日本100名城

はちおうじじょう

八王子城

東京都八王子市


旧国名 : 武蔵

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八王子城
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にのまる

【かるた】八王子城の読み札

1)百世経て 日本遺産なり 八王子城

2)哀しみの 滝忘るまじ 八王子城

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チェブ

【かるた】八王子城の読み札

北条の 籠る山城 八王子城

1日で落城してしまった「八王子城」。
復元整備された御主殿などを見学すると、生活の営みが想像でき、いろんなドラマが感じられるお城だと思います。

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AJ

八王子悲話 (2022/12/27 訪問)

真夜中、タクシーに乗り込む若い男女4人組。行き先は八王子城址(東京都八王子市)。季節は冬。「こんな遅くからですか?」と訝しむ運転手。まあいいか、とそれ以上は詮索しなかったそうです。

真偽はどうあれ、「出る」と言われ続ける関東屈指の山城。背景に悲話があります。

1590年、豊臣秀吉は天下統一の仕上げに小田原攻めを敢行。北条方の支城・砦の多くが無血降伏するなか、八王子は抗戦。踏み込んだ前田、上杉ら北国勢3万5千が老若男女の別なく斬りふせ、火を放つと、女性や子供は自害し滝に身投げしたといいます。城主・北条氏照(氏康の三男)は当時、主力を率いて小田原に籠城中。留守城だった八王子はわずか1日で落城します。

もとは同市内の滝山城に拠った氏照。武田信玄に防御拠点を破られたのを機に1584-87年ごろ、来る秀吉との対決に備え、より堅固かつ交通の要衝でもあった八王子に居城を移します。戦巧者と言われた氏照が小田原に向かわず残っていたら、この巨大山城を使ってどのように戦ったか。そんなことを考えずにはいられません。

山麓部の居住スペースには大規模な礎石建物跡と庭園遺構をもつ御主殿跡が発掘調査済み。そこに続く通路も確認されていて、対岸から木橋(当時は曳橋)を渡ったあと、石積に囲まれた枡形虎口で3回曲がらせるという厳重ぶり。一方、詰の城である山上要害部は広大なハイキングコース。本丸部と最前線の曲輪を中心に展開。要所には石垣を用いて、籠城用の井戸跡も2ヶ所。

圧倒的戦力差から消化試合のように言われることが少なくない小田原合戦ですが、山中、忍、八王子といった支城での攻防の裏には結構な人間ドラマが隠れていそうです。とくに八王子の惨劇は、最終的に小田原の戦意を削ぎ、開城の流れを決めたと指摘する向きもあります。冒頭の若者たちが真夜中に一体何を見たのかはわかりませんが、今なお何らかの思念が城址に残留していてもおかしくない気はします。

私ですか?供養塔に手を合わせた後、日が沈む前に立ち去りました。小走りで。

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にのまる

8回目の登城になります。 (2022/11/04 訪問)

3年前の台風で破損した本丸の一段下、中の丸の八王子神社の覆殿の修復が完了し、見違えるように立派になっていました。ひとまわり大きくなっていましたが、正面は旧材も使用され、かつての面影も感じられます。
松木曲輪でお弁当タイムのあと下山し、御主殿跡をひとまわりしました。

この日は知人と一緒だったのでガイダンス施設にも寄りました。すると「桑都ツアーズ 八王子城主からの指令 秋の陣」がちょうど始まったところだったので、早速「天の書」の指令に挑戦。八王子博物館(はちはく)の「地の書」の指令と合わせてキーワードを導き出すという問題だったので、はちはくにも行き、はちはく単独問題の「人の書」の指令も解いてご褒美2ついただいてきました。
八王子博物館はJR八王子駅南口直結のビルの一角ですが、御主殿発掘調査の展示もあり(企画展)、その充実ぶりに感動しました。行きやすいのが何よりです。

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概要

北条氏康の次男・氏照が築いた山城。後北条氏の支城としては最大規模で、本丸を中心とする要害地区と山麓の居館地区、さらに外郭の防御施設から成る。山中には堀切や石垣が現存し、本丸と伝大天守跡の間にある大堀切など、豊臣秀吉の侵攻を意識した縄張が今も見られる。

城郭情報

城地種類 山城
築城年代 天正15年(1587)頃
築城者 北条氏照
主要城主 北条氏
文化財史跡区分 国史跡(八王子城跡)
主な関連施設 石垣、虎口、引き橋、石碑、説明板
主な遺構 曲輪、石垣、土塁、横堀(空堀)、御主殿跡
住所 東京都八王子市元八王子町3、西寺方町、下恩方町
問い合わせ先 八王子市生涯学習スポーツ部文化財課
問い合わせ先電話番号 042-620-7265