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翡翠

津和野城 (2023/10/15 訪問)

太皷谷稲成神社近くにリフトに乗る駐車場があります。景色がとても良かったです。金土日祝とライトアップしてるみたいです。帰りには竹風軒の源氏巻を買って帰ります。

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ぴーかる

城林城 (2025/03/22 訪問)

【城林城】
<駐車場他>駐車場はなし。軽か小型車の小さいのなら城跡の主郭まで行ってもいいかも。または途中の<32.983153, 130.829280>少し広くなった場所に停める。車1台分のスペースなので注意です。
<交通手段>車

<感想>2泊3日西九州旅3日目13城目。菊池市の公式サイトによると城林城は止林城とも呼ばれ菊池十八外城の1つです。菊池武光から朱槍を許された城武顕によって築城されたとあるので、南北朝時代あたりに築城されたかもしれません。戦国時代には阿蘇家の家臣甲斐宋運が城主となったとも伝えられています。現在もこの地区には城姓の方が多く残っているそうです。
 現地は上記にあるように、主郭まで車で行けない事はないです。下段の曲輪群は大きく果樹園・畑・公園なのかよく分からない感じになっています。主郭の背後は空堀・堀切からの竪堀の遺構がよく残っていますが、竹藪化して散策できるようにはなっていませんでしたので上から覗き見るのみでした。

<満足度>◆◇◇

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とらちゃん

アジサイと花菖蒲まつりが開催中 (2025/05/31 訪問)

5月31日から6月15日までアジサイと花菖蒲まつりが開催中です。
見頃は6月7、8日ごろでしょうか?
ぜひ、見にいらしてください。

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カズサン

洲本城-5/9 西の丸と南の丸編 (2025/05/15 訪問)

 洲本城-4/9 本丸Ⅱ内部と周辺高石垣編の続です。

 本丸、天守台、模擬天守と終わったので、家内を本丸の喫茶店でゆっくり休んでもらい、西の丸の探訪へ出かけました、搦手口から天守台西下郭の修復石垣を確認して西の登石垣は?と踏み込んでみましたが上からの西の登り石垣を確認する事は出来ませんでした。
 籾蔵跡、西門跡石垣虎口、西の丸への長い尾根道リフレットの縄張図には200m程と有りましたが、樹間の尾根道は長く感じました、やっと階段を登って、残念石へ、矢穴の痕跡の有る大石が一基残って居ます、西の丸へ入り広いが内部は植栽が大きく成り見晴らしが悪い、東屋も有るが痛んできている、周囲の城塁石垣を確認するが樹木に覆われて入り込めず入口の南側石垣塁を樹間越しに確認。
 来た道を戻て南の丸へ南の丸は行きと帰りに確認、南の丸は先に大手周り編で投稿した南の丸南東角の拡張石垣が見所です、南の丸は東の郭と西に一段上がった西の郭が有り西の郭は三熊梅園と成って居る。

 洲本城-6/9 武者溜編に続く。
 

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カズサン

洲本城-4/9 本丸Ⅱ内部と周辺高石垣編 (2025/05/15 訪問)

 洲本城-3/9 本丸Ⅰ大手虎口と搦手虎口編の続です。

 本丸を大石段を登る前、内部に入り本丸内、天守台郭、新しく出来ていた休憩所喫茶店で洲本城のリフレットを入手し、大天守台、小天守台、連結多聞櫓台のに登り、模擬天守と洲本市街、瀬戸内紀伊水道側の海を眺めて絶景にしたった後、本丸高石垣を下から眺める。
 良くも三熊山頂部に大石垣城郭城塁を築いてものです。立入禁止も有り西の登り石垣を上から眺める事と確認はできませんでした。15年前の登城では西の登り石垣を麓から攻めて数櫓台の登り石垣遺構を見る事が出来ました。
 流石洲本城、三熊山ドライブウェイが西、東からつながり車でた易く登る事が出来大勢の人が見えていました。
 
 洲本城-5/9 西の丸と南の丸編に続く。
 

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カズサン

洲本城-3/9 本丸Ⅰ大手虎口と搦手虎口編 (2025/05/15 訪問)

 洲本城-2/9 天守台辺り編の続です。

 存在感のある本丸大石段、洲本城の見所の一つ、3回目の見学観察ですが圧巻の大石階段です、下から眺めて、登って上から眺め、大手枡形虎口へここも厳重な枡形門が在ったのでしょう、南、西には石垣塁、雁木が有り上は武者走り、北側には天守郭台、東は開けて本丸東下郭で御殿が有った様、西の天守台下に枡形搦手虎口と流石賤ヶ岳七本槍の一人脇坂安治の織豊系城郭です、しかし淡路3万石で良くここまでの城郭が築けたものです、淡路には賤ケ岳七本槍が志知城の加藤嘉明と二人おり、淡路水軍、豊臣政権の活躍を支えました。
 
 洲本城-4/9 本丸Ⅱ内部と周辺高石垣編に続く。
  

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todo94

ゴールデンウイーク後半・因幡の城めぐり② (2025/05/04 訪問)

会下城からの転戦です。海に面したかなり急峻な山城です。砂浜伝いに城にアプローチすると、城の看板が見えました。その看板の建っている展望所の先は尾根伝いに山頂まで雛壇のように郭が連なり、但馬八木城の土城に通じる佇まいに見えました。この日に攻城した城はすべて事前に「城びと」の投稿に目を通していませんでした。先達の皆さんが触れられているはしごで降りていく井戸、見ておきたかったなあ。ここも再訪するしかありませんね。ただ、この日は天気に恵まれましたので、途中の展望所や山頂の主郭からの素晴らしい眺望を楽しむことができてラッキーでした。

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ACRO

20250529小倉城 (2025/05/29 訪問)

短時間しか滞在できませんでしたが、登城。
御城印が豊富で驚きました。
残念ながらライトアップは見られませんでしたが、
機会があれば見てみたいところです。

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ACRO

20250528熊本城 (2025/05/28 訪問)

天候も良く、めぐり日和でした。
スタンプも無事押せました。

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カズサン

洲本城-2/9 天守台辺り編 (2025/05/15 訪問)

 洲本城-1/9 大手周り編の続です。

 本丸大石段を登って本丸内部へ、昭和4年に日本初の模擬天守が建てられて今年は96年目、本丸より、小天守台横の石段を登って大天守台、小天守台、続き多聞櫓台より模擬天守を眺める、眺めは素晴らしい、西登石垣は?と覗き込むが良く分からない、15年前は模擬天守に登れたのですが梯子階段は取り払われて登れなくなっている。
 リフレットに洲本城の復元図が掲載されていましたが、三層大天守、二層小天守櫓付、連結多門櫓の連結式天守が見事に描かれて居ます。リフレットは本丸の休憩所喫茶店で頂きました。
 下の城からも模擬天守が眺められました。

 洲本城-3/9 本丸大手虎口と搦手虎口編に続く。
   

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カズサン

洲本城-1/9 大手周り編 (2025/05/15 訪問)

 南あわじ市の叶堂城、志知城、養宜館を初探訪の後、ここまで来ましたので3度目の洲本城探訪、樹木伐採されて東登石垣が良く見えるようになった写真が城びとに投稿されて居ましたので是非見たいと寄りました、前回は15年前の平成22年3月でした。

 駐車場:洲本城馬屋月見台前の駐車場利用
 参考資料:洲本城縄張図リフレット、グーグルマップに依る。

 洲本城大手門跡を通って駐車場の馬屋跡の手前に駐めて、馬屋月見台で俯瞰する、大手門跡の虎口石垣、日月池の高石垣、東の丸南郭の樹木が伐採されて石垣城塁法面が良く観察できる、見易くなりました。南の丸に向かって大手道を登る、南の丸拡張石垣の境界線がよく観察できます、大手路内虎口石垣を潜り本丸へ、日月池を上から見下ろす。
 石垣が素晴らしく残って居り、修復されて見栄えのする高石垣です。

 洲本城-2/9 天守台辺り編に続く。
  

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イオ

カメラ派? スマホ派? 明日はスマホ派で

明日は日帰りで金龍紀行(小牧長久手の戦い)に行ってきます。カメラは修理中のため一日スマホ撮影です。カメラを忘れてやむなく…は以前にもありましたが、最初から承知でというのは初めてなので、ちょっと緊張しています(笑) でも、陣跡めぐりではどうせそんな大した写真は撮れないし、スマホ撮影に慣れておくにはちょうどいい機会かな、とも。

> シェルさん

なるほど、やはりみなさん「スマホ熱中症」には悩まされていて、それぞれに対策も考えておられるんですね。夏場は車のエアコン吹き出し口に付けたスマホホルダーで冷却していますが、あまり急速に冷やすのも結露の問題があるようで、そうなるとシェルさんのようにカメラとスマホの使い分け、または予備スマホ(乗換前の機種とか)持参が間違いなさそうですね。
 

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翡翠

明石城 (2025/02/16 訪問)

駅をおりてすぐなんですね。こんなに近くだと思いませんでした。櫓の中は公開されてなかったですが、良かったです。

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ぴーかる

隈府城 (2025/03/22 訪問)

【隈府城】
<駐車場他>菊池神社駐車場
<交通手段>車

<感想>2泊3日西九州旅3日目12城目。隈府城は菊池城とも呼ばれ、菊池十八外城の1つです。正平年間(1346~1370年)に菊池武政によって築城され、菊池氏の本拠地となっていました。菊池氏は戦国時代に内紛を繰り返し次第に衰退し、菊池城は菊池三家老の一人赤星氏が城主となり、1578年に対立していた菊池三家老の隈部親永に城を奪われます。秀吉の九州平定後は佐々成政の傘下に入りますが、隈部親永は肥後国人一揆の中心人物となります。隈府城は反乱後に破却されました。
 現地は明治に菊池神社が建立され主郭場所は社殿があります。駐車場の背後に大きい空堀が残っています。歴史館がありますが5時過ぎていたために終わっていました。

<満足度>◆◇◇

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todo94

ゴールデンウイーク後半・因幡の城めぐり① (2025/05/04 訪問)

伯耆河口城からの転戦です。東伯郡湯梨浜町から鳥取市に入りますので、ここからは因幡国の城攻めとなります。結構歩きでのある山城に見受けられたので心して登城しました。獣除けフェンスをあけて登城路に踏み込むと、しばらくはなかなかの急坂登ですが、その先の尾根伝いの登城路はさほど急峻ではなく、順調に主郭にたどり着くことができました。主郭後背の土塁と二重堀切の先に進んで山頂も極めることができました。

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天守無しがアツい

古河歴史博物館 (2025/05/30 訪問)

お休み処坂長にて御城印・(古河宿の)御宿場印・足利成氏の武将印を購入

(お休み処坂長 HP)http://sakacho.com/

それから古河歴史博物館へ…江戸時代には宇都宮城と共に、将軍が日光まで参拝する際の重要拠点…臨時的な幕府という意味合いもあったらしい

けれど現在は…城の遺構はほとんど残っておらず…古河歴史博物館の諏訪曲輪跡くらいしか…痕跡がない

博物館ではストリートオルガンが唯一の撮影OK
中で鷹見泉石の生涯ならびに肖像画(西洋画法で割と有名)を見学

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天守無しがアツい

清明台 (2025/05/11 訪問)

宇都宮城本丸の土塁北西部にあった櫓で、江戸時代の絵図には二階建て瓦葺きで描かれており、広さ三間(5.9m)×三間半(6.9m)と記録されています。清明台のあった部分の土塁は、ほかの部分よりも高く、天守閣の役割を果たしていたのではないかと言われています

清明台の案内文(1枚目) 富士見櫓の見学後にここも見学。宇都宮城址公園に天守閣は存在しないのですが、遠くから見ると…この櫓がそれっぽく見えるかもと言えばそうなので(2枚目)…「天守閣の役割を果たしていたのではないか」と言われると…そうかもしれない🏯

城址公園は橋を渡って外に出てみると…水堀に囲まれた造りになっている事が分かる…水堀の外から清明台を見てみると(2枚目)天守のように見える…かつ高い土塁の上にあるため、堅固な守りをしているようにも見えますね

城址公園は中庭が清明館ならびに芝生となっており、そこでサッカーをして遊ぶ若者がこの日もいたのですが⚽️富士見櫓と清明台は高い土塁の上にあり、階段もしくはエレベーターで移動する形になってました。行きは階段で、帰りはエレベーターで行き来した私🛗

清明台の中(3枚目)…富士見櫓と同様…ここも2階は非公開…階段自体が封鎖されていました。ここには(富士見櫓と違って)櫓の模型もなく…学校の教室程度の広さの空間があるだけ

そしてここでも…やりました腕立て伏せ😁富士見櫓で20回…体力も回復したのでもうワンセット💪20回×2→40回この日取り組んだ自分。家でやる時と回数は変わらないのに…一回一回の腕への負担が違うせいか…質の濃い筋トレが出来たかなと思えました✌️

家に帰ってからでも出来るっちゃできる…けれど何でしょうね?外でやる腕立て伏せは格別みたいな…この感覚…宇都宮城に昔いたであろう先人達の御加護を私は受けているのでしょうか?

サッカーしたり腕立て伏せしたり…今はすっかり平和なムードの…ここ宇都宮城⚽️💪⛲️しかし戊辰戦争において…この城は激戦地となった過去があるのを貴方はご存知でしょうか?

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E9%83%BD%E5%AE%AE%E5%9F%8E%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

詳細は↑のWikipediaをチェックしてください。要点だけ紹介すると…
・慶應四年(1868年)の宇都宮城の戦いにおいて、城の建物は(二の丸御殿や三の丸の武家屋敷など)ほぼ全て焼失
・旧幕府軍と新政府軍の戦いは2度おこなわれ…初戦は幕府軍の勝利。政府軍の方が軍備は最新式というイメージあるが、この時は幕府軍の方が(フランス製の)最新式兵器を備えており、政府軍の方が旧式で脆弱だった
・政府軍は一度城を明け渡し撤退…20000の味方と合流してから2戦目がおこなわれた⚔️🔫💣幕府軍の兵数は2000…数の暴力もあり次第に劣勢になる幕府軍
・首の無い死体が幾つも転がる…城だけでなく二荒山神社など周辺の建物も多くが焼失するカオスな状況…そんな中、幕府軍の1人が敵前逃亡を図るも、新撰組鬼の副長に斬り捨てられる💀
・逃げようとする者は斬る…という恐怖で戦線を維持しようとする新撰組副長ならびに幕軍首脳。しかし戦局の波には逆らえず…宇都宮からの撤退を決意。以後…会津→函館と(幕軍は)北へ転戦するわけである

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しんちゃん

肝付氏の意地 (2025/05/08 訪問)

加瀬田城は標高200m・比高50mの位地に築かれた山城です。輝北高原の中心、火山灰層が100m以上も堆積した所を川によって浸食され今の形状になっています。東にはこの地形を造りだしたとみられる堂篭川が流れ、城址南東は急斜面となっています。北側はシラスの絶壁とされ自然の要塞となっていて、山城と言うよりは平山城に近い形態です。
詳細は不詳と言えど、肝付氏によって築かれたと見られます。延元元年(1336)4月、足利尊氏の命で北朝方の島津貞久が肝付兼重の甥・肝付彦太郎兼隆の籠る平房城(加瀬田城)を攻めています。6月に落城するものの、城主兼隆は死亡と見せかけ生き延び、後に平房を奪還したとの事です。肝付氏衰退の後には島津の城となりますが、城址からは戦闘民族島津人に抗った肝付氏の意地を感じます。

中央に谷があり西と東に城址が分かれているようです。東の方が散策しやすいようなので城址東側を散策(西側はヤブ)。こちら側は良く整備されていて歩きやすい。個人的にこの城は好きです。
最上部が一郭で主郭と見られます。下に二郭、三郭と檀状に続き、腰郭も付いていて、途中には土塁も残っています。一郭は二段構造になっていて、西に土塁が残り祠が立っています。じっと見ていると、祠が何か言いたそうにしているようにも見えます。
「島津だけじゃないんだよ」   ・・肝に銘じます。

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しんちゃん

島津家久・豊久 (2025/05/06 訪問)

佐土原城は建武年間(1334~1338)に伊東氏の一族である田島氏によって築かれたとされています。応永34年(1427)伊東祐賀が入り佐土原氏を名乗ったとされ、後に伊東48城の一つとなります。天文5年(1536)に焼失するも、新たに鶴松城として再建され、島津氏によって伊東氏が豊後国に追いやられると、伊東家久が入りました。「ドリフターズ」で有名な島津豊久は家久の息子で、天正15年(1587)豊臣秀吉の九州平定の直後に家久が急死すると、後を継いで城主となっています。
この日は朝から雨ですが、佐土原城は傘をさしながらでも訪問できました。最もこのあと、ヤブきつめの那珂城や田野城を攻略しているのですが・・。宮崎市佐土原歴史資料館 鶴松館の裏より大手道が城山まで続いており、本丸までたどり着くことが出来ます。残念ながら台風被害の影響で南の城、松尾ノ丸は立入禁止になっています。本丸の入り口は枡形と記載があり、土塁も残っています。北側に天守台跡とされる場所があり、そこから東屋のある郭を経由して麓に降りてきました。
個人的には豊久がモンタージュ顔のままなので、オリジナル顔になるといいなと思っています。

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ぴーかる

打越城 (2025/03/22 訪問)

【打越城】
<駐車場他>駐車場はなし。道路脇<32.961123,130.740372>に停車していきました。
<交通手段>車

<感想>2泊3日西九州旅3日目11城目。現地説明板によると打越城は菊池十八外城の1つで菊池氏氏族である林原与三隆益の一族が防備にあたりました。1379年九州探題の今川了俊との戦い板井原の戦いで陥落しました。
 現地は小高い丘の上に城跡碑と説明板がありますが、周辺は竹藪が酷くてどうにも中に入れませんでしたので退散しました。

<満足度>◆◇◇

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