真夜中、タクシーに乗り込む若い男女4人組。行き先は八王子城址(東京都八王子市)。季節は冬。「こんな遅くからですか?」と訝しむ運転手。まあいいか、とそれ以上は詮索しなかったそうです。
真偽はどうあれ、「出る」と言われ続ける関東屈指の山城。背景に悲話があります。
1590年、豊臣秀吉は天下統一の仕上げに小田原攻めを敢行。北条方の支城・砦の多くが無血降伏するなか、八王子は抗戦。踏み込んだ前田、上杉ら北国勢3万5千が老若男女の別なく斬りふせ、火を放つと、女性や子供は自害し滝に身投げしたといいます。城主・北条氏照(氏康の三男)は当時、主力を率いて小田原に籠城中。留守城だった八王子はわずか1日で落城します。
もとは同市内の滝山城に拠った氏照。武田信玄に防御拠点を破られたのを機に1584-87年ごろ、来る秀吉との対決に備え、より堅固かつ交通の要衝でもあった八王子に居城を移します。戦巧者と言われた氏照が小田原に向かわず残っていたら、この巨大山城を使ってどのように戦ったか。そんなことを考えずにはいられません。
山麓部の居住スペースには大規模な礎石建物跡と庭園遺構をもつ御主殿跡が発掘調査済み。そこに続く通路も確認されていて、対岸から木橋(当時は曳橋)を渡ったあと、石積に囲まれた枡形虎口で3回曲がらせるという厳重ぶり。一方、詰の城である山上要害部は広大なハイキングコース。本丸部と最前線の曲輪を中心に展開。要所には石垣を用いて、籠城用の井戸跡も2ヶ所。
圧倒的戦力差から消化試合のように言われることが少なくない小田原合戦ですが、山中、忍、八王子といった支城での攻防の裏には結構な人間ドラマが隠れていそうです。とくに八王子の惨劇は、最終的に小田原の戦意を削ぎ、開城の流れを決めたと指摘する向きもあります。冒頭の若者たちが真夜中に一体何を見たのかはわかりませんが、今なお何らかの思念が城址に残留していてもおかしくない気はします。
私ですか?供養塔に手を合わせた後、日が沈む前に立ち去りました。小走りで。
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