1574(天正2)年、羽柴秀吉に居城の此隅山城を落とされた山名佑豊によって築かれました。
しかし、1580(天正8)年、再び秀吉の弟秀長に攻められ有子山城は落城した後、城主となった秀長が藤堂高虎に石垣を築かせたとされます。
その後、1604(慶長9)年、城主となった小出吉英が山麓に出石城を築き、有子山城は廃城となりました。
麓の出石城から有子山城への急な登りはキツく、雪・アラレが降ったり止んだりして大変でしたが、疲れを忘れさせてくれる見事な遺構が見られ、見所が多い素晴らしい城でした。
山頂部では、本丸から西側に6段の曲輪がに続き、藤堂高虎の初期作ともされる荒々しい野面積み石垣がよく残されてます。
石垣は本丸北側以外はほぼ全て金網で保護されており見辛いですが、特に第三曲輪の石垣が見応えがあります。北西から南西側にかけて高さがあり角はシノギ積みで、南側へ石垣が長く続いてます。
本丸北側の石垣は金網がなく見事な姿で苔もなく美しいです。
本丸と千畳敷の間の大堀切は圧巻で、これまで山城で見た中で最も大きいかもしれません。
千畳敷は広大な曲輪で、築地塀跡・礎石・石敷・庭園跡と思われる遺構が見られました。
山腹の南側にある帯曲輪には石切場があり、矢穴が残る石が数多く見られます。ここは出石城石垣用の石を切り出された場所と推定されるそうです。
山腹の各尾根は堀切・竪堀で防御されていて、特に東・北西側の堀切・竪堀はダイナミックで見応えがありました。
最後に北西側の尾根から井戸曲輪の下に行くと、見事な 7段の石垣が見られました。
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