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カズサン

初登城久玉城念願叶う! (2025/10/28 訪問)

 今回の鳥取城スタート九州一周城探訪の5日目、天草島の再登城富岡城、初登城河内浦城を終えて国道266号線を南南西へ直線12.3km程、経路で約15km、久玉城を目指す。
 久玉城は15年前富岡城の後に初登城を狙っていたのですが、鹿児島出張中でも有り行き帰りの三角経由時間を考えると断念(その当時フェリー航路の考え頭に無し)しました、今回は牛深港からのフェリーとしました、がフェリー16時半を考えて棚底城はショートカット断念しました。
 久玉城は城郭放浪記さん歴史読本記事で以前より認知はしており何時かはと考えて居り、今回の肥後探訪では陣ノ内城、富岡城、河内浦城と企画に入れて初登城を叶えました。

 駐車場:特に無し、隣接の無量寺墓場前の国道266号線西側幅広路側帯に路駐、数台可能
 参考資料:城郭放浪記さん余湖図コレクションさんグーグルマップに依る。

 路側帯路駐場所より南へ20~30m程に石垣上に史跡久玉城跡碑が在り更に南にスロープが有り久玉城跡大手口へ大手口は館跡?井戸、標柱、久玉城跡説明板があるが経年変化で文字写真図が薄く成って居る、奥へ進むと道が分かれて主郭東下段?谷筋奥に進み廻り込んで主郭枡形虎口より主郭へ、広く西端には高石垣が有る様ですが、上から見るだけ、傍まで樹木が茂り高さを実感する事は出来ず、主郭南東下に石垣が残存する馬出の様な虎口、そこを降りず主郭奥の2段3段4段奥へ最上部には北端に土塁、2段3段の間にスロープ土橋と切岸が見える。主郭南東下の馬出?虎口を降りて石垣の残存部を見て置けが良かったと帰って気付く。まぁ~久玉城に初登城した事で満足です。

 歴史は、久玉城はこの地方の領主であった久玉氏によって築かれた城と伝わる。久玉氏は16世紀後半に河内浦を居城とする天草氏の傘下に入ったと考えられる。久玉氏領主のキリスト教導入に関して一族内紛があるも、関ケ原後、天草は唐津藩の寺澤氏の飛地領となり、久玉城は寺澤氏によって大改修されて高石垣などが残って居る、江戸時代初期の絵図「慶長肥後絵図」に描かれた久玉城は天守風の櫓が表現されている。(現地久玉城跡説明板による)

 久玉城初探訪を終えて牛深港へ、ハイヤ節の故郷、日本海の港々にハイヤ節を伝播していった大元がここです、よく祖父も俳句と民謡、ハイヤ節も(メインは貝殻節ですが)唄っていましたし、教えてもらいましたが忘れてしまいました。
 16時40分発のフェリーで鹿児島県長島町蔵之元港へ船上約20~30分程、東シナ海に沈み夕陽が奇麗でした。2時間の地道で鹿児島市内ホテルへ、途中無料高速道も有り割と早く着きました。

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トク

【とことん名護屋城-①】出張お城EXPO(名護屋城大茶会) (2025/11/23 訪問)

九州初開催の「出張お城EXPO名護屋城大茶会」へ行ってきました。九州にもお城好きがこんなにいたとは本当にびっくりです。いつ来ても誰もいなかった天守台や本丸に、今日は大変多くの方々が訪れていました。普段は秀吉も嫌がったという程の強風が吹く名護屋城ですが、この日は風もなく穏やかに晴れ渡り、絶好の天気にも恵まれました。

本丸では、高橋英樹さん・久保井朝美さん・平山優先生による楽しいトークショーや、博物館では小和田哲男先生・平山優先生・宮武正登先生による講演にも全て参加させていただき、新たな発見による名護屋城の魅力を教えていただきました。ありがとうございます。(その内容は後ほど)

私が思うに、横浜などのEXPOと名護屋城出張EXPOとの大きな違いは、入場料はなく無料、博物館も無料、冊子やパンフレットも無料、唐津からの長距離臨時バスも無料、臨時駐車場と会場を結ぶシャトルバスも無料、トークショーの一部を除き全て無料です!(😱~)。大赤字になるのではないかと心配する程ですが、どうやら佐賀県が全面的にバックアップし、大勢の町民や佐賀県民の参加(県知事も参加)による地元ボランティアの方々の協力で、このEXPOは成り立っているように思いました。このように地元と一体になって無料で楽しめるお城イベントは他にないのではと思い、大変すばらしい運営だと感じました。

この後、各先生方の講演を聞いた後は、その中から気になった場所を、とことん探検していきたいと思います。(タイトルがイオさんのパクリですいません)。

次は、平山優先生の講演の中から、気になった場所を訪れます。
 

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赤い城

茶臼山城、六車城 香川県さぬき市 (2025/11/22 訪問)

いずれも城びと未登録城です。
遠征しない時には近場のマイナー城をぶらついてます。
もちろん参考は城郭放浪記さんのサイトです😊

茶臼山城
四国最大の前方後円墳である富田茶臼山古墳を利用した城です。
古墳は国史跡となっています。
隣接する公園に駐車場があり車を置きます。
古墳に沿って走る道路から見上げたあと鳥居をくぐって登城、円の部分の頂上には祠があり、説明板もありますが城の記載はありません。
寒川氏の城ですが陣城などの一時的な利用だったようです。

【見どころ】
 ・古墳

六車城
茶臼山城から徒歩で20分、雨滝城主安富氏の家臣、六車朝満の居城とされます。
天神神社と隣の藪が城跡でその間が堀切のようです。
藪にも突入しようと思いましたが藪が濃いのとおそらく私有地なので自重しました。

【見どころ】
 ・天神神社横の堀切

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カズサン

発掘調査され城跡公園整備 (2025/10/28 訪問)

 城郭放浪記さんの昨日のトップ10を毎日閲覧、未踏の城はページを開いて確認調査し、河内浦城もヒットした城で何時かは訪ねたいと思っておりました、今回の鳥取城をスタートし九州一周10日間の5日目、肥後の陣ノ内城を初登城、天草島の富岡城復元の大手門跡石垣、復元百間土手石垣白長塀を初探訪し山頂の二の丸復元西と東櫓、長屋(資料館)は初対面、本丸などは二度目の再登城して、直線で南へ約23km程、経路で県道山道を約30km程の河内浦城跡を目指し隣接の天草市総合交流施設「愛夢里」へ到着。海沿いの国道389号線経由が無難と思います。

 駐車場:河内浦城跡東麓の河内浦城跡資料展示館隣接の駐車場利用
 参考資料:城郭放浪記さん余湖図コレクションさんグーグルマップに依る。

 河内浦城は平成元年第一次発掘調査、平成三年第二次発掘調査、平成十二年第三次発掘調査を経て河内浦城跡公園として整備されています、東山麓に案内図、柵列付冠木門が登城入口、山頂主郭まで木道階段で整い大変歩きやすい。
 比高30mの山頂主郭部は発掘調査の結果を櫓跡、各建物跡、東屋、柵列、案内説明板(経年劣化で文字が薄く読みずらい)、主郭部の説明板は経年劣化で文字、絵図が薄く読みずらく写真掲載して居ません、主郭北下には切岸、堀切が良く分かる、南の崇円寺側にも道が見えましたが、来た道を引き返す、尾根道が北に伸びて町道に繋がっている。
 東山麓には河内浦城跡資料展示館が在り黄ばんでいますが資料展示、発掘調査発掘遺物が展示されています。

 歴史:ルイス・フロイス日本史には天草氏の城郭で領内には35の村落と4ヶ所の城郭(本渡城、久玉城、河内浦城、下田城)が在ったと言われる、下田城は町田川を挟んで河内浦城から500m程の山城です。河内浦城と下田城を併せて下田城、河内浦城とも総称される。
 天草国土考によれば天正16年(1588年)に没落廃城したと。(以上は河内浦城跡資料展示館掲示資料による)

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しんちゃん

石垣を上から見れば~

鳥取城を訪問するのは三回目です。8年ぶりくらいになりますか・・月日が経つのは早いものですなあ。
時間の制限があるので山の上までは行けませんでしたが、石垣を堪能することができました。二の丸の登り石垣も良いですが、麓の城の見どころは何と言っても天球丸の巻石垣です。石垣に「はらみ」が出てきたため崩落防止のためにこの形状になったとされていますが、それだけで「こんなん」なる? 「趣味」なのか?
せっかくなので天球丸に登って上から見てみます。う~ん・・Dカップくらい有りますかな?(ボカッ!!)

昨日は暑いくらいだったのに、今日はえらく寒い・・気候変動のせいで頭が少しヘンな感じです。

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小城小次郎

ぽつっと残る土塁 (2025/03/29 訪問)

地元の方ならさらっとよめる「もlちぶく」も意外とさらっと読めない難読地名だと思う。近鉄線路沿いに土塁がぽつっと残っているので探しやすい。ここを北端として周囲の道路と軸線が揃った一辺50mほどの方形主郭があったそうだ。

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いんげん丸虫

稲葉山城 福井県小浜市 (2025/11/23 訪問)

標高140mの山城です。
看板など一切ありません。麓の稲葉観音堂
の右斜め前の谷に入ると左右から竪堀が
伸びてきてます。主に3つの曲輪があり、
要所を堀切で断ち切ってます。北西の長大
な竪堀や北東の20条以上ある畝状竪堀群は
みどころですね。現状は50cm位の凹凸で
写真に撮ってもわかりにくいですが。
好きなタイプの山城でした。

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つば九郎

東京都の城巡り 滝野川城 (2023/09/20 訪問)

王子駅から徒歩15分でした。現在城址は金剛寺となっております。ごくごく普通の寺院となっており、城らしさはあまりないでしょうか。この時は、飛鳥山公園こと飛鳥山城と併せて攻城しました。どうでも良いことですが、滝野川城は自分が生まれた家から一番近い城址であり、小さい頃から良く知っているところではあります。飛鳥山城と併せて攻城時間は1時間半でした。

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つば九郎

東京都の城巡り 渋谷城 (2023/09/06 訪問)

渋谷駅から徒歩15分でした。天下の渋谷駅からも近い場所なのですが、この一画だけ妙にひっそりとしている良い感じのところでした。城址は現在は、金王八幡宮になっております。見どころは、やはり砦の石と言われている石ですかね。
あまりにも、さりげなく置かれているので驚きました。攻城時間は15分でした。

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todo94

三連休・山口県の攻城③ (2025/11/22 訪問)

琴石山城からの転戦です。独立した小丘陵でグーグルマップでは冷泉社及び冷泉家墓所(屋敷跡)となっています。冷泉社と思しきお宮と墓地は慥かにありました。入口を示す標柱の表記は「冷泉屋敷跡入口」でした。

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赤い城

津山市内を一望 (2025/11/16 訪問)

神楽尾公園まで車で行けます。
駐車場があり、ここから小原ルートを登っていきます。
ハイキングコースとして整備され、歩きやすい登城路です。
案内板もあるので迷うことも無いと思います。

案内板に沿って進むと土橋道の標柱があります。
確かに土橋状の細い道ですが両サイドは藪です。
さらに進んでいくと堀切があり、この辺りが二の丸です。
土塁も付いていました。

さらに進むと広い平坦な場所があり、三の丸と馬場。
特徴的な武者溜の脇から本丸を目指します。
神楽尾山の山頂部が主郭でここから津山市内を一望出来ます。
この日は晴れていて眺望も素敵でした😊
東屋でカップ麺を食べてるハイカーさんも、美味しいだろうな〜

一通り景色を楽しんで下山は井戸跡を見学後に三の丸から総社ルートで、こちら側には竪堀もあります。

大きく3つの曲輪群からなる城ですが二の丸がやや離れていて一城別郭ともいえる構造です。
この日はこれで終了、ホルモンうどんを食べて帰ろうと思ってましたが営業時間が終わっており断念。
また来ます。

【見どころ】
 ・二の丸の堀切
 ・本丸下の武者溜
 ・本丸からの眺望
 ・三の丸下の竪堀

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ぎりょう

いつ来ても楽しい鶴岡市② 加藤忠広改易後の居館 (2025/11/23 訪問)

晩秋の鶴岡市への旅、午前中は羽黒三山神社と五重の塔、手向町でかつての門前町の通りを観て、芭蕉のおくのほそ道の出羽三山滞在中にならい蕎麦切りの昼食をとりました。その後湯田川温泉へ向かう途中に、どこか城館跡訪問をと思い丸岡城跡を目指しました。熊の出没が相次いでいることから、集落に近い平城をと考えたからです。
丸岡城は旧櫛引町にあります。城は、村上、置賜へ向かう六十里超街道など交通の要衝に立地し、かつては赤川が縦横に流れ、沼地を形成した要害の地であったといいます。戦国時代に築かれ、この地を治めた押切氏、武藤氏、本庄氏、最上氏が重要拠点として利用しますが、江戸期に入り廃城となります。その後庄内には酒井氏が入部するのですが、寛永九年(1632)に肥後52万石を改易となった加藤忠広が預けられ、この地に居館を置きました。
現在は史跡公園として整備されており、かつては四方を囲んでいたと思われる堀が北側と西側に、土塁跡が北側に、大手門跡や堀跡などを観ることができます。また北側に接する天澤寺には加藤清正の遺骨を納めたという五輪塔もありますが、訪問時には冬に備えた雪囲いが施され、詳しく観ることができませんでした。

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しんちゃん

マトリョーシカ土塁 (2025/11/23 訪問)

高梨氏館は北信濃の有力豪族高梨氏の館です。戦国時代には上杉氏に従いますが、豊臣秀吉の天下統一後、上杉景勝が会津に移封になると、共に従って会津に移ったため高梨氏館は廃城になりました。
「高梨館跡公園」として土塁や堀などが良く整備されており、庭園や門、礎石建物や掘立柱建物の跡が確認されています。土塁の調査で、三段階の構造を経て築造され、基部に漆喰で固めた築地塀が有ることが分かりました(現地案内板による)。

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しんちゃん

山上と麓の矢穴石 (2025/12/02 訪問)

箱柳城は桓武平氏の流れを汲む中根平右衛門盛清によって築かれたとされています。おそらく丘陵の頂部も城址の範囲だったと思うのですが、中腹に幾段にも石垣で固められた郭があり、麓から続いています。途中から郭が無くなるので、どこが主郭か分かりにくいですが、山上に続く道に沿って築かれているようにも見えます。この日は途中で引き返しましたが登城口の麓に矢穴石がありました。
山の上の草むらの中にも矢穴石があります。
戦国のころにも使われていたのであれば、ちょっと変わった構造の城址だと思います。

遺構の周辺はなぜかスマホの圏外だったのでリア攻めには苦労しました。グーピクに変えてから人工衛星「みちびき」ともリンクできるようになったはずなのになぜ? と思いましたが辛抱強く試していたら上の方でリア攻め出来ました。

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しんちゃん

肩の力が抜ける (2025/12/02 訪問)

井田城は松平親氏の子の酒井広親の子・酒井氏忠から続く酒井氏五代の居城でした。酒井忠次は大永7年(1527)井田城内で生まれています。現状は公園で城山稲荷が立っています。ここにある賽銭泥棒へのメッセージが面白く、良い感じで肩の力が抜けます。
今でも賽銭泥棒はやってくるのでしょうか? メッセージが増えている気がします。
今後も楽しいやり取り期待しています(ボカッ!)。
今日のお昼は岡崎名物「もろこしうどん」の別バージョンの「チーズもろこし」です。腹もちが良く力が湧いてきますよ。

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シェル

江戸氏と佐竹氏の境目の城 (2025/01/16 訪問)

 JR常磐線 赤塚駅から徒歩40分。JR水戸駅北口7番のりば 渡里ゴルフセンター行のバスで「新谷」のバス停で下車し、徒歩5分。
 一盛長者伝説地の碑から続く砂利道がお城の入口です。最近の城あるあるで、城跡の広範囲に太陽光パネルが設置されていました。砂利道を進むと、西側の太陽光パネルが敷かれたエリアに土塁があるのが見えます。パネル越しだからなのか、かなり高さのある土塁のように感じられました。砂利道の奥まで進んで行くと主郭跡に至ります。現在は民家になっていて主郭跡の内部には入れませんが、民家の手前には、みごとな空堀と土塁が残されていました。
 長者山城は、中世に江戸氏(水戸城主)の家臣 春秋氏が築城したと考えられています。北側には那珂西城(城里町)、戸村城(那珂市)という佐竹氏の城があることから、江戸領と佐竹領との「境目の城」だったと考えられているようです。

 周辺の八幡神社の南側には台渡里官衙遺跡群の説明板が設置されています。説明板によると、この地域は、奈良・平安時代の常陸国那賀郡の中心地で官衙(役所)と台渡里廃寺があったようです。台渡里廃寺は飛鳥時代に建てられた寺院みたいです。歴史の古さに驚きましたが、説明板の地図をよくみると、長者山城の主郭もしれっと載っています。これは長者山城の見学者としては嬉しかったですね!!

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もりちゃん

何と❗️道の両側に見事な土塁が‼️ (2025/10/13 訪問)

国道7号線を、弘前から山に向かって大館方面へ走っていると。。。油断してはいけません。見事な土塁が道の両側に広がっています。
城内から町の方を望むと良い高さに家々が見渡せて、平城の屋敷からこんな風に景色を眺めていたのかなぁ〜、なんて、お殿様気分に✌️
近接する旧石戸谷家住宅の中には、堀越城主 津軽為信の出自などを紹介しているブースもあり、津軽平野の歴史を知るには必見です❗️
少し走ると「道の駅ひろさき」があり、隣接した天然温泉 花の湯で湯ったりほっこりしました😁

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駿府城

静岡に残る貴重な大名陣屋―国指定史跡「小島陣屋跡」

「お城EXPO2025」では、お城のスペシャリストたちが登壇する特別ステージが開催されます。なかでも注目は、お城好きで知られる落語家・春風亭昇太さんによる「様々な城の魅力を語る~陣屋の魅力~」です。皆さんは“陣屋”と聞いて、どのような建物を思い浮かべるでしょうか?
陣屋とは、城を持つことが許されなかった大名が住んだ場所を指します。実は静岡市にも、その貴重な陣屋が残されています。それが、国指定史跡「小島陣屋跡」です。
そして最大のみどころは、堂々とそびえる“高石垣”。城を構えることが許されなかった大名の陣屋でありながら、城郭のような迫力のある構造を持つ極めて珍しい史跡です。
江戸時代中期の大名陣屋の姿を知るうえで極めて貴重であるとして、平成18年に国の史跡に指定されました。
さらに、NHK大河ドラマ「べらぼう」に登場する黄表紙作家・恋川春町(こいかわはるまち)は、実は小島藩士。今まさに注目が集まる小島藩ゆかりの地として、歴史ファンの方にぜひ訪れていただきたいスポットです。ぜひ現地に足を運んで、その雰囲気をご体感ください。
◆国指定史跡「小島陣屋跡」
住所:静岡県清水区小島本町・小島町地内
書院開館日:土日祝日(平日・年末年始は休館)
    11月から2月:9時30分から15時
    3月から10月:9時30分から15時30分
利用料:無料
アクセス:【バス】JR興津駅「三保山の手」線「小島南」で下車し、徒歩約7分

詳細は静岡市公式HP(https://www.city.shizuoka.lg.jp/s6725/s005186.html)をご覧ください。

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じゅんじん

マンション建設へ (2025/12/01 訪問)

石碑や土塁がなくなりました。マンションが建ちます。

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トク

南関城【牛方馬方騒動-②】加藤正次 (2025/11/21 訪問)

内牧城からの続きです。今度は(牛方馬方騒動)で敗れた清正の重臣「加藤正次」の居城「南関城(鷹ノ原城)」を訪れました。

清正の肥後入国後、肥後の北の守りを任された正次は大津山城に入りますが、1600年清正に進言して新たにここに城を築き1604年に完成します。縄張りは、清正が実際ここに来て自ら考えたとされています。しかし正次は1618年に騒動に敗れ、幕府の命で家臣ともども流罪となり、一国一城令で南関城は破却されました。正次の謀反は本当だったのでしょうか? それとも正方のでっち上げだったのでしょうか? 尾張の時代から清正に仕えた正次にとっては、さぞかし無念だったであろうと思いました。

大牟田駅から南関行のバスに乗り50分、終点の南関町役場で下車すると、南関城が見えてきます(写真①)。ここから麓の「御茶屋跡」まで徒歩10分、そこから山頂本丸まで10分の軽い登りで行く事ができました。山は扁平に削られ、そこに本丸・二ノ丸・三ノ丸があり、4つの堀切でこれらは分断されていた、難攻不落の城だったようです。しかも築城当時は、肥前名護屋城に匹敵するほどの巨大な城だったとされています。御茶屋は江戸時代に入り建てられた、参勤交代のための宿だそうです(写真②)。

この茶屋の横から登城開始します(写真③)。官軍墓地(写真④)に着いたらその背後が本丸です(写真⑤)。墓地には西南戦争で亡くなった官軍兵士77名が眠っているそうです。南関城の最大の見どころは、その先にある「本丸西虎口」です(写真⑥)。高石垣跡とその下には、二重三重にも折れをともなった堀跡が残っていて、これは必見です!(写真⑦)

南関城は築城からわずか14年後の1618年に一国一城令で破却が行われ、さらに島原の乱の翌年1638年には二回目の破却が大規模に行われています。ここでの破却はとても特異な形で行われています。その様子をこの西虎口で見る事ができます。この写真⑧⑨を見て下さい。真ん中に7m21段の石垣が残っていますが、ここは一番上の本丸までかつて石垣があったようです。つまり推定約15mの石垣が、本丸までを覆っていたと言う事になり、その石垣の石を下まで破却して、それを何と登城路を兼ねた堀の中に落とし、その上から土をかぶせて埋めてしまったのです。

よって堀(登城路)も相当深かった事になります。さらにこの両側には塀があり櫓門や隅櫓があったので、元々はかなりの鉄壁な防御が施された城だったと推測されます。それをここまで壊したのは、島原の乱では先陣を切って戦った細川忠利です。

忠利は従兄弟の三宅藤兵衛や多くの家臣を島原の乱で失いました。ゆえに一揆軍をかなり憎んでいたと思います。私は西虎口から破却跡を眺めていると、原城のようにキリシタンに利用されてなるものか! という忠利の強い意志が伝わってくるような気がしました。
 

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