2025年、通算3度目の訪問で初めて大手道が復活開通していた。念願だった「日本最南端の天守台」をついにこの目で見た!島津四兄弟の中で唯一母が異なる島津家久・豊久父子の城にだけ天守が作られた意味とは・・。
+ 続きを読む
検索結果・・・「」を含む投稿
2026/05/01 18:17
日本最南端の天守とは (2025/05/31 訪問)
2025年、通算3度目の訪問で初めて大手道が復活開通していた。念願だった「日本最南端の天守台」をついにこの目で見た!島津四兄弟の中で唯一母が異なる島津家久・豊久父子の城にだけ天守が作られた意味とは・・。
+ 続きを読む
♥ いいね
9人が「いいね」しています。
2026/05/01 15:04
多くの遺構が良好な状態で残っていることに感激 (2026/04/17 訪問)
細く少々荒れた道を車で進めて駐車場にやっと着いたものの、駐車場にあるはずの100名城スタンプはとりはずされていました。色々と調べると賤ケ岳戦国ステーションに移されていました。
駐車場から登る事約20分で玄蕃尾城の遺構に到着。土塁や堀切など多くの遺構が良好な状態で残っていることに感激。石垣ではなく土を主体とし、地形を最大限利用したこの玄蕃尾城は大きな価値があると思います。
+ 続きを読む
♥ いいね
13人が「いいね」しています。
2026/05/01 13:35
4カ月ぶりの攻城 (2026/05/01 訪問)
日本で唯一中に入れる前方後円墳である黒塚古墳を利用して築かれました。城らしい土塁は見つかりませんでした。江戸時代に一万石の大名の陣屋として築かれたので、防御に関してはあまり重点を置かなかったものと思われます。ただ、案内板には内堀と書かれていたし、城の外側に少しだけ石垣もあったので、確かに城であったことは伺えます。古墳を利用して城、陣屋を築いた例は、岡ミサンザイ古墳など数多くありますが、それを直に見れるのは非常に珍しいと思います。でも城という感じはしないのでお勧めはしません。
前方部と後円部の間に堀があったことが調査で明らかになりました。確認はできませんでした。
+ 続きを読む
♥ いいね
10人が「いいね」しています。
2026/05/01 13:15
大手道編 (2026/03/21 訪問)
社山城の縄張図を見ると北の谷筋に大手登城路が描かれています、北の曲輪、本曲輪のやや東下に存在していた?
現在は登城入口から遊歩道が北の曲輪、本曲輪東下に設置されていますが、更にその東下に残って居ます。
本曲輪、横堀探査、二の曲輪、虎口、帯曲輪探査後、縄張図に描かれてる大手道が気に成り、二の曲輪・本曲輪間の堀切から北下へ大手道も有り少し踏査して見ました、本曲輪東下竪堀が落ち込んで居た辺りまで、下の茶畑迄降りてみようかな?と思ったのですが、下辺りは小竹矢竹の枯れたような藪で藪漕ぎに成ってはマダニ?の心配も有り、また昇ってこれる辺りで引き返し、本曲輪への遊歩道より下城しました。
縄張図に黄色矢印で大手道を3ヶ所示しました。
更なる整備で探訪し易く成るとありがたいのですが。自宅から北東に天竜川を越えて約6km程成る磐田市の唯一の山城です。
+ 続きを読む
♥ いいね
13人が「いいね」しています。
2026/05/01 12:16
二の曲輪虎口・帯曲輪、周辺編 (2026/03/21 訪問)
驚愕の本丸(本曲輪)横堀西辺北辺の続です。
社山城の二の曲輪は本曲輪よりL字に東に折れてほぼ本曲輪と同じ面積、本曲輪と二の曲輪の間は堀切と成り、北端は大手道の虎口に当たります。又二の曲輪中ほどの南側に南虎口があり東尾根筋下曲輪群に続く登城路に繋がっている?下へ降りるのが不安で踏査して居りません。
二の曲輪中ほどには南虎口と北への堀切が有り、二の曲輪東側曲輪と成っており、西側に比べて樹木灌木が茂っている。東端から下を覗くと下段曲輪群が目視出来ます、怖くて下には降りられません。
二の曲輪東側と西側の北側下段に帯曲輪が分かれた構成で帯曲輪北下にも段曲輪が在り目視できる。
整備が進み散策路、虎ロープ、案内板などが出来ましたら少しは本曲輪、二の曲輪以外の遺構部分にも踏み込むことが出来るのではと思っておりますが、現状態では深く踏み込むことが出来かねます。
縄張図では本丸は本曲輪、二の丸は二の曲輪の表記に成っています、以前の投稿、今回の投稿で本丸、二の丸と表記しましたが本曲輪、二の曲輪へ訂正させて頂きます。
+ 続きを読む
♥ いいね
13人が「いいね」しています。
2026/05/01 11:35
2026/05/01 10:46
滋賀の名城巡り④ (2026/04/24 訪問)
安土城から、今回のもうひとつのメインである観音寺城へ!
登城ルートはいくつかあるようだけど、今回は桑實寺から山登り開始。
まず桑實寺までの石段が凄い!左側には立派な石垣が連なっていて、これも観音寺城の一部かな?って思ってたけど、桑實寺の住職に聞いたらかつて石垣の上に宿坊があったとのこと。
南北朝時代に建てられた桑實寺の立派な本堂は、国の重要文化財になっていて中に入ることもできるのでこれも見どころ。
ここから観音寺城まで険しい山道をひたすら登ると、伝本丸の石垣が現れる。石垣が見えたら疲れも吹き飛ぶ。
そして伝平井丸の巨石が積まれた虎口も圧巻!こんな巨石をよく運んできて積み上げたものだと感心する。
そこからさらに歩くと観音寺城のハイライトである大石垣が現れる。この大石垣も迫力満点!景色も絶景で新幹線が通るのも見えて、来て良かったと心から思う。
時間の関係で、今回は残念ながら観音正寺には行くことができず。次回は別ルートから登って、この戦国最大の山城を堪能したい。
+ 続きを読む
♥ いいね
12人が「いいね」しています。
2026/05/01 10:32
滋賀の名城巡り③ (2026/04/24 訪問)
彦根からまた電車に乗って安土へ移動。今回のメインの安土城へ!
ようやく来ることができた安土城。天下人・信長が築城しただけあって、山の麓から石垣や虎口などが出迎えてくれてテンションが上がる!
受付から入ってすぐの大手道の石段は圧巻!天主台に上がると礎石が整然と並んでいて、ここに巨大な天主が建っていたと考えると感慨深い。
これだけの規模の城郭を築いた信長の凄さをまざまざと見せつけられた!
+ 続きを読む
♥ いいね
11人が「いいね」しています。
2026/05/01 10:23
2026/05/01 07:10
日帰り富山ドライブでの攻城⑦その1 2巡目の続100名城スタンプラリー85城目 (2026/04/11 訪問)
二塚城からの転戦です。攻城前に砺波市埋蔵文化センターに立ち寄り、城カードを入手しました。ダム湖を写した遠景の写真が使われていて今まで手に入れた城カードの中では一番残念なカードに感じてしまいました。素晴らしい遺構がいくつもある城なのにもったいないことです。そしてさらに残念なことに続100名城のスタンプを誤って鮫ヶ尾城の場所に捺してしまいました。何度もやらかしているミスです。もう2度目のスタンプラリーを完遂しても、スタンプ帳を送付する気は完全に失せてしまいました。分厚いスタンプ帳なので郵送費も高くつきますし。
これが3度目の増山城ですが、すべて4月~5月初旬に訪れています。説明板が新たに建てられていて草もしっかり刈られており、前回8年前に比べてかなり整備の手が入っているなと感じました。大堀切のお出迎えを受け、F郭、馬ノ背ゴ、一ノ丸と進み、眺望を楽しんでから城の中心部へと進んでいきます。
+ 続きを読む
♥ いいね
11人が「いいね」しています。
2026/05/01 04:51
滋賀の名城巡り② (2026/04/24 訪問)
長浜から電車で移動、2城目の彦根城へ。
こちらも2回目の訪問のため天守には登らず、前回見られなかった堀周りをレンタサイクルでぐるりと回ってみた。
いろんな角度から天守を拝むことができ、登り石垣や水堀の様子をじっくり見ることができた!
特にひこにゃんフォトスポットから見る天守や、滋賀大学入口の少し手前から見る西の丸三重櫓はとっても絵になる風景だった。
+ 続きを読む
♥ いいね
10人が「いいね」しています。
2026/05/01 04:18
滋賀の名城巡り① (2026/04/24 訪問)
1日だけの滋賀の名城巡り!ひとつ目は長浜城、2回目の訪問。
今回は時間も限られているので、天守側には行かず前回回れなかった城下町方面を散策。結果的に大正解!
長浜別院大通寺には長浜城の追手門から移築されたという台所門が残っている。また、見上げる高さの二重の山門や伏見城から移築された巨大な本堂など見どころ多し。はっきり言って、模擬天守の長浜城よりこちらの方がおすすめ。
歩いて数分の知善院には、長浜城の搦手門から移築された表門があり、こちらも貴重な現存遺構。
また、武者が敵を迎え撃つために家の間が出っ張りになっている武者隠れ道も面白い。
+ 続きを読む
♥ いいね
11人が「いいね」しています。
2026/04/30 20:18
トクさ~ん、比叡山高校は滋賀県坂本にあるんです
トクさん、大河ドラマで継潤役を演じている「土平ドンペイ」さんの情報をありがとうございます。知らなかった。調べるとなかなかの人物ですね。が、出身と書かれた「京都比叡山高校」は、滋賀県人歴45年(京都府人歴4年)には看過できませぬ。比叡山延暦寺は、京都と滋賀の境界にあるのですが、門前町は滋賀県坂本で、比叡山高校も坂本なんです。念のために、比叡山高校出身の知り合いに確認しました。
ついでですが、坂本城について。本年度の大津市予算に、坂本城保存活用計画策定248万円、史跡指定記念シンポジウム開催235万円が計上されています。計画策定に2年かけて、初年度に248万円とは、なんだかなあ。豊臣兄弟プロモーション等事業には、882万円計上してます。
+ 続きを読む
♥ いいね
11人が「いいね」しています。
2026/04/30 17:28
酒田の近世城郭&ワンタンメン (2026/04/07 訪問)
JR羽越本線・陸羽西線 酒田駅 から徒歩25分ほどで到着
鶴岡の武藤氏(大宝寺氏)が築いた東禅寺城が起源で、江戸時代も庄内藩の支城として存続された平城です。現在は、本丸や二の丸は酒田東高校、三の丸などは宅地となっています。搦手門が酒田市内の円通寺に移築されていますが、今回はスケジュールの兼ね合いで未訪問です。
酒田東高校の校門脇に説明板が設置されています。校門付近に中門という櫓門があったとされていますが、遺構は残念ながら残っていませんでした。
酒田東高校脇にある八幡神社には、二の丸の土塁が残されています。八幡神社は亀ヶ崎城の守護神とされ、境内には亀の像があります。慶長八年(1603)に酒田の湊に亀が這い上がったのを、当時、庄内を領有していた最上義光が喜び、東禅寺城を亀ヶ崎城に改めたとされています。この亀の像は、亀ヶ崎城の名前の由来になった亀を模して奉納したもののようです。
八幡神社の北側に行くと、新井田川に渡る橋のそばに水門があり、そこから東側に水路が延びています。縄張図を見るに、この付近にかつては水汲門・艸苅門と水堀があったようなので、水路は堀の名残かもしれません。
城の南東1.5kmほどの所には、亀ヶ崎城丸之御橋跡の石碑があります。説明板によると、丸之御橋は、城の総曲輪の東側の入口だった橋のようです。鶴岡や出羽松山に向かう要衝の場所となっており、明治天皇巡幸の際も、ここを通って酒田に入ったとされています。
周辺スポットですが、亀ヶ崎城跡から新井田川を渡ると酒田の名所 山居倉庫があります。朝ドラの『おしん』の舞台になった場所として知られ、庄内の米の貯蔵庫として明治二六年(1893)に建てられました。令和四年(2022)まで現役で利用されていたようです。明治から令和まで利用されるって凄すぎです!
夕方の雨上がりの倉庫群はなかなか良い雰囲気でした。
夕食は、亀ヶ崎城から東に15分ほど歩いた所にある「東軒」さんで、酒田の名物 ワンタンメンをいただきました。魚介系のあっさりスープに細麺、つるっとしたワンタンが合わさり大変美味しかったです。個人的には、このお店のチャーシューが絶品で大満足の一杯でした。
+ 続きを読む
♥ いいね
14人が「いいね」しています。
2026/04/30 17:14
現存の大手門と桜 (2026/04/07 訪問)
新庄駅から今年の1月に運転を再開した陸羽西線で余目駅へ移動し、出羽松山城を目指しました。
余目駅から出羽松山城までは徒歩1時間。(途中の庄内橋は道幅が狭く、通行は注意が必要です)
帰りは、雨と風が強くなったため、タクシーを利用しました。
松山歴史公園内に駐車場、トイレが設置されています。公園内に大手門(現存)、馬出の土塁、本丸北側土塁が残り、公園外に十三間堀と呼ばれる水堀が残されています。
大手門は山形県内で唯一の現存の櫓門で、ひと際存在感を放っていました。大手門周辺には桜が植えられ、良いアングルで撮影ができました!!(桜の時期 オススメです!!)
訪問時は、大手門そばの松山文化伝承館は休館中で見学できず無念…
松山城の歴史は、庄内藩 初代藩主酒井忠勝の三男酒井忠恒が遺領を分与されて、庄内藩の支藩として立藩したのが松山藩の始まりとされます。当初は陣屋でしたが、三代藩主 酒井忠休が長年、幕府の若年寄を務めた功績で五千石を加増。さらに城持が幕府から許され、陣屋を城郭に拡張し、出羽松山城が誕生しました。初代の大手門は、寛政二年(1790)に落雷で焼失してしまったようです。その際、酒田の豪商 本間家が大手門の再建を松山藩に出願し、幕府の許可を受け、寛政四年(1792)に再建されたのが、現在も残る大手門とのことです。江戸時代の庄内は、本間家パワーが凄いですね・・・ 松山城にも関わっているとは知らなかったので、驚きました。
+ 続きを読む
♥ いいね
13人が「いいね」しています。
2026/04/30 09:40
2026/04/30 07:48
朝倉氏の最南端防衛拠点 (2026/04/29 訪問)
疋壇城は、海津から西近江路、東は塩津に通ずる塩津街道、敦賀港からの街道、3方向からの道が合流する地点で、また北国と近畿を結ぶ物資運搬の運河も設けられている交通の要衝にある比高20m、標高90mの丘の上にある山城です。また、越前国と北近江の国境付近で朝倉氏の最南端防衛拠点の城でもあります。
朝倉氏の家臣であった疋壇対馬守久保によって築城されたといわれ、朝倉氏が織田信長公に滅ぼされるまでに何度も戦いの舞台として登場しています。
集落の背後の高台約300mの範囲で、曲輪や堀、この地方の中世に築城された山城では、あまり見かけない石垣などが残っています。(城跡一帯は畑の休耕地となっているみたいで、後世で積まれた石垣なのかどうか分かりません。)
駐車場は、ぴーかるさんご推薦の愛発船川の里駐車場を利用させていただきました。駐車場から徒歩5分程で城跡に着きます。
愛発船川の里に昨年の熊目撃情報が掲示してあり、城内での目撃情報があったことから、ちょっとビビりながらの訪問となりました。
+ 続きを読む
♥ いいね
14人が「いいね」しています。
2026/04/30 07:14
日帰り富山ドライブでの攻城⑥ (2026/04/11 訪問)
放生津城からの転戦です。城址碑は太刀城となっていて、その隣に「三ヶ首」「鐘堀」と石碑が並んでいます。どのような由来があるのか、説明板などがあるとありがたいのですが。
+ 続きを読む
♥ いいね
10人が「いいね」しています。
2026/04/29 22:20
練馬城跡というよりはとしまえん跡🎡 (2026/04/29 訪問)
(参考URL)https://www.kacce.co.jp/kacce2406-nerimajo/
城の遺構は全くと言えるほど無し
逆にとしまえん(令和2年に閉園した遊園地)のなら多少あり(洋館にレールや門の一部)🏰🎢
ここは城跡に遊園地を整備した全国でも珍しい場所
御城印はリンクスフォーヘアーという…城址公園の外にある美容室(豊島園駅から400m)で販売💈
「豊嶋景村の築城」「訪城記念」の2種類セットで販売(700円)…練馬城カードも300円で売ってる
+ 続きを読む
♥ いいね
9人が「いいね」しています。
2026/04/29 20:52
宮部継潤と原田信種(高祖城主) (2026/04/29 訪問)
大河ドラマ豊臣兄弟第16話で登場した、私が注目の「宮部継潤」。比叡山の僧でもあった彼が、なぜ浅井の家臣から豊臣の家臣へと寝返ったのか? 今まで知りませんでしたが、姉「智(とも)」の子「万丸(よろずまる=後の豊臣秀次)」を人質に差し出すという約束を守った秀長と、比叡山の子女を助けてくれた秀吉を信頼してそうなったという事が、大河ドラマでは描かれていました(なるほど🤔そうだったのか~)。継潤はこの後、秀吉配下となり鳥取城攻めなどで活躍し、秀吉から因幡の地を与えられたようです。そして彼が最も有名になったのは、以前お伝えした「根白坂の戦い」です。秀長軍の先鋒を任された継潤ですが、島津義弘に夜襲を仕掛けられ大苦戦します。しかし、夜明けまで何とか持ちこたえ、そこで藤堂高虎・黒田官兵衛・小早川隆景らの援軍が到着すると形勢が逆転! この継潤のねばりが、根白坂の戦いの勝利へとつながりました。継潤は後に秀吉より一番手柄と褒め称えられたそうです。そして朝鮮出兵を経て彼は高齢を理由に隠居し、歴史の表舞台からは姿を消して行きます。
福岡の糸島にも継潤ゆかりの地がありました。根白坂の数か月前にあった高祖城の戦いです。島津軍の配下となり岩屋城攻めに加わった「原田信種」を、秀吉は攻めるよう命じます。継潤は小早川隆景1万の軍勢とともに、居城である高祖城を取り囲みます。信種は家臣らの反対を押し切り討ち死にする覚悟で戦をしようとしますが、その信種を継潤は粘り強く説得しました。そして信種はついに降伏し、高祖城を明け渡したそうです。その後の継潤は、豊前に上陸した豊臣秀長と合流し、豊後の大友を助けながら根白坂の戦いへと向かいます。
高祖城があった高祖山(標高416m)山頂には、上の城と下の城があり、曲輪や堀切や石積が残っているそうです(写真②④)。登ってみたかったですが、最近400m級の山は体力的に自信がなくなったので、今回も断念しました(すいません)。伊都国歴史博物館には、わずかですがその原田信種と高祖城の説明がありました(写真⑥⑦)。
私は、麓の怡土城や高祖神社からその高祖山を見上げてみました(写真①)。継潤はどんな思いで、同じくここから高祖山を見上げていたのでしょうか? 原田信種をどうやって説得したらいいのか・・・あれこれ考え思案に暮れていたのではないでしょうか?
あとちなみに余談ですが、ドラマで継潤役を演じている「土平ドンペイ」さんは、京都比叡山高校の出身だそうです😱。
+ 続きを読む
♥ いいね
15人が「いいね」しています。
✕
人が「いいね」しています。