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昌官忠

(東海&関西)遠征1日目:清源寺砦(城びと未登録 愛知県豊橋市) (2025/05/15 訪問)

豊橋駅で荷物をコインロッカーに預けた後、徒歩5分くらいで、清源寺入口(34.764778、137.381843)に着きました。

石塚清助の居城とされていますが詳細は不明のようです。

城址を示すものは何もありません。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=大崎城(城びと未登録 愛知県豊橋市)に向かう為、豊橋駅前バス停から豊鉄バスで大崎北バス停に向かいました。

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トク

黒田六端城を行く:(5城目)松尾城 (2025/02/18 訪問)

黒田六端城を行く、5城目は「松尾城」です。秋月氏の支城があった東峰村の小石原に、黒田長政は「中間六郎右衛門統胤」に2,500石で与えます。中間氏は黒田氏が豊前入国時に反旗を翻した城井氏(宇都宮鎮房)の家臣でしたが、黒田に寝返り朝鮮出兵や関ケ原にも付き従ったと伝えられています。

杷木(はき)バスターミナルから小石原行のバスに乗り70分、「東峰村役場前」で下車しました。正面に見える国道211号と500号の交差点そばに松尾山(比高50m)が見えます。バス停から城跡までは徒歩15分です。車の方は交差点から入ったすぐの所に駐車場があり、そこから徒歩5分で登れます。

登城路(写真①)から城跡は草や倒木もあり、あまり整備されていませんでした。畝状竪堀もあるらしいですが、草でどこかよくわかりません(写真④)。一国一城令で破却されましたが、桝形虎口や石垣が少しだけ残っていました(写真②③)。本丸は杉の木に囲まれていましたが、わずかに眺望がありました(写真⑤⑥)。当時は杉の木は無かったと思うので、眼下の街道を通る者たちをよく監視できたのではないかと思います。

バスは1日3本しかなく、登城後まだ帰りのバスまで2時間もあったので、バス停の前にある道の駅で食事をし、小石原焼を見学したりして時間をつぶしました。しかし、私がこんな山奥までわざわざバスで来たのには、もう一つの理由がありました。その最終3本目14:38に乗り、そして何と途中のさらに山深い福岡県と大分県の県境「宝珠山」で降ります。ここにはかつてJR日田彦山線の宝珠山駅がありました(写真⑧)。

その理由とは、2017年の九州北部豪雨災害で廃線となったJR日田彦山線の代替えとして、現在は廃線跡をBRT(=Bus Rail Train)が走っていて、それに乗ってみたかったからです。ここから狭い廃線跡の長い彦山トンネルの中をぎりぎりの幅で走ります!(写真⑨)。そして終点「添田駅」で下車すると、BRTと接続する列車が同じホームに止まる(バスと列車が同じホームで乗り継ぐリレー方式)という、何とも珍しい光景に出会いました(写真⑩)。そしてJRで田川後藤寺線・篠栗線を乗継いで博多へ帰りました。地方のJRは赤字や災害で存続危機の路線が多いので、このような方式は大変いい試みだと思いました。
 

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イオ

全体的に藪化 (2025/02/09 訪問)

南北朝期に北朝方の畠山義深が城ヶ峯山頂部に築いたとされますが、現在見られる遺構は戦国末期に改修されたものと考えられ、羽柴秀吉の紀州攻めの際に地元国人が籠って抵抗の拠点となったようです。

山麓の高積神社・下の宮脇に駐車して登城開始。高積山頂部の上の宮近くまで舗装された参道が続いていますが、急坂の上に落石や折れた枝が路面に散乱しており、車で行くのはおすすめできません。歩いて登ること20分弱で高積山に到達。上の宮との分岐(案内表示あり)を城ヶ峯方向に進んだ先が和佐山城です。

分岐から南に進むと尾根に沿ってのびる土塁が姿を現しますが、城郭遺構ではなく江戸期の村落の境界を示す土塁なんだとか。境界土塁をたどってさらに南へ進み、分岐から15分ほどで城域に到達。大きな竪堀が北東方向に落ちています。竪堀を横目にスロープ状の登城道を上ったところに主郭の北虎口が開口し、虎口の両側に張出部を設けて横矢が掛かる造りになっています。張出部には石垣が施されている…はずですが、見落としてしまいました。

主郭は北辺から北西辺にかけて土塁をめぐらせ、南東部には井戸と土壇がありますが、藪に沈んでいてよくわかりません。土壇の南側から主郭を出ると、主郭手前で途切れていた境界土塁が復活して南へとのびていました。主郭の東下には帯曲輪が広がり、南端の櫓台の下からは三条の堀切により南尾根を遮断しています。

南尾根の三条の堀切を越えた先が副郭で、主郭と異なり副郭の内部にも境界土塁が続いています。副郭は藪に覆われ自然地形に近い状態ながら、北辺の土塁はかろうじて判別することができました。

縄張図で見る分にはもう少し見応えありそうに思えるんですが、全体的に藪化していて遺構が見づらいのが残念なところ。せっかくこんなところまで来たので、最初の分岐から高積神社上の宮に寄り道して下山しましたが、上の宮には和歌山城と同じ緑泥片岩による石垣が築かれていて、むしろこちらのほうが見応えがありました(笑)
 

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todo94

ゴールデンウイーク後半・因幡の城めぐり⑧ (2025/05/05 訪問)

2014以来の再訪となる太閤ヶ平。11年前もゴールデンウイークの攻城でした。山上ノ丸二ノ丸から十神砦を経て太閤ヶ平まで30分足らずの所要でした。初めて太閤ヶ平の土塁を拝んだ時より、素晴らしい土塁、空堀に感じてしまいました。山城の経験値があがった賜物と考えたいと思います。ここでもラッキーなことに「本陣山」のプレートを持つ紫ピクミンの山デコを手に入れることができました。苗を引っこ抜くことができたのは、家に帰ってからだったので、おつかいには何日も要してしまいましたけれども。帰路には展望所に立ち寄ってみましたが、久松山から北に伸びる山塊の先に前日に登った丸山城を望むことができました。

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城とマスク

二十数年ぶりの船岡城 (2025/06/09 訪問)

大学生の頃よく通っていた大河原町の蓬莱軒で五目焼きそばとから揚げを食べてから船岡城を訪れました。二十数年前より綺麗に整備されていたので驚きました。帰りに母校にも寄ってきました。

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ぴーかる

法勝寺城 (2025/03/30 訪問)

【法勝寺城】
<駐車場他>城山公園・法勝寺川河堤に駐車スペースあります。
<交通手段>車

<見所>切岸
<感想>日帰り尼子十砦旅4城目。ここは尼子の城跡ではありません。現地説明板によると法勝寺城は1564年に毛利氏によって築城され、吉川元春の家臣三村家親が城主となったとあります。また一説には法勝寺城は毛利本紹が城主となったが、山中鹿之介により攻められ落城し自刃したと伝えられています。
 毛利本紹主従の墓に城跡碑があり、その脇が登城口になります。城跡は公園整備されていて、木々が伐採されて桜が植えられています。主郭を中心に北側下段に舌状の副郭、東側側面に腰広い曲輪が2段程備えています。主郭の西側は道路を通してあり改変されているので遺構は見受けられません。城跡の北側から東側にかけて法勝寺川が流れていて堀代わりの防御設備としているので、西側の道路に堀切か何かの防御遺構があったかもしれないと考えると勿体ない感じがした。

<満足度>◆◆◇

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朝田 辰兵衛

九戸村役場の裏手です… (2025/06/08 訪問)

熊野館は九戸村役場の裏手の丘陵です。熊野神社が祀られていますが,明治時代に移されたそうです。熊野神社の奥に熊野館があります。手前に東屋。土塁上には展望台。熊野神社近くに堀跡を発見しました。

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しんちゃん

庄内の乱 (2025/05/07 訪問)

都之城は永和元年(1375)島津氏の一族・北郷氏二代義久によって築かれました。「庄内十二外城」と呼ばれる支城群を有していて、伊集院氏が城主を務めていた時代に起きた「庄内の乱」の際には、本家の島津軍をてこずらせています。
資料館の建っている本丸と狭野神社のある西城には城址の雰囲気が良く残っています。北郷氏の本城だけあって、城域は広く大淀川とその支流に守られた丘陵部に池之上城・新城・中尾之城・中尾城・外城・中之城・南之城と呼ばれる郭群がひしめき合っていたようです。

豊臣秀吉の九州平定後、島津氏の重臣・伊集院忠棟が八万石で都城に入り、秀吉の直命で島津領内の検知後の知行配分を請け負うことになりました。そのことにより島津家中での恨みを集め、主家を乗っ取ろうとしているという風評までたったあげく、
宗家の後継者である島津忠恒によって、伏見の島津邸にて斬殺されてしまい、これが「庄内の乱」のきっかけとなりました。
忠棟の殺害は忠恒の独断のように見えますが、島津家の総意のようにも感じます。少なくとも島津家内では忠恒の行動を責める空気は無かったのではないでしょうか。
この後、忠棟の嫡子・伊集院忠真と島津宗家の戦いになりました。忠真は「庄内十二外城」を以て善戦しますが、その外城も次第に降伏開城して行き、最終的に家康の和睦を取り入れ降伏し、改めて忠恒に仕えることになり、都城は本郷氏の城に戻りました。
加藤清正は「庄内の乱」で秘かに忠真を支援し、乱の後も連絡を取っていたので、家康の怒りを買っています。そのため会津征伐への参加を認められなかったとされていますが、私は他にも理由があると思っています。

忠真は慶長7年(1602)に忠恒の催した狩りに同行した際に射殺され、実行役の押川治右衛門と淵脇平馬は切腹を申し付けられますが、その子孫は後に出世しているようです。忠真の母と弟三人も同日中に殺害されますが、こちらの方はお咎めなしだったのだろうか?

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イタさん

磯部城址 群馬県安中市鷺宮 (2025/06/05 訪問)

説明板には、正治3年(1201)頃の佐々木盛綱入道西倉の旧跡とあるが、遺構からは鎌倉初頭の頃ではなく、永禄5年(1565)頃に武田信玄が築いたもの・・・と載る。元々あった物を信玄時代に改修したものか。

南駐車場から入ると、正面に城塁と横堀?が、右にも横堀がある。先の三の丸虎口を過ぎ、段がある傾斜した三の丸へ。北側に馬出とあるが草が多く分からず。馬出の先は二の丸虎口で郭内に虚空蔵菩薩を祀る。西に高土居があり、ほぼ埋まった堀を渡れば本丸内へ。右手に田村神社が建つ。二の丸ほど手入れがされず、木々・草が多く図の北側に標示する土塁などが分からない。搦め手口の標示から出て二の丸へ戻り、物見平とある櫓台に行けば、東下には回り込んだ横堀の眺めがよい。

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イタさん

広大な城跡 (2025/06/05 訪問)

城中の案内板に、小田原北条氏の支配地の北西端に位置し、境目の城として重視され、重臣の大道寺政繁が配置された。天正18年の小田原征伐時に北国勢に攻められ、一ヶ月ほどの攻城戦の後、降伏し廃城となった・・・とある。

東駐車場利用。入口に建物があり、パンフレットと書いてあるが物はなかった。縄張など分からないまま散策路を進む。時間の余裕もなかったが、入口背後の土塁・堀切、水の手、連続竪堀付近、本丸、馬出、二の丸くらいで下城する。二の丸先の連続堀切、安中郭、S字堀などは回りきれず。

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しんちゃん

遠堀が残ってはいるが (2025/05/07 訪問)

案内板によると、山田城は「龍廻城」や「朝霧城」とも呼ばれています。「本丸」の他にも「勢城(二の丸)」「安房城」「西拵」「取添」などの曲輪が有りましたが、開発によりほとんどの遺構が残っていません。南方一帯1.3kmに渡って「遠堀」と呼ばれる空堀が配され、今でも一部が残っていますが、竹藪に埋もれ判別は難しい状態です。
延文4年(1359)に肥後国の相良定頼によって築かれたとされ、その後北原氏の家臣・白坂左衛門の居城となりますが北郷数久・忠相がこれを奪い久家を城主とします。その後も城主が入れ替わり、庄内の乱の際には伊集院方の長崎治部少輔、長崎休兵衛らが籠城しますが島津軍によって攻め落とされます。
その後は北郷家が領主に復帰するも元和元年(1615)の一国一城令によって廃城になりました。

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しんちゃん

つつがなく (2025/05/07 訪問)

今日は風邪の療養の為、会社を休んでいます。朝田さん、ツツガムシ情報ありがとうございます。ツツガムシといえばリケッチアというウイルスに近い細菌を保有しているみたいですね。幸い抗生物質が効くようですが、秋田を訪問する際には虫よけや薄手の上着を羽織るなど最新の注意をもってのぞみたいです。秋田・岩手の熊の人身被害の数が他県に比べ群を抜いて多いのも注意が必要です。
ツツガなくやり過ごしたいです、ツツガムシだけに。
秋田から遠く離れて鹿児島県・松山城の投稿です。案内板によると松山城は文治4年(1188)平清盛の弟・頼盛の孫である隠岐守重頼が松山に来て築いたという記録が残っているようです。戦国時代には島津氏や肝付氏などの勢力争いで幾度か落城し、最終的には島津氏の地頭が松山を治めました。本丸・二の丸・五兵衛城・八幡城の4の城に分かれますが、現在そのままの形で残っているのは二の丸だけとされています。頂部に展望台を持つ丘陵が二の丸跡と見られ、いくつか扁平地もあるようです。また、かつての堀跡が堀道になっていました。

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宗春

小田原ガイド協会「小田原城総構いいとこ取りコース」に参加してきました (2025/06/07 訪問)

小田原城は何度か訪れた事があったのですが、天守周辺ばかりで、総構えを歩くという事は出来ていませんでした。
小田原ガイド協会で総構えを案内してくれるコースがある事は知っていましたが、今回予定が合ったので参加してみました。

ガイドコースは総構えの北東(城下張出)から北西(小峯御鐘ノ台大堀切)を歩き、西側(三の丸外郭新堀土塁)を通って報徳二宮神社に出るというルートでした。私有地っぽい場所も多く、ガイドさんが居ないと不審者扱いされてしまいそうでした。

一人ではなかなか歩けないので、参加して良かったです。

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カズサン

やっと初登城しました! (2025/06/04 訪問)

 羽生城は忍城の様な湿田、沼、池に囲まれた縄張の城郭で、皆さん投稿の縄張図が脳裏に残って居り、初めての様な気がしませんでした。

 駐車場:特に無し、但し城跡の古城天満宮南前が広い道で路駐可能。
 参考資料:城郭放浪記さん余湖図コレクションさん城びと投稿者グーグルマップに依る。

 東北道は数拾回とも往復しておりますが、優先度が低いのか他を優先しての通過状態でしたが、今回孫の運動会観戦で宇都宮を訪ねる途中に、羽生ICを降りて立寄りました、インターからは3~4km程で近く住宅街、工場地帯特に曙ブレーキ工業の東隣と言うエリアです。

 先ずは古城天満宮門前に在る石碑、縄張図付き案内板、天満宮・羽生城解説板が揃って立っており目に付きます。羽生城縄張図付き案内板は皆さんの投稿写真で目にしており、やっと見る事が出来たと言うう安堵感と達成感で初めてですがお久しぶりと言う感じ。
 羽生城には家康関東移封時に大久保忠隣が入っていたのですね、その後家康の怒りにふれ改易廃城慶長19年(1614年)、古城天満宮は天神郭跡に当たり他の郭は消滅し遺構は残って居ない。(案内板に依る)

 石碑、案内板の写真を撮り、グーグルマップに芭蕉句碑史跡マークが有り探すが良く分からない、自然石に芭蕉の文字が有りコレかなと撮影するが文字が読めない。また天満宮には存在する牛の置物が石像で飾って有り、毎日お参りしてると言う老婦人がこの石像は舅が彫った牛の石像との事、しばし会話を楽しみました。
 古城天満宮に参拝して終了としました。
  

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翡翠

萩城 (2023/10/21 訪問)

今年も行きました。最近は城下町の方が人気で、萩城址は人が少ないです。今回は行ってないのですが、指月山山頂には、詰丸跡があります。

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ナマズ

綺麗な六段壁 (2025/06/08 訪問)

岩村城に行ってきました
あまり時間がなく山頂まで車で行き
山頂からの登城になりました
駐車場から2分くらい歩くと
今までにいろんな城に行って見たことのない
6段の綺麗な六段壁がありました
そして本丸に行くと見えるのは
時間を忘れるくらい綺麗な景色でした
ピクニックをしてる親子もいました

帰りに中部地方の郷土料理五平餅を食べ
帰りに恵那峡により本日の旅は終わりました

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イタさん

大きな堀切が目立つ (2025/06/05 訪問)

本丸跡に大きな石製の案内台があるが、寝かしてあるため読むには支障が無いが、画像は撮りづらい。その文面に、嘉吉・文安の頃、信州の依田忠政が築いたとされている。中後閑にある長源寺にある文明二年(1470)十月三日付けの依田信濃入道寄進状が・・・。その他は立地、縄張などが記されている。

駐車場からの散策路は公園化に伴い整備された、とあったが、右手に東郭群の城塁を見ながら上る。東郭群は木々が多く全体像が掴みづらい。戻り主郭方向へ行けば、東郭・本丸と二の丸間の大堀切にでる。左手が二の丸で、堀切側が櫓台跡とあり、以前の写真には模擬櫓(井楼)が建っている。二の丸は細長い郭で端に東屋が建っている。大堀切をさきへ行けば左に南郭があり、右の本丸との堀切になる。道は公園化で整備したと案内板にある。南郭も東屋がある狭い郭である。西郭は数段で草が刈られ公園広場になる。東郭より高く本丸があり、坂虎口になるのか上れば、本丸内へ。北側に東屋・石製の説明板、南側は一段高くなり、端に城址碑、周囲に庚申塚が立ち並んでいる。百庚申と書かれた説明板がある。東郭に下りて北郭に向かう。北第一堀切、北第二堀切・北第三堀切とあり、北郭内は広くなく、ここも東屋が建っている。

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イタさん

人見城址 群馬県安中市松井田町 (2025/06/05 訪問)

詳細は分からず。人見氏の居館があり、その後、城として拡張されたようです。
予備知識なく寄ってみたが、遺構がよく分からなかった。大宮神社前に案内板が二つ並んで立つが、手書き風と汚れ、縮尺もあり図がよく掴めなかった。帰宅後、先人さんの記事を読めば、神社下のトイレ場所から赤い橋を渡れば、郭下部の堀跡があったようだ。神社から堀状へ下りれば、水の手と標示があり、水が溜まっている。案内図のうぐいすの井戸だろうか。上がれば馬が数頭描かれた馬出辺りに出る。土塁、竪堀は分かったがその他が確信持てず。東の大宮神社から西の昌見寺辺りまでが範囲とあり、神社南辺りが東郭とあり、民家前の道路脇に東郭と標示があった。

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朝田 辰兵衛

碑は長徳寺の南西約100m付近に… (2025/06/07 訪問)

福田館のピンの場所は,完全に私有地となっています。「長徳寺の向かいを真っすぐ駆け上がれば…」と思い決行したら,他人の家の庭に入り込んでしまいました…。
私有地を抜け出て舗装道路に出たら,偶然にも碑が建っていました。

しんちゃんさんへ…
秋田の地方ニュースですが,クマの出没警報発令に加えて,今年はツツガムシ被害も報告されていました。高熱が出て,最悪の場合は死にいたります。心当たりがあるようでしたら,専門医の受診を。

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じゅんじん

広大 (2025/01/26 訪問)

とてもまわり切れません。またいかねば!

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