暴風雨で滞在時間5分でバスに乗り込みました
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2025/09/14 15:08
暴風雨でした (2025/06/04 訪問)
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2025/09/14 14:24
水戸城 (2024/12/31 訪問)
これまで水戸城の遺構といえば本丸跡に残っている藥井門か水戸藩の藩校であった弘道館ぐらいだったのですが、二の丸隅櫓や大手門が復元され、学びのエリア+城址の復元がうまい具合に成り立ってきました。天守代用の三階櫓も欲しいけど、学校の敷地の関係から再建は難しいらしい。しかし、この櫓・・実にシンプルなデザインだ。「三階物見」と呼ばれていたようだが、三階は人が数人入ったらぎゅうぎゅうになってしまうのではなかろうか。個人的には、この人を喰ったようなデザイン・・嫌いじゃない。
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2025/09/14 13:57
森将軍塚古墳・長野県千曲市 (2013/08/12 訪問)
似たような名前に埼玉県の将軍山古墳がありますが、こちらは長野県の森将軍塚古墳になります。古い写真の上に城郭ではありませんが、ご容赦いただきたい。他にも三基の前方後円墳があり、これらを一括して埴科古墳群と呼び国の史跡に登録されています。
4世紀末~6世紀ごろに造られたとされ、全長100mの森将軍塚古墳は長野県で最大の前方後円墳とされています。麓の村跡から見上げた姿は石垣で築かれた山城のようです。およそ11年の歳月をかけて復元され、学校の教科書にも載っているようです。千曲川や街道を押えるのにうってつけの場所にあり戦国時代にここに砦が置かれていたとしても何の不思議もないでしょう。
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2025/09/14 13:00
名古屋城 (2024/03/09 訪問)
地質学雑誌に記載された西本昌司氏のレポートによって本丸搦手馬出の石垣の石の配置図を見ることができますが(ネットでも閲覧可)、訪問時は本丸搦手馬出は工事中で周辺は立入が禁止されていました。そのおかげで周辺の石垣も遠景でしか見ることが出来ない。
いずれにせよ搦手馬出しの周囲には水堀があるので北面は対岸から見ることになるだろう。次の課題にしよう。
城内には青松葉事件にかかわる石碑があります。これまでの訪問時にはスルーしてきたのですが、青葉松事件とは慶応4年(1868)1月20~25日にかけて藩主・徳川慶勝によって佐幕派の藩士(重臣含む)14人が処刑された事件です。
慶応3年10月に大政奉還が行われ、徳川慶喜はまだ将軍職を勅許された状態でしたが薩長は討幕に動き、慶喜が江戸に戻ってすぐに青葉松事件が起こりました。処罰された有力な重臣・渡辺新左衛門家の別称が「青松葉」だったため青松葉事件の名称で呼ばれるようになりました。
徳川義勝は元は高須藩の出身で、高須藩は尾張徳川家2代徳川光友の次男・義行によって再興され尾張徳川家御連枝として四谷松平家が継承していました。尾張徳川家の嫡子が途絶えた時にこれに養子を提供する役割を果たしており、義勝の弟の容保は会津藩を継いでいます。青葉松事件で殺害されたものの中には前藩主に近い者が多く、佐幕派以外の人物も含まれていることから藩内の権力闘争に利用されたっとの見方もあるようです。岩倉具視が絡んでいるともされ、ドロドロしていて気味が悪くなってきますね。
鳥羽・伏見の戦いの前に落ち目の幕府を見限って立場を鮮明にしたようにも見えますな。
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2025/09/14 12:30
織田家本城 (2025/08/07 訪問)
名古屋へ出張、仕事前の空き時間で登城しました。
地下鉄東山線の覚王山駅から徒歩で12分。
城山八幡宮を目指し、武道場の養心殿から二の丸の昭和塾堂を経て本丸へ。
本丸は城山八幡宮の駐車場になっています。
端の方に石碑も立っていました。
本丸の北側の曲輪に八幡宮が鎮座します。
お参りをして東側の女坂へ。
立派な空堀が横たわります。
この時季なので草ぼうぼうですが一部草が刈ってあり堀底に降りることができました。
街中なのにこれが残っているのは素晴らしいです😊
南側の堀には赤い橋も架かっています。
こちらが八幡宮の表参道ですね。
ご存知のように織田信秀が築いた城で案内板にも「織田本城」と書かれています。
信秀死後は織田信勝(信行)に譲られましたが、信勝が信長に謀殺されたあとに一旦廃城に。
後に織田信雄が小牧・長久手の戦いに備えて入っています。
現存する遺構はその際に整備されたもののようです。
【見どころ】
・八幡宮を囲む深い空堀
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2025/09/14 07:11
【赤色立体地図かるた】
「海風に 宴の残り香 名護屋城」
(うみかぜに うたげののこりが なごやじょう)
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2025/09/14 07:08
【赤色立体地図かるた】
「空角の経始 令和も健在 宇和島城」
(あきかくのなわ いまもけんざい うわじまじょう)
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2025/09/14 06:09
柳津城 (2025/09/13 訪問)
美濃斎藤氏の家臣である竹腰摂津守重直の居城と伝わります。岐阜県岐阜市にある城びと未登録の城址です。摂津守が1556年(弘治2年)に起きた斎藤道三と息子義龍のよる「長良川の戦い」で、義龍側として参加し戦死。その後、叔父の成吉摂津守尚光(竹腰尚光)が城主となり、義龍に仕えました。城は後に起こった大洪水で廃城となっています。竹腰氏は没落しますが、後に竹腰正信が徳川家康に仕えます。正信の母お亀の方は夫正時と死別後、徳川家康の側室となり尾張徳川藩の藩祖となる義直を出産します。この縁で正信は家康に仕えるようになったようです。その後、正信は尾張藩の附家老となり、竹腰氏は幕末まで尾張徳川家を支えました。
現在城址は光澤寺の境内となっており、遺構はありません。本堂裏に城址碑、門の前に説明板が建てられています。
名鉄柳津駅から徒歩5分くらいで行くことができます。
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2025/09/14 06:00
森部古戦場と森部城(岐阜県安八郡安八町) (2025/09/13 訪問)
前田利家の織田家への復帰が叶えられたことで知られる合戦跡です。美濃を支配していた斎藤義龍が急死すると、跡を継いだ龍興が14歳と若年であったため織田信長は美濃へ侵攻します。この地で織田軍1500、斎藤軍6000と数の上では劣勢でしたが、信長は斎藤勢を打ち破りました。
織田信長に仕えていた前田利家は信長の寵愛を受けた同朋衆の拾阿弥を、愛用の笄を盗んだことから斬り倒してしまい織田家から追放されました。帰参を望む前田利家は桶狭間の戦いに無断で参加し武将首を取る成果を挙げましたが、織田家へ戻ることは許されません。そしてまたも無断で参加したのが森部の戦いです。この戦いで利家は斎藤勢の中で「首取り足立」と猛将と恐れられていた足立六兵衛を討ち取ります。足立六兵衛は信長に「足立の首は、城一つ攻め滅ぼしたも同然」といわせたほどの武将でした。他にも首を取った前田利家は織田家への復帰が許されます。
「鎧掛けの松」は首実験のおり、信長が鎧を掛けた松と伝えられています。現在は二代目の松が「出世の松」として植えられています。NHK大河ドラマ「利家とまつ」を記念して、信長、利家がこの地から出世していったという縁起にあやかって「出世の松」植樹となったようです。首実検はしたのが、近くの薬師堂で説明板などがありました。
「出世の松」から北に約1.2Km歩くと森部城跡(城びと未登録)があります。遺構はありません。南隣の金峯神社は本郷城主稲葉正成の屋敷跡です。
おまけ
近くに三洋電機が2001年12月に建設した巨大建造物「ソーラーアーク」がありました。新幹線で名古屋から京都方面へ行くときに右手に見えてくる建造物ですが、ここにあったのですね。
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2025/09/14 05:37
本郷城 (2025/09/13 訪問)
岐阜県羽島市にある城びとには未登録の城址です。
稲葉正成が慶長6年(1601)より元和9年(1622)まで葉栗郡内と中島郡内を合わせてほぼ一万石を領して居城とした城です。説明板によれば城域は神明神社の西に広がる水田2ヘクタール程であり、明治14年以前には城の内と呼ばれていました。遺構はなく神明神社に石碑があり裏に説明板が彫られています。
稲葉正成は、以前は小早川秀秋に仕えていた武将で関ケ原の戦いでは平岡頼勝と共に徳川家康に内通し秀秋を東軍に寝返らせる事に成功した武将ですが、経歴を見ているとなかなか興味深い人物です。妻は後に春日局となる福ですが、彼女が徳川家光の乳母になった後は離縁しています。
新幹線岐阜羽島駅もしくは名鉄新羽島駅より徒歩約10分の場所にあります。
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2025/09/14 00:15
再建大手門 (2024/12/31 訪問)
ここに来るまでに既に幾つか訪問してきたので、二の丸の角櫓を見に行くことは出来ませんでした。とはいえ、この日の目的は再建された大手門を見る事だったのでヨシとします。しかし、大手門の裏側はずいぶんあっさりしている。こんな構造だったのか。後ろにも目をつけるんだって誰か言ってなかったか? 門は以前は藥医門しかなかったので、ずいぶんイメージが変わった。
中はどうなっているのか興味があるな。
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2025/09/13 20:41
二俣城の堀切それぞれ (2025/02/25 訪問)
二俣城には南側先端の南の丸Ⅱ南下に一号堀、南の丸Ⅰと南の丸Ⅱの間に二号堀・切岸、南の丸Ⅰと二の丸の間に三号堀・切岸、本丸と北の丸の間に四号堀・堀切、北の丸の北側に五号堀・堀切(現在は北の集落への道路と二俣城専用駐車場に成って遺構は判りずらい)、南の丸Ⅰの西下に二号竪堀、西の丸Ⅱの南下に一号竪堀が存在しています。本丸に在る二俣城案内パネルに二俣城実測縄張図が掲示されて居ますのでご確認ください。
今だ、一号堀と一号竪堀は未確認です。
今年の2月25日冬枯れの樹木の葉っぱが落ちて、草刈、樹木伐採の清掃整備が出来上がった頃を見図って出掛けました、晴天世良い一日でした。今回の投稿で2025/02/25撮影の写真投稿は終了です。
続いて鳥羽山城を同じく探訪しましたの続いてタイミングを見て投稿させて頂きます。
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2025/09/13 19:45
北の丸・旭ヶ丘神社 (2025/02/25 訪問)
二俣城の北の丸は尾根先端を五号堀・堀切で北の浜松市天竜区役所に在る笹岡城・二俣古城から南に天竜川に沿って伸びる尾根筋を切断されております。現在は北に伸びる尾根筋道、二俣城駐車場で5号堀遺構は少し見にくくなっています。
北の丸の北側東側は切岸崖に成り、西側も切岸崖ですが崖下に登城路が付けられて4号堀・堀切本丸と切られて、本丸北門・食違い門跡と北の丸はコンクリ橋で続いています。
北の丸内部は現在旭ヶ丘神社が鎮座し、日清、日露、満州事変、大東亜戦争で亡くなられた二俣町英霊351柱が祀られて居ます、二俣の靖国神社・招魂社の様な神社です。
鳥居を潜って神社の裏側北側の崖は畏れ多く深入りはしていません、神社参拝してぐるっと見渡して終了です。
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2025/09/13 18:11
名古屋城 (2024/03/09 訪問)
本丸御殿の東側に「山田」の刻印を発見しました。以前吉田城で石垣の崩壊に伴う修理を行いましたが、その際に一割ほどの石が交換石としてよけられています。安全を確保するための処置ですが、あまりに綺麗に並べ直してあったので一見、別の石垣になったのかと焦りました。吉田城の本丸南側の橋の近くにはその時外した「山田」の刻印のある石を飾ってあります。
吉田城の石は名古屋城築城時に余った石材のおさがりを頂いているので、当然名古屋城にも「山田」の刻印のある石はあります。たまたま本丸御殿の東側の石垣の中に「山田」の刻印石を見つけた時は、思わずガッツポーズでした(小さくね)。
この刻印は蜂須賀家政の嫡子・至鎮の家臣・山田氏にちなんでいるようです。至鎮の受け持ちは西の丸とされ本丸南東部は長州藩主・毛利秀就で、たしかこの人は蒲郡市周辺で採石を行い、地元の古墳の石まで持っていこうとしてたのではなかったか? イボ石が真っ二つになっていました。蒲郡市の竹島の石燈籠の乗っている巨石にも矢穴の跡があります。毛利秀就の家臣が石垣に刻んだ刻印は「二」の文字が使われているようです。
今度探してみようかな。
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2025/09/13 17:36
名古屋城 (2024/03/09 訪問)
天下普請で築かれた名古屋城の石垣は築城を開始したその年の内に、ほぼ積み上げてしまったようです。本当かな~? ちょっと信じられないスピードですね。穴太衆の技術もさることながら、石の採集や運搬、加工や積み上げなど、どのように役割分担をして効率化を図って来たのか興味があります。それぞれにドラマがあって面白そうですね。
でも、築城開始の数年前までどの大名も豊臣恩顧でブイブイいわしてたのに、人間コロッと変わるものですな。人情紙風船~
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2025/09/13 17:07
岡山城 (2025/05/19 訪問)
岡山城
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2025/09/13 17:03
2025/09/13 14:18
【赤色立体地図かるた】
「元親像に会いたくて……岡豊城」
(もとちかぞうにあいたくて……おこうじょう)
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2025/09/13 14:10
【赤色立体地図かるた】
「城山に 青石キラリ 徳島城」
(しろやまに あおいしキラリ とくしまじょう)
「守りの要 支える舌石 徳島城」
(まもりのかなめ ささえるしたいし とくしまじょう)
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2025/09/13 13:45
歴史は謎 (2024/12/31 訪問)
木田範宗の墓は木田余城跡の一角に設けられています。木田余城は範宗によって築かれたとされ範宗は主君・小田氏治と対立し、氏治の命を受けた菅谷氏に誘殺されたと書物に記載があるようです。
時期は手這坂の戦(1569)の後とされますが、被疑者にも被害者にも諸説あるようです。結局謎につつまれているのだけど、歴史の真否に関しては、なかなか断言できることではないですね。大事なのは考えることだと思います。
常に新しい情報を入れて、考えまくることが重要だと思います。私は、城人ならではの形で様々な歴史に対しての「気づき」が有るのではと考えています。実際に自分の目で見て考えねば解らないことがあると思いますね。
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