼が豊田城の内田致景を攻めると、兼宗は豊田城に救援に向かっています。
戦国時代の1569年(永禄12年)山中幸盛ら尼子再興軍が挙兵すると、かねてより不満を抱いていた三隅隆繁・国定兄弟は14代当主周布元兼が不在の中、周布晴氏を誘って毛利に反旗を翻しました。
この反乱軍は吉川元春の二男元氏を大将とする軍勢によって鎮圧されました。その後、周布晴氏は鳶巣城へ逃れましたが、吉川軍に攻められ戦死しました。
周布元兼は1578年(天正6年)播磨国上月城の戦いで討死している。
1600年(慶長5年)関ヶ原合戦で西軍が敗れ、毛利氏が防長二カ国に減封となると、周布氏15代長次も毛利氏に従って萩市へ退転し、廃城となりました。

主郭は山頂にあり、主郭を囲むように階段状の広い郭があり、南尾根に堀切、北西斜面に畝状竪堀がありました。
攻城時間は40分くらいでした。次の攻城先=針藻城に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征2日目:櫛島城 (2026/05/12 訪問)

矢筈城から車で30分くらいで、櫛島キャンプ場(35.101840、132.340813)に着きました。
その後、登城口(35.100639、132.338346)に向かう予定でしたが、櫛島キャンプ場は進入禁止でした。
工事関係者の方?から引き返すように促されました。

櫛島の由来としては、1221年(承久の変)で隠岐の島に流罪となった後鳥羽上皇が途中の嵐のため漂着し、世話になったお礼にと、古老へ櫛をあげたことから櫛島となったという言い伝えがあります。
1540年(天文9年)11月、毛利氏攻略のため尼子晴久が石州路を進軍したとき、櫛山城主出原次郎四郎は尼子軍の猛攻に耐え、これを撃退したといわれています。
のち温泉佐渡守(ゆしさどのかみ)が城主となったとあります。
1562年(永禄5年)温泉氏(ゆし)は毛利氏に追われ、その後、月山富田城(安来市)に籠城した後、尼子氏とともに滅亡しました。

遠くから主郭を撮影して攻城完了としました。
攻城時間は15分(少し離れた場所に車を停めたので往復に時間を要した)くらいでした。次の攻城先=周布城に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征2日目:矢筈城 (2026/05/12 訪問)

石見城から車で15分くらいで、矢筈城説明板付近(35.106009、132.414392)に着きました。

築城年代は定かではないようです。
1557年(弘治3年)頃、毛利氏が銀山の山吹城を押さえて尼子氏を攻撃し、この城をはじめ周囲 3 箇所の城から撤退させたとの記録が残されているそうです。

説明板付近で地元の方から、今から矢筈城に登るのは時間的にやめたほうがいいとの助言もあり、説明板の写真を撮って撤退しました。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=櫛島城へ車で向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征2日目:石見城 (2026/05/12 訪問)

矢滝城から車で40分くらいで、説明板付近(35.140402、132.419088)に着き、道路反対側の広い路肩に駐車しました。
本来は車で40分もかからないと思いますが、矢滝城でインターネットが途切れ経路がわからず遠回りしたかもしれません。
説明板を確認した後、そこから徒歩2~3分で細道の進入口(35.139436、132.420302)に入り、少し歩いて登城口付近に着きました。
登城口付近には何の表示もありませんが、3~4分登ると民家跡?の石垣があり、その先に石見城跡の標識あります。
登城口から15分~20分くらいだと思います。赤いテープが案内してくれます。

詳細は不明のようですが、1565年(永禄8年)頃に温泉津や石見銀山の権益を持った近隣地域の領主温泉(ゆし)氏が軍事的拠点としていたと見られています。
温泉(ゆし)氏は石見国温泉郷の国人領主で、当初は周防大内氏に属していましたが、同氏衰退後は出雲尼子氏に属しました。
弘治年間(1555年~1558年)から尼子方として毛利氏と戦い、補給基地でもある温泉津をおさえて、尼子氏の石見銀山支配を支えました。
1562年(永禄5年)温泉氏(ゆし)は毛利氏に追われ、その後、月山富田城(安来市)に籠城した後、尼子氏とともに滅亡しました。

国指定史跡として石見銀山遺跡に登録された城館(山吹城・石見城・矢筈城・矢滝城)のうちの一つです。
主郭東の堀切や東郭の土塁が確認できます。眺望はいまいちかな。
攻城時間は45分くらいでした。次の攻城先=矢筈城へ車で向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征2日目:矢滝城 (2026/05/12 訪問)

「レンタサイクル河村さん」から車で20分くらいで、登城口付近(35.079887、132.422658)に着きました。
登城口までの道は狭く、軽自動車でないと無理だと思います。

築城年代は定かではないようですが、1528年(享録元年)大内義隆によって築かれたとも云われています。
大内氏は石見銀山から産出した銀を矢滝城下を越えて温泉津港へ運び込んでおり、その街道を相対する矢筈城とともに防衛する拠点として用いられたそうです。

トンネルの手前入口が登城口で説明板があります。
トンネルの上を越して所々張られたロープを頼りに、急な山坂道を落葉に足を取られながら登ると、矢滝山頂上に着くはずです。
しかし、いつ辿り着くかわからない登山道に心が折れ、途中で断念しました。
攻城時間は50分くらいでした。次の攻城先=石見城へ車で向かいました。
ちなみに、石見城のGPSを入力しようとしましたが、インターネットが途切れ経路がわかりません。
来た道の狭い道は通りたくなかったので、逆のトンネル方向に進み、インターネットが繋がるところまで下山しました。

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朝田 辰兵衛

クマの出没エリアを回避して…🐻 (2026/06/13 訪問)

ここ最近のクマの出没エリアを回避して,比較的安全な場所をチョイスしました。ホントは効率的に2~3城廻れればな…と思っていましたが,なかなかイイ場所が見当たりません…。

湯原館ですが,国道113号線からのアクセスが良いです。昨年,上山城とセットを考えていましたが,今日になってしまいました…。
二の丸は「街道ホステルおたて」で,旧湯原小学校。パネルがあります。ここから「街道ホステルおたて」の建物ウラへ回り込むと登城口があります。井川城を思い出させる木橋を渡ります。すると,どうやら竪堀の中を歩いて本丸へと向かって行ってるようです。この入口は本丸西側になりますが,散策したら虎口は東側にありました。たぶん,小学校建設時に改変されたものと思います。
なお,パネルに移築門は,山形県赤湯の「ホテル瀧波」に現存とのこと。今回は時間の関係で行けませんでした…<泣>。

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送りバント

20260510猫城(福岡県中間市) (2026/05/10 訪問)

高さ20メートルほどの独立した小さな丘にあり、諸説ある城名の由来のとおり、遠くから眺めれば猫が背を丸めた姿に見えなくもない。現在は月瀬八幡宮が建ち、二段ある削平地の上段に社殿、下段に地元出身・高倉健さん奉納の立派な城址碑がある

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