日本100名城

おかざきじょう

岡崎城

愛知県岡崎市

別名 : 龍城、竜城、竜ヶ城
旧国名 : 三河

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岡崎城
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トベシュン

愛知・三重・岐阜・愛三岐に佇む8名城と2古戦場めぐり (2024/09/06 訪問)

愛知・三重・岐阜・愛三岐に佇む8名城長篠城跡、岡崎城、岩村城跡、岐阜城、犬山城、松坂城跡、伊賀上野城、名古屋城と
2古戦場三方ヶ原古戦場跡、設楽ヶ原古戦場跡めぐりしました。

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attu

天守他 (2024/08/26 訪問)

所要時間は1時間ぐらいです

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宗春

夏休み中にちょっと城めぐりしよう その2 (2024/08/16 訪問)

会社の夏季休暇にいくつか城めぐりしました。
2城目は岡崎城。

JR東海の「EXたび」で新幹線とコラボした特別な御城印付きのプランがあったため飛びつきました。
岡崎城は何度も訪れているため、写真は1枚だけ。夏限定「金龍と花火」の御城印も合わせて入手しました。

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トク

113【関ケ原の26人】(26)井伊直政 (直政と岡崎城) (2024/02/16 訪問)

(26人目)井伊直政の続き⑮です。ここから直政後半戦に入ります。またよろしくお願いします。

岡崎城の訪問は二度目です。前回は(12人目)「田中吉政」を追って岡崎城を訪れました。今回は「井伊直政」を追ってです(またも家康様でなくごめんなさい😥:写真①②)。

1585年小牧長久手の戦いで家康に敗れた秀吉ですが、このままじっとしている理由がありません。翌1586年、大垣城に大量の兵糧を運び、次の決戦へ向け万全の準備をします。そして今度こそ打倒家康と一カ月後に出陣するよう天下に号令をかけます。しかしその直後、天正の大地震が発生し、大垣城を始め築城中の伏見城など多くの城が何と倒壊! 秀吉はもう家康どころではなくなってしまいました。そこで妹の「あさひ」を正室として岡崎城へ差し出し、さらに母(大政所=なか)までも人質として岡崎城へ差し出し、強硬策から懐柔策へと切替えます。さすがの家康もこれには折れ、形だけの臣下の礼をとるため一カ月の間、大坂城を訪れました。直政はその間、岡崎城の留守居役を務めています。その時の遺構がどこかにないか? 岡崎城内をくまなく探してみましたが、見つかりませんでした。しいて言えば直政の名前が入った花壇があり、そこに花がきれいに咲いていたのと(写真③)、大河ドラマで井伊直政役を演じていた板垣李光人さんのパネルを見つけたくらいです(写真④)。なかなか岡崎で直政の痕跡を探すのは難しかったようです。

大政所が岡崎城に一カ月間滞在している間、直政は毎日のようにお菓子などを持って行き、話し相手をしてあげたとか。それで大政所はとても直政の事を大変気に入ったようです。しかしその様子が大河ドラマ「どうする家康」では、高畑淳子さんがおおげさに演じていられたのには、ちょっと笑ってしまいました。直政とはいったいどんな人物だったのか、なぜ皆にこんなに好かれるのか、不思議でなりません。そして家康が無事に大坂より戻ると、今度は直政が入れ替わりに大政所を丁重に大坂城まで送り届けたようです。その際に秀吉にも会い、家臣にならぬかと誘われるなど、秀吉は以前から直政に一目置いていたようです。しかし直政は、これを丁重に断り、そして同席していた裏切者の石川数正には罵声を浴びせて帰ったとか。また同じく同席していた小早川隆景からは何と、「直政は小身なれど天下の政道相成器量あり」と絶賛されたようです。

岡崎城外に出ると、唯一直政に関するものとして、直政の石像がありました(写真⑥⑦)。大手門(写真⑤)前から10分程国道1号を東に歩いた場所です。長久手の戦いで敵陣に向かって行く姿をイメージして造られた石像だそうです。しかしなぜか(🤔?)馬の首がありません。(誰だ壊した奴は😠!)と思ったら最初からのようで、作者の意図らしく理由は不明です。そして、ここにあった説明を読んでいてビックリしたのですが、実はこの石像のすぐ後ろにあるNTTビルの場所(写真⑧)が、当時築山があった場所(正室の「瀬名」が住んでいた場所)だそうです。

岡崎城内の茶屋では、八丁味噌を使った「味噌田楽定食」をいただきました(写真⑨)。とても美味しかったです。でもあとデザートに“ぴーこさん”が投稿されていた直政パフェがあるとは知りませんでした(食べたかった😩くやしいな~)。

次は、秀吉と北条との決戦(小田原攻め)に続きます。再び小田原で直政と北条の、二度目の関りを追いたいと思います。
 

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概要

元々は徳川家康の祖父・松平清康の本拠。家康がこの城で生まれたことから、徳川家の聖地として重視された。豊臣家臣の田中吉政が近世城郭に改修し、その後本多康紀が藩主の時に付櫓と井戸櫓を付属した三層三階地下一階の天守が築かれた。本丸北側を防御するための清海堀など、中世の遺構がよく残っている。

城郭情報

城地種類 平山城
築城年代 享徳元年(1452)(享徳4年説あり)
築城者 西郷頼嗣
主要城主 西郷氏、松平氏、石川氏、田中氏、本多氏、水野氏
文化財史跡区分 市史跡(岡崎城跡)
近年の主な復元・整備 松平清康、田中吉政
天守の現況・形態 複合連結式望楼型[3重3階/1617年築/破却(廃城令)]、複合連結式望楼型[3重3階/1959年再/RC造復興]
主な関連施設 復興天守、門、石碑、説明板
主な遺構 曲輪、石垣、横堀(空堀・水堀)、井戸
住所 愛知県岡崎市康生町561
問い合わせ先 岡崎市教育委員会事務局社会教育課文化財班
問い合わせ先電話番号 0564-23-6177