かんべじょう

神戸城

三重県鈴鹿市

別名 : 本多城
旧国名 : 伊勢

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天守台北側
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T-Shionoya

神戸城 ポツンと独特な天守台 (2025/09/28 訪問)

暑さの和らいだ9月末に訪れた三重県鈴鹿市の神戸城。

鈴鹿川北側の丘陵と鈴鹿サーキットのある丘陵に挟まれた低地エリアの中央部に築かれた城。

亀山城を本拠とする関氏の分家・神戸氏は沢城を拠点としていたが、1500年代中頃に北東約1kmの神戸城を築城して移転。
1571年に織田信長の三男・信孝が神戸氏の家督を継ぐと、1580年に5層の天守を建設。海寄りを通っていた伊勢街道を城下に引き込んだのもこの頃でしょうか。
本能寺の変の後は城主が度々替わり江戸初期には一旦廃城となるものの、1651年から陣屋が置かれ、1700年代中頃には本多忠統が神戸城を再興。二之丸北東隅にシンボルの二重櫓が築かれ、以後、幕末まで本多氏7代が城主に。

現在は本丸とその南と西の堀が神戸公園となり、二之丸と三之丸には高校が建つ。

実際に訪れると水路が多く、凡その外堀形状を知ることが可能。
しかし城のオーラは弱く、公園化された堀から1段高い本丸上の、丸みを帯びた石材からなる独特な天守台だけが静かに佇んでいる印象。
亀山製紙室山工場跡の移築門、顕正寺の移築大手門、神戸の見付、蓮花寺の移築太鼓櫓も巡り、南北約10kmに散らばるアイテム集めをしたような、私の城郭巡りの211城目でした。

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橋吉

移築された太鼓櫓と大手門も見てみたい (2025/03/01 訪問)

神戸城は戦国大名神戸氏の城で、織田信長の三男で城主となった神戸信孝が、五重の天守を建てたとされています。
江戸時代、神戸は天領となって神戸城は廃城されましたが、
1732(享保17)年に本多忠統が2万石で封じられ神戸城を再築しましたが、天守は再建されませんでした。

本丸と三ノ丸の一部は、現在、神戸公園になっています。
公園駐車場にクルマをとめることが出来ます。
野面積の天守台,本丸を取り囲む土塁,内堀などが残されています。

二ノ丸と三ノ丸の一部は三重県立神戸高等学校になっています。

さらに、市内の蓮花寺に二の丸にあった太鼓櫓が移設され、鐘楼として使われています。
また、四日市市の顕正寺の山門は大手門を移築したものです。

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くうくう

野面積みの天守台が残る織田信長三男神戸信孝の城

伊勢平氏子孫関氏の一族神戸氏の4代神戸具盛が天文年間(1532-55年)に築城。北西に威を振るったが織田信長の侵攻を受け三男信孝を養子に迎え、金箔瓦を用いたの5重6階複合連結式天守を天正8年(1580)建てた。が羽柴秀吉と対立し自刃。その後天守は三重櫓として桑名に移築された。城主は変遷し、江戸期後半は本多氏が治め維新を迎えた。現在は公園となり、二の丸は神戸高校となっている。移築された大手門が顕彰寺山門に、太鼓櫓が蓮華寺鐘楼にある。

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しんちゃん

織田信孝時代の見事な天守台が残る (2023/10/07 訪問)

貞治6年(1367)亀山城主関盛盛政の長男盛澄が神戸氏を名乗り、天文年間(1532~55)
に神戸氏によって神戸城は築かれたとされています。永禄10年(1567)織田信長三男信孝
が神戸氏の養子に入り元亀2年(1571)神戸城主になります。天正8年、神戸城の拡張工事
がなされ五層の天守が築かれたとされ本丸北西部には大きな天守台が残っています。
南西には土塁が残り本丸西側から南側にかけて水堀が残っています。かつての二の丸・
三の丸は神戸高校の敷地内になっているようです。鈴鹿市の蓮華寺に本多氏の時代に
二の丸に築かれていた平櫓が移築されています。四日市市の顕正寺には城門が移築されて
います。

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城郭情報

分類・構造 輪郭式平城
天守構造 複合連結式[5重6階/1580年築/解体]
築城主 神戸具盛
築城年 天文年間(1532〜1555)
主な改修者 神戸信孝、本多忠統
主な城主 神戸氏、石川氏、本多氏
廃城年 明治4年(1871)
遺構 曲輪、石垣、横堀、移築櫓、移築大手門
指定文化財 県史跡(神戸城跡)
再建造物 石碑、説明板
住所 三重県鈴鹿市神戸5-10他
問い合わせ先 鈴鹿市考古博物館
問い合わせ先電話番号 059-374-1994