みんなの投稿

検索結果・・・「」を含む投稿

todo94

雨の大阪での一日③ (2026/05/20 訪問)

昼食後は、乾櫓前、京橋口を経由して、御座船のチケット売り場へ。1800円の料金ですが、大阪周遊パスのQRコードの提示で乗船券を手に入れることができます。12:40、大阪城の内堀を遊覧する御座船に乗船。12:30の便はほぼ満席でしたが、私の乗った便はとてもゆとりがあって快適でした。御座船の売りはコーヒー豆のような人面石のようです。水面に近い目線から見る石垣や天守は中々新鮮でした。最後は、大阪城ホール近くの乗船場から淀屋橋まで水上バスのアクアライナーに乗船して大阪城を後にしました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

赤い城

製薬会社の工場 (2026/06/10 訪問)

大阪での所用も終え、日が長いこともあり堀城と三津屋城に寄ってみることにしました。
まずは堀城、十三駅から徒歩5分くらい、皆さんのレポートにある通り武田薬品の大阪工場や十三公園あたりが城跡です。

武田薬品の通用口に説明板がありますが遺構や往時をしのばせるようなものはなさそうです。
十三公園には行かずこのまま三津屋城へと向かいました。

十三といえばネギ焼きで有名な店があります。
この日は行かなかったですがビールに合う🍺
新大阪の新幹線改札内にもあるので待ち時間にどうぞ。

【見どころ】
 ・説明板プレート

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征8日目:勝山城(尼子十砦⑧ 10城目) (2026/05/18 訪問)

尼子十砦:出雲国尼子氏の本城月山富田城の周囲を固める支城群
尼子十砦(①十神山城②神庭横山城③三笠山城④赤崎山城⑤亀遊山城⑥高尾城⑦高守山城⑧勝山城⑨寺山城⑩安田要害山城)
神庭横山城(尼子十砦②)から車で5分ちょっとで、橋付近(35.376010、133.183070)に着き、路駐した後、ハイキングコース入口(35.377837、133.180239)に向かいました。

築城年代は定かではないようですが、 古くは滝山城と呼ばれ尼子十砦の一つとして数えられ、城主は田中三良左衛門といわれています。
1543年(天文12年)尼子氏の月山富田城を攻めるために、大内義隆が来襲してきて京羅木山に軍勢を勧めた際には、ここを陣所としたそうです。
現在残る遺構は、永禄年間(1558年〜1570年)に出雲に侵攻した毛利氏によって築かれたものだそうです。

高尾城(尼子十砦⑥ 3城目)で痛めた右ふくらはぎ、痛み止めの薬で痛みは和らいでいますが、本日は無理をせず登城口で撤退です。
勝山城(尼子十砦⑧)の攻城で、尼子十砦をコンプリート(本日は登城口撤退ばかりでコンプリートはおこがましいですが。。)しました。
攻城時間は10分くらいでした。本日の城巡りは、ここがラストです。
本日の宿泊先(米子駅方面)へ車で向かいました。
明日の攻城計画は、痛めた右ふくらはぎの状態を考え、城びと未登録のお城の攻城中止&山城は登城口撤退に変更することにしました。
歩行歩数=25899歩、歩行距離=18.1Kmです。

+ 続きを読む

昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征8日目:神庭横山城(尼子十砦② 9城目) (2026/05/18 訪問)

尼子十砦:出雲国尼子氏の本城月山富田城の周囲を固める支城群
尼子十砦(①十神山城②神庭横山城③三笠山城④赤崎山城⑤亀遊山城⑥高尾城⑦高守山城⑧勝山城⑨寺山城⑩安田要害山城)
赤崎山城(尼子十砦④)から車で10分ちょっとで、神庭町生活改善センター駐車場(35.390808、133.192565)に着きました。
そこから、案内図(35.391538、133.191910)の場所に向かいました。

築城年代は定かではなく、尼子十砦の一つで川井信濃守が在城したそうです。

案内図の場所の登城口は立入禁止になっていました。
自宅に戻ってから、todo94さんやぴーかるさんの投稿を見て登城口は自分の場所より少し西側にあることがわかりました。
事前に確認しておくべきでした。右ふくらはぎを痛めていたので登城は無理でしたが。。。。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=勝山城(尼子十砦⑧)に向かいました。

+ 続きを読む

昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征8日目:赤崎山城(尼子十砦④ 8城目) (2026/05/18 訪問)

尼子十砦:出雲国尼子氏の本城月山富田城の周囲を固める支城群
尼子十砦(①十神山城②神庭横山城③三笠山城④赤崎山城⑤亀遊山城⑥高尾城⑦高守山城⑧勝山城⑨寺山城⑩安田要害山城)
十神山城(尼子十砦①)から車で10分ちょっとで、加茂神社境内駐車場入口(35.415452、133.239613)に着き、そこから、境内東側から遊歩道(35.415370、133.239999)に向かいました。

築城年代は定かではなく、尼子十砦の一つで原民部少輔が在城したそうです。

賀茂神社の境内の東側から遊歩道が付いています。
高尾城(尼子十砦⑥ 3城目)で痛めた右ふくらはぎ、痛み止めの薬で痛みは和らいでいますが、本日は無理をせず登城口で撤退です。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=神庭横山城(尼子十砦②)に向かいました。

+ 続きを読む

昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征8日目:十神山城(尼子十砦① 7城目) (2026/05/18 訪問)

尼子十砦:出雲国尼子氏の本城月山富田城の周囲を固める支城群
尼子十砦(①十神山城②神庭横山城③三笠山城④赤崎山城⑤亀遊山城⑥高尾城⑦高守山城⑧勝山城⑨寺山城⑩安田要害山城)
安田要害山城(尼子十砦⑩)から車で20分くらいで、十神山なぎさ公園駐車場(35.434655、133.262008)に着き、そこから、十神山山頂登り口(35.434992、133.263290)に向かいました。

築城年代は定かではないようですが、室町時代に松田氏により築かれたようです。
応仁の乱では山名氏に属し月山富田城の尼子清定を攻めたが撃退され、逆に1468年(応仁2年)に清定に攻められ落城しました。
尼子氏の持城となった十神山城は尼子十砦の一つに数えられ、松尾遠江守が在城したそうです。
1566年(永禄9年)に児玉就忠の率いる毛利氏方の水軍に攻められ落城しました。
尼子氏滅亡後の1569年(永禄12年)には尼子残党に占拠されましたが、翌年の「布部山の戦い」で尼子軍が大敗を喫すると十神山城も陥落したそうです。

高尾城(尼子十砦⑥ 3城目)で痛めた右ふくらはぎも痛み止めの薬で痛みは和らいでいるので、比高70m/山頂まで380mの十神山城(尼子十砦① 7城目)は登城です。
右足をかばいながら杖の力を借りて山頂まで登りました。
やっぱり比高は低くても今日は無理をしない方がいいと実感しました。
現在は公園として整備されていますが、城址を示す案内板などは設置されておらず、三方を海に囲まれているものの木々が生い茂っており眺望はよくありません。
攻城時間は30分くらいでした。次の攻城先=赤崎山城(尼子十砦④)に向かいました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征8日目:安田要害山城(尼子十砦⑩ 6城目) (2026/05/18 訪問)

尼子十砦:出雲国尼子氏の本城月山富田城の周囲を固める支城群
尼子十砦(①十神山城②神庭横山城③三笠山城④赤崎山城⑤亀遊山城⑥高尾城⑦高守山城⑧勝山城⑨寺山城⑩安田要害山城)
豊岡城から車で5分ちょっとで、長台寺駐車場(35.377517、133.30917)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、、尼子経久の家臣・安井光照によって築かれたと云われています。
その後、福山源五郎が城主のとき、尾高城主・杉原盛重の率いる毛利勢に攻められ、1565年(永禄8年)落城しました。
城主は福山綱信、福山源五郎父子であったが、永禄8年(1565年)毛利勢の伯耆国尾高城主杉原盛重に攻められ落城した。

高尾城(尼子十砦⑥ 3城目)で痛めた右ふくらはぎも痛み止めの薬が効きはじめ、痛みは和らいでいますが、比高230m/山頂まで1130mは流石に無理なので登城口で撤退です。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=十神山城(尼子十砦①)に向かいました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征8日目:豊岡城 (2026/05/18 訪問)

亀遊山城(尼子十砦⑤ 城びと未登録 鳥取県安来市)から車で2~3分で、無線塔入口空スペース(35.357417、133.280583)に着きました。

詳細不明は不明のようですが、尼子氏の拠点である亀遊山城を攻める為に毛利氏が築いた向城と考えられているようです。

高尾城(尼子十砦⑥ 3城目)で痛めた右ふくらはぎも痛み止めの薬が効きはじめ、豊岡城は山城でないので登城することにしました。
しかし、途中から草が深く、前に進めなくなり登城を断念しました。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=安田要害山城(尼子十砦⑩)に向かいました。

+ 続きを読む

昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征8日目:亀遊山城(尼子十砦⑤ 5城目 城びと未登録 鳥取県安来市) (2026/05/18 訪問)

尼子十砦:出雲国尼子氏の本城月山富田城の周囲を固める支城群
尼子十砦(①十神山城②神庭横山城③三笠山城④赤崎山城⑤亀遊山城⑥高尾城⑦高守山城⑧勝山城⑨寺山城⑩安田要害山城)
高守山城(尼子十砦⑦)から車で5分弱で、県道沿い石碑付近(35.352039、133.277571)に着き路駐しました。

築城年代は定かではないようですが、尼子氏により築かれ、和田源右衛門が在城しました。

高尾城(尼子十砦⑥ 3城目)で痛めた右ふくらはぎの様子見で無理をしないことにし、県道沿い石碑の写真を撮って攻城としました。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=豊岡城に向かいました。

+ 続きを読む

昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征8日目:高守山城(尼子十砦⑦ 4城目) (2026/05/18 訪問)

尼子十砦:出雲国尼子氏の本城月山富田城の周囲を固める支城群
尼子十砦(①十神山城②神庭横山城③三笠山城④赤崎山城⑤亀遊山城⑥高尾城⑦高守山城⑧勝山城⑨寺山城⑩安田要害山城)
高尾城(尼子十砦⑥)から車で15分くらいで、城跡石碑付近(35.337743、133.274173)に着き、城跡石碑の写真を撮りました。
その後、中町公民館駐車場(35.334526、133.274284)に向かい、車を駐車して、登り口(35.334166、133.276537)に向かう予定でしたが、高尾城(尼子十砦⑥ 3城目)で痛めた右ふくらはぎの様子見で無理をしないことにしました。。

鎌倉時代に立原備前守によって築かれたと云われ、中井平三兵衛が在城したそうです。

高尾城(尼子十砦⑥ 3城目)で痛めた右ふくらはぎの様子見で無理をしないことにし、城跡石碑の写真を撮って攻城としました。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=亀遊山城(尼子十砦⑤ 城びと未登録 鳥取県安来市)に向かいました。

+ 続きを読む

ぴーかる

上梅沢館 (2026/05/10 訪問)

【上梅沢館】
<駐車場他>駐車場はなし。東側の墓地の方に停めました。
<交通手段>車

<感想>1泊2日富山ちょこ城巡り1000㎞旅19城目。現地には説明板はなく、上梅沢館は城びと情報によると、築城主は土肥氏?、築城年は南北朝時代?となっています。城びとの弓庄城、郷柿沢館と同じようにここも土肥氏の居館であったのだろう。越中土肥氏が国人領主として現在の滑川市と上市町辺りを領していたことが何となくわかった気がする。お寺さんに一部土塁が残っています。ここから見える立山連峰がきれいでしたので撮っておきました。

<満足度>◆◇◇

+ 続きを読む

トク

9【秀長の播磨平定をたどる④】有岡城(荒木村重と黒田官兵衛) (2026/06/12 訪問)

JR宝塚線に乗り伊丹駅で下車しました。すると有岡城の本丸跡は目の前にありました。荒木村重が築いた総構えの城です。しかし今ではビルや住宅に囲まれ、石垣の一部など、その面影はわずかしか残っていないのが、少し残念に思いました。

荒木村重は、家臣を見捨て自分だけ逃げ出した、「卑怯者と呼ばれた男」として有名です。それは本当だったのでしょうか? 村重は日本で初めて総構えで城を築いた人物だともされています。そんな城下の民までも守ろうとするような城を築く人物が、自分一人だけ逃げようなどと考えたとは、私にはとても思えないのですが・・・🤔。

本丸跡には官兵衛ゆかりの藤がありました。官兵衛は幽閉されている間、力強く咲く「藤の花」を見て、生きる勇気を得たそうです。しかし1年に及ぶ牢屋生活で足を痛めてしまい、この後一生杖をついて歩くようになります。福岡の人間としては、その場所がどこだったのか、見つける事ができず残念ですが、でもその間に松寿丸(後の黒田長政)を菩提山城で匿ってくれた竹中半兵衛には感謝です。

現在劇場公開中の映画「黒牢城」では、怯える村重と官兵衛との巧みな駆け引きが描かれています。村重はなぜ官兵衛を殺さず生かして幽閉したのか? 村重はなぜ妻や家臣を残して城を出たのか? 村重は本当に卑怯者だったのか? 村重と家臣との間にいったい何が起きたのか? 村重の本当の敵はいったい誰だったのか? この謎解きは・・・映画を御覧あれ(😱~!)。

次は、播磨で最後まで抵抗した別所長治の三木城と、竹中半兵衛の最期の地(平井山)を訪れます。
 

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

イオ

わずかに遺る痕跡 (2025/12/13 訪問)

(続き)

本丸跡に続いては、京都府教育委員会文化財保護課の淀城跡の地図と「山城國淀城圖」を参考に城下を散策しました。

淀の水車(京都市伏見区淀本町)
淀城には桂川から二ノ丸居間と西ノ丸庭園に水を引き入れるため2基の大きな水車が設けられていて、淀城の名所として「淀の川瀬の水車、だれを待つやらくるくると」と歌われ、葛飾北斎の「雪月花淀川」にも描かれています。現在は水車は失われていますが、県道沿いの二ノ丸側水車の跡地に石碑が立てられています。また、淀駅西側ロータリーに淀の水車のモニュメントが設けられていました。

藩校明親館(京都市伏見区淀池上町)
跡地は小学校になっていて石碑や説明板なども見当たりませんでしたが、明親館の名は小学校に受け継がれていて(明親小学校)、時代を経ても変わらず学びの場であり続けているんだな、と妙な感慨がありました。また、戊辰戦争では幕府軍の陣が置かれた地でもあるようです。

大坂口門(京都市伏見区淀池上町)
城下を通る京街道に設けられた門で門自体は失われていますが、駐車場の奥に往時のものとされる石垣がわずかに遺っています。

孫橋(京都市伏見区淀新町)
大坂口門から京街道沿いに新町を抜けたところの巨椋池からの水路に架けられていた橋で、現在は土橋になっていますが、水路に往時の区画を感じることができました。なお、孫橋の少し先には木津川に架かる淀大橋がありましたが、木津川の付け替えにより宅地化していて何の痕跡も見られません。

淀小橋(京都市伏見区納所町)
京街道を北に進み京口門を出た先の宇治川に架かる橋で、幕末には淀城への入城を拒まれた幕府軍により焼き落とされています。その後、再建されるも宇治川の付け替えにより撤去され、跡地には石碑と説明板が立てられていました。

唐人雁木(京都市伏見区納所町)
朝鮮通信使は大坂で川船に乗り換えて淀川をさかのぼり、淀城下で上陸して陸路で京都そして江戸へと向かいましたが、その上陸地は唐人雁木と呼ばれました。宇治川の付け替えにより唐人雁木は失われ、跡地には石碑が立てられています。

城下に遺構はほとんどないものの、歩き回ってみるとそれなりに痕跡はあるもので、わずかばかりにでも往時の雰囲気を感じることができました。
 

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

todo94

雨の大阪での一日② (2026/06/20 訪問)

豊臣石垣館の次は、ミライザ大阪城の地下にある海洋堂フィギュアミュージアムを覗いていきます。1000円の入館料を支払う気にはなれませんが、大阪周遊パスによりタダで見ることができるとなれば、見ていかない手はありません。とんでもない数の食玩など、様々なジャンルのフィギュアがてんこ盛りのミュージアムでした。西の丸庭園にももちろん立ち寄っていって定番の天守のショットを撮影。ただ、大阪周遊パスで櫓の特別公開もOKとはつゆ知らず、そちらはパスしてしまいました。大阪歴史博物館まで見てから、昼食タイムといたしました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

赤い城

メガバンク (2026/06/10 訪問)

この日は名古屋と大阪での所用があり出張しました。
名古屋駅近くでの所用を終え、隙あらば城でひとつくらい行ってみよう、と駅近物件を探しました。
春に名古屋へ来た際に近く(真清田神社)まで行きながらリアしていないことからこちらに。

尾張一宮駅もしくは名鉄一宮駅から徒歩で10分くらい。
城跡には三菱UFJ銀行一宮支店が建ち石碑と説明板が設置されています。
周辺も商店街で遺構は見ることができません。

近くには尾張一宮の真清田神社があり、ここの神主が領地を守るために築城した城です。
もう1城行きたかったのですが大阪にも行かなくては行けないので名駅に戻りました。
お昼は新幹線ホームできしめんをいただきました。
立ち食いとは思えないくらい美味しかったです😊

【見どころ】
 ・銀行前の石碑

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征8日目:高尾城(尼子十砦⑥ 3城目) (2026/05/18 訪問)

尼子十砦:出雲国尼子氏の本城月山富田城の周囲を固める支城群
尼子十砦(①十神山城②神庭横山城③三笠山城④赤崎山城⑤亀遊山城⑥高尾城⑦高守山城⑧勝山城⑨寺山城⑩安田要害山城)
五品嶽城から車で75分くらいで、城福寺駐車場(35.288101、133.248105)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、尼子氏の家臣・高尾右馬充の居城と伝えられ、雲伯の国境沿いにあり月山富田城の南東を守る城だったようです。
右馬充は雲芸攻防戦では白鹿城の戦いで奮戦し、月山富田城が開城後も尼子再興軍に加わり布部合戦に参加しました。
右馬充は再興軍の壊滅後に足立に改姓し、子孫はたたら業に関わったそうです。

城福寺の境内から遊歩道が主郭まで付いています。
落葉に足を滑らせ&ヘビに驚いて転び、右ふくらはぎを痛めてしまい途中で登城を断念。
とりあえず痛み止めを飲んで、今日の予定は行けるところまで行くことにしました。
城福寺には足立右馬允の位牌が残されているといい、山門脇に「高尾城跡」の石碑が建っています。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=高守山城(尼子十砦⑦)に向かいました。

+ 続きを読む

昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征8日目:五品嶽城 (2026/05/18 訪問)

楪城から車で40分弱で、庄原市東城まちなか駐車場入口(34.897003、133.271059)に着き駐車した後、登城口(34.898271、133.270532)に向かいました。

築城年代は定かではないようですが、大永・享禄年間(1521年〜1532年)頃に宮景友によって築かれたと云われています。
宮氏は備後比田山城を居城としていましたが、六代景友が五品嶽城を築いて居城を移しました。
七代高盛は勢力を伸ばし、1533年(天文2年)に大富山城を築いて本拠を移し、五品嶽城は家臣の渡辺七郎に守らせました。以後、五品嶽城を東城、大富山城を西城と呼んだそうです。
1591年(天正19年)宮高盛が毛利輝元の怒りをかって伯耆国日野(一説には出雲国塩谷)に移封となり、変わって石見国から佐波越後守広忠が入城しましたが、1600年(慶長5年)関ヶ原合戦後は毛利氏に従って萩へ移りました。
その後、芸備の太守となった福島正則は三家老の一人、長尾隼人正一勝を東城城主に任命し、備中・伯耆の国境守備に当らせました。
しかし、1619年(元和元年)福島正則が改易になると、長尾氏も津山に移り、城は廃城となりました。

登城口から階段を上がると世直神社があり、この神社南西の城山が城跡で、世直神社境内から遊歩道が山頂まで整備されています。
遊歩道を5分程登ると正面に石垣が見えますが、かなり藪に埋もれています。
その少し上がカヤの平で、北側に土塁が、西には石組みの井戸と説明板があります。この西上がケヤキが平で、西側の土塁が立派です。
ここから桝形に登ると太鼓の平で北側に土塁があり、その西に二郭、城山山頂の主郭(常の丸)と続きます。
二郭は北に土塁、中央付近に築山があり、主郭は南東に虎口があり、西よりに井戸、西端には周囲を石垣で固めた天守台があります。
東城駅の北東背後にある千手寺が、福島氏時代の城主である長尾氏の菩提寺のようですが、時間の都合で行っていません。
攻城時間は60分くらいでした。次の攻城先=高尾城に向かいました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征8日目:楪城 (2026/05/18 訪問)

鏡山城から車で50分くらいで、楪城駐車場入口(35.031705、133.428382)に着き駐車した後、登城口(35.032108、133.428640)に向かいました。

城は、鎌倉時代末期(1288~1293) 新見氏によって築城されたものと考えられています。
新見氏は尼子氏に属しましたが、1566年(永禄9年)頃に鶴首城主三村元親・元範に攻められ落城しました。
その後、三村元範が城主となり、二の丸、三の丸などの増築が行われ松山城につぐ規模の山城となったようです。
しかし、1575年(天正3年)備中兵乱の際に小早川隆景を総大将とする毛利軍二万騎が押し寄せ、宍戸備前守と中島大炊介の攻撃で落城しました。
三村元範は十騎ばかりで落ち延びましたが、塩山城主・多治部雅楽頭景春に討たれました。
そして、楪城は吉川元春のものとなり、元春の家来・今田上野介経高が在番となりました。
その後、1600年(慶長5年)関ヶ原の合戦で毛利方は敗れ、楪城は廃城となりました。

搦手口側の駐車場に駐車しました。駐車場までの道は少し狭いです。
本丸近くまで舗装された道を登って行きます。
今回は時間の都合で、二の丸で引き返し、三の丸や大手口方面には行っていません。
想像してたよりかなり整備されていており攻城しやすく、遺構もよく残っていました。
攻城時間は45分くらいでした。次の攻城先=五品嶽城に向かいました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征8日目:鏡山城 (2026/05/18 訪問)

法勝寺城から車で30分くらいで、線路付近空スペース(35.209167、133.383960)に着きました。
そこから「日野高等学校」手前の道を歩き、グラントを゙横切り城址に入りました。グランドの南西側を登ると屋敷跡(陣屋跡)があります。

鏡山城(別名黒坂城)は、伊勢亀山城主であった関一政が「関ケ原の戦い」の功により伊勢亀山30,000石から加増転封され、1610年(慶長15年)に50,000石で黒坂に配された後に築いた城です。
1618年(元和4年)に家中不統一で関氏が改易されると城も廃城となり、その後は鳥取藩池田氏の領地として重臣の福田氏が黒坂陣屋を構えて幕末まで支配しました。

見える石垣は黒坂陣屋のものです。陣屋裏の城跡に続く道も整備され案内板もありました。
攻城時間は40分くらいでした。次の攻城先=楪城に向かいました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征8日目:法勝寺城 (2026/05/18 訪問)

米子駅でレンタカーを借り、そこから車で20分くらいで、山頂入口(35.337069、133.326418)付近に着きました。

築城年代は不明のようですが、『山名系図』によれば古くは山名満幸が法勝寺周辺を知行していたという事から、山名氏による築城と考えられています。
1564年(永録7年)毛利氏によって修復されると、吉川元春に従属していた備中国の有力国人・三村家親が城主となりました。
三村家親は八橋城を攻略するなど活躍しました。
関ヶ原合戦後、伯耆一国の領主として中村一忠が入封すると廃城となりました。
また、毛利遠江守本紹が城主のときに山中鹿之介に攻められ、本紹は19歳の若さで自刃したという悲話が伝えられており、登城口にある城址碑の脇に本昭の墓があります。

現在城址は「法勝寺公園」として整備されており、土塁や空堀などの遺構が確認できました。
攻城時間は20分くらいでした。次の攻城先=鏡山城に向かいました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

ページ4