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しんちゃん

ヤキトリ‥ (2024/11/03 訪問)

う~ん‥予備知識なしで来てしまった。いつもどおり写真を撮っていたら境内撮影禁止の立札が。バードウォッチャー対策ということですかね。「城びと」で写真がないとどうしようも無い‥境内の鳥は元気にさえずっているけど、こっちは完全に「ヤキトリ」ですわ。

そうそう‥電気柵用のテスター買いました。地元にないので通販で‥。「テスター兄弟」そろい踏みです。
とはいえ、私も地元以外では、そんなに気張りません。遠征だとビミョ~の手を抜くこともあります。やっぱり時間と体力の問題もあるんですね。昌官忠さん、凄いですね。公共交通機関であんなに回れるんですね。
なんにせよ、持ってると安心というだけで、よっぽど使うことはないですよ。ちょっとユルいかんじに戻ってます。

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しんちゃん

ちゃんと帰って来るまでが「城攻め」 (2024/10/13 訪問)

もう一回だけ土城の投稿をさせてください。もういいじゃんと思われるでしょうが、この城は帰るときが一番重要なのです。
戻ってくるまでが「城攻め」ってやつです。草木が生い茂って見通しが悪いけど、尾根は案外細いです。行き先を間違えると、ズリ落ちる可能性が高いので、来た道を用心深く引き返して行きます。良く見ると先人の残したカラーテープが残っているので見当がつくと思います。南の主郭は削られてコンクリが吹き付けてあるので、正直見に行くほどのものではないと思います。ほどほどで良いのではないでしょうか。
雨の日のあとなど足元が滑りやすい時は無理して訪問しない方が良いと思います。

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しんちゃん

源義経ゆかり 白旗神社・首洗いの井戸 (2024/05/03 訪問)

白旗神社‥神奈川県藤沢市藤沢2-4-7
首洗いの井戸・首塚‥藤沢市藤沢2丁目1-10
いずれも源義経公ゆかりです。文治5年(1189)奥州平泉の高館で自害した義経の首は奥州路を経て、腰越の浦の首実検の後に捨てられたが、潮の流れに逆流し白旗神社の近くに流れ着き、里人により洗い清められて葬られたと白旗神社の鎮霊碑の案内板に記載があります。
境内には義経公と弁慶公の銅像があり、これだけでも見に来る価値はあると思います。ちょうど藤沢御殿の近くなのでついでに寄られてはいかがでしょうか?
近くには義経公の首を洗ったとされる井戸と首塚があります。

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しんちゃん

箱根の関所 三度目の正直! (2024/05/03 訪問)

箱根の関所は以前、二回通過しましたが営業時間外だったので見学は出来ませんでした。冬季は閉館が早くて入門は四時までです。
三度目の正直で、時間を合わせて見学することが出来ました。
足軽番所の裏の丘が展望台になっていて、芦ノ湖と富士山を眺望することが出来ます。いよっ!絶景かな!?富士山が雲に隠れてます。
とはいえ絶景に違いは無い。お勧めはやっぱり晴れの日です。

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ぴーかる

糸井陣屋 (2024/10/12 訪問)

【糸井陣屋】
<駐車場他>朝来市和田山郷土資料館前駐車場あり。
<交通手段>車

<見所>陣屋門・石垣
<感想>日帰り丹波の黒枝豆購入と城攻めの旅3城目。糸井陣屋は1668年に京極高直の3男京極高門が父の遺領を受け2000石で分地し陣屋を構えたことに始まります。明治以降は小学校になり、現在は歴史民族資料館になっています。
 歴史民族資料館は予約制で見学できます。私も来館時間が読めなかったので予約来館せずに周辺散策のみにしました。表門、石垣が残っています。石垣は民家と接近しているので少し見ずらいです。

<満足度>◆◆◇

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イオ

展望コース(角楼~南門) (2024/09/15 訪問)

飛鳥期に白村江の戦いで唐・新羅連合軍に敗れた大和朝廷が、大陸からの侵攻に備えて鬼城山の頂部に築いた古代山城(神籠石式山城)とされますが、史書に記載はなく詳細は不明です。

山頂部まで車道が続いていますが、急坂で道幅が狭い上に行き交う車は結構多く、何度かの対向を経てようやく駐車場(無料)に到着。さすがに100名城・日本遺産・自然公園の三連休中日となると、訪れる人も普段行っている山城などとは段違いでした。鬼城山ビジターセンターで予備知識と100名城スタンプと散策マップ(200円)を仕入れて、登城開始。

まず展望デッキに立ち寄って西門~角楼を遠望。写真でよく見かける定番のアングルですね。そして復元された角楼へ。城壁から長方形にせり出した防衛拠点と考えられますが、建物があったかどうかは不明のようです。角楼から西門に向かって進み、門をくぐって外側に出ると、眼前に見事な眺望が開けています。発掘調査に基づき復元された西門は直下から見上げるとなかなかの迫力で、古代山城に詳しくない身には、こうして復元してもらえるとイメージする基礎にできるのでありがたいことです。西門東側の城壁の内側と外側には石畳のような敷石が見られますが、雨水から城壁を保護するためのものと考えられるようです。西門の両側には版築土塁と高石垣による高さのある城壁が続き、東側石垣の下部には第0水門が設けられています。

西門から展望コース(外側)を進むと、その名のとおり眼下には絶景が広がり、ところどころに神籠石状列石や石垣が見られます。谷部の城壁には水門が築かれ、第0水門と第1水門は石垣下部から自然排水させ、第2水門から第5水門は石垣上部に設けた通水口から排水する造りになっています。コース上の高石垣は展望台のようになっていますが、柵などは設けられていないので高石垣の際まで行って下を覗き込むと…足がすくむほどの高さです。こんなの絶対に登れねぇ…。高石垣からもう少し行くと南門に至ります(続く)。
 

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todo94

日帰り羽越ドライブでの攻城④ (2024/10/20 訪問)

羽前観音寺城からの転戦です。朝田辰兵衛さんの投稿を参考に、ピンクリボンを辿ってピークに達したつもりでいました。しかし、帰ってきてから続東北の名城を歩く南東北編の朝日山城の縄張図を確認してみると、私がたどり着いた場所は、朝田さんの云う南側の物見的な曲輪であったことは明白です。連郭式の西側や空堀、東側の枡形虎口などは全くのノーチェックです。八幡宮地域も城郭の一部のようですので攻城したことにさせていただきますが、これはリベンジをいつか果たさねばならないでしょう。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)11日目:榎並城 (2024/10/02 訪問)

JR野江駅から徒歩5分くらいで、榎並城跡石碑前(34.708836、135.539345)に着き、その後、野江水神社鳥居前(34.708456、135.539138)に向かいました。

築城年代は定かではないようですが、 古くは1369年(応安2年)北朝方に降った楠木正儀が天王寺から榎並へ退いて陣を布いた記録があるようです。
榎並城の記録が現れるのは天文年間(1532年〜1555年)で、三好政長・政勝父子の居城でした。
1548年(天文17年)三好長慶と細川晴元が対立すると、三好政長・政勝は細川晴元方として長慶と対峙しました。
このとき政勝が籠もる榎並城が三好長慶に包囲されると、政長は江口城に入ってこれを支援しようとしましたが、長慶に攻め込まれて政長は討死、父の敗死を聞いた政勝は榎並城を棄てて瓦林城へ逃れました。
榎並城は現在の榎並小学校から野江水神社一帯に築かれていたと云われています。
野江水神社は1533年(天文2年)に三好政長が榎並城を築いた際に水害を被った為、榎並城の一角に社を建てて祀ったのが始まりと伝えられています。

また榎並小学校の校門脇に「榎並猿楽発祥の地、榎並城跡伝承地」の石碑が建っています。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=三箇城を目指す為、JR野江駅から電車で野崎駅に向かいました。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)11日目:葱生城(なぎ) (2024/10/02 訪問)

毛馬城から徒歩20分くらいで、常宣寺山門前(34.728847、135.535511)に着きました。

1568年(永禄11)石山本願寺11代顕如の時、織田信長が足利義昭を奉じ入京すると、信長と本願寺との対立は深まり、1570年(元亀1)信長からの石山退去要求を拒否した顕如は全国の門徒衆に檄を飛ばし、10年に及ぶ石山合戦が始まります。
一時的な和議を重ねつつ一進一退を繰り返しましたが、1576年(天正4)信長の本願寺包囲攻撃をもって一挙に激化します。
信長が大坂周囲の要衝10箇所に付城を構えたのに対し、顕如は高津・丸山・ひろ芝・正山・森口表・大海・飯満・中間村・鴫野・野江・楼岸・勝曼・木津・難波等、51箇所に出城を構え、守将を置きました。
この51箇所の一つが葱生城といわれています。また平安時代以降、榎並庄を形成していた村の一つで石山合戦の際、この榎並庄の稲田を刈り、軍糧として本願寺に献じたそうです。

常宣寺に、葱生城説明板が設置されています。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=榎並城を目指す為、城北公園通駅から電車でJR野江駅に向かいました。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)11日目:毛馬城 (2024/10/02 訪問)

毛馬橋バス停から徒歩10分くらいで、善福寺山門前(34.723823、135.521642)に着きました。

1570年(元亀元年)より始まった石山本願寺と織田信長との戦い(石山合戦)は、一進一退を繰り返しました。
織田信長は石山本願寺の周辺10箇所に付城を築いて包囲網を敷いたのに対し、本願寺では、高津・丸山・ひろ芝・正山・森口表・大海・飯満・中間村・鴫野・野江・楼の岸・勝曼・木津・難波など51箇所にも及ぶ出城を構えました。
毛馬城は、この石山方の出城のひとつですが、正確にはいつ頃、誰によって築城され、守将として誰がいたのかなどは一切不明のようです。
 
善福寺付近を散策しましたが、城跡を示すものは何もありません。
攻城時間は2~3分くらいでした。次の攻城先=葱生城(なぎ)へは、ここから徒歩で向かいました。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)11日目:新庄城 (2024/10/02 訪問)

下新庄駅から徒歩5分くらいで、明教寺入口(34.747719、135.522827)に着きました。

天正年間(1573~92)に荒木村重に仕え、後に織田信長に仕えた中川清秀が築城したとされ、「新庄」の名前は「新城」が転じたものだそうです。

石碑は「明教寺」とあり、新庄城のものではありません。
朝早く、入口も閉まっており、何もないので山門を撮って退散しました。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=毛馬城を目指す為、東淀川郵便局前バス停から大阪シティバスを乗り継ぎ、毛馬橋バス停に向かいました。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)11日目:柴島城 (2024/10/02 訪問)

今日は移動距離が長いので、ホテルでの朝食は抜きで出発しました。
宿泊先の動物園前駅から柴島城駅に着きました。そこから、徒歩5分弱で、石碑前(34.729438、135.513904)に着きました。

柴島城は十河一存によって築かれた城です。
1549年(天文18年)に起きた「江口の戦い(江口合戦)」では三好政長方の細川晴賢が城主でしたが、三好長慶によって攻められ落城しました。
その後の詳細は不明ですが、1615年(慶長20年)に起きた「大坂夏の陣」では稲葉紀通がここを拠点に戦っています。
紀通は1616年(元和2年)に中島藩を立藩し、この城を居城としましたが、1624年(寛永元年)に丹波福知山へ移封になると廃城になったようです。

現在城址に遺構はなく、住宅地の一角に城址碑が建っているのみです。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=新庄城を目指す為、柴島駅から電車で下新庄駅に向かいました。

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しんちゃん

大猷院 栃木県日光市 (2019/11/02 訪問)

大猷院(だいゆういん)は日光山輪王寺にある徳川家三代将軍家光の霊廟です。私の主観になりますが、日光の寺社全体が山城のように展開していて、大猷院はその中でも詰めの城のような位置に有るように見えます。まるで東照宮や輪王寺に守られているようにも見えます。
たださすがに家光公の墓所である宝塔より、家康公の墓所である奥宮の方が高所にありますね。けっこう本堂から登った記憶があります。
江戸期260年の平和と言っても、家光公の治世の頃はけっこう荒れてて、「島原の乱」が勃発したりしています。
また「武断政治」と呼ばれる強硬な政策を取ったり、実弟の忠長を改易を申し付けた後に切腹に追い込んでいます。祖父の家康公以外でこれだけ多くの血を流した将軍はいないのではないでしょうか。
なんとなく江戸の増上寺などに墓所を設けなかったのも実弟を死に追いやった負い目もあるのでしょうか? 家光公は尊敬する祖父や神仏に守られて孤独や不安から解放されたかったのかもしれません。

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しんちゃん

ホテル金森 (2024/10/12 訪問)

萩原諏訪城の写真の残りです。金森長近が三木氏を滅ぼしたのち、諏訪神社を上村に移して当地に諏訪城を築城しました。諏訪城は一国一城令の後、高山城を本拠地とした金森氏の旅館として77年間、使用されたとされます。元禄5年(1693)金森氏が出羽国上山に国替えされると旅館は破却され、以前の諏訪神社に戻ったとされています。その後飛騨は明治まで180年以上「天領」として幕府の直轄地になったようです。

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sorato

耐震工事中の松本城3 (2024/11/01 訪問)

耐震工事が始まって二ヶ月が経ちました

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しんちゃん

西蓮寺 伊賀市 (2024/10/05 訪問)

三重県伊賀市の天台真盛宗の別格中本山・西蓮寺は比自山城への登城と下山の際に通過させていただくことになるお寺です。墓所の上の池の近くから城址への道が伸びています。登城道はその先の池の間を通ったりするので、注意は必要です。
境内には伊賀上野城・城代家老の藤堂采女家歴代墓所があり、その広い境内は城址の風格すらたたえているようです。
延徳年間(1489~92)に天台宗真盛派の祖・真盛が当地に会った堂を寺として改めたとされています。

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しんちゃん

主郭から北側に遺構が良く残っている。 (2024/10/05 訪問)

天正伊賀の乱の激戦地・比自山城の投稿ラストです。伊賀勢(忍者)の城としては最大級で、想像していたよりも遺構が残ります。主郭を北上していった、やや西手には二重の堀切や土橋などの遺構が明確に残っています。正直、藪がしんどくて主郭にたどり着くのに一苦労ですが、たどりついてしまえば、移動にはさほど苦労はしません。この城を落とされた時点で伊賀勢の命運はほぼ尽きていたような気がします。そういえばカエルの祠ってどこにあったんだろう?

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しんちゃん

鍵屋の辻の決闘・史跡公園 (2024/10/05 訪問)

三重県伊賀市小田町の鍵屋の辻は日本三大仇討ちの一つと言われる「鍵屋の辻の決闘」が行われた場所とされています。
寛永11年11月7日(1634年12月26日)に渡辺数馬と荒木又右衛門らが数馬の弟である渡辺源太夫の仇である河合又五郎を討ち取ったとされ、数馬方の手勢は4人。又五郎らは11人だったようです。戦いは早朝から6時間にも及び、数馬方の死者は又右衛門の従者1名のみで又五郎方は又五郎を含めて4人とのことです。
鍵屋の辻は史跡公園となっており、伊賀越資料館が建っていますが、現在は閉館しています。伊賀市の萬福寺には河合又五郎の墓がありますが、享年24と若いです。数え年とすれば23歳になりますね。又五郎の叔父の河合甚左衛門は大和郡山藩剣術指南役とされ摂津尼崎藩槍術指南役の桜井半兵衛とは親戚にあたるそうです。二人とも鍵屋の辻での決闘では又五郎に味方し、又右衛門らに討ち取られています。
又右衛門の実力がどれほど凄かったのかが伺えます。

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眼下にリニアが走る予定 (2024/11/04 訪問)

 今年も苗木城へ行って来ました。もう少し葉が落ちてから行くつもりでしたが、近くへ来たので寄ってきました。この城の魅力の一つは自然の巨岩がそのまま活用された石垣です。年代によって積み方も異なっています。眺望もよいし何回来ても飽きない城です。
 振替休日の日に行きましたが、かなり混んでいました。山城ながら近くまで車で行ける利便性が良いことも登城者が多い理由のひとつでしょう。天守展望台に「リニアが通る橋を造っています 第二木曽川橋りょう」の案内が張ってありました。リニア新幹線が開通すると木曽川を渡る列車が天守展望台付近から見えることになるので鉄道ファンも多く登城するようになるのでしょうね。八大龍王、清水門方面は、まだ進入禁止となっていました。落石のためらしいですが、いい遺構があったと記憶していますので残念です。

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落合五郎兼行之城と落合宿 (2024/11/04 訪問)

 木曽義仲の重臣で、木曽四天王のひとりとされる落合五郎兼行の居城跡と伝わっています。城びとには未登録の城址です。現在は神社があり整備されています。説明板と石碑がありました。石碑は読みにくくなっていますが、「落合五郎兼行之城跡」と彫られています。ただ場所については文献や地名から推定されたもので、平成元年に行われた発掘調査からは館跡の痕跡は認められなかったようです。
 近くには中山道44番目の宿場落合宿があり、岐阜県内の中山道宿場町で唯一現存している本陣があります。近くには石畳もあるのですが、今回は歩いていません。

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