日本100名城

ひとよしじょう

人吉城

熊本県人吉市

別名 : 繊月城、三日月城
旧国名 : 肥後

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人吉城
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トク

人吉城(4/4):人吉城への行き方(新幹線と高速バス) (2024/09/18 訪問)

ここからは私が人吉城を訪れたルートについて、詳しく御紹介したいと思います。人吉城は100名城なので、訪れてみたい方は多いと思います。しかし車でない交通機関で行きたい方は、JRが不通な今どうやったら人吉へ行けるの? と大変分かりにくく迷っている方もいらっしゃるのではと思いました。よって御参考にしていただければと思います。

【写真①②③】
博多駅から九州新幹線「つばめ」号で新八代まで乗車しました。ラッキーにも800系でした。木の香と和布の内装がきれいで座席も広く快適です。わずか1時間で着いてしまうのがもったいないくらいです。この800系は九州(博多-鹿児島中央)でしか走っていません。新大阪からは直通の「さくら」号700系が新八代に停車します。

【写真④⑤】
新八代駅から接続する高速バス「B&Sみやざき号」に乗りました。40分で人吉ICに到着します。バスは新八代駅では新幹線改札口を出てすぐ右前に停車しています。B&Sは予約が必要です。JR九州のチケット予約のHP(お得なきっぷorみやざききっぷ)からか、バスのみであればバス会社(宮崎交通or九州産交バス)のB&S予約のHPから予約できます。JRからは新幹線とのセットや早割もあります。JRから予約した場合は、JR九州管内駅の「みどりの券売機」で予め発券してから御乗車下さい。私は博多駅で新幹線とバス(往復分)一緒に発券して乗車ました。バス会社から予約の場合は、スマホからWEB乗車票を見せるだけのチケットレス乗車もできるようです(詳細は各HP参照)。

【写真⑥】
人吉ICバス停から始発の路線バス「人吉駅」行きに乗り10分、途中の「札の辻夫婦えびす神社前」で下車しました。降りたバス停横の今夜泊まるホテルに荷物を預け、球磨川にかかる大橋を渡り、ここからスタートして人吉城を一周しました(その内容は前回投稿を御参照下さい)。

【写真⑦】
そして夜は前回と同じ人吉温泉「あゆの里」へ宿泊しました。ここの露天風呂はとても気持ちよかったです。そして部屋からは人吉城が一望できました。

【写真⑧】
翌日は、帰りに人吉ICでバスの待ち時間があったので、歩いて5分の所にあるラーメン「龍風」で豚骨ラーメンを頂きました。おいしかったです。海苔が何だか珍しい?🤔

【写真⑨⑩】
帰りは、新大阪行の「さくら」号に乗車し博多駅で下車しました(写真⑨⑩)。

🔶JR肥薩線の不通について🔶
JR肥薩線は少なくとも2033年(約10年後)まで「八代~人吉~吉松」間で不通です。つまり熊本八代・宮崎・鹿児島いずれの方向からも、JRで人吉へは行けません。路線バスもありません。高速バスでしか行けませんので御注意下さい。(ということは太川陽介と村井美樹は人吉では対決できないという事ですか?😯=はいそうです😱)。
 

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トク

人吉城散策(3/4):本丸から下り球磨川へ (2024/09/18 訪問)

二ノ丸から本丸へ登りました(写真①)。本丸には護摩堂があったようで祈祷の場所だったようです(写真②③)。

再び中ノ御門へ戻り、そこから御下門へ下りました(写真④)。ここもずいぶんと大きな門です。20mもの櫓があった櫓門だったようです。川から攻め込まれる事を想定し、このあたりが防御の中心だったと思われます(写真⑤⑥)。相良氏は鎌倉時代に源頼朝から地頭に命じられてこの地に住み始め、伊東義祐・島津義久の両方から執拗に攻められるという危機にも耐え、さらに豊臣秀吉に敗れるも修羅場をくぐりぬけ、九州の関ケ原では西軍に付くも徳川家康に何とか本領を安堵され、結局は鎌倉から幕末までの670年もの間この地を守り抜いた相良氏ですから、守りに徹する力は相当なものがあったのかもしれません。

水ノ手門を内側から眺めました(写真⑦⑧)。跳ね出し石垣から水ノ手門周辺のこのあたりは、1年前はまだ立ち入り規制区域が一部残っていたのですが、今は完全に撤去され河原まで行けるようになっていました。

さらに水ノ手橋を渡りながら川からも眺めて見ました(写真⑨)。当時はあそこで船から荷物を積み下ろし城内へ運んでいたわけですね。その船頭さんたちの光景が何だか目に浮かびます。

最後に河原に下りてみました。今日は水量が少ないですがそれでも流れは速く、ドドドドと音がすごかったです(写真⑩)。豪雨の時はまだこの100倍くらい水があったと思うので、想像しただけで足が震えてしまいました。

最後は、この人吉城へ現在どうやったら行けるのか、わからない方が多いと思うので、私が今回行った方法を御紹介したいと思います。
 

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トク

人吉城散策(2/4):跳ね出し石垣から二ノ丸へ (2024/09/18 訪問)

西外曲輪の芝生の上を歩き、跳ね出し石垣の下に着きました。やはりいつ見てもカッコイイです(写真①②③)。ヒロケンさんと同じやはりテンションが上がってしまいます。でもなぜここをこのような形にしたのか、みなさん御存知ですか?(🤔試験に出たような?)。1862年2月、川向こうの鉄砲町で起きた火事(寅助火事)の時、乾燥した北西の強風で火の粉が球磨川を越え城内まで飛んで来て、その飛び火で城はほぼ全焼したそうです。その後二ノ丸で焼失した藩主御殿は、この石垣の上の現在の相良神社(写真④)の位置に再建され、その藩主御殿を再び火事から守るために、石垣を跳ね出しの形にしたそうです。よってどちらかと言うと防御のためではなく防火の意味合いの方が強かったというのが正解です(😯思い出したぞ!)。

写真②から右側、相良神社の下側はまだ石垣の補修工事がなされていて、車は通行止めです(前回写真⑩の馬責馬場の道が通行止めです)。よって車の方はこの撮影位置後ろに臨時駐車場が設けてありますので、ここに止めていただく事になります。もう残っている工事箇所はここだけのようです。ここと歴史館以外は、以前あった工事中の看板やロープによる規制は全てなくなっていました。

次は石垣の横にある堀合門から登ります。この堀合門は寅助火事でも運よく焼け残ったようで、一度移築されたもののまた現在の元の位置に戻されたという人吉城で唯一の現存の建築物です(写真⑤⑥)。そこから三ノ丸に登ると景色が見え始めました(写真⑩の下段が三ノ丸です)。ここ三ノ丸は西南戦争の時、田原坂で敗れた西郷隆盛が追って来る官軍を迎え討つため砲台を置いた場所です。でも川向こうの丘の上に陣を敷いた官軍まで砲弾は届かず、逆に官軍の砲弾はここまで届いたとか。西郷にとっては相当ショックだったでしょうね。

三の丸を過ぎると、中ノ御門がありました(写真⑦)。かなり大きな門だったようです。ここが藩主や奥方が居た二ノ丸御殿を守る最後の砦だったわけですね。その門の先には、その焼ける前まで御殿があったとされる二ノ丸がありました。籠城のための塩蔵跡もありました。今では杉の木が生い茂りうっそうとしていますが、ふとそこから見下ろした人吉温泉街の景色は、とても気持ちよかったです。でもよくあそこからここまで火の粉が飛んできたものです(写真⑧⑨⑩)。

次は、さらに本丸まで登ってから、球磨川の方へ下ってみようと思います。
 

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トク

人吉城散策(1/4):大手橋から西外曲輪へ (2024/09/18 訪問)

今月上旬豪雨被害を見に松山城を訪れ、再び思い出したのが2020年7月に球磨川氾濫があった人吉城です。あれから4年今年も訪れました。ではヒロケンさんが見逃されたという西側エリアから始めさせていただきます(すいません)。

でも訪れた後に、能登では豪雨でかなりの被害があったとニュースで知りました。まだ地震の復興もままならぬという時に、ダブルショックだと思います。本当は能登が大変な時に、こういう投稿をしていいのだろうかとちょっと悩みました。しかし逆にこんな時だからこそ、豪雨から復興している人吉城を見てもらった方がいいのではないかと思い、投稿させていただく事にしました。

まず球磨川にかかる橋の上から人吉城全体を眺めました。最近は晴天が続いていたので球磨川は穏やかでした(写真①)。豪雨の時の濁流はあの10数mもある石垣の堤防を越え、城内まで浸水したので、それが未だに信じられません。いつもこのように穏やかであってほしいものです。

橋を渡り隅櫓から多聞櫓を眺めつつ大手橋を渡り大手門から城内に入りました。そしてぐるりと見渡しましたが、4年前から新たな被害は無いように見えました。隅櫓や多聞櫓も当時損傷などあったようですが、2年前に修復と化粧直しがなされ、今では綺麗によみがえっています(写真②③④)。しかし歴史館は依然と休館で、再開の見込みは全く立ってないようです。豪雨時の水没した時の写真もありました(写真⑤⑥)。スタンプやパンフレットも相変わらず歴史館裏の倉庫にポツンと置いてありました。かつて見たあの相良氏関連の貴重な資料や謎の地下室は、今いったいどうなっているのでしょうか?(ありし日の歴史館内部の写真です⑦)。

その歴史館の前の西外曲輪は、3年前は泥に埋もれ荒れ果てて、ロープによる立ち入り禁止規制がなされ、泥撤去のため重機がたくさん入っていた姿を目にしました。しかし2年前には泥も完全に除かれて整地され、1年前には傷んだ芝生も養生を終えロープも撤去され、今は緑がとてもまぶしく、よくここまで復活したなと嬉しく思いました(写真⑧)。ここはかつて家臣の屋敷が立ち並んでいた武家屋敷町だったそうです。

では、この緑の芝生の上を歩いて、次は東側エリアに向かいます。
 

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概要

鎌倉時代から江戸末期までこの地を治めた相良氏の居城とされる梯郭式平山城。球磨川と胸川を外堀に見立てて石垣を築き、多くの船着場が設けられた。石垣の一部は幕末になると、最上部の石を突き出す「はね出し」を設ける西洋式に変わった。屋敷跡で発見された用途不明の巨大な地下室が遺構として公開されている。

城郭情報

城地種類 梯郭式平山城
築城年代 元久年間(1204〜1206)
築城者 相良長頼
主要城主 相良氏
文化財史跡区分 国史跡(人吉城跡)
近年の主な復元・整備 相良義陽、相良頼寛
主な関連施設 櫓、塀、石碑、説明板
主な遺構 曲輪、石垣、土塁、横堀(水堀)
住所 熊本県人吉市麓町
問い合わせ先 人吉市教育部文化振興課文化係
問い合わせ先電話番号 0966-22-2111