続日本100名城

はままつじょう

浜松城

静岡県浜松市

別名 : 出世城(しゅっせじょう)

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浜松城
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カズサン

陽気に誘われて (2019/04/03 訪問)

 先月31日桜装う遠州路城巡りの残り2城の浜松城に出掛けて来ました、桜は木々に依って咲き方が満開から1、2分咲ですが全体としては今週末が満開に染まる浜松城でしょう。

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カズサン

南エントランスゾーン完成 (2019/03/22 訪問)

 浜松城南側の旧浜松税務署跡地が公園化整備され平成31年3月20日より
開放されました。
 以前より天守曲輪の南側石垣の樹木伐採され合わせて南側からの景観が大変
見やすく成り、南エントランス、本丸黒鉄御門跡に繋がる多聞櫓跡石垣から
本丸、天守曲輪、天守閣、天守御門櫓が展望でき素晴らしい景観に成りました。

 南エントランスゾーンは「本丸南広場」と呼称される様になりました。
 カメラとパソコンの接続ケーブルがやっと見つかったので3月22日撮影した写真を添付投稿致します、接続ケーブルが手元に確保出来ましたので今後そろそろと投稿させていただきます。

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Shanqí89

二人の天下人が交錯した城。 (2018/08/28 訪問)

豊臣秀吉と徳川家康。二人の天下人のまさに天下取りの第一歩が始まったのが、この浜松城と磯田道史先生の著書に記載が有り、訪問しました。
正確には、現在の浜松城は徳川家康一代の出世城。二人の天下人が関わったのは、浜松城の古城曲輪であり昔の曳馬城、現在で言うと浜松東照宮の地です。
曳馬城の主は飯尾氏。この飯尾氏の家臣に松下某というものがおり、ある日、松下が不思議な少年を曳馬城に連れてきた。奇形で猿といえば人、人といえば猿。引間城の本丸にてこの少年に栗を食わせたところ、まるで猿のようだと飯尾家家臣に大ウケし、松下の側近につけた。しかしこの少年の働きは完璧。ついには他の小姓の妬みを買い、いじめられた。仕方なく松下はこの少年に暇を出した。この少年こそは後の豊臣秀吉。秀吉の天下取りの第一歩、初の奉公先はこの曳馬城であった。
その曳馬城もその後、落城。落城した曳馬城の本丸に入ってきたのが若き日の徳川家康。家康は約1年、この曳馬城本丸で寝起きし、三方ヶ原の時も曳馬城の本丸で指揮をとった。やがて城域を拡大して浜松城とした。
現在、曳馬城跡には浜松東照宮が建てられており、境内には豊臣秀吉と徳川家康の二英傑像が置かれています。

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夏の雪だるま

戦国の家康の居城 (2016/09/19 訪問)

静岡県浜松市の浜松城です。築城者は不明ですが15世紀頃築城され当時は曳馬城と呼ばれ16世紀前半には今川氏家臣飯尾氏が城主を勤めていたとされます。今川氏滅亡後1570年徳川家康が遠江攻略の拠点として改修、岡崎城より移り浜松城と改名17年間居城とし、二代将軍秀忠もこの城で誕生しています。1572年武田信玄が大軍を率い上洛のため侵攻、家康方の二俣城を攻略後、浜松城へ籠城する家康の前を素通りし岡崎方面へ向かったことから、家康は追撃背後を襲い三方ヶ原の戦いが勃発、武田軍3万に対して徳川軍8千・援軍の織田軍3千の1万1千が戦い徳川・織田軍が大敗し家康は浜松城に逃げ帰ったとされ、その直後自戒のため有名な「しかみ像」の絵を描かせたとされます。1590年家康が関東移封となると秀吉家臣堀尾氏が城主となり三層四階の天守閣や現在に残る野面積石垣を築いたとされます。関ヶ原の戦い後、城主は代々徳川の譜代大名が勤め、歴代の城主により城は随時改修されています。城は西から天守台、本丸、二の丸、三の丸と東へ連なり、城の南を走る東海道側へ大手門があり、東西600m南北650mの規模とされます。城跡は現在天守台・本丸などが浜松城公園として整備され、二の丸には市役所・小学校などが建ち、三の丸は市街地となっています。

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城郭情報

城地種類 平山城
築城年代 元亀元年(1570)
築城者 徳川家康
主要城主 徳川氏、堀尾氏、松平(桜井)氏、水野氏、高力氏など
文化財史跡区分 市指定史跡
近年の主な復元・整備 天守、天守門
主な関連施設 浜松城天守閣
主な遺構 天守曲輪、本丸、石垣
住所 静岡県浜松市中区元城町
問い合わせ先 浜松市役所市民部文化財課
問い合わせ先電話番号 053-457-2466