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しんちゃん

歯医者の散り際 (2025/04/13 訪問)

「わたしまけましたわ」・・・下から読んでも同じ。いや、予感はしてましたよ。兵力差2700って無理にきまってるじゃん。
1日50万づつ離されるのよ。金森氏びいきの〇〇さんは絶対前田軍だろうな~。

飯久保城は狩野氏の居城とされています。狩野氏は佐々成政に従った神保氏張の家臣だったとされ、天正13年(1585)富山の役で佐々成政が豊臣秀吉に降伏すると飯久保城を退去して行ったようです。飯久保城はその後廃城になったと見られ、狩野道州は上杉家に仕えました。
神社の脇に登り口があり、虎口や堀切を経て主郭に至ります。藪化が進んでいて解りづらいですが主郭背後の大土塁の上に櫓台を備え、この城の遺構の中でも特徴的だと思います。大堀切を経て西側にも郭があり、周辺を散策してから引き返しました。

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朝田 辰兵衛

見どころは主郭の西側…👀 (2025/05/10 訪問)

雨が降ってなければ,もっと魅力的な画像になったかと思います。せっかく来たんだったら,麓の「中世の館唐松城」だけで終わってしまったらもったいないです。主郭の西側が見どころ。滑落注意で。

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にのまる

よかったぁ!! (2025/03/24 訪問)

「新高山城と高山城はセットで。」
という呪縛(?)に勝手に取り憑かれ、しかしそれが決して容易ではないことは想像に難くないため、ずるずると登城を引き延ばしていました。
今回、山陽山陰路のスタンプいただき旅敢行にあたって、高山城をスパッと諦めると俄然ヤル気が出てきました💪

この日の予定は新高山城のみです。
本郷町観光協会の開館時間に合わせて宿を出発しました。

大きな二つの山が向かい合っているのが見えます。左側が新高山城。
沼田川を渡り、新高山小早川城址道を歩きます。在来線の線路を貨物列車が走り、その上に交差する線路を新幹線がゴーッと走り去るのが見えます。
近づくにつれてはっきりと見えてくる新高山城のゴツゴツの岩肌。ロッククライミングするわけではないから……と思いつつも、大丈夫かなぁと少し🤏心配に。

本郷駅から30分くらいの歩きで大手道入口に着きました。
本郷町観光協会・新高山城跡を守る会さんが設置くださった案内板が心強いです。
三原市設置の史跡看板を読んでいると(やっぱり高山城も行かなきゃ……)という気持ちになりましたが、いずれまた機会があると信じて。

登城開始10分ほどで鐘の段に到着。郭も土塁もしっかりと確認できました。続いて番所跡。ここも郭の連なりがよく理解できます。
少し進むと匡真寺跡。うわっ!ステキ!!と思わず声をあげそうになる庭園の面影とたくさんの瓦片。戦いの場ではないお城の空間には人としての温かい営みが感じられます。

登城開始30分ほどで中の丸に到着しました。
本丸、釣井の段、東の丸、ライゲンガ丸とじっくり見てまわります。本丸の内枡形の礎石に惹かれました。6つの井戸を確認しましたが水をたっぷり湛えていてびっくりでした。

そして本命の詰の丸へ。
新幹線来〜い!
来たぁ〜🚄!!!!
これが見たくて登ってきたと言っても過言ではない(^^)
よく見えるように目の前の木を伐採してくださっているだろうことも、スピーカーの解説も嬉しかったです。

満足したところで西の丸・北の丸(三の丸)へ向かいます。先端の北の丸は狭くてすれすれの枯葉道を慎重に上がりました。そして振り返ると美しい段々が。眼福です。

そろそろ下ります。
ここまでどなたにもお会いしませんでしたが、下り道で三人の方にお会いしました。
一人目は毎日のように登っていらっしゃるという地元の方。
二人目は全国の山城に登っていると仰る女性の方。私より二回りくらい上かも⁈と思いましたが「がんばらなくっちゃ!」と歩いていらっしゃるお姿が逞しくもありかわいらしくもあり、とってもステキ。私も彼女のようになりたいなぁと思いました。
三人目の方とは麓でお会いしました。これから登ると仰っていたのでエールを送りました!

下山後、城友さんご推奨の駅前のラーメン屋さん「源来軒」を覗いてみましたが満員で入れずでした。このあと在来線のみで鳥取に向かうのに、乗り換え駅で食料調達できる保証がなかったので少し離れたコンビニまで走りました💨
思い出に残る一日が過ごせ感謝でした。

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天守無しがアツい

滋賀県護国神社 (2025/06/22 訪問)

(1度目の参拝)
彦根城の近くに神社があります。滋賀県護国神社…ここは一言で表すならば…滋賀県版靖国神社です⛩️

顕彰館(1枚目)に入ると、まず全国にある護国神社がパネルとして紹介されてました。神奈川を除く全都道府県に必ず一つはあることをそこで知った私。東京には護国神社の代わりに靖国神社があり、そこが全国の護国神社の総本山と言えるのでしょう

その奥に進むと戦没者の遺影がズラリ…没年月日を見ると、その多くは太平洋戦争の期間でした。ここに英霊として祀られてる方々は滋賀県民…滋賀県だけでもこんなに多くの方が出征しそして戦死なされたのです

一人一人に目を通すと、20-30代で亡くなられた方ばかり…当時の徴兵対象は20-45歳あたりまでの男性と思われるので、亡くなられた方もどうしても若い方々ばかりになってしまうわけです💀💀💀

ベビーフェイスな方…イケメンな方…年齢不詳な方…着物を着てる方(昭和に入り若年層の多くは洋服を着る傾向あり、遺影の多くは学ランなどの洋装でしたが、それでも着物を着用される方は多少いたということでしょう。今のように全員洋服にまではなってないと思われる)…名前が◯◯右衛門と江戸時代風の方(戦前は親がそう名づけること、まだあったのかな?今では考えられないけど😅)

女性の遺影も1-2%の割合でしたがいました。この場合は戦闘によるものではなく、戦病死でしょう🏥 日露戦争のも少し混ざっており、死亡した場所が奉天という方がいました。この場合はロシア軍の機関銃に撃たれた…のが目に浮かびます⚠️

この神社には彦根に滞在した2日間で両日とも参拝。顕彰館を見学したのは2日目で、初日は本堂で参拝ならびに御朱印(2枚目)を授与しました

一期一会を含め二種類あり、「この神社…いや…彦根自体、人生で訪れるのはこの一回きりになるかも…いや、なりそう…」「ならばそれを表す一期一会で…」と考え、それにしました

境内の一角にシベリア抑留犠牲者の慰霊碑がありました。ソ連の国際法無視の行為により日本軍の捕虜がシベリアに連行ならびに強制労働され数万人が亡くなったそうですが、その中に滋賀県出身もいたので、この慰霊碑が設けられた…そう言えば顕彰館の遺影にそれらしき没年月日の方もいたな

(2度目の参拝)
ここで御朱印をいただいてから1年半ほど後…護国神社用の御朱印帳を入手した関係で…「その御朱印帳にもいただきたい」と考えた私

北陸に用があり、その際東海道新幹線を使って滋賀県に寄れるという地理的関係で…再び彦根市へ…そして滋賀県護国神社へ⛩️

鳥居を潜ったすぐ側に…「英霊を敬い英霊に感謝しましょう」の看板(3枚目)があったので…それを一通り目を通してから撮影

「戦いに敗れても国は滅びず…今日の(日本の)平和と繁栄の礎となりました」…なるほどね。日米開戦は無謀と言えばそうだったけど…約4年も戦線を維持できたのは…英霊の方々による奮戦のおかげというのはあるんだろうな🤔

あとは…原爆投下およびソ連の日ソ中立条約破棄による侵攻という状況で…本土決戦まではせずに無条件降伏を選択した…上層部の英断もあるのかね…もしあの時徹底抗戦を選んでいたら…少なくとももっと英霊が増える結果になっていたのは間違いないから👻

今回(護国神社用の御朱印帳に)いただいた御朱印(4枚目)…前回(令和五年)は「一期一会」バージョンを選んだわけですが、区別化を図るために…今回は「奉拝」に

「戦争で幾百万という兵士が戦死した…兵士には父や母がいて…妻や子がいた…」という碑文の前にある…倒れてるおとうさん像(5枚目)

太平洋戦争当時…幼くして父を戦地で失った子供…または生まれる前に父が亡くなってしまった…というケースは…多かれ少なかれあったのでしょうね…だからそのような惨事を2度と生み出さない為に…平和を願う為に…この像が造られた

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イオ

堀跡をたどる (2025/03/08 訪問)

豊臣秀吉が京での拠点として平安京大内裏故地に築いた城館で、関白の城として豊臣秀次に引き継がれましたが、秀次切腹事件を受けて破却されました。

本丸と南二ノ丸、西ノ丸、北ノ丸の周囲を堀で囲んだ平城で、各曲輪を削平して堀を埋め立てるなど徹底的に破却されたため、地表面に遺構はほぼ見られません。そのため6年前は西堀跡と東堀跡の2つの石碑を見ただけで満足してしまいましたが、遺構はなくても痕跡はあちこちに見られるようですので、今回は聚楽第の堀跡をたどってみました。

ハローワーク西陣北側の聚楽第址石碑が本丸東堀跡、正親小学校北側の聚楽第址石碑が本丸西堀跡にあたり、辰巳公園北側には発掘調査で確認された本丸南堀石垣の説明パネルが設けられています(読みづらくなっていますが)。本丸の南東隅部には聚楽第の井戸と伝わる梅雨の井がありますが、堀の推定ラインによれば堀の中になるため後世のものとも考えられるようです。梅雨の井から南に約150mの松永稲荷社には聚楽城鵲橋乃旧蹟の石碑が立てられています。鵲橋は南二ノ丸の堀に架けられていた橋でしょうか。松永稲荷社から西南西に約250mの松林寺は山門から境内は一段低くなっていて、南外堀跡とされます(石碑もあります)。境内の南側はまた一段高くなっていて、なるほど堀跡とされるのも頷けました。また、北ノ丸北堀跡のマンション駐車場奥にも高低差があり、聚楽第の遺構とされる石垣が見られました。

この日は阪急レンタサイクルでの登城ですが、自転車でも堀跡をたどるのは思いのほか時間がかかり、聚楽第の巨大さを身をもって体感しました。さて、堀跡に続いて…というか並行してですが、周辺の武家地屋敷跡をめぐりました(続く)。
 

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昌官忠

(東海&関西)遠征11日目:姫路城 (2025/05/25 訪問)

姫路城は6年半ぶりの5回目の攻城となります。
①出張中の延長(記録なし) ②2018/6/16 ③2018/12/3 ④2018/12/4
今回はHimeji大手前通りイルミネーション(大阪・関西万博期間中 4/13~10/13)を見学する為にやってきました。

姫路城の彩雲ライトアップ&大手前通りイルミネーション、綺麗でした。
夕食は姫路駅の播州うまいもん処で姫路おでんを食しました。
攻城時間は60分くらいでした。本日の城巡りは、ここがラストです。
本日の宿泊先に戻る為、姫路駅から電車で加古川駅に向かいました。
歩行歩数=46579歩、歩行距離=32.6Kmです。

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昌官忠

(東海&関西)遠征11日目:高砂城 (2025/05/25 訪問)

高砂駅から徒歩20分弱で、高砂神社鳥居前(34.743223、134.803384)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、『高砂市史・高砂町市史』に梶原氏が治める城として1538年(天文7年)に登場しているようです。
古くは1184年(寿永3年)に、梶原景時が播磨国の守護として命じられたのがきっかけのようです。
1578年(天正6年)の羽柴秀吉による三木城攻めの頃に高砂城が「海城」として改めて登場したようです。
三木城主/別所長治の有力武将であった高砂城主/梶原平三郎衛景行は、羽柴秀吉の三木城攻めの際、毛利氏の援軍と連携して後詰めの役を果たしましたが、秀吉の軍勢に攻められ落城しました。
1600年(慶長5年)池田輝政が、姫路城に入封すると家臣中村主殿助が高砂城に入城し、近世高砂城が築きましたが、1615年(元和元年)元和の一国一城令によって破却されました。

高砂神社閉まってました。後で調べたら、16:00には閉まるようです。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=姫路城を目指す為、高砂駅から電車で山陽姫路駅へ向かいました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征11日目:英賀城 (2025/05/25 訪問)

英賀保駅から徒歩10分ちょっとで、公園付近(34.806760、134.639517)に着きました。
その後、本丸跡石碑前(34.802756、134.646977)に向かいました。

築城年代は定かではないようですが、室町時代初期に赤松祐尚によって築かれたと云われています。
祐尚は赤松則村の孫義則の子で、祐尚没後は姻族の三木通近が在城し、三木氏が代々城主となっています。
英賀城は三木氏の居城で、別所氏の三木城、小寺氏の御着城と並び播磨三大城のひとつと称されていました。
1576年(天正4年)に起きた「英賀合戦」では播磨進出を狙う毛利氏を黒田官兵衛がこの地で撃退しました。
1577年(天正5年)織田信長は羽柴秀吉に命じて播磨国に侵攻、1580年(天正8年)には三木城が落城、その後英賀城も落城しました。

城址近くに英賀神社が建立されています。
神社の北側にある英賀城跡公園に復元石塁があるはずですが、見なかったです。
本丸跡石碑付近に英賀城の説明板もありました。
攻城時間は50分くらいでした。次の攻城先=高砂城を目指す為、西飾磨駅から電車で高砂駅へ向かいました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征11日目:三石城 (2025/05/25 訪問)

JR三石駅から登城口入口(34.802632、134.271174)まで徒歩5~6分、そこから主郭まで35分でした。

1333年(正慶2年・元弘3年) 南北朝時代に南朝方として挙兵した伊東大和二郎によって築かれたと云われています。
室町幕府の成立によって赤松氏が備前守護職になると、浦上宗隆が備前国守護代として三石城を居城としました。
1519年(永正16年)浦上村宗は赤松義村から謀叛の嫌疑をかけられ三石城に籠もると、義村は兵を従えて三石城を攻めたがこれを落とせず、1520年(永正17年)に撤退しました。
その後、赤松義村は求心力を失い、1521年(大永元年)浦上村宗は義村を討ち戦国大名へとのし上がります。
村宗の跡を継いだ政宗は宝津城に居城を移し、三石城には城番を置いたが、後に弟宗景・国秀と不和となり宗景は天神山城に自立しました。
その後しばらくは天神山城の支城として維持されたものの、政宗の死後あるいは宗景が宇喜田直家に備前を追われた頃に廃城となりました。

城址は、石垣、土塁、切岸、井戸などがあり、どれも素晴らしく時間がいくらあっても足りないのが正直な感想です。
電車の時間が気になり本丸北側の堀切を見逃すなど、ちょっと残念。機会があればじっくり見学したい。
攻城時間は50分くらいでした。次の攻城先=英賀城に向かう為、JR三石駅から電車で英賀保駅に向かいました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征11日目:大嶋城 (2025/05/25 訪問)

相生市民病院前バス停から徒歩15分ちょっとで、参道入口(34.808294、134.466443)に着きました。
その後、大島山桜公園(34.807273、134.466655)に向かいました。

1104年(長治元年)播磨海老名の祖、家季がここに城郭を築いたのがはじまりといわれています。
1236年(建武3年)別名の下司職であった七代景知は赤松円心に属し、弟の詮季や同族の泰知と共に白旗城にたてこもって新田義貞軍と戦い功績をあげました。
しかし、留守にしていた大島城は新田軍に組した者によって焼き落とされたといわれています。

現在、城のあった山頂部は大島山桜公園と善光寺の境内となっていて、城の遺構は何も残っていないようです。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=三石城を目指す為、相生駅に向かい、相生駅から電車で三石駅へ向かいました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征11日目:感状山城 (2025/05/25 訪問)

下土井城から徒歩60分ちょっとで、登山口(34.877607、134.446366)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、鎌倉時代に瓜生左衛門尉によって築かれたとも、南北朝時代に赤松円心の三男赤松則祐によって築かれたとも云われています。
感状山城の呼称は、1336年(建武3年)に赤松則祐が新田義貞の軍を防いだ功績により、足利尊氏から感状を賜ったことに由来するそうです。
ただし、現在も残る石垣は築城当時のものではなく、戦国時代にこの周辺を支配した宇喜多(浮田)氏の手によって改修されたものではないかと考えられています。

登山口付近に「羅漢の里石窯パン工房」、その前に感状山城案内所があり、パンフレット/ガイドマップが貰えます。
登山口から物見岩まで、ほぼ階段(途中から岩の階段ですが)です。
石垣が多用された見所の多い山城で、登山道も整備され見学しやすいですが、立入禁止区画が幾つかありました。
攻城時間は85分くらいでした。次の攻城先=大嶋城に行く為、瓜生東バス停から神姫バスで相生市民病院前バス停に向かいました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征11日目:下土井城 (2025/05/25 訪問)

若狭野陣屋から徒歩25分くらいで、登城口入口(34.843235、134.433303)に着きました。

1267年(文安4年)に岡豊前守が、矢野川と小河川とが合流する三角形の地形にある小高い丘の上に築城したとされるようです。
1600年(慶長5年)に起きた「関ケ原の戦い」で敗れた宇喜多秀家が改易されると、岡氏も没落し、12代・岡光顕は八洞村に閉居したと伝わります。

登城口入口の山方面の民家の奥に「下土井城入口」の道標があります。
城域はコンパクトですが岩盤を切った見事な堀切に、竪堀と見ごたえ満点な山城でした。
攻城時間は45分くらいでした。次の攻城先=感状山城へ徒歩で向かいました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征11日目:若狭野陣屋 (2025/05/25 訪問)

ホテル最寄りの加古川駅から電車で有年(うね)駅に着きました。
有年駅から徒歩30分弱で、若狭野陣屋前(34.835126、134.415401)に着きました。

若狭野陣屋は赤穂藩主・浅野長直の養子となっていた浅野長恒が、1671年(寛文11年)3,000石を分知されて旗本となり、若狭野陣屋が築きました。
赤穂浅野家の分家旗本三家のひとつで、1702年(元禄15年)に本家の浅野内匠頭長矩が殿中での刃傷事件により断絶となったあとも若狭野浅野家は旗本として存続して、明治維新を迎えました。

法界庵は建物も土塀も崩壊しそうです。門に柵がしてありますが、建物外観は見学できます。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=下土井城へ徒歩で向かいました。

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ぎりょう

眺望の良さにびっくり! (2025/06/22 訪問)

孫の誕生日プレゼントを届けに名取市に出掛けました。孫は午後からは大学受験説明会の予定とのことで早々と退散。
時間が空いたので、先日訪問した多賀城の東北歴史博物館常設展示の高舘城復元模型を思い出して訪問することに。
とは言え草深いこの時期は遺構の確認はできそうもなく、ここ数日の真夏日、麓からの攻城はあきらめ、「とある煩悩の登城目録」さんの城びと投稿を参考に、熊野那智神社駐車場まで車で登ることにしました。
先ずは神社を参拝。標高は200mほどあり、名取市街から仙台空港、仙台湾まで眺めることができ抜群の眺望です。また、猛暑にかかわらず、若いカップルからお子さん連れと参拝客の多いことにもびっくり。
名取市西部の高舘山に位置し、最高部に神社が祀られており、その下北東側に曲輪群があるようですが樹木が生い茂り確認できません。初冬の頃にでも再度訪問したいと思います。

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朝田 辰兵衛

これで岩手県の未投稿城解消となりました🏰 (2025/06/21 訪問)

しっかり晴天日をチョイスすれば問題ありません。桂林寺の裏参道入口にパネルがあり,ここをしばらく登ります。途中の分岐路で桂林寺に行かないようにご注意ください。舗装道路の終わりから右折です(たぶん空堀道)。しばらく進むと左に道が見えてきますので,ここを登ると2郭の山神社。尾根の舌状地形の先端になります。さらに,ここから尾根を登ると主郭です。季節的に主郭の形状がわかりづらかったです。
「大迫ハンパないって」ということはありません…<笑>。難しい城だったら使いたかったんですけど。
これにて,これで岩手県の未投稿城解消となりました。アップデートしたい城を見つけてしまいましたが,とりあえず。

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ぎりょう

北上市・花巻市訪問その④ 岩崎一揆その後 (2025/06/21 訪問)

岩崎一揆の終結後、和賀忠親は徳川家康の尋問を受けるため伏見に護送されることとなりますが、仙台城下の国分尼寺で近臣とともに切腹します。国分尼寺には和賀主従の墓があります。旧領奪還を企てたこの一揆は、伊達政宗の働きかけが(水沢白石氏が参戦)あったようで、口封じに政宗によって殺害されたという説もあるようです。
慶長7年(1602)、忠親の子主馬義弘(松山初代)は賓客待遇で仙台藩領の松山郷千石村に禄を受けます。一揆から75年後の義直(松山三代目)の代に仙台藩士として召し抱えられます。
松山郷千石村は私の住む大崎市の松山にあり、現在も和賀氏屋敷跡が残っています。

国分尼寺 仙台市若林区白萩町34-5
和賀氏屋敷跡 宮城県大崎市松山次橋和賀山

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天守無しがアツい

玄宮園 (2025/06/22 訪問)

玄宮園…またの名を…玄宮楽々園と言うそうです

入口を入って左手に…楽々園の建物が見えました。井伊直弼がそこで誕生して…少年時代を過ごしたそうです

園内の中央には大きな池があり…それを周回する流れで園内を巡りました

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T-Shionoya

急峻な丘の上の鷲津砦 (2025/04/12 訪問)

前回投稿した大高城とセットで訪れた愛知県名古屋市の鷲津砦。

大高城の北東約700m。大高城とは大高川で分断された標高30m少々の丘陵の西端部に位置し、蓬左文庫の古城図では主郭と馬出状の施設が描かれている砦。

織田信秀(信長の父)の死後、今川方に奪われた大高城奪還のため信長が築いた砦の1つで、飯尾定宗らが布陣したが桶狭間の決戦の朝に絶滅したとのこと。

現在は長寿寺裏の丘陵南面が国史跡に指定され鷲津砦公園となっているが、その北の住宅地が砦跡とする説が有力な模様。

実際に訪れると、丘の斜面がとにかく急峻なことが印象的。
公園中腹の横堀状遺構は、つくられた時代が定かでないが、大高城主を務めた水野氏の墓所への通路であったとのこと。
公園上部の石碑が立つ辺りは、緩やかに傾斜しており削平が甘い印象。

帰宅後に、宅地化された北側エリアが砦推定地だと知り、2週間後に再訪問した私の城郭巡りの203城目でした。

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トク

私のお城巡りのきっかけとなった城 (2025/06/05 訪問)

姫路城の訪問は5回目ですが、何度来てもその美しさには目を奪われてしまします。私が本格的にお城を好きになったのは、30年前にこの姫路城を初めて見てからでした。

私は高校(普通科理系)→大学(情報工学科)→社会人(通信エンジニア)とずっと理系畑を歩んできたので、お城どころか高校・大学と、日本史の授業を受けた事もなく勉強したこともない、よって30年前の初めての姫路城を訪問した時は、美しいなとただ天守だけを眺めていただけの全くの初心者でした🔰。でもここから見たその景色が衝撃的でまぶたに残りました(写真①②の場所)。それから20年後、子供も独り立ちして趣味に費やす時間的余裕も出てきたので、あの時を思い出してお城や歴史の本などを読むようになり、近くの城などにも足を運ぶようになりました。するともっと色々と知りたくなり、その目標として試験がある事を知り、試しに受けてみようかなと思うようになりました。

2度目の姫路訪問(10年前)は、姫路城の前(姫路市民会館)がその城郭検定試験の会場だったので、受験の帰りに立ち寄りました。渦郭式とか入母屋破風とか野面積とか懸魚まで・・お城用語を覚えて行くと、だんだんと細かい所まで目が行くようになり、今までに経験した事のない空気感に浸る事ができました。本当に渦格式なのかを確かめるため最上階に登って見てみましたが、やはりドローンで空から見ないと分からないですね(笑)(写真③)。

3度目の姫路訪問(3年前)は、池田輝政はなぜこのような江戸城や大坂城にも匹敵するほどの大城郭を築いたのか🤔? ふと疑問がわき、吉田城から姫路城までの輝政の人生を追ってみました。輝政の築いた姫路城はこの美しさとは裏腹に、実は鉄壁の防御が施された城でした。ならばここで誰と戦い誰を守ろうとしたのか? しかし輝政は大坂冬の陣の直前の1613年に、脳卒中で突然亡くなったため、それは分かりませんでした(写真④)。この時家康よりまだ22才も若い50才だったそうです。

4度目の姫路訪問(2年前)は、西ノ丸にいた千姫の事が気になり、桑名城から姫路城までの千姫の人生を追ってみました。燃え落ちる大坂城から助け出され、桑名の七里の渡しで出会った本多忠刻に一目ぼれ、家康に懇願しその忠刻と桑名城で結婚、そして国替えで姫路城へ、子宝にも恵まれ今度こそ幸せになれるかと思いきや、子や忠刻に若くして先立たれ、結局ここでも幸せにはなれなかったという、悲しい結末を知りました(写真⑤)。

5度目の今回の訪問は、ある武芸者を追ってやって来ました。その武芸者は少なくとも二度この姫路城を訪れていたようです。「るの門」にそのキーポイントらしきものがあり驚きました(写真⑥)。

姫路城の入場料は現在1,000円ですが、来年3月から2,500円に値上げされるそうです😱! 早めの訪問がお得のようです。

夜は姫路駅構内ピオレの奥にある店で「姫路おでん」を頂きました。一人でも入りやすい場所なのでついつい毎回ここに来てしまいます。お城の形のこんにゃくが、私はとても気に入ってます(写真⑦)。
 

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イタさん

二之宮赤城神社 群馬県前橋市二之宮町 (2025/06/19 訪問)

城館として何も情報がないようである。堀・土塁がよく残るとあり訪問してみました。
神社境内の西に公民館の駐車場があり、すでにそこから西側の堀が見える。鳥居からの参道右側に堀状の水路が見られ、赤い橋で右奥に曲がっている。右奥の堀は途中まで確認する。本殿の北東から境内を出る場所に、分かりづらいが堀跡が確認可能。本殿背後、西側には土塁・内堀がよく遺っている。

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