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小城小次郎

丸岡藩の「本気」がここにある (2023/10/08 訪問)

幕末に海沿いの各藩が自領に築いたお台場の一つだが丸岡藩は藩主自らが江川太郎左衛門に弟子入りするほど西洋軍学に入れ込んでいたそうだ。いわば丸岡藩の「本気」がここにあって、これがまたいい感じによく残っている。

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豊橋公園 (2024/04/13 訪問)

 近くへ来る機会があったので、ぶらりと立ち寄りました。何回も来ている城址で、近くでは昨年の夏にも来ているのでさらりと散策し退却しました。鉄櫓、石垣もいい感じですが、空堀が結構好きです。

 余談ですが、昼飯に豊橋市の御当地グルメ豊橋カレーうどんを勢川本店さんでいただきました。豊橋カレーうどんはカレーうどんの下にとろろ御飯が存在するユニークなうどんです。
豊橋カレーうどん5箇条という決まりがあり
1.自家製麺を使用する。
2.器の底から、ごはん・とろろ・カレーうどんの順に入れる。
3.豊橋産ウズラ卵を使用する
4.福神漬又は壺漬・紅しょうがを添える。
5.愛情を持って作る
が条件となっているようです。余談の方が長くなってしまいました。

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カズサン

今年三度目桜の頃 (2024/04/07 訪問)

 掛川城は天守閣木造復元30年目に成ります、令和6年初登城に掛川城を選び天守閣も登閣、3月1日には掛川桜満開の頃登城し、染井吉野桜満開に合わせて3度目の登城、掛川城は掛川桜と染井吉野桜で二度も美味しい所です。
 掛川城天守閣開門30周年記念の祝30周年掛川城満開まつりが3月30日31日に30周年記念事業キックオフとして開催されて居ります、私は出かけませんでしたが掛川城天守閣プロジェクションマッピング、コンサート、ミュージアムマーケットなどが有りました。今後も30周年記念の企画行事があるものと思います。

 今年も桜の満開に合わせて遠州路城廻、浜松城、遠江国分寺、久野城と廻って掛川城へ、車は有料大手門駐車場を利用して大手門、大手橋からの天守閣群の眺望、逆川沿い掛川桜は葉桜、染井吉野は満開、緑とピンクのコンビネーション、緑橋からの眺め、三の丸からの眺め、二の丸御殿のミツバツツジと染井吉野桜、二の丸御殿、本丸より桜と天守閣、太鼓櫓、四脚門と土塀を入れて撮影、桜と城の眺めはいつ見ても良いものです。

 大勢の観光客でにぎわい昼食を城下で取りましたが満席の所が多く3度目に以前食事した老夫婦の店が1席空いたところでようやっと入る事が出来てゆっくりと昼食する事が出来ました。

 この後は勝間田城、諏訪原城へと向かいました。
 

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しんしんちゃん

お約束のト〇ックが‥ (2024/03/10 訪問)

中島城はこの地域の豪族、中島氏の城だったと伝わります。中島氏の祖は嵯峨源氏の流れを汲むとされ、承久3年(1221)に当地に土着したそうです。戦国時代に織田信長らによって落城しますが、領地を与えられ羽柴秀吉の家臣となり、中島氏重(氏種)は大阪城に移って大阪七手頭に任じられたそうです。
石碑のバックに、ぴーかるさんの投稿や城郭放浪記さんの写真に写りこんでいたトラッ〇がいらしゃいます。すでにお約束になりつつあるので、そのまま投稿しちゃいます。

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しんしんちゃん

ワープ (2024/03/10 訪問)

下津城は織田敏広の居城でした。古くは応永7年(1400)尾張守護・斯波義重が守護所を置いていたとされます。今では石碑しか残っていませんが、かつては立派な城だったことでしょう。とういか石碑はどこ行った?wikiや城郭放浪記さんの写真だと県道沿いに建っているはずなんだが。この周辺の城は石碑や城址碑がないと載せる写真がないです。
と思ったら学校の片隅にありました。諸般の事情でこちらに移動してきたわけか。かつての石碑が建っていた場所が土塁あとであっているのかな?

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シャンシャン

島にある模擬天守 (2023/04/12 訪問)

しまなみ海道の一つであり、伯方の塩で有名な伯方島にある模擬天守。
かつて歴史資料館だったらしいが、現在は閉館しており中には入れず。
ただ、ここから見る景色はなかなか良い。造船所を真上から見ることができる。
島内にある開山公園は桜の名所。素晴らしい景色とお花見が楽しめる(むしろこちらがメイン)。

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シャンシャン

村上水軍の城跡 (2024/03/30 訪問)

土日祝のみ運行している能島上陸&潮流クルーズに参加!
限定御城印と説明ガイドの方がいて、大人1名あたり2500円。
岩に穴を開けて杭を打っていた跡である「岩礁ピット」や、平らに整地された曲輪跡くらいしか城の遺構はないけど、かつて敵を寄せ付けなかったであろう激しい潮流や島の頂上から見る景色は絶景!
大島にはきれいな砂浜や釣りができるポイントがたくさんあり、子供も一緒に楽しめる。

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todo94

近江の城めぐり③ (2024/03/09 訪問)

青地城からの転戦です。草津市立武道館がその故地で、城門風の門が建っていてその脇に説明板がありました。そこにはイメージ図が載ってていて円形単郭の城であったことが記されています。

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宗春

沖縄県の日本百名城・続日本百名城イッキ攻略 その④中城城 (2024/04/11 訪問)

名古屋在住の友人と那覇空港で待ち合わせして、レンタカーで沖縄県の日本百名城・続日本百名城イッキに攻略してきました。
4ヶ所目は中城城。

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しんしんちゃん

関ヶ原ツイート 合戦前日に毛利輝元と徳川家康の間に和睦は成ったのか? (2024/03/31 訪問)

関ヶ原の合戦の疑問① 合戦の前日9月14日に毛利輝元と徳川家康の間に和睦は成ったのか?
可能性は有ると思います。でも100%そうかと言われると、そうとは言い切れないんですね。個人的にいくつか腑に落ちない点はあります。
総大将が敵に通じるというのが倫理的にアウトだというのも有りますが、合戦で西軍が壊滅状態になれば、毛利は無傷でも毛利領の周囲は東軍の武将たちに囲まれてしまいます。毛利包囲網が完成してしまったら、仮にも西軍の総大将だった輝元の身は危ないんじゃないでしょうか? 家康からすれば決戦に勝利して毛利を大阪城から退去させ、秀頼の身柄さえ確保すれば、あとは舌先三寸でどうにでもなると思います。(実際そうなった)
また秀元に知らせず、広家主体で講和を進めさせるというのも危険です。輝元の名代はあくまで秀元で、秀元の預かり知らぬところで広家が東軍と通じれば、秀元が広家の身柄を拘束するか、殺害するかもしれません。最悪の場合、同族の軍で同士討ちになる可能性もあると思います。この時代の若者は決して甘くはないと思います。
合戦の前日、井伊直政・本多忠勝の起請文が吉川広家・福原広俊に送られ、福島正則・黒田長政の起請文も提出されています。
輝元の同意なしに広家が独断で起請文を要求したとすれば、どのようなメリットがあったのか。これらの起請文を秀元に提示して、輝元の同意の上で和睦が成ったと説明すれば、秀元は東軍を攻撃できなくなると思います。早馬を出して輝元の真意を確認しようにも、その時間はありません。秀元の動きを封じたいのであれば、この方が確実だと思います。
であるとすれば南宮山の配置も、もっと自由に考察できるのではないでしょうか? 話がややこしくなるので専門家はあえてつっこまない所ですが、私は何のしがらみも無いので‥。関ヶ原の布陣図は江戸時代と明治に考察されたもので、その内容には否定的、肯定的なさまざまな意見が有るようです。
可能性は低いですが家康が窮地に陥った場合は、即座に東軍を攻撃する必要が出てくるので秀元・広家はその備えをしていた可能性もあると思います。南宮山にどれだけの兵を駐留できるのかの確認もしたかったので朝倉山から尾根伝いに南宮山に向かいました。

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宗春

沖縄県の日本百名城・続日本百名城イッキ攻略 その③勝連城 (2024/04/11 訪問)

名古屋在住の友人と那覇空港で待ち合わせして、レンタカーで沖縄県の日本百名城・続日本百名城イッキに攻略してきました。
3ヶ所目は勝連城

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小城小次郎

新田義貞最後の攻城 (2023/10/07 訪問)

金ヶ崎城の死地を逃れて越前で勢力を整えた新田義貞が足利方の斯波高経とここで激戦を繰り広げ、ここから藤島城の督戦に赴いた義貞は弓矢に囲まれ落命した。つまり小黒丸城は義貞が最後に攻めたお城ということになるようだ。

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にのまる

BSよしもと「キクテレミルラジ265」(4/11)

見逃し配信見ました*\(^o^)/*
水郡線の写真いじってもらえて嬉しかったです。
(↓堀跡通過中に車内から撮ったのもあります。)

お城好きになるきっかけは人それぞれ、さまざまだと思いますが、この「かるた」がきっかけで人生がお城で彩られる人が生まれるかもしれません!
ぜひCF目標達成してほしいです!

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しんしんちゃん

林秀貞との関係は? (2024/03/09 訪問)

田幡城は金城小学校の周辺に築かれていたようです。越智信高により築かれ、その子・林弥助の時代に城は拡充されています。林秀貞との関係は今一つ定かではありませんが、織田信長が家中を掌握した稲生原の戦いの後に廃城になったようです。
近くの公園の園名碑がそれっぽいので掲載します。小学校の写真はパスです。

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しんしんちゃん

織田伊勢守家の居城。 (2024/03/10 訪問)

岩倉城は文明11年(1479)に織田兵庫助敏広によって築かれたと現地案内板には記されています。織田伊勢守家はここを拠点とし尾張上四郡(丹羽・葉栗・中島・春日井)を支配しました。城域は東西約91m、南北約171mとされ二重に堀を巡らせていたようです。
弘治3年(1557)岩倉城主・織田信安は信長に反旗を翻した織田信行(信勝)と結び、信長に攻められ永禄元年(1558)浮野合戦で敗れ、翌年3月に岩倉城は落城したそうです。さすが時代の風雲児の信長公ですね。
信長公というと謀反(下剋上)で命を落としたイメージがありますが、彼も主筋を次々と蹴落としてのし上がっていったんですね。

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ぴーかる

太鼓や笛を打ち吹き鳴らしても天女は戻らず‥‥ (2024/02/17 訪問)

【打吹城】
<駐車場他>倉吉市役所第1観光駐車場を利用しました。
<交通手段>車

<見所>主郭・主郭櫓台
<感想>日帰り羽衣伝説の旅3城目。打吹城は南北朝時代に伯耆国守護の山名時氏の嫡男である山名師義が築城したと伝えられ、田内城から守護所を移しました。戦国時代には羽衣石城と共に南条氏の支配するところとなりますが、毛利氏に羽衣石城と共に落城します。南条氏は羽柴秀吉に味方したため、鳥取城攻めの和睦で再び支配下に戻ります。この後に打吹城は城郭の改修をして、現在残る櫓台や石垣遺構が見られます。城下町もこの時に整備され倉吉と呼ばれるようになります。城は一国一城令で廃城となり、1617年に池田氏が鳥取に入封したのち、倉吉に陣屋が置かれ明治まで続きます。
 また打吹山は羽衣伝説のお話の中で、隙をみて羽衣を取り返した天女が天に帰った後、母を偲んだ天女の子供たちが、打吹山の山頂から太鼓や笛を打ち鳴らして母を呼び戻そうとしますが遂に天女は戻って来なかったと伝えられている山です。
 
 登山道は打吹公園からと陸上競技場からの2つのルートがあります。大手道は陸上競技場からと思われますが、打吹公園から登りました。展望台・備前丸という曲輪があります。途中に深い切通しが1本竪に通っています。備前丸から山頂の主郭までちょっとした削平地が点々とあります。主郭は東西に広大で、東隅に石垣の残る櫓台、櫓台前に礎石が残ります。前述の織豊期城郭改修時の遺構と思います。櫓台のすぐ横に東虎口がありここにも石垣が僅かに残っています。主郭東下段に堀切土橋があり、副郭があります。副郭の曲輪壁には多く石垣が残っています。更に下って虎口、武者溜まりがあります。
 山全体が公園化されて改変されているかと思いましたが、山頂の主要部は明瞭な遺構がそのまま残っており、なかなか見応えのある城跡でした。

<満足度>◆◆◇

<周辺観光・グルメ>下山後に倉吉伝建地区、山陰地方のラーメンは牛骨がメインらしくて、伝建地区にあるラーメン「縁(えにし)」で昼食をとりました。ちぢれ麵のあっさり塩牛骨スープラーメンでした。

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イオ

吉野山(千本桜) (2024/04/07 訪問)

一昨年に城郭(吉野城)として吉野山を訪れていますが、吉野山といえば古来より名高い桜の名所ですので、今回は家族で桜見物に行ってきました。

近鉄・吉野駅から歩いて上千本を目指します。ロープウェイ・千本口駅脇の登山口から登って行くと、七曲坂に沿って下千本の桜が続き、向かいの山も一面桜色に染まっています。七曲坂を登りきったところに吉野城の堀切跡に架かる大橋があり、幕府軍との激戦地だったことから七曲坂の途中には「攻ヶ辻」の石碑もありました(前回は見落としていました)。

大橋から黒門、銅鳥居を経て金峯山寺へ。参道の両側には店が建ち並び多くの人々で賑わっています。金峯山寺・蔵王堂は挙兵した大塔宮護良親王が本陣を置いた地で、本陣跡に植えられた四本桜が見事に咲き誇っていました。蔵王堂の秘仏ご本尊の特別開帳も行われていましたが、結構な行列になっていたので今回はパスして(以前の特別開帳で拝観した日本最大と云われる三体の金剛蔵王権現像は大迫力でした)、吉水神社に向かいます。

吉水神社は豊臣秀吉が吉野の花見の本陣を置いた地で、本陣跡からは北西に蔵王堂を望み、南東には一目千本と呼ばれる中千本・上千本を見渡す絶景! 桜の名所は数あれど、山なみが一面桜色に染まるのは吉野山くらいなんじゃないでしょうか。秀吉が花見の本陣を置いたというのも納得です。

吉水神社を出て火見櫓跡で持参したお弁当を食べて一服した後、上千本の坂道をひたすら登っていきます。登りつつ振り返ると見渡す限りの桜色で、一目千本から見た絶景の中に自分がいることを実感します。上千本の桜はちょうど見ごろで、上千本展望台そして花矢倉展望台からはこれまで歩いてきた吉野の峰々と蔵王堂が見渡せました。さらに先の奥千本の見ごろはまだ少し先のようなので、吉野水分神社にお参りして(枝垂桜が満開!)引き返しました。

役行者、西行、義経・弁慶、後醍醐天皇、秀吉・秀頼などなど、歴史や伝承の舞台としても見応えありますが、多少混雑するとしてもやはり桜の時季に来るのがベストですね。日本一の桜の山を心ゆくまで堪能した一日でした。
 

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todo94

近江の城めぐり② (2024/03/09 訪問)

石山寺からの転戦です。大槻神社に駐車させていただきましたが、その横に見事な空堀と土塁が続いていました。先に進んで土塁を乗り越えたところに城址碑がありました。周囲を一通り回ってみましたが、説明板は志津小学校校門前にありました。

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しんしんちゃん

新発田十万石にまで出世 (2024/04/10 訪問)

西溝口城は成願寺の周辺に築かれていたと見られ、成願寺の境内に顕彰碑が残っています。城主は逸見左衛門尉勝政とされ、当地に移って溝口の姓を称したとされています。城域は東西約72m、南北47mほどで勝政の子、秀勝は織田信長や豊臣秀吉に仕え、上杉景勝の転封後は新発田5万石の城主となり、子孫は十万石にまで躍進したそうです。
城址はパッとしませんが、そこから日本百名城までいったわけです。う~ん、あなどれない。

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虎の子

城への交通手段実践レポート (2024/04/07 訪問)

熊本城廻の最後に人吉城に登城。JRが災害で長期不通のため(ちょうど「10年後の復旧完了を目指す」とJR九州と熊本県の発表がありました)、高速バスを使いました。
歴史館がある西外曲輪も水没したようで、スタンプ設置の小屋(倉庫?)に2m位のところにここまで水没したとの記録がありました。歴史館は水害以降閉鎖ですが、スタンプは小屋にあり24H押印可能です。パンフレットも置いてありました。
今は相良神社がある御殿エリアを囲む石垣に跳ね出し石垣があります。神社から本丸に向かうと気づきにくいのでお見逃しなく(復元された堀合門の東側です)。堀合門の向かいに水の手門があり球磨川につながっています。さらに西に行くと御下門跡があり、ここから本丸まで登ることができます。登城時はちょうど新緑の青モミジがまぶしかったです。

実際の交通手段は以下の通りです
※前日八代城跡付近に泊
 八代城跡を前日に続き見学
8:42検察庁・法務局・博物館前(コミュバス:みなバス)、9:02,9:40新八代(高速バス:予約要)、10:20,10:20人吉IC(循環バス)、10:37人吉駅
 人吉観光案内所で城跡情報をゲット ※ICから直接歴史観に行くには新町バス停で下車
 (駅徒歩20分)歴史館(百名城スタンプをゲット)
 人吉城跡散策
 遅めのランチと観光案内所でもらった人吉温泉マップにある源泉かけ流し温泉で入浴
 時間があれば是非温泉に。入浴料は数百円のところもありますよ(タオルは必須です)
16:08人吉IC、17:00,19:30鹿児島空港(航空機)、21:15羽田

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