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イオ

設楽原古戦場 (2025/06/21 訪問)

予定では、長篠城とその周辺、医王寺山本陣と周辺の陣地に続いて武田五砦をめぐった後、設楽原古戦場の両軍の陣跡や史跡をめぐるつもりでしたが、設楽原に着いた時点で予定を2時間ほど超過しており、設楽原をめぐり尽くすには全く時間が足りないので、とりあえず今回は定番の決戦場と設楽原歴史資料館に行きました。

長篠の戦いは歴史番組やドラマでも大きく取り上げられる合戦だけに、自分なりに思い描くイメージはありましたが、いざ現地に立ってみるとやはり感慨はひとしおでした。特に再現された馬防柵の存在感は大きく、ほんの一部の再現であるとしても連吾川越しに馬防柵が見えてくると「おお、あれが…」と思わされますし、内側に入ってみると単に柵が立てられているだけでなく、織田軍と徳川軍で馬防柵の攻口の設け方に違いがあったり、堀と馬防柵と土塁を組み合わせて構築された「鉄砲構え」が復原されていたり、これまで知らなかった備えを目にすることができ、大変興味深い経験でした。鉄砲構えの近くには土屋右衛門尉昌次戦死之地の石碑があり、昌次(昌続)ほどの猛将でも三重の馬防柵は突破できなかったのか…と考えると、戦国最強とうたわれた武田騎馬隊を打ち破ったのは単なる大量の火縄銃の力だけでなく、その力を最大限に発揮するための備えがあればこそだったんだな、と実感。馬防柵はさらに北まで続いていたようなので行ってみると、石碑や説明板は見当たらないものの馬場信房、土屋昌続らと、水野信元、佐久間信盛、丹羽長秀らが戦った名高田前激戦地、そして馬防柵左端(北端)に古戦場いろはかるたが立てられていました。

最後に設楽原歴史資料館を見学。設楽原の資料館だけあって様々な火縄銃が展示され、設楽原だけでなく長篠城や鳶ヶ巣山砦での戦いを含めた長篠の戦い全般について解説されています。屋上からは古戦場が一望! …できることを期待しましたが、樹木にさえぎられて眺望はいまいちでした。そして資料館を出て帰宅する前に、駐車場に掲示されている「いろはかるたでめぐる設楽原の戦い古戦場」を眺めながら、次の機会には設楽原をとことんめぐる! との思いを新たにしました。ちょうどしんちゃんさんが設楽原古戦場の陣跡等について詳しくレポートしておられるので、その際には参考にさせていただきますね。

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カズサン

【信濃 吉田南城】長野県高森町 松岡城支城群家臣吉田氏の城 (2025/10/21 訪問)

 吉田本城・古城、竹ノ内家住宅を終えて南へ約400mに吉田南城が在ります。北側のスロープ登城口に標柱が立っています。

 住所:長野県下伊那郡高森町吉田1406
 駐車場:無し、吉田南城西側の通路側溝蓋幅の広い所を選び北に幅寄せし路駐(35°33'31"N 137°52'54"E h=520m)、右交通幅確保。
 参考資料:余湖図コレクションさん城郭放浪記さんグーグルマップに依る。

 吉田本城、吉田古城同様に東に突出た丘陵先端崖を利用した城郭で松岡城主松岡氏家臣吉田氏の城郭群の一つ、現在北側の登城路スロープに吉田南城跡の標柱が立つのみ、スロープを上がると「私有地立入禁止」の立札がり、進行を躊躇させる、余湖図コレクションの俯瞰図を参考にするが堀跡も消滅し果樹園などに成っており、遺構は良く分からない。
  

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todo94

秋田ドライブの終わりに (2025/10/12 訪問)

今回のドライブの最初に訪れた塩越城、仁賀保インターで降りてすき家で朝食をとった後、国道7号を南下してアプローチしたのですが、その折、白瀬南極探検隊記念館の近くを通過していました。雨が降っていても差し支えないスポットだったので、帰路の途次に立ち寄っていくことにしました。日本人の南極探検の先駆者・白瀬矗には以前から興味を持っていたので、オーロラの映像も含めて展示は興味深いものばかりでした。大阪関西万博の日本館に展示されていた火星の隕石に比べるとかなり小さなものでしたが、ここにも火星の隕石があるとは思いませんでした。

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シャンシャン

フクヤマニメ8 (2025/10/18 訪問)

福山駅周辺で開催されたフクヤマニメ8に参加。
福山城と共にARでオシロボットを撮影して、限定のオシロボットカードをGET!
駅周辺には多数のコスプレイヤー達が集結していた。

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シャンシャン

秋の大阪お城巡り④:初代天下人が築いた大規模山城 (2025/10/17 訪問)

織田信長以前に畿内や四国東部を支配していた、初代天下人とも言うべき三好長慶が築いた西日本有数の巨大山城。
夕方からの登城で駆け足となったが、安土城よりも先駆けて築かれた大規模な石垣や堀切跡、虎口跡など様々な遺構を楽しむことができた。
四条畷神社から登ったところ、登城路はハイキングコースとして整備されているため登りやすいが、途中かなり急な階段もあり体力は相当削られる。でも、途中の展望台や山頂からは雄大な夕陽を拝むことができて、疲れも吹き飛んだ!大阪一帯が見渡せて、これぞ天下人の景色!と感慨深い気持ちになった(^^)
四條畷市立歴史民俗資料館と大東市立歴史民俗資料館にも立ち寄って、御城印・城カード・続100名城スタンプもGET。

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しんちゃん

荒尾成房 (2025/10/15 訪問)

牛久保城は享禄2年に牧野成勝によって本宮山麓の河岸段丘に築かれたとされています。現在はなだらかな丘地になって要害の雰囲気は全くありませんが、往時は複数の入り組んだ台地を利用した堅城であったようです。現在はJR飯田線牛久保駅や宅地となり開発によって遺構はほぼ残っていません。忠魂碑の置かれた土盛りがかつての土塁の一部とされています。
豊臣秀吉が天下を統一した後に吉田城に入った池田輝政の家臣・荒尾成房の居城となり牛久保城は吉田城の支城になりました。
成房は池田恒興に仕え若森城の城主となり、恒興の死後は輝政に仕え、牛久保城代、龍野城代(1万石)を歴任しました。成房の嫡男の成利は鳥取藩家老・米子城代を務めています。じわじわステップアップしてますね。

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カズサン

【信濃 竹ノ内家住宅】長野県高森町 重要文化財大梁切妻造住宅 (2025/10/21 訪問)

 吉田本城の南約100m程の所に重要文化財建物「竹ノ内家住宅」が有り寄ってみました、個人住宅地に成っており南手前の解説板と南側の道より眺めて終了。

 住所:長野県下伊那郡高森町吉田
 参考資料:高森町歴史民俗資料館で頂いた資料、グーグルマップに依る。
 駐車場:南から入る道が有り解説板手前約20mにジャリ駐車場?あり。

 現在15代目当主の方がお住まいです、棟札に寛政11年(1799年)が確認されて居る。
 竹ノ内家の造りは、桁行8間・梁間7間半の切妻造り妻入りで南東向きに建てられている。
 本建物には正面の梁間は全幅にわたって大梁を通し、妻壁は白壁で見事に仕上げてある。家の内部は現在南東隅寄りに1室と土間をとり他は桁行き3列に8室を並べてる。(案内板より)
 珍しい切妻造建物です。
   

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カズサン

【信濃 吉田本城・吉田古城】長野県高森町 吉田本城本丸切岸空堀見応え抜群 (2025/10/21 訪問)

 吉田城山城より東へ約1.2km行くと、吉田本城、吉田古城、竹ノ内家住宅、吉田南城が在る。

 住所:長野県下伊那郡高森町吉田、西の通りに案内板が有る。
 駐車場:無し、西の通りから東入50mのやや畑に幅寄せし車通路確保し路駐(35°33'45"N 137°52'58"E h=520m)
 参考資料:余湖図コレクショングーグルマップに依る。

 路駐から東30m程で吉田本城の出曲輪、角から北に50m程に吉田本城・古城の想像復元図付き案内板と標柱、更に北50m程進むと一段高くなって吉田古城の曲輪が在る、果樹園に成って居る。
 戻って出曲輪内部を探訪し、出曲輪を出て東へ50m程吉田本城二の丸、竹林伐採されて虎ロープで散策路が出来ている、進むと本丸の高切岸が目に飛び込んでくる、本丸周囲の高切岸、周囲の深い空堀は圧巻である、土橋が有るが深いので鉄パイプを数本束ねた橋が架かって居り揺れながら渡る、本丸虎口はスロープ虎口、虎口には左右土塁が走って居り、北東角に祠小屋が櫓の様、周囲は崖で落ち込んで深い、本丸は結構広い。
 吉田本城・吉田古城は松岡城主松岡氏の家臣吉田氏の城と言われている。
   

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しんちゃん

吉田城本丸 (2025/08/28 訪問)

吉田城は地味です。
続百名城にも選ばれているし、東海道の要の城の一つでもあるから城域も広い。石垣や土塁、堀も残っている。でも浜松城や岡崎城に比べるとどうしても地味な印象が有る。天守が無いからね。
アリーナが出来たら吉田城周辺の駐車場も埋め尽くされてしまうだろう。訪問するなら今のうちですぜ?
相変わらず豊川に近すぎる本丸が気になる。ちょっと無防備じゃないかな? 東と西に枡形が築かれていて、それなりに防御力が高いが川から攻められると弱そうだ。ちなみに本丸御殿は宝永4年(1707)の地震で倒壊し、たぶんそのあと建てられていない。そう思うと石垣と櫓でぐるりと囲まれた本丸が大きな枡形に見えて来た。うっかり本丸に飛び込んだら四方八方から矢が飛んでくる。いたたたた・・
実際は藩主は二の丸に住んでいたから、本丸が空っぽでもそんなに問題は無い。
江戸時代初期は大砲などは、ほぼ普及して無いので近世城郭の存在意義は有ったけど、幕末になってくると射程3.1kmのアームストロング砲や2.5kmの四斤山砲などが現れてくる(記憶で書いているので詳細の差異はご容赦を)。
こんなものが出てくると城郭も大砲陣地としての意味合いが大きくなって来てなんとも味気が無い。やはり戦は弓・槍・刀で戦うのが一番だ。火縄銃まではギリOKだ。

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カズサン

【信濃 吉田城山城】長野県高森町 城山公園として整備 (2025/10/21 訪問)

 大丸山砦・大丸山公園探訪後高森町歴史民俗資料館に入館、閲覧後、北へ大島川を渡った丘陵先端の吉田城山城(城山公園)、松岡城主松岡氏の家臣吉村氏の城郭を探訪。

 住所:長野県下伊那郡高森町吉田725
 駐車場:同上に専用駐車場(35°33'30"N 137°52'21"E h=560m)10台位は可能、公園トイレ有、元小学校跡
 参考資料:城郭放浪記さんグーグルマップに依る。

 城山公園平場は本丸で元小学校の跡地なのか?西側に一段高い平場が有り中央に東屋が有る、西に一段高い神社、祠の有る平場は二の丸、更に西、堀切通路で二の丸と墓場神社エリアと分かれている、東の崖下は光専寺が有る、高森町歴史民俗資料館の松岡城及び支城属城の解説展示では東の光専寺から北西に約200m連郭式成って居た様です。北側、南側は崖下で舌状丘陵。
  

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しんちゃん

長篠・設楽ヶ原資料館 コロミツ坂 竹広表の戦い (2025/10/05 訪問)

飯田線鳥居駅をやや西に行った丘陵に織田信長が長篠城主奥平貞昌の功績を讃えたと伝わる「コロミツ坂」が有ります。ここで信長は貞昌に「信」の字を授け、以降貞昌は信昌と名乗るようになったそうです。
案内板によると徳川家康は起請文の通りに翌年の天正4年に長女の亀姫を貞昌に輿入れさせたとのこと。そういえばイオさんの投稿に長篠の戦いの後に金森可近が長近に名を改めているとありました。ひょっとしたらコロミツ坂で一緒に・・は無いかな?
この場合は奥平や徳川を立てて、自分の家臣は後になるのでしょうな・・

竹広の交差点の南側に「竹広表の戦い」の案内板があります。元亀2年「1571」武田信玄が遠江、三河への侵攻を図り秋山信友・山県昌景の侵入を受け野田方三人衆(菅沼氏・西郷氏・設楽氏)らが竹広で合戦に及びました。菅沼定盈や西郷清員らの奮戦で秋山勢を一時的に退けることに成功しましたが「お愛(後の徳川秀忠の生母)」の夫である西郷義勝がこの戦いで討死してしまいました。
この7年後の天正6年(1578)にお愛は徳川家康の側室として浜松城に入り「西郷の局」と呼ばれ翌天正7年4月に秀忠を産みました。

設楽原歴史資料館には多数の火縄銃や大筒の展示が有り「最大級の大鉄砲」や信玄を狙撃したと伝わる「信玄砲」の展示があります(撮影可)。周囲の地形は天然の堀のようにもなっている・・ようにも見えますね。

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yoda 1253

立派な石垣が残っています (2025/10/18 訪問)

1608年から1874年まで270年間威容を誇っていた

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yoda 1253

横着してリフトで登城 (2025/10/18 訪問)

リフトを降りても城跡まで約20分かかります
人質櫓跡にある約10mの高石垣は圧巻です

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yoda 1253

悲運の城 (2025/10/17 訪問)

関ヶ原の戦いを密約によって毛利家と自国を守った吉川広家は岩国に減封され岩国城を築城
その7年後一国一城令により取り壊し

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yoda 1253

毛利元就の支配の象徴 (2025/10/17 訪問)

元就の孫の輝元が聚楽第を参考に築城

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タートル6

城跡の入口付近の標柱 (2025/10/19 訪問)

住宅地を抜けて赤須城跡に着きました。空堀が確認できました。

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岸和田城

甦る岸和田城🏯 日本古城友の会 栢木隆 原画展

岸和田城の記憶を描き出す・・・

📅11/1(SAT)~1/25(SUN)
⏰9:00〜16:00
🎫無料 ※別途、岸和田城入場料が必要

日本古城友の会 栢木隆先生が岸和田城を今に甦らせた原画展を開催します✨

岸和田に眠る城郭遺構や地形を読み解き、正保城絵図などを照らし合わせて完成させた推定イメージ原画18点、現在の復興天守再建時に存在した設計図をもとに描かれた作品3点、その他名城14点の原画を展示します🏯

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カズサン

【信濃 大丸山砦】長野県高森町 松岡氏関連の砦、整備良好 (2025/10/21 訪問)

 久しぶりの城探訪城散歩です、過日ユーチューブを観てましたら大丸山砦の動画が写り、訪ねてみるか?と城郭放浪記さんのブログを覘き、周辺に松岡城の支城群が在り訪ねる事にしました。
 先ずは高所の市田陣屋を訪ねて、南南東約1.2km下の大丸山砦、大丸山公園として整備されている砦を訪ねる。

 住所:長野県下伊那郡高森町下市田2407-1(大丸山公園)
 駐車場:同公園北西隅に専用駐車場有り(35°33'12"N 137°52'17"E h=570m)、5~6台可能、公園内に奇麗なトイレ有。
 参考資料:城郭放浪記さんグーグルマップに依る。

 後から高森町歴史民俗資料館を訪ねて分かった事ですが、大丸山砦・大丸山公園は高森町歴史民俗資料館の直北西上の丘陵上に整備されており、資料館寄りの散策路も有る様な雰囲気です?
 大丸山砦は大空堀跡と曲輪を芝生で整備されて居り、整備が行き届いています、南東下が高森町歴史民俗資料館、北側南側は崖で落ち込んでおり城郭、砦にはもってこいの地形です。
 空堀跡に風雪劣化して居ますが絵付き解説板が有りよく理解できます、大丸山は松岡本城と支城の吉田城山城・吉田本城等の中間に位置し四方の見晴らしがよく見張り所が置かれたと思われる?空堀は長さ30m、幅7m、最深部2.5mと有り、掘った土は曲輪側に盛って土塁に成って居る。(解説板に依る)
 曲輪の西側は芝生整備された児童遊戯施設、トイレだ設置されている、見晴らしよく市田柿が色付き奇麗に実っていました。
 

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イオ

武田五砦めぐり(久間山砦・中山砦・姥ヶ懷砦・君ヶ臥床砦) (2025/06/21 訪問)

(続き)

便宜上、先に鳶ヶ巣山砦の投稿をしていますが、実際には久間山砦→中山砦→鳶ヶ巣山砦→姥ヶ懷砦→君ヶ臥床砦の順に登城しています。

久間山砦(新城市乗本川添)
豊川を監視する位置に築かれた砦で、和気善兵衛宗勝、大戸民部直光、浪合胤成らが守備しました。そういえば、新昌寺には鳥居強右衛門と並んで和気善兵衛宗勝の墓が設けられていましたっけ。久間山砦へは県道から脇道に入り廃小屋脇の案内表示に従って山中に入ります。しばらく行くと道がなくなったので北側斜面を直登して尾根に出て、あとはピンクのテープが巻かれた尾根沿いを西に進んでたどり着きました。尾根の突端には久間山砦の小さな石碑と標柱が立てられていますが、現状では豊川は樹木でほぼ見えませんでした。帰りは北側の谷筋に下りてみましたが、登城口がわかりづらいものの、砂防ダムを目印に行けばこちらからのほうが登城しやすいかもしれません。

中山砦(新城市乗本椎ノ入)
徳川家康が長篠城を攻める際に築いた付城で、長篠の戦いでは五味与惣兵衛貞氏、名和無理之助、飯尾助友らが守備しました。五砦の中で長篠城を最も近くから監視できる重要な位置にあり、土塁や堀切が設けられていたようですが、新東名高速道路により遺構は失われ、砦跡は小さな歴史公園になっています。鳶ヶ巣山砦への林道をそのまま進めば中山砦まで車でも来られるはずですが、林道は狭そうなので、西麓の高速高架下の空きスペースに駐車して212段の急な階段を上って登城しました。歴史公園には中山砦跡や在りし日の鎧掛け松の石碑、医王寺山本陣と同じ造りの物見櫓が建てられています。物見櫓に上ってみると高速道路の向こうに長篠城、右手に大通寺と大通寺山陣地、その奥に医王寺山本陣まで見渡すことができました。

姥ヶ懐砦(新城市乗本姥ガ懐)
兵糧や資材の備蓄場所としての役割を担った砦で、武田二十四将に数えられる三枝昌貞(守友)、三枝守義、三枝守光らが守備しました。別所街道から三枝兄弟の墓への案内表示に従って分岐を進むと防獣柵のゲートがあります。開閉してしばらく行くと小川に沿って階段状に削平された斜面の一角に三枝兄弟の墓があり、その前に姥ケ懐武田浪人組陣地の小さな石碑が立てられています。比定地はしんちゃんさんが訪れた山上と三枝兄弟の墓がある山裾の2カ所あるようですが、山裾は砦の位置としては不自然ながら、物資の備蓄場所としては小川を通じて宇連川につながるほうが便利かな、とも。

君ヶ臥床砦(新城市乗本柿ノ久保)
高所からの眺望と広大な頂部に多くの兵が駐屯できる砦で、和田業繁・信業父子らが守備しました。舟多神社から山頂まで整備された道が続いていて、山頂下は地主さんにより整備された遊具広場になっています。手作り感のあるブランコやハンモック、滑車ロープの遊具に恐竜を模した展望台などもありました。頂部は周囲を帯曲輪や腰曲輪が取り巻き、なるほど多くの兵が駐屯できそうです。頂部には君ヶ臥床和田兵部陣地の石碑が立てられていました。恐竜の展望台からは長篠城は樹木で見えづらいものの、宇連川沿いの眺望が広がっていました。

以上で武田五砦をひとめぐり。続いてはいよいよ長篠の戦いの決戦場、設楽原に向かいます。
 

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赤い城

王佐山城・三谷城 香川県高松市 (2025/09/13 訪問)

城びと未登録の城です。
平和公園の墓地に王佐山城への登城口があります。
ハイキングコースにもなっていて、これからの山城シーズンに向けてウォーミングアップのつもりでの登城でした。

雨上がりで少し滑りやすかったのですが急坂であること以外は問題無く登れます。
中腹まで登ると畝状竪堀群があります。
この城も長宗我部氏により落ちているのでその時代に改修されたものかと。

さらに尾根道を登っていくと主郭部である山頂につきます。
360°のパノラマビューは登った甲斐のある景色でした。
ここから南側のピークも城域でかなりの規模があった城、この日は南側には進まず北東側の尾根を下り、下山しました。
こちらの尾根にも畝状竪堀群があります。

この山、王佐山もしくは上佐山と呼ばれています。
かつては土佐山だったのではないか、とも言われていますが王も上も土の文字に似ている?
長宗我部氏の支配下にあったことを隠す意図があるのかもしれません。

長宗我部氏に攻められる前は植田氏一族の三谷氏の城でした。
王佐山城から北に平時の居館である三谷城があります。
宅地の中にあり、三谷氏の墓もありますが遺構は見当たりません。

【見どころ】
 ・主郭からのパノラマビュー
 ・北東と北西尾根の畝状竪堀群

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