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しんしんちゃん

蒲生氏郷公像 滋賀県日野町上野田ひばり野 (2019/11/23 訪問)

大正8年(1919)日野町上野田ひばり野に、蒲生氏郷公の銅像が建立されましたが太平洋戦争のさなかに資材として供出されています。現在の像は地元の方や多くの関係者の尽力によって再建されたもので昭和63年(1988)に完成しました。
観光情報によると、文禄元年(1592)名護屋の陣に向かう途中、中山道武佐の宿より郷土日野を望み
「思いきや 人のゆくへぞ定めなき わがふるさとを よそに見んとは」の歌を詠んだとされ、銅像はその姿を映したものとされています。

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WEST

江戸城探訪-皇居一般参観 (2024/04/25 訪問)

皇居一般参観に行きました。参観は午前・午後の2回実施され、参加するには事前予約あるいは当日受付となります。
参観は決められたコースを団体(案内言語別にガイドが先導)で歩き、所要時間は約1時間15分です。
参加の目的は、普段近くでは見ることができない桔梗門、富士見櫓、宮殿長和殿と東庭(一般参賀が行われる場所)、正門鉄橋、伏見櫓等を見るためです。
実際に見てみると、江戸城では最も古い遺構である富士見櫓、京都伏見城から移築されたとする伏見櫓は立派で見ごたえがあり、満足した散策でした。
今回参加した回では外国の方が半数を占め、本参観が国内外ともに人気があるのが窺えます。なお、参観は定員制ですので事前予約がお勧めです。当日受付を待つ人が多く、行列を作っていましたよ。
参観終了後は桜田門を抜けて、青空の下咲き始めたつつじを見ながら桜田濠沿いを散策しました。江戸城の広大さ、立派さを実感です。

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里見公園 (2024/04/27 訪問)

 北条氏と里見氏などが争った国府台合戦の舞台となった城です。里見公園として整備されていてどこまで当時の地形を反映しているかわかりません。土塁が残っています。
 JR市川駅よりバスに乗り国府台病院バス停下車。バス停から徒歩約5分で里見公園へ行くことができます。

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戸定が丘歴史公園 (2024/04/27 訪問)

  戸定が丘歴史公園となっています。城の遺構はよくわかりません。花を観ながら雰囲気だけ感じて散策しました。

 松戸駅より徒歩10分くらいで行くことができます。

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大谷口歴史公園 (2024/04/27 訪問)

 下総有数の規模を誇る大城郭であったと伝わっています。多くは開発により失われていますが、一部が大谷口歴史公園等として保存されています。障子堀、畝堀がありますが、畝がよくわからなくなっていました。広い範囲が城域だと思いますが、大谷口歴史公園と近くにあった石碑、説明板を確認して退却しています。
 流山線「小金城趾駅」から徒歩10分くらいで大谷口歴史公園へ行くことができます。

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門前公園 (2024/04/27 訪問)

 牧などを管理する江戸幕府直轄の陣屋であったようです。遺構はないと思われます。門前公園に説明板、さくら通りに標柱がありました。
 新八柱駅より徒歩にて登城しました。門前公園まで10分くらいです。

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にのまる

ありがとうございます。

あさん、ご返答くださりありがとうございます。
写真は太閤ケ平陣跡にあるdocomoの基地局でした!

利神城、チャンスがおとずれるといいですね!
この次姫路に行ったら書写山にも行ってみたいです。

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第五中学校 (2024/04/27 訪問)

 市川市立第五中学校付近が城址です。校門の左側に説明板がありました。休日でしたが登校している生徒さんもいましたので、説明板の写真だけ撮影して退散しました。
 JR武蔵野線「市川大野駅」より徒歩15分くらいでした。

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清光寺 (2024/04/27 訪問)

 清光寺付近が城址とされています。遺構はありません。

東西線葛西駅より徒歩約20分で行くことができます。

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太閤屋敷 写書山圓教寺 (2019/02/13 訪問)

にのまるさん、お祝いクイズをありがとうございます。コメントで、すぐにわかりました。嬉しい案件ですなあ。私が2022.9に腰が抜けそうになり、にのまるさんが、2023.4に膝からくずれ落ちそうになった道程のゴールですね。鳥取城を包囲した秀吉本陣、太閤ヶ平陣。
お返しに、秀吉繋がりで、姫路写書山圓教寺の太閤屋敷関係の写真を添付します。黒田官兵衛が、姫路城を秀吉に譲ったことはよく知られてますが、その前に、三木城の別所氏が寝返った時に、官兵衛は、急峻ながら山上が広く、お堂もたくさんあり、大軍を駐留できる圓教寺に陣を移すことを進言しました。秀吉は、最も高い所に屋敷を作って権力を示したと。この頃は、けっこう嫌なやつ。

ぴーかるさん、コメントをありがとうございます。超昇寺城、名前が凄く、どんなところかと思いましたが、ひどい竹藪で一歩も入れませんでした。奈良でどこの城が良かったかとは、難しい質問ですが、多聞城を挙げておきます。思いの外、東大寺、興福寺に近く、松永弾正、やるなあって感じです。

兵庫県もだいぶん残り少なくなってきたのですが、利神城が懸念です。一番最近では赤い城さんが、キャンセルの空きをゲットしてガイドツアーに入れたとレポートされてます。HP見ると、最近のガイドツアーはとても少なそう。

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しんしんちゃん

桃山の由来? (2024/04/19 訪問)

伏見城は文禄元年(1592)~文禄5年(1596)に豊臣秀吉によって最初の伏見城である指月伏見城が築かれますが、完成直後に慶長伏見地震によって倒壊してしまいます。慶長2年(1597)に木幡山(現・桃山丘陵(明治天皇稜))に二代目の伏見城が築かれました。
秀吉の死後、徳川家康が入り、関ヶ原の合戦の際には鳥居元忠が守将として西軍に攻められ自害しています。
その後、慶長7年(1602)に徳川家康によって再建されますが、元和5年(1619)に廃城となりました。
伏見城花畑跡には昭和39年に「伏見桃山城キャッスルランド」が建設されますが、2003年に閉園。模擬天守は市民の意向で残りますが、耐震基準を満たしていないので中に入ることは出来ません。
桃山稜の北にある伏見北堀公園はその名の通り、伏見城の堀跡だと思われます。あと本丸跡である伏見桃山稜には西と南からアクセスできますが、西からはえらく歩かなければならず、南からはかなりきつい階段を登らねばなりません。まあ西からですね、階段でへばるよりはマシです。入口周辺に車数台を留めるスペースくらいはあります。

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カズサン

古墳利用の素晴しい山城・総編 (2024/04/19 訪問)

 御幸塚城/今江城を終えて北陸路7番目北東に約10km程の和田山城を初登城、古墳群の中、古墳を利用した素晴らしく技巧的な山城で久しぶり興奮探訪でした。

 駐車場:能美ふるさとミュージアム南側駐車場利用。
 参考資料:余湖図コレクションさん城郭放浪記さんグーグルマップに依る。

 駐車場から東の丘陵が城域だと分かります、入口と史跡和田山・末寺山古墳群碑が立っています、車両禁止ポールが立っている、石畳の坂道を登って行くと忠魂碑のエリアへ、能美古墳群の解説板も有り近郊の古墳群を知らしめています、西の方向へは古墳群へ、山城は南方向へ指示板あり、城域入口に和田山城絵図掲示、和田山城解説板が有る。
 
 解説板の直ぐ後ろが二の丸の櫓台で8号古墳、周り北から西に空堀、西の犬走を南へ土橋を東に渡って虎口1、二の丸内部は北方向へ櫓台に向かってスロープに成っている、虎口1の東側に虎口2、此処から東側中腹に腰曲輪群が南北に廻っている。
 虎口1から虎口曲輪が南の本丸方向に伸びる、西側は同じく土塁が本丸まで繋がっている、本丸北の前は空堀、東に廻って本丸虎口より本丸に入る、本丸中心に櫓台が有りここも9号古墳で方墳です、本丸周囲は土塁が廻り、櫓台の南側には本丸を分ける仕切り土塁が有る、本丸西下には帯曲輪と横堀が南北に虎口1西下まで伸びている。
 腰曲輪と帯曲輪へは踏査せず上から眺めただけです。
 草もあまり伸びて居なく、樹木もあまり密集して居なく爽やかな5月の頃を林を散策してるような大変爽やかで楽しい時間でした、久しぶりに良い山城を探訪しました。

 和田山城解説板によると、本城は室町中期に加賀一向一揆で活躍した、和田坊主が築城したと伝え、それが和田山の地名の起こりといわれる。現在の山城の形は、天下統一をめざす織田信長軍団の武将柴田勝家が1580(天正8)年、家臣の安井家清に守らせたころに出来上がったとみられる。和田山城は南加賀の重要な戦力拠点に位置し、一揆軍のたてこもる虚空蔵城や鳥越城攻撃の基地に使われたのであろう。(と記されています。)

 この後には写真を多くとりましたので、本丸編、二の丸編、古墳編に分けて投稿させて頂きます。
 

 

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chiroru

8年ぶり (2024/04/25 訪問)

実に8年ぶりの再訪でした

前回とは趣向が違う見方になってます

堀や石垣や縄張りにも興味を持ち始め、お城のことがより詳しく知りたいと思うようになり
楽しみがふえてます

お城はみどころたくさんですよね

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chiroru

こちらへも是非 (2016/04/12 訪問)

大樹寺は松平家・徳川将軍家の菩提寺としてよく知られています
歴代将軍の等身大の位牌も安置されてます
「ビスタライン」も見ものです

八丁味噌で有名な「カクキュー」では、味噌蔵や資料館をガイドさんが案内してくれます

岡崎城とセットで見学されますと、岡崎の街が満喫できますよぉ

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chiroru

なかなか魅力的 (2024/04/20 訪問)

大手門→大書院→二の丸→本丸→天守台→埋門→南三の丸→南馬出→武家屋敷の順に見学

大手門は枡形

大書院は忠実に復元、二条城を思わせる造り

二の丸は平面に部屋の配置がわかるように表示があり建物があったらと想像しながら巡りました、
その二の丸から北に目をむけ大書院を眺める、懸魚やこけら葺き屋根を堪能できます

本丸石垣では、むき出しの岩盤を見れて、ここが笹山という小山である証が垣間見れます(テンションがあがりました↑)

天守台からは篠山の盆地が見渡せます、天守は築かれることはなかったようですが築かれていたらかなり目立つ建物
であったであろうと思います

埋門付近の石垣には普請奉行の池田輝政氏の刻印が見れます(埋門出てすぐ右側)

南三の丸からは埋門と本丸天守台の石垣を悠々と眺めることができます

南馬出、なんと言ってもこの城ではここを一番楽しみにしていたので!きれいに原型を留めており、
正面から見るのではなく土塁の上に登りそこから見ると形も土塁もかなりわかりますよ

武家屋敷はL字型の造りで、庭には蔵があり火災除けの「水」の文字があるのでいろんなところに目を
向けると当時の生活が勉強できます

建物の現存物はありませんが、石垣・馬出しなど楽しめるお城であります

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しんしんちゃん

かつての豊臣家の政庁であり邸宅 (2024/04/19 訪問)

聚楽第は豊臣秀吉により天正14年(1586)2月より天正15年(1587)9月にかけて築かれたとされています。天正19年に秀次の邸宅となり、秀次居城時に北の丸が増築されたようです。文禄4年(1595)に秀次が高野山で切腹すると徹底的に破壊されたとされています。
形態としては広大な本丸に南二の丸、西の丸、北の丸が付随していたとされ、周囲は堀で囲まれ、南西に外堀を二つ配しています。豊臣家の邸宅兼政庁とはいえ豪華な平城の造りをしていたようです。石碑はいくつかあるようですが、本丸東堀跡あたりの石碑を掲載させていただきます。ハローワーク西陣の道路向かいにあるやつです。
妙覚寺の門と、西本願寺の飛雲閣には聚楽第から移築されたという伝承があるようなので掲載させていただきます。飛雲閣だけは破壊をまぬがれ京都新城に移築されたということでしょうか?あくまで伝承です。
本丸跡北側に小笠原藩邸跡の石碑と、東側に佐賀鍋島藩屋敷跡の石碑が有りました。他にも周囲には様々な大名の屋敷が有り城下町を形成していたようです。

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しんしんちゃん

松尾山城出城① こんな所にも遺構が残っている (2024/04/14 訪問)

国土地理院の地形図を見ると関ヶ原周辺にはいろいろと怪しい場所が多いので、あたりを付けて行ってみると簡単に遺構らしきものが出てきます。どうにも簡単にみつかってしまうので、あえて伏せられているんじゃないかと思うぐらいです。これだけ有名な古戦場なのに城人に登録されているのが松尾山城だけなんですね。自分には特にしがらみがないので、そのまま載せてしまいますが、それで見えてくるものもあると思います。
また松尾山城です。とは言っても松尾山城に付属する小山に配されている遺構の話です。また名前が無いので松尾山城出城(仮)と仮の名称で書いておきます。かつての支城かもしれませんが、遺構はけっこうあっさり目ですね。室町時代から関ヶ原の合戦のころに手を加えられたものと考えています。
空いてるスペースに車を停めて目的地までは徒歩で移動。足元の悪い薄暗いトンネルを越えていくと城址の麓に出て、開口部から取りつくことが出来ます。遺構が集中して残っているのは西側の出丸あたりですね。この地点を合戦の際にどちらの陣営が押えていたのかが興味の対象でしたが小早川陣営に間違いないでしょう。ここにも陣を構えていたということは、かなり早い段階で態度を明白にしていた可能性があります。私は白川氏らの提唱する一次史料に基づく新説には懐疑的でしたが、実際に目にすると、いろいろと考えることがあります。
ちなみにこの城址は開発の手が伸びているらしく、あまり訪問はお勧めは出来ません。登城道がないので危ないのもありますが。

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トク

モトさん、石垣ありましたよ !! (2024/04/25 訪問)

モトさんの道がわからず石垣を見逃したとの投稿(4月20日付)を拝見しました。登山口のある南畑ダムは私の自宅から車で40分くらいの所なのに、まだ行った事がないので、この機会にちょっと行ってみる事にしました。

「一ノ岳城」は、室町期に九州探題であった千葉氏により築城され、戦国期には筑紫氏の城となりました。その後九州北上を狙う島津氏に対抗するため、勝尾城主の筑紫広門が支城として整備したようです。しかし広門は島津氏に敗れ、この一ノ岳城に逃げ込むも捕まり、大善寺に幽閉され、城は秋月種実に奪われてしまいます。その後、秀吉の九州征伐を機に島津氏は撤退したため、広門は秋月氏より奪還! よって今残る石垣や石積や畝状竪堀は、筑紫広門が対島津氏との決戦のために造られたものだと推測されます。広門はこの後、立花宗茂とともに関ケ原へ向かうも、大津城で京極高次の抵抗にあい、あと1日で本戦に間に合にあいませんでした。そして家康から改易され、剃髪し黒田・加藤・細川を頼って転々と流浪し亡くなったようです。

では本題に入ります。私の登城したルートをこれから(地図⑩)をもとに説明します。「一ノ岳城」は、左(西方)の山(標高695m:一ノ岳山)ではなく、右(東方)の山(標高648m:陣ノ尾山)にあったようです。まずは南畑ダムから遠望し位置を確認します。結構高そうです(写真①)。私は健脚ではないので、結局登り2時間、休憩と探索で1時間、下り1時間の合計4時間もかかってしまいました(笑)。

モトさんと同じ南畑ダム沿いにある林道入口に車を止め、そこから登ります。20分程歩くと、途中で林道から右に入る細い道があります(赤いリボンが目印です)(写真②)。

その道を入るとすぐに分岐があり、そこを左に行きます(写真③)。ここから先は、山頂まで急な心臓破りの山道が続きます。赤いリボンを頼りに迷わないように進みます。倒木も多々あり、滑りやすいので注意して登ります。途中で大きな岩に曲輪らしき空間がありました。おそらくここは番所の跡ではないでしょうか。石落とし用の巨大石も要所にありました。攻手側とすれば、こんなのを上から落とされたらたまりませんね(笑)。

一ノ岳山と陣ノ尾山との分岐点に出会いました(写真④)。ここを右に登ります。このあたりが二の丸と思います。左の崖沿いには、多くの石積が見られました。現在は風化してかなり崩れ落ちていますが、私が推測するに、元々は石垣状の連続する巨大な石積ではなかったかと思います(写真⑤)。石垣の隅部と思われるものもありました(写真⑥)。石垣の残りの部分は土砂と枯葉に覆われ見えませんでした。その下は畝状竪堀と思われます。予想外にかなりの大規模な防御を備えた山城だったようです。さらにもう少し登ると山頂の本丸に到着しました(写真⑦⑧)。木々に囲まれ眺望がないのがちょっと残念です。

でもここまでなかなか石垣を見つける事はできません。足が疲れて動かなくなったのでとりあえず山頂の本丸でお弁当😊。30分位して足が回復した所で、山頂本丸の回りの崖を這いつくばって覗き込むようにぐるりと1周し探索しました(写真⑦⑧)。すると・・・ありました! 西側手前5m下に! たぶん本丸の上から見渡しただけでは見えません。それでモトさんは見落としたのかもしれません 木につかまりながら少し本丸から下に降りて見ました(写真⑨)。440年もの間、人目につかず風雨にさらされながらも、よく残っていたなと感心します。時間をかけて探せばまだあるのかもしれません。私もこの一ノ岳城の全貌が知りたくなりました。でも石垣の下は畝状竪堀と思われる急斜面で枯葉も多く、私は何度も滑り落ちそうになったので、今回はこの辺までとしました。モトさんも再度登られる時は、十分注意して下さい。私もいつかまた続きをリベンジしたいと思います。
 

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にのまる

あさん、おめでとうございます🎊

あさん、岡山県に続き、奈良県コンプリートおめでとうございます!
朝田さんからバトンをいただきましたので、僭越ながら【おめでとうクイズ】いかせていただきます。

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“どんだけ歩くんじゃ~!!”
と、不安でワクワク♡しながら山道を歩きました。
5kmはないですよね……・
↓↓↓

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しんしんちゃん

京都新城  京都市京都御苑 (2017/05/28 訪問)

京都新城は聚楽第が破却された後に豊臣秀吉によって秀頼のために築かれたとされています。秀頼が実際に使用した期間は短く(それすら確かでない)秀頼は大阪城を居城としています。その後は秀吉の正室である高台院と養子である羽柴利次によって使用されたそうです。
関ヶ原の合戦の後、利次は大名から寄合旗本に降格され、江戸に屋敷を与えられ、新城は収公され、寛永4年(1626)に仙洞御所の敷地となり建物は解体されたそうです。
メインの写真は新城跡とされる仙洞御所のもので2017年に訪れた時のものです。京都・西本願寺の飛雲閣は新城の遺構とする説があるようです(聚楽第にもにたような伝承があったと思います)。西本願寺には最近、再訪しており写真はその時のものです。

2020年の仙洞御所での発掘調査の際には石垣や堀跡、金箔河原が見つかり、2023年の調査では堀にあった石垣の遺構が出土し、堀の幅は10.8mと確認されたそうです。さらなる発掘調査が期待される所で、公開されたら見に行きたいと考えています。

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