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駿府城

発掘の様子を間近で見学できるチャンス!

現在、駿府城跡天守台発掘調査現場では一部エリアで発掘調査が行われており、掘削作業を間近で見ることができます。
※発掘調査についての詳細は前回の記事をご覧ください。
 
作業員たちがツルハシやスコップを使って、一つ一つ慎重に掘り進めていく姿は迫力満点です!
さらに、発掘作業員の姿にも注目!全員が揃って着用しているユニフォームは、徳川家康にちなんだ特別デザインです。ビブスには「葵紋」があしらわれ、ヘルメットには家康公の甲冑である歯朶具足(しだぐそく)の兜(かぶと)の模様が施されています。このこだわり、歴史好きにはたまらないですよね。
発掘調査の様子を間近で見られるのは発掘調査が行われている期間だけです!
静岡にお越しの際は、ぜひ駿府城跡天守台発掘調査現場に足を運んでみてください。

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トベシュン

福井・滋賀続百名城めぐり (2024/11/09 訪問)

福井・滋賀続百名城めぐりで、福井城・越前大野城・佐柿国吉城・玄蕃尾城・八幡山城・鎌刃城
の六城に登城しました。

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トベシュン

福井・滋賀続百名城めぐり (2024/11/09 訪問)

福井・滋賀続百名城めぐりで、福井城・越前大野城・佐柿国吉城・玄蕃尾城・八幡山城・鎌刃城
の六城に登城しました。

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トベシュン

福井・滋賀続百名城めぐり (2024/11/08 訪問)

福井・滋賀続百名城めぐりで、福井城・越前大野城・佐柿国吉城・玄蕃尾城・八幡山城・鎌刃城
の六城に登城しました。

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トベシュン

福井・滋賀続百名城めぐり (2024/11/08 訪問)

福井・滋賀続百名城めぐりで、福井城・越前大野城・佐柿国吉城・玄蕃尾城・八幡山城・鎌刃城
の六城に登城しました。

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トベシュン

福井・滋賀続百名城めぐり (2024/11/07 訪問)

福井・滋賀続百名城めぐりで、福井城・越前大野城・佐柿国吉城・玄蕃尾城・八幡山城・鎌刃城
の六城に登城しました。

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トベシュン

福井・滋賀続百名城めぐり (2024/11/07 訪問)

福井・滋賀続百名城めぐりで、福井城・越前大野城・佐柿国吉城・玄蕃尾城・八幡山城・鎌刃城
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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)14日目:西宮砲台 (2024/10/05 訪問)

香櫨園駅から徒歩20分くらいで、説明板前(34.724389、135.333042)に着きました。

1863年(文久3年)江戸幕府によって築かれました。江戸幕府は大阪湾防備のため砲台を築くことを決め、軍監奉行勝海舟がその築造場所を調査決定しました。
完成は1866年(慶応2年)で当初の予定であった稜堡式ではなく円形で築かれました。

西宮砲台は御前浜公園の一角にあり、堤防の外側の砂地に堡塔が残されています。
攻城時間は15分くらいでした。本日の城巡りは、ここがラストです。
本日の宿泊先に向かう前に、東町バス停から阪急バスと阪急神戸本線の電車を利用して十三駅に向かい、そこでコインロッカーより荷物を取り出し、本日の宿泊先の滋賀県の八日市駅に向かいました。
本日の攻城徒歩=34068歩、攻城距離=23.84Kmでした。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)14日目:小松城 (2024/10/05 訪問)

武庫川駅から徒歩5~6分くらいで、供養塔入口(34.721389、135.379902)に着きました。

現在、岡太(おかだ)神社となっている場所が城跡推定地のようです。
最も著名な城主は、平安時代の武将かつ、公家だった平清盛の嫡男・平重盛です。現在は地形も改変されてしまったようですが、かつては「伏松」と呼ばれる小高い丘が、神社の西南にあったらしく、そこに重盛の居館があったと考えらているそうです。

供養塔を確認しました。
電車の時間が迫っていたので、速攻撤退です。攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=西宮砲台を目指す為、武庫川駅から電車で香櫨園駅に向かいました。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)14日目:大和田城 (2024/10/05 訪問)

千船駅から徒歩10分弱で、大和田小学校正門前(34.706579、135.445386)に着きました。

大和田城は「石山合戦」の舞台となった城のひとつです。石山本願寺の支城として下間氏が守備していましたが、1575年(天正3年)に織田信長の命を受けた荒木村重が攻撃して落城させています。
その後は石山本願寺包囲網のひとつとして信長によって改修され、村重の家臣である安部仁右衛門良成が城主をつとめました。

遺構はなく、大和田小学校の敷地内に石碑が建てられています。門外から写真を撮りましたが、レンズに着いたゴミで投稿できません。
門外にある説明板の写真は大丈夫でした。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=小松城を目指す為、千船駅から電車で武庫川駅に向かいました。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)14日目:黒丸城 (2024/10/05 訪問)

鳥飼本町一丁目バス停から徒歩5分くらいで、黒丸城石碑前(34.780559、135.587825)に着きました。

黒丸城の詳細については不明のようですが、三好一族の同族争いや、三好氏と織田信長との戦いにおいて使用された三好氏の支城と考えられてます。

鳥飼仁和寺大橋北側道路の東側歩道上に石碑と案内板があります。
鳥飼本町一丁目バス停でのバス待ち時間に家具アウトレット(ビッグウッド)さんにトイレを借りました。
攻城時間は2~3分くらいでした。次の攻城先=大和田城を目指す為、鳥飼本町一丁目バス停から近鉄バス➡阪急電車➡阪神電車を乗り継ぎ、千船駅に向かいました。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)14日目:沢良宜城 (2024/10/05 訪問)

真砂一丁目バス停から徒歩15分弱で、美沢公園内石碑/説明板前(34.798221、135.569141)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、城主は藤井三位で1399年(応永6年)周防山口の大内義弘が堺へ進出したきたときに、室町幕府の「御馬廻衆」として二千騎を率いて出陣したそうです。

沢良宜城は佐和良義神社の西側一帯に築かれていたと考えられていますが遺構はなく、参道入口の西にある美沢公園に石碑と案内板があるのみです。
佐和良義神社の参道は南北に長く残っており、かつての沢良宜城の馬場であったとも云われています。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=黒丸城を目指す為、沢良宜橋バス停から近鉄バスで鳥飼本町一丁目バス停に向かいました。

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しんちゃん

また訪問して見たい (2024/10/13 訪問)

実は私も熊が怖くないわけではありません。ただ過剰に熊に反応し過ぎて行動の幅を制限しすぎるのがイヤなわけです。山城をガンガン攻める城びとの皆さんなら城山で熊のフンを見かけるのは特別珍しいことではないのでは?と思います。
かといって、無策で山に入るのはただの蛮勇ですので、自分なりに対策と知識を持って訪問しています。高原諏訪城は土城に続いて飛騨で最初に訪問した山城です。何となく音がする気がするので、主郭周辺と北側の郭までにとどめて引き返していますが、東側の遺構も見ておくべきだったかと考えています。これで二回目の訪問になりますが、近くを通りがかったら三回目の訪問もあるかもしれません。
高原諏訪城は周辺では最も遺構の充実した城なので。
公式でやってた2城訪問と食事会も参加して見たかった気がします。江馬氏下館のガイドさんは只者ではないですし、たまにはゆっくり時間をかけて楽しんでみるのも面白いかも。今回はコンプ優先だったので、けっこう力押しで訪問しています。

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しんちゃん

高原諏訪城の支城 主郭→三の郭へ (2024/10/13 訪問)

石神城は江馬氏の本城・高原諏訪城の支城の役目をしています。構造的には主郭の西に二郭、三郭が連なり主郭の左に堀切があり三の郭の先にも堀切が有るようです。二の郭は藪に覆われていて通過は不可能なので、一度主郭から元来た道を引き返し、鉄塔の有る場所から二つ目の鉄塔を目指します。そこが二の郭の下段の扁平地となり、その先が三の郭になります。
支城だけあって、比較的簡素な造りになるようです。そういえば、登城中に熊のフンがありました。そこで引き返すかは、当人の判断になります。熊は移動距離が多いので、数日前に通過して行った可能性もありますが、エサが豊富にあるのなら周辺にまだいる可能性もあります。
寺林城でも見たような気がしますが、あれはちょっと確信がないですね。飛騨・高山は昔から熊が出るので、地元の人達は熊と上手く付きあっている気がします。地元や行政・漁師との信頼関係が出来ているのではないでしょうか。私も危険と判断したら、引き返すことにしています。

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しんちゃん

和歌山城 御橋廊下・西之丸庭園 (2024/01/25 訪問)

天守郭の北側を通って名勝・西之丸庭園(紅葉溪庭園)に入ります。徳島城の大石橋のは及びませんが、ここにも緑泥片岩の石橋があります。雨に濡れた緑泥片岩は本当に美しいです。私はこの庭、好きですね。
先は西の丸広場に通じていて、御橋廊下が復元されています。西之丸は紀州藩初代藩主・徳川頼宣の隠居所として築造され御橋廊下は藩主とお付きの人だけが西之丸と二之丸の間を行き来することが出来ました。残された図面や出土物・礎石などを元にして平成18年3月に復元完成しています。

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しんちゃん

隠れ良い城。 (2024/10/06 訪問)

笠間城は特に案内板などは有りませんが、遺構が良好に残っています。奈良の山城はこういった比較的放置された城が多いですね。主郭の北側は堀と土塁で守られています。主郭も北側に土塁が良く残っていて、東西両端に櫓台らしきものが残っています。
特に東側が見ごたえがあり、土橋が上まで続いています。特に北側の守りが厚い城のようです。

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しんちゃん

柳生定食・出前編 旧柳生藩家老屋敷・小山田主鈴邸宅 (2024/11/02 訪問)

柳生陣屋近くの無料駐車場から歩いて程なくのところに旧柳生藩家老屋敷・小山田家住宅があります。車道も通じているようですが、カーナビにも地図にも載っていないので歩いてくる方が無難です。石垣を積んだ上に邸宅が建てられていて正直、陣屋跡より雰囲気が有りますね。柳生の里は城びとなら楽しめそうな場所がたくさんありますが、いかんせん城郭関係の遺構が多いので、一般のお客さんはそんなに来ていません。ちょっと勿体ない気がします。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)14日目:目垣城 (2024/10/05 訪問)

目垣バス停から徒歩5分弱で、佛照寺門前(34.806320、135.592822)に着きました。

目垣城の詳細は不明ですが、在地の土豪・溝咋氏代々の居城で、山田城の13の支城(山田十三城)のひとつのようです。
安威川左岸、育英橋を下ったあたりが城址に推定されています。

遺構は残っていませんが、医学博士奥田光記念館の北側敷地に、城跡碑があります。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=沢良宜城を目指す為、大同町北バス停から近鉄バスで真砂一丁目バス停に向かいました。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)14日目:茨木城 (2024/10/05 訪問)

茨木市駅から徒歩10分くらいで、復元櫓門(34.820507、135.572192)に着き、その後、片桐氏茨木在城碑(34.820778、135.571164)➡茨木城移築搦手門がある茨木神社東門(34.817770、135.5702210)に向かいました。

築城年代は定かではないようですが、建武年間(1334年〜1336年)楠木正成によって築かれたとも云われています。
1568年(永禄11年)城主茨木佐渡守は摂津に侵攻した織田信長に降り領土を安堵されましたが、1571年(元亀2年)池田衆との合戦に破れ滅びました。
1577年(天正5年)には中川清秀が入城し、本能寺の変の後は羽柴秀吉に仕えたが、1583年(天正11年)賎ヶ岳合戦で大岩山砦に布陣していた所を柴田勝家の武将佐久間盛政によって急襲され討死しました。
家督は嫡男中川秀政が継ぎ、1586年(天正14年)播磨国三木に150,000万石で加増転封となりました。
1601年(慶長6年)片桐且元・貞隆兄弟が入りますが、大坂の陣の前に徳川氏への内通の疑いを掛けられ豊臣氏と決別、大坂の陣の後は且元が40,000石、貞隆が16,400石の大名となりました。
1615年(元和元年)且元が死去し貞隆は大和国小泉に転封となり、一国一城令によって破却されました。

現在の茨木小学校一帯が城址といわれます。 小学校には現在、慈光院に移築された茨木城楼門を複製した校門が建てられています。
茨木小学校構内にある片桐氏茨木在城碑はフェンスで見えませんでした。
茨木神社周辺に石垣が確認できます。
バスの時間が迫っていたので、駆け足で廻り攻城時間は20分くらいでした。次の攻城先=目垣城を目指す為、茨木市役所前バス停から京阪バスで目垣バス停に向かいました。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)14日目:普門寺城 (2024/10/05 訪問)

摂津富田駅から徒歩15分ちょっとで、普門寺山門入口(34.829507、135.593189)に着き、その後、土塁遺構(34.830662、135.592391)に向かいました。

普門寺は1390年(明徳元年)説巌によって開かれた寺院です。
1561年(永禄4年)に管領細川晴元は三好長慶と和睦し、剃髪したのち隠棲したのがこの普門寺で、城郭化されて普門寺城とも呼ばれていました。1563年(永禄6年)晴元はこの普門寺城にて没しました。
1566年(永禄9年)足利義栄は三好三人衆に擁されて普門寺城に入り、十四代将軍宣下を受けましたが、在任期間はわずかでした。

普門寺は枯山水の庭園が有名で、その一角に細川晴元の墓と伝える宝篋印塔があるそうですが、時間の都合でパスしました。
普門寺城は現在の普門寺境内一帯に築かれていました。
土塁遺構は境内の北西部分にあり、これは外側の道路沿いからでもフェンス越しに見ることができますが、 ただどれほどの規模の土塁なのかははっきりしません。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=茨木城を目指す為、富田駅から電車で茨木市駅に向かいました。

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