車で行く方は、近くにある鳥居強右衛門の磔死の磔や設楽原の戦いに用いられた馬防柵も見学する事をお勧めします。
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2026/01/06 17:45
2025/12/14 21:07
長篠450年記念 医王寺山 北東のピーク周辺の郭(推定) (2025/12/07 訪問)
今年は長篠の戦いから450年の記念の年らしいです。来年には大河ドラマ「豊臣兄弟」が始まるし、東海地方・・熱いですね。
というか、東海はずっと熱い気がする。三英傑を輩出しているし、前田利家や加藤清正、徳川四天王などもここから出てるし・・私は駿河区清水で生まれて三河で育っているのに、どうして徳川家康より豊臣秀吉が好きなのか? 選択肢が多い、贅沢な話です。
最近はあまり遠出が出来ないのですが、近場に長篠・設楽ヶ原や関ヶ原と言った古戦場が有る。このあたりは市街地化が進んでいないので見ごたえが有ります・・ありがた山。
諸国古城之図には伝・武田勝頼本陣以外の遺構は描かれていないようです。ただ、私は江戸時代の人の残した資料をあまり信じていません・・というより鵜呑みにはしないんですね。
自分の足で周ってみると防御に利用できそうな場所がいくらでもある。武田軍がこれを利用しない手は無いと思いますね。
北側の尾根から北東のピークに登って行くと周辺に扁平地がたくさんある。北側に続く尾根は退却用のルートに使えそうだが今回はパス。けっこう広いので全部は見切れません。
標高172mの最高所は格好の物見台になる。私ならここに物見櫓を築くな・・伝勝頼本陣にあるアレですわ。そんなことを考えながら歩いていると実に楽しい。愛知も全くクマが出ないわけではないが、ほぼいないので実に気楽だ。ユートピアだ・・
ある程度散策して満足したのでそのまま尾根をくだりながら戻ることにした。
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2025/12/13 12:56
長篠450年記念 医王寺山は武田の築いた山城なのか? (2025/12/07 訪問)
医王寺山の続きです。長篠城ではないが、私は長篠城と医王寺山はセットだと考えています。「城びと」も「ニッポン城めぐり」も合戦や攻城用の陣所の登録は少ないが、短い期間に築かれているからこそ築城者の意図や「くふう」が込められていると思う。
浅野文庫の諸国古城之図には「勝頼陣城」として描かれていて「三川日記」には医王寺山に3000の兵が陣を配置したと書かれているらしい・・読んだことはないが。実際に周って見ると「もっと入る」んじゃないかなと思った。もちろん伝・勝頼本陣の周囲も含めてだが。
北西の尾根は敵の攻撃を受けやすい場所だと思うが、現状はどうなのだろうか?
尾根の先端部は二ヵ所 二段にわたって石積で補強がしてあるようだった。先端は急峻で林業の人が足場を固めるために築いたのだろうか? だがこんな急なガケみたいな場所を通るのか? 武田方が築いたにしても、あまり武田軍が石垣を築いたというイメージは無い。
個人的に興味のある場所だ。
北側の尾根に周ってみた。伝勝頼本陣とされる丘陵の北を守る位置にある。このあたりは林業が作ったと思われる掘道や土盛らしきものがある。土盛は南側に付いている、私なら北側に付けるだろう。しかし、この林業と言うものはやっかいだ・・全国の山城に林業の爪痕はいっぱい有って遺構と判別がつきづらい。
だが、関ヶ原を周った時に林業が作った扁平地かな?と思っていたら関ヶ原合戦図志には陣所と比定されている箇所が有ったので遺構の可能性が有るケースも有ったりする。何せ明治の時代の本なので杉の植樹が全国で行われる前の話だ。
神谷氏の書いた関ヶ原合戦図志は江戸時代に編纂された武家事記を参考にしていると思われるので正確とは言い難い。
だが高齢の身でありながら関ヶ原を真摯に歩き回って陣所を比定して行ったことは本を読んでみれば良く分かる。だからリスペクトしているわけですよ。
ところで「くふう」や「ひじかた」ぐらい漢字で書かせてもらってよいですか。歴史のサイトだよね・・漢字は日本人の培ってきた財産ですよ。つまらない「言葉狩り」で自分たちの首を絞めるのは良くないですよ。
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2025/12/11 21:24
長篠450年記念 医王寺山① (2025/12/07 訪問)
「めぐらー」の皆さん、特集だけじゃなくて「みんなの投稿」も見ておくれやす。
今年は長篠の合戦450年ということで「お城EXPO」の二の丸会場でもいろいろ特集が組まれているようです。城めぐりを長くやっていると地形図を見ればどこに何がありそうかだいたい分かるようになってくる。築城者の気持ちになって考えてみると良いですな。
私の地元は愛知なので長篠・設楽ヶ原の古戦場周辺はけっこう周っています。武田勝頼本陣があったとされる医王寺ですが地形図を見ると周囲を丘陵に囲まれているのがわかる。西側から北側にかけて尾根と沢を天然の土塁・掘とし、北側を周回して標高172mのピークに至る。武田勝頼本陣跡とされる丘陵より比高が51m高いこの場所に物見やぐらを築けばより遠くの敵を早く発見することが出来る。
西側には豊川が流れ敵の信仰を妨げてくれている。
北側の尾根を利用すれば退路を確保できる。
地形から見ると武田勝頼はここを三河侵攻の拠点にしようと考えていたのではないかと思います。長篠城と医王寺陣を有効に活用出来たら、史実より有利に織田・徳川の軍勢と戦えたのではないだろうか。
退路を確保したうえで撤退戦に持ち込めたら、あれほど多くの将兵をいたずらに失うことは無かったと思う・・すねえもんの活躍で長篠城を落とせなかったばかりか、まんまと織田信長に不利な戦場に釣りだされてしまったのではないか・・と思う。
地形図から読んで想像が出来るのはこの程度・・あとは実際に周って見るだけです。
実際に周って見ると、天神山陣所の北側に続く尾根は敵を防ぐ格好の防塁だ。伝勝頼本陣との間は深い谷になっていて、下から見上げると圧巻だ。尾根の上は内側を削って扁平地にしてある、つまり郭だ。
各所にある堀らしきものは林業の人が作った道かも知れないのでカウントはしない。扁平地も植樹の為にならしたと考えることも出来るが、遺構の可能性も考えたい。林業による扁平に見えても昔から存在していたり、城郭大系に郭として記載があることも有るからだ。
実をいうと尾根全体に渡ってこのような扁平地が多く見られた。守備にあたる兵士たちの駐屯する場所も兼ねているのかもしれない。
尾根上を周遊して戻って来るのに2~3時間くらいかかった。全体でみると山城に近い構造をしていると思う。
医王寺は克補契嶷(こくほかいぎょく)という僧によって永正11年(1514)に開かれたとされているが、事実上の開基は二代目の琴室契音(きつしつかいおん)とされている。この人物、長篠城の菅沼氏と何かしらの関わりがあるのだろうか?
位置的に長篠城の詰城の位地にあるが、最初からここを城として築かなかった理由も不明だ。だが実際に歩いてみて周囲の地形を城塞として活用したならば、医王寺の守りは非常に固いと思えた。
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宇連川と豊川が合流する断崖上に、奥三河の土豪・菅沼元成が築いた要害堅固な城。戦国末期には武田氏と徳川氏で争奪戦が繰り返されて、家康家臣の奥平氏による籠城戦の舞台としても有名。武田軍の猛攻を防いだ主郭北側の大規模な空堀や、野牛曲輪、弾正曲輪などがよく残っている。
| 城地種類 | 平城 |
|---|---|
| 築城年代 | 永正5年(1508) |
| 築城者 | 菅沼元成 |
| 主要城主 | 菅沼氏、奥平氏 |
| 文化財史跡区分 | 国史跡(長篠城跡) |
| 近年の主な復元・整備 | 奥平信昌 |
| 主な関連施設 | 石碑、説明板 |
| 主な遺構 | 曲輪、石垣、土塁、横堀(空堀) |
| 住所 | 愛知県新城市長篠字市場 |
|---|---|
| 問い合わせ先 | 新城市教育委員会長篠城址史跡保存館 |
| 問い合わせ先電話番号 | 0536-32-0162 |