福岡城を訪れると、天守台の脇にあった枝垂れ桜(早咲き桜)が1本だけ咲いていました(写真①)。しかしソメイヨシノは3/20現在まだ一輪も咲いておらず(写真②)、満開予想は4/2頃となっていますので、花見をされる方は御注意下さい!(写真⑥)。では本題に入ります。
昨年7月~12月行われた、福岡城に天守は本当にあったのかを探る、天守台穴蔵(写真③)の発掘調査の経過報告書がついにまとめられ公開されたので読んでみました。
結論から言えば、天守床下を支える「束石(つかいし)」(床下を支える柱の基礎)と「桐紋の瓦」が、一つずつ見つかったそうです。
礎石だけでなく束石と瓦があったという事は、ここに何らかの建物が建っていたという可能性は高いという事になるのでしょうか? また桐紋と言えば、豊臣家ゆかりの者にしか使えない瓦のはずです。
しかしここでふと疑問が🤔? 福岡城の築城は関ケ原後の1602~1607年です。豊臣期の瓦が出るはずがありません。桐紋瓦は、豊臣秀長の大和郡山城や、秀吉が築いた名護屋城など、豊臣ゆかりの城によく見られる事はみなさんも御存知と思います。
しかしちょっと待てよ🤔? 前回に名島城を訪れた時、名島城の建物や石垣は、黒田長政によって福岡城に移築されたと書いてありました。確かに名島城の脇門であったとされる「名島門」は現存し、現在三の丸に移築保存されています(写真④⑤)。しかし名島城の天守に関しては、佐竹義宣の家臣の見聞録に立派な天守が建っていたとの記述が残されているようですが、どのような天守だったのか? 具体的な記録は未だ発見されていません。古図を見る限りでは天守の存在は何とも言えませんが(写真⑧)、でも余湖氏の絵図にはかっこよく天守が描かれています。
よく考えると、名島城は秀吉からとても信頼の厚かった小早川隆景が築城したもので、豊臣姓も賜った隆景なので、桐紋の瓦があったとしてもおかしくありません。という事は🤔・・・福岡城の天守台(写真②)の上には、実は移築された名島城の天守が建っていたという事になるのでしょうか?・・・😱!
しかし発見されたのはどちらもわずか1点のみであり、調査も十分になされたとは言えない段階なので、たったこれだけでここまで推測するのはちょっと早計かもしれませんが、これを受けて福岡市は、今年も調査を継続する事に決め、令和8年度予算案を議会に提出たそうです。今後はもう少し穴蔵を広範囲にそして少し深く掘って調査し、併せて外側の石垣の調査も開始したいそうです。
発掘調査経過報告書は以下に2ページで解かり易くまとめられていますので、興味のある方はアクセスされて下さい。福岡市の意地をかけた文化庁とのこの戦い、第2ラウンドはどんな展開が待っているのか? 予期せぬ方向に進んでいるので、ますます面白くなってきました😊!
https://www.city.fukuoka.lg.jp/gikaizimukyoku/giji/shisei/documents/04_20260218keizai-hokoku3.pdf
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