大阪からJR京都線(新快速)で京都へ移動し、そして京都駅からバス[9]系統に乗って堀川中立売で降りました。このあたりが聚楽第本丸の東堀あたりだったようで、石碑がありました(写真①)。そこから北東へ500m歩いた場所には、千利休の屋敷跡(現:安部晴明神社)もありました。秀長の死からわずか1カ月後、千利休は秀吉の怒りを買い、ここにあった屋敷で切腹したそうです(写真②③)。ところで肝心の秀長の屋敷はいったいどこにあったのか・・🤔? 結局それはよくわかりませんでした(すいません)。そこからまた同じバスに10分ほど乗り、北へ行った大徳寺の西側に、藤堂高虎が郡山から移したとされる、京都の秀長墓所「大光院」がありました。拝観はできないようなので、門の前で手を合わせてきました(写真④⑤)。
四国平定を終えた1585年、秀吉から紀伊・和泉・大和の100万石が与えられた秀長は、大和郡山城の築城を開始し、居城を姫路から郡山へ移します。そして翌1588年九州平定が終わり、九州から帰還し聚楽第が完成すると、秀吉と秀長は休む間もなくともに大坂から京都へ政事の本拠を移します。そして、後陽成天皇の聚楽第への行幸、妻子を京都に置くように諸大名の説得に奔走、北野大茶会の準備、懐妊した淀君(鶴松)のための淀城築城、京都大仏の建造、並行して自分の郡山城の築城や領国経営なども行わなければならず、戦が終わってからも、かなり多忙な日々を送っていたようです。
私はそれからバス[1]系統と京阪電車を乗り継ぎ、豊国神社へ行きました(写真⑥)。1589年ここには奈良大仏をも凌ぐ秀吉が建てた京都大仏があり(写真⑧⑨)、秀吉死後は秀吉の墓があったそうです。大坂の陣の原因にもなった方広寺の鐘もありました(写真⑩)。しかし大坂の陣の後、大仏や墓は徳川家康により徹底的に破壊されたそうです。明治に入り明治天皇の命で神社が再建され、秀吉の銅像も立てられました(写真⑦)。そう言えば、秀吉の銅像はあちこちにいくつかありますが、秀長の銅像はないですよね🤔。それは何故なのでしょうか?(と思いきや翌日一つだけ見つけました)。
秀長は1588年一度郡山へ戻り毛利輝元一行を接待した後、再び聚楽第に戻ります。その時1989年9月に、雑賀の家臣が材木の利益を着服したという事件が起こり、秀長は秀吉から監督不行き届きを叱咤され、しばらく出仕停止を命じられます。兄弟の間で起きた初めての亀裂です。その影響(ストレス)からか、この頃から秀長の体調の異変が顕著になります。だんだんと咳が止まらず寝込んだようです。1カ月ほど有馬温泉に湯治に行きますが治りません。1590年に秀吉が小田原征伐へ出陣する際には、もはや動けず聚楽第から見送ったそうです。
そしてもう政事を離れ、郡山へ戻る事にしたようです。しかしその時は腹部の痛みが激しくなり馬にも乗れなかったとか。郡山に着くや否やそのまま床に伏せてしまいます。なぜ秀長は、重い病を押してまで郡山へ戻ったのでしょうか🤔?
次は秀長最期の地、奈良・大和郡山へ向かいます。
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