土塁に囲まれた公園です。市民の憩いの場所となっているようです。
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2026/02/19 15:23
境台場 (2026/02/18 訪問)
土塁に囲まれた公園です。市民の憩いの場所となっているようです。
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2026/02/19 10:49
にっぽん城まつり2026に出展します!
っぽん城まつり2026 に加治田城ブース出展します!(28日・1日両日共)
新たな御城印を2種類ご用意いたしました!
全貌は会場にて。
前回の可児市にて開催された山城に行こう!にて初お披露目しました
畳縁をつかった小物の新作も「ご協力金返礼品」としてお持ちします!
また、28日は日頃一緒に活動している関高等学校の地域研究部の生徒さんたちも
加治田城ブースを盛り上げてくれます!
当日はお城のスペシャリストによるお城話や武将隊による演武など
盛り沢山のイベントが予定されています。
開催日時 : 令和8年2月28日(土)・3月1日(日) 10:00~17:00
会場 : 名古屋市中小企業振興会館 吹上ホール
多くの方のご来場をお待ちしております。
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2026/02/19 10:08
鳥取城石垣-5/8 二の丸三階櫓台編 (2025/10/25 訪問)
二の丸三階櫓台は二の丸拡張前は北西角に聳えて存在価値のある櫓台で、拡張後は二の丸の中央部やや北寄りに成っています、内濠外から眺めても仁風閣裏にひときわ目立って見ごたえの有る櫓台です。
山上の丸に天守閣が聳えていましたが、三階天守閣、2階天守閣と改修され落雷焼失後は山上天守は無くなり、二の丸三階櫓が天守閣の代わりとして威厳を誇っていました、幕末明治期の古写真に姿が残って居ます。
二の丸三階櫓台も昭和18年の鳥取大震災で崩落して昭和30~40年代に修復復元されて現在の奇麗な姿に甦りました、三階櫓台下の腰曲輪周りも同じく崩落して折り昭和の終り頃には修復復元しております、その下から三階櫓台を見上げると二段に聳える威厳ある天守台のようにも見えるものです。
三階櫓も30年復元計画に在り第三期で後の10年に当たります、平成18年(2006年)策定されて、幕末の登城路復元で、擬宝珠橋、中ノ御門(枡形石垣、表門、渡櫓門、囲い土塀、続き土塀)が竣工しました、残り太鼓御門で第一期復元工事が終わりですが既に10年もの期間が延び延びになって居り、三階櫓復元迄には20年以上の時間が掛かりそうです。見ることは叶わないでしょう。
(続きます)
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2026/02/19 08:11
とことん名古屋城(二之丸外周) (2025/07/13 訪問)
(続き)
二之丸東門の一之門は失われ、二之門は本丸東門の二之門跡に移築されていますが、枡形の石垣が遺り雁木も見られます。東門を出て三之丸に続く土橋から見渡すと、二之丸東辺の空堀が南北に続いています。金シャチ横丁・宗春ゾーンに沿って空堀を眺めながら南に進み、南東隅で折れて西へ。二之丸南辺の石垣の折れが設けられた部分が二之丸太鼓櫓跡で、南西隅で北に折れたところに二之丸大手門があります。一之門は失われていますが二之門は現存し、枡形の石垣には巨大な鏡石も見られます。
金シャチ横丁・義直ゾーンの北側を西之丸南辺の空堀を眺めつつ西に進み、正門前に駐めていた自転車を回収。ここからは自転車で三之丸外堀をめぐります(続く)。
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2026/02/19 07:15
北近江長浜大河ドラマ館推参前の攻城④ (2026/02/14 訪問)
目加田城からの転戦です。案内板に1時間30分~2時間の所要との記載がありましたが、自分の脚ならその半分で済むだろうと、長浜に赴く前の攻城に踏み切りました。獣除けフェンス内に入って、石仏群、経塚、狐塚とたどり、上臈落としまでの道は案内表示も出ていてまず迷うことはないでしょう。狐塚の手前には巨大な佐々木氏の家紋があり、名神高速からも望むことができます。上臈落しからの眺望はなかなかのものでした。来た道を戻って主郭へと向かいます。主郭の先、見張り台にはピンクテープがあったので、テープを辿ってどんどん進んでみました。かなりの急斜面を下っていくと獣除けフェンスに達してしまいました。途中でフェンスの外に出て、フェンス沿いに進み、出発地点に戻ることはできました。所要時間は45分ほどでしたが、肝心の石垣遺構を見逃してしまいました。既に9:30になっていたので、ここから長浜の大通寺、大河ドラマ館へと向かいました。佐々木道誉の墓も拝んでいないことですし、再訪を期したいと思います。
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2026/02/19 06:38
フェンス越しに (2026/01/15 訪問)
新横浜駅から徒歩で10分弱、この日の朝駆け3城目です。
正覚院の裏手が城址、周囲は住宅地となっています。
入口まで行く途中の道、斜面にピンクリボンが付いています。
藪でわかりにくいですが竪堀のようです。
城址は立入禁止で入れません。
フェンス越しに横堀と土塁を見学できる程度ですが遺構保存のためにはやむ無しですね。
この日は有給消化で相方と東京に来てました。
城はこれで切り上げ一旦ホテルへ戻りました。
お昼は久しぶりに人形町の玉ひでさんの親子丼を🐓
平日だったので入店もスムーズでした😊
【見どころ】
・フェンス越しに見る横堀の一部
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2026/02/18 12:39
定点観測 (2026/02/06 訪問)
斎宮城は遺構はなく、標柱、石碑があるだけです。城びと先人の投稿写真を見ていると、標柱脇にあった説明板が、2023年3月のしんちゃんさん訪問と、2024年6月のぴーかるさん訪問の間になくなっているのに気づきました。先人の写真によると、説明板には、「室町時代 斎宮の住人 野呂三郎がここに城砦を築き、勝手に徳政を敷き、狼藉を働いた。国司北畠材親(きちか)は之を討伐した」と書いてありました。どこか具合いが悪い表現があったのでしょうか。期せずして、定点観測になり、面白く思いました。
斎宮歴史博物館をはじめ、斎宮関係の展示は、なかなか力が入っています。
しんちゃんさんの消息を気にしています。
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2026/02/18 10:57
鳥取城石垣-4/8 二の丸表御門跡辺り編 (2025/10/25 訪問)
二の丸表御門跡辺りの石垣は昭和の終り頃修復復原です、御門北側の石垣、御門南側の石垣、二の丸南端に続く多門櫓台、菱櫓台が修復復元されました、菱櫓台は二の丸南西角に在り、往時は二階の菱形櫓が建って睨みを効かせていた事でしょう。
南側の菱櫓台、多門櫓台には登れる事が出来き、表御門の先まで行け上から覗き込む事が出来ます、当日は朝も早かったことで西方向に伯耆富士大山をうっすらと見る事が出来ました、写真投稿しますが分かるかどうか?の写真です。
菱櫓台からは今回復元した中ノ御門枡形を良く観る事が出来ます。
(続きます)
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2026/02/18 10:25
鳥取城石垣-3/8 天球丸編 (2025/10/25 訪問)
天球丸は二の丸南東久松山の麓東隅に有り山下の丸最高所標高51mに当たります、豊臣期宮部継潤が石垣改修し、関ケ原後池田長吉(池田輝政の弟)が6万石で入封し石垣改修、山頂の丸には三階天守閣が建ち、天球丸は池田長吉の姉天球院が住んだ事に由来する。
天球丸も昭和18年の鳥取大震災で石垣崩落して、昭和30年代ごろから崩落石垣の修復が始まり、三階櫓台、二の丸走り櫓台、菱櫓台、表御門石垣台、平成に入って天球丸石垣、太鼓御門石垣、楯蔵跡石垣と進み現在は楯蔵跡石垣下の腰曲輪の整備修復工事中です。
今回天球丸には登りませんでしたが、楯蔵跡石垣台から天球丸の西面、南端面、鳥取城の看板と成った巻石垣をじっくりと眺め撮影しました。天球丸の南端には鳥取城での高層建物二の丸三階櫓に次ぐ三階櫓が建て居たそうです、現在は地表に平面表示されています。
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2026/02/18 07:56
とことん名古屋城(二之丸) (2025/07/13 訪問)
(続き)
本丸御殿が将軍上洛時の御成御殿に改修されたことにより、藩主の住居と尾張藩政庁の機能は二之丸御殿に移り、二之丸が藩政の中心地になりました。二之丸御殿の建物は残っていませんが、北東部の御殿の庭園が二之丸庭園として整備されています。
大手馬出から二之丸に入ったところに、天守台石垣を築いた加藤清正の「清正公石曳きの像」が立てられています。御殿跡の二之丸広場には青松葉事件之遺跡碑や藩訓秘伝の碑が立ち、東南隅櫓と樹々の上に天守が覗いているのが見えます。搦手馬出には工事中で入れず、馬出外周の空堀沿いに進んだ先に、藩主の緊急時の脱出路として設けられた埋門がある…にはあるんですが、草木が茂っていてよくわかりませんでした。埋門の先は立入禁止だったので、その先の南蛮練塀は遠目に見ることができたのみです。北東隅には二之丸東北隅櫓の櫓台が遺っていました。
二之丸の庭園は当初の中国風から、江戸後期に栄螺山や権現山などの築山、南池、6つの茶屋などを配した回遊式の大名庭園に改修されています。明治には陸軍の練兵場や兵舎に改変されましたが、発掘調査により確認された南池や暗渠が公開され、御茶屋「霜傑」は平面復元、「余芳」は保管されていた部材を用いて元の位置に再建されています(2026年公開予定とのこと)。
二之丸の南半分には御殿のほか馬場や弓道場が設けられていたようですが、現在は愛知県体育館が建っていて遺構はなさそうなので、東門を出るとそのまま二之丸東門に向かいました(続く)。
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2026/02/18 06:58
旧城寺 (2026/01/15 訪問)
茅ケ崎(城)に背を向けて榎下城に向かいました。
中山駅から徒歩で15分。
城跡には旧城寺が建っています。
本堂が建つところは二郭、山門のあたりが喰違い虎口で土塁が残っています。
本堂の背後に墓地があり、少し高くなっていて弓道場があります。
その脇に戦国時代の城主である山田右京之進城跡碑が立っています。
横浜市の緑区遺産だそうです。
周辺は住宅地、平日の出勤・通学時間でもあったのでうろつくのも良くないかな?と思い早めに撤退しました。
【見どころ】
・喰違い虎口の土塁
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2026/02/18 06:55
2026/02/17 22:20
鳥取城石垣-2/8 楯蔵曲輪辺り編 (2025/10/25 訪問)
楯蔵跡の石垣は南面西面復元されて奇麗に整備されました、楯蔵曲輪西下の腰曲輪が未整備で修復工事中に成っており、今回修復の工事は進んで居るのかなとの期待もお合ったのですが工事中で規制のロープが張って有り進入禁止の様子でしたので外から眺めましたが、通路の近い雨で崩れていた北西角の石垣は修復完成して居ました、この腰曲輪は三の丸紅葉庭園の東上に当たります、南端角には鳥取城最古の石垣と言われる宮部氏時代の石垣が残って居ます。(写真無)
この曲輪の北端側、通路側に昇り雁木石垣が残って居ますが、なぜ此処に雁木石垣なのか?二の丸登城路の防御なのか?部分的で不思議な感が有ります。
城好きには城郭の構造パーツとして少しでも残って居る事にはありがたい遺構です。
(続きます)
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2026/02/17 21:48
鳥取城石垣-1/8 太鼓御門跡石垣編 (2025/10/25 訪問)
昨年10月下旬に復元中ノ御門枡形渡櫓を初見学体験しましたが、高所の太鼓御門櫓台、二の丸、三階櫓台より中ノ御門枡形を眺めるため登りました折に鳥取城石垣群を150枚ほど撮影しましたので各々に分けて写真投稿させて頂きます。
先ずは太鼓御門跡周りの石垣、中ノ御門桝形周りが復元しましたので次は太鼓御門跡の渡櫓門の復元です、規模は桁行12間(約22m)、梁行2間半(約4.5m)の堂々たる御門だった様です。御門前には馬出石垣に当たるのか?切込み接ぎの切石積石垣が唯一現存して居ます、太鼓御門の南側石垣台は登り雁木が付き、北側の石垣は復元されて門に対して東西に長く成っています西面は高さ7m程あります。
太鼓御門跡辺りからは二の丸の高石垣、天球丸の高石垣も望めて、一番の見所にも成っています。
(続きます)
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2026/02/17 21:21
大中臣系の那珂氏とは (2025/04/13 訪問)
那珂氏には二系統あって、那珂西城は大中臣系の那珂氏の居館だったらしい。大中臣氏の系譜は丹波に移住しているようで戦国時代にどう使われていたのかは謎のようだ。この地域のお城の年代観は難しい。
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2026/02/17 19:22
宇土古城 (2026/01/11 訪問)
【宇土古城】
<駐車場他>5台程度の駐車場あり。公衆トイレあります。
<交通手段>車
<見所>土塁・石垣・掘立柱建物跡曲輪
<感想>1泊2日お人吉旅4城目。現地説明板によると、宇土古城の築城は平安時代の1048年に菊池氏の一族が築城し代々城主であったそうです。室町時代には宇土氏が勢力をおいていましたが、1503年に菊池氏との争いに敗れます。1504年に名和氏が八代から拠点を移して宇土に入城したそうです。小西行長が宇土城を築城を初めた頃から城は使われなくなったそうです。
城跡は小山に築かれており、東側にある千畳敷と呼ばれる堀囲みの単郭の主郭と鞍部を経て西側に三城と呼ばれる掘立柱建物跡曲輪がある曲輪段の2局化した構造となっています。三城と呼ばれるゾーンには石垣が多く残されていて、宇土城や佐敷城に見られるような面を平らにした石垣が積まれていて非常に良く似ている。もしかしたら加藤氏が宇土古城に手を加えたのではないかと推察(城びと情報にも遺構に石垣とあります)します。また三城側のゾーンは丘陵地全体を使ったひな壇状の曲輪群が広がっていて、なかなかの見応えでした。
<満足度>◆◆◆
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2026/02/17 13:23
新たな姿へ向けて 駿府城跡天守台発掘調査現場の今
駿府城跡天守台発掘調査現場は、2027年に予定されているリニューアルオープンに向け、2025年12月26日(金)をもって一旦閉鎖されました。閉鎖から約2ヶ月が経ち、現在は現地に立ち入ることはできませんが、発掘調査現場の様子を少しだけご紹介します。
現在の発掘調査現場では、本丸の堀底の状況を確認する作業が進められています。これまでの発掘成果を踏まえ、今後につながる大切な調査として、丁寧に作業が行われています。作業はまだ始まったばかりで、今後、段階的に作業が本格化していく予定です。
こちらのユニフォームは2016年度から2019年度に行った駿府城跡天守台発掘調査でも使用したものです。徳川家康にちなんだデザインになっており、ビブスには葵紋、ヘルメットには徳川家康の甲冑である歯朶具足(しだぐそく)の兜(かぶと)の模様を施しています。過去に発掘調査現場で見かけた方もいらっしゃるのでは?
今後も、駿府城跡天守台発掘調査現場の調査状況や変化を分かりやすくお伝えしていきます。新しく生まれ変わるその日まで、ぜひ楽しみにお待ちください♪
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2026/02/17 10:15
宝満城と立花兄弟の絆 (2025/02/15 訪問)
西鉄大宰府駅前から内山行のバスに乗り、10分程坂を登った終点の「竈神社(かまど じんじゃ)」で下車しました(写真⑦)。ここは標高200m付近で神社の奥が登山口です。宝満城は宝満山(標高829m)の頂上にありました。登ろうと思ってここまで来たのですが、残り高低差はまだ600mもあり、下から見上げても・・・これは😱高い!(写真①)。登山口まで行きましたが、登山者の皆さんは本格的な登山の格好をしています。ここで「無理だな🤔」とあっさり断念。神社そばにあった「都久志の湯」に入って帰りました(すいません)。山頂には石垣などの遺構も残っているらしいので、我と思わん城びと挑戦者のレポートに期待します。
宝満城の築城者は、大友家臣の高橋鑑種です。しかし1567年、鑑種が門司城を奪った毛利方に寝返ると、大友宗麟は鑑種を追い出し、重臣の吉弘鑑理の子を「高橋紹運」と名乗らせて城主とします。
この時、紹運には二人の息子がいました。長男は「宗茂(統虎)」、次男は「直次(統増)」です。二人はこの宝満城で育ち、宗茂はそれから立花道雪の娘婿となり立花城に入ります。
道雪死後の1586年、島津軍4万が北上し侵攻して来ると、高橋紹運は宝満城には直次とその妻子(妻は筑紫広門の娘)のみを残し、家臣768名を全て麓の出城である「岩屋城」に集め、そこで戦う覚悟を決めました。それはなぜだったのでしょうか? この高くて攻め難い宝満城に籠城し、持久戦に持ち込めば勝機はあったかもしれません。しかしなぜあえて、麓の岩屋城で戦って討死にする道を選んだのでしょうか?
宝満城に籠城すれば、島津軍は宝満山を素通りし、立花山に向かうでしょう。さすれば「宗茂が危ない!」。豊臣軍が南下するまで、大宰府官道(街道)に近い岩屋城で足止させ時間稼ぎする作戦に出たのです。つまり宗茂と直次を、自分の命を犠牲にしてでも守りたいと思ったからです。結局2週間持ちこたえ、紹運以下768名は全員壮絶な討死をしましたが、ここで豊臣軍が南下、紹運は自分の命と引き換えに、二人の息子の命を守り切る事ができたのでした。
その後、直次は兄の宗茂に仕え、義父の筑紫広門とともに、朝鮮出兵から関ケ原まで活躍し兄を支え続けます。兄に仕え、兄とともに秀吉に仕え、兄弟の絆はかなり固かったようです。関ケ原では兄と西軍に付き大津城で戦ったため改易されますが、1604年兄が許され徳川秀忠の御伽衆として復帰すると、直次も許され旗本となり1615年大坂の陣では秀忠を守ったそうです。しかし1617年に病で没してしまいました。そして1620年兄が10万石で柳川に復帰すると、直次の子の種次が隣接する三池の地を1万石で賜って三池藩を立藩し、今度は種次が柳川藩の叔父・宗茂を父に代わって支え続けたそうです。まるで豊臣兄弟のような、立花兄弟がいましたというお話でした。
この他にも九州には、常に弟が兄に代わって出陣して兄を支え続け、関ケ原後はその兄が弟の命を徳川家康から守り抜いた、島津兄弟(義久・義弘)の物語も以前お伝えしました。チェブさんの話から私も兄弟話に脱線してしまいましたが、他にも何かいい兄弟のエピソードがあれば、皆さんもお願いします。
帰りは大宰府天満宮に立ち寄ると、梅の花が満開でした。そして「豚汁うどん」と「梅ケ枝餅」を食べて帰りました。おいしかったです😊。
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2026/02/17 08:17
とことん名古屋城(西之丸) (2025/07/13 訪問)
(続き)
御深井丸から鵜の首を抜けて西之丸へ。西之丸には江戸期に6棟の米蔵が置かれていましたが、うち三番蔵と四番蔵が外観復元により再建され、本丸御殿障壁画をはじめとする名古屋城所蔵品を展示し、名古屋城の情報を発信する施設・西の丸御蔵城宝館として公開されています。写真撮影はできませんが、本丸御殿で見た障壁画の本物を見ることができ、なかなか見応えがありました。また、六番蔵についても発掘調査で確認された礎石が再現されています。
築城前からあるというカヤの大木を見上げて、いったん正門から退出。正門の位置にはかつて大手にあたる西之丸榎多門の櫓門があり、空堀の土橋北詰の二之門とあわせて枡形を構成していました。現在は二之門は失われていますが、榎多門枡形の石垣は遺っています。正門は名古屋離宮の頃に江戸城から移築された蓮池門が空襲で焼失したのを戦後に再建したものです。
正門から再入城し、本丸の全景を眺めつつ二之丸のほうに歩き出したところで、向こうから見覚えのある人影が…。「千田先生!?」 思わず声をかけてしまってから、こっちはテレビや講演で見覚えがあっても先生は私のことなど知るわけないんだから…と後悔しましたが、そんなことは馴れっこなのか、すれ違いざまに軽く手を挙げて一礼して去っていかれました。お急ぎのご様子でしたのに失礼いたしました。
さて、空堀越しに二重三階の西南隅櫓を眺め、本丸南辺の空堀沿いに東へ。本丸表門から土橋を渡ったところには大手馬出が設けられていましたが、西側の堀は埋め立てられて西之丸とつながってしまっています。馬出東側の空堀を覗いて二之丸へ。本丸空堀越しには二重三階の東南隅櫓が聳え立っています。こちらも貴重な現存三階櫓ですが、白壁の漆喰が一部剝がれているのが気になりました(昨年7月時点)。今はもう修復されているのかな…(続く)。
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2026/02/17 07:05
砂まじりの・・・♪ (2026/01/15 訪問)
久しぶりの登城です。
茅ヶ崎市ではなく港北ニュータウンの住宅地に良好に残る城です。
なので砂はまじらないし背を向ける必要もありません。
センター南駅から徒歩10分、北西部の登城口から入ります。
すぐに竪堀があり、さらに行くと虎口から西郭と中郭の間の深い空堀へ。
まずは西郭を散策しました。
土塁が残っています。
散策路もついていて歩きやすいです。
中郭と東郭の間にも空堀がありますがここは藪、わかりにくいです。
東郭から中郭に戻ります。
ここが主郭で高い土塁が囲みます。
建物もあったようで礎石が並んでいます。
中郭から北側に降りると北郭。
ここには井戸跡や土橋跡が残っています。
全体的に城址公園として整備され、地域の皆さんにも親しまれているようです。
この日は早朝の登城でしたが犬の散歩をされてる方も。
いずれにしても家の近くに良い城がある環境、羨ましいですね。
【見どころ】
・西郭と中郭の間の堀底道
・中郭の土塁
・中郭の建物礎石
・北郭の土橋跡
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