元寇防塁からの季長の話を続けさせて頂きます。
まず居城とされる熊本県宇城市松橋の「竹崎城」を訪れました。
松橋から狭い県道を4km程行き、途中の標識(写真①)の所からさらに狭い山道を1km程登った所にありました(車でも行けますが道かなり狭いです)。まったく人気のないうっそうとした山の中に、ここに城があったことを示す碑が残されていました(写真②③)。あの元寇で活躍し絵詞まで残した武将の城とは思えないような、とても荒れ果てていたのが少し悲しかったです。その本丸から見下ろすと、木々の隙間からは松橋町と八代海が見えました(写真④)。また県道の横には、季長生誕の地もありました(写真⑤⑥)。また隣の小川町の平原公園に季長の墓がありました(写真⑦⑧)。晩年はここで過ごしたようです。
鎌倉から失意の内に戻った季長ですが、この眼下(写真④)に見える松橋の地(現在の松橋町と小川町)が自分のものとなり、恩賞が無かったよりはまだましだと、心機一転し領国経営に努めます。またその傍ら幕府の命により、担当した「生の松原」に防塁を築く事にも従事します。そして完成するや否や1281年予想どおり元の大軍は再びやって来ました(弘安の役)。
元の大軍は総延長20kmにも及ぶ広大な防塁に妨げられ、なかなか上陸できません(かなり効果があったようです)。ここで季長は、唯一自分を信じてくれて恩賞をくれた安達泰盛や、泰盛から前回の活躍を聞き侍大将に取り立ててくれた少弐景資(総大将で九州探題)らの恩にむくいるため、果敢にも逆に自ら夜襲を仕掛け、敵船へ飛び乗り敵首を上げるなど再度大活躍し、元軍を博多湾に釘づけにします。そうこうしているうちに台風が襲来、元軍は鷹島沖に避難するも大半が沈没、日本軍は再び勝利しました。
しかしその後に戦が終わると、鎌倉幕府の内紛で恩賞のない御家人を何とか救済しようとする泰盛と、そうされては北条家が危ないと北条を守ろうとする得宗家が対立、泰盛は暗殺され(霜月の乱)、それを助けようとした景資も討たれてしまいました(岩門合戦)。
季長はその後、絵詞(下巻)を完成させ元寇の一部始終を記録に残す事に生涯をささげたようです。その下巻はどちらかと言うと恩賞目的ではなく、自分の活躍(自慢話)や恩のある人物を後世に残したいという意味合いの方が強かったようです。自ら築いた生の松原防塁の前で、景資が見守ってくれる中を堂々と出陣する姿や(写真⑨)、元軍の船に飛び乗り活躍する姿や、自分の言い分に耳を傾けてくれている泰盛の姿などが描かれています(写真⑩)。
元寇(弘安の役)から12年後の1293年、絵詞を完成させた季長はそれを地元の甲佐神社に奉納した後、塔福寺に出家し生涯を終えました。墓はその塔福寺のそばの現在の平原公園にあります。
それから570年後の江戸後期に、絵詞は肥後細川藩により発見されて江戸幕府に献上され、ボロボロだったのでなぜか幕府から少し手を加えられて写本され(例えば前回元寇防塁での写真⑧の三人が追加されているなど)、それが現在に残っているとされています。
でも彼のおかげで、約730年後の現代に生きている我々は、元寇の様子を知る事ができるので、私はこの「竹崎季長」に(あっぱれ!+感謝状😊)をあげたいと思います。
以上長々とおせっかいな解説で、どうもすいませんでした~!
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