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イオ

続々・『城めぐりのきっかけ』告白リレー

ヒロケンさん、とある煩悩の登城目録さん、『城めぐりのきっかけ』告白リレーへのご参加ありがとうございます。ほんの思いつきからこうして皆さまのお話を伺えて、ありがたいやら自らを省みてお恥ずかしいやらですが…。

ヒロケンさん
人生というのはいろんな人や物事との出会いによって紡がれていくものなんだなぁ、と改めて。ヒロケンさんを城めぐりに導いた先輩が早逝されたことは言うべき言葉もありませんが、自分のことを忘れずにこうして城めぐりを続けていてくれることは、きっと喜んでおられますよね。私もヒロケンさんの先輩のように、死後も誰かに思い返してもらえるような人との関わり方をしていきたいものです(城めぐりに限らず)。

とある煩悩の登城目録さん
やっぱり100名城スタンプラリーの影響力は大きいんだなー、と。最初は何となくだったとしても、小谷城のような名城に出会ってスイッチが入るきっかけになるという意味でも。そしてさらにハマれば(続)100名城に限らず、城びと登録城にも限らずに行くようになる……全くもって共感しかありません。とある煩悩の登城目録さんの投稿を拝見して小谷城にもまた行きたくなりましたし、良い城には何度でも再訪したいですよね。


ところで…

あさん、遅ればせながら大阪・京都コンプリートおめでとうございます。滋賀と奈良はコンプ済み、兵庫もリーチとなると近畿で残すは和歌山のみですね。先日、和歌山の未投稿4城は県民としての責務、などと申しましたが、あれは「オレの獲物だ、手出し無用」という趣旨ではなく「和歌山中南部の人跡未踏の城に県外から来てもらうのも申し訳ないしなぁ…」というようなものなので、行こうというお気持ちがあれば、どうぞ気兼ねなく一番槍つけちゃって下さい。

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ryu

残雪の若桜鬼ヶ城 (2025/03/09 訪問)

鳥取からJR因美線とバスを乗り継いで若桜町に着く。
若桜町観光案内所で荷物を預け、若桜鬼ヶ城の情報を収集すると、まだ雪が残っていて登城は危険なのでおすすめはできない、登るなら自己責任でお願いしますとのこと。
冬眠から早起きしたクマと出会うと嫌なので、持ってくるのを忘れた熊鈴を借りて登城する。

八幡広場登山口から登るも登り出しから思った以上に雪が残り、踏み抜くと膝下までイボる。
予想外の雪山登山となったが、山頂の本丸からの眺望は素晴らしい。下山は六角石垣を見て周回、町民体育館登山口に下山する。

スタンプが置いてある観光案内所の方はとても親切で登城前にぜひ立ち寄ることをお勧めする。

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ryu

鳥取城探訪 (2025/03/08 訪問)

わかさ氷ノ山スキーと兼ねた山城探訪。

鳥取駅から100円循環バス「くる梨」緑コースで仁風閣で下車。
北の御門跡から入り、西坂下御門→三階櫓跡を経由して、まず山上ノ丸(久松山山頂)を目指す。仁風閣前から約30分で山頂。
天守跡からは鳥取市街や鳥取砂丘を遠望できる。
東坂の上城門跡、登石垣を見て下山。

山麓の山下ノ丸で天球丸→巻石垣→太鼓御門跡→復元工事中の中ノ御門→西坂下御門→二ノ丸登石垣→三階櫓跡と見てまわる。
仁風閣は保存修理のため長期休館中でガイダンス施設「鳥取城・仁風閣展示館」にスタンプがある。

探訪後、鳥取砂丘に向かい、砂丘を散策する。

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dougen

2019.11.14登城 (2019/11/14 訪問)

野崎駅の西側にある三箇菅原神社が三箇城址となります。
遺構は残っていませんが、城址の石碑が設置されています。また、三箇神社の解説板に三箇城についても触れられています。

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dougen

2019.11.14登城 (2019/11/14 訪問)

高石駅の南東にある専称寺が綾井城址となります。
山門の前に水濠跡の遺構が残っています。城址の標柱や解説碑が設置されています。

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dougen

2019.11.14登城 (2019/11/14 訪問)

泉大津駅の北西にある南溟寺が眞鍋城址となります。
遺構はありませんが、城址の石碑と手作りの解説板が設置されています。

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シェル

文禄・慶長の役の拠点 (2025/02/26 訪問)

 唐津バスセンター(大手口)の2番乗り場から朝の始発のバスに乗車し、約1時間で到着。
豊臣秀吉の文禄・慶長の役の拠点となった陣城です。周辺には、全国の諸大名の陣屋跡も残されています。案内板や説明板は、一部「信長の野望」仕様になっていました。さすがに陣屋も巡りはじめてしまうと、時間が足りないので、名護屋城を名護屋城歴史博物館が開くまでの時間を利用して、2時間かけて巡ってきました。
山里口→広沢寺→上山里丸→水手口→船手口→二の丸→遊撃丸→搦手口→馬場→三ノ丸→本丸→(下山)→東出丸→大手口の順で見学。
 各曲輪の石垣が、尋常ではない規模で、さすが秀吉の城といった印象です。また石垣の隅角部を壊したものや、等間隔でV字に崩されたものなど破却された石垣も随所に残っています。石垣の破却の様子を見ることができる貴重なお城でもあるなと感じました。
 一通り見学を終えて、名護屋城博物館へ。100名城のスタンプは、受付で押印できました。あいにく常設展は改装中で見学できませんでしたが、企画展示の方は見学することができました。
帰りは、博物館から少し歩き、「鎮西市民センター前」というバス停から、乗り合いタクシーを利用して、呼子でバスに乗り換えて唐津に向かいました。

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イオ

麒麟がくる紀行(東奔西走)

(続き)

明智光秀は丹波攻めの前から織田信長の命により朝倉・浅井攻め(福井県・滋賀県長浜市)、高屋城(大阪府羽曳野市)の戦い、長篠の戦い(愛知県新城市)、越前一向一揆攻め(福井県)と東奔西走していましたが、さすがに信長肝いりの丹波攻めの間くらいは専念させてもらってたんだろう…と思いきや、丹波攻めを始めて間もないうちに越前・丹後への援軍を命じられるわ、丹波攻めが頓挫するや石山本願寺(大阪市中央区)との戦いに駆り出されるわ、天王寺の戦い(大阪市天王寺区)の後には過労(赤痢とも)で倒れ、療養の甲斐あってようやく快復したと思ったら今度は妻の熙子が病死…。光秀にとって心身ともにつらい時期だったことでしょう。

それでも東奔西走の日々は続きます。雑賀攻め(和歌山市)、信貴山城(奈良県平群町)の戦いに続いて丹波攻めを再開するも、羽柴秀吉の援軍として神吉城(兵庫県加古川市・未訪)攻め、信長に反旗を翻した荒木村重が籠る有岡城(兵庫県伊丹市)の戦いに動員されるなど、やはり専念はさせてもらえませんでした。それでも何とか丹波平定を果たし、京都御馬揃えの運営責任者も無事に務め、甲斐武田氏を滅ぼして安土城(滋賀県近江八幡市)での徳川家康の饗応役を命じられたところで光秀に一大転機が訪れます(続く)。
 

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todo94

献血前の攻城② (2025/03/15 訪問)

駒城からの転戦です。駒城からはかなり離れていますが、水戸に向かう途次に立ち寄ったということです。今回はグーグルマップの記載を頼りに周辺を散策してみました。まずは、龍泉院を経由して大門跡へ。すぐわきの民家には大門を意識したかのような立派な門が建っていました。大門跡前の用水路のような川は外堀の跡のようです。川沿いの道に出て歩いていくと、蔵屋敷土塁跡。ただの竹藪にしか見えませんが中に土塁が潜んでいそうです。主郭跡のポイントは小高くなっていて墓が鎮座していました。すぐ近くには二郭土塁跡。最後に新善光寺で締めとしました。

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赤い城

東郭群(古城)と内構 (2025/03/09 訪問)

三重堀切から本丸のある東郭群を目指しさらに進みます。
途中のアベノ門跡には「本丸跡600m」の案内板。
あとわずかです(感覚がマヒしてます)。

堀切から急勾配を登っていきます。
残雪を踏みしめながら滑らないように慎重に登って行きました。
さすがに標高高い、途中の岩肌からは立派な氷柱が垂れています。

登って3時間、ようやく本丸に着きました!
達成感😀
本丸は崖で守られ、見下ろすと断崖、落ちたらひとたまりもないです。
崖の向こうには小筈も見えます。
とてもあちらには行けません。

帰りは美作河井駅に向かって北側に降りる予定でしたが雪が積もっていたため断念。
元の道を復習しながら下山しました。
往復5時間の攻城は大満足。

麓に降りたあと内構と呼ばれる草刈氏の居館跡に立ち寄り。
石垣の残る広い館跡です。
こちらからも登れるとのことですがいつかチャレンジするのかな?

美作と因幡に勢力を持った国人領主草刈氏の居城です。
秀吉や宇喜多氏の攻撃を退けた堅城です。
麓から見ると山頂がV時に窪んでいて矢の末端の弓に掛ける部分に似ていることから矢筈城と呼ばれています。

【見どころ】
・崖の上の本丸
・本丸からの眺望
・土塁が付いた曲輪
・内構と呼ばれる居城跡


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しんちゃん

マグマで形成された丘の上に築かれている。 (2024/09/16 訪問)

猪苗代城は地元では亀ヶ城と呼ばれているようです。三浦氏の一族・佐原義連が奥州征伐の軍功で会津四郡を与えられ、その子盛連の長男・大炊介経連が猪苗代を領して、猪苗代氏を名乗り当地に城を築きました。
14代盛胤は天正17年(1589)「摺上原の戦い」で蘆名方に属し敗れ、湖南横沢に引退し、城主を頂く猪苗代城の歴史は終わりました。ただし廃城にはならず、城代が置かれ、戊辰戦争で焼失するまで会津の守りの城として健在でした。
城が築かれている丘は、20~40万年前に古磐梯火山の赤埴山を形成した火山活動によって、噴出したマグマなどが溜って形成されたとされています。一部崩壊してはいますが、石垣で整備された近世城郭で、本丸に至るまで、さまざまな石垣を楽しむことができます。

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宗春

キュンパス使って仙台日帰り弾丸城巡り その2 仙台城 (2025/03/12 訪問)

JR東日本のサービス「キュンパス」を利用して、仙台日帰り城攻め&仙台東照宮参拝&牛タン・ずんだフロート堪能弾丸ツアーしてきました。

その②は仙台城
前回訪問時(2022/10)は修理中でお目にかかれなかった伊達政宗公騎馬像を拝んで来ました。
また、前回通れなかった道が徒歩のみ通れるようになっていたので、前回見られなかった遺構(中門跡)が見られました。

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宗春

キュンパス使って仙台日帰り弾丸城巡り その1 多賀城 (2025/03/12 訪問)

JR東日本のサービス「キュンパス」を利用して、仙台日帰り城攻め&仙台東照宮参拝&牛タン・ずんだフロート堪能弾丸ツアーしてきました。

その①は多賀城
前回訪問時(2022/10)には説明パネルしか無かった外郭南門が復元されたので、見に行ってきました。ついでに、南門復元記念の御城印と南門がデザインされたマンホールカードを頂いてきました。

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しんちゃん

ぐむむむ・・ (2025/03/23 訪問)

暖かくなってきました。東京では桜が六輪咲いたとかで騒いでいますが、市場城周辺の桜はすでに3分咲きくらいです。とはいえ、この周辺の桜は四季桜なので、気温の変化に敏感なのかもしれません。
市場城は徳川家康に従った鱸(鈴木)氏の城で、江戸時代には使用されていなかったにも関わらず、石垣や竪堀群など見ごたえのある遺構の多い城です。また、ここは四季桜と紅葉が同時に見れる隠れスポットでもあります。
市場城の縄張りを幾つか見て思うことは、ここは一時期、本丸を仕切る土塁が有ったのではないかということです。有名なものに古宮城があり、岩略寺城にも似たようなものが有りました。加藤先生の講義でもありましたが、小牧・長久手の戦いの後、徳川家康と豊臣秀吉の間に緊張が走った時期があり、東海道上や徳川領内の城は徳川勢によって改修を受けている可能性が高いということです。
本丸内に郭を増やすということは、継戦時間を延ばすのみならず、早期の降伏を認めないということになるので、時間稼ぎが目的だと思います。東海道を迂回してくる敵を防ぐため、古宮城や松平城山城などは改修を受けている可能性があるので、市場城も同様に改修を受けている可能性も有るのではないかと思います。
であれば、櫓台や本丸の石垣、竪堀群(本丸内の土塁)はこの時期に加えられたのかもしれません。石垣も登城側に設けられ、攻め手を威嚇するように築かれています。実際、徳川旗下で豊臣の大軍が来るのに何の手も打たなかったということは無いと思うので、どれか一つは当たりがあるんじゃないだろうか??

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にのまる

おめでとうクイズです🎊

朝田さんからのバトンを受けまして、あさんへ大阪・京都制覇おめでとうクイズです。

↓先月行ってきた大阪です。どこでしょう!?

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しんちゃん

こちらこそ (2025/03/15 訪問)

あさん、こちらこそ宜しくお願いします。ペコリ。
武田神社のある郭が躑躅ヶ崎館の主郭にあたりますが、東側が大手となり、武田氏の時代には三日月堀と馬出があったようです。現在は豊臣氏の家臣によって築かれた大手石塁が復元整備されています(案内板による)。石塁も良いのですが、個人的には武田氏時代の三日月堀も見たかったかも。とはいえ、この石垣を築いたのは徳川氏の家臣かもしれません。
天正18年(1590)に徳川家臣・平岩親吉によって甲府城が築かれ主要部としての機能が移されました。

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スティクラ

浅井氏の居城、小谷城へ (2025/03/20 訪問)

出丸入口から登り始め、本丸→小丸→大嶽城跡→福寿丸→山崎丸の順で回り、下山。時間は2時間ほど。

京極丸あたりから雪が残っていて、標高が一番高い大嶽城跡では数センチ積もっていた。

福寿丸では、猿のファミリーに遭遇。
あまり刺激しないように福寿丸は案内図のみ撮影して失礼した。

小谷城をした後は、虎御前山へ。
虎御前山ハイキングコースで羽柴陣や織田陣を散策。

最後に姉川の戦いを場所を見学してから帰宅。

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トク

島津忠恒と桜島 (2025/02/25 訪問)

知覧からの帰りに鹿児島城に立寄りました。御楼門は相変わらず美しいです。しかしその奥にある、西郷隆盛らが立て籠もるこの城に向かって官軍が放った弾痕跡とのギャップが、何とも複雑な薩摩の歴史を物語ってくれます。

鹿児島城の築城者は「島津忠恒」です(後に家久と改名)。忠恒は島津義弘の子ですが、嫡子の無かった当主義久(叔父)の後を継ぎ当主となりました。関ケ原の直前にあった島津家の内乱(庄内の乱)では、首謀者「伊集院忠棟・忠真」父子を自ら斬殺して乱を鎮め、これで家康から一目置かれるようになります。しかし関ケ原後、義弘の処遇を巡り義久は家康と対立! 義久は一戦辞さずと戦の準備にかかります。その中で忠恒は、井伊直政の協力を得て、伏見の家康との仲介に奔走します。そして家康から信頼されるようになり、薩摩・大隅の本領安堵をとりつけて初代薩摩藩主に任命され、それまでの内城から鹿児島城(鶴丸城)を新たに築城しました。

しかしそれでも薩摩藩は、徳川宗家、加賀前田藩に次ぐ3番目77万石の大藩です。ですが城には天守もなく敷地もさほど広くなく、「え!これが77万石の大藩の城ですか?」と訪れた皆さんは誰もが思われたのではないでしょうか? おそらく20万石程度の大名と同じ大きさだと思います。52万石の姫路城や福岡城などと比べると、はるかに小さくて質素なのがよく分かると思います。それは徳川から怪しまれぬよう恭順の意を表向きは示すために、このような大きさや形にしたものと思われます。そして裏では密かに113の外城を築きます。

ここまで来ると、私は急に桜島が見たくなったので、背後の城山へ登る事にしました。鹿児島にしてはこの日は寒く、気温は5℃くらいだったでしょうか。よってシティビューバスに乗り頂上まで行きました。ここから見る桜島はいつ見ても感動です! この日は山頂にうっすらと雪が積もっているという、何とも珍しい光景を目にする事ができました。
 

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イオ

麒麟がくる紀行(丹波統治の城)

(続き)

丹波を平定した明智光秀は新たな城を築き、また攻略した城を改修して丹波統治の拠点としました。

丹波攻めの本拠だった亀山城(京都府亀岡市)はそのまま光秀の丹波での居城となりました。本丸周辺の遺構は江戸期以降のものですが、惣構の堀や土塁は築城時の姿を残していると思われます。本丸には光秀の手植えと伝わる大イチョウ(の二代目)があり、南郷公園には光秀の銅像が立てられています。南東辺を流れる年谷川の両岸にかつて続いていた松並木は千本松と呼ばれており。一説には築城時に年谷川を防衛線として光秀が植えたと云われているようです。

京と若狭を結ぶ周山街道と大堰川(桂川)水運の押さえとしては周山城(京都市右京区)を築きました。山頂から四方にのびる各尾根に曲輪群を配した大規模山城で、破城により崩されてはいるものの、総石垣の壮麗な山城だったことが窺えます。城下では善政を敷いたようで、山麓にある慈眼寺の釈迦󠄀堂では「くろみつ大雄尊」と呼ばれる墨塗りの明智光秀座像が大切に安置されています。

由良盆地の拠点としては横山城を改修して福知山城(京都府福知山市)を築き、明智秀満を城主としました。天守台西面には築城時の石垣と増築時の石垣の境界線がはっきり出ていて、築城時の石垣には転用石が非常に多く用いられています。城下町もおおむね光秀が整備していて、由良川と土師川の合流点に明智藪とも光秀堤とも呼ばれる堤防を築いて城下を水害から守っています。

氷上郡の拠点としては黒井城(兵庫県丹波市)を改修して、斎藤利三を城主としました。城下からよく見える側の石垣と、本城と呼ばれる山頂部に設けられた連続枡形が光秀による改修と考えられます。山麓の居館跡は現在は興禅寺になっていて、斎藤利三の娘であるお福(後の春日局)が生まれた地とされ、春日局出生地の石碑のほか、産湯の井戸や幼いお福が座ったと伝わる腰かけ石があります。

さて、丹波を平定しても光秀に安息の日が訪れることはありませんでした(続く)。
 

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赤い城

西郭群(新城) (2025/03/09 訪問)

以前から行きたかった城ですがソロでは、と躊躇してました。
比高430mに加え熊の出没エリアだそうで。
なので城友さんにアテンドを依頼、5名でワイワイと登ることになりました。

千磐神社に車を置きここから登ります。
少し登ると「本丸まで2300m」の案内板。
ソロならこの時点で心が折れそうです。
が、5人なのでこれからのワクワク感が上回ります。
すぐに堀切があり癒されますがここからが長い。
急坂の尾根道をひたすら登ります。

かなり登ると大岩に、さらに武者隠しを経てようやく西郭群にたどり着きました。
ここまで約1時間。
一休みですが、この日は天気が良く、雪化粧の中国山地の山波が綺麗に見えました。

西郭群が新城とされ、尾根上に広い曲輪が並んでいます。
これまで堀切や土橋などの派手な遺構に萌え、曲輪はないがしろにしてました。
この城は曲輪の良さも理解できます✨
また一つスキルが上がったかな?

南北には石垣列も施されています。
主郭部には狼煙場や祭壇など細かい見どころも満載。
北側の医王寺跡の曲輪は広く、土塁も残ります。
背後は見どころの一つ、三重堀切が守ります。

これだけでもお腹いっぱいですが本城まではさらに登る必要があります。
東郭群(本城)のレポートは次回に回します。

【見どころ】
 ・千磐神社から登ってすぐの堀切
 ・大岩
 ・狼煙場のところの堀切
 ・曲輪南北の石垣列
 ・本丸下の石垣
 ・三重堀切

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