「天空へ 曲輪繋ぎし 小谷城」
てんくうへ くるわつなぎし おだにじょう
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2025/08/26 14:39
【赤色立体地図かるた】
「天空へ 曲輪繋ぎし 小谷城」
てんくうへ くるわつなぎし おだにじょう
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2025/08/24 12:49
【赤色立体地図かるた】 (2015/10/24 訪問)
①「U字形 一山全体 小谷城」(ゆーじけい ひとやまぜんたい おだにじょう)
②「浅井氏が 三代栄し 小谷城」(あさいしが さんだいさかえし おだにじょう)
③「対織田戦 浅井の悲劇 小谷城」(たいおだせん あさいのひがき おだにじょう)
10年前の平成27年10月下旬、山城サミットin米原大会に合わせて城探訪、米原に宿が取れず大垣に宿をとる。岐阜の黒野城を訪ねてから小谷城へ初登城、当時は車で番所跡辺りまで車で登れて駐車エリアまで有りましたので登る。
番所跡、御茶屋跡、馬洗池跡、桜馬場跡、黒金門跡、大広間跡、本丸台に登り、大堀切、中丸、京極丸、小丸、山王丸手前の大石垣を観察し、山王丸へ、同好の方と山王丸で少々会話し、その方は先の城域、六坊、月所丸、大嶽城を探訪されると、分かれて私は元に戻り麓の資料館へ、宿の大垣に移動し夕刻の大垣城を探訪しました。
翌日は山城サミット米原大会に1日費やす。
小谷城は一山全体を城郭で囲んでおり、東側に出丸、金吾丸、番所、御茶屋、馬洗池馬屋、桜馬場、大広間、本丸、大堀切、中丸、京極丸、小丸、三の丸、北側に廻って、六坊、月所丸、大嶽城がピーク、西に廻って福寿丸、山崎丸で清水谷の屋敷群を守っていた大城郭でした。
浅井氏は京極氏の被官でしたが頭角を現し浅井亮政、浅井久政、浅井長政と三代北近江を抑えて戦国大名へ、長政は信長と同盟を結び信長妹のお市を娶り、同盟は堅固に見えましたが、織田信長の朝倉攻めで金ヶ崎で背後を襲う裏切り、信長の金ケ崎撤退、姉川合戦、信長による朝倉を滅亡させて、小谷城攻めが始まり、浅井久政自刃、長政自刃、長政長男は磔。お市と三姉妹は救出されましたが皆さまご存じの歴史の流れです。
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2025/08/22 08:46
2025/08/20 21:21
【赤色立体地図かるた】 (2014/05/17 訪問)
「浅井家の 血脈繋ぐ 小谷城(あさいけの けつみゃくつなぐ おだにじょう)」
「御屋敷を 城山が包む 小谷城(おやしきを しろやまがつつむ おだにじょう)」
小谷城落城に際して、当主・浅井長政は切腹、父久政も前日に切腹しており、長政の嫡子・万福丸は処刑され、もう一人の男子・万寿丸は幼かったため、後に主家させられました。
これで浅井家の嫡流は途絶えてしまったのですが、長政とお市の間に生まれた三人の娘が、豊臣家・京極家・徳川家に嫁いで行きました。
長女・淀殿(茶々)は息子の秀頼と大阪夏の陣で自刃し、京極家に嫁いだ次女の初も子供を授かることはありませんでした。
三女・江は二度目の夫との間に娘を授かり、その後に再婚した秀忠との間に2男5女を授かり、その血脈は今の天皇家に続いているという話です。実は愛知県にも浅井長政に関わる伝説があり、小谷城の落城の際に側室の八重の方が長政との子供・七郎を連れて美濃へ逃れ、そののち今の愛知県春日井市に移って来たということです。その縁で春日井市の名鉄・間内駅前に浅井長政の銅像が建っています。浅井家は滅びるも、三姉妹や庶子が子孫を残し、その血脈は公家や皇室にまで及びますが、その根幹は小谷城にあると思います。
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浅井亮政が小谷山に築城した巨大な山城。麓の清水谷と大広間・本丸・京極丸などが連郭式に並ぶ曲輪群、大嶽・山崎丸などの独立した曲輪で構成されている。建物の遺構は残っていないが、急峻な尾根に大小の曲輪や石垣が残り、本丸跡では大堀切も見られる。
城地種類 | 梯郭式山城 |
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築城年代 | 永正13年(1516)? |
築城者 | 浅井亮政 |
主要城主 | 浅井氏、羽柴秀吉 |
文化財史跡区分 | 国史跡(小谷城跡) |
天守の現況・形態 | 型式不明[2重?/築年不明/破却?] |
主な関連施設 | 石碑、説明板 |
主な遺構 | 曲輪、土塁、横堀(空堀) |
住所 | 滋賀県長浜市湖北町他 |
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問い合わせ先 | 小谷城戦国歴史資料館 |
問い合わせ先電話番号 | 0749-78-2320 |