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伊達稙宗 (2025/05/23 訪問)

 高舘山の中腹から山頂付近にかけて築城されている城址です。安元元年藤原秀衡が館を築き、文治5年の奥州合戦の時には、藤原勢が立て籠もり鎌倉勢を迎え撃ったと伝わります。その後、永禄年間には名取、苅田、柴田、黒川四郡を領有した伊達稙宗が支配の拠点とし、家臣の福田駿河守を置いていたとされます。
主郭を中心に取り囲むように曲輪を設けています。
 高舘城の上方にある熊野那智神社から登城しました。歩いて行くと南之丸と秀衡ヶ崎の間の堀切に到達します。秀衡ヶ崎は藤原秀衡が築いたと伝わる砦部分で緩やかな平坦地となっていて先端には堀切がありました。元の道に戻り歩いて行くと蔵王山と彫られた石碑などがあり主郭へ上がることができます。もう少し先にも高舘城の標柱があり、そこからも上がることができますが、少し藪になっていました。主郭は思っていたより広く南北約100m弱、東西約50m弱あるようです。西側にはいい感じの高土塁がありますが、周囲は藪で全容を把握できません。周囲の曲輪を少し歩いてみましたが、全体的に藪になっていて足元も長く伸びた草や折れた木などが重なっていて歩きにくかった。ネットなどをみると他にも堀切や空堀があるという情報もありましたが、藪となっている場所も多く周囲の曲輪を含め十分に散策できませんでした。藪漕ぎはしない、無理はしないと決めていますが、帰って来てあらためて本やネットの情報を見ると、もう少し無理してもよかったんじゃないかと思うことも多いです。

 麓からも登城路がありますが、車で行かれる方は熊野那智神社まで上がると近くに高舘城の説明板と案内標識があります。10分くらい降りて行くと城址に行くことができます。

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在郷屋敷 (2025/05/23 訪問)

 中世の館跡で、江戸時代には仙台藩士の入生田家が伊達氏から館跡を拝領し、在郷屋敷として使用していました。公園として整備され土塁が一部ですが、残っています。
 地下鉄南北線富沢駅から徒歩10分くらいで行くことができます。

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しんちゃん

国の史跡・宮沢遺跡 (2025/01/03 訪問)

宮城県大崎市の「宮沢遺跡」は大崎平野北部の丘陵南端部に築かれた古代の城柵で国の史跡に指定されています。奈良時代から平安時代に築かれたとされ、東日本でも最大級とされ東西約1.4km、南北約850mの範囲を築地や土塁によって囲われていました。
現在はど真ん中を東北自動車道が通過し、バイパスの東側を東地区、西側を西地区と呼称しているようです。我が国の歴史や文化財に対する扱いなどこんなものかと嘆きたくもなりますが、新幹線や高速道路によって削り取られた関ヶ原の「自害ヶ峰」周辺よりはだいぶマシなのではなかろうか。あの丘陵部は神谷道一氏の陣地図では西軍の陣とされていたはずですが。

東西はバイパスによって分断されているので、トンネルをくぐって西地区に移動します。東側の丘陵上に主要な建物があったと思われ、西側の丘陵は周囲を俯瞰する物見の様な役割を果たしていたようです。また高所に陣を置くことにより戦闘を有利に進める狙いもあったのではないでしょうか(byキングダム)。

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しんちゃん

留守ですけど (2025/01/02 訪問)

現地案内板によりますれば、利府城は留守氏の重臣。村岡氏の居城でしたが、永禄12年(1569)留守氏の後継者問題で伊達系留守氏側と対立し翌年、この城で戦い滅亡したとされています。その後、伊達政宗の叔父の留守政景が20年の間この城を本拠としました。
標高100m、比高100mの山城ですが、駐車場まで車道が伸びているので、城址へのアクセスは容易です。北側の駐車場に車を留め、そこからは徒歩になります。北東と南西の二つの丘陵上に郭が築かれています。
余湖さんの縄張り図だと「憩いの丘」や「芝生広場」の有るあたりが南部分、「桜の園」と呼ばれる広場が北部分とされ城址碑も有ります。公園化されているので、遺構の判別は難しいですが西側の「どかん広場」「頂上広場」にも出丸や物見の雰囲気がありますね。

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郷六大膳盛元 (2025/05/23 訪問)

 国分氏の一族、郷六大膳盛元の居城でした。土塁と堀と思われる地形があります。余湖くんのHPを見ると東南則に土橋などがあるようですが、藪になっていてわかりませんでした。

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五郎八姫 (2025/05/23 訪問)

 慶長年間以降に,伊達家家臣・山岸定康が居住し,その後、伊達家重臣・茂庭綱元の屋敷と館跡です。伊達政宗が死去すると綱元は現在の栗駒町に移り,この屋敷には政宗の長女・五郎八(いろは)姫が移り住みました。以降,西館は五郎八姫の仮御殿として,別荘的な性格を持っていたようです。土塁、池跡、井戸跡などが残っています。

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野武士の城 (2025/05/22 訪問)

 野武士が立て籠もった山城とされています。またこの地域は国分氏の支配地域で関連する城館ともいわれています。諏訪神社の後方丘陵が城址で、神社より登城路が整備されていました。神社の鳥居近くに説明板があります。縄張りがわかりにくいのですが、空堀、土塁などの遺構が観られます。
登城路を進んで行くと左手に曲がった所に曲輪と思われる平坦な地形があり、その後左手下に空堀がありました。東側に登って行くと段々となっている曲輪があり、ここにも説明板が設置されています。さらに進んで行くと湧き水池への道があり、先には水分神社があります。ここまでは道も整備され草もなく歩きやすいのですが、その先は藪に近い状態でした。ただその先の曲輪には土塁、空堀、虎口などがあり見どころだと思います。この日は雨が降っていて、この自分が見どころと思っている場所に来ると雨の勢いが強くなり難渋しました。下りてくると雨が止むという自分にとっては時々あるパターンです。

 刑部さんが登城されたときは侵入禁止となっていたようなので、神社まで行って引き返すことも覚悟していましたが、通行規制は解除されていました。ただ入口に「熊出没・被害について、周辺地域にて相次いで報告されております その為、入山にはくれぐれもご注意ください また、山中での事故等の一切の責任は当神社では負いかねます」の注意書きがありました。近くに御殿館跡へ(約10分)→御殿山へ(約15分)と書かれた標識があり、急いで行って来ました。この日は先にも書いたように雨が降っていて傘を差しながらの登城となり、ブレている写真が何枚かありました。

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todo94

ゴールデンウイーク後半・伯耆の城めぐり⑤ (2025/05/03 訪問)

あまり触れられていないコンデジにもないデジタル一眼の利点を紹介しておきますね。それはレスポンスの速さです。兎に角、電源を入れて立ち上げてからシャッターを切るまで本当に短時間で済みますし、シャッターを切った瞬間の写真をきっちり撮影することもできます。この快適さはちょっと手放す気にはなれません。あとバッテリーの持ちが良いという利点もあります。1週間くらいの旅だったらバッテリー交換や充電の必要はまずありませんから。(それでも替えのバッテリーは用意しています。破損したカメラのものを有効活用しています。)そもそも、カメラはレンズの大きさ(F値)にもこだわっていますしね。

さて、ゴールデンウイーク後半の城攻めです。日吉津のイオンモールにて昼食をとり、鳥取県内では5回目となる献血を無事終えた後に攻城しました。この城、どうも私有地のようで登城路を少し進むとチェーンが張られていて城内に立ち入ることはできませんでした。城に関する表示は何もないし、魅力的な遺構があるようにも思えませんでしたので、早々に次の城へと向かいます。

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しんちゃん

城域南部の整備がされると、面白い城になりそう。 (2025/05/06 訪問)

宮崎城は図師六郎入道慈円が南朝方に応じて挙兵した際に築かれたとされています。北朝方の土持氏に攻められ落城した後は、土持氏の城となり、文安4年(1446)に伊東祐堯が攻略して以降は、伊東48城の一つとして家臣の落合彦左衛門が置かれました。島津氏に追われ、伊東氏が豊後に逃げてからは島津氏の持城となっています。
この地域では外せない城だと思い、朝から攻略をしていますが、朝方からの雨で限定的な攻略に留まっています。満願寺口から攻略し、分岐を北に回って、目曳城と周辺を散策します。その後分岐に戻って、本丸から彦衛門城(百貫城?)を散策して引きあげました。
本丸と彦衛門城の周辺には堀が残っています。城域もなかなか広く、この周辺では名の通った山城ですが、整備の手は行き届いておらず、案内の標柱なども見当たりませんでした。もっと登城道や藪刈などの整備がされれば、面白い城になるとは思うのですが、いささか残念ではあります。

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しんちゃん

赤木城 (2025/03/29 訪問)

登城道から登っていくと、東郭Ⅰ・東郭Ⅱに挟まれた場所に行きあたります。そこから城内に侵入する必要がありますが、ここで両郭から攻撃を受けるので、通り抜けるのは至難の業です。その先も東郭Ⅰの攻撃を受けながら虎口を通って主郭を目指しますが、この虎口も幾重にも折れ曲がりが続いていて容易に先に進ませてくれません。コンパクトな城址の内に巧妙な防御の仕掛けを施しているあたり、後に築城名人として第一に名前の出てくる藤堂高虎公の城として相応しい城だと思います。
高虎公初期の城とはいえ、石垣も見事で西郭の周辺もしっかり造られています。東西の両郭に挟まれた南郭周辺は平時の生活の場として使われていたようです。周辺を押える城として、主郭からは赤木・長尾・平谷といった集落を眺望することが出来ます。

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ぴーかる

台城 (2025/03/22 訪問)

【台城】
<駐車場他>現地が墓地になっているので墓地駐車場に駐車できます。
<交通手段>車

<感想>2泊3日西九州旅3日目6城目。菊池市の公式サイトによると台城は菊池十八外城(菊池郡の本城である菊池城を守る十八の城)の1つで、城主は一族の交代制であったようです。大きな舞台になったのは1375年の水島の戦いで、13歳の菊池賀々丸(のちの武朝)が九州探題の今川了俊の進行を食い止めます。1379年の板井原の戦いで今川軍は亀尾城を拠点にして台城は落城します。
 城跡碑のある場所は台地の端にあり、幹線道路から車1台が通れる狭い農道を行って着きます。現地は墓地になっていて土塁か堡塁かよく分からない盛土の上に城跡碑があります。台地上は広大な畑になっていました。

<満足度>◆◇◇

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キンヤ

徳川大坂城の刻印 (2025/05/05 訪問)

二の丸 南仕切門の北側、隠し曲輪、刻印石広場の刻印を投稿させて頂きます。

元和・寛永年間(1620年~1629年)、徳川幕府が西国の大名(64家とも)を動員して、豊臣大坂城の上に徳川大坂城の再築工事が行われました。
工事を分担する丁場割が行われ、参加を命ぜられた各大名は石垣の石材に家紋や文様を刻み、その刻印の数は5〜6万個にのぼるそうです。

二の丸 南仕切門の北側の残石には、大名は分かりませんが、見事な「桐紋」「左◯き十七」の刻印が見られました。

本丸西側下の隠し曲輪の石垣では刻印が沢山あり間近で見られました。
「丸に出十字(くつわ紋)」と「丸にニ八」が多く、「丸に出十字」は伊予大洲藩 加藤泰興、「丸に二八」が丹波園部藩 小出吉親の刻印とされます。
左右で「丸に出十字」と「丸にニ八」に分かれる境があり、ここからは俺たちが持って来て積んだと担当範囲を主張し合ってるのかと妄想しました。
美濃高須藩 徳永昌重の刻印とされる「地紙」も見付けることができました。
徳永昌重は、お酒が好きで大坂城石垣の工事を遅延し責任を取らされ、領地を没収されたとされます。

山里丸の刻印石広場には刻印がある残石が沢山集められていて、石置場・出土した地域・大坂城内など7つのゾーンに分けて展示されてました。
観光客が残石に座っていたり、子供が遊んでいて、刻印は28個(恐らく3割位)しか確認できませんでしたが、最近刻印好きになった私にとってはパラダイスでした。

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しんちゃん

ゲッゲッ ゲゲゲのゲ~(それは妖怪) (2025/05/06 訪問)

ヒロケンさんの投稿を見ると、ここはちょっとした心霊スポットのようです。それで、人気(ひとけ)が無かったのね(笑)。
おかげでのんびり城跡を散策できました。幽霊さんありがとう(ありがとうじゃないって)。
私はZONEに入ってくると、なんとなく「城の声」が聞こえるような気がしますが、霊感は無いらしく、おばけに会ったことはありません。妖怪とかいたら会ってみたいけどな~。
山城を攻めている時は、イノシシを追っ払って城攻めを続けているし、鹿児島の道の駅では普通車のエリアに入り込んできたトラックをドヤして追っ払ったりしてるし、こんなオイラじゃ幽霊さんも寄ってこないかな・・ちょっと心がヤサグれていますね。まあ、旅の間だけですよ、普段はそんなに気が立ってないです。

紫波洲崎城は日向灘に面した丘陵の鼻に築かれています。日向灘を一望できる立地にあり、周辺の海(港)を治めた城とされ、伊東48城の一つとされています。主要部まで舗装された道が続いていますが道幅は狭く、軽自動車でもすれ違う巾は有りません。一台で有れば普通車でも十分通れるので、様子を見て一気に上まで上がります。おばけのお陰で人がいないのが幸いしましたね。
パゴダのある場所が主郭と見られ、北東まで郭が伸びています。展望台が立っていて、そこからの眺望は良好です。パゴダの北側にも郭があり、展望台がありますが、道はうっそうとしています。できれば夕方の雰囲気たっぷりの時間帯に訪問してほしいです。
ひゅ~どろどろ・・

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しんちゃん

本丸周辺は激ヤブ 駐車場からの桜島が見事 (2025/05/08 訪問)

「二刀流です」・・って既に参加済みの状態ですが。私はコンデジ派は「隠れ二刀流」と見ています。デジカメのメモリーがいっぱいになった時や、バッテリーがヤバいとき、救世主は・・そうスマホのカメラでしょう。
私のデジカメ、ルミックスはコンデジとはいえ性能はなかなか良かったのですが、雨の日に動きが悪くなるので、今は一線を退いています。「グーグルピクセル9」は「IP68」の防塵・防水性能を持っているので、30分間タバコペールに落としても理論上、動作するはずです。おそらくカメラ性能も3万円台のカメラだとグーピクのカメラと性能上の差はそれほど無いのではないでしょうか。進化を続けるスマホにデジカメがどのように対抗していくのか興味はあります。

廻城の投稿です。駐車場まで普通車で行くことが出来ます。駐車場は広くアスファルトでならしてあります。この城の「売り」の一つが、この「駐車場」でしょう。桜島が良く見えます。
少し青みがかっていますが、前回訪問した際は曇りで見えなかったので、これは嬉しい。
駐車場から先に進むといきなり土塁が待ち構えています。地形図を見ると駐車場は昔、池だったようで、それを埋めて駐車場にしているようです。元池に遺構が隣接しており、三重の堀切を持つ土塁となっており、土塁の上も小さな郭のようになっています。また三重の堀切の先の土塁は西に郭が付いています。本丸には尾根の北側から踏み代の様な細い道が付いていますが、この道の下が崖になっています。尾根の北側は湊川にそって急斜面が続いているのですが、地形図を見ると60mくらい高低差がある。気を付けて進んでいくと、行きついた先が激ヤブになっていました。
既にここにも「激ヤブラー」の痕跡が! ここであまり時間と体力をロスしたくなかったので、戻ることにしました。後で他の人の投稿を見るとtodo94さんがここを抜けて本丸にたどり着いているようです。宝篋印塔のある場所が本丸になるのだろうか? 城郭放浪記さんの記事だと、ここを迂回して南側から回り込んでいるようです。できれば、藪を刈ってくれて、道をもう少し解りやすくしてくれるとありがたいのだけど。冬場に来ることがあったら、もう一回トライしてみますかね。

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天守無しがアツい

高崎駅から600mほど (2025/05/24 訪問)

高崎駅から徒歩でもレンタサイクルでも行けます

井伊直政が主人となった城
江戸期にはそれなりの規模を誇ったが、明治になりその殆どが取り壊されて…現在は櫓や水堀など一部が残るだけ

櫓から少し歩いた場所に高崎城・和田城(高崎城の前身)・根古屋城の御城印を扱っている書店(文開堂書店)もあります

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キンヤ

豊臣石垣館 (2025/05/05 訪問)

豊臣秀吉が築いた大坂城は慶長20年(1615)に大坂夏の陣で落城後、元和・寛永年間(1620~1629)に徳川幕府が豊臣大坂城を盛り土で埋めてしまい、その上に徳川大坂城が再築されました。
昭和59年(1984)の発掘調査で発見された石垣は、豊臣大坂城 本丸の「詰ノ丸」の石垣であることが分かり、今年4月1日にオープンした豊臣石垣館で見学できるようになりました。
地下1階に降りると、見事な石垣を目の前にして感動的でした。地中に埋まっていた貴重な豊臣期の石垣は、今見られる徳川期の打込接・切込接とは違う荒々しい野面積で、歴史ロマンを感じました。
解説パネルや解説映像で、大坂夏の陣で焼かれた時に熱で剥離や赤く変色した戦火の痕跡、石垣角部の豊臣期の原初的な算木積、古墳の石棺の未完品や古代寺院の礎石の転用石などが分かりました。
地上1階に上がると、石垣を見下せ、盛り土で埋められた高さが分かり、裏込め石、五輪塔・石塔も見ることができました。

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カズサン

叶堂城は豊臣水軍拠点 (2025/05/15 訪問)

 現在感応寺に叶堂城の残存石垣石材を一部使用して穴太積みで感応寺観音堂、鐘堂が城郭石垣風に築造されています、城郭放浪記さん城びと皆さんの投稿により是非訪ねたいと思っておりましたが、今回の鳴門大塚国際美術館鑑賞見学旅で家内と訪ねる事が出来ました。
 駐車場:感応寺境内を利用し参拝。
 参考資料:城郭放浪記さん城びと投稿の皆さんグーグルマップに依る。

 感応寺さんと石垣上に在る観音堂に登り参拝し観察見学、北東部、東正面を境内より見学撮影、南西部に廻って南面、西面に遺構の残存石材が復元で活用されているとの情報で見学確認、するも良くは判らない、石垣を穴太積みで築造したとの石碑が在り確認、同じく松帆山感應寺由緒石碑を確認。

 感応寺から西に約200m程の三原川・大日川北岸にグーグルマップ史跡マーク「叶堂城跡」が在り、歩いて尋ねる、「史跡叶堂城跡」の石碑と「叶堂城跡の由来」石盤碑が在ります。
 読むと、城域は南北約150m、東西約200m、高さ10m、基底約2200㎡の地山、南西部に穴太積の石垣が約40mに渡り築造されてた、とあります。
 この地に在った感応寺は叶堂城築城時に北の松原中に移転し、関ケ原、大坂の陣後廃城になった叶堂城跡地に願い出て元の地に戻った様です、昭和59年の河川改修で叶堂城跡は消滅、感応寺は現在の場所に遺構石材を使い石垣復元して移った。との事です。

 歴史的には、この近くの志知城が文禄4年(1595年)城主の加藤嘉明が伊予松前に転封と成った後は豊臣直轄領となり、代官石川紀伊守が派遣され慶長5年(1600年)までに志知城は廃城と成り、新たに叶堂城が築かれた。叶堂城は河口港に近く志知城より水軍の基地、拠点には利便性が有ったと思われます。
 石川紀伊守は関ケ原では西軍に与し敗れ、関ケ原、大坂の陣を経て淡路は阿波徳島藩主蜂須賀家の所領となり、叶堂城は廃城に至る。
 
 この後志知城へ向かいます。
 

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遅れましたが、カメラ派です

 カメラ派です。なるべく軽いコンパクトデジタルカメラを昔から使っています。
1)画質はある程度よければよいと思っていること
2)複雑な操作はしたくない(できない)こと
3)軽量であること
4) 山城では斜面で撮ることもあり片手にトレッキングポールを持っていることが多く片手で容易に操作できること
5)今まで使って慣れていること 
などが主な理由ですが、あまり深く考えたことはありません。カメラもお店の方に勧められたものを購入しました。
 カメラ、スマホに詳しいわけでもなく、こだわりがあるわけでもなく城の写真は気軽に欲望のままにバチバチ撮れればいいかなと思っています。カメラとスマホは両方持っていた方が、片方が故障したときの保険になります。
数年前にミラーレス一眼レフのカメラも購入しましたが、コンデジに比べると重いので城巡りにはほとんど持っていきません。
 イオさんが投稿されているようにコンデジ市場は衰退し絶滅危惧種ですが、自分は今後もコンデジ派の予定です。
 

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ヒロケン

カメラ派です (2025/05/24 訪問)

すみません💦 
自分もイオさんのカメラ派?スマホ派に参加させて下さい💦(いつも投稿のタイミングがズレてしまいすみません)

あれっ! スマホ派の方が多いようでビックリしました。お城に行くと大抵の方は、カメラで撮影されている方を多く見かけます。城びとの方々もてっきりそうかと勝手に思っていました。
自分はカメラ派?です。って言ってもカメラとスマホの両方を使い分けています。カメラが9割でスマホが1割ってところです。スマホは、動画をとる際に使用し、画像はカメラを使用しています。画像だけだと迫力に欠けるというか、大きな城とかに行くと動画で残したいって感じる場面が多々あります。ですが動画撮影を乱用していると充電が持ちません😢

カメラもCASIOのコンデジ・FUJIFILMのデジカメ・OLYMPUSの一眼と3台持っていますが、もっぱら使用しているのは、CASIOのコンデジです。もう古くなって何度か修理に出し、前回修理に出した時に「次回来られることがあれば、もう部品が無いかもしれません」と余命宣告されてしまいました。永年使用しているカメラなので大事にしてやりたいと思っています。
他のカメラは、お城を撮影している方を見ると格好の良いカメラを使用し、羨ましく購入してしまいましたが、やっぱりコンデジに戻ってしまいます。

因みに、カメラを落とした事は一度もありませんが、ウエストバック(小さいやつ)で持ち運んでいる為、山城で足を滑らせた際、転んでカメラのフレームが割れた事がありました。

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にのまる

スマホ派です。

遅ればせながらイオさんアンケートに参加します。
フィルムカメラ時代から写真を撮るのは好きで、ガラケーからスマホにシフトしてからもデジカメ(直近ではPowerShot SXシリーズ)を持ち続けていました。
デジイチ(Canon EOS Kiss)を清水買いしてからは、きれいな写真が簡単に撮れるのがおもしろくて城びとにもよく投稿していたのですが……、

重い!!!!

本体だけでもかさばるのにバッテリー(予備も)に充電器にとなると、電車派にはかなりの負担で、次第に手に取らなくなってしまいました。

そしてコロナ。

気づけば2年近く放置。今後もおそらく使わないだろうと思い、善は急げと新宿ヨドバシカメラへ💨 売ってしまいました\( ˆoˆ )/
そしてその足で地階の石井スポーツへ行き、山城めぐり用にトレッキングシューズを購入したのでした。(デジイチ売却代金とシューズ購入代金がほぼ同額でした。)

コンデジも次第に使わなくなり、今ではiPhone1台(+モバイルバッテリー)で出かけています。カメラ機能に拘りはなく、カメラにお任せの備忘録的な記録しかしていませんが、先日、Androidのお高いスマホを持っている人に見せてもらったところ、同じ場所で撮った写真の出来の違いに愕然。次の買い替えの時にはカメラ機能にも拘った方がいいのかなぁと心が揺れています。

また、先月高温多湿な地域に出かけた時に写真を撮りまくっていたらスマホが悲鳴をあげておかしくなってしまって(バッテリーの減りが異常に早い・画面が半分黒い・突然電源が切れるなど)、カバーを外して冷ましながら切り抜けるという経験をし、1台のスマホにさまざまな機能を詰め込みすぎるリスクを痛感しました。
とにかく【何もかも】スマホの中なので、もしここで壊れたらと考えるとゾッとしました。

スマホ+カメラの2台持ちをする予定は今のところないので、撮った写真は早めに移し替え、普段はなるべく負荷がかからないようにして、リスクの分散も考えようと思います。


それにしてもみなさん!!

よくカメラを落としますね
        ☆*:.。. o(≧▽≦)o .。.:*☆


(私もやったことがあります。
そんなときは、カメラが身代わりになってくれたと思うことにしています^ ^)


イオさん!
「るの門なう!」覚えてくださっていたのですねー(^^)

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