跡地には住宅と畑が広がり見どころは天神曲輪の土塁のみです。
発掘調査で障子堀が確認されているようで、それを示すような案内板や標柱が所々に建てられています。
車は騎西図書館の駐車場を利用させてもらい散策しました。
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2025/09/09 18:01
2025/09/09 16:01
大きな石垣 (2025/08/23 訪問)
小田原駅からは、小田原宿観光回遊バス「うめまる号」に乗り、車内では添乗ガイドさん付きで小田原の街の名所を車窓で眺めながら、
一夜城歴史公園(ヨロイヅカファーム)下車。バスが到着するタイミングで現地ガイドさんが待機してくれいてガイドをお願いし登城。
いきなり、南曲輪石垣が歓迎してくれます!散策路も整備されており歩きやすいです。
馬屋曲輪で説明を頂いた、馬が水を飲む所に大変なロマンを感じました。暑く晴れていたので雨水の通り道ははっきりとは見えませんでしたが、それも今でも見ることができるし、今でも湧き水が出てるそうです。
井戸曲輪は圧巻です。
物見台から見る小田原と相模湾とても美しい。
最後は大手道から降りてきて、排水路跡も。
手軽に小田原が楽しめる物を食べたくて、小田原駅構内にある喫茶店で食べたパスタは、さっぱりとして美味しかった。
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2025/09/09 12:58
駿府城公園はこれからどう変わる?未来の姿をご紹介します!
皆さん、駿府城公園内に設置されているこちらの看板はご覧になりましたか?
この看板では、これまでの駿府城公園の歩みや整備のポイント、そして「これからの駿府城公園」の姿をわかりやすく紹介しています。
駿府城公園は、これまで「駿府公園基本計画・基本設計」や「駿府公園整備再評価計画」に基づき、整備を進めてきました。今後はその方針を踏まえながら、家康公の時代の歴史を感じられる景観を再現するため、野外展示施設の整備や本丸広場の整備を行っていきます。
整備後の公園は、「歴史遺産」「市民の憩い」「防災拠点」をテーマに、訪れる皆さんが「歴史を感じながら楽しめる空間」へと生まれ変わる予定です。
この看板は、駿府城跡天守台発掘調査現場「発掘情報館きゃっしる」をはじめ、公園内の施設や静岡市歴史博物館にも設置されています。お散歩の途中や公園を訪れた際には、ぜひ立ち止まってご覧ください♪
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2025/09/09 08:40
【赤色立体地図かるた】
「SLの 煙たなびく 津和野城」
(SLの けむりたなびく つわのじょう)
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2025/09/09 08:28
【赤色立体地図かるた】
一夜城 石垣山城 同じ城
(いちやじょう いしがきやまじょう おなじしろ)
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2025/09/08 22:07
名古屋城 (2024/04/06 訪問)
名古屋城本丸御殿の上洛殿は寛永11年(1634)に三代将軍徳川家光の上洛に併せて増築されました。江戸時代には御書院・御城書院と呼ばれ本丸御殿の中でも、最も格式の高い造りになっています。
天下普請で築かれた名古屋城には様々な石材が使われていて、二の丸の東や北側の高石垣は養老山地から取れる「河戸石」を使っています。例の「南蛮たたき」の場所の石垣ですわ。砂岩のクセに堅いので和泉砂岩のように崩れては来ません。でも割れた場所をしげしげ見るとやはり砂岩なんですね。この石材、加納城でも使用しています。産地が近いんですね。
ちなみに名古屋城の砂岩は加賀の前田家が運び込んでいます。
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2025/09/08 19:30
1万石の近世城郭 (2025/09/07 訪問)
田原城は文明12年ごろに戸田宗光が渥美半島統一の拠点として築きました。戸田氏飛躍の城で、慶長6年から戸田尊次が1万石で入り、寛文4年には三宅康勝が1万2千石で入り三宅氏の居城として明治まで続いています。
この城も1万石の城ですが、近世城郭としての特徴をしっかり備えています。1万石の豆大名でも城を持てるというのは海防上の理由かな。
田原半島の尾根上には烽火台がずらりと並び、のろしリレーで外国船の襲来を通達できるようになっています。
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2025/09/08 19:18
2025/09/08 10:43
【宮本武蔵】(6)竹山城(武蔵が少年期を過ごした地) (2025/06/04 訪問)
宮本武蔵の続き(6)です。
たけぞう(武蔵)が少年期を過ごした竹山城(岡山県美作市)を訪れました。ここは生誕の地の候補(美作説)にもなっていますが、私は高砂説で話を続けさせていただきます。高砂で生まれ3才でこの地へ養子に出されたたけぞう(武蔵)は、養父となった竹山城家老で新免流の剣者「平田無二(新免無二斎)」の元で剣術の稽古に励みます。
岡山から智頭急行を乗継ぎ「宮本武蔵駅」で降りました。何だかすごい駅名です😱!(写真①)。降りた瞬間に身震いがしてしまいました(笑)。駅から北を眺めると標高430mの竹山が見えました(写真②)。あの山頂に竹山城があったようです。城主は赤松氏の流れをくむ新免氏とされ、祖父の平田将監と父の無二は宇喜多秀家から3,600石を与えられた当時の城主「新免貞重」に仕えていました。平田家は代々新免家剣術指南役であり、将軍足利義昭にも剣の手ほどきをした事もある名門ので、新免の名を名乗る事が平田家には許されていたようです。竹山城にも登ってみたかったのですが時間がなく、ぴーかるさんの投稿を拝見すると、山頂には何もないようなので今回登城はパスし、城下の武蔵ゆかりの地を巡る事にしました(写真⑩)。
駅から南へ20分程歩いたところに、美作説の生家とされる家がありました(写真④⑤)。そこには二刀流で構える若き武蔵の銅像もありました(写真⑥)。おそらくここで3才から13才までの10年間を過ごしたと思われます。そしてこの銅像の場所には今でも道場がありました(写真⑦)。ここで父の無二から想像を絶する過酷な猛稽古を受けていたようです。また家の横には讃甘神社があり(写真⑧⑨)、幼いたけぞう(武蔵)は、ここで又八・お通と知り合い仲良く遊んでいたようです(写真③)。
ある日、讃甘神社のお祭りで、宮司の太鼓のバチさばきを見たたけぞう(武蔵)は、その時二刀流を思いつきます😯。元々新免家は十手術の使い手、左手に持つ十手を剣に置き換えた発想だったのかもしれません。
次は、たけぞう(武蔵)初決闘の地、平福(利神城)を訪れます。
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2025/09/08 07:04
沙弥城山城 香川県坂出市 (2025/07/21 訪問)
城びと未登録城です。
瀬戸大橋記念公園の駐車場を利用しました。
沙弥島は現在は陸続きになっていますが元は島でした。
海水浴場からナカンダ浜方面に進み、途中で左折し登ると城址です。
主郭と帯曲輪から成っていて石垣が残っています。
城としては小規模なものだったようです。
せっかくなのでさらに尾根道を進んでみました。
先端の長崎鼻からの瀬戸内海の眺望は見どころです。
オソゴエ浜には柿本人麻呂の歌碑があり、ナカンダ浜と合わせ瀬戸大橋を望む絶景が楽しめます。
【見どころ】
・主郭部の石垣
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2025/09/07 18:19
ダブル忠次親父 (2025/08/09 訪問)
ちょっと西尾城に行ってきました。久しぶりに来たら屏風折れ土塁がツートンになってる。とがってる所だけ草を刈ってあるのかな?
冬場になると同じ色になるのだろうか? 微妙だ・・
ところで本多康俊って誰だっけ? どうやら酒井忠次の次男らしい。母は松平広忠(家康の父)の妹なので、何と徳川家康の従兄弟になるらしい。なにげに広忠も存在感薄いよな。
康俊は天正8年(1580)に本多忠次の養子となり、関ヶ原の合戦で武功を挙げ三河西尾に2万石の所領を与えられたそうな。出自と功績の割に扱いが悪いような気がする・・気のせいだろうか?
大坂夏の陣では首級を105取って近江膳所に3万石で移封になったそうな。家康、どケチじゃん。
しかし実の父と義理の父が同じ名前とは・・どういういきさつなのか? ちょっと忠次お父さん?
酒井忠次・本多忠次「おうよ?」 やっぱり同時に返事が来た
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2025/09/07 18:18
鬼の架け橋…👹 (2025/06/30 訪問)
鬼の架け橋に興味が湧いたので,猛暑の中でしたが行っちゃいました。JR柏原駅から登城口まで,徒歩約75分。登城口から本丸まで,徒歩約60分。2Lの水分は,下山完了とともになくなりました。さらに,JR柏原駅に向かう途中のコンビニで1L購入。
午前中勝負で向かったのですが,福知山線の乗換ロスで昼ちょい前からの登城。福知山線はこんなに不便だったかな…?
この日は数10㎞先の豊岡市が全国最高気温を記録しました…。
この季節の選択は間違いでした。本丸周辺の石垣も草木の繁茂でイイ画像が撮れず。さらに,黒井城も周辺草木の繁茂に隠れてました…<泣>。
なお,登城道の中腹にある園林寺跡は出丸説があるようです。
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2025/09/07 17:33
2025/09/07 17:30
2025/09/07 17:28
2025/09/07 17:26
2025/09/07 17:23
2025/09/07 16:02
逆に思い出に残るかも? (2025/08/11 訪問)
道路の脇っちょ、民家の入口に「中居城」の標柱が立て掛けてありました。
横には説明板がありますが、色褪せていて説明文や縄張り図は消滅してます。
車を路駐して写真を写し、『行った』をポチッ。退陣。
他の方の投稿や、城びと以外のサイトを覗くと、「中居城」の標柱が刺さっていたり、倒れていたり。
と、1時間弱ほど、「中居城」の標柱がどこに刺さっていたかと、ネットの中をパトロールしてしまいました。
そろそろ、お役所の方々、直してくれないかな?
遺構は見学しなかったけど、標柱が気になって仕方ない「中居城」攻めでした。
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2025/09/07 15:52
【赤色立体地図かるた】 (2025/09/06 訪問)
先駆けの 近世城郭 安土城(さきがけの きんせじょうかく あづちじょう)
織田信長公の権威を示す天守は史上初めての五重六階・地下一階、不等辺七角形の絢爛豪華な天主で、安土山山頂に築かれました。望楼型の天守で金・黒・朱・群青で彩られた高層建築は人々を驚かせたことでしょう。
ただ、現在天主とされる天守閣の姿は天守台の構造と『信長公記』の内容から詳細に検討された姿で、本当の姿は分っていません。
安土城考古博物館のシアターで上映された映像では、4種類の姿が映し出されており、現在は2つくらいに絞られているそうです。
大手道 他に類無き 安土城(おおてみち ほかにるいなき あづちじょう)
安土城で現在、大手道と呼ばれている登城路は、幅約9mで両側に石敷きの側溝を備え、南麓から直線的に180m延びておりおり、さらに道の両側に大規模な建物が整然と並んでいたとされています。
ですが、この「伝大手道」と呼ばれる登城路は『信長公記』によると大手道とは記されておらず、通常百々橋口(旧摠見寺)から家臣等は主郭部へ至るルートが使われていたそうです。(こちらが大手道?)安土城考古博物館のシアターで上映されている映像では、帝をお迎えしたときに使用する道と紹介されておりました。また、安土城考古博物館の学芸員さんの説明では、大手道、伝羽柴秀吉公、伝前田利家公、伝徳川家康公など家臣団が居住していたとされるの屋敷跡の名称は、江戸時代に入ってからのもので当時の実態を表していないとの事です。そうですよね、いくら畿内を掌握していたとしても、敵に攻められやすい幅広の直線通路は、城造りの常識からするとかけ離れていますよね。
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2025/09/07 15:31
【赤色立体地図かるた】
「砂丘には 行っていないけど 鳥取城」
(さきゅうには いっていないけど とっとりじょう)
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