みんなの投稿

検索結果・・・「」を含む投稿

しんしんちゃん

関ヶ原の合戦 小早川秀秋の巻 内府殿への恩などオッパッピーですわ (2024/03/10 訪問)

以下の文章には関ヶ原の合戦における私見(個人的感想)を多分に含んでおります。あくまで「しんちゃん」流の関ヶ原になるので宜しくお願いします。
松尾山城の続きです。
主郭からは関ヶ原が良く眺望できます。東軍を攻めるにしても西軍の背後を突くにしてもここは最高の立地条件です。強引に伊藤盛正から陣地をぶんどった甲斐があったというものでしょう(彼には気の毒ですが)。小早川秀秋に関しては豊臣秀吉から冷たく扱われ徳川家康に恩義を感じており早くから東軍に通じていたとか、いろいろ言われていますが、この大一番においてはそんなことは些細なことだと思います。
彼にしてみれば、おそらくそんなの関係ねえのオッパッピーでしょう。より良い条件で勝利できる側に着くだけです。彼にとっては、刻一刻と変化する状況の中でそれを見極める必要があったのでしょう。大御所家康に恩義はあれど勝機が無ければ見捨てるだけです。毛利(吉川)が東軍を攻めれば迷わず東軍を襲う気でいたと思います。松尾山に布陣した段階では、まだどちらの味方でも無かったのでしょう。
小早川秀秋公は若干18歳前後とは思えないほどの行動力と判断力としたたかさ(狡猾さ)を持っていたと思います。加えて慎重さも持ち合わせているので大御所家康にとっては手ごわい相手だったと思います。
吉川広家は西軍には勝機が無いと考えていたようですが、3万8千(一説には)の徳川秀忠の軍勢が到着しなかったことで、状況は一変したと思います。徳川家康の本隊3万を除けば、残りは敵も味方もほぼ豊臣恩顧の武将たちです。いわば全員オッパッピーで(ガチ勢を除いて)、東軍にも西軍にも命がけで尽くすだけの義理は無いわけです。持ちろん負け側に付いたら全てを失うので本気で戦いはしますが、いつ何が起きても不思議は無いと思います。毛利と小早川が東軍を挟撃すれば西軍の勝利の確率は高かったでしょう。

主郭の周囲には土塁が良く残っており四方は急峻な切岸になっており直接降りていくのは危険です。北側と北西部の遺構を見るためには一度南に戻って西の郭への分岐を進んでいく必要があります。思ったより雪が残っていて足元が滑って危ないです。ストックと登山用の靴で来ているのですが、着脱式のアイゼンも持って来るべきでした。
今回の目的の一つに縄張図に出ていない、小早川が合戦に備えて急遽整備した遺構を確認したかったというのがあります。目指すは大谷刑部の陣の方向に向かって伸びる尾根です。小早川が手を入れるとしたら、そこでしょう。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

しんしんちゃん

もろこしうどん  (2024/03/12 訪問)

もろこしうどんは岡崎のソウルフードです。大正庵釜春本店が元祖と言われ、おかざきめしの中でも特に高い人気を誇ります。久々に食べたくなったので寄って見ました。うん、とろみがしっかり付いていておいしい。溶き卵とコーンのおいしさがしっかり伝わってくる。
うどんとの相性もばっちりです。税込1100円はけっして高くは無いですね。なによりとろみが強くコーンがいっぱい入っているので、汁を飲むというよりは食べる感覚で、最後までおいしくいただけます。
腹もちも十分で、もろこしうどん一杯で十分お腹は満たすことができます。定期的に食べたくなる味で、第二駐車場までいつもお客さんの車でいっぱいです。
岡崎城・大樹寺と寄ったら、もろこしうどんか八町味噌を使った料理を召し上がっていくと良いでしょう。

大正庵釜春本店‥愛知県岡崎市中岡崎町6-9

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

sukotako3

行ってまいりました (2024/03/13 訪問)

カツカツのスケジュールですが 天守まで行ってきた

+ 続きを読む

にのまる

馬事公苑に。

江戸城36見附めぐりに精を出していた頃に訪れた「日比谷セントラルビル」。
虎ノ門に近いこの辺りはかつては外濠に面しており、昭和40年のビル工事の際に発掘された石垣石が屋外展示されています。
折敷に三文字(臼杵の稲葉氏)など、普請を割り当てられた九州の大名の刻印石も見られ、都会のビルの片隅に江戸城の痕跡が大切にされていることにとても驚き、感動しました。
そこでもっと驚いたのが、『世田谷の馬事公苑には昭和39年のオリンピック(馬術競技)開催の記念碑として石垣の原型が残されております。』という説明プレートの文字。
馬事公苑は自宅から徒歩圏です。区民祭りやホースショーに出かけたことはあるのですが石垣の存在はまったく知らなかったので、この一文は衝撃でした。灯台下暗し。
これは見に行かなければ!とすぐに出かけたのですが……、

馬事公苑は2020東京オリンピックでも馬術競技の会場となっていて、2017年から工事のため休園中でした。白いフェンスで周囲をガードされ、中の様子はまったくわかりません。為す術もなくとぼとぼと引き返すしかありませんでした。。。

コロナ禍のためオリンピックは1年延期、また終了後のリニューアル工事に約2年かかるということで、馬事公苑の休園は7年間も続きました。
すぐそこにあるはずの石垣が見られないというのはなかなかもどかしかったです。

……と言いつつすっかりその存在を忘れていたのですが、昨年秋ついにリニューアルオープンしたということで行ってきました。

江戸城の石があるのは武蔵野自然林の区域ですが、まずはすっかりきれいになった園内を散策することにしました。
すると「はらっぱ広場」の入り口に矢穴のある石発見!
矢穴石=江戸城の石とは限らないと思いつつも、場所が場所だけにもしかして?と気になります。
弦巻門近くの「彩のこみち」に行ってみると、今度はたくさんの石のオブジェがあるのが見えました。
この形、大きさ、色。何よりひとつひとつの石から醸し出されるオーラが……江戸城っぽい。
どきどきしながら近づいてみると、お馴染みの矢穴や刻印のオンパレード。折敷に三文字の刻印に、江戸城外濠の石だと確信しました。

でもなぜここにばらばらに置かれているの?
記念碑として「石垣の原型が残されている」はずなのに……。
まさか(;゚Д゚)

急いで武蔵野自然林に向かいます。(ちなみに苑内通路は“馬優先”です。)
石垣、ちゃんとありました!
ただ、このたびの公苑整備に際し、
<これまで触れることのできなかった石垣をより身近な存在とすべく一度解体して誰もが登れるオリンピックテラスとして再構築しました>(現地説明板)
とあり、以前のものより低くなったようで、スロープや階段、ベンチが設置されていました。
それでも江戸城の遺構をしっかりと感じることができましたし、並べて嵌め込まれた新旧2枚のプレートに、未来へ継承していくための再構築なのだということがわかってホッとしました。

「彩のこみち」に置かれていた矢穴石や刻印石は以前の石垣を解体したあとのものではないかと思います。「はらっぱ広場」の矢穴石もおそらくそうです。
となると、ほかにもあるのではないか?という気がしてきたので、また折を見て探検してきたいと思います。
江戸城の石垣→オリンピックの馬術会場と繋がる理由や、刻印の詳細、発掘場所等については写真⑨をご参照ください。

今に残る江戸城の痕跡。可能な限り拾いあげていけたらと思っています。
出会いと発見を求めて今日もまた、足の向くまま気の向くまま、そこらじゅうをてくてくと歩いてきます(‘◇’)ゞ

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

イオ

惣構めぐり(伊丹郷町~惣構北部) (2023/12/23 訪問)

(続き)

有岡城の惣構は河岸段丘の高低差を利用して築かれ、南北1.7km・東西0.8kmと南北に細長い形状です。有岡城が廃城となった後、城下町の大半は江戸前期に五摂家筆頭・近衛家の領地となり、主に酒造業により繁栄しました(伊丹郷町)。

JR・伊丹駅から西にのびる伊丹酒蔵通り沿いには、発掘調査で検出した伊丹郷町の大溝と呼ばれる石組みの水路が再現されています。在見られる大溝は城郭遺構ではありませんが、有岡城の内郭と外郭を区画する堀跡に築かれているようです。伊丹酒蔵通りをもう少し西に進んだ有馬道東側でも有岡城の堀跡が確認されていて、説明板が立てられていました。

伊丹酒蔵通りの一筋北には江戸前期築の旧岡田家住宅(国重文)があり、店舗や酒蔵、釜屋・洗い場などが公開されています(無料)。隣の旧石橋家住宅(県文化財)はクラフトショップとして営業していますが、こちらも立派な町屋でした。両町屋に北接する市立伊丹ミュージアムには有岡城についての常設展示(無料)もあるようなので見学する予定でいましたが、当日はすっかり忘れて素通りしてしまいました。またの機会があれば今度こそは…。

町屋を離れると惣構の外縁部に向かいます。有馬道は北部の北之口から池田や有馬へと続き、北之口には砦が設けられていたとも云われます。北之口砦跡は児童遊園地になっていて砦跡を示すものはありませんが、脇の小道(有馬道?)を下りて行くとなかなかの高低差があり、ここが惣構の縁であることを実感しました。

惣構の縁を西にたどって渡辺勘大夫が守ったとされる岸の砦へ。猪名野神社が砦跡と推定され、参道に岸の砦跡の説明板があり、境内の北西辺には土塁が遺っています。説明板によれば堀跡もあるようですが、見付けられませんでした。岸の砦からは惣構の西縁をたどって南に向かいます(続く)。
 

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

todo94

19年ぶりの門司港レトロ (2024/01/14 訪問)

大分からの帰路、小倉で途中下車し、門司港駅にアクセス。駅から徒歩で攻城しました。にのまるさんの故郷にほど近いこの城、漸く攻城がかないました。砲台が築かれ遺構はほとんど破壊されてしまっているようですが、わずかに残る石垣を確認できて満足です。山頂からばかりでなく、途中、いくつかの箇所で関門橋を望めるスポットがあり、吊り橋好きの私としてはこれも萌えポイントでした。門司港レトロでは、旧門司税関に立ち寄り、歩行者専用のはね橋・ブルーウイングもじが開くところも見届けることができました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

天守無しがアツい

カープの由来は広島城 (2024/03/10 訪問)

(2回目の訪問、2007年)
広電で紙屋町東にて下車。そこから10分ほど歩いて広島城を目指した。炎天下をひたすら歩き、広い敷地内を本丸向かって進み、そして本丸に入城した

城の展示はどこもそうは変わらないと思うが、毛利氏が栄えていた頃の広島を中心に展示がなされていた。当時の鎧に刀剣、槍、それに広島出身の思想家、医学に通じた者など広島が生んだ偉人は結構いるようだ。

「広島城に仕えた家臣」が城について解説するという映像展示もあり、楽しめながら理解できるものだった。兜、鎧を実際に着用できるイベントもあり、着てみると結構重かった。全部つけると20kgはありそうで、行軍がいかに大変かが分かるような気がする

武家屋敷に庶民の家を再現したものもあり、畳に襖、小さな木製テーブルとまさに和風。どちらも生活は質素だったようで御飯に汁物、おかず一品が普通の食事だったそうだ

現代のように肉を食うことはまず無かっただろうし、冷房設備も皆無なため、「夜寝る時は寝苦しかったんじゃないかな?」と思えた。そう気付くと今の生活は便利に思えるから、文明の進化には感謝せざるを得ない

最上階の1つ下の階には「鯉城とカープ」というテーマで、この広島城とカープ(広島東洋カープ)につながる展示がなされていた

そもそもチーム名が何故そうなったかというと、広島城の発掘にて鯉の銅像が発見されたように、この街にて鯉は広島のシンボルとして見られており、広島にプロ球団が誕生した時も鯉以外にふさわしいチーム名がないということで「広島カープ」になったそうだ

チームが発足した時の新聞コピー(何回かユニフォームは刷新されているので)各代のカープユニフォーム、(カープの優勝)記念碑といった名物を紹介した地図などが展示されていた。

カープ=鯉ということは承知だが、カープの由来は広島城にあったことは初めて知った自分。広島城は別名鯉城とも呼ばれており、その名をいただいたカープは地元市民に親しまれる存在となっていったと言えよう

最上階には展望室があり、椅子に座って飲み物を飲んだり外の景色を眺めたりしながらくつろいだ。外から見える周辺の街並みは緑が多くて綺麗だったが、5Fビルから見下ろす感覚で、下を見ると怖かった。「これくらい見たから次に行くか」と思い、記念メダルを買った後また暑い外を歩いた

(3回目の訪問、2024年)
(HP)https://www.rijo-castle.jp/

広島城には2007年にも訪問したことあるのですが、当時は御城印のシステムが無く、つまり未入手でした。その補完並びに久々の見物という意味合いで3回目の入城(ちなみに1回目は小学生の時なのですが、当時つけていた日記帳を紛失してしまい、内容もほぼ覚えてないので割愛😅)

まず(1枚目の)門を潜ります。それから右手に扉があり、どうやらそこから門内の通路を見学できるようです。けれど時間に余裕の無かった私はそこは諦めて本丸へと向かいました🏯

本丸は大人500円。午後に他用を控えてる関係で、展示物をじっくりとは見ずにサクッと見て回ることにしました

2枚目は歴代藩主を務めた毛利家の人々を描いた巻物。毛利元就〜輝元の代において中国地方一帯を治める大大名に成り上がった。輝元は112万石を所有していたわけですが(家康に次ぐ多さかな)、関ヶ原の戦いに敗れて石高を大きく減らし、長門国と周防国だけに…拠点は萩に

巻物の中に敬親(たかちか)の顔もあります。彼は吉田松陰や高杉晋作、桂小五郎がいた時の藩主。松陰の山鹿流講義を褒め称えたり、晋作を四国連合艦隊との講和会議における大使に任命したのも敬親と思われます

そして…お約束の御城印…2階の売店で扱っていました。広島城(スタンダードタイプ)、鯉城(カープバージョン)、そしてしろうニャ(ご当地キャラ?)…他に金色の1000円タイプもありましたが、1枚300円の3種類(広島城、鯉城、しろうニャ)を選びました

3枚目がそれを収納した様子。写ってるのは広島城と鯉城のみですが、しろうニャもその後ろにちゃんと収めてますのでご安心ください。「袋はいらない…そのまま手渡しでOK」と店員に口にすると、「何ていい人なんでしょう😂」とリアクションされました…別にそんなことないのに…余計な袋は資源の無駄になるし、かさばってゴミになるだけだから断ってる

余談ですが、この御城印の撮影って実は結構難しいんですよね…御城印帳に入れた状態だと、どうしても本体が閉まろうとして動いてしまう。だから手で押さえながらの撮影。もしかしたら、帳にはしまわずに、御城印だけ並べて撮影のほうがいいのかな?

4階には(4枚目の)「刀の重さを体験しましょう」というコーナーがあり、私も振ってみました。するとそこそこの重量があり、ただ持つだけならともかく、これを振るって敵と斬りあう…となると、やはりムズイのではないかと思います⚔️

重さは1kgちょっと…バットより重いそうです。ここで使用されてるのは模造刀。あくまでレプリカですが、重さは本物と同じだそう。そう言えばウチにも鎌倉で買った模造刀あったな…🗡️ 品質保持のため箱にしまいっぱなしだけど、今度また握ってみようかな

最上階ではWi-Fiの通りが良かったため、そこで歩数計アプリのゲージ消費、買い物アプリの記録をつけました。そしてそこからの景色を手短に見てから急ぎめに階段を降りて天守を後にしました…

2-3分後…「やべ、そう言えば天守撮り忘れてた。そんなに写真撮らない自分でも、さすがに天守撮らないのは心残り…仕方ない。戻って1枚撮ろう😅」と考えて店主の前まで戻り、撮影したのが5枚目。とりあえず撮り逃さないでよかった

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

しんしんちゃん

関ヶ原の合戦のキーパーソン (2024/03/10 訪問)

松尾山城は標高293.1mの松尾山の山頂部一帯に築かれています。古くからある山城を、関ヶ原の合戦に備えて石田三成が大垣城主の伊藤盛正に改修と守りを依頼していたのですが、合戦前日の慶長5年9月14日(西暦1,600年10月21日)に小早川秀秋が盛正を追い出して陣取ったということです。
この小早川秀秋という武将、なんと天正10年生まれだそうです。あの織田信長が亡くなった年に生まれたんです。びっくりですよね。
明智光秀同様に肖像画で損をしているところがあって、なんとなく気弱そうな顔をしています。
関ヶ原の合戦の際にはまだ18歳前後です。2年前の蔚山城の戦いでは若干16歳で援軍の主将として参加して多くの明軍を討ち取ったという史料もあるようですが、寛文12年(1672)に儒学者の堀正意によってまとめられた『朝鮮征ばつ記(朝鮮物語)』に由来があるようで信憑性には欠けるようです。とはいえ愛刀兼光で曲者を袈裟切りに両断(あまりの切れ味に曲者は対岸まで泳ぎ付いてから絶命)したという逸話もあるくらいなので武勇には人並み以上のものがあったと考えても良いでしょう(そう思いたい)。

話を松尾山城に戻しますが「城郭放浪記」さんに南のほうが登りやすいと記載があったのでそちらから登りました。入口も南側に付いていて、枡形の虎口から城域に入ると大きな竪堀が東に付いています。さらに北上すると右手にトイレのある郭、左手に馬出状の郭があります。さらに北上すると左手には西の郭に向かう道があり、正面には南側に枡形虎口を備えた主郭が待ち受けています。小早川の旗指物が風にはためいています。違い鎌のデザインがかっこいいですが確かに鎌の刃は内側を向いてますね。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

しんしんちゃん

物見に登れば信長気分になれる‥かも (2024/03/09 訪問)

善照寺砦は今川方の鳴海城に備えて、織田信長が永禄2年(1559)に築いた三砦(丹下砦、善照寺砦、中嶋砦)の一つです。翌年今川義元本隊を急襲する際、信長はこの砦の下に兵を集結させたそうです。公園内に意味深な展望台みたいな遊具があるので登ってみたところ、遠くにおけはざま山が見えました。現代の物見やぐらといったところですね。こういった気の利いたサービスはうれしいですね。
信長気分、味わえたでしょうか?

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

しんしんちゃん

名塚砦 稲生原(いのうがはら)古戦場跡 織田家中掌握の地 (2024/03/09 訪問)

名古屋市西区名塚町にある名塚砦は白山神社一帯にあったとされています。織田信長の弟・信行を支持する林道勝、柴田勝家らに対抗するために、織田信長がこの砦を築き佐久間重盛に守らせたとされます。名塚砦から200mほど南にある稲生原古戦場跡で林・柴田ら信行方の軍勢1700と信長方700の軍勢の間で合戦となり、信長本人(柴田勢を一喝)の活躍もあり敵方を敗走させたと有ります。古戦場跡には供養塔と庚申塚があり合戦の使者を弔っているとのことです。

名塚砦跡‥名古屋市西区名塚町4
稲生原古戦場跡‥名古屋市西区名塚町1

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

ぴーかる

野村城 (2024/01/13 訪問)

【野村城】
<駐車場他>宗佐厄神八幡神社駐車場を利用しました。
<交通手段>車

<案内>案内板・説明板はもちろん、登城路もありません。先達者方の通り、八幡社の北にある石板を壁にした立派な家の北にある農道を東に入り水路をまたぎます(添付写真9枚目)。畑のあぜ道を東に進んで<34.786815, 134.921879>(写真10枚目)罠猟くくり罠の札がある右手から網をまたいで山に入ります。奥に踏み跡程度の道がなんとなく始まりますから少し進むと、正面道の右手に尾根の裾が降りてきている(踏み跡の道も無い)ので、道の無い尾根をそのまま真っすぐ登って下さい。比較的緩傾斜で10分程登ると小曲輪があり主郭の西南端に出ます。

<見所>堀切・横堀・土塁
<感想>城びとの城郭情報によると野村城は1469年に野村氏によって築城されたとあります。広い丘陵台地の南西隅にある城郭で南西隅の主郭は東の副郭以外の方向は切岸になっています。主郭の南北に小曲輪が付いています。主郭と東側の副郭の間は深い堀切で主郭側は土塁になっています。副郭は北側と東側とが水平になっているので横堀が廻らしてあります。副郭の更に東側の平坦地をかなり東に進みましたが平坦が続くだけだったので引き返しました。麓の宗佐厄神八幡社にお参りして終了しました。

<満足度>◆◆◇

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

しんしんちゃん

吉田城散歩の続き (2024/03/03 訪問)

吉田城散歩の写真の余りです。吉田城の古い石垣は三河で取れるチャートが多く用いられています。同じような石が田原市の田原城や浜松城の天守曲輪の周辺に用いられています。あまり加工に向いていない石なので基本は野面積みですね。精度がいる加工には花崗岩や砂岩の方が向いているようです。砂岩は崩れやすいのが難点ですが、白亜紀の地層から取れる和泉砂岩より、ジュラ紀に堆積した河戸砂岩の方が崩れにくいように見受けられました(見た目が堅そう)。
それはさておき、普段見慣れているせいか、吉田城って豊橋の人にはあまり評価されて無いんですね。天守ではなくて天守代用の鉄櫓というのが岡崎城や浜松城より見劣りする部分なのかもしれません。でも改めて見ると、石垣や堀、土塁などの遺構もしっかり残っているし、辰巳櫓の基礎部分の土塁は堀底から見てかなりの高さがあります。いろいろと良い所もあるんですね。
散歩コースとしても良いのですが、本丸から豊川沿いの歩道におりる石段の段差が大きいので膝に良くないのが難点です。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

朝田 辰兵衛

ホテルから朝駆け… (2024/02/12 訪問)

小田原駅前のホテルから朝駆けしました。天候には恵まれましたが,朝は寒かったです。越後帰還日でしたが,この晴天のおかげで思ったよりも散策できた一日となりました。

+ 続きを読む

トク

95【関ケ原の26人】(25)島津豊久 (島津本軍と加藤清正はなぜ関ケ原へ行けなかったのか?) (2023/11/05 訪問)

(25人目)島津豊久の続き⑧です。「都之城」を訪れてきました。
JR西都城駅(写真⑨)から徒歩で15分のところにあります。現在の城跡には歴史資料館が建てられていて(写真①②)、大手門も残っていました(写真⑤⑥)。

実は1599~1600年に、ここを舞台にして起きた島津家の内乱「庄内の乱」が関ケ原や九州の諸将にも関係し、また豊久の運命を大きく変える事になってしまいました。そのため気になり訪問しました。そしてこの乱があったがために、義久は薩摩から弟の義弘に援軍を送る事ができず、また加藤清正も関ケ原へ向かう事ができませんでした。よって関接的に関ケ原の勝敗にに大きく影響したかもしれない乱であったと言えると思います。

ではもしこの庄内の乱がなかったら、関ケ原はどうなっていたでしょうか? 島津義久は薩摩より義弘の元へ大軍を送っていたでしょう。そして加藤清正も自ら大軍を率いて熊本から関ケ原へ向かっていた事でしょう。島津と加藤、どちらの軍勢も当時の日本では最強と言っていい大軍勢です。強さから言えば、おそらく西軍の中心であった宇喜多秀家や石田三成の軍勢の比ではないと私は思います(それだけめちゃくちゃ強いという事です)。しかしいざとなると、彼らが西軍・東軍どちらに付いたかは私にはわかりませんが、関ケ原の戦いの構図は間違えなく大きく変わっていたと思います。特に三成と仲が悪いと言え、最も豊臣秀頼を慕う加藤清正は要注意です! それは以前の私の投稿で、なぜ清正はあのような大城郭(熊本城)を築いたのか? そしてなぜあの豪華な本丸御殿(昭君之間)を作ったのか? その理由を思い出していただければ解ると思います。

私は都之城の本丸から都城市街を眺めて見ました(写真⑧)。当時ここに立て籠もる伊集院忠真に対し、義久率いる薩摩の島津本軍と豊久の佐土原軍がこの城をぐるりと取り囲んでいたであろう光景を想像してみました。関ケ原がたった1日で終わらず、もしあと数ヵ月長引いていたら、これらの軍勢と加藤清正の軍勢が関ケ原へ向かっていたかもしれません。そうなった場合、はたして戦の結末はどうなっていたでしょうか? そして家康はどう対応したでしょうか? などとまたいつものようにありえなかった想像にふけってしまいました🤔。


【余談】庄内の乱とは(御参考まで)
島津義久の筆頭家老であった伊集院忠棟は、根白坂の戦いの後、秀吉に降伏するよう義久に進言した人物とされ、秀吉より信頼されかつその恩賞として都之城8万石を賜り、それまで都之城を治めていた北郷氏を追放して、島津家家中を二分するほど権力を有するようになりました。そして太閤検地で不満をもつ諸将をも取り込み、このままでは島津家を乗っ取るのではとうわさされていました。義久が朝鮮の義弘に船や物資・援軍を送れなかったのも、忠棟がこの諸将らに反乱を起こさせ妨害させたからだとされています。1599年3月これをよく思わない義弘の子で義久の後の島津家を継ぐ事がすでに決まっていた忠恒は、何と伏見の島津屋敷にて忠棟を斬殺してしまいました。これに怒った忠棟の子の忠真は居城の都之城に立て籠もり、義久と一戦構えます。同6月佐土原城主として大坂に参勤中だった豊久も、家康から義久と相談しながらともに乱を鎮めるようにと命を受けて薩摩へ戻り、外城の山田城を落とします。籠城も限界となった1600年3月、最後には家康の仲介で、忠恒は謹慎、忠真は降伏し都之城を明け渡して乱は終息します。関ケ原が起きる直前の出来事でした。これにより軍勢が疲弊したため、島津義久は関ケ原の義弘に援軍を送る事ができず、加藤清正は忠真と内通していたのではと家康から疑われ関ケ原への参陣を禁止されたのでした。

次はその「山田城」を訪れ、豊久の運命を分けた関ケ原へと話を続けます。
 

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

駿府城

発掘情報館きゃっしる【別館】が移転します!

駿府城跡天守台発掘調査現場内での発掘調査速報などを発信している発掘情報館きゃっしる【別館】(http://www.shizuoka-bunkazai.jp/castle-info/)は、令和6年3月31日をもちまして閉鎖します。
長きに渡り当サイトをご利用いただきまして誠にありがとうございます。

令和6年3月1日からは静岡市公式ホームページ文化財ブログ(https://www.city.shizuoka.lg.jp/s6725/s012603.html)にて更新していますのでご利用ください。
今後も発掘調査現場の最新情報や関連情報をお届けしますので、ぜひご覧ください!

「静岡市 文化財ブログ」と検索してもアクセスできますので、お気に入りやブックマークに登録されている方は、お手数ですが新しいアドレスへの変更をお願いいたします。

◆サイト完全移行時期
令和6年4月1日より
◆ホームページURL
(現)発掘情報館きゃっしる【別館】http://www.shizuoka-bunkazai.jp/castle-info/
(新)静岡市公式ホームページ https://www.city.shizuoka.lg.jp/s6725/s012603.html

+ 続きを読む

広島城

広島城二の丸茶会を開催します

江戸時代の姿を忠実に復元した二の丸復元建物で上田宗箇流の茶会を実施します。


日  時:令和6年3月24日(日曜日) 
     11時~ (受付は10時30分~14時00分)
開催場所:史跡広島城跡二の丸復元建物(中区基町21)
参 加 料:お1人様 500円

※ 事前の予約不要
  当日、会場受付にて茶券を御購入ください。
※ 服装は自由
※ 雨天決行

【お問合せ先】
市民局 文化スポーツ部 文化振興課広島城活性化担当
〒730-8586 広島市中区国泰寺町一丁目6番34号
Tel:082-504-2869 Fax:082-504-2066
bunka-machi@city.hiroshima.lg.jp

+ 続きを読む

イオ

駅前の遺構 (2023/12/23 訪問)

鎌倉末期に伊丹氏が猪名川の河岸段丘上に築いた城館(伊丹城)で、水陸交通の要衝として長らく伊丹氏の居城でしたが、織豊期に荒木村重に攻められ落城。村重が惣構に改修して居城とし有岡城と改名しました。村重が織田信長から離反すると、有岡城に籠城して織田軍の攻撃を約1年にわたってしのぐも落城し、戦後は池田之助(元助)が城主となりましたが、美濃国・岐阜への移封により廃城となりました。

JR宝塚線・伊丹駅から登城開始…というか、明治期に主郭の真ん中に鉄道を通して停車場を設けたため、伊丹駅がすでに主郭内です。西口を出た先の広場の西辺には復元と思しき土塁があり、有岡城跡の説明板が立てられています。カリヨンを奏でるフランドルの鐘の奥には、有岡城に幽閉された黒田官兵衛にちなんだ官兵衛ゆかりの藤が植樹されていました(官兵衛がどこに幽閉されていたのかは不明のようですが)。広場には発掘調査で確認された伊丹期の建物内の沓脱石や伊丹之親の歌碑も見られました。

広場からエスカレーターを下りて北に向かうと、石垣で虎口風に造られた史跡公園入口に有岡城跡の石碑が建てられています。史跡公園は主郭の北西部にあたり、北西辺の土塁と石垣が遺っています。石垣には転用石も多く見られました。また発掘調査で確認された礎石建物跡や井戸跡が復元されています。

続いては惣構めぐりをしようと史跡公園を出て西に歩き始めたところで、公園の西麓に広がる横堀にびっくり! 下調べで堀があることは承知していましたが、駅前の一等地にまさかこれほどの規模で遺されていようとは…。歩道をはさんだ南側の堀跡は舗装されて子どもたちがボール遊びに興じる広場になっていますが、堀の形状はそのまま残されていて、駅西口広場の土塁とあわせてこちらも往時の姿を感じさせてくれました。

駅前の城跡でもあり、遺構はあまり期待していなかったんですが、思いのほか見応えがありました。気を良くして惣構めぐりに向かいます(続く)。
 

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

赤い城

脇城と連携し機能していた (2024/03/03 訪問)

県道12号線に案内板があり、北に入り細い道を進みます。
途中いくつか案内板があるので迷わず駐車スペースへ辿り着けます。
そこから先は徒歩で。
少し登ると二郭に着きます。
二郭は墓地で古い石塔が並んでいます。
北に曲輪が連なっているようですが藪で断念、主郭に向かいました。
二郭と主郭の間には深い堀切が残っています。
堀切の奥には腰曲輪もありました。
登城路自体も腰曲輪なのでしょう。
主郭へは坂虎口となっていました。
主郭には説明板が立っています。

阿波九城の脇城とは距離も近く、連携した対の城でした。
現在残るのは主郭周辺のみですが当時はもっと大規模な城だったようです。

この後脇城に向かいましたが、その前に散策したうだつの町並みも風情があってよかったです。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

todo94

2巡目の続日本100名城のスタンプラリー73城目 (2024/01/13 訪問)

2023年11月の出石城・有子山城以来の続100名城登城で2024年の初スタンプとなりました。初めて訪れた時は雨もよいの曇天で臼杵城には曇天のイメージがまとわりついてしまっています。5度目の攻城で初めて快晴に恵まれました。櫓の写真などは曇天の方が撮影しやすいのですけれどもね。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

Tokyobay

築地は「海軍発祥の地」 (2024/02/26 訪問)

聖路加病院から勝鬨橋方面へ進むと大きな公園があり、シーボルト像が見える。なぜか子供たちが像に群がっていて説明が中々読めない。この辺は江戸蘭学発祥の地であり、シーボルトの娘いねが産院を開業したことを記念して設置したようで、シーボルトと築地には直接の関係はない。さらに進むと電信創業之地の碑がある。築地と横浜で初めての電信が行われたとのこと。その向かいには月島の渡し跡があり、勝鬨橋が出来る前まで運行していたらしい。その奥に立派な料亭みたいのがあって、結婚式をしてたのか入口付近が若い男女で盛り上がっている。その入り口の脇に運上所跡の碑があるのだが、少々見つけにくい。ここは東京税関発祥の地。
そして隅田川に出て勝鬨橋へ。「日本国重要文化財」になっているのは知らなかった。この辺は昔仕事でよく来た場所だが、当時は何もなかったのに、タワマンだらけになってしまって街が大きく様変わりしたことに驚く。築地市場内でも時々食事したが、もう更地になってしまってなんだか寂しい。橋の脇には海軍経理学校の碑があるが、この築地市場は軍艦操練所跡でもあり「海軍発祥の地」とされている。勝海舟が頭取でジョン万次郎も教鞭をとったとか。その後火事で移転した後には有名な築地ホテル館ができる。こういった歴史は仕事で来ている時は何も知らなかったし、碑や案内板にも見向きもしなかったが、歴史を知らずに人生終わらないで本当によかった。まだまだ知らない事だらけだが。
最後に築地本願寺へ。時間が遅くて内部は見学できず。ここが元々西本願寺だということも知らなかった。最近は寺の改革が進んでいるようで、洒落たカフェ等が併設されて結構賑わっているし、合同墓なんかも作って人気だとか。ただし、墓に入るには一応浄土真宗の門徒?みたいのにならないとイケナイらしいが。この日はちょうど有名人の葬儀をやっていてマスコミがたくさん来ていた。人間いつ死ぬかわからない。毎日悔いなく生きないと。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

ページ9