みんなの投稿

検索結果・・・「」を含む投稿

しんちゃん

南二郭・主郭の石垣 (2025/04/07 訪問)

さあ合戦が始まりました。目指せ初勝利! 暑くなって来ましたね~、しばらく山城攻めはしんどくなりそうです。
南二郭の南方には複数の郭があり、それぞれの郭が石垣の上に築かれています。尾根上に北上して行くと、南北に長い南二郭がありますが石垣は崩壊しつつあるため、西の帯郭から郭に上がります。郭内には礎石らしい石が散見され、さらに北上して行くと主郭にたどり着きます。主郭の石垣も崩壊しつつあるようですが、部分的に形状を留めています。主郭や南二郭の西側にも郭らしき場所があるようですが、はっきりと形状を確認することは出来ませんでした。このあとは南曲輪虎口を目指すことにしました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

カズサン

二本松城-5/6 本丸石垣城塁南面東面編 (2025/06/06 訪問)

 二本松城-4/6 本丸Ⅱ編の続です。

 本丸に東の乙森駐車場に駐めて本丸虎口桝形階段から進行し、天守台、東櫓台、西櫓台、本丸内部探訪し自尽の碑供養塔に参拝合掌の後、本丸石垣城塁の探訪へ、南面、東面の写真投稿致します。

 二本松城-6/6 本丸石垣城塁西面北面編に続く。
 

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

朝田 辰兵衛

元館跡にも行ってみました… (2025/06/15 訪問)

グーグルマップで約400m南に「黒岩城(元館)跡」と表記された場所がありましたので行ってみました。もともと大迫城を散策する予定でしたので,スケジュール的には余裕がありましたので…。
「黒岩城(元館)跡」には標柱もパネルもありませんでしたが,広い土塁上の曲輪となっていました。

本日昼前,キャンセルが出たのか,北上の東横インにシングルのアキが,今週末1部屋出ました。速攻でリザーブしました。ホントは花巻駅前のホテルを狙っていたのですが,この際そんなこと言ってられません。大迫城を落としに向かいます。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

イオ

北田原城(奈良県生駒市北田原町イモ山) (2025/02/23 訪問)

北田原城(城びと未登録)は、南に清滝街道、西に磐船街道を見下ろす交通の要衝に位置し、詳細は不明ながら坂上丹後守の城と伝わります。

大阪府中世城館事典(戎光祥出版)において田原城とセットで紹介されていたこともあり、田原城に続いて登城しました。田原城の北東約1.5kmに位置し、駐車場はないので北田原町交差点付近の道路脇に路駐して登城開始。主郭南西麓の谷筋から登城できるようですが、民家の間にあるはずの登城口を見付けられず、やむなく南西尾根西麓の墓地から直登しました。西辺に土塁をめぐらせた中腹の帯曲輪でひと休みし、さらに直登して何とか南西曲輪に到達。しかし、たどり着いた南西曲輪は藪に沈んでいてほとんど探索できず、北側の虎口と藪の中に墓所を確認できたくらいでした。

南西曲輪東端の土塁を乗り越えた先は南曲輪との間の堀切になっていて、南曲輪の虎口へと続く土橋が架かっています。土橋の南側で堀切は竪堀となって落ちていました。また、南曲輪の南裾から東裾にかけては(藪と落葉でわかりづらいものの)10数条の畝状空堀群が設けられています。土橋まで戻って南西部の虎口から南曲輪へ。南東辺には巨大な櫓台が直下の畝状空堀群を見下ろしていました。南曲輪は南西曲輪ほどには藪化していませんが、北端まで来ると一気に主郭方向の視界が開けます。南曲輪と主郭の間には堀切があり、堀切の西側は谷筋への道へと続いています。想定ではここに登ってくるはずだったんですね。

主郭には送電鉄塔が建てられ、大幅に改変されていることは承知していましたが、手持ちの縄張図では鉄塔は主郭の中央部に描かれているところ、現在は主郭の西辺から西裾の帯曲輪にかけて移設されています。その際に西裾の帯曲輪も改変されたようですが、帯曲輪北西端の櫓台はかろうじて破壊を免れていました。

主郭からは南方向のほか北東と北西に支尾根がのびていますが、まず北西尾根の堀切まで下りて、そこから北東尾根に向かおうとするも、藪に加えて堆積した落葉で滑落しそうになり断念。この先に堀切や竪堀、竪土塁など見応えのある遺構があるはずなんですが…。やむを得ずそのまま北西尾根の曲輪群をたどって、北西端から下山しました。南側からだと遠回りになりますが、北西からの登城ルートが一番わかりやすいように思います。

北田原城は、縄張図で見る分には見応えある遺構が多そうなんですが、藪化により実際に目にすることができるものが限られてしまうあたり、もったいない城でした。
 

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

(東海&関西)遠征6日目:壷笠山城 (2025/05/20 訪問)

穴太駅から徒歩35分ちょっとで、分岐点付近(35.056781、135.8502343)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、織田信長に敵対した朝倉・浅井連合軍が立て籠もった城です。
1570年(元亀元年)朝倉義景と浅井長政の連合軍は本願寺と結んで志賀郡へ侵攻し、織田信長の家臣森可成が籠もる宇佐山城を攻め、坂本へ出陣してきた森可成を討ち取りました。
摂津にいた織田信長はこの知らせを聞いて京へ急ぎ戻ると、宇佐山城を落とせなかった連合軍は「はちが峯」、「あほ山」、「つぼ笠山」に布陣しました。
この「つぼ笠山」が壺笠山城のようです。織田信長と朝倉・浅井連合軍との対峙は膠着状態となり、4か月後に和議となりました。
その後、坂本を領した明智光秀により修復された可能性も指摘されていますが詳細は不明のようです。

墓地の中にある穴太野添古墳群の道をひたすら進み、分岐点付近(35.056781、135.8502343)では進入禁止の看板のある方向へ進みます。
少し歩くと右手に黄色いテープが見えたら、そこが登り口なのですが、 この黄色いテープ捜しました。(分岐点到着から15分後に発見。また時間のロスです)
黄色いテープのが登り口から道なりに進むと主郭に着くとのことで、反時計回りに登り始めました。
10分ちょっと登った所で、選択した道があっているか方向音痴の自分には自信がなく、迷子の恐れと日没で暗くなった為、途中で断念しました。
攻城時間は45分くらいでした。本日の城巡りは、ここがラストです。
本日の宿泊先に戻る為、穴太駅から電車で、びわ湖浜大津駅に向かいました。
今日は散々な攻城日でした。
坂本城の石垣は見れず、JR湖西線の遅延、レンタサイクルは普通自転車で移動時間が計画オーバ、田中城での忘れ物、清水山城へのGPS設定ミス、壷笠山城で迷子になりかけた等。
明日はいい攻城ができますように!!
歩行歩数=35781歩、歩行距離=25.0Kmです。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

(東海&関西)遠征6日目:清水山城 (2025/05/20 訪問)

田中城(城びと未登録 滋賀県高島市)から自転車で45分くらいで、新旭森林スポーツ公園奥の防獣柵前(35.357236、136.024478)に着く予定が、GPS投入誤りで自転車でさえ通れない場所に着いてしまいました。
少しウロウロしましたが、レンタサイクルの返却時間も迫っているので、説明板前(35.357346、136.027092)に向かい、説明板の写真を撮って撤退することにしました。

築城年代は定かではないようですが、佐々木一族の越中氏(高島氏)によって築かれました。
越中氏は後に別れた高島七頭の惣領家で、戦国時代には浅井氏と結んで織田信長と敵対して敗れ滅びたそうです。

機会があればリベンジする予定です、近くまできたので仮攻城とします。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=壷笠山城に向かう前にびわ湖高島観光協会(新旭駅)で自転車を乗捨て、新旭駅から電車で穴太駅に向かいました。

+ 続きを読む

昌官忠

(東海&関西)遠征6日目:田中城(城びと未登録 滋賀県高島市) (2025/05/20 訪問)

船木城から自転車で45分くらいで、案内板付近(35.328082、135.988858)に着き、その後、城址進入口(35.328386、135.987420)に向かいました。

築城年代は定かではないようですが、鎌倉時代後期に田中氏によって築かれました。 田中氏は高島七頭の一人です。
1570年(元亀元年)織田信長が越前朝倉氏を討つ為、「田中の城」に泊まったという記述があり、その軍勢にはのちの豊臣秀吉・徳川家康もいたと伝わっています。
田中城は1573年(元亀4年)に信長によって攻略され明智光秀の支配を受けて終焉を迎えました。
また、近年発見された米田家文書には、若かりし頃の明智光秀が籠城した記述があり、明智光秀とのかかわりが注目されています。

土塁・土橋・堀切等の遺構が確認できます。
下城した後で忘れ物に気づき、再登城。時間の大幅ロスです。(この時点で2時間オーバ)
城びと未登録城の攻城をスキップしても2時間のリカバリは無理そうです。
攻城時間は95分(再登城分含む)くらいでした。次の攻城先=清水山城に自転車で向かいました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

(東海&関西)遠征6日目:船木城 (2025/05/20 訪問)

大溝陣屋(城びと未登録 滋賀県高島市)から、自転車で45分くらいで、願船寺入口前(35.326215、136.068040)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、高島七頭の一人、佐々木師綱によって築かれたと云われています。

現在は願船寺となっていて、船木城出丸の石碑を捜しましたが見つけられませんでした。犬に結構吠えられました。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=田中城(城びと未登録 滋賀県高島市)に自転車で向かいました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

(東海&関西)遠征6日目:大溝陣屋(城びと未登録 滋賀県高島市) (2025/05/20 訪問)

大溝城から自転車で2~3分くらいで、大溝陣屋総門前(35.295081、136.011113)に着きました。

大溝城の跡地の一部に1619年(元和5年)、伊勢上野から分部光信が20,000石で入部し大溝藩となりました。
その際、織田信澄時代の大溝城の武家屋敷の門であったものを総門として、武家地と町屋地を分ける門として使われました。
その後、1755年(宝暦5年)に前身の門の部材を再利用して現在の門が建てられたとされます。
分部氏は明治維新まで11代の大溝の藩主でした。明治に入り、総門は民間に払い下げられましたが、2005年(平成17年)に高島市が買い取り、2022年(令和4年)より復元工事が開始され2024年(令和6年)完成しました。

総門以外に陣屋の遺構は無いです。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=船木城に自転車で向かいました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

(東海&関西)遠征6日目:大溝城 (2025/05/20 訪問)

打下城から自転車で5分くらいで、大溝城入口付近(35.293450、136.012477)に着きました。

1572年(元亀3年)織田信長が高島郡に進攻すると、1579年(天正7年)織田信澄(津田信澄)が高島郡を領し、明智光秀の縄張りで大溝城が築かれました。
1582年(天正10年)本能寺の変で信澄は明智光秀の娘を正室にしていたことから、大坂で殺害されてしまいます。
信澄の後には、丹羽長秀・加藤光泰・生駒親正・京極高次と目まぐるしく城主が替わりますが、京極高次が近江八幡へ転封となった後は無城主となったそうです。
1619年(元和5年)分部光信が伊勢国上野より20,000石で入封しましたが、元和の一国一城令の対象となり、三の丸を残して大溝城を破壊しました。
分部氏は三の丸に陣屋を構え、11代続き明治維新を迎えました。

天正前期と思われる野面積みの天守台が、崩れつつもしっかり残っています。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=大溝陣屋(城びと未登録 滋賀県高島市)に自転車で向かいました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

(東海&関西)遠征6日目:打下城 (2025/05/20 訪問)

事前に、びわ湖高島観光協会でレンタサイクルを予約していたので、JR近江高島駅構内観光案内所に向かいました。
JR近江高島駅構内観光案内所でレンタルできる自転車は普通車のみ(電動はありません)です。
5月15日の豊橋での悪夢が脳裏をかすめます。(城跡間に登坂があると恐怖です。移動時間が計画より多くなりそうです)
JR近江高島駅構内観光案内所から、自転車で2~3分くらいで、打下城跡登山口標識付近(35.291998、136.006763)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、永禄年間(1558年〜1570年)に林與次郎左衛門員清によって築かれたと云われています。

永禄年間(1558年〜1570年)頃は小谷城主浅井氏に従っていました。
1570年(元亀元年)浅井長政が織田信長を離反した後、1572年(元亀3年)織田信長が朝倉・浅井軍を追い込むと、打下城主の林員清は信長に降伏しました。
1575年(天正3年)林員清は越前国北之庄にて信長によって切腹を命ぜられたそうです。
その後は磯野員昌の養子となっていた織田信長の甥信澄が、1578年(天正6年)信澄が大溝城を築くまで居城としていたと云われています。

獣害防止柵を開け砂防ダムを越え川沿いを進みますが、滑落の危険があると感じた細い道が数ヶ所あるので気を付けて進みます。(自分は少し高所恐怖症気味です)
曲輪、堀切、土塁、石積、虎口などは確認できましたが、説明板はみていません。(先人の方の写真ではあったはずですが・・)
攻城時間は95分くらいでした。次の攻城先=大溝城に自転車で向かいました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

(東海&関西)遠征6日目:坂本城 (2025/05/20 訪問)

ホテル最寄りのびわ湖浜大津駅から電車で松ノ馬場駅に着きました。
松ノ馬場駅から徒歩15分ちょっとで、本丸跡石垣付近(35.059633、135.879786)に着き、その後、坂本城址公園の光秀像付近(35.058450、135.878787)に向かいました。

坂本城は今回2回目の攻城です。1回目は2019年9月2日に来ました。
前回は坂本城の移築門(西教寺総門)を中心に攻城しましたので、今回は本丸跡石垣を目的に攻城しました。

坂本城址公園の北側に「坂本城本丸跡」の石碑が立っています。
この本丸跡にある施設の湖側に本丸石垣が残っていますが、琵琶湖が渇水で水位が下がったときにしか見ることができません。
自分はみることができませんでした。
電車の時間が迫っていたので早めに撤退し、攻城時間は15分くらいでした。
次の攻城先=打下城を攻城する為、比叡山坂本駅から電車でに近江高島駅に向かいました。
比叡山坂本駅から近江高島駅に向かうJR湖西線が、京都方面の駅で線路に人が進入した影響で、20分遅れでした。(事前にわかっていたら、ゆっくり坂本城が見学できたのについてません)

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

(東海&関西)遠征6日目:大津宿本陣跡 (2025/05/20 訪問)

宿泊先のホテルの朝食前に、大津城と大津宿本陣跡を攻城しました。
大津城から徒歩5分くらいで、大津宿本陣跡(35.005970、135.861474)に着きました。

旧東海道(県道558号)の一画に石碑や説明板などがあります。
攻城時間は5分(移動時間含む)くらいでした。次の攻城先=坂本城を攻城する前に、ホテルに戻り朝食を食べます。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

(東海&関西)遠征6日目:大津城 (2025/05/20 訪問)

宿泊先のホテルの朝食前に、大津城と大津宿本陣跡を攻城しました。
ホテルから徒歩10分くらいで、三の丸尾花川口跡(35.013686、135.859864)に着き、その後、大津城石碑前(35.012052、135.864251)➡外堀石垣跡前(35.008491、135.863579)の順番に巡りました。

大津城は今回2回目の攻城です。1回目は2019年9月2日に来ました。
前回は大津城の石碑のみの攻城でしたので、今回は遺構である外堀石垣跡を目的に攻城しました。

遺構はほとんど残っていませんが、大津祭曳山展示館の裏手に外堀の石垣がわずかに残っています。近くに寺田屋お登勢の実家・升屋跡もありました。
また駅の歩道橋を琵琶湖側に降りたところに大津城跡の石碑があります。
攻城時間は25分(移動時間含む)くらいでした。次の攻城先=大津宿本陣跡に徒歩で向かいました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

朝田 辰兵衛

曇り予報で油断していたらにわか雨が… (2025/06/14 訪問)

岩手県はこの日,一日中曇りの天気予報で安心しきっていました。ところが登城開始直前からにわか雨に見舞われ…。登城口の鳥居の前は獣除けフェンスが張られており,上中下の3点の針金をほどいて突入します。登城終了時に現状復帰するのが大変でした…。
ここがこれまで未投稿だった理由はもうひとつ。そもそも登城口までたどり着けなかったことではないかと思います。岩手県道160号線の「遠野ふるさと村」を北上すると「火渡の石碑群」が左手(西側)に見えてきます。さらに約200m北上すると右手(東側)の集落入口が見えてきます。ここを曲がります。突き当たって左手(北側)に鳥居が見えます。ここが登城口。
火渡館ですが,雨天時や雨上がりはかなりスリッピーなので慎重に。見どころは主郭背後の三重堀切と登城道右手(東側)の空堀。とくに主郭背後はキレイに遺構が残っています。

これで岩手県の未投稿城は大迫城のみとなりました(不発弾がなければ…)。昨日から降り続いた雨で,足元はぬかるみ,モヤが立ち込めており,条件の悪さを感じました。さらに,花巻市街地に出没したクマが山間部へと逃げ込んだとニュースになっており,本日トライする予定でしたが断念しました。どなたかおいしいところを持って行ってもかまいません。すでに晴天予報の次週のホテルは満室でしたので…。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

にのまる

春の18きっぷ初日③ (2025/03/22 訪問)

岩国城見学を終え、東へコマを進めます。
次に行くのは亀居城。みなさまのご投稿を読み、【行ってみたい♡チェック】していました。

亀居城は山陽本線で大竹と玖波のちょうど真ん中あたりなので、岩国→(電車)→大竹→(徒歩)→亀居城→(徒歩)→玖波と移動することにしました。

亀居公園“詩の坂道”から入城しました。上り坂ですが、そこまでキツくないです。
亀の形に似ていることから亀居城と呼ばれるようになったという謂れがあるそうですが、郭の数も多く形も複雑で、ぱっと見ではとても覚えられません。迷路を探検しているみたいでした。何度も同じところを行ったり来たりして何とか全ての郭をまわりました。捨の丸や名古屋丸の雰囲気がすてきでした。刻印石もたくさんあってそれらを見るのもおもしろかったです。

帰りは東側の出口から出て予定どおり玖波へ徒歩で向かいました。
列車のダイヤが乱れていましたが、この日最後のお城へ向かいます。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

ぎりょう

北上・花巻市訪問② 花巻城現存遺構 円城寺門に感動! (2025/06/08 訪問)

所属する古文書の会移動研修、北上・花巻市探訪の二城目は花巻城。今回は和賀・稗貫氏の中世城館の探訪と考えていましたが、現在目にできる「花巻城跡」は、奥羽仕置後に浅野氏が稗貫氏時代の縄張りを改修、南部領となり郡代の北秀愛やその父信愛、南部利直の子政直によって更なる改修が行われた姿です。北から本丸、二ノ丸、三ノ丸を南に向けて梯郭式に配置し、切岸、土塁、水堀によって守る構造はまさに近世城郭の姿です。南部・伊達藩境に位置した花巻城はまさに南部氏の仙台伊達氏を意識した姿と感じます。
見学は三ノ丸大手門跡(花巻市役所本庁舎前)から、円城寺山門(かつての二子城追手門を移築)へ、さらに二ノ丸から本丸へと徒歩にて移動。ここでも地元のNさん、Iさんが同行してくださり、場所ごとに詳細な説明をしていただきました。今回の移動研修も会員の半数に近い三十数名が参加、大型バスでの移動となりました。花巻城跡近辺にバスの駐車場がなく、花巻市観光課の計らいで、城跡に近い民間施設の駐車場を手配していただきました。本当に毎度地元の皆様のご親切には頭が下がります。
城跡の詳細はかつて投稿済なので省略しますが、本丸の土塁、堀、舛形虎口跡、櫓台、馬出などの遺構は残っていますが、二ノ丸、三ノ丸はすっかり市街地化されています。しかし遺構の残る場所ごとに説明看板が設置されており、花巻市の観光政策にも感心した次第。
また、花巻市博物館には花巻城の復元模型や関連資料が展示されています。ぜひこちらも訪問したい場所ですね。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

しんちゃん

赤松ファミリー (2025/04/07 訪問)

感状山城は鎌倉時代に瓜生左衛門尉によって築かれたとされています。南北朝の時代には播磨国守護・赤松氏一門の居城となり、赤松円心は足利尊氏の側につきました。尊氏が九州へ落ちのびた後、建武3年(1336)に新田義貞の大軍が播磨に侵攻してきます。
円心は白旗城に籠り、感状山城には円心の三男の赤松則祐が籠りました。則祐は義貞の家臣・徳力秀隆を退けることに成功し、尊氏から感状を賜ったことから感状山城の名が付いたとされています。
「羅漢の里」の近くに専用の駐車場があり、登城道も付いています。途中に「へたれガンダム」系の木造のオブジェが数体あり、訪問者を出迎えてくれます。しばらく登って行くと物見岩と言われる、岩がごろごろ転がっている見張台らしき郭があり、三郭らしき場所から東へ登って行くと主郭のある尾根にたどり着きます。主郭から二郭周辺の郭は周囲を石垣で固めてあり、見ごたえがあります。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

T-Shionoya

住宅地に浮かぶ大高城 (2025/04/12 訪問)

無意識ながら気付けば桶狭間つながり。
沓掛城の翌週に訪れたのは愛知県名古屋市の大高城。

伊勢湾に面した知多半島西岸のつけ根、大高川河口部の標高約20mの高台に築かれた城。
歴史的には桶狭間の戦いに大きく関与した城砦の1つ。

城主は、1500年代初期が花井備中守、続いて水野氏の一族が入るが、桶狭間前に今川方の手に落ちて義元が鵜殿長照を配置。
桶狭間の後は廃城となるが、江戸期は尾張藩家老の志水氏が三之丸に居住したとのこと。

現在は大高城跡公園となり、堀や土塁の損失はあるものの、本丸から三之丸までおおよそのかたちを残す土の城跡。

訪問時は北側から入城し、約1時間半滞在。
二之丸は眺望があり、住宅地の先には大高城攻めの砦が築かれた丘。
本丸南下には現在曲輪が広がるが、近年の調査で幅15mの堀が確認され、その埋没した堀の西端には薄っすら土橋らしきものが存在。
そして正真正銘の土橋が架かる三之丸北東の堀は、1560年に廃城とするには惜しい規模に感じられた、私の城郭巡りの202城目でした。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

しんちゃん

尼子氏最期の城 (2025/04/07 訪問)

上月城は天正5年(1577)と6年(1578)の二度に渡って凄惨な戦いに巻き込まれています。一度目は織田方の羽柴秀吉による侵攻によるもので、城主は毛利方の赤松政範でした。上月城は程なく落城しますが、その際に秀吉は城内の者に対して、かなり残酷なことをやらかしているようです。
その後、上月城には尼子勝久・山中鹿介主従が入りますが、天正6年4月には毛利方の小早川・吉川勢の大軍に包囲され、信長が秀吉に撤退を命じたため上月城は孤立無援に陥り落城、尼子勝久は切腹し尼子氏は滅びました。

歴史の重みをひしひしと感じますが、城址は意外なほどにコンパクトです。川の対岸に歴史資料館があり、車はそこに駐車することが出来ます。東から登城道が付いていて、いくつかの腰郭と堀切を過ぎると、主郭にたどり着きます。主郭にある供養塔は最初に落城した際に落命した赤松氏らを弔ったもののようです。主郭から西へ尾根沿いに進んでいくと二の丸となり先には堀切があり、そのまま下ると城址の西側に降りてくるので、歩いて駐車場まで戻ります。
堀切もだいぶ埋まっていて、尼子氏最期の城としては「地味」な印象もありますが、山城としては訪問しやすい方なので、その分「情緒」を楽しむことが出来ると思います。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

ページ22