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しんちゃん

吉田城本丸 (2025/08/28 訪問)

吉田城は地味です。
続百名城にも選ばれているし、東海道の要の城の一つでもあるから城域も広い。石垣や土塁、堀も残っている。でも浜松城や岡崎城に比べるとどうしても地味な印象が有る。天守が無いからね。
アリーナが出来たら吉田城周辺の駐車場も埋め尽くされてしまうだろう。訪問するなら今のうちですぜ?
相変わらず豊川に近すぎる本丸が気になる。ちょっと無防備じゃないかな? 東と西に枡形が築かれていて、それなりに防御力が高いが川から攻められると弱そうだ。ちなみに本丸御殿は宝永4年(1707)の地震で倒壊し、たぶんそのあと建てられていない。そう思うと石垣と櫓でぐるりと囲まれた本丸が大きな枡形に見えて来た。うっかり本丸に飛び込んだら四方八方から矢が飛んでくる。いたたたた・・
実際は藩主は二の丸に住んでいたから、本丸が空っぽでもそんなに問題は無い。
江戸時代初期は大砲などは、ほぼ普及して無いので近世城郭の存在意義は有ったけど、幕末になってくると射程3.1kmのアームストロング砲や2.5kmの四斤山砲などが現れてくる(記憶で書いているので詳細の差異はご容赦を)。
こんなものが出てくると城郭も大砲陣地としての意味合いが大きくなって来てなんとも味気が無い。やはり戦は弓・槍・刀で戦うのが一番だ。火縄銃まではギリOKだ。

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カズサン

【信濃 吉田城山城】長野県高森町 城山公園として整備 (2025/10/21 訪問)

 大丸山砦・大丸山公園探訪後高森町歴史民俗資料館に入館、閲覧後、北へ大島川を渡った丘陵先端の吉田城山城(城山公園)、松岡城主松岡氏の家臣吉村氏の城郭を探訪。

 住所:長野県下伊那郡高森町吉田725
 駐車場:同上に専用駐車場(35°33'30"N 137°52'21"E h=560m)10台位は可能、公園トイレ有、元小学校跡
 参考資料:城郭放浪記さんグーグルマップに依る。

 城山公園平場は本丸で元小学校の跡地なのか?西側に一段高い平場が有り中央に東屋が有る、西に一段高い神社、祠の有る平場は二の丸、更に西、堀切通路で二の丸と墓場神社エリアと分かれている、東の崖下は光専寺が有る、高森町歴史民俗資料館の松岡城及び支城属城の解説展示では東の光専寺から北西に約200m連郭式成って居た様です。北側、南側は崖下で舌状丘陵。
  

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しんちゃん

長篠・設楽ヶ原資料館 コロミツ坂 竹広表の戦い (2025/10/05 訪問)

飯田線鳥居駅をやや西に行った丘陵に織田信長が長篠城主奥平貞昌の功績を讃えたと伝わる「コロミツ坂」が有ります。ここで信長は貞昌に「信」の字を授け、以降貞昌は信昌と名乗るようになったそうです。
案内板によると徳川家康は起請文の通りに翌年の天正4年に長女の亀姫を貞昌に輿入れさせたとのこと。そういえばイオさんの投稿に長篠の戦いの後に金森可近が長近に名を改めているとありました。ひょっとしたらコロミツ坂で一緒に・・は無いかな?
この場合は奥平や徳川を立てて、自分の家臣は後になるのでしょうな・・

竹広の交差点の南側に「竹広表の戦い」の案内板があります。元亀2年「1571」武田信玄が遠江、三河への侵攻を図り秋山信友・山県昌景の侵入を受け野田方三人衆(菅沼氏・西郷氏・設楽氏)らが竹広で合戦に及びました。菅沼定盈や西郷清員らの奮戦で秋山勢を一時的に退けることに成功しましたが「お愛(後の徳川秀忠の生母)」の夫である西郷義勝がこの戦いで討死してしまいました。
この7年後の天正6年(1578)にお愛は徳川家康の側室として浜松城に入り「西郷の局」と呼ばれ翌天正7年4月に秀忠を産みました。

設楽原歴史資料館には多数の火縄銃や大筒の展示が有り「最大級の大鉄砲」や信玄を狙撃したと伝わる「信玄砲」の展示があります(撮影可)。周囲の地形は天然の堀のようにもなっている・・ようにも見えますね。

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yoda 1253

立派な石垣が残っています (2025/10/18 訪問)

1608年から1874年まで270年間威容を誇っていた

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yoda 1253

横着してリフトで登城 (2025/10/18 訪問)

リフトを降りても城跡まで約20分かかります
人質櫓跡にある約10mの高石垣は圧巻です

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yoda 1253

悲運の城 (2025/10/17 訪問)

関ヶ原の戦いを密約によって毛利家と自国を守った吉川広家は岩国に減封され岩国城を築城
その7年後一国一城令により取り壊し

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yoda 1253

毛利元就の支配の象徴 (2025/10/17 訪問)

元就の孫の輝元が聚楽第を参考に築城

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タートル6

城跡の入口付近の標柱 (2025/10/19 訪問)

住宅地を抜けて赤須城跡に着きました。空堀が確認できました。

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岸和田城

甦る岸和田城🏯 日本古城友の会 栢木隆 原画展

岸和田城の記憶を描き出す・・・

📅11/1(SAT)~1/25(SUN)
⏰9:00〜16:00
🎫無料 ※別途、岸和田城入場料が必要

日本古城友の会 栢木隆先生が岸和田城を今に甦らせた原画展を開催します✨

岸和田に眠る城郭遺構や地形を読み解き、正保城絵図などを照らし合わせて完成させた推定イメージ原画18点、現在の復興天守再建時に存在した設計図をもとに描かれた作品3点、その他名城14点の原画を展示します🏯

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カズサン

【信濃 大丸山砦】長野県高森町 松岡氏関連の砦、整備良好 (2025/10/21 訪問)

 久しぶりの城探訪城散歩です、過日ユーチューブを観てましたら大丸山砦の動画が写り、訪ねてみるか?と城郭放浪記さんのブログを覘き、周辺に松岡城の支城群が在り訪ねる事にしました。
 先ずは高所の市田陣屋を訪ねて、南南東約1.2km下の大丸山砦、大丸山公園として整備されている砦を訪ねる。

 住所:長野県下伊那郡高森町下市田2407-1(大丸山公園)
 駐車場:同公園北西隅に専用駐車場有り(35°33'12"N 137°52'17"E h=570m)、5~6台可能、公園内に奇麗なトイレ有。
 参考資料:城郭放浪記さんグーグルマップに依る。

 後から高森町歴史民俗資料館を訪ねて分かった事ですが、大丸山砦・大丸山公園は高森町歴史民俗資料館の直北西上の丘陵上に整備されており、資料館寄りの散策路も有る様な雰囲気です?
 大丸山砦は大空堀跡と曲輪を芝生で整備されて居り、整備が行き届いています、南東下が高森町歴史民俗資料館、北側南側は崖で落ち込んでおり城郭、砦にはもってこいの地形です。
 空堀跡に風雪劣化して居ますが絵付き解説板が有りよく理解できます、大丸山は松岡本城と支城の吉田城山城・吉田本城等の中間に位置し四方の見晴らしがよく見張り所が置かれたと思われる?空堀は長さ30m、幅7m、最深部2.5mと有り、掘った土は曲輪側に盛って土塁に成って居る。(解説板に依る)
 曲輪の西側は芝生整備された児童遊戯施設、トイレだ設置されている、見晴らしよく市田柿が色付き奇麗に実っていました。
 

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イオ

武田五砦めぐり(久間山砦・中山砦・姥ヶ懷砦・君ヶ臥床砦) (2025/06/21 訪問)

(続き)

便宜上、先に鳶ヶ巣山砦の投稿をしていますが、実際には久間山砦→中山砦→鳶ヶ巣山砦→姥ヶ懷砦→君ヶ臥床砦の順に登城しています。

久間山砦(新城市乗本川添)
豊川を監視する位置に築かれた砦で、和気善兵衛宗勝、大戸民部直光、浪合胤成らが守備しました。そういえば、新昌寺には鳥居強右衛門と並んで和気善兵衛宗勝の墓が設けられていましたっけ。久間山砦へは県道から脇道に入り廃小屋脇の案内表示に従って山中に入ります。しばらく行くと道がなくなったので北側斜面を直登して尾根に出て、あとはピンクのテープが巻かれた尾根沿いを西に進んでたどり着きました。尾根の突端には久間山砦の小さな石碑と標柱が立てられていますが、現状では豊川は樹木でほぼ見えませんでした。帰りは北側の谷筋に下りてみましたが、登城口がわかりづらいものの、砂防ダムを目印に行けばこちらからのほうが登城しやすいかもしれません。

中山砦(新城市乗本椎ノ入)
徳川家康が長篠城を攻める際に築いた付城で、長篠の戦いでは五味与惣兵衛貞氏、名和無理之助、飯尾助友らが守備しました。五砦の中で長篠城を最も近くから監視できる重要な位置にあり、土塁や堀切が設けられていたようですが、新東名高速道路により遺構は失われ、砦跡は小さな歴史公園になっています。鳶ヶ巣山砦への林道をそのまま進めば中山砦まで車でも来られるはずですが、林道は狭そうなので、西麓の高速高架下の空きスペースに駐車して212段の急な階段を上って登城しました。歴史公園には中山砦跡や在りし日の鎧掛け松の石碑、医王寺山本陣と同じ造りの物見櫓が建てられています。物見櫓に上ってみると高速道路の向こうに長篠城、右手に大通寺と大通寺山陣地、その奥に医王寺山本陣まで見渡すことができました。

姥ヶ懐砦(新城市乗本姥ガ懐)
兵糧や資材の備蓄場所としての役割を担った砦で、武田二十四将に数えられる三枝昌貞(守友)、三枝守義、三枝守光らが守備しました。別所街道から三枝兄弟の墓への案内表示に従って分岐を進むと防獣柵のゲートがあります。開閉してしばらく行くと小川に沿って階段状に削平された斜面の一角に三枝兄弟の墓があり、その前に姥ケ懐武田浪人組陣地の小さな石碑が立てられています。比定地はしんちゃんさんが訪れた山上と三枝兄弟の墓がある山裾の2カ所あるようですが、山裾は砦の位置としては不自然ながら、物資の備蓄場所としては小川を通じて宇連川につながるほうが便利かな、とも。

君ヶ臥床砦(新城市乗本柿ノ久保)
高所からの眺望と広大な頂部に多くの兵が駐屯できる砦で、和田業繁・信業父子らが守備しました。舟多神社から山頂まで整備された道が続いていて、山頂下は地主さんにより整備された遊具広場になっています。手作り感のあるブランコやハンモック、滑車ロープの遊具に恐竜を模した展望台などもありました。頂部は周囲を帯曲輪や腰曲輪が取り巻き、なるほど多くの兵が駐屯できそうです。頂部には君ヶ臥床和田兵部陣地の石碑が立てられていました。恐竜の展望台からは長篠城は樹木で見えづらいものの、宇連川沿いの眺望が広がっていました。

以上で武田五砦をひとめぐり。続いてはいよいよ長篠の戦いの決戦場、設楽原に向かいます。
 

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赤い城

王佐山城・三谷城 香川県高松市 (2025/09/13 訪問)

城びと未登録の城です。
平和公園の墓地に王佐山城への登城口があります。
ハイキングコースにもなっていて、これからの山城シーズンに向けてウォーミングアップのつもりでの登城でした。

雨上がりで少し滑りやすかったのですが急坂であること以外は問題無く登れます。
中腹まで登ると畝状竪堀群があります。
この城も長宗我部氏により落ちているのでその時代に改修されたものかと。

さらに尾根道を登っていくと主郭部である山頂につきます。
360°のパノラマビューは登った甲斐のある景色でした。
ここから南側のピークも城域でかなりの規模があった城、この日は南側には進まず北東側の尾根を下り、下山しました。
こちらの尾根にも畝状竪堀群があります。

この山、王佐山もしくは上佐山と呼ばれています。
かつては土佐山だったのではないか、とも言われていますが王も上も土の文字に似ている?
長宗我部氏の支配下にあったことを隠す意図があるのかもしれません。

長宗我部氏に攻められる前は植田氏一族の三谷氏の城でした。
王佐山城から北に平時の居館である三谷城があります。
宅地の中にあり、三谷氏の墓もありますが遺構は見当たりません。

【見どころ】
 ・主郭からのパノラマビュー
 ・北東と北西尾根の畝状竪堀群

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todo94

3連休の秋田ドライブでの攻城⑪ (2025/10/12 訪問)

小友館からの転戦です。太平地区コミュニティーセンターに駐車させていただきました。郵便局から反時計回りに一回り。北側の堀切からちょこっと主郭部分を遠望して引き上げました。この後は、予約を入れておいた秋田県赤十字血液センターの献血パークるうぷにて血漿成分献血。強めの雨が降ってきてしまったので午後に予定していた攻城はすべて見送り、帰路に着きました。

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yoda 1253

毛利元就の愛した吉田郡山城 (2025/10/16 訪問)

郡山の地形を巧みに利用し石垣で本丸二の丸三の丸等を配置

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しんちゃん

長篠・設楽ヶ原古戦場 豊田藤助屋敷跡・墓所 (2018/02/04 訪問)

豊田藤助とは長篠・設楽ヶ原の戦いの際に酒井忠次らを案内して鳶ヶ巣山砦での勝利に貢献した人物です。新城市の吉川に子孫の方が暮らしていて庭に立派な「豊田藤助屋敷跡」の石碑があるのですが、個人の家になるので案内板だけの記載にさせていただきます。
少し北に行った金龍院には藤助の墓が有ります。

残りの写真は7年前の丸山激戦地の写真になります。ここで佐久間信盛と馬場信春らが激戦を繰り広げたのですが、今よりだいぶあっさりしています。本来ならこんなに見通しが良いのですね。季節の違いもありますが、良く言われるように日本が亜熱帯化して来ているように感じます。今は何処に行ってもうっそうとしている感じです。

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しんちゃん

長篠・設楽ヶ原古戦場 勝楽寺前激戦地 山本勘蔵信供 (2025/10/05 訪問)

豊川と連吾川の合流地のやや東の地に勝楽寺前激戦地があります。川沿いに北に進んで行った先には竹広激戦地があります。勝楽寺前激戦地は徳川軍の最右翼になりますが、このあたりは馬防柵が設置されておらず、ここを抜けようとする山県昌景隊と大久保兄弟の間で激戦となりました。

勝楽寺前激戦地のやや南東に山本勘蔵信供の墓があります。信供は武田軍の武将(軍師とも)山本勘介晴幸の子で長篠・設楽ヶ原の戦いで20歳の若さで討死しました。
案内板によると、信供は始めは高坂昌澄らとともに長篠城の監視役として布陣していたが、勝頼の命で竹広の山形高地に転戦するも、すでに味方は総崩れとなっており、単騎で徳川本陣目指し斬りこみ、渡辺半蔵守綱との戦いで討死したとのことです。
ちょっと誇張が入っているような気がするし、高坂隊も長篠城西岸の戦いで敗れたという説も有るので実際の所はわかりません。
長篠城の西、長篠橋を越えて北にいくと山本信供戦死之地の石碑と二代山本勘介信供隊奮戦玉砕之地の石碑があります。酒井隊に襲われ討死したのであれば、この石碑の位置も合っていることになるので、諸説あるあるですね。

最後は某所で食べた鹿カレーの写真です。でも、ほとんどシカ肉が入っていない。1200円くらいでも良いのでシカ肉をたらふく喰いたいですぞ。

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しんちゃん

長篠・設楽ヶ原の戦い 五味与三兵衛貞氏の墓・小幡信貞の墓 竹広激戦地 (2025/09/28 訪問)

急に寒くなりましたね~。ちょうどいいは無いんかい? 冷房の次は暖房ですわ・・光熱費が。
武田勝頼の才ノ神本陣の北側の道沿いに五味与三兵衛貞氏の墓があります。道沿いから山に向かって階段が続いているので、車を付近の駐車可能な場所に置き歩いて向かいました。古戦場の周辺には武田方の武将の墓がたくさんあるのですが、中には素性の分からない者の墓も多くありました。研究が進んで来たのか調べると有る程度事情がわかるようになってきましたね。
五味与三兵衛貞氏は元は越後の国の浪人で兄の長遠と共に武田信玄に仕えるようになったようです。合戦に際しては長篠城を取り囲む五砦の一つ、中山砦を守っていたようですが酒井忠次率いる奇襲部隊の攻撃を受け討死しました。

設楽ヶ原の古戦場から信玄塚に向かっていく坂の途中に小幡上総介信貞の墓があります。信貞は実際にはこの戦いでは死んでおらず武田氏滅亡後は北条氏に仕え、北条氏が滅んだ後は真田昌幸の下へ身を寄せたとされています。この墓は合戦で討死した信貞の父の小幡憲重のものとも伝わっています。

竹広激戦地は徳川家康本陣と武田方の山県昌景の陣の中間にある、まさに激戦地です。ここに山県昌景らの攻撃が集中し最大の激戦地になったとされています。現在は牧歌的な光景が広がり血生臭さとは無縁です。このあたりに住んでいる人たちも、ずっと古戦場の中で暮らしているんですね。なんかすごいな。

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トク

城びとサイトを快適に見る方法(広告が邪魔で困っている方へ)

1年くらい前の事ですが(その時に対策して現在に至っているので最近はどうかわかりませんが)、私のPCやスマホから城びとサイトにアクセスすると、その頃からポップアップ広告がとても多くなり、「みんなの投稿」がまともに読めない、「いいね」を押そうとすると広告が邪魔をして、押したくても押せないなどという現象がよくありました。そんな事が、皆さんにはありませんでしたか?(これは私のPCやスマホだけだったのでしょうか?🤔)。

そこで私は、広告ブロッカーをインストールする事にしました。いろいろ種類があったので無料お試しで試した結果、私は「AdGuard」を選び購入しました。永久版の購入がオススメで、6000円くらいで3台までインストール可能だったので、私はパソコンとスマホ両方にインストールしています。これで全く広告がポップアップされなくなった(全く広告が現れなくなった)ので、城びとサイトをとても快適に閲覧でき、皆さんの投稿をゆっくり気持ちよく読めるようになりました。通信量も減るのでPCやスマホも全体的にサクサク動くようになり一石二鳥です。ただスマホではインストール後も数日おき定期的にまた広告が現れる事があるので、その時はスマホ上のAdGuardアイコン(写真)を1回開く(クリック)してすぐまた閉じるだけでまた現れなくなるので、そうすれば全く問題はありません(それでスマホは自動バージョンアップがなされているようです)。

以上で1年経ちましたが、特に現在まで問題も無く、快適に城びとサイトを閲覧する事ができ続けています。皆さんはこのような問題はなく、城びとサイトを最初から快適に閲覧できているのでしょうか?🤔 もし私と同じような問題を抱えている方がいて、御参考になるのであればと思い投稿しました。これにより城びとサイト側で広告収入が減るなどの弊害があるのであればお詫びいたしますので、その場合はこの投稿は城びと側で削除して下さい。

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朝田 辰兵衛

晴れました…🌞 (2025/10/19 訪問)

ホテルグランシェール花巻から徒歩で散策です。晴れたので良かったです。赤色かるたになったらどうなるのか,イヤでも起伏を意識せざるを得ませんでした…<笑>。特徴のひとつとしては,鐘搗堂前御堀かなぁ…と。ま,仕上がりが楽しみです。

todo94さんへ…
小友館,展望所から三角点までつづく道に入り,数十m進んだところから左に入ります。登り切ると四阿が見えます。もう一段上部に四阿はあります。なお,三角点からヤブこぎでも入れます。バラ科の植物が群生しておりますので,ヤブこぎはおすすめできませんが…。もしかして,私が訪城した時よりもヤブ化が進んでいて,わからなくなっていたのかも知れませんね。
今回のtodo94さんのレポートはとても興味深いです。雀館の道を挟んだ体育館側は全くスルーしていたエリアでした。また,羽川館の畝状竪堀は,草ボーボーで形が認識できないほどでした。春と秋では一長一短がありますね。クマ出没が整備の手を躊躇させているのかもしれませんが…。

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カズサン

【信濃 市田陣屋】長野県高森町 白河藩安部氏陣屋 (2025/10/21 訪問)

 住所:長野県下伊那郡高森町上市田原町、伊勢神社/上市田交流センター南一帯が陣屋跡で現在遺跡は住宅、畑で消滅。
 唯一グーグルマップ史跡マーク地に「史跡 市田陣屋跡」の白い標柱が立っている、畑の南面に石垣が残って居るが草に覆われている。

 歴史は標柱の横に記載されて居り「弘化3年(1846年)6月白河藩安部氏によって築かれた、信濃伊那領13,874石管理するために設けた陣屋、23年幕末明治まで治めた。陣屋は上下二段約1900坪、高森町歴史民俗資料館に市田陣屋の解説展示とジオラマが展示されて居り、往時の陣屋を垣間見る事が出来る。
 高森町歴史民俗資料館:長野県下伊那郡高森町下市田2243 (縄文、弥生、古墳、高森町の城跡の解説も展示されている)

 標柱は紫式部草花に覆われて解説文が読みずらい、南通り面奥に遺構の石垣が草にお居られている、他は民家に畑、標柱の北側に伊勢神社、大塚古墳、上市田交流センター(地区公民館)が有る。東の県道15号線三州街道まで参道が伸びて居る、参道の第二鳥居下に陣屋橋の石碑がひっそり立っている。

 一帯は市田柿の産地で干し柿の市田柿で有名です。
 4ヶ月振りに城探訪城散歩に国道151号線で1000m超新野峠を越えて南信州を飯田市高森町を探訪しました。

 駐車場:三州街道沿いで上市田郵便局北東約60m東半ロータリ空き地(35°33'23"N 137°51'39"E h=590m)?、と伊勢神社/上市田交流センターの境内に一時駐車可能?
 参考資料:城郭放浪記さんグーグルマップに依る。
 
  
 

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