春色の汽車に乗って ♪
海に連れて行ってよ~♬
煙草の匂いのシャツに ♪
そっと寄り添うから~♬
西鉄「蒲池駅」(写真⑥)で電車を降り、懐かしい昭和のアイドル 松田聖子(本名:蒲池法子)さんの歌を口ずさみながら、駅から歩く事30分、「蒲池城」が建っていたとされる場所に到着しました。国道385線の蒲池城跡交差点のあたりに城が建っていたようです(写真②)。城跡碑(写真①)がひっそりと民家の裏にありました。
さらにその100m南東には、蒲池氏の菩提寺である「崇久寺」がありました(写真③④)。そこには大友に従い耳川の戦いで討死した「蒲池鑑盛」とその一族の墓がありました(写真⑤)。
蒲池氏は平安時代から続く、南筑後地方を治めて一時は20万石も領した名門の国衆でした。そして戦国時代になると、本城を蒲池城から支城であった柳川城に移し、本城と支城を入れ替えたようです。しかし豊後大友氏が筑後を支配するようになると大友に仕え、龍造寺を攻めた今山の戦いに大友軍として加わります。今山の戦いで大友が敗れると、今度は龍造寺に寝返り、沖田畷の戦いに龍造寺軍として加わります。そこで龍造寺隆信が有馬・島津連合軍に敗れ討死するとまたもや大友軍に戻り、今度は耳川の戦いに加わるも、当主鑑盛と三男統安はそこで討死してしまいました。しかし嫡子で次男の鑑蓮は戦わずして裏切り、戦線離脱して柳川に戻って、今度は北上してきた島津氏に寝返ったようです。
それに怒った大友宗麟の重臣筆頭である立花道雪は、何と病を押して立花城から裏切った鑑蓮を討伐しようと出陣しますが、途中の高良山で病死してしまいます。その時「我が死体に鎧兜を着せ、高良山に頭を柳川に向けて埋めよ!」と命じたそうです。よほど大友を裏切った鑑蓮が憎かったのでしょうね。しかしそれでは忍びないと、娘婿養子の宗茂が立花城へ遺体を運び帰ります。
しかし結局は、鑑蓮は龍造寺政家(隆信の嫡子)の騙し討ちで誅殺され、跡を継いだ鑑盛の四男の統春も政家から柳川城を攻められ敗北、蒲池氏は滅ぼされてしまいました。
それから秀吉が九州を平定すると、関ケ原までは立花宗茂の領地となります。そして関ケ原後には田中吉政が柳川城に入りますが、近江の出身である吉政は、蒲池氏の歴史などは知るよしもないため、崇久寺だけを残し、あっさりと蒲池城は取り壊して、この一帯を田畑にしてしまったようです。そして田中氏が二代で断絶すると、再び立花宗茂の領地となります。
ちなみに耳川で亡くなった蒲池鑑盛の三男統安(鑑蓮の弟)の子の応誉は、僧侶となって柳川に良清寺を開き、再度領主となった宗茂の正室で、亡くなった誾千代(道雪の実娘)を弔ったため、その子孫は立花家に召し抱えられ、蒲池の名跡を再興して家老の待遇を受けたそうです。そして松田聖子さんは、その末裔にあたるそうです(😱!)(Wikipediaより)。
赤いスイートピ~♬、のお話でした😊。
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