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とおる

唯一の円郭式城郭 (2025/05/14 訪問)

家康公三城コラボ 茶の薫る御城印の購入のために訪問しました。

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イオ

二つの比定地 (2025/02/23 訪問)

奥田甚助の城とも稲八妻氏の城とも伝わりますが、詳細は不明です。山城国一揆では、一揆解体後も守護支配に反対する国人が籠って最後まで抵抗を続けましたが、伊勢貞陸の命を受けた古市澄胤により攻め落とされ、山城国一揆は終結しました。

稲八妻城の所在地は諸説あって明らかではないようなので、とある煩悩の登城目録さんが紹介しておられる3か所のうち、南稲八妻と北稲八間の比定地を訪れました。まずは城びとでの位置情報の地である南稲八妻から。京奈和道の跨道橋を渡ったところに路駐して登城開始。登城口には柵が置かれていますが、以前にネットで見た「進入禁止」の表示は外されていたので、車止めの柵であって人は進入禁止でなくなったものと判断して柵の脇から入らせてもらいました。

登城口正面の尾根筋に直登すると、北から続く尾根(曲輪らしき平坦地も?)の南端に土塁があり、土塁を乗り越えたところが主郭です。主郭はおおむね三角形をしていて、南西隅の土塁の先には細い西尾根が続いています。主郭の南辺には土塁がめぐり、南東隅の土塁の先からは南尾根が続いていますが、縄張図を入手できなかったこともあって、灌木と竹と倒竹に阻まれて南尾根の途中で断念。引き返した少し先に堀切と曲輪があったらしいことは帰宅してから知りました…。

続いては北稲八間の比定地にも。城山の小字が残る丘陵が城跡とされ、城山の麓には山城国一揆と稲屋妻城の説明板が立てられています。城山には配水施設が設けられていて城郭遺構は見られませんが、東屋のある頂部からの眺望はなかなかのものでした。また城山から南に約300mの墓地には、山城国一揆で若くして命を落とした14名を供養する五輪塔と石仏が大切に守り継がれています。

…ということで、この日は生駒山地周辺の6城をめぐりました。いずれもさして比高のない城ばかりではありますが、小規模でも遺構のある城を6つは自分としてはがんばったほうかな、と。ただ、稲八妻城で縄張図無しでもそれなりに見て回れる自信がついたのは良いとしても、遺構があるという確証もなく藪に突っ込んで行くような根性はまだないことも実感しました。…まだ?(笑)
 

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赤い城

佐井田城 岡山県真庭市 (2025/06/08 訪問)

城びと未登録城です。
国道313号線沿いに案内板があり、そこから願成寺方面に。
お寺を過ぎたところから城へ入る道があり、すぐに駐車場があります。
城山稲荷の鳥居が登城口です。
杖も置いてありウエルカム感が高いです✨

登城路も整備されていて歩きやすかったです。
途中には番所跡の石垣がありました。
しばらく登ると虎口、その先が出丸の曲輪があります。
さらに進むと段になった曲輪があるのですがやはりこの時季、藪化していて形はわかりません。

主郭へ登る道から下に下りると井戸跡があります。
井戸を見たあと主郭へ。
主郭には城山稲荷が鎮座、傍らに標柱も立っていました。

主郭の先には二重の堀切があります。
この城の見どころなのですがやはり藪化。
歩きやすい山城でもやっぱり冬に来るのが正解だな、と改めて思いました。

城主の植木氏は尼子氏に従っていましたが宇喜多氏に攻められ軍門に下りました。
その後も尼子氏、宇喜多氏、毛利氏、三村氏による争奪戦が繰り返されました。
整備されている地元の方に感謝、歩きやすい城でした。

【見どころ】
 ・番所跡の石垣
 ・井戸跡
 ・主郭先の二重堀切

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昌官忠

(東海&関西)遠征9日目:野間城 (2025/05/23 訪問)

地黄城から車で5分くらいで、圓珠寺参拝用駐車場(34.943296、135.456190)に着き、そこから徒歩5分くらいで農道アクセスポイント(34.942851、135.456618)に着きました。

野間城は、1168年(仁安3年)に野間高頼によって築かれたと云われています。
詳細は定かでないようですが、多田源氏の嫡流摂津守頼盛の子高頼が野間氏(能瀬氏とも)を称し、この地に本拠を置いたようです。
天正年間(1573年〜1592年)には野間資持が在城していたと云われ、丸山城主能勢頼次、余野城主余野高綱ともに能勢三惣領の一つとされ、能勢氏と行動を共にしていたと考えられるそうです。

主郭部には土塁が巡らされ、北側の土塁上には白髭稲生神社跡があります。
攻城時間は35分くらいでした。本日の城巡りは、ここがラストです。
本日の宿泊先に行く為、亀岡駅でレンタカーを返却し、亀岡駅から電車で加古川駅に向かいました。
歩行歩数=37170歩、歩行距離=26.0Kmです。

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昌官忠

(東海&関西)遠征9日目:地黄城 (2025/05/23 訪問)

丸山城から車で2~3分で、真如寺参拝用駐車場(34.958331、135.461302)に着き、そこから徒歩2~3分で地黄城入口(34.957368、135.460875)に着きました。
隣接した場所の駐車場は、平日は閉鎖されてますので、真如寺参拝用駐車場にとめさせてもらいました。

1602年(慶長7年)能勢頼次によって築かれました。
能勢氏は清和源氏頼光流で、山県国直の子国基が能勢郡田尻荘の地頭となり能勢氏を称したそうです。
1578年(天正6年)21代城主であった能勢頼道は荒木村重に同調し、織田信長に反旗を翻したり、明智光秀の本能寺の変に加担したともいわれ、一時領地を失いました。
関ヶ原合戦で能勢頼次は東軍に属して戦功があり、旧領を回復した際、丸山城を廃城し1602年(慶長7年)地黄城の築城しました。

敷地全体が立派な石垣で囲まれていました。
特に入り口部分の、かつて大手門だったところの石垣が素晴らしい。
大手門の内部は枡形になっていて、防御力も高そうな構造です。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=野間城に向かいました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征9日目:丸山城 (2025/05/23 訪問)

籾井城から車で30分弱で、説明板前の空スペース(34.959441、135.459672)に着きました。
登城口は3か所あるようです。自分は説明板前の空スペースに駐車したので、②ルートを選択しました。
①南側の石造九重塔から大手道を進む方法
②案内板付近にある入口(34.959688、135.459643)
③道が若干わかりにくいが北側から入る方法

築城年代は定かではないようですが、長元年間(1028年〜1037年)能勢頼国によって築かれたと云われています。
能勢氏は清和源氏頼光流で、山県国直の子国基が能勢郡田尻荘の地頭となり能勢氏を称したそうです。
1578年(天正6年)21代城主であった能勢頼道は荒木村重に同調し、織田信長に反旗を翻したり、明智光秀の本能寺の変に加担したともいわれ、一時領地を失いました。
関ヶ原合戦で能勢頼次は東軍に属して戦功があり、旧領を回復しましたが、1602年(慶長7年)地黄城の築城に伴い廃城となりました。

②ルートを選択しましたが、お薦めできません。階段的なものはありますが、郭に着くまで草木と格闘です。
竪堀、土塁などが確認できますが、主郭には案内板など何もありません。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=地黄城に向かいました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征9日目:籾井城 (2025/05/23 訪問)

淀山城から車で10分弱で、禅昌寺手前空スペース(35.072690、135.347073)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、永正年間(1504年〜1521年)籾井照綱によって築かれたと云われています。
織田信長の命を受けた明智光秀によって、1576年(天正4年)、1577年(天正5年)と二度にわたる攻撃を受けて、籾井城は落城し、籾井氏も没落しました。
黒井城主赤井(荻野)直正が波多野氏の赤鬼と呼ばれたのに対して、籾井城主籾井教業が青鬼と呼ばれ勇猛な武将として伝承されていますが、教業に関してはその実在が疑われているようです。

籾井川沿いから山に登る図がインターネットにあったので、川沿いを歩きましたが、金網で上に登る道がありません。
戻って墓方向に歩いてみましたが、ここも上に登る道がわからず、時間も押していたので攻城を諦め麓で撤収しました。
家に戻り、調査したところ籾井川と墓方向の道の中間辺りに城跡公園に登る道があることがわかりました。
入口は分かりづらいみたいですね。
攻城時間は25分(城跡公園に行く道を捜した時間になります)をくらいでした。次の攻城先=丸山城に向かいました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征9日目:淀山城 (2025/05/23 訪問)

八上城から車で10分ちょっとで、溜池東空スペース(35.071835、135.311513)に着きました。
池の右側のあぜみちを北西側に進むと登り口&説明板があります。電気柵開閉して入ります。
駐車場所より主郭まで500mくらい?15分くらいで主郭に着きます。

築城時期は不明のようですが、南北朝の頃に波々伯部(ほほかべ)氏よって築かれ、戦国期の頃改修されているようです。
波々伯部氏は足利尊氏に従ったとされ、丹波の有力な豪族となったとされます。
その後、丹波守護の山名氏、細川氏に従い、戦国期に入り八上城の波多野氏に従いました。
天正年間(1573年〜1592年)に明智光秀の軍勢によって八上城が攻められた後に帰農したそうです。

よく整備されており、竪堀、空堀など見所が多くて楽しめる城跡でした。
攻城時間は30分くらいでした。次の攻城先=籾井城に向かいました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征9日目:八上城 (2025/05/23 訪問)

沢田城から車で10分くらいで、八上城登山者用駐車場(35.066496、135.2502876)に着きました。

八上城は、丹波富士とも呼ばれる高城山に築かれた山城で、戦国時代に多紀郡(現篠山市)を支配した波多野氏5代にわたる居城です。波多野秀治の居城として知られています。
初代清秀は応仁の乱(1467年~1477年)の戦功によって、室町幕府管領細川政元から多紀郡を与えられ八上へ入ります。
その後、波多野氏累代は、戦国時代を通して勢力を蓄え、1527年(大永7年)に管領細川高国を放逐、1538年(天文7年)に丹波守護代内藤氏を攻略、永禄年間(1558年~1559年)には三好長慶や松永久秀と戦いを繰り広げます。
天下布武を目指す織田信長が上洛すると、5代秀治はそれに従わず、1575年(天正3年)信長が派遣した明智光秀の攻撃を受け、1579年(天正7年)4年にわたる籠城戦のすえ落城し、秀治ら兄弟3人は安土城下に移され落命します。
この時、なかなか城が落ちないので、光秀は母親を人質に出して波多野秀治らの安全を保証して投降を誘い、光秀は彼らを信長の下に連れていったところ、思いもかけず磔に処され、ために光秀の母も城内で殺害されてしまったとういう逸話があります。
ただし、創作の可能性が高いとされています。
明智氏の滅亡後は羽柴秀勝や前田玄以の属城となり、江戸時代には徳川家康の実子である松平康重が入城しますが、天下普請によって篠山城が築かれたため、八上城は廃城となりました。

高城山北西麓の無料駐車場を利用し春日神社より。1㎞、45分の案内です。(自分も見学しながら本丸まで45分かかりました)
登山道は整備されていて登りやすいですが、山頂までずっと階段です。道に迷うような事はありませんが、ちゃんとしたシューズと飲料を用意して臨んで下さい。
攻城時間は70分くらいでした。次の攻城先=淀山城へ向かいました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征9日目:沢田城 (2025/05/23 訪問)

土居の内(大渕館)から車で15分弱で、澤田山小林寺駐車場(35.079105、135.226716)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、永正年間(1504年〜1521年)に小林近江守長任によって築かれました。
小林氏は八上城波多野氏の命によって築いたと云われ、 天正7年(1579年)明智光秀の丹波侵攻により落城しました。

小林寺・本堂の廊下下をくぐる通路が「玄奘三蔵法師聖骨塔 参道」となっています。その奥の階段を進むと城域になります
寺の山門付近に案内があり本丸跡には石碑があります。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=八上城へ向かいました。

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朝田 辰兵衛

主郭は整備の手が行き届いていない様子… (2025/05/17 訪問)

2郭は整備されていましたが,主郭は整備の手が行き届いていない様子でした。残念です。大日神社境内には「民舞伝習館」があり,興味が湧きましたが,閉まっていました。なかなか簡単に来れる場所ではないので,気落ちしました。

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しんちゃん

落ちない城だって? ふっふっふっ (2025/04/20 訪問)

白旗城は南北朝時代に赤松円心が新田義貞の大軍相手に耐え抜いたことで「落ちない城」として受験生の皆さんに人気があるらしい。
まあ「嘉吉の乱」で〇〇してるんだけどね。ちなみに私、ありとあらゆる「落ちない城」とやらを訪問していますが、人生でさんざん「奈落」「転落」「落選」「堕落」を経験しています。「逆」に今のうちにいっぱい〇〇〇おいて、しぶとさを身に着けた方が良いかもよ。

この城は比高が400mあって、それだけでもなかなかのボリューミーなんだけど、それ以上に登城道が岩だらけでヒザに厳しいです。これだけ登りにくい登城道もなかなか無いですわ。しばらく登って行くと、道が城址方面に折れて、その先に堀切があります。
まずは四郭とされる、櫛橋丸を攻略します。この辺の道も急で滑りやすいので注意。その先は尾根上に二の丸・馬場・本丸と続いて、その先に三の丸があり、周囲には複数の腰郭が付いているようです。

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厳島古戦場 (2025/06/19 訪問)

 厳島合戦の舞台として知られている城址です。公園として整備されているため、どこまでが当時の地形かわかりません。「安芸の城館」(ハーベスト出版)には「東から延びる低い丘陵先端を2本の堀切で区切り、長さ約250mを城域とする」とありました。堀切は一ヵ所確認できました。
 厳島神社の他、厳島合戦関連の地を散策しています。塔の岡は陶晴賢が本陣を構えた所です。塔の岡の地名の起源となった五重塔は保存修理工事中(2026年12月20日までの予定)でした。元大浦にある厳島合戦跡の説明板は破れていて読めません。

 昼飯は御茶処沖みつさんで、あなごめしをいただきました。

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しんちゃん

南曲輪虎口 (2025/04/07 訪問)

主郭まで行った後はそこから西に降りて三郭に戻ってくるルートが有るようなのですが、道が良く解りません。こういう場合は、登ってきた道をそのまま引き返します。その前に南曲輪虎口の石垣を見に行くことに。
この辺りは、石垣が比較的良く残っていて、石段も残っています。この城址でもっとも見栄えする石垣だと思います。

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シェル

レンコンと常磐線 (2024/06/20 訪問)

JR常磐線 土浦駅東口(霞ヶ浦側)から徒歩15分ほどです。
 常磐線沿いに進んでいくと、説明板を発見。城址碑が常磐線の車両基地内にあるみたいですが、関係者以外立ち入り禁止となっており、見学はできません。城跡は常磐線の車両基地となり、周囲は一面のレンコン畑が広がり、遺構のようなものは確認できませんでした。
常磐線を渡り、西側に行くと信太範宗の墓があります。信太範宗は木田余城の築城者とされているようです。小田氏治の命で、菅谷氏によって謀殺されたようです。
 その後は小田氏が小田城(茨城・つくば)を失った際に、木田余城が小田氏治の居城となったこともあったようです。

 JRの敷地にある城址碑は、常磐線の土浦―神立間を下り列車で通過する際、注意深く観察すると車両基地内に石碑があるのが、一瞬見えました。しかし、私の撮影の技術不足もあり、ちょっと撮影は厳しかったです…
 常磐線の列車でこの区間を通る際は、城址碑をぜひ探してみてください。

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しんちゃん

本丸・二の丸 山鹿素行 (2025/04/20 訪問)

赤穂城本丸には天守台・庭園があり、御殿や建造物等をコンクリートの上に間仕切などで再現してあります。暗渠などの排水路の跡もありました。天守台も城の規模に合わせた立派なもので、天守は築かれなかったものの、十万石の城に匹敵する天守台だと思います。
本丸門は門を二ヵ所備えた枡形を良く再現してあります。二の丸庭園の入口に設けられた門は大石内蔵助良雄の大叔父に当たる、大石頼母良重の屋敷門で、良重は藩主浅野長直の信頼を得て二の丸に屋敷を構えていたそうです。
兵学者・儒学者として有名な山鹿素行は浅野長直の千石で召し抱えられ、承応2年(1653)には赤穂城の二の丸虎口の縄張りを一部変更して、家中に兵法を指南しています。
その後、素行は幕府の忌諱に触れることとなり、寛文6年(1666)~延宝3年(1675)まで赤穂に流されることになり、大石頼母の屋敷の一角に蟄居することとなりました。ここで「武家事紀」などの書物を完成し、後の関ヶ原の陣地図などで、神谷道一氏の「関ヶ原合戦図志」に大きな影響を与えることになりました(私はそう思っています)。個人的には少し、胡散臭い所がある人のようにも見えますが・・。

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ぴーかる

弘前城と桜 (2025/04/28 訪問)

【百名城79城目】
<駐車場他>弘前さくらまつり富士見橋臨時駐車場(無料)に駐車しました。
<交通手段>車

<見所>現存櫓・現存門・天守・石垣
<感想>3泊4日東北さくらまつり旅3日目4城目。今回の旅のメイン弘前城です。北側の一陽橋から入り、北門⇒二の丸丑寅櫓⇒有料区域の北の郭⇒本丸・天守⇒南から抜けて二の丸南内門・辰巳櫓・未申櫓⇒追手門⇒本丸東面石垣を見て⇒東内門⇒東門の順で巡りました。
 桜が有名な名城は数多くありますが、人の混雑が嫌で、桜の時期に行くことはありませんでした。2回目来れるかどうか分からない遠方でもあり、どうせ行くなら桜の時期と決めて、無事訪れる事ができて良かった。現存の櫓・櫓門と桜が見事に調和した光景は心に残りました。天守ももうすぐ元の位置に戻されて今の景色は見られないでしょう。沢山あるのに、天守しか現存建造物に入れなかったのが、少し残念なところでした。これにて現存12天守制覇です。

<満足度>★★★★★

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カズサン

江戸期は本堂氏陣屋が置かれた (2025/06/07 訪問)

 前年時間切れで探訪できなかった石岡城を終えて時間も有り、城びとで近く探し、西に約4km程の志筑城と定めて初登城しました。
 国道6号線を南に進行し恋瀬川を渡って西に進攻し、志筑城の西虎口坂道を登り、志筑城跡旧志筑小学校跡の校門より進入。車は元グラウンドと思われるエリアに駐車する。

 校門の石柱横に志筑城の案内解説板がある、反対側には立派な忠魂碑、通って来た道が1郭南の土塁、堀跡の道の様、案内板を読むと平成23年に移転して更地に成った。旧小学校の庭園と中心に楠木の大木が残って居る、根元には小さな志筑城址碑が在り、少し離れて伊東甲子太郎の碑文の刻まれた顕彰碑、伊東甲子太郎顕彰碑柱と解説板が楠木に覆われて立っている。

 伊東甲子太郎の名を見て幕末新選組の参謀伊東甲子太郎がなぜ此処に、本堂家家臣鈴木忠明の長男と記されている、水戸、江戸で学び伊東精一道場で北辰一刀流を極める、新選組に参謀として使える。映画ドラマでは新選組を離れて暗殺されましたが、ここの地が出身地だったのかと、歴史ドラマが甦りました。

 志筑城は案内解説板によると。
 志筑城は恋瀬川を望む半島状に台地上に位置してる。平安期末から鎌倉初期に下河辺政義にて築かれた、源頼朝から地頭職に任じられ、常陸南部を治める、政義以降その子孫は益戸氏を名乗り代々志筑城を治めた。南北朝時代の城主は国行で、小田氏の旗下で南朝方に属していた、北朝方の高師冬佐竹氏大掾氏に小田氏が負けると、志筑城益戸国行も開城し落ち延び廃城に成った様です。
 時は流れて、関ケ原後佐竹氏水戸から秋田へ国替えにて、出羽国仙北郡(秋田県仙北郡美郷町)本堂城主本堂茂親が常陸志筑地域(8500石)へ国替え慶長6年(1601年)、正保2年(1642年)から明治の廃藩置県まで本堂氏の陣屋が置かれた。

 グーグルマップ航空写真を見ると妻瀬川流域は干拓田圃整理が整い霞ヶ浦まで繋がっている、余湖図コレクションの情報では霞ヶ浦が昔は志筑城付近まで広がっていた、南側の池は堀であり、かっては川が城の周囲を流れていたととありますが、航空写真を見るとその様にも見向けられます。

 又志筑城校門から南へ500m程で県道138号線に合流しますが、その突き当りに志筑城移築陣屋門が在ります、走行中におや?民家の門にしては立派!と目視したのですが写真撮らず。

 歴史800年を重ねる志筑城、関ケ原後の国替え、幕末の擾乱が織りなしてる志筑城探訪でした。
   

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イオ

突出部のある館城 (2025/02/23 訪問)

築城時期等は不明ながら南山城の国人・草内氏の城館とされ、室町期には興福寺領の政所が置かれていましたが、応仁・文明の乱の終結後もなお続く畠山氏の内紛の舞台となり、山城国一揆でも畠山氏により活用されたと考えられます。

城跡には咋岡神社が鎮座し、鳥居前の空きスペースに駐車させてもらって登城開始。鳥居をくぐってすぐのところに草路城跡の石碑が立てられています。草路城は周囲を水堀で囲んだ方形単郭の城館ですが、西辺に突出部を設けて横矢掛りになっています。突出部から南辺にかけて土塁をめぐらせてはいるものの、高さはないので遠目にはよくわかりません。北辺の横堀は二重になっていて、内側の堀は境内に明瞭に遺っています。

境内をひとめぐりすると、今度は外周を時計回りに一周。北辺には境内で見た二重横堀の外側の堀の名残の水路が東西に走っています。東辺から南辺にも細い水路が続き(たぶん道も堀跡)、南辺の水路越しに境内を覗くと南辺の土塁がよく見えました。外側からは突出部南西隅の土塁もよく見えます。西辺の突出部の周囲では水路の幅が広くなり、往時の水堀に少しは近い感じでしょうか。

境内に遺る土塁や横堀だけでなく、外周を一周すると方形城館の雰囲気が感じられるので(時間が許せば)おすすめです。
 

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昌官忠

(東海&関西)遠征9日目:土居の内(大渕館) (2025/05/23 訪問)

細工所城(荒木城)城から車で15分ちょっとで、大渕福寿会館駐車場?(35.083061、135.254708)に着きました。
そこから徒歩2~3分くらいで、土居の内跡(35.082249、135.256451)に着きます。

史料には大渕古館とあるようです。室町時代に造られた在地土豪の居館跡で、天正期に地元の豪族畑氏(畑左近允能綱・同弾正守広)が築いたとされます。
当時、篠山市内の範囲にいくつも存在した館形式のようですが、現在、このような館跡はここだけになったようです。

自宅に石垣をめぐらせている家はありますが、水堀と高い土塁をめぐらせてみるというのはインパクトがあります。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=沢田城へ向かいました。

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