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しんちゃん

長篠・設楽ヶ原の戦い 柳田前激戦地・松平伊忠戦死の地 (2025/09/28 訪問)

設楽ヶ原の古戦場の武田軍と徳川・織田連合軍の間には連吾川が流れています。川に架かっている橋を良く見ると両軍のレリーフがはめ込まれていて見ていて面白い。東が武田方でまさに騎馬隊が敵陣に襲い掛かっている所ですが西側では鉄砲隊が待ち構えています。
この周辺が柳田前激戦地で、生き残った武田軍の部隊が合流して最後の突撃を行った場所とされています。ここよりやや東に行った先に甘利信康の碑があります。
場所は変わって、長篠の古戦場から豊川を渡って少し北に行った場所に「松平伊忠戦死の地」の石碑があります。伊忠は酒井忠次とともに鳶ヶ巣山砦を急襲し守将の武田兵庫信実を討ち取る武功を挙げましたが、追撃で深追いしすぎて小山田勢の反撃を受け討死してしまいました。伊忠らの奮闘で五砦を落とし武田軍の背後を押えることが出来たのですが、伊忠は徳川・織田方の武将で唯一と言って良い戦死者になってしまいました。おかげでそこはかとなく「うっかり者」のイメージがついてしまったような・・生きていれば大手柄武将だったのだけど、戦場では大胆さと慎重さの使い分けが難しいですな。南無・・

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しんちゃん

長篠・設楽ヶ原の戦い 徳川家康物見塚 (2025/09/28 訪問)

設楽ヶ原古戦場の徳川家康の本陣の東にケッターパークへの入り口が有り「長篠設楽原決戦場碑」があります。私は「設楽ヶ原」の注記の方を良く使いますが、現地の表記では設楽原と書かれている場合が多いです。どっちもアリなのかな。
徳川家康の本陣とされている八釼神社の裏山の頂部に断上山10号墳が有り、周囲は広い扁平地になっており陣所の雰囲気があります。10号墳の東には9号墳があり、長篠設楽原決戦場碑のある場所から道が続いています。この9号墳のある場所へ徳川家康が移って戦場の指揮を執ったとされ「徳川家康物見塚」と呼ばれ石碑が立っています。

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トク

【宮本武蔵】(18)霊岩洞と武蔵塚(武蔵の最期) (2025/07/18 訪問)

宮本武蔵の続き(18)[最終回] です。

武蔵は晩年、細川忠利に客分として招かれ、熊本城そばの旧千葉城があった場所に屋敷を与えられます。現在の熊本年金事務所が建っている場所だそうです(写真⑧⑨⑩)。

細川忠利の客分として熊本に来た武蔵ですが、その忠利は翌年亡くなってしまいました。武蔵はそれから、金峰山の中腹にある雲岩禅寺(写真③)の中にある霊岩洞(写真①②)に籠ります。そして自らの兵法を「二天一流」と名付け、その心得などを記した「五輪の書」を完成させました。これは武蔵の人生の集大成と言ったものではないでしょうか。雲岩禅寺は、桜町バスターミナルから[U3-1]河内温泉センター行のバスに乗り30分、岩戸観音入口で下車し、そこから20分ほど坂道を登った所にありました(写真④)。五百羅漢に囲まれた洞窟で、夏なのに急にひんやりと背筋が寒くなるような、とても霊的な場所でした。

そして1645年、五輪の書を書き終えた武蔵は屋敷に戻りますが、その一週間後に亡くなったそうです(享年64才)。葬儀は忠利の子で2代藩主の細川光尚により盛大に行われ、その遺体は遺言により細川家の参勤交代を見守る場所に葬られ、現在は「武蔵塚」と呼ばれていました(写真⑤⑥)。JR豊肥線武蔵塚駅から徒歩15分、または桜町バスターミナルから[E3-3]光の森行に乗り、武蔵塚公園で降りた場所にありました(写真⑦)。亡くなる前に光尚から届いた手紙には、「江戸から間もなく参勤交代で熊本へ戻るので、その時に会えるのを楽しみにしている」と書かれおり、光尚も武蔵に会いたがっていたようです。

私は、武蔵が晩年に暮らし亡くなった屋敷跡の場所から、熊本城を見上げてみました。五輪の書を書き終えた武蔵は、間もなく尽きるであろう我が命を前に、ここからどんな思いで、この熊本城を見上げていたのでしょうか?(写真⑩)。

しかし、そこでふと疑問が🤔? 武蔵が人生の集大成として書いた「五輪の書」には巌流島の決闘や小次郎の事が一切書かれていません。それはなぜだったのでしょうか?

きっと武蔵は卑怯者と呼ばれ、人生最大の汚点となった巌流島での決闘を思い出し、密かにここから、小次郎の事を偲んでいたからではないでしょうか・・・

以上で宮本武蔵を終わります。途中間違った内容もあるかとは思いますが、そこは何卒御容赦願います。全18回長々と読んでいただき、大変ありがとうございました。
 

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イオ

武田軍陣地めぐり(医王寺山本陣) (2025/06/21 訪問)

(続き)

医王寺背後の医王寺山(新城市長篠碁石)には、武田勝頼が3千の兵で長篠城包囲戦の本陣を布きました。医王寺の駐車場から見上げると山頂部に物見櫓が覗いています。駐車場の南西側には山縣三郎兵衛息継ぎの井戸なんてのも見られました。本陣に出向く前に井戸水で一息入れたということでしょうか。医王寺をひとめぐりすると医王寺山武田勝頼本陣跡の説明板の絵図を参考に、東側の登城口から登城開始。

整備された山道を登ること5分で東曲輪に到達。南北に広がる大きな曲輪で駐屯地だったと思われます。東曲輪の南西辺には土塁が設けられ、西側の土橋を進んだ先が本曲輪です。本曲輪は南側と北側を切岸と帯曲輪で守っています。本曲輪の北東隅部はわずかに高く、南側には麓から見えた物見櫓が建てられています。物見櫓に上ってみると、右手前に天神山陣地、左奥に大通寺山陣地、二つの陣地の奥に長篠城を見渡すことができました。大通寺山の向こうがこの後に行く予定の武田五砦でしょうか。なるほど長篠城包囲戦の本陣を置くには絶好の地ですね。本曲輪西側の虎口を出ると北側に竪堀が落ち、西曲輪東辺の土塁の上に出ます。スロープ状になった土塁上を下りて行くと南側に西曲輪が広がり、登城道はそのまま西側の登城口に続いていました。

土塁も切岸も帯曲輪も竪堀も時季的に藪に覆われていたのは残念でしたが、長篠城包囲戦の全容が手に取るようにわかる眺望だけでも訪れる価値は大いにありました。さて、続いては宇連川対岸に展開する武田軍の陣地、武田五砦に向かいます。
 

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todo94

3連休の秋田ドライブでの攻城⑨ (2025/10/11 訪問)

五城目城(砂沢城)からの転戦です。雀館公園として整備されています。公園を一巡りして道を挟んだ体育館側にある古代井戸の写真を撮影しようとしたところでデジカメのバッテリーが切れてしまいました。前の週の研修で記録撮影に使ったあと充電をすっかり忘れてしまっていました。こんな時に限って予備のバッテリーも家に忘れてきてしまっていましたので、この後は、スマホでの撮影に切り替えざるを得ませんでした。

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赤い城

高屋城 香川県坂出市 (2025/09/07 訪問)

城びと未登録城です。
高屋神社参道から登っていきます。
道は付いていますがミカン農家さんが使用される農道なので歩いて行くのが無難です。
登ってすぐにミカン畑が広がり、農家さんが作業されていました。
挨拶し、城跡へ行く旨伝えると予想通り「何もないよ」と。
坂道は急ですが車も通る道なのでそんなに苦にはなりません。
ただ暑い🫠

城跡とされる場所にはやはり遺構は見られません。
しばし眺望を楽しんで下山しました。
帰りに先ほどの農家さん、昔は下の方には遺構があったと思う、とのお話しがありました。
冬に行ったら何か発見出来るかもしれません。
麓にある遍照院も城跡の一部だったようです。

この周辺の山は五色台と呼ばれています。
陰陽五行説が由来で色の名前が付く5つの山があります。
黃ノ峰には石積が特徴的な黃峰城(城びと未登録)、白峰山には81番札所の白峰寺、青峰には82番札所の根香寺があります。
また、五色台ビジターセンターからの瀬戸内海の眺望も素敵です。

【見どころ】
 ・城跡からの眺望

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しんちゃん

長篠・設楽ヶ原の戦い 真田兄弟・従士達の墓 (2025/10/05 訪問)

五反田川沿いの丘陵の中腹に真田兄弟の墓と、共に奮戦し討死した武田方の将士の墓があります。いろはかるたによると、ここは三子山というらしい。真田兄弟の二人は真田幸綱の長子・真田源太左衛門尉信綱と次男・真田兵部丞昌輝であの真田昌幸の兄にあたります。
設楽ヶ原の戦いでは馬場美濃守信春が最右翼に陣し、真田兄弟はその左側に陣していたようです。丸山激戦地では丸山と言う小高い丘を巡って佐久間信盛の部隊と馬場・真田の軍勢が激しい戦いを繰り広げたようです。
真田兄弟の墓の両脇に「設楽原を守る会」によって再建された鎌原筑前守之綱・常田図書春清・祢津甚平是広の墓が有ります。いずれも合戦で討死した将士で真田一族となんらかのゆかりがあると思うのですが詳細は不明です。AI先生に聞くといずれも真田氏に使える一族で関わりも深かったようです。たまに便利だわ・・AI先生。

丸山激戦地を西手に行って連吾川を越え、道沿いに南に下ると高森恵光寺快川の墓が有ります。甲州の恵林寺や信長の史料に設楽原で討死と記載のある人物で主従ともすべて討死したとされています。一説には初めの布陣は鳶ヶ巣山砦ともされています。
案内板には謎の武将とされていますが、武田家14代信重にルーツが有る家系で武田氏の一党にあたるようです。

県道21号線から雁峰山登り口を南に程なく行った新東近くの道沿いに米倉丹後守正継(重継)の墓が有ります。案内板によると武田方の智将で鉄砲の前面に「竹束を置く」のも米倉のアイデアだそうです。武川衆のリーダーで甘利信康の後見役も務めていたとのこと。合戦では連吾川上流部で馬防柵を破り半町ほど西の織田軍陣中で討死したそうです。

「くふう」と書くと「こう・ふ」と勘違いされてエラーがでます。なんなんじゃ、こっちのAIはダメダメじゃ

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しんちゃん

長篠・設楽ヶ原の戦い 樋口兼周の塚・鑓畑と武田軍退路 (2025/10/05 訪問)

設楽ヶ原の古戦場跡から五反田川沿いに北上して行くと真田兄弟の墓があります。途中、樋口兼周の塚がありました。ここは武田軍の退路に近く、樋口氏は退却の途中に討死した武田方の将士のようです。墓は元は鳥居田の中にありましたが、圃場整備でここに移されたようです。真田兄弟の墓所の近くは道が狭いので注意が必要です。
付近には武田軍の退路があり浅谷地区に「鑓(やり)畑」の地名が残っています。敗色が濃くなった武田軍は設楽ヶ原を脱出し五反田川沿いに北上し甲州を目指しました。槍や旗が残っていたとしたら、この辺りで追撃や落武者狩りがあったのかもしれません。
近くには水田から兜が見つかった「甲田」伝説が残っています。

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しんちゃん

長篠・設楽ヶ原の戦い  首洗池 (2025/09/28 訪問)

長篠の医王寺の陣の周りにはまだ見るべき箇所が有るかもしれませんよ。長篠山医王寺は永正11年(1514)に克補契嶽大和尚が開山となり創建されたとされています。戦国時代の寺は基本「城」なので守りに適した立地に築かれていると思います。
国道151号線・竹広の信号の北側に合戦の戦死者の首を洗ったとされる「首洗池」があります。当時はどれだけの大きさが有ったのかはわかりませんが、そりゃ池も真っ赤に染まると思います。主だった首だけでもかなりの数になりますからね。
池には八重のハスの花が咲き、彼岸花も咲いています。古戦場の周囲には武田軍の将兵の墓(供養塔含む)がたくさんあります。以前尾張の城めぐりをした際に城址碑ぐらいしか残ってない城が多く「お墓めぐり」をしているみたいだとボヤきましたが、古戦場ウォークは本当に「お墓めぐり」なんですわ。
まるで死地を求めるように散って行った武田軍の老将たちに思いをはせながら散策しますか。首洗池のすぐ西手の丘の上に本田玉発見地の標柱と岡部竹雲斎・岩手左馬之助胤秀の墓が有ります。いずれも武田方の武将と思われますが詳細が分からないんですわ。AI先生も分からないようですよ。

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「あなたの人生を変えたお城は?」今年のCastle of the Yearのテーマはこれ!

毎年恒例、テーマに沿って推し城を伺うアンケートが始まっています。
https://shirobito.jp/article/2083

今年のテーマは
「あなたの人生を変えたお城」
です。

エピソードとともにぜひ、ご投稿お願いいたします。
抽選で「お城EXPO 2025」入城券をプレゼント!

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朝田 辰兵衛

アップデートしたくて… (2025/10/18 訪問)

岩手県の未投稿城はすでに解消しておりますが,ここはアップデートしないと気が済まないので,これにて「岩手県未投稿城解消」とさせていただきます。これでいちおう「東北地方未投稿城解消」となりましたが,たぶん青森県はtodo94さんが2城のアップデートをしないと気が済まないハズ…。

大梵天館ですが,しっかり整備されていて驚きました。クマもイノシシも通り過ぎるだろうと思われる徹底ぶりです。この日の宮古市の天気予報は曇りでしたが,登城時は雨。私が雨男ゆえ,魅力発信には至らないかと思いますが…。

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イオ

武田軍陣地めぐり(大通寺山陣地・天神山陣地) (2025/06/21 訪問)

(続き)

武田軍は長篠城の周囲に多くの陣地・砦を構えて包囲していますが、まずは長篠城北側に展開する陣地へ。

大通寺山陣地(新城市長篠大通寺山)
大通寺背後の大通寺山には、武田信豊、馬場信房、小山田昌行らが2千の兵で布陣しました。草木が茂っていて遺構は確認できませんでしたが、頂部の広大な平坦地には多くの兵を収容できそうでした。麓の大通寺には、医王寺山本陣での軍議で武田勝頼に撤退を進言するも容れられなかった馬場信房、内藤昌豊、山県昌景、土屋昌次らが訣別の水盃を交わしたと伝わる井戸(大通禅寺杯井)があります。また、境内には文化財保存のため長篠城から移転した城藪稲荷社も祀られています。それにしても、瓢郭から大通寺山陣地までは直線距離でわずか250m、まさに目と鼻の先です。実際に現地に立ってみて、こんなところに鬼美濃に布陣されて落城しなかったというのが信じられない思いでした。

天神山陣地(新城市長篠碁石)
長篠荏柄天神社の鎮座する天神山には、一条信龍、真田信綱、真田昌輝、土屋昌次らが2千の兵で布陣しました。下調べでは明瞭な遺構はないとのことなので、天神社の前の天神山陣地の説明板を確認したところで満足して引き返してしまいましたが、まだまだ先があったんですね。しんちゃんさんのように北尾根とまでは言わないとしても、せめて山頂までは行くべきでした。丸テーブルと椅子のある曲輪跡とか「展望」の案内板くらいは見ておきたかった…。

武田軍陣地めぐり、天神山陣地の次は医王寺山本陣に向かいます(続く)。
 

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todo94

3連休の秋田ドライブでの攻城⑧ (2025/10/11 訪問)

双六館からの転戦です。五城目町森林資料館閉館時刻前にたどり着けそうだったので、赴くことにしました。五城目町森林資料館は無料で、林業の町としての五城目を良く知ることができました。帰宅してから日本鉄道旅行歴史地図帳を引っ張り出して、杉沢森林鉄道を確認してしまいました。遠方からも模擬天守が良く望めるこの城は、砂沢城という名の城で、麓の四渡園は城主の屋敷跡とのことです。

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赤い城

私有地すぎる (2025/08/15 訪問)

徳島道の土成IC近く、国道318号線から少し入ったところにあります。
皆さんのレポート通り石碑と説明板がありますが場所は私有地。
入っていくのも憚られていたのですがちょうど家から出てこられた方がいらしたので許可を得て写真だけ撮らせて頂きました。

この地の土豪、原田氏の居城です。
中富川の戦いで城主の原田久左衛門が長宗我部氏に討たれ廃城となりました。

【見どころ】
 ・民家敷地にある石碑と説明板

さすがに撮れ高が無いので近くの四国霊場をご紹介。
6番札所安楽寺 今でも宿坊があるお寺です
7番札所十楽寺 朱塗りの鐘楼門が特徴的です
8番札所熊谷寺 大きな仁王門があります
9番札所法輪寺 健脚祈願のわらじが多く奉納されています

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シャンシャン

秋の大阪お城巡り③:大阪城(豊臣石垣館) (2025/10/17 訪問)

大阪のお城巡りで一番行きたかった大阪城の豊臣石垣館へ。
現在残っている櫓や石垣、堀はすべて徳川時代のものだけど、大阪と言えばやっぱり太閤秀吉だから、豊臣時代の遺構がこうして目に見えることになったのは嬉しい限り。
算木積みの原形のような形状や転用石も含め様々な石材を使った野面積みの石垣は、徳川時代の進化した石垣と違って独特の味わいがある。
もちろん蛸石をはじめとする徳川時代の巨大な石垣は凄いけど、徳川セコいから嫌いだし笑

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シャンシャン

秋の大阪お城巡り②:真田丸跡 (2025/10/17 訪問)

真田幸村戦死の地である安居天満宮からレンタサイクルで真田丸跡へ移動。秋晴れの日のサイクリングは気持ちいい!
真田丸跡には現在学校が建っており、当時の遺構はまったく残っていない。でも跡地は小高い丘となっており、出丸を築くのに適した地形だと考えられる。
すぐ近くの心眼寺には、幸村のお墓がある。

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シャンシャン

秋の大阪お城巡り①:真田幸村戦死の地(安居天満宮) (2025/10/17 訪問)

秋の大阪お城巡りの旅へ。
最初の地は城ではないけど、真田幸村戦死の地である安居天満宮へ。
真田幸村が大坂夏の陣で徳川家康の本陣にも攻め入るも、この地で戦死したと言われている。
うーーん、家康を打ち取って欲しかった!!!笑
子供の頃から一番好きな武将である幸村ゆかりの地に来ることができて良かった!

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天守無しがアツい

小雨の河村城 (2025/10/19 訪問)

https://www.yamakita.net/sightseeing/detail.php?id=19

「逃げ上手の若君」の主人公、北条時行と共闘する新田義興が1352年に足利尊氏の軍と対決⚔️河村一族と共にここ河村城を拠点に奮戦

しかしその翌年(1353年)、この城を捨てて退却したと太平記には記されている。尊氏の大軍および尊氏の神力(?)に耐えられなくなったと思われる

さらには盟友の時行が尊氏軍に捕えられ…竜の口で処刑される…それでも義興は折れずに潜伏および抵抗を続け…尊氏の死後まで生き続けたのだった👦

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makkin

20万の大群に対抗した防衛力の城 (2023/03/02 訪問)

大学時代の友達3人で35年ぶりの旅行。
小田原住む友達に案内してもらいました。
博物館も併設しており、戦国時代の貴重な資料が見られました。
天守閣からは海や街並みを一望でき、絶景でした。

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makkin

20年かけて完成した歴史 (2025/05/21 訪問)

彦根城は、城全体の保存状態が最も良く、江戸時代の 政治体制をあらわす「代表例」と言われてあるだけあってとても歴史を感じる佇まいでした。
ひこにゃんにも可愛らしく会えて嬉しかったです。

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