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しんちゃん

長篠・設楽ヶ原の戦い 鳶ヶ巣山砦 (2025/10/05 訪問)

武田勝頼が長篠城を攻略した際に医王寺の本陣などの他に五ヶ所の砦を築きました。鳶ヶ巣山砦はその中核を担う砦で主将は武田勝頼の叔父・武田兵庫信実とされています。それなりに城域は広いはずですが、地形が変わっていたり駐車場になったりしているようです。
主要部周辺に案内板や戦死者達を弔う石碑(供養碑)がありますが、西側の斜面にも臨時の腰郭の様なものが複数あります。いつの時代のものかはっきりしませんが、ちょっと斜めっているところが即席の砦っぽい。
設楽ヶ原古戦場周辺は案内板や「いろはかるた」などがあって賑やかな雰囲気ですが長篠の五砦は少し地味な印象が有りました。堀や土塁などの遺構もあまり無かったと思います。案内板などがあると嬉しいですが、いろいろ事情が有るのかな?
イオさんも長篠の五砦を回っているようですね。お先に投稿させていただきました。ちなみにここを攻めても「めぐり」のリア攻めはつかないです(残念)。似てるようで微妙に違うんですよね。

大久保彦左衛門の通り名で有名な大久保忠教は徳川三代に仕え旗本の中心的な存在となり「天下の御意見番」と呼ばれています。酒井忠次が豊川を渡り鳶ヶ巣山砦を始めとする五砦に奇襲をかけたのは有名な話ですが、この戦いは忠教の初陣でもあり、後の世の講談では、忠教はことあるごとに鳶の巣文殊山での武勇伝を持ち出してくるそうです。
場所は変わりますが新城市の作手にも文殊山城があり、尾根続きに塞之神城へ行くことが出来ます。長篠・設楽ヶ原との関わりは不明です。

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しんちゃん

長篠・設楽ヶ原の戦い 武田勝頼観戦地・才ノ神本陣 (2025/09/28 訪問)

武田勝頼の観戦地とされる才ノ神本陣は頂部に広い郭があり、周囲にも扁平地が広がっています。すべての郭を合わせるとそれなりの数の兵を駐屯することが出来るでしょう。北側には土塁や堀は見当たりませんが切岸のようになっています。
ウッドチップの敷き詰められた道を下って元の分岐に戻り、先へ進むと武田三武将の墓があり常林寺に戻って来ます。三武将とは
川窪詮秋
土屋直規
望月重氏
の三人で、土屋直規は土屋貞綱のことを指しているようです。貞綱は岡部氏の一族で、伊丹康直と共に水軍を率いて今川氏に仕えていました。やがて今川氏の没落と共に武田氏に仕え、武田軍の水軍大将を務めたようです。
望月重氏は望月氏の一族で、退却戦のさなか落武者狩りに会って落命したという逸話があるようです。川窪詮秋については詳細が分からないのですが、三人とも長篠・設楽ヶ原の一連の戦いで命を落としているようです。

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イオ

本丸周辺 (2025/06/21 訪問)

戦国前期に菅沼元成が築いた城で、長篠菅沼氏の居城となりました。武田信玄の東三河侵攻により武田氏に従うも、信玄が病死すると徳川家康に攻められて開城し、奥平信昌が入って武田軍の侵攻に備えて現在見られる縄張に改修しています。そして武田勝頼率いる1万5千の大軍に包囲される中、織田・徳川連合軍の来援まで持ちこたえたことが、設楽原での勝利につながりました。長篠の戦いの後は、奥平信昌が新城城を築いて移ったことにより廃城となっています。

帯郭跡に設けられた駐車場から登城開始。長篠城址史跡保存館は前回に入館しているのでスルーして本丸に向かうと、眼前に広がる折れのある内堀と本丸土塁! これほどの備えをしてあったからこそ武田軍の包囲を耐え抜くことができたんでしょうね。そして土橋を渡って本丸へ。本丸土塁に上ると長篠城址の石碑が立てられていました。土塁上から見下ろすと折れを設けて横矢掛りになっていることがよくわかります。土塁の突端には城藪稲荷社があったようですが、文化財保存のため大通寺境内に移転したとのこと。この後、大通寺にも行く予定なので、その時にお参りするとしましょう。

本丸土塁を下りて本丸を見渡すと、南西辺は豊川の断崖、北西辺は矢沢川の断崖になっていて不忍の滝も見られます。豊川の対岸は鳥居強右衛門が磔になった地であることから、強右衛門に関する説明板や案内表示がいくつも立てられていました。南東辺はJR飯田橋の線路になっているあたりに土塁が設けられていたようです。線路の向こう側が野牛郭で、宇連川の対岸には武田五砦と呼ばれる武田軍が長篠城を包囲するために築いた砦群が見えています。この後、鳶ヶ巣山砦をはじめとする武田五砦にも行きましたが、その際に渡った牛渕橋から眺めると豊川と宇連川の合流点に築かれた長篠城の後堅固ぶりがよくわかりました。

本丸をひとめぐりした後は周辺の郭をめぐるとしましょう(続く)。
 

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todo94

3連休の秋田ドライブでの攻城⑥ (2025/10/11 訪問)

羽川新館からの転戦です。標柱はすぐに見つかったのですが、登城口が分からず難渋しました。城郭放浪記さんのページを現地で熟読して何とか登城することができました。バス停名にもある通り白華公園として整備されているのかと思いきや、登城路も郭内も雑草がかなり繁茂していて、ヌスビトハギには相当悩まされました。朝田辰兵衛さんの攻城時とは全く様相が異なっています。整備の手が入らなくなったのは山中にやみくもに人が入り込んで熊による被害が出ることを防ぐ目的があるのではと勘ぐってしまいます。とりあえず、堀切は確認できたし、説明板にもたどり着けたので満足です。

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赤い城

久千田城 徳島県阿波市 (2025/08/15 訪問)

城びと未登録の城です。
県道12号線から少し北側に入ったところにあります。
路肩が広くなった場所に車を置き細い道を進むと水田の中にこんもりとした小さな丘があります。
ここが城跡の中心部、下草元気な畦道を進んで近くまで行きました。
石碑と説明板がありますが盛夏の訪問ではいずれも草で覆われていました。

元は三浦氏がこの辺りの地頭として築城。
その後安房伊予守、小野寺氏が居城としました。
ここも長宗我部氏に攻められて落城しています。

夏なので平城、と思ったのですがそれはそれで草ぼうぼう。
やっぱり城は冬に攻めるのが良いですね。

【見どころ】
 ・水田の中の丘状の城跡

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天守無しがアツい

豊臣石垣館 (2025/10/07 訪問)

大阪城のミュージカルショップで(大阪城の)御城印を買った際に「豊臣石垣館」の存在を知り…まずはその入館記念証を買う。天守の見学後に(まだ17時前だったので)そこへ向かう

まず映像紹介…豊臣秀吉によって建設された壮大なる大阪城…大坂冬の陣にて埋められる外堀…大坂夏の陣で陥落する城…石垣ごと埋められて新たに建てられた徳川版大阪城…火災により焼失した天守…戊辰戦争における徳川慶喜脱出の際に荒廃した城…昭和初期に再建された今の3代目天守…という流れ

地下に降りると豊臣政権下の石垣が…ここだけなら撮影OKとスタッフに回答されたので、館内はそこだけを撮影

思ったより展示数は少なく…後は地上の石垣をご覧下さいという案内文で終わり😅

もしかしたらまだ発掘途中なのかもしれない…もしくは徳川幕府により徹底破壊された?だからこんなにあっさりと終わってしまう?

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しんちゃん

野面積み最高 (2025/07/01 訪問)

山頂に近づくと黒井城の主要部の石垣が出迎えてくれます。東曲輪跡から三の丸の野面積みの石垣を堪能します。ここの石垣は良く形状を保っていますね。個人的には野面の石垣が一番好きです。いかにも戦国時代らしくて良いですね。石垣積むのにそんなに時間をかけてられないよ・・てな感じがすごく良いです。戦国時代最高です。
東から東曲輪・三の丸・二の丸・本丸と綺麗に曲輪が続き、それぞれの曲輪に石垣が残っています。折曲がり虎口をもう少し楽しみたいけど、遺構の保全との兼ね合いもあるので、こんな感じかな。こんなご時世なので、できれば複数で楽しく登ってほしいですね。良い山城は出来るだけ多くの人に楽しんで欲しいですな。

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しんちゃん

長篠・設楽ヶ原の戦い 武田勝頼観戦地・才ノ神本陣 (2025/09/28 訪問)

設楽原歴史資料館を北上して内藤昌豊の陣のさらに北の丘陵に武田勝頼の戦地本陣があり「武田勝頼観戦地」の石碑が立っています。古くから「赤ハゲ」と呼ばれる地で、やや南西に行った所に敵陣である断上山があります。戦地本陣とはいえ、主郭の周囲には複数の郭があり、南側には土塁や堀切が残っています。特に手前の土塁は二重になっているように見え、簡易的な城を築いたようにも見えますが合戦の頃の遺構だろうか?
合戦のさなかに勝頼は内藤昌豊の陣が有る天王山陣所に移動して共に指揮を取ったと天王山陣所の案内板には書かれています。長きに渡って武田に対し劣勢であった徳川との力関係にも、この合戦で大きな変化が有ったと思います。

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しんちゃん

長篠・設楽ヶ原の戦い 武田勝頼観戦地・才ノ神本陣 (2025/09/28 訪問)

設楽原歴史資料館を北上して内藤昌豊の陣のさらに北の丘陵に武田勝頼の戦地本陣があり「武田勝頼観戦地」の石碑が立っています。古くから「赤ハゲ」と呼ばれる地で、やや南西に行った所に敵陣である断上山があります。戦地本陣とはいえ、主郭の周囲には複数の郭があり、南側には土塁や堀切が残っています。特に手前の土塁は二重になっているように見え、簡易的な城を築いたようにも見えますが合戦の頃の遺構だろうか?
合戦のさなかに勝頼は内藤昌豊の陣が有る天王山陣所に移動して共に指揮を取ったと天王山陣所の案内板には書かれています。長きに渡って武田に対し劣勢であった徳川との力関係にも、この合戦で大きな変化が有ったと思います。

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しんちゃん

くろ谷 金戒光明寺・新選組発祥の地 (2016/02/20 訪問)

金戒光明寺は京都市左京区にある浄土宗の大本山です。承安5年(1175)頃法然が当地に草庵を建てたことが由来とされ「くろ谷さん」の愛称で呼ばれているようです。境内の阿弥陀堂は慶長10年(1605)に豊臣秀頼によって再建されたもので、熊谷直実の鎧懸の松の他、徳川二代将軍秀忠夫人の崇源院(江さん)の墓も有ります。
寺院としては堅固な造りで江戸初期に黒谷と知恩院は徳川家によって城構に改められています。幕末に松平容保が京都守護職に就任すると会津藩の本陣が置かれ、当地で浪士組の芹沢鴨・近藤勇らが容保と謁見を果たしました。その後、8月18日の政変の日に「新選組」の隊名を拝領し市中取締の命を受けています。金戒光明寺も新選組とゆかりの深い場所で、「新選組発祥の地」とも呼ばれています。

明日から合戦です。ヨシ姫も良いのですが、個人的には戦闘員のお姉さんも登用したい。運に左右される要素も大きいですが。

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朝田 辰兵衛

丸太橋を比較してみた… (2025/09/15 訪問)

けっこうな確率で足止めされてしまっている,深草館の丸太橋。個人的な感覚にはなりますが,ちょっと比較してみました。
(難易度大)>(難易度小)
これで表現してみました…
平倉城(長野県)>深草館(山梨県)>中里館(山形県)>井川城(長野県)
こんなカンジです。
平倉城(長野県)は,私を含めて3名のみ。他に,todo94さんといんげん丸虫さんです。ここは,引き返したら何のためにここまで足を運んだのかわからなくなるので,意を決して…というのが本音だと思います。落ちたら高い確率でケガします。
まだまだあるよ~という意見もいただけたら幸いです。

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シェル

いわきの陣屋めぐり② ~湯長谷陣屋~ (2025/05/04 訪問)

 JR湯本駅から徒歩40分。バスの場合は、湯本駅からいわき駅行のバスで「常磐扇田」下車し徒歩18分。
 陣屋跡は、大部分がいわき市立磐崎中学校の敷地になっていて、学校内に石碑があります。
 学校敷地外の南東側には、L字の水堀、土塁の遺構が残されています。土塁と水堀そばの道路脇に説明板や当時の様子の配置図が設置されています。初夏ということもあり、草が生き生きしていましたが、それでも土塁と水堀は見ごたえがありました。
 湯長谷藩は、「走っぞ!!」でおなじみの映画『超高速!参勤交代』の藩としても知られています。訪問前に映画を見ましたが、湯長谷をスタートして高萩や取手などを通って行ったり、さらには水戸様まで出てきて、いわきというよりも、道中の茨城色が強くて地元民としては親近感が湧き、とてもおもしろかったです。
 映画を見てからだと、ここから陸前浜街道、水戸街道を通って参勤交代したのか…とちょっと感動しました。

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いわきの陣屋めぐり① ~泉陣屋~ (2025/05/03 訪問)

 JR泉駅から徒歩7分。小名浜を観光した帰りに立ち寄りました。
 泉陣屋は内藤氏、板倉氏、本多氏が治めた泉藩の藩庁です。
 陣屋跡は、泉公民館、泉西公園になっています。泉公民館の北東側の歩道そばに泉城阯碑、説明碑、「赤玉本多」のモニュメントが設置されていました。赤玉本多の由来は、泉藩本多家二代藩主の本多忠籌が寛政二年(1790)に老中に就任し、江戸登城の際に持ち槍二本が許されました。そのうちの一本の槍には、太陽をあらわす「朱天目」、俗にいう「赤玉本多」が飾られたことにちなんでモニュメントとなったようです。泉西公園には、公園北側に陣屋の土塁が残されています。
 そして陣屋門も残されており、陣屋跡から東に500mほどの所にある民家に移築されています。陣屋跡から西に目を移すと、700mほど西に泉藩主本多家墓所もあります。

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浜通りの有力領主 岩城氏の居城 (2025/05/04 訪問)

 JRいわき駅から徒歩20分ほどです。
 城跡は、常磐線と磐越東線が合流する地点のすぐ近くの山です。雛壇状に曲輪が配置されていて、登城路の途中に帯曲輪と思われるものも見受けられました。二ノ郭に「飯野平城跡-大館-」の石碑があります。石碑のそばから本郭に向かう坂には石積みが確認できます。(当時のものかは不明)。本郭は二段になっており、高くなっている部分には、戦没者慰霊碑が設置されています。二ノ郭には石碑のそばに、神社の鳥居があり、鳥居から道なりに進むと本郭東下に着きます。ここに湯殿山神社があり、曲輪が残されていました。
 城主の岩城氏は、相馬氏と並ぶ福島県浜通りの戦国期の二大勢力の一つです。戦国初期は常陸の佐竹氏の内紛に介入するなど、全盛期を迎えました。しかし徐々に衰退し、佐竹氏の南奥進出によって、佐竹方に属します。関ケ原の合戦でいったん改易となりますが、大坂の陣での活躍で、信濃川中島を与えられ、最終的に出羽・亀田藩主になります。岩城氏の改易ののちは、大館城には鳥居忠政が入り、磐城平城を築城した際に廃城となったようです。

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ぴょん

群馬県唯一の大名庭園(知らなかった…) (2025/10/16 訪問)

楽山園自体は知っていたのですがまさかの織田信長の次男織田信雄が初代藩主小幡藩だとは知らずつい興奮してしまいました。
城下町には武家屋敷が点々と残っていて住んでいるにもかかわらずご厚意で庭園を開放されているのでそちらも見学させていただきました。
付近には織田宗家七代のお墓等があります。

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todo94

3連休の秋田ドライブでの攻城⑤ (2025/10/11 訪問)

八森城からの転戦です。羽川新館公園として整備されています。珠林寺に向かって橋を渡り左折して川沿いに少し進んでから未舗装路を行くと駐車場と説明板がありました。二の丸の下にある竪堀群は、大葉沢城の畝形阻塞の小型版といった趣でたいへん驚かされました。本丸の辺りでは、不気味な低音が響いていましたが、それは近くにある風力発電の回転音でした。羽川古舘もあるようですが、今回は足を伸ばしていません。

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しんちゃん

長篠・設楽ヶ原の戦い 鳥居強右衛門の墓 興国山(鳥居山)新昌寺 (2025/09/28 訪問)

長篠城の南側に新昌寺があり鳥居強右衛門の墓(伝・胴塚)があります。天文8年(1539)長篠医王寺四世月傳太惰大和尚により創建され、当時は「喜船庵」と呼ばれました。長篠・設楽ヶ原の戦いで周囲は戦場と化し、鳥居強右衛門は武田方によって磔刑にされた後、「喜船庵」に埋葬されました。
慶長8年(1608)に鳥居強右衛門の子信商によって強右衛門の墓は作手の甘泉寺に移されますが宝暦13年(1763)に新昌寺に再建されました。一説には新昌寺が胴塚、甘泉寺が首塚とされているようですが実際の所は不明です。
境内には武田方諸将の墓も有ります(おそらく供養塔)。墓碑の文字は「和気善兵衛宗勝」「伝・高坂又八郎助宣」「横田十郎兵衛康景」「小山田五郎兵衛昌晟」と読めます。高坂又八郎助宣は謎の人物ですが山県塚の近くにも墓がありました。
和気善兵衛宗勝は久間山砦の守備中に酒井忠次の配下に奇襲を受け討死しています。
横田康景は武田軍の足軽大将で武田二十四将・原虎胤の子とされています。
小山田昌晟は詳細不明の武田家臣で長篠か設楽原のいずこかの戦いで討死しています。
なぜこのメンツになったのかは良く分かりません。

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しんちゃん

長篠・設楽ヶ原の戦い 鳥居強右衛門磔死之地 (2025/09/28 訪問)

長篠城の南側にある牛淵橋の上から長篠城が良く見えるビュースポットがあります。手前のもこっとしたのが腰郭になるのかな?
本丸の南に野牛郭があって南端の野中門を下ってからこの腰郭を経由すると豊川に降りて行くことができるみたいだ。強右衛門が長篠城から豊川へ降りて行く姿を想像すると少し感慨にふけってしまう。
牛淵橋から西にちょっと行ったところに鳥居強右衛門磔死之地の看板があり、そこから真っ直ぐ入って突き当りを右に進むと「鳥居強右衛門磔死之跡」と書かれた立派な石碑が立っている。
強右衛門が狼煙を挙げたタイミングや内容も様々な解釈があるようで、ここの案内板には岡崎で援軍の確約を取った強右衛門が雁峰山へ登って合図の「ノロシ」をあげた後で武田軍に捕まったと書かれている。これだと武田方の言うとおりに「援軍は来ない」と言っても長篠城の城兵が信じるか眉唾だが、強右衛門はそれでも「援軍は来る」と大声で叫んだとされている。
案内板には武田勝頼も「勇気の士」としてその行動を称えたが武田軍の将兵によってこの地で磔になったと記載されています。

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しんちゃん

長篠・設楽ヶ原の戦い 広瀬の渡 強右衛門上陸の地 (2025/10/05 訪問)

新城市の豊川沿いの川路天神の地に「鳥居強右衛門勝商上陸の地」の標識があります。天正3年(1575)に武田勝頼が長篠城に攻撃を仕掛けたため、鳥居強右衛門が岡崎の徳川家康に援軍を求める使者として派遣されました。強右衛門は夜中に長篠城の野中門を出て、武田軍の包囲をかいくぐって豊川からこの地に上陸し、ここから雁峰山に登って脱出成功の狼煙を揚げ、援軍を求めに岡崎に走りました。
考えてみれば雁峰山から揚げる狼煙を「援軍来る」の合図にしておけば、武田軍に捕まって殺されることは無かったような気がしますが・・なんにせよ強右衛門の気概が長篠城の士気を大いにあげたのは間違いないと思います。
「鳥居強右衛門勝商上陸の地」に向かう途中に、酒井忠次の軍勢が鳶ヶ巣山砦を襲撃する際に豊川を渡ったとする「広瀬の渡」があります。時差はありますが、この地で酒井忠次と鳥居強右衛門がすれ違ったというのは面白い話です。

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橋吉

美しい玉石垣 (2025/10/08 訪問)

名豊道路-1号線バイパス-国道150号線と走り次いで、静岡県掛川市にある横須賀城へやってきました。

本丸前に7台くらいとめられる駐車場があります。
横須賀城の石垣は天竜川より運ばれた石を使っています。
これは築城を急いだためと言われていますが、他に類を見ない玉石垣は独特の美しさがあります。

横須賀城はもともと松尾山と本丸からなる中世山城でしたが、東西の平地に二の丸、三の丸を広げていき近世城郭になりました。
松尾山といっても大きな古墳と行った程度ですから是非足を運んでみてください。

城跡北にある景江山撰要寺の山門は横須賀城二の丸不開門を移築したものです。

見学所要時間:1時間

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