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ぴーかる

法勝寺城 (2025/03/30 訪問)

【法勝寺城】
<駐車場他>城山公園・法勝寺川河堤に駐車スペースあります。
<交通手段>車

<見所>切岸
<感想>日帰り尼子十砦旅4城目。ここは尼子の城跡ではありません。現地説明板によると法勝寺城は1564年に毛利氏によって築城され、吉川元春の家臣三村家親が城主となったとあります。また一説には法勝寺城は毛利本紹が城主となったが、山中鹿之介により攻められ落城し自刃したと伝えられています。
 毛利本紹主従の墓に城跡碑があり、その脇が登城口になります。城跡は公園整備されていて、木々が伐採されて桜が植えられています。主郭を中心に北側下段に舌状の副郭、東側側面に腰広い曲輪が2段程備えています。主郭の西側は道路を通してあり改変されているので遺構は見受けられません。城跡の北側から東側にかけて法勝寺川が流れていて堀代わりの防御設備としているので、西側の道路に堀切か何かの防御遺構があったかもしれないと考えると勿体ない感じがした。

<満足度>◆◆◇

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朝田 辰兵衛

九戸村役場の裏手です… (2025/06/08 訪問)

熊野館は九戸村役場の裏手の丘陵です。熊野神社が祀られていますが,明治時代に移されたそうです。熊野神社の奥に熊野館があります。手前に東屋。土塁上には展望台。熊野神社近くに堀跡を発見しました。

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しんちゃん

庄内の乱 (2025/05/07 訪問)

都之城は永和元年(1375)島津氏の一族・北郷氏二代義久によって築かれました。「庄内十二外城」と呼ばれる支城群を有していて、伊集院氏が城主を務めていた時代に起きた「庄内の乱」の際には、本家の島津軍をてこずらせています。
資料館の建っている本丸と狭野神社のある西城には城址の雰囲気が良く残っています。北郷氏の本城だけあって、城域は広く大淀川とその支流に守られた丘陵部に池之上城・新城・中尾之城・中尾城・外城・中之城・南之城と呼ばれる郭群がひしめき合っていたようです。

豊臣秀吉の九州平定後、島津氏の重臣・伊集院忠棟が八万石で都城に入り、秀吉の直命で島津領内の検知後の知行配分を請け負うことになりました。そのことにより島津家中での恨みを集め、主家を乗っ取ろうとしているという風評までたったあげく、
宗家の後継者である島津忠恒によって、伏見の島津邸にて斬殺されてしまい、これが「庄内の乱」のきっかけとなりました。
忠棟の殺害は忠恒の独断のように見えますが、島津家の総意のようにも感じます。少なくとも島津家内では忠恒の行動を責める空気は無かったのではないでしょうか。
この後、忠棟の嫡子・伊集院忠真と島津宗家の戦いになりました。忠真は「庄内十二外城」を以て善戦しますが、その外城も次第に降伏開城して行き、最終的に家康の和睦を取り入れ降伏し、改めて忠恒に仕えることになり、都城は本郷氏の城に戻りました。
加藤清正は「庄内の乱」で秘かに忠真を支援し、乱の後も連絡を取っていたので、家康の怒りを買っています。そのため会津征伐への参加を認められなかったとされていますが、私は他にも理由があると思っています。

忠真は慶長7年(1602)に忠恒の催した狩りに同行した際に射殺され、実行役の押川治右衛門と淵脇平馬は切腹を申し付けられますが、その子孫は後に出世しているようです。忠真の母と弟三人も同日中に殺害されますが、こちらの方はお咎めなしだったのだろうか?

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イタさん

磯部城址 群馬県安中市鷺宮 (2025/06/05 訪問)

説明板には、正治3年(1201)頃の佐々木盛綱入道西倉の旧跡とあるが、遺構からは鎌倉初頭の頃ではなく、永禄5年(1565)頃に武田信玄が築いたもの・・・と載る。元々あった物を信玄時代に改修したものか。

南駐車場から入ると、正面に城塁と横堀?が、右にも横堀がある。先の三の丸虎口を過ぎ、段がある傾斜した三の丸へ。北側に馬出とあるが草が多く分からず。馬出の先は二の丸虎口で郭内に虚空蔵菩薩を祀る。西に高土居があり、ほぼ埋まった堀を渡れば本丸内へ。右手に田村神社が建つ。二の丸ほど手入れがされず、木々・草が多く図の北側に標示する土塁などが分からない。搦め手口の標示から出て二の丸へ戻り、物見平とある櫓台に行けば、東下には回り込んだ横堀の眺めがよい。

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イタさん

広大な城跡 (2025/06/05 訪問)

城中の案内板に、小田原北条氏の支配地の北西端に位置し、境目の城として重視され、重臣の大道寺政繁が配置された。天正18年の小田原征伐時に北国勢に攻められ、一ヶ月ほどの攻城戦の後、降伏し廃城となった・・・とある。

東駐車場利用。入口に建物があり、パンフレットと書いてあるが物はなかった。縄張など分からないまま散策路を進む。時間の余裕もなかったが、入口背後の土塁・堀切、水の手、連続竪堀付近、本丸、馬出、二の丸くらいで下城する。二の丸先の連続堀切、安中郭、S字堀などは回りきれず。

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しんちゃん

遠堀が残ってはいるが (2025/05/07 訪問)

案内板によると、山田城は「龍廻城」や「朝霧城」とも呼ばれています。「本丸」の他にも「勢城(二の丸)」「安房城」「西拵」「取添」などの曲輪が有りましたが、開発によりほとんどの遺構が残っていません。南方一帯1.3kmに渡って「遠堀」と呼ばれる空堀が配され、今でも一部が残っていますが、竹藪に埋もれ判別は難しい状態です。
延文4年(1359)に肥後国の相良定頼によって築かれたとされ、その後北原氏の家臣・白坂左衛門の居城となりますが北郷数久・忠相がこれを奪い久家を城主とします。その後も城主が入れ替わり、庄内の乱の際には伊集院方の長崎治部少輔、長崎休兵衛らが籠城しますが島津軍によって攻め落とされます。
その後は北郷家が領主に復帰するも元和元年(1615)の一国一城令によって廃城になりました。

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しんちゃん

つつがなく (2025/05/07 訪問)

今日は風邪の療養の為、会社を休んでいます。朝田さん、ツツガムシ情報ありがとうございます。ツツガムシといえばリケッチアというウイルスに近い細菌を保有しているみたいですね。幸い抗生物質が効くようですが、秋田を訪問する際には虫よけや薄手の上着を羽織るなど最新の注意をもってのぞみたいです。秋田・岩手の熊の人身被害の数が他県に比べ群を抜いて多いのも注意が必要です。
ツツガなくやり過ごしたいです、ツツガムシだけに。
秋田から遠く離れて鹿児島県・松山城の投稿です。案内板によると松山城は文治4年(1188)平清盛の弟・頼盛の孫である隠岐守重頼が松山に来て築いたという記録が残っているようです。戦国時代には島津氏や肝付氏などの勢力争いで幾度か落城し、最終的には島津氏の地頭が松山を治めました。本丸・二の丸・五兵衛城・八幡城の4の城に分かれますが、現在そのままの形で残っているのは二の丸だけとされています。頂部に展望台を持つ丘陵が二の丸跡と見られ、いくつか扁平地もあるようです。また、かつての堀跡が堀道になっていました。

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宗春

小田原ガイド協会「小田原城総構いいとこ取りコース」に参加してきました (2025/06/07 訪問)

小田原城は何度か訪れた事があったのですが、天守周辺ばかりで、総構えを歩くという事は出来ていませんでした。
小田原ガイド協会で総構えを案内してくれるコースがある事は知っていましたが、今回予定が合ったので参加してみました。

ガイドコースは総構えの北東(城下張出)から北西(小峯御鐘ノ台大堀切)を歩き、西側(三の丸外郭新堀土塁)を通って報徳二宮神社に出るというルートでした。私有地っぽい場所も多く、ガイドさんが居ないと不審者扱いされてしまいそうでした。

一人ではなかなか歩けないので、参加して良かったです。

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カズサン

やっと初登城しました! (2025/06/04 訪問)

 羽生城は忍城の様な湿田、沼、池に囲まれた縄張の城郭で、皆さん投稿の縄張図が脳裏に残って居り、初めての様な気がしませんでした。

 駐車場:特に無し、但し城跡の古城天満宮南前が広い道で路駐可能。
 参考資料:城郭放浪記さん余湖図コレクションさん城びと投稿者グーグルマップに依る。

 東北道は数拾回とも往復しておりますが、優先度が低いのか他を優先しての通過状態でしたが、今回孫の運動会観戦で宇都宮を訪ねる途中に、羽生ICを降りて立寄りました、インターからは3~4km程で近く住宅街、工場地帯特に曙ブレーキ工業の東隣と言うエリアです。

 先ずは古城天満宮門前に在る石碑、縄張図付き案内板、天満宮・羽生城解説板が揃って立っており目に付きます。羽生城縄張図付き案内板は皆さんの投稿写真で目にしており、やっと見る事が出来たと言うう安堵感と達成感で初めてですがお久しぶりと言う感じ。
 羽生城には家康関東移封時に大久保忠隣が入っていたのですね、その後家康の怒りにふれ改易廃城慶長19年(1614年)、古城天満宮は天神郭跡に当たり他の郭は消滅し遺構は残って居ない。(案内板に依る)

 石碑、案内板の写真を撮り、グーグルマップに芭蕉句碑史跡マークが有り探すが良く分からない、自然石に芭蕉の文字が有りコレかなと撮影するが文字が読めない。また天満宮には存在する牛の置物が石像で飾って有り、毎日お参りしてると言う老婦人がこの石像は舅が彫った牛の石像との事、しばし会話を楽しみました。
 古城天満宮に参拝して終了としました。
  

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翡翠

萩城 (2023/10/21 訪問)

今年も行きました。最近は城下町の方が人気で、萩城址は人が少ないです。今回は行ってないのですが、指月山山頂には、詰丸跡があります。

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ナマズ

綺麗な六段壁 (2025/06/08 訪問)

岩村城に行ってきました
あまり時間がなく山頂まで車で行き
山頂からの登城になりました
駐車場から2分くらい歩くと
今までにいろんな城に行って見たことのない
6段の綺麗な六段壁がありました
そして本丸に行くと見えるのは
時間を忘れるくらい綺麗な景色でした
ピクニックをしてる親子もいました

帰りに中部地方の郷土料理五平餅を食べ
帰りに恵那峡により本日の旅は終わりました

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イタさん

大きな堀切が目立つ (2025/06/05 訪問)

本丸跡に大きな石製の案内台があるが、寝かしてあるため読むには支障が無いが、画像は撮りづらい。その文面に、嘉吉・文安の頃、信州の依田忠政が築いたとされている。中後閑にある長源寺にある文明二年(1470)十月三日付けの依田信濃入道寄進状が・・・。その他は立地、縄張などが記されている。

駐車場からの散策路は公園化に伴い整備された、とあったが、右手に東郭群の城塁を見ながら上る。東郭群は木々が多く全体像が掴みづらい。戻り主郭方向へ行けば、東郭・本丸と二の丸間の大堀切にでる。左手が二の丸で、堀切側が櫓台跡とあり、以前の写真には模擬櫓(井楼)が建っている。二の丸は細長い郭で端に東屋が建っている。大堀切をさきへ行けば左に南郭があり、右の本丸との堀切になる。道は公園化で整備したと案内板にある。南郭も東屋がある狭い郭である。西郭は数段で草が刈られ公園広場になる。東郭より高く本丸があり、坂虎口になるのか上れば、本丸内へ。北側に東屋・石製の説明板、南側は一段高くなり、端に城址碑、周囲に庚申塚が立ち並んでいる。百庚申と書かれた説明板がある。東郭に下りて北郭に向かう。北第一堀切、北第二堀切・北第三堀切とあり、北郭内は広くなく、ここも東屋が建っている。

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イタさん

人見城址 群馬県安中市松井田町 (2025/06/05 訪問)

詳細は分からず。人見氏の居館があり、その後、城として拡張されたようです。
予備知識なく寄ってみたが、遺構がよく分からなかった。大宮神社前に案内板が二つ並んで立つが、手書き風と汚れ、縮尺もあり図がよく掴めなかった。帰宅後、先人さんの記事を読めば、神社下のトイレ場所から赤い橋を渡れば、郭下部の堀跡があったようだ。神社から堀状へ下りれば、水の手と標示があり、水が溜まっている。案内図のうぐいすの井戸だろうか。上がれば馬が数頭描かれた馬出辺りに出る。土塁、竪堀は分かったがその他が確信持てず。東の大宮神社から西の昌見寺辺りまでが範囲とあり、神社南辺りが東郭とあり、民家前の道路脇に東郭と標示があった。

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朝田 辰兵衛

碑は長徳寺の南西約100m付近に… (2025/06/07 訪問)

福田館のピンの場所は,完全に私有地となっています。「長徳寺の向かいを真っすぐ駆け上がれば…」と思い決行したら,他人の家の庭に入り込んでしまいました…。
私有地を抜け出て舗装道路に出たら,偶然にも碑が建っていました。

しんちゃんさんへ…
秋田の地方ニュースですが,クマの出没警報発令に加えて,今年はツツガムシ被害も報告されていました。高熱が出て,最悪の場合は死にいたります。心当たりがあるようでしたら,専門医の受診を。

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じゅんじん

広大 (2025/01/26 訪問)

とてもまわり切れません。またいかねば!

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じゅんじん

壮絶 (2025/01/26 訪問)

絶景でした。

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じゅんじん

大宰府天満宮 (2025/01/26 訪問)

人盛りでした。

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じゅんじん

令和 (2025/01/26 訪問)

大宰府です。九州の中心でした。

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じゅんじん

大宰府防衛 (2025/01/26 訪問)

土塁が延びています

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しんちゃん

一部の郭以外は秘境化が進んでいる。 (2025/05/07 訪問)

酒谷城は酒谷川に向かって伸びている丘陵の先端部分に築かれています。飫肥城から都城に通じる交通の要衝にあり、飫肥城を巡る抗争に伴い、しばし島津氏と伊東氏の間で所有者が変わっています。
城址は案内板を参考にすると11の郭で構成され、郭8に至る途中には腰郭が二つついています。6.7と8~11はある程度の高低差を持った、同じ区分けとされ、それ以外の郭はシラス台地の城郭特有の独立した郭で、間に堀切が付いています。
主郭と推定される郭8の周辺は草が良く刈られていて歩きやすいですが、それ以外の郭は入り口まで藪草が密集していて訪問する気になりません。ほぼ住宅地と言って良い立地に有るのですが、帰りに通った舗装路に若いクマのものと見られるフンが大量に落ちていました。
正直、人身事故にならないのが不思議なぐらいで、宮崎県でも特に過疎化が進んでいる日南市で熊が繁殖している事実には不穏な物を感じます。草を刈って城址を整える以前に、この地域ではいろいろ対応しなければいけないことが有るような気がしますね。

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