(26人目)井伊直政の続き㉙です。
隠れて鉄砲を構える「柏木源藤」、それを指揮をするのはあの「川上四郎兵衛」です。直政の馬のひずめの音がだんだんと聞こえてきました。そして直政の姿が見えた瞬間、「松井三郎兵衛」が突然と現れ道をふさぎ立ちはだかります。行く手を塞がれた直政の馬は驚き、そして立ち止まりました・・・。 その時です!!・・・😱!
四郎兵衛の『撃てー!』という号令のもと、源藤の鉄砲が火を噴きます。その距離わずか20m。そしてその弾は見事に直政の脇腹に命中! と思いきや鉄砲玉をも通さない鉄の甲冑を着ていたため、弾は跳ね返されます。しかし、その跳ね返った弾が、何と運悪く自分の腕に当たってしまい、直政は負傷して落馬! 気を失ってしまいました。
この間に島津豊久は、峠を下り白拍子谷(しらべしだに)まで逃げて行きます。しかしほっとしたのもつかの間、ここでまた別の馬のひずめ音が、松平忠吉がここで追い付きました(父上殿~!)。松井三郎兵衛は「ここは私が! 川上殿は豊久公をお守り下されー!」と言い残し、刀を抜きに馬上の忠吉に向かって「ちぇすとー!!」と叫び斬り込みます。そして忠吉もこれにより負傷し落馬してしまいました。
ここで追い付いた直政の家臣達に対し、三郎兵衛は豊久の逃げる時間を稼ぐため盾となり戦います。しかし多勢に無勢、ここで三郎兵衛は壮絶な討死を遂げてしまいました。そして落馬して意識を失い倒れていた直政と忠吉は、家臣たちに助けられます。家臣たちはこれ以上深追いするのはやめ、負傷した直政と忠吉の手当てが先と陣へ連れ帰りました。
またその時の様子をイラストで作ってみました。おそらくこんな風に、直政への最後の捨て奸は行われたのではないでしょうか?(写真③)。
ここまでは断片的な記録をつなぎ合わせて考えてみた私の想像で、証拠は何もありません(なので御容赦下さい)。しかしこの場所をよく見ると、脇には何故か?・・・お地蔵様がありました(写真④)。説明は何も書かれていません。私はおそらくこのお地蔵様は、一見道祖神のように見えますが、実はここで亡くなった松井三郎兵衛を弔うために、当時の地元の人々が建てたのではないかと思いました。敗者を弔うため、あえて何も書けなかったのではないでしょうか? 私にはそう思えてなりませんでした・・・。
そしてその先の白拍子谷で豊久はもはや動けず、翌朝には自刃して果てました(写真⑤)。川上四郎兵衛と柏木源藤は、豊久公を荼毘に臥すよう瑠璃光寺(写真⑥⑦)の住職と村人に頼み、そして義弘を追い無事合流して、薩摩の帖佐館(義弘の居城)まで帰還する事ができました(写真⑧⑨)。1,500人いた島津軍も、無事帰還できたのはわずか36人だったそうです。
次は、直政が最期の居城とした(佐和山城)へ続きます。ここからは直政の余命を賭けた戦後処理を追いたいと思います。
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