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昌官忠

(東海&関西)遠征6日目:大溝城 (2025/05/20 訪問)

打下城から自転車で5分くらいで、大溝城入口付近(35.293450、136.012477)に着きました。

1572年(元亀3年)織田信長が高島郡に進攻すると、1579年(天正7年)織田信澄(津田信澄)が高島郡を領し、明智光秀の縄張りで大溝城が築かれました。
1582年(天正10年)本能寺の変で信澄は明智光秀の娘を正室にしていたことから、大坂で殺害されてしまいます。
信澄の後には、丹羽長秀・加藤光泰・生駒親正・京極高次と目まぐるしく城主が替わりますが、京極高次が近江八幡へ転封となった後は無城主となったそうです。
1619年(元和5年)分部光信が伊勢国上野より20,000石で入封しましたが、元和の一国一城令の対象となり、三の丸を残して大溝城を破壊しました。
分部氏は三の丸に陣屋を構え、11代続き明治維新を迎えました。

天正前期と思われる野面積みの天守台が、崩れつつもしっかり残っています。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=大溝陣屋(城びと未登録 滋賀県高島市)に自転車で向かいました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征6日目:打下城 (2025/05/20 訪問)

事前に、びわ湖高島観光協会でレンタサイクルを予約していたので、JR近江高島駅構内観光案内所に向かいました。
JR近江高島駅構内観光案内所でレンタルできる自転車は普通車のみ(電動はありません)です。
5月15日の豊橋での悪夢が脳裏をかすめます。(城跡間に登坂があると恐怖です。移動時間が計画より多くなりそうです)
JR近江高島駅構内観光案内所から、自転車で2~3分くらいで、打下城跡登山口標識付近(35.291998、136.006763)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、永禄年間(1558年〜1570年)に林與次郎左衛門員清によって築かれたと云われています。

永禄年間(1558年〜1570年)頃は小谷城主浅井氏に従っていました。
1570年(元亀元年)浅井長政が織田信長を離反した後、1572年(元亀3年)織田信長が朝倉・浅井軍を追い込むと、打下城主の林員清は信長に降伏しました。
1575年(天正3年)林員清は越前国北之庄にて信長によって切腹を命ぜられたそうです。
その後は磯野員昌の養子となっていた織田信長の甥信澄が、1578年(天正6年)信澄が大溝城を築くまで居城としていたと云われています。

獣害防止柵を開け砂防ダムを越え川沿いを進みますが、滑落の危険があると感じた細い道が数ヶ所あるので気を付けて進みます。(自分は少し高所恐怖症気味です)
曲輪、堀切、土塁、石積、虎口などは確認できましたが、説明板はみていません。(先人の方の写真ではあったはずですが・・)
攻城時間は95分くらいでした。次の攻城先=大溝城に自転車で向かいました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征6日目:坂本城 (2025/05/20 訪問)

ホテル最寄りのびわ湖浜大津駅から電車で松ノ馬場駅に着きました。
松ノ馬場駅から徒歩15分ちょっとで、本丸跡石垣付近(35.059633、135.879786)に着き、その後、坂本城址公園の光秀像付近(35.058450、135.878787)に向かいました。

坂本城は今回2回目の攻城です。1回目は2019年9月2日に来ました。
前回は坂本城の移築門(西教寺総門)を中心に攻城しましたので、今回は本丸跡石垣を目的に攻城しました。

坂本城址公園の北側に「坂本城本丸跡」の石碑が立っています。
この本丸跡にある施設の湖側に本丸石垣が残っていますが、琵琶湖が渇水で水位が下がったときにしか見ることができません。
自分はみることができませんでした。
電車の時間が迫っていたので早めに撤退し、攻城時間は15分くらいでした。
次の攻城先=打下城を攻城する為、比叡山坂本駅から電車でに近江高島駅に向かいました。
比叡山坂本駅から近江高島駅に向かうJR湖西線が、京都方面の駅で線路に人が進入した影響で、20分遅れでした。(事前にわかっていたら、ゆっくり坂本城が見学できたのについてません)

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昌官忠

(東海&関西)遠征6日目:大津宿本陣跡 (2025/05/20 訪問)

宿泊先のホテルの朝食前に、大津城と大津宿本陣跡を攻城しました。
大津城から徒歩5分くらいで、大津宿本陣跡(35.005970、135.861474)に着きました。

旧東海道(県道558号)の一画に石碑や説明板などがあります。
攻城時間は5分(移動時間含む)くらいでした。次の攻城先=坂本城を攻城する前に、ホテルに戻り朝食を食べます。

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昌官忠

(東海&関西)遠征6日目:大津城 (2025/05/20 訪問)

宿泊先のホテルの朝食前に、大津城と大津宿本陣跡を攻城しました。
ホテルから徒歩10分くらいで、三の丸尾花川口跡(35.013686、135.859864)に着き、その後、大津城石碑前(35.012052、135.864251)➡外堀石垣跡前(35.008491、135.863579)の順番に巡りました。

大津城は今回2回目の攻城です。1回目は2019年9月2日に来ました。
前回は大津城の石碑のみの攻城でしたので、今回は遺構である外堀石垣跡を目的に攻城しました。

遺構はほとんど残っていませんが、大津祭曳山展示館の裏手に外堀の石垣がわずかに残っています。近くに寺田屋お登勢の実家・升屋跡もありました。
また駅の歩道橋を琵琶湖側に降りたところに大津城跡の石碑があります。
攻城時間は25分(移動時間含む)くらいでした。次の攻城先=大津宿本陣跡に徒歩で向かいました。

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朝田 辰兵衛

曇り予報で油断していたらにわか雨が… (2025/06/14 訪問)

岩手県はこの日,一日中曇りの天気予報で安心しきっていました。ところが登城開始直前からにわか雨に見舞われ…。登城口の鳥居の前は獣除けフェンスが張られており,上中下の3点の針金をほどいて突入します。登城終了時に現状復帰するのが大変でした…。
ここがこれまで未投稿だった理由はもうひとつ。そもそも登城口までたどり着けなかったことではないかと思います。岩手県道160号線の「遠野ふるさと村」を北上すると「火渡の石碑群」が左手(西側)に見えてきます。さらに約200m北上すると右手(東側)の集落入口が見えてきます。ここを曲がります。突き当たって左手(北側)に鳥居が見えます。ここが登城口。
火渡館ですが,雨天時や雨上がりはかなりスリッピーなので慎重に。見どころは主郭背後の三重堀切と登城道右手(東側)の空堀。とくに主郭背後はキレイに遺構が残っています。

これで岩手県の未投稿城は大迫城のみとなりました(不発弾がなければ…)。昨日から降り続いた雨で,足元はぬかるみ,モヤが立ち込めており,条件の悪さを感じました。さらに,花巻市街地に出没したクマが山間部へと逃げ込んだとニュースになっており,本日トライする予定でしたが断念しました。どなたかおいしいところを持って行ってもかまいません。すでに晴天予報の次週のホテルは満室でしたので…。

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にのまる

春の18きっぷ初日③ (2025/03/22 訪問)

岩国城見学を終え、東へコマを進めます。
次に行くのは亀居城。みなさまのご投稿を読み、【行ってみたい♡チェック】していました。

亀居城は山陽本線で大竹と玖波のちょうど真ん中あたりなので、岩国→(電車)→大竹→(徒歩)→亀居城→(徒歩)→玖波と移動することにしました。

亀居公園“詩の坂道”から入城しました。上り坂ですが、そこまでキツくないです。
亀の形に似ていることから亀居城と呼ばれるようになったという謂れがあるそうですが、郭の数も多く形も複雑で、ぱっと見ではとても覚えられません。迷路を探検しているみたいでした。何度も同じところを行ったり来たりして何とか全ての郭をまわりました。捨の丸や名古屋丸の雰囲気がすてきでした。刻印石もたくさんあってそれらを見るのもおもしろかったです。

帰りは東側の出口から出て予定どおり玖波へ徒歩で向かいました。
列車のダイヤが乱れていましたが、この日最後のお城へ向かいます。

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ぎりょう

北上・花巻市訪問② 花巻城現存遺構 円城寺門に感動! (2025/06/08 訪問)

所属する古文書の会移動研修、北上・花巻市探訪の二城目は花巻城。今回は和賀・稗貫氏の中世城館の探訪と考えていましたが、現在目にできる「花巻城跡」は、奥羽仕置後に浅野氏が稗貫氏時代の縄張りを改修、南部領となり郡代の北秀愛やその父信愛、南部利直の子政直によって更なる改修が行われた姿です。北から本丸、二ノ丸、三ノ丸を南に向けて梯郭式に配置し、切岸、土塁、水堀によって守る構造はまさに近世城郭の姿です。南部・伊達藩境に位置した花巻城はまさに南部氏の仙台伊達氏を意識した姿と感じます。
見学は三ノ丸大手門跡(花巻市役所本庁舎前)から、円城寺山門(かつての二子城追手門を移築)へ、さらに二ノ丸から本丸へと徒歩にて移動。ここでも地元のNさん、Iさんが同行してくださり、場所ごとに詳細な説明をしていただきました。今回の移動研修も会員の半数に近い三十数名が参加、大型バスでの移動となりました。花巻城跡近辺にバスの駐車場がなく、花巻市観光課の計らいで、城跡に近い民間施設の駐車場を手配していただきました。本当に毎度地元の皆様のご親切には頭が下がります。
城跡の詳細はかつて投稿済なので省略しますが、本丸の土塁、堀、舛形虎口跡、櫓台、馬出などの遺構は残っていますが、二ノ丸、三ノ丸はすっかり市街地化されています。しかし遺構の残る場所ごとに説明看板が設置されており、花巻市の観光政策にも感心した次第。
また、花巻市博物館には花巻城の復元模型や関連資料が展示されています。ぜひこちらも訪問したい場所ですね。

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しんちゃん

赤松ファミリー (2025/04/07 訪問)

感状山城は鎌倉時代に瓜生左衛門尉によって築かれたとされています。南北朝の時代には播磨国守護・赤松氏一門の居城となり、赤松円心は足利尊氏の側につきました。尊氏が九州へ落ちのびた後、建武3年(1336)に新田義貞の大軍が播磨に侵攻してきます。
円心は白旗城に籠り、感状山城には円心の三男の赤松則祐が籠りました。則祐は義貞の家臣・徳力秀隆を退けることに成功し、尊氏から感状を賜ったことから感状山城の名が付いたとされています。
「羅漢の里」の近くに専用の駐車場があり、登城道も付いています。途中に「へたれガンダム」系の木造のオブジェが数体あり、訪問者を出迎えてくれます。しばらく登って行くと物見岩と言われる、岩がごろごろ転がっている見張台らしき郭があり、三郭らしき場所から東へ登って行くと主郭のある尾根にたどり着きます。主郭から二郭周辺の郭は周囲を石垣で固めてあり、見ごたえがあります。

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T-Shionoya

住宅地に浮かぶ大高城 (2025/04/12 訪問)

無意識ながら気付けば桶狭間つながり。
沓掛城の翌週に訪れたのは愛知県名古屋市の大高城。

伊勢湾に面した知多半島西岸のつけ根、大高川河口部の標高約20mの高台に築かれた城。
歴史的には桶狭間の戦いに大きく関与した城砦の1つ。

城主は、1500年代初期が花井備中守、続いて水野氏の一族が入るが、桶狭間前に今川方の手に落ちて義元が鵜殿長照を配置。
桶狭間の後は廃城となるが、江戸期は尾張藩家老の志水氏が三之丸に居住したとのこと。

現在は大高城跡公園となり、堀や土塁の損失はあるものの、本丸から三之丸までおおよそのかたちを残す土の城跡。

訪問時は北側から入城し、約1時間半滞在。
二之丸は眺望があり、住宅地の先には大高城攻めの砦が築かれた丘。
本丸南下には現在曲輪が広がるが、近年の調査で幅15mの堀が確認され、その埋没した堀の西端には薄っすら土橋らしきものが存在。
そして正真正銘の土橋が架かる三之丸北東の堀は、1560年に廃城とするには惜しい規模に感じられた、私の城郭巡りの202城目でした。

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しんちゃん

尼子氏最期の城 (2025/04/07 訪問)

上月城は天正5年(1577)と6年(1578)の二度に渡って凄惨な戦いに巻き込まれています。一度目は織田方の羽柴秀吉による侵攻によるもので、城主は毛利方の赤松政範でした。上月城は程なく落城しますが、その際に秀吉は城内の者に対して、かなり残酷なことをやらかしているようです。
その後、上月城には尼子勝久・山中鹿介主従が入りますが、天正6年4月には毛利方の小早川・吉川勢の大軍に包囲され、信長が秀吉に撤退を命じたため上月城は孤立無援に陥り落城、尼子勝久は切腹し尼子氏は滅びました。

歴史の重みをひしひしと感じますが、城址は意外なほどにコンパクトです。川の対岸に歴史資料館があり、車はそこに駐車することが出来ます。東から登城道が付いていて、いくつかの腰郭と堀切を過ぎると、主郭にたどり着きます。主郭にある供養塔は最初に落城した際に落命した赤松氏らを弔ったもののようです。主郭から西へ尾根沿いに進んでいくと二の丸となり先には堀切があり、そのまま下ると城址の西側に降りてくるので、歩いて駐車場まで戻ります。
堀切もだいぶ埋まっていて、尼子氏最期の城としては「地味」な印象もありますが、山城としては訪問しやすい方なので、その分「情緒」を楽しむことが出来ると思います。

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イタさん

椎名内城址 千葉県旭市野中 (2025/06/14 訪問)

長禅寺境内が城址で、椎名氏の居城と言われる。
山門左側に少し水の溜まった堀があ、先で西に折れて続くのだが、入れず見られない。右手前は墓地で堀は消えている。ただ境目にはやや高くなった土塁を思わせる藪がある。北の道路に出れば土塁があり、内側に凹みが見え、奥に土塁状の高まりが藪内に見えるので、二重土塁に思えるが。先には道路沿いに堀状遺構が西へ続くが、途中で無くなり、本堂背後の溝に続いている。北西に琴平神社があり、左右が土塁状になる。神社前が境内の西で、広い敷地内には、四国八十八ヶ所巡りの仏像が転々と並ぶ。西、南にも土塁が確認出来る。本堂側と隔てる溝は掘りにしては細すぎる。中央に池跡らしき凹みがあるが、初めは堀跡かと思った。

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ぎりょう

北上・花巻市探訪① 広大な和賀氏の本拠地に感動! (2025/06/08 訪問)

自身が所属する古文書を読む会の移動研修会で、今回は岩手県の北上市・花巻市を訪問しました。この地域は和賀氏、稗貫氏が戦国領主だった地域で、二子城は和賀氏の本拠地でした。両氏はともに天正十八年(1590)の秀吉の奥州仕置きにおいて所領没収になりますが、その後旧領回復をめざし「和賀・稗貫一揆」を起こします。さらに慶長五年(1600)には和賀忠親が旧領奪還(伊達政宗の働きかけ)を目論み、稗貫氏旧臣らとともに「岩崎一揆」を起こします。かつての稗貫氏の本拠地で、すでに南部氏抱えとなっていた鳥谷崎城(のちの花巻城)を攻めますが、落としきれずに敗走、岩崎城に籠ります。翌年春に体制を整えた南部勢に敗れ一揆は終結、忠親は仙台の国分尼寺で最期を遂げます。
この日は、二子地区にお住いの郷土史研究家Oさんに詰城の二子城と、平時の居館とされる白鳥館のご案内とご説明を頂きました。
この城は天正二十年には廃城となっているようですが、まず驚かされるのはその規模です。南北1,000m、南北500mと中世城館としては広大であり、この地に君臨した和賀氏の繁栄を感じることができます。山城部分では山上の主郭の広さ、展望の良さ、切岸、帯曲輪、堀切など残りの良さに感動します。麓の白鳥館(古館)も北上川に面した段丘上にあり、かなりの広さで、西側に残る堀切も見事。館の近くには北上川の船運で利用された川湊もあったらしく、戦に明け暮れていた時代にもしっかりと経済活動を営んでいたことが判りました。
東北自動車道北上江釣子ICより18分(16km)八幡神社下に駐車場・トイレあり

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イタさん

長部城址 千葉県旭市長部 (2025/06/14 訪問)

旭市のHPに松沢氏9代の居城とある。詳しくは省くが、城跡より有名なのが大原幽学遺跡で、幽学記念館・大原幽学旧邸・移築した旧林家住宅・大原聖殿(改心楼跡)・龍ヶ谷(要害・ゆうがい)に幽学にまつわる碑が多く建つ。

駐車場から坂を上り記念館までも、如何にも城跡を思わせる。記念館先には土塁が行く手を阻むように現れる。右に行けば龍ヶ谷、左後ろに旧林家住宅が移築されている。住宅の南前、東側には高い土塁が見られるが、木々の葉が多くやや分かりづらい。切通を南に下り大原幽学旧邸へ、背後・右は高い城塁(土塁)になる。西側はやや開けるて一段高く、大原聖殿が建ち、背後は切り立つ斜面。北に向けて上り左に行けば、城址碑の建つ龍ヶ谷に出る。30間四方で説明板にも主郭らしく書かれているが、土塁は見当たらず。多くの碑が建つ。西に堀があったのだが、ぼけて使用不可。時間の都合で記念館を見ずに帰路につく。

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カズサン

二本松城-4/6 本丸Ⅱ編 (2025/06/06 訪問)

 二本松城-3/6 本丸Ⅰ編の続です。

 本丸西櫓台、本丸西側視点で内部、天守台、東櫓台。
 幕末戊辰戦争で落城責任切腹自尽した城代丹羽和左衛門(66歳)、勘定奉行安部井又之丞(65歳)の供養碑が天守台西横に在りお参り合掌、壮絶な切腹だったそうです。供養塔、説明板も掲載投稿します。

 二本松城-5/6 本丸石垣城塁南面東面編に続く。
 

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カズサン

二本松城-3/6 本丸Ⅰ編 (2025/06/06 訪問)

 二本松城-2/6 三の丸箕輪門編の続です。

 にほんまつ城報館、三の丸城塁石垣周辺、箕輪門、箕輪門郭、三の丸上段郭を探訪して、搦手門跡石垣経由山頂の本丸へと思っていたのですが時間も押し迫っており徒歩での登城は諦めて、山頂本丸東の乙森駐車場へ移動し車を駐めて本丸の石垣を見学観察。
 本丸の石垣は30年前の平成7年(1995年)全面修築復元された。当時にも天守閣は造られて居なかった、今回の修築でも無し。
 天守閣東櫓西櫓各間を繋ぐ多門櫓、大手枡形門が立っていたらと想像するのも楽しいものです。
 本丸を天守台周り本丸Ⅰ、西櫓、西からの景観景観を本丸Ⅱとして分けて写真投稿します。
  
 二本松城-4/6 本丸Ⅱ編に続く。
 

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トベシュン

対馬・五島城巡り 金石城跡・金田城跡・福江城跡 (2025/06/08 訪問)

対馬・五島城巡りで金石城跡・金田城跡・福江城跡の三城を巡ってきました。

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トベシュン

対馬・五島城巡り 金石城跡・金田城跡・福江城跡 (2025/06/09 訪問)

対馬・五島城巡りで金石城跡・金田城跡・福江城跡の三城を巡ってきました。

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トベシュン

対馬・五島城巡り 金石城跡・金田城跡・福江城跡 (2025/06/08 訪問)

対馬・五島城巡りで金石城跡・金田城跡・福江城跡の三城を巡ってきました。

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シャンシャン

豊臣秀長の城郭 (2025/06/14 訪問)

太閤秀吉の弟・秀長が完成させた大和郡山城。
一部の櫓や門が復元されているが、何と言っても天守台を始めとする石垣群が見応え抜群!!
ゴツゴツした野面積みの天守台は武骨さを感じさせる。当時、石垣用の石がかなり不足していたらしく、平城京羅城門の礎石や石地蔵、五輪塔など転用石が多く使われており、天守台のさかさ地蔵もそのひとつ。
正直、続100名城には見どころが少ない城跡もそこそこあるが、ここは100名城にもまったく引けを取らない。
近隣の永慶寺には、唯一の現存建造物遺構である山門(郡山城移築南御門)がある。

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