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昌官忠

(東海&関西)遠征4日目:敏満寺城 (2025/05/18 訪問)

多賀大社前駅から徒歩15分弱で、ぷらざ多賀の湖公園入口(35.218730、136.282704)に着きました。

詳細不明のようですが、かつてこの辺りには敏満寺という天台宗の大寺院があり、室町時代には佐々木六角氏や京極氏などと対立するようになり、その要塞として敏満寺城が築かれたと考えられているようです。
1562年(永禄5年)には浅井長政の攻撃を受けた久徳氏に味方したことから、40余りあったといわれる坊舎のほとんどが焼き払われたそうです。
さらに、1571年(元亀2年)には織田信長の命に応じなかったことから、残りの坊舎も焼かれ寺領も取り上げられてしまいました。
江戸時代には彦根城築城のために城址に残った礎石も運び去られたため、遺構はほとんどありません。

全国的にも珍しい高速道路のサービスエリア内にあります。
名神高速道路上り線=敏満寺SAにあるドッグランとなっている辺りで土塁や櫓台が確認できます。
攻城時間は15分くらいでした。本日の城巡りは、ここがラストです。
本日の宿泊先に戻る為、多賀大社前駅から電車で米原駅へ向かいました。
歩行歩数=33367歩、歩行距離=23.4Kmです。

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昌官忠

(東海&関西)遠征4日目:木ノ本駅周辺と彦根駅周辺 (2025/05/18 訪問)

木ノ本駅から多賀大社駅に向かう電車及びバスの待ち時間に、木ノ本駅と彦根駅で撮った写真を投稿します。

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昌官忠

(東海&関西)遠征4日目:黒田城(城びと未登録 滋賀県長浜市) (2025/05/18 訪問)

菖蒲谷砦(城びと未登録 岐阜県長浜市)の駐輪場所(35.550410、136.205539)から自転車で20分ちょっと走って、黒田集会所入口(35.510647、136.215854)に着きました。

近江源氏佐々木氏流京極氏の京極宗満(宗清)が近江国伊香郡黒田村に土着して黒田氏を称しました。
後に京極氏の有力氏族として活動するだけでなく室町幕府奉公衆(将軍の直参)として時に宗家と肩を並べるほどの勢いがありました。
しかし、黒田高政の時に将軍・足利義植の怒りを買って所領を失い、備前国邑久郡福岡に移住した後に播磨守護・赤松氏の弱体化に乗じて播磨に土着しました。
この黒田高政より3代後が官兵衛孝高です。

館跡にある集会所を改築したときに「源宗清」と刻まれた御影石が発掘されたそうです。
館跡は現在は公民館になっており、石碑や看板が整備されています。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=敏満寺城へ行く前に木ノ本駅の観光案内所で自転車の返却し、その後、木ノ本駅から多賀大社駅に向かいました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征4日目:菖蒲谷砦(城びと未登録 滋賀県長浜市) (2025/05/18 訪問)

溝谷砦(城びと未登録 岐阜県長浜市)から駐輪場所(35.550410、136.205539)まで戻り、「ぴーかるさん」の投稿に従い崖を直登しようとしましたが、直登できそうな場所がみつかりませんでした。

1583年(天正11年)の賎ケ岳の戦いの際の東野山砦の出城と推測されています。
攻城時間は10分(直登できそうな場所を捜した時間です)くらいでした。次の攻城先=黒田城(城びと未登録 滋賀県長浜市)へ自転車で向かいました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征4日目:溝谷砦(城びと未登録 滋賀県長浜市) (2025/05/18 訪問)

東野山城から駐輪場所(35.550410、136.205539)まで戻り、「ぴーかるさん」の投稿に従い360度カーブの曲がった東側の切岸をよじ登ぼって辿り着きました。

1583年(天正11年)の賎ケ岳の戦いの際の東野山砦の出城と推測されています。

尾根を遮断する堀切があります。尾根先端側に頂部の小曲輪があります。
その下にわりと広い曲輪、さらにその下に段曲輪があるという小さな砦でした。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=菖蒲谷砦(城びと未登録 滋賀県長浜市)へ向かいました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征4日目:東野山砦 (2025/05/18 訪問)

秀吉軍土塁跡(城びと未登録 滋賀県余呉町)から自転車で10分くらい走って、分岐点(35.548497、136.204381)に着き、ちょっと先のこの場所(35.550410、136.205539)に駐輪しました。

築城年代は定かではないようですが、東野氏によって築かれたと云われています。
現在の遺構は、1583年(天正11年)賎ヶ岳合戦で羽柴秀吉方の砦として築かれたもので、堀久太郎秀政が布陣しました。

駐輪場所から林道を誤り、真っ直ぐ山方向に10分登った所で道がなくなりました。駐輪場所まで戻り攻城を諦めました。
自転車を返却する際、木ノ本駅観光案内所の人に聞くと溝谷砦(城びと未登録 滋賀県長浜市)方面に向かう林道を進めばよかったようでした。
残念ですがリベンジの機会があれば再度チャレンジしますので、とりあえず仮攻城とします。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=溝谷砦(城びと未登録 滋賀県長浜市)へ徒歩で向かいました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征4日目:秀吉軍土塁跡(城びと未登録 滋賀県長浜市) (2025/05/18 訪問)

東野館(城びと未登録 岐阜県長浜市)から自転車で5分くらい走って、土塁跡周辺(35.550878、136.202677)に着きました。

賤ヶ岳の合戦で秀吉軍が築いた土塁です。
石碑も説明板もなく、土の盛り上がりもありません。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=東野山城へ自転車で向かいました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征4日目:東野館(城びと未登録 滋賀県長浜市) (2025/05/18 訪問)

大岩山砦(城びと未登録 滋賀県長浜市余呉町)から自転車で10分ちょっと走って、東野山城登山道案内付近(35.555282、136.201900)に着きました。

京極氏の属した東野氏の居館で、史料には東野左馬之介行成などの名が残るそうです。

東野館は東野山城の西麓、法照寺・八幡神社の南西側付近にあったと云われ、 東野山砦の標識もあります。
法照寺には東野豊前守の墓が残されています。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=秀吉軍土塁跡(城びと未登録 滋賀県長浜市)へ自転車で向かいました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征4日目:大岩山砦(城びと未登録 滋賀県長浜市余呉町) (2025/05/18 訪問)

山崎山砦(城びと未登録 滋賀県長浜市余呉町)から遊歩道を20分くらい歩いて行くと着きます。

1583年(天正11年)賎ヶ岳合戦で羽柴秀吉方の砦として築かれ、城将は摂津国茨木城主中川清秀でした。
羽柴秀吉に降っていた長浜城主柴田勝豊の家臣山路正国は、秀吉方として堂山砦に布陣していたが、密かに砦を抜けだして柴田方へと走りました。
これによって秀吉が賤ヶ岳の陣を抜けだして美濃の岐阜城主織田信孝を攻めにいったことが柴田方に知られることとなり、柴田方の武将佐久間盛政が賤ヶ岳の砦を急襲しました。
このとき盛政が急襲したのが大岩山砦と岩崎山砦で、中川清秀は四時間程防戦したが討死し中川軍は全滅したそうです。

砦跡は大岩山にあり、2郭、少し高くなって主郭と地続きにあり、主郭に中川清秀公の墓があります。
2郭の左右と墓の周りに、土塁が残っています。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=東野館(城びと未登録 滋賀県長浜市)へ自転車で向かいました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征4日目:岩崎山砦(城びと未登録 滋賀県長浜市余呉町) (2025/05/18 訪問)

賤ヶ岳砦から自転車で25分くらい走って、この場所(35.532916、136.201917)に自転車をおいて、登城口(35.532758、136.202858)に向かいました。

1583年(天正11年)賎ヶ岳合戦で羽柴秀吉方の砦として築かれ、 城将は摂津国高槻城主の高山右近でした。
羽柴秀吉に降っていた長浜城主柴田勝豊の家臣山路正国は、秀吉方として堂山砦に布陣していたが、密かに砦を抜けだして柴田方へと走りました。
これによって秀吉が賤ヶ岳の陣を抜けだして美濃の岐阜城主織田信孝を攻めにいったことが柴田方に知られることとなり、柴田方の武将佐久間盛政が賤ヶ岳の砦を急襲しました。
このとき盛政が急襲したのが大岩山砦と岩崎山砦で、大岩山砦の中川清秀は討死、高山右近は砦を脱して逃げ延びたそうです。

登城口より賤ヶ岳に向かう遊歩道をしばらく歩くと、縄張り図の掲示された入口があり、左に登って行きます。
間もなく岩崎山に主郭がありますが、明確な遺構はあまり見られません。
攻城時間は20分くらいでした。次の攻城先=大岩山砦(城びと未登録 滋賀県長浜市余呉町)へ徒歩で向かいました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征4日目:賤ヶ岳砦 (2025/05/18 訪問)

木ノ本駅の観光案内所で電動自転車を借り、15分くらい走って、賤ヶ岳リフト駐車場(35.502248、136.197647)に向かい、山麓から賤ヶ岳リフトを使い登城しました。

築城年代は定かではないようですが、1573年(天正元年)に浅井・朝倉軍が賎ヶ岳に布陣していた記録が残されているそうです。
1583年(天正11年)賤ヶ岳合戦では羽柴秀吉方の砦として利用され、 城将は但馬国竹田城主桑山重晴、羽田長門守、浅野弥兵衛であったそうです。

賤ヶ岳砦は賎ヶ岳山頂に築かれており、 現在は展望公園として整備され、リフトもあって観光スポットになっています。

現在城址は展望公園として整備されており、山頂からは余呉湖と琵琶湖、また小谷山や虎御前山を一望できる絶景ポイントとなっています。
リフト往復チケット(900円)を買いました(降りる時に回収された為、残ってません)。時間と体力のことを考えるとリフト使用は安いかも。
山頂部は観光化され明確な遺構らしきものはないような?。
攻城時間は50分くらいでした。次の攻城先=岩崎山砦(城びと未登録 滋賀県長浜市余呉町)へ自転車で向かいました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征4日目:田上山城 (2025/05/18 訪問)

木ノ本バスターミナルから徒歩10分くらいで、意富布良神社(おほふら)鳥居前(35.507227、136.226697)に着き、意富布良神社の境内奥の碑「田上山登り口」から登りました。
下城は林道をそのまま下り、小溜池方面に出ました。

築城年代は定かではないようですが、1573年(元亀4年)浅井・朝倉氏と織田氏が争った元亀争乱で、朝倉氏の軍勢が田上山に布陣したそうです。
1583年(天正11年)賎ヶ岳合戦では羽柴秀吉方の砦として秀吉の弟羽柴秀長が布陣し、秀吉方の本陣的な役目を果たしましたが、合戦の勝利にともない利用されなくなりました。

意富布良神社境内横から登城すると、すぐに林道と合流し、林道終点から整備された登山道です。
城址は予想以上に規模が大きく、遺構は土塁や空堀のほか、虎口と竪堀など技巧的な土の城が楽しめます。
攻城時間は60分くらいでした。次の攻城先=賤ヶ岳砦へ行く為、木ノ本駅の観光案内所へ徒歩で向かいました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征4日目:塩津城 (2025/05/18 訪問)

応昌寺城(城びと未登録 滋賀県長浜市)から徒歩15分くらいで、道路西側登り口(35.523790、136.166083)に着きました。

築城者ははっきりしないようですが、地頭としてこの地に入った熊谷兵庫直高の居城と云われています。

道路西側登り口のフェンス越え場所を捜しました。前日の雨で滑る状態で、丘陵は注意しながら上り下りしました。
上りきると堀切、空堀、土塁が見えてきます。
攻城時間は25分くらいでした。次の攻城先=田上山城に向かう為、塩津北口バス停からバスで木ノ本バスターミナルに向かいました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征4日目:応昌寺城(城びと未登録 滋賀県長浜市) (2025/05/18 訪問)

米原駅から近江塩津駅に向かい、そこから徒歩15分弱で、散策道入口付近(35.530354、136.156995)に着きました。
塩津小学校の校門を入った右手に公園へ通じる散策道があり、それを登ると城跡に着きます。

山の西麓の”応昌寺”には「元亀年間の昔、信長が越前の浅倉氏を攻めるために、軍勢を率いて当の応昌寺の門前を通行の折、突然事もあろうに落馬したが、それは門前の古木のもとに鎮守の荒神が祭られ、古伝では何人たりともその神前を乗馬等の乗り物のままで通行すれば、おとがめ・たたりがあると聞いて、信長は立腹のあまり荒神(木像)の頭部を切り落としたという。
即座に激しい腹痛をおぼえ、さすがの信長もざんげせざるお得なかった云々・・・」の伝承があるが、このあたりは往古から敦賀・塩津浜間の街道を通行する人々を一刻下馬、下車させる古社もしくは番所に該当する遺構が有ったのでは。
また、応昌寺はその昔「高源庵」と呼ばれ”とんちの一休”で知られた一休和尚の師の華叟宗雲禅師が京都より堅田の称名寺祥瑞寺を経てここ高源庵に住まわれたとの古伝もあり、堅田とこの高源庵の深いかかわりも考えられ、その墓塔が応昌寺に祀られているそうです。

城跡は塩津小学校の南に面した小山で、頂部一面公園施設になっています。
堀切状の深い窪地と低土塁を確認しましたが、ある程度進むと金網が邪魔をして、それ以上は進めませんでした。
攻城時間は20分くらいでした。次の攻城先=塩津城へ徒歩で向かいました。

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todo94

万博翌日の攻城④【城びと未登録・難波宮】(大阪市中央区) (2025/05/11 訪問)

宇利和利城からの転戦です。大阪メトロ谷町線を出戸駅から谷町4丁目駅まで利用してのアプローチです。難波宮は大阪城の南に隣接していて城びとの登録物件にはなっていませんが、古代三大政庁の平城宮、太宰府、多賀城はすべて城びと登録物件になっているので、都であった時代がある難波宮も城の範疇に入るかと考え投稿させていただきました。読了したばかりの阿部龍太郎の「平城京」にも登場していてちょっと思い入れが生じていたのです。阪神高速の南側に位置する大極殿跡は訪れたことがあります。阪神高速の北側の内裏北側が「なノにわ」としてきれいな公園、商業施設として整備されていてびっくりしました。内裏正殿の基壇が復元されていてちょっとした展望スポットになっています。

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北条氏繁 (2025/06/12 訪問)

 戦国時代、後北条氏の北関東進出拠点としていた城ですが、1590年豊臣秀吉が小田原城の後北条氏を滅ぼし逆井城も廃城になりました。現在も堀と土塁が残り二層櫓、井桜櫓、櫓門、橋、塀、主殿などが復元され、逆井城跡公園として整備されています。戦国時代の雰囲気を感じることができる城址です。二層櫓は上がることができます。予想していたより空堀など残っていて楽しむことができました。この日は曇っていて、それほど気温も上がらずあまり汗をかくこともなく散策ができました。

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小貝川の畔 (2025/06/12 訪問)

 豊田氏の城と伝わっています。小貝川堤防上に石碑と説明板がありました。

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渡辺氏の居城 (2025/06/12 訪問)

 渡辺氏の居城とされています。渡辺食品株式会社という会社の入り口に石碑などがあります。

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多賀谷城跡公園 (2025/06/12 訪問)

 多賀谷氏の居城で当時は沼に浮かぶ水城であったようです。本丸跡は現在、多賀谷城跡公園となっています。多賀谷城跡公園には石碑と説明板がありました。城山稲荷神社の土塁を確認して撤退しました。

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chiroru

見応えありました (2025/06/06 訪問)

生い茂る植林で、城東地区から見る津山城は魅力の石垣が見え隠れしていましたが、近くに来ている感は嬉しいものです。

石垣が大きくて高くて整っていて、櫓の位置を確認しながら目指すは備中櫓。道中の紫陽花の花も風情があり、時折吹いてくる
風がなんとも心地よくて。
備中櫓を見学した後に、藤棚になっている長局で一休み。こういう場所でこんな時間の過ごし方贅沢だなあとおもいました。

津山市のソウルフード「干し肉」を市内の商店街の精肉店で購入。津山城に思いを馳せいただきました。

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