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うさ

土浦城 (2025/09/21 訪問)

関東唯一の現存櫓門、素敵でした

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うさ

世田谷城 (2025/09/20 訪問)

豪徳寺近くの公園になっています。
公園内の写真がアップロードできず申し訳ありません。

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南部直義 (2025/09/26 訪問)

 遠野市にある標高 344mの 鍋倉山に築城された県内屈指の大規模な山城です。鍋倉山は遠野盆地平野部に突出した半島状の地形で、東と北には来内川、西には猿ヶ石川が流れ天然の堀としていました。天正年間(1573~1592 年)に阿曽沼広郷により築かれたと伝わる城郭で、その後南部氏の支配となりました。盛岡藩二代藩主南部利直の命により南部(八戸)直義が、八戸の根城から遠野に移り1万2千余石を知行して治めますが曲輪の大規模な改変はなかったようです。現在、城址は整備され曲輪、土塁、空堀等を見ることができます。竪堀もあるようですが、草に覆われていてよくわかりません。空堀の北側に水溜堀があるようですが、見落としたようです。縄張り図を見ると今回は行っていませんが、尾根に堀切などがあるようです。考えていた以上に面白い遺構がありそうですが、もう少し葉が落ちた時期に来て尾根なども含めて散策してみたいですね。
もちろん整備された道を散策するだけも十分楽しめました。三の丸にある櫓風の展望台に入ると音声ガイドが流れます。
 登城口の南部神社へはJR遠野駅から歩いて10分くらいです。

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todo94

北海道&東日本パス第2弾 江戸城三十六見附めぐりの続き① (2025/09/23 訪問)

シルバーウイークの最終日、この日は帰着するだけでよかったのですが、2023年に赤坂見附までめぐってストップしたままの江戸城三十六見付めぐりの続きにチャレンジすることにしました。最初に向かった常盤橋門、こんなに立派な石垣が残っているとは思いませんでした。橋の名前は常“磐”橋なんですね。勉強になります。呉服橋門、鍛冶橋門は説明板のみでした。数寄屋橋公園には、銀恋の碑や数寄屋橋の碑などはありましたが、門自体の説明板はありませんでした。山下門の説明板は暗いガード下に立っていて見つけるのに難渋しました。そして幸橋門に至っては、門に関わる表示、説明などは存在しないようです。都市化によって遺構の残らない見附も多いようですが、せめて説明板くらいは欲しいなと感じてしまいます。(続く)

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文室綿麻呂 (2025/09/26 訪問)

 平安時代初期の弘仁3年(812年)頃に、文室綿麻呂によって造られた律令制最後の 城柵です。志波城がしばしば水害を被るため移転したと伝わります。整備されていて散策しやすくなっています。

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南部利直 (2025/09/26 訪問)

 斯波氏の居城で北上川右岸標高180mの段丘に築かれており、範囲は東西550m、南北700mに及び、縄張り図を見るとそれなりに大きな城であったようです。城址は城山公園として整備されています。曲輪跡はわかりますが、どこまで当時の状況を反映しているかはわかりません。「東北の名城を歩く 北東北編」(吉川弘文館)によると江戸時代まで本丸の法面には石垣が残存していたようですが、南部利済の時に南東側の北上川に承慶橋を架ける中島を構築するために石材を取り崩したようです。本丸南西部にある石垣は後世の公園整備のときに積まれた新しいものと記載がありました。

 登城時には熊出没の看板はありませんでした。地元の方によると時々熊出没により公園が閉鎖になることもあるとのことでした。

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藤原清綱 (2025/06/26 訪問)

 樋爪氏の居館跡です。樋爪氏は、平泉藤原氏初代清衡の子清綱に始まると伝わります。この付近で産出される砂金支配のために、当地に館が置かれていたという説もあります。赤石小学校付近が館跡で説明板が設置されていました。五郎沼の駐車場にも説明板があります。

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河野通重 (2025/09/26 訪問)

 光林寺の由緒書によれば、河野伊予守通信の次男、通重が城主として居住したことに始まるといわれています。光林寺付近が跡地で寺の裏に二重空堀や土塁が残っています。

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稗貫氏の居館跡 (2025/09/26 訪問)

 稗貫氏の居城と伝わっています。大瀬川氏の居城であったという説もあるようです。説明板は見つけましたが、遺構はよくわかりません。

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工藤行光 (2025/09/25 訪問)

 北上川に面した段丘を利用して築かれていて、外館、北館、本丸、中館、南館、勾当館、帯曲輪で構成されていました。厨川八幡宮が建つ場所が本丸、安部館稲荷神社、公民館付近が中館ということです。空堀がよく残っています。
 雨が降っていて傘をさしての散策となりました。

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坂上田村麻呂 (2025/09/25 訪問)

 平安時代に、桓武天皇の命を受けた坂上田村麻呂によって造られた古代陸奥国最北の古代城柵です。発掘調査成果により復元整備し志波城古代公園となっています。
 登城した日は雨が降っていて風もありましたが、何とか散策できました。

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朝田 辰兵衛

「一休さん」が懐かしかったので… (2025/08/09 訪問)

みなさんのレポートで気になっていたので,「一休さん」の新右衛門さんゆかりの蜷川館へ。雨だったら見送ろうかと思っていましたが,猛暑となりました…。

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トク

小倉城を読み解く(小倉城サイコー)セミナー (2025/09/27 訪問)

北九州国際会議場で行われた、千田嘉博先生の「小倉城を読み解く」(小倉城サイコー)セミナーに参加させて頂きました(写真①②)。2時間とてもおもしろおかしく講演していただき、楽しい時間を過ごせました。ありがとうございます。(勝龍寺城→田辺城→小倉城)という細川の城には、天守の位置に特徴があったのですね。それに織田→豊臣→徳川と時代の変化に合わせ、本丸や馬出しの位置や形も変化させ、小倉城はその完成形になったそうです。大変参考になりました。

小倉城では、他にも10月にはいろいろなイベントが行われるようです。チラシをもらったので、近々行かれる予定の方、10月どこに行こうか迷っているの方の、御参考にしていただければと思います(写真③④⑤)。


余談【丸天うどん】
帰りに小倉駅のホームで、北九州名物のかしわとごぼう天をドッピングした「丸天うどん」を食べました(写真⑥)。いやこれぞ九州の味! 私は未だに東日本の醬油味うどんはちょっとだめです(すいません)。ところで某テレビ局が行った調査では、九州人はあたりまえのように食べるこの丸天うどんですが、これは九州・山口県にしかないと聞きました。山陽本線のホームの立ち食いうどんを調査したところ、山口県から広島県に入ったとたんにメニューから消えるそうです。広島県の人にインタビューしても「丸天? 何それ?」としか返ってこなかったとか。つまり日本の広島から東には無いという事ですが、皆さんの地域には、丸天うどんというメニューは、本当に無いのでしょうか😲?
 

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しんちゃん

熊本城 (2014/01/09 訪問)

古い写真になるのだけど熊本城の写真です。2016年の震災から36年の年月をかけて2052年に復旧する予定だそうです。あと27年? SFの世界だな。世の中どうなっているのだろうか? その間にまた地震がきたらどうする? 一から積み直しになるのだろうか。
とはいえ予算や人材の都合もあるだろうし、宇土櫓が復旧したらまた来よう。
令和14年(2032)ごろには宇土櫓と本丸御殿が復旧するらしい。宇土櫓はともかく再建された本丸御殿はどうなってしまうのだろうか?
できるだけ震災前の状態に戻してほしいのだが・・天守の周辺にコンクリとか貼られてしまっているし、なんか不安だ。

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しんちゃん

五城三郭 (2025/01/06 訪問)

古本丸を経由して中城・周辺の曲輪・北城を順次訪問。周囲の堀や土塁が良く残っていて堀切道になっています。北西の侍屋敷は大野曲輪というようで、北西から順に大野曲輪・北城・中城・西城・古本丸・本丸・常盤曲輪・太鼓丸で合っているんだろうか。他にも厩屋とか腰曲輪とかいっぱいあるけど。城と曲輪の違いはなんだろう? 大野曲輪と北城・中城・西城は侍屋敷になるようだ。常盤曲輪は塩蔵であったようだ。

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しんちゃん

修善寺周辺「鎌倉殿」めぐり (2022/01/10 訪問)

修善寺周辺では鎌倉幕府にとって重要な人物が二人も亡くなっています。一人は蒲冠者こと源頼範で平家討伐に大きな功績を残しています。弟の義経程の武勇は無いものの、人望はあったと見られ、義経討伐を始めは断ったため頼朝から疑いの目を向けられるようになりました。建久4年(1193)曽我兄弟の仇討ちの際、頼朝討死の誤報が伝わり、政子を「頼範あるかぎりご安心を」と気遣ったのが裏目に出て頼朝に幕府横領の疑いをかけられ、修善寺に幽閉された後 梶原景時に攻められ日枝神社下の信功院で自害したとされています。

鎌倉幕府二代将軍源頼家はわずか在位6年で修善寺に流され、元久元年(1204)祖父北条時政の手の者に入浴中に暗殺されたとされています。大河ドラマではゼンジが大活躍していました。頼家の墓とされる碑は元禄16年(1704)に修善寺の住職 筏山智船(ばっさんちせん)によって建てられた供養塔で、実際の墓はその裏にある小さな二つの五輪石塔とされています。
頼家の墓の近くには頼家の死後に挙兵を企てた13人の家臣の墓が有ります。挙兵以前に発覚し相州金窪太郎行親らに殺されました。
また近くには頼家の冥福を祈るために母・政子が建立した指月殿があり本尊の釈迦如来坐像が鎮座しています。釈迦如来は本来何も持っていないとされますが、指月殿の釈迦如来は右手に蓮の花を持っています。これも親心・母心というやつですか。


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taka

雨の今治城 (2025/09/25 訪問)

しっとりして良い雰囲気です

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taka

魚がいっぱい (2025/09/25 訪問)

海水を引き込んでいるだけあって、お魚がいっぱい泳いでいました

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筑紫虎党

杉林が素敵なお城 (2025/08/10 訪問)

静観な杉林の中、お城です。資料館もリニューアルして
歴史も非常に分かりやすい。明治の偉人、小村寿太郎の記念館も素晴らしい。駅からレンタサイクルで城下町を周り、城跡に訪れるがお勧めです

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しんちゃん

修善寺周辺  (2022/01/10 訪問)

伊豆市の修善寺は鎌倉幕府や源氏とゆかりが深く大河ドラマ「鎌倉殿と13人」にもかかわりのある場所も多いです。ここに送られると助からないイメージがありますね、なんとなく高野山と同じ空気を感じます。
修善寺の創立は大同2年(807)とされ、弘法大師と弟子たちに寄って開かれたとされ、その時は真言宗の寺でした。元久元年(1204)に源頼家がこの地で殺害されています。
寛元4年(1246)に宋から渡来した蘭渓道隆禅師が一時駐留した縁で宋の皇帝から勅額が送られ、この時期240年ほど臨済宗の寺として栄えました。戦国時代に荒廃しますが、伊勢宗瑞が韮山城主になった後に寺の再興を行い、その際に曹洞宗の寺になりました。
延徳元年(1489)に入山した隆渓範紹禅師は宗瑞の叔父とされています。

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