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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征9日目:八橋城 (2026/05/19 訪問)

槻下豪族館から車で10分くらいで、八橋駅前(35.503364、133.673757)に着き、そこから登城口(35.503821、133.673650)に向かいました。

築城年代は定かではないようですが、行松正盛によって築かれたと云われています。
1524年(大永4年)出雲の尼子経久によって攻められ(大永の五月崩れ)落城し、その後は吉田左京亮が入城しました。
ただし、現在ではこの説は否定されており、東伯耆地方への尼子氏の進出は天文年間(1532年~1555年)以降と推定されているそうです。
1565年(永録8年)備中松山城主三村家親が毛利氏の援軍を得て来襲し、籠城していた尼子部将吉田源四郎は城門を開き敵軍を突破して尼子本城の富田城に逃亡しました。
後に毛利部将杉原盛重が城主となり尾高城と共に羽衣石城の南条氏の押えとしました。
1580年(天正8年)南条元続・元清兄弟、二波にわたって八橋城を攻撃します。
1581年(天正9年)杉原盛重病死し、二男杉原景盛が在城。杉原景盛は兄元盛を謀殺しますが、1582年(天正10年)吉川氏に攻められ戦死。
豊臣氏と毛利氏との和睦成立後は、毛利氏の所有となりますが、1584年(天正12年)南条氏は八橋より赤崎原へ出陣しているので、この頃、八橋城を回復した模様。
1600年(慶長5年)中村一忠が伯耆一国を領して米子へ入部すると、叔父の中村一栄が30,000石で八橋城主となります。
1609年(慶長14年)中村一忠が嗣子なく没して改易となると、美濃国今尾より市橋長勝が21,000石で入封しますが、1616年(元和2年)に越後国三条に43,000石で転封となりました。
1617年(元和3年)池田光政が因幡・伯耆の領主となると池田長明が入りましたが、一国一城令によって廃城となりました。
1632年(寛永9年)池田光仲が入封すると家老・津田元匡が入り陣屋を構え、以後津田氏が続いて明治に至ります。

八橋城は山陰本線八橋駅の北にある丘陵に築かれていました。
西が本丸、東が二の丸とされ周囲には堀が巡っていたようですが、遺構らしきものは確認できませんでした。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=赤崎台場(城びと未登録 鳥取県琴浦町)に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征9日目:槻下豪族館 (2026/05/19 訪問)

由良台場から車で10分弱で、槻下神社側の三叉路付近空スペース(35.487742、133.715121)に路駐して、入口付近(35.487823、133.716169)に向かいました。

築城年代は定かではないようですが、鎌倉時代に岩野弾正の居城であったと伝えられています。

現在、竹藪に覆われていますが、横堀や土塁、曲輪といった遺構を確認することができます。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=八橋城に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征9日目:由良台場 (2026/05/19 訪問)

青山剛昌ふるさと館から車で5分弱で、お台場公園南側駐車場入口(35.498859、133.756488)に着きました。

江戸末期、鳥取藩内に築かれた台場名所の内のひとつ。現在6ヶ所(由良台場跡 境台場跡 淀江台場跡 橋津台場跡 浦富台場跡 赤崎台場跡)が残っています。
農民等が積極的に協力して築造し、西洋式の城塞プランが採用されるなど、藩築造の台場としては極めて特徴的で、幕末史の理解に欠くことのできない重要な遺構のようです。
由良台場跡は、高島秋帆に西洋砲術を学んだ武信潤太郎を総指揮者として、伯耆5台場のうち最も早く着手され、1864年(文久4年)に完成しました。
平面形が正八角形を真横に二分した形で、東西125m、南北80m、土塁の高さ5m、総面積8,000平方メートルの遺構がほぼ完全に残っています。
鳥取藩史によると、台場には近くの六尾反射炉で製造された60斤砲、24斤砲、15斤砲、5寸径砲各1門が配備されたそうです。

現在、史跡周辺は公園として整備され、高い土塁に囲まれています。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=槻下豪族館に向かいました。

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ぴーかる

魚津城 (2026/05/10 訪問)

【魚津城】
<駐車場他>近くのコンビニに買い物して停めました。
<交通手段>車

<感想>1泊2日富山ちょこ城巡り1000㎞旅20城目。魚津城は籠城する上杉軍と攻城側の織田軍柴田勝家との激戦のお城でちょこ城ながらも行ってみたかった場所です。くしくも、私が魚津城に行ったあとでTV「歴史探偵」で魚津城紹介されていましたね。
 現在は本丸跡には小学校になっていて残る遺構はほぼないようです。江戸時代には米の集積地になっていたようで、町並みの古い感じがしました。

<満足度>◆◇◇
<米蔵>米騒動発祥の米蔵を見てきました。

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イオ

楠葉台場跡史跡公園 (2025/12/13 訪問)

江戸末期に京都守護職・松平容保の建白により江戸幕府が勝海舟を奉行として淀川沿いに築いた台場で、対岸の高浜台場・梶原台場と共に外国船が淀川を京都へ攻め上る事態に備えました。鳥羽伏見の戦いに敗れ、淀城への入城も拒まれた幕府軍は橋本陣屋と楠葉台場で立て直しを図るも、高浜台場の守備についていた津藩が新政府側に寝返って対岸から砲撃してきたため楠葉台場も応戦しましたが、新政府軍の侵攻を受けて幕府軍は大坂に撤退し、楠葉台場は新政府軍に接収されました。明治以降、台場跡は民間に売却され、台場跡西側は鉄道開通により失われましたが、発掘調査の結果を受けて国史跡に指定され、現在は史跡公園として整備されています。

京阪本線・橋本駅から登城開始。橋本陣屋跡と思われる工事現場を横目に楠葉台場へ。史跡公園南端の見張台跡に「楠葉台場跡」「楠葉台場跡の構造」の説明板と「戊辰役橋本砲臺塲跡」の石碑が立てられています。南西辺には大堀と呼ばれる幅広く深さのある堀が稜堡の折れに沿って続いていました。堀沿いに設けられていた土塁は失われていますが、土塁の位置と幅が植栽により示されています。大堀にはかつて土橋が設けられ南虎口に続いていましたが、土橋も虎口も失われ、南虎口の位置表示があるのみです。南虎口から入った正面には見切塁(位置表示のみ)が立ち塞がり、西側の番所(説明板のみ)へと誘導されます。楠葉台場の築造に伴って京街道は台場内を通るように付け替えられており、長州藩などの過激な尊王攘夷派が京都に侵入しようとするのをこの番所で取り締まることが目的だったようです。番所を過ぎて進むと北虎口に至ります。北虎口から東と北に一段低くなった堀跡と植栽により位置が示された土塁跡が続いています。そして北東隅の火薬庫跡で楠葉台場をひとめぐり。火薬庫跡には位置表示も見当たらず芝生の公園が広がっているだけでした。

遺構と言えるのは大堀くらいのものですが、北側の堀跡を一段低くしたり土塁を植栽で示したり、史跡公園として整備される中で可能な限り往時の姿を伝えようという姿勢が感じられました。あとは砲台跡に大砲のモニュメントなりベンチ(舞子台場のような)なりがあれば、もっと台場跡だと知ってもらえるんじゃないかな、とも。
 

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todo94

雨の大阪での一日④ (2026/06/20 訪問)

大阪周遊パスは、大阪メトロも乗り放題なのですが、今回は淀屋橋-梅田間の御堂筋線を利用するにとどまりました。梅田からは徒歩で空中庭園展望台を目指します。かつては、地下道を延々と歩かなくてはなりませんでしたが、今は、うめきた広場の整備が進められていて、地上を歩いてアクセスすることができます。雨の日は地下道の方がありがたいかもしれません。空中庭園展望台の料金は昔の700円から2000円に値上げされていました。オープンエアの屋上は、傘の使用禁止で、遠くはガスっていたので今回は写真撮影はしていません。10年前に空中庭園展望台から大坂城天守を撮影した写真がありましたので、今回投稿させていただきました。一旦、地上に降りて27階にある絹谷幸二天空美術館1300円で締めとしました。財布を忘れて現金及びクレジットカードがない雨の大阪で、こんなに充実した1日が過ごせるとは思ってもみませんでした。

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にのまる

城址碑に誇りを感じました。 (2026/05/31 訪問)

西鉄福岡から特急で柳川へ向かう途中思い立って予定変更。各停に乗り換え行ってきました。
蒲池駅から徒歩20分ほどで到着。このあたりで蒲池氏と言ったら聖子ちゃんしか浮かびません(^^)

立派な城址碑の周辺は水田が広がっています。説明板によると1601年に柳川城主となった田中吉政が城を取り壊して田んぼとしたそうです。
ぐるっとまわって蒲池氏の菩提寺、崇久寺へ。
いくつかの手がかりのおかげで、数百年の時を経てすっかり変わってしまった現代の姿からも城の残り香をしっかりと感じることができました。

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赤い城

光専寺 (2026/06/10 訪問)

堀城から徒歩で15分ちょっと。
幹線道路から少し入ったところにあります。
城跡は光専寺とひかり保育園となっていて遺構はありません。
訪問は夕方18時くらいだったのでさすがに山門は閉じていました。

山門前に説明板プレートが設置されています。
周囲を一周しましたがやはり城を感じることはできませんでした。
心眼の鍛錬不足ですね。
ここから新大阪駅まで30分くらい歩き新幹線に乗りました。
もちろんお土産は・・・

【見どころ】
 ・山門前の説明板プレート

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征9日目:名探偵コナンの世界(鳥取県北栄町) (2026/05/19 訪問)

橋津台場から車で10分弱で、青山剛昌ふるさと館入口&怪盗キッド゙像付近(35.498175、133.762455)に着きました。

青山剛昌先生の生い立ちをたどる貴重な展示品や「名探偵コナン」の複製原画、仕事部屋を再現したスペースなどを見学。
その後、コナン通りを歩き、毛利蘭と鈴木園子のオブジェや眠りの小五郎ベンチ/新一登場 工藤新一/道に迷った平次と和葉などのオブジェを確認。
コナンの家、すいかコナン君/江戸川コナンを経由して、コナン駅(JR由良駅)まで足を延ばしました。
駅にある観光案内所では、ここでしか買えないオリジナルグッズも発売しています。
JR由良駅近くのラーメン店で米子駅で食べ損ねた米子名物の牛骨ラーメンを食べました。
観光時間は75分くらいでした。次の攻城先=由良台場に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征9日目:橋津台場 (2026/05/19 訪問)

河口城から車で15分ちょっとで、長瀬公園駐車場入口(35.505141、133.874545)に着きました。

江戸末期、鳥取藩内に築かれた台場名所の内のひとつ。現在6ヶ所(由良台場跡 境台場跡 淀江台場跡 橋津台場跡 浦富台場跡 赤崎台場跡)が残っています。
農民等が積極的に協力して築造し、西洋式の城塞プランが採用されるなど、藩築造の台場としては極めて特徴的で、幕末史の理解に欠くことのできない重要な遺構のようです。
橋津台場は藩倉のある重要港湾橋津湊に長瀬大庄屋戸崎久右衛門以下が取締役となって1863年(文久3年)に築造されました。
由良台場と同じく左右対称のプランだったそうですが、現在は両翼の土塁の一部と後方土塁、目隠し土塁が残っています。
台場には六尾反射炉で製造された18斤砲、6斤砲、3斤砲、5寸径砲各1門の大砲が備えられていたそうです。

現在公園となっていますが、草が多いため、土塁がわかる程度です。
駐車場とは反対側の土塁の高まりに石碑が見えますが、台場とは直接関係は無かったです
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=由良台場に向かう前に、名探偵コナンの世界(鳥取県北栄町)に浸ってきました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征9日目:河口城 (2026/05/19 訪問)

岩倉城から車で40分弱で、案内板前(35.509831、133.940222)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、 伯耆山名氏の一族、山名刑部大輔久氏累代の居城でした。
1524年(大永4年)尼子氏による東進「五月崩れ」によって落城し、羽衣石城に入った尼子国久の次男誠久が当城に入城しました。
1540年(天文9年)尼子晴久が毛利元就を攻めるため大軍を安芸国吉田郡山城に派遣した隙に乗じて、但馬山名氏の援軍を得た南条氏が伯耆に乱入し当城も落城、山名刑部が取り戻しました。
1546年(天文15年)には武田国信・南条宗勝らの攻撃で落城、元城主の河口久氏が入城しますが尼子氏の攻勢で再び退去を余儀なくされました。
1562年(永禄5年)に毛利氏によって解放された後には再び河口久氏が入ります。
1579年(天正7年)に南条氏が毛利氏より離反すると河口(山名)久氏は毛利方に属し、城は毛利方の拠点となりました。
そのため、織田氏の攻撃目標となり、1581年(天正9年)には松井康之率いる水軍によって城下もろとも焼き払われ、泊浦の警固船65艘も焼かれています。
1584年(天正12年)に南条領と確定した後は南条方となり、1600年(慶長5年)の南条氏没落によって廃城となりました。

藪化しているとの事前情報で、登城路を少し歩いた後、案内板を撮って撤退しました。
しかし、事前情報が古いのか先人の皆さんの情報では藪下していないようだし、どうやら失敗だったのかな?
どこからの情報か、いまとなってはわかりません。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=橋津台場に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征9日目:岩倉城 (2026/05/19 訪問)

粟住山城から車で30分ちょっとで、登城口付近(35.387858、133.806180)に着きました。

1182年(寿永元年)小鴨氏によって築かれたと云われています。
小鴨氏は古代の律令制時代に国庁の在庁官人の家柄と考えられ、平安時代末期の1182年(寿永元年)には小鴨基保(もとやす)が西伯耆の豪族紀氏と争っていた記録があるようです。
1331年(元弘3年)後醍醐天皇を奉じた名和長年が船上山で挙兵すると、小鴨城(岩倉城)は名和勢によって攻略されたという記事があるようです。
応仁の乱(1467年~1477年)の後は伯耆国守護の山名氏は次第に衰え、出雲の尼子氏の介入を受けるようになりました。
1524年(大永4年)尼子経久が出雲より伯耆へ侵攻し、伯耆のすべての城が陥落し、小鴨氏の岩倉城も落城の憂き目にあいました。
1561年(永禄4年)安芸の毛利氏が勢力を伸ばした際、羽衣石城の南条氏と共に毛利氏に加担して尼子氏に反攻します。
1566年(永禄9年)尼子氏は毛利氏に降伏し、小鴨氏は南條氏と共に吉川元春の配下となりました。
1570年(元亀元年)山中鹿助の配下に一時奪われましたが、因幡の湯原氏の応援を得て奪還しました。
1579年(天正7年)小鴨元清は兄南条元続とともに毛利氏を離反して織田氏に通じました。
毛利氏は吉川元長を大将に岩倉城を攻め、1582年(天正10年)落城し小鴨元清は羽衣石城へ逃れました。
毛利氏はさらに羽衣石城も落としましたが、同年羽柴秀吉との和睦がなり、東伯耆三郡を南条氏に返還し、小鴨氏も岩倉城に戻りました。
1600年(慶長5年)関ヶ原合戦で羽衣石城主南条元続は西軍に属して改易となり、南条氏に従っていた小鴨氏もまた没落しました。

比較的緩やかな登城道を登って行くと、岩倉城二の丸下の曲輪に着きます。
頂上手前に頂上まで80mの標識がありましたが、右ふくらはぎが痛いせいか、もっと距離があった気がします。
この曲輪から二の丸への虎口付近に僅かですが、石垣(写投稿真はピンボケです)が積まれています。
山頂は南に本丸、北に二の丸があります。眺望はよくありません。
登城口の案内標識は見落としてしまいそうな小さなものです。
攻城時間は65分くらいでした。次の攻城先=河口城に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征9日目:粟住山城 (2026/05/19 訪問)

宿泊先のホテルから車で40分ちょっとで、山裾墓地前空スペース案内板前(35.259567、133.681473)に着きました。

粟住城に関しては、築城年代や城主などは不明です。
現地説明板では江戸自体初期の津山城築城の際に、建築資材を運んだ粟住氏のお城という伝承が残っているそうです。
津山城には粟積櫓という小天守に相当する大きな櫓があって、この櫓の用材は粟積から運ばれてきたと伝えられています。粟積(あわづみ)は粟住(あわずみ)のことかな?
どちらが正しいかわかりませんが、離れた粟住城と津山城に同じ伝承が残されているのは面白いですね。

本丸は草が深く、草木が邪魔で眺望はありません。
前日、高尾城(尼子十砦⑥ 3城目)で痛めた右ふくらはぎのふんばりが効かず、下りは滑りそうになりました。
攻城時間は40分くらいでした。次の攻城先=岩倉城に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征9日目:尾高城 (2026/05/19 訪問)

宿泊先のホテルの朝食前に、淀江台場と小波城と尾高城の攻城をしました。
小波城から車で5分くらいで、城跡付近空スペース入口(35.420942、133.412720)に着き、そこから米子勤労者体育センター前(35.420588、133.412971)に向かいました。

築城年代は定かではないようですが、行松氏によって築かれたと云われています。
1524年(大永4年)大永の五月崩れによって落城、尼子氏の支配となります。城主行松正盛は流浪し、尼子方の吉田光倫が城主となりました。
1562年(永録5年)毛利氏の尼子氏攻略に伴い、行松正盛が再び城主となりました。
1563年(永禄6年)行松正盛が病死し、毛利家臣の杉原盛重が城主となります。
1569年(永禄12年)尼子氏再興軍山中幸盛らにより、一時城を奪われました。
1581年(天正9年)杉原盛重、八橋城において没し、家督は嫡男元盛が継ぎました。
1582年(天正10年)伯耆国佐陀に在る杉原景盛が兄の元盛を謀殺するも、毛利氏に攻められ戦死。吉田元重、尾高城在番となります。
1601年(慶長6年)伯耆一国の領主となった中村一忠は当時築城中であった米子城が完成するまでの間、一時当城に留まり、完成とともに廃城となりました。

現在公園として良く整備されています。
南大首、中の丸と呼ばれる曲輪に土塁や空堀が良く残っています。
本丸と二の丸は私有地につき立ち入り禁止です。
攻城時間は25分くらいでした。次の攻城先=粟住山城を攻城する前に、ホテルに戻って朝食を食べました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征9日目:小波城 (2026/05/19 訪問)

宿泊先ホテルの朝食前に、淀江台場と小波城と尾高城の攻城をしました。
淀江台場から車で10分弱で、三輪山の清水駐車場(35.439645、133.415680)に着き、そこから小波城入口付近(35.437728、133.414963)に向かいました。

築城者、築城年代は不明のようですが、元弘年間(1331~34)に大石橋五郎左衛門が居城としていたようです。
「元弘の乱」で隠岐島に流罪となった後醍醐天皇が、名和長年ら名和一族を頼って再度挙兵した際の舞台となった城です。
1333年(元弘3年)隠岐を守っていた幕府軍の武将、佐々木清高は後醍醐天皇らが立てこもった船上山で戦って敗れ、小波城に退きました。
名和軍は小波城に攻め寄せて焼き打ちにし落城させ、佐々木清高は小波城を逃れて隠岐へ退いたそうです。

小波城は草がぼうぼうで進入は無理そうでしたので、外側の写真を撮りました。
三輪山の清水は綺麗に整備されていました。持っていた空ペットボトルに水を汲みました。
攻城時間は20分くらいでした。次の攻城先=尾高城に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征9日目:淀江台場 (2026/05/19 訪問)

宿泊先ホテルの朝食前に、淀江台場と小波城と尾高城の攻城をしました。
宿泊先ホテルから車で20分弱で、公衆トイレ横駐車場入口(35.464617、133.428129)に着きました。

江戸末期、鳥取藩内に築かれた台場名所の内のひとつ。現在6ヶ所(由良台場跡 境台場跡 淀江台場跡 橋津台場跡 浦富台場跡 赤崎台場跡)が残っています。
農民等が積極的に協力して築造し、西洋式の城塞プランが採用されるなど、藩築造の台場としては極めて特徴的で、幕末史の理解に欠くことのできない重要な遺構のようです。
淀江台場は淀江湊に面し、今津村大庄屋松波宏年が土地を提供、その子宏元が設計して1863年(文久3年)11月に完成しました。
現在残るのは、高さ約4m、幅約24m、長さ約67mの土塁です。
淀江台場には六尾反射炉で製造した18斤砲、6斤砲、5寸径砲各1門が配備されたそうです。
当時は丸い鉄の弾で、射程距離は1里(約4km)と伝えられ、1~2ヶ月に1度、砲撃訓練が行われましたが、実戦に使用されることはなかったようです。

幕末、外国船を撃ち払うため、幕府に命じられ鳥取藩が因幡・伯耆の海岸線に1863年(文久3年)に築きました。 
境台場と同じく松波宏元が設計し、宏元の父、今津村大庄屋松波宏年が土地と資金を提供、しかも台場完成後は宏年率いる農民兵が台場を守備したそうです。
松波宏年(徹翁)は、1834年(天保5年)20歳の若さで郡の大庄屋を務めた人物です。
1855年(安政2年)には鳥取藩の郷士に任ぜられ、その恩に報いるため農兵隊を組織しました。
また土地を提供して台場を築き、藩の海岸防備に尽くしました。
その後、1866年(慶応2年)の第2次長州征伐、1868年(慶応4年)の戊辰戦争と、幕府軍として活躍した記録が残っています。

淀江台場は、淀江漁港の背後にあり、現在御台場公園となっています。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=小波城に向かいました。

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小城小次郎

武田徳川の御朱印を今に伝える (2025/09/07 訪問)

甲斐が混乱のるつぼと化す中で織田の焼き討ちに耐え武田勝頼と徳川家康それぞれから拝領した御朱印を戴き現在も現地にお住まいという稀有なお宅。石和陣屋の移築門を表門とし書院も庭園も手入れが行き届く。

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カズサン

ユリが咲いてる掛川城 (2026/05/26 訪問)

 用事で牧之原市へ、用事前に諏訪原城、勝間田城へ登城し笹ユリを堪能して、用事後掛川城へ、外堀代わりの逆川の鉢巻土塁法面に洋種のユリ(カサブランカ)が植栽されて居りこの時期掛川城を訪れる人々を楽しませてくれています、カサブランカ(百合)と掛川城天守閣とのコラボレイションを考えてベストポジションは無いかと逆川北側土手中間に在る遊歩道沿いカサブランカ(百合)を愛でながら品定め、天守閣とカサブランカ(百合)が程よくコラボするポイントを探すが中々ない、唯一百合と天守の重なった処が有ったが天守が少し見える程度、素晴らしいポンとは見つける事が出来ませんでした。
 後は花と天守閣、建物と探し、三の丸花壇と天守群、本丸花壇と天守閣、復元大手門と満開のサツキ、逆川沿いのユリ(カサブランカ)の写真を投稿します。
 4月の桜の時期に訪ねて1ヶ月振りの登城でした。
 

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イオ

「淀殿」由来の城 (2025/12/13 訪問)

室町中期に畠山政長が築き、勝龍寺城から守護所を移したとされます。京都防衛の要地かつ交通の要衝であるため淀古城をめぐって数多の戦いが繰り広げられ、細川方、次いで三好方の城となり、織田信長が上洛すると織田方の城となりました。本能寺の変の後には明智光秀が改修して山崎の戦いでも利用され、豊臣秀吉の側室となった茶々が懐妊すると、秀吉の命により豊臣秀長が改修して茶々に与えられたことで「淀殿」と呼ばれるようになりました。文禄の役の後は木村重茲が城主となりましたが、豊臣秀次に連座して切腹し、淀古城も廃城となりました。

淀城に続いて淀古城にも。淀古城はかつての宇治川・桂川・木津川の合流点の北岸に築かれていましたが、宅地化されていて遺構は消滅しています。城びとの位置情報の妙教寺は江戸前期に城跡に建立された寺院で、境内には淀古城址の石碑が立てられている…はずですが、山門前に「見学はご遠慮ください」との立て札があるため山門越しに覗くにとどめ、石碑は確認できませんでした。妙教寺南側の小学校もかつての城域と思われますが、その間を東西に流れる水路は堀の名残でしょうか。水路を東にたどったところの畳店の隅には古淀城薬師堂趾の石碑が立てられています。また、唐人雁木旧趾の石碑の隣にはこのあたりの地名「納所」の説明板があり、淀古城についての記述もあります。

「諸事情」が何かはわかりませんが、以前は石碑を見学できていたわけですから、この数年のうちに何事かあったんですかね。せめて自身が原因で見学謝絶なんてことにならないよう注意しようと思った淀古城でした。
 

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todo94

雨の大阪での一日③ (2026/05/20 訪問)

昼食後は、乾櫓前、京橋口を経由して、御座船のチケット売り場へ。1800円の料金ですが、大阪周遊パスのQRコードの提示で乗船券を手に入れることができます。12:40、大阪城の内堀を遊覧する御座船に乗船。12:30の便はほぼ満席でしたが、私の乗った便はとてもゆとりがあって快適でした。御座船の売りはコーヒー豆のような人面石のようです。水面に近い目線から見る石垣や天守は中々新鮮でした。最後は、大阪城ホール近くの乗船場から淀屋橋まで水上バスのアクアライナーに乗船して大阪城を後にしました。

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