日本100名城

はちおうじじょう

八王子城

東京都八王子市


旧国名 : 武蔵

投稿する
八王子城
口コミ・画像を投稿する

みんなの写真投稿

投稿する

みんなの口コミ

投稿する

天守無しがアツい

八王子城 心霊スポット (2024/06/29 訪問)

(参考URL)https://youtu.be/ewqbeIGDGFo?si=b7c1nffc8QTBcl9G
https://youtu.be/WyP61-3hQwQ?si=qz01HIRwx1NZKjmQ
https://youtu.be/tDEIZTpsbwA?si=YihxDL4VifYjuBLW
https://youtu.be/cleWwWerKe0?si=BzHOMnWmAXA92i6w

八王子城御主殿から続く階段を降りると川のある場所に出ます。そこの水は滝のように激しく流れており、そこの片隅に(八王子城の戦いにて)亡くなった人々を弔う場所(1枚目)があります🪦

天正18年(1590年)天下統一最後の戦…前田利家、上杉景勝、真田昌幸らの部隊15000が八王子城に侵攻。対して北条側は領民を含めて3000…大軍相手に城の各防御機能を生かして善戦。豊臣側に大きな損害を出させるも、別動隊による奇襲により北条側は総崩れ…

城は半日で陥落し、氏照正室はじめ城内の婦女子は自刃もしくは御主殿の滝に身を投げた🏳️💀 北条側の武将や婦女子が滝の上流で自刃し次々と身を投げて、滝は三日三晩赤く染まったという言い伝え

1枚目にここで亡くなった方々の供養塔、ならびに御主殿の滝の説明書が見えると思います。この左手に滝…というか流れの激しい川があります。「敵の手にかかるくらいなら…」「敵の慰み物になってまで生き長らえたくない」という考えのもと…ここに飛び込んだ

八王子城自体が実は心霊スポットとして有名と言えばそうなのですが、その中でもヤバいのがここ…御主殿の滝および本丸だそうです

滝では北条側の人々が次々と飛び込んで自害…本丸ではおそらく北条の僅かな守備隊と豊臣側の大軍が交戦し修羅場と化したのでしょう💀 その関係で…出るそうです…霊が👻

城の入口を入って通路を進み、途中に(2枚目の)橋がかかってます🌉 これは北条氏統治時のものではなく、近年になって造られた(もしくは復元した)ものだそうです。そしてこの下あたりに御主殿の滝および供養等がある

私がここを訪れたのは16時頃…少々暑く、滝の近くでは観察用具を置きながらバードウォッチングをしてるオジサンもいるくらい…のんびりしてました。ここが心霊スポットなんて微塵も感じさせないくらい…あの時代に自刃して果てた人々は数百年後がこんな光景になっているなんて思いもしなかったでしょうね😅

私は霊感が無いようで、(時間的に本丸まで行くのが無理で手短に見学できる御主殿跡を選んだわけですが)御主殿を歩いた限りは霊の気配および寒気は全く感じませんでした。帰りのバスが18時までしかないので、その一本前の17時に乗って帰路に着いたわけですが…もし夜もここにいたら…また異なる姿がそこに現れていた…のだろうか👻😅

あと参考URLでこの城の心霊スポットとしての一面を紹介した動画を幾つかあげさせてもらってますが、私は霊夢と魔理沙の動画好きなため、それが多めになってるのは否めません…

霊夢と魔理沙のでは、「その昔、豊臣秀吉の大軍によりこの城が攻め落とされ多くの人間が死んで霊となり、彼らの啜り泣く声が聞こえてくる…ヤバいヤバい」と概要的にヤバいとだけしか紹介してない…のに対し、一番最後の動画では実際に夜に現地を訪れた若者が、何かいるという気配…雰囲気の重さ…微かな女の声…を感じて多かれ少なかれ恐怖する…リアリティが感じられます(でも私から見ると過剰演出して盛ってる部分あるような気もしますけど😅)

蛇足ですが…供養塔から川底までは3-4mはありそうでしたが、緩やかな土手となっており、川底も浅いと言えばそんな感じでした…なので…「滝に飛び込んで自害」という言い伝えを聞いて…

「ここに飛び込んで…そのまますぐに死ねたのかな?」と正直思ってしまいました…喉を掻っ切ったりして瀕死の状態で飛び込むならまだしも…ただ飛び込んですぐにあの世行き…には見えなかったから。それとも…当時はもっと川の水量が多かった?🏞️

余談ですが…少し前にダークギャザリングという深夜アニメが放送されており、その中にもここがH城という名前で登場してます。興味のある方はU-NEXTやDMM TVなどの有料動画サイトで探してみましょう

+ 続きを読む

しんちゃん

詰の城・天守台 (2024/01/28 訪問)

前回の八王子城の投稿ですが、北条氏直公らの話で少々脱線気味でした。これも伏線の一つとしてご容赦を。
さて本丸から大堀切を経て詰の城に向かいます。城びとで詰の城まで行かれている方は二名おられるようで、やはり首都圏の城びとにとって八王子城は特別な城みたいです。詰の城までは少し距離がありますが、大きな起伏も無いので遺構を楽しみながら進むことができます。目的地に近づいてくると周辺に石垣が目立つようになって来ます。思ったより広い範囲に築かれているようですが、麓の御主殿ほど洗練されてはいないようで、いつごろ築かれたのか興味の湧くところではあります。正直思ったより広く、立派で驚きました。本丸周辺ほどの広さは無いですが、なかなか見応えのある遺構が残っています。かなり大規模な破壊を受けたようで途中、至る所に石が散乱しています。
地元が配布しているパンフレットなどでは、だいぶ控えめに記載がされている詰の城周辺ですが、安全面と遺構の保存のための配慮かもしれません。とにかく遺構を壊さないように気を付けて周辺を散策します。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

しんちゃん

本丸周辺の曲輪・西の曲輪  北条氏直について (2024/01/28 訪問)

もーしわけないけど、八王子城の投稿、まだ終わっていません。これだけのボリュームのある城郭だと、なかなか一回の枠では収まりきらないんですわ。ゆるしてニャ。
八王子城の何が凄いって、中世から近世にいたる城郭の構造の変化を感じ取れる稀有な城だと思うんですね。本丸周辺には小宮曲輪、八王子神社のある曲輪、松木曲輪があり、この辺りは道が通じているので訪問には苦労しないと思います。作業道と標柱の立っている細い道があって、ここから詰の城に行けるのかなと思ったら本丸の西の曲輪に付きました。うん、道理で道が良くないと思った。ほとんど獣道みたいだったし。でも西の曲輪は見れたぞ! 分岐まで戻って詰の城を目指します。

八王子城の合戦の際には、本来の城主北条氏照は小田原城に参じており城代の横地監物吉信ら3000人(非戦闘員含む)が籠って戦ったとされています。豊臣方の攻撃は深夜より始まり、一日中に落城し、城内は凄惨な有様だったようです。
北条氏政・氏照の兄弟も北条氏の降伏と共に切腹を申し付けられますが、結果として五代目当主・北条氏直と小田原城兵の命は救われたと言えます。氏直は徳川家康の娘婿であったため家康からの助命嘆願もあったとされます。しかし、秀吉が小田原と会津の間の街道を整備し、家康を関東に移封すると状況は異なってきます。関東に強い影響力を持つ北条氏当主である氏直は家康にとって徐々に危険な存在になって来たと思うのです。
天正19年(1591)1月から氏直は家康に依頼するなどして赦免活動を開始し、8月には河内と関東に1万石の領地を得て、豊臣家臣の大名として復活をします。これが良くなかったのだと思います。家康からすれば氏直が秀吉に懐柔されて国人一揆を起こすことを警戒していたであろうし、秀吉の命で東北諸将が一致して関東を攻めることも恐れていたと思います。
氏直は大名に復帰して三月とたたずに死んでしまいます。死因は当時流行していた疱瘡(天然痘)とされますが、氏直は自らの立位置をよく理解しないまま家康に赦免の協力を依頼したことで自らの寿命を縮めてしまった可能性があると思うのです。
天然痘は感染力が強く、患者より薄着等に天然痘ウイルスを移し取ることで容易に罹患させることが可能です。氏直の最期は家康と秀吉という二つの巨魁の間で翻弄された結果のように思えるのです。奥方の督姫が下手人とは思いたくはありませんが、督姫(良正院)本人も慶長20年(1615)2月4日 家康と会うために滞在していた二条城で疱瘡にかかり死去したとのことです。督姫の息子の忠継も同年2月23日に岡山城で疱瘡で死去したとされているので、疱瘡に因果の有る系譜なのかもしれません。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

天守無しがアツい

八王子城 御主殿跡 (2024/06/29 訪問)

八王子城にはいつか行こう…と前々から考えてはいたのですが、「山城なので天守までの道のりが険しい…と以前ネットで調べたら出てきた。とある経験者のコメントによると…鳥取城と同じくらい😨⛰️」「つまり登るのめっちゃ疲れて汗かく」という事前情報が、何となくここを後回しにさせてたかもしれません

この日(6/29)は最初は他の場所に行く予定でした…ところが「滝山城と八王子城の御城印はセットで御城印帳にしまいたい。(滝山城は1ヶ月前に訪問&御城印ゲットしており)八王子城のためのページを滝山城の隣に空けているが、いつまでも空白のまま…だと何かスッキリしないのでそろそろ達成したい」という考えが抑えきれなくなります😅

八王子城の地図をネットで見てみたところ…その規模は広く…大きく分けて3つありました。1つ目は本丸、2つ目は御主殿跡、3つ目は北条一族の墓所および菩提寺

一回でほぼ全部周れた滝山城と違い、ここは一度で全部巡るのはちょっと無理…なくらい、城の規模がデカい事に気づきました。「朝から晩までかければ一回で終わらせられるのかもだけど、こんな壮大な城を一回で終わらせるのも惜しい」「こうなればここは周回前提…という事で…今回の訪問ではまず、ガイダンス施設とその付近の史跡…つまり御主殿跡の見学に専念しよう」という事にしてみました

JR高尾駅からバスで八王子城跡下車(平日はもっと手前の霊園前までなので土日限定とはいえここまで運行してくれるのはありがたい)🚌

バス停のすぐそばにガイダンス施設がありました。そこに入ると日本100名城スタンプに(もちろん真っ先にスタンプ帳に押印)、八王子城の城主だった北条氏照の紹介…城のジオラマを通じての各施設の紹介がありました

1枚目は滝山城と八王子城の無色ジオラマ。前者が平坦な地形を利用した造りなのに対して、後者は険しい山そのものを利用した、まさに天然の要塞⛰️ 秀吉の脅威に備えて城主氏照は滝山城→八王子城に本拠地を移動するわけですが、この対比ジオラマからもそのわけ…というか本気というか、「敵が大軍でもその侵攻を防ぎ我が領地を守り通す」心が伺えますね

この城から発掘された品々を紹介する展示はいくつもありましたが、実物を置いてるのはガイダンス施設だけ(他は写真のみ)。なのでそれを2枚目にすることに

焼けて炭化したおにぎり🍙…火縄銃の弾丸🔫…土玉(忍者道具のまきびしの一種らしい)…が写ってると思います。(写ってる範囲の外側には)中国製の陶磁器やベネチアングラス(の破片)がありました

当時そういう海外からの輸入物を持てるのは大名もしくは寺の坊さん…つまり身分が高くて金持ちに限られたそうです。そして大名でも弱小勢力…経済力の乏しい者は買えなかったのではないでしょうか?

「どうする家康」にて金平糖一袋で城がいくつも建つ…それだけ輸入品が超高価と伺えるシーンがあるのですが、それならばベネチアングラスも同様でしょう🥂 城主北条氏照がどういうルートでそれを入手したかは謎に包まれてるそうですが、伊達に秀吉の天下統一に最後まで抗った存在ではない…それだけの国力があった事がここからも伺えるのではないでしょうか?

ガイダンス施設を出てしばらく歩くと城跡の模型があり、さらに歩くと喫茶店や自販機にトイレがありました。そこをさらに奥に進むと歩道があり、大きな橋があってそこを渡ると石垣がありました(3枚目)

何とこの石垣…築城当時のものがそのまま残ってる珍しい存在だという事が紹介文に書かれており「という事は他の城の石垣はほとんど後世の復元ということ?とにかくそんなに稀有な存在なら撮影しないわけにはいかない」と思ったので撮影

砂岩を利用して一つ一つ丁寧に積み重ね、隙間には小石を敷き詰める…石垣の裏側にはたくさんの砕いた石を入れている…全体として強固な石垣としている…と紹介文にあり。それだけ手のこもった造り方をしたからこそ、数百年経った今にまで残ったのでしょう🪨🪨

両側に石垣のある道を進み門を潜ると御主殿に到着。かつてここには広い屋敷と池が備わっていたそうです。建物は2つあり、宴会をおこなうための屋敷は(4枚目のとおり)床のみ復元されてました

それにより建物の見取り図が分かる…◯畳の部屋がいくつあったのかが分かる…というわけで、柱の跡しか残ってない屋敷跡よりも視覚による理解がしやすいかな🏠

秀吉軍の脅威に対して防衛を固め、城内で軍事訓練をおこなう一方で、この場所にて宴会をおこない、お偉いさん(氏照やその側近、大将クラスの者)はベネチアングラスに酒を注いで「敵が何万で攻め寄せようとも、この城は絶対に落ちぬ。太閤(秀吉)の天下取りなぞ夢のまた夢よ…フハハハ😆🤣🥂🍶」と談笑し、息抜きをしながら優雅なひと時を過ごしていた

そんな当時の姿を脳内再生してみました

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

概要

北条氏康の次男・氏照が築いた山城。後北条氏の支城としては最大規模で、本丸を中心とする要害地区と山麓の居館地区、さらに外郭の防御施設から成る。山中には堀切や石垣が現存し、本丸と伝大天守跡の間にある大堀切など、豊臣秀吉の侵攻を意識した縄張が今も見られる。

城郭情報

城地種類 山城
築城年代 天正15年(1587)頃
築城者 北条氏照
主要城主 北条氏
文化財史跡区分 国史跡(八王子城跡)
主な関連施設 石垣、虎口、引き橋、石碑、説明板
主な遺構 曲輪、石垣、土塁、横堀(空堀)、御主殿跡
住所 東京都八王子市元八王子町3、西寺方町、下恩方町
問い合わせ先 八王子市生涯学習スポーツ部文化財課
問い合わせ先電話番号 042-620-7265