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トベシュン

南九州続百名城巡り (2025/10/25 訪問)

南九州続百名城巡りで、中津城・角牟礼城・原城・島原城(オマケ)・鞠智城・八代城・知覧城に行ってきました。

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トベシュン

南九州続百名城巡り (2025/10/24 訪問)

南九州続百名城巡りで、中津城・角牟礼城・原城・島原城(オマケ)・鞠智城・八代城・知覧城に行ってきました。

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トベシュン

南九州続百名城巡り (2025/10/24 訪問)

南九州続百名城巡りで、中津城・角牟礼城・原城・島原城(オマケ)・鞠智城・八代城・知覧城に行ってきました。

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トベシュン

南九州続百名城巡り (2025/10/23 訪問)

南九州続百名城巡りで、中津城・角牟礼城・原城・島原城(オマケ)・鞠智城・八代城・知覧城に行ってきました。

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トベシュン

南九州続百名城巡り (2025/10/23 訪問)

南九州続百名城巡りで、中津城・角牟礼城・原城・島原城(オマケ)・鞠智城・八代城・知覧城に行ってきました。

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todo94

富山ドライブでの攻城③ (2025/10/25 訪問)

朝食をはさんで若栗城からの転戦です。地名の読みは「いくじ」です。最初に「育児」と変換されてしまうので、「きじ」と打った方が手っ取り早いです。規模は大きくないけれども、見栄えのする美しい台場でした。遺構は地中に保存されているようですけれども。臼砲のレプリカと説明板がありました。入道埼灯台のような白黒ツートンカラーの灯台とのコラボもいい感じです。

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赤い城

移築された遺構が点在 (2025/09/20 訪問)

京都出張の後、後泊して大津周辺を廻りました。
朝駆けでホテルから徒歩で向かいます

まずは移築された蔵、六体地蔵の地蔵堂になっています。
さらに歩いて膳所神社へ。
大津宮遷都の際に創建されたとのこと。
ここの表門が大手門とされ、北門も城門を移築したものです。

中大手門跡を通り、本丸跡の膳所城址公園に。
立派な模擬門に迎えられます。
朝の公園はランニングやお散歩、地元の方で賑わっていました。
琵琶湖を望む眺望も見どころです。
本丸には遺構はほとんどありませんが湖内に石垣が僅かに残っているそうです。

近くには移築された門など遺構が点在していますが全部見に行く時間は無かったので若宮八幡社と篠津神社の門を見学して次に向かいました。

天守を持つ湖上の美しい城でしたが大地震により縄張が大きく改変されました。
日本三大湖城の一つです。

【見どころ】
 ・各所に点在する移築された建物
 ・本丸からの眺望

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chiroru

初島 (2025/10/26 訪問)

タイトルの初島は、静岡県唯一の有人島で首都圏から一番近い離島。熱海港より高速船で約25分。
江戸期を通じ天領(幕府直轄領)から小田原藩領、そしてまた天領と変わる。

江戸時代に入り、江戸城修築のために島内の東海岸から石が切り出されたという記録が残っており、今でも海岸ではそのとき
切り残された石を目にすることができるようです。

海鮮丼は、イカ・アジ・イサキ・鯛・鮪・アジのなめろう、です。

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しんちゃん

ヨシ姫様 (2019/08/13 訪問)

突然ですが義姫様の投稿です。義姫は最上義光の2歳下の妹にあたります。
義姫は天文17年(1547)に山形城で生まれ、伊達輝宗に嫁いだ後、伊達政宗と弟の小次郎を産みました。米沢城には「伊達政宗生誕の地」の石碑が残っています。義姫には息子の伊達政宗を暗殺しようとした逸話がいくつか残っており「悪女」のイメージがありますが元ネタは「治家記録」などの後世の記録によるもので、実際の所は良く分かっていません。
天正6年(1578)に山上満兼と義姫の夫の輝宗が最上義光を攻めた際には、篭(かご)で陣中を突っ切って輝宗に抗議し、兵を引かせたとされています。
天正16年(1588)の大崎合戦では息子の政宗と兄の義光が対立しますが、義姫は輿(こし)で両軍の間に乗り込んで80日かけて和睦を成立させています。並の肝っ玉ではありませんな・・いや、すごい人だと思います。
後に最上家に出奔するものの、義光が亡くなった後に最上家が改易されると、政宗を頼って仙台に入り出家したとのことです。晩年には息子の政宗と和解出来ていたようですが、母子の実際の関係がどうだったのか気になる所です。

また宮城を訪問した際には義姫ゆかりの岩出山城と大崎合戦の舞台となった中新田城を訪れたいですね。

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ぴーかる

八幡山城 (2025/10/18 訪問)

【柏原八幡宮(八幡山城)】兵庫県丹波市柏原町
<駐車場他>無料駐車場あり
<交通手段>車

<感想>丹波の黒枝豆購入旅。城びと未登録の八幡山城は1578年頃に明智光秀が丹波侵攻の際に築いたとされます。柏原八幡宮は神社の由緒書によると、629~641年に創始され1024年には多宝塔をはじめ54坊が建てられていたそうです。社殿は1585年に羽柴秀吉によって再々建され、現在は国の重文になっているそうです。最上段に江戸時代後期に建造された3重塔があって神仏混合がよく残っています。
 城の遺構は主要部が山頂の八幡宮があった場所のようで、現在は改変されています。周辺に堀切跡や段曲輪跡のようなものが見られるようですが判然としない為、散策しませんでした。

 この日は更に城びと未登録の石生西河原城を登城しましたが、途中の分岐を間違えたようでたどり着けず断念引き返しました。走行距離238㎞無事走破。

<満足度>◆◇◇

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トク

呉軍港カレー&フリートフェスタ(艦艇公開) (2025/10/13 訪問)

広島城を訪れる前日に、呉軍港で行われたカレー&フリートフェスタ(艦艇公開)に寄ってきました(お城に関係ない話ですいません)。特に改修が終わった、空母「加賀」を見たくて訪れました。暑い日でしたが、多くの方々が訪れ、とても賑わっていました(主催者発表8,800人)。

加賀は海上自衛隊の最大艦で全長248m、戦艦大和263mにほぼ匹敵する大きさで、その84年前に大和が建造されたドック横の桟橋に係留されていました。これまではヘリコプター搭載型護衛空母でしたが、昨年に国会承認を得て甲板が大規模に改修され、最新鋭ステルス戦闘機F35Bが離発着できる戦闘型空母に生まれ変わり、今日一般に公開されました(艦内は機密のため撮影禁止です)。日本が戦闘型空母を持つのは、太平洋戦争以来80年ぶりです。尖閣諸島や東シナ海での緊張状態が続いており、離島防衛のためこのように改修されたともの思われます。他にも海上自衛隊最新鋭のイージス護衛艦や対艦ミサイル搭載ステルス護衛艦や潜水艦など、呉所属の艦船がズラリと勢揃いしていて、それらに乗艦する事ができました(艦内は撮影禁止です)。カレーも美味しかったです😊。

しかしこれらの艦船が、実際の戦闘に使われる事がないよう、あくまで平和な世の中が続く事を願いたいものす。次は本来の目的地(広島城)に続きます。
 

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朝田 辰兵衛

未訪の「赤色かるた城」攻城…🏰 (2025/10/26 訪問)

もともと三戸城はいずれ行くつもりだったのですが,なかなか行動に移せないでいました。今回,赤色かるた城にチョイスされたにもかかわらず,イマイチな謳い文句しか浮かびませんでした…<泣>。このタイミングを逃がすと,ズルズル来春以降になってしまいそうな気がしたので,行っちゃいました。
やはり,赤色かるたに浮かび上がりそうな石垣や起伏を中心に散策したというカンジです。そうそう,鶴池と亀池に赤い橋が架かっていました。とても可愛いので,かなり近づかないと気がつかないかと思います。

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todo94

富山ドライブでの攻城② (2025/10/25 訪問)

越中横尾城からの転戦です。北陸新幹線黒部宇奈月温泉駅のほど近くです。駐車場、トイレ、四阿が整えられているきれいな公園になっていました。見栄えのする土塁が出迎えてくれます。周囲の水田の形からかつての城の形状が分かるとのことです。

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しんちゃん

本丸茶屋 (2025/10/26 訪問)

岡崎城に行ってきました。岡崎周辺もぶらぶらしようかと思っていたのですが、一名おまけでくっついてきました。最近涼しくなってきたので結構元気になって来たようです。仕方が無いので、今回は岡崎城をゆる~く回りました。
岡崎城近辺では「もろこしうどん」がオススメですがボリュームがあるので、しばらくデザートが食べれなくなります。昼食にもろこしうどんを食べて、広い岡崎城を十分に堪能してから「本丸茶屋」でデザートを食べたり「桜茶屋」や「ひょうたんや」で五平餅や八丁味噌を使ったグルメをいただくのが黄金パターンかな?
岡崎周辺は美味しいモノがいっぱいです。なんかまたステマっぽくなって来ましたね。私には一円も入って来ませんけどね・・。

本当は本多忠勝が幼少期を過ごした欠城跡も訪問する予定だったのだけど次回にします。西三河には欠城が二つありますが、岡崎の欠城は忠勝の叔父・忠真の居城です。現在は岡崎東公園となっており片隅に本多忠次邸が移設されているので、ファンは必見ですよ。
忠真さんは大河では酔いどれ武将みたいな扱いになっていましたね。実際はどうだったのかな? 忠勝の育ての親です。

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T-Shionoya

躑躅ヶ崎館訪問 (2006/10/09 訪問)

過去の城郭巡りの振り返り第28弾は、甲府城に続いて訪れた山梨県甲府市の躑躅ヶ崎館。

甲府盆地北側の三方を山に囲まれた相川扇状地、地形図を見ると個人的には甲府盆地の玉座ポジションと呼びたくなる地に築かれた城館。
扇状地の最奥には要害山城、右手には湯村山城、左手には一条小山の砦を配置し城砦網を形成。

1519年に武田信玄の父・信虎が石和から移転して以来、武田氏3代62年間の居館。
武田氏滅亡後も、徳川家臣の平岩親吉、豊臣家臣の加藤光泰により甲斐国の統治拠点として整備され、甲府城が完成するまで使用されたと考えられている。

1919年に主郭と西曲輪が武田神社となり、現在はその周辺エリアを含めて発掘調査や復元が進行中。
最初に訪れたのは2006年で、主郭の深い空堀や西曲輪北側の枡形虎口を見て、意外と"城"であることを感じたと記憶。
その後、大手門前が史跡公園化されたこともあり2021年に再訪問。大手門前だけでなく西曲輪南と北の枡形虎口もキレイに整備されており、主郭では改めて土塁の高さを実感。

元々が武田氏の城でありながら丸馬出が見られないのは残念だが、調査中の北側エリアが復元されれば、ますます城郭らしくなりそうな躑躅ヶ崎館です。

※写真は21年11月の撮影

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キンヤ

珍しい円郭式縄張りの城 (2025/09/07 訪問)

武田信玄が馬場信春に命じて作らせたともされる珍しい同心円状の円郭式縄張りと徳川家康が死因とされる鯛の天ぷらを食べたとされる有名な城です。

下屋敷公園には、江戸時代には本丸南東隅の石垣上に建っていた櫓などが移築されてます。
本丸櫓は「御亭(おちん)」と呼ばれる2階建の建物で、藩主が休息したり観月などの際に利用したらしく、窓が多く風流な櫓でなかなか良かったです。

城跡は、学校が建ち住宅街となっており遺構は一部しか残っていないとのことでしたが、散策すると思っていたより土塁や堀が見られて良かったです。
かつては丸馬出が6箇所も設けられていましたが、1箇所だけ丸馬出の三日月堀が残されており、丸馬出好きにとっては嬉しく感謝です。
同心円状に三重の堀を巡らす円郭式縄張りは、二の丸・四の丸では分かり辛いですが、三の丸の堀沿いの道をたどって行くと、丸い縄張りがよく分かり、土塁が5ヶ所で残されてました。

近くにある旭傳院には、田中城の不浄門の移築とされる山門があり(その規模から城門でなく城内にあった屋敷門とも)、袖壁が風流な門でした。

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関ケ原古戦場散歩(岐阜関ケ原古戦場記念館) (2025/10/25 訪問)

 関ケ原古戦場記念館へ久しぶりに立ち寄りました。5階の展望室からは関ケ原古戦場を見渡すことができ、各陣地の配置が把握できます。
10月7日から秋季企画展「世界三大古戦場展-ワーテルロー・ゲティスバーグと関ケ原のつながり」が開催されています。ゲティスバーグ・ワーテルロー両古戦場の現在の姿を示したパネルや資料展示などがありました。ゲティスバーグの戦いはアメリカ南北戦争の決戦地、ワーテルローの戦いはフランス皇帝ナポレオン一世の最後の戦いの地です。3つとも歴史の転換点となった戦いです。

 城巡りを始めた頃は、周辺の城跡は登城しても古戦場はあまり興味なくスルーしていた時期がありました。この三年くらいは岐阜県に越してきたこともあり、関ケ原、桶狭間、小牧長久手など周囲の城、砦を含めて散策しています。また遠出したときも著名な古戦場があれば寄るようになりました。最近、イオさんとしんちゃんさんの長篠周辺の投稿を見て久しぶりに長篠城と設楽原古戦場付近を散策したくなりました。

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todo94

富山ドライブでの攻城① (2025/10/25 訪問)

この週末の行き先も、既献血回数が4回の県からチョイスして富山県としました。10月下旬になったので山城シーズンの開幕ということで最初に向かったのは横尾城です。午前3時に家を出て国道148号で糸魚川に出て朝日ICで北陸道を下りてアプローチしました。素直に上横尾公民館脇から中部北陸自然歩道を進めば全く問題がなかったのに、長願寺の上の獣除けフェンスを開けて進んでしまったために過酷な直登、ぬかるんだ沢登り、そして大回りをしてしまうことになってしまいました。(朝田辰兵衛さんが「間違って行っちゃいました…」と投稿されているにもかかわらず。)また、生まれて初めて、攻城時に目の前を猪が横切っていくという経験もすることができました。

説明板が設置されている虎口と思しき遺構の先の郭内は倒木や灌木、下草であまりよい状態ではなく遺構の視認も難しかったので写真は撮らずじまいです。馬鬛山(ばりょうざん)の説明板がある展望所からの眺望を楽しんでから下山しました。

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トク

新説唐津城築城パネル展と金箔瓦 (2025/10/24 訪問)

唐津城には、青い空と青い海がとてもよく映えます。唐津藩初代藩主の「寺沢広高」も、本当はこんな天守を夢見ていたのではないかと、ふと思ってしまいました。

ところで、天守下の石垣がはらんできたため、16年をかけて発掘調査を兼ねた積み直し工事が行われていましたが、昨年に終了し現在はきれいな直線的な石垣がよみがえっています。その時の発掘調査では、何と天守石垣下の二ノ丸から、地面の中に埋もれていた野面積の石垣と金箔瓦が発見され、さらに本丸北東側の石垣からも金箔瓦が出土したそうです。という事は・・・🤔?

その様子を伝えるパネル展が唐津城内で行われていました。残されている文献から、豊臣秀吉から朝鮮出兵の兵站(物資や兵員の輸送)の責任者に任ぜられた寺沢広高は、唐津【唐(=中国)へ渡るための津(=港)】と名付けられたこの地を与えられ、1594~98年にかけて満島山に築城して(唐津古城)ここに港を整備し、その役目を果たしました。そして秀吉死後は家康から本領安堵され、1602~08年に名護屋城を解体してその資材を使って唐津城を建て替えたとされてきました(唐津新城)。その時に天守台は築きましたが天守は建てられず、本丸に御殿が建てられたようです(正保絵図より)。

今までは、その古城の存在を示す物が見つかっていなかったため、その文献の古城の内容に疑問が持たれていましたが、今回の発掘調査で発見された石垣は、その古城の存在を示す証拠となり、文献の記述は正しかったという事が証明されました。それだけでなく、広高は古城の天守または御殿のあった場所と石垣の上に、何と土を盛ってそれらを埋めてしまい、さらにその上に石垣を積み上げてかさ上げした場所を本丸とし、その本丸に新たな天守台と御殿を建てて唐津新城を完成させたという事になります。

ならば、この発見された金箔瓦は、秀吉時代に建てた広高の唐津古城の瓦なのでしょうか? 広高は秀吉からの信頼はかなり厚かったと思います。金箔瓦の使用を許されていたとしてもおかしくありません。それとも関ケ原後に、名護屋城を解体した資材で唐津新城を築城する時に、名護屋城の金箔瓦をそのまま使ったものが埋もれていたのでしょうか? または二ノ丸で見つかった金箔瓦は前者で、本丸で見つかったのは後者なのでしょうか?

私は天守最上階から名護屋城の方向を眺めていると、何やらロマンを掻き立てられてしまいました😊。
 

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しんちゃん

宮吉城 鳥取市気高町 (2025/10/12 訪問)

久々に県外に遠征です。時間の制約もあって一泊二日で1200km走破の強行スケジュールでした。うう・・きっつい。
二日目の朝、手始めに宮吉城を攻略しました。ニッポン城めぐりでリア攻めをしながら「城びと」の城を攻略・・したつもりだったんだけど、城びとの城じゃなかった・・。かぶっているようで微妙にちがうんだよな。
ちなみに良い城ほど夢中になって「リア攻め」取得を忘れてしまう、あるあるではないでしょうか? 私も最近「めぐり」に慣れてきたのでリア攻めを意識するようにしていますが、松江城や姫路城は夢中になり過ぎて「リア攻め」を取るのを忘れています。

宮吉城ですが母木神社の南の丘陵が城址とされています。直登に近いかんじで登りましたが、足元が滑るので攻めづらい。廃屋のような建物の裏手から道が続いていて、そのまま進むと最初の郭があります。道をスイッチバックのように切り替えして登って行くと腰郭があり、その上に主郭らしき郭があります。さらに南の丘陵の上にも郭があるかもしれませんが、そこまでは攻略していません。
田公新介高家の城とされ、羽柴秀吉に内通したとされ天正9年(1581)吉川勢に攻められ落城するも高家は逃れ、後に毛利輝元に仕えたそうですわ。

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