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赤い城

東に伸びる尾根に見どころたくさん (2021/01/16 訪問)

久留里駅から徒歩で20分くらいで登城口に。
残念ながら旧登城路は通行止め、台風の影響でしょうか。
天神曲輪からの林道も通行止めになっています。
模擬天守もそれなりに素敵ですがやはりここは山城。
見どころは別にあると思います。
幸い東の尾根には進めました。
本丸からすぐに岩を削った堀切、さらに進んでいくといくつか堀切を見ることができます。
途中、道が分かりにくいところもありますが目印のリボンもあるので大丈夫。
怒田方面の尾根の先には見たかった竪堀状の通路が。
ここも岩盤を削った切通状になっていました。
里見氏の上総の拠点、急峻な地形を利用した要害です。
夏はヤマビルが出るのでこの時季がお薦めです。

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yoshi

葺き替えられた直後 (2012/07/28 訪問)

10年近く前ですが、赤瓦に葺き替えられた直後に行きました。
ついでに、飯盛山にもいき白虎隊へのお参りも。白虎隊も、飯盛山から炎があがる鶴ヶ城や会津の町を無念の気持ちで眺めてたんだろうな、と思いを馳せてきました。

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yoshi

だいぶ前に千葉ドライブで (2014/08/22 訪問)

かなり前ですが、きれいなお城でした。
里見八犬伝所縁のお城です。

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yoshi

初詣がてら (2021/01/11 訪問)

2021年1月11日(月・祝)に初詣がてら登城。
叶神社も西と東があり、こちらは東なので要注意。
神社横の急な階段を登ると本丸跡があり。本丸跡から望む相模湾は絶景。

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うっちー幸村

僕のお気に入り本総選挙 エントリーNo.5

本総選挙エントリーNo.5です。!
「凹凸地図で読み解く日本の城」です。
この本は、凹凸地図で、当時の城を読み解くという本です。
50の名城があります。
技術評論社
島崎晋 東京地図研究社
定価本体2180円+税
この本総選挙の投票の仕方は、いいねです!
いいと思った本の投稿にいいねしてください!詳しい説明はエントリーナンバー1をご覧あれ

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イオ

境目の城 (2021/01/10 訪問)

戦国前期に熊野水軍・安宅氏により築かれた城で、幕府奉公衆・山本氏の支配地域との境目にあたるため、たびたび攻防戦の舞台となりましたが、羽柴秀吉の紀州攻めの際に廃城となったようです。

熊野古道・大辺路を見下ろす山上に主郭、その西下と東下に曲輪を設けた山城で、先人の投稿にあるように、草堂寺に車を駐めて大辺路を歩いて登城することも検討しましたが、登城口まで車で行けるようなので、国道のトンネルを出てすぐ東に入り、製材所を抜けて紀勢道の高架をくぐって少し進むと、案内板と説明板のある登城口近くに車2台分ほどの駐車スペースがありました。

登城口から5分ほど登ると東尾根を断ち切る堀切に着きます。ここからが城域です。堀切から西に少し上ると腰曲輪があり、奥からロープ伝いに急斜面を登ると主郭です。主郭からは山本氏の支配地域である富田川流域を広く見渡せます。主郭西下の曲輪は周囲を土塁が囲み、北西部の虎口を出て斜面を下っていくと、シダで見づらい部分はあるものの、西側斜面一帯に畝状竪堀群が広がっています! さらに竪堀の上端は横堀で繋げられていて、小さな城ながら境目の城らしい守りの堅さを感じます。そして、最初の堀切まで戻って尾根沿いに数条の堀切や竪堀が設けられている(はずの)東尾根にも行ってみましたが、ほとんど自然地形な上に、シダが生い茂っていて何が何やらよくわかりませんでした。

年末からの寒波と年明け早々のコロナ感染拡大で、雪と人の多いところに行くのはやめておこう と、麒麟がくる紀行を取り止め、南紀白浜の国史跡「安宅氏城館跡」をめぐることにしましたが、今年の城始めの要害山城は、コンパクトながら畝状竪堀群などなかなかに見応えがありました。
 

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カズサン

草刈整備され鉢巻石垣腰巻石垣が良く観察出来ました (2021/01/16 訪問)

 二俣城の草刈り景観整備された遺構を十分堪能した後、旧二俣川南向かいの鳥羽山城へこの時期ですから草刈りされ景観整備されて良好観察出来る事を期待して車で登城、車は南の丸専用駐車場へ駐める、既に数台の車が駐ってる。
 期待通り草刈り景観整備され良好に石垣が観察出来ました、夏場ですと草木と公園植栽が茂り入り込めず良く見えないのですが今回は再度久し振りのご対面観察でした。
 先ずは本丸の西側土塁の鉢巻石垣約50~60m程とその下腰巻石垣約40m程、西の丸Ⅰ(旧名称笹曲輪)、西の丸Ⅱ(旧名称腰曲輪)の写真を投稿します。(曲輪、遺構の呼称は浜松市文化財課2017年3月発行の二俣城・鳥羽山城探訪マップに依ります)
 堀尾吉晴時代は天竜川行き来の船から石垣が白っぽく映え聳える鳥羽山城を仰ぎ驚愕した事でしょう。

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昌官忠

次男と二人でクラブツーリズム「北陸7名城めぐり2日間」⑦ (2017/11/04 訪問)

次男と二人でクラブツーリズム「北陸7名城めぐり2日間」の7城目(ラストです)は丸岡城です。越前大野城からの転戦です。
100名城スタンプは「霞ヶ城公園管理事務所」で押しました。

城びと入会時の2020/07/29に「こじんまりとした二重三階の望楼型天守と野面積の天守台石垣がよかった」の投稿していました。
あまりに中身がないので再投稿します。一乗寺城でカメラを落として写真がとれませんでしたが、試しで撮った写真がかろうじて大丈夫そうなので投稿します。

柴田勝家の甥・勝豊が1576年(天正4年)に築城し、その時に造った天守は現存するものでは日本最古とされていましたが、近年の調査により築城年代は江戸初期であることがわかりました。
江戸時代には福井藩の附家老として城主をつとめていた本多成重が城主
福井藩主・松平忠直の隠居に伴い本多家が独立し、丸岡藩が成立
本多家が改易となったのちは、有馬氏が入封し、以後8代が丸岡藩藩主となる
1948年(昭和23年)の福井大地震で天守は倒壊
1955年(昭和30年)に部材を70%以上再利用し組み直して修復再建されました

見所は天守につきます。自分的には無骨な石垣・石瓦(鬼瓦)と懸魚が好きです。攻城時間は60分くらいでした。

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昌官忠

次男と二人でクラブツーリズム「北陸7名城めぐり2日間」⑥ (2017/11/04 訪問)

次男と二人でクラブツーリズム「北陸7名城めぐり2日間」の6城目は越前大野城です。一乗谷城からの転戦です。
続100名城スタンプは、このころは集めていなかったので押していません。

一乗谷城でカメラを落とした為、カメラは使用せず、スマホでのみ写真を撮りました。
投稿写真は残っているスマホからの2枚だけです。(次の攻城先の丸岡城で試しにカメラを使ったら写りは悪いが写真は撮れました。)

1575年(天正3年)織田信長は、金森長近と原政茂の両名に命じて、大野郡の一向一揆を収束させました。その恩賞として、 大野郡の3分の2を長近に、3分の1を政茂に与えたといわれています。
その恩賞として、 大野郡の3分の2を長近に、3分の1を政茂に与えたといわれています。
大野城の城主は、築城されてから明治に入り城が払い下げられるまでの間に、19人が務めているそうです。
安土桃山時代の城主には、金森長近のほか、豊臣秀吉の一族といわれる青木一矩(かずのり)や、信長の孫・織田秀雄(ひでかつ)などもいたようです。
江戸時代に入ると、大野は福井藩の一部となり、福井藩主・結城秀康(松平秀康)の有力な家臣・土屋正明が大野城主を務めました。
土屋正明は結城秀康の家臣でありながら石高は3万8千石(≒お米で約5700t)で、小藩の大名と同じくらいの領地を持っている優秀な人物だったようです。
1624年(寛永元年)結城秀康の子・松平直政が城主となった際には、大野藩の石高は5万石(≒お米で約7500t)に加増されました。
松平直政はその後、信濃松本(現在の長野県松本市)で7万石(≒お米で約10500t)、出雲松江(現在の島根県松江市)で18万石(≒お米で約27000t)と領地を加増され移っていきました。
1682年(天和2年)に大老・土井利勝の子、土井利房が大野城主となると、幕末まで約180年の間に、土井家から8人が城主となったそうです。
最後には、1872年(明治5年)に入札により本丸が商人など20人以上に払い下げられ、約290年の大野城の歴史に幕が下ろされたそうです。

スマホで撮った写真が天守閣しか残っていないので、よく思いだせません。攻城時間も不明です。
続100名城スタンプを押していないので、もう一度来なくてはいけません。

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昌官忠

次男と二人でクラブツーリズム「北陸7名城めぐり2日間」⑤ (2017/11/04 訪問)

次男と二人でクラブツーリズム「北陸7名城めぐり2日間」の5城目は一乗谷城です。金沢城からの転戦です。
100名城スタンプは「復原街並み入口」で押しました。

城びと入会時の2020/07/29に「雨の日の攻城でカメラを落としてしまい、撮った写真がダメになったのは残念な思いで。」の投稿していました。
あまりに中身がないので再投稿しますが、写真は残っているスマホからの2枚だけです。(カメラの写真は前日の金沢城全滅+七尾城の一部損壊)

越前朝倉氏が敏景から数えて五代にわたって居を構えた朝倉氏の本拠地です。
朝倉敏景の代に応仁の乱があり、1471年(文明3年)それまでの朝倉氏の居城、黒丸城を捨て、新たに城を築いたのがそのはじまりとされています。
朝倉五代目義景の代、1573年(天正元年)信長に浅井勢を救援にいったその退却中に攻められ、主立つ家臣を討ち取られ、一乗谷城も落城しました。
朝倉義景は、越前大野の戌山城に逃れ、家中の景鏡に裏切られ自害、朝倉氏は滅びました。

現在でも曲輪や空堀、伏兵穴跡などの遺構が尾根や谷筋に沿って残っています。
また織田信長の侵攻に備えて築かれた畝状竪堀の一部も残っています。
戦国時代、一乗谷は北ノ京とも呼ばれるほど栄えた都市ですが、織田信長の侵攻により灰燼に帰しています。
近年、周辺の発掘調査が進んでおり、その結果や史料を参考に当時の町並みが復元され、復原町並として公開されています。こうした原寸大の立体模型は日本初だそうです。

ツアーでは復原町並のみの見学で、一乗山には行っていないので、遺構とされる郭、空堀、堀切、竪堀、伏兵穴などは見ていません。
復原町並もカメラを落とし、撮った写真がダメになったので、余韻に浸ることもできません。
再チャレンジもツアーでは一乗山に行かないので、独自に攻城するしかありませんが、まだまだ行きたい城が他にたくさんあるので、無理かもです。
攻城時間も写真が残っていないので、はっきりわかりませんが、90分くらいだったと思います。

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橋吉

伊奈城 (2016/01/15 訪問)

伊奈城は、室町時代に本多定忠・定助によって築かれました。
1994(平成6)年、「ふるさと創生事業」の一環として調査したところ、堀跡が見つかったそうです。
現在は伊奈城趾公園として整備されています。

1590(天正18)年、本多康俊が家康の関東移封に従って下総小篠で5千石を領して移り、伊奈城は廃城となりました。
なお、伊奈本多氏(徳川四天王の本多忠勝とは別系統)は、その後、近江膳所6万石の大名として明治まで続きました。

北側に土塁が残されています。

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小城小次郎

さすがは有力国衆のお城 (2020/11/22 訪問)

有力国衆だった庄氏が長く本拠としていたお城だけに山頂の主郭部の整地状況ひとつを見ても丁寧に作られていると感じる。後世の境界線を示す石列は城とは直接関係ないとのことだが石材そのものはお城に由来するのではなかろうか。

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カニカニ

所用にかこつけた城巡り 12城目 (2020/11/22 訪問)

過去2回の淡路島上陸は時間の制約もあり高速を使っての通過のみだった。
今回もそのつもりだったが洲本城があるのを思いだし、かなり行き過ぎたが途中から引き返すことに。
洲本の町は温泉街だったのですね。 淡路島に温泉のイメージなかったものだから意外でした。

無料駐車場となっている馬屋曲輪は直前の大手門跡を守る役目もしている配置のようだ。
大手門跡から少し下がった二段積みの石垣を覆う木々を取り払うと何か出てくるのでは、
と そんな雰囲気を感じるのだが、気のせいかな?。

東二の門の先の武者溜は、こんなにも必要なのかと思うほど広い。
東一の門は整備された石段だが、未整備ながら東二の門の近くにも下れそうな道があった。
東の丸からは階段状に積まれた登り石垣がよく見えた。急な崖にはこう積まねばならないのだろう。
なによりも真横から見られるのは珍しいと思うし嬉しい限りである。
案内板の説明書きには、東の丸付近にある石垣は最も古い時代に積まれたとある。
あまり整備がされていないのと相まって、その時代の荒々しさがより際立っているようにもみえる。

丸い大きな岩をみると、なんとこれが丸い小石でできた 「さざれ石」 だった。
いくつかの神社仏閣で「さざれ石」をみたが、丸い小石でできたものは見たことが無かった。
足元に目をやると小さな丸い小石が無数に散らばっている。
丸い小石といえば河原の石と海の渚の小石が思い浮かぶが、この場所は海由来なのだろう。
石垣の石も「さざれ石」から切り出されたもののようで丸い小石が埋まっており、そこから零れ落ちた
であろう窪んだ穴が ”おヘソ” のようにもみえる。

八王子の木戸まで行き、その先を覗くと小さな社が並んでいたので引き返した。
(またまた後悔。  その先には「さざれ石」を祀った磐座があったとは・・・)

日月の井戸を廻っていると、突然後ろから 「 ドドッ ドドッ ドドッ ドドッ 」 の音と同時に
りっぱな角を持った雄鹿が、20mほど離れた脇を駆け抜けていった。
とっさにカメラを向けたのだが、お尻の白い毛が米粒ほどに写った写真しか撮れなかった。
鹿が向かった先、本丸下の芝生に覆われた曲輪に行くと、あるわ、あるわ。   鹿たちの落し物が。
(他の曲輪では落し物は見当たらなかった。  ちゃんとマナーをわきまえているようですナ。)

本丸石垣を見やれば、地震の影響なのかしら一部崩れたままになっている。
定番の継ぎ足され拡張された南の丸隅櫓や武者走台など石垣を見ながら搦め手口へ。
ここへきて気が付いた。   足元には角ばった小石ばかりで丸い小石が見当たらない。
東の丸と違い山由来の場所のようで、山全体が二つの異なった由来で出来上がったもののようだ。

なんだか「ブラタモリ」のような投稿になってしまいましたが、ご容赦を。

残念石、西の丸、天守台 本丸、虎口石段も、ちゃんと見ました。
(下の城というところがあったことは、知りませんでした。次は西の登り石垣も見たいと思います。)

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カズサン

草刈整備され遺構が良く観察出来ます、南・西側編 (2021/01/16 訪問)

 続きです。
 二の丸内部、大手門跡、東、南土塁も草刈り景観整備され良く観察出来ます、二の丸南下と南の丸Ⅰ間の箱堀も大きく圧巻です、南の丸Ⅰは草が刈られ南側の石垣残渣も良好観察、夏は草が茂り突入に躊躇します、また西側の石垣も観察出来ました、南の丸Ⅰ南西虎口から南の丸Ⅱ間の横堀観察、堀は草が刈られ手ましたが内部は竹の倒竹、藪状態、堀より眺めるだけ、戻って南の丸Ⅰ北の堀から西に西の丸方面へ、6年前に発掘発見された西の丸Ⅰ南側石垣を観察探訪をと訪ねるが虎ロープで危険に付き進入禁止、チョットアプローチするがザイル、補助道が無いと危険でした断念して、同時期に発掘発見された西の丸Ⅰ西側石垣を観察、このまま西の丸Ⅰ(水の手曲輪)を降りて天竜川堤防を進めば鳥羽山城搦手道に繋がりますが車の在る駐車場に又登り戻り、戻り道、西の丸から本丸の西稜線が見えますが急峻な崖、切岸で威圧され見応え十分な景観です。
 1時間程でしたが充分堪能楽しめました。同時に二組の方が探訪されてました。 早く武漢コロナウイルスが収束して呉れる事を祈るばかりです。

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カズサン

草刈整備され遺構が良く観察出来ます、北側編 (2021/01/16 訪問)

 自宅から北に7km程と近くに在る二俣城、鳥羽山城を冬枯れの遺構観察に良好な時期と探訪しました、思惑通り地元の方々、区役所、文化財課の環境整備の賜、良好観察が出来ました感謝感激です。
 良く遺構が観察でき写真を撮り過ぎましたので北側編(駐車場から本丸)の投稿です。・・曲輪の名称は浜松市文化財課2017年3月発行の二俣城・鳥羽山城探訪マップに依ります。
 駐車場からトイレ、案内板下の堀切、本丸北門北土塁下の大堀切竪堀、草が刈られ大きさ凄さが実感、同北土塁の高さと存在感で圧倒されます。食い違いの北門を入り、本丸東側土塁は草が刈られ本来の石垣が内側、外側も良く遺構が観察できます、威圧した北土塁の内側には石垣が在った事が良く分かります、天守台は常時よく観察できます大きな存在感抜群、二の丸境の石垣、中仕切門前後の石垣、外枡形も注目です。
 土塁と思ってた所が実は石垣積だったと分かる草刈り景観整備です、時期は桜が咲くまでです要お薦め!
 続きます。

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兵どもが夢の跡 (2020/10/02 訪問)

備中高松城といえば、毛利方 清水宗治 vs 秀吉。
秀吉の水攻めが有名ですね。
今の高松城は原型を留めてああませんが、清水宗治の首塚など… 思いを馳せれば楽しめます。
堤防の跡は城から離れた西条稲荷の大鳥居の近くにあります。わずかしか残っていませんが…
ちょうど、私が訪れた日から御城印が発売されました。ラッキーでした🤞

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姫街道

断崖絶壁に足がすくむ海城 (2021/01/17 訪問)

安良里港の西、遊歩道から登城。
休憩所のある主曲輪まではわりと整備がよく気持ち良く歩けたが、、そこから先の岬先端へは、海岸線の断崖絶壁に武者走があるような地形。
経年劣化の崖崩れを起こし、岩と根が足元を占領。戦国期より今の方が要塞じゃないかと思う。
しかも主曲輪到着した午後4時近くに、突然の強風と横殴りの雨。あわよくば主曲輪でサンセットでもと思っていた自分に後悔した。しかしながら、30分もすれば登城口に戻れて無事生還。心細かった程度で済んで良かった。豊臣対北条の水軍戦で豊臣方は特別苦もなく安良里城を落としたようだが、、、信じれない。

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姫街道

伊東氏が北条早雲に対抗した城 (2021/01/17 訪問)

諸説あるようだが、立地は、在地土豪の城のように感じ、遺構は戦国後期の技巧的な縄張りではないかと感じた。私は南ルートの沢つたいに登城したが、道中は古道跡を現在はハイキングコースにしてるのか、二箇所ほど炭焼窯があったのが印象的であった。共に石垣を積んだ炭焼窯で、いつの時代のものか不明だが風が吹き抜ける谷にあり、まだまだ有りそう。遺構は堀切が各所にあり、それらは対豊臣に備えて構築したように感じた。見所は、本丸へ向かう尾根筋に土塁が連続して続く所で、迫力を感じた。
伊豆の山城は、さすが観光地だけあって各所丁寧な所が多い。ここも勿論全体的な案内板などはあるが、各遺構毎の案内板は必要最低限の設置。そのわりには、手入れや管理が行き届いており楽しみやすかった。

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姫街道

相模湾が綺麗に見えるビューポイント (2021/01/17 訪問)

江戸城増修築のための石丁場跡だったとも。
城としては、山の中腹に位置しており、「砦程度だったかなぁ」と言うのが感想。
相模湾が地図で見るより実際は近くに見えて美しい。ただ、海城って雰囲気でもなく、港町を見下ろす山城って感じがする。
石や岩がゴツゴツしており、江戸時代における石丁場の雰囲気は十分に感じられた。

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ぶーたろー

見どころ満載で、丸一日楽しめるお城です。 (2020/10/10 訪問)

https://youtu.be/VrbEzKFNM1Y
↑この動画が参考になります。流石という他ないですな、名城金沢城。復元建屋も発掘作業も粛々と行われていて、今度来るときは違った風景を見せてもらええる気がします。お城ファンは下記金沢城址マップをダウンロードして見てください。
http://www.pref.ishikawa.jp/siro-niwa/kanazawajou/kanazawa_castle/map.html

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