佐敷城の続き(2/2)、今度はお城の様子です。
豊臣の九州征伐の後の1588年、肥後の北半分(隈本)は加藤清正に、南半分(宇土)と天草は小西行長に与えられます。さらに宇土の南(芦北)は清正に飛地として与えられました。そして家臣の「加藤重次」が清正の命でここ芦北に佐敷城を築城します。清正と行長は犬猿の仲だったので、どちらかと言うとこの時は、行長を背後から牽制するための城だったのではないかと私は推測しています。
しかし清正と重次が朝鮮へ出兵(文禄の役)で留守中の1592年、島津軍の「梅北国兼」は朝鮮へ出兵する船が到着するまでの間、兵2,000をここで待たせてくれと称して油断させて滞在し、だまし討ちで佐敷城を攻めるという事件が起きてしまいます(梅北の乱)。留守居役が何とか守り切ったようですが、清正はこれでだました島津を警戒するようになります。
九州の関ケ原の後、肥後全土を与えられた加藤清正は、1607年重次に命じて佐敷城を大規模に、今度は対島津の城として総石垣の城に改修させました。現在残っている縄張りや石垣は、この時のものと思われます。確かに本丸から南の薩摩に向かって二ノ丸・三ノ丸・南出丸と段々に連郭式に構築され、いかにも南の島津を睨みつけるような縄張りになっています。四方を壁に囲まれた要塞堅固の山頂には、東側の薩摩街道から攻め登ってくる事を想定していたのでしょうか、東側に追手門・二ノ丸東門・本丸東門と三つの桝形虎口が連続して配置され、その下を東出丸と南出丸で固めるという強固な造りとなっていました。しかし結局、関ケ原後の島津は、義弘の件で謹慎中の身となってしまったので、攻めてくる事はありませんでした。追手門には「天下泰平国土安穏」と刻まれた瓦も出土されました。加藤重次は改修しながらも、実は島津との戦を望んでいなかった、関ケ原も終わり、このまま戦もなく日本と肥後と加藤家が安泰となる事を願っていたのでは、という当時の心境が推測されます。
城はわずか8年後の1615年には一国一城令で破却され、天草島原の乱の翌年1638年、後に肥後に入った細川忠利により、再度徹底的に破却されたようです。石垣は1997年に復元され、今では総石垣の1607年当時の雰囲気がよみがえっています。そして確かに石垣の上半分(隅部と天端部)は石が落とされ塀や建物が建てられないようになっているので、そこに少しだけ破却の跡を感じる事ができました。
私は山頂の本丸から、眼下の八代海や薩摩街道を眺めてみました。「加藤と島津、強者どもが夢の跡」という光景が目に浮かんでしまいました。
この先は、ではなぜその加藤家は滅びてしまったのか? 八代城からわいた疑問をもう少し追って行きたいと思います。
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