筑紫広門の続き(2/6)です。東橋バス停から歩く事30分、筑紫氏館へ到着しました。
筑紫氏は鎌倉時代からの名門守護大名であった少弐氏の一門とされる国人領主で、少弐氏滅亡後には、現在の那珂川市・春日市・筑紫野市・大宰府市・鳥栖市一帯の交通の要所を押さえ、背後の勝尾城(かつのお)を居城としていました。しかし山上は不便なため、祖父の満門の時に麓に館を築き、満門・惟門。広門と三代90年間を筑紫氏館で過ごし、この時に筑紫氏は全盛期を迎えます。まずその生誕の地、筑紫氏館を訪れました。筑紫広門は1556年ここで生まれます。
館には主殿や会所・庭園・台所などがあり、それらが80×100m高さ3mの石垣で囲まれていたようです(写真④-⑧)。しかし現在は木がうっそうと茂りその広さはよく分かりませんでした。そしてここが勝尾城(城山)への登山口となります(写真⑨)。さあここから登山開始です!
父の惟門は毛利氏の配下として大友氏と敵対し、博多を攻めます。その後毛利氏が九州より撤退すると、家督を継いだ広門は佐賀の龍造寺氏と手を組みます。さらに龍造寺隆信が沖田畷で敗れると、今度は島津や鍋島と手を組み、そして秋月氏らとともに龍造寺に奪われた領地を奪還しようとする大友氏と再び敵対し、大友宗麟の重臣であった立花山城の立花道雪や岩屋城の高橋紹運を度々攻めて行きました。しかし、その最中の1584年、広門は突然ある不可解な行動に出ます。それが私にはなぜだかよくわかりませんでした(🤔?)。
では次は話の都合上、勝尾城(城山山頂)の様子をお伝えする前に、間接的に広門の人生ターニングポイントとなった、猫尾城の戦いから先にお伝えします。
次は、猫尾城に続きます。
+ 続きを読む