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昌官忠

(東海&関西)遠9日目:亀山城関連(南郷公園) (2025/05/23 訪問)

宿泊先のホテルの朝食前に、余部城と亀山城関連(移築城門&聖隣寺&南郷公園)を見学しました。
亀山城関連として移築城門と聖隣寺、南郷公園を見学しました。
亀山城は今回2回目の攻城です。1回目は2019年2月8日に来ました。
亀山城関連(聖隣寺)から徒歩15分くらいで、南郷公園(35.014831、135.581724)に着きました。

~南郷公園での確認内容~
①明知光秀公築城碑➡確認できませんでした
②明知光秀公の像
③堀跡の南郷池
最悪です。亀山城の鯱瓦説明板の写真は撮っているのに、鯱瓦そのものの写真を撮っていませんでした。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=御影山城を攻城する前に、ホテルに戻って朝食を食べました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征9日目:亀山城関連(聖隣寺) (2025/05/23 訪問)

宿泊先のホテルの朝食前に、余部城と亀山城関連(移築城門&聖隣寺&南郷公園)を見学しました。
亀山城関連として移築城門と聖隣寺、南郷公園を見学しました。
亀山城は今回2回目の攻城です。1回目は2019年2月8日に来ました。
亀山城関連(移築城門)から徒歩30分くらいで、聖隣寺(35.008084、135.586132)に着きました。

~聖隣寺での確認内容~
①山門の袖塀に狭間が設けられている 
②達磨太子像が山門の左隅に立っている
③毘沙門堂の屋根に細川家の家紋「細川九曜」と豊臣ケ家紋「五七の桐」
④織田信長の五輪塔(供養塔)がある
⑤木造の毘沙門天立像がある➡確認できませんでした
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=亀山城関連(南郷公園)へ徒歩で向かいました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征9日目:亀山城関連(移築城門) (2025/05/23 訪問)

宿泊先のホテルの朝食前に、余部城と亀山城関連(移築城門&聖隣寺&南郷公園)を見学しました。
亀山城は今回2回目の攻城です。1回目は2019年2月8日に来ました。
亀山城関連として移築城門と聖隣寺、南郷公園を見学しました。まずは移築城門です。
余部城から徒歩35分くらいで、保津大五区会議所前(35.022038、135.592882)に着き、新御殿玄関を見学した後、文覚寺山門前(35.023045、135.594954)の移築城門を見学しました。

保津大五区会議所の御殿玄関は公民館に転用されていました。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=亀山城関連(聖隣寺)へ徒歩で向かいました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征9日目:余部城 (2025/05/23 訪問)

宿泊先のホテルの朝食前に、余部城と亀山城関連(移築城門&聖隣寺&南郷公園)を見学しました。
ホテルから徒歩15分くらいで、城址碑前の階段(35.018644、135.571986)に着きました。

築城年代や築城者については定かでないようですが、1467年頃(応仁文明の乱の頃)には、中沢正綱(中沢因幡守正綱)が丹波・丸岡城主だったそうです。
1578年(天正6年)明智光秀が丹波へと兵を進めると、八上城主波多野氏に属していた城主福井貞政は、光秀に降らず余部城を攻められ自刃したそうです。

現在の西岸寺境内から西側の住宅地一帯が城跡で、西岸寺に至る坂道に大手門があったといわれています。
亀山城の移築城門(保津大五区会議所)に行く途中(宿泊ホテルの目の前です)、サンガスタジアムがありました。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=亀山城関連(移築城門)に徒歩で向かいました。

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翡翠

高島城 (2024/07/15 訪問)

松本城に行く前に行って見ました。近くの無料の駐車場に停めて行きました。緑の木々がとても綺麗でした。

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しんちゃん

総石垣の城 (2025/04/20 訪問)

現在の赤穂城は正保2年(1645)に53500石で入封した浅野長直が近藤正純に命じて慶安元年(1648)から寛文元年(1661)まで13年をかけて完成させたとされています。縄張りは甲州流軍学によって成されたとされ、本丸の周囲に二の丸を配し、北に三の丸を配しています。
石高を上回る規模の総石垣の城として築かれ、かつては瀬戸内海に面した海城で有りました。今でも本丸・二の丸・三の丸の周囲に水堀が残っています。三の丸に三箇所(大手門・塩谷門・清水門)の枡形を有し、二の丸と三の丸の境目に一箇所、本丸の本丸門に一箇所と五つの枡形を有していました。二の丸にも二ヵ所の仕切を設け、事実上別の郭となっています。
本丸も12~13の辺をもつ複雑な形状をしていて、海側から攻めてきた敵は本丸門にたどり着く前に各辺に設けられた狭間から攻撃を受け、やられてしまいそうです。個人的には二の丸門と本丸門の間に、もう一工 夫が欲しい所です。

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しんちゃん

茅ケ崎城址公園 (2024/12/30 訪問)

茅ケ崎城は北に早淵川が流れる独立した丘陵上に築かれています。周囲が宅地として開発されている中で、これだけの遺構を備えた城が残されていることに驚かされます。城主などの詳細は不明ですが、北条氏の勢力下の城として小机城より古い時代に築かれたのではないかと考えられています。
中郭が主郭とされ、周囲に土塁が残っていて、特に南側の土塁は通路に沿って高土塁となっているようです。主郭の北の郭が城址公園の入口にあたり、土橋跡や井戸跡が残っています。主郭を訪問した後は虎口を経て、西郭を訪問し、南側の長大な通路を迂回して東郭を訪問します。各郭の間は堀切道となっています。

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しんちゃん

波多野氏の城址とされる。 (2024/12/30 訪問)

波多野城は波多野義景の居館とする説があるようです。東小学校の西側にある丘陵が城址とされ、周囲の田畑も空堀の跡であるようです。城址に道が続いていますが、見学できる範囲は限られており、小公園のようになっています。
道路を挟んだ南側の丘陵上も城址の可能性があるとして、一応訪問はしていますが、それらしい雰囲気は感じられませんでした。

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朝田 辰兵衛

クマの毛皮を見たければ,ぜひ🏰へ… (2025/05/24 訪問)

模擬天守の森林資料館には,クマの毛皮を展示しています。入館無料。柵があったり,ガラスケースに入っていたりもしてません。至近距離で見ることができます。ただ,この大きさだと子どもだと思いますが,一見の価値はあると思います。

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トク

有馬氏250年の面影が残る城 (2025/05/11 訪問)

久留米城はJR久留米駅からブリジストン通りを歩いて15分の所にあります。現在は、本丸御殿があった場所に篠山神社が建ち(写真③)、二の丸・三の丸はブリジストンの国内最大級の工場になっています。北は筑後川に守られ(写真⑦)、本丸の南に大手門を配し(写真②)、さらに南に二ノ丸・三ノ丸が続くという縄張りとなっていました。

実質的な最初の築城者は、秀吉の九州平定後の1587年に入った、毛利元就の九男「毛利秀包」です(写真④)。しかし秀包は関ケ原の戦いで、立花宗茂・筑紫広門とともに関ケ原へ向かうも、大津城で京極高次に足止めをされ、わずか1日の差で本戦に間に合わず、その後家康より改易されてしまいます。

代わって関ケ原後の1601年、久留米は「田中吉政」の領地となりますが、吉政は本城を柳川城としたため、支城の久留米城は1615年の一国一城令で廃城になりました。

その後、吉政の子の忠政に嫡子なく田中家は断絶。1621年、柳川には立花宗茂が復帰し、久留米にはが丹波福知山より「有馬豊氏」が入ります(写真⑤)。豊氏は廃城となった久留米城を近世城郭へと再建していきます。本丸の周囲を六つの三重櫓で固め、特に巽櫓は天守代用としていたようです(写真⑧左)。二ノ丸・三ノ丸と城下町を整備し、有馬氏は幕末まで250年続きました。

帰りに同じく河川敷にある久留米百年公園にも立ち寄りました。こちらは静かな久留米城と異なり、久留米市がずいぶんとお金をかけ、多くの市民が訪れやすい市民の憩いの場に整備されていました(写真⑨)。ならば久留米城も、せっかく続100名城にも選ばれたので、できれば写真⑧に残るような櫓を復元して、もっと多くの人に久留米の歴史を伝えられるような場所に、整備してほしいなと私は思いました。

最後に西鉄久留米駅構内の「清陽軒」で、久留米とんこつラーメンをいただきました。さすが久留米の味! 濃コクでした~😋(写真⑩)。
 

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イオ

城らしくない縄張の陣城 (2025/02/23 訪問)

室町期築城の津田氏の城とする説は江戸期以降に意図的に創作された史料によるもので、現在見られる城郭遺構は、三好三人衆と松永久秀らの抗争において両勢力の陣城として修験道の山岳寺院を改修したものと考えられるようです。

津田サイエンスヒルズ奥の道路脇に路駐して登城開始。よく整備された遊歩道を登って行くと、国見山東裾にいくつかの腰曲輪が展開し、その奥に主郭が設けられています。主郭は遊歩道で東西に分割され、東側は南辺から東辺にかけて北東にのびる尾根を土塁として削平しています。西側は山頂にのびる北西尾根を土塁に見立てて西辺の防御とし、北端には竹柵が設けられていました。もちろん模擬柵ですが、あ さんの投稿にもあるように、竹柵があるだけでもずいぶんお城感を感じます。主郭南西隅の山頂からの尾根と北東からの尾根が交わるところには虎口が開口し、虎口を出た先は両端が切り立った土橋になっていました。

虎口まで戻って、次いでは北東尾根へ。北東尾根は主郭の土塁として削平されていて、主郭東辺では広くなった土塁上が休憩所となっていました。さらに北東に進んだところで引き返すと、今度は山頂へと続く北西尾根へ。北西尾根は大土塁として西側からの侵攻を阻んでいます。北西尾根を登り切ったところが国見山の山頂で、曲輪といえるほどの広さはないものの、その名のとおり河内国、摂津国、山城国を一望する見事な眺望が開けており、物見台として機能したと思われます。そして、そのまま山頂から北に下って展望デッキや夫婦岩を経由して下山しました。

山岳寺院を改修したことによるものか城らしくない不思議な縄張の陣城ですが、遊歩道はよく整備されて訪れやすく眺望も素晴らしいので、これはこれで楽しませていただきました。
 

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昌官忠

(東海&関西)遠征8日目:塩貝城 (2025/05/22 訪問)

胡麻駅から徒歩15分くらいで、入口標識前(35.190012、135.471056)に着きました。
そこから、民家手前のネットのある墓地の裏に廻り込み少し登ると小屋掛けされた「塩見将監之墓」の墓所があります。
獣よけネットをめくってくぐって進みます。本丸まで500m~600mくらいです。

詳細は不明のようです。城主は塩貝将監晴政とその子塩貝将監晴道が伝えられ、麓に墓もあります。
1579年(天正7年)塩貝晴道は波多野氏に従っていましたが、織田の部将明智光秀によって攻められ落城したようです。

眺望はよくありませんが、城塁と竪堀は確認しました。堀切は見逃しました。
攻城時間は45分くらいでした。本日の城巡りは、ここがラストです。
本日の宿泊先に戻る為、胡麻駅から電車で亀岡駅に向かいました。
歩行歩数=36904歩、歩行距離=25.8Kmです。

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昌官忠

(東海&関西)遠征8日目:八木城 (2025/05/22 訪問)

八木駅から徒歩10分ちょっとで、登城口(35.065423、135.526933)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、丹波守護細川氏の守護代をつとめた内藤氏によって築かれたと云われています。
黒井城、八上城とならぶ丹波国三大城郭のひとつで、キリシタンとして知られる内藤ジョアン(内藤如安)ゆかりの城としても有名です。
1579年(天正7年)に織田信長に丹波攻略を命じられた明智光秀が落城させています。
その後も光秀により改修され、亀山城(亀岡城)を築城して以降はその支城として存続しました。
北麓にある東雲寺が八木城主の居館跡と伝えられています。

登城路は手入れされており、テープも巻いてあるので迷う事はないですが、曲輪群を巡るなら長袖長ズボンに帽子、軍手は必須です。
本丸周辺に現存する石垣を見学する際は足元注意して下さい。本丸跡からの眺望は申し分ありません
攻城時間は65分くらいでした。次の攻城先=塩貝城を目指す為、八木駅から胡麻駅へ向かいました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征8日目:高雄城 (2025/05/22 訪問)

京都市営バスの槙ノ尾バス停から徒歩10分弱で、神護寺参道入口(35.055154、135.672918)に着きました。

781年(天応元年)愛宕五坊の一つとして神護寺の前身が築かれたとされる説や延歴年間(782年~806年)に和気清麻呂が神護寺を創建した説などがあります。
どちらにしても、高雄城の築城時期は不明のようですが、南北朝時代、神護寺により築かれ、戦国時代には城郭寺院となった神護寺の詰の城と云われ、細川氏により使用されたようです。

本堂裏手の多宝塔横から遊歩道が性仁親王・文覚上人の墓まで通じていて、この墓地が高雄城の郭の始まりのようです。
墓の裏手へと登るとすぐに三段の郭が現れますが、城域は整備されておらず、倒木やシダなどが生い茂ってます。
主郭の北には三日月状で土塁が残り、その向こうには大きな堀切がありました。 
主郭東下の郭から斜面に竪堀がありましたが、シダに覆われていてよくわかりません。
文覚上人のお墓の位置から京都市内が望めます。(写真撮り忘れました)
攻城時間は70分くらいでした。次の攻城先=八木城を目指す為、槙ノ尾バス停から西日本JRバス➡JRを乗り継ぎ、八木駅へ向かいました。
本当は、次の攻城先=神尾山城を目指す為、槙ノ尾バス停から西日本JRバス➡JR円町➡JR千代川駅➡京都府亀岡市ふるさとバスを乗り継ぎ、宮川バス停へ向かう予定でした。
しかし、西日本JRバスが遅延した為、電車に間に合わず60分待ちとなった為、神尾山城攻城は諦め、次の八木城に行くことにしました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征8日目:備中高松城(移築城門 浄土真宗遣迎院 京都市北区鷹峯) (2025/05/22 訪問)

京都市営バスの鷹峯源光庵前バス停から徒歩2~3分くらいで、浄土真宗遣迎院の移築城門前(35.054097、135.731623)に着きました。

備中高松城(岡山県岡山市)の移築城門(長屋門)と書院がある遣迎院にやってきました。備中高松城で投稿します。
備中高松城は今回2回目(2回目というと心苦しいですが、投稿という観点でお許し下さい。。。)の攻城です。岡山県岡山市の1回目攻城は2019年11月10日に行ました。
長屋門に薬医門が埋め込まれるように建っています。薬医門が移築城門のようです。

遣迎院(けんこういん)は1194年(建久5年)に関白・九条兼実(くじょうかねざね)が別邸・月輪殿に釈迦・阿弥陀を安置したのが起源と言われています。
その後、1201年(正治3年)に九条道家(くじょうみちいえ)が伏見大路の東に浄土宗西山義の派祖・証空(しょうくう)を開山として創建しました。
遣迎院は四宗兼学道場になり、廬山寺・二尊院・般舟院とともに四箇本寺に数えられました。
その後、1575年(天正3年)に定額寺となるが、1583年(天正13年)に関白・豊臣秀吉によって寺院は二分され、京都御所の東方に移って天台宗に改められました。
なお戦後、現在の場所に移り、天台宗から浄土真宗遣迎院派の本山になりました。
ちなみに、遣迎院の道路反対側にある源光庵は本堂の天井が血天井で有名です。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=高雄城を目指す為、京都市営バスの鷹峯源光庵前バス停から京都市営バスを乗り継ぎ、槙ノ尾バス停に着きました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征8日目:嵐山城 (2025/05/22 訪問)

嵐山観光(渡月橋や多宝搭、電電宮など)した後、登城口付近(35.009277、135.680008)に着きました。
嵐山駅から嵐山城の登城口であるトレッキングコース入口(京都一周トレイル西山コース)に着くまでに嵐山観光をした為、40分かかりました。

嵐山城は1497年(明応6年)に山城国下半郡の守護代・香西元長によって築城されたといわれています。
1507年(永正4年)元長は主君である室町幕府の管領・細川政元を暗殺し、政元の養子・澄之に家督を継がせようとしました。
しかし、同じく政元の養子であった澄元や高国の反撃を受けて元長は敗死。嵐山城もその際に炎上したそうです。
ただし、その後も細川晴元が1539年(天文8年)など数度にわたり在城した記録もあり、細川氏が引きつづき利用していた可能性もあり、廃城時期については不明のようです。

トレッキングコース入口付近には嵐山城址の登山口を示す標識は一切ないので注意。
「京都一周トレイル西山コース26」の標識がある細い道を入って行きます。
展望台を過ぎ「西山33」のところで京都一周トレイルから外れ、嵐山城址を目指します。
途中で大岩が道を塞いでいる場所で雨がポッポッ降りはじめ、かつ予定のバス発車時間のタイムリミットが迫っていた為、ここで断念して引き返しました。
嵐山観光(渡月橋や多宝搭、電電宮など)の時間が悔やまれます。
登城途中に桂川・渡月橋を見下ろすことができました。
攻城時間は80分(嵐山城のみ)くらいでした。次の攻城先=備中高松城の移築城門を見る為、阪急嵐山駅前バス停から京都市営バスを乗り継ぎ、鷹峯源光庵前バス停に向かいました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征8日目:嵐山観光 (2025/05/22 訪問)

宿泊先ホテルの最寄り駅(亀岡駅)から電車で嵯峨嵐山駅に着きました。
そこから、渡月橋を渡り、多宝搭前(35.0099860、135.677583)➡電電宮付近(35.009874、135.677743)に着きました。
嵐山観光名所の渡月橋を見たかったので、嵐山城へ行く前に寄ってみました。
電電宮はテレビのクイズ番組で見たので、寄ってお参りしました。
攻城時間は20分くらいでした。次の攻城先=嵐山城へ徒歩で向かいました。

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にのまる

春の18きっぷ初日④ (2025/03/22 訪問)

日没まで1時間くらい滞在できそうだったのでこの日の最後に宮島上陸してきました。

【👈要害山 厳島合戦史跡】の案内に従って石段を登ります。ちょうど日の入りの時刻であたり一帯オレンジ色に包まれとても神秘的でした。古戦場であり日本三景。限られた時間の中でしたが目に映る景色をしっかりと記憶しました。

宿泊はカープロードにある赤い東横イン『東横INN広島駅スタジアム前』です。
ローソンも赤い(^^)
お部屋は普通の青色でした😊

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しんちゃん

変形武者走り (2024/12/31 訪問)

小幡城の築城に関しては諸説ありますが、戦国時代の文明年間以降は水戸城を手中に納めた江戸氏の支配下に置かれ、水戸城の支城となりました。豊臣秀吉の小田原攻めの後、本領を安堵された佐竹義重は一気に南下し水戸城を落とします。この時に小幡城も落城したと見られ、江戸氏は結城氏の下に落ちのび、大名としての江戸氏は滅びますが、後に世界一の大都市となる江戸にその名前が残りました。
久しぶりに小幡城にやって来ました。以前訪問した際に比べ、立ち入り禁止の箇所がいくつかあり、見学のルートも限られているようです。堀底道をしばらく歩きまわるのですが、左右の堀底道を進む敵を高所から攻撃できる、変形武者走りはなかなか面白い遺構です。

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しんちゃん

思ったより遺構が良く残っている (2024/12/31 訪問)

見川城は水戸城を築いた馬場資朝の四男・長幹により築かれ、後に江戸氏の家臣・春秋氏の一族が城主となり水戸城の支城として機能しました。城址は桜川沿いの丘陵上にあり、思ったより遺構が良く残っています。
遊歩道が城址に続いているので、途中から直接主郭に向かっていけば城址に入ることが出来ます。東側にある大きな郭が主郭で周囲を土塁で囲まれ、その周囲には堀が配されています。西側の土塁は高く、外側の堀も良く残っています。西の土塁の上には祠が有り、主郭北東部は枡形の様な形状をしていて、そこが虎口となっているようです。二郭・三郭は藪化が進んでいて全容は良く見えません。
三郭の北側は荒人神社になっていて、周囲は柵で囲まれています。

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