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トク

宝満城と立花兄弟の絆 (2025/02/15 訪問)

西鉄大宰府駅前から内山行のバスに乗り、10分程坂を登った終点の「竈神社(かまど じんじゃ)」で下車しました(写真⑦)。ここは標高200m付近で神社の奥が登山口です。宝満城は宝満山(標高829m)の頂上にありました。登ろうと思ってここまで来たのですが、残り高低差はまだ600mもあり、下から見上げても・・・これは😱高い!(写真①)。登山口まで行きましたが、登山者の皆さんは本格的な登山の格好をしています。ここで「無理だな🤔」とあっさり断念。神社そばにあった「都久志の湯」に入って帰りました(すいません)。山頂には石垣などの遺構も残っているらしいので、我と思わん城びと挑戦者のレポートに期待します。

宝満城の築城者は、大友家臣の高橋鑑種です。しかし1567年、鑑種が門司城を奪った毛利方に寝返ると、大友宗麟は鑑種を追い出し、重臣の吉弘鑑理の子を「高橋紹運」と名乗らせて城主とします。

この時、紹運には二人の息子がいました。長男は「宗茂(統虎)」、次男は「直次(統増)」です。二人はこの宝満城で育ち、宗茂はそれから立花道雪の娘婿となり立花城に入ります。

道雪死後の1586年、島津軍4万が北上し侵攻して来ると、高橋紹運は宝満城には直次とその妻子(妻は筑紫広門の娘)のみを残し、家臣768名を全て麓の出城である「岩屋城」に集め、そこで戦う覚悟を決めました。それはなぜだったのでしょうか? この高くて攻め難い宝満城に籠城し、持久戦に持ち込めば勝機はあったかもしれません。しかしなぜあえて、麓の岩屋城で戦って討死にする道を選んだのでしょうか?

宝満城に籠城すれば、島津軍は宝満山を素通りし、立花山に向かうでしょう。さすれば「宗茂が危ない!」。豊臣軍が南下するまで、大宰府官道(街道)に近い岩屋城で足止させ時間稼ぎする作戦に出たのです。つまり宗茂と直次を、自分の命を犠牲にしてでも守りたいと思ったからです。結局2週間持ちこたえ、紹運以下768名は全員壮絶な討死をしましたが、ここで豊臣軍が南下、紹運は自分の命と引き換えに、二人の息子の命を守り切る事ができたのでした。

その後、直次は兄の宗茂に仕え、義父の筑紫広門とともに、朝鮮出兵から関ケ原まで活躍し兄を支え続けます。兄に仕え、兄とともに秀吉に仕え、兄弟の絆はかなり固かったようです。関ケ原では兄と西軍に付き大津城で戦ったため改易されますが、1604年兄が許され徳川秀忠の御伽衆として復帰すると、直次も許され旗本となり1615年大坂の陣では秀忠を守ったそうです。しかし1617年に病で没してしまいました。そして1620年兄が10万石で柳川に復帰すると、直次の子の種次が隣接する三池の地を1万石で賜って三池藩を立藩し、今度は種次が柳川藩の叔父・宗茂を父に代わって支え続けたそうです。まるで豊臣兄弟のような、立花兄弟がいましたというお話でした。

この他にも九州には、常に弟が兄に代わって出陣して兄を支え続け、関ケ原後はその兄が弟の命を徳川家康から守り抜いた、島津兄弟(義久・義弘)の物語も以前お伝えしました。チェブさんの話から私も兄弟話に脱線してしまいましたが、他にも何かいい兄弟のエピソードがあれば、皆さんもお願いします。

帰りは大宰府天満宮に立ち寄ると、梅の花が満開でした。そして「豚汁うどん」と「梅ケ枝餅」を食べて帰りました。おいしかったです😊。
 

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イオ

とことん名古屋城(西之丸) (2025/07/13 訪問)

(続き)

御深井丸から鵜の首を抜けて西之丸へ。西之丸には江戸期に6棟の米蔵が置かれていましたが、うち三番蔵と四番蔵が外観復元により再建され、本丸御殿障壁画をはじめとする名古屋城所蔵品を展示し、名古屋城の情報を発信する施設・西の丸御蔵城宝館として公開されています。写真撮影はできませんが、本丸御殿で見た障壁画の本物を見ることができ、なかなか見応えがありました。また、六番蔵についても発掘調査で確認された礎石が再現されています。

築城前からあるというカヤの大木を見上げて、いったん正門から退出。正門の位置にはかつて大手にあたる西之丸榎多門の櫓門があり、空堀の土橋北詰の二之門とあわせて枡形を構成していました。現在は二之門は失われていますが、榎多門枡形の石垣は遺っています。正門は名古屋離宮の頃に江戸城から移築された蓮池門が空襲で焼失したのを戦後に再建したものです。

正門から再入城し、本丸の全景を眺めつつ二之丸のほうに歩き出したところで、向こうから見覚えのある人影が…。「千田先生!?」 思わず声をかけてしまってから、こっちはテレビや講演で見覚えがあっても先生は私のことなど知るわけないんだから…と後悔しましたが、そんなことは馴れっこなのか、すれ違いざまに軽く手を挙げて一礼して去っていかれました。お急ぎのご様子でしたのに失礼いたしました。

さて、空堀越しに二重三階の西南隅櫓を眺め、本丸南辺の空堀沿いに東へ。本丸表門から土橋を渡ったところには大手馬出が設けられていましたが、西側の堀は埋め立てられて西之丸とつながってしまっています。馬出東側の空堀を覗いて二之丸へ。本丸空堀越しには二重三階の東南隅櫓が聳え立っています。こちらも貴重な現存三階櫓ですが、白壁の漆喰が一部剝がれているのが気になりました(昨年7月時点)。今はもう修復されているのかな…(続く)。
 

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赤い城

砂まじりの・・・♪ (2026/01/15 訪問)

久しぶりの登城です。
茅ヶ崎市ではなく港北ニュータウンの住宅地に良好に残る城です。
なので砂はまじらないし背を向ける必要もありません。

センター南駅から徒歩10分、北西部の登城口から入ります。
すぐに竪堀があり、さらに行くと虎口から西郭と中郭の間の深い空堀へ。
まずは西郭を散策しました。
土塁が残っています。

散策路もついていて歩きやすいです。
中郭と東郭の間にも空堀がありますがここは藪、わかりにくいです。

東郭から中郭に戻ります。
ここが主郭で高い土塁が囲みます。
建物もあったようで礎石が並んでいます。
中郭から北側に降りると北郭。
ここには井戸跡や土橋跡が残っています。

全体的に城址公園として整備され、地域の皆さんにも親しまれているようです。
この日は早朝の登城でしたが犬の散歩をされてる方も。
いずれにしても家の近くに良い城がある環境、羨ましいですね。

【見どころ】
 ・西郭と中郭の間の堀底道
 ・中郭の土塁
 ・中郭の建物礎石
 ・北郭の土橋跡

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天守無しがアツい

捕鯨 (2026/02/10 訪問)

天守は五層あり…上に行くほど階段は狭くなり…部屋も小さめになった

高知城の主人だった山内一豊とその妻千代
2人は12歳という年の差婚👫

一豊が25-30歳…千代が13-18歳の時にゴールインしたらしい…今でこそレアな印象あるが…秀吉とねねもそれくらい年齢差があった気がするので…当時は珍しくなかったのかも

最上層からは高知市街が一望🌇岡豊城の辺りまで見えた気がする…靴下で冬の床を歩くのは酷と言えばそうだったが…ファッションは我慢→城見学は我慢😅

土佐の地では…捕鯨が盛んだったらしい🐳
鯨から摂れる豊富なタンパク質
ペリーが日本に開国を求めにやって来た時も…日本人が鯨を捕らえて食べる文化を知って非難したようなエピソードを聞いたことある

昭和の頃、学校給食でも鯨の肉がよく出されたらしい
私は1回食べたきりだが…あれにもタンパク質が詰まっていたのか😏プロテイン摂取は大事だぜ💪✨

城の中では無いけど…商店街の一角に…吉田東洋の殉難の地…という碑があった。つまりこの地で幕末に暗殺事件があったという事💀

この近くには武市半平太終焉の地…彼が切腹して果てた跡地もあり…土佐が誇る志士が…この地で散っていったんだなあ😭

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イオ

とことん名古屋城(御深井丸) (2025/07/13 訪問)

(続き)

不明門から本丸を出ると、土橋の両側に本丸北辺の空堀が続いています。堀底からだと天守台はかなりの高さがあります。天守台石垣の隅部は算木積みで積まれていて、北東隅には肉眼では分かりづらいものの「加藤肥後守内小代下総」の刻銘石も見られます。土橋を渡るとまずは塩蔵門から。門の石垣は刻印の宝庫で、いろんな種類の刻印が探すまでもなく見つかります(矢穴も)。西に向かう道沿いには戦後の天守再建の際に移設された天守礎石が列んでいます。その近くには出雲地方の古墳の石室も移設されていましたが…名古屋城とどういう関係があるんでしょうね?

御深井丸は深井(ふけ)と呼ばれる低湿地を木材で埋めて築かれた曲輪で、北西隅には三重三階の西北隅櫓があり、現存する日本最大の三重櫓です。清須城の天守を移築したとされ清須櫓とも呼ばれています。内部は通常非公開なので、いつか特別公開の折にまた来たいものです。陸軍時代の弾薬庫は、乃木希典が赴任していたことにちなんで乃木倉庫と呼ばれており、空襲前に本丸御殿の障壁画や天井絵を乃木倉庫に移していたため、焼失を免れたのだとか。その他、御深井丸には4つの茶席(一般公開無し)があり、御深井丸展示館には愛知の郷土玩具などが展示されていました。広場ではちょうどおもてなし武将隊の演武が行われていました。この日の出演は加藤清正、豊臣秀吉、徳川家康の3名と陣笠2名で、途中からでしたがついつい最後まで観てしまいました。

御深井丸と西之丸をつなぐ土橋のあたりは鵜の首と呼ばれ、御深井丸側には枡形土塁が遺っています。土塁に登って見渡すと、高石垣の天守台の上に大天守が雄大にそびえ立っていました(続く)。
 

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todo94

長浜大河ドラマ館推参前の攻城② (2026/02/14 訪問)

肥田城からの転戦です。昌官忠さん同様、和田神社の鳥居脇に駐車させていただきましたが、3ナンバーのプリウスにはかなり厳しいスペースでした。三角点のある北山が城跡で案内表示も出ているので迷う事はないかと思います。南山方面にも足を伸ばしてみました。削平地、段郭のように見えなくもありませんでした。

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赤い城

早島陣屋と早島城 (2026/01/12 訪問)

江戸時代の旗本、戸川氏の陣屋です。
戸川氏はもとは宇喜多氏の家臣でしたが後に家康に預けられ、関ヶ原の戦いでは東軍で参戦しています。

駐車場もあり、近くに説明板があります。
ほとんど遺構は残りませんが駐車場そばに堀と石橋が残っています。
近くには戸川家記念館がありますが立ち寄らず背後の早島城を散策することに。
坂道を登ると公園があり、ここが城跡です。
遺構は残りませんが見晴らしが良く、城跡であることは実感できました。
城主の竹井将監は冠山城の戦いで加藤清正との一騎打ちで戦死したと言われています。

【見どころ】
 ・石橋と堀跡

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イオ

とことん名古屋城(本丸) (2025/07/13 訪問)

(続き)

湯殿書院を出ると、まずは先ほど素通りした本丸表門(南門)から。大手にあたる本丸表門は二之門(高麗門)と一之門(櫓門)により枡形を構成しており、二之門は現存しているものの、一之門は空襲により焼失し門柱の礎石が見られるくらいです。

本丸東門も表門と同じく一之門と二之門からなる枡形門でしたが、いずれも空襲により焼失し、一之門跡には門柱の礎石が遺り、二之門跡には二之丸東門の二之門が移築されています。枡形石垣の巨大な鏡石は清正石と呼ばれていますが、この石垣を築いたのは黒田長政であり、加藤清正は無関係のようです。旧二之丸東二之門を出た先の搦手馬出には工事中のため進めなかったので、本丸東辺の空堀を眺めて引き返し天守へ。

大天守は五重五階・地下一階の層塔型で、二重二階・地下一階の小天守と橋台でつながる連結式です。金鯱と銅瓦が目立ちますが、大天守に近づいていくと改めて「でっかいな〜」と実感。木造復元できるに越したことはないけど、いつまでも解決しないのなら現状に耐震補強でいいから中に入りたいな(最上階からの眺望が見たい)、とも。そして天守台の下から見上げると、大天守だけでなく小天守も充分に大きいことに気付きました。大天守がでか過ぎるので並ぶと大きく見えないんでしょうね。天守台の石垣石には矢穴や刻印だけでなく、空襲の影響と思しき焼け跡も見られます。

本丸御殿の上台所(の一部)を改装したミュージアムショップでお土産を買って、本丸御殿南庭の焼け跡から移植された御殿椿を眺めつつ、常に施錠されていたという不明門から本丸を出て御深井丸に向かいます(続く)。
 

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チェブ

河越夜戦跡の巻。 (2026/01/17 訪問)

「川越城」から少し北に『東明寺』があり、『河越夜戦跡』の石碑があります。
『河越夜戦』とは北条VS山内上杉氏・扇谷上杉氏・足利氏連合軍の戦いで、絶体絶命の北条家が奇襲により勝利した戦いです。
日本三大奇襲にも数えられてます。
日本三大奇襲は『厳島の戦い』『桶狭間の戦い』そして『河越夜戦』です。
地味ーーー。『河越夜戦』、知らない人の方が多い気がします。他の2つの戦いは教科書にも載っているのに。

とはいえ、時代が違えばお手本にしたい戦法で、時代が違えば卑怯な戦法なのかもしれません。

写真を写し退陣しようと車へ。
自宅に向かうようナビに入力すると、川越市の蔵通りを通させました。人人人人人人で大賑わい。小さい車は更に小さくなって、ユルユルと進みました。
帰って来て図書館で『河越夜戦』が登場する本を探していたら『足利兄弟』があり、こちらに変更。後ろの本の著者は大森兄弟。
とりあえず、2冊とも大河ドラマ『豊臣兄弟!』に対抗して借りてみました。

琵琶湖の水位が低くなり「坂本城」の幻の石垣が姿を見せました。
東京の端っこは奥多摩にあるダム湖に水を頼ってます。ドライブがてら見に行くと、47%と見たことのない水位になってました。
誰かの館跡とかあるかな?なんて思った自分を反省しました。

河越夜戦では、両上杉氏・足利連合軍の飲料水不足、周りの湿地帯やたくさんの川が勝敗を決めたという説もあります。
いつの時代も『水』は大切だと再確認した『河越夜戦跡』攻めでした。

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ぴーかる

宇土城 (2026/01/11 訪問)

【宇土城】
<駐車場他>宇土城(近世)駐車場あり。
<交通手段>車

<見所>石垣
<感想>1泊2日お人吉旅3城目。現地説明板によると宇土城は1588年に肥後南半国の領主となった小西行長が翌年に築城を開始した城です。小西行長は関ヶ原で西軍についたため、合戦後は加藤清正の領地となります。1612年加藤清正の没後に幕府の命で城は破却されます。また島原の乱ののちにも城は徹底的に破却されました。現在残る石垣は加藤清正時代の石垣だそうです。
 現地は公園になっています。主郭は広くて小西・加藤時代も広い主郭を中心にした城郭だったことをうかがわせます。周囲は主郭壁面と堀跡に加藤時代と思われる面を平らにしたいい石垣が現存しており、僅かしか残っていないが十分に見応えあります。
 ここは行ってみたかった城跡で、熊本城の宇土櫓は現存天守を差し置いても私の一番好きな現存建造物です。地震でも耐え残ってよかった。地震前のお気に入りの写真を添付します。

<満足度>◆◆◇

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november

待ち時間あり!じっくりお城を眺めて過ごします (2026/02/14 訪問)

土曜日昼間に訪問しましたが、犬山駅で表示された待ち時間が20分、城入口では40分でした。天守閣の下でじっくり眺めながら楽しく待ちましょう。最古の国宝城ということもあり、階段は狭く、階上からはギシギシと軋む音が…。そんな所も含めて、犬山城の魅力だと思います。登城後は、国宝茶室如庵、神社、ミュージアム、からくり人形、街歩きを楽しみました。

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november

どの角度から見ても素敵な姫路城 (2026/01/10 訪問)

姫路城は2度目の訪問ですが、周辺も含めてゆっくりと散策したのは今回が初めてです。姫路城、好古園、美術館、歴史博物館、文芸館と回りましたが、姫路城はどの角度から見ても素敵でした。街も城を中心に賑わっているように感じ、観光客だけでなく、地元の方々も城を誇りに思っておられる様子が伝わってきました。

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影武者

本佐倉城 (2026/02/14 訪問)

本佐倉城攻め

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影武者

佐倉城 (2026/02/14 訪問)

佐倉城攻め

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にのまる

難攻不落のお蕎麦屋さんからスタート。千曲川まで下りてみた。 (2025/09/27 訪問)

毎年のように訪れている小諸城でずっと攻めあぐねていた信州蕎麦の「草笛」さん。
今回こそはと気合を入れて早めに出立し、開店40分前に着到。既に10人くらい並んでおられましたが、無事第1ターンで入店することができました🙌
当初の狙いはくるみ蕎麦でしたがメニューを見て蕎麦定食を注文しました。とってもおいしかったです!ごちそうさまでした😋

お腹いっぱいになったところで懐古園へ。
以前から、三の門だけでなく、北側(鹿嶋神社の方)からも入れるのでは⁉︎と気になっていたので確かめに行ってみました。すると、ありました!穴城を感じるアプローチに、天然の要害であったことがダイレクトに伝わってくる深い堀。感動しかないです🥹次からも多分こちらから入ると思います。(入園料は帰りに正面入口で支払います。)

水の手展望台で当時の不明門を想像。嗚呼絶景哉。
城内を散策していると、桜の馬場の案内板に「千曲川まで往復30分」とありました。千曲川が私を呼んでいる!もう、行かずにはいられません。ナマ足サンダルで蚊の襲撃に遭ったりもしましたが、途中に四阿もあり、“小諸城でこんな体験するとは思わなかった”なハイキングとなりました。
先ほど展望台から遠くに見下ろした千曲川。西浦ダムまで下り、振り返って見上げた山容に、お城って“部分”ではなくて“全体”なんだなぁと教えられた思いでした。

同じ道を戻って、ようやく見覚えのある天守台や石垣に出ました。
ひとまわりして最後に大手門へ。(この日は開館日でした。)
2時間半かけて城内を上ったり下ったりぐるぐるとまわった後だったので、展示資料の説明図が自分の足跡と重なってよく理解でき、それがとてもおもしろく、またうれしかったです。

小諸駅周辺は訪れるたびにどんどんすてきになっています。駅前のビルがなくなって、大手門がよく見えたのがびっくりでした。もう、“大手門見逃した!”なんてことは1,000パーセントないのではないかと思います。

充分に楽しんだところで、帰りは、“HIGH RAIL1375”で小淵沢へ。小海線、大好きです!

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todo94

長浜大河ドラマ館推参前の攻城① (2026/02/14 訪問)

2月1日に北近江長浜大河ドラマ館がオープンするということで2月の行き先は滋賀県に定めていました。衆議院議員選挙が入ってきてしまったため、バレンタインデー及びふんどしの日に訪れた次第です。選挙の日だったら極寒と降雪に見舞われていたところでした。

彦根のすき家で朝食をとった後、まだ薄暗く冷え込んでいた早朝に肥田城にたどり着くことができました。江戸初期の新田開墾で遺構は失われてしまったようですね。立派な城址碑と説明板があるだけでもありがたい限りです。

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イタさん

多胡館跡・新堀城跡(多比良城) 群馬県高崎市吉井町 (2026/02/12 訪問)

多胡館跡
 説明板には、木曽義仲の父・源義賢が居た館とある。義賢は武蔵国、大蔵館で甥に殺されているので、それ以前に移っていたらしい。現在でも館跡の北側と東南角に土塁と堀を見ることができると記されているが、跡地一帯は民家・竹藪になっており、北側の東三分の一位しか確認しなかった。

新堀城跡(多比良城)
 説明板に、上杉の本拠・平井城を本城とし、一郷山城と共に西の守りを固める一城別郭をなしていた、とあり、出城として機能したいたのか。主郭・北郭・南郭・東郭・帯郭・腰郭等がある、と書かれている。一帯は畑地、山林でよく分からない。標柱のある入口の北先は北に回り込む道が東郭との境だろうが、東一帯も畑になっている。位置的に南郭なのか、主郭との堀跡なのか分からないが、ソーラーパネルが設置され、大分改変されているようだ。余談だが南に普賢寺があり、駐車させてもらうが、住職の奥様が、何もないと言われた。またその辺りは地元では、たぬき山と呼び、実際に生息しており、お寺にも出没するとも言っておられた。

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イタさん

意外とこぢんまりとした城跡 (2026/02/12 訪問)

 奥平氏の発祥の地とあり、奥平を名乗ってから三河国へ移るまで200年間ほど居たらしい。北500メートルに奥平家発祥之地の石碑が建っているが、訪問はしていない。。
 城跡入口には標柱・説明板が立っている。北斜面はコンクリートで補強された城塁、東は一面畑地になっている。入口を登れば、右手が主郭の城塁、先で土塁の切れ目を思わせる所に出る。上がれば右手が主郭と言われるが、土塁などは見受けられない。左手は西へ続く台地になるが竹藪で覆われている。主郭との境は幾分低く、堀でもあったのだろうか。北端と南端に奥へ行く踏み跡があり、どちらも行ける場所までいくが、先は竹藪で断念。台地続きなので堀切でもと期待したのだが、行けた場所までには見当たらなかった。南端の途中斜面下に腰郭に見えた地形があったが、そう思い込んで見ていたのかも知れない。

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ダイエティシャン

ばけばけ 松江藩士の娘小泉セツの物語2️⃣ (2026/02/14 訪問)

松江城下の【カラコロ工房】では朝ドラ【ばけばけ】展開催中。撮影衣装、小道具の展示です。
【カラコロ工房】は元日本銀行松江支店のたてものです。【ばけばけ】展は地下の金庫跡で開催中。金庫の内装も楽しめると思います。

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ダイエティシャン

ばけばけ 松江藩士の娘、小泉セツの物語1️⃣ (2026/02/14 訪問)

朝ドラ【ばけばけ】の舞台である松江城周辺では、関連するイベントを開催中。
【松江歴史館】企画展示【ばけばけの世界と小泉セツと八雲の時代】松江大橋のセット、松江藩士らの明治時代の暮らしとはは生活が歴史資料や発掘物から知ることが出来、とても興味深かったです。
【小泉旧居】は小泉八雲夫婦が実際に住んでいた元武家屋敷。撮影、投稿許可が出たので載せます。(③~⑥)
塩見縄手(写真⑦)の由来の【塩見家】は小泉セツの実母の実家だそうです。

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