続日本100名城

はままつじょう

浜松城

静岡県浜松市

別名 : (曳馬城、引馬城、引間城、匹馬城)
旧国名 : 遠江

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浜松城
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トク

103【関ケ原の26人】(26)井伊直政 (出世の始まり-浜松城) (2024/02/15 訪問)

(26人目)井伊直政の続き⑤です。
直政が家康に召し抱えられ出世の始まりとなった「浜松城」を訪れてきました。

小姓として召し抱えられた虎松は、家康から「万千代」という名を与えられます。そして草履取りとして励む毎日。翌々年には芝原の地で家康就寝中に夜陰にまぎれて襲ってきた武田の刺客を討ち300→3000石に加増されます。この時から家康より絶大な信頼を得ていったようです。万千代この時16才。さあここから、一介の草履取りから徳川家臣団筆頭にまで上り詰めて行った、彼の出世物語(サクセスストーリー)が始まります!

浜松城を訪れると、まず登城口には家康様の銅像がありました。まさに浜松の顔といった感じですね(写真①)。天守はリニューアルされたとは聞いていましたが、確かに黒漆と白漆喰がとても綺麗でした(写真②)。石垣の石も西日本と違い、黄を含んだきれいな石垣です。

しかし、家康時代には天守や石垣はなく、土造りの城だったそうです(写真⑦)。家康が江戸へ移った後に秀吉の命で入った「堀尾吉晴」が、現在のような石造りの城に変え天守も築いたとか(写真⑧)。どうりで浜松城と松江城は何となく似てますよね! その天守も江戸中期にはすでになく、いつなくなったのかははっきりしないようです(写真⑥⑨)。

しかし訪れた後に「城びと特集(城をめぐる最新研究)」に掲載された小和田先生の記事で、家康時代にも少し石垣はあり、富士見櫓の石垣はそうではないかという事でした。確かにその時、天守やその回りの石垣は少し上下を平たく削って丁寧に積まれている感じがしたのに(写真③)、ここ富士見櫓の下だけは何となくちょっと雑な感じのする積み方だな~・・・(写真④)、とは一瞬は思ったのですが、とにかくその時は家康時代に石垣はないという説明(写真⑦)を読んだ直後だったのと、引間城の写真を撮る事に頭がいっぱいで、富士見櫓の石垣をよく見なかった事を今になって後悔している次第です(😩もう遅い)。

そして本来の目的である、直政の遺構がどこかにないか探してみました。でもなかなか見つかりません。しかし見学していると「井」の文字の瓦を発見! これは井伊家屋敷の瓦か? と一瞬思いましたが幕末藩主「井上家」の瓦でした(写真⑤)。結局浜松で、直政の遺構は何も発見できませんでした(ガックリ)すいませ~ん😥。

そして万千代3000石に加増された翌年、井伊家再興がかない家康からも信頼されていると聞き安堵したのか、井伊直虎は龍潭寺松岳院にてこの世を去ります(享年不詳)。

次は、直政の初陣(高天神城攻め)へ続きます。


【余談】浜松餃子
浜松の人はよく餃子を食べるとは聞いていましたが、確かに駅前にはたくさんの餃子屋さんが並んでいました。そこで私もその内の一軒に入ってみました。味噌ホルモンといっしょに食べてみると、確かにとてもビールによく合いおいしかったです(写真⑩)。そして飲む前に「やらまいか!」「おいしょお~!!」と叫んで下さいと言われ、意味はよくわかりませんでしたが、回りにいた他の見知らぬお客様方にも御協力をいただき、大声で叫ぶと何と割引してくれました。なるほど🤔・・・これが浜松の文化だったのか~!
 

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トク

三方ヶ原(2/2)-崔ヶ崖(でどうする家康の名場面を振り返る) (2024/02/13 訪問)

三方ヶ原の戦いで最後の激戦となった崔ヶ崖(さいががけ)を訪れてきました。三方ヶ原墓園からまた同じバスで戻り浜松城の少し手前「さいが崖」バス停で下車しました。バス停の前には、夏目広次の碑がありました(写真⑤⑥⑦)。またその向かい側には、本多忠真の碑(写真⑧⑨)と崔ヶ崖資料館(写真①)がありました

まず資料館へ入ってみました(無料です)。小じんまりしていますが、手作りの人形で合戦シーンが作られているなど(写真②③)、資料も結構わかりやすく内容も充実していました。それもそのはず磯田先生の監修だそうです(写真④)。気さくなボランティアの方々もいらっしゃり、資料を見ながらドラマのシーンなどの質問をすると、いやあれは実はね・・・などととても熱心にの解説して下さり、え~!そうだったんですか? などと話が盛り上がってしまいました(笑)。

次に、本多忠真と夏目広次の碑の前に立ってみました。この二人は家康を逃がすために、自ら犠牲になりましたよね。ここに立っていると、大河ドラマ「どうする家康」でのこの二人の名セリフが思わず浮かんでしまいました。

【本多忠真の名セリフ】
叔父上とともに戦うと泣き叫ぶ本多平八郎(忠勝)に対し

「行け平八郎~!」
「お前の死に場所はここじゃねえ!」
「お前はお前の好きな殿を守れ~!!」

そしてぐいと酒を飲み、武田軍に向かって
「ここから先は一歩も通さん!」

【夏目広次の名セリフ】
「そなたは幼い頃、わしとよう遊んでくれたあの吉信じゃ」
「いえ広次にございます、さあ殿、早くお逃げ下され」
「うそじゃ、死ぬな吉信、死ぬな~!」
と泣き叫ぶ若き家康に対し、家康の身代わりとなるべく金の鎧兜を身につけながら、うっすらと笑みを浮かべ

「殿、殿はきっと大丈夫・・・」

思い出しただけで、また泣けてしまいました😭~。


さあ次は【関ケ原の26人】いよいよ最後(26人目)の旅を、この三方ヶ原の祝田(ほうだ)の地から始めたいと思います。できれば最後まで、またよろしくお願いいたします!
 

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トク

三方ヶ原(1/2)-古戦場と祝田の坂 (2024/02/13 訪問)

三方ヶ原古戦場を訪れてきました。浜松駅からバスで奥山行に乗り40分「三方ヶ原墓園」で下車します。このあたり一帯が、信玄と家康が最初に激突した場所のようです(写真③)。墓園というだけあり、お墓がすごくいっぱいある場所でちょっと不気味でした(😱~)。

バス停の前には、三方ヶ原古戦場の石碑と説明板がありました(写真①②)。そしてここから北の方角、祝田(ほうだ)の方へ歩いてみました。10分程歩くと確かに下り坂がありました(写真④)。今は改良された広い緩やかな下り坂の道路ですが、当時は崖で獣道のような狭い急坂ではなかったかと思います。

徳川家康は地の利を生かし、この祝田の坂(崖)を下るであろう武田軍を後ろから追い落とす作戦だったようです。しかし、武田信玄はそれを読み、逆に坂の手前で「魚鱗の陣」を敷いて、おそらくこの(写真③)位置で待ち構えていました。そして徳川軍は大惨敗、家康は浜松城へ向け、命かながらおもらししながら敗走します。

では、私も徳川軍の気持ちになって、浜松城へ向け全力で走ります! と思いましたが結構距離があるので、とりあえずトイレに行き、それからバスに乗ってまた戻ります(😯え?)。

次は、徳川軍が最後に抵抗した「崔ヶ崖」へ向かい、この続きを「どうする家康」の名場面で振り返ろうと思います。

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【余談】2026年大河ドラマ
2026年の大河ドラマは、豊臣秀長が主役の「豊臣兄弟」に決定したようですね! 秀長と言えば大和郡山城・和歌山城という名が私は思い浮かびます。和歌山と言えば地元イオさんおめでとうございます! 私は、秀長に見出され和歌山城の築城で頭角を現した藤堂高虎を誰がどう演じられるのかも楽しみです。昨年(19人目)の藤堂高虎を追って、宇和島城→大洲城→今治城→関ケ原(大谷吉継と五助の墓を立てた美しい話や、捕らわれた石田三成に一人だけ最後まで敬意を表した美しい話)→津城(伊予で対立していた加藤嘉明を広い心で許し徳川秀忠へ加増推挙した美しい話)などを訪れて知り、高虎ファンになってしまい好プレー賞をあげたのを思い出します。また豊臣秀長と言えば、九州では根白坂の戦いで総大将を務めた事でも有名です(昨年高城を訪れた時に見た秀長本陣跡写真⑤)。まだ2年先の話なので早く来ないかな😊。その前に私はまだ恥ずかしながら、奈良・和歌山県には行った事がありません。奈良県をコンプされた「あ」さんや、近畿を本陣に縦横無尽に駆け回る「ぴーかる」さんは、すごいなと思います。私はせめて秀長のゆかりの地だけでも、できれば来年にはできるであろう大河ドラマ館とあわせて、奈良・和歌山にも一度は行ってみたいものです。

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P.S あっちゃん様
私も以前に姫路城から桑名城を訪れた時、千姫の美しい話に出会い、千姫の人生を追ってしまいした。次は地元桑名城を再度訪れ、千姫パワースポットなども見られてはいかがでしょうか? 詳しくは、お城を探す→桑名城 で検索していただければと思います。
 

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トク

曳馬城(引間城) (2024/02/13 訪問)

曳馬城((引間城)=浜松城)を訪れてきました。曳馬城は元々は今川領の城でしたが、1568年に家康が今川氏から奪い、1570年には信長の命で家康は岡崎から移りここを居城としました。その時、曳馬(馬を曳く)は負けを意味し縁起が悪いので浜松と名を改めた・・・というのが私が浜松を訪れる前までの予備知識でしたが・・・

浜松を訪れたのは初めてで、実は私はここに来るまで勘違いをしていました。上記の内容から推測して、浜松城は別名曳馬城とも言われている事から、曳馬城と同じ位置で同じ場所に浜松城は建てられたものだとばかり思っていました。しかし、浜松城と曳馬城は近くではあるものの別の場所の城であった事を、訪れて初めて知りました。曳馬城は浜松城の東に約300m程行った駐車場と道路を挟んだ地にありました(曳馬城全景写真①と曳馬城の説明④)(浜松城の天守から見た曳馬城の写真②と位置図③)。

これはあくまで私の推測ですが、家康は曳馬城に入った時、いったん引間城と名を改めて、すぐ近くの丘陵地に浜松城の築城を開始し、完成と同時に町の名も浜松と改め、そして江戸時代に入り一国一城令の時、当時の藩主が引間城は浜松城の一部に含まれるように絵図に記述し合わせて一城として幕府へ申告、それから引間城の名は消えて行ったのではないかと推測しました。

現在の引間城は元城町東照宮になっていて(写真⑤⑥)、神社の前には家康が暮らした居館の跡がありました(写真⑦⑧)。家康は岡崎城を出て引間城に入った時、おそらく手狭であったため、より広く強固な浜松城をすぐ西の丘陵地に築城しようと考え、完成するまでの間、ここにあった引間城の居館で暮らしていたようです。

神社には家康と若き日の秀吉(藤吉郎)の銅像がありました(写真⑨⑩)。今川時代の若き日の藤吉郎は仕えていた城主とここを訪れた事があるらしく、その後両者とも出世した事にあやかり、現在の引間城は出世を祈願する神社になっていました。出世にあやかりたい方は、ぜひ二人の像と一緒に写真を撮られてみてはいかかでしょうか?(笑)(写真⑩)。

しかし、ここでふと疑問が🤔? 家康がこの引間城に入ってから、わずか2年後に三方ヶ原の戦いは起きています。負けて浜松城に逃げ帰ったとありますが、もうこの時に浜松城はどこまで完成していたのでしょうか? あの有名なかがり火を焚いてわざと城門を開いたという「空城計」の策は、もしかして浜松城ではなく、この引間城で行われたのではなでしょうか? と思いながら説明板(写真④)を家に帰った後で読み返していたら、何と答えが書いてありました。やはりこの時はまだ、浜松城は完成していなかったようです。よって家康が逃げ帰ったのは、やはりこの引間城だったようです。よって空城計の策は、引間城の玄黙口で行われたようです。「玄黙口を見逃してしまった~!」という事に後で気づいてしましました~!(😩もう遅い)。

次は、その三方ヶ原古戦場をちょっと見てきます。
  

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城郭情報

城地種類 梯郭式平山城
築城年代 永正年間(1504〜1521)?
築城者 今川貞相?
主要城主 飯尾氏、松平氏、堀尾氏、井上氏、水野氏
文化財史跡区分 市史跡(浜松城跡)
近年の主な復元・整備 徳川家康
天守の現況・形態 独立式望楼型[3重4階/1958年築/RC造模擬]
主な関連施設 模擬天守、門、石碑、説明板
主な遺構 曲輪、石垣
住所 静岡県浜松市中区元城町
問い合わせ先 浜松市役所市民部文化財課
問い合わせ先電話番号 053-457-2466