りふじょう

利府城

宮城県宮城郡

別名 : 村岡城
旧国名 : 陸奥

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利府城跡解説板、北部分主郭下段に在り
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カズサン

留守氏の城郭は館山公園として整備されてます (2023/09/18 訪問)

 利府城は仙台の北東部、多賀城の3~4km程北に在ります、8、9年前から認知し宮城県の城跡を廻って居ましたが今回の宮沢遺跡探訪企画2日目に入れて初探訪、もう一つの主目的多賀城復元南門見たさの前に登城しました。

 駐車場:利府城北部分郭の北東頂部駐車所を利用、南西面麓に広い駐車場が2ヶ所あります、南西面麓手前の駐車場からは南部分郭への遊歩道が有るようです。
 参考資料:城郭放浪記さん、古城盛衰記さん、余湖図コレクションさん、グーグルマップに依ります。

 利府城は北部分郭と南部分郭にて構成されてる巨大な山城です、今回は北部分郭を廻りました、南部分郭への遊歩道が余りにも草が茂っており諦めました。
 北東部の駐車場から熊鈴を付けて遊歩道を進み主郭下の曲輪へ館山公園案内図とトイレあり、登城路を回り込むように主郭下段へ、桜の葉が茂り鬱蒼としていますが春は桜で最高でしょう、下段に利府城跡解説板が有り、一時勉強、上段に登り「利府城址の石碑」明治百年記念の設立との事、南側に虎口階段が有り利府城跡の看板と東屋、主郭を南から東に周り、南部分への遊歩道は草茂り状態、南の段曲輪、主郭の切岸を眺めて終了としました。

 利府城の歴史は、鎌倉時代に留守氏一族の有力者であった岡村氏の館が築かれていましたが、永禄12年(1569年)留守氏家督相続の問題が起き、血統を守る派と伊達氏より養子を迎える派で抗争、永禄13年(1570年)伊達政景(政宗の叔父)が留守家に入嗣し伊達勢力圏へ、村岡城を利府城に改める。(利府城跡解説板抜粋)

 8、9年前からの認知でやっと今回の城廻で一部ですが登城する事が出来ました、車で主郭下まで行けて大変便利です。

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昌官忠

東北遠征 (2020/07/02 訪問)

一般駐車場(38.336664、140.9803)に駐車して攻城。さらに上に郭直下の駐車場があります(こちらを使えば攻城時間短縮が可能です)。遺構は見つけられませんでした。攻城時間は15分位でした。

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刑部

学校裏の城址 (2019/04/28 訪問)

山登り気分で訪問

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夏の雪だるま

伊達氏北方の城 (2016/05/14 訪問)

宮城県利府町の利府城です。鎌倉時代留守氏重臣の村岡氏の村岡城として築かれたとされます。1569年留守氏で相続問題が発生。留守氏の血筋を守ろうとする村岡氏と伊達氏から養子を迎え伊達氏の勢力下で留守氏の安泰を図るべきとの伊達派が対立。村岡氏は伊達政景の養子縁組に反発し挙兵。しかし、留守氏当主となった伊達政景に攻められ1570年落城滅亡しています。同年伊達氏と敵対する北の大崎氏と葛西氏に対する押さえとして留守政景が南西5kmにある岩切城と比べると規模は小さいですが、伊達勢力圏北方の押さえの城として村岡城へ移り改修整備し利府城と改称し居城としてます。20年の在城後、留守氏は1590年黒川郡の大谷城に配置替えとなり利府城は廃城となってます。城は利府町の館山と呼ばれる標高100mの独立丘陵の山頂に東西100m写真は南北50mの本丸を置き、西側の一段低くなった尾根続きに二の丸、三の丸が配されていたとされます。現在は館山公園として整備されています。

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城郭情報

分類・構造 山城
築城主 村岡氏
築城年 不明
主な改修者 留守氏
主な城主 村岡氏、留守氏
廃城年 天正18年(1590)
遺構 曲輪、土塁、横堀(空堀)
再建造物 石碑、説明板
住所 宮城県宮城郡利府町利府字城内(館山公園)
問い合わせ先 利府町地域整備課産業経済班
問い合わせ先電話番号 022-767-2120