大友宗麟、高良大社からの続き(8)です。
高良大社の社殿の背後には「杉ノ城」がありました。そして、さらにそこから30分程歩いた山頂にある「毘沙門岳城」(標高312m)まで登って来ました。
高良山は、元々は南北朝時代に、南朝方の懐良親王が入ったのが始まりとされ、その後は代々の座主が治めていたようです。そして戦国時代に入り、大友氏は4度ここで陣を敷いています。
1度目は、1534年に宗麟の父である大友義鑑が、ここを拠点に菊池氏を攻め菊池本城(守山城)を奪い取り、肥後を平定しています。それ以降、大友氏は座主を保護し、良好な関係にあったようです。
2度目は前々回お話しした、1565年の多々良川の戦いの時です。立花道雪率いる主力軍は、多々良川で毛利軍と対峙します。宗麟は後詰として、ここ高良山に陣を敷いています。
3度目は、1570年の龍造寺攻めです。大友宗麟は、台頭してきた龍造寺隆信を抑えるため再びこの高良山に本陣を敷き、村中城(=佐賀城)を5万の大軍で取り囲みます。対する龍造寺軍はわずか5千、数の上では10倍、圧倒的に大友軍有利です。それに油断したのか、先鋒を任された大友親貞は、今山の戦場で前祝の酒宴を開きます。それを見た龍造寺家老の鍋島直茂が何と大友軍を深夜に奇襲! 大友軍は予期せぬ大惨敗を喫してしまいます。
4度目は、耳川で大友氏が島津氏に敗れた直後の1584年、柳川城の蒲池氏は弱体した大友氏を見限って龍造寺氏に寝返り、大友領に侵攻します。これを知った立花道雪は、病を押して立花山から出陣、高良山に陣を敷きますが、何とここで病が悪化し、亡くなってしまいました。道雪はよほど蒲池氏が憎かったのか「我が死体に鎧兜を着せ、頭を柳川に向け高良山に埋めよ!」と言い残しますが、宗茂がそれでは首が敵に奪われてしまうため忍びないと、遺体を立花山に持ち帰ったそうです。おそらく道雪は写真①②の場所に埋めてほしかったのだろうと思います。
大友の後は、1586年に北上する島津忠長(義久の叔父)4万の軍勢が同じくここに陣を敷き、勝尾城に籠る筑紫広門を攻めます。勝尾城を攻め落とすと、次に忠長は岩屋城に籠る高橋紹運を攻め、岩屋城を攻め落としますが、頑強な抵抗に会って大損害を出してしまいます。その後、立花城を攻めますが宗茂の抵抗に会い、秀吉の援軍がきたため断念し撤退しました(写真⑩)。
そして1587年には、豊臣秀吉が九州征伐の途中に中腹の吉見岳城に入り、龍造寺家政(隆信の嫡男)と謁見したとの記録もあるようです(写真⑨)。神宿る高良山は見晴らしだけでなく、武将にとっても縁起を担いで陣を敷いた場所なのかもしれませんね。
毘沙門岳城は、Y字型に曲輪が築かれ、その下には数本の竪堀と、大きな横堀が残っていました(写真③④⑤)。また杉ノ城とは多くの切堀で遮断されており、攻めるには難しい城だと感じました(写真⑥⑦⑧)。
私は展望台から、龍造寺領であった西の佐賀平野や、大友領であった北の立花山を眺めてみました。くやしさをにじませ撤退した大友宗麟や、ここで未練を残して亡くなった立花道雪は、さぞかし無念であったろうと思いました。
次は、大友家の全盛期を支えた(大友館)に続きます。
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