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トク

122【関ケ原の26人】(26)井伊直政 (伏見城-直政の調略1) (2023/02/09 訪問)

(26人目)井伊直政の続き㉔です。
直政が調略に専念した木幡山伏見城です。JR桃山駅から徒歩で行きました。まっすぐ行けば1時間くらいで往復できるとは思いますが、私は模擬天守(旧キャッスルランド)も見たかったので回り道して行ったら、途中はアップダウンがとても多い道で、しかも何やら和風の超高級住宅街が続き(家老の子孫たちだろうか🤔?)、気がつくと2時間も歩いていました。そして最後は砂利で緩い登り坂の西参道を20分行くか230段の階段を登るかの選択です。私は砂利道を選びましたが、後で地図で模擬天守から北参道経由のショートカットの近道がある事に気づいた時はショックでした(笑)。さらにここまで来たからにはと、今度は下って駅と反対側にある指月伏見城まで歩いたので結局合計3時間も歩いてしまい(ああ足が痛い)。

1598年豊臣秀吉はここ木幡山伏見城にて死去。その後、徳川家康は江戸に戻らず、秀吉の遺言に従ってここで五大老としての政務を行い、直政も高崎には戻らずここで家康に付き従います。

現在の木幡山伏見城は明治天皇御陵になっていて、この(写真①)の位置までしか立ち入る事はできません。かつてここには壮大な五重の天守がありました。しかし関ケ原の前哨戦で、家康が会津の上杉征伐に出陣した後、鳥居元忠がわずかな兵で守るも西軍に敗れ焼かれてしまいます。

秀吉が死去すると、にわかに豊臣恩顧の大名たちの不穏な動きが始まります。家康が秀吉死後も伏見に留まったため、石田三成と徳川家康の対立は本格化。三成を中心とした文治派と福島正則を中心とした武断派の争いに目をつけ、家康と直政は武断派を味方に付け三成を追い落とそうと画策します。

まず目をつけたのが、黒田如水(官兵衛)でした。直政と如水、先を読むことに長けたこの二人は、朝鮮出兵中の名護屋にいた時から、秀吉亡き後の事を話し合っていたと思われます。そして秀吉が死去すると如水と起請文を交わし、互いが隠し事をせず味方となる事を誓い合います。

次に直政が目をつけたのが黒田長政です。長政は以前から家康を尊敬していた事を直政は知っていました。そして父の如水との盟約を理由に近づきます。長政を調略すれば豊臣恩顧の大名たちが必ず賛同するとにらんだからです。「家康様からこき使われて実は私は困っているのです」といった同情を誘う手紙を送るなどして、見事調略に成功したようです。そして長政を通じて、秀吉に小姓から仕えた朝鮮出兵後の処遇に不満を持つ、福島正則・加藤清正らの不満の矛先を三成に向けさせる事で七将をも調略、その結束はその七将らが大坂で起こした三成襲撃事件で表に現れ、さらにその回りの諸将(藤堂高虎ら)の調略にも成功していったようです。

しかし最新の研究では、三成襲撃事件は実際には起きていない? 大河ドラマ「どうする家康」や映画「関ケ原」で描かれたような、三成は実際は伏見の家康の屋敷には逃げ込んでいない? (逃げ込んだのは自分の伏見屋敷である=「英雄たちの選択」より)。などといった説もあるので、ここは興味深いところです。

残るは毛利の調略です。
次は関ケ原の井伊直政陣跡に続きます。
写真は(11人目)鳥居元忠の時のを再掲させていただきました(すいません)。
 

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イオ

とことん岡山城(岡山ナゾトキミステリー) (2024/09/14 訪問)

(続き)

後楽園から天守を眺めつつ月見橋を渡って天守へ。今回の岡山遠征はニッポン城めぐりのイベント「続・新岡山城 宇喜多二代とその妻」が目的のひとつであり、岡山城のスポット制覇のためには天守に入る必要がありますが、リニューアルされた天守内は昨夏にひと通り見ているので、企画展「武将たちの愛刀」くらいしか楽しみがないかな…と思っていたところ、RIDDLERによる「岡山ナゾトキミステリー第二弾」が前日から始まったばかりとのことで、渡りに船と挑戦してみました。

RIDDLERの謎解きイベントは昨秋に姫路城でも挑戦しましたが、城下を結構歩き回る必要があった姫路城と違って岡山城は本丸内で完結するため、さほど時間を要せず突破できそうです。難易度も問題1~3は簡単だったので余裕、余裕と思っていたら最終問題が難しい…。謎解きの書にヒントは載っているものの、今度こそ自力で解く! と見ないでうんうん頭をひねっていましたが……力及ばずでした。もともと柔軟な発想に乏しい上に、年とともにますます頭が固くなっている気がします。そして(ヒントに頼ってですが)全ての謎を解き、宇喜多ニンジャ認定証を受けて岡山城を後にしました。所要約1時間。来年3月まで開催されていますので、ニッポン城めぐりのイベントついでにどうぞ。

参加無料とあって謎解きの書を片手に天守内や本丸を歩き回る人を多く見かけましたが、謎解きを進める中で自然と岡山城や宇喜多氏への理解が深まり、お城に興味を持つきっかけにもなる(かもしれない)という意味で、いいイベントだよなぁ、と。姫路城でもそうでしたが、ぜひ他の城でもやってもらいたいものです。そして…次こそは自力で解く!(笑)
 

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todo94

秋の乗り放題パスでの攻城⑧ (2024/10/13 訪問)

献血後、ゆとりを持って赴きました。アプローチはJR尼崎駅からの徒歩だったのでかなり歩きでがありました。3年前に入館できなかった模擬天守より、無料で入館できる尼崎市立歴史博物館の方がかなり楽しかったです。歴史博物館ではカードを片っ端からいただいてきてしまいました。周辺の散策、また機会があったら楽しんでみたいと思います。

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赤い城

新庄山城 岡山県岡山市 (2024/10/13 訪問)

城びと未登録の城です。
三徳公園に車を停めて北側の登城口へ。
鳥居の脇に石碑と説明板が立っています。

登り始めはやや急ですがハイキングコースになっていて歩きやすく、山頂部までは20分くらい。
主郭には石鉄神社が鎮座しています。
派手な遺構はありませんが南側に向けて段になった曲輪が続きます。

4郭の先に堀切があったとされますが、ハイキングコースを造る際に埋められたようです。
両脇の藪を覗いてみるとなんとなく竪堀っぽいのが残ります。
なんとなくですが。

この新庄山城、砥石城主の浮田大和守を討ち取った恩賞として浦上宗景から宇喜多直家に与えられた城とされています。
直家にとっては2番目の居城ということになります。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)8日目:天保山台場 (2024/09/29 訪問)

大阪港駅から徒歩5分ちょっとで、天保山跡碑前(34.656965、135.432863)に着きました。

安政年間(1855~1860年)になると江戸幕府は朝廷側の不安に応えるため、大阪湾から木津川、安治川への海防強化を実施するべく、河口に四基の台場を築いて、各藩に防備を委任することになりました。
しかし、台場の構築は進まず、1857年(安政4年)には台場の仕様の再調査が命じられるなど、台場の構築は進んでいなかったそうです。
1864年(元治元年)には天保山台場の構築が本格的に始まり完成しましたが、実戦で使用されることは一度もなかったそうです。

天保山台場は安治川の天保山一帯に築かれていましたが、遺構はなく移築大砲が再建されていました。
夜の天保山観覧車(10:00~21:00)を見る為、19時過ぎに到着するように予定を立てましたが、夜景はきれいでした。
攻城時間は15分くらいでした。本日の城巡りは、ここがラストです。
本日の宿泊先の奈良県王寺駅へ戻りました。
本日の攻城徒歩=42206歩、攻城距離=29.54Kmでした。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)8日目:高屋城 (2024/09/29 訪問)

古市駅から徒歩10分くらいで、不動明王説明碑(34.547610、135.609288)に着き、その後、高屋城不動坂説明板(34.548562、135.610520)に向かいました。

1479年(文明11年)畠山義就によって築かれたと云われています。 以後、河内国守護職であった畠山氏の居城となりました。
畠山氏の家臣で飯盛山城主の安見直政は、守護職畠山高政を追放して守護代を称し高屋城主となりましたが、高政を支援した三好長慶によって追われました。
しかし、三好長慶の河内進出を懸念した高政は安見直政を呼び戻すと、これに怒った三好長慶は高屋城を取り囲み、後詰めの安見直政軍を撃退すると、高政と直政を河内より追放しました。
その後、織田信長が摂津・河内を平定すると北河内を与えられた畠山昭高が高屋城主となりましたが、昭高は重臣の遊佐信教によって討たれ、遊佐信教と三好長康が結んで織田信長と対抗しましたが、1575年(天正3年)織田軍により落城しました。

高屋城は安閑天皇陵を本丸とした平山城で、城山と呼ばれる台地の上に築かれていました。
安閑天皇稜(34.548815、135.608387)と堀は高屋城不動坂説明板に行く途中に確認しました。
攻城時間は20分くらいでした。次の攻城先=天保山台場を目指す為、古市駅から電車で大阪港駅に向かいました。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)8日目:金胎寺城 (2024/09/29 訪問)

汐ノ宮駅から徒歩20分弱で、登山口(34.459689、135.581311)に着きました。

金胎寺城は、嶽山城のある嶽山の南方にある金胎寺山にあります。
元弘年間(1331年~1334年)に楠木正成が築城し、佐備正忠が入ったとされます。
あるいは、正平年間(1346年~1370年)に楠木正儀、和田正武が築城したともされるようです。
1447年頃から戦国時代にかけて、畠山氏の家督争いで、畠山義就が嶽山城に立て籠もり、金胎寺・寛弘寺・金剛寺・国見山などの支城を構え、3年近くの間、畠山政長と戦っています。
1360年(正平15年)畠山氏の持ち城であったようで、1463年(寛正4年)に畠山義就が寄ったが、筒井氏などに攻められ落城したとされます。
1466年(文正元年)復権を狙う義就が金胎寺城に陣をして烏帽子形城を攻撃したという史料もあるようです。
1493年(明応2年)畠山基家(義就の嫡男)の家臣の甲斐庄氏(隆成?)が在城したという記録もあるようです。
1524年には政長流の畠山稙長軍がこの金胎寺城に集結し、仁王山城にいた義就流の畠山義堯を攻撃しています。

登り口ゲートを開けて案内に従い山頂まで行きます。
金胎寺城跡本丸からの景観は素晴らしいです。 
攻城時間は50分くらいでした。次の攻城先=高屋城へは、汐ノ宮駅から電車で古市駅に向かいました。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)8日目:烏帽子形城 (2024/09/29 訪問)

三日市町駅から徒歩20分弱で、城跡公園駐車場付近(34.4436641、135.5637232)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、1332年(正慶元年)に楠木正成が赤坂城の出城として築いたとの伝承があるそうです。
南北朝時代には楠正成の部将高向氏が籠もって北朝方と激しく争われました。
応仁の乱以後は守護畠山氏の持城となり、家臣も石川氏や甲斐庄氏などが務めました。甲斐庄氏は橘氏あるいは烏帽子形氏とも称し、甲斐庄正治はキリシタン大名でした。
元亀年間(1570年〜1573年)に甲斐庄正治は徳川家康に召しだされて遠江の浜松へ移り烏帽子形城は廃城となりましたが、その子甲斐庄正房が旗本となり、河内の地理に詳しいことから大坂の陣で活躍、2,000石を知行しています。
1584年(天正12年)羽柴秀吉の紀州攻めにあたり、古城となっていた烏帽子形城を普請するように中村一氏に命じています。

烏帽子形城は現在、烏帽子形公園として整備されており国指定史跡となっています。
狭い曲輪、堀、土塁、堀切などが確認できます。
攻城時間は40分くらいでした。次の攻城先=金胎寺城を目指す為、河内長野駅から電車で汐ノ宮駅に向かいました。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)8日目:二見城 (2024/09/29 訪問)

五條代官所(城びと未登録 奈良県五条市)から徒歩15分ちょっとで、説明板前(34.342582、135.690729)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、二見氏によって築かれたと云われています。
筒井順慶の重臣松倉重政は関ヶ原合戦で徳川家康に味方したことから、五條に10,000石を与えられ二見城を居城とし五條藩となりました。
1616年(元和2年)大坂の陣の功により肥前国日野江43,000石で転封となり廃城となりました。

二見城は現在の妙住寺一帯に築かれていたようです。説明板と縄張図を確認しました
大和二見駅にはICカード読み取り機がなかったので、記念に三日市町駅までのキップを購入しました。(ワンマン電車にICカード読み取り機がついています)
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=烏帽子形城へは、大和二見駅から電車で三日市町駅に向かいました。

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しんちゃん

なんとか正解‥  ありがとうございます。。 (2024/10/13 訪問)

ぴーかるさんは赤い城さんのクイズと相性が良さそうなのでいいですね。私は赤い城さんの投稿を3時間くらい追いかけたぐらいで意識が遠のきかけて来ました。唐沢山城の古い方の投稿を見つけた時は帰雲城の財宝を見つけたような気分でした。

投稿記事を書いている間に赤い城さんの、お返事を頂きました。やはり初見で「マイッタ」はしたくないので。これで耐性が出来たので、次は早めにギブアップするかも(笑)。石垣と猫に目尻が下がっていた私には耳が痛い‥。いずれ再訪する際には「千騎が入」「二重堀切」「例の土橋(‥)」もぜひ訪問したいと思います。関東はコンプしやすいですか‥ さらっとすごいことおっしゃる。
私は東海道にこだわりがあるので、もちろんトライさせていただきます(まずは西の国から)。

一時期テレビで「幻の城」帰雲城を盛んに取り上げていたころが有りました。その比定地らしき場所にも寄ってきました。
工事現場から道が続いていますが休日は休みのようです。入って見ると、いつの頃のものやらわからない石積みがいっぱいある。藪がきつくて丘の上は見通しが悪いです。なかなかのカオスです。堀切かな~?と思う場所もありますが、草を刈って公開してくれないかな~。
※1

※1 おこられるといけないので削除しました。

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赤い城

しんちゃんさん、大正解😍

さすがしんちゃんさん、大当たりです。
負けず嫌い感、結構好きです。

唐沢山城は関東では5本の指に入る城だと思います。
(私の中ではNo.1かも)
ただどのサイトでも「関東では珍しい高石垣」「猫がお出迎え」が売りとなっているのに違和感ありなんです。
やはり関東の城の良さは土の造作や岩盤の加工だと思っています(個人の見解です、確かに石垣も素敵)。

唐沢山城に置いてあったパンフレットをみると石垣だけではないことがわかっていただけるでしょうか。
四ツ目掘から南東に降りる道沿い、NHKの最強の城で紹介された千騎が入、北城先の二重堀切など。
また北側の動線を兼ねた何条もの竪堀もあります。
北側の栃本公園は居館があったと思われ、ここにも土塁が残ります。
まだ全部見れてませんがじっくり時間をかけて歩きたいおすすめの城です。

関東は公共の交通機関で行きやすい城が多いのでコンプも比較的にしやすいですよ。
ぜひチャレンジしてください。

ぴーかるさん、故郷の城は未訪が多いので勉強させてください。
尼子十旗制覇、尊敬してます!

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ぴーかる

丸山城 (2024/10/05 訪問)

【丸山城】
<駐車場他>駐車場はなし。多目的広場駐車場(重箱緑地公園)に駐車して歩いて登城しました。
<交通手段>車

<感想>初秋の鳥取縦断平山城攻め旅3城目。丸山城は1581年に鳥取城の出城として吉川経家が築城したとされます。また天正年間に築城したとする説もあります。秀吉の鳥取城攻めの際には賀露港から袋川を利用し鳥取城へ物資を運び入れる拠点の城として隠岐水軍の頭領である奈佐日本之介らが入城します。籠城当初は物資を運び入れていたそうですが、港が秀吉軍によって封鎖され、鳥取城とともに籠城しますが、鳥取城の落城とともに丸山城も開城します。奈佐日本之介、退避してきた雁金山城主の塩冶高清らは秀吉によって自刃させられました。
 重箱緑地公園の駐車場入り口の北側道路沿いに日本之介の慰霊碑があるのに痛恨の見落とし、登城口は<35.521624,134.224221>水道施設右手の山に入り込みます。コンクリート階段がありますがだいぶ崩落して登りにくいです。途中道もロストぎみになっていますが比高が低いので何となく登って行けばすぐ尾根上(石仏が2体)に出ます。位置情報の確認をしながらGoogleマップの丸山城跡まで行きました。尾根上曲輪になっていて少し狭いが削平地と土塁が見受けられました。城びとポイントは北の弘法寺になっていて気付かなかったので行かなかったのか、削平地奥に廃屋があり、中に弘法寺と書かれた木と仏像があったので、ここがそうなのかポイント合わせをしなかったのでちょっと消化不良で終わる。

<満足度>◆◇◇

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ぴーかる

クイズむず(>_<)

 朝田辰兵衛さん、俺にとってはムズかった(>_<)。名古屋城は2017年に行ったきりで、まだ私も城知識がぺーぺーの時でした。写真も少なく埋門跡の写真はありました。答えを知って、確かに南蛮たたきって埋門跡の北側にあって、写真を撮らなかったのも今思い出しました。でもとてもいい問題でさすがです。
 しんちゃんさん、赤い城さんのクイズもムズそうですね。私は関東の攻略を始めたばかりなのでわかるはずもなく‥‥しかーし、もし赤い城さんから俺にクイズを出すとしたら、俺も大好きな地方、赤い城さんの故郷の島根県のいい山城から出題されるに決まってますから、答えられそう!(^^)!。

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しんちゃん

本丸周囲の石垣 (2024/06/15 訪問)

破城の痕跡が残るとはいえ、金山城の石垣は十分魅力的です。出丸の石垣は、奥手の方は、この城で最も古い石垣が残っているようです。
三の丸にも石垣が残り、石造りの大手枡形を経て、二の丸に至ります。本丸の南西端は天守台になっていますが、ここの石垣も崩されています。本丸南東部には石造りの本丸虎口があり、本丸東側の石垣は巨大なチャートの岩盤の上に乗っているようにも見えます。
また本丸虎口の良く見える部分に縞模様の入ったオシャレな石があります。いわゆる「見せる」ための石というやつでしょうか?
さすがは織田氏の重臣・森氏の城ですね。

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しんちゃん

こっちじゃなかった・南小弓城 (2023/05/06 訪問)

赤い城さんのクイズの場所は、唐沢山城の「南城から降りた先の馬出し状の堀と土橋」ですね。といっても私はそこへ行ってないので、写真見てもわかりませんでした(笑)。いろいろ調べて、進展が無いので赤い城さんの投稿を3時間半ほど、追っかけてました。
まるで赤い城さんの「ストーカー」みたいです‥(ドロロロロ‥)
いや、純粋にヒントを探していただけです(汗)。1都6県を攻略したということは関東八州を制覇したということですか?
凄いですね。私もコンプを広げていく刺激になります。

写真は南小弓城です。生実城は別名、北小弓城と言いますが、こちらは南の方ですね。原氏の城ですが、永正14年(1517)足利義明に奪われ、義明は小弓公方を名乗ったそうです。南小弓城は小弓御所と呼ばれますが、天文7年(1538)の第一次国府台合戦で義明が敗死すると、原氏により奪還され、城の北側に新城(生実城)を築いたとのことです。
近年の調査では二つの城が室町時代の同時期に存在していたとされ、二つの城を合わせて「小弓城 / 生実城」とする可能性もあるようです。南小弓城は現在は墓地となっており、背後に堀切が有るようです。墓地への道は狭く、近くに車を置いて歩いて行った方が良さそうです。とりあえず「いった」はお預けにしておきます。

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朝田 辰兵衛

本丸北側2条の堀切が必見…👀 (2024/07/09 訪問)

肥薩おれんじ鉄道線八代駅でレンタサイクル。春光寺の駐車場に停め,そこから徒歩で向かいました。登城口から先は,あまり整備されてるとは言えないと思いますので,気を引き締めて攻城ください。
本丸到着で終わったらもったいないです。北側2条の堀切がキレイに遺っています。
この日は夏場の盛りということもあり,草木の繫茂で眺望は開けていませんでした。眺望は叶わなくとも,天候に恵まれてようやく攻城できたという実感に包まれました。
2024年の九州攻めはこれにて終了。空路で越後へ…✈

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熊本城見学 (2024/10/02 訪問)

天守と小天守が震災から復旧されたので見学。天守と小天守以外の復旧はまだまだで、全体が元の状態になるのは、2050年以降との説明であった。

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じゅんじん

表のみ (2024/09/08 訪問)

16年ぶりでしたが時間の都合ではいれませんでした。街並み散策やや櫻山八幡宮もよきです。

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イオ

とことん岡山城(後楽園) (2024/09/14 訪問)

今年最初の遠征は岡山県です。岡山県はかろうじて日帰り圏内ですが、日帰りだと時間の制約により取りこぼしが多く出てしまうこともあり、前日から始まったニッポン城めぐりのイベントをポチ制覇しつつ、これまでの取りこぼしを回収してしまおう、ということで、まずは昨夏の取りこぼし、岡山城の後楽園から。

後楽園は江戸中期に池田綱政が津田永忠に命じて築いた回遊式の大名庭園で、日本三名園のひとつとして知られます。藩主の居間にあたる延養亭、中央に広がる沢の池、園内を見渡す唯心山、亭内に水路を通した流店、季節の花木など見どころは多々ありますが、城好きとしてはやはり岡山城天守を借景とした景観に目を惹かれます。正門から園内に入ると、芝生の中の園路の正面にどどんと天守が聳えていますし、沢の池と唯心山越しに望む天守も大名庭園ならではの景観です。五十三次腰掛茶屋の連子窓越しには額縁に入ったような天守を眺めることができました。

他にも、慈眼堂の前に据えられた烏帽子岩にはたくさんの矢穴が見られますが、石切場で36個に割って運んで組み直したものであり、花葉の池の大立石にいたっては90数個に割って運んだものを組み直したんだとか。さすがは大坂城天下普請で数多くの巨石を据えた岡山藩・池田氏だけあって、巨石を扱わせれば天下一品ですね。慈眼堂の裏手には馬場が東西にのび、観騎亭の藩主に家臣が馬術を披露する行事が行われていました。正門近くには弓場と観射亭もあったようです。最後に、発掘調査により確認された御舟入跡へ。藩主が岡山城から旭川を舟で渡って訪れる際の舟着場であり、舟溜まり跡と御成御門に続く雁木が公開されています。

純粋に庭園として見応えがあるのはもちろんながら、あちこちから天守が覗いていたり、巨石に岡山藩の石垣技術を感じたり、馬場や舟入があったり…と、随所にお城を感じさせるところもあって、なお一層楽しませていただきました。さて、後楽園をひとめぐりすると、月見橋を渡って岡山城天守に向かいます(続く)。
 

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)8日目:五條代官所(城びと未登録 奈良県五条市) (2024/09/29 訪問)

今井城から徒歩25分くらいで、民族資料館入口(34.350322、135.691139)に着きました。
民族資料館を見学した後、長屋門土塀石垣見学入口(34.350193、135.691442)に向かい、土塀や石垣を確認しました。

1864年(元治元年)江戸幕府によって築かれました。
五條代官所は1795年(寛政7年)に築かれたのが始まりで、吉野郡、宇陀郡などの天領50,000石余りを管轄していました。
しかし、1863年(文久3年)天誅組によって代官所は焼き払われ、翌1864年(元治元年)に現在の位置に再建されました。

現在は五條市史跡公園となっていて長屋門や土塀、石垣が現存しています。
民族資料館の開館は、10:00~16:00で無料で見学できます。天誅組のTシャツを購入しました。
攻城時間は20分くらいでした。次の攻城先=二見城へは、ここから徒歩で向かいました。

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