(26人目)井伊直政の続き㉘です。
琳光寺にて長寿院盛淳の捨て奸に時間をかせがれてしまい、直政は義弘を見失ってしまいます。しかし直政はまだまだ諦めません。義弘は牧田の交差点を東の伊勢東街道へ逃げ去りました。一方の烏頭坂で盾となった豊久は、盛淳が時間稼ぎをしている間、伊勢西街道へ逃げ去ろうとします(写真①)。しかし深傷を負っているため、もはや自力では歩けず、家臣らに担がれて逃げているようです。直政は豊久の後ろ姿をかすかに見つけ、「おのれ義弘!」と豊久を義弘だと勘違いし追いました。しかし牧田川に差しかかると(写真②)、この日は前日の雨で水量が増しており、渡るのに時間がかかってしまい、またも見失なってしまいます。
この時直政の家臣らも、ある者は傷を負い、ある者はもはやもう走れず、誰も直政についていける者はいませんでした。つまり直政は完全に単騎駆けの状態になっていたようです。もう回りがまったく見えていなかったのではないでしょうか。そして私も川を渡り、さらにチャリをこぎ続け、やっと勝地峠の入口(現:上石津中学校)までたどり着きました。
島津軍に残された弾はあと一発。この一発の銃弾で直政を討ち取るべく、最後に渾身の捨て奸を敢行します。しかしその場所が一体どこだったのか? 未だその場所は特定されていません。薩摩に残っているかすかな記録によれば、勝地峠の入口ではなく、かつ頂上でもなかったようです。分かっているのはただそれだけです。
ならば私は、ここから島津軍の気持ちになり、もし自分なら最後の捨て奸(最後の一発)をいったいどこで使うか? ゆっくりと実際に坂を登りながら自分の目で見て考えてみる事にしました。
ではここから、勝地峠に向かってゆっくりと坂を登ります。
勝地峠の入口である上石津中学校前(写真③)から今も残る林道を登り始めます。ここが当時の伊勢西街道です。ここを5分程登ると、多仁林道に入りだんだんと狭くなってきました(写真④)。少しずつ人家や人気も無くなり、うっそうとした杉林に囲まれて気味の悪い雰囲気です。そしてここなら、島津軍にとっても隠れやすい場所が増えてきました。
そしてカーブに差しかかりました(写真⑤)。このカーブなら直政の馬もスピードが落ちるでしょう。鉄砲で狙いやすくなるかもしれません。しかし直政からも相手が待ち構えているのがよく見えてしまいます。よって私は、島津軍が待ち構えたのは、まだここではないと思いました。
ここで突然、私の頭上でガサガサという音が・・。何と野生の猿が木から下りてきました! 1匹2匹・・4匹もいます! その距離30m! 何かじっーと私を見ています。ここの猿たちは、えらくデカイです😯。これはもう・・・恐怖です(襲ってきたらどうしよう😱~)。写真を撮りたかったですが、もうそんな余裕はなく自分の命の方が大切! 落ち着いて高崎山で学んだ事を思い出し、とにかく襲われないように(まず目を合わせないように)、背を向け知らん顔しながら、恐る恐る・・・一歩ずつ少しずつ前へ進み、何とか脱出に成功しました!(😥助かった~)。
さらに5分程登りました。すると両側を杉の木で完全に囲まれ狭くてうっそうとした場所がありました。またそこはまっすぐな登坂になっていました。しかもその坂の向こうは全く見えません(写真⑥)。私は「ここだ! 絶対にここだ!!」となぜか直感的にそう思いました。直政も同じく坂の向こうは見えなかったと思います。脇道もなく両側は杉林なので、ここは馬でまっすぐ進むしかありません。私が島津軍なら絶対この坂の向こう(写真⑦)で鉄砲を構えて待ち伏せます! でもこれはあくまでも私の直感です。証拠は何もありません。
隠れて鉄砲を構える「柏木源藤」、その指揮をするのは家康の陣に入り、御前で奏上したあの「川上四郎兵衛」です! 直政の馬のひずめの音がだんだんと聞こえてきました。そして直政の姿が見えた瞬間、「松井三郎兵衛」が突然と現れ、道をふさぎ立ちはだかります。行く手を塞がれた直政の馬は驚き(ヒヒ~ン)、急に立ち止まりました・・・
その時です!!・・・😱!
次は、島津の退き口(3/3)に続きます。
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