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飛騨市

飛騨神岡の城めぐりオータムキャンペーン2025

飛騨の夏も過ぎ、涼やかな秋の季節、飛騨の城をめぐってみませんか?


江馬館と神岡城の共通入館券(おとな300円)をお買い求めいただいた方には、
高原郷土館・江馬館の2館を入館された方に名勝江馬氏館跡庭園の見どころ・見方がわかる特製クリアファイルをプレゼントします。


詳細は、飛騨市公式観光サイト「飛騨の旅」内以下リンクをご参照下さい。

https://www.hida-kankou.jp/event/856

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イオ

小牧長久手の戦いの砦めぐり(岩崎山砦・田中砦・二重堀砦) (2025/06/01 訪問)

(続き)

岩崎山砦(小牧市岩崎)
熊野神社が建つ岩崎山に築かれた砦で、稲葉一鉄・貞道らが4千の兵で守ったとされます。南西麓の岩崎中会館の前に岩崎山砦跡の石碑と説明板が立てられていました。岩崎山の頂部からは小牧山城をすぐ近くに望むことができます。また岩崎山は花崗岩の岩山であるため、名古屋城石垣の石切場になっていて、矢穴のある石も見られました。

田中砦(小牧市東田中)
三ツ山古墳群の三基の古墳を利用して築かれた砦で、堀長政、蒲生氏郷、加藤光泰らが1万3千の兵で守ったとされます。三基の古墳のうち南端の三号墳のみが現存し、北裾に田中砦跡の石碑と説明板が立てられています。往時は岩崎山砦から田中砦を経て二重堀砦まで土塁が築かれていたようですが、現在では痕跡も見られません。

二重堀砦(小牧市二重堀)
小牧山城に最も近い最前線の砦で、日根野弘就らが2千の兵で守ったとされます。二重堀の地名が残る住宅地の一角に日根野備中守弘就砦跡の石碑が立てられていますが、現在地に移設されたものであり、遺構は耕地整理により消滅していて砦の所在地も不明のようです。

さて、この後は小牧山城に攻め込むつもりでしたが、6つの砦めぐりに思いのほか時間を要したため、またの機会に徳川軍の砦と一緒にめぐることにして、金龍紀行の一環として別の機会に行く予定だった清洲城に行先変更。犬山城や青塚砦は昨年に登城済みなので、これで城びとの記事で紹介されていた楽田城周辺の羽柴軍の城や砦は全部行けたよな、と思って帰宅して記事を読み返してみると…小口城を見落としてた~っ! 清洲城より小口城に行くべきでした…やれやれ(この日二度目)。
 

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todo94

日帰りドライブで北陸の城めぐり④ (2025/09/27 訪問)

小丸山城からの転戦です。能登地震によって発売延期されていた七尾城の城カード、七尾城史資料館にてゲットしました。資料館のCG映像や展示を拝見してから本丸駐車場へと向かいます。もう少し涼しい季節に訪れることができたら麓からの登城にもチャレンジしてみたいと思います。好天の下、上杉謙信も絶賛した本丸からの眺望を楽しむことができました。二の丸、三の丸、安寧寺と散策コースを進みましたが、袴腰の先は通行止めとなっているので、来た道を引き返すしかありませんでした。

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しんちゃん

上杉姓氏発祥之地 (2025/07/01 訪問)

八田城から西に程なく行ったところ、国道27号線と県道481号線が交差する付近に「上杉姓氏発祥之地」の石碑があります。交差点の名称は「上杉」いいセンスしてますね。
八田城の詳細はよく解らないのですが上杉氏の城のようです。麓は居館跡の様な扁平地になっていますが、いつの時代の物かは不明。尾根沿いに登って行くと水道施設があり出丸のような雰囲気が有ったような気がします。主郭西手に堀切があり目の前に主郭が立ちふさがっています。

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小城小次郎

武茂氏ゆかりの門 (2025/02/25 訪問)

武茂城の両側に東城・西城を従えて三城一体となっていたらしいが武茂城しか訪ねたことはない。武茂城と東城に挟まれた乾徳寺の山門は武茂氏ゆかりの門らしい(武茂城の門だったという決定打はないそうだが)。

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しんちゃん

細川親子 (2025/07/01 訪問)

田辺城の櫓門は田辺城資料館、隅櫓は彰古館として公開されています。内容は細川藤孝にまつわる物が多く、文武両道を極めた古今伝授の継承者であり優れた文化人であることが伺えます。息子の忠興は気が短いことで知られ残虐なエピソードも多く残りますが、千利休に師事し利休七哲の一人に数えられています。また武家茶道の一つ、三斎流の祖とされ門人も多くいたようです。家康の影響か薬学にも通じていたとされ、徳川秀忠の奇病が万病円で回復した時に寄生虫(寸白)が原因であると見ぬいています。とはいえ万病円にはヒ素や水銀が含まれていて荒療治どころか寿命が縮みかねないわけですが。

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しんちゃん

熊も猿も出なかったよ。 (2025/06/30 訪問)

主郭や南の郭の周辺には石積みらしき跡があるけど詳細は不明。切石らしきものもあるけど年代や石積との関連は不明です。
研究者の皆さん、リターンマッチ期待してます。「城山たんけんたい」のパネルを見ると皆小学生ぐらいですな。道順さえ解れば小学生でも登れますぞ。とりあえず熊と猿は出ませんでした、今回は。西日本の熊は人が近づくと逃げてくれるけど東北の熊はどうかしてる。
クマスズを付けていても逃げずに襲ってくるんじゃないのか? 訪問はしばらく無理だけど、東北の山を攻める時にはポリスマグナムを装備していこうと思っています。カウンターアソールトは正直なところ危ないんじゃないか? ネットを見るとカウンターアソールトをニホンザルに噴射しているドアホウがいるけど、ただの動物虐待だぞ。ただ東北の熊はちょっと普通じゃないのでポリスマグナムで対応できるのか少し不安だ。

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イオ

小牧長久手の戦いの砦めぐり(内久保砦・久保山砦・小松寺山砦) (2025/06/01 訪問)

犬山城から楽田城に移った羽柴秀吉は、徳川家康が籠る小牧山城と対峙するため、楽田城の周囲に多くの砦を築いています。城びとの記事「秀吉VS.家康 小牧・長久手の戦いを知る」を読んで以来、いつか行ってみたいと思っていましたが、その中に金森長近が守将となった砦もあるようなので、金龍紀行も兼ねて小牧長久手の戦いの砦めぐりです。

内久保砦(犬山市内久保)
三明神社のあたりが砦跡とされ、蜂屋頼隆、金森長近らが3千の兵で守ったとされます。参道に内久保砦ののぼり旗が立てられていましたが、遺構はもとより石碑や説明板も見受けられませんでした。

久保山砦(小牧市久保一色)
外久保砦とも。熊野神社と裏山が砦跡とされ、丹羽長秀が守ったとされます。社殿の左脇に久保山砦の説明板が、左手から裏山に続く道沿いに石碑が立てられています。長久手の戦いの後には秀吉が楽田城から久保山砦に移って全軍を指揮したと伝わることから太閤山とも呼ばれ、頂部には豊臣軍ののぼり旗が翻り、秀吉の本陣風に整備されていました。砦跡の西側斜面には二重の竪堀状の地形が見られますが、久保山砦の遺構でしょうか?

小松寺山砦(小牧市小松寺)
小松寺山一帯に東西2か所の砦が築かれ、三好秀次、丹羽長重(長秀とも)らが守ったとされます。東砦は住宅地となって何の痕跡も見られませんが、西砦は小松寺の数段の削平地が砦跡のようです。本堂東側上段の八所社・熊野社合殿の手前に小松寺山砦の説明板と石碑があり、背後には土塁っぽい地形が見られました。小松寺山砦の遺構…かなぁ?

(続く)
 

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todo94

日帰りドライブで北陸の城めぐり③ (2025/09/27 訪問)

御舘館からの転戦です。今回、北陸への日帰りドライブを強行したのは、七尾市美術館にて長谷川等伯展が開かれていることを知ったからなのです。安部龍太郎の直木賞受賞作「等伯」を読了しているので長谷川等伯には思い入れがあるし、2024年元日の地震以後、休館していた七尾市美術館がこの9月20日に営業再開したばかりというのも強い動機付けとなっています。圧巻の国宝・松林図屏風はトーハクの国宝コーナーでも見たことがあるのですが、等伯の故郷での鑑賞は、また一味違った感動がありました。京に出る前に描いていた仏画も非常に興味深かったです。

ということで、美術館の近くにある小丸山城は完全におまけでした。昔あったはずの利家とまつの銅像が見当たりませんでした。どうやら、小丸山城の本丸から花嫁のれん館の駐車場に移されてしまったようです。残念。

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赤い城

裏山に土塁 (2025/08/09 訪問)

東岡崎駅からバスで30分、奥殿松平氏の陣屋です。
駐車場もあります。
陣屋のとなりにはヒマワリ畑がありますが時期的に見頃は終了してました。
洋風の庭園も隣接しています。

移築された書院では休憩も可能です。
裏手には日本庭園があり、綺麗に整備されています。
隣接する金鳳亭では食事もできます。

裏手の山には藩主の墓所があり、途中に土塁と空堀が施されています。
これ、防御のためだけではなく山からの水害を防ぐ目的もあったようです。

陣屋内には三河花火資料館などもあり帰りのバスの時間待ちでぶらぶらとしてみました。

【見どころ】
 ・陣屋と墓所の間の空堀と土塁

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しんちゃん

細川藤孝(幽斎) (2025/07/01 訪問)

田辺城は別名舞鶴城と呼ばれています。周囲を河川に囲まれ北は舞鶴湾に面し、南は広大な沼沢(湿原)地であり要害の地に築かれていたようです。徳川家康が会津征伐を決定すると細川忠興は手勢を率い参陣します。その後、石田三成ら西軍が蜂起すると大阪方は東征大名の奥方を人質に取ろうとしますが、忠興の妻ガラシャはそれを拒み家臣に自らを殺害を命じました。
大阪方は本拠の細川藤孝を討つため福知山城主小野木重勝を大将として一万五千余の軍を差し向けますが、五百の守備兵で守る田辺城は容易には落ちず「古今伝授」の継承者である藤孝の身を案じた朝廷の勅使により双方が兵を退くという名誉の開城に至りました。

田辺城は本丸と二の丸が時計回りに繋がる渦郭式で、その周囲を三の丸が取り巻いていました。現在は舞鶴公園として整備されており櫓門と隅櫓が再建されています。北側に本丸の石垣が残っているとされ、東側に二の丸の石垣も残っているようです。

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しんちゃん

複数の郭と堀切。 (2025/06/30 訪問)

市山城は山頂一帯に主要な郭があり、東・北・南の三方に郭が配されているようだ。今回の訪問では郭の少ない北側をパスし、それ以外の郭を訪問した。尾根沿いに登って行くと主郭の東側に複数の郭を確認し、堀切も残っているようだった。
主要部には土橋が付いていたと思う。主郭には加工の跡と思しき石が幾つか見られた。周囲には石積みらしいものもあり、ここで石を加工していたのだろうか? 南側にも郭が有るので見に行くことにした。

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朝田 辰兵衛

安城古城から徒歩で…🐾 (2025/08/10 訪問)

安城古城から徒歩で向かいましたが,時間を測るのを失念してしまいました。感覚的には,約15分くらいだったかな…と。ここも一部公園になっておりますが,安城古城よりもはるかに規模が大きいです。「安城古城かわいそう…」という気分に。

Windows10サポート終了の関係で,突然の途絶が生じるかもしれません。そうなれば,PCを買い替えて環境整備するまでは,私は仮死状態が続くことと思います…。ちょっとレガシー的なところがあるもので,気になっております。ご了承ください。

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シェル

鶴ヶ城で朝活 ③本丸・北出丸・西出丸編 (2025/06/19 訪問)

 普段でしたら、観光客の方で賑わっていますが、早朝ということもあり、人通りはまばらで、落ち着いて見学できました。二の丸廊下橋→帯曲輪→太鼓門→北出丸→西出丸→鉄門→本丸の順で見学。何度も来ていますが、復元された天守・走長屋・鉄門・干飯櫓の美しさには見惚れてしまいました。天守内の博物館はリニューアル後、はじめて見学しましたが、だいぶ映像の展示も増えていて驚きました。白虎隊士の肖像画のスペースが少しコンパクトになったのはちょっと意外に感じました。南走長屋と干飯櫓内も忘れずに見学し、まちなか周遊バス あかべぇで会津若松駅に戻り、帰路に着きました。

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しんちゃん

鉢盛山城 新城市富保町 (2021/06/27 訪問)

新城市富保町北貝津にある鉢盛山城は菅沼弾正によって築かれたとされています。標高267mの頂部に郭が有るのみとされていますが、城址を求めて山中をさまよっている時に、周囲の尾根に土塁などの遺構を見つけたような気がします。山道なのだろうか?
新城にはまだ隠れた遺構がいっぱいあると思うのですが、赤色立体地図ではこの周辺は詳細があきらかになっていません。大まかな地図は表示されるけど、それだと遺構の判別は難しい。関ヶ原も詳細が出てこないし、函館山もそうだ。
詳細を調べたい場所に限って出てくる情報が限られている。ちょっとあやしいな・・

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鶴ヶ城で朝活 ②三の丸・二の丸編 (2025/06/19 訪問)

 外郭と城下を見学後、内郭を訪問。三の丸の南側から散策。
何度も見学に来てはいますが、三の丸側はゆっくり見学したことがなかったので、まずは三の丸南門跡へ。三の丸や二の丸は本丸などとは異なり、虎口は石垣が用いられていますが、土塁がメインとなっていて、会津若松城のもう一つの顔が見れる場所だと個人的に思います。
三の丸南門跡も虎口は石垣ですが、周囲は土塁になっていました。ですが虎口から空堀を見ると、城外側には石垣が積まれていました。ここは初めて見学しましたが、面白いポイントだと個人的に思いました。三の丸不明門跡には、土塁が残され、会津藩の家老佐川官兵衛顕彰碑があります。三の丸北側の福島県立博物館そばには、大河ドラマにもなった新島八重の銅像が建てられています。
 二の丸は、個人的にテニスコートのイメージが強かったですが、伏兵郭以外のテニスコートはなくなったようです。本丸の高石垣側には、以前は無かった撮影用の標柱ができていました。来ない間にだいぶ様変わりしていて、ちょっと驚きました。

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鶴ヶ城で朝活 ①外郭・城下編 (2025/06/19 訪問)

 会津に来たら、鶴ヶ城は外せないということで見学してきました!!
 何度も訪れていますが、外郭の遺構は未訪問だったので、まずは外郭と城下を見学してきました。
 最初に七日町駅そばの阿弥陀寺の移築されている御三階を見学。会津若松城で唯一現存する建築物で、一階の玄関部分は、本丸御殿の唐破風の屋根が用いられているようです。周囲の建物の中で、ひと際、威風を備えているように感じ、とても感動しました。
 その後、神指城を見学し、鶴ヶ城の近くの宿で一泊。翌日は猛暑になる予報だったので、気温が落ち着いている早朝に外郭や城下のスポットの散策を開始。
 天寧寺町口の土塁は、民家や店舗が周囲にありますが、道路の歩道上から見学でき、説明板も設置されています。甲賀町口の石垣は、同じく外郭の大手にあたり、立派な石垣が残されています。甲賀町口の石垣の西側の興徳寺には、蒲生氏郷の墓や蒲生時代につくられた七層の天守の石像がありました。その後、神明通り沿いの飯沼貞吉の生家跡、直江兼続の屋敷跡、会津藩校日新館跡・天文台を見学してきました。

※阿弥陀寺の御三階のみ前日の6月18日に訪問しました。

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シェル

夕日と神指城 (2025/06/18 訪問)

 JR七日町駅から徒歩45分ほど。若松―坂下間の路線バス「神指黒川」のバス停から徒歩20分です。
 越後から会津に移った上杉景勝が、会津若松城に代わる居城として慶長5年から重臣 直江兼続に普請を命じて築き始めた未完の城です。
 徳川家康の会津征伐で、築城は中止。その後、家康が関ケ原の戦いで勝利すると、上杉氏は会津から米沢へ減封処分となり、完成することなく廃城となりました。
 現在は、二の丸の土塁と本丸の土塁が残されていますが、多くが田んぼや私有地となっています。本丸跡の野球グラウンドそばの道路沿いに説明板が設置されています。大ケヤキがある二の丸の北東隅櫓台は、説明板と土塁上に東屋が設置されています。土塁上の東屋に行こうとしましたが、スズメバチが近くを飛んでいたので、東屋には行かず早めに退散しました。
 また神指城周辺は幕末の会津戦争の史跡も残されています。バス通りの国道252号線は旧越後街道で、交通の要衝であったこともあり、新政府軍と会津藩の戦闘が起きていたようです。二の丸南西の土塁遺構のそばの如来堂は、新選組殉難地となっています。明治元年(1868)年9月4日に如来堂に立てこもっていた新選組を新政府軍が攻撃し、新選組の多くが討死にした場所のようです。最寄りのバス停の「神指黒川」の近くには、中野竹子殉節之地があり、石像が立っています。

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日曜祝日のみの開館に注意 (2025/09/23 訪問)

 濃尾平野も東の方に来ると、丘陵がぽつぽつあり、急な斜面を利用した城の雰囲気を味わうことができます。また、小牧・長久手の戦いに絡む城が多いです。
 祝日であったので、日祝限定開園の龍泉寺の模擬天守・展示館と展望台に入ることができました。東麓の駐車場から境内までは、比高はそれほどでもないですが、急斜面です。庄内川方向は比高もある急斜面です。次に、大留城に行くべく、庄内川の対岸を走りました。対岸から見た現在の龍泉寺城は、斜面に大面積の墓地を設け、なかなかの備えです。

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イオ

石碑めぐり (2025/06/01 訪問)

戦国前期に織田久長が築いた城で、織田信清に攻められて犬山城の支城となりましたが、信清が織田信長により犬山城を追われると坂井政尚が入り、政尚が討死した後は梶川高盛が城主となっています。小牧長久手の戦いでは堀秀政が守将を務め、後に羽柴秀吉の本陣となり、戦後に廃城となりました。文献上最も古い殿守(天守)の記述が見られる城としても知られます。

主郭は楽田小学校になっていて遺構はほとんどありませんが、周辺に門跡の石碑がいくつかあるようなので、小学校と図書館の駐車場から折りたたみ自転車で登城開始。門を出たところに楽田城跡の説明板と盛土の上に楽田城址の石碑が立てられています。説明板の周辺図で見るに盛土は主郭西辺の土塁の名残と思われます。

周囲の道は小学校より一段低くなっていて堀跡と考えられます(不自然に曲がっていたりもします)。小学校から北に約100mの須賀神社は周囲より一段高くなっていて、楽田城小城址(須賀神社)の石碑が立てられています。堀をはさんだ出丸でしょうか。小城址から北北東に約200mの駐車場脇には裏門旧跡の石碑が、裏門から西に約400mの石仏群のそばには北之門旧跡の石碑が、北之門から南に約580mの烏杜天神社には南門旧跡の石碑が立てられています。

車に戻って、楽田城周辺の小牧長久手の戦いの砦めぐりに行く前に常福寺に立ち寄りました。楽田城の裏門が移築されていたようですが、キンヤさんによれば撤去されているとのこと。無いなら行っても仕方ないんですが、今も無いことを確認しようと思っていたら…あるやん! 修復が終わって再建されたとかなのかな、と思って帰宅してからキンヤさんの投稿を読み返してみると…二つ目の門?? ひとつ目の山門を移築門と勘違いして大喜び、二つ目の門を確認しようともしていませんでした。やれやれ…。
 

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