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WEST

モシリヤチャシ探訪 (2025/06/06 訪問)

モシリヤチャシを訪問しました。このチャシ跡の内部見学には許可が必要で、今回事前に釧路市歴史博物館に見学申請をしました(1週間前までに)。個人の訪問でも可でした。
駐車場は近隣にある城山会館の駐車場を利用しました。
最初にチャシ跡の周りの道路を1周し、姿、大きさを感じて、その後柵内部に入り見学しました。チャシ跡には二か所の平坦地、間が濠となっているようです。最も高い平坦地からは、釧路川、そして市街地が見渡すことができます。
訪問される方は、史跡内を見学するのをお勧めしますね。その姿、大きさを実感できます。
同じ釧路市内にハルトルチャランケチャシとセットで訪問すると良いと思います。

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WEST

ハルトルチャランケチャシ探訪 (2025/06/06 訪問)

釧路市の春採湖北岸にあるハルトルチャランケチャシを訪問しました。市街から自動車で数分の場所で、駐車場は春採湖公園の駐車場を利用しました。
チャシ跡は半島状で、史跡入口から入って、湖側に進むと2重の濠と平坦地が良く分かりました。
近くに釧路市歴史博物館があります。釧路の自然や歴史の展示が充実しているので是非立ち寄ってみてください。パンフレットも入手できまよ。

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WEST

根室半島チャシ探訪 (2025/06/05 訪問)

根室市のチャシ跡、ノツカマフ1・2号チャシとヲンネモトチャシを訪問しました。釧路市街からノツカマフ1・2号チャシまでは自動車で約2時間の行程でした。
根室市内からは道道35号線を進むのですが、風力発電の風車が目印となります。根室駅の隣の観光インフォメーションセンターでは地図等を入手できますので、立ち寄ってみてください。
6月初旬の訪問でしたが、駐車場からチャシ跡まで下草が綺麗に刈り取られており、見学し易かったです。感謝ですね。
1・2号のチャシ跡とも、平坦地と濠で構成されているのが良く分かりました。チャシ跡からはオホーツク海を一望できます。
ヲンネモトチャシはノツカマフ1・2号チャシから自動車で10分強の距離ですが、史跡入口が少々分かりにくいかと。自動車で訪問する際は注意が必要です。
ここも見学路が整備され見学し易かったです。盛土された平坦面に上がると丁度タンポポが咲きほこっていました。この季節の訪問の特権でしょうか。

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しんちゃん

うてな (2025/05/09 訪問)

台(うてな)城は台台地の鼻先に築かれていました。打越城と向かい合い、間に馬渡・正光寺・増永の三城があり、連携して玉名・熊本方面の敵に備えたようです。城主は決まっておらす、城番制であったようです。
1374年、12歳で菊池家を継いだ武朝(加賀丸)は1375年、九州探題今川了俊率いる大軍をこの地で迎え撃ち、数万の軍勢を2千騎で撃破したとされています(水島の戦い)。激戦のあまり、自軍の矢が尽きた後、敵の放った矢を取って放ったということから、台地の下の内田川一帯には「矢取」の名が残っています。

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しんちゃん

板井原の戦い (2025/05/09 訪問)

現地案内板によりますれば、打越城は菊池十八外城の一つとされ、台城と共に守山城の西・北の敵に備える要衝とされています。代々菊池方の城で林原与三隆益一族(原文まま)が防備に当たったとのことです。天授5年(1379)三万の軍が投入された今川了俊との闘い(板井原の戦い)で落城しました。
菊池氏が滅亡したのちは怒留湯(ぬるゆ)氏が城主となりました。
丘陵先端部を南北に縦断する道路の東脇から城址碑と案内板のある場所へ道が続いています。この周辺に遺構らしきものはありません。
道路の北側から東に分け入ってしばし散策すると、林の中に土塁の様な物が見えますが、城址との関連は不明です。

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城の石垣発掘以後の坂本城 (2025/06/08 訪問)

 自宅近くのあちこちの掲示板に 坂本城を考える会・下坂本学区文化協会共催の講演会「城の石垣発掘以後の坂本城、講師:大津市文化財保護課 岡田有矢氏」のポスターが! 岡田さんは、坂本城三の丸石垣発掘の現地説明会でも的確な受け答えで城びとメンバーにも好評でしたね。講演会は、先着約百名を限度とします、とあるので、14時からの講演開始に対して、12時前に行きました(そんなに頑張らんでも入れました)。
 講演は、13時からの坂本城を考える会の総会の後の催しもの。会員でなくても総会会場に入れたので、興味深い話を聞けました。
坂本城を考える会は創立20年目を迎える。メンバー+αがボランティアガイドをしており、昨年度は、963人を案内した。御城印売り上げは4万5千円だったなどなど。ボランティアガイドの申し込み先をネットで探したがわかりにくかったです。比叡山坂本観光ボランティアガイドの会とは別団体です。
 岡田さんの講演はとても面白かったです。城びとの皆さんが気になっている、石垣の展示(現在は埋め戻されている)については、「保存のため、埋め戻しは必須だった」、「国に対して「史跡」登録を申請しており、今月中に回答がある」「埋蔵文化財包蔵地から史跡に格上げされたら、大津市として活用を本格的に検討する」とのことでした。
 講演の中で私の一番の収穫は、縄張りが見直されたこととその根拠が理解できたこと。添付の地図をご覧ください、下坂本3とあるあたりの通りや街並みの方向とその右側(東側)の街並みの方向が違います。これが、城域の名残であるとのこと。以前は、微妙にカーブした道が二の丸と三の丸の間の堀跡とされていましたが、今回の見直しで、堀はもう少し東側で直線的であったであろうと考察されています。見直し後の縄張り図のスライドを撮影しましたが、掲載はやめときます。
 調べると、岡田さんは、最近も西教寺で講演されているなど、講演を聞く機会はけっこうありそうです。

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ばばんちゃん

まだ修復が終わってません (2025/04/11 訪問)

本丸までも結構歩きます。昔はほぼ砂利道で車椅子などはキツイだろうと思ってましたが、今は道の真ん中が舗装されています。

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イオ

明瞭に遺る二重横堀 (2025/02/03 訪問)

詳細は不明ながら野上荘荘官・寺中氏の城と伝わり、高野山勢の影響の下、野上八幡山本陣と一体となって機能したと考えられるようです。

野上八幡山本陣東側の平坦地からストックを頼りに急斜面を下り、埋谷池の堤を渡って東に谷を上った先が寺中城です。堤の上はススキと笹が生い茂っていますが、藪はすぐに終わるので覚悟を決めてGo!

寺中城は楕円形の主郭と東接する長方形の副郭からなり、主郭は中央部にうっすらと土壇らしきものがあり、北辺を除く三方を低い土塁で囲んでいます。主郭土塁の外周には二重の横堀がめぐっていて、内堀と外堀の間の土塁は分厚く高さもありました。二重横堀は主郭の東側に回り込んで、副郭との間の堀切になっています。副郭は広さはあるものの削平が甘く、東側に緩やかに傾斜していました。副郭の南側には主郭・副郭間の堀切から分岐した外堀が続き、副郭東端の堀切(南方向へは竪堀)と繋がっています。

主郭と副郭だけの小さな城ながら、二重横堀と土塁は明瞭に遺っていてなかなか見応えがありました。ちょっと訪れにくい城ではあるものの、野上八幡山本陣とあわせて挑戦してみてはいかがでしょうか。
 

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todo94

万博翌日の攻城② (2025/05/11 訪問)

一津屋城からの転戦です。徒歩にてアプローチしました。一津屋城も古墳でしたが、河内小山城に向かう途中には、古市古墳群の一つ・雄略天皇陵もありました。生憎、スルーしてしまいましたけれども。そして、河内小山城は世界遺産「百舌鳥・古市古墳群」の構成資産の中では最も北に位置する津堂城山古墳です。南方の前方部から後円部へと登って行って菖蒲園の方に下りてしまったため、津堂八幡神社をスルーしてしまいました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征2日目:沓掛城 (2025/05/16 訪問)

二村台七丁目バス停から徒歩15分くらいで、沓掛城址公園入口(35.069562、137.021652)に着きました。

14世紀頃、近藤宗光が初代城主としてこの地を治め、1560年(永禄3年)桶狭間合戦では前日に今川義元が入城し、織田攻撃の準備をした城と伝えられています。
「桶狭間の戦い」後には織田信長より勲功一番と称された簗田政綱の居城となりました。
慶長年間(1596-1615)に廃城になったようです。

沓掛城址公園として綺麗に整備されており、本丸を囲む空堀と土塁の遺構が素晴らしい。
攻城時間は20分くらいでした。本日の城巡りは、ここがラストです。
歩行歩数=28030歩、歩行距離=19.6Kmです。
本日の宿泊先に向かう為、前後駅から電車で豊橋駅に向かい、コインロッカーから荷物を取り出した後、大垣駅に向かいました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征2日目:吉川城 (2025/05/16 訪問)

東山保育園北バス停から徒歩20分くらいで、石碑付近(35.005085、136.927880)に着きました。

1397年(応永4年)に吉川入道が築城。その後花井勘八が居城、1580年(天正8年)に廃城になったと伝えられています。

国道155線沿いに石碑と城内にあったという辨財天が祀られています。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=沓掛城を目指す為、上野台バス停に向かい、その後、バス➡電車➡バスを乗り継いで二村台七丁目バス停に向かいました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征2日目:溝口城 (2025/05/16 訪問)

三菱重工南バス停から徒歩5分ちょっとで、公園付近(35.248810、136.914431)に着きました。

天正年間(1573年~1592年)初期、溝口富之助の居城とされています。

小さな公園に石碑があるだけです。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=吉川城を目指す為、三菱重工南バス停に向かい、その後、バス➡電車➡バスを乗り継いで東山保育園北バス停に向かいました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征2日目:清洲城 (2025/05/16 訪問)

新清洲駅西口にある織田信長像を確認してから徒歩15分くらいで、土塁跡(35.206553、136.844100)➡清洲城惣堀跡入口(35.205031、136.841764)の順番に巡りました。

清洲城は今回2回目の攻城です。前回は6年半前の2019年2月10日に来ました。
前回は模擬天守、清洲古城石垣、清洲公園を廻りましたので、今回、模擬天守には入らず外観のみを確認しました。

新清洲駅西口にある信長像はロータリーに2体、通りに3体ありましたが、なんか三国志ぽい信長でした。
土塁跡の痕跡はありません。石碑があるだけです。
清洲城惣堀跡ですが、よくわかりません。高低差があるようなないような。
攻城時間は35分(移動時間含む)くらいでした。次の攻城先=溝口城を目指す為、清洲城惣堀跡近くの丸ノ内駅から名鉄電車とバスを乗り継いで三菱重工南バス停に向かいました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征2日目:西溝口城 (2025/05/16 訪問)

蜂須賀城から徒歩30分くらいで、石碑前(35.220076、136.765007)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、溝口勝政によって築かれたと云われています。
溝口勝政の子が溝口秀勝で若狭国高浜城主➡加賀国大聖寺城主➡越後国新発田城主となり江戸時代を通じて新発田藩として続きました。

成願寺に石碑が建っているだけで、何もありません。
ちなみに、野崎バス停からのバスが遅延した為、勝幡駅周辺の勝幡城復元模型、幼少期の信長像、吉法師石絵、路面表示を見学できませんでした。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=清洲城を目指す為、稲沢市コミュニティバス千代田/平和線(平和支所行)の野崎バス停からバス➡電車を乗り継ぎ、新清洲駅に向かいました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征2日目:蜂須賀城 (2025/05/16 訪問)

前日、豊橋駅で購入した名鉄電車全線1DAYフリーきっぷを利用して、青塚駅に着きました。
青塚駅から徒歩10分くらいで、蜂須賀小六正勝公旧宅跡碑前(35.203896、136.769048)に着きました。
西溝口城に行く途中、ちょっと寄り道して円竜院前の蜂須賀小六正勝公旧宅跡碑を確認しました。

蜂須賀城は今回2回目の攻城です。前回は6年半前の2019年2月10日に来ました。
前回攻城時は、蓮華寺周辺の蜂須賀城址碑、蜂須賀小六正勝公顕彰碑と青塚駅前の蜂須賀城址碑の写真を投稿していました。
今回、本当は蓮華寺奥にある蜂須賀正勝公&蜂須賀家正公の合同墓碑をお参りしたかったのですが、時間がなく、断念しました。
攻城時間は2分くらいでした。次の攻城先=西溝口城へ徒歩で向かいました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征1日目:吉田城 (2025/05/16 訪問)

宿泊先のホテルの朝食前に、喜見寺砦(城びと未登録 愛知県豊橋市)と吉田城を攻城しました。
喜見寺砦(城びと未登録 愛知県豊橋市)から徒歩15分くらいで、三の丸口門跡から進入し、鉄櫓前(34.770594、137.392997)に着きました。

吉田城は今回2回目の攻城です。前回は7年半前の2018年11月24日に来ました。
鉄櫓、石垣、空堀などを見ながら散策しました。
攻城時間は25分くらいでした。次の攻城先=蜂須賀城へ向かう前に、ホテルに戻り朝食を食べました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征2日目:喜見寺砦(城びと未登録 愛知県豊橋市) (2025/05/16 訪問)

宿泊先のホテルの朝食前に、喜見寺砦(城びと未登録 愛知県豊橋市)と吉田城を攻城しました。
宿泊先のホテルから徒歩10分弱で、喜見寺前(34.764821、137.387852)に着きました。

喜見寺は室町時代の1390年創立の曹洞宗の寺院です。
そしてここは、1564年に徳川家康が吉田城を攻略する為に砦を築きました。

入口を見る限り、とてもお寺に見えませんが、門の奥に墓地が見えます。遺構は残っていません。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=吉田城へ徒歩で向かいました。

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しんちゃん

菊池遺産! (2025/05/09 訪問)

案内板によりますと、菊池十八外城の一つ増永城は菊池初代則隆の子、西郷政隆が築いた平城で、西郷氏代々の居城として正面に迫間川を擁し、台城・正光寺城と連携して玉名・鹿本方面からの侵入に備えた城とされています。
五輪塔は「西郷さんの墓」と呼ばれており、土塁跡(竹林)・井戸が残っているようです。西郷隆盛(西郷どん)は城主の末裔とされ「西郷南洲先生祖先発祥之地碑」が城址東に在る羽根木八幡の境内に立てられています。

初代城主・西郷太郎政隆は菊池氏初代則隆の子で菊池一族とされ、26代西郷九兵衛昌隆の時、薩摩に移り住んだという記録が有り、初代西郷政隆から数えて32代目が西郷隆盛(西郷どん)とのことです。

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翡翠

中津城 (2024/05/04 訪問)

駐車場から見た中津城もとっても良かったです。おっくんとくろかんくんが、お出迎えしてくれました。

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しんちゃん

「がもう」じゃなくて「かもう」 (2025/05/08 訪問)

蒲生城は標高160mの龍ヶ山の丘陵を利用した、周囲8km余りの県内有数の大規模城郭とされています。二の丸近くに駐車場があり、そこまで車で行くことが出来ます。二の丸から北上して行くと馬場跡にいたり、そこから本丸に入ります。本丸は五段の連郭になっていますが、整備されているのは一部で、残りはヤブになっています。最北の段を本丸の主要部として、その北側に土塁が残っています。
本丸と二の丸を仕切る道の周囲は断崖絶壁となっており、かなりの高さがありました。
保安4年(1123)宇佐八幡宮の留守職・藤原教清の子・舜清によって築かれたとされています。その子孫は蒲生姓を称し、18代範清の時に菱刈重豊の支援を得て島津貴久しますが、島津義弘の奮戦で重豊は自刃し、範清は城に火を放って祁答院氏を頼って逃れました。
これで430余年にわたる蒲生氏の支配は終わりを告げ、あとには比志島美濃守が地頭として入りました。

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