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赤い城

栗隈城と支城群 香川県丸亀市 (2025/03/15 訪問)

城びと未登録で西長尾城の支城です。
県道に案内板があり、そこから山の方に向かうと説明板が立っています。
駐車スペースもあったのでここに車を置きました。

登城口を少し進み防獣柵を開けて進むとすぐに支城の一つ、城ノ岡城があります。
尾根を利用した広い平坦地で館跡とされます。
さらに進むと田村城、田村上総介の居館です。
段になった曲輪が連続します。
さらに進み、主郭への案内板を過ぎたところに星濡城。
ここは竹藪で入れません。
長宗我部氏の侵攻により城が放棄された際、見上げた星が滲んで見えたことからこの名が付いたそうです。

主郭方面にも道が付いていて程なく尾根道に到着。
さらに登って行きます。
西の曲輪群は段になって曲輪が並んでいます。

登ったところに北側の切岸が阻みます。
この曲輪下を回りさらに進むと主郭となります。
縄張図にはその先に三重堀切が描かれていますが埋まっていて若干の痕跡を残すのみです。
ヤグラと呼ばれる高台の先にも三重堀切、こちらも埋まっています。

引き返し先ほどの切岸まで戻り、東に降りると大流城。
ここは整備されていません。

派手な遺構は無いマイナー城ですが歩きやすい城でした。

【見どころ】
 ・西の曲輪群
 ・三重堀切の名残

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小城小次郎

「天空の城」より高くて大きい (2024/05/12 訪問)

金森長近が越前大野城を築くまで斯波・朝倉による地域支配拠点であったお城からは「天空の城」大野城がよく見える。戦国期城郭の戌山城の方が近世城郭の大野城よりずっと高くてずっと大きいという事実にふと気付く。

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朝田 辰兵衛

ここは地名消滅の危機から碑が建った… (2025/02/24 訪問)

碑に刻印された説明書きを読むと,住居表示変更で「日向」の地名消滅を惜しみ,有志により建立されたとあります。これからも時代は,さまざまな消滅危機を繰り返すことでしょう。「何かを残して語り継いでいこう」という志はとても素晴らしいことです。
佐原城のような残し方もあれば,この真鳥山城のような残し方,いろいろあっていいのではと思います。大事なのはそこから先人たちの心を,今を生きる私たちがどれだけ感じ取れるかが問題。碑なんかは,そのきっかけにすぎません。
いつまでも,いつまでも,豊かな心を育んでいきたいと思います。

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しんちゃん

御三階 斎藤一墓所 (2024/09/17 訪問)

福島県会津若松市にある阿弥陀寺の境内には、かつて会津若松城の本丸に建っていた御三階が移築されています。外観は三階、内装は四階で藩主の密議の場として使用されたと伝わります。戦闘向きの建物ではありませんが、通常の櫓と違った優美さを感じます。
また境内には戊辰戦争の戦死者が埋葬されており、明治維新後に藤田五郎と名乗った、新選組三番隊組長・斎藤一の墓もあります。
藤田五郎と名乗っていた、くだりは「るろうに剣心」でもやってましたね。

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しんちゃん

12世紀の遺構? (2024/09/17 訪問)

陣が峯城は平安時代の末期に使用されていた城館とされています。城館のある会津蜷河荘は永久2年(1114)に藤原忠実の領地であったとされ、その配下の者が城館と土地を管理していたと思われます。
川西公民館の周辺が城館跡とされ、周囲に二重の堀が配され、入り口の設けられた西側には土塁が残ります。12世紀の貴重な城館遺構が残っていることが国の史跡に登録された理由になっています。

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ぴーかる

西高木家陣屋 (2025/01/18 訪問)

【西高木家陣屋】
<駐車場他>上石津郷郷土資料館駐車場に駐車し資料館100円に行きました。
<交通手段>車

<見所>石垣・長屋門・東高木家土蔵と石垣
<感想>美濃国石津郡を領有する高木家は高木貞利が関ヶ原の戦いで東軍の先鋒隊として参加し2000石の旗本として与えられたのが始まりとします。高木家は高木貞利の西高木家、高木貞友の東高木家、高木貞俊の北高木家の3家に分かれて交代寄合となり以降3家が隔年交代で参勤交代をします。高木家は明治まで存続しました。
 先達方の投稿で石垣が見応えありそうで行きたい城にリストアップしていました。最初に資料館に行き、そのあと周辺散策をしました。資料館は撮影禁止で陣屋の地形模型等があります。リーフレットも無くてちょっと侘しい資料館でした。陣屋は牧田川の西側の河岸段丘上のへりに築かれていて、その西側から広い平地が続いています。西高木家が3家の中で最大で2300石だが大名格だけあってもっと石高あるように感じました。虎口跡と東側法面の石垣が見応えありました。
 この日は滋賀・三重・岐阜の残していた城を攻略しました。城びとフラッグの穴埋め的な気分で行きましたが采女城は予想外に素晴らしかった。368㎞無事走破。

<満足度>◆◆◇

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しんちゃん

彦根道中 (2025/02/09 訪問)

2月に彦根に雪が降ったというニュースを見て、高速の通行止めが解除されたと同時に行ってきました。ちょっと雪の日の城めぐりが楽しくなってきています。あとは雪用の靴を準備すれば心強いかな。現在、除雪用のスコップは買って車に積んであります。
高速道路には雪は有りませんでしたが、彦根に降りた途端、雪国のような景色に。
彦根市はけっこう開けていますが、雪の多い地域のようです。周囲は雪が積もっていますが、近江ちゃんぽんの店はしぶとく営業しています。でも雪が除雪しきれていないので車を5台しか置くことが出来ない。とりあえず置けるところに置きます。
雪の彦根城もなかなか良かった。玄宮園も良かったですね。
そのまま某アプリの城攻めをしながら大津周辺を回りました。この辺りには雪がほとんどない。夕食は「まことや」の牛骨ラーメン。
最後の写真は、市場城攻めの後に食べた洋食屋のハンバーグディナー。たまにはラーメン以外のものも食べないと。でもフォークとナイフだけだと少し食べつらい。箸とスプーンが欲しいな。

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イオ

麒麟がくる紀行(三日天下)

(続き)

織田信長と信忠を討ち京を制圧した明智光秀は安土城に侵攻しましたが、山岡景隆は光秀の誘いを拒んで瀬田の唐橋(滋賀県大津市)を焼き落として抵抗し、頼みとしていた細川藤孝・忠興父子は信長の喪に服することを表明して嫁いでいた娘・玉を味土野(京都府京丹後市)に幽閉、筒井順慶の協力も得られず、光秀の目論見は次第に破綻していきます。

そして最大の誤算は毛利の大軍と対峙していたはずの羽柴秀吉がわずか9日間で尼崎まで引き返してきたこと(中国大返し)。織田信孝・丹羽長秀らと合流し、中川清秀、高山右近ら摂津衆を味方につけて兵力を増しつつ迫りくる羽柴軍を京への入口にあたる山崎で迎え撃つべく、光秀は勝龍寺城(京都府長岡京市)に入って恵解山古墳(長岡京市)または境野一号墳(京都府大山崎町)に本陣を置き、円明寺川(現 小泉川)をはさんで羽柴軍と激突しました。小泉川東岸の天王山夢ほたる公園には山崎合戦古戦場の石碑と説明板が建てられており、公園からは天王山がすぐ近くに見えます。「天下分け目の天王山」と云われるように、山崎の戦いは天王山をめぐって激しい争奪戦が展開されたようなイメージがあり、実際、天王山のハイキングコースには山崎合戦之地の石碑や説明板が建てられていたり、秀吉が馬印を掲げたと伝わる旗立松があったりしますが、天王山はせいぜい前哨戦の地であって、主戦場はあくまで東麓の湿地帯だったようです。とはいえ、旗立松展望台からは主戦場がよく見渡せ、やはり羽柴軍にとって天王山を確保する意味は大きかったんだろうとは思いますが。

3倍ともいわれる兵力差の中、奮戦するもついには総崩れとなった明智軍は勝龍寺城に撤退し、その夜、光秀は再起を期して北門から脱出して坂本城に向かう途中、小栗栖で落ち武者狩りにより討たれたとされます。光秀が討たれた地は明智薮(京都市伏見区)と呼ばれ、明智薮の北東約1.2kmには明智光秀胴塚の石碑と説明板があります。明智薮で負傷しながらも何とか逃れてきたが、坂本城まではたどり着けないと悟って胴塚の地で自刃した、といったところでしょうか。そして光秀の首は信孝のもとに届けられて、まず本能寺跡で、次いで粟田口(京都市東山区)で晒されたと伝わります。光秀が天下を手中にしたのはわずか12日間のことでした…(続く)。

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todo94

献血前の攻城④ (2025/03/15 訪問)

宍戸陣屋の移築表門からの転戦です。グーグルマップの湯崎城のポイントは完全に民家の敷地になっていますので写真撮影もしなかったし立ち入りもしませんでした。グーグルマップにただ「神社」と表記されている神社の脇は空堀のように見え、主郭の果樹園につながっています。本覚寺方向へ道沿いに回り込んでいくと城址碑を見つけることができました。こちらの方ははっきりと空堀が確認でき、主郭にもつながっています。シェルさんの投稿のおかげで城址碑を見つけることができました。ありがとうございました。

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赤い城

ラスボス征した後に (2025/03/09 訪問)

矢筈城で満足した後もう1城。
ということで医王山城です。
美作と因幡をつなぐ街道の要衝で南北朝時代以前より残っています。

岩尾寺の裏手に駐車場があり、すぐに登城口があります。
ここにも熊出没注意の看板があります。
急な九十九折りの坂道を登り、途中の薄い堀切を経て20分くらいで主郭に到着。
主郭には虎口があり、石垣が守ります。
また、眼下には湾曲した加茂川の流れを望みます。

虎口からまずは北側の尾根を降ります。
浅い堀切がありますが藪で不明瞭、この先は塩屋ケ城へと尾根道が続いているようです。

引き返し南側へ、主郭の土塁は石積で補強されていました。
さらに二の丸、三の丸へと進みます。
三の丸には素敵な土塁が残っています。
この先がこの城のメイン、石垣を経てまずは見事な大堀切からの竪堀。
大堀切は岩盤を削ったものでした。
さらには放射状に落ちる畝状竪堀。
南側の備えは強固なものになっています。

南北朝時代以降山名、赤松、尼子、浦上、毛利等相次いで支配者が代わった城です。
毛利の時代には秀吉と宇喜多の軍に攻められましたが2年に渡り死守。
落ちることはありませんでした。

メインディッシュの矢筈城でお腹いっぱいかと思ってましたがデザートは別腹でした。
2週前の鍛錬の成果かな?

【見どころ】
 ・主郭虎口の石垣
 ・主郭土塁を支える石積
 ・三の丸の土塁
 ・三の丸下の大堀切と竪堀
 ・放射状に落ちる畝状竪堀

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しんちゃん

どうする 数正?

おととしの大河ドラマ「どうする家康」では石川数正が徳川旗下の主戦派の勢いを削ぐために豊臣秀吉の元へ出奔したという演出が成されました。実際に三河から駿河までの城址を散策して見ると肌で感じるものがあります。
武田の城跡で縄張りが改修されたとされる、古宮城と諏訪原城は続百名城に登録されています。縄張りもかなり気合が入っていますね。東海道だけでなく迂回路にある山中の城も改修を受けているようです。山中にある城はそれほど規模も大きくないので、遺構や郭などの増築を受けているのでは? と思います。
特に本丸内に郭を増築するというのはヤバイ改修ですね。投降は考えずに城主の切腹を前提にしている縄張りに見えます。三河武士団は特に家康公への忠誠心が高いので、これらの改修を自発的にやっている可能性は有りますね。これは第二次世界大戦前と終戦前の日本に通じるヤバさです・・ちょっとハイになっている感じですね。
こんな無茶な戦を続けたら、貴重な人材や領土を失い続けて、たとえ徳川家が滅びなかったにしても、大いに勢力を失う結果になっていたと思います。
家康公もそのことは解っていたと思います。結果的に数正の出奔で一番得をしたのが家康公ですからね。

妄想・・・・・・・・・・・・・
数正「殿~~ サルにゲッチュウ(スカウト)されちゃったYo~」
家康「主戦派もうるさいし・・ユー そのままゲッ忠されちゃいなYo 」
数正「!! それでは私ひとりだけ悪者ではありませんか?」
家康「悪いようにはせぬ・・」 後の時代、石川家は当然のように改易。
う~ん・・ 家康酷いなあ。そんな酷いことはさすがにしないかな・・でも伏見城の例もあるし・・いざとなると非情な決断を下す男・家康。

実際の所はどうなんですか? 数正さん??

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三浦の晃ちゃん

整備されています (2025/03/23 訪問)

綺麗に整備されています。見学がしやすいです。空堀と土塁が見事です

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三浦の晃ちゃん

アメリカ領事館 (2025/03/23 訪問)

今は、幕末にアメリカ領事館だった本覚寺が建っています。

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三浦の晃ちゃん

権現山合戦 (2025/03/23 訪問)

権現山合戦という戦いの舞台です。今は、公園になっています。

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しんちゃん

エセ開花情報?? (2025/03/23 訪問)

暖かいを通り越して、暑さすら感じる今日このごろ。黄砂に混じって、焦げ臭い匂いまでしてくる始末・・〇国、いいかげんにしろ~!
とかいいつつ、日本も私が子供の時分は公害大国でした。今の若い人には信じられないかな?
市場城の周辺は桜が3分咲きくらいです。とは言っても四季桜だけど。ソメイだけが桜じゃないぞ~。市場城は特別規模の大きい城ではありませんが、郭の数は案外多く、石垣や竪堀、堀切、土塁などの遺構が充実しています。本丸の南側と櫓のある曲輪は石垣で固めてあり、本丸の周囲は急な切岸で守られています。北西の竪堀群は見ごたえがあり、大手には枡形門もついています。
市場城は徳川家康が関東移封になった際に、鱸氏が関東への移動を拒んだために廃城になったとされ、現在残されている遺構がどのタイミングで築かれたか興味のある所です。小牧・長久手の合戦の後から小田原攻めの間に遺構の充実が図られたと思います。
個人的な考えですが、秀吉の徳川攻めの緊張が高まった時期に、本丸内に郭が増設され、和解後、もとに戻されたのかも??

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にのまるさん、近江八幡城です。 (2025/03/16 訪問)

にのまるさん、返信をありがとうございます。ご指摘の通り、近江八幡城のロープウエイとは反対側の西面からの眺めです。
何十年ぶりかで、近江八幡名物の左義長祭りに行ってきました。20時から、左義長を燃やして奉納する「奉火」があります。近江八幡は、徐々に観光対応が進んでおり、こじゃれたお店が増えています。外国人の観光客も多かったです。祭り期間は、左義長音頭が町中に流れており、四番に「踊りだしたる信長公の由緒残したこの祭り」と歌います。町民が、安土城下から近江八幡城下に移り住んだことを歌っているのですなあ。

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朝田 辰兵衛

途中の案内板は3枚ありました…🔜 (2025/02/23 訪問)

にのまるさんの書き込みで,2ヶ所の案内板が紹介されておりましたが,もう1枚発見しました。北久里浜駅から徒歩で向かう途中,横横道路の高架をくぐる手前にありました。
こんなことぐらいしか楽しみがないですが,碑とパネルの一角がよく消滅しないで保存されてきたものだ…と感謝しきりでした。

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しんちゃん

変◯はイヤですか?

ヒロケンさん。私は奇面組世代なので、変態と呼ばれることに誇りを持っています。むしろ最高の褒め言葉ですね。
これからも城攻めと変◯道を極めて行きたいと思ってますよ。でも命に関わる危険な行為はしません。真の変態とは細心の注意をもって城攻めに当たるべきだと思っております。

黒田官兵衛が武辺話の最中に小便に席を立った息子を嘆いた逸話があります。真の武士の子であれば、武辺話に聞き入るあまり小便を漏らして欲しかったと言うのです。
まさに変態。感動です。
こんな変態を父に持った長政も大変ですが、城びとにも通ずるものがあると思います。
私も真の変態と呼ばれるくらい城を愛したいと思っております。
まだまだ道半ばですが、小中学校や女子校の周辺でポ◯公に捕まるのだけは絶対に避けたいです。
どうもフォローになっていないような...
逆にすげー足を引っ張ってるよーな...

城めぐりは、その土地の歴史や文化と触れ合える素晴らしい趣味だと思います😅

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ヒロケン

外堀散策 (2025/03/02 訪問)

東大手門駐車場(2時間1200円)に駐車し、開城時間8時45分に間に合う様、東大手門を背にして北側を向いて出発。生憎の雨模様で傘を差しカメラが濡れないように注意を払っての出発でした。直線の水堀が気持ち良い。最初のコーナーを曲り見えてくるのが、東大手門よりわずかに小さい重要文化財の北大手門。次に見えてくるのが北側外堀のクランク、このクランクは慶長期に家康公が築城した際の野面積みの石垣が現存しています。写真をパシャパシャ撮りながら、西北隅櫓跡の角を曲ると次に見えてくるのが、重要文化財の西門。門上に土塀が設けられた埋門でかつては、堀に木橋が掛けられていたとの事。西門を過ぎると西南隅櫓の登場でこれまた、重要文化財で、東南隅櫓よりやや小さいとの事ですが唐破風が恰好が良い。お次は南門、大正時代大正大礼時に増設されたとの事ですが、かつてから在ったかのように周りの景色とマッチしている。いよいよ最後の角には重要文化財の東南隅櫓。東大手門の南に位置し大手門を守る重要な櫓で西南隅櫓の唐破風に対し、東南隅櫓は千鳥破風となっている。
外堀を周っただけで見所が沢山あり、45分で周ろうと思っていたが、30分もオーバーしてしまった。

しんちゃんさんへ
お城巡りのきっかけの投稿では、変態オヤジやらの不適切な表現を使ってしまい申し訳ありませんでした。確かに最初先輩の画像を見た時に変態だとか、辺室社であるとかは思わなかった様に思います。変わり者だなとは思いましたが。(知らない事とは言え)
ただ、投稿を読んでいただいた方の中で、嫌な気持ちになられた方もおられると思いますので、謝罪いたします。申し訳ありませんでした。(しんちゃんさんフォローして頂き、ありがとうございました。)

イオさんへ
まったくもってイオさんの言う通りだと思います。自分も先輩のように皆から慕われる存在でいたいと、つねずね思っておりますが、つい我が出てしまったり、自分を良く見せようとか欲が出てしまったりと器量が狭い人間なので、これから自分を磨いていきたいと思います。

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城くじら

岩槻城址を散歩する暇人 (2025/03/26 訪問)


仕事の合い間に岩槻城を訪れました。
桜はまだ蕾で、開花が待ち遠しいですね。
花粉と黄砂で目が痛くなりながらも、岩槻城址をぶらぶら散歩いたしました。

岩槻城について知りたい方は下記もご参考下さい↓↓↓

岩槻城~今も歴史が息づく城跡~

埼玉県さいたま市岩槻区にあった岩槻城。戦国時代から江戸時代にかけて、関東の重要な拠点として活躍しました。今は「岩槻城址公園」として整備され、歴史を感じられるスポットになっています。

岩槻城のはじまり

このお城を築いたのは、太田道灌(おおた どうかん)。道灌といえば、江戸城や川越城を築いたことでも有名な戦国武将ですね。岩槻城も、そんな彼の手によって15世紀後半に造られたと言われています。

戦国時代になると、関東を治めていた北条氏がこの城を支配。豊臣秀吉の小田原攻めのとき(1590年)には、北条氏の防衛拠点のひとつとして戦いましたが、結局、豊臣軍に降伏しました。

江戸時代に入ると、岩槻城は岩槻藩の中心地に。阿部氏や大岡氏といった大名が治め、城下町も発展しました。特に日光御成街道の宿場町として栄え、多くの人が行き交う場所になったんです。

岩槻城の特徴って?

岩槻城は、平地に造られたお城ですが、周囲には湿地や川が広がる天然の要害になっていました。堀の代わりに見沼(現在の見沼代用水)があり、水の城ともいえる造りだったんです。今も公園内には**菖蒲池(しょうぶいけ)**が残っていて、当時の雰囲気を感じられます。

今の岩槻城址公園

今では、岩槻城跡は「岩槻城址公園」として整備され、市民の憩いの場になっています。特に春は桜の名所として有名!また、公園内には岩槻郷土資料館もあり、岩槻の歴史を知ることができます。

おわりに

岩槻城は今は建物こそ残っていませんが、歴史の面影があちこちに感じられる場所です。岩槻を訪れたら、ぜひ城址公園を歩いて、昔の武士たちの息吹を感じてみてください!

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