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ぴーかる

小波城 (2024/10/05 訪問)

【小波城】
<駐車場他>駐車場はなし。
<交通手段>車

<感想>初秋の鳥取縦断平山城攻め旅ラスト7城目。小波城は1333年に後醍醐天皇が隠岐の島を脱出し船上山城に立て籠もります。隠岐国守護の佐々木清高は小波城を拠点に船上山を攻めますが逆に天皇方の名和長年に攻められ佐々木清高は隠岐に逃げます。また小波城は大石橋氏の居城とも伝えられているそうです。
 現地は丘陵地、畑地にあり、城びとポイントは山を削って周囲を土塁とした削平地にはなっていますが、曲輪跡なのかどうなのかは判別できませんでした。私有地かどうかもよくわからなかったので早々に退散しました。
 これにてこの旅終了。賀露港市場食道で昼食をとり、かろいちで農産物、羽合の道の駅で魚干物と長芋、島根に突入し道の駅あらエッサで新米を買いました。夕食は下記のラーメン悟空を食べ帰路に着きました。今回も日帰りで沢山走った、鳥取縦断605㎞無事走破。

<満足度>◆◇◇

<グルメ>小波城跡に近い国道9号線にある「ラーメン悟空」は山陰地方名物の牛骨ラーメンで特に地元人気が高いようで午後の部開店5時過ぎに行きましたがほぼ満席でした。チャーハンのセットを頼みましたがチャーハンも美味しかった。また来よーっと。

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しんちゃん

西の城、主郭背後の四重堀切は必見 (2024/09/29 訪問)

一之瀬城は東の城と西の城の二つがあります。城びとの城のマップの位置が示しているのは東の城ですが、時間に余裕があったらぜひ、西の城も訪ねて欲しいと思います。
地元の方々や子供たちによって大事に整備され、案内板に沿って主郭まで道が続いています。東側より道が続いていて、主郭下には土塁や堀切があります。圧巻なのは主郭の西側で、主郭背後に四重の堀切が続き、さらに尾根に沿って進んだ先にも二重の堀切が有ります。
堀切や竪堀によって主郭の西側を厳重にガードしてあるのが伝わってきます。

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しんちゃん

椎の木城から白米城 (2024/09/28 訪問)

阿坂城の投稿のラストです。けっこう城域が広く攻め甲斐のある城址です。椎の木城と白米城の二つの城で構成されていますが、途中にも郭のような扁平地があったような気がします。白米城は単郭ですが、なかなかの広さで眺望も良く、本城の風格があります。
周囲には堀切や竪堀も残り、比較的良く遺構が残っている城址です。
この日は天気が安定せず、帰りに雨に見舞われましたが、傘をさしても歩けるほど、上り下りしやすい道でした。ただし私は傘を持ってきていなかったので擦れましたが。

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しんちゃん

食は旅の糧 道の駅・スカイドーム神岡 (2024/10/13 訪問)

イオさんの記事にあるように、食は旅の糧。城攻めの重要な栄養源です。
飛騨の城を攻略中、道の駅「スカイドーム神岡」に寄りました。どうやら「熊汁定食」が有る様子。これまで熊肉を食べたことがなかったので、これはぜひ食べたい。開店まで時間があるので、先にいくつか城を攻略してきます。
数量限定なので、早めに店に入る。どうやら、本日から熊汁定食がスタートするようで、私が2024年の一番最初に、熊汁を食すようです。
光栄ですわ~。これは熊汁定食の一番槍です。なんでも最初は良い物です。
熊汁は肉をたっぷり煮込むので、肉はほとんど原型を留めませんが、その分ダシはしっかり出ています。うん、うまい。
私、熊肉気に入りました。「神岡ドーム」はニュートリノ研究で有名なカミオカンデのおひざ元で、「カミオカラボ」ではカミオカンデに関する展示が充実しています。

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イオ

ご当地グルメとお土産 (2024/09/14 訪問)

せっかく城めぐりであちこちに行くんだからご当地の美味しいものを食べたい! と常々思いつつも、日帰りだと時間の制約から諦めざるを得ないことも多いですが、今回は泊まりで余裕があるし岡山市のご当地グルメを、ということで、昼食にえびめし、夕食にデミカツ丼を食べました。

えびめしは東京・渋谷の「いんでいら」発祥のえび入りのチャーハン(のようなもの)を、岡山出身の店員が暖簾分けで故郷に持ち込んだもので、「えびめしや」が岡山での発祥になりますが、この日は岡山城から徒歩圏内(ももちゃりで約3分)の「ラーメン西本」で塩ラーメン・えびめしセットを。さっぱりしたスープの塩ラーメンに思ったより真っ黒いえびめし…。コールスローサラダがついていることからも、ソースの濃厚な味が想像されましたが、スパイスのピリ辛感はあるものの全体的にあっさりとしていて、見た目のイメージを覆す不思議な味わいでした。わかりやすく美味しい! というのとは少し違いますが、何やらくせになってしまいそうな味です。次は「えびめしや」に行ってみよう…。

デミカツ丼は玉子とじに替えてデミグラスソースをかけたカツ丼で、どうせ行くならと発祥の「カツ丼野村」へ。20時過ぎの入店でしたが私の後にも次々と来客があり、お目当てのドミグラスソースカツ丼も間違いのない美味しさで、さすがの名店でした。ただ、インパクトという意味では、想像もしない味だったえびめしに一歩譲りますが(笑)

お土産には定番の「大手まんぢゅう」に加えて「おかやま、城さんぽ」を(お土産というより自分用)。岡山県内の国史跡の岡山城、備中松山城、津山城、備中高松城を取り上げた本で、城内はもとより城下の見どころや特産品も紹介されていて、岡山の城めぐりのお供として活躍してくれそうです。…というか、この後の備中松山城や津山城で大いに活用させてもらいました。
 

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)9日目:芝村陣屋 (2024/09/30 訪問)

三輪駅から徒歩15分ちょっとで、慶多寺(34.534572、135.839164)に着き、その後、織田小学校石垣土塀前(34.535403、135.843720)に向かいました。

1615年(元和元年)織田信長の弟である織田有楽斎長益は大坂夏の陣を前に大坂城から退去すると、自身の所領のうち四男長政と五男尚長にそれぞれ10,000石を分知して隠居しました。
この長政を祖とするのが戒重藩(後の芝村藩)で、始め戒重陣屋を居城としました。
1704年(宝永元年)四代織田長清のとき、陣屋を戒重から岩田村(1713年(正徳3年)幕命により芝村に改名)へ移すため幕府の許可を得ましたが、完成したのは1744年(延享元年で織田輔宜の代であったそうです。
以後芝村陣屋を居城として芝村藩となり、代々織田氏が続き十一代織田長易のとき明治に至ります。

芝村陣屋は現在の織田小学校一帯に築かれていました。
最初に織田氏の菩提寺である慶田寺に行って、移築された陣屋門を確認しました。
その後、織田小学校に移動して石垣と土塀を確認しました。織田小学校の南側の正門脇に陣屋の案内板が建っています。
攻城時間は20分くらいでした。本日の城巡りは、ここがラストです。
本日の宿泊先に向かう為、とりあえず三輪駅から王寺駅に向かい、コインロッカーより荷物を取り出した後、大阪府の羽衣駅に向かいました。
大阪府の羽衣駅に向かう途中、新今宮駅で551蓬莱の豚まんを購入しました。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)9日目:柳本城 (2024/09/30 訪問)

柳本駅から徒歩10分弱で、柳本小学校説明板前(34.559176、135.843854)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、楊本氏によって築かれたと云われています。
楊本氏は十市氏の勢力が伸びると越智氏と結んでこれに対抗しましたが、1471年(文明3年)筒井氏と結んだ十市遠清に攻められ、楊本範満は敗死しました。
その後、勢力を伸ばした木沢長政に従いましたが、1542年(天文11年)木沢長政が敗死すると楊本氏も没落し、楊本城は十市氏の持城となったそうです。
1615年(元和元年)織田信長の弟である織田有楽斎長益は大坂夏の陣を前に大坂城から退去すると、自身の所領のうち四男長政と五男尚長にそれぞれ10,000石を分知して隠居しました。
この尚長を祖とするのが柳本藩で、大泉村の庄屋に仮住まいし、寛永年間(1624年〜1644年)に柳本に陣屋を築いて移りました。以後、代々織田氏が続き、十三代織田信及のとき明治に至ります 。

柳本陣屋は柳本小学校と北にある黒塚古墳(柳本公園)一帯に築かれていました。古墳が確認できます。
織田有楽斎の供養塔がある専行寺や移築御殿(橿原神宮にあるそうです)については、時間の都合で行っていません。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=芝村陣屋を目指す為、柳本駅から電車で三輪駅に向かいました。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)9日目:窪之庄城 (2024/09/30 訪問)

山村町バス停から徒歩10分弱で、神社入口(34.639024、135.835277)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、窪城氏によって築かれたと云われています。 窪城氏は大乗院方衆徒だそうです。
1506年(永正3年)窪城氏は古市氏に従って高樋本城を攻めましたが、後詰めにきた筒井氏に窪庄本城を焼かれ没落しました。
1568年(永禄11年)には窪城氏は筒井氏にしたがって松永氏と戦い敗れています。

窪之庄城は牛頭天王社一帯に築かれていました。
牛頭天王社の背後に堀と土塁が確認でき、西側にも土塁と堀が確認できます。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=柳本城を目指す為、帯解駅から電車で柳本駅に向かいました。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)9日目:古市城 (2024/09/30 訪問)

奈良交通の南古市バス停から徒歩3~4分で、東市小グランド南西口(34.655170、135.841001)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、古市氏によって築かれたと云われています。
古市氏は大乗院方衆徒で筒井氏と並んで大きな勢力を持った国人で、1446年(文安3年)古市胤栄の頃には筒井氏と争っています。
応仁の乱では古市氏は畠山義就(西軍)方となって戦い、古市澄胤の頃には奈良検断職となりました。
しかし、1497年(明応6年)筒井氏が勢力を盛り返すと、古市澄胤は城に火を放って山中へ退いています。
1508年(永正5年)には細川澄元の家臣赤沢長経とともに河内国高屋城主の畠山尚順を攻めましたが敗れ自害して果てたそうです。
その後、古市氏の勢力は衰え、古市公胤は鉢伏城を本拠として勢力の回復を目指したが叶わず、筒井氏のちに松永氏に従い松永久秀が滅亡すると古市氏も滅亡したそうです。

現在、東市小学校となっている付近が古市城の本丸跡と云われ、北に二ノ丸があったと推測されているようです。
小学校の体育の授業で生徒さんがグランドにいた為、不審者に間違われないように早々に撤退しました。その為、南西端(グラウンドの南端)にある石碑は確認できませんでした。
攻城時間は2~3分くらいでした。次の攻城先=窪之庄城を目指す為、奈良交通の南古市バス停からバスで山村町バス停に向かいました。

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しんちゃん

主郭周り一周 (2024/09/29 訪問)

尾根上に取りつくと東側に城址が有り幾つかの堀切を経て主郭にたどり着きます。東に幾段か、郭が連なり北側に展望所のある郭があります。そのまま西に向かって周遊していくと、橋のかかった堀切の場所に戻って来るので元来た道を引き返していきます。

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天守無しがアツい

城址だけは当時のまま (2024/10/26 訪問)

ガイドに案内してもらう前に案内所で、パンフレットをもらいました。そこに書かれていた地図(1枚目)を元に話をすると…1-9までの場所を今回は巡ったわけです🚶‍♂️

IV郭の坂を上る際、「あなた(私)どこ見てた?地面見てたでしょ?」「上り坂を歩く時、人間はどうしても下を見る…そこを向こうから…守備兵が迎撃する🏹」「そういう人間心理も利用した造りになってるの」とガイドの解説

そこを進むと木々に覆われた道となり…左手に土塁…右手に崖…の狭い道。ここで敵味方戦闘となり、先頭の兵が倒れれば後ろの兵が代わりに進むわけですが、その際倒れてる兵を崖下に蹴飛ばしたそうです😅 そうでもしないと前に進めないから…というのは言うまでもありませんが…なんかシビアな環境ですね🦶

城山に続く道の先は…90度の角度で直角となっており、これも本丸が直接見えない造りにすることで…より敵の侵入を困難にする構造になってる…そうです

城山に到着。ここにはかつて御主殿や池などの屋敷が存在していたそうです(2枚目)。ガイドがそう案内すると…「八王子城にも同じような施設の跡があり、しかもそこは土台が設置されていたので、より分かりやすく紹介されてました」と私は返事。そのガイドもそこに行った事があると話してました

城山の奥の方(2枚目画像の奥に見える小高い場所)に上ってみるようガイドから言われ、木の枝や干し草が途中にあり、トカゲや蜘蛛🦎🕷️も隙間から見えたので…上りづらい部分ありましたが、頑張って上がりました

すると…すぐ下に案内所が…ガイドと出会ったばかりのタイミングで目にした急斜面の場所の…頂上に位置していることに気づきました。ここは崖下の敵軍の様子は一目瞭然…けれど崖下からここは一切見えない。ここからも守備側が圧倒的有利な地形になってるのが伺える

千葉県では石が取れなかった…なので石垣は使わずに土のみを使って…土を掘ったり盛ったりして…防御施設をこのように造った。かつて(城主の)千葉氏は千葉市の辺りにいたが、海沿いだと三浦半島から三浦一族による船での侵攻を受けた事があり、少し離れたこの場所を拠点とすることで…その脅威から逃れた

雨が降った際…雨水が上から下に流れていく☔️…下には井戸があり、雨水を生活水として利用できるようにもなっていた。そこまで考え抜かれて…この城は構築された…事もガイドから教えてもらいました

城山から降りてIV郭の細道を歩く際、ガイドが両手で壁の土を触りながら「この土は500年前からそのまんま…だからここを触る事で当時を感じる事ができる」「地元の小学校の子供達にもガイドする事があるんだけど、その時もこうやって土を触ってる」と語っており、私も両手で壁土を触ってみました

城を取り巻く建物は変わり、周囲の道路はアスファルトで舗装されても…城の造りはあの時のまま…そう言えば城跡の道は舗装されておらず、全て土だった気がします

3枚目の画像はどこで撮影したか忘れてしまいました…ビューポイントもしくは城山かな?その中に写る田んぼエリア…ここは大正時代あたりまで、印旛浦…つまり霞ヶ浦と同様に(海水の入り混じる)湖だったそうです

それを干拓して、現在のような田んぼにした。さらにはこの辺りは縄文時代…海だったそうで、土を掘ると貝殻が見つかる事があると🐚

昔は関東平野の奥にまで海が入り組んでいた(霞ヶ浦はその名残らしい)。それが年月をかけて…地殻変動により隆起して陸地になった場合もあれば人の手で干拓して陸地になったり…して現在に至る

だから…城が現役稼働していた頃は、今よりもずっと水辺に城があり…城主は船で湖を移動していたそうです。城と城を結ぶ橋もそんざいしていたらしい

ガイドの案内が終わり、案内所に戻ったタイミングで…なんとスタッフの方が撤収作業をしていました。てっきり17時までやってるものと思っていたから意外でしたが、だからこそ最初に100名城スタンプと御城印を済ませておいて正解とも思えましたね

ガイドの御好意で駅まで送ってもらえました🚗 途中、城付近にある縄文時代の貝塚…城主の命で建立されたお寺も紹介してもらえました。「たとえ2年後3年後になってもいいから…よければまた来てください」と言われ、「チャンスがあれば😅」と返事しておきました

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毛利秀頼 (2024/10/31 訪問)

 久しぶりの飯田城です。天竜川の支流の松川と野底川にはさまれた河岸段丘の先端部分に築かれた城です。城郭の東部に本丸を置き、西部に向かって二の丸、桜丸、出丸と曲輪を配置していました。本丸は長姫神社となっています。水の手御門にある石垣が少しですが残っています。

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鈴岡城址公園 (2024/10/31 訪問)

 鈴岡小笠原氏の居城で鈴岡城址公園として整備されています。段丘の突端に築かれた城で6条の大きな空堀によって区切られた、5つの主な郭からなっていたようです。空堀が明瞭に残っていて楽しむことができました。
 隣の松尾城とは毛賀沢水路橋で結ばれ歩道が設置されています。

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松尾城址公園 (2024/10/31 訪問)

 段丘の突端に築かれた松尾小笠原氏の居城で松尾城址公園となっています。空堀などが残っています。主郭の東側にサカヤシキという曲輪があるようですが、進入禁止のロープがあり、その先を見ても藪になっていました。縄張り図によっては竪堀などが描かれているものもあり藪漕ぎも覚悟していましたが、気が付くとズボンにひっつき虫が多量に付着していて戦意喪失し隣の鈴岡城に向かいました。

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にのまる

ご無沙汰しておりましたm(_ _)m (2024/09/29 訪問)

新幹線の車両基地も見える東北本線利府支線完乗と絡めて登城しました。
利府駅からは徒歩です。
一帯は館山公園として整備されており、マップにあったふれあい広場を通り抜けたかったのですが最近人が歩いた形跡が見られなかったため、北側入口からにしました。
城址は季節柄緑に覆われていましたが、駐車場も多いので桜や紅葉の季節には賑わいそうです。人が訪れることが城址の保全に繋がっているのだろうという印象をもちました。
利府小学校に通じる遊歩道が若干歩きづらそうだったため来た道を戻りましたが、ずっと同じ道ではつまらないなーっと思ったので、時間もあることだし隣の新利府駅まで歩くことに。新利府駅の構造も印象的でした。

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しんちゃん

謎の電気柵。消えた鳥居。「?」 (2024/09/27 訪問)

「城郭放浪記」さんの記事を見ると山頂の主郭には小社と城址碑があると記載がありますが、あるのは城址碑のみ。木製の鳥居も見当たりません。さっきの電気柵はなんだったんだろう?「立入禁止」とは書いてなかったので、普通に入って来てしまったが、頭の中に「?」のマークが浮かんでくる。
主郭の周囲には郭や堀切もあるようだ。主郭下には意味ありげなゴツい岩が転がっているが、城址との関係性はどうなのだろう?
とりあえず柵をくぐって西の天守(てんし)と呼ばれる御所跡に足を延ばす。子育て支援センターという建物が見えるので、それがそうなのだろう。ネットショッピングでタイガーのクイックテスタを購入しようと試みる。まあ、よっぽど使用することは無いだろうが万一の為だ。コンプしたい場所が増えたので、一つ持っておいた方が良いかもしれない。
と、思ったのだけど、なぜか失敗。クレジットカードを更新した影響なのだろうか?
「?」が多い今日このごろだ。

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しんちゃん

椎の木城 (2024/09/28 訪問)

阿坂城は北側にある椎の木城と南の白米城のセットになります。いずれの城も味わいがあり、椎の木城の周囲には堀や竪堀、腰曲輪などの遺構が豊富にあります。西側の虎口から取りつくと北と南に曲輪があり、いずれも土塁を残しています。

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しんちゃん

エアフェスタ浜松。 (2019/10/20 訪問)

ついでにエアフェスタの写真の残りも投稿します。エアーパークの有る航空自衛隊浜松基地の敷地内を開放し、年に一度、ブルーインパルスの航空ショー(飛行展示)や装備品(戦闘機など)展示などが行われています。
今年のエアフェスタは10月27日の日曜日で、残念ながら終わってしまったばっかりです。駐車場の関係で、移動はシャトルバスによるピストン移動がメインになりますが、凄い人気で二時間待ちはあたりまえといった感じです。当然帰りのバスの行列もすさまじいです。

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しんちゃん

浜松エアーパーク (2024/08/31 訪問)

浜松航空自衛隊広報館・エアーパークの写真の残りです。もう零式艦上戦闘機の移設はおわったかな。
どのような形で展示されているか楽しみです。自分はF-4ファントムも好きですね。今見てもかっこいいし、「ファントム無頼」という漫画では旧式機でありながら主役機を務めています。ファントム無頼の作画担当は「エリア88」でも有名な新谷かおるさん、原作の史村翔さんは「北斗の拳」の原作の「武論尊」さんと同一人物のようです。
あたたたた。

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ぴーかる

富長城 (2024/10/05 訪問)

【富長城】
<駐車場他>軽なら鳥居前に停めれそう。大きければ裏に回って境内まで行ける。
<交通手段>車

<見所>土塁
<感想>初秋の鳥取縦断平山城攻め旅6城目。富長城の情報は少ないですが、元弘年間(1331〜1334年)に名和氏に協力した荒松氏によって築かれたとされます。主な改修者に福頼氏がおり、福頼氏は室町時代から安土桃山時代の国人で室町時代は山名氏の被官、戦国時代は尼子氏に対抗して毛利氏の傘下となります。城びとの城郭情報では廃城年が1524年になっているので尼子経久全盛の頃なので尼子氏によって落城してしまったのかもしれません。
 現地は富長神社になっています。東と西に切通しの虎口があり、北側の海に面した崖以外の3方を高土塁で囲んでいます。東側の鳥居の奥が小川がある堀切になっていて、小川が滝になっていてなかなかの急峻でありました。

<満足度>◆◆◇

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