みんなの投稿

検索結果・・・「」を含む投稿

しんちゃん

会津は良田の地。 (2024/09/17 訪問)

北田城は鎌倉時代から南北朝の時代において県内最大の平城であったと現地の案内板には記載があります。昭和30年代には土塁などの遺構は、ほとんど取り崩され現在は案内板と石碑が残るのみです。本丸の西手から北側一帯に二の丸が配され、その北側に北丸(北郭)が配され、北と東は旧湯川が天然の堀の役割をしていたようです。
会津を走って見て感じるのは、この一帯は良い米どころで収穫の時期の近づいてきた田がたくさんあることです。猪苗代湖も有り、周囲を山々に囲まれ、どこか京都周辺に通ずるものがあります。戦国時代に多くの大名が会津を欲しがったのは当然のことだと思いました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

しんちゃん

会津討伐の際に城主が逃亡。 (2024/09/15 訪問)

大森城は城山公園として整備されています。南北に長い縄張りで、遺構は限られていますが、空堀が一つ残り橋が架かっています。
本丸はお花見広場として市民の憩いの場となっており、北の端の方には模擬の物見櫓が建っています。
南北朝時代の伝承もあるようですが詳細は不明、戦国時代には伊達稙宗の三男・伊達実元が城主になっています。伊達成実が二本松城に移ると、片倉景綱が入り、上杉氏が会津に転封になった際には栗田国時が入りました。
会津を守る重要な拠点でしたが、慶長5年(1600)徳川家康の会津討伐の際に栗田国時は藤田信吉と共に出奔し、信夫郡伏拝(福島市伏拝)で追っての襲撃を受け国時は殺害され、信吉は逃亡しました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

赤い城

城めぐりのきっかけ

遅くなりましたが私もイオさんのご質問へのアンサーを。
地元の城は三沢城、家からも近いです。
地元では要害山と呼ばれていす。
また松江城も身近でしたので城好きになるベースはあったかな。

城めぐりを始めたのは姫路城で100名城のスタンプ帳を見つけてからです。
当時大阪在住でスタンプ目的で近隣の城や旅行先の城を廻ってました。

その後関東に移り、皆さんもご利用の城めぐアプリに出会います。
最初から「攻略」にはあまり熱心でなく、行った証でフォトをアップすることをメインに使ってました。
それなりにゲーム感も楽しんでますが・・・
今は1日1枚+リア時のフォトをアップしています📷
(ここでは別のHN使ってますが同じようなフォト出してるのでわかると思います。城びとオールスターズの皆さんから伝言いただけると嬉しいかも)
アプリを通じて城ともさんも出来たある時「一緒にリアしませんか」とのお誘いがありました。
その際に行ったのが東京の戸倉城他。
それまでは本丸に行くことで満足してましたが堀切などの遺構の素敵さに惹かれました。

その頃城びとにも出会います。
遡ってみると最初のレポートは土気城でした。
最初のレポートにも朝田さんよりポチいただいてました😊
感謝です✨

その後も唐沢山城の竪堀を降りてみたり常陸の堀底道周回を楽しんだり、気づけば関東の城びと登録城をコンプリートしてました。

今は四国に移り、近隣の城を楽しんでます。
なかなか遠征行けないのでマイナー城や未登録城も含めてレポートしていきたいです。
今後もお付き合いいただけると嬉しいです⭐

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

しんちゃん

圓城寺門 (2025/01/05 訪問)

岩手県の南の方には雪は無かったのですが、花巻市や盛岡市には雪が積もっていました。山城などのある地域に向かうと除雪が完全ではありませんでした。中古で購入したスノータイヤなので性能的に不安が有りましたが、十分役に立ってくれました。
花巻城の圓城寺門は花巻城の唯一の遺構とされています。慶長19年(1614)に藩主・南部利直公が「二子城」の表門(大手)を引き上げて、花巻城の搦手(裏)門として設置したとされています。かつては、この付近に圓城寺という寺が有り、その近くの坂に建てられたので圓城寺門の名がついたとされています。明治4年に花巻城は取り壊しになりますが、この門は北上市の民家に払下げられ、後に花巻市の軍医によって買い戻され鳥谷ヶ崎神社の境内に移されました。
しかし戦後の荒廃によって、ケヤキの柱以外は大きく損壊したた状態になりますが、昭和36年に市の補助金を受け現在の場所に復元され今に至ります。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

しんちゃん

再建 郭馬出西虎口門 (2025/02/02 訪問)

箕輪城は当地を支配する豪族・長野氏の居城で、戦国時代の城主・長野業正は箕輪衆と呼ばれる地元の武士団をまとめ上げ武田信玄の侵攻をよく防いでいます。以前は本丸や二の丸・三の丸の周囲に存在する大堀切が目玉でしたが(それでも日本百名城)、郭馬出に郭馬出西虎口門が再建されてからは、その門が箕輪城のシンボル的な存在になっています。
平城とはいえ、戦国時代の堀や土塁・馬出しなどを用いた高度な縄張りを体験することができ、城好きであれば高い満足度を得ることが出来ると思います。また再建された郭馬出西虎口門も周囲の風景に良く溶け込んでいて、良い雰囲気を出しています。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

しんちゃん

山頂からの眺めは良好。 (2025/02/16 訪問)

冠木門跡の先に進めば本丸に到着です。日本海と雪の景色が素晴らしい。周囲の街も良く見渡せます。ちょっとした絶景です。
この景色を見るために、この雪の中、皆さん登ってきているわけですね。自分も少し慣れてきましたが、雪用の靴ではないし、無茶は禁物です。村上城は標高135mの臥牛山の山頂に築かれており、江戸時代は村上藩主の居城でした。築城の時期は不明ですが戦国時代には揚北衆の本庄氏の城だったとされています。永禄11年(1568)に本庄繁長は上杉謙信に反旗を翻し、一年の籠城の末に講和し、開城しています。江戸時代に近世城郭として改修を受けますが、寛文7年(1667)に天守を落雷にて焼失し、幕末に至ります。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

カズサン

本堂郭編ー2/2 (2025/03/01 訪問)

 平成24年10月24日以来の二度目の探訪参拝です。西日が傾き始めた時刻でしたので、本堂はじめ各建物が逆光に成ってしまいました、本堂を参拝して鼓楼(太鼓櫓)内から外から北側からと撮影し、大門と特徴ある本證寺石碑を太陽を陰にして撮影、東側の内堀は水が抜かれてる冬の為か、北側の鼓楼横の内堀は何か掘り起こされている?、本堂郭と庫裏郭の間の内堀も確認。
 鼓楼太鼓櫓が見所です、本願寺派寺院に多く見られる太鼓櫓が現存して居て存在感を表しています。
 現在本證寺は真宗大谷派(東本願寺)の寺院です。
 

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

カズサン

北辺の堀と土塁編ー1/2 (2025/03/01 訪問)

 本証寺は平成24年10月以来の2度目、前回には情報不足事前調査不足で外堀、土塁を探訪して居ませんでしたので、今回の三河未踏の城達成廻りで安城古城を終えて、南に5km程進行して再登城参拝しました。

 駐車場:本證寺大門潜った参拝者駐車場
 参考資料:城郭放浪記さん余湖図コレクションさんグーグルマップに依る。

 先ずは本堂に参拝して本堂境内をぐるっと探訪、観察、北東に在る鼓楼(太鼓櫓)が光ってる、大門を出て東の通りから北へ外堀橋交差点(外堀跡が少し残ってる)を西入る、この通りも北側の外堀跡に当たる、寺院敷地の北東辺りから北側、北西角、西側にフェンス越しですが外堀の土塁、空堀が良く見える、人の背丈以上の高さが窺える。
 昨年の大河ドラマどうする家康放映の影響でか?TVで本證寺の土塁・空堀が放映されて見て居ましたので、是非見たいとの思いで訪ねました、お寺に頼めば見学が出来たのでしょうか?良く分かりません、夕刻迫り庫裏の方から入る様なのですが厚かましく頼むのを遠慮しました。フェンス越しですが目的は達成しました、満足です。
 戻って、そとぼりばし傍の残存外堀観察、大門から東に90m程に在る外堀跡も確認探訪。本證寺の案内板によると外堀を含めた寺域は東西320m南北310mの広さです。外堀内堀で囲まれていた。
 

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

チェブ

城びと未登録のお城攻め「石毛城」 (2025/03/01 訪問)

「豊田城」の支城「石毛城」は豊田 正親さんが多賀谷氏に備えて築いたそうです。
次男、石毛 政重さんが「石毛城」を守ります。
「豊田城」は小貝川の近く。「石毛城」は鬼怒川の近くです。

茨城県 常総市 石下 99
駐車場はありませんが、広場になっていて、車のタイヤの跡があったので駐車しました。
「石下城」の石碑の他に、立派な説明碑があります。
後ろに鳥居がありますので、大きさが分かるかと思います。
正直、豊田氏は存じ上げません。しかし、この大きな説明碑には豊田氏の活躍振りが刻まれています。
がんばって読みましたが、首がやられます。
文中に『川中島の戦い』や『本能寺』等が刻まれていました。
脳卒中やら毒やらの文字も、、、。

奥に神社があり、その向こうに土塁が見えますが「石毛城」時代の遺構かは分かりません。

教科書には載らない豊田氏の活躍。
説明碑の写真を引き延ばして、武勇伝を覚えておこうと思った「石毛城」攻めでした。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

トク

⑭【護佐丸と沖縄6城】(番外編)沖縄料理 (2025/02/08 訪問)

番外編です。私が沖縄で食べた物を御紹介します。

【沖縄ちゃんぽん】
大人気メニューと書いてあり、長崎ちゃんぽんとどう違うのだろう🤔? と思って気になったので注文してみました。 すると何とビックリ😯!・・・麺でなくご飯が出てきました(笑)。でも絶品でした。沖縄ポークの入った焼飯に、たっぷりの卵がかかった、要は沖縄風オムライスといった所でしょうか? 那覇市松山58号線沿い「みかど」で頂きました。ここ安くてボリューム満点、一人でも入りやすい店でした(写真①②)。

【沖縄定食】
沖縄風炊き込みご飯・沖縄そば・沖縄豆腐(ジーマーミ)・ゴ-ヤサラダがセットになった定食を、首里城内の首里社館(すいむいかん)のレストランでいただきました。沖縄の味がギュッと詰まった定番料理!といった感じでした(写真③④)。

【ソーキそば】
最後に那覇空港で、そういえば「沖縄そば」と「ソーキそば」の違いは結局何だったのだろう🤔?・・・とふと疑問が湧き、そば屋があったのでソーキそばの方を注文してみました。麺は同じですが、チャーシューが沖縄そばは平たく切ったものでしたが、ソーキそばは骨付きスペアリブのようなものでした。しかも味がしみ込んでいてこれはとてもジューシーです。納得しました(写真⑤⑥)。


そして満腹になった所で飛行機に乗ろうとすると、本土が雪のためダイヤが乱れ1時間遅れで離陸。それだけでなく離陸して1時間半後、とんでもないハプニングが! 「ただ今福岡上空を旋回し着陸許可を待っておりましたが、本日他空港雪のため着陸できない機が多数福岡上空にてまだ待機しており、本機は空港閉鎖時間(22時)までに着陸許可が下りないため、これより那覇空港へ引き返す事となりました」。 え?・・・😱うそだろ~(地元優先じゃないの?)と叫んでもどうしようもなく、結局3時間も乗ったあげくに再び那覇空港に着陸したのは夜の23時すぎ。空港は24時に閉鎖されるため仕方なく宿を探す事に・・。しかし航空会社は何もしてくれません。それどころかこんな夜中なのに、宿探しや次の搭乗予約も自分で何とかせよとの事。「ひえ~😱何と冷たい!」。検索しやっと見つかった近くの最安値ホテルは1万3千円。翌日同社便が全て満席のため他社便で帰る事に。すると差額7千円UP。結局計2万円の思わぬ出費に😱! ああ・・最悪の結末(泣)。

以上15回読んでいただき、大変ありがとうございました(終)。
 

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

todo94

三連休の攻城⑦ (2025/02/23 訪問)

水賀城からの転戦です。佐賀関は大分市中心部からより臼杵市からの方が近いのに、大分市の地籍なのですね。昼時だったので道の駅さがのせきにて、アジ・サバ丼セットをいただいてから、烏帽子岳城に向かいました。佐賀関ダムのさらに上、城山森林公園として整備されているのですが、駐車場の落ち葉の状態などを見るとほとんど利用者はいないのではないかと感じられました。山頂部は公園らしさがあって、豊予海峡を望む眺望が楽しめました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

しんちゃん

世良田館 世良田東照宮 (2025/02/02 訪問)

世良田館は新田氏の一族世良田氏の館があったとされています。国の史跡・世良田東照宮に隣接する公園周辺が館跡とされ、それと分かる大きな空堀が残っています。一部には土塁も残っているようですが、分かりづらくなっています。
世良田東照宮は国史跡・新田荘遺跡の一つとして国の史跡に指定されています。徳川家光によって全面的に改修される前の旧社殿の一部が移築されている、由緒正しい東照宮です。拝殿は日光奥社の拝殿を移築したとされ、家康公の墓標だった多宝塔も移され、本地堂として明治初年までこの地にあったようです。残念ながら明治時代に売却され今はその姿を見ることが出来ません。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

下手向城(岐阜県恵那市) (2025/03/06 訪問)

 岐阜県恵那市にある城びとには未登録の城址で「しもとうげじょう」と読みます。説明板には元亀天正の争乱で構えられた陣城の可能性が書かれていました。この周辺は織田氏と武田氏の攻防の激しかった地域で、ここも利用されたと考えられます。単郭の城ですが、面積は広く、土塁、横堀、竪堀、堀切などが残っています。西側の横堀付近を歩いていると石が散乱している場所がありました。切岸を見ると節理のような気もしますが、石積みかと思わせるような場所もありました。期待以上の遺構があり楽しんで散策できました。
 下手向郵便局横の道から登城しましたが、標識があり迷うことはありません。

 

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

しんちゃん

本丸下の遺構 (2025/02/16 訪問)

普段はスノータイヤを履いていても、ほとんど雪道を走ったことがありません。でも、今年は岩手県の花巻市や滋賀県・彦根市など雪の積もった道をけっこう走る機会が有りました。新潟県や山口県も雪が降っていましたね。普段温暖な場所で暮らしているので、雪に遭遇する機会はめったにありません。正直、不安でしたがスノータイヤでも結構走れるものです。慣れてくるとなかなか楽しいです。
村上城は平山城とはいえ、ちょっとした山城並に比高はあります。登城道は雪が積もっているし、クマ出没注意の看板もあるのに、地元のマダム達がどんどん登って来ます。皆さんたくましいです・・私も負けてられん。
雪の村上城はすごくいい感じです。足元に注意しながら登りますが、この環境はなかなか城址には厳しい。いつも石垣の修復工事を行っているのも納得です。尾根上に南北に長い縄張りで、本丸下の出廓を越え、黒門跡を通過して本丸に向かいます。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

上手向城(岐阜県恵那市) (2025/03/06 訪問)

 岐阜県恵那市にある城びとには未登録の城址で「かみとうげじょう」と読みます。勝氏の居城と伝わります。県道33号(中馬かんてん街道)を歩いていると北に入る道があり、よく見ると上手向城の看板がわかりました。小里川北岸の丘陵にある城ケ峯と隠居峯の二つの曲輪群からなっています。城ケ峯は主郭より主に南側に曲輪が展開しています。東西の峰に堀切を思わせるような地形がありますが、今一つわかりません。隠居峯は曲輪も広く堀切、土塁も残っていますが、藪となっていて散策しにくい状況でした。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

姫街道

井伊氏一門の城巡り (2025/03/06 訪問)

井伊谷から西へ四キロ、陣座峠を越して柿本城に抜ける街道を抑えている。これこそ、戦国前期の城だと思う。居館➕詰め城の構成を考えれば、奥山氏居館がこの低丘の南にあった居館で、詰め城がこの低丘上にあったと考えるのが自然だと思う。
よって、街道は南側を通っていただろう。
一帯は、なかなか雰囲気があって何時来ても楽しい。
縄張りらしい遺構は何一つないが、私はこの立地が魅力的に感じる。
「奥山城」については、奥山方広寺背後にあったとされるが、それはこの奥山氏居館とセットにするには無理がある。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

山田城(岐阜県恵那市) (2025/03/06 訪問)

 岐阜県恵那市にある城びとには未登録の城址です。説明板によると和田馬場が城主とあります。遠山氏の一族らしいのですが、詳細はわかっていません。入口と主郭には令和4年に設置された標識がありますが、同年10月に開催された全国山城サミット恵那大会に合わせて設置されたようです。おかげで迷うことなく城址に辿り着けました。住宅などにより喪失した所も多いと思いますが、曲輪、土塁や空堀が残っています。東側にある土塁と空堀は高さもあり櫓台のような場所もあり楽しめます。

 明知鉄道山岡駅から徒歩10分くらいで説明板のある登城口に行くことができます。
 
 岐阜県恵那市山岡町は、冬は乾燥し朝晩の冷え込みが激しい地域で、古くからこの冬期の気候を利用した寒天の生産が盛んでした。特に細寒天の生産は日本一であり、全国シェアは8割を超えているそうです。海のない山岡町でなぜ寒天と思いましたが、気候が適していて寒天作りが盛んになったようです。
明知鉄道山岡駅に隣接する「かんてんかん」さんのレストランで寒天ラーメンをいただきました。普通のラーメンとは異なる食感です。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

ぴーかる

楽々前城 (2024/12/30 訪問)

【楽々前城】
<駐車場他>阿瀬川を渡る橋の手前<35.462801, 134.748229>の道路脇に駐車しました。橋を渡りもっと奥まで車行けます。
<交通手段>車

<見所>石垣・主郭石垣跡・切岸
<感想>縁起祈願、鶴亀楽々旅ラスト3城目。兵庫県の観光サイトによると、楽々前城は垣屋隆国が応永年間(1394~1427年)に築城し、その子、満成が跡を継いだといわれますが、史料には隆国も満成も確認できないようです。南北朝の争乱終結後の1363年以降に垣屋氏が楽前庄に入部しているので、それ以降の築城と思われます。垣屋氏は但馬の守護代のしての地歩を固めていきますが、15世紀の後期から垣屋続成の代になると、守護職の山名氏と対立するようになります。1511年に垣屋続成は山名氏と和睦して鶴ヶ城を築城して拠点を移します。1559年に生野銀山を攻略した織田信長軍が垣屋城(楽々前城のことのよう)を落城しています。
 私もこの城跡は行きたい城でメモしながらも「らくらくまえじょう」と読んでいました。「ささのくまじょう」読めぬ。なんか、あまり下調べせずに、ちゃちゃっと調べて行ったものですから、駐車ポイントもだいぶ手前だったし、現在位置を確認して城跡に近い場所から直登してしまい、だいぶ苦労して登り着きました。
 城跡は主郭を中心に東西南北の四方に腰曲輪を設けていて、主郭の一段下の腰曲輪からもう更に下の曲輪との切岸が高く整備されていないので城跡内部も散策するのに大変です。主郭は石垣で取り巻いていたようで、西側曲輪壁の下には転落石が沢山落ちています。西側の下段の曲輪群には多くの石垣遺構が見られます。畝状竪堀群があるそうですが後から知って完全に見落としてしまい、帰路は登ってきた斜面をずり落ちながら降りるのは怪我しそうだったので、南の尾根伝いにさまよって、ついに道をロストしてしまい、結局斜面をずり落ちてなんとか城跡東側をはしるアスファルト道に出てこれました。山は暗くなってきて、ライトを車に置いてきたので相当焦った。
 発掘調査されていないような感じの城跡で、生の迫力ある遺構と本格的山城でかなり見応えありました。登城路が苦労したので、楽々前というより「苦々疲城」でした。畝状竪堀の見落としが、だいぶ気になるのでいつか再訪します。走行距離333㎞無事走破。

<満足度>◆◆◆

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

しんちゃん

岡山城天守閣 (2025/02/22 訪問)

岡山城天守は耐震工事を施してリニューアルされました。エレベーターは設置されていますが、地下1階から4階までで5階と6階は階段でのぼることになります。天守閣は上にいくほど狭くなるので頑張っている方だと思います。
特徴的な形状の天守なので、本来なら木造で見たい所なのですが、木造の天守は第二次世界大戦の空襲で残念ながら消失してしまいました。内部はエレベーターを設置しながらも余裕のある造りで、移動にもストレスを感じることは有りません。スペースに余裕が有るのでゆっくり展示物やパネルを鑑賞することが出来ます。
関ヶ原の合戦で西軍が敗れた後、宇喜多秀家と二人の息子は八丈島に流されてしまいました。
二人の息子は母恋しさに豪姫の絵を撫ですぎたため、絵の額の部分が薄くなってしまったという逸話が残っています。
長男は早逝しており、次男の秀高は数えで10歳、三男の秀継は数えで4歳ごろだったと思います。徳川の地盤を盤石にするためとはいえ、わずか3歳の子供を母から引き離し、島流しにするとは家康公も非情なことをするものです。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

姫街道

井伊谷城は、信州街道からみるべきだ (2025/03/06 訪問)

久しぶりに山城巡りを再開。第一弾は井伊谷城。まず、城の麓にある地域遺産センター2階で模型を観る。この城は信州街道を抑えるように井伊氏居館やその家臣団の屋敷の裏山にある。よって、模型を観るにも西を↑にして見るべきだ。当時、信州街道を南下して井伊谷郷に入ってきた人は、信州街道を挟むようにそびえる三岳城と共に圧巻の風景を観た事だろう。
さて、城の縄張りだが、しっかり土塁が回っていて食い違い虎口や搦手口が信州街道から攻め込んできた敵に対して配置されている。私は、井伊谷城は武田対徳川の戦いで充分機能していたと思う。理由は、三岳城の西側にある大規模な連続横堀だ。
あれは井伊氏では無い。となると、、、三岳城に入った武田か徳川の軍勢が井伊谷城を廃城にしておく必要がない。出城や砦として充分機能したと思う。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

ページ20