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T-Shionoya

僅かな遺構が息を潜める長島城 (2024/06/08 訪問)

前回投稿した桑名城とセットで訪れた三重県桑名市の長島城。

伊勢と尾張の正に国境。木曽三川下流域の輪中堤に囲まれた中州の1つ長島。
その中央部に、輪中内を流れる川を堀として利用し築かれた城。

鎌倉期の館を1482年に土豪の伊藤重晴が城塞化したことが始まりとされるが、1570年には長島一向一揆の拠点に。
信長の一揆鎮圧後は滝川一益や織田信雄など、江戸期は菅沼氏、久松松平氏、増山氏が城主となりました。

現在は小学校と中学校になっており、両校の校庭が二ノ丸、1段高い校舎などの立つ部分が本丸でしょうか。
また絵図から中学校の正門付近が本丸水之手門と推測されます。

訪問時、まずは大手橋で一部が江戸期からの遺構という石垣をチェック。
続いて両校の周囲を回り、最後に大手門が移築された蓮生寺へ。

城の姿形はほぼ失われているものの、僅かな遺構がひっそりと息を潜めていた、私の城郭巡りの185城目でした。

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じゅんじん

路地に石碑 (2024/10/18 訪問)

昔は土塁があったそうです。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)13日目:塚口城 (2024/10/04 訪問)

塚口駅(阪急線)から徒歩5分弱で、正玄寺門前(34.754434、135.418223)に着き、その後、東町門跡の祠&東町門跡の祠(34.754061、135.420902)に向かいました。

築城年代は定かではないようですが、阪急塚口駅の北東側一体で正玄寺を中心に築かれていたようです。
1587年(天正6年)有岡城主荒木村重が織田信長に反して籠城します。当初塚口城は有岡城の出城でしたが、織田軍がこれを攻め落とし、有岡城攻めの付城の一つとして丹羽長秀、蜂屋頼隆、蒲生氏郷、高山右近、神戸信孝などが布陣しました。

正玄寺に着いた時、すっかり暗くなり門も閉まっていた為、中には入れません。(境内に塚口御坊の案内板が設置されているようですが諦めました)
正玄寺の門の写真を撮りましたが、暗くてピンボケ状態で投稿できません。
東町門脇にある説明板の写真を投稿します。東町門脇の社が祀られている高台は土塁の名残だそうです。社の写真を撮りましたが、暗くてピンボケ状態で投稿できません。
移動時間を含めて、攻城時間は15分くらいでした。本日の城巡りは、ここがラストです。
本日の宿泊先に戻る為、塚口駅(阪急線)から阪急電車で十三駅に向かいました。
本日の攻城徒歩=39335歩、攻城距離=27.53Kmでした。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)13日目:富松城 (2024/10/04 訪問)

武庫之莊駅から徒歩15分弱で、説明板前(34.757113、135.398855)に着き、その後、土塁(34.757070、135.399049)に向かいました。

築城年代は定かではないようですが、1487年(長享元年)の『如意庵領年貢算用状』に富松城の名が記されているのが史料上の初見とされるようです。
1530年(享禄3年)には細川晴元方の薬師寺国盛が富松城にたて籠もっていたが、細川高国方の攻撃を受けて落城、高国は富松城に陣を移して晴元方の勢力を一掃したそうです。
1550年(天文19年)には伊丹城を攻めるため三好長慶が富松城に入っています。

現在残る遺構は曲輪の北西隅部分で土塁と堀があります。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=塚口城を目指す為、武庫之莊駅から電車で塚口駅(阪急線)に向かいました。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)13日目:瓦林城 (2024/10/04 訪問)

西宮北口駅から徒歩15分くらいで、日野神社鳥居前(34.748122、135.370431)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、1336年(延元元年・建武3年)赤松氏の部将貴志義氏が瓦林城を守っていたようです。
瓦林城の場所は定かではないようで、日野神社の辺りという説や極楽寺の辺りという説もあるようです。

明確な遺構はありませんが、日野神社の参道に瓦林城の石碑が建っています。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=富松城を目指す為、西宮北口駅から電車で武庫之莊駅に向かいました。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)13日目:越水城 (2024/10/04 訪問)

夙川駅(しゅくがわ)から徒歩15分くらいで、西宮市立大社小学校説明板前(34.745604、135.336864)に着きました。

越水城は6度にわたる「越水城の戦い」の舞台となった城です。もともとは瓦林城主・瓦林正頼が新たな居城として築いた城でしたが、三好氏に奪われると、阿波と畿内とを結ぶ重要な拠点であったことから三好長慶の居城となります。
長慶が芥川山城に居城を移すと、松永久秀が城主となりました。長慶の死後に三好長逸らいわゆる「三好三人衆」と松永久秀が対立すると、三好氏の重臣である篠原長房の攻撃を受け落城し、長房の居城となりました。
その後、織田信長が摂津へ進攻すると長房は城を放棄して撤退し、間もなく廃城になったようです。

西宮市立大社小学校の角地に城趾碑と説明板が建てられています。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=瓦林城を目指す為、夙川駅から電車で西宮北口駅に向かいました。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)13日目:平野城 (2024/10/04 訪問)

阪急御影駅北口出てすぐ前に石碑があります。

赤松氏の家臣であった平野忠勝によって1346年(正平年間)に建てられました。
足利尊氏とその弟との争いで起きた観応の戦乱(1351年)に巻き込まれて敗れた後、郡家村(御影町郡家)に退いて農業に従事したそうです。
推定地は現在の阪急御影駅から神戸市立御影北小学校付近一帯のようです。

遺構はないようで、石碑の写真を撮って撤退しました。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=越水城を目指す為、阪急御影駅から電車で夙川駅(しゅくがわ)に向かいました。

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正中の変 (2024/11/10 訪問)

 多治見国長は、美濃守護土岐頼貞の一族で、多治見郷に在住したことにより多治見氏と称しました。正中元年後醍醐天皇の密旨を奉じて、鎌倉幕府討伐を計画しますが、この密事が密告により露見し国長の宿所京都錦小路高倉の邸が六波羅探題の将小串三郎左右衛門尉範行に襲撃され国長は36歳で非業な最期を遂げました。鎌倉時代末期の地味な武将ですが、多治見まつりでは「多治見国長公を中心とした美濃ゆかりの武将と華やかな奥方による武者行列」(多治見市HPより)が行われる有名な武将です。
 遺構がなく石碑だけの城址などは2度行くことはほとんどないのですが、近くを通ったので寄ってきました。JR多治見駅から徒歩約15分多治見銀座商店街に石碑と説明板があります。

余談
 多治見市の名物は鰻だそうです。市内には鰻屋が多く20軒以上の店があります。老舗の多くは土岐川の近くにありますが、かつて川をいけす代わりに使っていた名残ということです。昔から窯業が盛んで陶工たちが体力回復のためよく食べられていました。また内陸なので新鮮な海の魚は食べられないかわりに陶器商人の商談成立などの祝い事で寿司の代わりに鰻が食べられるようになったという説もあります。自分は多治見国長館石碑から徒歩5分くらいの場所にあるその名も「うなぎや」さんという店でうな丼をいただきました。

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赤い城

甲山寺の背後 (2024/11/03 訪問)

四国74番札所の甲山寺背後の小高い山が城跡です。
甲山寺駐車場を利用、200円です。
納経所の箱に駐車料を入れ、本堂にお参りした後大師堂の先から登っていきました。

表参道と裏参道の分岐を表参道方面に進んで行くと遊具のある曲輪に着きます。
さらに進んでいくと主郭を取り巻く二郭に、ここを登ると主郭に到着します。
主郭には土壇があり、石碑が立っています。
この時季でも下草で覆われていました。

主郭の先、北側には裏参道がついています。
また、南西側には曲輪が段になって連なるようですが竹藪となっていて進むのは断念しました。

天霧城の出城で勇猛果敢な武将と言われる朝比奈弥太郎の居城とされています。
麓の甲山寺はうさぎ寺とよばれ、境内には2羽の親子うさぎの石像が。
撫で仏として親しまれています。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)13日目:摩耶山城 (2024/10/04 訪問)

虹の駅(ケーブル)からロープウェイ駅左手の登山道を進みました。

1333年(元弘3年・正慶2年)赤松円心によって築かれたと云われています。 赤松円心が摩耶山に城を構えて六波羅勢と戦った(太平記にある「摩耶合戦」)そうです。
その後の摩耶山城の歴史は定かではないようですが、戦国時代に城郭として機能していたと考えられています。

摩耶山城が摩耶山にあると勘違いし、虹の駅(ケーブル)から1700mくらい歩くのは時間的に無理だと判断しました。
予定ケーブル出発時間までに行ける所までと割り切って登り始め、宝篋印塔付近まで行って引き返しました。
自宅に戻り、写真を整理する為、いろいろ調べていたら、虹の駅(ケーブル)付近から宝篋印塔付近までが城域だとわかりました。
知らず知らず攻城していたとは。。。城域だと思っていなかったので付近を詳しく見ることなく下山したのを悔やみました。
石垣見たかったなあ。。。悔しい
攻城時間は50分くらいでした。次の攻城先=越水城を目指す為、虹の駅(ケーブル)から摩耶ケーブル➡みなと観光バス➡阪急電車を利用して阪急御影駅に向かいました。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)13日目:滝山城 (2024/10/04 訪問)

新神戸駅から徒歩5分くらいで、登り口付近(34.707138、135.195960)に着きました。ここから1.2Kmの遊歩道を歩きます。

築城年代は定かではないようですが、1333年(正慶2年)赤松円心が布引の城に籠もったことが『正慶乱離志』に記されており、滝山城の初見とされ、南北朝時代には摩耶山城などとともに争われたそうです。
1381年(永徳元年)に赤松光範が死去すると、文明年間には赤松氏の家臣であった井上成陰が城主になっていたようですが、詳細は不明で、一旦廃城になっていた可能性もあるそうです。
戦国時代には三好長慶の家臣松永久秀が滝山城主となっており、このときに現在の状態に改修されたようです。
1564年(永禄7年)長慶が没すると三好三人衆と争うこととなり、久秀が堺で戦っている間に三好方の淡路十人衆らの攻撃によって水ノ手を押さえられ、1566年(永禄9年)に落城しました。
その後は篠原長房の持ち城となっていましたが、織田信長の侵攻により有岡城主の荒木村重の持ち城となりました。
1578年(天正6年)荒木村重が信長に叛くと、信長は有岡城の支城である花隈城攻めの際に滝山城を攻め落とし、花隈城攻めの付城の一つとしたそうです。

最初、道を間違え北野異人館方面に歩きだしてしまいました。10分くらい歩いて間違いに気づき慌てて戻りました。なんでこんなミスをするのか情けない次第です。
遊歩道が整備されていますが、登りは結構きついです。(自分は登り40分、下り30分かかりました)主郭最高所に城址碑が建てられ西側に降ると2重堀切が残っています。
郭最高所に城址碑が建てられ西側に降ると2重堀切(写真を撮りましたがピンボケで投稿できません)が残っています。
攻城時間は80分くらいでした。次の攻城先=摩耶山城を目指す為、新神戸駅から神戸市営地下鉄で三ノ宮駅に向かい、みなと観光バス➡摩耶ケーブルを利用して虹の駅(ケーブル)に向かいました。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)13日目:湯山館 (2024/10/04 訪問)

有馬温泉駅から徒歩10分くらいで、湯殿館付近(34.7959333、135.2484242)に着きました。

有馬温泉の街にある念仏寺や薬師堂の敷地が館跡と云われています。
念仏寺は「太閤秀吉・北政所館跡(太閤小城跡)」とあり、秀吉の正室、北の政所・ねねの別邸跡だったようです。

日本有数の温泉なので、入って行きたいですが、強雨&時間もないので諦めました。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=滝山城を目指す為、有馬温泉駅から電車で新神戸駅に向かいました。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)13日目:三田城 (2024/10/04 訪問)

大原城から徒歩25分ちょっとで、石碑/案内板付近(34.886894、135.221252)に着きました。

三田城は九鬼水軍として知られる九鬼氏が築いた城です。規模が小さいので三田陣屋とも呼ばれています。

本丸跡が三田小学校になっており、ここに三田城址の石碑と縄張り図のある案内板があります。
二の丸跡は県立有馬高校の敷地となっており、大きな横堀(水堀)が遺されています。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=湯山館を目指す為、三田駅から電車で有馬温泉駅に向かいました。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)13日目:大原城 (2024/10/04 訪問)

新三田駅から徒歩25分くらいで、登城口前(34.9014593、135.2162722)に着きました。本丸跡は姫山神社

大原城はこの地域の豪族、大原上野守宗隆の居城でした。天正年間(1573年〜1592年)はじめの頃に荒木村重に滅ぼされたと伝わっています。

姫山神社が本丸跡のようで、土塁や堀切を確認することができます。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=三田城へは、ここから徒歩で向かいました。

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シェル

利根川と江戸川の分岐点 〜移築建造物が多く残る〜 (2024/06/04 訪問)

 東武スカイツリーライン 東武動物公園駅東口から境車庫行のバスに乗車し、30分弱バスに揺られながら、県境を越え千葉県へ。江戸町のバス停で下車し登城開始。
 江戸町のバス停そばには、関宿関所跡の石碑があります。関所から北に進むと関宿城大手門跡の説明板があり、ここには外堀の遺構の溝が残っています。

 江戸川の堤防伝いに進むと堤防の袂に不自然に出張っている丘があり、そこが本丸跡の一部のようです。
 たまたまかもしれませんが、すぐそば田んぼの稲が本丸寄りだけ、なぜか植えておらず、水堀と勘違いしてしまいそうでした。(実際田んぼの付近は本当に水堀だったようで、農家さんナイス!!と心で叫んでしまいました。)
 本丸には、関宿城址の石碑、説明板が設置されています。
 本丸跡からさらに北に進み、模擬天守(千葉県立関宿城博物館)へ。こちらでは、関宿城主の梁田氏と北条氏との関宿合戦や利根川東遷などについても詳しく解説されていました。また「北条氏康起請文」「下総国関宿城本丸絵図」なども展示されていました。御城印は、駐車場そばの売店にて販売されていました。(春仕様のものを購入)

 また城跡近くには、移築建造物が残っています。
 まず實相寺の境内に新御殿が移築されています。関宿城博物館の展示パネルによると、久世広周蟄居所として利用された建物ということです。御殿が現存しているのは、全国的にもかなりレアですね。實相寺には、太平洋戦争の終戦に尽力した内閣総理大臣 鈴木貫太郎の墓もあります。
 次に関宿から南に徒歩20分弱 東高野の民家に関宿城埋門が移築されています。ここは見学者専用の駐車場や説明板も設置されています。
 その他、茨城の逆井城にも城門が移築されているようですが、今回は断念。

 帰りは、埋門近くの「東高野」から川間駅へ向かいました。「東高野」は近くの工業団地へ向かうバス路線も合流する関係で、関宿城の近くよりもバスの本数が増えるので、公共交通を利用する方は参考になさってください。

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朝田 辰兵衛

南葛SCのホーム⚽ (2024/10/14 訪問)

大島に渡った翌日は,南葛SCのホームへ⚽
にのまるさんの投稿で,葛西清重館よりも,周辺観光の南葛SCに時間を割かねば…と思っていました。
そもそも,降り立った四ツ木駅が「キャプテン翼」で彩られており,隣接するコンビニの前には,元日本代表の北澤豪さんの足型までありました🐾
なんで周辺観光のほうでワクワクしてるんだろう…<笑>

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)13日目:小浜城 (2024/10/04 訪問)

売布神社駅から徒歩20分弱で、毫摂寺(ごうしょうじ)山門前(34.806866、135.364862)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、永禄年間(1557年〜1570年)頃に一向一揆衆によって築かれたと云われています。
小浜御坊亳摂寺を中核とする寺内町が大堀川と南北東の三方に門を設けて城郭化したものだそうです。
1578年(天正6年)有岡城の荒木村重が織田信長に叛くと、信長方の武将が小浜城に置かれたそうです。

遺構として土塁、横堀(水堀)、門跡があるようですが、門跡以外、よくわかりませんでした。
売布神社駅から強雨の中、傘をさして巡った為、結構濡れました。
バスの時間が迫っている為、攻城時間は5分くらいで撤退しましが、バスは10分近く遅れたので、結果論ですが、もう少し遺構捜しをすればよかったと思いました。
次の攻城先=大原城を目指す為、小浜バス停から阪神バスとJRを利用してで新三田駅に向かいました。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)13日目:山下城 (2024/10/04 訪問)

山下駅から徒歩10分ちょっとで、登り口付近(34.898470、135.4085480)に着きました。

山下城は塩川氏の居城で、1541年(天文10年)に籠城する塩川国満らが、三好長慶の軍勢を撃退した「一庫城の戦い」の舞台です。
塩川国満が城主の1584年(天正12年)には、豊臣秀吉による九州征伐の先鋒として出陣した能勢頼次の留守を狙い攻撃したため秀吉の怒りを買い、国満は自刃することとなり、そのまま廃城となりました。
現在城址は古城山には登山道が整備されており、土塁や堀切などの遺構を確認することができるそうです。

登山口から少し登ると『松茸山 入山禁止10月1日〜11月15日 山下古城山管理委員会』という表示とロープがあり、入れませんでした。
松茸のシーズンで入山禁止はわかっていましたが、登り口付近まで行って攻城としました。
時間があったので、川西市郷土館に行ってみましたが開いてませんでした。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=小浜城を目指す為、山下駅から電車で売布神社駅に向かいました。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)13日目:池田城 (2024/10/04 訪問)

川西池田駅から徒歩30分くらいで、池田城跡緑道公園入口(34.827014、135.429558)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、室町時代初期に池田教依によって築かれたようです。 1508年(永正5年)城主池田定正は細川高国と戦い焼失、落城するが嫡子久宗が奪還しました。
1568年(永禄11年)織田信長に破れ池田勝正は降伏しました。 その後荒木村重が入りますが、伊丹城に移り廃城となりました。

朝早く(公園に着いたのは6時20分くらいでした)攻城した為、開いてませんでした。事前調査不足でした(開園時間は9時から19時でした)。
模擬天守や模擬城門、冠木門が見たかったのに残念です。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=山下城を目指す為、池田駅から電車で山下駅に向かいました。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)13日目:有岡城 (2024/10/04 訪問)

今日は移動距離が長く&攻城予定の城跡も多いので、ホテルでの朝食は抜きで出発しました。(十三駅から伊丹(阪急)駅に向かいました。)
伊丹(阪急)駅から徒歩10分ちょっとで、有岡城跡緑道公園入口(34.780997、135.420993)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、南北朝時代には伊丹氏の居城であったそうです。 南北朝時代には数々の戦が摂津国で行われ、伊丹城でも数々の功城戦が行われ、時には落城しているようです。
1574年(天正2年)織田信長は茨木城主荒木村重に命じて、池田城主池田氏と伊丹城主伊丹氏を攻め滅ぼし、荒木村重を摂津国守護として伊丹城へ置きました。 村重は伊丹城を有岡城と改名して城の大改修を行いました。
1578年(天正6年)播磨国三木城主の別所長治が織田信長に叛くと、つづいて村重も織田信長に叛き有岡城に籠城しました。この時、黒田孝高が村重を説得するために赴いたが、そのまま捕えられて幽閉されました。
信長は池田・塚口・食満・加茂・倉橋・原田・刀根山に軍勢を配して有岡城を包囲し、長期戦に入りました。
1579年(天正7年)村重は近習を連れて夜陰に紛れて有岡城を脱し、尼崎城へ逃れました。城主が存在しないまま籠城を続けていたが遂に裏切り者が出て、周囲を固める砦が破られ1579年(天正7年)末に落城しました。
その後、信長は池田之助を城主に置きましたが、1583年(天正11年)美濃国へ転封となり羽柴秀吉の直轄領となって廃城となりました。

有岡城はJR伊丹駅の辺りに主郭が築かれていました。駅の西側に公園として整備されているのが主郭の一部で、土塁や石垣がありました。空堀跡を確認するのを忘れてました。
伊丹(阪急)駅から有岡城に向かう途中に、大溝跡と説明板を見つけました。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=池田城を目指す為、JR伊丹駅から電車で川西池田駅に向かいました。

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