さしきじょう

佐敷城

熊本県葦北郡

別名 : 佐敷花岡城
旧国名 : 肥後

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①	追手門
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トク

(2/2)加藤清正が島津への備えとした城 (2025/11/15 訪問)

佐敷城の続き(2/2)、今度はお城の様子です。

豊臣の九州征伐の後の1588年、肥後の北半分(隈本)は加藤清正に、南半分(宇土)と天草は小西行長に与えられます。さらに宇土の南(芦北)は清正に飛地として与えられました。そして家臣の「加藤重次」が清正の命でここ芦北に佐敷城を築城します。清正と行長は犬猿の仲だったので、どちらかと言うとこの時は、行長を背後から牽制するための城だったのではないかと私は推測しています。

しかし清正と重次が朝鮮へ出兵(文禄の役)で留守中の1592年、島津軍の「梅北国兼」は朝鮮へ出兵する船が到着するまでの間、兵2,000をここで待たせてくれと称して油断させて滞在し、だまし討ちで佐敷城を攻めるという事件が起きてしまいます(梅北の乱)。留守居役が何とか守り切ったようですが、清正はこれでだました島津を警戒するようになります。

九州の関ケ原の後、肥後全土を与えられた加藤清正は、1607年重次に命じて佐敷城を大規模に、今度は対島津の城として総石垣の城に改修させました。現在残っている縄張りや石垣は、この時のものと思われます。確かに本丸から南の薩摩に向かって二ノ丸・三ノ丸・南出丸と段々に連郭式に構築され、いかにも南の島津を睨みつけるような縄張りになっています。四方を壁に囲まれた要塞堅固の山頂には、東側の薩摩街道から攻め登ってくる事を想定していたのでしょうか、東側に追手門・二ノ丸東門・本丸東門と三つの桝形虎口が連続して配置され、その下を東出丸と南出丸で固めるという強固な造りとなっていました。しかし結局、関ケ原後の島津は、義弘の件で謹慎中の身となってしまったので、攻めてくる事はありませんでした。追手門には「天下泰平国土安穏」と刻まれた瓦も出土されました。加藤重次は改修しながらも、実は島津との戦を望んでいなかった、関ケ原も終わり、このまま戦もなく日本と肥後と加藤家が安泰となる事を願っていたのでは、という当時の心境が推測されます。

城はわずか8年後の1615年には一国一城令で破却され、天草島原の乱の翌年1638年、後に肥後に入った細川忠利により、再度徹底的に破却されたようです。石垣は1997年に復元され、今では総石垣の1607年当時の雰囲気がよみがえっています。そして確かに石垣の上半分(隅部と天端部)は石が落とされ塀や建物が建てられないようになっているので、そこに少しだけ破却の跡を感じる事ができました。

私は山頂の本丸から、眼下の八代海や薩摩街道を眺めてみました。「加藤と島津、強者どもが夢の跡」という光景が目に浮かんでしまいました。

この先は、ではなぜその加藤家は滅びてしまったのか? 八代城からわいた疑問をもう少し追って行きたいと思います。
 

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トク

(1/2)新八代駅から佐敷城へ (2025/11/15 訪問)

もう一度行きたい城と皆さんがよく言われる佐敷城。私は今回が初めてですが、石垣が見事に残り、加藤の縄張りに思わずうなり、さらに景色はとてもよく、確かに(しんちゃんの言う通り)、続100名城に選ばれてもおかしくないと思いました。しかし公共交通と徒歩では、迷われた方(辰兵衛さん?)などもいらっしゃたようなので、新八代駅から佐敷城まで、まず私の行ったルートから御紹介します。

私は前日に八代城を見学して、夜は新八代駅前の東横インに宿泊(写真⑩)。翌朝は新八代駅(在来線ホーム)から8:47発の肥薩おれんじ鉄道(出水行)に乗りました。何とくまモン列車でした(ラッキー!笑)。単線をカタンコトン、途中からは八代海とその向こうに天草がきれいに見え、くまモンといっしょにのんびりと旅をしている気分に浸りながら40分、佐敷駅へ到着です(写真①②③)。

佐敷駅で改札を出たら(写真④)、すぐ横にある歩道橋から線路の反対側へ渡って下さい。歩道橋の上からは佐敷城が見えてきますよ! いよいよ来たどー!😲と興奮してきます(写真⑤)。そしてそのまま図書館を通ってドームの横をまっすぐ登って行き(写真⑥)、テニスコートの脇から入り(写真⑦)、木戸を自分で開けて(写真⑧)、傾斜のある遊歩道を10分程登ると、佐敷城(三ノ丸下)に到着です(写真⑨)。駅から徒歩だとこれが最短コースです。私のゆっくり足で40分くらいでした(皆さんなら30分くらいかな?)。写真⑨の場所は駐車場になっていて、山の背後からぐるりと回ってここに着く道があり、車で来た先人の方々はその道を利用されているようです。

次は本題の、(2/2)「佐敷城」の様子に続きます。
 

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ヒロケン

総石垣造りの山城 (2024/08/12 訪問)

佐敷城は標高87.3mの花岡山に築かれた総石垣造りの山城です。規模は南北200m、東西100m程の規模で本丸、二の丸、三の丸を階段状に配置した梯郭式構造で、加藤清正公の領地となった1588年~1592年にかけて薩摩国境を守る「境目の城」として、また、熊本城の重要な支城の一つとして飛び領地に築かれ、加藤清正公の家臣、加藤重次公が城代として派遣されています。
この城は、一国一城令で加藤氏が破城していますが、加藤氏の改易後、新しく肥後藩主となった細川氏は加藤氏が行った破城が不十分として再度石垣を取り除いたと幕府に報告しており、二度破城が行われた珍しい城跡です。

1993年~2001年にかけて発掘調査が行われ、1997年から石垣が復元されています。復元された佐敷城はこじんまりとしていて、大きくないものの総石垣造りの姿は素晴らしく、大手門から二の丸東門の枡形虎口は見応えがあります。また、車で山頂付近まで行くことが出来、駐車場から徒歩5分程で搦手門まで行くことが出来ます。

皆さん方の投稿を見て、「行ってみたいお城」NO1のお城でしたが、今回初めて登城することが出来、達成感につつまれており来年、鹿児島県を訪問する際には、是非もう一度行ってみたいと考えています。

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ろっし

お城探訪 (2024/01/01 訪問)

近くまで車で行けます。

修復復元されている場所もありますが見事な石垣が見れます。
景色も良く最高の築城場所だった事が分かります。

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城郭情報

分類・構造 山城
築城主 佐敷氏?
築城年 南北朝時代後期
主な改修者 加藤清正
主な城主 佐敷氏、相良氏、宮原景種(島津氏家臣)、加藤重次(加藤氏家臣)
廃城年 元和元年(1615)
遺構 曲輪、石垣
指定文化財 国史跡(佐敷城跡)
再建造物 石碑、説明板、石垣
住所 熊本県葦北郡芦北町佐敷
問い合わせ先 芦北町教育委員会生涯学習課
問い合わせ先電話番号 0966-87-1171