(中国地方と兵庫県)遠征15日目:猿掛城
(2026/05/25 訪問)
高越山城から車で30分ちょっとで、登城口付近の空スペース(34.613334、133.632218)に着きました。
そこから、登城口(34.613390、133.633178)まですぐです。
左足首軽い捻挫状態の自分にとって本日3番目の最大の難関(山城)です。いざ登城です。
その歴史は平安時代末期に遡るといわれ、武蔵七党の一角を占める児玉党の旗頭であった庄家長が備中国穂田郷(穂井田郷とも)に領地を与えられ、ここに城と居館を築いたことに始まると伝えられています。以後、戦国時代に至るまで庄氏の居城となった。
南北朝時代初期には南朝の北畠親房に属し、足利尊氏配下の高師直と戦火を交えました。
戦国時代中期の1533年(天文2年)当時の城主であった庄為資は松山城の上野頼氏を攻め滅ぼし備中半国を配下に収め、為資は松山城に移りました。
猿掛城には一族の穂田(穂井田)実近が入り、その後、尼子氏と結んでいた庄氏に対し、鶴首城主で備中に覇を争っていた三村家親は毛利氏と結び猿掛城を攻略します。
為資と家親は家親の長男の元祐を穂田実近の養子とし猿掛城主に据えることで和睦しました。
この戦いについて、『安西軍策』や『陰徳太平記』の影響で、1553年(天文22年)のことと考えられてきました。
しかし、古文書などの分析から、1552年(天文21年)及び1559年(永禄2年)の2回にわたって行なわれ、前者は毛利・三村側の敗北に終わっていることが判明しているようです。
1568年(永禄11年)為資の子・庄高資は備中に侵攻した宇喜多直家に呼応したため、宇喜多氏が一時猿掛城を落とした。
これに危惧を感じた毛利元就は四男の元清を遣わし猿掛城を奪取します。この年、毛利氏の援軍により家親の子の元親が高資を追い落として松山城主となり備中に覇を唱えました。
1574年(天正2年)元親が織田信長と結んだため、毛利氏と三村氏が争う備中兵乱が起こり猿掛城は三村氏攻略の前線基地となります。
1575年(天正3年)5月に松山城が陥落し備中兵乱は終結、元親は自刃しました。
この時の戦功と元清の愁訴によって、元清は猿掛城を預かる城番となり、猿掛城の所在する備中国小田郡を中心に5,000貫の知行地を与えられます。
元清はそれまでの居城であった安芸桜尾城を妻の御北尾と九弟の才菊丸(後の小早川秀包)に任せて猿掛城に移り、毛利氏の東部方面への侵攻を抑える重鎮となりました。
また、この際に元清は在城した猿掛城のあった穂田郷という在名から穂田(穂井田)を名字としました。
1582年(天正10年)には羽柴秀吉による高松城水攻めの際、毛利輝元の本陣となります。1583年(天正11年)元清は猿掛城の西部にある茶臼山に中山城を築いて移りました。
猿掛城には重臣の宍戸隆家を城代として置きました。1589年(天正17年)広島城の建設が始まると元清は普請奉行として広島に常住するようになりました。
1600年(慶長5年)毛利輝元が関ヶ原の戦いにおいて西軍総大将として敗将となったため、防長2国に大幅に減封されます。城の周辺は幕府領となり、猿掛城は廃城となりました。
痛み止めが効いている間に大手登り口から登城しました。搦め手道は荒廃しており登山が禁止されているようです。
一の丸後ろの大堀切は圧巻でした。
下城時に痛みがぶり返しました。車を運転しているので、連続で痛み止めは飲めない。ここは我慢です。
攻城時間は70分くらいでした。次の攻城先=鬼身城に向かいました。
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