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9月の城巡りは北海道♪ (2026/09/16 訪問)

毎月、都道府県を決めて、その県にある日本100名城・続100名城を巡るという私のライフワーク「名城を巡る旅」、9月は私の地元、北海道です。
今年の2月から城巡りを始めてからは地元から近い東北(青森・岩手・秋田・山形)を攻めていきましたが、一番近い地元エリアは歴史好きの娘が帰省する時、一緒に巡るために残していました。
9月に予定通り娘が帰省したので函館空港に迎えに行きました
今回訪れた「志苔館」は空港から非常に近く、車で数分の場所にあるので、娘を迎えたその足で直接向かいました。
志海苔館は函館にある、中世の館跡で、海岸段丘の上に築かれた国指定史跡です。
当時、アイヌと和人が激しい戦いを繰り広げた道南(北海道の南エリア)十二館の一つになります。
土塁と空堀の地形がよく残っていて、高台から津軽海峡や函館山を望む眺望が美しいのが特徴です。
続日本100名城スタンプは、志苔館内にある「あずまや」に置いてあります(24時間)
ちなみに、上下が判り難く試し押しの紙もなかったので、娘は横向きに押してしまいました。
それを見て私は慎重にスタンプ面を見て万全の態勢で押したのですが、結果は上下逆さまになっていました。
これから行く方は、くれぐれも気を付けてくださいね(*^-^*)

ここからは例によって選んだ写真に沿って説明をさせていただこうと思います。。
① 毎回1枚目は、私の勝手なこだわりで御城印と決めています。函館市の公式観光サイトや施設ページでは御城印の販売はしていないとのことでした。あきらめきれない私は函館市役所観光課に直接電話をして聞いたところ、正式版(市がやってるもの)ではないものの、何と、長野県青木村にある「道の駅 あおき」にて販売しているらしいと聞き、直接、電話で問い合わせてみたところ販売していました! ただ、郵送する場合、宅急便での配送になるので御城印代2枚(娘の分も)で2000円以上掛かるとのことでしたが、長野に買いに行くことを思えば安いもんです。そんな流れで手に入れた私にとって宝物のような御城印です。先に入手しましたが、ちゃんと訪れてから登城日を記入しましたよ(^o^) それにしても北海道の御城印が長野にしか売ってないとはどういうことなんでしょうね? でも、赤い大きな文字が目立ち、何かよく分かりませんが緑の家紋風の図柄と植物の意匠が使われていて、なかなかカッコいいデザインだと思いました(攻城団のページに同じのがありました)
② 写真の2枚目には「この城を代表する景色」と決めています。今回は「志苔館の入口にある石碑と案内板」にしました。函館市の案内ページでも城の入口として案内されていますし背後の外周の土塁も特徴的で、良い構図だと思います。
③ 「西側の土塁の上から主郭部を見下ろした」写真です。周囲を低い土塁がぐるっと囲み中央に主郭を含む平坦地があります。志苔館は主郭の周囲を土塁と空堀で囲んだ構造ですが、その様子が解かりやすいですね。
④ これは「空堀と木橋」です。薬研状の空堀を降りて底から木橋を見上げて撮りましたが、このアングルかなり気に入っています!(^^)!(自画自賛)
⑤ 前の写真で空堀の底から見上げた橋を今度は土塁の上から少し斜めに撮ってみました。前の写真と合わせると空堀と木橋の造りがイメージしやすいです。海側の眺望(津軽海峡)・土塁・空堀・木橋が一つのフレームに収まった構図です。
⑥ 志苔館の見どころの一つ「二重堀切」です。海岸段丘の縁にある館跡ならではの丸く盛り上がって海に向かってうねるような土塁が印象的です。
⑦ 北東の土塁の上から主郭内部を一望。井戸の跡や建物跡が確認できます。正面に津軽海峡、右奥に函館山と市街地が見えています。
⑧ 左右に盛り上がっている土塁の切れ目は門跡です。門に向かって規則的に並ぶ低い円柱は発掘で確認された建物跡や柵跡の位置を示しています。何より、この写真の気に入ってる部分は土塁の切れ目(門跡)から見える海と函館山です♪
⑨ 主郭北東部から門跡と二重堀切方向を撮った写真で、発掘で確認された建物跡の柱穴や区画の位置が判りやすいです。正面の土塁は内側から見るとそうでもありませんが、郭外から見るとかなりの迫力です。土塁の切れ目から見える海は津軽海峡です。
⑩ 郭内の写真が多かったので最後は門跡を出て土の厚みが伝わる土塁の写真で締めくくりたいと思います。主郭を守る力強い土塁ですが、土塁の下にさらに土塁がある二重構造になっているのでアイヌ軍もさぞかし攻めあぐねたのではないでしょうか?(結局、アイヌに攻め落とされましたが)

娘も函館空港に着いてすぐ歩き周ったのに疲れた様子も見せず楽しんでくれて、楽しい時間を過ごすことができました。。
意外にコンパクトだったので30分ほどで見学できました。

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み。

会津若松城🏯 (2026/09/22 訪問)

戊辰戦争を耐え抜いた歴史の重み、守りの堅さを感じさせる石垣の数々。大好きなお城です🏯

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にのまる

飯田線城めぐり (2026/08/31 訪問)

高遠城見学後、時間の余裕がまだあったので木ノ下で途中下車して箕輪城に行くことにしました。
以前、福与城に行った際に駅の反対側に箕輪城があるのに気がつかず(城めぐアプリの3,000城には登録されていない)、よりによって飯田線でこんなミスをするなんて😢と残念な気持ちになったことがありました。

箕輪城は養泰寺の後背の墓地で、養泰寺の史跡碑には「木下陣屋跡城山」とあります。
墓地の入口に箕輪城の案内が立っていたので入らせていただくと、墓地を囲むように土塁と堀跡がありました。一旦外に出てぐるりとまわると大きな堀に入ることができ、かなり驚きました。現在でも墓地を守るという役割を持った現役の堀と土塁でした。

で、このあと飯田線で帰途についたのですが、辰野〜川岸間で倒木が確認されたため、乗っていた列車が辰野で打ち切りになりました。時間的、情報的に、箕輪城に寄らなかったら乗っていたはずの列車の運転士さんが倒木を発見されたと思われます。(当該列車の運休なし)
この状況、都市部だとちょっとした騒ぎやパニックになるかと思うのですが、乗っていたお客さん、誰一人騒がず、みなさん“仕方ないよね”という雰囲気。辰野はJR東海と東日本の境界駅で(駅管理は東日本)、東海の情報が入らない中でも駅員さんに詰め寄る人はいません。
岡谷行きの代行バスを用意してくださったのですが乗車定員が限られており、駅員さんの「あずさの特急券を持っている方優先にご協力ください」の呼びかけにも、我れ先にという人はおらず譲り合い。飯田線の客層、どれだけいい人たちなんでしょう!
私はというと、1時間ちょっと待てば辰野支線が来るから塩尻まわりで帰ればいいかぁとのんびり。何年か前にわざわざ大八廻りをしに来て以来の辰野支線ぐるりで帰りました。

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あ

伊井城(滋賀県高島市、城びと未登録) 強い気持ちでまっすぐ進め (2026/09/23 訪問)

 六角高頼が将軍足利義尚の近江遠征に備えて、北国街道(西近江路)を封鎖するために築いたとされています。比高360mと結構な高さです。スキー場がある函館山から東に続く尾根上の小さなピークにⅠ郭があり、東側に下っていく尾根にⅡ~Ⅳの郭が並んでいます。城域は、東西約80m、南北20m。尾根は硬いチャートでできており、南北はかなりな急斜面です。一番の見どころはⅠ郭背後の堀切と土橋、そして、琵琶湖方面の眺望です。先人のレポートでも城域の整備と眺望を絶賛されてます、が、月日は経ち、木々の成長が整備を上回ってきてます。Ⅰ郭の堀切・土橋までは、Ⅰ郭背後となる、西からの進入路が切り開かれていますが、Ⅰ郭自体は薮化してます。登城道に面した説明板脇からのⅢ郭進入路(当時の縄張りのよう)およびⅢ郭も切り開かれていますが、展望の中央の木が大きくなっていて残念。でも、西側からのⅠ郭に向かう進入路開削はかなりな作業量と見受けられ、また、登城道もしっかり確保されており、頑張っておられる感があります。
 伊井集落内に説明板があります(写真7,8)。写真8のしゅうしの池観察路・案内図を頼りに写真9の登城口を探そうとしたのですが、案内図設置後、図示された矢印や表示が全撤去されており、害獣フェンスが設置されるなどして、何がなんだか状態になりました。肝心の池も見えなかったし。1時間くらい麓を歩いて、登城口の標柱を見つけました。結局、説明板のところから気持ちを強く持って真っ直ぐに進めばよかった。ちなみに、登城路の終盤に「キリタテ」という表示板があり、「切岸」のことか、城域は近いか、と思ったのですが、単なる地名でした。そこから城域までまだまだあり、ぬか喜び。
 にのまるさんの麻田陣屋石碑の変遷(定点観測)解析、感心しました。イオさんの和歌山城扇の芝変遷も良いですね。それから、トクさんの秀長をたどる旅31回、ご苦労様でした。興味深く拝見しました。古本市で、戦国九州軍記(学研歴史群像シリーズ)を見つけ、戦国期の九州のあり様を読み始めました。

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ニコ・ロビン

100名城の11( ・᷄ㅂ)🏯二本松城🌲🌲 (2023/05/25 訪問)

中世の名城🏯( ・᷄ㅂ)憧れの二本松城🌲🌲
福島には名城があるなぁ
室町時代から残る名城🏯
二本松、伊達、蒲生、上杉、加藤と名将のゆかりの城🏯
復元された箕輪門も、並の天守よりも美しく迫力もあって、山の上の天守台も立派✨山の上の天守は凄い眺めだったろうなぁ

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ニコ・ロビン

100名城の30( ・᷄ㅂ・᷅)高遠城🌸 (2018/04/11 訪問)

弘前城🏯吉野山⛰️と並ぶ桜の名所🌸高遠城🌸
タカトオコヒガンザクラ🌸が満開後の散り始め
それでもまだ花が舞い、池は桜色に染まる🌸
桜も素晴らしいが、城も素晴らしい戦国の武田の山城!
真田丸の第3話に出た信州の名城!
あまりに桜に目が行き過ぎるから、改めて行ったら、また緑も綺麗だった( ・᷄ㅂ・᷅)わ

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ぴーかる

鷹尾城 (2026/09/20 訪問)

【鷹尾城】
<駐車場他>駐車場はなし。登城口に2台程スペースはある。駅前のコインPに停めました。「エコロパーク西山町第1駐車場」が安い。
<交通手段>車

<見所>堀切・竪堀・(空堀)
<感想>日帰り近隣の行っていない城 穴埋め旅1城目。3ヶ月ぶりの城攻め。シルバーウィークに宮城県と福島県の旅行を計画していましたが、台風の接近で無念ですが中止しました。仕方ないので日帰りで行ける所と言っても、自宅周辺の城びとフラッグはほぼ行ってしまって、もうほとんど残っていない。今回の近場3城、もう穴埋めしとこうということで行ってきました。
 鷹尾城は1511年に瓦林正頼によって築城されました。瓦林正頼は城びと登録城では瓦林城・越水城を築城しています。また瓦林正頼は最後の管領ともいえる細川高国の麾下にあったので、高国の指示のもと敵対する細川澄元側の赤松軍を押さえるのに築城させたと思われます。築城直後に鷹尾城の南麓の芦屋河原で合戦が行われます。
 登山口から途中写真を撮り撮りのぼって私の足で40分弱で着きます。あとで登山ルートも当時のままかどうか分からないと知って、城跡の石垣も後世のものだし、途中の落ちてる矢穴石もこの石垣の為のものでしょう。城跡は主郭の南下段に小さい段曲輪があります。主郭は比較的小さくTV塔が建っています。主郭の北側に堀切がしっかり残っています。堀切のさらに北側に2重横堀があるのですが、先達方の記述通りどうも戦時中の塹壕のようでもあり、そうでないようでもある。2重横堀の北側に鉄塔が建ってる2郭があります。主郭の北側に西に落ちる竪堀、2郭の南側に東に落ちる竪堀がそれぞれ付いています。これは当時のものに見えました。2郭の北側先は、尾根道が続いて、北の出曲輪らしき場所に巨石がたくさんあります。ここまでが城跡の主要部だろうという感じをうけました。
 さて2重横堀の私の見解ですが、戦時中の塹壕っぽい気がします。Wikipediaを読まなければ知らずに凄い横堀と思うのでしょうが、戦時中高射砲台があって塹壕で曲輪を潰されているとの記述があるのでそうなのかなあとも思いました。東側の長い繋ぐ土橋の高さはそんなに変わってなさそうなので当時はどんな縄張りであったろう。

<満足度>◆◆◇
<グルメ>この日は行っていませんが、奈良の有名店である彩華ラーメンの系列店で「やまとラーメン」はお勧めです。10回以上はココ行ってる。

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翡翠

観月会 (2026/09/25 訪問)

今日は朝一姫路城に登城しました。シルバーウィークよりは、ゆっくり見れました。今まで何回行っても知らなかった、天井の柱に字が掘ってあったりして、新たな発見でした。先ほど、ちょっと行って来ました。琴の演奏などいろいろありました。地酒やヤマサの天ぷらなど出店されてました。5枚目の写真はリの一渡櫓の籠などが展示してある所から外を見た写真です。これも、今まで見た事がなかったです。今回は4日間合わせて約96000歩歩きました。

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ニコ・ロビン

100名城の10( ・᷄ㅂ・᷅)山形城🏯 (2024/04/23 訪問)

奥州の名城山形城🏯
大きいと思ったけど、姫路よりも広い面積全国5位らしい( ・᷄ㅂ・᷅)なるほど
歩くだけで大変だ
最上の城( ・᷄ㅂ・᷅)凄いな
慶長出羽合戦の本城に相応しいな!この大きさは
お昼は、食べてみたかった名物鳥そばの名店
山形一寸亭🐔コリコリと固めの鳥と蕎麦の相性が良く、コレは美味い

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ニコ・ロビン

100名城の9( ・᷄ㅂ・᷅)久保田城🏯 (2024/04/23 訪問)

その日の内に秋田城も見に行きたかったから、駆け足で広い公園を回った感じ( ・᷄ㅂ・᷅)それでも2時間はかかるなぁ
遠いし、最近は熊🐻も出るし、中々気軽には行けないけど、
今度は近くに泊まって、ゆっくり見に行きたいなぁ
きりたんぽも食べず( ・᷄ㅂ・᷅)…

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翡翠

大阪城 (2026/09/24 訪問)

今回大阪城22日に行ったのですが、登城出来ず、券を買うのに3時間くらいかかりそうなので、周りだけまわって姫路まで帰って、24日に始発の新快速でまた、リベンジ、1番に並びました。24日は大手口多聞櫓と千貫櫓の特別公開をしていたので、これも合わせて見ることが出来ました。とても、ラッキーでした。さすが、石垣はびっくりするくらいでした。24日は可愛い猫ちゃんが天守近くにいました。

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赤い城

織田信雄が改修 (2026/08/13 訪問)

夏休みは相方の伊勢神宮要望に応えて伊勢路を訪れました。
初日は外宮を参拝したあと田丸城へ。
北畠氏の本城として伊勢の中心となった城、戦国時代には信長が支配し、信雄によって改修されました。

まずはスタンプ、村山龍平記念館で押印しました。
続100名城は51城目です。
ここでパンフレットもいただきました。
午後の登城でしたが内堀の大賀ハスもまだ咲いていました。

大手門から登っていき、移築現存の富士見門から本丸虎口へ。
さらに城山稲荷神社が建つ北の丸を見学して本丸へと向かいました。
途中の空堀には「後で降りてみよう」と思いながら進みます。
本丸虎口から天守台へ。
石段がついていて穴蔵がある古い形式のものです。
登ると田園風景を望み気持ち良かったです😊

しばし風景を楽しんで二の丸へ。
間には堀切が切られ土橋がかかります。
二の丸の先には搦手、外枡形となっていてここでは中世の香りを感じることができます。

二の丸の虎口を見学し、もう一度大手門に戻り北の丸の空堀を見に行きました。
北の丸は堀に囲まれ、土塁も高く見応えありました。
本丸との間まで行って見学終了。
三の丸も散策したかったですが夕刻となっていたので退却しました。

【見どころ】
 ・本丸虎口
 ・天守台
 ・搦手の外枡形
 ・二の丸虎口
 ・北の丸の空堀

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三浦の晃ちゃん

転用石 (2026/09/22 訪問)

約三十年振りの訪問でした。前回は、気にしなかった転用石が、たくさん見つかりました。天守閣脇に咲いていた桔梗の花が綺麗でした。明智光秀の家紋だったような気がして、意味深だなと思いました。

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朝田 辰兵衛

金田城散策2/2(一ノ城戸~南西角石塁~城山山頂) (2026/09/20 訪問)

ブラタモリでタモリさん一行が一ノ城戸をロケしたとき,大吉戸神社の船着場にボートを着岸させています。せっかくなので一ノ城戸から下がって確認を…。二ノ城戸で遭遇したご夫婦が,実はガイドを伴いカヤックでこの船着場に来ていたことが判明。
そういえば,石塁ルートを進んでいるとき,カヤックが入って行くところが見えました。
チャンスと思い,私のほうがガイドさんにいろいろと質問しました…<笑>。
一ノ城戸の水門の場所,ここから山頂まで険しいルートで行くべきか,来た道をビングシ山まで戻るべきか…とか。結果,ビングシ山まで戻る判断をしました。前日まで雨が降っていたので,正解でした。
そうそう,一ノ城戸から大吉戸神社の間に木橋があります。ちょっと揺れます。苦手な方にはおすすめできません。
南西角石塁や城山山頂に向かわれる方はとても少ないです。私の他に,そもそも登山目的のご夫婦しかいませんでした。カヤックのご夫婦とは違う方です。
城山山頂自体が石塁で,少し下ってから離れて撮りたかったのですが,足元の岩がひとつでも崩れたら200mは滑落するような危険な場所でしたので,断念しました。登山上級者の方は試してみてください。

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朝田 辰兵衛

金田城散策1/2(東南角石塁~三ノ城戸~二ノ城戸) (2026/09/20 訪問)

ようやく金田城のリベンジです。ほとんどの攻城者がレンタカー使用です。若い女性おひとりさまと東南角石塁で遭遇しましたが,タクシーのようでした。タクシーの場合,時間を決めて迎えに来てもらったほうが宜しいかと思います。
私はこの日のために,厳原港近くの「対馬へKONNE」に電動レンタサイクル予約。日曜日が定休日ということで,上陸した土曜日から月曜日までの3日間の予約をしました。1日1,500円でしたが,事情を説明したところ借用する土曜日と返却する月曜日は,それぞれ1,000円。別途料金の充電器は,ホテルで充電できないため借用しませんでした。ということで,合計【3,500円】。ホテルでの駐車料金はナシ。高いか安いかの判断は,みなさんにおまかせします。
厳原から登城口まで,登り坂のみパワーオンにして約90分で到着。城内散策は約240分。そして,厳原まで約90分で戻るというハードワーク。胸を張って推奨はできません。

東南角石塁~三ノ城戸~二ノ城戸で,だいたい城内散策分の体力の3分の1を消耗するかと思います。ここで満足してしまって帰ってはもったいないです。ゆっくりでもいいので,マイペースを心がけてください。
なお,リベンジ攻城につき,登城口までの画像は割愛します。
二ノ城戸の城壁は,左右で造りが異なります。画像の9枚目と10枚目を比較してみてください。城戸の外側に注意を向けないと,見落としてしまいがちです。

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翡翠

今回も姫路に (2026/09/22 訪問)

何回姫路城に登城出来るかなぁと、22日には朝から大阪城に、帰ってから姫路城やっぱり、入城制限が23日は朝一に多過ぎて、ゆっくり見れず。駆け足でした。23日は手話言語の国際デーでブルーでした。25日は観月会に行って見ようかなぁと思います。

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Ayatte

名古屋犬山の旅、3つ目の城 (2026/07/12 訪問)

この夏の旅行についてだ。

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イオ

「扇の芝」定点観測 (2026/08/29 訪問)

和歌山城南西部の砂の丸は、その名の通り砂丘に造成された曲輪であることから外周には水堀に代えて高石垣をめぐらせ、見通しをきかせるために南西隅部には芝を植えた三角地を設けていました。三角地は扇に見立てて「扇の芝」と呼ばれ、城下の人々にとって馬場(西側)や射場(南側)での武術練習を見物できる憩いの地だったようですが、廃城により扇の芝が払い下げられると建物が建ち並び往時の姿は失われていました。和歌山市では10年前に整備計画を改訂し、扇の芝の復元に向けて土地の公有化を進めてきましたが、昨年度に建物の撤去が完了し、今年7月4日には市民参加で芝張りイベントが開催され、127年ぶりに扇の芝が往時の姿を取り戻しました。

扇の芝の復元の話は以前から耳にしていましたが、和歌山ローカルのニュースでついに芝が張られたことを知り、他の用事のついでに見に行ってきました。まず県庁前交差点の歩道橋から扇の芝の全景を。建ち並んでいた建物が撤去され、植栽された芝の奥には砂の丸高石垣、そして木々の上には連立式天守群がそびえています。電柱と電線がちょっと邪魔ですが、天守群がよく見えるように木々を刈り揃えれば和歌山城の新たなビュースポットになる予感! 歩道橋を北に渡り、さらに北側の歩道橋を東に渡って扇の芝へ。芝は養生中のためまだ立ち入りできませんが、芝の向こうに屏風折れの高石垣、木々の合間には天守が覗いています。芝だけでなく建物に隠れていた砂の丸高石垣も草木が刈られて綺麗になっていました。扇の芝北西角部の歩道沿いには扇の芝の標柱が立てられています。かつては扇の芝の存在を示すものがこの標柱しかなかったことを思うと感慨深いものがありますね。

そういえば、以前に復元整備途中の扇の芝あたりを撮った写真があったはず、と思って探してみていくつか見付けましたので、ついでに載せておきます。3年ほど前(2023/10/28)に撮影したもので、更地になっているところもあれば建物も残っている状態の扇の芝(写真8)と、建物が無くなって道から見えるようになっているけれど、草木が茂った状態の石垣(写真9)です。これも定点観測といえるでしょうか。扇の芝が公開されたら(令和9年度予定)またレポートしたいと思います。


> トクさん

【豊臣秀長をたどる旅】、興味深く拝見しました。大河ドラマに先行して晩年までたどってしまわれる行動力(あるいは計画性)はさすがですね。及ばずながら確かにバトンタッチされました…と言いたいところですが、私のほうは年内どころか来年中には何とか…という体たらくなので、気長にお待ちいただければ(笑)
 

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ダイエティシャン

水鏡最終日 (2026/09/23 訪問)

松江城水鏡のため訪城。幻想的で美しい松江城。

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トク

「長曾我部元親」陣跡(秀長に敗れた元親のその後) (2026/09/22 訪問)

大河ドラマ豊臣兄弟(第36話)では、1585年の四国平定で、秀長軍により一宮城で敗れ降伏する長曾我部元親の姿が描かれました。ではその後の元親はどのような人生を歩んだのでしょうか?

そのヒントを探しに、肥前名護屋城(前田利家陣跡)から、南に10分(500m)程歩いた所にある、「長曾我部元親陣跡」を訪れました。この小高い山(標高50m)に陣は築かれていたようです。標柱から右側に細い道がありますが私有地のようなので、畑仕事をされている方に許可をもらい入りました。畑の先に石垣跡を見つけました。おそらく元親が築いたものと思われます。その先には人工的に削った曲輪か建物の跡らしき場所も多々ありましたが、荒れた竹藪だらけの整備されていない細い道で、蚊の大軍にも襲われたので、ゆっくり見る事ができず早々に撤退しました(整備してほしいなあ~😩かゆい)。しかしあくまで私の推測ですが、元親はここで屈辱に耐える日々を送っていたのではないでしょうか?

秀長に敗れた翌1586年、元親は仙石秀久の配下となり、戸次川の戦いに行きますがそこで敗れ、秀久のせいで最愛の嫡男「信親」を亡くした事は「鶴賀城」でお伝えしました。そして土佐に帰り、居城を「岡豊城」から海に近い「浦戸城」に移し水軍を強化します。この頃から「姫若子」と呼ばれていた元親の女っぽい性格?は変わり、「鬼若子」と呼ばれる怒りっぽい性格になったとか(本当かな🤔?)。小田原征伐→文禄の役→慶長の役と、秀吉から水軍を中心とした海上輸送の裏方(兵站輸送)ばかりをを命じられ、そのイライラからか家臣にも当たりちらし、独断で物事を決めるようになったそうです。後継ぎも二男・三男を通り越し、家臣の反対を押して四男「盛親」と勝手に決めてしまいます。その直後の秀吉が没した翌1599年に、元親も急な病で没したようです。結局、四国統一まであと一歩と迫りながら敗れ、転げ落ちるように人生後半は、屈辱とイライラに耐えた人生だったのかもしれません🤔。

その盛親も、翌1600年の関ケ原で西軍に付くも敗れて京都に幽閉され、長曾我部家は家康より土佐を召し上げられ改易されてしまいます。しかし盛親は1615年大坂の陣にて再び立ち上がりますが、またも敗れ、京都の三条河原で処刑され、長曾我部家は断絶したようです。

この荒れ果てた小高い山を眺めていると、長曾我部家の悲しい結末(栄枯盛衰)を想像せずにはいられませんでした。
 

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