とびがすやまとりで

鳶ヶ巣山砦

愛知県新城市

別名 : 乗本村砦、鳶ヶ巣砦
旧国名 : 三河

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久間山砦への登城口
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イオ

武田五砦めぐり(久間山砦・中山砦・姥ヶ懷砦・君ヶ臥床砦) (2025/06/21 訪問)

(続き)

便宜上、先に鳶ヶ巣山砦の投稿をしていますが、実際には久間山砦→中山砦→鳶ヶ巣山砦→姥ヶ懷砦→君ヶ臥床砦の順に登城しています。

久間山砦(新城市乗本川添)
豊川を監視する位置に築かれた砦で、和気善兵衛宗勝、大戸民部直光、浪合胤成らが守備しました。そういえば、新昌寺には鳥居強右衛門と並んで和気善兵衛宗勝の墓が設けられていましたっけ。久間山砦へは県道から脇道に入り廃小屋脇の案内表示に従って山中に入ります。しばらく行くと道がなくなったので北側斜面を直登して尾根に出て、あとはピンクのテープが巻かれた尾根沿いを西に進んでたどり着きました。尾根の突端には久間山砦の小さな石碑と標柱が立てられていますが、現状では豊川は樹木でほぼ見えませんでした。帰りは北側の谷筋に下りてみましたが、登城口がわかりづらいものの、砂防ダムを目印に行けばこちらからのほうが登城しやすいかもしれません。

中山砦(新城市乗本椎ノ入)
徳川家康が長篠城を攻める際に築いた付城で、長篠の戦いでは五味与惣兵衛貞氏、名和無理之助、飯尾助友らが守備しました。五砦の中で長篠城を最も近くから監視できる重要な位置にあり、土塁や堀切が設けられていたようですが、新東名高速道路により遺構は失われ、砦跡は小さな歴史公園になっています。鳶ヶ巣山砦への林道をそのまま進めば中山砦まで車でも来られるはずですが、林道は狭そうなので、西麓の高速高架下の空きスペースに駐車して212段の急な階段を上って登城しました。歴史公園には中山砦跡や在りし日の鎧掛け松の石碑、医王寺山本陣と同じ造りの物見櫓が建てられています。物見櫓に上ってみると高速道路の向こうに長篠城、右手に大通寺と大通寺山陣地、その奥に医王寺山本陣まで見渡すことができました。

姥ヶ懐砦(新城市乗本姥ガ懐)
兵糧や資材の備蓄場所としての役割を担った砦で、武田二十四将に数えられる三枝昌貞(守友)、三枝守義、三枝守光らが守備しました。別所街道から三枝兄弟の墓への案内表示に従って分岐を進むと防獣柵のゲートがあります。開閉してしばらく行くと小川に沿って階段状に削平された斜面の一角に三枝兄弟の墓があり、その前に姥ケ懐武田浪人組陣地の小さな石碑が立てられています。比定地はしんちゃんさんが訪れた山上と三枝兄弟の墓がある山裾の2カ所あるようですが、山裾は砦の位置としては不自然ながら、物資の備蓄場所としては小川を通じて宇連川につながるほうが便利かな、とも。

君ヶ臥床砦(新城市乗本柿ノ久保)
高所からの眺望と広大な頂部に多くの兵が駐屯できる砦で、和田業繁・信業父子らが守備しました。舟多神社から山頂まで整備された道が続いていて、山頂下は地主さんにより整備された遊具広場になっています。手作り感のあるブランコやハンモック、滑車ロープの遊具に恐竜を模した展望台などもありました。頂部は周囲を帯曲輪や腰曲輪が取り巻き、なるほど多くの兵が駐屯できそうです。頂部には君ヶ臥床和田兵部陣地の石碑が立てられていました。恐竜の展望台からは長篠城は樹木で見えづらいものの、宇連川沿いの眺望が広がっていました。

以上で武田五砦をひとめぐり。続いてはいよいよ長篠の戦いの決戦場、設楽原に向かいます。
 

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イオ

武田五砦めぐり (2025/06/21 訪問)

武田五砦は、長篠の戦いにおいて長篠城包囲のために宇連川南岸に築かれた武田軍の五つの砦の総称で、鳶ヶ巣山砦を中心に久間山砦、中山砦、姥ヶ懐砦、君ヶ臥床砦に約3千の兵が布陣しました。鳶ヶ巣山砦には武田(河窪)信実が主将として入り長篠城に睨みを利かせましたが、酒井忠次・金森長近ら織田・徳川連合軍別動隊の奇襲を受けて五砦ともに陥落しました。

集落の自主防災会の倉庫脇が麓からの登城口(案内図あり)ですが、「車で行けます!」との案内表示に従って林道を車で上って行き、ベンチが設置された駐車スペースから登城開始。林道からの登城口を入ったところに金刀比羅神社があり、そこから登城道の右手に曲輪と思しき削平地が続いています。登城道左手には竪堀(?)が落ちていました。削平地の突端が主郭と考えられ、戦没将士の墓碑が建ち、鳶ヶ巣の戦いの説明板の背後には土塁と堀切(らしき地形)が見られました。

主郭から北西方向に下って行くと、尾根沿いに曲輪が展開し、鳶ヶ巣山砦ののぼり旗がひるがえっています。北西尾根の曲輪には階段状に多くの腰曲輪が設けられ多くの兵を収容できそうです。また北西尾根の曲輪からは眼下に長篠城を見下ろし、右手に大通寺山陣地、奥には医王寺山本陣を見渡し、今朝から歩き回った長篠城と武田軍陣地が一望の下です。そして墓地になっている北西尾根突端の曲輪で鳶ヶ巣山砦をひとめぐり。ここからあと少し下りれば麓からの登城口に至るはずですが、車を上に駐めたままなので、来た道をまた上って引き返しました。隅々まで見て回るつもりなら、麓から歩いて往復したほうが早いように思います。

ところで、武田五砦への奇襲戦では、酒井忠次率いる徳川軍2千と織田信長から金森長近に預けられた鉄砲隊5百を含む織田軍2千(徳川軍3千、織田軍5千とも)により別動隊が編成されたとされますが、長近は忠次と同等以上の兵を率いながらその役割は「検使」にとどまり、奇襲戦の功績はほとんど忠次独りのものとして語られています。しかしながら、長篠の戦いの後に長近は信長の名から一字拝領して「可近」を「長近」に改めていることからも忠次に劣らぬ戦功があっただろうことは疑いありません。思うに、後の徳川の天下においては、徳川四天王筆頭の忠次と外様の一大名に過ぎない長近の戦功を同等に扱うわけにはいかないでしょうし、三方ヶ原の戦いで武田軍に完敗した徳川軍としては、長篠の戦いで武田軍を打ち破ったのが織田軍であっては格好がつかない、けれど設楽原での大勝が織田軍の鉄砲隊によるものであることが動せないのなら、せめて武田五砦への奇襲戦は徳川軍の手柄でなければ…というような意識が働いたのかな、とも。さらに、長近という人物はそういう意識を踏まえた上で自らの戦功をひけらかすタイプではないようにも思いますので、後世には忠次の功績のみが語られるようになった、と。…勝手な妄想ですが(笑)

さて、せっかくの機会なので鳶ヶ巣山砦だけでなく、ほかの四砦もめぐってみるとしましょう(続く)。

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しんちゃん

長篠・設楽ヶ原の戦い 君ヶ伏床砦 (2025/10/05 訪問)

君ヶ伏床砦は五砦の中では最も東(右翼)に位置しています。標高180m・比高130mの浅間山の山頂一帯に築かれているので山城とほぼ変わりません。まだ暑い中えっちらおっちら登ります。少し涼しくなって来たので今頃なら気分よく登れるかな。
山頂に守将の和田兵衛信業にまつわる「君か臥床和田兵衛陣地」の石碑があり、小さな立札がありますが、特に案内板は無い。どうやら多くの人は比較的楽に回れる設楽ヶ原の方に行ってしまうらしい。そういえば昔から五砦を回って人に会ったことが無い・・たまに鳶ヶ巣にいるくらいかな?
いつの時代の扁平地かは分からないけど君ヶ伏床砦の周辺は結構広いです。南側には腰郭のような扁平地があり、北にかけ数段の扁平地が続き、アスレチック場になっている広い扁平地があり、周囲を良く俯瞰できます。
そこにおわすはドラゴン?・・はたまた謎の黒い麒麟か・・はっ!麒麟が来る! 急がねば(大丈夫)
西側にも扁平地があり鉄塔が立っています。尾根沿いに西に行った先は出丸のようになっているけど、とりあえずここまで。残念ながら明確な堀や土塁などは見当たらなかった。

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しんちゃん

長篠・設楽ヶ原の戦い 久間山砦 (2025/10/05 訪問)

久間山砦は武田勝頼が長篠城を包囲した際に築かれた五つの砦の一つで中山砦歴史公園の南に位地する丘陵の上に築かれています。西に豊川が流れ県道443号線のわき道を登って行くと朽ちた小屋が有ってその脇から入って行きます。この入口、非常にうっそうとした雰囲気で、まず普通の人は入って行かないと思います。「城好き」でもちょっと躊躇しそうですね。良く見ると足元に小さく「久間山砦」と書かれた標柱が立っています。あまりウェルカムじゃない?
道は途中から踏み代程度になりますが、尾根に登って西の先端部に進むと、城址碑がありそこが主郭になります。構造としては単郭の砦に近いですが主郭はそこそこの広さが有ったと思います。帰り道は別のルートで北側から麓に降りて行きました。
一度訪問してしまえばいずれのルートからでも登れそうですが、私有地の可能性を考えると南のわき道から入って行った方が良いのかもしれません。
久間山砦は標高150mの丘陵上に築かれ、和気善兵衛宗勝・大戸民部直光・倉賀野秀景・原胤成ら300騎が守っていたとされています。
和気善兵衛宗勝の墓(供養塔)は鳥居強右衛門の墓がある新昌寺にありました。

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城郭情報

分類・構造 山城
築城主 武田信実
築城年 天正3年(1575)
主な城主 武田信実
遺構 曲輪、竪堀
住所 愛知県新城市乗本字鳶ヶ巣