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しんちゃん

城下町 (2013/08/10 訪問)

ちょっと古いのですが一乗谷朝倉氏遺跡の写真です。一乗谷城は山城と麓の朝倉氏居館を中心とした城下町から成り、城下町をこれだけ解りやすく再現した遺跡はなかなか無いと思います。ひょっとして唯一の物ではなかろうか。山上の城には行っていません。
南北に城戸があり、その間の1.7kmの間に商家や町屋、武家屋敷などが整然と並んでいます。織田信長との闘いでこの町全体が炎で包まれたと思うと世の無常を感じます。

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ナギャン

立派な石垣と南部鉄器と石川啄木 盛岡城 (2024/06/14 訪問)

盛岡城は石垣好きにはかなりおススメな御城だ。
本丸西側の曲輪跡の石垣や榊山稲荷曲輪跡の石垣がたまらないくらいかっこいい、ブラブラ歩いていくと石垣見放題で最高だ。
入場料とか拝観料を徴収されずロハで石垣が見られるのはいいね。

盛岡は神社や有名なお寺が多数あるのでお城巡りと一緒に参拝することをお勧めする。
鬼の手形があるお寺だったりパワーストーンとして有名な烏帽子岩がある櫻山神社だったりと見所がいっぱいだ。

あと、盛岡で驚いたのがお味噌や醤油がとてもおいしいこと。
仙台もお味噌がおいしくて有名だがこちらの盛岡もおいしかった。
中津川沿いにお味噌を販売しているお店があるので行ってみる価値ありだ。

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ナギャン

公方様の御城 古河城 (2019/07/30 訪問)

曲輪だったり土塁跡が残る古河城
歴史博物館の近くに長屋門だったり曲輪跡だったりがある。
古河公方様が在所していたということでもっと大きなお屋敷や遺構が残っているのかなと思ったが少しがっかりした。

古河歴史博物館の収蔵物はたくさんあり面白いし、藩主の土井利位様が雪の結晶を研究していたということも初めて知れてよかった。
この土井様は雪の結晶を研究していただけではなく「大塩平八郎の乱」の鎮圧に立ち会ったり老中首座になったりとかなり有能大名様。

歴史博物館からちょっと歩いて渡良瀬川の土手までいくと記念碑か案内板がある。
現在、グーグルマップで検索すると古河城跡はただの原っぱだがそのうち天守でも建ったら面白いなと思った。
バルーンで天守を作ったりしていたので意外と古河市もノリノリかな。

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赤い城

石垣の中の巨岩 (2025/07/20 訪問)

徳島で少し時間があったので徳島城を散歩しました。
見たかったのは南側山麓、線路沿いの石垣です。
石垣の中に巨岩が組み込まれています。

公園の駐車場を利用し数寄屋橋から入城。
この日は時間が限られていたので博物館も庭園もスルーして南側へ。
石垣に沿って歩いていくとありました!
石垣自体も立派なのですが中に巨岩が利用されていて、それを活かしてうまく積まれていました。
これまでは何気に見てたのですが、ニッポン城めぐりの今週の1枚で紹介されていて徳島に行った際には改めてちゃんと見ておこうと思っていました。

もう少し時間があったので折角なので山頂部へ。
西三の丸側から登ります。
こちら側の石垣はやっぱり見応えあります。

朝田さんにお褒め頂いたかるたの読み札、採用されるとい
いな😌

【見どころ】
 ・山上部、本丸周辺の石垣
 ・西三の丸門の枡形
 ・南山麓の巨岩を含んだ石垣

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todo94

北海道&東日本パスで青森の城めぐり③ (2025/08/17 訪問)

目時館からの転戦です。三戸駅が最寄り駅で、赤色立体地図かるたに選ばれている三戸城も三戸駅が最寄り駅なのですが、三戸城から平良ヶ崎館までは5kmも離れています。廃校となっている南部中学校がその故地で、説明板が傾いてしまっていました。もののあわれを感ぜざるを得ません。北側の道路が堀跡のようですが、スルーしてしまいました。ここを最初に築いたのは南部氏とのこと。とりあえず、未投稿物件を一つ、クリアです。

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明智光秀終焉の地 (2025/08/30 訪問)

 近くまで来たので明智光秀終焉の地とされる京都市伏見区小栗栖とその周辺を散策してきました。行ったのは明智藪、胴塚、首塚と伝わる明智塚です。
 明智光秀は本能寺の変の後、中国大返しをしてきた羽柴秀吉に山崎の合戦で敗れ、近江の坂本城へ逃げる途中に小栗栖村で土民の落ち武者狩りに遭い竹槍で襲われ最期を遂げたとされています。襲われた場所とされる明智藪には石碑、説明板などがありました。最近では襲ったのは小栗栖館の飯田一党という説もあるようです。明智藪の説明板には、この説が記載されていました。
 明智光秀胴塚は光秀が討たれたと言われる小栗栖の北に1kmと少し歩いた所にあります。
 首塚は京都市地下鉄東西線の東山駅から徒歩5分くらいの所にありました。

 以前にイオさんが「麒麟がくる紀行」の中で明智光秀の足跡について詳しく投稿されていて、機会があれば自分も明智光秀関連の地を回ってみたいと思っていました。近くまで来たので明智光秀終焉の地付近を歩いてきました。

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寺中広大無辺 (2025/08/30 訪問)

 山科本願寺は蓮如が創建した寺院で中心に寺内町を形成し、周囲を幾重にも土塁と堀で囲まれていました。東西800メートル、南北1キロメートルに及んでいました。公家鷲尾隆康の日記「ニ水記」には「寺中広大無辺、荘厳ただ仏国のごとし」と記されています。ただ土塁を築いたのは蓮如ではなく、9代実如の頃のようです。山科中央公園の土塁を観ると当時の雰囲気を少しは感じることができます。他にも土塁が残っているようですが、場所を確認できていなかったことと暑かったので早々に撤退しました。
 晩年の蓮如は大坂の別院にいましたが、最期は山科に移り明応8年(1499)85歳で亡くなりました。蓮如の遺骨が埋葬された場所には御廟が建てられています。蓮如関連の場所も少し散策しました。

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史跡山科本願寺跡公園 (2025/08/30 訪問)

 久しぶりに山科本願寺跡に行って来ました。以前来た時は山科中央公園の土塁だけしか見ていないので、周囲を散策していました。
史跡山科本願寺跡公園は御本寺の土塁が残り、2021年に史跡公園として整備され発掘された石風呂などの位置が表示されています。

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イタさん

下草が枯れた時季が良い (2025/08/26 訪問)

 説明板には、天川に面した崖の上に造られた城で、室町から戦国時代の城跡である土塁と空堀を巡らしたほぼ方形の形状で、土塁は最大5メートル、虎口は東にあり両脇に石組みが残っている。南辺の土塁中央部が大きく崩されているが、虎口があったとされ、土塁隅には櫓があったと考えられる。空堀の幅は東辺で8メートル、南辺と西辺が15メートル、崖となる北辺は幅の狭い横堀となっている。土塁の西10メートルに「ごんぱち塚」と言う塚がある。
 宝徳2年(1450)に小山城主・穴山伊豆守信懸(ノブトオ)が小石和の武田信重を攻めたとの記録がある。大栄3年(1523)に南部下野守に攻められ落城し、穴山伊予守信永は常楽寺で最期を遂げた。武田氏滅亡・本能寺の変後の甲斐国をめぐる徳川・北条の争乱では、鳥居元忠が騎馬130騎、雑兵600人で守る・・・。と記されている。
 土塁法面、空堀には雑草が生い茂り、土塁の上(南東・南西・北西)に東屋が建つが、腰より高い草で一ヶ所登ったのみ。

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しんちゃん

兼六園 (2013/08/11 訪問)

兼六園は日本三大庭園の一つとです。個人的には一番感銘を受けた庭園は四国の「栗林公園」なのですが、兼六園は三庭園の中でも栗林公園に匹敵する「良さ」があると思います。
とはいえ、いずれも良い庭園です。偕楽園は梅の時期に訪れたいし、岡山の後楽園は稲穂の実る時期に訪れたい。今頃でしょうか?
う~ん・・ムズムズしちゃう。
兼六園の中には辰巳用水の案内板があります。寛永9年(1632)金沢城の堀の水や防火用水として、ここから11km先の犀川上流から引かれました。三代加賀藩主前田利常の命により、土木技師の板屋兵四郎によって工事が行われました。標識には町人と書かれていますが、珠洲郡・鳳至郡にて小代官を務めていたようです。一説には辰巳用水が完成した後に謀殺されたとも・・途中まで良い話だったのに。兼六園は秋や冬も良いですが、夏も草木が生き生きしていて良かったです。

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しんちゃん

ツイた (2025/06/28 訪問)

佐世城は尼子氏の家臣・佐世氏によって築かれました。尼子十旗ではないのですが、8代清宗は12万石を有する、かなり有力な家老であったようです。地元の老人達がゲートボールをやっている公園の裏手の高台が城址であり、比高もそれほど高くありません。
侍屋敷や物見櫓跡を経由して井戸跡の標識のある郭にたどり着きます。この上の郭が頂部で城址の説明や佐世氏の系譜の書かれている案内板がありました。
縄張り図を見ると南西側も城址の様なので、ちょっと覗いてみることに。ゲートボール場からそのまま道が続いていますが、すこし藪化している。東側の城址のある丘と堀切を挟んで向かい合っています。
立入禁止とも書いてないので入って見たら何か踏んだ。フンだ・・しかも柔らかいやつだ。道の真ん中に落ちているし熊のモノだと思った。
実際、この周辺は熊の痕跡が多い。春先からあちこち辺鄙な所を回って、熊が人里のすごく近くにいることを実感していた。案の定、今はあちこちで熊と人とのトラブルが絶えない。熊対策は環境省じゃムリだろ・・
ただ、ここで踏んづけたモノは、ひょっとすると熊以外のモノかもしれない。さっきのゲートボール場で会った爺さんたちの顔が脳裏に浮かんでくる。まさかとは思うが・・野生動物のモノなら仕方が無いで済ますことが出来るが、人のは無理です。
次の日のお城EXPOの武将ガチャでは「桔梗」さんをゲットできた。運がついたのだろうか・・靴を洗わなかったら「ガラシャ」さんをゲットできたのかも。でもやっぱり無理だ・・

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朝田 辰兵衛

🦌がしかもおるなぁ… (2025/06/28 訪問)

上陸してすぐの感想は「🦌がしかもおるなぁ…」ですが,それ以上に訪日インバウンド客の多さにウンザリしました。ところが,宮尾城に向かうのは私ひとりという現実…。世界遺産強し。
猛暑でしたが,雨よりは良かったです。

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イタさん

主郭の土塁・建屋跡などがよく整備されている (2025/08/26 訪問)

 国指定遺跡の館跡で、広範囲が史跡指定範囲になっている。見学したのは主郭部分と東郭のみだったので、範囲内の家臣団屋敷跡、北郭、北西郭に遺構があるのか分からない。西入口のトイレ横の部屋にパンフレットが置いてある。パンフレットに拠れば、15~16世紀に営まれた有力武将の居館跡で、武田信虎の弟・信友が勝沼衆を率いてこの地を拠点としていたと資料がある・・・。館跡の縄張は3期に分けられる事が判明しています。第2期が発展期で、3期では主郭の外堀・外土塁を埋め立て、屋敷を建てるなど防衛機能を失うような改変がなされ・・・。整備の目標は第2期を目標にしている・・・とある。
 主郭の北は果樹畑、東郭の南半分は県立ワインセンターが建っている。主郭の東門跡、東から北に繋がる堀、圧巻の土塁を堪能できる。説明には無いが、主郭の北側土塁の内側に浅いが堀状の凹みと土塁が見られる。郭内は発掘調査結果の建物跡、石組み水路・排水・水溜が整備されている。

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しんちゃん

金閣寺・北山鹿苑禅寺 (2013/09/22 訪問)

金閣寺で有名な北山鹿苑禅寺の寺名は室町幕府三代将軍・足利義満の法号「鹿苑院殿」に由来があるそうです。法号とは仏門に入った者に与えられる名称になりますわ。しかし、義満公にしろ武田信玄にしろ若い時分から、さんざん悪さしておいて、何故に仏門に入るのだろうか?
みなさんプライベートジェットで地獄行きだと思うのだが、本気で極楽に行けると思っていたのかな?
まあ実際に天国・地獄があるなんて誰にもわからん事だし、地獄行きの相場も実際に行った者じゃないと解らない。案外、賄賂をいっぱい渡せば極楽に行けたりして・・極楽に行ってみたら悪い奴ばかりだったりして・・それじゃ今の世と変わらんぞい。
足利義満が京都の「室町」に屋敷を置いたことから足利政権は室町幕府の名称で呼ばれるようになりました。城というよりは御所だったわけですが、義満が開祖として建立した金閣寺は西園寺を改修したものとされ、山荘の規模は御所に匹敵し、政庁の機能を有していたようです。実際にここで義満が政務を司り、院政も行っていた事を考えると、金閣寺も城郭の類であると言えるかもしれません。
ほじくってみると、いろいろ出てくる・・人間はイケズだが京都は奥が深い。

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しんちゃん

岸和田城 (2013/09/08 訪問)

案内板によると建武元年(1334)楠木正成の一族和田氏が、「岸」と呼ばれていた当地に城を築いたのが岸和田城の名の由来と書かれています。また岸和田氏によるものとする説もあるようです。
戦国時代には岸和田細川氏や三好勢の城として使われ、畿内の戦乱によって城主が幾たびも変わりましたが天正11年、羽柴秀吉が根来・雑賀・粉河などの一揆への対応を強化すると翌12年には小牧・長久手の戦の隙を付いて3万の一揆勢力が岸和田・大津を襲い「岸和田合戦」が行われました。天正13年、秀吉は岸和田城に入り貝塚の緒城を落とし、根来攻略の後に小出秀政を岸和田城に入れ、秀政によって城の近世化が行われていったようです。その後も城主は変わって行きますが、寛永17年(1640)に岡部宣勝が入って以来は明治維新まで13代続きました。
文政10年(1827)雷による火災で五層の天守が焼失し、昭和29年(1654)に三層の復興(模擬)天守が鉄筋コンクリートで建てられました。
文政の焼失後に幕府に天守復興願いが出されていて、その時のプランが三層の天守に二層の小天守というものでしたが、結局三層の大天守のみが復興(模擬)での再建となったようです。
岸和田城は何度か訪れていますが、写真は一番古い物になります。

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しんちゃん

和歌山城 (2013/09/08 訪問)

和歌山城は天正13年(1585)に豊臣秀吉の命で弟・秀長が築城し家臣の桑山重晴を城代として置きました。この時には南東部の岡口門を大手門としていました。慶長5年(1600)浅野幸長が入ると、大手を一の橋の門に代えましたが岡口門は引き続き重要な門として使われ続けました。改修を受けたりして、創建時とは形状も異なっていますが空襲でも焼け残った旧藩時代の数少ない貴重な遺構となっています。
土塀には銃眼を石で囲った珍しい狭間が設けられているようです。

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しんちゃん

立花城の端城? (2025/05/10 訪問)

まだ福岡県の城が一つ残っていたので、ここで登録しておきます。はかた自動車教習所の北西の丘陵上が城址で東西のピークに郭があるようです。西の離れた位置にあるピークは出丸か物見か?
まずは東側の郭を訪問してから西側に行きました。おそらく西側が主郭では無いでしょうか。多少藪化が進んでいますが、散策にはそれほど支障は無いです。解りにくいですが、主郭の西側に堀切の跡があり、その先にも郭があるようです。主郭は古墳跡と見られ、南にも尾根上に郭があり、そこにも古墳と城址碑があるようです。どうやら、古代の聖地を城址に転用しているようです。
訪問時には情報が少なく、全部は見切れていません。それほど登城に苦労はしないので再訪する機会があれば行ってみたいんですけどね。

周辺には駐車場は無いけど、近くの公園に車が留めて有ったので、そこを使わせてもらっています。

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しんちゃん

長浜市・豊国神社 (2014/05/17 訪問)

浅井家が滅ぼされた後、湖北が羽柴秀吉の知行地になり長浜城と城下町が築かれました。楽市楽座や地租税の免除で商業も繁栄したようです。慶長3年(1598)太閤秀吉が逝去すると地元の人々によって豊国神社が建てられました。
江戸時代になると太閤の神格化が禁じられ、神社も取り壊されてしまいました。寛政5年(1793)「えびす宮」として建築許可を取り再建し、明治になり晴れて豊国神社に復帰しました。
その経緯で祭神は豊臣秀吉の他に加藤清正・八重事代主えびす宮・木村重成となっています。なぜか木村重成もいる・・ついでに真田親子や大谷さんもいると良かった。
境内には加藤清正由来の「虎石」がちょこんと置かれています。虎石の由来は清正の幼名虎之助になるそうです。すごい幼名だ。

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小城小次郎

鯱の門 (2025/01/26 訪問)

佐賀城は本丸が享保年間に焼け二の丸が天保年間に焼けたことで本丸が再建される。鯱の門はその時のもので天保9年完成だとか。不完全な枡形に見えるのは櫓門に正対する土塁が消滅しているからだそうだ。なるほど。

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しんちゃん

唐人駄場遺跡 (2018/01/05 訪問)

唐人駄場遺跡は土佐清水市から足摺岬に向かう途中の台地上にあります。250を超える花崗岩の巨石は古くから「唐人石」と呼ばれストーンサークルの様な物もあるようです。足摺半島の先端近くの海岸段丘には縄文時代早期から弥生時代にかけての石器や土器のかけらなどが出土し、古代の人々との生活や祭祀との関連も考えられているようです。
現地の案内板には、自然が古代の人々に与えたビルであり、物見とか城塞ではなかったかと書かれています。真偽はともかく、これらの巨石群が見る者の想像を掻き立てるのは間違いないと思います。

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