「出兵の 胃袋支えた 清水山」
(しゅっぺいの いぶくろささえた しみずやま)
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2025/09/14 22:46
【赤色立体地図かるた】
「出兵の 胃袋支えた 清水山」
(しゅっぺいの いぶくろささえた しみずやま)
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2025/09/14 22:45
【赤色立体地図かるた】
「金田城 彼方の半島を 睥睨し」
(かなたのき かなたのくにを へいげいし)
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2025/09/14 22:39
2025/09/14 22:19
学び舎去って城址残る (2024/12/31 訪問)
志筑城は恋瀬川の南の台地の鼻先に築かれていました。平安時代末から鎌倉時代にかけての武将・下河辺政義は地頭職に任じられ常陸南部を治めていました。子孫は益戸姓を名乗り志筑城に拠ったとされています。益戸氏は南北朝時代には小田氏配下として南朝に味方しますが、小田治久が高師冬の謀略に陥り降伏したことにより廃城になりました。
慶長6年(1601)徳川家康の命により本堂茂親が志筑に移封され、陣屋が築かれ明治まで続きました。その後、明治26年から平成23年まで小学校が有りましたが、移転してサラ地になってしましました。幸いにも土塁の一部が残っています。
城址には新選組に誅殺された元新選組参謀・伊東甲子太郎の顕彰碑があります。甲子太郎は交代寄合本堂家家臣・鈴木忠明の長男として生を受けたためその縁ででしょう。しかし、どうするのか このサラ地・・
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2025/09/14 21:54
ファーム (2024/12/31 訪問)
戸崎城は戸崎氏によって築かれました。戸崎氏は戦国時代、小田氏の有力な家臣として活躍しましたが天正元年(1573)佐竹氏の攻撃を受け落城し、その後は佐竹氏に従いました。戸崎城には飯塚兵部少輔が入りましたが、慶長7年(1602)の佐竹氏の出羽秋田への移封により廃城になりました。
郭としては本丸がその形状を留めていますが土塁などの遺構はみあたりません。他にも天神丸や二の丸もありますが、いずれも畑地になっています。まあ、見学できただけ良かったのかも。
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2025/09/14 16:22
西園寺公望別邸 興津坐漁荘 (2022/01/08 訪問)
西園寺公望公は嘉永2年10月23日、清華家の一つ徳大寺家の次男として誕生しました。清華家は五摂家に次ぐ公家の上位であり徳大寺家を含む七家が其れに当たります。公望は若くして岩倉具視に見いだされ、戊辰戦争では各地を転戦しました。
フランス留学後に政治家になり伊藤博文の腹心として活躍し、政友会総裁などを経て明治39年には内閣総理大臣にも就任しています。大正元年の第二次西園寺内閣の際には陸軍の二個師団増設を拒み総辞職に至りました。
このころから軍の拡大に対抗する政治家のイメージが見られます。公望は明治・大正・昭和と政界に大きな影響力を持ち、満州国建国の際には犬養毅首相に対し強く反対を訴えていましたが、犬養氏は五・一五事件で殺害されてしまいました。
陸軍に頭を悩ましていた昭和天皇にも信頼されていたようで、昭和12年 広田内閣が総辞職した際には、昭和天皇は興津で療養中の公望に湯浅倉平内大臣を遣わして次の首相は誰が良いか意見を求めています。公望の回答は宇垣一成陸軍大将で、かつて加藤高明内閣での陸相時代に大規模な軍縮を実行した実績を評価したのだとされています。実際には宇垣は浮いた予算を旧式の装備の刷新に回しただけとも言われますが、宇垣内閣の結成は石原莞爾らの大反対を受け、陸相の引き受手がなく、内閣を結成することが出来ませんでした。
昭和天皇は宇垣を「処世術は天才的で巧み」と評していたと独白禄に有るようですが、これは陸軍に対して強硬に出ることが出来なかった彼への皮肉が込められているようにも感じます。
坐漁荘は昭和初期まで日本の政治の重要な局面にかかわり、昭和43年に明治村に移築されました。写真は静岡市清水区興津清見寺町にあるもので、平成16年に復元されたものです。復元とはいえ、この場所で日本の歴史が動いて来たと考えると感慨深い。陸軍の増長に対抗し続けてきた明治以来の巨頭の最期の住まいがここになると思うと、なおさらです。
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2025/09/14 15:51
【赤色立体地図かるた】 (2025/09/06 訪問)
千の曲輪 総石垣の 観音寺城
(せんのくるわ そういしがきの かんのんじじょう)
観音寺城の中枢部分は谷を挟んで観音正寺境内西側の尾根にある伝本丸・伝平井丸・伝池田丸・大石垣でこの曲輪にある石垣を見学して満足し、観音寺城を攻略したつもりでいました。
この度、安土城考古博物館の学芸員の方の話を伺ったり、先達の投稿されてるものを読んだりして、観音寺城には自分の知らない見所が他にも沢山る事をしりました。(薄々は知っていましたが、観音寺城の中枢部分で満足していました。)
次回、観音寺城を攻略する際は、繖山山頂にある伝沢田丸から伝布施淡路丸までを攻略し、麓の伝御屋形跡を攻めたいと考えています。
今回も繖山三角点を目指し少し登って行ったのですが、藪に迷い込み鹿児島の志布志城攻略を思い出し、怖くなって諦めました。
11月頃から12月中に再度攻略し、皆さんに投稿したいと考えています。
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2025/09/14 15:16
訪問日が... (2025/06/05 訪問)
6月5日に訪問したのですが1849年のこの日焼失したことを知り感慨深かったです
福山という丘に立っていたため福山城と呼ばれていました
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2025/09/14 15:08
暴風雨でした (2025/06/04 訪問)
暴風雨で滞在時間5分でバスに乗り込みました
よくわかりませんでした
スタンプゲットのみ
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2025/09/14 14:24
水戸城 (2024/12/31 訪問)
これまで水戸城の遺構といえば本丸跡に残っている藥井門か水戸藩の藩校であった弘道館ぐらいだったのですが、二の丸隅櫓や大手門が復元され、学びのエリア+城址の復元がうまい具合に成り立ってきました。天守代用の三階櫓も欲しいけど、学校の敷地の関係から再建は難しいらしい。しかし、この櫓・・実にシンプルなデザインだ。「三階物見」と呼ばれていたようだが、三階は人が数人入ったらぎゅうぎゅうになってしまうのではなかろうか。個人的には、この人を喰ったようなデザイン・・嫌いじゃない。
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2025/09/14 13:57
森将軍塚古墳・長野県千曲市 (2013/08/12 訪問)
似たような名前に埼玉県の将軍山古墳がありますが、こちらは長野県の森将軍塚古墳になります。古い写真の上に城郭ではありませんが、ご容赦いただきたい。他にも三基の前方後円墳があり、これらを一括して埴科古墳群と呼び国の史跡に登録されています。
4世紀末~6世紀ごろに造られたとされ、全長100mの森将軍塚古墳は長野県で最大の前方後円墳とされています。麓の村跡から見上げた姿は石垣で築かれた山城のようです。およそ11年の歳月をかけて復元され、学校の教科書にも載っているようです。千曲川や街道を押えるのにうってつけの場所にあり戦国時代にここに砦が置かれていたとしても何の不思議もないでしょう。
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2025/09/14 13:00
名古屋城 (2024/03/09 訪問)
地質学雑誌に記載された西本昌司氏のレポートによって本丸搦手馬出の石垣の石の配置図を見ることができますが(ネットでも閲覧可)、訪問時は本丸搦手馬出は工事中で周辺は立入が禁止されていました。そのおかげで周辺の石垣も遠景でしか見ることが出来ない。
いずれにせよ搦手馬出しの周囲には水堀があるので北面は対岸から見ることになるだろう。次の課題にしよう。
城内には青松葉事件にかかわる石碑があります。これまでの訪問時にはスルーしてきたのですが、青葉松事件とは慶応4年(1868)1月20~25日にかけて藩主・徳川慶勝によって佐幕派の藩士(重臣含む)14人が処刑された事件です。
慶応3年10月に大政奉還が行われ、徳川慶喜はまだ将軍職を勅許された状態でしたが薩長は討幕に動き、慶喜が江戸に戻ってすぐに青葉松事件が起こりました。処罰された有力な重臣・渡辺新左衛門家の別称が「青松葉」だったため青松葉事件の名称で呼ばれるようになりました。
徳川義勝は元は高須藩の出身で、高須藩は尾張徳川家2代徳川光友の次男・義行によって再興され尾張徳川家御連枝として四谷松平家が継承していました。尾張徳川家の嫡子が途絶えた時にこれに養子を提供する役割を果たしており、義勝の弟の容保は会津藩を継いでいます。青葉松事件で殺害されたものの中には前藩主に近い者が多く、佐幕派以外の人物も含まれていることから藩内の権力闘争に利用されたっとの見方もあるようです。岩倉具視が絡んでいるともされ、ドロドロしていて気味が悪くなってきますね。
鳥羽・伏見の戦いの前に落ち目の幕府を見限って立場を鮮明にしたようにも見えますな。
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2025/09/14 12:30
織田家本城 (2025/08/07 訪問)
名古屋へ出張、仕事前の空き時間で登城しました。
地下鉄東山線の覚王山駅から徒歩で12分。
城山八幡宮を目指し、武道場の養心殿から二の丸の昭和塾堂を経て本丸へ。
本丸は城山八幡宮の駐車場になっています。
端の方に石碑も立っていました。
本丸の北側の曲輪に八幡宮が鎮座します。
お参りをして東側の女坂へ。
立派な空堀が横たわります。
この時季なので草ぼうぼうですが一部草が刈ってあり堀底に降りることができました。
街中なのにこれが残っているのは素晴らしいです😊
南側の堀には赤い橋も架かっています。
こちらが八幡宮の表参道ですね。
ご存知のように織田信秀が築いた城で案内板にも「織田本城」と書かれています。
信秀死後は織田信勝(信行)に譲られましたが、信勝が信長に謀殺されたあとに一旦廃城に。
後に織田信雄が小牧・長久手の戦いに備えて入っています。
現存する遺構はその際に整備されたもののようです。
【見どころ】
・八幡宮を囲む深い空堀
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2025/09/14 07:11
【赤色立体地図かるた】
「海風に 宴の残り香 名護屋城」
(うみかぜに うたげののこりが なごやじょう)
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2025/09/14 07:08
【赤色立体地図かるた】
「空角の経始 令和も健在 宇和島城」
(あきかくのなわ いまもけんざい うわじまじょう)
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2025/09/14 06:09
柳津城 (2025/09/13 訪問)
美濃斎藤氏の家臣である竹腰摂津守重直の居城と伝わります。岐阜県岐阜市にある城びと未登録の城址です。摂津守が1556年(弘治2年)に起きた斎藤道三と息子義龍のよる「長良川の戦い」で、義龍側として参加し戦死。その後、叔父の成吉摂津守尚光(竹腰尚光)が城主となり、義龍に仕えました。城は後に起こった大洪水で廃城となっています。竹腰氏は没落しますが、後に竹腰正信が徳川家康に仕えます。正信の母お亀の方は夫正時と死別後、徳川家康の側室となり尾張徳川藩の藩祖となる義直を出産します。この縁で正信は家康に仕えるようになったようです。その後、正信は尾張藩の附家老となり、竹腰氏は幕末まで尾張徳川家を支えました。
現在城址は光澤寺の境内となっており、遺構はありません。本堂裏に城址碑、門の前に説明板が建てられています。
名鉄柳津駅から徒歩5分くらいで行くことができます。
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2025/09/14 06:00
森部古戦場と森部城(岐阜県安八郡安八町) (2025/09/13 訪問)
前田利家の織田家への復帰が叶えられたことで知られる合戦跡です。美濃を支配していた斎藤義龍が急死すると、跡を継いだ龍興が14歳と若年であったため織田信長は美濃へ侵攻します。この地で織田軍1500、斎藤軍6000と数の上では劣勢でしたが、信長は斎藤勢を打ち破りました。
織田信長に仕えていた前田利家は信長の寵愛を受けた同朋衆の拾阿弥を、愛用の笄を盗んだことから斬り倒してしまい織田家から追放されました。帰参を望む前田利家は桶狭間の戦いに無断で参加し武将首を取る成果を挙げましたが、織田家へ戻ることは許されません。そしてまたも無断で参加したのが森部の戦いです。この戦いで利家は斎藤勢の中で「首取り足立」と猛将と恐れられていた足立六兵衛を討ち取ります。足立六兵衛は信長に「足立の首は、城一つ攻め滅ぼしたも同然」といわせたほどの武将でした。他にも首を取った前田利家は織田家への復帰が許されます。
「鎧掛けの松」は首実験のおり、信長が鎧を掛けた松と伝えられています。現在は二代目の松が「出世の松」として植えられています。NHK大河ドラマ「利家とまつ」を記念して、信長、利家がこの地から出世していったという縁起にあやかって「出世の松」植樹となったようです。首実検はしたのが、近くの薬師堂で説明板などがありました。
「出世の松」から北に約1.2Km歩くと森部城跡(城びと未登録)があります。遺構はありません。南隣の金峯神社は本郷城主稲葉正成の屋敷跡です。
おまけ
近くに三洋電機が2001年12月に建設した巨大建造物「ソーラーアーク」がありました。新幹線で名古屋から京都方面へ行くときに右手に見えてくる建造物ですが、ここにあったのですね。
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2025/09/14 05:37
本郷城 (2025/09/13 訪問)
岐阜県羽島市にある城びとには未登録の城址です。
稲葉正成が慶長6年(1601)より元和9年(1622)まで葉栗郡内と中島郡内を合わせてほぼ一万石を領して居城とした城です。説明板によれば城域は神明神社の西に広がる水田2ヘクタール程であり、明治14年以前には城の内と呼ばれていました。遺構はなく神明神社に石碑があり裏に説明板が彫られています。
稲葉正成は、以前は小早川秀秋に仕えていた武将で関ケ原の戦いでは平岡頼勝と共に徳川家康に内通し秀秋を東軍に寝返らせる事に成功した武将ですが、経歴を見ているとなかなか興味深い人物です。妻は後に春日局となる福ですが、彼女が徳川家光の乳母になった後は離縁しています。
新幹線岐阜羽島駅もしくは名鉄新羽島駅より徒歩約10分の場所にあります。
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2025/09/14 00:15
再建大手門 (2024/12/31 訪問)
ここに来るまでに既に幾つか訪問してきたので、二の丸の角櫓を見に行くことは出来ませんでした。とはいえ、この日の目的は再建された大手門を見る事だったのでヨシとします。しかし、大手門の裏側はずいぶんあっさりしている。こんな構造だったのか。後ろにも目をつけるんだって誰か言ってなかったか? 門は以前は藥医門しかなかったので、ずいぶんイメージが変わった。
中はどうなっているのか興味があるな。
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2025/09/13 20:41
二俣城の堀切それぞれ (2025/02/25 訪問)
二俣城には南側先端の南の丸Ⅱ南下に一号堀、南の丸Ⅰと南の丸Ⅱの間に二号堀・切岸、南の丸Ⅰと二の丸の間に三号堀・切岸、本丸と北の丸の間に四号堀・堀切、北の丸の北側に五号堀・堀切(現在は北の集落への道路と二俣城専用駐車場に成って遺構は判りずらい)、南の丸Ⅰの西下に二号竪堀、西の丸Ⅱの南下に一号竪堀が存在しています。本丸に在る二俣城案内パネルに二俣城実測縄張図が掲示されて居ますのでご確認ください。
今だ、一号堀と一号竪堀は未確認です。
今年の2月25日冬枯れの樹木の葉っぱが落ちて、草刈、樹木伐採の清掃整備が出来上がった頃を見図って出掛けました、晴天世良い一日でした。今回の投稿で2025/02/25撮影の写真投稿は終了です。
続いて鳥羽山城を同じく探訪しましたの続いてタイミングを見て投稿させて頂きます。
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