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いわきの陣屋めぐり① ~泉陣屋~ (2025/05/03 訪問)

 JR泉駅から徒歩7分。小名浜を観光した帰りに立ち寄りました。
 泉陣屋は内藤氏、板倉氏、本多氏が治めた泉藩の藩庁です。
 陣屋跡は、泉公民館、泉西公園になっています。泉公民館の北東側の歩道そばに泉城阯碑、説明碑、「赤玉本多」のモニュメントが設置されていました。赤玉本多の由来は、泉藩本多家二代藩主の本多忠籌が寛政二年(1790)に老中に就任し、江戸登城の際に持ち槍二本が許されました。そのうちの一本の槍には、太陽をあらわす「朱天目」、俗にいう「赤玉本多」が飾られたことにちなんでモニュメントとなったようです。泉西公園には、公園北側に陣屋の土塁が残されています。
 そして陣屋門も残されており、陣屋跡から東に500mほどの所にある民家に移築されています。陣屋跡から西に目を移すと、700mほど西に泉藩主本多家墓所もあります。

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浜通りの有力領主 岩城氏の居城 (2025/05/04 訪問)

 JRいわき駅から徒歩20分ほどです。
 城跡は、常磐線と磐越東線が合流する地点のすぐ近くの山です。雛壇状に曲輪が配置されていて、登城路の途中に帯曲輪と思われるものも見受けられました。二ノ郭に「飯野平城跡-大館-」の石碑があります。石碑のそばから本郭に向かう坂には石積みが確認できます。(当時のものかは不明)。本郭は二段になっており、高くなっている部分には、戦没者慰霊碑が設置されています。二ノ郭には石碑のそばに、神社の鳥居があり、鳥居から道なりに進むと本郭東下に着きます。ここに湯殿山神社があり、曲輪が残されていました。
 城主の岩城氏は、相馬氏と並ぶ福島県浜通りの戦国期の二大勢力の一つです。戦国初期は常陸の佐竹氏の内紛に介入するなど、全盛期を迎えました。しかし徐々に衰退し、佐竹氏の南奥進出によって、佐竹方に属します。関ケ原の合戦でいったん改易となりますが、大坂の陣での活躍で、信濃川中島を与えられ、最終的に出羽・亀田藩主になります。岩城氏の改易ののちは、大館城には鳥居忠政が入り、磐城平城を築城した際に廃城となったようです。

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ぴょん

群馬県唯一の大名庭園(知らなかった…) (2025/10/16 訪問)

楽山園自体は知っていたのですがまさかの織田信長の次男織田信雄が初代藩主小幡藩だとは知らずつい興奮してしまいました。
城下町には武家屋敷が点々と残っていて住んでいるにもかかわらずご厚意で庭園を開放されているのでそちらも見学させていただきました。
付近には織田宗家七代のお墓等があります。

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瀧清

城郭探索記

あたり。二重堀あり。付近には既知の城がいくつかある。小さいながらしっかりした城。尾根先は井戸跡らしきものあり。麓にお住まいの方に話を聞いても城だなんてわからないという。

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瀧清

城郭探索記

これはあたり。見るからに城ではあるが。見切れているが端から端まで歩くと尾根全体に改変ありで城域の判定はかなり難しい。資料にあたる必要あり。明らかな堀切は一つ。もう一つがかなり微妙。改変された堀切なのかどうかわからない。

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todo94

3連休の秋田ドライブでの攻城⑤ (2025/10/11 訪問)

八森城からの転戦です。羽川新館公園として整備されています。珠林寺に向かって橋を渡り左折して川沿いに少し進んでから未舗装路を行くと駐車場と説明板がありました。二の丸の下にある竪堀群は、大葉沢城の畝形阻塞の小型版といった趣でたいへん驚かされました。本丸の辺りでは、不気味な低音が響いていましたが、それは近くにある風力発電の回転音でした。羽川古舘もあるようですが、今回は足を伸ばしていません。

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しんちゃん

長篠・設楽ヶ原の戦い 鳥居強右衛門の墓 興国山(鳥居山)新昌寺 (2025/09/28 訪問)

長篠城の南側に新昌寺があり鳥居強右衛門の墓(伝・胴塚)があります。天文8年(1539)長篠医王寺四世月傳太惰大和尚により創建され、当時は「喜船庵」と呼ばれました。長篠・設楽ヶ原の戦いで周囲は戦場と化し、鳥居強右衛門は武田方によって磔刑にされた後、「喜船庵」に埋葬されました。
慶長8年(1608)に鳥居強右衛門の子信商によって強右衛門の墓は作手の甘泉寺に移されますが宝暦13年(1763)に新昌寺に再建されました。一説には新昌寺が胴塚、甘泉寺が首塚とされているようですが実際の所は不明です。
境内には武田方諸将の墓も有ります(おそらく供養塔)。墓碑の文字は「和気善兵衛宗勝」「伝・高坂又八郎助宣」「横田十郎兵衛康景」「小山田五郎兵衛昌晟」と読めます。高坂又八郎助宣は謎の人物ですが山県塚の近くにも墓がありました。
和気善兵衛宗勝は久間山砦の守備中に酒井忠次の配下に奇襲を受け討死しています。
横田康景は武田軍の足軽大将で武田二十四将・原虎胤の子とされています。
小山田昌晟は詳細不明の武田家臣で長篠か設楽原のいずこかの戦いで討死しています。
なぜこのメンツになったのかは良く分かりません。

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しんちゃん

長篠・設楽ヶ原の戦い 鳥居強右衛門磔死之地 (2025/09/28 訪問)

長篠城の南側にある牛淵橋の上から長篠城が良く見えるビュースポットがあります。手前のもこっとしたのが腰郭になるのかな?
本丸の南に野牛郭があって南端の野中門を下ってからこの腰郭を経由すると豊川に降りて行くことができるみたいだ。強右衛門が長篠城から豊川へ降りて行く姿を想像すると少し感慨にふけってしまう。
牛淵橋から西にちょっと行ったところに鳥居強右衛門磔死之地の看板があり、そこから真っ直ぐ入って突き当りを右に進むと「鳥居強右衛門磔死之跡」と書かれた立派な石碑が立っている。
強右衛門が狼煙を挙げたタイミングや内容も様々な解釈があるようで、ここの案内板には岡崎で援軍の確約を取った強右衛門が雁峰山へ登って合図の「ノロシ」をあげた後で武田軍に捕まったと書かれている。これだと武田方の言うとおりに「援軍は来ない」と言っても長篠城の城兵が信じるか眉唾だが、強右衛門はそれでも「援軍は来る」と大声で叫んだとされている。
案内板には武田勝頼も「勇気の士」としてその行動を称えたが武田軍の将兵によってこの地で磔になったと記載されています。

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しんちゃん

長篠・設楽ヶ原の戦い 広瀬の渡 強右衛門上陸の地 (2025/10/05 訪問)

新城市の豊川沿いの川路天神の地に「鳥居強右衛門勝商上陸の地」の標識があります。天正3年(1575)に武田勝頼が長篠城に攻撃を仕掛けたため、鳥居強右衛門が岡崎の徳川家康に援軍を求める使者として派遣されました。強右衛門は夜中に長篠城の野中門を出て、武田軍の包囲をかいくぐって豊川からこの地に上陸し、ここから雁峰山に登って脱出成功の狼煙を揚げ、援軍を求めに岡崎に走りました。
考えてみれば雁峰山から揚げる狼煙を「援軍来る」の合図にしておけば、武田軍に捕まって殺されることは無かったような気がしますが・・なんにせよ強右衛門の気概が長篠城の士気を大いにあげたのは間違いないと思います。
「鳥居強右衛門勝商上陸の地」に向かう途中に、酒井忠次の軍勢が鳶ヶ巣山砦を襲撃する際に豊川を渡ったとする「広瀬の渡」があります。時差はありますが、この地で酒井忠次と鳥居強右衛門がすれ違ったというのは面白い話です。

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橋吉

美しい玉石垣 (2025/10/08 訪問)

名豊道路-1号線バイパス-国道150号線と走り次いで、静岡県掛川市にある横須賀城へやってきました。

本丸前に7台くらいとめられる駐車場があります。
横須賀城の石垣は天竜川より運ばれた石を使っています。
これは築城を急いだためと言われていますが、他に類を見ない玉石垣は独特の美しさがあります。

横須賀城はもともと松尾山と本丸からなる中世山城でしたが、東西の平地に二の丸、三の丸を広げていき近世城郭になりました。
松尾山といっても大きな古墳と行った程度ですから是非足を運んでみてください。

城跡北にある景江山撰要寺の山門は横須賀城二の丸不開門を移築したものです。

見学所要時間:1時間

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くま

千秋公園の魅力発見!フォトビンゴ (2025/10/25 訪問)

スマホ片手に歴史探訪へGO!

秋の千秋公園で、新しい遊びがはじまるよー!
その名も…
「千秋公園の魅力発見!フォトビンゴ」

公園の中にある歴史スポットを巡って、スマホで写真を撮ってビンゴを完成させる、宝探しみたいなイベントです!

🧡 参加費はまさかの…無料!
 お財布に優しいの、最高じゃない?

💛 アプリのダウンロードは不要!
 めんどくさい登録なしで、すぐ始められるよ

💚 豪華景品が当たるチャンス!
 ビンゴを全部そろえると、秋田の特産品や商品券が当たるかも…!?

友達とわいわい楽しむもよし、
一人でじっくり歴史に浸るもよし、
家族みんなで公園散歩もいいね!👨‍👩‍👧‍👦

この秋、千秋公園で最高の思い出つくっちゃお!🫶


期間
2025年10月25日(土)~11月3日(月・祝)

場所
千秋公園

▼参加方法や詳細はこちら↓
https://www.akitacci.or.jp/local/jigyo/sensyupark_photobingo/

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トク

【宮本武蔵】(16)明石城(小笠原忠真と武蔵) (2025/06/05 訪問)

宮本武蔵の続き(16)です。

家康の曾孫にあたる「小笠原忠真」は、1615年大坂の陣で父と兄を失うも、「あっぱれ!さすがは我が鬼孫じゃ」と家康から褒められる程の活躍をし、1617年信濃松本8万石から播磨明石10万石へ加増転封となり「船上城」へ入ります。そこで秀忠より西国監視役を命ぜられ、1619年忠真はそれにふさわしい「明石城」の築城を開始します。この時に武蔵を客分に招き、城下の町割りを託したようです。

武蔵は城下の南側を町人町とし、西国街道と合わせた町割りを作りました。今でも鍛冶屋町・細工町・東魚町・西魚町などの名前で残り、諸国を旅して学んだ軍略的知識も取り入れて攻めにくい構造し、かつ西国街道を中央に通し経済発展の基礎をも築いていたようです。

さらに武蔵は忠真のための憩いの場として、山里曲輪に庭園を造ります。その庭園が再現されていました。庭園の横のサービスセンターにはカフェがあり、暑かったのでお茶ならぬ抹茶アイスを食べながら庭園を眺めてみました。ちょっとだけ武蔵の気分に浸る事ができました(写真⑦)。

武蔵はここで、実兄の田原久光の子でこの時15才の「伊織」を二番目の養子に迎えます。そして忠真に仕官させてほしいと懇願し、近習として取り立ててもらったようです。その宮本伊織は忠真の下でめきめきと才能を表し、わずか5年後の20才で何と家老に抜擢されました。

明石城が完成した1624年頃、武蔵は同じく完成した名古屋城の「徳川義直」の元へ招かれます。というか明石城が一段落したこの機に、尾張へ自分を売り込みに行ったようです。そして義直の面前で、当時剣術指南役をしていた「柳生利厳」(柳生宗矩の長男)の弟子たちをあっという間に倒し、何とここで自分を利厳に代わり剣術指南役にするよう要求したそうです。この時、年俸として1億円を要求したとか(利厳はこの時3千万円)。この頃の武蔵は相当プライドも高くなり、ちょっと図に乗っていたようですね。しかし義直から断られて仕官できず、結局また明石の伊織の屋敷へ戻ります。

それから1630年頃になると、九州では各地で不穏な動きが始まります。譜代大名である小笠原忠真は九州目付の職を与えられ、播磨明石から豊前小倉15万石へ転封となり、九州の外様大名を監視せよ命ぜられました。せっかく苦労して明石城を完成させたのに、今度は九州に行けと命ぜられ、忠真はどんな気分だったのでしょうね。武蔵は伊織に同行し、再び小倉へ行く事にします。そして小倉で、またしても問題が起きてしまいます。

次は(小倉城)島原の乱に続きます。

明石駅でお腹が空いたので、明石名物で昼は「たこやき」、夜は「たこ蕎麦・たこめし」とたこづくしを堪能しました🐙。駅構内にあった店に二度も吸いよせられ、まさに「おもうつぼ」にハマってしまいました~😋!(写真⑧⑨⑩)。
 

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イオ

残念石トイレ (2025/10/12 訪問)

大阪・関西万博で大坂城の残念石トイレを見てきました。

当初は万博にほとんど興味がなく、周囲の評判を聞いて興味が出てきた頃には暑すぎて行く気になれず、やっとましになってきたかな、という頃には入場予約が取れなくなっていましたが、何とか最終日前日に駆け込みで行ってきました。

文化財ともいうべき大坂城の残念石をトイレに使うとは何事か! という批判もありましたし、残念石なんて城好きしか興味を示さないのでは? とも思いましたが、現地で見てみると、矢穴もくっきりのこり、なかなかお洒落にデザインされていて、閉幕後に元あったところ(木津川市の赤田川)に戻されるのであれば、藤堂高虎に切り出されてから約400年を経て、こうして一世一代の注目を集めるのも残念石にとって悪くはなかったのかな、とも。できれば全体像などもっといろんな角度からの写真も撮りたかったんですが、女性も多く並んでいるトイレの写真を撮りまくるのはさすがに憚られました…。

パビリオンの予約も取れず、コモンズをはしごするくらいでしたが(でも初めて名前を知った国がいくつもあって非常に興味深かった)、大屋根リングにガンダムに万博グルメに花火にドローンショーにと、家族と万博を満喫した一日でした。
 

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赤い城

遍路道で分断 (2025/08/15 訪問)

遍路道でもある県道139号線沿いにあります。
石碑のあるのは北側で墓地になっています。
県道で分断された南側は宅地などになっています。
北側を少し散策(というほど広くない)しましたが明確な遺構は見当たりません。
的場跡の石碑も立っていました。

この背後、秋月歴史公園が奥丸跡、せっかくなので行ってみました。
道は細いですが駐車場もあり、そこからすぐに公園があります。
が、下の安国寺跡からガサガサと。
猿の群れが食べ物を物色していました。
静かに退却しながらも獣避けの柵を開け、登っていきます。
途中削平地があり、櫓風の展望台があります。
ただし老朽化により入れません。

さらに登ると東屋があり、折れて登ったところが頂上、天守台があったとされています。
木々に阻まれ眺望は良くないですが達成感はありました。
帰りは猿の気配も消えていたので安国寺跡を見学し撤退しました。

秋月城から近い切幡寺は第10番札所で、大塔は豊臣秀頼が秀吉の菩提を弔うために大阪に建立したもので明治時代にここへ移築されたそうです。

【見どころ】
 ・安国寺跡
 ・奥丸の天守台跡

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todo94

3連休の秋田ドライブでの攻城④ (2025/10/11 訪問)

羽後滝沢城からの転戦です。矢島小学校はすでに移転しているようなのですが、関係者以外立ち入り禁止の表示が出ていました。別名矢島城で由利高原鉄道の終点矢島駅のほど近くです。由利高原鉄道は2016年に完乗しているのですが、まだその時には城びとは存在しておらず、八森城の存在も知りませんでした。乗り鉄と攻城の抱き合わせにはとてもそそられます。

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朝田 辰兵衛

丸子城散策2/2(主郭部) (2025/10/12 訪問)

主郭部を散策してから「赤色かるた」を考えていたら,もっとリアルな発想ができたかな…と思いました。川柳からかるたに続き,五七五のリズムで謳うことが毎年恒例のように思いますので,この思いは次回以降まで温めておきます…<笑>。
喰い違い虎口にロープが張られていましたが,三日月堀方向へはさらに奥のほうから行けるようになっていました。しっかり整備されていて安心して散策できました。感謝申し上げます。

todo94さんへ…
秋田県の攻城で私を持ち上げてくださりありがとうございますm(__)m
クマの出没情報ハンパない東北地方です。ただの出没だけではニュースにならなくなってきました。人身事故になってようやく…です。お気をつけください。
そんな私も今週末,再び岩手県入りする予定です。天候悪い予報ですが…。
そうそう,丸子城の読み札は,todo94さん採用と予想します。

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朝田 辰兵衛

丸子城散策1/2(登城口~二の曲輪) (2025/10/12 訪問)

最寄りのバス停は「吐月峰駿府匠宿入口(とげっぽうすんぷたくみしゅくいりぐち)」。バスの運転手は噛まずに言えるのか,興味がありました。しかし,前のバス停から距離が短いこともあり,録音音声のみでした…。静鉄バスの[84]系統で。新静岡駅・静岡駅と藤枝駅を結ぶ路線です。この日はあちこちで祭りが開催されており,迂回運行していました。土日はほぼほぼ30分間隔です。
この日は雨上がり。事前情報でシダ類が群生しているということも予習済でしたので,ヒルとマダニには細心の注意を払いました。

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しんちゃん

長篠・設楽ヶ原の戦い 山県昌景陣地・山県塚 (2025/09/28 訪問)

設楽原歴史資料館より南に行った丘陵に、武田四天王の一人とされる山県昌景の陣所と昌景の墓とされる山県塚が有ります。武田軍の左翼の中核を担い徳川家康本陣へ攻撃を仕掛けるも敗退し討死したとのことです。山県昌景の近くには、従士とされる名取又左衛門通忠の墓や山県甚太郎昌次、高坂又八郎助宣の墓があります。山県甚太郎昌次は三枝虎吉の子ですが山県昌景に山県の姓を名乗ることを許されています。昌次の兄の三枝昌貞は武田軍の足軽大将で二十四将の一人とされ姥ヶ懐砦の攻防戦で討死しています。
高坂又八郎助宣は高坂弾正(高坂(香坂昌信 / 春日虎綱)に近い人物とされますが詳細は不明。長篠城の南にある新昌寺にも墓が有ります。山県塚周辺の丘陵が陣跡とされ、遺構は残っていないようですが横堀の様な溝が一列ありました。

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しんちゃん

長篠・設楽ヶ原の戦い 徳川家康本陣跡・断上山 (2025/09/28 訪問)

「家康は 断上山に 拠りたがる(いえやすは だんじょうやまに よりたがる)」 いろはかるたもどき

徳川家康本陣跡とされる断上山(八釼山)の頂部はなかなかの広さがあります。断上山10号墳へは丘陵の東側に「ケッターパーク」の入り口があるのでそこから入ると登りやすいです。もちろん八釼神社からも登ることができます。
手前には「徳川家康物見塚」がある9号墳にいたる道もあります。家康と断上山古墳には縁が有るんですよ。断上山10号墳の周辺は堀が切られたようになっています。「歴史探偵」で合戦のさなかに戦場に城が現れた・・みたいな紹介が有ったような気がしますが、たしかに合戦の際に攻め手からはそう見えるかもしれません。
2018年に訪問した際には周囲の堀(らしき)はもっと浅かったと思います。調査の際に掘りなおしたのかな?

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しんちゃん

長篠・設楽ヶ原の戦い 徳川家康本陣跡 (2025/09/28 訪問)

設楽原古戦場の徳川家康の陣は八釼神社に置かれていたとされることから、現地に立っている「いろはかるた」の看板には「八釼山」と書かれています。この八釼神社の裏手を登っていった所に断上山第10号墳があることから断上山とも呼ばれています。
この断上山周辺に扁平地が広がり、家康の大部隊が駐屯していたのではと思われます。10号墳の東側にある9号墳は、家康が指揮を取ったとする伝承があることから「徳川家康物見塚」と呼ばれています。たしかに10号墳より9号墳の方が戦況がよく見えますが、より修羅場に近いです。
武田勝頼も陣所を才ノ神陣からより戦場に近い場所に移って指揮を取ったと各所の案内に書かれているので、家康と勝頼の戦いがヒートアップしていった様子が伺えます。
ある意味、この時代ではライバル関係に有った二人だと思います。家康の方が勝頼より3歳ほど年長で、設楽ヶ原の戦いの時は家康33歳(数え)で勝頼が30歳くらいだったと思います。これだけの合戦の主役二人が30そこそことはびっくりです。勝頼公は実際は29ですからね。若さゆえの失敗とすると重すぎる。

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