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トベシュン

東京続百名城巡り (2025/03/22 訪問)

半日の東京続百名城巡りで品川台場を巡ってきました。

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しんちゃん

富士道中 (2025/03/22 訪問)

富士五湖めぐりの続きです。「城びと」じゃなくて「富士びと」じゃないか・・と言われそうですが、ご容赦を。
城・桜・富士山はやはり風情があっていい。豊橋市に住んでいるので3時間ぐらいで、すそ野まで行けます。すぐ近くじゃ無いのが良いんですよ。個人的には桜・富士山が見える城で一杯やりたいです。そんな城は無かったかな? できれば天守も欲しい。
山中湖→河口湖→精進湖→本栖湖の順で回りました。西湖はどうしたって? 申し訳ないがパスです。西湖は一か所からしか富士山が見えないので、今回ははしょりました。それぞれ違った角度から見ると別の表情を見せてくれます。宝永火口の側から見た富士山も新鮮な感じがして良かったです。

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todo94

献血前の登城① (2025/03/15 訪問)

全都道府県で5回以上の献血達成がそろそろ見えてきました。4回しか献血をしていない県のうち、雪の心配が少なく距離も手ごろな茨城県を行き先に選びました。午前2時に起きて2:30に出発。今まで茨城に行くときは上信越道、北関東道経由でしたが、今回初めて中央道と首都圏中央連絡自動車道でアプローチしました。圏央道は運転の荒い車が多くあまり走りたくない道です。登城直前にすき家にて朝食をとりました。駒城に近づくと近辺の様子が先達の皆さんの投稿写真と明らかに違っています。そう、樹木がきれいに伐採されていたのです。ごく一部の土塁しか残されていない城にとっては過分の好待遇のように思えました。

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イオ

麒麟がくる紀行(丹波攻め)

(続き)

織田軍の一員として各地を転戦していた明智光秀は賜姓と任官を受けて惟任日向守となり、織田信長の命により丹波攻めを開始します。しかし丹波は山間部に国衆が割拠している上に足利義昭を支持する国衆が多いため、困難な戦いとなりました。

余部城(京都府亀岡市)を丹波攻めの拠点として、小畠永明や川勝継氏らの協力により宇津城(京都市右京区・未訪)を攻め、千手寺城(亀岡市)を足掛かりに八木城(京都府南丹市)を攻略し、御影山城(亀岡市)、須知城(京都府京丹波町)、笑路城(亀岡市・未訪)など反信長の諸城を降していく中で多紀郡を領する波多野氏など光秀に従う国衆も増えていきましたが、「丹波の赤鬼」と恐れられる荻野(赤井)直正が籠る黒井城(兵庫県丹波市)の包囲中に、義昭の調略によって波多野秀治が離反し、背後を衝かれた光秀軍は総崩れとなって敗走。これにより光秀に従っていた国衆の多くが離反し、丹波攻めは頓挫してしまいました。

その後しばらく畿内周辺を転戦していた光秀でしたが、丹波での新たな本拠として亀山城(亀岡市)を築いて丹波攻めを再開。波多野氏の八上城(兵庫県丹波篠山市)を攻略するため、神尾山城(亀岡市)を中継地として籾井城(丹波篠山市・未訪)や細工所城(丹波篠山市)などの支城を攻め、八上城の周囲には堀や柵をめぐらせ付城群を築いて完全に包囲。黒井城との間には金山城(丹波篠山市)を築いて両城の連携を断ち、ついに八上城は落城。波多野秀治らは神尾山城を経て安土に送られ磔となりました。さらに前年に荻野直正が病死していたこともあって八上城に続いて黒井城も攻め落とし、福知山周辺の掃討戦を経て丹波平定を果たしました。

丹波攻めにおける光秀ゆかりの史跡としては、八木城には光秀が勝鬨をあげたと伝わる勝どき岩、落城時に内藤一族の姫が脱出したと伝わる姫の洞窟があります。須知城には光秀が改修したと思われる見事な高石垣が遺り、山麓の玉雲寺は落城時に焼失するも光秀が再興したと伝わります。八上城には波多野氏の人質となっていた明智光秀の母が磔にされたと伝わる松の跡がありますが、あくまで伝承であって、史実としては否定されているようです。

(続く)
 

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赤い城

力を振り絞って (2025/02/23 訪問)

幸山城まで来たので福山城を目指さない訳にはいきません。
脚は限界に近いのですが登城路は整備されているので登っていきます。
土橋状になった道を経て進みます、が結構な急坂。
おまけにまた雪が舞ってきました。
八畳岩を経て妙見展望台には見向きもせずひたすら登ります。

ようやく主郭、福山山頂です。
北側が一の檀、西に浅くなった空堀があります。
二の檀との間には門跡と石列、その先には井戸跡もあります。
二の檀西側にも空堀と土塁が残ります。
天気が良ければ眺望も良さそうですね。
二の檀と三の檀の間にも石列が残ります。

南北朝時代に大井田氏経が足利軍の東上を阻止するために籠城して戦った福山合戦の舞台ですが元々は山岳寺院を改修して城郭にしたそうです。

山城連戦、さすがに疲れました😅
加齢による体力の衰えを痛感しました、がこの鍛錬が2週間後の登城に役立つことになりました。

【見どころ】
 ・曲輪を分ける石列と井戸跡
 ・主郭部からの眺望

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姫りん

20万都市 戦国大名大集結‼️ (2025/03/22 訪問)

太閤秀吉、朝鮮出兵の拠点!
破却の石垣に幻の城が眠っています。
お城インスタグラマーKAORIさんと城内を巡りました。

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しんちゃん

上田城

先日訪問した際は冬季休館で東虎口櫓門と北櫓・南櫓は公開されていませんでした。10年ほど前に訪れた際には、内部を見ることができたので、少し古い写真ですが投稿させていただきます。
だいぶ暖かくなってきて、気温だけならすっかり春です。上田城も、そろそろ櫓も公開がされる時期だと思います。忙しくて、何度も訪れることは出来ませんが、地元の方であれば桜の時期や紅葉の時期に訪問して、それぞれの季節ごとに楽しむことが出来ると思います。
そろそろ桜の季節になりますね。来週末か、涼しい所だと再来週あたりでしょうか。

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城めぐりのきっかけ

 遅ればせながら城めぐりのきっかけの投稿です。
城めぐりのきっかけは、自分も50代のある日100名城スタンプ帳付きの城の本を買ったことです。もともと小学生、中学生の頃、日本の歴史が好きで同じ趣味を持っていた同級生と名古屋城とか岩村城などへ行っていました。その頃のことを書くと長くなるので今回はパスします。高校生、大学生の頃は部活に夢中になり、社会人となってからは土曜日、日曜日も出勤、出張することが多く城へ行くこともほとんどなく過ごしました。ただ歴史小説は好きで多忙な時期でも時間があるときは司馬遼太郎や池波正太郎などの小説は読んでいました。50歳頃、出会ったのが100名城のスタンプ帳です。出張したときに時間があれば城址へ行ってスタンプをゲットしようと思ったことと、運動不足なのでメタボ対策にもなるだろうという安易な気持ちで城めぐりをスタートしました。それほど気合を入れることなくぶらぶら回っていたのですが、小谷城へ行ったときに山城に目覚め、スイッチが入ります。100名城に限らず積極的に山城を中心に登城するようになりました。60歳近くになり仕事等に時間的な余裕ができ、また働き方改革という国の方針で休みを取りやすくなったことも後押しになったと思います。城びとは城の情報を求めてネットサーフィン(死語?)をしていたときに出会いました。当時は登録者も今より少なかったのですが、多くの方が城めぐりを楽しんでいることを知りました。城びとのおかげで城の痕跡が全くない城址碑だけの城跡や学校、神社仏閣などになってしまっている城跡も行くようになり、登録されている城を登城して「行ったお城」の数が増えて行くことは励みになりました。
 最近はは城びと登録の城に限らず行きたい城に行くことにしています。また過去に登城したことのある城でも、行きたくなれば繰り返し行くようにしています。

 ただ今は花粉症の季節となり、今週からその症状に悩まされています。今日も天気のいい土曜日でしたが、気力を削がれ籠城していました。 それなりの年齢になってきたので、自分のペースでボチボチ城めぐりをしていくことにしています。

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しんちゃん

甲府城

10年ほど前の写真になりますか、甲府城の投稿です。先日も訪問していますが、その時は鉄門を訪れていなかったので、少し古い写真を掲載させていただきます。
甲府城は一条小山に築かれ、古くは平安時代後期に甲斐一条氏の一条忠頼の居館があったとされています。甲府城の築城は豊臣秀吉が天下を取ってから本格的になされ、加藤光泰や浅野長政・幸長父子の時代に近世城郭として築かれたようです。また江戸時代の柳沢吉保の治世のころにも、家老の薮田重守によって、城と城下町の整備が行われ、曲輪の増築や御殿の建設も行われたようです。

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しんちゃん

富士道中 山中湖 (2025/03/22 訪問)

富士五湖に行ってきました。別に異能の者の情報があったからではありません。たまには家族にサービスをしないと。
富士五湖に来たがっていた母を連れてきてあげました。今日は城びと稼業は休業です。
今日は暖かかったですね、この辺りでも15℃以上はあったと思います。静岡市や名古屋市はもう暑かったんじゃないでしょうか。
富士五湖周遊 まずは山中湖から出発です。周囲は中国の人達がいっぱい来ています。ぎゃーぎゃーうるさい・・じゃなくて、日本にようこそ。白鳥の遊覧船の発着場周辺には鴨がいっぱいいます。めちゃくちゃ人に慣れています。近くでエサを売っているので、すっかり餌付けされているみたいです。
鴨にエサをあげていると、遠目に見ていた白鳥も寄って来ました。って、デカッ! 白鳥でかいです! 鴨の数倍のボリュームが有りますね。エサをめちゃくちゃ良く喰います。勢い余って私の手をカプッ! でも甘噛みしてくれるので大丈夫です。ちょっと怖いわ。

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チェブ

本日本命『弘経寺』の巻 (2025/03/01 訪問)

今回、「豊田城」近辺のお城趾をグルっと巡りましたが、こちらの『弘経寺』が一番の目的地です(お城とちがうんかーい)

北条氏VS多賀谷氏で、多賀谷氏が陣をはり御堂は焼失し、上人も逃れていた為に無主時代があったそうです。
後に徳川 家康さん・秀忠さん・家光さんが了学上人に帰依しました。
家康さんの孫娘、千姫も再建に多大な寄進をしたそうです。
千姫は『弘経寺』の奥の墓所でお眠りになってます。

千姫と言えば、7歳で豊臣 秀頼さんのもとへ輿入れし、後の大坂の陣で豊臣の命乞をする為、大阪城から出たところを助けられました。
と、歴史では悲劇のヒロインの千姫が、なぜ茨城県に?
とりあえず、千姫のお墓参りです。

『弘経寺』の参道を歩き右手に手水所、こちらは亀さんです。
我が家の26歳になる亀が冬眠から目を覚ましました。翌日、雪だったので、ウトウトしてました(^_^)

至る所に葵の紋が使われてます。
御堂の左手に、千姫の御墓があります。写真⑤の奥です。
秋には彼岸花が彩るそうです。
トイレを借りました。
、、、ん?なんか不自然。、、、!
姫と殿の家紋が逆。でも、おもしろいから写真をパチッ。

浄土宗は極楽浄土に行けば親しい人と再会できる教えなんだとか。
千姫は、誰と再会したのかな?
御墓で眠る千姫のこれからを想う『弘経寺』参りでした。

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カズサン

【駿河 瀬名の郷倉と番屋】静岡県静岡市 天保からの建物が残って居ます (2025/03/10 訪問)

 余湖図コレクションさんの瀬名氏館鳥瞰図に魅せられて瀬名氏館跡辺りを探訪散策、瀬名氏館跡と思われる西奈複合施設から北に約100m程にグーグルマップの史跡マークに瀬名の郷倉と有り訪ねました。

 住所:静岡県静岡市葵区瀬名3丁目18-5
 駐車場:同上場所に西奈学区自治会連合会館「瀬名の郷」の駐車場有り5~6台可能、私は西奈複合施設に車を駐めて徒歩。

 西奈自治連合会館の西側にフェンスで囲まれた瀬名の郷倉と番屋が南北に並んでいます。建物は「瀬名の郷倉及び付属番屋」として昭和47年9月14日に静岡市指定文化財として登録されています。郷倉は土蔵造り木造平屋瓦葺で白漆喰仕上げ腰はナマコ壁に成って居ます。番屋は木造平屋瓦葺です。
 当日は内部の見学は出来ず、毎月第2土曜日9時半~12時の公開と成っており来月は4月12日と瀬名の郷入口の看板に載っていました。
 現在の地に移設前はここより南に約100m程の所に在ったそうで、現在の西奈複合施設の北側辺りに相当します。
 瀬名の郷倉は、江戸時代に年貢米の保管や飢饉の時の非常救済・貸付用の保存米を収めるため、瀬名村に設置された共同の穀倉で、村役人が管理し、付属の番屋には常駐の番人をおいていた。(案内関節版より)
 この様な倉は以前鳥取藩橋津藩倉古御蔵(鳥取県橋津公民館北)を見学して以来でした。
 良いものを見学出来て勉強に成りました。
 

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イオ

麒麟がくる紀行(坂本城)

(続き)

明智光秀の居城である坂本城(滋賀県大津市)は、安土城に先がけて天主を擁し、フロイスから豪壮華麗と評される城でしたが、山崎の戦いの後、羽柴軍に包囲される中、明智秀満が天主に火を放って自刃し、現在では琵琶湖の渇水時にのみ本丸の石垣が確認できるくらいです。昨冬には発掘調査により検出した三の丸西辺石垣の現地説明会が開催され、説明会後に埋め戻される予定が一転保存が決定したというニュースに歓喜しましたが、現在は埋め戻されているとのことで一体どうなってるんだろう…とモヤモヤしています。本丸周辺には、落城時に宝物を埋めたとも明智一族の墓所とも伝わる明智塚が、東南寺にも明智一族の首塚(供養塔)があり、聖衆来迎寺と西教寺には坂本城の城門が移築されています。

穴太衆の石積みの町並みで知られる城下には、光秀ゆかりの史跡があちこちに見られます。天台真盛宗総本山の西教寺は比叡山焼き討ちにより全焼しましたが、光秀が坂本城の陣屋を寄進して大本坊を再建するなど復興に努めたことから、大本坊(現在の建物は昭和に改築されたもの)には光秀と妻・熙子の位牌が安置され、境内には光秀と明智一族、熙子の墓、妻木一族(熙子の実家)の供養塔が祀られています。また、書院の隣には明智光秀公資料室が設けられ、光秀が寄進した坂本城の陣鐘(非公開)、戦死した家臣を弔う光秀直筆の供養米寄進状、光秀所持と伝わる硯箱、明智秀満の湖上渡りの際の鞍と鐙など、ゆかりの品が収蔵されています。

明智寺とも呼ばれる盛安寺は穴太積みの石垣が見事なお寺で、境内には光秀の供養塔や位牌が祀られ、光秀ゆかりの陣太鼓が伝えられているそうです(未確認)。他にも、光秀が坂本城で茶会を催したときに用いたと伝わる志津ケ池があったり、坂本城址公園には光秀の石像と曲の流れる歌碑「光秀(おとこ)の意地」が立てられていたり、坂本の町を歩いていると、光秀が確かにこの地にいたことを実感させられます(続く)。
 

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todo94

姫路城プレミアムナイトツアー翌朝の攻城④ (2025/03/09 訪問)

摂津原田城からの転戦です。阪急宝塚線の曽根駅から乗車して1駅、服部天神駅で下車してアプローチしました。門前の石碑だけ撮影して良しとしてしまいましたが、イオさんと赤い城さんの投稿を拝見して、外堀跡の説明板を知り、事前に城びとの投稿はしっかりチェックすべきとまたしても深く反省する羽目になってしまいました。かなり時間は早かったのですが、この日の攻城は此処で切り上げ、徒歩にて江坂駅にアクセスして御堂筋線で新大阪駅へ。すぐに発車する東海道新幹線に乗り込んで帰路に着きました。

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しんちゃん

伊勢神宮 (2025/03/19 訪問)

久しぶりに伊勢神宮に来ています。日本の神社の代表ともいえる格式の高い神社で、御祭神はもちろん天照大御神です。
参拝の動機はちょっぴり不純で、ここに某アプリの異能の者が出現したという情報があったからです。片道173kmを3時間で到着。ちょっと、このアプリに振り回され過ぎな気がします・・そもそも限定武将も限定異名も限定の築城資材も、後から入ってきたヤツは手に入らないじゃないか・・・面白くない! せめて異能の者くらい。
そんな不純な気持ちでやってきた大バカ者ですが、境内の荘厳な空気が正気を取り戻させてくれます。久々の参拝だし、キチンとして行こう。帰りにおかげ横丁を通っていきますが「赤福」は売切のようです。代わりに萬金丹を配合した萬金飴を買っていきました。
・・このあと周辺の城址を回りますが、例の人物は見当たらず。でも、ご利益は別の所でありました。

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しんちゃん

徳政一揆 (2025/03/19 訪問)

斎宮城は斎宮の里の南に位置する竹神社のあたりに築かれていたとされています。この地には平安時代に斎宮の内院が置かれ、弘治元年(1555)12月、当地の住民・野宮三郎ら数百人が団結し徳政を求め立て籠もったとされています。要は負債をチャラにしてくれと一揆を起こしたということですが、北畠氏らによって鎮圧されてしまったようです。
竹神社の周辺には遺構は残っておらず、案内板や標識が残されています。手水周辺には地元の人や子供たちに寄ると思われる装飾がなされ、見る者の心を和ませてくれます。今回は とある用事があって再度訪問しましたが、どうやら空振りだったようです。

・・ここに居ると思ったんだけどなあ。

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しんちゃん

エエ話や・・  伊勢道中 (2025/03/19 訪問)

ヒロケンさんの話を読んでて、微妙に目頭が熱くなってきました。いまのヒロケンさんがあるのも、その先輩のおかげということですね。しかしパンピーから見ると我々、城好きはやはり辺室社ですか。
身に覚えがあるなあ・・小中学校の周りをうろつく、女子高の周りをウロウロしてる・・
ガケに登る、ガケから降りてくる、ヤブに入って行く、ヤブから出てくる。確かにパンピーの側から見たら片疾車ですわ。。
とりあえず、そこに城があるから・・の一言で済ましてしまおう。おとといは某アプリで伊勢神宮に異能の者出現の報を聞いて3時間で現地に到着。探したけど結局見つからず。今だにこのアプリに振り回されています。異能の者・・足がはやいなあ・・
始めて3か月で既に1万キロ以上を走破している・・環境にも財布にも優しくないアプリだわ。現状「城びと」と「ニッポン城〇〇〇」でダブルで編隊の状況ですので、早く落ち着いて、健全な片帯に戻りたいと思っております。


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トク

知覧城(3/3):周辺観光 (2025/02/23 訪問)

知覧城の続き(3/3)です。スタンプを押すために、知覧城からさらに西へ20分歩き「ミュージアム知覧」に着きました(写真①)。ここには、知覧城の模型や佐多氏の武具なども展示されていました(写真②③)。

しかしここまで来たら、やはり隣接する「知覧特攻平和会館」に立ち寄らないわけにはいきません。ここにはかつて、陸軍太刀洗飛行場の分校として知覧飛行場があり、昭和20年(1945年)4月~6月にかけて、439人の若者が特攻隊員として、ここから沖縄へ向けて飛び立ち還らぬ人となりました。この平和会館にはその全員の遺影と遺書などが展示されています。大変多くの方々が見学に訪れていました(写真④⑤⑥)。今年(2025年)は、これらの方々が飛び立ってからちょうど80年目の節目にあたります。これまで日本に80年間続いた平和が、これからも永遠に続く事を祈りたいものです。

帰りはここから鹿児島市内へ戻るバスには乗らず、反対方向の喜入行きのバスに乗り、そこからJR普通に乗り換えて指宿へ行き(写真⑦)、指宿から乗ってみたかった特急「指宿のたまて箱」号に乗って鹿児島中央駅へ戻りました(写真⑧)。この列車はちょっと変わっていて、座席がすべて東を向いています。つまり全席から錦江湾と桜島の景色が見えるようにしているそうです。何と気が利くアイデアですね!(写真⑨⑩)。
 

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ヒロケン

城めぐりのきっかけ

アメーバブログ 塞翁之馬 「人間五十年下天のうちを比ぶれば夢幻の如くなり 一度生を享けたれば、楽しまずんば是いかん」 夢幻

まだ40歳前半の頃、休憩時間中5つ上の先輩が、何やらPCを見ながらニヤけてる、そっと横目でのぞき見すると山ん中の雑木林やら石垣やら土に埋まった石やらの画像を見ている。このオヤジ変態か?小学生の頃、歴史好きの父親の影響で、松江城・姫路城・備中松山城・岡山城やらの建物のある城には幾度となく連れて行ってもらい、城=建物という概念しかなく”山の中の建物がない城”など全くの無知で先輩が何を見ているのか全然分からない、「わたしの知らない世界」でした。
強面の先輩で宴席では何度かご一緒しましたが、個人的な付き合いは全くなく、仕事だけの付き合いでした。(部署が変り日が浅い)その先輩に「何見てんですか?」って尋ねたところ、「山城だよ」って「ヤマジロっすか?」って聞き直すと、少しムッとされ「城跡だよ」って教えて頂いたのが、最初だったように思います。(ムッとされたのでそれ以上、ツッコミを入れず変態オヤジのままでいました)
 数年が経ち、ある宴席でその先輩が若い衆に浜松城がどうの掛川城がどうのと、いつもと違って50過ぎのオヤジが目を輝かせながら「ウンチク」を言っている。城(天守)には興味があったので、自分も輪の中に入れてもらったところ、若い衆はさっといなくなり、自分と変態オヤジの二人となり、変態オヤジが酔っぱらって堀切がどうの、切岸がどうの、土塁がどうのと延々。訳の分からない話で、少しウザかったが、近世城郭の話も織り交ぜて話してくれるのでついつい宴席の最後まで。帰り際に「百名城のスタンプを集めてる」「アメーバブログで塞翁之馬っていうサイトを持ってる」「良かったら読んで」っていう感じでその場は離れ、後日、ブログを拝見するとなかなか面白い!旅行日記みたいな感じで構成されている✌('ω'✌ )三✌('ω')✌三( ✌'ω')✌それを伝えたのが始まりで、先輩と城の話をすることが多くなり、ついに四国丸亀城の天守で百名城スタンプ帳付の本を購入してスタンプ集めをスタートさせました。
その後、ラインを交換し現地からお互いが情報を送り合うようになるほどの仲になり、信頼関係が深まっていったように思います。(その後、先輩は人事異動があり部署変更となり、ラインのみの付き合いが続きました。)

ある日、突然先輩の訃報が入り、一方的な別れ(涙)目標を無くし一時城巡りを離れておりましたが、居心地の良いサイト「城びと」を見つけ現在に至っています。

先輩、百名城スタンプ数は超えていませんが、あなたの生きた年は越えましたよ。城巡りのきっかけを皆さんが投稿されているのを読みアメーバブログ 塞翁之馬を思い出し、続・塞翁之馬を読み返していたら投稿が遅くなってしまいました。少々記憶に間違いなどあるかもしれませんが、こんな感じです。

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イオ

麒麟がくる紀行(義昭から信長へ)

(続き)

織田信長の供奉を受けて上洛を果たした足利義昭は本圀寺(京都市下京区)を仮御所として15代将軍に任じられますが、信長が美濃に帰還すると京を追われていた三好三人衆が本圀寺を襲撃し(本圀寺の変)、「信長公記」によれば防戦した中に明智十兵衛の名が見られます。本圀寺跡の現在は西本願寺の境内と駐車場、住宅地になっていて城郭寺院としての遺構は消滅しており、2つの大本山本圀寺題目碑の位置関係から、往時の規模の壮大さを想像することができるくらいです。

本圀寺の変の報を受けて京に駆け付けた信長は、足利義輝の屋敷跡に義昭のための二条御所(二条古城・京都市上京区)を築き、本圀寺の変の功績により幕府奉公衆となった光秀は、この後、木下秀吉や丹羽長秀らとともに京都奉行に相当する職務に就いていることから、二条御所にもよく訪れていたものと思われます。二条古城跡には遺構はなく(二条城と京都御所に移築された石垣あり)石碑と説明板があるのみで、石碑から南に少し行ったところには斯波氏武衛陣・足利義輝邸遺城址の石碑と説明板が立てられています。

上洛と本圀寺の変での働きにより信長から信認を得た光秀は、次第に織田軍と行動を共にするようになります。朝倉攻めのため越前に入った信長が浅井長政の離反により挟撃の危機に陥った際には、池田勝正や秀吉らとともに殿軍を務め(金ヶ崎の退き口)、信長を無事に京まで撤退させています。金ヶ崎城(福井県敦賀市)の月見御殿(本丸)の手前には金𥔎古戦場の石碑が立てられていました。

光秀は姉川の戦いにも参加し、徳川家康らとともに朝倉軍に対したようです。続く志賀の陣では、討死した森可成に代わって宇佐山城(滋賀県大津市)に入って比叡山延暦寺(大津市)対策にあたり、比叡山焼き討ちでは実行部隊として中心的な役割を果たしています。従来、ドラマなどでは光秀は信長を諌めるもやむなく焼き討ちに及んだように描かれてきましたが、焼き打ちに協力しない村へのなで斬りを命じた文書が確認されるなど、従来の光秀像は変容しつつあるようです。一方で、延暦寺の発掘調査によれば、焼き討ちによる焼失が確認できるのは根本中堂と大講堂のみであり、全山焼失や大量虐殺は反信長方としては信長の非を鳴らすための、信長方としては逆らうとこうなるぞという政治宣伝のための誇張を含むものとも考えられます。

比叡山焼き討ちの功により信長から滋賀郡を与えられた光秀は居城として坂本城を築きました。坂本城については次稿で述べるとして、光秀は坂本城周辺も支配下に収め、志賀の陣で朝倉・浅井連合軍が築いた壺笠山城(大津市)を改修したり、自治都市・堅田(大津市)を支配することで琵琶湖水運を掌握しています。

光秀と信長が接近するのに反比例するように義昭と信長の関係は悪化し、ついに義昭は二条御所において反信長の兵を挙げます。ここに及んで選択を迫られた光秀は信長の家臣として義昭方と戦うことを決断、石山城・今堅田城の戦い、そして槇島城の戦いにも加わって義昭を追放し、ここに光秀が再興のために力を尽くしてきた室町幕府は滅亡しました。槇島城跡(京都府宇治市)は宅地化していて遺構は消滅しており、推定地の児童公園に石碑と説明板が立てられているのみです。

(続く)
 

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