みんなの投稿

検索結果・・・「」を含む投稿

稗貫氏の居館跡 (2025/09/26 訪問)

 稗貫氏の居城と伝わっています。大瀬川氏の居城であったという説もあるようです。説明板は見つけましたが、遺構はよくわかりません。

+ 続きを読む

工藤行光 (2025/09/25 訪問)

 北上川に面した段丘を利用して築かれていて、外館、北館、本丸、中館、南館、勾当館、帯曲輪で構成されていました。厨川八幡宮が建つ場所が本丸、安部館稲荷神社、公民館付近が中館ということです。空堀がよく残っています。
 雨が降っていて傘をさしての散策となりました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

坂上田村麻呂 (2025/09/25 訪問)

 平安時代に、桓武天皇の命を受けた坂上田村麻呂によって造られた古代陸奥国最北の古代城柵です。発掘調査成果により復元整備し志波城古代公園となっています。
 登城した日は雨が降っていて風もありましたが、何とか散策できました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

朝田 辰兵衛

「一休さん」が懐かしかったので… (2025/08/09 訪問)

みなさんのレポートで気になっていたので,「一休さん」の新右衛門さんゆかりの蜷川館へ。雨だったら見送ろうかと思っていましたが,猛暑となりました…。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

トク

小倉城を読み解く(小倉城サイコー)セミナー (2025/09/27 訪問)

北九州国際会議場で行われた、千田嘉博先生の「小倉城を読み解く」(小倉城サイコー)セミナーに参加させて頂きました(写真①②)。2時間とてもおもしろおかしく講演していただき、楽しい時間を過ごせました。ありがとうございます。(勝龍寺城→田辺城→小倉城)という細川の城には、天守の位置に特徴があったのですね。それに織田→豊臣→徳川と時代の変化に合わせ、本丸や馬出しの位置や形も変化させ、小倉城はその完成形になったそうです。大変参考になりました。

小倉城では、他にも10月にはいろいろなイベントが行われるようです。チラシをもらったので、近々行かれる予定の方、10月どこに行こうか迷っているの方の、御参考にしていただければと思います(写真③④⑤)。


余談【丸天うどん】
帰りに小倉駅のホームで、北九州名物のかしわとごぼう天をドッピングした「丸天うどん」を食べました(写真⑥)。いやこれぞ九州の味! 私は未だに東日本の醬油味うどんはちょっとだめです(すいません)。ところで某テレビ局が行った調査では、九州人はあたりまえのように食べるこの丸天うどんですが、これは九州・山口県にしかないと聞きました。山陽本線のホームの立ち食いうどんを調査したところ、山口県から広島県に入ったとたんにメニューから消えるそうです。広島県の人にインタビューしても「丸天? 何それ?」としか返ってこなかったとか。つまり日本の広島から東には無いという事ですが、皆さんの地域には、丸天うどんというメニューは、本当に無いのでしょうか😲?
 

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

しんちゃん

熊本城 (2014/01/09 訪問)

古い写真になるのだけど熊本城の写真です。2016年の震災から36年の年月をかけて2052年に復旧する予定だそうです。あと27年? SFの世界だな。世の中どうなっているのだろうか? その間にまた地震がきたらどうする? 一から積み直しになるのだろうか。
とはいえ予算や人材の都合もあるだろうし、宇土櫓が復旧したらまた来よう。
令和14年(2032)ごろには宇土櫓と本丸御殿が復旧するらしい。宇土櫓はともかく再建された本丸御殿はどうなってしまうのだろうか?
できるだけ震災前の状態に戻してほしいのだが・・天守の周辺にコンクリとか貼られてしまっているし、なんか不安だ。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

しんちゃん

五城三郭 (2025/01/06 訪問)

古本丸を経由して中城・周辺の曲輪・北城を順次訪問。周囲の堀や土塁が良く残っていて堀切道になっています。北西の侍屋敷は大野曲輪というようで、北西から順に大野曲輪・北城・中城・西城・古本丸・本丸・常盤曲輪・太鼓丸で合っているんだろうか。他にも厩屋とか腰曲輪とかいっぱいあるけど。城と曲輪の違いはなんだろう? 大野曲輪と北城・中城・西城は侍屋敷になるようだ。常盤曲輪は塩蔵であったようだ。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

しんちゃん

修善寺周辺「鎌倉殿」めぐり (2022/01/10 訪問)

修善寺周辺では鎌倉幕府にとって重要な人物が二人も亡くなっています。一人は蒲冠者こと源頼範で平家討伐に大きな功績を残しています。弟の義経程の武勇は無いものの、人望はあったと見られ、義経討伐を始めは断ったため頼朝から疑いの目を向けられるようになりました。建久4年(1193)曽我兄弟の仇討ちの際、頼朝討死の誤報が伝わり、政子を「頼範あるかぎりご安心を」と気遣ったのが裏目に出て頼朝に幕府横領の疑いをかけられ、修善寺に幽閉された後 梶原景時に攻められ日枝神社下の信功院で自害したとされています。

鎌倉幕府二代将軍源頼家はわずか在位6年で修善寺に流され、元久元年(1204)祖父北条時政の手の者に入浴中に暗殺されたとされています。大河ドラマではゼンジが大活躍していました。頼家の墓とされる碑は元禄16年(1704)に修善寺の住職 筏山智船(ばっさんちせん)によって建てられた供養塔で、実際の墓はその裏にある小さな二つの五輪石塔とされています。
頼家の墓の近くには頼家の死後に挙兵を企てた13人の家臣の墓が有ります。挙兵以前に発覚し相州金窪太郎行親らに殺されました。
また近くには頼家の冥福を祈るために母・政子が建立した指月殿があり本尊の釈迦如来坐像が鎮座しています。釈迦如来は本来何も持っていないとされますが、指月殿の釈迦如来は右手に蓮の花を持っています。これも親心・母心というやつですか。


+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

taka

雨の今治城 (2025/09/25 訪問)

しっとりして良い雰囲気です

+ 続きを読む

taka

魚がいっぱい (2025/09/25 訪問)

海水を引き込んでいるだけあって、お魚がいっぱい泳いでいました

+ 続きを読む

筑紫虎党

杉林が素敵なお城 (2025/08/10 訪問)

静観な杉林の中、お城です。資料館もリニューアルして
歴史も非常に分かりやすい。明治の偉人、小村寿太郎の記念館も素晴らしい。駅からレンタサイクルで城下町を周り、城跡に訪れるがお勧めです

+ 続きを読む

しんちゃん

修善寺周辺  (2022/01/10 訪問)

伊豆市の修善寺は鎌倉幕府や源氏とゆかりが深く大河ドラマ「鎌倉殿と13人」にもかかわりのある場所も多いです。ここに送られると助からないイメージがありますね、なんとなく高野山と同じ空気を感じます。
修善寺の創立は大同2年(807)とされ、弘法大師と弟子たちに寄って開かれたとされ、その時は真言宗の寺でした。元久元年(1204)に源頼家がこの地で殺害されています。
寛元4年(1246)に宋から渡来した蘭渓道隆禅師が一時駐留した縁で宋の皇帝から勅額が送られ、この時期240年ほど臨済宗の寺として栄えました。戦国時代に荒廃しますが、伊勢宗瑞が韮山城主になった後に寺の再興を行い、その際に曹洞宗の寺になりました。
延徳元年(1489)に入山した隆渓範紹禅師は宗瑞の叔父とされています。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

しんちゃん

北條寺ほか 北条義時ゆかりの寺社 (2022/01/10 訪問)

伊豆の国市南江間にある北條寺は鎌倉幕府二代執権・北条義時によって創建されました。伝承では義時の嫡子である安千代丸が大蛇に襲われ亡くなった時に墓所として七堂伽藍を建立したとされます。鎌倉三代将軍実朝が殺され源氏の嫡流が途絶えた後は、京都より頼朝の姉の曽孫にあたる藤原頼経を迎えて四代将軍とし、義時は執権としてそれを支えました。
義時は元仁元年(1224)62歳で亡くなり北條寺に墓が建てられました。

豆塚神社は伊豆の国市北江間にある神社です。この神社も北条義時と縁が深いとされています。大河ドラマでは義時と八重さんのゆかりの地として紹介されていました。伝承に基づく解釈のようですが、少しムリがありますかね。

珍場神社は伊豆の国市北江間にある神社です。案内板には元久元年(1204)に義時が安千代の死を嘆いて若宮八幡神として祀ったのが始まりとされています。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

しんちゃん

實成寺(じつじょうじ)大見氏居館跡 (2022/01/10 訪問)

伊豆市の實成寺一帯はこの地域の古い豪族大見小藤太成家の居館跡とされています。境内には石垣や石畳がありますがいつの時代の物かははっきりとは解りません。南側にそびえる大見城は詰の城とされています。案内板によると居館跡と諏訪神社の間に帯郭や堀らしきものが残っているようです。
別の案内板には大見氏は桓武平氏を称していたとされ、境内には大見平三家政治の墓が有ります。源頼朝が平氏打倒の兵を挙げるや、大見氏はいち早く参陣し、数々の武功をたて各地に領地を与えられたとされています。中伊豆中学校付近一帯も大見氏の居館が有った場所とされ(初期の館址か?)陣場跡とも呼ばれているようです。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

しんちゃん

コホンと来たら古本丸 (2025/01/06 訪問)

さっき本丸は二の丸じゃないかって書いたばかりだが、本丸の案内板の写真を見ると「本丸(二の丸)」と書いてある。まあ良しとして置こう。本丸と古本丸の間に堀切が有り、いずれの曲輪にも土塁が残っている。
「こほん」とかいたが、まさか「ふるほんまる」ということは無いだろう。最近ブックオフに行ってないな。

「烏山城 コホンと来たら 古本丸(からすやまじょう こほんときたら こほんまる)」
すでに遅かりし・・

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

しんちゃん

柏久保城 狩野氏の支城で、伊勢新九郎宗瑞に落とされる (2022/01/10 訪問)

静岡県伊豆市の愛宕山の山頂に柏久保城は築かれていました。「城びとの城ではない」が堀と土塁を残す、なかなか良い城で主郭には「北条早雲城山砦址」の石碑が建てられています。
柏久保城は西に狩野川、南に大見川、北に古川と三方を河川に守られた要害で狩野氏の城でした。明応2年(1493)伊勢新九郎宗瑞(北条早雲)が伊豆侵攻を開始した時、宗瑞に従う大見三人衆が柏久保城奪還を狙う狩野氏と戦ったとされています。狩野氏が敗れた後は、伊勢氏の韮山城の支城として機能したとされ、北側の深い谷は「新九郎谷」と呼ばれ、北東には「地獄沢」の地名も残っています。
日本画の最大の画派である狩野派の祖・狩野正信は狩野派の祖・狩野宗茂(工藤茂光の子)の子孫とされています。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

しんちゃん

石垣 (2025/01/06 訪問)

吹貫門脇石垣を見てから正門跡を通過。周囲に石垣が残り、内枡形の標識が立っている。R90を右折して、もう一度右折すると本丸へ到着。思ったよりあっさりと本丸に到着できた。土の山城として完成形に至った素晴らしい城だと思うが、本丸周辺に石垣を配し格式を高めて有る。この・・欲張りめ! だが、そこがいい。
見たところ最も守りの堅いのは古本丸のようだ。非常時には古本丸に籠って周囲の曲輪で守るのか・・つまり事実上の本丸は古本丸で、居住に使っていた本丸は、実は二の丸にあたるのか・・? ややこしい・・だが、そこがいい!?
でも江戸時代に居住していたのは麓の三の丸・・人は低い方に流れていくのか?

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

石碑 (2025/09/23 訪問)

 赤い城さんが田幡城を投稿された数時間前に現場を訪問しました。城びと先人のレポートから、石碑があることを知り、遠目でも見たいと、小学校を2周してしまいました。カズサンさん投稿の写真が決め手になって、東門のすぐ脇と推定。
 有りました! 遠目に見たくても、木立に隠れて見えない位置なんですね。石碑が見えたと言っても、正面でないし、近寄れないので、「有りました」というところです。

+ 続きを読む

トク

【宮本武蔵】(11)京都一乗寺(吉岡一門との決闘) (2025/06/06 訪問)

宮本武蔵の続き(11)です。

19才になったたけぞう(武蔵)は、この頃から名前を「宮本武蔵(むさし)」と名乗るようになり、諸国を転々とします。武蔵が21才の時に吉岡一門との決闘した場所、京都一乗寺の下り松へ行ってきました(写真①②③)。叡山電鉄「一乗寺」駅から徒歩10分の所にありました(写真⑦⑧)。

吉岡一門は、室町時代に将軍足利家の剣術指南役を務めた名門です。最初は京都洛外の漣台野で、吉岡家の当主「清十郎」と対戦し一撃で倒します。次はその弟「伝七郎」をも一撃で倒します。面目をつぶされた吉岡の門弟たちは、敵討ちと称しこの場所に武蔵を呼び付け決闘しました。しかし武蔵は、ここで100人以上の門弟を相手にした決闘を制し、全国にその名を知らしめたようです。さらに5分程登ったところにある「八大神社」は、決闘の前に武蔵が祈願した場所だとされ、武蔵の銅像がありました(写真④⑤⑥)。

しかしここから8年間の武蔵の足跡がよくわかりません。この間、60余回戦いをして一度も負けなかったと自ら語っています(小倉碑文より)。24才の時鎖鎌の使い手「宍戸梅軒」や、奈良で槍の使い手「奥蔵院」と決闘し勝ったという話もあります。しかしそれらは、後世になって書かれた二天記に記述されており、直接本人が語った小倉碑文には、有馬喜兵衛・吉岡一門・岩流小次郎との決闘以外、60余回の内容は書かれていないので、真相はわかりません。

でもこれだけ決闘すれば、名声が上がる一方で、あちこちから恨みも買い命も狙われるでしょうね。そのためか、武蔵は風呂に入らなかった(入る事を嫌った)という言い伝えがあります。風呂に入るためには刀を置かねばならず、命が最も狙われやすいからです。なので武蔵は相当臭かったらしいです(笑)。

その後1612年、29才になった武蔵は、当時まだ中津にいた父の無二斎の要請で、小倉へ行く事になります。そこであるゴタゴタに巻き込まれてしまうのです。

次は、小倉城(巌流島の決闘)に続きます。
 

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

にのまる

天浜線乗り潰しの途中で。 (2025/08/09 訪問)

「どうする家康」放映時に訪れて以来です。
天竜二俣駅で下車し、最初に天浜線車両基地での乗車体験ツアー(¥900)に参加しました。鉄道歴史館も洗車体験乗車も楽しかったです。

前回は二俣城まで歩きましたが、今回は天浜線乗り潰しの目的もあったので二俣本町までひと駅乗車し、井戸櫓、清瀧寺、信康廟を訪れました。時代小説をよく読んでいた頃は信康にも築山殿にも徳姫にもさまざまな(よくない)感情をもっていましたが、今は事実を正確に知ることが供養にもなるのかなという思いでいます。

信康廟から二俣小学校をぐるっと巻くコースで二俣城へ向かいました。遊歩道はありましたがちょっとした山の中で周囲も険しめ。あれれ?なんだここは?と思ったら付城群の蜷原砦だったようです。

3人連れの鉄旅でお城は行けないかもと思っていましたが、かっこいい石垣を見上げ、天守台に上がり、天竜川を眺めと充分に楽しむことができました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

ページ20