ほりうちしんぐうじょう

堀内新宮城

和歌山県新宮市

別名 : 堀内氏屋敷、堀内屋敷
旧国名 : 紀伊

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①全龍寺山門と案内板
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昌官忠

(東海&関西)遠征19日目:堀内新宮城 (2025/06/02 訪問)

新宮周防守屋敷(城びと未登録 和歌山県新宮市)から徒歩2~3分で、全龍寺山門前(33.726514、135.986075)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、天正年間(1573年〜1592年)初期に堀内氏善によって築かれ、新宮屋敷の新宮行栄を敗り熊野地方を統治すると、和田森城から堀内氏屋敷へと移りました。
堀内氏善の父・堀内氏虎は1550年(天文19年)頃、内紛により衰退した有馬氏に次男若楠(後の氏善)を養子に送り込み乗っ取りに成功、1574年(天正2年)氏虎が没すると氏善が跡を継ぎ新宮西端の佐野に和田森城を築きました。
その後、氏善は尾鷲三木城や紀伊長島城を攻略、熊野三山の観光資源確保に努めましたが、織田信長が伊勢・北畠家を滅ぼすと織田氏に臣従しています。
1591年(天正19年)豊臣秀吉より熊野統治の支配権を与えられ、堀内新宮城を居城としました。
1600年(慶長5年)の関ヶ原の合戦では石田三成方として西軍に属し敗れた為、海部郡加太村(現在の和歌山市加太)に蟄居後、肥後国加藤清正の宇土城代を勤めたが、1615年(元和元年)熊本城内で没しました。

全龍寺山門脇に案内板がありました。西側に水路が残っていますが写真を撮り忘れました。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=越路城(城びと未登録 和歌山県新宮市)に徒歩で向かいました。

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とばつびしゃもん

熊野水軍の将、堀内氏善の居城跡 (2020/12/13 訪問)

戦国時代、熊野地方を支配した堀内氏の屋敷跡。周囲の道は狭く駐車スペース確保も難しい。
屋敷は全龍寺とその周辺にあったそうだが、遺構を確認できず撤退。

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キンヤ

新宮堀内氏の屋敷跡 (2023/08/27 訪問)

紀伊の戦国末期における東の旗頭とも言われる堀内氏の屋敷です(西の旗頭は湯川氏とも)。

堀内氏善の代には、熊野で勢力を持っていた七上綱と呼ばれた土豪を屈服させ、羽柴秀吉の紀州征伐の際には従い仕えて熊野統治を認められ、文禄・慶長の役では熊野水軍を率いて参陣したとされます。
しかし、関ヶ原の戦いでは西軍に付き敗れ、改易されたといわれます。

現在の全龍寺一帯が屋敷跡です。
全龍寺の東側の山門脇に説明板と石碑があります。
かつて屋敷の四方は水堀で囲まれていましたが、今は寺の裏手の西側・北西側に流れる水路が堀の名残りとされます。
市街化されていますが、堀跡を確認できて良かったです。

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しんちゃん

堀の中に住んでいるから堀内氏。そのまんまじゃない。 (2023/03/19 訪問)

金龍寺と周辺は戦国時代から近世初頭にかけて奥熊野地方を支配した堀内氏の屋敷跡であった。(現地案内板)
周囲五町(約550m)、四方に堀があったと記されている。
そのまんま堀内氏ということですね。
西方と北方に一部、小川が残っているそうです。
お寺が屋敷跡だと、けっこうイメージがつかみやすいかも。
山門なんか屋敷門そのまんまですからね。

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城郭情報

分類・構造 平城
築城主 堀内氏善
築城年 天正年間(1573〜1592)
主な城主 堀内氏
遺構 堀跡
指定文化財 市史跡(堀内氏屋敷跡)
再建造物 石碑、説明板
住所 和歌山県新宮市千穂1(全龍寺)
問い合わせ先 新宮市観光協会
問い合わせ先電話番号 0735-22-2840