大友宗麟の生涯を追ってみました。その様子を13回くらいのまたマイペースで、これから投稿させて頂こうと思います。もし御興味あれば、またよろしくお願いします。
大友宗麟と言えば、戦にとても強い戦国大名だというイメージを持たれている方が多いと思います。しかし実は、本当は戦を好まず、平和な争いのないキリスト教の理想郷を追い求めた、そういう別の素顔も持っていた人物だという事は、意外と知られていないのではないでしょうか?
大友館から南へ1kmほどの、大分市街が見渡せる丘の一角に、ひっそりと残る石碑があります。ここにはかつて、大友家の別宅「上原館」(うえのはるやかた)がありました。実はこの場所で1550年に起きた「二階崩れの変」が、当時まだ20才だった大友義鎮(後の宗麟)にとって大きな心の傷となり、それが原因で彼はキリスト教に没頭するようになったのです。
【二階崩れの変】とは
大友義鎮には二人の弟がいました。次男は「晴英」(後に大内家へ養子に入り、陶晴賢に討たれた大内家最後の当主「大内義長」)、三男は「塩市丸」(後妻の子)でした。義鎮の母は幼い時に亡くなります。後妻として入った継母は、塩市丸とともにこの上原館に住み、父の第20代当主「大友義鑑」は、毎晩大友館から上原館に通っていたそうです。そしてだんだんと前妻の子である義鎮を嫌うようになり、塩市丸の方を溺愛し跡取りにしようと考えるようになりました。それにより家臣も義鎮派と塩市丸派の二つに割れてしまい、武力抗争にまで発展してしまいます。そこで重臣の戸次鑑連(後の立花道雪)の一派は、義鎮は関わらぬよう別府の浜脇館で湯治をするように勧め、その間の深夜に上原館を襲撃! 二階で寝ていた当主の義鑑と継母と塩市丸の三人を、何と惨殺してしまいまいました。これが「二階崩れの変」です。そしてその翌日には義鎮(後の宗麟)が、第21代当主の座に据えられたのでした。
次は、その義鎮(宗麟)が湯治をしていたという「浜脇館」(宗麟隠し湯)に行ってみたいと思います。
+ 続きを読む










