みふねじょう

御船城

熊本県上益城郡


旧国名 : 肥後

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todo94

三連休二日目の攻城⑧ (2025/07/20 訪問)

ぴーかるさん、尼子十砦(&尼子十旗)制覇、おめでとうございます。私は凄く苦労して夕景城(馬木城)を攻略して尼子十旗はコンプリートすることができたのですが、尼子十砦は十神山のみの攻略にとどまっています。ぴーかるさんが十砦で一押しの勝山城なんて登城路がわからなくて途中撤退していますから。尼子十砦制覇はずっと先のことになると思いますが、いつか私もびーかるさんに続きたいと思っています。

さて、三連休二日目の攻城を続けます。豊福城からの転戦です。肥後御船城は城山公園として整備されていて、丘の中腹に駐車場があります。小学校、役場、中学校に取り囲まれていて、役場前には恐竜のモニュメントが何体か建っていました。城址に立つ看板を見てその謎が解けました。御船町の形は恐竜に似ているのだそうです。丘の先端部には天満宮が鎮座し、太宰府天満宮飛来の梅が植えられていました。

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昌官忠

202206遠征(対馬&五島&北部九州)5日目:御船城 (2022/06/09 訪問)

愛藤寺城からの転戦です。城山公園駐車場入口(32.714417、130.800272)から進入して、城山公園駐車場に駐車しました。

築城年代は定かではないようです。 阿蘇惟長によって日向国に追われた阿蘇惟豊は、甲斐親直(宗運)の助けで惟長を追って復帰します。
その後、阿蘇惟豊の命で御船城主御船房行を討った甲斐宗運は、御船城主となりました。
宗運は御船城を居城として勢力を持ち、大友氏と阿蘇氏の間に立って重要な役目を果たしますが、耳川の合戦で大友氏の勢力が衰えると、島津氏の命で攻め寄せた相良義陽を響ヶ原で討ち取るなどの戦功をあげました。
宗運が亡くなると島津氏が北上して益城郡の諸城を落とし、御船城主甲斐親英は城を捨てて退散しました。
1587年(天正15年)の九州征伐で島津氏が去ると佐々成政が肥後に入り、肥後国人一揆が起きました。一揆に参画した親英が処刑され、甲斐家は滅亡しています。
一揆鎮圧のため御船城には1588年(天正16年)3~5月頃まで黒田孝高が城番として入り、続いて小西行長の支配下に入りました。
関ヶ原の戦いの後は加藤清正の領地に組み込まれ、清正は城の石垣を御船川の改修や若宮堰の建設に使ったとされます。
その後、一国一城令発令の時点で御船城の原形は既になく、1651年(慶安4年)に江戸幕府が肥後国内の古城を調査した際、曲輪250間と記されているそうです。

現在は城山公園となり一画に城山天満宮が建っていますが、 甲斐宗雲の居城跡としては、些か寂しいですね。
ちなみに、「信長の野望」に出てくる甲斐親直(宗運)は僧侶姿で能力が高かった。息子の甲斐親英は無能でしたが。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=堅志田城に向かいます。

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ryu

御船城(2014年) (2014/03/01 訪問)

五ヶ瀬ハイランドにスキーに行った帰りに訪城。
御船町立御船小学校南側の丘陵に立地する中世の平山城。城の築城年代は不明だが、天文10年(1541年)には城主の御船房行が阿蘇氏に反乱し、これを討伐した甲斐宗運に御船城が与えられたらしい。その後、天正13年(1585年)、島津氏の大軍に包囲され降伏し、島津義弘が入城している。
天正15年(1587年)の九州征伐後、佐々成政が肥後に入り、肥後国人一揆が起きる。一揆に参画した甲斐家は滅亡し、一揆鎮圧のため御船城には天正16年(1588年)3~5月頃まで黒田孝高が城番として入り、続いて小西行長の支配下に入る。

現在、城跡は城山公園として整備されており、公園入口に模擬城門が建てられていた。

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りあそーる

甲斐宗運

お墓も見ていった方が良いですよ(ちょっと離れてますが)。駐車場は近くのスーパーでお買い物ついでに止めさせていただきました。恐竜の町。

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城郭情報

分類・構造 平山城
築城主 御船氏
築城年 不明
主な改修者 加藤氏
主な城主 御船氏(阿蘇氏家臣)、甲斐氏(阿蘇氏家臣)
廃城年 16世紀後期?
遺構 曲輪、土塁
再建造物 模擬門(宗運門)、説明板
住所 熊本県上益城郡御船町大字御船(城山公園)