現地案内板より抜粋
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2022/08/25 10:03
2022/04/30 06:59
小浜宿めぐり (2022/04/16 訪問)
伊丹台地の西端に位置する一向宗の毫摂寺を中心とする寺内町が戦国期に城郭化したもので、北・西・南の三辺は大堀川、東辺はため池と土塁で囲み、東門は京伏見街道、南門は西宮街道、北門は有馬街道に通じた要害かつ要衝の地でした。毫摂寺の娘が豊臣秀次の側室になっていたことから秀次切腹事件に連座して焼き打ちに遭いましたが、江戸期には宿場町として復興し繁栄しました。
小浜城としての明瞭な遺構は見られませんが、台地の縁らしく思いのほか眺望が開けていたり住宅地の中にクランク状の道があったり、かつての面影を伝える史跡は遺っていますので、あちこちめぐってみました。
毫摂寺
小浜御坊とも呼ばれる寺内町の中核寺院で、豊臣秀吉や千利休、豊臣秀次が有馬温泉への道中に宿泊したとされます。毫摂寺の次女(小浜の局)はその時に見初められた挙げ句に処刑され、さらには焼き討ちまでされるんですから、もう滅茶苦茶ですよね…。立派な本堂は江戸末期の再建です。
小浜宿資料館
山中鹿之助を祖先とする山中家住宅の敷地内に建つ資料館で、交通の要衝としての制札や大工の町として大工道具など小浜宿についての資料が展示され、中でも町並みのジオラマは精密な出来で、大堀川とため池に囲まれた小浜城の縄張がよくわかりました。また、敷地内には利休が秀吉に茶をたてた際に用いたと伝わる玉の井があり、申し出れば見学することもできます。時間のある方は資料館の方が丁寧に案内して下さいますので、ぜひどうぞ。
代官所跡
代官所跡は公民館になっていて、通り沿いに石碑と高札場(復元)が建てられています。
井川家住宅
清酒「菊仁」の造酒屋で、阪神淡路大震災で小浜宿の建物の多くが倒壊した中、江戸期の建物が現存しています。ブラタモリの宝塚の回ではタモさんが井戸の水汲みをしていました。
門跡と愛宕宮
東門、南門、北門ともに門自体は遺っていませんが、それぞれ門跡の石碑(北門には説明板も)と門の脇にあった愛宕宮が見られます。
大堀川
小浜城の北・西・南の三辺を囲む堀代わりの川ですが、城郭化した際に人工的に流路を変えたと考えられます。特に北辺ではかなりの深さの谷状になっています。
旧和田家住宅
江戸期に飯野藩領の庄屋を務めた和田家の住宅で、阪神淡路大震災で半壊するも古材を用いて修復され、往時の姿を今に伝えています。建物内は歴史民俗資料館として公開されており、土蔵や井戸が見られるほか、長槍やとび口が展示され、訪問時には豪華な御殿飾り雛も飾られていました。小浜城の外ではありますが(北門跡から徒歩1分)、なかなか見応えがありますので、時間が許せばぜひ。
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2021/09/11 10:19
小浜城 (2021/07/17 訪問)
【小浜城】
<駐車場他>南門跡北側にコインPあり。
<交通手段>バイク
<見所>堀・堀切・資料館・町並
<感想>小浜(こはま)城は永禄年間(1558〜1570)に寺内町として亳摂寺を中心として発達しました。小浜の地は西宮街道・京伏見街道・有馬街道の合流地点街道の要で寺内町は台地状に北東側から流れ込む大堀川を利用し、東に堀溜池を造り、北~西側にかけて人口の堀川を廻らしている。信長の本願寺攻めの際には信長方に付きその難を逃れている。豊臣時代亳摂寺の娘が豊臣秀次の側室となっていたために秀次事件の後この小浜は焼き討ちにあっている。焼き討ち前後どちらかは分からないが、秀吉が秀次事件のあと有馬に湯治に行っているので間違いなくこの地を通っている。そこまでするか、すごい神経しているな、晩年の秀吉は。焼き討ち後江戸時代は小浜は宿場町として再発展し酒造り等も盛んになりました。
まず資料館を見学し小浜の見所ビデオ、寺内町のジオラマと館員の方の説明はとてもいいです。資料館横に山中家(山中鹿之助の子孫宅)住宅庭に秀吉・千利休が茶の湯に利用した「玉の井」という井戸が残されています。資料館内からしか行けません。そのご資料館前にバイクを駐輪させてもらい散策、亳摂寺、南・東・北の木戸跡、首地蔵、大へんふるい道標(石柱)、江戸時代の高札、寺内町北の大堀切と大堀川等見所多いところ、2時間以上たっぷり楽しめます。
<満足度>◆◆◇
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2019/05/05 21:08
天然の地形を利用した寺内町。 (2019/05/05 訪問)
初めて小浜宿に行って参りました。
「おばま」ではありません。「こはま」と読みます。
明治時代以降に宝塚温泉街に賑わいが移るまで、ここが宝塚で一番賑わった場所でした。
西宮街道、有馬街道、京伏見街道が合流する交通の要衝であり、江戸時代には宿場町として明治時代まで大いに栄えた小浜宿ですが、そのルーツは16世紀前半までに成立していた浄土真宗(一向宗)門徒による寺内町に由来します。
小浜の寺内町は周辺よりも高くなった台地上に寺内町を展開するといった風に、地形を巧みに利用した町で、今でも大堀川沿いにその面影を見ることができます。
但しこの大堀川、何と人口の堀なんだとか。
道理で流路が自然っぽくないわけだ。
かなりの大規模な土木工事だったことでしょう。宗教の力、恐るべし。
そして北、西、南側をその大堀川がぐるりと巡り、東側には土塁と堀が守りを固めていたといい、東門跡周辺に僅かながらその跡が残っています。
また、北門跡には現在国府橋が架かっていますが、これは明治時代以降に架けられたもの。
本来は、小浜に北から入るには細く狭い『いわし坂』を通らなくてはならず、この辺りの大堀川はさながら深い谷のようです。
なるほど、所謂『小浜城』と呼ばれるわけです。
小浜の寺内町の中心は、小浜御坊の別名を持つ毫摂寺です。
このお寺の出身の娘が、後に豊臣秀次に見初められ側室として嫁ぐ小浜の方ですが、例の秀次事件によって六条河原で一族もろとも処刑されてしまいます。そしてその件に連座して小浜の町は焼き討ちされてしまうという、実に血生臭い歴史があるのです。
寺内町から宿場町への転換期はこのあたりからかもしれません。
元々交通の一大拠点で賑わっていたし、秀吉が有馬へ湯治に向かう途中に千利休に茶を点てさせた話もあるほど良質な水が豊富だった事もあり酒造りの名所としても知られていたそうです。
平和な世の中になり、いつしか物々しい防御の必要性は薄れていったことでしょう。
今は年月の経過と共に古い建物は姿を消してゆき、阪神大震災によって甚大な被害を受け、当時の面影はすっかり薄れてしまいましたが、町割りと町名は当時のまま。
当時の賑わいに想いを馳せながら歩くのも良いものですよ。
…なんか、『小浜城』じゃなくて『小浜宿』のレポートになってしまいましたねw
あ、マイカーで訪れるならば『旧和田家住宅』近くのコインパーキングが安いしオススメですよ。
但し道が結構狭いので、くれぐれも通行には気をつけて。
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分類・構造 | 平山城 |
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築城主 | 一向一揆勢 |
築城年 | 永禄年間(1558〜1570) |
主な城主 | 一向一揆勢、池田恒興、豊臣秀次 |
遺構 | 土塁、横堀(水堀)、門跡 |
住所 | 兵庫県宝塚市小浜4(亳摂寺) |
問い合わせ先 | 宝塚市国際観光協会 |
問い合わせ先電話番号 | 0797-77-2012 |