汽車は行くよ~♪
煙はいて~♪
トンネル越えれば竹中だ~♬
また再びこの古い昭和の歌を口ずさみながらJR豊肥本線「竹中駅」で降り、国道10号線に挟まれた地を流れる大野川(旧名:戸次川(へつぎがわ))の川岸に立ちました。実はここは、九州平定の前哨戦「戸次川の戦い」が行われた場所です(写真①⑩)。でも「南こうせつ」さんにとっては楽しい思い出の場所だったようです。
耳川の戦いから6年後の1586年(天正14年)4月、豊後に侵攻した島津軍に対し、もう豊後を守り切るのは困難と判断した大友宗麟は、恥を忍んで大坂城に出向き、秀吉に助けを求めます。この時に秀長は、できたばかりの大坂城西ノ丸にある自分の屋敷で接待し、相談に乗ったと伝えられています。
これで九州へ出兵する大義名分ができたと喜ぶ秀吉ですが、すぐには出兵できぬ理由がありました。それは小牧長久手で敗れた「徳川家康」の存在です。そこで同年9月に、前年の四国攻めで屈服させた、「長曾我部元親」「十河存保」と新に讃岐を与えた「仙石秀久」を軍監として加え、先遣隊(四国連合軍)として出兵させました。
同年10月には、家康に対して妹の「あさひ」と母の「なか」を人質に差し出し、家康が大坂城に出向く事により和睦が成立しました。これにより秀吉は関白(秀長は大納言)に任じられ姓を「羽柴」から「豊臣」と改め、島津へ停戦命令を発しますが、島津はこれを拒否します。
島津四兄弟の末弟「島津家久」は、順調に日向を北上して豊後に攻め入り、同年12月には大友の重臣「利光宗魚」が守る、この竹中の「鶴賀城」を取り囲みます(写真③)。四国連合軍は、府内上原館で大友義統(宗麟の子)と合流し、鶴賀城の麓の戸次川を挟んで、島津家久と対峙しました(写真⑧)。ここでどう戦うか軍議を行いますが・・・まとまるわけがありません。それもそのはず、秀久・元親・存保は、前年までの四国攻めでは、いずれも敵同士だったからです。
元親が関白様の指示を仰ぐようにと止めたにもかかわらず、秀久は全軍に対して川を渡り島津軍を攻撃するよう命令を出します。そこを家久は得意の「釣り野伏せ」で撃滅! 仙石秀久は長曾我部軍・十河軍を見捨て、何と海を渡って勝手に四国へ逃げ帰ってしまいました。そして元親は愛する嫡男の「信親」を失ってしまいます(写真⑨)、
鶴賀城は訪れる人も少ない(=行きづらい)場所ですが、利光宗魚の墓が残る「成大寺」(写真②⑦)から登城すると、途中滑りやすい所もありましたが、本丸まで30分程で登る事ができました。途中には「のろし台」や「倉庫跡」「堀切」「切岸」「畝状竪堀」が、今でもとてもよく残っています(写真⑤⑥)。
この大惨敗に秀吉は激怒します! 軍規違反の仙石秀久には、讃岐を召し上げて改易し高野山へ追放しました。そして関白秀吉自ら九州へ出陣して島津討伐する事を決意し、大納言秀長にその準備を命じます!
もしよければ下記アドレスのYouTubeで、「南こうせつ」さんの歌を聴きながら読んで頂ければ幸いです。変な昭和おやじの長い投稿で、どうもすいませんでした~!
https://www.uta-net.com/movie/50043/
次は、秀長軍九州上陸の地(豊前松山城)へ続きます。
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