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朝田 辰兵衛

【赤色立体地図かるた】 (2020/07/12 訪問)

「完ハキャで 朝鮮配慮 名護屋城(かんはきゃで ちょうせんはいりょ なごやじょう)」

【完ハキャ=完全破却】という造語を作ってしまいました…。
ここの城の脅威は,完全ともいえる徹底破却に裏付けされています。ここを破却しなければ,今日の日韓友好はありえなかったでしょう。平和な現代からは,破却の実情からそのすごさを逆読みする想像力が求められると思います。

※ここまでのつぶやき…「な」ではじまる城,多いじゃネエかっ!

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カズサン

夏の駿府城ブラ散歩 (2025/08/12 訪問)

 静岡に用事が有り、チョット寄りました、秋雨前線あがりの蒸し暑い日で曇り、九州熊本では甚大な水害被害が発生しており暫く秋雨前線の行方が心配です。
 駐車場は何時もの3の丸跡市民文化会館、中央体育館地下駐車場を利用で目的に指定して訪ねたのですが、同建物の改修改築で今年3月31日より閉鎖して居ました、変わって市民文化会館のすぐ南にタイムズ静岡市民文化会館修景広場が「タイムズ24駐車場」に成っており利用可、小型車52台、20分100円と成って居ます。

 駿府城ブラ散歩ルートは、東御門から入城、発掘された本丸堀跡、静岡おでんの店前にこれからの駿府公園として近き将来の駿府公園イメージ図と同解説、駿府城跡天守台野外展示施設イメージと解説のパネルが展示されていました、ガイダンス施設も出来る様です、坤櫓を二の丸内より眺めて、発掘情報館きゃっしるに立入涼み休憩と情報を得る、天守台跡発掘現場を眺めて、清水御門から出て二の丸堀を南へ外から坤櫓を眺めて、二の丸堀外沿いを巽櫓へ、やじきたの像を眺め、歴史博物館での企画展示弥次喜多と蔦重には寄らず。
 ブラ散歩中桜や欅の葉の茂りには蝉が多く鳴き、蝉の合唱せみ時雨暑い中真夏を感じつつの真夏日の登城と成りました、暑くて城廻は暫く無理ですね。ゆっくり歩いて写真と観察、情報収集を1月に訪ねて以来の8ヶ月振りの駿府城は約1時間でした。
 

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chiroru

夏の烏城灯源郷 (2025/08/09 訪問)

他のイベントも開催中でお子様連れも多く見られました
徐々にライトアップされてゆく烏城周辺で過ごす時間は至福のひとときでした

1泊して、次の日は舞台鑑賞、帰りは新幹線の運休や大幅遅延に遭遇でしたが、旅の思い出( ´∀` )

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城好き

毛利高政の城 (2025/08/10 訪問)

雨が降っていたため、登城は諦め続100名城スタンプのゲットのみにしようと豊後森藩資料館を訪れました。
遠方からの来県であることを告げると、窓口の方が次のこと等について、模型を指差しながら、
丁寧に説明をしてくださいまいました。
・千田先生がたまたま立ち寄られることで、注目を浴びるようになったこと
・千田先生も感心された石垣は、穴太積みであったこと
・雨だが、三の丸までは車でなんとか行けそうであること
・三の丸から本丸往復のおすすめコースについて など
説明があまりにも魅力的だったので、スタンプ&御城印をゲットしたあと、
とりあえず、車で三の丸まで行くことにしました。

行ってみると、想像以上に壮大な穴太積み石垣を見ることができました。
雨が激しくなってきたので、本丸まで攻めることは断念しましたが、
三の丸から伐株山(めちゃくちゃかわいい形の山)を眺めることもでき、最高の気分を得ることができました。
登城してよかったです。窓口の方に感謝です。

【角牟礼城概要】
・三方を急峻な斜面に囲まれた角埋山山頂に築かれた山城
 →標高577m、聞知との比高差240m
・切り立った険しい岩盤が露出した天然要害
・難攻不落の城
 →天正15年(1587)大友・島津の戦いで6,000人の島津兵をわずか1,000人で守り切ったらしい
・毛利高政が穴太積みで防備する近世城郭に改修したらしい

【情報】
・観覧無料
・三の丸まで車で登城可能(駐車場スペース有)

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天守無しがアツい

天守一階にCG再現コーナー (2025/08/11 訪問)

人生4回目の訪問

まず上諏訪駅から天守方向へ歩く→三の丸跡(井戸と閉店した店)を見る→天守入場→続日本100名城スタンプをスタンプ帳に押す(前回の訪問でもスタンプは押したが、当時はまだスタンプ帳持っておらず集印帖にとりあえず押した)→CG再現コーナーを眺める「これが当時の高島城…リアルだなあ🫢→3階から諏訪市一帯の景色(諏訪湖も)を眺める

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駿府城

駿府城でしか手に入らない!駿府城限定御城印の紹介

皆さん御城印(ごじょういん)をご存知ですか?御城印とは、お城や城跡を訪れた記念として購入できる、”お城版の御朱印”で、歴史ファンをはじめ多くの方に親しまれています。
駿府城の御城印は通常の和紙を用いた御城印、地元静岡のヒノキを使用した突板(つきいた)※に徳川家康公の家紋「三つ葉葵」をあしらった御城印のほか、期間限定の御城印も販売しています。特に、天然木を用いた御城印は全国でも珍しく、ここ駿府城公園でしか手に入らない限定品です!ヒノキのやさしい香りと木のぬくもりが、登城の思い出をより特別なものにしてくれます。
※突板(つきいた)とは・・・木を薄く削りだした板のことで、高級家具や建築内装材の表面材として利用されています。静岡市が現在の突板の発祥地と言われ、静岡の地場産業のひとつです。
◆販売時間:9:00~16:00
◆販売場所:東御門・巽櫓、坤櫓
※限定の御城印は東御門・巽櫓のお土産売り場のみで販売
◆価格:突板500円(税込)、和紙300円(税込)、限定御城印は種類により値段が異なる
◆休館日:毎週月曜日(祝日の場合は通常営業)、年末年始(12/29~1/3)
詳細は駿府城公園公式ホームページをご覧ください。(https://sumpu-castlepark.com/info/archives/1386)
静岡にお越しいただいた際には、ぜひお買い求めください!

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赤い城

【赤色立体地図かるた】

朝鮮へ 兵站基地の 清水山城
(ちょうせんへ へいたんきちの しみずやまじょう)

対馬も未訪です。
秀吉の朝鮮出兵の際に経由地として築かれた城です。
石垣が素晴らしいようですね。
金田城や金石城とともに行ってみたい城です。

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赤い城

【赤色立体地図かるた】

清正流 扇の勾配 熊本城
(きよまさりゅう おうぎのこうばい くまもとじょう)

ここも未訪、現在復興途上中かと思います。
加藤清正が秀吉の大坂城を参考にして築城した城。
特に石垣の扇の勾配が美しいとのこと。
九州遠征を計画しないと・・・

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カズサン

【赤色立体地図かるた】 (2005/08/07 訪問)

  「隠密を だます縄張り 宇和島城」(おんみつを だますなわばり うわじまじょう)

 20年前家内との四国西部城探訪、木造復元大洲城天守閣を主にしての旅、20代初めに四国一周城探訪以来の2度目登城でした。
 
 宇和島城は藤堂高虎の縄張、石垣構築、文禄頃の三層天守と聞いております、江戸期に入り伊達政宗の長子秀宗が10万石で入封し現在残ってる三層天守の構造に改まったとも云われている。
 外郭は5角形で4角形の縄張予想を騙すように仕掛けているとも、巧妙な縄張でしたと、しかし外郭をぐるりとは1周して確認して居りません。グーグルマップ航空写真で見ると5角形を確認朱る事が出来ます、現在は便利になりました。下城後伊達市博物館と同庭園を見学しました。
 その後愛南町経由で土佐に抜けた折り3度目の登城をしております。
   

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赤い城

【赤色立体地図かるた】

球磨川の 急流背にして 人吉城
(くまがわの きゅうりゅうせにして ひとよしじょう)

ここも未訪です。
人吉といえば球磨川、これを天然の堀としているとは堅牢さがうかがえます。
実際に行って確認したいです✨

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イオ

【赤色立体地図かるた】 (2019/02/17 訪問)

山上に 連なる石垣 高取城
(さんじょうに つらなるいしがき たかとりじょう)

高取城といえば、圧倒的なまでの山上の石垣が最大の見どころなので、内容的にどうしてもみなさんの投稿とかぶってしまうなぁ…と思っていたら、100名城かるたの際の自分の投稿とも丸かぶりでした(笑)
 

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todo94

北海道の離島① 利尻島【会津藩士の墓(ペシ岬)】 (2025/08/09 訪問)

4度目の稚内にして、初めて北海道の離島に渡ることができました。北の果てに来てさらに船に乗るというのはかなりハードルが高いと思うのですが、このフェリーはなかなか混雑していて利尻の人気の高さがうかがえました。私が宿泊しているホテルはライダーが、稚内駅(道の駅にもなっています。JRの駅と道の駅が一体となっているってかなり珍しいケースなのではないでしょうか。)周辺にはキャンピングカーやワンボックスカー等が凄い数、集結しています。それにインバウンド迄加わるのだから混雑するのも当然です。あいにくの天気かと思っていましたが、土砂降りはバス移動の時だけで後半は青空が広がって好天に恵まれました。定期観光バスで島を一周しただけなのですが、フェリー待ちの時間に行ったペシ岬で会津藩士の墓を発見できたのは、予期せぬ幸運でした。大河ドラマ「べらぼう」では、蝦夷地の上地の画策について描かれていますが、さすがに東北諸藩による蝦夷地警備までは描かれないでしょうね。

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トク

【赤色立体地図かるた】 (2024/12/05 訪問)

断崖で 島津も落とせぬ 岡城址
(だんがいで しまずもおとせぬ おかじょうし)

岡城は、南を白滝川・西を玉来川・北を稲葉川と三方を川に囲まれ、さらに高さ80mの断崖がそびえたつ天然の要害です。1586年、九州制覇を目指し北上する島津軍は、猛将「島津義弘」が率いる25,000の大軍で、この岡城を取り囲みます。この時ここを守っていたのは、大友家臣で若干20才の若き城主「志賀親次(ちかよし)」でした。父親も寝返って逃げ出し、城内に残ったのはわずか1500の軍勢のみ。しかし親次は降伏の道は選ばず、大友家への忠義を貫き戦う道を選びます。そして、このわずかな軍勢で果敢にも3度戦いを挑み、誰もが予期せぬ奇策を巡らせ、何と3度とも勝利します! そして豊臣の軍勢が南下するまで持ちこたえたのです。ここで薩摩の当主「島津義久」からの撤退命令が下り、義弘は最後まで落とす事ができず、無念にも薩摩へ撤退しました。この時義弘は、こうつぶやいたそうです。

「志賀親次は楠正成の再来である」

親次の時代は、滑瀬橋(現在の搦手)が唯一の城への出入口で、義弘はここを突破しようとして、この橋のあたりで激戦が行われたようです。大友家改易後は、秀吉の命で1594年、播磨三木から中川秀成が7万石で入り、現在の位置に大手門を築き、見事な総高石垣の城に改修し、秀成は家康からも所領安堵され、中川家は幕末まで豊後岡藩として存続しました。

私は個人的には(春高楼<秋紅葉)の岡城が好きです。また、高石垣の上から見る景色は雄大で迫力満点です。しかし、下から見上げてみるのも一興かと思います。確かにここを攻め落とすのは難しい🤔と感じる事ができます。
 

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しんちゃん

【赤色立体地図かるた】 (2024/01/28 訪問)

「曳橋を 堀から見上げる 滝山城(ひきはしを ほりからみあげる たきやまじょう)」
これは定番の奴ですね。特に意識しなくても皆、ここで同じような写真を撮ると思います。

「馬出しで 要所を守る 滝山城(うまだしで ようしょをまもる たきやまじょう)」

これは赤色立体地図より。これからは縄張りと、赤い地図を持って城攻めに行く時代になるのかな・・はたから見るとますます危ない人に見えますな。
かつて2千の兵で、2万の武田軍を防ぎましたが、三の丸まで攻め込まれたと伝わっています。赤い地図で見ると加住丘陵の険しい地形を上手く使って城を築いていますが、城の周囲にも陣所に使えそうな丘陵が多い、敵が三の丸まで来たということは、小宮曲輪まで奪われたということですね。丘陵の頂部の高低差が少ないのは確かに弱点になるのかもしれません。
赤い地図で見ると、本丸・中の丸・二の丸の三箇所が城の要所と見られ、二の丸を千畳敷と三つの馬出(角馬出・大馬出・東馬出)と深い堀切で守っています。平山城(丘城)の弱点は有りますが、強力な防御力を持っているのも確かなようです。
何より、肝心要の八王子城があっさり落城してしまったのを見ると、およよよ・・な気分になります。

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キンヤ

三之丸 東大手門跡北側石垣の刻印 (2025/06/22 訪問)

有料エリア以外では、二之丸 大手二之門北側と同様に、三之丸 東大手門跡北側も刻印が多いです。
ここも殆ど情報がありませんが、蜂須賀氏と山内氏の文字の刻印があるとの事で、刻印探しに行って来ました。

外堀沿いを北へ向けて行くと、蜂須賀至鎮(蜂須賀阿波守)の家臣である山田の名が刻まれた「はちすか内 山田」があり、蜂須賀の丁場と思われました。
奥に進むと多種の紋様があり、特に「卍」、「三鈷杵のようなもの」、「変り輪鼓」、「違い山形」が多かったです。中でも「卍」は8個、「三鈷杵のようなもの」は6個もありました。
途中で山内氏の家紋「丸に三つ柏」があったので、山内忠義(松平土佐守)の丁場と思われました。
更に奥にも山内氏の「□山内左太」がありましたが、右下隣りに蜂須賀氏と思われる「い修理(?)」+「弦巻」がありました。
山内氏の丁場に入ったと思っていたのに、蜂須賀氏の刻印が再度あり、混在して謎でした。

丁場割図にはないエリアで、どの大名の丁場か明確には分かりませんが、少なくとも蜂須賀氏と山内氏の丁場と考えられます。
これまで行った石丁場や残石で見た前田氏とされる刻印に似たものが多かった印象ですし、他の担当大名が混在しているかもしれません。
まさか各大名が持って来た石を寄せ集めて積んだとか?謎で面白いです。

草ボーボーの所が結構あり、草刈り後に撮影しました。

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とってぃ

夏の帰省で (2025/08/11 訪問)

妻の実家へ帰省のついでに。

現在整備中。

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しんちゃん

【赤色立体地図かるた】 (2018/01/05 訪問)

「縦横に 竪堀巡らす 岡豊城(じゅうおうに たてぼりめぐらす おこうじょう)」

赤色立体のかるたであることを考えて、たまにはこんな感じで。はたしてどうなることやら・・
以前訪問した時には、四国の覇者の城にしては簡素な城だな、と思っていたのですが。加藤先生の記事を拝見すると、赤色立体地図では多数の竪堀と扁平地(郭)が存在し「要塞」としての岡豊城の姿を見ることが出来ました。なるほど~

「親子二代 四国を統べし 岡豊城」

「姫若子が 鬼若子に変化 岡豊城(ひめわこが おにわこにへんげ おこうじょう)」
幼いころの元親は色白でおとなしく、姫若子というあだ名で呼ばれていたようです。もちろん陰でだろうけど。でもいったん戦場へ出ると、その鬼気迫る戦いぶりから鬼若子とよばれるようになったそうな。
別に姫のような美少年だったというわけでもなさそうです。

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しんちゃん

吉田城・・他3城 (2018/01/05 訪問)

吉田城の城主は吉田周孝とされ、周囲には土塁が残り、吉田備後守邸趾の碑があります。城郭大系には吉田備中守周孝とありますが、どちらでもいいでしょう(雑)。吉田氏の祖は藤原秀郷の後裔山内首藤氏とされ、首藤俊宗が吉田荘に移り吉田氏を名乗ったとされています。
吉田氏は長宗我部氏に従い、一族あげて良く主君を助けますが、関ヶ原の合戦後 一族の右近康俊は大阪に蟄居後、松平氏に仕え姫路に移りました。長宗我部氏の重臣であった吉田重親は大阪夏の陣で長宗我部盛親に従い,八尾・若江の戦いで討死しました。
一説には藤堂高虎家臣・藤堂家信に討ち取られたとされています。

ついでに幾つか掲載

野田城・・城主は野田氏とされ、長宗我部七代兼光の弟俊吉に出自を持つとされています。吉田城と同じ土井屋敷のようです。長宗我部元親の時代の城主は野田甚左衛門とされています。現在は宅地化が進み、土塁の一部らしきものが残っています。

田村城・・四国管領土佐守護・細川頼之の一族で守護代の細川頼益によって築かれたとされています。城址碑と土塁の跡がのこっています。
千屋城・・はじめ細川氏に従い、後に長宗我部氏に従った千屋氏の城とされています。かつての土井屋敷の跡と見られ、土塁の跡らしきものが残っています。

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赤い城

【赤色立体地図かるた】

南海に 美らアーチの 中城城
(なんかいに ちゅらアーチの なかぐすくじょう)

綺麗なアーチの門が印象的です。
琉球の城は大体そうですが太平洋を見下ろす絶景も楽しめます!
行ったのは2019年でコロナ前、そろそろ再訪したいです。

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岐阜市歴史博物館 (2025/08/11 訪問)

 岐阜市歴史博物館で開催されている開館40周年記念特別展「岐阜城と織田信長」へ行って来ました。岐阜市では「史跡岐阜城跡整備基本計画」に基づき1984年から山麓部の発掘調査を行い、2018年からは山上部の発掘調査にも取り組んでいます。この発掘調査による出土品および石垣や庭園遺構などの写真パネルが展示されていました。常設展示も充実していて楽しむことができました。
 昨日から雨が降り続いていて見上げても山上に靄がかかっていて天守閣を見ることができません。時間の都合もあり山上には上がらず居館跡を回って撤退しました。

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