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カズサン

大手門・大手道辺り1/3 (2024/11/04 訪問)

 長年愛用していたコンパクトデジカメが不具合と成り、それより以前に愛用していたコンパクトデジカメを再デビューの試し撮りをと近くの鳥羽山城跡に半年ぶりに訪ねました。
 台風21号の崩れの熱帯低気圧に影響された秋雨前線が一昨日通過して夕刻時風雨に曝され、一時は竜巻注意報も出る荒れ様でした、一日置いて晴れ間の本日午前中に撮影探訪、昼前でしたので家族連れ方々、学生の方々トレーニングと多くの方が訪れていました。
 駐車場の在る南の丸Ⅰに駐車して、登城開始、一昨日の荒れた風雨の関係か枯れ葉に小枝、枯れ木が駐車場、散策遊歩道に散乱している、大手道から入り、石畳の大手道、大手道発掘で出土した大手道北側の大石を観察して、本丸東土塁の南端突き出し残存石垣の観察、大手門跡の入り南の桝形より望み、西、東側の石垣を確認撮影。

 大手門跡、大手道に在る楓はまだ蒼く紅葉までには後ひと月12月に入ってからかなの状態でした。

 駐車場:南の丸Ⅰ駐車場20台は可能、南の丸Ⅱ砂利駐車場も有ります、南の丸Pトイレ完備、本丸北の搦手にも在り(古い)

 搦手門・西廻り2/3へ続く。
 
 

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ぎりょう

美しさに感動! (2024/11/03 訪問)

 外郭南門に続く築地塀ができ、門の周囲が開放されるとのニュースをみて多賀城を訪問しました。令和5年3月の南門復元工事完了後、何度か訪問しているのですが、築地塀や周囲の設備工事が続いており、これまで近くで見ることができませんでした。今回も創建1300年の記念行事の開催にあわせた期間限定の開放で、11月5日以降は、令和7年3月の工事完成までは部分的な開放に戻るようです。
 連休の中日、前日の雨も止んだ秋晴れの下、美しい南門を目にし、門を潜ると右手には、この8月に国宝に指定された多賀城碑、正面には政庁跡の景観が広がります。正殿の礎石、復元された城前地区をゆっくりと見ることができました。
 午前中の早い時間でしたが、駐車場はすでにいっぱい、南門や多賀城碑、政庁跡には多数のボランテイアガイドさんが控えており、訪問客への説明を行っていました。ありがたいことです。

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小城小次郎

舌石を眺める絶妙ポイント (2024/02/23 訪問)

JRの跨線橋の上から下を覗き込んでいる人がいたら相当なマニアか変質者(笑)。かつて石垣上に設けられていた屏風折れの塀を支えるために石垣から突き出した「舌石(したいし)」を眺める絶妙ポイントなのだ(解説板もそこについてるけど)。

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トク

観世音寺のコスモス畑から見上げた岩屋城 (2024/11/03 訪問)

大宰府政庁の隣にある観世音寺(かんぜおんじ)のコスモスが咲き始めたと聞いたので、見に行ってきました(写真④)。例年より一カ月近く遅い開花でしたが、九州にもやっと秋がやってきたようなそんな感じがします(でもこの分だと紅葉は12月かな🤔?)。この後、ここからの自然遊歩道を登って岩屋城へ登城しようと思っていましたが、ここ最近イノシシが出没しているらしく、昨夜もコスモスを食べに来た?と聞いたので、今日一人での登山はやめる事にしました(笑)(写真⑨)。

観世音寺は、670年頃に天智天皇が母である斉明天皇を供養するために建てられた、当時は西日本最大級の寺院だったそうです。僧に授戒する「戒壇院」(写真①)を設けるなど、かつては金堂もあったそうです。九州最大級の仏教彫刻などの重要文化財が宝殿に保菅されていたので見学してきました(写真②:撮影不可のためパンフレットで)。斉明天皇は白村江の戦いの陣頭指揮をとるため九州に下向しますが、その最中に没してしまいます。後を継いだ天智天皇(幼名:中大兄皇子)は、その白村江の戦いに敗れた後に新羅からの反抗を恐れ、ここ大宰府政庁を防衛の拠点として、回りに大野城・基肄城・水城の防衛ラインを築きます。さらに信仰の寄り所となる観世音寺と合わせラインを完成させたので、この地を大変重要視していた事が分かります。

それから度重なる火災などで観世音寺は廃墟となりますが、江戸時代に入り福岡藩2代藩主の黒田忠之(長政の嫡子)が規模を縮小して再建し、その本堂と戒壇院が現代に残っているとされています。

1586年の岩屋城の戦いの際には、島津忠長(義久の叔父)がここ観世音寺の本堂を本陣とし(写真③)、3万の軍勢で山上に籠る大友重臣の高橋紹運を取り囲みます。岩屋城で守っていたのはわずか763名。しかしそのわずかな兵で2週間も持ちこたえ、最後は誰一人逃げず全員が紹運とともに壮絶な討死を遂げ、島津勢にも大損害を与えます。さらに豊臣秀吉が南下してきたため、これにより島津は九州制覇を断念しました。

私は観世音寺から岩屋城を見上げてみました。なかなか落ちぬ岩屋城を、島津忠長はどんな思いでここから見上げていたのでしょうか?(写真⑤)

岩屋城陥落後、紹運の首実検をした忠長は、「我々はまれなる名将を殺してしまった・・・紹運と友であったなら最良の友となれたであろう」と言って涙ぐみ、薩摩へ撤退したそうです。

観世音寺から同じく政庁の隣にある、令和の年号の由来にもなった「坂本神社(大伴旅人の館跡)」にお参りし、大宰府政庁で大野城と岩屋城を見上げながらお弁当を食べて寝転がり、秋の一日をのんびりと過ごして帰りました(写真⑥⑦⑧)。
 

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イオ

足守陣屋(岡山市北区足守) (2024/09/15 訪問)

足守陣屋(城びと未登録)は、江戸前期に木下利貞が築いた陣屋で、木下氏のもとで明治まで存続しました。

足守観光用の無料駐車場から登城開始。足守陣屋跡は公園として整備され、大手口脇に石碑と説明板が立てられています。陣屋跡の南東辺から南西辺には水堀と石垣が遺り、大手口脇には横矢掛けの折れも設けられていました。廃藩置県により陣屋の建物は県庁に、その後は学校に転用されましたが、幕末期に陣屋北端部に増築された藩邸の一部が木下利玄生家として現存しています。生家手前の長屋門は明治に旧足守藩士の屋敷から移築されたもので、かつては木下氏に伝わる貴重な史料が保管されていたそうです。陣屋の北東には木下氏の庭園である近水園が広がっています。池のほとりには仙洞御所普請の残材を用いて建てたとされる吟風閣が佇んでいて、小さいながら趣のある庭園でした。

陣屋跡から陣屋みちを南東に進んだ小学校南隅には、藩主一門の木下権之助屋敷の表門が移築されています。その道向かい南側には足守藩家老を務めた杉原氏の屋敷(旧足守藩侍屋敷)があり、表門にあたる長屋門、土蔵、母屋、湯殿まで完存しています。屋敷内も無料公開(9:30~16:30・月曜休)されていますので、時間が許せばぜひ。また、江戸後期の蘭方医・緒方洪庵は足守藩の出身とのことで(下調べで初めて知りました)、足守川東岸の生家跡は緒方洪庵誕生地として、へその緒と遺髪を納めたと伝わる顕彰碑と銅像が建てられ、産湯の井戸もありました。足守藩医・山田元珉の屋敷跡は足守歴史庭園として整備され、足守ゆかりの人物を紹介する銅板が掲示されています。

…実は足守を訪れるのは二度目で、昨秋にもニッポン城めぐりのイベントのために来ているんですが、折悪しく足守メロンまつりの日だったため大変な人出で駐車場の空きがなく、泣く泣く断念した(ポチ制覇だけはしました)ことがあったので、昨秋の取りこぼしの回収としての再訪ながら、陣屋跡と街並みには風情があり、イベントに関係なく来た甲斐がありました。
 

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todo94

日帰り羽越ドライブでの攻城③ (2024/10/20 訪問)

羽前横山城から北上してアプローチしました。駐車場完備の円通寺から直登してみましたが、結構厳しいものがありました。天降神社からの方が若干楽かなとは思います。朝田辰兵衛さんの写真に比べると下草、熊笹が多くて見栄えがよろしくありませんね。吉川弘文館の続・東北の名城を歩く南東北遍に所収の城なのに本書をもっていくのを忘れ、Ⅱ郭や空堀はチェックし損ねました。下草が多くて入り込むのは困難だったとは思います。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)10日目:丹南陣屋 (2024/10/01 訪問)

近鉄バスの丹南バス停から徒歩5分くらいで、来迎寺境内石碑前(34.558602、135.555188)に着きました。

1623年(元和9年)高木正次によって築かれたと云われています。 高木氏は三河国碧海郡高木村を本貫とする清和源氏の後裔で、水野氏などに仕えた後、徳川家康に仕えた一族だそうです。
初代高木正次は関ヶ原合戦の後7,000石を所領とし、大坂の陣で2,000石を加増、1623年(元和9年)には大坂定番に任ぜられて1,000石を加増され、都合10,000石となって諸候に列しました。
高木正次を祖とする丹南藩は一万石のまま十三代続き、高木正善のとき明治に至る。

丹南陣屋は来迎寺の東隣に築かれていました。
案内板と石碑の写真を撮り撤退しました。
攻城時間は5分くらいでした。本日の城巡りは、ここがラストです。
本日の宿泊先に向かう為、とりあえず近鉄バスの丹南バス停から羽衣駅のホテルに向かい、荷物を受け取った後、大阪府の動物園前駅に向かいました。
本日の攻城徒歩=31896歩、攻城距離=22.32Kmでした。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)10日目:一津屋城 (2024/10/01 訪問)

小山城から徒歩30分くらいで、厳嶋神社付近(34.579370、135.575662)に着きました。

一津屋城は三好駿河守の居城として知られています。その後、三好氏を追い出し河内を支配した織田信長によって高屋城や飯盛山城とともに破却されたようです。

厳嶋神社は前方後円墳を利用した出城跡のようです。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=丹南陣屋を目指す為、近鉄電車で恵我ノ莊駅から河内松原駅に向かい、河内松原駅で近鉄バスを乗り替え、丹南バス停に向かいました。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)10日目:小山城 (2024/10/01 訪問)

近鉄バスの小山バス停から徒歩5分くらいで、小山城跡地付近(34.581824、135.593665)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、南北朝時代に志貴右衛門によって築かれたと云われています。 志貴右衛門は南朝方として八尾の別当兼幸と争ったそうです。
高屋城主で河内国守護職畠山義就は、重臣の安見備中守清時を小山城主としました。
清時、清範、友重と続きましが、1566年(永禄9年)三好康重によって攻められ落城、安見友重は交野城へ退いています。

小山城は津堂城山古墳を利用した城郭であったそうです。
津堂城山古墳は公園として整備されています。石碑や説明板は城山古墳のもので、城というよりは古墳という感じです。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=一津屋城へは、ここから徒歩で向かいました。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)10日目:狭山陣屋 (2024/10/01 訪問)

大阪狭山市駅から徒歩10分くらいで、御殿跡公園(34.508242、135.555125)に着き、その後、長屋門前(34.506945、135.555323)に向かいました。

1616年(元和2年)北条氏信によって築かれました。 狭山藩北条氏は、小田原北条氏康の五男北条氏規の嫡子北条氏盛を初代とするそうです。
小田原北条氏は豊臣秀吉の小田原征伐により、当主の北条氏直は高野山へ移ることとなりました。
1591年(天正19年)赦免されて関東と近江で10,000石の所領が与えられ大名として復活しますが同年に没し、その遺領のうち下野国4,000石と北条家の名跡を北条氏盛が継ぎました。
さらに1598年(慶長3年)父氏規が没すると、その家督を継いで遺領7,000石が安堵され、計11,000石となって大名に列しました。
二代北条氏信は1608年(慶長13年)わずか八歳で家督を継ぎました。1616年(元和2年)この氏信のとき下屋敷に陣屋が構えられ、三代氏宗のとき上屋敷が完成しました。
1782年(天明2年)北条氏あきら(日方)のとき火災によって陣屋は焼失しましたが、1786年(天明6年)以降に再建されたようです。

狭山陣屋は狭山池の東方に築かれていました。狭山池に流れる東除川を境に北に上屋敷、南に下屋敷があったようです。
陣屋御殿は上屋敷にあり、御殿跡の一角に小公園があり、説明板と石碑が設置されています。
公園と小学校との間に長屋門(有限会社狭山開発の看板が上がっています)があります。
電車の時間がせまっている為、攻城時間は5分で早々に撤退しました。次の攻城先=小山城を目指す為、大阪狭山市駅から電車(南海線➡近鉄線)➡近鉄バスを利用して小山バス停に向かいました。

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しんちゃん

ラーメン食べすぎですね でもやめられない (2024/11/03 訪問)

ぴーかるさん、ラーメンの件、すみっこにちっちゃく書いただけなのに読んでいてくれましたか。すごい嬉しいです。
東海で行くとこが無くなっちゃったので、昌官忠さんのあとをくっついて行くように奈良・大阪を車で回りましたが、いろいろ手洗い洗礼を受けました。心が折れかかっていますが、数日でもとに戻ります。
「上越家」のラーメンもどのラーメンもおいしそうです。
今日は大阪の河内らーめん「喜神」の「醬油とんこつらーめんめちゃうま」とライスを頂きました。思ったよりあっさりで食べやすかったのでミニチャーハンでも良かったかな?と思っています。もちろん、とても美味しかったです。大阪は美味しそうなラーメン屋や武将の名前のついたラーメン屋が多いですね(謙信とか清正とか)。

年齢的にこってりがキツくなってきましたが、ベストは程よく「こってり」「あっさり」です。矛盾しているようだけど長浜市の「長浜ラーメン」はすごい好きな味です。海洋堂ミュージアムの近くですね。滋賀県に遠征に行ったら10人前くらい箱買いしてこようと思ってます。
佐賀県佐賀市の喰道楽 大和バイパス店で食べたラーメンもメチャ旨でした。とんこつラーメンとちゃんぽんの中間のような味で、そのバランスはまさに「神」でした。思い出の中で美化さえているかもしれませんが、もう一度食べたい味です。
長崎の井出ちゃんぽん(どの店だったかな)は、もやしがすごいことになっています。数年前は食えたけど、今これが食えるかな?

載せきれなかったけど、鹿児島で食べたとんこつラーメンもすごく良かった。思い出はいつもラーメンの味です(食べ過ぎ!)
※掲載の都合で「鳥人」のラーメンがラストになってます。

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キンヤ

他に例がない銃眼のある石積櫓 (2024/10/12 訪問)

西エリアに続きまして、東エリアを投稿させて頂きます。

陣屋跡の虎口両側に石塁が築かれ、中に入ると緩やかな斜面が広がり、周囲は高い岩場になっています。
その西側上と北東側上の両方の尾根に見事な砲座があります。

陣屋跡から石積櫓へ行くには、長い梯子と断崖を通る必要があり、高所恐怖症の私としては怖かったですが、無事に着き石積櫓を見れて感動しました。
銃眼を備えた楕円型の石造りの櫓で、他に例がない貴重な遺構です。
銃眼とされますが、視界は山ばかりですし、断崖に囲まれたこんな所には攻めて来ないのではとも思われ謎です。
黒田軍に備えて、北西・西側方面の監視や情報伝達のための櫓のように思いました。

石積櫓は思ったほど怖くなかったので、弓形砲座にも行こうか迷いましたが、弓形砲座は更に危険で再度麓から登り直す必要があるらしく時間がなかったので断念しました。

大規模な山城で、石塁、堀切・竪堀、砲座、石積櫓など見所が多く、大変見応えがありました。
黒田軍に攻められ、内応者が出たこともあり、3日で落城したともされますが、力攻めで落とすことは難しい堅固な山城だと思いました。

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キンヤ

長大な登り石塁が圧巻の山城 (2024/10/12 訪問)

特異な石造りの城として有名な長岩城へ念願叶って行くことができました。

宇都宮氏一族の豪族 野仲氏の居城で、初代城主野仲重房が建久9年(1198)に築城したと伝えられます。
天正16年(1588)、城主の野仲鎮兼は黒田長政の大軍に攻められて落城し、廃城になったとされます。

谷を挟んだ東西の山に築かれ、東側の陣屋跡・石積櫓などのエリア、西側の各城戸・本丸などのエリアに分かれます。
見所が多いため2回に分け、まず西エリアを投稿させて頂きます。

一之城戸、二之城戸、三之城戸、東之台から本丸、西之台の至る所に石塁が張り巡らされています。
石塁は鉄平石と呼ばれる平べったい石が使われていて、長野県の山城で見た石積と似ていました。
三之城戸の長大な登り石塁が圧巻で、途中で折れもあります。
東之台から本丸までの登り石塁は更に長大で、両サイドに竪堀も並行しており圧倒されます。途中で砲座のような箇所、折れと横矢掛かりの箇所もあり巧妙です。
三之城戸、東之台から本丸の急な斜面の登り石塁は高く、斜面の横移動をさせない障壁です。
黒田軍が攻めて来る際に野仲氏が築いた石塁だとすれば、これ程の石を積むとは野仲氏や立て籠った人達は黒田軍に対してかなりの恐怖心や必死さを感じました。
本丸へ東之丸側から入る虎口は枡形状で、腰曲輪に入った後は左に折れ、更に右に折れて本丸へ上がるルートでテクニカルです。
本丸は割と小さめの曲輪で、西側以外の三方は腰曲輪が取り巻いてます。
本丸から西之台の間には、一文字堀虎口・一文字土居虎口と書かれた石塁の虎口があり、一旦右に入り、再度左に入るルートかもしれませんが、真っ直ぐに進むルートもあり構造はイマイチよく分からなかったです。
西之台の北側尾根は三重の堀切で守られており、堀切から竪堀となり下へ伸びています。
特に三重目は大きな堀切で竪堀も長大です。

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ぴーかる

鳴岩城 (2024/10/12 訪問)

【鳴岩城】
<駐車場他>東光寺駐車場あり。
<交通手段>車

<見所>主郭土塁(櫓台?)
<感想>日帰り丹波の黒枝豆購入と城攻めの旅2城目。初投稿いただきます。鳴岩城の詳細は定かではありませんが、城びとの城郭情報では主な城主に夜久氏がいます。見てきた城の規模や簡素な構造から戦国期以降の完全防御の籠城戦の感じではなく、麓居館から少人数で一時的に守れる詰め城という印象を受けました。
 登城口は東にある東光寺の裏の墓地から簡単に登っていけます。林道があるので迷う事はありません。墓地を抜けるとお寺に寄進された塔がある削平地に出ます。城跡の曲輪跡のようにも見えなくはない(理由は後述)と感じました。塔の奥から杉の植林整備された尾根道に入ります。土橋のような尾根道、右手(北側)に緩傾斜の扇状地を見つつ通ると切岸が立っているのでそこが主郭となります。
 主郭へは東から進入しますが虎口はなく、虎口は北側に1か所切通しの土塁虎口があります。主郭の西隅に土塁のような盛り上がりがあり、大きさから見て私は櫓台ではないかと思いました。主郭の北から西にかけて帯曲輪が走っていて主郭の西に薄い堀切になって帯曲輪と結んでいます。主郭から北・東・西と尾根が伸びて(南は崖)います。西方向の尾根は100m程水平に進み主郭と同じ高さの小さなピークがあります。3方向の尾根には堀切が全くないので、ここに私は防御性の薄さを感じました。
 戻って、前述の塔の削平地ですが、仮に東出曲輪とすると、主郭と東出曲輪の間の扇状地の防御の遺構(段曲輪や畝状竪堀)が無い事、主郭は北側に虎口があるので北からの外敵を東に追いやって主郭と東出曲輪間で駆逐するという造りにはなっていない事から「見えなくはない」という記述と考えに至りました。初投稿の登城ということで少し興奮しました。

<満足度>◆◆◇

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ハッスルオヤジ

片野城跡 (2024/11/03 訪問)

太田道灌の子孫、太田資正の居城だったそうです

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ハッスルオヤジ

小幡城 (2024/11/03 訪問)

噂通り土塁がすごかったです。迷路に迷う感じでした

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じゅんじん

八尾神社 (2024/10/18 訪問)

八尾神社に城趾碑がありました。近くのお寺には藤堂高虎が首見聞したと説明がありました。

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todo94

日帰り羽越ドライブでの攻城② (2024/10/20 訪問)

尾浦城からの転戦です。チェブさんがおっしゃる通り、いくつかある横山城の中では、ここが一番マイナーだと思います。朝田辰兵衛さんの情報も参考に、わずかに残された土塁だけ確認して北上を続けました。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)10日目:陶器城 (2024/10/01 訪問)

小谷城から若竹大橋バス停へ歩き、そこから南海バス➡泉北高速鉄道➡南海バスを経由して福田中バス停へ着きました。
福田中バス停から徒歩10分ちょっとで、東陶器公園入口前(34.517110、135.525551)に着きました。

陶器城は北条氏の家臣である陶器左衛門尉の居城でした。
楠木正成の一族によって攻められ落城すると、陶器氏も滅亡しました。
江戸時代には小出秀政の四男である小出三尹が城址近くに陣屋を構えました。

現在城址は「東陶器公園」として整備されており、公園の南側フェンスに沿って土塁の遺構を確認しました。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=狭山陣屋を目指す為、北野田駅から電車で大阪狭山市駅に向かいました。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)10日目:小谷城 (2024/10/01 訪問)

竹城台4丁バス停から徒歩2~3分で、阪和第一泉北病院入口(34.495107、135.499075)に着きました。

小谷城は平氏一族の小谷氏の居城でした。
戦国時代に入り1575年(天正3年)、大夫進種氾のときに織田信長による根来攻めがあり、この一帯も根来党であったために攻められ落城しました。

現在城址は阪和第一泉北病院の敷地となっており、本丸跡が公園化されていますが無断で立ち入ることはできません。
泉北病院の受付に声を掛け、小谷城見学希望の許可を頂いてから向かい、案内板と石碑を確認しました。
そこから、旧伯田陣屋裏門入口(34.492772、135.498513)に向かい、裏門を確認。小谷城郷土館は時間の都合で見学しませんでした。
小谷城郷土館への移動時間も含め、攻城時間は30分くらいでした。次の攻城先=陶器城を目指す為、若竹大橋バス停から南海バス➡泉北高速鉄道➡南海バスを経由して福田中バス停に向かいました。

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