最後に、秀長を祀る「春岳院」と秀長の墓(供養搭)である「大納言塚」を訪れ、そこで手を合わせてきました。春岳院には秀長の肖像画・木像・位牌も安置されていて、今年1月から見学できるようになっています。特に「秀長の木像」と「秀長の位牌(実物)」は一見の価値があると思いますので、是非ここは訪れるべき場所だと思いました。写真撮影はできなかったので、パンフレットを御覧下さい(写真①②)。
1590年9月、馬にも乗れずやっとの思いで京都から郡山へ戻った秀長ですが、もう病の悪化が激しくなり、床に臥せたまま動けなくなってしまいます。「積(しゃく)」という腹部にしこりができ激しい痛みをともなう病気だったと興福寺の多聞日記には書かれており、今で言う「大腸がん」のような病気だったのではないかと推測されます。
1582年山崎の戦いの時に嫡男の与一郎を亡くした秀長には、後継ぎがいませんでした。よって側室の子でまだ幼い娘の「みや」に婿養子として秀保(秀吉・秀長の姉「とも」の三男で秀次・秀勝の弟)を急ぎ迎えて婚礼を済ませ、家督を継がせます。秀吉は小田原征伐が終わり、秀長危篤の知らせを受けると、郡山城へ急ぎ見舞いに行きます。やつれた秀長を見て驚き、1000人もの僧侶を集め祈祷させたとか。また慶(ちか)は、秀長が没収した土地を全て寺社へ返上し、その代わりに祈祷するように頼んだそうです。しかしそれらの甲斐もなく1591年(天正19年)1月22日、豊臣秀長はついにこの世を去りました(享年52歳)。雪が深々と降る寒い日だったそうです。
秀長死後、秀吉により郡山城下に「大光院」が建てられ、秀長はそこに葬られました。葬儀には20万人もの人が集まったとか。これは当時の京都の人口に匹敵する程の数で、その参列は永遠と続いていたそうです。いかに秀長が慕われていたかが想像できます。
しかし1595年に娘婿養子(嗣子)の秀保もわずか17才で亡くなると郡山豊臣家は断絶してしまいます。1598年に兄の秀吉までも亡くなると、1599年秀長の家老だった藤堂高虎は、大光院が家康から処分されてしまう事を恐れたのか、「春岳院」に位牌を預け、大光院を墓ごと京都の大徳寺境内に移築したようです。しかし江戸中期の1777年、春岳院の和尚たちにより荒廃した大光院跡地にこの供養塔が建てられ、京都の大光院から分骨したと伝わっています(写真③④⑤⑥)。
あの偉大な秀長が、今はここ(大光院跡地の荒地)にひっそりと眠っている姿を見て、私は何かやりきれない気持ちになりました。秀長があと10年長生きしていれば、秀吉の無謀な朝鮮出兵も止める事ができ、関ケ原も起きる事はなく、豊臣の世が続いて行ったのではないかと、誰もがここで思った事でしょう。
ここで最後にふと疑問が🤔? なぜ秀長は重い病であったにもかかわらず、京都の聚楽第からこの大和郡山まで、命をかけて戻ってきたのでしょうか? 京都からそれが不思議で、その事をずっと考えていました。
それはもしかして、死期を悟った秀長は、やはり愛する妻の「慶」(ちか=慈雲院)に会いたい、そして「慶」と「みや、きく」の二人の娘に囲まれて最期の時を迎えたい・・・その思いが、そうさせたのではないでしょうか? となぜか墓の前でそんな事を、ふと考えてしまいました。
以上で、私の【豊臣秀長をたどる旅】を終わります。この後は、イオさんの【月影の男紀行】にバトンタッチしたいと思います。全31回長々と読んで頂き、ありがとうございました(完😊!)。
+ 続きを読む









