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イオ

東の城 (2025/01/26 訪問)

室町中期に紀伊国守護・畠山政長に仕えた牲川義春が詰めの城として築いたと伝わり、戦国期の畠山氏の内紛では畠山氏の関与により改修されたと考えられます。畠山氏が没落すると織田信長に従うも、羽柴秀吉(信長とも)の紀州攻めにより落城しました。

6年前は縄張図を持っておらず見落としも多々あったので、見落としを回収すべく再訪しました。「東の城」「西の城」「出城」と呼ばれる三つの曲輪群からなる一城別郭の城で、今回は入口Ⅰから出城→西の城→東の城とめぐるつもりでしたが、入口Ⅰ付近に駐車できそうな場所が見付けられず、結局、前回同様に給水塔前に駐車して入口Ⅲから東の城→西の城→出城のルートで登城することに。

入口Ⅲから尾根伝いに進むこと10分あまりで東の城・南西尾根の堀切(外側)に到達。外側の堀切を越えて少し行くと内側の堀切があり、その上に東の城の主郭に至る喰い違い虎口がある…はずですが、登城道が改変されているのかよくわかりませんでした。

東の城は細長い主郭の南端と北西端にいくつかの小曲輪を付属し、南西尾根のみならず南東尾根や北東裾にも堀切を設けています。落葉で足を滑らせつつ南東尾根や北東裾にも下りてみましたが、それぞれ堀切は浅くなっていて見応えはいまいちでした。主郭の北西部には北西尾根へと続く虎口があり、虎口内に土塁で囲まれた空間を設けています。

虎口を出て登城道の分岐を北西方向に進むと、堀切が北西尾根を断ち切っています。分岐まで戻って今度は南西方向に進むと、北側が急峻な崖になった細尾根が続いています。この先が西の城です(続く)。
 

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todo94

ゴールデンウイーク後半・伯耆の城めぐり⑨ (2025/05/04 訪問)

>ぴーかるさん 膝のご心配をいただき、ありがとうございます。現在、膝をはじめ足腰の状態は万全です。実は田内城の次に攻めた伯耆河口城、攻城後にぴーかるさん投稿の櫓台の写真を拝見して愕然としてしまいました。

連休2日目は朝食をすき家にて摂った後、田内城に朝駆けをかけました。小鴨川に面した側は、急峻な岩山になっていますが、裏手の墓地の側は結構なだらかで、攻略はさほど困難ではありません。墓地の中を縫って頂上にたどり着くとそこには模擬櫓が鎮座していました。その基礎部分に石の説明板がはめ込まれていました。

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赤い城

縦淵城 愛媛県松山市 (2025/04/30 訪問)

城びと未登録城です。
仕事で近くに所用があった際に立ち寄りました。

小野川と土佐街道が交差するあたり、城山神社内に石碑と説明板が立っています。
小高い丘だったとのことですが土佐街道建設の際に削られ、遺構は残りません。

承久の乱で活躍した河野通久により築かれました。
その後、河野通盛が湯築城を築くまで、代々河野氏が居城としていました。

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天守無しがアツい

富士見櫓 (2025/05/11 訪問)

(宇都宮城の御城印について)
https://www.utsunomiya-jo.jp/utsunomiyajo/gojouin.html

JR宇都宮駅から1.5kmほどの場所にあるのが宇都宮城址公園🏯その中に清明館という施設があります。本当は館内の展示室を見学したかったのですが…公開は17時まで。餃子定食を食べた分、訪問が遅れた影響により、そこの見学はできませんでした😓

しかし御城印の販売は21時までおこなっているそうで…自販機にお金を入れてからボタンを押すと券が出てきて…それを館員に渡せばもらえるという仕組み🎫

御城印は清明台(櫓)をモチーフにした縦バージョン(1枚目右)…社参行列をモチーフにした横バージョン(1枚目左)の2種類があり…どちらにしようか迷いましたが…「たまには両方買っちゃえ」という事で2種類とも買いました。1枚300円…2枚で600円

(宇都宮城址公園・清明館)
https://www.city.utsunomiya.lg.jp/citypromotion/kanko/meisho/jyiousi/1007275.html

展示室は閉まっていたけど…櫓はまだ開放されていたので…その見学へ向かいました。まずは富士見櫓(2枚目)…江戸時代には周辺にここより高い建物が無かったため…富士山が見えた事から、そう名づけられたと案内板に書いてありました🗻

櫓は2階まであるのですが、2階部分は閉鎖されており(階段さえ登れない)1階部分の見学のみになりました

富士見橋には…櫓の模型がありました(3枚目)。だいぶ壊れかけていたけど…誰かが造ってそれを寄贈したのではないでしょうか?「触らないでください」の注意書きがあったので…それを見てからは…触れないようにしました

櫓内は土足厳禁…入口で履物を脱いでから上がる必要がありました。時々他の客も来るけど…私一人の時もある…そんな中でふと思い浮かんだ感情は…

ここで腕立て伏せがしたい💪

私一人のタイミングで…まずはここで20回やりました…家でやる時は下が畳…対してここは床が硬い木板のため、一回あたりの身体への負担が大きく…両腕で身体を上げるのが(家でするよりも)重い…そのため(家では40回できるのが)ここでは20回が精一杯

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小城小次郎

国持大名の風格を微かに感じる? (2024/10/12 訪問)

丹後一国の国持大名であった京極氏時代の姿を明治初年まで残していたはずだが今となっては跡形もない。でも僅かに残された移築建造物や古写真からもその風格を感じることはできるし、地下にはそれなりに遺構が残っているとか。

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翡翠

宇和島城 (2025/01/02 訪問)

宇和島城、天守閣まで行く石垣や天守閣内部の階段の角度とか良かったです。正月だったので天守閣の最上階でみかんとお茶をいただきました。良い思い出になりました。

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朝田 辰兵衛

大宮の隠れ家的スポットも紹介…🥩 (2025/04/29 訪問)

埼玉高速鉄道線を南下して,川口元郷駅へ。周辺一帯は,新しいものと古いものがごちゃまぜになった風景が印象的でした。
復路は,さらに埼玉高速鉄道線を南下して,赤羽岩淵駅へ。JR赤羽駅まで徒歩。京浜東北線で北上して,JR南浦和駅へ。これにて,南浦和・川口ループ完了。

大宮駅でさらに途中下車。西口から徒歩約5分の「レストランたやか」へ。サイコロステーキで空腹を満たして越後へ。
撮れ高が少ないので,「レストランたやか」での画像も差し込みます。大宮の隠れ家的スポットかも…。

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ぴーかる

お役に立ててなによりです(^_^)

todo94さんへ。槻下豪族館の攻略お役に立てて良かったです。私が行った時はとりあえず突込みできそうな場所が絶対あるはずと思い、方形館跡だろうから、1巡りしながら探そうと思い、以外と簡単に内部に入れました。10月初めとはいえ、暑くて虫やら蜘蛛の巣がまとわりつくは、地面は倒竹とぬかるみで歩きにくいはで、平城ながらきつい攻城だったのを覚えています。todo94さんのGWは充実しておりますね。前半は宮城県で、後半は鳥取県西部とは、移動距離とタフさがすごいです。膝もよくなられたようでなによりです。

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しんちゃん

小山を迂回して主郭を攻略する (2025/05/08 訪問)

主郭前の小山は写真だけでは解りづらいですが、かなりの高さがあります。小山の角度は急で、下に深い堀切があり、岩も所々にむき出しになっています。しかもこの小山に沿って踏みしろのような道が付いています。この踏みしろが、いつの時代のものか解りませんが、これは「釣り」と考えた方が良いでしょう。うかつに攻めて足をすべらして、そのまま堀に落ちたら大ケガです。
西側(右手)にそって迂回していくと、小山や主郭に沿って側道が付いていて、ここから小山の裏側に登ることも出来ます。そこを登ると深い堀切が有りますが、まずは主郭を先に攻めることにします。
写真だけでは解りづらいですが、側道と主郭の高低差は結構あります。なかなか登りやすい場所が見つからなかったので、南端から登ることにしました。登った先は激ヤブで、行けども行けどもヤブシダが続きます。郭の中央部分まで行って、主郭攻略終了とします。
郭の端から下に降りたい所ですが、なかなか良いポイントが見つかりません。
人が重力に逆らえるのは、せいぜい1mちょっとなので、膝等に負担をかけずに降りれるポイントを探します。踏みしろも途中で消えていたりするので、降りては登ってを繰り替えして、結局南端に戻ってそこから降りました。

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しんちゃん

島津家発祥の地 (2025/05/07 訪問)

祝吉御所は島津家の始祖・忠久が鎌倉より下向して最初に御所(館)を構えた場所とされ、小公園として整備されています。ちょうどお昼時に訪問したので、公園整備のオヤジさんたちが昼食をとっていました。周辺にはアヤメも咲いていて良い感じです。
忠久は文治元年(1185)8月、源頼朝によって、領家の島津御荘下司職、次いで同荘8千町の惣地頭職、薩摩・大隅・日向三ヶ国の守護に任じられ、はじめは惟宗姓を名乗っていたが、地名を取り「島津氏」を名乗るようになったそうです(現地パネルより)。

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しんちゃん

堀と土橋が見所 (2025/05/06 訪問)

田野城は松山川に面した丘陵の鼻先に築かれています。対岸の公園からの距離はさほどではありませんが、ここにたどり着くまで田野フィールド(演習林)の中を延々と迂回してこなければならなりません。訪問時は縄張図が無かったので、手探りで回って来ましたが、余湖さんの縄張図がネットから出てくるので、これを参考に散策されると良いと思います。細部に多少の差異はありますが、おおよその配置は合っていると思います。
藪に覆われた登城道を進んでいくと東西の丘陵の中央部分に出るので、まずは東を目指します。尾根上に西から一郭の腰郭、一郭、二郭、三郭が連なっています。腰郭の南側からスロープが付いているので、これを使えば楽に腰郭まで登れます。一郭から三郭の間は大きな堀切で断ちきってあり、それぞれに土橋がかかっています。この堀と土橋はなかなか見事で、この城の見どころだと思います。
三郭の南に腰郭が付いており、三郭の先端あたりまで続いています。その先は藪に覆われ良く見えませんが川が流れている気配を感じます。縄張り図を見ると城址の下側は川に沿って崖が続いているようですが、城内からはそれを確認することは出来ません。

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イオ

カメラ派? スマホ派? コンデジ派に援軍!

もはやコンデジ派は絶滅危惧種なのかなぁ…と思っていましたが、心強い援軍がお二人も! 困難な状況に変わりはないとしても、お仲間がいるのは嬉しいことです。ありがとうございます。

> トクさん

なんと、スマホで光学5~7倍とは! 光学となるとスマホ本体からレンズが突き出てくるんですかね? 引っ掛けて壊してしまいそうで怖いですし、どうせ同じくらいのお金を出すのなら素直に一眼を選ぶかな、うん。もし外付けレンズを試されましたら、レポートお願いいたします。

> にのまるさん

やはり電車派にはサイズや重さは大事な要素になってくるようですね。スマホに全てを集約すれば身軽になる一方で、そのスマホに何かあったら全てが破綻する……難しいところです。それにしても、やはりスマホにおいても高額な機種で撮った写真は出来が違いますか…。これまではカメラ性能は全く求めていなかったので格安の機種ばかりでしたが、その点も考えないといけないなぁ。

> ヒロケンさん

カメラとしてなら一眼が、手軽さを追求するならスマホがベストということで、カメラが良いんだけど手軽さも、というコンデジは半端な立ち位置となって衰退してしまったのかな、とも。新機種もほとんど発売されないとなると、現有機を大事に使っていくしかなさそうですね。

> とある煩悩の登城目録さん

挙げておられる5つの主な理由、全くもって同意いたします! 1から3はスマホで代替がきくとしても、4と5はカメラ(特に4はコンデジ)ならではなんですよね。市場的にはそれだけでは弱いからコンデジは衰退してしまったんでしょうけど…。

> しんちゃんさん

今回の一件も、カメラ破損後はスマホで撮影することで何とか乗り切ることができましたし、荷物になる点を除けば、どちらをメインとするかはともかく、カメラとスマホの二刀流が一番確実なんでしょうね。破損はそう滅多にはないとしても、容量不足や充電切れや熱暴走(スマホ)はそれなりにあり得ることなので。

> todo94さん

デジタル一眼を自分のものとして使ったことはありませんが、コンデジを現有機に買い換えた際に、ピント合わせが前機より速くサクサク撮れるので驚いたことがありました。思ったタイミングで撮れるのが当たり前になると、もう戻れないというのはその通りなんだろうな、と思います。あと、バッテリーの持ちが良いというのは意外でした。やはり重くてもかさばってもそれ以上の価値があるということなんですね。

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カズサン

志知城-2/3 石碑・案内板・展示物編 (2025/05/15 訪問)

 志知城-1/3 保存会の竹林伐採整備で見易い編の続です。

 先に本丸西側竹林伐採整備の本丸土塁切岸?広い犬走?残存石垣の栗石?残存石の写真を投稿しましたが、史蹟志知城趾石碑二基、志知城跡案内板、太閤石と同説明板、TV番組堀、池の水抜きで志知城跡水堀の水を抜いて発見されて石垣の石展示とも有り写真投稿致します。

 志知城は賤ヶ岳七本槍の一人、加藤嘉明が城主(1585~1595年)あったとの事も有り是非見学したいとの思いが有りました、秀吉が信長の命で淡路島を攻略、本能寺の変を経て黒田官兵衛孝高が預かり天正13年(1585)加藤嘉明が15,000石の城主で入城、約10年在城して文禄4年(1895)伊予松崎へ6万石で転封、以降秀吉の直轄領で代官石川紀伊守が入城して川口の叶堂に新城(志知城から北に約3km程)を築き志知城は廃城と成った。
 加藤嘉明はこの間、秀吉の九州攻略、小田原征伐、朝鮮出兵には淡路水軍を編成して出陣しており志知城は瀬戸内海に出る、淡路水軍の重要基地であった。
 (案内板による)
 グーグルマップを見ると、大日川へ近く、大日川も以前は褶曲し、スーパーマルナカの北側には水路水堀跡?の様なものも在り、北側、南側に舟入りが大日川に接して設けられていた様子が窺える。

 登城中、家内はスーパーマルナカ南あわじ店駐車場に車を駐めて留守番、買い物土産として旬の玉ねぎを購入、帰ってからの酒の肴(玉ねぎスライスおかか掛け)と成りました。
  
 志知城-3/3 搦手側より駐車場編に続く。
 

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カズサン

志知城-1/3 保存会の竹林伐採整備で見易い編 (2025/05/15 訪問)

 淡路で2城目、西淡三原ICを降りて北の叶堂城を探訪し、南に約3km程の志知城を訪ねる、以前城郭放浪記さん昨日のTop10紹介で認知しまた最近城びとの投稿で是非訪ねたいと思っておりました、家内の要望で鳴門大塚国際美術館、阿波祖谷のかずら橋訪問のし、淡路島に寄り念願が叶いました。
 城郭放浪記さんの情報で、南の声明寺さん側大手から鉄板橋を渡り登城開始、草刈されたルートを歩き、本丸南西側の竹林伐採で堀跡?傍の「史蹟志知城趾」石碑観察、本丸へ竹林伐採されて通路が出来ている、北に当たり石積?(後に保存会の方の後世の畑土の目石かと?)本丸北側に桜が多数植わって青葉が茂って居る辺りに、石碑、案内板、古地図、太閤石、同説明板、幟旗が翻っているエリアに着くと、伐採した竹を柵状に造作されてる方が居り、お声掛けしたら「志知城守る会」の代表と会員2名様、暫く話をして、残存石も有り案内頂ける事と成りました。
 本丸やや高の北下に手作りの志知城看板は保存会製、水堀の水を抜いて発見されてた石垣石、水堀も草を整備してよく見渡せる、本丸西に進み、やや広の犬走?帯曲輪?の竹藪を伐採されて見やすく歩きやすく成って居る、本丸の西土塁も大変見易き、暫く案内頂き、残存石垣の栗石が散見される、石垣が有った事を物語る、感激の観察、暫くして残存石1ヶ石が木の根元に残って居た、このまま進んでいくと南の大手へ、先に観た竹林伐採堀跡?かの処へ繋がるらしいが、ちょっと狭く急道なので取り止めて搦手に戻る。
 帰り際に志知城資料があるからお渡ししますとありがたい言葉、今年3月30日に志知城跡桜まつりが有り、現地説明会で配布されて小冊子「天正10年(1582)~天正13年(1585)頃の志知城の主は誰?著作「前田卓也氏」(南あわじ市文化財審議委員)によるものでした。大変ありがたく感謝申し上げます。
 投稿写真は竹林伐採されて奇麗に観える本丸西土塁、残存石垣?整備された水堀、南大手鉄板橋を掲載いたします。

 私は今回大手の南側から登城しましたが、志知城守る会ご尽力で北側の県道477号線側スーパーマルナカ南あわじ店からの登城路が整備されていました、二階建て事務所の駐車場が志知城守る会の専用駐車場として利用できる、県道沿いに志知城の手造り看板がある、一部畦道も有りますが木製チップを敷き詰めた搦手登城路、南竹林に沢山幟旗は翻って良く分かります。

 志知城守る会 代表 関口様、本当にありがとうございました、皆様のおかげで楽しく見やすく観察でき感謝申し上げます。
 今後も体に気を付けながら志知城の整備を宜しくお願い致します、発掘調査をされて市の文化財、県の文化財、国史へと「織豊期城郭、水軍拠点」として保存されることを願って居ます。
 
 志知城-2/3 石碑・案内板・展示物編に続く。
 

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じゅんじん

豊橋の名城 (2024/12/09 訪問)

よい石垣です。近くでの仕事ついでに寄りました。

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じゅんじん

献血後 (2024/12/28 訪問)

ちょいと運動でした。

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じゅんじん

本屋大賞 (2024/12/19 訪問)

「成瀬は天下を取る」は膳所の物語ですね。城門がいくつか現存してます。

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じゅんじん

17年ぶり (2024/12/18 訪問)

意外に久しぶりでした。石垣の一部が現存しています。

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じゅんじん

753 (2024/11/09 訪問)

賑わっていました

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じゅんじん

立ち入り禁止 (2024/10/28 訪問)

まだ禁止でした。

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