室町中期に紀伊国守護・畠山政長に仕えた牲川義春が詰めの城として築いたと伝わり、戦国期の畠山氏の内紛では畠山氏の関与により改修されたと考えられます。畠山氏が没落すると織田信長に従うも、羽柴秀吉(信長とも)の紀州攻めにより落城しました。
6年前は縄張図を持っておらず見落としも多々あったので、見落としを回収すべく再訪しました。「東の城」「西の城」「出城」と呼ばれる三つの曲輪群からなる一城別郭の城で、今回は入口Ⅰから出城→西の城→東の城とめぐるつもりでしたが、入口Ⅰ付近に駐車できそうな場所が見付けられず、結局、前回同様に給水塔前に駐車して入口Ⅲから東の城→西の城→出城のルートで登城することに。
入口Ⅲから尾根伝いに進むこと10分あまりで東の城・南西尾根の堀切(外側)に到達。外側の堀切を越えて少し行くと内側の堀切があり、その上に東の城の主郭に至る喰い違い虎口がある…はずですが、登城道が改変されているのかよくわかりませんでした。
東の城は細長い主郭の南端と北西端にいくつかの小曲輪を付属し、南西尾根のみならず南東尾根や北東裾にも堀切を設けています。落葉で足を滑らせつつ南東尾根や北東裾にも下りてみましたが、それぞれ堀切は浅くなっていて見応えはいまいちでした。主郭の北西部には北西尾根へと続く虎口があり、虎口内に土塁で囲まれた空間を設けています。
虎口を出て登城道の分岐を北西方向に進むと、堀切が北西尾根を断ち切っています。分岐まで戻って今度は南西方向に進むと、北側が急峻な崖になった細尾根が続いています。この先が西の城です(続く)。
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