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しんちゃん

山名氏城跡 (2025/07/01 訪問)

久しぶりに此隅山城に登りました。有子山城も再訪したかったのですが夏場なので、今回はパス。此隅山城は文中年間(1372~1374)に山名師義(弟の時義かも)によって築かれました。有子山城と併せて「山名氏城跡」として国の史跡に指定されています。
最高所に主郭が置かれ、周辺に郭が残りますが、思った以上に城域が広く尾根上に四方に郭が散布していて、北東・北西側はさらに分岐しています。とてもじゃないけど全部は見切れないので南東側から登って比較的コンパクトに済ませました。ただ主郭周辺以外は、あまり洗練されているイメージはありません。北西側には堀切や土塁が残っているようですが今回は訪問せずです。

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あき

三重旅行2日目  (2025/09/30 訪問)

北畠神社の社務所にて これから霧山城へ向かうと伝えると驚いた顔をされたので なんだろうと思ったら城山ではないけど近くの山にで熊が目撃されたとの事 熊鈴持ってくるの忘れた〜音出しながら行きますと言ったら熊鈴貸してくださいました 本当にありがとうございます 霧山城入口から城跡ま1350mだそう頑張ります 詰城跡まではつずらおりの道を登って行きます 10分ほどで到着 土塁の上にも曲輪がありそうでしたが道がわからないので先へ進みます ひたすら杉林の中を進みます 整備されているので道に迷うとかの心配はないです 1人汗をかきつつ熊鈴だけが鳴り響く中 鐘突堂跡に到着 そんなに大きくない曲輪ですがここまで展望が杉だけだったので景色が気持ち良いです 奥に行くと城跡はここまで本丸へは戻るようにと看板があります 鐘突堂跡の看板まで戻り右手の道を登って行くと突き当たりにセラピーロード終了の看板があり 右側に矢倉跡があります 小さな曲輪ですが堀切が残っていました 先ほどの看板まで戻り左側へ行くと本丸跡 入口の虎口が良いです 本丸跡は今までの曲輪の中では広く 土塁も残っていました その先は米倉跡の曲輪 土塁は無く平坦な曲輪となっていました 本丸跡へ戻り土塁の上から景色見ながらおやつタイム 気持ち良い風が吹いて行きます 名残り惜しいですが電車の時間があるので山を下り熊鈴を社務所にお返しして駅へ 登山アプリで1時間45分かかってました 帰り道トンネルの工事現場の人に自転車は珍しいな頑張れ!と声かけられました トンネルはやっぱり怖かったです 自転車をお返しして 駅前の給水塔(工事中)や津宿の建物など見学して13:06分の電車に乗り松阪へ戻りました 電車は2時間に1本なので時間に気をつけないとちょっと大変かもですが 伊勢本街道の雰囲気など感じられるので城を含め見どころのある場所でした

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朝田 辰兵衛

もういっちょ,得意の途中下車で…🚉 (2024/08/24 訪問)

大宮駅西口から,徒歩約20分で到着。路線バスを使うという手段もありましたが,歩きにしました…🐾
当日は友引により,普門院閉門中。個人的には,普門院に隣接する「普門院幼稚園」が気になりました…。

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あき

三重旅行 2日目 (2025/09/30 訪問)

松阪駅から7:32発の名松線に乗り家城にて乗り換え のんびりと車窓から長閑な景色を眺めながら8:59伊勢奥津駅に到着 駅前の観光案内施設でレンタサイクル(無料)借りて北畠氏館へ向かいます 途中長いトンネルがありこの日は片側工事中 誘導員さんの指示に従い行きましたが 途中後ろから車来て怖かったです トンネル抜けて伊勢本街道の雰囲気を楽しみながら駅から20分位で北畠神社に到着です 神社にお参りして社務所でスタンプ押し御城印と御朱印頂きました 庭園も社務所に300円お支払いして入ります 1週5分位の小さな庭園ですが美しく整備されています 室町時代から残っているのは素晴らしい 池を眺めて癒されます 神社の敷地内には入口跡や最古の石垣など看板のみあります 保護のため埋め戻されているそう 残念ですが後世に残していくために必要なら仕方ないですかね この後霧山城へ向かいます

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あき

三重の旅 1日目 田丸城 (2025/09/29 訪問)

酷暑の夏の間お休みしていた城巡りを再開 田丸城へ行ってきました 田丸駅から歩いて10分位で大手門橋へ着きます 橋を渡ってすぐの村山龍平記念館でスタンプ押し御城印を購入していざ出発です 雨がポツポツ振る中蓮池跡など眺めながら登って行きます 途中には富士見門が移築されており貴重な現存建物だそうです だんだん陽がさしてくる中本丸虎口へ到着 道を屈折させて防御を高めています 何より石垣が美しいです 本丸の前に北の丸跡へ今は神社になっています お参りして見渡すと土塁が残っていました そして田丸城で私が1番気に入ったのが北の丸と本丸の間の空堀 こうゆう堀を見るとワクワクします そして本丸へ 天守台が残っています 付櫓のある3層の天守が立っていたそうです 天守台の石垣も素晴らしい その後二の丸を通り二の丸虎口を眺めながら 田丸神社に参拝 田丸城から移築された蔵を見学して駅へ 電車は1時間に1本なので時間に気をつけて見学しないとですね 伊勢神宮に参拝し松阪駅近くのホテルへ宿泊です

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しんちゃん

ジンジロリン (2020/01/03 訪問)

涼しくなってきました。まだまだ残暑もありそうですが(10月なのに!)松虫寺では松虫君が鳴いているのだろうか? チンチロリン・・
名護屋城の周辺には陣所跡がアホほどあって、結構行ってます。ついミーハーな感情でメジャーな所から周るのですが、大大名の陣所跡は石垣が残っていたりして陣城の雰囲気も有りますね。なぜ名護屋に石垣を築くのかはわかりませんが、以前争っていた連中がこれだけ一堂に会するのだから、これは大変なことだと思います。
私もしょぼい居館跡を含めると4000くらい城館を廻っていますが、こういった陣所も数に含めています。関ヶ原の怪しい陣所も数に入ってますよ、けっこう大概です。
陣所めぐりも結構楽しい、中には城郭と呼んでもさしつかえない陣所もあったりします。長篠の勝頼医王寺本陣などは周囲の地形や陣所を利用して要塞化をしています。長篠城を含めて東三河攻略の拠点にするつもりだったのでしょうか?
出来れば長篠・関ヶ原・名護屋城陣所群のフォームがあると嬉しいですね。関ヶ原なんて何が出てくるかわかりませんぞ!

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しんちゃん

どうする盛政 (2015/10/24 訪問)

「鬼玄蕃の 目にも涙の 二曲城(おにげんばの めにもなみだの ふとげじょう)」

鳥越一向一揆歴史館には二曲城のパネルがありました。それによると鳥越城の城主「鈴木出羽守」の娘百合姫は美人で髪が長く、座敷に立つと髪が背中から足元に二曲(ふわたげ)になるので二曲姫(ふとげひめ)と呼ばれていたようです。
天正8年(1580)鳥越城が落城し、出羽守と子息4人が柴田勝家によって松任城で殺害されました。姫は鬼玄蕃の異名を持つ猛将・佐久間盛政に捕えられますが、こいつ姫に惚れやがったようで、さりげなく求婚しますが姫は尼となって父や兄たちを弔いたいと言って断りました(残念)。
天正9年に出羽守の遺臣が鳥越城奪還の兵を起こし、盛政は尾山城から駆けつけ敵を鎮圧、残った門徒を捜索します。尼となった姫は庵を忍び出たところを敵方に発見され命を落としたとの事。(前回の投稿では自害と書いたけど諸説あるようです)
盛政は「さだめ(運命)つたない女子であった」と涙し、阿含谷に葬らせ御堂を建て里人に末永く供養するよう申し付け立ち去ったそうな。
姫の死には涙するけど、門徒は一人残らず処刑。割切ってますね盛政殿・・プロの鑑ですな。
とはいえ創作の部分も多いのではなかろうか。二曲城のパネルには鈴木(二曲)氏と表示があります。鈴木氏は白山麓門徒(山内衆)の指導者です。
「信長公記」には天正9年(1581)3月に加州一揆が蜂起して「府峠(ふとうげ)」に配置された柴田勝家の軍勢300人を悉く討ち果たしたと書かれているようです。「ふとげ」の由来もいろいろありそうだ。
果たして二曲姫は幻のキャラクターだったのか? 姫武将・・期待しています。

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しんちゃん

往時の雰囲気が良く再現されている。 (2015/10/24 訪問)

鳥越城は土塁などの遺構が良く再現され、柵や門なども再現されていて往時の雰囲気を良く醸し出しています。なんとなくそのへんから門徒がひょっこり顔を出して来そうですね。

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todo94

日帰りドライブで北陸の城めぐり⑤ (2025/09/27 訪問)

七尾城からの転戦です。椿の道が空堀沿いに伸びていますが、樹木の枝葉が邪魔して程よい撮影スポットが見出せません。堀底に降り立つしか方法はないように思います。越中国府の地に作られた城で城地が勝興寺に寄進されたため、現在も勝興寺が建っています。そしてこの勝興寺には2022年12月に国宝指定された本堂、大広間及び式台に加えて10棟もの重文建築が残っているのです。鼓堂など城郭風の建造物なのでてっきり模擬櫓を建ててしまったのかと最初に目にした時は思ってしまいました。500円の拝観料をはらってしっかりと拝観させていただきました。翌日から始まるふしきの「ふ」芸術祭の準備で大広間や書院、奥書院などはだいぶごたごたとしていましたが、満足のいく拝観となりました。

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亀ヶ頭

小田原城に行ってきました (2024/02/26 訪問)

小田原城に行ってきました!晴れた日の小田原城はいいですね

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亀ヶ頭

宇都宮城に行って来ました (2005/04/04 訪問)

宇都宮城に行って来ました、夜のお城は雰囲気が違いますね

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亀ヶ頭

姫路城に行ってきました! (2025/09/08 訪問)

姫路城に行ってきました!やっぱり現存する木造の城は迫力がありました!やっぱり違いますね!

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キンヤ

御殿の書院が再移築復原された陣屋 (2025/09/07 訪問)

三河十八松平の一家で、小島藩1万石の瀧脇松平氏が、宝永元年(1704年)に小島に陣屋を構え、明治維新まで164年間の居所としました。

御殿 書院が元の位置に再移築復原されました。14年前に訪れた際は国道沿いに移築され公会堂として使われてましたが、復原された書院は様変わりしてました。
外観は新しい部材が多いためか綺麗ですが、9割が江戸時代の部材を使われているそうで、内部は柱・天井板・欄間などで殆どが古い部材です。
1万石の小さな藩主らしく慎ましやかな佇まいですが、特に透かし彫りや格子欄間が見事です。
次の間にある紋様「蔦(つた)」の透かし彫り欄間は、内から見ると意匠が浮かび上がり美しいです。
同じく次の間にある紋様「二葉葵」の透かし彫り欄間の4枚の内、1枚は現存しておらず空欄です。残存する欄間は、二葉葵が4組・3組・2組のものがあるため、現存しない欄間は1組だったのではとのことです。
軒瓦・鬼瓦には瀧脇松平氏の家紋「桔梗」が施され、南・南西側には江戸時代の瓦が使われているそうです。
書院が現存する城や陣屋は非常に少なく、この書院は大変貴重です。

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天守無しがアツい

初めての天守台 (2025/10/04 訪問)

二の丸御殿の内部を見学
大政奉還がおこなわれた部屋
朝廷の使者を迎えた部屋…などを見学
(内部は撮影不可のため添付画像は無し)

二の丸御殿を見学後…庭園を歩く。その際、中学の修学旅行で撮影した写真を使って…美術の時間に絵を描いたのだが…それと同じ場所を見つける

橋を渡って本丸へ…天守台に登る…というか二条城にそれがある事を初めて知る🫢

江戸時代の途中までは天守が存在していたものの…1750年あたりに災害で焼失🔥🏯以降は再建されなかった

本丸にも御殿はあり、見学を検討したが「当日券だと待ち時間40分」とスタッフに案内されたので止める

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すけきよ堂

青地城の一般公開 (2025/10/04 訪問)

昨年から開催している一般公開で登城しました。
普段は小学校の敷地内の為、入れません。
小学校の校歌に、城のことが歌われています。

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しんちゃん

豊臣秀吉 (2023/04/09 訪問)

「人たらし」と呼ばれる豊臣秀吉ですが、ぶっちゃけ「たらし」だけで天下を取れるほど戦国の世は甘くないです。誰よりも才覚に溢れている人物だと思いますね。そんな秀吉ですが、信長と同じく残忍なエピソードは多いです。戦国大名なら誰でもあるとは思いますが、甥の秀次を死に追いやり、その一族を殺害した手法が特に残忍とされています。
秀吉の主君・織田信長も甥の万福丸を「串刺し」という残忍極まりない手法で処刑しています。命じられたのは秀吉で、さすがの秀吉も串刺しは止めてほしいと信長に頼みますが許されなかったようです。記憶で書いているのですが、このころに秀吉の中の何かが壊れたような気がしますね。晩年のエピソードが取り上げられることが多いですが、信長配下の時代にも見せしめとして敵方の女・子供を処刑して見せしめにしたことも有ったようです。
長浜城は坂本城と同じく琵琶湖に面した水城です。なんとなくエレガンスな感じがしますが、若い娘が人柱として埋まっているという伝説があります。築城を命じられた京極氏が近くの村から美人の娘を探し出してきたのですが、秀吉が知ったら勿体ないからやめろと言ったかもしれませんな。
さりげなく長浜城カレーの写真も入れておきます。以前、道の駅「浅野三姉妹の郷」で購入した青い「びわ湖ブルーカレー」を使いました。築城部材は魚肉ソーセージです(カルシウム入り)。ご飯が冷めるといやなので、あらかじめ天守等を組み立てておきます。
ご飯を整えて天守や櫓を移築。これぞ秀吉流一夜城・・カレーがサラサラしてるので船が沈んでる。
スプーンで櫓ごとすくっていただきます。オカンが不思議な物を見るような目で見ています。正直、自分でも何を食べているのかよく分からなくなってきた。

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じゅんじん

定期訪問 (2025/05/11 訪問)

関東の玄関口。近くに来たらよるしかありません。今回は古城もいきました。土木技術は圧巻です。

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しんちゃん

豊橋を代表する城郭の一つ (2025/09/28 訪問)

二連木城は三河湾を押えた戸田氏が田原から三河平野進出を目指して築いた城です。戸田氏は田原の本家と分家の二連木戸田氏に分かれ、田原の戸田氏が今川義元に滅ぼされた後に今川氏・徳川氏(松平)に使えました。
城址は大口公園になっていて主郭の周囲には土塁が残っています。北西部は地形の改編が有る可能性が有り、再現されたものの可能性があります。東の豊橋二連木老人福祉センターが二郭跡と見られ北側に土塁の一部が残っています。また主郭と二郭の間の堀は通路として転用されています。
元亀2年(1571)武田信玄が三河に侵攻して来た際に、武田軍の吉田城攻略に備えて酒井忠次が二連木城に入っています。二連木城は元々は戸田氏が牧野氏の吉田城攻略に使用したりしましたが、後に吉田城の支城の役割を果たすようになっていたようです。
家康が、からくも吉田城に入ったので忠次も吉田城に戻ろうとしますが、武田軍の攻撃を受け多くの犠牲を出してしまったようです。
家康と忠次が吉田城に籠って守りを固めたため、信玄も無理に攻めずに甲斐に引き返しています。この翌年、信玄は3万(諸説あり)の兵を率いて青崩峠より侵攻し、三方ヶ原の戦いに至ります。
天正3年(1575)に武田勝頼が三河に侵攻をしてきたときも付近を放火し(落城とも)、吉田城を包囲しています。こののち武田軍は長篠城攻略に乗り出し設楽ヶ原の決戦に至ります。

※内容を一部修正しました。

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イオ

歴史の大きな舞台 (2025/06/01 訪問)

室町前期に斯波義重が築いた城で、中期以降は守護所として尾張国の中心地となりました。長らく守護代・織田大和守家の居城でしたが、織田信友が織田信長に討たれると信長が入って小牧山城に移るまでの約8年間居城としています。本能寺の変の後は清須会議により織田信雄が城主となって大改修するも、豊臣秀吉による国替えに応じずに改易され、豊臣秀次領を経て福島正則の居城となりました。関ケ原の戦いでは東軍の拠点となり、戦後に正則が安芸国に移封になると松平忠吉が入りましたが、忠吉が病死すると徳川義直に与えられました。その後、名古屋城の築城に伴い城下町ごと名古屋に移されて(清洲越し)、廃城となっています。

信長に側近く仕えた金森長近にとっても清洲城はゆかりの深い城だろう、ということで金龍紀行の一環として約7年ぶりの登城です。清洲公園駐車場(無料)からまずは清洲古城跡公園へ。遺構はほとんど失われていますが、古城跡公園には本丸土塁がわずかに遺り、土塁上には信長を祀った社と2つの清洲古城跡の石碑が建てられています。土塁の裾には説明板もあります。堀代わりだった五条川沿いに出ると、河川改修時の発掘調査で確認された胴木を土台とした本丸石垣が復元されていました。

五条川越しに模擬天守を眺めながら、城跡を分断するJRの線路をくぐって清洲公園にも。信長は清洲城から桶狭間の戦いに出陣していることから、清洲公園には桶狭間に出陣する若き信長像が立てられています。後に出陣する信長を見守るように濃姫の像も立てられ、二人の愛と希望の丘として夫婦の絆・立身出生(原文ママ)・必勝祈願のパワースポットになっているんだとか。パワースポット云々はともかく、長近も信長に付き従って清洲城から出陣したんでしょうなぁ。また清洲公園には今川義元本陣の桶狭間山に模した築山も設けられています。

最後に大手橋を渡って模擬天守にも。桶狭間の戦いの戦勝により熱田神宮に奉納された信長塀が周囲に復元されています。そして庭園を抜けて天守に入る…つもりでしたが、閉館まであまり時間がなくじっくり見て回ることができなさそうなので、天守内はまたの機会に。金龍紀行としては天守は特に関係ありませんしね。

…ということで、さすがに歴史に大きく関わった城だけあっていろいろと見るところはあり、遺構はほとんどなくてもそれ相応に楽しませていただきました。また、この日はカメラ修理中でスマホのみでの撮影でしたが、慣れないながらも特に問題なく撮れたのも収穫でした。
 

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しんちゃん

八木家・新選組発祥の地 (2016/02/20 訪問)

京都市中京区壬生梛ノ宮町の八木家には新選組の屯所がありました。文久3年(1863)第14代将軍徳川家茂の上洛警備の為、清河八郎率いる浪士組が入洛し、壬生村の郷士・八木家が宿舎の一つとして使われました。
清河ら浪士組の大半は江戸に戻りましたが、清河と袂を分かった芹沢鴨・新見錦・近藤勇・土 方歳三らは京に残り、京都守護職・松平容保の下に属して新選組を名乗るようになりました。当初はここに「新選組屯所」の標札を掲げ隊士も少数でしたが、次第に増えて行ったので周辺の屋敷にも宿泊したそうです。慶応元年(1865)4月に新選組の屯所は西本願寺に移され、翌年には不動堂村に移り、鳥羽伏見の戦いの直前には伏見奉行所に入ったとのことです。


土 方は差別用語じゃねーって。あまり差別に敏感すぎると使える日本語が減って行くだけですぞ。

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