かつのおじょう

勝尾城

佐賀県鳥栖市

別名 : 三ケ山城、三上城、筑紫城三上山、勝山城、筑紫城、山浦城
旧国名 : 肥前

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①	筑紫氏館登城口
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トク

【筑紫広門】(2)勝尾城(2/3:筑紫氏館) (2025/05/15 訪問)

筑紫広門の続き(2/6)です。東橋バス停から歩く事30分、筑紫氏館へ到着しました。

筑紫氏は鎌倉時代からの名門守護大名であった少弐氏の一門とされる国人領主で、少弐氏滅亡後には、現在の那珂川市・春日市・筑紫野市・大宰府市・鳥栖市一帯の交通の要所を押さえ、背後の勝尾城(かつのお)を居城としていました。しかし山上は不便なため、祖父の満門の時に麓に館を築き、満門・惟門。広門と三代90年間を筑紫氏館で過ごし、この時に筑紫氏は全盛期を迎えます。まずその生誕の地、筑紫氏館を訪れました。筑紫広門は1556年ここで生まれます。

館には主殿や会所・庭園・台所などがあり、それらが80×100m高さ3mの石垣で囲まれていたようです(写真④-⑧)。しかし現在は木がうっそうと茂りその広さはよく分かりませんでした。そしてここが勝尾城(城山)への登山口となります(写真⑨)。さあここから登山開始です!

父の惟門は毛利氏の配下として大友氏と敵対し、博多を攻めます。その後毛利氏が九州より撤退すると、家督を継いだ広門は佐賀の龍造寺氏と手を組みます。さらに龍造寺隆信が沖田畷で敗れると、今度は島津や鍋島と手を組み、そして秋月氏らとともに龍造寺に奪われた領地を奪還しようとする大友氏と再び敵対し、大友宗麟の重臣であった立花山城の立花道雪や岩屋城の高橋紹運を度々攻めて行きました。しかし、その最中の1584年、広門は突然ある不可解な行動に出ます。それが私にはなぜだかよくわかりませんでした(🤔?)。

では次は話の都合上、勝尾城(城山山頂)の様子をお伝えする前に、間接的に広門の人生ターニングポイントとなった、猫尾城の戦いから先にお伝えします。
次は、猫尾城に続きます。
 

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トク

【筑紫広門】(1)勝尾城(1/3:葛籠城) (2025/05/15 訪問)

今回は、戦国時代に筑紫平野一円を治めた武将「筑紫広門」という人物の、関ケ原までの波乱の人生を、6回シリーズで追って行きたいと思います。またよろしくお願いします。

JR鳥栖駅から1番のバスに乗り、東橋(あずまばし)で下車しました。東橋バス停にはパンフレットと地図がご自由にどうぞと置いてあったので、これは大変助かりました(写真③)。さあここから広門の居城「勝尾城」を目指します。

橋を渡り、ここからの川沿いが城下町で、だんだんと細くなり谷に入って行きます。まるで一乗谷のような感じです。この川沿い(四阿屋)に商人町があり、その先(城戸から先)は家臣が住む武家屋敷だったようです。

歩き始めて5分、四阿屋神社の河川敷公園にきれいな公衆トイレがありました。筑紫氏館にも小さなトイレはありましたが汚かったので、特に女性の方はここを利用されて行かれた方がいいと思います(写真⑨⑩)。ここには広い駐車場もありました。

四阿屋からふと左を見ると「葛籠城」がありました。勝尾城の出城のようです。登城口まで行きましたが、予想外に規模も大きく、土塁や空堀などの遺構もありそうです。葛籠城の前に立つと城山(勝尾城)が見えてきました(写真①)。ここから麓の筑紫氏館を通り、あの山頂の勝尾城までを目指します(標高498m、比高約350m)。だんだんと気合が入ってきました😠。しかし、あまり寄り道をすると時間も体力もなくなってくるので、葛籠城はあきらめ先へ進もうと思います(写真④⑤)。

さらに10分程歩くと城戸がありました。筑紫氏と島津氏との戦いでは、このあたりで最大の激戦があったようです。広門の子である「筑紫春門」(一説には弟とも)が奮戦し、最後は一騎打ちで勝負を決しようではないかと島津軍を挑発します。これに応じたのは、「川上左京亮(忠堅)」という男です。彼は何と😯・・・沖田畷の戦いであの龍造寺隆信を討ち取った男だとされています! しかし両者は相討ちとなり共倒れとなったようです。春門が槍を刺したと言われる岩や二人の供養塔がありました(写真⑥⑦)。

城戸を抜けると、辰兵衛さんのお友達に出会いました(写真⑧)。元気そうでしたよ!(笑)。そして東橋から歩く事30分、筑紫氏館(筑紫神社)に到着です。ここにも駐車場はありますが、四阿屋から先は道がとても狭いので車の方は注意されて下さい。

次は、筑紫氏館(筑紫神社)へ続きます。
 

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朝田 辰兵衛

山頂は土砂降りだった…☂ (2024/07/05 訪問)

新鳥栖駅観光案内所でレンタサイクルを利用。天候は曇りだったので,安堵してました。ところが,九州横断自動車道の高架をくぐったあたりから小雨が降ってきました。まだ大丈夫と決行しましたが,山頂に近づくにしたがい土砂降りとなりました。足元が滑りやすいワケではなかったので,サクサクと登城しました。
麓の農家ではヤギが放たれておりビックリしましたが,人間慣れしている様子でした。往路も復路も目が合いましたが,復路ではびしょ濡れになった姿を鼻で笑われた気がしました…。
一通り散策できたのですが,モヤがすごくて失敗写真のヤマとなりました。石垣系はほとんど失敗してました…<泣>。
曇り空の新鳥栖駅観光案内所に戻ったら,勝尾城は土砂降りということに驚かれました。
『やっぱり,もってるんだナ…☂』
雨男健在です。

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ぴーかる

勝尾城 (2024/02/11 訪問)

【勝尾城】
<駐車場他>筑紫氏館跡山の貝方駐車場数十台分ありに駐車しました。
<交通手段>車
<登山道>筑紫氏館跡から城山登山道と城山自然公園歩道の2つのルートがあるようです。私は城山登山道をチョイスしたので後述はどうなっているか分かりません。また勝尾トンネル(トンネルは通行止め)東側<33.399629, 130.466679>から城山登山道に入れます。矢印板があります。トンネル東側入口の道路脇が広い駐車スペースになっているので、そこに駐車し登山道に入り込めます。

<見所>大手曲輪・巨石群・石垣
<感想>1泊2日久留米・佐賀の旅ラスト9城目。勝山城は1423年または1491年に渋川氏が築城したとされます。渋川氏は少弐氏と争い、やがて少弐氏が当地を得るところとなり、1521年に一族の筑紫氏を城主に置くようになります。戦国時代末には城主筑紫広門は大友氏に味方し島津氏に城を攻められ落城します。豊臣秀吉の九州進攻により島津勢が撤兵した隙をねらって城を奪還します。筑紫広門はその功により秀吉から上妻郡18000石を与えられます。その後に城は廃城となったようです。勝尾城とその支城群、館跡等が国史跡になっています。
 上記登山道からは1000~1200m程で城跡に行けます。登山道は道になっていて矢印板も所々設置しているのでロストすることなく進めます。まず大手曲輪に到着します。大手曲輪は扇状の谷にあり、曲輪壁に石垣が多く残っています。また巨石が多くあり、巨石を防御壁にしたり、通路を塞ぐ虎口利用にしたりしています。大手曲輪一帯はかなり見応えがあります。大堀切と横堀の段壁・伝二の丸跡(東尾根曲輪群といったほうがいいかも)にも石垣跡が多く残っています。主郭主要部は中心部に主郭、少し高くなった壇になっています。南端に巨石の突き出た物見台、西方向に段曲輪が数段あります。南西側下段に横堀が走っています。主郭の石垣は南東面に少しだけ残存しています。物見からの眺望は絶景を見込まれるが曇天でほとんど見えずでした。
 季節がら今回の旅で山城は絶対入れたいと思い勝尾城を選びました。見応えのあるいい城跡で選択は間違ってなかった。お勧めです。走行距離1416㎞無事走破。

<満足度>◆◆◆

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城郭情報

分類・構造 山城
築城主 渋川義俊?、渋川義基?
築城年 応永30年(1423)?、延徳3年(1491)?
主な城主 渋川氏、筑紫氏
廃城年 天正15年(1587)
遺構 曲輪、石垣、土塁、横堀(空堀)、横堀、館跡
指定文化財 国史跡(勝尾城筑紫氏遺跡)
再建造物 説明板
住所 佐賀県鳥栖市牛原町
問い合わせ先 鳥栖市教育委員会教育部生涯学習課文化財係
問い合わせ先電話番号 0942-85-3695