赤穂郡上郡町赤松の国道376号を走っていると道沿いに「赤松円心の郷」ののぼりが立っている小公園があります。これが赤松氏居館跡で赤松円心則村の屋敷があったとされ、息子の代には守護の館が建てられたそうです。
足利三代将軍・義満は春王丸の幼少期数か年をここの里人に育てられ、後年京都に於いても「故郷」として赤松を忘れることは無かったようです。
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2025/06/21 08:53
2025/06/21 08:41
2025/06/21 05:28
(東海&関西)遠征10日目:河合城 (2025/05/24 訪問)
小堀城から徒歩10分くらいで、石碑前(34.882527、134.923812)に着きました。
別名「掘殿城」とも呼ばれ、室町時代の播磨守護職であった赤松氏の東播磨の拠点として築城されています。
1441年(嘉吉元年)「嘉吉の乱」の時には、赤松満祐が将軍足利義教の首をもって入城したことでも知られています。
農道の交差点付近の水路脇に城跡碑・案内板があります。かつては周辺の堀井城や小堀城とこの水路でつながっていたそうです。
土塁も残っているようですがは私にはわかりませんでした。なお駐車場はありません。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=小野陣屋を目指す為、河合西駅から電車で小野駅に向かいました。
河合西駅で電車の待ち時間があったので、雨でぬれた上下の服をトイレで着かえました。
待合室には女性の方がいらっしゃいましたので、トイレで着かえましたが、ここのトイレ結構立派でした。
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2025/06/21 05:20
(東海&関西)遠征10日目:小堀城 (2025/05/24 訪問)
堀井城(城びと未登録 兵庫県小野市)から徒歩10分くらいで、説明板前(34.886187、134.927944)に着きました。
築城年代は定かではないようですが、嘉吉年間(1441年~1444年)以前に光枝(三枝)正頼によって築かれたと云われています。
天正年間(1573年〜1592年)には三枝治吉が城主で三木城主別所氏に従い三木城合戦に参戦したそうです。
大規模土塁がありました。説明板は道から少し入った門が付いた白壁の前にあります。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=河合城へ徒歩で向かいました。
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2025/06/21 05:16
(東海&関西)遠征10日目:堀井城(城びと未登録 兵庫県小野市) (2025/05/24 訪問)
大寺廃寺から徒歩15分くらいで、堀井城跡入口(34.885672、134.921321)に着きました。
1220年(承久2年)赤松円心から三代前の家範の兄弟である赤松景能が築いたと云われています。
1441年(嘉吉元年)嘉吉の乱で赤松一族は滅亡し一時は使用されなかったようですが、1530年(享禄3年)堀井兵部長満によって再興されたようです。
江戸時代には旗本斯波氏が居住したとも伝えられています。
現在は堀井城跡 ふれあい公園として整備されており、公園には駐車場とトイレも完備されています。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=小堀城へ徒歩で向かいました。
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2025/06/21 05:12
(東海&関西)遠征10日目:大寺廃寺 (2025/05/24 訪問)
金鑵城から堀井城(城びと未登録 兵庫県小野市)に行く途中、徒歩10分くらいで、石碑前(34.880587、134.913470)に着きました。
城跡ではありませんが、金鑵城に行く途中に見つけた古代寺院跡です。
遺構は、個人宅前庭にある東塔心礎を中心に新部町大寺集落全域にわたっているようですが、個人宅がどこかわかりません。
昭和43年から昭和46年に実施された発掘調査により、東塔、西塔、鐘楼、回廊、中門等の遺構が検出され、薬師寺式の伽藍配置であったことが判明しているようです。
出土した軒瓦等の遺物から、奈良時代中頃の建立と考えられているようですが、偲ぶものは案内碑のみという状況でした。
また雨が強くなりました。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=堀井城(城びと未登録 兵庫県小野市)へ徒歩で向かいました。
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2025/06/21 05:09
(東海&関西)遠征10日目:金鑵城 (2025/05/24 訪問)
粟生駅から徒歩50分くらいで、夢の森公園入口(34.879073、134.906770)に着きました。
金鑵城に行くには本来、河合西駅から歩いた方が近いのですが、粟生駅での待ち時間が1時間10分以上あったので、歩くことにしました。
築城年代は定かではないようですが、播磨守護・赤松氏の家臣の中村氏の居城で、もともと弥生時代の集落があった場所(金鑵城遺跡)に築かれました。
1539年(天文8年)に守護・赤松晴政が中村予次郎の所領を別所源三郎に与えたため、以後両氏の争いとなり、中村氏は天文年間(1532年~1555年)に三木城の別所氏に攻められ滅亡しました。
夢の森公園駐車場付近から主郭までの間に堀切と木橋があります。
東側の虎口から模擬櫓のある郭跡まで歩いて2~3分です。
雨も小降りになったので、眺望も見れました。
攻城時間は20分くらいでした。次の攻城先=河合西廃寺へ徒歩で向かいました。
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2025/06/21 04:53
(東海&関西)遠征10日目:善防山城 (2025/05/24 訪問)
播磨下里駅から徒歩10分ちょうとで、善防公民館駐車場入口(34.883194、134.835114)に着きました。
道路反対側が登山口です。
築城年代は定かではないようですが、赤松刑部(左馬介)則繁によって築かれたと云われています。 赤松則繁は赤松義則の八男で赤松満祐の弟にあたります。
1441年(嘉吉元年)に起きた「嘉吉の乱」で、山名軍に攻められ落城しました。
主郭に説明板、縄張り図がありました。東尾根の中間と東端に石垣の郭があります。
主郭に着いたらいきなり大雨がふりはじめました。すぐカッパを着ましたが、岩場がある下りをゆっくり降りることを考えると時間のかかる笠松山へ向かうことを断念しました。
攻城時間は75分くらいでした。次の攻城先=金鑵城へ向かう為、播磨下里駅から電車で粟生駅に向かいました。
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2025/06/21 04:43
(東海&関西)遠征10日目:中津構居(城びと未登録 兵庫県加古川市) (2025/05/24 訪問)
ホテル最寄りの加古川駅から電車で日岡駅に着きました。
日岡駅から徒歩15分弱で、標柱/説明板前(34.778926、134.848931)に着きました。
城主は梶原景政の後裔とされる梶原冬庵(十右衛門)で、天正年間(1573年~1592年)の秀吉の神吉城(東神吉神吉)攻めの時に神吉城に籠城して討死したそうです。
神社の参道入口に案内板が設置されていました。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=善防山城を目指す為、日岡駅から電車で播磨下里駅に向かいました。
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2025/06/20 23:57
赤穂城番外・大石神社 (2025/04/20 訪問)
赤穂城三の丸・大手門跡の近くに赤穂大石神社はあります。通称・大石神社として赤穂四十七士を祀っている神社としての方が有名ですが、旧赤穂神社は赤穂藩主浅野氏三代を祀っている神社で、主筋にも配慮した形式を取っているようです。
江戸城松の廊下での殿中刃傷事件の後、赤穂浅野家は改易となりますが、後に500石の旗本として復興します。赤穂浅野家は明治維新後も続きますが、昭和61年に跡継ぎがないまま断絶してしまいました。
一応被害者なのに悪役とされた吉良義央の死後、三河吉良氏は改易となりますが、後に分家が復興を果たします。
「赤穂事件」後の処遇に関しては、三河において松平氏の祖より格式の高かった(編諱を与えたりしている)吉良氏への悪意のようなものも感じますが、それ以上に吉良氏の後ろにいる上杉氏への圧力を感じます。
吉良義央の子・綱憲は米沢上杉氏の養子に入って上杉氏を継いでいますが、足利氏の名門・三河吉良氏は扇谷上杉家の前身である二橋上杉家の血を引いているとされています。
残念ながら名君と名高い9代・上杉治憲(鷹山)は秋月家からの養子で綱憲の血を引いていません。8代重定の次男・治広が10代藩主となり山内上杉家の26代目も継いでいます。
戊辰戦争の時の12代藩主・上杉斉憲は奥羽越列藩同盟の実質的な盟主であったものの、早々に新政府に降伏し会津と庄内を攻撃したため評判は芳しくありません。子の上杉茂憲は新政府に降伏した際に13代を継ぎますが実権は父の斉憲が握っていたとされています。
明治維新の後、茂憲は沖縄県令として沖縄に赴き、島民の為に尽力したとされています。明治の世になって吉良・扇谷上杉家の名門の子孫がようやく面目を果たしたと思います。
ちょっと話が逸れました。最近はイランとイスラエルまで紛争の様相を呈してきましたが、4月の時点で既にウクライナやガザなど争いは継続して発生していました。「世の中がもっと平和になりますように」と願をかけてきたのですが、頼んだ相手が悪かったのでしょうか? もう300年以上たっているわけだし、いいかげん冥土で和解してるだろうとは思うんだけど。
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2025/06/20 21:25
2025/06/20 21:21
武田氏住宅 あの武田さんですか? (2025/04/12 訪問)
重要文化財武田氏住宅・・富山県高岡市太田4258
富山湾沿いの国道415号線を走っていると「武田氏住宅」の案内板が出ていたので寄って見ることに。武田菱を見ればお分かりのように、あの「武田氏」ゆかりの御屋敷です。
武田信玄の弟で影武者も務めたとされる武田信廉(のぶかど)逍遙軒信綱(号)の子孫の屋敷です。武田氏は江戸時代に太田村の肝煎(庄屋)やそれを補佐する組合頭を務めた石高300の豪農でした。
この住宅は、寛政7年(1795)に伏木の勝興寺の本堂が再建された際の木材(余材)で建てられたという伝承を持ち、豪農らしいゴージャスな造りになっています。「枠の内」と称される天井の梁組や、小壁の三段化粧貫とされる造りは当時の農家建築様式の典型とされますが、豪農など裕福な農家に限られるのではないでしょうか。
なんだかんだで一番テンションが上がったのが、広間にずらりと並んだ武田菱の提灯箱を見たときでした。これはアゲアゲになりますよ。
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2025/06/20 20:03
日本100名城スタンプ96個目 (2025/03/23 訪問)
勢いだけで踏み込んで大丈夫?
きちんとと縄張を理解できる?
体力的に大丈夫?
など心配ごとが次々に浮かんでなかなか一歩を踏み出せないでいたのですが、遂に“その時”がやってきました。
いざ、行ってみると“なんで今まで来なかったんだろう!”っていうほどの居心地のよさ。登城途中ですでに「また来る!絶対また来る!!」って誓うくらい感動しました。
体力的なことで言えば、常々思っていることですが、体力のなさをまだ見ぬ世界への好奇心でカバーしているうちに頑丈な肉体(!)が出来上がったのではないかと感じています。
✳︎✳︎✳︎
広島バスセンターから郡山城(安芸高田市役所前)行きのバスは、途中何ヶ所かJR駅前を通ります。
今回は18きっぷの旅だったので広島から可部までJR線で移動し、可部駅前で広島バスセンターから来たバスに乗り込みました。(バス代節約です。)
安芸高田市役所前で降車すると、目の前の山に「一文字三星」が!
早くも気持ちが高揚してきました。
毛利元就公の凛々しい像のある歴史民俗博物館でスタンプを押してお土産のタオルを購入。スタッフの方に現地の状況などを伺い登城開始しました。
モデルコースとは少しずれますが、最初に三矢の訓跡へ。続いてお二人目の毛利元就公像と伝火葬場跡へ。歴史上の人物にぐっと近づいた気持ちになりました。
酉谷石垣、毛利隆元墓所お参りと進み、毛利元就墓所へ。
倒木による石灯籠破損のニュースの記憶も新しく、この日も枯木伐採作業をしていらっしゃいました。ご挨拶すると「気をつけて行ってらしゃい!」と爽やか〜に見送ってくださり、とっても嬉しかったです。
いよいよ本丸へと向かいます。モデルコースを歩く分には全体を通して特にきついということもなくハイキング感覚で歩けました。
目の前が開け、本丸が迎えてくれた時の安堵と達成感。この瞬間があるから、城から城へと渡り歩きたくなるのだなぁとしみじみ思います。
本丸上段からの眺め、二の丸通路の石垣痕、三の丸の石塁、住居跡を伝える井戸。さらに御蔵屋敷から勢溜の壇の曲輪の連なり。展望ポイントでは現在の展望の素晴らしさだけではなくかの時代の人たちの息遣いまで感じられるようで感動がとまりませんでした。
満願寺跡の幽玄さに心洗われ、尾崎丸の堀切に写真撮影の難しさを感じながら、歩を進めます。女子(🤨)単独でもお城に包まれ守られている心持ちで全然不安はありませんでした。
そしていよいよ旧本城です。事前に城友さんに危険を伴うと教えられていたのですが、パンフレットにも展望ポイントと紹介されており、道標も設置されていたのでとりあえず行ってみました。
が!かなり歩きにくく、ヒヤヒヤです。それでも何とか堀切まで行きました。しかし、ここから先は私レベルでは行けないと判断、ここまでで勇気ある撤退をしました。
そして下山道中の展望台に向かっていると後ろから人の気配。
私の先を歩いていたはずの方です。後ろから来ているということは本城へ行かれたとしか考えられず、思わず「本城に行ったんですか⁉︎」と声をかけてしまいました。
お話を伺って、やはり私には無理だったなぁと思いました。
その方は岡山の方で、やはり全国の城めぐりをされている方でした。車でいらっしゃっていたので郡山公園でお別れしましたが、展望台で“生存確認”用の写真を撮っていただきました。(多分)城びとさんではないと思いますがお城の出会いも一期一会。ありがとうございました。
帰りも可部駅前までバス。可部から電車で広島バスセンターまで戻りました。
この日は赤い東横インが取れなかったので福山の青い東横インに宿泊。その前に駅ビルでお好み焼きをいただきました。新駅ビル「minamoa」オープン前日だったので、次回は違った景色が見られるかな。
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2025/06/20 15:45
唯一の円郭式城郭 (2025/05/14 訪問)
家康公三城コラボ 茶の薫る御城印の購入のために訪問しました。
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2025/06/20 08:08
二つの比定地 (2025/02/23 訪問)
奥田甚助の城とも稲八妻氏の城とも伝わりますが、詳細は不明です。山城国一揆では、一揆解体後も守護支配に反対する国人が籠って最後まで抵抗を続けましたが、伊勢貞陸の命を受けた古市澄胤により攻め落とされ、山城国一揆は終結しました。
稲八妻城の所在地は諸説あって明らかではないようなので、とある煩悩の登城目録さんが紹介しておられる3か所のうち、南稲八妻と北稲八間の比定地を訪れました。まずは城びとでの位置情報の地である南稲八妻から。京奈和道の跨道橋を渡ったところに路駐して登城開始。登城口には柵が置かれていますが、以前にネットで見た「進入禁止」の表示は外されていたので、車止めの柵であって人は進入禁止でなくなったものと判断して柵の脇から入らせてもらいました。
登城口正面の尾根筋に直登すると、北から続く尾根(曲輪らしき平坦地も?)の南端に土塁があり、土塁を乗り越えたところが主郭です。主郭はおおむね三角形をしていて、南西隅の土塁の先には細い西尾根が続いています。主郭の南辺には土塁がめぐり、南東隅の土塁の先からは南尾根が続いていますが、縄張図を入手できなかったこともあって、灌木と竹と倒竹に阻まれて南尾根の途中で断念。引き返した少し先に堀切と曲輪があったらしいことは帰宅してから知りました…。
続いては北稲八間の比定地にも。城山の小字が残る丘陵が城跡とされ、城山の麓には山城国一揆と稲屋妻城の説明板が立てられています。城山には配水施設が設けられていて城郭遺構は見られませんが、東屋のある頂部からの眺望はなかなかのものでした。また城山から南に約300mの墓地には、山城国一揆で若くして命を落とした14名を供養する五輪塔と石仏が大切に守り継がれています。
…ということで、この日は生駒山地周辺の6城をめぐりました。いずれもさして比高のない城ばかりではありますが、小規模でも遺構のある城を6つは自分としてはがんばったほうかな、と。ただ、稲八妻城で縄張図無しでもそれなりに見て回れる自信がついたのは良いとしても、遺構があるという確証もなく藪に突っ込んで行くような根性はまだないことも実感しました。…まだ?(笑)
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2025/06/20 07:12
佐井田城 岡山県真庭市 (2025/06/08 訪問)
城びと未登録城です。
国道313号線沿いに案内板があり、そこから願成寺方面に。
お寺を過ぎたところから城へ入る道があり、すぐに駐車場があります。
城山稲荷の鳥居が登城口です。
杖も置いてありウエルカム感が高いです✨
登城路も整備されていて歩きやすかったです。
途中には番所跡の石垣がありました。
しばらく登ると虎口、その先が出丸の曲輪があります。
さらに進むと段になった曲輪があるのですがやはりこの時季、藪化していて形はわかりません。
主郭へ登る道から下に下りると井戸跡があります。
井戸を見たあと主郭へ。
主郭には城山稲荷が鎮座、傍らに標柱も立っていました。
主郭の先には二重の堀切があります。
この城の見どころなのですがやはり藪化。
歩きやすい山城でもやっぱり冬に来るのが正解だな、と改めて思いました。
城主の植木氏は尼子氏に従っていましたが宇喜多氏に攻められ軍門に下りました。
その後も尼子氏、宇喜多氏、毛利氏、三村氏による争奪戦が繰り返されました。
整備されている地元の方に感謝、歩きやすい城でした。
【見どころ】
・番所跡の石垣
・井戸跡
・主郭先の二重堀切
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2025/06/20 05:56
(東海&関西)遠征9日目:野間城 (2025/05/23 訪問)
地黄城から車で5分くらいで、圓珠寺参拝用駐車場(34.943296、135.456190)に着き、そこから徒歩5分くらいで農道アクセスポイント(34.942851、135.456618)に着きました。
野間城は、1168年(仁安3年)に野間高頼によって築かれたと云われています。
詳細は定かでないようですが、多田源氏の嫡流摂津守頼盛の子高頼が野間氏(能瀬氏とも)を称し、この地に本拠を置いたようです。
天正年間(1573年〜1592年)には野間資持が在城していたと云われ、丸山城主能勢頼次、余野城主余野高綱ともに能勢三惣領の一つとされ、能勢氏と行動を共にしていたと考えられるそうです。
主郭部には土塁が巡らされ、北側の土塁上には白髭稲生神社跡があります。
攻城時間は35分くらいでした。本日の城巡りは、ここがラストです。
本日の宿泊先に行く為、亀岡駅でレンタカーを返却し、亀岡駅から電車で加古川駅に向かいました。
歩行歩数=37170歩、歩行距離=26.0Kmです。
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2025/06/20 05:50
(東海&関西)遠征9日目:地黄城 (2025/05/23 訪問)
丸山城から車で2~3分で、真如寺参拝用駐車場(34.958331、135.461302)に着き、そこから徒歩2~3分で地黄城入口(34.957368、135.460875)に着きました。
隣接した場所の駐車場は、平日は閉鎖されてますので、真如寺参拝用駐車場にとめさせてもらいました。
1602年(慶長7年)能勢頼次によって築かれました。
能勢氏は清和源氏頼光流で、山県国直の子国基が能勢郡田尻荘の地頭となり能勢氏を称したそうです。
1578年(天正6年)21代城主であった能勢頼道は荒木村重に同調し、織田信長に反旗を翻したり、明智光秀の本能寺の変に加担したともいわれ、一時領地を失いました。
関ヶ原合戦で能勢頼次は東軍に属して戦功があり、旧領を回復した際、丸山城を廃城し1602年(慶長7年)地黄城の築城しました。
敷地全体が立派な石垣で囲まれていました。
特に入り口部分の、かつて大手門だったところの石垣が素晴らしい。
大手門の内部は枡形になっていて、防御力も高そうな構造です。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=野間城に向かいました。
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2025/06/20 05:45
(東海&関西)遠征9日目:丸山城 (2025/05/23 訪問)
籾井城から車で30分弱で、説明板前の空スペース(34.959441、135.459672)に着きました。
登城口は3か所あるようです。自分は説明板前の空スペースに駐車したので、②ルートを選択しました。
①南側の石造九重塔から大手道を進む方法
②案内板付近にある入口(34.959688、135.459643)
③道が若干わかりにくいが北側から入る方法
築城年代は定かではないようですが、長元年間(1028年〜1037年)能勢頼国によって築かれたと云われています。
能勢氏は清和源氏頼光流で、山県国直の子国基が能勢郡田尻荘の地頭となり能勢氏を称したそうです。
1578年(天正6年)21代城主であった能勢頼道は荒木村重に同調し、織田信長に反旗を翻したり、明智光秀の本能寺の変に加担したともいわれ、一時領地を失いました。
関ヶ原合戦で能勢頼次は東軍に属して戦功があり、旧領を回復しましたが、1602年(慶長7年)地黄城の築城に伴い廃城となりました。
②ルートを選択しましたが、お薦めできません。階段的なものはありますが、郭に着くまで草木と格闘です。
竪堀、土塁などが確認できますが、主郭には案内板など何もありません。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=地黄城に向かいました。
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2025/06/20 05:39
(東海&関西)遠征9日目:籾井城 (2025/05/23 訪問)
淀山城から車で10分弱で、禅昌寺手前空スペース(35.072690、135.347073)に着きました。
築城年代は定かではないようですが、永正年間(1504年〜1521年)籾井照綱によって築かれたと云われています。
織田信長の命を受けた明智光秀によって、1576年(天正4年)、1577年(天正5年)と二度にわたる攻撃を受けて、籾井城は落城し、籾井氏も没落しました。
黒井城主赤井(荻野)直正が波多野氏の赤鬼と呼ばれたのに対して、籾井城主籾井教業が青鬼と呼ばれ勇猛な武将として伝承されていますが、教業に関してはその実在が疑われているようです。
籾井川沿いから山に登る図がインターネットにあったので、川沿いを歩きましたが、金網で上に登る道がありません。
戻って墓方向に歩いてみましたが、ここも上に登る道がわからず、時間も押していたので攻城を諦め麓で撤収しました。
家に戻り、調査したところ籾井川と墓方向の道の中間辺りに城跡公園に登る道があることがわかりました。
入口は分かりづらいみたいですね。
攻城時間は25分(城跡公園に行く道を捜した時間になります)をくらいでした。次の攻城先=丸山城に向かいました。
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