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シャンシャン

秋の大阪お城巡り②:真田丸跡 (2025/10/17 訪問)

真田幸村戦死の地である安居天満宮からレンタサイクルで真田丸跡へ移動。秋晴れの日のサイクリングは気持ちいい!
真田丸跡には現在学校が建っており、当時の遺構はまったく残っていない。でも跡地は小高い丘となっており、出丸を築くのに適した地形だと考えられる。
すぐ近くの心眼寺には、幸村のお墓がある。

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シャンシャン

秋の大阪お城巡り①:真田幸村戦死の地(安居天満宮) (2025/10/17 訪問)

秋の大阪お城巡りの旅へ。
最初の地は城ではないけど、真田幸村戦死の地である安居天満宮へ。
真田幸村が大坂夏の陣で徳川家康の本陣にも攻め入るも、この地で戦死したと言われている。
うーーん、家康を打ち取って欲しかった!!!笑
子供の頃から一番好きな武将である幸村ゆかりの地に来ることができて良かった!

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天守無しがアツい

小雨の河村城 (2025/10/19 訪問)

https://www.yamakita.net/sightseeing/detail.php?id=19

「逃げ上手の若君」の主人公、北条時行と共闘する新田義興が1352年に足利尊氏の軍と対決⚔️河村一族と共にここ河村城を拠点に奮戦

しかしその翌年(1353年)、この城を捨てて退却したと太平記には記されている。尊氏の大軍および尊氏の神力(?)に耐えられなくなったと思われる

さらには盟友の時行が尊氏軍に捕えられ…竜の口で処刑される…それでも義興は折れずに潜伏および抵抗を続け…尊氏の死後まで生き続けたのだった👦

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makkin

20万の大群に対抗した防衛力の城 (2023/03/02 訪問)

大学時代の友達3人で35年ぶりの旅行。
小田原住む友達に案内してもらいました。
博物館も併設しており、戦国時代の貴重な資料が見られました。
天守閣からは海や街並みを一望でき、絶景でした。

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makkin

20年かけて完成した歴史 (2025/05/21 訪問)

彦根城は、城全体の保存状態が最も良く、江戸時代の 政治体制をあらわす「代表例」と言われてあるだけあってとても歴史を感じる佇まいでした。
ひこにゃんにも可愛らしく会えて嬉しかったです。

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ヒロケン

ブラック・ショーマン撮影地 (2025/10/18 訪問)

苗木城は高さ426mの高森山に築かれ、木曽川からの標高差は170m、天然の要害である立地に加え、むきだしの岩盤が露頭した独特な地形を利用した山城です。
苗木城は、木曽川を天然の水堀とし、山頂部に本丸、一段下がったところに二の丸、(二の丸御殿をはじめとした、政務に必要とされた勘定所などの施設が置かれた。)さらに一段下がったところに三の丸、(風吹門を守るための三階建ての大矢倉、厩、中間部屋、作事小屋などがおかれた。)戦国時代の山城によく見られる連郭式の縄張りですが、他に類例のない独特な城の姿は、苗木城が立地する高森山の地形に起因するところが大きいといわれています。

7年ぶり5回目の訪門を決めた理由として、先週、映画『ブラック・ショーマン』を鑑賞したおり、見覚えのある石垣、風景が何度か映し出されており(画像7枚目の笠置矢倉の石垣と眺望)、どうしても行きたくなったのが理由です。(眺望は加工されていましたが。)
苗木城に到着してからも、「ここに有村架純さんと福山雅治さんが来たんだー」って興奮しっぱなし、また、苗木城の石垣、野面積み、打込み接ぎ、切込み接ぎ、谷積みの石垣群も相まってもう、頭の中がパニック状態(#^.^#)。八大龍王の鳥居や帯郭などに行く通路が落石注意で通行止めになっているのに、乗り越え10m程行ったと「はっ」と我に返り辺りをきょろきょろしながら元に戻る始末でした。
7年ぶりに訪問し、かなり整備が進んでいる(一部通行不可)事と無料駐車場が有料駐車場に代わっていたことに驚きでしたが、苗木城に訪問中、有村架純さんが「この石垣を見て、この景色を見たんだぁ~」って本当、感動でした。苗木城、好きになってくれたかなぁ~

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チェブ

江戸城の鬼門。上野で何で?何で?散歩。 (2025/10/11 訪問)

お久しぶりです。本日も脱線注意報が出てますのでご注意ください。
無理やり「江戸城」にくっつけての投稿です。
学生時代の友達達に『散歩するから上野集合』の号令に、久しぶりに『上野』に行ってきました。

皆さんは上野って言ったら何を思い出しますか?
私は子供と行った『国立科学博物館』や『上野動物園』それから『アメ横』。あとは西郷さんの銅像くらいでした。

幕末が何となくしか分かっていないので、『何で?』な散歩記録にお付き合い下さい。

まずは西郷さんの銅像。次に彰義隊の墓を写真に写します。『何で敵同士がこんなに近くに、、、複雑な気分』が感想でした。
西郷さんの銅像は皇居近くに建立するはずでしたが、当時は反感が多く、戊辰戦争の戦地において薩摩藩が奮闘した上野が選出されたそうです。
その、戊辰戦争の後の彰義隊、戦死した方々は見せしめとして、そのままになっていたそうです。

何となく暗い気分になり、上野大仏様のお顔を見に行きました。たくさんの絵馬がかけてあります。そして、たくさんの外国の方が手を合わせていました。本当に本当に、平和になりますように。あと風邪ひきませんように。

この日は20℃に届かない雨。前日は半袖でも大丈夫だったのに、なんて話していたら、桜も間違えちゃったのか咲いている花がありました。写真⑨、寒そうです。
ブラブラした後、寒いからどこかでお茶しよーとアメ横方面へ。最後の写真の『三枚橋横丁』とあり、静岡県沼津市でお邪魔した「三枚橋城」と関連があるかと思いきや、江戸時代、不忍池から広小路を横切る忍川に3つの橋がかけられたそうです。
ちなみに、『三枚橋』は全国に地名が残っているようです。な~んだ勘違い。

私は東京都民ですが、端っこに住んでいるので、上野は遠足気分です。
外国の方々よりも、はしゃいで騒がしかったと反省をした上野散歩でした。

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「江戸城天守を再建する会」ガイドが解説する「皇居東御苑散策ツアー」 11月29日(土)10:00~12:30 (2025/11/29 訪問)

集合場所:皇居東御苑大手門前内堀通り 参加費:一般:3.000円 会員:1.000円 江戸城御城印:500円
申込先:江戸城天守を再建する会事務局:電話:03-6423-1882 Mail:info@npo-edojo.org
振込先:ゆうちょ銀行:0120-9-578881 NPO江戸城再建 三井住友銀行光が丘支店:普通0851894

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イオ

史跡めぐり (2025/06/21 訪問)

(続き)

帯郭に立てられている長篠城周辺散策マップを参考に、周辺の史跡めぐりも。

鳥居強右衛門の磔関連地
長篠城にまつわる史跡としては、鳥居強右衛門を抜きには語れません。磔の地を対岸に望む本丸にも多くの案内表示がありましたが、強右衛門が自らの命を投げうって援軍が来ることを城内に呼びかけたとされる地(弾正郭北側)には「呼びかけ」の伝承地の案内表示が立てられています。その結果、強右衛門は磔に処されますが、強右衛門の呼びかけに力を得た城兵は頑強に戦い抜き、設楽原での勝利へと繋がっていきました。その強右衛門磔死の地に石碑がある…と思っていたら、2度にわたって移設されていて、実際の磔死の地はJR飯田橋の東側だったようです。強右衛門の遺体は磔死の地近くの新昌寺に埋葬され、立派な墓碑が立てられています。強右衛門の墓所と並んで武田軍将士の墓が立ち並んでいますが、これらは新東名高速の整備に伴って戦国の陣没将士墓苑として移設されたものなんだそうです。

馬場美濃守信房の墓(新城市長篠西野々)
長篠の戦いでは多くの武田軍将士が命を落としていますが、長篠城から西に約500mの畑地の一角に馬場美濃守信房の墓があります。殿軍を務めた信房が討たれたのは豊川のもう少し上流の出沢地区とされますが、ここは信房の首を埋めた地なんだとか。私が土の城の面白さに目覚めるきっかけとなった古宮城を築いた鬼美濃の首塚とあっては、お参りせずにはいられません。鎮魂と感謝の思いを込めてしばし手を合わせてきました。

さかさ桑(新城市長篠市場)
馬場信房討死の地から豊川をさらに遡った小松集落には、武田勝頼が落ち延びる際に民家の庭に突き立てた杖から下方にだけのびる桑の芽が出てきたとする「さかさ桑」の伝承がありますが、このさかさ桑は近年に枯れてしまったことから、帯郭の一角に新しいさかさ桑が植えられています。杖から芽が出るというのは洋の東西を問わずありがちな伝承ですが、下向きの桑であることに何か意味はあるんでしょうか?

蟻塚(新城市長篠殿薮)
長篠城から北西に約300m、スギ薬局駐車場の北東部に蟻塚があります。長篠の戦いの戦死者を埋葬した地から蟻の大群が発生して村人を苦しめたことから、供養塔を立てて慰霊し蟻を封じたとのこと。あまりに多くの死者が出たため、不思議な出来事は死者の無念だとか祟りに結び付けて考えられたんでしょうね。

大手門(新城市長篠殿薮)
搦手門(新城市長篠冷田)
伝承云々とは異なりますが、蟻塚の近くに大手門趾の標柱が、大手門から東に約400m離れたところに搦手門趾の標柱が立てられています。明瞭な遺構が見られるのは本丸くらいですが、大手門から搦手門まで歩いてみると案外大きな城だったんだな、と感じました。

さて、長篠城に続いては、長篠城を包囲した武田軍の陣地をめぐります(続く)。
 

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todo94

3連休の秋田ドライブでの攻城⑦ (2025/10/11 訪問)

白華城からの転戦です。白華城攻城を11時には終えてしまったので、途中、すき家で昼食をとりつつ男鹿半島へと向かうことにしました。双六館攻略は、一度試みているのですが、全く登城路が分からず、麓のグリーンタフ(緑色凝灰岩)だけ確認して撤収していました。朝田辰兵衛さんの投稿のおかげで今回は、無事攻略することができました。ありがとうございました。朝田さんに倣ってゴジラ岩もチェック。昔より風化が進んでいる印象を受けました。伊豆大島三原山のゴジラ岩は丸っこくて昔ながらのゴジラのイメージですが、男鹿半島のゴジラ岩は、私の中では小学生の頃に映画で見たメカゴジラと結びついています。さらに先に進んで赤神神社五社堂も再訪してまいりました。少々長めの石段を登った先に鎮座する重文の5つの社殿が並ぶ景観は希少性が高いかと思います。ここでゲットしたおみくじの白ピクミン、きっちり育てたいと思います。

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トク

【宮本武蔵】(17)小倉城(島原の乱) (2025/09/27 訪問)

宮本武蔵の続き(17)です。

譜代大名である小笠原忠真は1632年、徳川家光から九州各地にて不穏な動きがあるため監視せよと、九州目付(九州の外様大名の監視役)を命じられ、播磨明石から豊前小倉に入ります。ここで宮本伊織は、わずか20才で小笠原家家老に抜擢されていました。伊織とともに小倉に入った武蔵は、家老に出世した伊織を頼もしく思ったのでしょう。伊織の屋敷でのんびりと書画などを楽しみながら、この小倉で8年間暮らします。武蔵にとってこの時の小倉での生活が、人生で最も楽しくのんびりと過ごせた時間だったのではないでしょうか?

しかし1637年、島原の乱が勃発します。小笠原藩にも出陣命令が下りました。しかしここで困った事が・・・。戦の経験がある者が家中にほとんどいないのです(つまり戦のやり方を知らない)。家老たちは伊織の父である武蔵に白羽の矢を立て、出陣を要請しました。小倉城の中では、その時の様子が実物大の人形で再現されていました。人形とは思えない、父の出陣を要請され、困惑している伊織の顔がとてもリアルでした(写真②③)。

武蔵この時55才、頼られた武蔵は人生最後の戦と喜んで出陣した事でしょう。しかし結果は悲惨なものでした。先頭に立って石垣を登りますが、敵の投げた石が何とすねに当たってしまい、転げ落ちて負傷してしまったのです(写真⑤)。立てなくなった武蔵は剣を抜く事なく惨めな形で帰国します。武蔵は「自分も年老いたものだ」と語ったそうで、この時の落ち込んだ心境が、共に戦った有馬直純(延岡藩主で元島原藩主だった有馬晴信の子)に宛てた手紙に記されていました。

そして武蔵は恥ずかしくなり、居づらくなったのではないでしょうか? 傷が治ると伊織の反対を押し切り、小倉を出て終の住処を探し始めます。この時の伊織は、逆に島原の乱での活躍が評価され、ついに小笠原藩家老の筆頭にまで出世しました。よって、このまま伊織の世話になりここに居る事は、伊織にも迷惑がかかり、また自分のプライドが許さなかったのでしょう。最初は黒田家を頼り福岡へ行きますが、2代藩主黒田忠之(長政の子で官兵衛の孫)から断られたようです。

しかしその後、細川忠利(忠興の子で島原の乱では先陣を切り活躍した熊本藩初代藩主)から声がかかり、熊本へ客分として招かれる事になりました。実は忠利に武蔵を客分として迎え入れるよう働きかけたのは、巌流島での決闘後に武蔵を鉄砲隊で護衛し杵築で匿った、あの松井興長(この時、熊本細川藩筆頭家老で八代城主)だったようです。近年その手紙が八代で発見され、その事が明らかになったそうです。

次は(最終回)武蔵最期の地、熊本に続きます。
 

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しんちゃん

長篠・設楽ヶ原の戦い 君ヶ伏床砦 (2025/10/05 訪問)

君ヶ伏床砦の守将で和田城主の和田兵衛業繁は元は山内上杉氏に従っていたようです。上野国箕輪城主・長野業正の娘を妻としており上杉憲政が北条氏に敗れ越後に逃れてからは北条氏に従いますが、上杉謙信が関東に侵攻してくると今度は上杉氏に従い、永禄4年(1561)に武田氏が上野に侵攻してくると武田氏に従いました。
10年あまりの間に周囲の大大名の間で従う相手を次々と変えていますが、この時代の武将としてはやむを得ないと思います。よくある話ですね。
その後は武田氏配下のまま長篠・設楽ヶ原の戦いに至り、君ヶ伏床砦で酒井忠次配下の攻撃を受け討死したとされています。
君ヶ伏床砦の残りの写真と西尾根の写真を載せました。西手の藪の中に見えるのは鉄塔では無く何かの施設だろうか? ここの守兵は300騎とのことですが、より多くの兵が守ればもっと持ちこたえることが出来たと思います。もっともそんな余裕が無いのも分かっているのですが。

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yoda 1253

鉄板張りの黒い城 (2025/10/16 訪問)

25基の櫓を持つ10万石では重装備

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yoda 1253

鉄板張りの黒い城 (2025/10/16 訪問)

櫓が25基と10万石の城では重装備

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chiroru

行けてよかった広島城 (2025/09/26 訪問)

広島城見学→呉港の夕呉クルーズ(日没15分前に出航予定)に乗船してサンセットを楽しむといったスケジュールで広島城に
向かいました。
広島城に着いたのが16:00近くて、かなりのダッシュで写真を撮りながら天守を目指して、最上階では安堵で汗だくで・・・
今回逃すとこの天守閣を見れる機会が!と気持ちもいっぱいで、なんとか辿りつけました。
帰宅して写真見ながら思い出しながら広島城復習でした。

夕呉クルーズも受付時間ぎりぎりでしたが、サンセット楽しめて濃い旅の思い出です。とてもおすすめのクルーズです。

晩ご飯は、絶対に広島焼きと決めていたし、最寄りのスーパーとかでも買えるけど、本場でアツアツの広島焼き美味しかった。

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神田古本まつり(10・24~11・3)で江戸城天守再建国会請願署名活動 江戸城御城印(500円) (2025/10/24 訪問)

「神田古本まつり」で「江戸城天守を再建する会」が国会請願署名活動と江戸城御城印販売
を行います。 日時:10月24日(金)~11月3日(月祝) 10時~18時
場所:神田神保町古書店街

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しんちゃん

長篠・設楽ヶ原の戦い 君ヶ伏床砦 (2025/10/05 訪問)

君ヶ伏床砦は五砦の中では最も東(右翼)に位置しています。標高180m・比高130mの浅間山の山頂一帯に築かれているので山城とほぼ変わりません。まだ暑い中えっちらおっちら登ります。少し涼しくなって来たので今頃なら気分よく登れるかな。
山頂に守将の和田兵衛信業にまつわる「君か臥床和田兵衛陣地」の石碑があり、小さな立札がありますが、特に案内板は無い。どうやら多くの人は比較的楽に回れる設楽ヶ原の方に行ってしまうらしい。そういえば昔から五砦を回って人に会ったことが無い・・たまに鳶ヶ巣にいるくらいかな?
いつの時代の扁平地かは分からないけど君ヶ伏床砦の周辺は結構広いです。南側には腰郭のような扁平地があり、北にかけ数段の扁平地が続き、アスレチック場になっている広い扁平地があり、周囲を良く俯瞰できます。
そこにおわすはドラゴン?・・はたまた謎の黒い麒麟か・・はっ!麒麟が来る! 急がねば(大丈夫)
西側にも扁平地があり鉄塔が立っています。尾根沿いに西に行った先は出丸のようになっているけど、とりあえずここまで。残念ながら明確な堀や土塁などは見当たらなかった。

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しんちゃん

長篠・設楽ヶ原の戦い 姥ヶ懐砦 (2025/10/05 訪問)

いやいや、イオさんがまったり投稿できるように先に五つの砦をピュピュッと投稿しちゃいます。
長篠周辺は歴史を体験するには良い場所ですね。熊もほぼいないし・・でも「城びと」の城が二つしか無い。医王寺周辺なんか探せばいろいろ出てきそうなんだけどね。
姥ヶ懐砦は鳶ヶ巣砦に行く途中の道沿いにあります。今回は砦の写真は外観のみで背後(東側)の丘陵を攻めてみようと思います。位置や形状から、ここも砦を構成する一部ではなかったかと考えてます。
姥ヶ懐砦は鳶ヶ巣砦を守る役割も有り、中腹に据えられていたため敵の襲撃を察知するのが遅れたとされています。本多広孝の襲撃を受けますが守将の三枝昌貞(二十四将の一人)はじめ守備隊は良く奮戦し敵を防いだとのこと。やがて君ヶ伏床砦を落とした松平清宗らが攻め手に加わり落城し、昌貞らは討死しました。
付近には三枝兄弟の墓が有り、昌貞と共に討死した弟の守義の名も墓碑名にきざまれています。墓碑に刻まれている守友は昌貞のことを指しています。他にも弟の守光も討死しているようです。
三枝兄弟の墓は今回は訪問していません。以前訪問しているはずですが、入る場所を忘れてしまいました・・けっこう長篠周辺も開発が進んでいます。

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イオ

郭めぐり (2025/06/21 訪問)

(続き)

帯郭から古城跡踏切を渡って野牛郭へ。線路で分断されていますが、線路の東側にも本丸土塁がわずかに遺っています。土塁の先の野牛郭には物見櫓や井戸があり、発掘調査で貯水施設も確認されています。南端には土壇があり、土壇の脇から下りていった先の宇連川は驚くほど綺麗な流れでした。

帯郭まで戻って、今度は弾正郭へ。弾正郭に向かう道中、通りの北側の住宅地の一角に家老屋敷趾の標柱が立てられていました。標柱から南に進むと右手の石垣(たぶん後世のもの)の脇に弾正郭趾の標柱があります。この先だな、と突き当りを右に曲がろうとすると…民家の中庭!? 建物はあっても野牛郭のような郭跡が広がっているんだろうと勝手に思っていましたが、これではとても立ち入れません。写真を撮るのも憚られるので、すぐさま回れ右して今度は東側の郭へ。

駐車場から道路をはさんだ北側、第2駐車場になっているあたりが二の丸跡とされ、糧庫趾や倉屋敷の標柱が見られます。また、江戸中期に長篠の地を与えられた一色直興が二の丸跡に長篠陣屋を構え、林高英が代官を務めたことから林藤太夫高英屋敷跡の標柱も立てられている…はずですが、笹藪に沈んでしまっていてほとんど見えませんでした。駐車場の北東側には巴城郭、さらに北東には瓢郭があったようですが、それぞれ空き地に標柱が見られるくらいです。

長篠城の周辺には様々な伝承にまつわる地があるので、郭めぐりと並行して史跡めぐりもしています(続く)。


ところで……例によって4か月遅れの投稿のため登城した時期はかなり違うものの、しんちゃんさんの一連の長篠の戦い関連の投稿と投稿時期も内容的にも丸かぶりになってしまいますが、ご容赦ください。それにしても久間山砦から北側に下山するところまで同じだとは…(笑)
 

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しんちゃん

長篠・設楽ヶ原の戦い 久間山砦 (2025/10/05 訪問)

久間山砦は武田勝頼が長篠城を包囲した際に築かれた五つの砦の一つで中山砦歴史公園の南に位地する丘陵の上に築かれています。西に豊川が流れ県道443号線のわき道を登って行くと朽ちた小屋が有ってその脇から入って行きます。この入口、非常にうっそうとした雰囲気で、まず普通の人は入って行かないと思います。「城好き」でもちょっと躊躇しそうですね。良く見ると足元に小さく「久間山砦」と書かれた標柱が立っています。あまりウェルカムじゃない?
道は途中から踏み代程度になりますが、尾根に登って西の先端部に進むと、城址碑がありそこが主郭になります。構造としては単郭の砦に近いですが主郭はそこそこの広さが有ったと思います。帰り道は別のルートで北側から麓に降りて行きました。
一度訪問してしまえばいずれのルートからでも登れそうですが、私有地の可能性を考えると南のわき道から入って行った方が良いのかもしれません。
久間山砦は標高150mの丘陵上に築かれ、和気善兵衛宗勝・大戸民部直光・倉賀野秀景・原胤成ら300騎が守っていたとされています。
和気善兵衛宗勝の墓(供養塔)は鳥居強右衛門の墓がある新昌寺にありました。

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