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しんちゃん

宮島 (2013/10/03 訪問)

そこはかとなく未練を残して一度宮島を離れます。また会おう宮島・・翌日早々に宮島に向かいました。また行くんかい・・
やはり厳島神社は潮が満ちていないと。海に浮かぶ社など全国にもなかなか無い。平清盛の発想は凄いですよ。実は宮島は豊臣秀吉とも関わりが有ります。天正15年(1587)秀吉は厳島神社に詣で、大経堂の建立を行います。この大経堂が後に豊国神社となるのですが、実は未完成のままなのです。

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しんちゃん

厳島(宮島) (2013/10/03 訪問)

厳島には鹿がいます。どうやら島全体で500頭くらいいるようですね。随分昔からいるようで、西行法師の「撰集抄」にも宮島には鹿が多いと書かれているようです。奈良の鹿と違って、角の生えている個体がいるので、突かれないように注意が必要です。
昔は鹿せんべいも売っていたらしいですが、いろいろ問題があって今は餌やりは禁止されています。野生動物ですからね。
宮島の夕景はとても綺麗です。

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しんちゃん

厳島神社 (2013/10/03 訪問)

厳島は「安芸の宮島」と呼ばれ日本三景の一つに数えられています。厳島神社は弥山の北麓に築かれ、世界遺産に登録されています。
平清盛によって築かれ、神聖な厳島の上ではなく、海中に礎石を据え、その上に建造物が乗っかっています。
干潮になると、土台が姿を現し、鹿が床下をウロウロしてました。幾度か火災に見舞われ、戦国時代に厳島の合戦で勝利した毛利元就によって、大規模な修復が行われています。

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しんちゃん

広島城 (2013/10/03 訪問)

「水堀に 浮かぶ鯉城の 大天守(みずぼりに うかぶりじょうの だいてんしゅ)」

広島城の別名は「鯉城」といいます。あの「広島東洋カープ」の名前の由来にもなっています。
アメリカの投下した原爆の爆心地から1kmの距離にあり、一帯に約1万の兵士がいましたが、城内の建物と共に壊滅しています。天守も倒壊し、残ったのは水堀と石垣、戦争で最も大きな被害を受けた城郭ではないでしょうか。

現在は広島の街とともに復興し、その見事な佇まいは鯉城の別名に相応しいものだと思います。

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しんちゃん

【赤色立体地図かるた】 (2024/06/29 訪問)

「かな井戸に 願いを懸ける 高天神(かないどに ねがいをかける たかてんじん)」

高天神城の築かれている城山は、水はけが良すぎて井戸を掘るのに向いていません。雨の降った翌日に訪問すると、良く解ると思います。道の脇からどんどん水が染みだして来ます。実際、かな井戸のある付近の二の丸からは貯水用の大量の瓶が出土しています。
第二次高天神城の戦いでは、水の手を絶たれ、城内に残されているのは「かな井戸」だけになりました。この井戸がいつ掘られたのかは不明ですが、いくら掘っても水が出てこないため「金井戸」と名付けられたとする説もあるようです。
城兵の願いは「かな」わず、敵陣に向かい突撃して城将の岡部元信をはじめ、688名が討死して果てました。

彼らの無念を心に留めつつも・・かな井戸が「願いのかなう」「叶井戸」としてパワースポットになるといいな、とか考えています。
どうですか掛川市観光協会さん・・ちょっと、おどろおどろしすぎますかね。
ちなみに、この井戸の深さは13mあり、落城時に姫が身投げをしたという、伝説もあるようだけど・・・

「かな井戸で 願いが叶う 高天神(かないどで ねがいがかなう たかてんじん)」

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しんちゃん

【赤色立体地図かるた】 (2020/01/03 訪問)

「後世へ 戒め残す 名護屋城(こうせいへ いましめのこす なごやじょう)」

江戸時代初期、島原藩松倉氏と一部の幕臣の間でマニラ遠征が計画されていたようですが、絶妙のタイミングで島原の乱が勃発して、計画は頓挫してしまいます。幕府もいささか懲りたのか、この後 急激に鎖国に舵を取ります。
名護屋城の石垣の破却はこの時期ではないかと思います。大陸の情勢次第によっては有用性のある城だと思いますが、それ以上に他国との争いを避けるようにという後世への戒めにも感じます。豊臣秀吉の朝鮮出兵の失敗と、島原の乱に至る経緯を考え、リスクの高さを考慮したのかもしれません。この後、江戸時代を通して幕末まで、国内での争いは限定的で、他国との争いが無かったのは僥倖と言えるでしょう。
将軍や王・皇帝による支配体制の徹底(王道楽土を理想とする)と相互不可侵のもたらした平穏だったと思いますが、植民地支配に味を占めた欧米列強には、その理屈は通じませんでしたね。

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朝田 辰兵衛

もしも花巻のホテルがリザーブできていたら… (2025/06/22 訪問)

もしも花巻のホテルがリザーブできていたら,この投稿は花巻城になっていたハズ…。今はクマが血気づいているようなので,東北地方では市街地であっても油断できません。
この日は余裕をかまして空堀の中まで入り込みました。もう,随分昔のような感覚になっています。しんちゃんさんの投稿から間隔を空けたので…。

赤い城さんへ…
コメントありがとうございました。赤い城さんもいくつか採用されるといいですね…。私のお気に入りは「徳島城」です。たぶん,かまぼこ再び…はないと思います。

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にのまる

【赤色立体地図かるた】

「右郭より お入りください 安田城」
(みぎくるわより おはいりください やすだじょう)

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にのまる

【赤色立体地図かるた】

「杉木立に 潜む馬の背 増山城」
(すぎこだちに ひそむうまのせ ますやまじょう)

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カズサン

【赤色立体地図かるた】 (2022/05/23 訪問)

 「白漆喰 復元進む 小田原城」(しろしっくい ふくげんすすむ おだわらじょう)

 小田原城は中世戦国期は土の城、高土塁に深い堀を廻らした惣構の造りでした、小田原征伐後徳川氏の勢力範疇に成り、江戸の西側を守る箱根の抑えとして小田原に近世城郭なる総石垣、白漆喰建物として天守閣に、櫓門、多門櫓、平櫓、白土塀が並んでいた事でしょう。
 
 現在、復興天守として天守閣、復興櫓門として常盤木櫓門と多門櫓、復元櫓門として銅櫓門と枡形土塀、二の丸復興隅櫓、馬屋曲輪馬出門枡形土塀と維新後取り壊られた建物が当時の真っ白い白漆喰建物として甦っています。
 今後は関東大震災で崩落した本丸石垣と囲み土塀を甦らせて貰いたいものです。
  

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びーこ

石垣の玉手箱や〜 (2025/08/12 訪問)

待ちに待った1年3か月ぶりの登城だ。皆さんの投稿を指をくわえて読む日々、長かった・・・(苦笑)

盛岡城は2度目である。今回は、NHKの「最強の城スペシャル」で紹介された所を巡ってみた。

[石垣]
まずはやはり立派な石垣に圧倒される。高さはもちろん凄いが、1つ1つの石の大きさが目を惹く。
櫻山神社の烏帽子岩を見ても分かるが、この場所で豊富な花崗岩が採掘されたことで、これだけの石垣を実現できたのだとのこと。
また、番組内でも紹介されていたが、矢穴が表に現れているのも特徴的である。確かに他の城と比べると矢穴の出現率が高い。ちょっとしたアクセントになっていて、見ていてなかなか楽しい。
更にガイドマップによると、盛岡城は、「野面積」「打込接」「切込接」の全ての技法が見られるほか、「算木積」「笑い積」だけでなく「三角錐の角石」という盛岡城でしか見られないものもあるとのこと。この三角錐の角石の写真が取れてなかったのは不覚だった・・

[榊山稲荷曲輪]
三角形に飛び出した区画は、守りを固めるための仕掛け。上からも下からもしっかりと見学した。

[渡雲橋]
本丸と二の丸はそれぞれ石垣で囲まれており、この赤い橋で繋がれている。このような形態になっているのは珍しいらしい。この橋は自分で渡れるだけでなく見た目も鮮やかなので、見学者としては気分が上がるアイテムの1つだ。

[グルメ]
さて、今回の登城後のグルメは盛岡三大麺の1つである「じゃじゃ麺」である。じゃじゃ麺の優しい味が登城後の疲れた体に染み渡る〜最後に「ちーたんたん」も食して空腹もようやく満たされた。1つ残念だったのは店にビールが置いてなかったこと。仕方がないのでクラフトビールの店で二次会を開催!こちらも美味しくて大満足。良い一日の締めくくりができた。

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カズサン

【赤色立体地図かるた】 (2017/06/04 訪問)

 「北条の 畝堀見所 河村城」(ほうじょうの うねぼりみどころ かわむらじょう)

 8年前頃城探訪の未踏城郭が山城に成って来始めて、河村城、足柄城の余湖図コレクションの情報、俯瞰図を眺めて認知はしていましたが中々足が運ばずでしたが、日帰りで高速を飛ばし大井松田IC経由して河村城と足柄城を初探訪。
 
 河村城はJR山北駅南側、登城路を登り詰めた所に駐車場とトイレ完備されて居り大変便利、急な登城路をつづらに登って行くと、茶臼郭へ着く、茶臼郭の南端より小郭間の畝堀が見下ろせる、小郭へは登れない、茶臼郭を降りて横道より畝堀を眺める、本城郭は虎口に冠木門柵が復元、本城郭へ入り、北端より本城郭と小郭間の畝堀を見下ろす、草刈がされて居て良く確認が出来ました、感激の畝堀対面でした、本城曲輪には神社が祀られて居り、立派な城名石碑が立っています、本城郭と蔵郭間にも堀切が有り堀底は畝が掘ってある、木橋が架かっています、その先は近藤郭、大庭郭と成っており整備したばかりの様でした、その先西側には駐車場が見えて、西側駐車場より河村城に比高さ無く登城できるようです。
 探訪しませんでしたが本城郭の南側に馬出郭が備わっています。
 
 河村城の歴史は古いようですが、北条氏の領有に成って対武田、対豊臣戦で北条流の山城に成り堀切に畝堀が多用されたようです。
   

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トク

【赤色立体地図かるた】 (2025/03/26 訪問)

三方を 海が囲んだ 玖島城
(さんぽうを うみがかこんだ くしまじょう)

あれこれ考え、やはり清正は外せなかったのですが、カズさんとだぶってしまうのであきらめました。この大村公園は、「さくらの名所100選」にも選ばれていて、堀沿いに咲く大村桜がとても綺麗でした。

大村と言えば日本初のキリシタン大名「大村純忠」を思い浮かべる方が多いと思います。しかし玖島城の築城者である子の「大村喜前」は、キリスト教を嫌って、父とは全く正反対の人生を歩んだという事は、以外と知られていないようです。


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以下、興味ある方はお読みください
【大村喜前の人生】

喜前は19才で父に代わって秀吉の元へ参陣し、名護屋城や壱岐勝本城の築城に携わりながら、そこで築城技術を習得します。また朝鮮出兵では順天倭城での籠城戦で3倍の敵に勝てた経験から、三方を海に囲まれた地は守りやすく攻めにくいという事を学びます。そこで帰国後の1598年、新たに三方を海に囲まれた玖島城を築城して大城城より移り、城下町を発展させて行きました。

父の純忠の時代の大村は、教会が建ち南蛮貿易で栄えました。しかし秀吉よりバテレン追放令が出ると同時に純忠が死去し家督を継ぐと、いち早く棄教して宣教師を追放してキリスト教を禁じます。

そして1600年の九州の関ケ原では、順天倭城で籠城を共にした松浦鎮信や有馬晴信らを説得してキリシタン大名の小西行長を裏切り、加藤清正の東軍に付いて宇土城を攻めたため、家康からは所領を安堵されました。

その後1602年には加藤清正に指南を仰ぎ、その助言により大手口を城の南側に移して高石垣を備えた大手門を造り、大手門から二ノ丸や本丸へは連続桝形にして攻めにくい構造とします。また海からの攻撃に備えた板敷櫓を造り、周りに水堀を巡らせるなどして大改修し、さらに強固な縄張りにしていきました。特に板敷櫓の石垣は、熊本城を思わせるような見事な扇勾配の高石垣で、ここに最も清正の助言の跡を見る事ができます。

しかし築城中に家康から長崎を没収され、大村藩は貿易による利益を失い財政難に陥ります。ここで喜前は1607年、逆らう父純忠一門の家禄と利権を没収する(御一門払い=粛清)を行う事で藩政を立て直したようです。そして家康が発したキリシタン禁教令によりさらにキリシタン弾圧を行い、教会をことごとく破壊していきました。その結果1616年、弾圧を恨むキリシタンから毒殺され、48才で波乱の人生に幕を閉じたようです。
 

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カズサン

【赤色立体地図かるた】 (2022/05/23 訪問)

 ①「北条へ 威圧をかけた 石垣山」(ほうじょうへ いあつをかけた いしがきやま)

 ②「一夜にて お城現る 石垣山」(いちやにて おしろあらわる いしがきやま)

 ③「関東に 石垣広めし 一夜城」(かんとうに いしがきひろめし いちやじょう)

 石垣山城へは3度ほどの探訪見学ですが、最近小田原城の天守閣リニューアルオープンしてから石垣山城と小田原城を訪ねました、デジカメでの写真が少なかったので出来るだけ多くの遺構を写真に納まました。
 石垣山城は一夜城とも呼ばれて太閤秀吉が小田原征伐の総仕上げとして小田原城の対面の山に総石垣、漆喰下見板張黒漆建物、金箔瓦の豪華威圧ある城を築き、完成後樹木の伐採、天幕を外して一夜に出来たようにしたとの謂れの有る城郭です。
 かるたの読みが絞り切れず3文投稿しました。

 石垣の崩れは関東大震災時の影響が大との事でしたが、南曲輪角の巨石を使った石垣は圧巻で見応えがあります、修復復元出来たらなぁ~とも思いますが、関東大震災も歴史の1頁、保存整備どうしていくのでしょうか?
  

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イオ

【赤色立体地図かるた】 (2021/11/21 訪問)

小谷城 ふたつの尾根に 曲輪群
(おだにじょう ふたつのおねに くるわぐん)

小谷山頂の大嶽から南東と南西にのびる二つの尾根に多くの曲輪群を連ねた巨大山城で(といっても南東尾根が中心で南西尾根には2つくらいですが)、南東尾根から大嶽を経て南西尾根までひとめぐりしたのはとても充実した一日でした。
 

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赤い城

龍福寺 (2025/07/13 訪問)

久しぶりの通常レポートになります。
前回レポートした広島から山口まで足を伸ばし大内氏館へ。
まずは大路ロビーで続100名城スタンプを押印、まだ49城めです。

館跡には大内義隆の菩提寺である龍福寺が建っています。
東側には庭園の跡や石組みかまどなども復元整備されています。

東側の開口部から外に出て外周を歩きました。
北側は土塁が復元整備されています。
西側にまわると西門も復元されています。

大内氏は北九州から中国地方まで支配した西国一の大名で大陸とも積極的に交流していました。
ここはその経済的、文化的活動の拠点であったとも言えます。
なんとなくこの周辺は雅な雰囲気を感じます。

【見どころ】
 ・復元整備された土塁

朝田さん、かるた50城エントリーお疲れ様です。
いくつか採用されるといいですね😊
発売を楽しみに待ちましょう!

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todo94

お盆帰省の城めぐり② 2巡目の続100名城スタンプラリー83城目 (2025/08/14 訪問)

赤見城からの転戦です。続100名城のスタンプは4月の吉田城以来、4ヶ月ぶりです。天気は良かったのですが、遠くは霞んでいて富士山は見えずじまいでした。新宿副都心の高層ビル群は見えたんですけれどもね。赤い城さんがクイズに出題されていた土橋の方まで歩いてみたのですが、見つけることができませんでした。またの機会の楽しみに取っておきたいと思います。

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しんちゃん

北の庄城址・柴田公園 (2013/08/23 訪問)

柴田勝家が福井県福井市に築いた北の庄城の天守閣があったとされる場所に柴田公園があり、柴田神社が建てられています。柴田神社の隣には三姉妹神社もあり、しっかり三姉妹やお市さんの人気にもあやかっているようです。
公園内には北の庄城の天守郭の模型や、お市さん、三姉妹の銅像があり、柴田勝家の銅像も鎮座しています。発掘で確認された石垣も見ることができますが、ほんの一部だけです。
とはいえ平成5年からの6回にわたる調査で、幻の存在であった北の庄城の痕跡を確認できたことは大きな意義があると思います。公園のスペースは決して広くはありませんが、城好き・歴史好きには外せないスポットです。

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原胤清 (2025/08/21 訪問)

 京成千原線学園前駅より徒歩約15分で北小弓城大手口跡の石碑に行くことができました。そこから5分くらいで空堀が残っている生実神社に行けます。雑草が生えていて少し見にくですが、いい空堀が残っていました。さらに7~8分で主郭であったと伝わる本城公園に行くことができます。
 帰りは柏崎バス停からバスに乗り蘇我駅まで行きました。

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有吉公園 (2025/08/21 訪問)

 有吉公園付近が城址です。遺構はないということです。

 京成千原線学園前駅より徒歩約15分で行くことができます。

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