【楽々前城】
<駐車場他>阿瀬川を渡る橋の手前<35.462801, 134.748229>の道路脇に駐車しました。橋を渡りもっと奥まで車行けます。
<交通手段>車
<見所>石垣・主郭石垣跡・切岸
<感想>縁起祈願、鶴亀楽々旅ラスト3城目。兵庫県の観光サイトによると、楽々前城は垣屋隆国が応永年間(1394~1427年)に築城し、その子、満成が跡を継いだといわれますが、史料には隆国も満成も確認できないようです。南北朝の争乱終結後の1363年以降に垣屋氏が楽前庄に入部しているので、それ以降の築城と思われます。垣屋氏は但馬の守護代のしての地歩を固めていきますが、15世紀の後期から垣屋続成の代になると、守護職の山名氏と対立するようになります。1511年に垣屋続成は山名氏と和睦して鶴ヶ城を築城して拠点を移します。1559年に生野銀山を攻略した織田信長軍が垣屋城(楽々前城のことのよう)を落城しています。
私もこの城跡は行きたい城でメモしながらも「らくらくまえじょう」と読んでいました。「ささのくまじょう」読めぬ。なんか、あまり下調べせずに、ちゃちゃっと調べて行ったものですから、駐車ポイントもだいぶ手前だったし、現在位置を確認して城跡に近い場所から直登してしまい、だいぶ苦労して登り着きました。
城跡は主郭を中心に東西南北の四方に腰曲輪を設けていて、主郭の一段下の腰曲輪からもう更に下の曲輪との切岸が高く整備されていないので城跡内部も散策するのに大変です。主郭は石垣で取り巻いていたようで、西側曲輪壁の下には転落石が沢山落ちています。西側の下段の曲輪群には多くの石垣遺構が見られます。畝状竪堀群があるそうですが後から知って完全に見落としてしまい、帰路は登ってきた斜面をずり落ちながら降りるのは怪我しそうだったので、南の尾根伝いにさまよって、ついに道をロストしてしまい、結局斜面をずり落ちてなんとか城跡東側をはしるアスファルト道に出てこれました。山は暗くなってきて、ライトを車に置いてきたので相当焦った。
発掘調査されていないような感じの城跡で、生の迫力ある遺構と本格的山城でかなり見応えありました。登城路が苦労したので、楽々前というより「苦々疲城」でした。畝状竪堀の見落としが、だいぶ気になるのでいつか再訪します。走行距離333㎞無事走破。
<満足度>◆◆◆
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