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天守無しがアツい

高崎駅から600mほど (2025/05/24 訪問)

高崎駅から徒歩でもレンタサイクルでも行けます

井伊直政が主人となった城
江戸期にはそれなりの規模を誇ったが、明治になりその殆どが取り壊されて…現在は櫓や水堀など一部が残るだけ

櫓から少し歩いた場所に高崎城・和田城(高崎城の前身)・根古屋城の御城印を扱っている書店(文開堂書店)もあります

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キンヤ

豊臣石垣館 (2025/05/05 訪問)

豊臣秀吉が築いた大坂城は慶長20年(1615)に大坂夏の陣で落城後、元和・寛永年間(1620~1629)に徳川幕府が豊臣大坂城を盛り土で埋めてしまい、その上に徳川大坂城が再築されました。
昭和59年(1984)の発掘調査で発見された石垣は、豊臣大坂城 本丸の「詰ノ丸」の石垣であることが分かり、今年4月1日にオープンした豊臣石垣館で見学できるようになりました。
地下1階に降りると、見事な石垣を目の前にして感動的でした。地中に埋まっていた貴重な豊臣期の石垣は、今見られる徳川期の打込接・切込接とは違う荒々しい野面積で、歴史ロマンを感じました。
解説パネルや解説映像で、大坂夏の陣で焼かれた時に熱で剥離や赤く変色した戦火の痕跡、石垣角部の豊臣期の原初的な算木積、古墳の石棺の未完品や古代寺院の礎石の転用石などが分かりました。
地上1階に上がると、石垣を見下せ、盛り土で埋められた高さが分かり、裏込め石、五輪塔・石塔も見ることができました。

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カズサン

叶堂城は豊臣水軍拠点 (2025/05/15 訪問)

 現在感応寺に叶堂城の残存石垣石材を一部使用して穴太積みで感応寺観音堂、鐘堂が城郭石垣風に築造されています、城郭放浪記さん城びと皆さんの投稿により是非訪ねたいと思っておりましたが、今回の鳴門大塚国際美術館鑑賞見学旅で家内と訪ねる事が出来ました。
 駐車場:感応寺境内を利用し参拝。
 参考資料:城郭放浪記さん城びと投稿の皆さんグーグルマップに依る。

 感応寺さんと石垣上に在る観音堂に登り参拝し観察見学、北東部、東正面を境内より見学撮影、南西部に廻って南面、西面に遺構の残存石材が復元で活用されているとの情報で見学確認、するも良くは判らない、石垣を穴太積みで築造したとの石碑が在り確認、同じく松帆山感應寺由緒石碑を確認。

 感応寺から西に約200m程の三原川・大日川北岸にグーグルマップ史跡マーク「叶堂城跡」が在り、歩いて尋ねる、「史跡叶堂城跡」の石碑と「叶堂城跡の由来」石盤碑が在ります。
 読むと、城域は南北約150m、東西約200m、高さ10m、基底約2200㎡の地山、南西部に穴太積の石垣が約40mに渡り築造されてた、とあります。
 この地に在った感応寺は叶堂城築城時に北の松原中に移転し、関ケ原、大坂の陣後廃城になった叶堂城跡地に願い出て元の地に戻った様です、昭和59年の河川改修で叶堂城跡は消滅、感応寺は現在の場所に遺構石材を使い石垣復元して移った。との事です。

 歴史的には、この近くの志知城が文禄4年(1595年)城主の加藤嘉明が伊予松前に転封と成った後は豊臣直轄領となり、代官石川紀伊守が派遣され慶長5年(1600年)までに志知城は廃城と成り、新たに叶堂城が築かれた。叶堂城は河口港に近く志知城より水軍の基地、拠点には利便性が有ったと思われます。
 石川紀伊守は関ケ原では西軍に与し敗れ、関ケ原、大坂の陣を経て淡路は阿波徳島藩主蜂須賀家の所領となり、叶堂城は廃城に至る。
 
 この後志知城へ向かいます。
 

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遅れましたが、カメラ派です

 カメラ派です。なるべく軽いコンパクトデジタルカメラを昔から使っています。
1)画質はある程度よければよいと思っていること
2)複雑な操作はしたくない(できない)こと
3)軽量であること
4) 山城では斜面で撮ることもあり片手にトレッキングポールを持っていることが多く片手で容易に操作できること
5)今まで使って慣れていること 
などが主な理由ですが、あまり深く考えたことはありません。カメラもお店の方に勧められたものを購入しました。
 カメラ、スマホに詳しいわけでもなく、こだわりがあるわけでもなく城の写真は気軽に欲望のままにバチバチ撮れればいいかなと思っています。カメラとスマホは両方持っていた方が、片方が故障したときの保険になります。
数年前にミラーレス一眼レフのカメラも購入しましたが、コンデジに比べると重いので城巡りにはほとんど持っていきません。
 イオさんが投稿されているようにコンデジ市場は衰退し絶滅危惧種ですが、自分は今後もコンデジ派の予定です。
 

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ヒロケン

カメラ派です (2025/05/24 訪問)

すみません💦 
自分もイオさんのカメラ派?スマホ派に参加させて下さい💦(いつも投稿のタイミングがズレてしまいすみません)

あれっ! スマホ派の方が多いようでビックリしました。お城に行くと大抵の方は、カメラで撮影されている方を多く見かけます。城びとの方々もてっきりそうかと勝手に思っていました。
自分はカメラ派?です。って言ってもカメラとスマホの両方を使い分けています。カメラが9割でスマホが1割ってところです。スマホは、動画をとる際に使用し、画像はカメラを使用しています。画像だけだと迫力に欠けるというか、大きな城とかに行くと動画で残したいって感じる場面が多々あります。ですが動画撮影を乱用していると充電が持ちません😢

カメラもCASIOのコンデジ・FUJIFILMのデジカメ・OLYMPUSの一眼と3台持っていますが、もっぱら使用しているのは、CASIOのコンデジです。もう古くなって何度か修理に出し、前回修理に出した時に「次回来られることがあれば、もう部品が無いかもしれません」と余命宣告されてしまいました。永年使用しているカメラなので大事にしてやりたいと思っています。
他のカメラは、お城を撮影している方を見ると格好の良いカメラを使用し、羨ましく購入してしまいましたが、やっぱりコンデジに戻ってしまいます。

因みに、カメラを落とした事は一度もありませんが、ウエストバック(小さいやつ)で持ち運んでいる為、山城で足を滑らせた際、転んでカメラのフレームが割れた事がありました。

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にのまる

スマホ派です。

遅ればせながらイオさんアンケートに参加します。
フィルムカメラ時代から写真を撮るのは好きで、ガラケーからスマホにシフトしてからもデジカメ(直近ではPowerShot SXシリーズ)を持ち続けていました。
デジイチ(Canon EOS Kiss)を清水買いしてからは、きれいな写真が簡単に撮れるのがおもしろくて城びとにもよく投稿していたのですが……、

重い!!!!

本体だけでもかさばるのにバッテリー(予備も)に充電器にとなると、電車派にはかなりの負担で、次第に手に取らなくなってしまいました。

そしてコロナ。

気づけば2年近く放置。今後もおそらく使わないだろうと思い、善は急げと新宿ヨドバシカメラへ💨 売ってしまいました\( ˆoˆ )/
そしてその足で地階の石井スポーツへ行き、山城めぐり用にトレッキングシューズを購入したのでした。(デジイチ売却代金とシューズ購入代金がほぼ同額でした。)

コンデジも次第に使わなくなり、今ではiPhone1台(+モバイルバッテリー)で出かけています。カメラ機能に拘りはなく、カメラにお任せの備忘録的な記録しかしていませんが、先日、Androidのお高いスマホを持っている人に見せてもらったところ、同じ場所で撮った写真の出来の違いに愕然。次の買い替えの時にはカメラ機能にも拘った方がいいのかなぁと心が揺れています。

また、先月高温多湿な地域に出かけた時に写真を撮りまくっていたらスマホが悲鳴をあげておかしくなってしまって(バッテリーの減りが異常に早い・画面が半分黒い・突然電源が切れるなど)、カバーを外して冷ましながら切り抜けるという経験をし、1台のスマホにさまざまな機能を詰め込みすぎるリスクを痛感しました。
とにかく【何もかも】スマホの中なので、もしここで壊れたらと考えるとゾッとしました。

スマホ+カメラの2台持ちをする予定は今のところないので、撮った写真は早めに移し替え、普段はなるべく負荷がかからないようにして、リスクの分散も考えようと思います。


それにしてもみなさん!!

よくカメラを落としますね
        ☆*:.。. o(≧▽≦)o .。.:*☆


(私もやったことがあります。
そんなときは、カメラが身代わりになってくれたと思うことにしています^ ^)


イオさん!
「るの門なう!」覚えてくださっていたのですねー(^^)

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しんちゃん

【ヤヴラ~天国】山頂部に広い郭が有る がんばってトライしてみる? (2025/05/08 訪問)

郡山城は古くは郡山氏によって築かれ、南北朝時代には北朝方の郡山頼平が籠り、南朝方の伊集院忠国に攻められ落城したとのこと。江戸時代には南麓に麓が置かれ今は集落になっています。幕末か明治初期にも使用されたという記憶が有るのですが、調べても出てこない・・思い違いであったか?

この城は「藪LOVE怪人ヤブラー」によって、すでに激ヤブにされています。麓が南にあるので、当然山に入る場所があるのですが、入口から既に激ヤブの状態で、倒竹・倒木・竹藪・笹薮なんでもござれの状態。直登状態でこれが延々続くわけで、正直ふざけんなよ~と思いましたね。未踏の城でなければ帰っていたのではなかろうか・・。荷物を水など最小限にして、すり抜けたり・くぐったり・跨いだり・踏みつぶしたりして進んでいきます。その姿ははたから見ると、まさにアクロバティック・サルイノシシです。誰もいなくて良かった。・・・これもChatGPTで合成されてしまうんだろうか? 「しんちゃん」怪人では無いですよ。「変態」に近づいてはいるけど、まだギリ人間の範疇です。
登りやすい所から攻めていくのがセオリーなので南麓から谷筋に沿って進んでいくと、複数の郭が壇上に並んでいます。主郭は標高185m地点の山頂部で、北西にも郭があり周辺に広い城域を持っています。主郭下にも郭が有り、山全体が城郭として構築されているようにも見えますね。山頂部も竹林や森林がありますが、麓に比べると比較的歩きやすかったです。

ChatGPT・・恐るべし。戦闘員のおねーさんといい、妙に完成度が高くデザインのセンスも有るのが(妙センスではあるが)小憎い。
世の「絵師」さんも負けずに頑張ってほしいです。AIの進歩は驚異的ですが、人の手で書いた作品は「唯一無二」であると思うので。

「藪LOVE怪人ヤブラー」の分身体は我々城びとで「城びと編隊シュツジンジャー」を結成して戦うしかありませんな。だれもやりたがらない?・・じゃあ順番こで。怪人ヤブラーの本体は「イオ」さんだとすると倒すわけにもいかないし。
「べらぼう」関連でそのうちニッポン城めぐり廻国異能の者で「平賀源内」が出るかもしれませんね。
源内先生、イオさんを再改造して元に戻してください。
源内「よっしゃ、まかしとき~」ギュイ~ン・・「戻せなくなっちゃった~」
戻せなくなったじゃね~! 江戸時代のローテクじゃだめだ・・。

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トク

【春の長崎天草を巡る㉑:最終回】五島→博多フェリー (2025/04/06 訪問)

最後に福江港から博多港までフェリー(太古)を利用して帰りました、その様子です。

福江港10:10発→博多港17:50着、7時間40分の船旅です。運賃は4,930円(安い!)。船内は結構広くきれいで、2等室も1/3が女性専用エリアのせいか、1人旅か帰省のような女性客も意外と多かったです。船内に売店はなく出航10分前に乗船なので、直前に福江港内の売店で弁当・パン・ビール😊を購入し乗船しました(写真①②③)。船内での貸毛布は100円でコインロッカーを開けると中にあるという方式でした。

出港して3時間後、五島氏の前身、宇久氏の宇久島に寄港します(写真④)。日曜だったせいか釣り帰りのおじさんたちが結構乗ってきて、男性エリアは意外と混雑となりました。

4時間後に平戸島が見えてきました。赤い平戸大橋の右が平戸城です(写真⑤)。つい10日前にあの橋を渡り登城したばかりなので不思議な気分です。

5時間後には肥前名護屋城が見えました(写真⑥)。半島の先がよく私がキャンプをする波戸岬です。多くの武将たちがあそこから船に乗り、この景色を見ながら日本に別れを告げたのでしょうね。

6時間後に唐津城が見えました(写真⑦)。ここで偶然に、つい2週間前に乗った対馬行のフェリーとすれ違いました(写真⑧)。

17:50博多港(ベイサイドプレイス博多埠頭)に到着です。対馬行と同じ場所に着岸します。最後にこの港内にある「博多豊一」でお寿司を食べて帰りました。好きな寿司を好きなだけ選んで皿にのせて清算するバイキング方式で、この鮮度と大きさで一貫たったの120円です! 安くてとても美味しいのでオススメです(写真⑨)。カウンター席があるので一人でも入りやすく、持ち帰りもできます。

【春の長崎天草を巡る】旅はこれで終了です。全21回読んでいただき、大変ありがとうございました😊

(イオさんへ)スマホも最新で高価な機種は、5~7倍のいい光学ズームが内蔵されているようです。要はお金を出して一眼レフと同じ価格くらいの高いスマホを買えば、今ではズームでも結構いい写真が撮れそうです。今回の船の上から5~7倍のデジタルズームで撮った写真④⑤⑥⑦を見ると、手ぶれ補正しても御覧のようにやっぱりぼやけてしまうのが、ちょっとショックでした。私は格安スマホなので、思い切ってこの際買い替えるべきか・・・🤔? でも落としたりした時の事などを考えると、今はまだその勇気がなく、今回外付けレンズがあるといういい情報をもらったので、安そうで合いそうな物があれば、逆に私は検討してみようかな? 効果のほどは・・・?(笑)。
 

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イオ

続・カメラ派? スマホ派?

スマホ自体は使い始めてずいぶんと経ちますが、これまでと違った使い方(写真撮影)をするとなると、考えないといけないこともいろいろと出てきますね。ズーム問題は外付けのレンズで対応できるようですが…いちいち持ち歩いて着脱するのは面倒そうだしなぁ。

> あ さん

スマホのカメラ性能の向上に伴って写真のサイズも大きくなっている、ということですね。普段は撮った写真をカメラからパソコンに移した上で、ファイルサイズを落として投稿しているところ、スマホで撮るんなら現地から写真付きで投稿できるやん、と思っていたんですが(るの門なう! とか)、そう単純な話でもないのか…。

> 美夢さん

画質的にスマホで間に合うようになれば、そりゃわざわざデジカメを持ち歩かなくなりますよね。これまでは手帳型スマホケースを使っていましたが、手帳型は熱がこもるとも言われますし、撮影にも用いるようになれば熱対策としてリングも含めて他の手立ても検討しないといけないな、とも。


ところで…(またしても脱線)

> しんちゃんさん

ヤブラヴブブブ(笑い声)、オレさまは藪LOVE怪人ヤブラーだ! 城びと登録城をみんな激ヤブ城にしてやるぜ。覚悟するのだな!!

…というような怪人をChatGPTで画像生成してみました。イオとかいう城好きが戦闘員のおねーさんに拉致されて改造された姿だとも云われています。それにしても「藪LOVE怪人ヤブラー」と入力するだけで、こんなのを生成してくれるんだからやっぱ凄いよなぁ、と。外国のソフトだからか「藪」がそれっぽいけどわけわからん文字になっているのはご愛敬ですが。
 

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todo94

ゴールデンウイーク後半・伯耆の城めぐり④ (2025/05/03 訪問)

法勝寺城からの転戦です。三の丸を占拠していた野球場が撤去されていて整備が進められていました。二の丸の石垣の見栄えが良くなり、山上の天守石垣と一緒に写真に収めるとなかなか新鮮な感動がありました。二の丸にあるテニスコートもそのうちなくなるのでしょうか。三の丸には三の丸番所ができていて、続100名城のスタンプ置き場も、本丸四阿からこちらに移動しています。登り石垣のアピールも少しずつ、増えているように思います。内膳丸、天守台からの眺望と好天の下、米子城を存分に楽しむことができました。今回の目的は、城カード。まちなか観光案内所にて無事、ゲットできました。午前中の攻城は此処迄。13:00に予約を入れておいた献血ルームがある日吉津のイオンモールへと向かいました。

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しんちゃん

柴小屋館 宮城県伊具郡丸森町 とても訪問しやすい城址 (2025/01/01 訪問)

柴小屋館は柴小屋城とも称され、総称で小斎城と呼ばれる場合もあります。小斎城は柴小屋城、西館城を含めると広大な城域を持ち、標高70m、比高50mの丘陵に東西に広がる山城です。
古くは小斎平太兵衛の居城であったが永禄9年(1566)相馬氏に攻められ、相馬氏の勢力下に置かれました。後にこの地域を巡って相馬氏と伊達氏が争い、天正10年(1582)に伊達氏の所領となり、相馬氏から伊達氏に寝返った佐藤為信が城主となりました。
その後、元和元年(1615)の一国一城令によって廃城になりますが、佐藤氏は引き続き伊達氏に仕え、柴小屋館の南麓に居館を構え、明治まで続いたとのことです。
登城道が整備され、案内も各所に置かれており、とても訪問しやすい山城(平山城)です。その上、遺構も充実しているので山城の初心者でも楽しく散策できます。このような城が各所にたくさん有れば、山城好きの人も増えると思います。
本丸の東に馬屋が置かれ、最高所が本丸で八重垣神社が祭られています。登城道を進んでいけば、すぐに馬屋跡・本丸に行くことが出来ます。本丸内には陸橋跡があり、堀切を挟んで西に二の丸があり、西端に土塁が残っています。その西にも空堀があり、その先に土塁を備えた枡形の様な曲輪が有ります。

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ぴーかる

山鹿城 (2025/03/22 訪問)

【山鹿城】
<駐車場他>無料駐車場はなし。コインPのフラットパーク湯乃端に駐車しました。
<交通手段>車

<感想>2泊3日西九州旅3日目5城目。現地説明板によると山鹿城は菊池則隆の次男西郷政隆より出た山鹿氏代々の居城でした。1587年、山鹿重安のとき国主佐々成政に一揆を起こし、城村城に立て籠もりましたが、豊臣秀吉軍に敗れ切腹させられました。
 城跡地は独立した丘陵地全体を城としていたようですが、現在は城跡碑と説明書があるのみです。昼食ついでに訪れました。温泉には入りませんでしたが、温泉プラザ山鹿にも立ち寄りました。

<満足度>◆◇◇
<グルメ>「彩座」にて馬刺御膳を食べました。上記駐車場が提携駐車場になっているので、ここで昼食を取り山鹿城跡ついでに行きました。

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しんちゃん

日向三城 (2025/05/05 訪問)

塩見城は南北朝時代に土持氏が築いたとされ日知屋城、門川城とともに「日向三城」と呼ばれました。その後、都於郡・伊東氏の支配下に置かれ綾民部左衛門義恒が居城しました。戦国末期には伊東氏庶流の右松四郎左衛門が塩見地頭として入りましたが、天正5年(1577)に伊東氏が豊後に敗走すると島津氏の城となりました。
城址は比較的コンパクトで丘陵の頂部に主郭が置かれ虎口周辺には土塁も残ってます。主郭の東と西に郭があり、いずれも主郭と繋がっています。城址近くの道から舗装された登城道が東郭まで通じていますが、歩いて行った方が良さそうです。

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にのまる

雨上がりの夕散歩。 (2025/03/02 訪問)

この日4城目。
雨のためここまでの3城を短時間でまわったのもあり、唐津駅に着いたのが予定より早い15:30。
早速ホテル(東横インはなかったので別のところ)に荷物を置いてお城見学に繰り出しました。

復元された肥後堀から三の丸、埋門小路を通って海岸の方へ向かいます。旧高取邸に興味津々になりながら右手を見ると立派な天守が見えてきました。まっすぐに延びる石垣の道、かっこいいです。

石垣沿いにしばらく行くと「御住居・学問所」の説明板がありました。県立唐津東高校移転後の跡地に早稲田系列の学校が設立されたようなので、ここは学校名を置き換えて読む必要があります。

天守に吸い込まれるように石段をのぼると左手にエレベーター乗り場がありました。
前回来たときに見つけられなかったエレベーター。ここにあったのか!!
おもしろそうなので乗ってみることにしました。100円です。
……あっという間に本丸に到着。
景色を見ずにワープしてしまったので方向感覚を失ってしまいました。。。

天守内を見学し、虹の松原を望みます。雨も上がりくっきりと見えました。いつか向こう側まで渡ってみたいなぁ。

多種多様な石垣、天守台石垣の門脇の島津家刻印石などを目に焼きつけて船入跡、城内橋へ。
最後に石垣修復・新築復元された三の丸辰巳櫓を通ってホテルに戻りました。

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しんちゃん

大友公園と宗麟公園 (2025/05/05 訪問)

大友別館は大友宗麟の晩年の居館とされ、大友公園が居館跡とされています。小高い場所にあり、展望台からの眺望は良好ですが、遺構などは残っていません。南西に1kmちょっと行った場所に有る宗麟公園には大友宗麟の墓があります。
堂宇のある日本式の墓は寛政年間(1789~1801)旧家臣の末裔・臼杵城豊により改葬されたもので、キリスト教式の墓碑は昭和52年、上田保氏を発起人とする「大友宗麟公顕彰会」によって磯崎新氏の設計で整備されたもののようです。

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朝田 辰兵衛

🗻を見ようかなと思ったけど… (2025/04/28 訪問)

神奈川県コンプ翌日は「🗻見たいな…」と思いましたが,雨男ぶりを発揮してしまいました。電車旅も兼ねて,身延線の井出駅まで。静岡気分で山梨県の真篠城へ。
ここはヒルに注意が必要ですが,全く大丈夫でした。天候のほうも,そのうち晴れるかなと期待しましたが,井出駅に戻ったら土砂降りとなりました。
コンプ後に気持ちをシフトするには良かったのかもしれません。

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トク

【春の長崎7城を巡る⑳】(13)福江城(石田城) (2025/04/06 訪問)

春の長崎天草を巡る旅、最後(13城目)は「福江城(石田城)」です。

10:10発のフェリーに乗りたいため、早朝7時にホテルをチェックアウトして出港までの3時間、福江城をぐるりと1周して散策しました。港の反対側にあたる城の西側には搦手門が残っていました(写真②③)。

石田陣屋は焼失した江川城に代わり、福江藩2代藩主「五島玄雅」により1638年に築かれました。唐津藩主「寺沢広高」が設計したそうです。

異国船が出没するようになったため、福江藩は1806年に異国船防衛を理由に幕府に築城の許可を願い出ましたが許可されず、1849年「五島盛成」の代になりようやく許可されました。しかしいざとなると財政難で築城には石田陣屋を改修するなどして節約しますが、それでも14年かかり1863年にようやく完成し、江戸幕府最後に築城された城となりました。しかし明治の廃城令で、わずか9年しか存在しなかったようです。

9時の開館になったところで歴史資料館に入り(写真④⑤)、スタンプを押して中を見学しました。福江城は三方を海に囲まれた海城だったようです。その模型がありました(写真⑥)。という事は🤔・・・今ある外堀は、当時は海だったという事ですね。

現在の福江城は五島高校の敷地になっています(写真⑦)。ここの生徒たちは堀と石垣に守られて勉強しているという事になります(何とうらやましい)。でも石垣を見てちょっと不思議に思いました。隅部は切込接ですが、それ以外は全て丸っこい石です。それもわざと丸く削っている感じです。しかも城全体全てがこのような石垣です。幕末に築かれた他の城は全てが切込接できっちり隙間もなく削られた石なのに、なぜ福江城は丸い石にしたのか疑問でした。海城だったので波に耐えられるよう(波の力が分散されるよう)わざとこのような丸く削った石を積んだのでしょうか🤔?(写真⑧)。

歴史資料館を見学し終えて、徒歩10分の福江港まで歩きました。港の入口には常灯鼻(常夜灯)がありました。当時の灯台です。ここも荒波にも耐えられるようにか、やはり丸い石の石垣で作られていました(写真⑨)。散りゆく桜と、咲いていた五島椿がとても綺麗でした(写真⑩)。

最後にフェリーからの帰路の景色をお伝えして終わろうと思います。
 

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にのまる

ぐるっとひとまわり。 (2025/03/02 訪問)

吉野ヶ里公園から長崎本線と鹿児島本線を乗り継いで久留米へ。

そぼろ雨の中の見学となり、さてどういうふうにまわろうか……と思案しましたが、前回同様、現地に設置してくださっている【久留米城跡史跡めぐり】と【久留米城跡案内マップ】に沿うことにしました。
筑後川やいちばん好きな蜜柑丸の石垣も見渡せてよかったです。


朝田さん。
まさかホントに東横インからだったとは∑(゚Д゚)
【駅近くの高い場所】からの眺望だろうと思い、もしかして東横インがある?とGoogleマップを見てみたら……東口にある!!
でもまさかねーと思っていたのですが🎯だったとは!
小田原は近すぎて宿泊することはないと思いますので、貴重なお写真を見せてくださりありがとうございました。

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カズサン

徳島城-6/6 御殿居館辺り編 (2025/05/14 訪問)

 徳島城-5/6 西二の丸、西三の丸辺り編の続です。

 5月13日夕刻、14日早朝で徳島城を探訪、時間の関係で徳島城博物館には入館できませんでした、表御殿庭園と博物館に徳島城模型は見たかったなと思ったり、50数年ぶりに城山の本丸へ足を運び今生の思い出です、青石と呼ばれる緑色片岩の高石垣も堪能。
 両日とも藩祖蜂須賀家政公銅像を拝み、案内板によると戦前は蜂須賀正勝公(家祖)の野太刀と長槍を持った甲冑姿の銅像が立っていたが戦時中に供出された、変わって昭和40年現在の裃姿の家政公が立ったと有る。甲冑姿の小六正勝公を見たかったですね。ちなみに三代目蜂須賀至鎮(ヨシシゲ)公は初代藩主と言われています。
 阿波蜂須賀家は秀吉の時代に176,000石、至鎮公の時大坂の陣でも功績が在り淡路一国を加増されて257,000石と成って居ます。
 14日朝には6時半ラジオ体操が太鼓櫓台前に市民が大勢集まって居ました。
 前日は北側のバラ園鑑賞、鷺の野営地はうるさく樹木が白くフンで汚れて居ました。

 50数年ぶりに本丸東二の丸西二の丸西三の丸に登り久しぶりの緑色片岩の石垣を眺め堪能、足腰にきましたがいい思い出と成りました。 長々と6編ご覧頂きありがとうございました。

 15日は淡路島を探訪します。
   

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カズサン

徳島城-5/6 西二の丸、西三の丸辺り編 (2025/05/14 訪問)

 徳島城-4/6 本丸搦手虎口編の続です。

 本丸西側に狭い範囲ですが上段に西二の丸、下段に西三の丸が構えます、各曲輪に櫓台と桝形石段が構えて厳重な護りと成って居ます、現在西三の丸は徳島市水道配水池と成っており立入禁止です。上部から眺めるだけ。
 西三の丸御門からは二折れの長い山側石垣の石段で城山麓へ降り、現在は68692蒸気機関車が展示されてる辺りに降ります。
 さらに麓の西側に西の丸が有りましたが今回は訪ねて居ません、現在は小学校、アリーナ、市民の施設に成って居ます。
 以前車で訪ねた時は、アリーナ辺りの駐車場を利用しました。公共機関ではJR徳島駅が最寄駅で便利です。
 
 徳島城-6/6 御殿居館辺り編に続く。
  

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