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カズサン

皐月の頃・丸馬出群 (2026/05/26 訪問)

 諏訪原城には丸馬出が七か所存在して居ます、牧之原市に用事のチョイ寄り探訪で二の曲輪中馬出、二の曲輪北馬出周りを紹介写真投稿しましたので、残りの二の曲輪大手馬出、東内馬出、南馬出、東馬出の皐月の頃の萱の茂った、竹の茂った状態の写真を投稿します。
 東馬出からも富士山が遠望できるのですが今回は霞も掛かり目で確認できるのですが写真でははっきりしません、又大手馬出は茶畑の崖外周で確認できるのですが今回は足を踏み込んで居ませんので割愛致しますので写真投稿は4ヶ所の丸馬出しのみです。
 

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カズサン

内堀の底を見る (2026/05/26 訪問)

 諏訪原城の堀底へは入り込む事が出来ませんが、唯一内堀、カンカン井戸の在る堀底で雄大な堀を体感する事が出来ます、本曲輪は武田氏の時代の築造とも言われて居り、武田氏が造り徳川氏が改修した内堀、諏訪原城です。
 牧之原市に用事が有りチョイ寄りで景観整備されている二の曲輪中馬出周りと本曲輪の笹ゆりを初鑑賞した後、カンカン井戸経由しましたので堀底、内堀底より雄大な堀を鑑賞体感(何回も体感して居ます)しましたので前後の写真を投稿します。
 外堀もどこか一か所でも堀底体験体感が安易に出来る施設を作って頂くとありがたいのですが?
  

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征6日目:玉造要害山城 (2026/05/16 訪問)

金山要害山城から車で20分くらいで、玉作湯神社駐車場(35.413472、133.010856)に着き、そこから登り口/説明板付近(35.413238、133.011772)に向かいました。

築城年代は定かではないようですが、1332年(元弘2年)頃に湯荘留守職の諏訪部扶重によって築かれたと云われています。
後醍醐天皇が隠岐へ配流されたさいに同行した湯庄の富士名判官義網の留守中に、諏訪部扶重が築城して反乱を企てたがこの争乱で焼失しました。
その後、出雲守護佐々木泰清の七男頼清が湯氏を称して城を改修し居城としました。
その後の動向は定かではないようですが、1542年(天文11年)には湯佐渡守家綱の名が記録に残り、その古墓が城内の一角に残るそうです。
また、1558年(永禄元年)の玉作湯神社棟札に地頭代湯菊丸の名が残っています。湯氏は尼子の重臣となった家系が亀井茲矩で因幡国鹿野藩、石見国津和野藩の家系として続きました。

玉造要害山城は玉造温泉街の奥にある玉作湯神社の背後の丘陵に築かれています。
登城口から一ノ平まで200mの表示で登りはじめましたが、自分にとって道なき道の竹林を進み三ノ平に着きました。
しかし、問題はそこからで、二ノ平、一ノ平方向が方向音痴の自分には全くわかりません。
こんな小規模な城跡で迷子になるなんて笑えません。情けないですが、ここで撤退です。
どちらに向かっても道路方向には出れそうなので下山しました。
攻城時間は20分くらいでした。本日の城巡りは、ここがラストです。
歩行歩数=40260歩、歩行距離=28.1Kmです。
本日の宿泊先に車で向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征6日目:金山要害山城 (2026/05/16 訪問)

高瀬城(尼子十旗⑥ 6城目)から車で15分くらいで、ゴミステーション付近空スペース(35.381263、132.915187)に着き路駐しました。
そこから徒歩5分くらいで、南宍道駅の登山道付近(35.379901、132.917917)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、宍道氏によって築かれたと云われています。
宍道氏は出雲国守護京極高氏(佐々木道誉)の孫秀益が、宍道を領して宍道八郎と名乗った応仁年間(1467年~1469年)から、天正年間(1573年~1592年)までの約130年間の間、この地方で勢力を誇った宍道氏の本拠地です。
宍道氏は尼子氏の重臣でしたが、1540年(天文9年)尼子晴久が毛利元就の安芸国吉田郡山城攻めに参陣するも、大内氏の援軍によって尼子氏は敗走、その後大内義隆が出雲国富田城の尼子晴久を攻めると、他の多くの国人同様に大内氏へ寝返りました。
しかし、大内氏が尼子氏を攻めあぐねると多くの国人が尼子氏方へと寝返り大内方は敗走、この時宍道氏は大内氏とともに山口へと落ち延びます。
その後、大内義隆が陶晴賢によって討たれると、陶晴賢を倒した毛利元就に属して1562年(永禄五年)に雲芸攻防戦(1562~1566)の先陣をきって出雲国へ復帰し、旧領を回復しました。
しかし、関ヶ原合戦によって毛利氏が防長二ヶ国に減封となるとそれに従って防長へと移りました。

城は金山要害山の西の峰を主郭として築かれています。
山麓には城主・宍道氏が常住したと伝える御居出成(おいでなり)があり、他にも二ノ成、茶臼成、出張成、天狗成、長成など、48の成(なり)が要害山にあるといわれています。
48の成(成(なり)一般的に丸(まる)と同等の意)とは多数の曲輪で構成された山城です。
今回は時間の都合で、北側の成には行っていません。
詰成と二の成の間に大堀切があり、北側には桝形の虎口が残っています。
詰成(山頂)からは宍道湖が見えました。
また、詰成(山頂)の眼下には支城といわれる宍道要害山、佐々布要害山方向が見通せます。
攻城時間は45分くらいでした。次の攻城先=玉造要害山城に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征6日目:高瀬城(尼子十旗⑥ 6城目) (2026/05/16 訪問)

尼子十旗:出雲国尼子氏の主要な家臣団の十の居城
尼子十旗(①白鹿城②三沢城③三刀屋城④赤穴城⑤牛尾城⑥高瀬城⑦神西城⑧熊野城⑨馬木城(夕景城)⑩大西城)
神西城(尼子十旗⑦)から有料道路を利用して車で25分くらいで、登り口付近(35.371321、132.860472)に着き路駐しました。

築城年代は定かではないようですが、南北朝時代の暦応年中(1338年〜1341年)に、建部伊賀(建部内蔵伊賀)と言う武将が築いたとも、平氏が築いたとも伝わっています。
戦国時代に入ると、月山富田城の尼子氏の重臣である、尼子十旗の米原綱広が出雲・高瀬城主となりました。
出雲の米原氏は、佐々木六角氏の一族で、14代当主・六角定頼の甥・六角治綱が、米原氏の養子となって近江国米原郷を領したのが始まりとされます。
その後、米原治綱が尼子経久に仕えて軍功を立て、家臣となりました。
1562年(永禄5年)米原綱寛のとき毛利氏に降伏し、毛利氏に従って豊後大友氏との戦いに従軍していましたが、1569年(永禄12年)尼子勝久が再興をはかり出雲に入国すると帰国し尼子方へ復帰しました。
しかし毛利氏によって尼子再興軍も次第に勢力を削がれ、高瀬城と真山城(新山城)を残すのみとなり、1571年(元亀2年)3月高瀬城が落城、綱寛は真山城へと逃れその真山城も同年8月落城しました。
この後は吉川元春が入城し尼子再興軍一掃の拠点となりますが、尼子氏が滅亡すると廃城となりました。
なお、元春は父である毛利元就の訃報をこの城で受け取っています。

登り口より1.4Kmの遊歩道を歩き、山頂へ向かう予定でしたが、高瀬城(尼子十旗⑥ 6城目)到着時点で計画の65分オーバでしたので、ここで断念し攻城完了としました。
本日は攻城時間(移動時間+登城時間)の見積もりが甘く、予定がグダグダになりました。
登り口折り返しケースだけでなく、城びと未登録のお城も2つ攻城を断念しています。情けないです。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=金山要害山城に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征6日目:神西城(尼子十旗⑦ 5城目) (2026/05/16 訪問)

尼子十旗:出雲国尼子氏の主要な家臣団の十の居城
尼子十旗(①白鹿城②三沢城③三刀屋城④赤穴城⑤牛尾城⑥高瀬城⑦神西城⑧熊野城⑨馬木城(夕景城)⑩大西城)
鶴ヶ城から車で20分弱で、なめさ神社登城口(35.314565、132.700873)付近に駐車しました。

築城年代は定かではないようですが、1223年(貞応2年)小野高通が相模国鎌倉から地頭職として下向したようです。
このときに城が築かれたかどうかは定かではないようですが、小野氏ははじめ古荘氏、ついで神西氏を称し、以後十二代続きました。
神西三郎左衛門元通は尼子氏の重臣となり、尼子十旗の一つに数えられました。
しかし、永禄年間(1558年〜1570年)に毛利氏が出雲に侵攻して尼子氏が滅亡すると、元通は毛利氏に従いました。
毛利に忠勤を励んだ元通は伯耆国末石城主となっていましたが、1569年(永禄12年)尼子勝久を担いだ尼子再興軍が決起すると、元通もこれに加わり、最後まで従って播磨国上月城で勝久とともに自刃しました。

主郭からいちばん近いなめさ神社側の登城口から登りました。
主郭は山頂にあり石碑と案内板が設置されています。
北西の麓にある十楽寺が神西氏の菩提寺で、神西家十二代の合祀塔があるようですが、時間の都合で行っていません。
攻城時間は25分くらいでした。次の攻城先=高瀬城(尼子十旗⑥)に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征6日目:鶴ヶ城 (2026/05/16 訪問)

鳶ヶ巣城から車で45分くらいで、登城口付近の駐車場(35.266135、132.579725)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、鶴ケ城の始まりは1102年(康和4年)源義家の嫡子対馬守義親が隠岐へながされる途中、清嶽山にさくを作り鶴ケ丸と名付けて弟義忠とともに守った。
また、吉野朝の頃(1336年~1392年)地頭古荘二郎左衛門が清嶽山へ築城したとも伝えられています。
室町時代の大永年間(1521年~1528年)には、小野(古荘)玄蕃が清嶽山に城を築き、鶴ケ城と名付け尼子36城の一城として15,000石を領しました。
当時は、尼子氏が山陰山陽11か国を勢力下に治めていた頃になります。
1572年(元亀3年)小野氏の家老広瀬右近之丞が鶴ケ城を守っていたが、銅山師三島清右衛門の進言を入れた毛利輝元に攻められて落城しました。
その後、城は田儀城と改められ(知行3,000石)毛利の家臣大鳥馬場が守ったが関ケ原の没後、掘氏に属し、やがて徳川幕府の武家諸法度により廃城となりました。

現在は公園として整備されています。主郭は山頂にあります。
攻城時間は30分くらいでした。次の攻城先=神西城(尼子十旗⑦)に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征6日目:鳶ヶ巣城 (2026/05/16 訪問)

平田城から車で10分ちょっとで、鳶ヶ巣城駐車場(35.403310、132.773531)に着き、その後、登り口(35.403666、132.773162)に向かいました。

宍道氏によって砦が築かれたのが始まりのようですが、 本格的な築城は1561年(永録4年)毛利元就が尼子攻略のために鳶ケ巣山に築城よるものだそうです。
1571年(元亀2年)の高瀬城攻略の際、吉川元春の拠点となりました。毛利氏は出雲平定後、当城を大野氏に任せたそうですが、城主は宍道高慶、政慶であったと記されているのもあります。
城跡にある「大野塚」とよばれる宝篋印塔(ほうきょういんとう)は、1582年(天正10年)当城内で宍道政慶に謀殺された大野高成の墓と伝えらています。
関ヶ原合戦後、毛利氏が防長二ヶ国に減封となると宍道氏はそれに従って移り廃城となりました。

城は鳶ヶ巣山の山頂に築かれており、現在は登山道も整備されて公園となっています。
主郭は山頂にあり、 この山頂から四方の尾根に曲輪が配されており、各曲輪で土塁が確認できます。
攻城時間は70分くらいでした。次の攻城先=鶴ヶ城に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征6日目:平田城 (2026/05/16 訪問)

檜ヶ山城から車で15分くらいで、愛宕山公園駐車場(35.440027、132.817483)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、応永から大永年間(1394年~1528年)まで、出雲国守護京極氏の家臣多賀氏が居城としていました。
尼子氏の時代に多賀氏は飯石郡掛合へ移され、かわって飯野氏が城主となったそうです。
1570年(元亀元年)尼子再興軍を撃退するため出雲国へ入った毛利元就は、吉川元春を鳶ヶ巣城に平田城にはその家臣岡元長・牛尾大蔵左衛門を置きました。
尼子方の高瀬城主米原綱寛は、必要に平田城に攻め寄せたがこれを撃退したそうです。

現在は愛宕山公園となって整備されています。展望台となっているところが主郭で、ここに案内板があります。
西の尾根にも付属する郭(削平地)があります。
攻城時間は25分くらいでした。次の攻城先=鳶ヶ巣城に向かいました。

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あっくん

古宮城跡 (2026/06/19 訪問)

とてもきれいにしてありました。

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あっくん

長篠城跡 (2026/06/19 訪問)

とても静かな場所でした。

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ぴーかる

弓庄城 (2026/05/10 訪問)

【弓庄城】
<駐車場他>弓の里歴史文化館駐車場あり。
<交通手段>車

<感想>1泊2日富山ちょこ城巡り1000㎞旅17城目。現地説明板を要約すると弓庄城は戦国時代にこの一帯を領していた土居氏の居城で、土肥氏は南北朝時代に越中国に入部して室町時代から戦国期にかけてこの地を領するようになりました。天正年間に佐々成政の攻撃を受けて落城しました。
 西に白岩川、東に山間部の始まり部分の山麓部にあって東西に長い城だったようです。ここから北の一帯、柿沢方面の広い領地を有していたようです。城びと情報では様々な遺構がありますが、周囲は田んぼで表面観察できる遺構は気づきませんでした。

<満足度>◆◇◇

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沼田城

令和8年度沼田市史跡沼田城跡調査成果報告会

平成30年度から令和5年度まで実施した、沼田市史跡沼田城跡調査・保存整備事業の成果を紹介する調査成果報告会を開催します。今年度は文献史料調査の成果について、調査担当者の報告と2名の先生の講演を行います。
詳細はこちらhttps://www.city.numata.gunma.jp/kyouiku/bunkazai/1012083/1017890.html

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トク

7【秀吉の播磨平定をたどる②】上月城(亡霊たちの声が・・😱) (2026/06/11 訪問)

姫路11:25発のJR姫新線の昼間唯一直通の上月行に乗り70分、終点上月で下車しました。駅から上月城歴史資料館(登城口)までは徒歩で15分程でしたが、資料館は平日だったので休館でした😯(土日祝のみ開館)。気を取り直し登城開始します。主郭までは、20分程の軽い登りで到着しました。

主郭からその先の二郭へ行くと利神城までかすかに見えました。そしてさらにその先の日高集落へ下りる道には、大堀切があり何段もの曲輪があちこちにあります。こじんまりした城ながら、かなりの防御が施された城だと感じました。にもかかわらず・・・🤔。

1577年、赤松氏が守る上月城を難なく落とした秀吉は、尼子家再興を夢見る尼子勝久と山中幸盛を入れます。しかし翌年、三木城の別所長治が離反すると、呼応するように毛利軍3万が押し寄せて来ました。尼子軍を助けに行こうと高倉山に布陣した秀吉ですが、すでに毛利の大軍に囲まれているのを見て、手も足も出せません。そして4カ月後、信長の命で秀吉は上月城を見捨て、三木城に向かいます。

秀吉は勝久に城から逃げるよう再三に渡って手紙を書いたそうです。しかし勝久と幸盛は、秀吉の援軍がここまで来るのを信じて、あくまで籠城を続け死守しようとしたようです。それは何故だったのでしょうか?

今日も最初から最後まで誰にも会わなかったので、再び主郭に戻りポツンと一人でベンチに座って考えていると、急に風で木々がざわつき始め、気温30度にもかかわらずひんやりとした冷たい風が吹き、何やら木々のざわつく音が、嘆き苦しむ亡霊たちの声のように聞こえて、背筋がぞっとしてしまいました(😱~!)。そういえばここは、何百人もの人々が磔(はりつけ)や串刺しにされ、尼子勝久とその家臣たちが切腹し亡くなった場所だったのですね。

主郭からわずかに見えた木々の隙間から、秀吉が布陣した高倉山が見えました。大河ドラマでは、秀吉があそこから土下座をして詫びていたシーンがありました。その秀吉軍が去り、尼子家再興の夢が破れた勝久は、どんな思いでここからあの高倉山を見つめていたのでしょうか?

帰りは姫新線の姫路行直通がなかったので、15:25発の作用行に乗り、作用で智頭急行に乗り換え、上郡・相生・山陽線経由で姫路へ戻りました。接続が意外とよく80分で戻れました。姫新線は本数が少ないのでこのルートもありかもしれません。

次は官兵衛ゆかりの地、小寺氏の御着城へ向かいます。
 

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イオ

九度山・真田ミュージアム(和歌山県伊都郡九度山町九度山) (2025/11/30 訪問)

関ケ原の戦いの後、真田昌幸・信繁父子が蟄居していた真田庵から北に徒歩2分のところに九度山・真田ミュージアムがあります。近場でもあり2度ほど訪れていますが、志賀城に登城した後、半端に時間があったのでしばらくぶりに再訪しました。

エントランスでは甲冑姿の九度山真田三代(真田昌幸・幸村・大助)がお出迎え(当館では「信繁」でなく「幸村」表記です)。館内展示では三代の足跡を「上田時代」「九度山時代」「大坂の陣」に分けてパネルと史料、映像により解説しているだけでなく、「九度山異聞」「大坂の陣異聞」では幸村にまつわる伝承(豊臣秀頼を守って薩摩に落ち延びたとか)が紹介され、「真田伝説」では軍記物や講談で庶民のヒーローとなった「真田幸村」の錦絵や書物が展示されています。また、忍者屋敷のようないろんな仕掛けがある「真田の隠し部屋」は子どもにも人気の体験型コーナーです。九度山・真田ミュージアムは大河ドラマ「真田丸」にあわせて開館したことから、大坂の陣で堺雅人さん演じる幸村が着用した陣羽織(複製)や挟土秀平さんによる「真田丸」題字(本編では縦書きですが)、真田丸のジオラマなど「真田丸」にちなんだ展示もあります。

定期的に企画展も開催されており、訪問時は「真田家の女たち」の第2期でした。他家であれば女性について展示されてもいまいちピンとこないでしょうが、紹介されている女性のほとんどは「真田丸」に登場しているので、演じた女優さんを思い浮かべながら興味深く見学することができました。年表や相関図のほか、信繁が村松殿や石合道定(すへの夫)に宛てた手紙(複製)なども展示されていました。ちなみに現在は「豊臣兄弟!」にちなんで「徹底比較!真田兄弟」が開催中です。

真田家に詳しくない人にもわかりやすく、子どもにも楽しめる施設ですので、紀州・九度山を訪れた際には真田庵とあわせてどうぞ。
 

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征6日目:檜ヶ山城 (2026/05/16 訪問)

満願寺城から車で35分ちょっとで、檜ヶ山登山口付近空スペース(35.480677、132.838284)に着き路駐、檜ヶ山登山口(35.481184、132.838388)から攻城しました。
本来、満願寺城から檜ヶ山登山口付近空スペースまで車で30分弱で到着するはずですが、通行止めを迂回した為、時間を要しました。

築城年代は定かではないようです、大永年間(1521年〜1528年)に東郷三河守忠光が籠もったとも伝えられています。
永禄年間(1558年〜1570年)の城主は多久弾正義敷で、毛利氏に二度攻められ、一度は退けたが二度目の攻撃で落城し、毛利氏の手に落ちました。
1569年(永禄12年)尼子勝久が尼子氏再興軍の兵を挙げると、1571年(元亀2年)毛利氏はこの檜ヶ山城(桧ヶ仙城)を改修しこれに対応しました。

檜ヶ山登山口から登城する予定でしたが、檜ヶ山登山口到着時点で計画より20分遅れの為、檜ヶ山城は登城せず登山口折り返しとしました。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=平田城に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征6日目:満願寺城 (2026/05/16 訪問)

白鹿城(尼子十旗①)から車で20分ちょっとで、満願寺駐車場入口(35.473310、133.017559)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、1521年(大永元年)に湯原信綱によって築かれたと伝えられています。
1562年(永禄5年)湯原春綱は毛利元就が荒隈城に進出するとこれに降り、水軍の一翼を担ったそうです。
1569年(永禄12年)尼子再興軍が蜂起すると満願寺城を巡って尼子氏と毛利氏が争いました。

満願寺の裏、宍道湖に面した丘陵部分で高い切岸に囲まれた曲輪の北西下に横堀がありました。
宍道湖も見えます。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=檜ヶ山城に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征6日目:白鹿城(尼子十旗① 4城目) (2026/05/16 訪問)

尼子十旗:出雲国尼子氏の主要な家臣団の十の居城
尼子十旗(①白鹿城②三沢城③三刀屋城④赤穴城⑤牛尾城⑥高瀬城⑦神西城⑧熊野城⑨馬木城(夕景城)⑩大西城)
新山城から車で2~3分で、西の谷登り口空スペース(35.500456、133.051753)に行く予定でしたが、登山路案内図があるこの場所(35.500788、133.055743)で通行止めにあってしまいました。

築城年代は定かではないようですが、永禄年間(1558年〜1569年)に松田氏によって築かれたと云われています。
毛利氏侵攻のときの城主松田誠保の父満久は尼子晴久の姉婿だそうです。満久は備前国松田一族の松田満重の次男です。
1563年(永禄6年)に毛利元就による侵攻では吉川元春が真山城を向城として築き攻めたて、まず小白鹿が陥落、月山富田城の尼子義久からの援軍も撃退され落城しました。
このとき元就は大森銀山の者を使い地下道を掘らせて井戸を抜いたと伝わっています。
城主・松田誠保は落城後、隠岐へ逃れ、1570年(元亀元年)の布部山合戦に参加しています。

白鹿城(尼子十旗① 4城目)は別ルートでも登城可能ですが、現時点で計画の65分オーバでしたので、ここで断念し攻城完了としました。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=満願寺城に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征6日目:新山城 (2026/05/16 訪問)

加賀城から車で20分ちょっとで、登城口付近空スペース(35.501102、133.057917)に着き路駐した後、説明板がある登城口(35.501264、133.057470)に向かいました。

1563年(永禄6年)に毛利軍の将、吉川元春が真山に陣を布き、尼子軍が拠る白鹿城を攻めました。この戦に尼子軍は敗れ、白鹿城は落城します。
白鹿城攻略後は、新山城(真山城)を出雲地方の拠点として多賀左京亮元信が城主をつとめました。
1569年(永禄12年)尼子勝久、山中鹿介幸盛らは京都で挙兵し隠岐に渡り、ついで島根半島に上陸して新山城(真山城)を本拠として出雲回復を狙いましたが失敗し、尼子勝久は1571年(元亀2年)新山城(真山城)を去りました。
以後毛利氏が城を修理し家臣を置きましたが、廃止時期は明らかでないようです。

移動距離が長く勾配が緩やかなために、比較的に容易な登城でした。
登城道は直射日光に晒される時間が結構あるので帽子は必須です。
主郭跡には「尼子勝久公之碑」と書かれた石碑が建てられています。
時間の都合で周回コースは選択せず、登城口に戻る予定でしたが、下山時、道を間違え新山城の東側に出てしまいました。
そこから、登山口まで戻るのに徒歩35分かかってしまいました。
攻城時間は95分(登城口に戻る時間35分を含む)くらいでした。次の攻城先=白鹿城(尼子十旗①)に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征6日目:加賀城 (2026/05/16 訪問)

宿泊先のホテルから、松江駅前のレンタカー会社に行く途中に、松江駅前の「はじめ人間ギャートルズブロンズ像」と「時計台」の写真を撮りました。
レンタカー会社から車で30分弱で、應海寺駐車場入口(35.562082、133.064203)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、加賀氏によって築かれたと云われています。
1562年(永禄5年)尼子義久が加賀城を攻めましたが、城主加賀喜兵ヱ尉正利は奮戦し城を守りました。その後、毛利の勢力がこのあたりに及ぶと毛利氏に属しました。

現在は主郭に金毘羅堂があり登山道が整備されています。
遺構として石垣があるみたいですが、確認できませんでした。
攻城時間は45分くらいでした。次の攻城先=新山城に向かいました。

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