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【赤色立体地図かるた】 (2018/10/07 訪問)

「夜が明けて あっと驚く 石垣山城」 (よがあけて あっとおどろく いしがきやまじょう)


森の中で作業を行い、最後に周囲の木を伐採することで突然城ができたように装ったと伝わる石垣山城です。北条氏は一夜にしてできた城を見て、あっと驚いたのでしょうか。

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にのまる

【赤色立体地図かるた】

・キハ110 お別れ遠足 鉢形城
(きはひゃくと おわかれえんそく はちがたじょう)

今年度限りで。


・八高線 かすめて走る 鉢形城
(はちこうせん かすめてはしる はちがたじょう)

見られたらラッキー✌️

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にのまる

【赤色立体地図かるた】

ラビリンス⁈ 五城三郭 烏山
(ラビリンス⁈ ごじょうさんかく からすやま)

迷路を歩いているみたいでした!

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にのまる

【赤色立体地図かるた】

烏山線に 揺られて半刻 那須の城
(からせんに ゆられてはんとき なすのしろ)

JR烏山線の愛称=「からせん」。宇都宮から約1時間で烏山駅到着です。

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朝田 辰兵衛

【赤色立体地図かるた】 (2020/07/24 訪問)

「トイレとは 思えぬ石垣 新宮城(といれとは おもえぬいしがき しんぐうじょう)」

トイレがあまりにも威厳ありすぎで,「ここは何?」と思ったのは私だけではないと思います。

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しんちゃん

豊臣秀次 (2013/09/14 訪問)

近江八幡城は天正13年(1585)豊臣秀次が43万石で近江八幡に入った時に築かれました。山上の城は総石垣の梯郭式城郭で詰の城の様な役割を果たしていたと見られ、麓には普段政務を取っていた居館跡があります。
本丸跡には秀次の母で豊臣秀吉の姉の日秀尼(智)が開基となる村雲門跡瑞龍寺が移転されています。山上までロープウェーで訪問できる珍しい城郭です。それだけ訪問者が多いということでしょうか。

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朝田 辰兵衛

【赤色立体地図かるた】 (2017/08/27 訪問)

「備中の 天空浮かぶ 松山城(びっちゅうの てんくううかぶ まつやまじょう)」

「備中」と「松山城」を分けて五七五のリズムに乗せるチャレンジをしてみました。これでもしっかり「備中松山城」とわかるのでよろしいかと思います。いかがでしょうか…?

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しんちゃん

【赤色立体地図かるた】 (2019/05/11 訪問)

「竪堀で 御洒落に飾った 丸子城(たてぼりで おしゃれにデコった まりこじょう)」
う~~ん、まりこのとろろを使いたかったのだけど、todo94さんに先を越されてしまった。さすがにお目が高いです。
吉田(豊橋)に再訪された際には弥次喜多さんも舌鼓を打った(たぶん)田楽(お田)を召し上がっていただけると嬉しいです(ああっ地元アピールをしてしまった)。

丸子城は武田氏の改修を受けているという話なのですが、この遺構の完成度の高さを見ると徳川の改修も受けているのでは? と思います。遠州の武田氏の手の入った城を見ても、これだけ手の込んだ城は、なかなか無い。豊臣軍から駿河を守る重要な山城なので、念入りに改修を受けていると思いますがいかがでしょうか?

実際の竪堀は草木で解りづらくなっているけど、周囲に竪堀を大量に配した香川先生のイラストは本当に美しい・・造形を極めた山城って素晴らしいですね。

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しんちゃん

【赤色立体地図かるた】 (2024/01/26 訪問)

「秀吉を 天下人と成す 石垣山城(ひでよしを てんかびととなす いしかきやまじょう)」
ホントは一夜城で締めたいんだけど、城名が「石垣山城」なので。
小田原征伐の前は、まだ秀吉に本当の意味で忠誠を誓っていない大名もけっこういたと思うのですが、大軍を引き連れてさんざん力押しでゴリゴリ攻めた後に、最後は戦わずして敵の戦意を奪うという、まさに朝田さんの言われる秀吉の妙技の粋だと思います。
これぞ「劇場型天下取り」という奴で、これは秀吉にしか出来ない。これで秀吉の天下がほぼ決定したという意味で歴史的な意味を持つ城址だと思います。味方にも余裕を見せつけたかったと思うので、小田原城から見えない所も、けっこう手が込んでます。

さっきの脇本城とは「天下」繋がりです

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しんちゃん

【赤色立体地図かるた】 (2021/04/05 訪問)

「天下道 踏みしめ登城 脇本城(てんかどう ふみしめとじょう わきもとじょう)」
正直 「てんかみち」か「てんかどう」か良く解らんのですが、昔の古道はたいてい「どう」で通っているので「てんかどう」にしておきました。城址に至る古道は秋田藩主の佐竹家も使用していたことから「天下道」と呼ばれるようになったそうです。
湊安東氏にとっては「安東三城」の一つとされる重要な城でした。

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朝田 辰兵衛

【赤色立体地図かるた】 (2021/06/14 訪問)

「荒城の 調べ流るる 岡城下(こうじょうの しらべながるる おかじょうか)」

城下を歩きながら登城口に向かう途中,どこからか「荒城の月」のメロディが流れてきました。時間を伝える音楽なのかわかりませんが,こういう城下の雰囲気っていいな…と思いました。

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イオ

【赤色立体地図かるた】 (2018/10/08 訪問)

そびえ立つ 巨岩と石垣 苗木城
(そびえたつ きょがんといしがき なえぎじょう)

懸造 木曽川見おろす 苗木城
(かけづくり きそがわみおろす なえぎじょう)

苗木城といえば、そびえ立つ巨岩と巨岩を活用して積まれた石垣が見どころですよね。また、巨岩の上に懸造で築かれた天守も特徴で、天守展望台から木曽川を見おろす絶景は忘れられません。

…ということで、少々出遅れてしまいましたが、赤色立体地図お城かるたの読み札用テキスト募集に参戦いたします。今回は前回の半分の50城であり、うち登城済みは11城しかありませんので、あまり投稿できそうにありませんが、ぼちぼちやっていこうと思います。
 

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ぎりょう

新徴組を訪ねて (2025/07/26 訪問)

 東北地方も猛暑日が続いている週末、ここ数年続けている山形県庄内地方を訪問しました。午前中は遊佐町の知人を訪ね、午後からは鶴岡市内でチョいと歴史探訪。何度も訪れている鶴岡市ですが、今回は「江戸のお巡りさん」の異名をとり、鶴岡に移住後は庄内藩の戊辰戦争でも活躍した新徴組に関わる場所を訪ねました。
 先ずは鶴岡の奥座敷と云われる湯田川温泉へ。新徴組は元治元年(1864)に幕命で庄内藩士となり江戸市中取締りにあたりますが、慶応4年(1868)の庄内藩の江戸屋敷引き払いに伴い、組士136人とその家族311人が鶴岡の湯田川の温泉宿や民家に移住します。温泉街の西の山際に新徴組の墓地があります。ここには湯田川在任中に亡くなった組士と家族20名の墓があります。
 次に、松ヶ丘開墾場跡へ。戊辰戦争の後、旧庄内藩は殖産興業策として蚕糸業を起こします。明治五年(1872)に旧藩士3,000人が刀を鍬に持ち替え、月山山麓の後田山で開墾にあたり、明治七年には311ヘクタールの桑園を完成させます。ここでは松ヶ丘本陣や大蚕室、開墾が始まってから大宝寺より移築された新徴組屋敷を観ることができました。
 暑いさかりの時間でしたが、大蚕室を利用した開墾記念館は涼しく、幕末の動乱、そして戊辰戦争の時代をたくましく生き抜いた新徴組士や庄内藩士に思いを寄せることができました。

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朝田 辰兵衛

【赤色立体地図かるた】 (2024/02/12 訪問)

「新時代 ホテルの窓から 小田原城(しんじだい ほてるのまどから おだわらじょう)」

「東横イン小田原駅東口」833号室からの眺望です。朝食後だったので,7:00を少し過ぎたあたり。

※「にのまるさん ようやく参戦 やる気出た」

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朝田 辰兵衛

【赤色立体地図かるた】

「国史跡 桜の名所 三戸城(くにしせき さくらのめいしょ さんのへじょう)」

未訪ですが,先日の岩手県の未投稿城攻めで,攻城の可能性があったためロックオン済。2022年3月15日に国史跡指定。春はさまざまな桜が咲き誇り,桜の名所として愛されています。

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朝田 辰兵衛

【赤色立体地図かるた】

「ネームバリュー ワールドクラスだ 花巻城(ねーむばりゅー わーるどくらすだ はなまきじょう)」

未訪ですが,先日の岩手県の未投稿城攻めでロックオン済。「花巻」のネームバリューは,大谷翔平さん,菊池雄星さんが活躍することで海外にとどろいております。

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トク

【赤色立体地図かるた】 (2025/02/05 訪問)

「美ら海と 桜が映える 今帰仁城」
(ちゅらうみと さくらがはえる なきじんじょう)

美しい海と寒緋桜が咲いた景色のコントラストがとても美しく、しばらく見とれてしまうほど感動したので、その時の様子を詠んでみました。
 

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トク

【赤色立体地図かるた】 (2025/02/06 訪問)

「護佐丸の 無念伝わる 中城城」
(ごさまるの むねんつたわる なかぐすくじょう)

「アーチ門 ペリーも唸る 中城城」
(あーちもん ぺりーもうなる なかぐすくじょう)

尚国王から身に憶えのない謀反の罪を着せられ、阿麻和利から攻められるも抵抗する事なくここで自害した護佐丸。なぜ彼は抵抗せず自ら死を選んだのでしょうか? 沖縄永遠の謎をかけてみました。

沖縄に立ち寄ったペリー探検隊は、こんな立派な石垣やアーチ門がある城を発見し、「う~ん・・・これはすごい!」と思わず唸りながら、この石垣を見上げていたのではないでしょうか。
 

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todo94

三連休2日目の攻城⑤ (2025/07/20 訪問)

上代城からの転戦です。この城の北には幼稚園、東には中学校、南には小学校があります。城が教育施設を引き寄せているかのようです。公園の入口は、幼稚園の前にあります。目立たないけれども案内表示があります。このあたりの路側帯はかなりの広さがあるので、短時間、路駐させていただきました。説明板は錆びきっていて読みにくいです。

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城山公園 (2025/07/31 訪問)

 長禄-文明年間(1457-1487)頃に太田道灌が築いたとも北条氏康に属して後に離反した太田康資の館ともされていますが、確実な事はわかっていないようです。城山公園として整備されています。空堀や櫓台を観ることができます。

 しんちゃんさんが登城されたときは倒木の恐れがあり立入禁止になっていたようなので登城できるか不安でしたが、2024年9月11日より全面開放となっていました。

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