愛知県西尾市吉良町にある片岡山華蔵寺は忠臣蔵で有名な吉良上野介義央の菩提寺で、境内には小堀遠州好みの庭園や高家旗本吉良氏の墓所があります。市指定文化財の梵鐘は義央の寄進によるもので太平洋戦争の供出を逃れた貴重な物です。
墓所には高家旗本である吉良義安から六代の墓があります。七歳で亡くなった義央の次男の三郎君の墓もありますが、歴代当主にも引けを取らぬ立派なものでした。仙台伊達家の御子様御廟は歴代当主の墓所とは離れた場所に有りましたが、三郎君の墓は堂々と墓所の目立つところにありました。墓所の片隅には義央の次女で津軽へ嫁いだ翌年に亡くなった「あぐり姫」の墓もあります。
あぐり姫の詳細は分かりませんが、津軽で亡くなったということは供養塔になるわけですか。供養塔とはいえ立派なもので、義央公はかなりの親バカのようです。
いや・・それだけ若くして亡くなった子供たちに対する愛情が深かったということでしょうか。
吉良町には義央が地元の領民の為に作ったという黄金堤があり、好奇心旺盛な江戸の民衆が作り上げた悪役・吉良上野介とは別の顔を感じることができます。義央の墓は事件の後に作られたため比較的質素なもので、吉良家最後の当主・義周(義央の実の孫で上杉家よりの養子)の墓も同様です。義周は幕府からエグい「いいがかり」をつけられ諏訪藩に配流され21歳の若さで亡くなっています。
義周の墓には横に大きなヒビが入っており、まるで義周公の無念が込められているようにも見えました
東京都中野区にある萬昌院功運寺にも義央の墓があります。赤穂事件の後に返却された首を繋ぎ合わせて当寺に葬られたとされているので華蔵寺の墓は供養塔になるのだろうか? 義周の墓は諏訪市の鷲峰山法華寺の裏山にあるそうなので、こちらも供養塔になるのかもしれない。華蔵寺の義周の墓は吉良家家老であった左右田重次によって建立されたとされています。
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