愛藤寺城からの転戦です。城山公園駐車場入口(32.714417、130.800272)から進入して、城山公園駐車場に駐車しました。
築城年代は定かではないようです。 阿蘇惟長によって日向国に追われた阿蘇惟豊は、甲斐親直(宗運)の助けで惟長を追って復帰します。
その後、阿蘇惟豊の命で御船城主御船房行を討った甲斐宗運は、御船城主となりました。
宗運は御船城を居城として勢力を持ち、大友氏と阿蘇氏の間に立って重要な役目を果たしますが、耳川の合戦で大友氏の勢力が衰えると、島津氏の命で攻め寄せた相良義陽を響ヶ原で討ち取るなどの戦功をあげました。
宗運が亡くなると島津氏が北上して益城郡の諸城を落とし、御船城主甲斐親英は城を捨てて退散しました。
1587年(天正15年)の九州征伐で島津氏が去ると佐々成政が肥後に入り、肥後国人一揆が起きました。一揆に参画した親英が処刑され、甲斐家は滅亡しています。
一揆鎮圧のため御船城には1588年(天正16年)3~5月頃まで黒田孝高が城番として入り、続いて小西行長の支配下に入りました。
関ヶ原の戦いの後は加藤清正の領地に組み込まれ、清正は城の石垣を御船川の改修や若宮堰の建設に使ったとされます。
その後、一国一城令発令の時点で御船城の原形は既になく、1651年(慶安4年)に江戸幕府が肥後国内の古城を調査した際、曲輪250間と記されているそうです。
現在は城山公園となり一画に城山天満宮が建っていますが、 甲斐宗雲の居城跡としては、些か寂しいですね。
ちなみに、「信長の野望」に出てくる甲斐親直(宗運)は僧侶姿で能力が高かった。息子の甲斐親英は無能でしたが。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=堅志田城に向かいます。
+ 続きを読む