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高槻市では「高槻まちかど遺産」として選定した史跡に小さな説明板を設置しており、歴史民俗資料館でもらった高槻まちかど遺産マップ(たかつき歴史Webからもダウンロードできます)を片手に高槻城の城下をめぐってみました。
しろあと歴史館の前には思案石(まちかど遺産番号18)が設置されています。元々は本行寺近くの外堀沿いにあった石垣石で、矢穴の跡も見られます。生活に困窮した人がこの石に腰掛けて堀に身投げするか思案したことから思案石と呼ばれるんだとか。
しろあと歴史館の前の道路は外堀跡、西側の交差点から南に続く道路は内堀跡で、それぞれ緩やかに傾斜しており、交差点南東部に高槻城の説明板とまちかど遺産「道路に残る高槻城の堀跡」(番号17)が建てられています。また、しろあと歴史館から少し東に、次いで北に進むと何度も直角に曲がる道路が続いており、この道も外堀跡(番号16)のようです。折れを設けて横矢が掛かる堀が続いていたんですね。外堀道が北端で西に折れるあたりに本行寺があり、外堀北東部一帯は寺町になっています。本行寺の山門は高槻城の高麗門が移築されたものです。西に続く外堀道沿いには堀の名残の水路も見られます。信号のある交差点を南に入ったところが北大手門跡(番号12)ですが、まちかど遺産の説明板があるだけで痕跡も感じられません。
北大手門跡の少し南にはカトリック高槻教会があり、高槻城主ユスト高山右近之像や高山右近顕彰碑が建てられています。高山期の高槻城下には教会堂が建てられ、安土からセミナリヨが移転し、2万5千人の領民の7割強がキリシタンだったと云われます。現在の野見神社が教会堂の比定地とされ、道向かいの商工会議所の入口脇に髙山右近天主教会堂趾の石碑と説明板が建てられています。商工会議所の南西隅は江戸後期の絵図にも描かれているムクノキが立っていた場所で、現在はムクノキ大明神の祠(番号15)があります。また、商工会議所の南東道路沿いには厩郭枡形門の石垣石と説明板が設置されています。
野見神社(牛頭天王社)は高山期に破却されるも江戸初期には三の丸内の現在地に再建され、城内守護として崇敬されました。境内には摂社として高槻永井氏初代の永井直清を祭神とする永井神社が祀られており、神門は高槻城唐門の移築とも云われます。
野見神社から高槻現代劇場(市民会館)の裏手に回ると西側が一段低くなっており、三の丸と外堀の段差(番号14)のようです。外堀の西側は岡部期に拡張された出丸で、四方を水堀で囲んだ北側に門(番号13)が設けられていました。出丸跡もすっかり住宅地になっていますが、地名(出丸町)だけでなくクランク状の道に往時の痕跡を感じます。出丸を南に抜けて突き当たる東西に続く道路も外堀跡で、道路沿いに名残の水路が見られました。外堀沿いに東に進んだ先の北側一段高いあたりが蔵屋敷(番号22)だったようです。
高槻城公園の南東で外堀は北に折れて土塁(番号21)に沿って続いています。このあたりには江戸後期に藩校・菁莪堂(番号20)があったようです。現在の中学校の敷地内でしょうか。公園から東に出ると八幡大神宮の前の道路も外堀に沿って折れていて、北に進むと東大手門跡の説明板が立てられていました。
…ということで、高槻城下をほぼ一周。街なかの城の哀しさで明瞭な遺構は見られませんが、あちこちに設けられた高槻まちかど遺産の説明板をたどってみると道路や町割りに痕跡が感じられ、思いのほか楽しませてもらいました。
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