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イオ

歴史の大きな舞台 (2025/06/01 訪問)

室町前期に斯波義重が築いた城で、中期以降は守護所として尾張国の中心地となりました。長らく守護代・織田大和守家の居城でしたが、織田信友が織田信長に討たれると信長が入って小牧山城に移るまでの約8年間居城としています。本能寺の変の後は清須会議により織田信雄が城主となって大改修するも、豊臣秀吉による国替えに応じずに改易され、豊臣秀次領を経て福島正則の居城となりました。関ケ原の戦いでは東軍の拠点となり、戦後に正則が安芸国に移封になると松平忠吉が入りましたが、忠吉が病死すると徳川義直に与えられました。その後、名古屋城の築城に伴い城下町ごと名古屋に移されて(清洲越し)、廃城となっています。

信長に側近く仕えた金森長近にとっても清洲城はゆかりの深い城だろう、ということで金龍紀行の一環として約7年ぶりの登城です。清洲公園駐車場(無料)からまずは清洲古城跡公園へ。遺構はほとんど失われていますが、古城跡公園には本丸土塁がわずかに遺り、土塁上には信長を祀った社と2つの清洲古城跡の石碑が建てられています。土塁の裾には説明板もあります。堀代わりだった五条川沿いに出ると、河川改修時の発掘調査で確認された胴木を土台とした本丸石垣が復元されていました。

五条川越しに模擬天守を眺めながら、城跡を分断するJRの線路をくぐって清洲公園にも。信長は清洲城から桶狭間の戦いに出陣していることから、清洲公園には桶狭間に出陣する若き信長像が立てられています。後に出陣する信長を見守るように濃姫の像も立てられ、二人の愛と希望の丘として夫婦の絆・立身出生(原文ママ)・必勝祈願のパワースポットになっているんだとか。パワースポット云々はともかく、長近も信長に付き従って清洲城から出陣したんでしょうなぁ。また清洲公園には今川義元本陣の桶狭間山に模した築山も設けられています。

最後に大手橋を渡って模擬天守にも。桶狭間の戦いの戦勝により熱田神宮に奉納された信長塀が周囲に復元されています。そして庭園を抜けて天守に入る…つもりでしたが、閉館まであまり時間がなくじっくり見て回ることができなさそうなので、天守内はまたの機会に。金龍紀行としては天守は特に関係ありませんしね。

…ということで、さすがに歴史に大きく関わった城だけあっていろいろと見るところはあり、遺構はほとんどなくてもそれ相応に楽しませていただきました。また、この日はカメラ修理中でスマホのみでの撮影でしたが、慣れないながらも特に問題なく撮れたのも収穫でした。
 

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しんちゃん

八木家・新選組発祥の地 (2016/02/20 訪問)

京都市中京区壬生梛ノ宮町の八木家には新選組の屯所がありました。文久3年(1863)第14代将軍徳川家茂の上洛警備の為、清河八郎率いる浪士組が入洛し、壬生村の郷士・八木家が宿舎の一つとして使われました。
清河ら浪士組の大半は江戸に戻りましたが、清河と袂を分かった芹沢鴨・新見錦・近藤勇・土 方歳三らは京に残り、京都守護職・松平容保の下に属して新選組を名乗るようになりました。当初はここに「新選組屯所」の標札を掲げ隊士も少数でしたが、次第に増えて行ったので周辺の屋敷にも宿泊したそうです。慶応元年(1865)4月に新選組の屯所は西本願寺に移され、翌年には不動堂村に移り、鳥羽伏見の戦いの直前には伏見奉行所に入ったとのことです。


土 方は差別用語じゃねーって。あまり差別に敏感すぎると使える日本語が減って行くだけですぞ。

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しんちゃん

帰途 (2025/06/30 訪問)

ここの登城路は少しややこしい。藤長寺の住職さんに了承を得たうえで登城する必要があるが、まず谷間をまっすぐ進んで行くと尾根に向かう道が見えてくるはず。この最初の尾根から登ると直登に近く少ししんどい。良く見るともう一つ北の尾根に続く道が有るはずなので、それに沿っていくと登りやすい。尾根先は見張台のようになっていて、堀切も付いています。写真は帰路になるので順序が逆になります。登るときはさっぱりわからんかったが、帰りは道沿いに下って来たので正しいルートが確認できました。

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江戸城天守を再建する会ガイド解説付き皇居東御苑散策ツアー 10月9日(木)14.00~16.30 (2025/10/09 訪問)

集合時間・場所:10月9日13.50・皇居東御苑大手門内堀通り 参加費:一般3,000円 会員1,000円
申込先:江戸城天守を再建する会 info@npo-edojo.org   03-6423-1882 御城印販売 500円
振込先 ゆうちょ銀行 00120-9-578881 三井住友銀行光が丘支店 普通0851894

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千葉県立関宿城博物館 (2025/10/02 訪問)

 梁田氏の築城と伝わります。戦国時代には反北条氏の拠点となった城で、3度の関宿合戦が行われています。河川改修などの影響で遺構はほとんど残っていません。御三階櫓を模した模擬櫓が千葉県立関宿城博物館として建てられています。
 この日、千葉県立関宿城博物館は休館となっていました。

 越谷駅からバスを利用して関宿台町バス停下車。徒歩約10分くらいで千葉県立関宿城博物館に行くことができます。

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法宣寺 (2025/10/02 訪問)

 古河公方の 重臣・野田氏の居城であったと伝わっています。野田氏は古河城の城主でしたが、1455年第5代鎌倉公方・足利成氏が古河を本拠地としたため、自身は 栗橋城に移りました。その後、永禄年間に北条氏により城は接収され、北条氏照 の北関東攻略の拠点となっています。法宣寺付近の空堀を散策しました。

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小城小次郎

夜景がいい (2025/02/25 訪問)

再建時にはいろいろ言われた土塁だがかつての規模感を現実に味わえるのは有難いと思う。昼はともかくライトアップされた夜景はなかなかなもの。LRTもそうだが宇都宮市の何となく尖った市政は評価したくなる。

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正一位一色稲荷神社 (2025/10/02 訪問)

 古河公方足利晴氏、義氏に仕えていた一色直朝の居城と伝わります。遺構はありません。正一位一色稲荷神社に説明板がありました。
 
 幸手駅から徒歩5分くらいです。

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徳川家康 (2025/10/02 訪問)

 もともと土豪会田出羽の陣屋があった場所でしたが、放鷹時の宿泊所などのために徳川家康が増林にあった御茶屋御殿を移したものといわれています。遺構はありません。石碑と説明板がありました。

 越谷駅より徒歩15分くらいです。

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宇田長左衛門 (2025/10/02 訪問)

 大相模小学校付近が跡地ですが、平日ということもあり復元された長屋門がある花田苑へ行って行きました。

 越谷駅からバスに乗り花田苑入口下車。バス停から1分くらいで行くことができます。

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ナマズ

100城突破!

2年かけてやっと100個以上の城を行くことができました

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しんちゃん

主郭 (2025/07/01 訪問)

主郭の西側には堀切があり、主郭に入ると北側に竪堀が有ります。登った時とは別の麓に降りてきましたが、ここにも段々の扁平地が有りました。いずれかは居館跡ではないかと思うのですが標識も何も無いし、なんとも言えませんね。

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しんちゃん

井川 (2022/01/04 訪問)

静岡市葵区井川にある井川湖は「井川五郎ダム」が造られた時に出来た人造湖です。周囲約10kmの大きさで南アルプスの水が流れこんでいます。井川大橋は全長258mの吊り橋で2tの車まで通行可能です。パッと見は木製の吊り橋なので、ここを車で通行できるとは驚きです。じつはここにも夢の吊り橋があって渡ることが出来ます。構造は寸又峡にあるものと同じですかね・・知名度ではいささか差がついてしまった感はありますが、これはこれで良いですよ。

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しんちゃん

馬背岩(うまのせいわ) (2021/06/27 訪問)

新城市の宇連川の中央に馬の背中に似た岩の高まりがあり、馬背岩と呼ばれていて国の天然記念物に指定されています。中央を直線的に貫く垂直の岩は安山岩ですが、周囲の岩は凝灰岩で出来ています。
どうやって登るのか長い間不思議に思っていましたが、よさげなルートを発見した時に訪問しました。パッカ・・パッカ・・

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朝田 辰兵衛

得意の途中下車で…🚉 (2025/08/23 訪問)

京浜東北線の北浦和駅で途中下車。徒歩約15分。京浜東北線は路線バス感覚で利用してます。実際,そんな人は多いのではないでしょうか…?
急ぐ人は行き先によって,宇都宮線,埼京線,湘南新宿ラインで,埼玉県と都心部を行き来しているのではないかと予想します。
歩いている途中,ひときわ目を引いたのが,ラーメン店の行列でした。埼玉県民なのか,東京方面から来たのかは不明。炎天下に並んで,熱いラーメン🍜…私はパスです。

針ヶ谷陣屋は,北浦和東公園を目指してください。たったこれだけ…<笑>。

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ぷあー

謎の城🏯 (2025/10/02 訪問)

大阪天王寺で見つけた小さな城🏯

廃業したホテルでした。😅

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トク

【宮本武蔵】(13)小倉城(巌流島の決闘(後編)) (2025/06/18 訪問)

宮本武蔵の続き(13)です。

決闘は関門海峡に浮かぶ「船島」で行われました。門司城代の沼田延元が見聞役を務めます。そして両者に助太刀話は無用、1対1の決闘で行うべし、とされたようです。そこで皆さんが知っている巌流島の決闘は、こんなイメージではないでしょうか?

----(今までの通説)----
小倉藩の剣術指南役である小次郎に、武蔵はどちらが強いのか決闘を申しみ、関門海峡に浮かぶ巌流島で決闘をした。小次郎は長い90cmの刀の使い手、故に武蔵は当日、船の上で櫂を削ってそれより長い115cm木刀を作り、そのせいで2時間も遅刻する。いらだった小次郎は「遅いぞ武蔵、臆したか!」と叫び鞘を投げる。それを見た武蔵は「小次郎、負れたり!」と叫び、燕返しをかわし、一刀両断の元に小次郎の額に一撃を加え、これで小次郎は死して決着がついた!
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しかしこれは吉川英二さんの小説(創作)によるもので、それをまたドラマでおもしろく脚色された内容なので、事実とは全く異なるようです。

この時見聞をしていた沼田延元の家臣の記録(沼田家記)によると、両者はちゃんと遅れず定刻(同時)に着いたそうです。そして武蔵は、最初から持ってきた木刀で一刀両断のもとに勝ち、すぐその場を立ち去ったのは間違えないようです。しかし武蔵はこの時、小次郎にはまだ息があったと事を確かめ、延元に手当てを依頼して去って行きました。木刀なので武蔵は最初から小次郎を殺す気など全く無かったと思われます。ところがその後、隠れていた新免氏の弟子たちが出てきて、何とボコボコに殴って殺してしまったというのです。

どうやら弟子たちは無二斎から「絶対に小次郎を殺せ」と命じられていたのではないでしょうか? 延元も興長の密命を受けていたのか、手当てをするどころかこの弟子たちの行為を黙認したと思われます。

さらにそれだけではありません。後でそれを聞いた小次郎(岩流)の弟子たちが今度は黙っているわけがありません。1対1と決まっていたにもかかわらず、弟子に助太刀をさせた卑怯な武蔵を襲って仇を討とうとします。危険を察した武蔵は沼田延元の屋敷に隠れます。そして細川家家老の松井興長が、自らの鉄砲隊を護衛に付け、武蔵を無二斎のいる中津まで送り届けたそうです。さすがの岩流一族でも、細川軍の鉄砲隊が相手では手が出せなかったというわけですね。

しかしこの結末に地元の人たちの反応は意外でした。武蔵を卑怯者と呼び、正々堂々と決闘をした小次郎の方を称賛し偲んだそうです。そして船島を小次郎の流派「岩流(巌流)」にちなみ「岩流島(巌流島)」と名付け、人々は亡き小次郎をここで供養したそうです。

小倉城では、武蔵が木刀を振り下ろす様子が人形で再現されています。さああなたも小倉城を訪れ、武蔵と勝負してみてはいかがでしょうか!

「城びと、負れたり~!」😱~(写真⑤⑥)。

次は、武蔵が出陣した大坂の陣で関わった水野家の(福山城)を訪れます。
 

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飛騨市

飛騨神岡の城めぐりオータムキャンペーン2025

飛騨の夏も過ぎ、涼やかな秋の季節、飛騨の城をめぐってみませんか?


江馬館と神岡城の共通入館券(おとな300円)をお買い求めいただいた方には、
高原郷土館・江馬館の2館を入館された方に名勝江馬氏館跡庭園の見どころ・見方がわかる特製クリアファイルをプレゼントします。


詳細は、飛騨市公式観光サイト「飛騨の旅」内以下リンクをご参照下さい。

https://www.hida-kankou.jp/event/856

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飛騨市

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https://www.hida-kankou.jp/event/856

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イオ

小牧長久手の戦いの砦めぐり(岩崎山砦・田中砦・二重堀砦) (2025/06/01 訪問)

(続き)

岩崎山砦(小牧市岩崎)
熊野神社が建つ岩崎山に築かれた砦で、稲葉一鉄・貞道らが4千の兵で守ったとされます。南西麓の岩崎中会館の前に岩崎山砦跡の石碑と説明板が立てられていました。岩崎山の頂部からは小牧山城をすぐ近くに望むことができます。また岩崎山は花崗岩の岩山であるため、名古屋城石垣の石切場になっていて、矢穴のある石も見られました。

田中砦(小牧市東田中)
三ツ山古墳群の三基の古墳を利用して築かれた砦で、堀長政、蒲生氏郷、加藤光泰らが1万3千の兵で守ったとされます。三基の古墳のうち南端の三号墳のみが現存し、北裾に田中砦跡の石碑と説明板が立てられています。往時は岩崎山砦から田中砦を経て二重堀砦まで土塁が築かれていたようですが、現在では痕跡も見られません。

二重堀砦(小牧市二重堀)
小牧山城に最も近い最前線の砦で、日根野弘就らが2千の兵で守ったとされます。二重堀の地名が残る住宅地の一角に日根野備中守弘就砦跡の石碑が立てられていますが、現在地に移設されたものであり、遺構は耕地整理により消滅していて砦の所在地も不明のようです。

さて、この後は小牧山城に攻め込むつもりでしたが、6つの砦めぐりに思いのほか時間を要したため、またの機会に徳川軍の砦と一緒にめぐることにして、金龍紀行の一環として別の機会に行く予定だった清洲城に行先変更。犬山城や青塚砦は昨年に登城済みなので、これで城びとの記事で紹介されていた楽田城周辺の羽柴軍の城や砦は全部行けたよな、と思って帰宅して記事を読み返してみると…小口城を見落としてた~っ! 清洲城より小口城に行くべきでした…やれやれ(この日二度目)。
 

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