以下の文章には関ヶ原の合戦における私見(個人的感想)を多分に含んでおります。あくまで「しんちゃん」流の関ヶ原になるので宜しくお願いします。
松尾山城の続きです。
主郭からは関ヶ原が良く眺望できます。東軍を攻めるにしても西軍の背後を突くにしてもここは最高の立地条件です。強引に伊藤盛正から陣地をぶんどった甲斐があったというものでしょう(彼には気の毒ですが)。小早川秀秋に関しては豊臣秀吉から冷たく扱われ徳川家康に恩義を感じており早くから東軍に通じていたとか、いろいろ言われていますが、この大一番においてはそんなことは些細なことだと思います。
彼にしてみれば、おそらくそんなの関係ねえのオッパッピーでしょう。より良い条件で勝利できる側に着くだけです。彼にとっては、刻一刻と変化する状況の中でそれを見極める必要があったのでしょう。大御所家康に恩義はあれど勝機が無ければ見捨てるだけです。毛利(吉川)が東軍を攻めれば迷わず東軍を襲う気でいたと思います。松尾山に布陣した段階では、まだどちらの味方でも無かったのでしょう。
小早川秀秋公は若干18歳前後とは思えないほどの行動力と判断力としたたかさ(狡猾さ)を持っていたと思います。加えて慎重さも持ち合わせているので大御所家康にとっては手ごわい相手だったと思います。
吉川広家は西軍には勝機が無いと考えていたようですが、3万8千(一説には)の徳川秀忠の軍勢が到着しなかったことで、状況は一変したと思います。徳川家康の本隊3万を除けば、残りは敵も味方もほぼ豊臣恩顧の武将たちです。いわば全員オッパッピーで(ガチ勢を除いて)、東軍にも西軍にも命がけで尽くすだけの義理は無いわけです。持ちろん負け側に付いたら全てを失うので本気で戦いはしますが、いつ何が起きても不思議は無いと思います。毛利と小早川が東軍を挟撃すれば西軍の勝利の確率は高かったでしょう。
主郭の周囲には土塁が良く残っており四方は急峻な切岸になっており直接降りていくのは危険です。北側と北西部の遺構を見るためには一度南に戻って西の郭への分岐を進んでいく必要があります。思ったより雪が残っていて足元が滑って危ないです。ストックと登山用の靴で来ているのですが、着脱式のアイゼンも持って来るべきでした。
今回の目的の一つに縄張図に出ていない、小早川が合戦に備えて急遽整備した遺構を確認したかったというのがあります。目指すは大谷刑部の陣の方向に向かって伸びる尾根です。小早川が手を入れるとしたら、そこでしょう。
+ 続きを読む