大友宗麟、高城からの続き(11)です。
大友軍が大敗を喫した「耳川」と、宗麟の本陣「無鹿」を訪れました。
高城川で敗れた大友軍は豊後へ逃げ帰ろうと北へ敗走します。しかし翌日、耳川まで来た所で、川は前日の雨で増水し渡る事ができません。そこで追いついた島津軍に挟まれ大損害を出してしまいます。これが決定的な敗北の要因となりました。この耳川で討ち取られた首の数は5千とも1万とも言われています。(高城川と合わせると大友軍の戦死者は1万5千とも)。
私はJR美々津駅(写真⑥)で降り、30分かけ耳川まで歩いてみました(写真①②③)。またJRの車窓からも耳川の中州に合戦場の地碑が見えました(写真④⑤)。この日は前日から晴天だったので、川の水は穏やかでした。しかし当時は雨上がりで水かさがあって渡れず、ある者は討たれ、ある者は溺死し、この川は血で真っ赤に染まり、水面が見えない程のおびただしい数の死体で埋め尽くされていたものと思われます。想像しただけで足が震えました😱。
さらに耳川から北へ30km、宗麟がキリストの理想郷の建設に没頭していた場所を訪れてみました。JR延岡駅から北へバスで20分「無鹿」のバス停(写真⑦)で降りました。この一帯がそうだったようです(写真⑧)。ここは北川の河口で、当時は良好な港で商業も栄えた場所でした。無鹿はポルトガル語のMUSICA(英語のMUSIC)からとったようで、南蛮の管弦楽器の音色に魅せられた宗麟は、この名を理想郷のシンボルにしたかったのでしょう。本陣跡は、現在は妻耶神社になっていました(写真⑨⑩)。当時この付近にあった神社仏閣は全て破壊され、その資材で教会を建てたそうです。しかし今はその教会は無く、宗麟の本陣跡が神社になっていたのには、何故か皮肉に感じられました。
そして耳川の敗北の翌日(高城川の敗北から2日後)、宗麟は初めてここで、大友軍が大惨敗を喫し、島津軍がもうそこまで迫っているという現実を知ります。とても驚き、取るものもとりあえず着のみ着のままで船に乗り、臼杵城へ急いで逃げ帰ったそうです。宗麟はこの時、どんな思いで敗走して行ったのでしょうか? 数の上では有利であったはずの大友軍がなぜ敗れてしまったのか? 牽制するだけで戦はするなと命じていたはずなのに、家臣らはなぜ勝手に暴走し戦をしたのか? 宗麟は信じられない気持ちでいっぱいだったのではないでしょうか?
次は、大友宗麟最後の戦い(臼杵城の戦い)に続きます。
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