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橋吉

三日月藩乃井野陣屋 (2025/09/17 訪問)

姫路城からクルマで約1時間、三日月藩乃井野陣屋へやってきました。
閑静な山里に突然立派な建築物が出現します。
実はこれ3つの移築・復元した建物を連結させたものです。
現存する江戸時代の建築遺構の物見櫓に復元された通用門,復元された中御門(長屋門)が並んでいます。
内部は展示室になっているようですが、
平日は開館してないみたいです。
駐車場はすぐ向かいに数台、裏手にかなり大きなものが用意されていました。

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シャンシャン

横浜にある続100名城 (2025/09/21 訪問)

小机駅から歩いて10分ほどの距離にある小机城。
城跡は市民の森として整備されており、散策路は歩きやすく説明板も多い。
城跡自体は空堀や土塁がきれいに残されていて、程よい広さなので手軽に散策できて楽しい。
でも蚊がめちゃくちゃいたので、夏場は蚊対策が必須!

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しんちゃん

北条義時(江間小四郎)屋敷跡 (2022/01/10 訪問)

静岡県伊豆の国市の江間公園は鎌倉幕府二代執権・北条義時が青年時代を過ごした場所とされています。江間に館が有ったため江間小四郎義時とも呼ばれていました。
江間公園は元は江間小学校で、1930年の北伊豆地震の揺れが、展示してあった魚雷の表面に擦り傷を付け「地震動の擦痕(さっこん)」として国の天然記念物に指定されています。小学校に魚雷の展示が有るというのも時代を感じますが、魚雷の擦り傷が天然記念物になるというのも珍妙な話ですな。

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朝田 辰兵衛

柳川城散策2/2(主郭部) (2025/07/14 訪問)

みなさんの足跡をなぞるような写真になっております。これから✈搭乗あるあるだと思いますが,「搭乗前にあまり汗をかきたくない」というのが本音。2025年の九州遠征は,例年よりも1~3日短いスケジュールとなってしまったため,日在城に行けたことでほぼほぼ満足という状態でした…<笑>。
酷暑でしたが,雨男の私にとっては「晴れてくれてありがとう。感謝です」という心境。

ちなみに,なぜか長崎県攻城時の降雨率高いです。晴れ女の母を同行させた時だけ晴れました。それ以外の5回はことごとく雨。対馬では大雨警報出るし…。長崎県未投稿城の中には離島もあるので,「私でいいのか…?」という一抹の不安が,脳内を渦巻いております…。

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朝田 辰兵衛

柳川城散策1/2(北原白秋生家・記念館他) (2025/07/14 訪問)

越後帰還日。酷暑に抗うことはしないで,まったりと散策したかったので,柳川城をチョイス。
立花家史料館や立花氏庭園(松濤園)は観光ツアーが入っているようで,団体客の列が見えたのでスルーしました。雰囲気だけは味わいつつ,そのまま水堀沿いを進み,北原白秋生家・記念館へ。入館料【600円】です。北原白秋生家と記念館の間に水堀があり,入館料を払わないと見ることができない景色をパシャリしました📷
主郭部だけでは味わえない,タイムスリップしたかのような貴重な体験をできる空間だと思います。

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赤い城

再訪するほどでも無いけれど (2025/08/08 訪問)

地下鉄名城線の黒川駅から徒歩5分。
遺構も無いのに2回目の登城となります。
今回はニッポン城めぐりの自動リアを求めての登城でした。
前回は2019年だったのでリア攻め機能搭載前だったので。

金城小学校と近くの田幡公園を歩くのみです。
石碑のことは忘れてましたが小学校は夏休みで閉まっているのでいずれにしても見ることは出来なかったですね。

この日も名古屋は暑かったですがお昼は味仙で台湾ラーメン🍜
汗の量が倍以上になった気がしました。

【見どころ】
 ・石碑(見てないけど)

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小城小次郎

秋が特に良いと思う (2025/02/15 訪問)

土塁と切岸がとにかく美しいお城で、特に秋になると後ろ二枚の写真の通りめっちゃ綺麗な紅葉が見られるので秋(晩秋)がオススメ。旧奥州街道が佐久山・大田原・黒羽・芦野を繋いでいることに今さらながらに気が付いた。

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しんちゃん

道の駅もてぎで「ゆず塩らーめん」 (2025/01/06 訪問)

茂木城に行く前に道の駅でエネルギーを補給します。これも城攻めの楽しみの一つでありますな。ここの「ゆず塩ら~めん」はけっこう人気らしい。「道-1グランプリ」で三年連続優勝しているらしい。らーめんのお供はやっぱり餃子。年齢的に少し重いが、城攻めで消費しよう。デザートは「とちおとめ」を使ったソフトクリーム。栃木と言えばいちごだが、温暖化に負けずに頑張ってほしい。

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しんちゃん

長篠・設楽ヶ原の戦い 天王山陣所 (2025/09/15 訪問)

設楽ヶ原の合戦で内藤修理亮昌豊が陣を張った天王山陣所には横田備中守綱松の墓所もあります。綱松は原虎胤の子で横田備中守高松の養子となって設楽ヶ原の合戦で戦いました。綱松は次男・三男・四男と共に討死にし、残った子の尹松(おそらく五男)が江戸幕府の旗本として5000石を領し、述松・由松・栄松と続き、準松の代で9500石を領しました。みんな松ですな・・

天王山陣所から南に少し移動すると設楽原歴史資料館があります。駐車場との境に馬防柵があり、周囲には土塁があります。後世のものだと思いますが、なんとなく陣地の雰囲気が有る資料館です。資料館の南側に墓所が有り、竹広の住人が戦死者の亡骸を葬った信玄塚があります。合戦では両軍合わせて1万5000もの死者が出たとされ(正確な数は不明)大塚・小塚の二つがあり、大塚が武田軍 小塚が織田・徳川軍の死者を葬っているとされます。身ぐるみはいだあとだと思いますが、合戦ともなれば田畑は荒れ、地元も結構な損害を被るわけで戦死者の鎧や刀などを売るのはやむを得ないとされていたようです。
織田・徳川軍の陣地構築に地元の住民もかり出されていたようで、裏方として勝利に貢献していたと思います。馬防柵の前には三重の土塁があったとされ、織田・徳川の鉄砲隊を保護していたようです。野戦においてこんな戦場は前代未聞でしょう、まるで第一次世界大戦の塹壕戦のようです。

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しんちゃん

虎渓山永保寺 (2021/10/28 訪問)

虎渓山永保寺は岐阜県多治見市虎渓山町にある寺院です。南禅寺塔頭の正的院の末寺とされますが独自の存在感を放ってます。
京都でなくここにあるのが良いんですね。オーバーツーリズム無いし。
正和3年(1314)に夢窓疎石によって水月場(国宝観音堂)が建てられ、庭園も夢窓疎石によるもので国の名勝に指定されています。秋の紅葉が素晴らしく、モミジも良いですが開山仏徳禅師お手植えとされるイチョウは実に見事です。

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TMN97

新発田城 (2025/09/22 訪問)

新発田城

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TMN97

村上城址 (2025/09/22 訪問)

村上城址。
熊出没により登城を断念。

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シャンシャン

夕暮れの品川台場 (2025/09/18 訪問)

お台場にある砲台跡。
第三台場はしっかり整備されており、石垣や建物の礎石も残っていて見どころが多い。
レインボーブリッジから見下ろすと、台場の全景が見えて絶景!
背景にはフジテレビや高層ビルがあり、江戸時代と現代の対比が面白い。

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シャンシャン

江戸城の外堀 (2025/09/18 訪問)

虎ノ門駅周辺にある江戸城外堀の石垣を見学。
11番出口にある江戸城外堀跡地下展示室には展示説明もあり、地下から石垣を見上げることができて面白い。
すぐ近くにある旧文部省庁舎の中庭にも石垣がひっそりと保存されており、高層ビルの狭間に江戸の面影があり興味深い。
都会のど真ん中にこういった城跡が保存されているのはありがたい。

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しんちゃん

尼子十旗 (2025/06/30 訪問)

尼子十旗の一つ神西城は神西氏の居城です。主郭からの眺めが良く、立派な石碑が立っています。主郭から先は虎ロープが張ってあり、そこから先は訪問していません。途中矢竹がいっぱい植わっていて、それはそれで良いのだけど郭が良く見えないのは少し残念。
戦国時代の神西元通は永禄12年(1569)の尼子勝久を擁しての尼子再興軍に参加するため、毛利氏の目付の中原就久を末石城にて殺害しました。天正6年(1578)の上月城落城時には尼子勝久ら一族の者と共に自害したとされています。
これも忠臣の最期の一つだと思います。

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しんちゃん

長篠・設楽ヶ原の戦い 天王山陣所・武田勝頼公指揮の地 (2025/09/15 訪問)

設楽原歴史資料館のある場所は周囲より高い丘地になっていて、なかなかの広さがあります。このあたりからなら合戦が良く見えますね。
丘地の西側の麓に甘利郷左衛門信康の碑があります。信康は武田二十四将の甘利信忠の弟で、兄の死後は甘利家の名代を務めていたとされています。江戸時代に書かれた「甲斐国志」には長篠(設楽ヶ原)の戦いで戦死したと書かれ「甲陽軍鑑」にも山県隊に「あまり衆」が属していたと記載が有るようです。地元の伝承によれば左翼の柳田前激戦地を担当し、旗色が悪くなり退却戦に至ると敵の防御陣地構築に協力した柳田地区の住民を呪いつつ、庄屋の屋敷門扉に寄りかかり立ったまま切腹したそうです。
「かるたでつづる設楽原古戦場」の解釈では、山県らと共に左翼(南側)に陣し徳川軍に対したとされ、勝楽寺前から竹広表まで奮戦し中央の隊とも力を合わせ第三の柵まで破る勢いであったが、山県・原が討死するとじりじりと押されダンドウ屋敷付近で立ったまま無念の切腹をしたとされています。
左翼に位置していたのであれば「かるたでつづる設楽原古戦場」の解釈の方がすっきりします。切腹の際も、こちらは地元の住民を恨んででは無く、敵の作った堀と柵が無かったら家康の本陣も崩すことが出来ただろうに・・という解釈になっています。

天神山陣所は内藤修理亮昌豊が陣を張った場所とされ、昌豊の墓もあります。武田勝頼が戦中にここへ陣を移して昌豊とともに指揮を取ったともされ「武田勝頼公指揮の地」の石碑もあります。
東郷中こども園の北側の広場にあり、子供たちの遊び場になっていますが、北側の林に入ると陣地らしい扁平地が広がっています。

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しんちゃん

ぎゃふん (2025/01/06 訪問)

なんと・・イオ殿のカメラの破損は4か月前のことでござったか。ぐぬぬ・・こんなときは  ぎゃふん!

ぎゃふんって・・ いつの時代でござるか! そもそも私生活でそんな言葉使う奴はおらぬでござる。びっくりして忍者言葉になっているでござる。ニンニン
稲積城は那珂川の北に位置する河岸段丘の上に築かれていて、稲積神社の周辺に土塁や空堀が残されているでござる。田んぼや畑になっている場所も多いでござる。天仁2年、那須氏二代・須藤資道によって築かれたとされているでござるが、真偽は不明でござる。

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飛騨市

飛騨の山城まるごと体感!ガイドツアー&講演会

10/25(土)飛騨の山城を丸ごと体感できる特別イベントが開催!

午前は山城ガイドと歩く古川城・小島城ツアーを開催!
山城を巡りながらその魅力や歴史を間近で感じられます。

午後からは、加藤理文氏、萩原さちこ氏による講演が行われます。

現地を歩き、専門家の話を聞くことで、飛騨の山城の奥深さと楽しさを一日で体感できる内容です。ぜひお越しください。


日時
2025年10月25日(土)
9:30~11:30 山城ガイドツアー(小島城ツアー・古川城ツアー)
13:00~15:00 講演会(加藤理文氏・萩原さちこ氏)

※いずれも参加無料、事前申込が必要です。
詳しくは、https://www.city.hida.gifu.jp/soshiki/15/75510.html をご覧ください。

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飛騨市

飛騨の山城まるごと体感!ガイドツアー&講演会開催!

10/25(土)飛騨の山城を丸ごと体感できる特別イベントが開催!

午前は山城ガイドと歩く古川城・小島城ツアーを開催!
山城を巡りながらその魅力や歴史を間近で感じられます。

午後からは、加藤理文氏、萩原さちこ氏による講演が行われます。

現地を歩き、専門家の話を聞くことで、飛騨の山城の奥深さと楽しさを一日で体感できる内容です。ぜひお越しください。


日時
2025年10月25日(土)
9:30~11:30 山城ガイドツアー(小島城ツアー・古川城ツアー)
13:00~15:00 講演会(加藤理文氏・萩原さちこ氏)

※いずれも参加無料、事前申込が必要です。
詳しくは、https://www.city.hida.gifu.jp/soshiki/15/75510.html をご覧ください。

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トク

【宮本武蔵】(10)富来城(九州の関ケ原(後編)) (2025/07/11 訪問)

宮本武蔵の続き(10)です。

たけぞう(武蔵)が九州の関ケ原で戦った痕跡を探しに、富来城を訪れました。

父の無二斎とともに黒田官兵衛がいる中津へ行き、この頃18才のたけぞう(武蔵)は、東軍の黒田兵として出陣します。1600年9月13日に別府の石垣原(いしがきばる)にて、黒田官兵衛は細川家老(杵築城主)松井康之とともに、西軍の大友義統(宗麟の子)の軍勢を破り勝利します(写真⑧⑨⑩)。そしてその翌日から、西軍の残党が残る富来城を10日間にわたり攻撃します。そこには、たけぞう(武蔵)がいたという記述が残っていました(写真⑤⑥)。

富来城は1261年頃に富来氏によって国東半島(くにさきはんとう)の東端に築かれた城です(写真①②③)。今では本丸の一部がわずかに残るだけですが、当時は河口に向かって二ノ丸・三ノ丸とあり、川を天然の堀とし、水運を利用したかなり大きな城だったようです(写真④)。

代々富来氏は大友氏に仕えていましたが、1593年に豊臣秀吉が大友義統を改易すると富来氏も離散し、垣見家純が秀吉から2万石を与えられて富来城に入ります。そして家純が岐阜の関ケ原へ行っている留守中に、官兵衛は富来城を包囲し攻めました。わずか500名で守るこの城を、9000名の黒田軍が10日かかっても落とせなかったので、かなり当時は強固な城だったと思われます。しかし、主君の家純が大垣城で討死したと知らせが入ると、家臣たちは開城し降伏したそうです。

この時の戦いで、塀を乗り越えようとしたたけぞう(武蔵)は、敵から竹槍で刺され足を負傷したと伝わっています。お城にあった説明板に、ここで負傷した事が書かれていました。どうやらたけぞうが負傷した直後に降伏し開城されたようです。でもこの記述以外に、具体的な証拠は何も見つかりませんでした(すいません)(写真④⑤⑥)。

おそらく相当ショックだったのではないでしょうか? 兵法者にもかかわらず剣を抜く前にけがをした自分が情けなかったのではないでしょうか? 「自分はまだ弱い、もっと強くなりたい!」と悟ったたけぞう(武蔵)は、傷が治ると故郷美作の宮本村へ戻ります。しかしそこでは宇喜多の残党で刀を捨てない者、かつ池田氏へも従わない者への刀狩りが行われており、武蔵は間違って村人に通報され、山中に隠れます。そこで隙を見て、平田家の家財一切を姉(無二の実子)に処分するよう託し、もう宮本村には戻れないと悟り、諸国流浪の剣術を極める旅へ出る事にしました。この頃からたけぞう改め、「宮本武蔵」と名乗るようになったようです。各地で道場破りを行い、「60余回決闘して一度も敗れなかった」と自ら語った事が小倉碑文には書かれています。特に京都で足利将軍家剣術指南役を務めた名門、「吉岡一門と対決した」とも書かれており、これは有名ですよね。

次はその、吉岡一門との決闘場所(京都一乗寺)を訪れます。
 

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