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カズサン

二俣城の堀切それぞれ (2025/02/25 訪問)

 二俣城には南側先端の南の丸Ⅱ南下に一号堀、南の丸Ⅰと南の丸Ⅱの間に二号堀・切岸、南の丸Ⅰと二の丸の間に三号堀・切岸、本丸と北の丸の間に四号堀・堀切、北の丸の北側に五号堀・堀切(現在は北の集落への道路と二俣城専用駐車場に成って遺構は判りずらい)、南の丸Ⅰの西下に二号竪堀、西の丸Ⅱの南下に一号竪堀が存在しています。本丸に在る二俣城案内パネルに二俣城実測縄張図が掲示されて居ますのでご確認ください。
 今だ、一号堀と一号竪堀は未確認です。
 
 今年の2月25日冬枯れの樹木の葉っぱが落ちて、草刈、樹木伐採の清掃整備が出来上がった頃を見図って出掛けました、晴天世良い一日でした。今回の投稿で2025/02/25撮影の写真投稿は終了です。
 続いて鳥羽山城を同じく探訪しましたの続いてタイミングを見て投稿させて頂きます。
   

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カズサン

北の丸・旭ヶ丘神社 (2025/02/25 訪問)

 二俣城の北の丸は尾根先端を五号堀・堀切で北の浜松市天竜区役所に在る笹岡城・二俣古城から南に天竜川に沿って伸びる尾根筋を切断されております。現在は北に伸びる尾根筋道、二俣城駐車場で5号堀遺構は少し見にくくなっています。
 北の丸の北側東側は切岸崖に成り、西側も切岸崖ですが崖下に登城路が付けられて4号堀・堀切本丸と切られて、本丸北門・食違い門跡と北の丸はコンクリ橋で続いています。
 北の丸内部は現在旭ヶ丘神社が鎮座し、日清、日露、満州事変、大東亜戦争で亡くなられた二俣町英霊351柱が祀られて居ます、二俣の靖国神社・招魂社の様な神社です。
 鳥居を潜って神社の裏側北側の崖は畏れ多く深入りはしていません、神社参拝してぐるっと見渡して終了です。
 

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しんちゃん

名古屋城 (2024/03/09 訪問)

本丸御殿の東側に「山田」の刻印を発見しました。以前吉田城で石垣の崩壊に伴う修理を行いましたが、その際に一割ほどの石が交換石としてよけられています。安全を確保するための処置ですが、あまりに綺麗に並べ直してあったので一見、別の石垣になったのかと焦りました。吉田城の本丸南側の橋の近くにはその時外した「山田」の刻印のある石を飾ってあります。
吉田城の石は名古屋城築城時に余った石材のおさがりを頂いているので、当然名古屋城にも「山田」の刻印のある石はあります。たまたま本丸御殿の東側の石垣の中に「山田」の刻印石を見つけた時は、思わずガッツポーズでした(小さくね)。
この刻印は蜂須賀家政の嫡子・至鎮の家臣・山田氏にちなんでいるようです。至鎮の受け持ちは西の丸とされ本丸南東部は長州藩主・毛利秀就で、たしかこの人は蒲郡市周辺で採石を行い、地元の古墳の石まで持っていこうとしてたのではなかったか? イボ石が真っ二つになっていました。蒲郡市の竹島の石燈籠の乗っている巨石にも矢穴の跡があります。毛利秀就の家臣が石垣に刻んだ刻印は「二」の文字が使われているようです。
今度探してみようかな。

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しんちゃん

名古屋城 (2024/03/09 訪問)

天下普請で築かれた名古屋城の石垣は築城を開始したその年の内に、ほぼ積み上げてしまったようです。本当かな~? ちょっと信じられないスピードですね。穴太衆の技術もさることながら、石の採集や運搬、加工や積み上げなど、どのように役割分担をして効率化を図って来たのか興味があります。それぞれにドラマがあって面白そうですね。
でも、築城開始の数年前までどの大名も豊臣恩顧でブイブイいわしてたのに、人間コロッと変わるものですな。人情紙風船~

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ぷあー

岡山城 (2025/05/19 訪問)

岡山城

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ぷあー

彦根城 (2024/04/21 訪問)

2回目

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にのまる

【赤色立体地図かるた】

「元親像に会いたくて……岡豊城」
(もとちかぞうにあいたくて……おこうじょう)

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にのまる

【赤色立体地図かるた】

「城山に 青石キラリ 徳島城」
(しろやまに あおいしキラリ とくしまじょう)

「守りの要 支える舌石 徳島城」
(まもりのかなめ ささえるしたいし とくしまじょう)

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しんちゃん

歴史は謎 (2024/12/31 訪問)

木田範宗の墓は木田余城跡の一角に設けられています。木田余城は範宗によって築かれたとされ範宗は主君・小田氏治と対立し、氏治の命を受けた菅谷氏に誘殺されたと書物に記載があるようです。
時期は手這坂の戦(1569)の後とされますが、被疑者にも被害者にも諸説あるようです。結局謎につつまれているのだけど、歴史の真否に関しては、なかなか断言できることではないですね。大事なのは考えることだと思います。
常に新しい情報を入れて、考えまくることが重要だと思います。私は、城人ならではの形で様々な歴史に対しての「気づき」が有るのではと考えています。実際に自分の目で見て考えねば解らないことがあると思いますね。

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しんちゃん

馬籠宿 (2019/03/09 訪問)

馬籠宿の投稿です。特徴的な水車と坂の写真を目にした方も多いと思います。城ではないのですが古い日本の風景が広がっていて私は好きです。城びとを始めてからは城ばかりになってしまいましたが、それまでは神社や寺、旧跡めぐりも精力的に行っていました。
古い日本の歴史を丸ごと飲み込んでやろうというエネルギーが有ったのですね。若かったな~(今より)
馬籠宿は中山道43番目の宿場で妻籠宿と並んで人気の観光名所です。妻籠は落ちついた雰囲気がありますが、馬籠は賑やかな所で、観光客がいっぱい来ています。坂を登って行くと石畳の両脇に資料館やカフェなどがひしめいています。この狭さ密度が馬籠の華やかさを増しているのだと思います。
旧本陣跡は藤村記念館となっています。ここは島崎藤村の生家跡で子供時代の勉強部屋なども残っています。お坊ちゃんだったのですね。残念ながら生家は明治28年の大火で焼失してしまいますが、地元の方によって昭和22年に記念館が立てられました。

馬籠は豊臣秀吉の傘下の木曽義昌が治める所となり小牧・長久手の戦いの際には義昌は木曽路の防衛を命じられました。義昌は兵300を送り、山村良勝に妻籠城を守らせ、島崎重通が馬籠城を守りました。
この重通が島崎藤村の祖先にあたり、ここでも歴史が繋がっています。馬籠城も訪問しているのですが写真が消えてしまいました。城の造りとしては妻籠城の方が印象に残っています。

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しんちゃん

黒井城 (2014/07/21 訪問)

兵庫県の黒井城の最初の訪問時の写真です。南東から東曲輪・三の丸・二の丸・本丸と続き石垣が良く残っています。堀は少ないですが、二の丸から本丸に至るまでに三箇所の折れ曲がりがあり侵入を妨げているとTVで言ってましたね。現状だと判別がしづらいですが縄張り図を見ると確かにそうなっています。
続百名城の城は登録される前に6~7割は訪問していたのですが、スタンプを押す際にもう一度再訪してます。城びとを始めてからも可能な限り再訪し600くらいは周ったかな? 新規を合わせると2年ちょっとで1200城ほど廻っています。さすがに全部再訪は厳しいけど、できれば廻りたいね。

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しんちゃん

四谷の千枚田・新城市 (2015/05/24 訪問)

愛知県新城市の四谷の千枚田の投稿です。お城とは全く関連性が無いのですがご容赦いただきたい。鞍掛山の麓の斜面に約400年前に開墾された美しい棚田が広がっています。現在420枚ありますが最盛期には1296枚の田があったそうです。
日本の原風景と呼ばれる光景で、地元や契約者の方々が今でも稲を育て、景観を保っている姿はちょっと感動です。当地の案内板には明治37年に20日あまりも雨が降り続いて、鞍掛山とびんぼう山(通称)の谷間に溜った泥水が山津波を引き起こし、11人の死者が出る惨事になったそうです。そのあと復興に立ち上がった村人たちに寄って、荒れ地を田に変えた(再開墾?)のがこの千枚田と書かれています。

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しんちゃん

(2024/12/31 訪問)

南に天の川が流れ、北東に御館川が流れる大字中佐谷の台地上に笠松城は築かれていました。西以外を河川で守られた要害の地にあります。北側に土塁が有るようですが確認はできていません。案内板によれば正元年間に常陸大掾資幹の孫の佐谷郷の地頭・佐谷左衛門尉実幹によって築かれたとのこと。案内に沿って台地を登って行くと城址碑のある扁平地にたどり着き、そこが主郭のようです。
民家の石垣らしきものがあるけど、当然城址とは無関係です。城の石垣なら良かったんだけどねえ・・

慶長7年(1602)から約40年、志筑藩主本堂氏が居住し笠松城を称したようです。とはいえ本堂氏は8000~8500石の大身旗本で志筑藩はかすみがうら市中志筑あたりになるので、あくまで居住していただけらしい。正保2年(1645)に志筑陣屋が築かれ、寛文8年(1668)本堂玄親の代でようやく本領に引越すことが出来たようです。

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しんちゃん

掻上げ? (2024/12/31 訪問)

本丸の案内板には「この城は、堀と土塁で防備をかためる「掻上げ(かきあげ)城」で・・」と書いてある。なんじゃ? 掻上げって?
スーパーの特売でうってるやつか?(それは掻揚)
土塁はよくわからなかったが、周囲の堀は確認できました。文亀年間(1501~1504)には小山田氏の有力な家臣・菅谷隠岐守貞次が城主でした。菅谷氏は天正元年(1573)7月佐竹氏の攻撃を受け佐竹氏の家臣となり、慶長7年(1602)佐竹氏の秋田国替えによって廃城になったようです。

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しんちゃん

名古屋城 (2024/03/09 訪問)

二の丸の北面の石垣にはめずらしい南蛮たたきの鉄砲狭間(銃眼)があります。南蛮練塀とも。
石灰や砂利、種油などを練り合わせて作ってあるらしく、けっこう頑丈なようです。なぜここにだけそのような変わった技法を用いているのかは不明です。土塀などは無かったのかな? なんとなく西部劇みたいですね。

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しんちゃん

名古屋城 (2024/04/06 訪問)

名古屋城は豊臣家の大阪城への抑えとして慶長15年(1610)2月より天下普請で工事が行われました。石垣の普請は年内にほぼ終了と言う異様なほどのハイペースです。かほどな速さで石垣が積まれたので石材も様々な産地から調達しています。高石垣の中に砂岩や花崗岩が混在している城もあまりないでしょう。
特徴的な部分として二之丸大手二之門の石垣は複数の史料に記載があります。1枚目の写真がそれですが、右下が幡豆石、赤茶けた石が竜山石、幡豆石の上の大きな石が山陽帯花崗岩らしいです。
竜山石は凝灰岩の一種で白亜紀以降の火山活動の堆積物が固まったもので、加工のしやすさから古くから使われているようです。

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カズサン

二の丸内部と土塁 (2025/02/25 訪問)

 先に二の丸大手門跡石垣とその周辺の写真投稿しましたが、二の丸内部、南側の土塁、西側の土塁、南側土塁から南の落ち込んだ切岸、ここも見所、二の丸に鎮座する城山稲荷神社、木々の葉っぱが落ちて見通し良くなった内部の写真投稿致します。
 二の丸へは本丸より中仕切門跡からと西端の土塁上から進入、又東側の大手門階段からの進入、南西堀切からの坂道進入の4ヶ所あります。
 冬枯れの良い一日でした。
 

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カズサン

二の丸大手門跡石垣辺り (2025/02/25 訪問)

 冬枯れ、草刈、灌木伐採されて見易く成った頃かなと今年の2月25日に二俣城跡見学探訪写真撮影に出掛けました、先に西の丸Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ、南の丸Ⅰ、Ⅱ、本丸天守台、本丸東石垣、本丸内部と写真投稿させて頂きましたが、二の丸投稿です。
 二の丸は本丸の一段下がった南側に在り、東に石垣造りの大手門跡が在り見所の一つです、少し崩れていますが大手門北側石垣の東面は本丸北門・搦手門跡までの東側石垣として伸びて居た模様。
 二の丸大手門跡の南側石垣は北より比高が有り、櫓台が在った様な広さが在ります、二の丸の南側の土塁と続き西側に伸びて北に土塁が続きます。
 また二の丸南の土塁が南の丸Ⅰ間の堀切・3号堀と成り北面は急な高切岸に成って見応えがあります。
   
 

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トク

【宮本武蔵】(8)姫路城①(妖怪退治と刑部姫) (2025/06/05 訪問)

宮本武蔵の続き(8)です。

勘当され生活に困ったたけぞう(武蔵)は、1598年16才の頃、木下家定(秀吉の妻ねねの兄)が当時城主を務めていた姫路城へ行き、身分を隠して足軽(門番)のアルバイトをします。

当時の姫路城には、黒田官兵衛が普請し豊臣秀吉が築城した三重四階の天守がありました(写真⑤)。その石垣の一部は今でも残っています(写真②③④)。1587年黒田官兵衛は豊前中津へ国替えとなり、秀吉は大坂城を築城して移ると、代わって木下家定に姫路城が与えられます(写真⑥)。しかしこの時、家定はまだ大坂城で秀吉に仕えていたため、家定の三男延俊(後の日出城主)が城代を務めていました。この時に延俊と面識ができたようで、この15年後に武蔵は日出城(ひじじょう)を訪れているようです。

そして門番を始めてから数カ月後、城に妖怪が出るという奇妙なうわさが広まります。よって門番たちは誰も夜番をやりたがりません。でもたけぞう(武蔵)だけは平気で夜番を勤めたそうです。それが延俊の耳に入り、「彼はいったい何者か?」と調べられ、名高い新免流の武芸者である事がばれてしまいます。たけぞう(武蔵)は木下家の客分として取り立てられ、そして妖怪退治をしてくれぬかと頼まれます。わずか16才なのに・・・

たけぞう(武蔵)がある夜、灯ひとつで天守閣に登り、三階の階段に差し掛かった時、すさまじい炎と地震のような音と振動が!・・・ついに妖怪が現れました! ここでたけぞう(武蔵)は太刀に手をかけ斬りかかると妖怪は退散し静けさが戻ったとか。しかし四階に登るとまた同ように妖怪が現れます。しかしまた斬りかかるとまたも退散したようです。そして四階でまた現れるかもしれないと番をしますが現れず、明け方になるとウトウトと寝てしまいました。ふと目をさますと、そこに美しい「刑部姫(おさかべひめ)」が現れ、「あなたのおかげで妖怪は恐れをなして退散しました。褒美としてこの宝剣を与えましょう」、と白木に入った名刀「郷義弘」が残されていたそうです。

この後、関ケ原後の1602年に入った池田輝政は、姫路城を豪壮な天守に建て替えますが、刑部姫は刑部神社となって、天守最上階に守護神として今でも祀られています(写真⑨⑩)。そのおかげか、姫路城は400年の間に火事や落雷もなく、太平洋戦争時の空襲でも天守に爆弾は落ちませんでした。当時の米兵搭乗員の、「水堀が反射しB29のレーダーには湖か池に映ったので、そこに爆弾は落とさなかった」という証言が残されています。これも刑部姫の御加護でしょうか?

妖怪退治が終わり17才になったたけぞう(武蔵)は、父の無二斎が宇喜多から離反し、利神城攻めの時に知り合った黒田官兵衛を頼って中津へ行く事にしたため、自分も同行する事にしたようです。そして黒田配下の東軍として九州の関ケ原へ出陣します。

次は、その(中津城)を訪れ、たけぞうが負傷したという九州の関ケ原へ続きます。

【注】妖怪退治は後世(江戸期)の創作かもしれませんが、いちおうあったという事にさせて頂き話を進めました(笑)、すいません。
 

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朝田 辰兵衛

もうひとつ,宿題をクリアしました…📓 (2025/07/20 訪問)

この夏,もうひとつ,宿題をクリアしました。赤い城さん,にのまるさんの双方からクイズに出題された岩槻城。赤い城さんからは堀障子,にのまるさんからは八ッ橋が出題されました。
行けたきっかけとなったのは,今年も母の同級会を請け負うこととなり,大宮で開催したこと。前乗りしましたので,これで岩槻駅のコインロッカー問題は解消しました。

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