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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征19日目:瑠璃光寺 (2026/05/29 訪問)

古城ヶ岳城が入山禁止の為、攻城計画時間に余裕ができたので、次の攻城先=白水山城に向かう前に瑠璃光寺に寄りました。
古城ヶ岳城から車で15分弱で、瑠璃光駐車場入口(34.189510、131.473454)に着きました。

瑠璃光寺は今回2回目です。1回目は2019年03月14日に来ました。
日本三名塔(奈良県の法隆寺、京都府の醍醐寺、山口県の瑠璃光寺五重塔)のひとつに数えられる国宝 瑠璃光寺五重塔。
室町時代、長門・周防国(現在の山口県)の守護であった24代大内弘世が、京の都を模した街づくりを進めた山口の地で花開いた大内文化の最高傑作と言われています。
付近には萩藩主毛利家墓所、うぐいす張りの石畳み等があります。平日でも観光客で込んでいます。
昼どきでしたので、付近の長州苑(34.189549、131.474057)で瓦そばを食しました。
観光時間は45分(瓦そばを食べる時間を含む)くらいでした。次の攻城先=白水山城に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征19日目:古城ヶ岳城 (2026/05/29 訪問)

右田ヶ岳城から車で30分弱で、林道入口付近(34.203755、131.466404)に着き、路駐しました。

築城年代は不明のようですが、現在の遺構は天正年間(1573~92)以降だといわれています。

県道からダムを渡り、山裾の道を少し進んだ所から作業用林道が切り開かれています。
しかし、入山禁止のよううです。林道入口で撤退しました。
攻城時間は5分くらいでした。古城ヶ岳城が入山禁止の為、攻城計画時間に余裕ができたので、次の攻城先=白水山城に向かう前に瑠璃光寺に寄ることにしました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征19日目:右田ヶ岳城 (2026/05/29 訪問)

車は右田ヶ岳登山者用P(34.081194、131.550691)に置いたまま、勝坂砲台(城びと未登録 山口県防府市)から登山道をそのまま登りました。
勝坂砲台(城びと未登録 山口県防府市)から車で10分くらいで、右田ヶ岳登山口(34.081704、131.550152)

築城年代は定かではないようですが、鎌倉時代末期に右田氏によって築かれたと云われています。
右田氏は大内氏15代大内貞成の二男盛長を祖とし佐波郡右田荘を領していました。なお陶氏はこの右田氏から分流しているそうです。
しかし、天文年間(1532年〜1555年)頃には右田氏の勢力は衰え、右田岳城は奈藤興盛と孫の内藤隆世が城主でした。
1555年(天文24年)厳島の戦いで陶晴賢は毛利元就に敗れ討死しました。
1556年(弘治2年)毛利軍が周防に侵攻すると内藤隆世は右田岳城に右田隆量(重政)・野田長房を城番としました。
城主右田隆量は野田長房と共に籠城したが、毛利元就の勧告に従い降伏し、毛利氏に仕えた。
その後、毛利氏家臣の南方就正が入城し、1569年(永禄12年)大内輝弘が山口に乱入した時には、南方就正がこの城より出撃し、大内輝弘を撃退しました(大内輝弘の乱)。
その後の歴史は不明のようですが、江戸時代初期頃には廃城となったようです。

勝坂ルートは、途中で尾根ルートと本ルートに分かれています。尾根ルートは遠目で見てきつそうな感じがしたので直登コース(本ルート)を選択しました。
直登コース(本ルート)、ロッククライミングみたいなルートです。
ロープは張ってありますが、ロープのところどころがすり減って細くなっており、切れそうで少し怖いです。
ロープで登っていきましたが、軽い高所恐怖症の自分は岩の上で足がすくみ、すこし震えており下が見れません。
恐怖で南ノ峰手前で登城を断念しました。下山も大変でした。
攻城時間は100分くらいでした。次の攻城先=古城ヶ岳城に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征19日目:勝坂砲台(城びと未登録 山口県防府市) (2026/05/29 訪問)

次の攻城先=右田ヶ岳城に行く前に、防府天満宮の観光と勝坂砲台(城びと未登録 山口県防府市)を攻城しました。
防府天満宮から車で10分くらいで、右田ヶ岳登山者用P(34.081194、131.550691)に着きました。
そこから、説明板(34.081422、131.550340)は50m先です。勝坂砲台(城びと未登録 山口県防府市)はコンクリート壁の上です。

1863年(文久3年)萩藩主毛利敬親が萩城から山口城へ居城を移すに伴い、山陽道から山口に至る街道を押さえる為に設けられた砲台で、道の東西両脇に設けられていました。
明治期以降、いつまで砲台が供用されていたかは不明のようですが、1870年(明治3年)の長州藩での脱退騒動においては砲台周辺が激戦地となっていたそうです。

勝坂砲台は国道262号線沿いにあり道路の東側のコンクリート法面に説明板が設置されています。
砲台の遺構としては石垣と土塁が残っていました。
説明板の脇にある右田岳に通じる登山道沿いに石垣が転々と残っています。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=右田ヶ岳城に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征19日目:防府天満宮 (2026/05/29 訪問)

次の攻城先=右田ヶ岳城に行く前に、防府天満宮の観光と勝坂砲台(城びと未登録 山口県防府市)を攻城しました。
敷山城から車で20分(途中、工事中&道の間違えで時間がかかってしまいました)くらいで、防府市まちの駅うめてらす駐車場(34.061143、131.573778)に着きました。
そこから、防府天満宮石鳥居(34.061345、131.573966)まですぐです。

道真が亡くなった翌年である904年(延喜2年)に創建され、「日本最初に創建された天神様」を名乗っています。
かつては「松崎天満宮」・「宮市天満宮」あるいは単に「天満宮」と称していたが1873年(明治6年)に近代社格制度のもとで県社に列格し、松崎神社と改称。戦後の1953年(昭和28年)には防府天満宮と再び改称しました。
道真が宮中での権力争いで失脚し、九州の大宰府に流されていく道筋での宿泊地の一つが防府とされており、京都の北野天満宮、福岡の太宰府天満宮と並んで、日本三大天神と言われています。

道真は学問の神とされているため、ここで筆を買ったり、受験のお守りを買う若者の参拝も多いようです。
防府天満宮の参拝で菅原道真公を祀る代表的の天満宮=日本三大天神(京都の北の天満宮、福岡の太宰府天満宮、山口の防府天満宮)を制覇しました。
観光時間は25分くらいでした。次の攻城先=勝坂砲台(城びと未登録 山口県防府市)に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征19日目:敷山城 (2026/05/29 訪問)

徳山駅でレンタカーを借り、そこから車で40分くらいで、説明板前駐車場(34.080485、131.597058)に着きました。

敷山城跡は南北朝時代、もともと敷山験観寺という山寺を急遽、城として転用したもののようです。
南北朝時代に足利尊氏が九州から反転して湊川の戦いで楠正成に勝利し上京、天皇が逃げた比叡山攻略に取り掛かります。
1336年(延元元念)後醍醐天皇に呼応し南朝方についた周防国衙の役人であった摂津助清尊、教乗、小笠原長光や大内弘世の叔父・大内弘直などが立てこもります。
しかし、足利尊氏の一族・上野頼兼の大軍に攻められてわずか10日あまりで落城しました。

遺構として石垣があります。また、遺構ではありませんが、竪堀のようなものも見られました。
鎌倉期に造られた梵字岩は見所の1つです。また山頂からは防府市が一望できます。
攻城時間は45分くらいでした。次の攻城先=右田ヶ岳城に行く前に、防府天満宮と勝坂砲台(城びと未登録 山口県防府市)に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征19日目:勝栄寺 (2026/05/29 訪問)

宿泊先のホテルの朝食前に、勝栄寺を攻城しました。
新南陽駅から徒歩5分くらいで、勝栄寺土塁入口(34.070343、131.765558)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、1350年(正平5年・観応元年)頃に陶弘政によって築かれたと云われています。
陶弘政は富田保を領して陶氏館に住んだ大内氏の重臣で、勝栄寺の開祖となり、開山は其阿上人によるものだそうです。
厳島合戦で陶晴賢を敗った毛利元就は、1557年(弘治3年)大内氏の本拠である周防・長門の平定に乗り出して、勝栄寺に陣を構えました。
「三本の矢」で著名な三子教訓状はこの地で書かれたものとされています。

現在、勝栄寺周囲に土塁だけは残っています。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=敷山城を攻城する前に、ホテルに戻って朝食を食べました。

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天守無しがアツい

函館空港✈️ (2026/07/04 訪問)

志苔館から1.5kmほどの場所に函館空港がある✈️
というか…ここから見える飛行機が超圧巻🫢🤩😳
こんなに間近で走る飛行機初めて見たーみたいな

写真撮り逃したのが惜しくなるくらい😂
振り返れば…史跡よりもこっちの方が見ものかもしれないくらい✈️

橋を渡って…右に曲がってから…トンネルを通る
車一台やっと通れる大きさの🚗
左側に歩道はあるものの…トンネルの長さは700mくらい

薄暗くて…車の走行する音に悩まされながら歩くため…メンタルやられると言えばやられる…

現に私は常に後ろを振り返りながら向こうまで歩いた…後ろからなんか来そうな気配が常にしたから😱

トンネルを抜けると一安心…空港の滑走路が見えてくる✈️まるで空港を裏側から見てるよう☺️

空腹を覚えたので…2階レストランで…ひこま豚丼を食べてみる🐷それから搭乗口にチェックイン…志苔館および函館に別れを告げた

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朝田 辰兵衛

台風一過のムシ暑さ…☼ (2026/06/28 訪問)

なんとか大阪までたどり着きましたが,台風一過のムシ暑さにカラダがついて行きません。朝は,右足のふくらはぎがツリました。この日は大阪で所用もあったので,手ごろな城にとどめました。
まずは,天王寺城。

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北ノ庄城 (2026/07/09 訪問)

 近くまできたので寄ってきました。柴田勝家によって築かれた城で、城びとには未登録です。賤ヶ岳の戦いで羽柴秀吉に敗れた勝家が妻であるお市の方とともに自害した城でもあります。柴田公園として整備されています。

 昼飯は福井駅近くの「あみだそば福の井」さんで越前おろしそばをいただきました。

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本願寺第八代蓮如上人 (2026/07/09 訪問)

 文明3年(1471)本願寺第八代蓮如が北陸の布教の拠点として建立しました。しかし文明7年(1475)蓮如は吉崎御坊を離れ、その後、永正3年(1506)朝倉氏によって吉崎御坊は破却されています。跡地には高村光雲作の蓮如像が立っています。
 

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トク

15【秀長の因幡平定をたどる④】太閤ヶ平(豊臣秀吉陣跡) (2026/05/16 訪問)

秀長の陣跡からさらに歩き続ける事20分、ついに本陣山山頂(標高252m)の秀吉陣跡(太閤ヶ平)へ到着しました!(写真⑧)。

太閤ヶ平は、一辺50mの方形に高さ5mの土塁に囲まれ、さらに土塁→堀→土塁→堀と、二重の土塁と堀に二つの櫓という構造で築かれていたようです(写真⑥縄張図)。今はだいぶ風化しているので1~2mくらいしかないですが、当時はもっと高い5m程の土塁ともっと深い堀で、さらに土塁の上には塀が作られ、二つの櫓からは久松山まで監視できた、かなり強固な陣城であったようです(写真①②は虎口と土塁、写真③は土塁と堀、写真④は居館跡)。

秀吉は経家が、文武を備えかつ民をも思う立派な武将である事に気づいていました。よって降伏すれば、経家と城兵と民の命は全て保証すると、何度も手紙を書いて送ったそうです。しかし、さすが毛利の重臣である経家は断り、自分の命と引き換えに城兵と民の命は必ず救ってほしいと言い残し、切腹したそうです(享年34)。

木々の隙間からは、久松山(鳥取城)が見えました(写真⑦)。当時は木々などなかったので、もっとよく見えたと思います。久松山をぐるりと取り囲み、経家に手紙を送り続けた秀吉は、どんな思いでここからあの久松山を眺めていたのでしょうか? きっと経家を本当は、自分の家臣にしたかったのではないでしょうか・・・🤔。

太閤ヶ平で休憩・散策しながら30分過ごした後は、先人方の情報を参考に、東照宮を目指し舗装路を1時間20分かけて下りました。下りなので一見楽そうですが、下りのアスファルトの固い地面は疲れた足に結構きました(笑)。下りた先の東照宮で登山の無事に感謝し、休憩を兼ねてその前にある「鳥取市歴史博物館(やまびこ館)」を無料だったので見学しました。でも予想に反しここは必見です! 鳥取城の戦いの様子がジオラマや資料で詳しく解説されていて、また鳥取城の歴史や池田家の事なども詳しく展示解説されていました(写真⑨)。

最後に、博物館の前にあったバス停(くる梨赤コース)から、鳥取駅に戻りました。鳥取駅を9時に出発し、16時に鳥取駅に帰着。私は健脚でなくゆっくりペースで寄り道も多いので結局7時間もかかってしまいましたが、攻めきったぞ~!(=歩ききったぞ~!)と大満足の鳥取城攻めでした😊(コースは前回図⑧参照)。

鳥取駅から16:25発の智頭急行「特急スーパーいなば6号」岡山行に乗り、駅で有名なお土産「因幡の白うさぎ」を買って車内で食べました。さすがお土産全国NO1と書いてあった商品です。ほどよく甘い味がビールにもよく合い、疲れた体を癒してくれました😊(写真⑩)。

次は、秀吉・秀長が毛利本軍と対峙した「備中高松城」へ向かいます。
 

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イオ

尼子城(滋賀県犬上郡甲良町尼子) (2026/01/04 訪問)

尼子城(城びと未登録)は、南北朝期に佐々木高久が築いた城館で、高久は地名から尼子氏を称しました。その後、高久の嫡男・詮久が尼子館を継いで江州尼子氏の、次男・持久は出雲国守護代となって雲州尼子氏の祖となりましたが、江州尼子氏はやがて没落し、尼子城も廃城となったようです。

在士館から徒歩で登城しました。城跡のほとんどは住宅地と農地になっていますが、竹藪の中に遺っていた土塁と堀が土塁公園として整備されています。土塁は北から南に二度の折れを設けてのび、その外側に横堀が続いています。土塁に施された石積みは公園整備によるもので、堀幅も往時より狭くなっていると思われますが、こうして明瞭に土塁と堀が見られるのはありがたいことですね。公園内には尼子氏の城(館)跡の土塁公園の説明板、尼子氏発祥の地の看板も立てられています。

土塁公園の周辺にも尼子城の痕跡が見られます。土塁公園から西に約150mの殿城池は尼子城の堀跡とされ、案内表示と説明板が立てられています。殿城池の祠には尼子城落城時に入水したとされる八千姫が祀られ、姫の後を追って入水した侍女・お園を憐れんでお園堀とも呼ばれているようです。かつては殿城池の西側から北に堀が続いていたようですが、通り沿いの幅広い水路は堀の名残でしょうか。また、土塁公園から北西に約80mの住泉寺西側に続く竹藪は土塁跡と思われます。

在士館のすぐ近くだし、ついでに…程度の軽い気持ちでしたが、土塁公園も殿城池も思いのほか見応えがありました。在士館とあわせてどうぞ。
 

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赤い城

山中幸盛屋敷跡、奥都城 島根県安来市 (2026/06/28 訪問)

新宮党館跡の周辺には毛利元秋や堀尾忠氏の墓などいくつか史跡があります。
そのうちいずれも城びと未登録の山中幸盛屋敷跡と奥都城に立ち寄りました。

山中幸盛屋敷跡は駐車場からすぐ、民家の脇に登城口があります。
少し登ると獣避けの柵があり、開けて入りました。
ここにも訪問ノートがあったので記帳しておきました。
山中幸盛の生誕地、綺麗に整備されていて建物の礎石があります。

ここから少し歩いたところに奥都城があります。
新宮党の城で尼子氏一族の墓所があります。
裏手に回り少し登ってみましたが山頂部まで行くのは自重しました。

ちなみに新宮党館他尼子氏の拠点があるのは今は安来市になっています。
どじょう掬いの安来節で知られています。
問題は読み方、多くの人は「やすき」と読まれますが正確には「やすぎ」、濁ります。
間違えないで欲しいな〜、と。

【見どころ】
 ・整備された山中幸盛の屋敷跡
 ・奥都城にある尼子氏一族の墓所

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蜻蛉切

柳之御所跡 (2026/07/03 訪問)

毛越寺と中尊寺と義経堂とまわって、柳之御所跡を見て来ました。奥州藤原氏の居館跡です。常滑や渥美、愛知県域の窯跡からもたらされた甕や器が出土してるのが印象的でした。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征18日目:寺山城 (2026/05/28 訪問)

生城山城から車で10分弱で、東広島市内中集会所入口(34.496893、132.697100)に着きました。
そこから、寺山城跡入口(34.498227、132.699034)まで徒歩2~3分くらいで着きます。

寺山城は石井氏によって築かれ、桓武平氏の出である名越太郎が元弘年間(1331~1334)に志芳荘に移り住み石井氏の祖となったとされています。
大内氏に属して各地で活躍したが、1554年(天文23年)陶晴賢について岩見津和野に出陣中の留守を陶晴賢と断交した毛利元就によって攻められ落城したそうです。

寺山城跡入口付近で撤退です。
計画ミスのリカバリ(当初3時間)要の残り20分を寺山城でリカバリしました。リカバリは完了しましたが、何か空しいです。
千葉県から遠征してきているので何度も来れないので、なるべく多くのお城攻城と思っていますが、城跡入口付近の撤退って意味があるのか疑問です。
攻城時間は10分くらいでした。本日の城巡りは、ここがラストです。
本日の宿泊先に向かう為、西条駅でレンタカーを返却した後、西条駅からJR山陽本線を利用して徳山駅に向かいました。
歩行歩数=32978歩、歩行距離=23.0Kmです。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征18日目:生城山城 (2026/05/28 訪問)

八条原城から車で10分弱で、光源寺入口(34.486096、132.674757)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、戦国時代に天野興定によって築かれたと云われています。
天野氏は代々大内氏に従っていましたが、興次の子興定のとき、尼子氏が安芸に侵攻すると、他の諸将とともに尼子氏へと移りました。
1524年(大永4年)大内義興・義隆父子は安芸に侵攻し、陶興房が米山城を取り囲みますが、毛利元就が仲介となり、天野氏は米山城を明け渡し和睦となりました。
その後、興定は陶興房とともに各地を転戦し戦功をあげ、間もなく米山城に復帰しました。
大内義隆が陶晴賢に討たれると毛利氏に従って厳島合戦に従軍し、尼子氏の出雲国富田城攻めでも軍功をあげました。
1569年(永禄12年)天野元定は筑前国立花の陣で病を発し帰国後病没。元定には嗣子なく毛利元就の七男元政を養子として迎えました。
関ヶ原合戦後、防長二ヶ国に減封となった毛利氏に従い、はじめ周防国三丘、後右田へ移り16,000石余りを領し、毛利氏に復姓して右田毛利氏の祖となったそうです。

説明板と光源寺の写真を撮って撤退しました。
計画ミスのリカバリ(当初3時間)要の残り1時間20分を生城山城で1時間リカバリしました。残り20分です。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=寺山城に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征18日目:八条原城 (2026/05/28 訪問)

槌山城から車で30分弱で、志和神社鳥居前(34.490947、132.642626)に着き、そこに路駐しました。

1868年(慶応5年/明治元年)戊辰戦争が勃発すると、広島藩は戦乱の拡大と外国の干渉など、不測の事態に備えて、秘密裏に志和の地に築城することを決定しました。
築城は急ピッチで進められましたが、戊辰戦争の沈静化によって、築城は中止され、城地や施設は払い下げられました。
城地は払い下げられた後、現在は志和神社やJA広島志和ライスセンターとなっています。

志和神社の参道に案内板と石碑があります。
当初の予定では、西条駅でレンタカーを返却した後、徒歩5分ちょっとの教善寺山門前(34.431750、132.744191)に行き、八条原城(移築建物)を見る予定でしたが、これも中止です。
計画ミスのリカバリ(当初3時間)要の残り1時間40分を八条原城で20分リカバリしました。残り1時間20分です。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=生城山城に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征18日目:槌山城 (2026/05/28 訪問)

松尾城から車で35分くらいで、長寿の森駐車場入口(34.393704、132.653558)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、南北朝時代に大内氏によって築かれたと云われています。
1523年(大永3年)鏡山城が尼子経久によって落とされると、1525年(大永5年)以降、大内氏の拠点は杣城(曽場ヶ城)、その後槌山城に移されました。
1543年(天文12年)大内氏は守護代の弘中隆兼を槌山城に派遣し、1550年(天文19年)頃まで槌山城を本拠として芸備両国を支配していました。
1551年(天文20年)陶晴賢が大内義隆を討ち大友家より義長を迎えると、これに従わない菅田氏を陶晴賢の命を受けた毛利隆元に攻め落とされました。
1555年(弘治元年)厳島合戦で陶晴賢を滅ぼした後は、小早川氏が管理していたが、「当国守護山」ということで、毛利氏に移管されたそうです。

長寿の森駐車場到着時、攻城計画書に到着時間を記入した際、計画書の到着時間と出発時間の時間が逆転していることに気が付きました。
3時間も出発時間が早くなっていました。計画変更時、エクセルでコピーミスをしたようです。
予定では駐車場から、登城口/説明板(34.393965、132.654606)に向かい、山頂まで遊歩道を歩き槌山城攻城後、鬼ヶ丸城(城びと未登録 広島県東広島市)に徒歩で行くつもりでしたが予定変更です。
槌山城は登城口で引き返し、鬼ヶ丸城(城びと未登録 広島県東広島市)の攻城は断念しました。
3時間をリカバリする為には、この後の攻城予定も変更が必要です。
何としても、西条駅から徳山駅へ向かう電車に間に合わせなくてはいけません。
計画ミスの3時間を槌山城と鬼ヶ丸城(城びと未登録 広島県東広島市)で1時間20分リカバリしました。残り1時間40分です。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=八条原城に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征18日目:松尾城 (2026/05/28 訪問)

木村城から車で35分(ナビがすごく狭い道に誘導する為、到着に時間がかかった)くらいで、空スペース(34.343809、132.814264)に着きました。
そこから、登城口(34.344904、132.813219)まで徒歩2~3分くらいです。

築城年代は定かではないようですが、永禄年間(1558年~1570年)戦功を挙げた 竹原小早川家の家臣行友光叔の居城だったそうです。

現在城址には曲輪や堀切のほか、石垣などの遺構も確認することができます。
城壁に大きな岩が活用されています。
攻城時間は45分くらいでした。次の攻城先=槌山城に向かいました。

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