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しんちゃん

山頂からの眺めは良好。 (2025/02/16 訪問)

冠木門跡の先に進めば本丸に到着です。日本海と雪の景色が素晴らしい。周囲の街も良く見渡せます。ちょっとした絶景です。
この景色を見るために、この雪の中、皆さん登ってきているわけですね。自分も少し慣れてきましたが、雪用の靴ではないし、無茶は禁物です。村上城は標高135mの臥牛山の山頂に築かれており、江戸時代は村上藩主の居城でした。築城の時期は不明ですが戦国時代には揚北衆の本庄氏の城だったとされています。永禄11年(1568)に本庄繁長は上杉謙信に反旗を翻し、一年の籠城の末に講和し、開城しています。江戸時代に近世城郭として改修を受けますが、寛文7年(1667)に天守を落雷にて焼失し、幕末に至ります。

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カズサン

本堂郭編ー2/2 (2025/03/01 訪問)

 平成24年10月24日以来の二度目の探訪参拝です。西日が傾き始めた時刻でしたので、本堂はじめ各建物が逆光に成ってしまいました、本堂を参拝して鼓楼(太鼓櫓)内から外から北側からと撮影し、大門と特徴ある本證寺石碑を太陽を陰にして撮影、東側の内堀は水が抜かれてる冬の為か、北側の鼓楼横の内堀は何か掘り起こされている?、本堂郭と庫裏郭の間の内堀も確認。
 鼓楼太鼓櫓が見所です、本願寺派寺院に多く見られる太鼓櫓が現存して居て存在感を表しています。
 現在本證寺は真宗大谷派(東本願寺)の寺院です。
 

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カズサン

北辺の堀と土塁編ー1/2 (2025/03/01 訪問)

 本証寺は平成24年10月以来の2度目、前回には情報不足事前調査不足で外堀、土塁を探訪して居ませんでしたので、今回の三河未踏の城達成廻りで安城古城を終えて、南に5km程進行して再登城参拝しました。

 駐車場:本證寺大門潜った参拝者駐車場
 参考資料:城郭放浪記さん余湖図コレクションさんグーグルマップに依る。

 先ずは本堂に参拝して本堂境内をぐるっと探訪、観察、北東に在る鼓楼(太鼓櫓)が光ってる、大門を出て東の通りから北へ外堀橋交差点(外堀跡が少し残ってる)を西入る、この通りも北側の外堀跡に当たる、寺院敷地の北東辺りから北側、北西角、西側にフェンス越しですが外堀の土塁、空堀が良く見える、人の背丈以上の高さが窺える。
 昨年の大河ドラマどうする家康放映の影響でか?TVで本證寺の土塁・空堀が放映されて見て居ましたので、是非見たいとの思いで訪ねました、お寺に頼めば見学が出来たのでしょうか?良く分かりません、夕刻迫り庫裏の方から入る様なのですが厚かましく頼むのを遠慮しました。フェンス越しですが目的は達成しました、満足です。
 戻って、そとぼりばし傍の残存外堀観察、大門から東に90m程に在る外堀跡も確認探訪。本證寺の案内板によると外堀を含めた寺域は東西320m南北310mの広さです。外堀内堀で囲まれていた。
 

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チェブ

城びと未登録のお城攻め「石毛城」 (2025/03/01 訪問)

「豊田城」の支城「石毛城」は豊田 正親さんが多賀谷氏に備えて築いたそうです。
次男、石毛 政重さんが「石毛城」を守ります。
「豊田城」は小貝川の近く。「石毛城」は鬼怒川の近くです。

茨城県 常総市 石下 99
駐車場はありませんが、広場になっていて、車のタイヤの跡があったので駐車しました。
「石下城」の石碑の他に、立派な説明碑があります。
後ろに鳥居がありますので、大きさが分かるかと思います。
正直、豊田氏は存じ上げません。しかし、この大きな説明碑には豊田氏の活躍振りが刻まれています。
がんばって読みましたが、首がやられます。
文中に『川中島の戦い』や『本能寺』等が刻まれていました。
脳卒中やら毒やらの文字も、、、。

奥に神社があり、その向こうに土塁が見えますが「石毛城」時代の遺構かは分かりません。

教科書には載らない豊田氏の活躍。
説明碑の写真を引き延ばして、武勇伝を覚えておこうと思った「石毛城」攻めでした。

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トク

⑭【護佐丸と沖縄6城】(番外編)沖縄料理 (2025/02/08 訪問)

番外編です。私が沖縄で食べた物を御紹介します。

【沖縄ちゃんぽん】
大人気メニューと書いてあり、長崎ちゃんぽんとどう違うのだろう🤔? と思って気になったので注文してみました。 すると何とビックリ😯!・・・麺でなくご飯が出てきました(笑)。でも絶品でした。沖縄ポークの入った焼飯に、たっぷりの卵がかかった、要は沖縄風オムライスといった所でしょうか? 那覇市松山58号線沿い「みかど」で頂きました。ここ安くてボリューム満点、一人でも入りやすい店でした(写真①②)。

【沖縄定食】
沖縄風炊き込みご飯・沖縄そば・沖縄豆腐(ジーマーミ)・ゴ-ヤサラダがセットになった定食を、首里城内の首里社館(すいむいかん)のレストランでいただきました。沖縄の味がギュッと詰まった定番料理!といった感じでした(写真③④)。

【ソーキそば】
最後に那覇空港で、そういえば「沖縄そば」と「ソーキそば」の違いは結局何だったのだろう🤔?・・・とふと疑問が湧き、そば屋があったのでソーキそばの方を注文してみました。麺は同じですが、チャーシューが沖縄そばは平たく切ったものでしたが、ソーキそばは骨付きスペアリブのようなものでした。しかも味がしみ込んでいてこれはとてもジューシーです。納得しました(写真⑤⑥)。


そして満腹になった所で飛行機に乗ろうとすると、本土が雪のためダイヤが乱れ1時間遅れで離陸。それだけでなく離陸して1時間半後、とんでもないハプニングが! 「ただ今福岡上空を旋回し着陸許可を待っておりましたが、本日他空港雪のため着陸できない機が多数福岡上空にてまだ待機しており、本機は空港閉鎖時間(22時)までに着陸許可が下りないため、これより那覇空港へ引き返す事となりました」。 え?・・・😱うそだろ~(地元優先じゃないの?)と叫んでもどうしようもなく、結局3時間も乗ったあげくに再び那覇空港に着陸したのは夜の23時すぎ。空港は24時に閉鎖されるため仕方なく宿を探す事に・・。しかし航空会社は何もしてくれません。それどころかこんな夜中なのに、宿探しや次の搭乗予約も自分で何とかせよとの事。「ひえ~😱何と冷たい!」。検索しやっと見つかった近くの最安値ホテルは1万3千円。翌日同社便が全て満席のため他社便で帰る事に。すると差額7千円UP。結局計2万円の思わぬ出費に😱! ああ・・最悪の結末(泣)。

以上15回読んでいただき、大変ありがとうございました(終)。
 

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todo94

三連休の攻城⑦ (2025/02/23 訪問)

水賀城からの転戦です。佐賀関は大分市中心部からより臼杵市からの方が近いのに、大分市の地籍なのですね。昼時だったので道の駅さがのせきにて、アジ・サバ丼セットをいただいてから、烏帽子岳城に向かいました。佐賀関ダムのさらに上、城山森林公園として整備されているのですが、駐車場の落ち葉の状態などを見るとほとんど利用者はいないのではないかと感じられました。山頂部は公園らしさがあって、豊予海峡を望む眺望が楽しめました。

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しんちゃん

世良田館 世良田東照宮 (2025/02/02 訪問)

世良田館は新田氏の一族世良田氏の館があったとされています。国の史跡・世良田東照宮に隣接する公園周辺が館跡とされ、それと分かる大きな空堀が残っています。一部には土塁も残っているようですが、分かりづらくなっています。
世良田東照宮は国史跡・新田荘遺跡の一つとして国の史跡に指定されています。徳川家光によって全面的に改修される前の旧社殿の一部が移築されている、由緒正しい東照宮です。拝殿は日光奥社の拝殿を移築したとされ、家康公の墓標だった多宝塔も移され、本地堂として明治初年までこの地にあったようです。残念ながら明治時代に売却され今はその姿を見ることが出来ません。

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下手向城(岐阜県恵那市) (2025/03/06 訪問)

 岐阜県恵那市にある城びとには未登録の城址で「しもとうげじょう」と読みます。説明板には元亀天正の争乱で構えられた陣城の可能性が書かれていました。この周辺は織田氏と武田氏の攻防の激しかった地域で、ここも利用されたと考えられます。単郭の城ですが、面積は広く、土塁、横堀、竪堀、堀切などが残っています。西側の横堀付近を歩いていると石が散乱している場所がありました。切岸を見ると節理のような気もしますが、石積みかと思わせるような場所もありました。期待以上の遺構があり楽しんで散策できました。
 下手向郵便局横の道から登城しましたが、標識があり迷うことはありません。

 

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しんちゃん

本丸下の遺構 (2025/02/16 訪問)

普段はスノータイヤを履いていても、ほとんど雪道を走ったことがありません。でも、今年は岩手県の花巻市や滋賀県・彦根市など雪の積もった道をけっこう走る機会が有りました。新潟県や山口県も雪が降っていましたね。普段温暖な場所で暮らしているので、雪に遭遇する機会はめったにありません。正直、不安でしたがスノータイヤでも結構走れるものです。慣れてくるとなかなか楽しいです。
村上城は平山城とはいえ、ちょっとした山城並に比高はあります。登城道は雪が積もっているし、クマ出没注意の看板もあるのに、地元のマダム達がどんどん登って来ます。皆さんたくましいです・・私も負けてられん。
雪の村上城はすごくいい感じです。足元に注意しながら登りますが、この環境はなかなか城址には厳しい。いつも石垣の修復工事を行っているのも納得です。尾根上に南北に長い縄張りで、本丸下の出廓を越え、黒門跡を通過して本丸に向かいます。

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上手向城(岐阜県恵那市) (2025/03/06 訪問)

 岐阜県恵那市にある城びとには未登録の城址で「かみとうげじょう」と読みます。勝氏の居城と伝わります。県道33号(中馬かんてん街道)を歩いていると北に入る道があり、よく見ると上手向城の看板がわかりました。小里川北岸の丘陵にある城ケ峯と隠居峯の二つの曲輪群からなっています。城ケ峯は主郭より主に南側に曲輪が展開しています。東西の峰に堀切を思わせるような地形がありますが、今一つわかりません。隠居峯は曲輪も広く堀切、土塁も残っていますが、藪となっていて散策しにくい状況でした。

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姫街道

井伊氏一門の城巡り (2025/03/06 訪問)

井伊谷から西へ四キロ、陣座峠を越して柿本城に抜ける街道を抑えている。これこそ、戦国前期の城だと思う。居館➕詰め城の構成を考えれば、奥山氏居館がこの低丘の南にあった居館で、詰め城がこの低丘上にあったと考えるのが自然だと思う。
よって、街道は南側を通っていただろう。
一帯は、なかなか雰囲気があって何時来ても楽しい。
縄張りらしい遺構は何一つないが、私はこの立地が魅力的に感じる。
「奥山城」については、奥山方広寺背後にあったとされるが、それはこの奥山氏居館とセットにするには無理がある。

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山田城(岐阜県恵那市) (2025/03/06 訪問)

 岐阜県恵那市にある城びとには未登録の城址です。説明板によると和田馬場が城主とあります。遠山氏の一族らしいのですが、詳細はわかっていません。入口と主郭には令和4年に設置された標識がありますが、同年10月に開催された全国山城サミット恵那大会に合わせて設置されたようです。おかげで迷うことなく城址に辿り着けました。住宅などにより喪失した所も多いと思いますが、曲輪、土塁や空堀が残っています。東側にある土塁と空堀は高さもあり櫓台のような場所もあり楽しめます。

 明知鉄道山岡駅から徒歩10分くらいで説明板のある登城口に行くことができます。
 
 岐阜県恵那市山岡町は、冬は乾燥し朝晩の冷え込みが激しい地域で、古くからこの冬期の気候を利用した寒天の生産が盛んでした。特に細寒天の生産は日本一であり、全国シェアは8割を超えているそうです。海のない山岡町でなぜ寒天と思いましたが、気候が適していて寒天作りが盛んになったようです。
明知鉄道山岡駅に隣接する「かんてんかん」さんのレストランで寒天ラーメンをいただきました。普通のラーメンとは異なる食感です。

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ぴーかる

楽々前城 (2024/12/30 訪問)

【楽々前城】
<駐車場他>阿瀬川を渡る橋の手前<35.462801, 134.748229>の道路脇に駐車しました。橋を渡りもっと奥まで車行けます。
<交通手段>車

<見所>石垣・主郭石垣跡・切岸
<感想>縁起祈願、鶴亀楽々旅ラスト3城目。兵庫県の観光サイトによると、楽々前城は垣屋隆国が応永年間(1394~1427年)に築城し、その子、満成が跡を継いだといわれますが、史料には隆国も満成も確認できないようです。南北朝の争乱終結後の1363年以降に垣屋氏が楽前庄に入部しているので、それ以降の築城と思われます。垣屋氏は但馬の守護代のしての地歩を固めていきますが、15世紀の後期から垣屋続成の代になると、守護職の山名氏と対立するようになります。1511年に垣屋続成は山名氏と和睦して鶴ヶ城を築城して拠点を移します。1559年に生野銀山を攻略した織田信長軍が垣屋城(楽々前城のことのよう)を落城しています。
 私もこの城跡は行きたい城でメモしながらも「らくらくまえじょう」と読んでいました。「ささのくまじょう」読めぬ。なんか、あまり下調べせずに、ちゃちゃっと調べて行ったものですから、駐車ポイントもだいぶ手前だったし、現在位置を確認して城跡に近い場所から直登してしまい、だいぶ苦労して登り着きました。
 城跡は主郭を中心に東西南北の四方に腰曲輪を設けていて、主郭の一段下の腰曲輪からもう更に下の曲輪との切岸が高く整備されていないので城跡内部も散策するのに大変です。主郭は石垣で取り巻いていたようで、西側曲輪壁の下には転落石が沢山落ちています。西側の下段の曲輪群には多くの石垣遺構が見られます。畝状竪堀群があるそうですが後から知って完全に見落としてしまい、帰路は登ってきた斜面をずり落ちながら降りるのは怪我しそうだったので、南の尾根伝いにさまよって、ついに道をロストしてしまい、結局斜面をずり落ちてなんとか城跡東側をはしるアスファルト道に出てこれました。山は暗くなってきて、ライトを車に置いてきたので相当焦った。
 発掘調査されていないような感じの城跡で、生の迫力ある遺構と本格的山城でかなり見応えありました。登城路が苦労したので、楽々前というより「苦々疲城」でした。畝状竪堀の見落としが、だいぶ気になるのでいつか再訪します。走行距離333㎞無事走破。

<満足度>◆◆◆

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しんちゃん

岡山城天守閣 (2025/02/22 訪問)

岡山城天守は耐震工事を施してリニューアルされました。エレベーターは設置されていますが、地下1階から4階までで5階と6階は階段でのぼることになります。天守閣は上にいくほど狭くなるので頑張っている方だと思います。
特徴的な形状の天守なので、本来なら木造で見たい所なのですが、木造の天守は第二次世界大戦の空襲で残念ながら消失してしまいました。内部はエレベーターを設置しながらも余裕のある造りで、移動にもストレスを感じることは有りません。スペースに余裕が有るのでゆっくり展示物やパネルを鑑賞することが出来ます。
関ヶ原の合戦で西軍が敗れた後、宇喜多秀家と二人の息子は八丈島に流されてしまいました。
二人の息子は母恋しさに豪姫の絵を撫ですぎたため、絵の額の部分が薄くなってしまったという逸話が残っています。
長男は早逝しており、次男の秀高は数えで10歳、三男の秀継は数えで4歳ごろだったと思います。徳川の地盤を盤石にするためとはいえ、わずか3歳の子供を母から引き離し、島流しにするとは家康公も非情なことをするものです。

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姫街道

井伊谷城は、信州街道からみるべきだ (2025/03/06 訪問)

久しぶりに山城巡りを再開。第一弾は井伊谷城。まず、城の麓にある地域遺産センター2階で模型を観る。この城は信州街道を抑えるように井伊氏居館やその家臣団の屋敷の裏山にある。よって、模型を観るにも西を↑にして見るべきだ。当時、信州街道を南下して井伊谷郷に入ってきた人は、信州街道を挟むようにそびえる三岳城と共に圧巻の風景を観た事だろう。
さて、城の縄張りだが、しっかり土塁が回っていて食い違い虎口や搦手口が信州街道から攻め込んできた敵に対して配置されている。私は、井伊谷城は武田対徳川の戦いで充分機能していたと思う。理由は、三岳城の西側にある大規模な連続横堀だ。
あれは井伊氏では無い。となると、、、三岳城に入った武田か徳川の軍勢が井伊谷城を廃城にしておく必要がない。出城や砦として充分機能したと思う。

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カズサン

土塁上に神社が鎮座ー三河国達成 (2025/03/01 訪問)

 松平城山城、松平郷城廻りで大島陣屋を終わって走行26km程南西の安城古城を目指す。

 駐車場:安城古城近くのスーパーヤマナカ安城フランテ館を利用させて頂く。
 参考資料:城郭放浪記さん城びとの皆さんグーグルマップに依る。

 三河の国の未踏の城、松平城山城、安城古城が残って居り未踏が気に成り今回登城と成りました。

 三河大島陣屋から南西26km程走行し途中には懐かしい大給城、奥殿陣屋、岩津城、大樹寺、岡崎城など横を通りながら安城市内の目的の駐車場へ到着。
 利用させて頂いたスーパーから東の通りを南に約150m程に住宅街に樹木がこんもりした処が有り西に10~20m入ると土塁上に神社が有り、鳥居の前に案内板がある、南側には社口堂こども広場がある、一部遊具は使用禁止状態。
 案内板によると、
 「平安時代には志貴庄の荘館があったという、鎌倉時代には地頭の館と成り、安藤氏が居館とした。室町時代は和田氏五代の本拠地となり、永享10年(1438)の永享の乱後、安祥城を築き移転した。また天文9年(1540)織田勢が安祥城を攻めた時、松平側はここを前線基地の一つとした。」
 松平康忠が討死している。
 遺構は良く分からないが土塁が遺構なのかな?と言う状態でした。

 この後スーパーに戻り店内で品定めするが時間が迫り買物せずに終わりました。

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朝田 辰兵衛

城めぐりのきっかけは… (2025/02/23 訪問)

イオさんのご質問,レスが大変遅くなり申しわけございません。
私の場合,福祉関連で全国行脚する機会が増え,付加価値を持たせたいと思った時,お城に行きついて今に至るという経緯です。
福祉関連は私自身の障害と関係があります。城びとオールスターズのみなさんには伝えてかまわないですが,ここにアップは遠慮させていただきます。ご理解くださいませ。

太田道灌屋敷ですが,太田小学校から一段下にある三春台第二公園は物見として充分な機能を果たしていると思いました。眺望も合わせてアップします。

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トク

鈴木重成・鈴木正三

カズさんの投稿を拝見し、私も鈴木重成(弟)・鈴木正三(兄)の事は以前から気になっていました。天草島原の乱を少しずつ追っているのですが、富岡城を訪れた時、乱後の復興にこの二人が尽力し、今の天草があるのはこの二人のおかげだと知りました。しかし、この二人についての過去はわからなかったので、則定陣屋・椎城が出身だと知り、私も何か一つモヤモヤが解決した思いです。またそこにも二人の銅像があり、今でも天草とつながっていたのですね。私は天草での明智光秀の孫たちの活躍を追っている中で二人を知ったので、またいずれ機会があれば詳しくと思っています。

富岡城には頼山陽と勝海舟の銅像もありますが、彼らは何も貢献していなく、ただ天草に来ただけです。頼山陽は道楽旅行の途中に夕陽を見て感動し漢詩を詠んだだけ、若き勝海舟は航海の練習途中に立ち寄り酒に酔って寺に落書きをして帰っただけです。今なら犯罪ですよね。銅像にするほどではないと思うのですが・・・(笑)。

本渡城の一角には、重成が建立し、ここから正三がキリスト教に代わり仏教を広めたとされる明徳寺もあります(写真③④⑤)。
 

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カズサン

【三河 大島陣屋】愛知県豊田市 東面石垣の3基の石樋が見所 (2025/03/01 訪問)

 則定陣屋、椎城、則定城を検索調査中に近くの大島陣屋をグーグルマップで発見、則定陣屋エリアの探訪を終えて探訪に向かう。

 住所:愛知県豊田市東大島町林4ー5
 駐車場:東大島町グラウンド・集会所(豊田市東大島町仏田)の駐車場を利用。
 参考資料:余湖図コレクションさん城郭放浪記さんグーグルマップに依る。

 則定城、心月院探訪で駐めた三角路側帯エリアから北東に1.2km程を細い山道、中部電力変電所横を通り、駐車目的に定めていた東大島町グラウンド・集会所の駐車場へ、同駐車場を利用。
 駐車場より徒歩で東に70m程降り逆ターンして西方向に降り道なりに、この辺りから田圃の先に石垣に在り屋敷が見える、道なりに200m程進むと石垣のある屋敷前の田圃辺りに着く、東前面の石垣、3基の石樋を望遠で撮影、同じく枡形虎口の様な石囲い、個人宅なのでゆっくり慎重に進む、正面の南側への登り坂、正面には横矢掛りの石垣が南側、北側に備わっている、東面北側の作業所で仕事されてる家人の方に陣屋を訪ねた旨を話、了解を頂く。少し話を伺った、先祖が陣屋屋敷を購入し元の陣屋主石川氏ではない、陣屋の奥に二段目の曲輪が在り前面にも石垣が良く残ってる、との事でした。

 入口正面の植栽の中に小さな案内板がある、左方が一部欠損してる案内板ですが欠損部分を推測して次の様に「石川家陣屋跡 七千石の旗本石川家が、慶安四年(1651)から明治維新まで陣屋を置いたところで大島陣屋ともいいました。立派な石垣が残されています。」
 余湖図コレクションの情報で、石川貞当によって慶安4年に築かれた陣屋、石川貞当は伊勢国亀山藩主石川忠総の4男であったと有ります。
 
 私有地で個人宅なので内部までは入れませんが二段の曲輪が在りやや東に向き曲輪面々には立派な石垣が残り、コケや草が奇麗に整備されて花崗岩石が白く輝いて居ます、前面の石垣には3基の石樋が有り存在感を表しています。
 今回の探訪で素晴らしい遺構を初体験、全国いろいろな所に思わぬ物がまだまだ残っていますね!
 
 この後は松平城山城・松平郷廻りを終えて三河で唯一未踏の安城古城を目指します。
 

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シェル

復元された潮見櫓とライトアップ用の天守!? (2025/02/28 訪問)

 2月末に九州初上陸~!! 佐賀と福岡のお城を巡ってきました!!
 まずは福岡城のご紹介です。
 福岡市地下鉄 空港線 大濠公園駅の5番出口を出てすぐです!!
 復元潮見櫓→下之橋御門・(伝)潮見櫓→黒田如水(官兵衛)隠居地跡→名島門→福岡城むかし探訪館→東御門跡→扇坂→二の丸→表御門跡→本丸→裏御門跡→本丸南側・武具櫓跡→南丸多聞櫓→追廻門南側内堀→上之橋御門跡 →(地下鉄)→ 崇福寺山門(移築城門)の順で見学してきました。
 大濠公園駅の5番出口を出るとすぐに、復元工事中の三の丸の潮見櫓を眺めることができました。ほぼ完成しており、一般公開は3月中旬頃みたいです。公開まであと少しですね!!
 復元潮見櫓を見学後、下之橋御門と(伝)潮見櫓を見学、そのまま東に進み、福岡城むかし探訪館で100名城のスタンプを押印。そこから二の丸に向かいました。二の丸では、梅の花が咲いていました。二の丸から本丸に向かうと、天守台にイベント用の天守が建てられていました。夜にはライトアップするようですが、昼間の散策でしたので、ライトアップの見学はできませんでした。イベント用の天守がある関係で、天守台には入れず、本丸南側の武具櫓跡へは裏御門跡を経由して向かいました。
 また南丸多聞櫓周辺も工事が実施されている関係で、櫓の建物の東側そばには、近づくことはできませんでした。(南丸の櫓の建物そば以外は見学可能でした。)
 舞鶴公園を後にして、地下鉄で天神方面の列車に乗車、中州川端駅で地下鉄箱崎線に乗り換えて、千代県庁口駅で下車。そこから徒歩5分ほど歩くと、崇福寺があります。崇福寺は黒田官兵衛・長政のお墓があるお寺ですが、山門には、福岡城の本丸表御門が移築されています。とても立派な櫓門でした!!地下鉄を利用すれば、舞鶴公園から20分程度で行くことができるので、ぜひ舞鶴公園とセットで巡ってみてください!!

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