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しんちゃん

尼子氏最期の城 (2025/04/07 訪問)

上月城は天正5年(1577)と6年(1578)の二度に渡って凄惨な戦いに巻き込まれています。一度目は織田方の羽柴秀吉による侵攻によるもので、城主は毛利方の赤松政範でした。上月城は程なく落城しますが、その際に秀吉は城内の者に対して、かなり残酷なことをやらかしているようです。
その後、上月城には尼子勝久・山中鹿介主従が入りますが、天正6年4月には毛利方の小早川・吉川勢の大軍に包囲され、信長が秀吉に撤退を命じたため上月城は孤立無援に陥り落城、尼子勝久は切腹し尼子氏は滅びました。

歴史の重みをひしひしと感じますが、城址は意外なほどにコンパクトです。川の対岸に歴史資料館があり、車はそこに駐車することが出来ます。東から登城道が付いていて、いくつかの腰郭と堀切を過ぎると、主郭にたどり着きます。主郭にある供養塔は最初に落城した際に落命した赤松氏らを弔ったもののようです。主郭から西へ尾根沿いに進んでいくと二の丸となり先には堀切があり、そのまま下ると城址の西側に降りてくるので、歩いて駐車場まで戻ります。
堀切もだいぶ埋まっていて、尼子氏最期の城としては「地味」な印象もありますが、山城としては訪問しやすい方なので、その分「情緒」を楽しむことが出来ると思います。

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イタさん

椎名内城址 千葉県旭市野中 (2025/06/14 訪問)

長禅寺境内が城址で、椎名氏の居城と言われる。
山門左側に少し水の溜まった堀があ、先で西に折れて続くのだが、入れず見られない。右手前は墓地で堀は消えている。ただ境目にはやや高くなった土塁を思わせる藪がある。北の道路に出れば土塁があり、内側に凹みが見え、奥に土塁状の高まりが藪内に見えるので、二重土塁に思えるが。先には道路沿いに堀状遺構が西へ続くが、途中で無くなり、本堂背後の溝に続いている。北西に琴平神社があり、左右が土塁状になる。神社前が境内の西で、広い敷地内には、四国八十八ヶ所巡りの仏像が転々と並ぶ。西、南にも土塁が確認出来る。本堂側と隔てる溝は掘りにしては細すぎる。中央に池跡らしき凹みがあるが、初めは堀跡かと思った。

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ぎりょう

北上・花巻市探訪① 広大な和賀氏の本拠地に感動! (2025/06/08 訪問)

自身が所属する古文書を読む会の移動研修会で、今回は岩手県の北上市・花巻市を訪問しました。この地域は和賀氏、稗貫氏が戦国領主だった地域で、二子城は和賀氏の本拠地でした。両氏はともに天正十八年(1590)の秀吉の奥州仕置きにおいて所領没収になりますが、その後旧領回復をめざし「和賀・稗貫一揆」を起こします。さらに慶長五年(1600)には和賀忠親が旧領奪還(伊達政宗の働きかけ)を目論み、稗貫氏旧臣らとともに「岩崎一揆」を起こします。かつての稗貫氏の本拠地で、すでに南部氏抱えとなっていた鳥谷崎城(のちの花巻城)を攻めますが、落としきれずに敗走、岩崎城に籠ります。翌年春に体制を整えた南部勢に敗れ一揆は終結、忠親は仙台の国分尼寺で最期を遂げます。
この日は、二子地区にお住いの郷土史研究家Oさんに詰城の二子城と、平時の居館とされる白鳥館のご案内とご説明を頂きました。
この城は天正二十年には廃城となっているようですが、まず驚かされるのはその規模です。南北1,000m、南北500mと中世城館としては広大であり、この地に君臨した和賀氏の繁栄を感じることができます。山城部分では山上の主郭の広さ、展望の良さ、切岸、帯曲輪、堀切など残りの良さに感動します。麓の白鳥館(古館)も北上川に面した段丘上にあり、かなりの広さで、西側に残る堀切も見事。館の近くには北上川の船運で利用された川湊もあったらしく、戦に明け暮れていた時代にもしっかりと経済活動を営んでいたことが判りました。
東北自動車道北上江釣子ICより18分(16km)八幡神社下に駐車場・トイレあり

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イタさん

長部城址 千葉県旭市長部 (2025/06/14 訪問)

旭市のHPに松沢氏9代の居城とある。詳しくは省くが、城跡より有名なのが大原幽学遺跡で、幽学記念館・大原幽学旧邸・移築した旧林家住宅・大原聖殿(改心楼跡)・龍ヶ谷(要害・ゆうがい)に幽学にまつわる碑が多く建つ。

駐車場から坂を上り記念館までも、如何にも城跡を思わせる。記念館先には土塁が行く手を阻むように現れる。右に行けば龍ヶ谷、左後ろに旧林家住宅が移築されている。住宅の南前、東側には高い土塁が見られるが、木々の葉が多くやや分かりづらい。切通を南に下り大原幽学旧邸へ、背後・右は高い城塁(土塁)になる。西側はやや開けるて一段高く、大原聖殿が建ち、背後は切り立つ斜面。北に向けて上り左に行けば、城址碑の建つ龍ヶ谷に出る。30間四方で説明板にも主郭らしく書かれているが、土塁は見当たらず。多くの碑が建つ。西に堀があったのだが、ぼけて使用不可。時間の都合で記念館を見ずに帰路につく。

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カズサン

二本松城-4/6 本丸Ⅱ編 (2025/06/06 訪問)

 二本松城-3/6 本丸Ⅰ編の続です。

 本丸西櫓台、本丸西側視点で内部、天守台、東櫓台。
 幕末戊辰戦争で落城責任切腹自尽した城代丹羽和左衛門(66歳)、勘定奉行安部井又之丞(65歳)の供養碑が天守台西横に在りお参り合掌、壮絶な切腹だったそうです。供養塔、説明板も掲載投稿します。

 二本松城-5/6 本丸石垣城塁南面東面編に続く。
 

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カズサン

二本松城-3/6 本丸Ⅰ編 (2025/06/06 訪問)

 二本松城-2/6 三の丸箕輪門編の続です。

 にほんまつ城報館、三の丸城塁石垣周辺、箕輪門、箕輪門郭、三の丸上段郭を探訪して、搦手門跡石垣経由山頂の本丸へと思っていたのですが時間も押し迫っており徒歩での登城は諦めて、山頂本丸東の乙森駐車場へ移動し車を駐めて本丸の石垣を見学観察。
 本丸の石垣は30年前の平成7年(1995年)全面修築復元された。当時にも天守閣は造られて居なかった、今回の修築でも無し。
 天守閣東櫓西櫓各間を繋ぐ多門櫓、大手枡形門が立っていたらと想像するのも楽しいものです。
 本丸を天守台周り本丸Ⅰ、西櫓、西からの景観景観を本丸Ⅱとして分けて写真投稿します。
  
 二本松城-4/6 本丸Ⅱ編に続く。
 

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トベシュン

対馬・五島城巡り 金石城跡・金田城跡・福江城跡 (2025/06/08 訪問)

対馬・五島城巡りで金石城跡・金田城跡・福江城跡の三城を巡ってきました。

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トベシュン

対馬・五島城巡り 金石城跡・金田城跡・福江城跡 (2025/06/09 訪問)

対馬・五島城巡りで金石城跡・金田城跡・福江城跡の三城を巡ってきました。

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トベシュン

対馬・五島城巡り 金石城跡・金田城跡・福江城跡 (2025/06/08 訪問)

対馬・五島城巡りで金石城跡・金田城跡・福江城跡の三城を巡ってきました。

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シャンシャン

豊臣秀長の城郭 (2025/06/14 訪問)

太閤秀吉の弟・秀長が完成させた大和郡山城。
一部の櫓や門が復元されているが、何と言っても天守台を始めとする石垣群が見応え抜群!!
ゴツゴツした野面積みの天守台は武骨さを感じさせる。当時、石垣用の石がかなり不足していたらしく、平城京羅城門の礎石や石地蔵、五輪塔など転用石が多く使われており、天守台のさかさ地蔵もそのひとつ。
正直、続100名城には見どころが少ない城跡もそこそこあるが、ここは100名城にもまったく引けを取らない。
近隣の永慶寺には、唯一の現存建造物遺構である山門(郡山城移築南御門)がある。

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小城小次郎

軍事・経済両面の重要拠点か (2024/11/02 訪問)

木崎湖に突き出す半島の先端に設けられ、木崎湖の水運を握れるこの立地は「塩の道」を掌握していた仁科氏にとって軍事・経済いずれの観点でも重要拠点だったろう。芸術祭か何かで賑わっていたが城しか見てこなかった。

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にのまる

春の18きっぷ初日② (2025/03/22 訪問)

新南陽の勝栄寺見学を終え、岩国まで山陽本線で移動しました。

駅からバスに乗り錦帯橋🚏へ。
【錦帯橋・ロープウエー・岩国城】のセット券を購入しました。
山頂からは「歴史と出会いの道」ルートでまわります。
すてきな石垣、そしてメインスポットの空堀へ。破却の痕跡がごろごろと見られる大好きポイントです。
北の丸から階段が設えてあったので下りてみました。ここにも破却された石垣が従容として佇んでいます。

天守台、天守、大釣井などを見学しました。竪堀や登り石垣はわかりませんでした。
前回は帰りのロープウエー券を放棄して歩いて下りましたが今回はそれほど並んでいなかったのでロープウエーで下りました。

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しんちゃん

福原則尚 (2025/04/07 訪問)

福原城は平山城で丘陵地の高所に本丸があり、周囲にも郭があり二の丸・三の丸も配されていました。本丸が最も広く、現在は田畑になっています。西側から北側にかけて高土塁が残っていて、上には社も祀られていました。
案内のプレートに拠れば、元弘3年(1331)4月28日、淀の久我畷の戦いにおいて鎌倉方の総大将名越高家を討取った、佐用兵庫介範家の築城と伝わり、後に赤松三十六家衆の一つ福原氏が城を継いだので福原城とされています。
戦国時代末期、西の上月城、南の高倉城、東の利神城と共に赤松一族の城郭群を形成していたが天正5年(1577)11月、羽柴秀吉との攻防により落城しました。
今、建っている福原神社は時の城主・福原藤馬允則尚の首級を祀っているとされ、別名頭(こうべ)様と言うそうです。

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シャンシャン

世界遺産の城郭 (2025/06/13 訪問)

姫路城とともに世界遺産である二条城に初訪問!
将軍が京都を訪れた際の拠点として築城されただけあって見どころ満載。戦災を免れたため当時の櫓や門など遺構が多く残っている。特に豪華絢爛な唐門は見事の一言!
徳川慶喜が大政奉還を行った二の丸御殿の大広間や18年振りに公開されている本丸御殿など歴史を感じられるポイントが随所にある。
石垣の多くが整然とした打込接ぎ布積みで、隅石はきれいな算木積みとなっており非常に美しく整えられている。

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しんちゃん

忍陵神社 (2024/11/17 訪問)

岡山城は忍陵神社のある丘陵上に築かれていました。元は飯盛山城の支城の一つとされますが、大阪夏の陣で徳川秀忠の本陣が置かれ「御勝山」と呼ばれるようにもなりました。

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にのまる

春の18きっぷで🚃 (2025/03/22 訪問)

仕様が変更になった18きっぷの5日間ver.で山陽山陰城めぐりに出かけてきました。
最初の下車駅は炎のストッパー⚾️津田恒美投手の故郷、新南陽です。

線路沿いに歩いて数分で勝栄寺に着きました。城館的寺院だったそうで、残存土塁を見学できました。環濠の水紋も表面再現してあり往時をイメージしやすかったです。

毛利元就がこの地で「三矢の訓」を認めたことを示す碑や豊臣秀吉か朝鮮出兵の際に植樹したと伝わる「太閤松」の切株の説明板がありました。(切株は探したのですがどれなのかわかりませんでした。)

線路沿いなので列車と土塁を撮れたらいいなと時刻表を見ましたが来そうになかったので駅に向かおうとすると貨物がやってきました。が、あと10秒くらいのところで間に合わなかったです。

10枚目の写真は防府市の毛利邸・毛利博物館です。(別日に行きました。)

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シャンシャン

外郭櫓跡の石垣 (2025/06/12 訪問)

広島城は何回か来てるけど、今回は本川沿いに外郭櫓跡の石垣があるという情報を得たため訪問。
本丸西側の外郭には、川に沿ってかつては13もの櫓が建てられていたとのこと。石垣は調査後保存のため埋め戻されたので、石垣はわずかに上部が露出しているのみ。でも、こういった少ない遺構にも歴史の息吹が感じられて感慨深い。
広島城はかつて88もの櫓があり、秀吉の大阪城を凌ぐとも言われた壮麗な五重天守がそびえていた。コンクリの復元天守は2026年3月に閉館予定。その先は未定とのことだが、2つの小天守と共にぜひ木造再建して欲しい。

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トク

「花手水」の紫陽花 (2025/06/14 訪問)

梅雨も2週目に突入。近場で雨でも楽しめる場所は他にもないか、また引き続き探していると、大宰府天満宮で紫陽花のイベントがあっているようなので行ってきました。「花手水」には、赤・青・紫・白などの紫陽花1000本以上が鉢を埋め尽くして、訪れる人の目を楽しませていました。帰りは雨の中を、天満宮から政庁を通り都府楼駅までの「さいふまいり」の道を1時間かけて歩きました。雨霧にむせぶ岩屋城と大野城が神秘的でした。
 

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イオ

堀切と切通道 (2025/02/23 訪問)

築城時期は不明ながら、南北朝期よりこの地を治めた田原氏が三方を川で囲まれた丘陵に築いた城で、戦国期には三好長慶に従って飯盛城の支城として機能しましたが、三好氏の没落に伴って廃城となったようです。

駐車場はないので、東登城口近くの道路脇に路駐して登城開始。案内表示に従って民家の間を進むと田原城址の説明板が立てられていました。平面図にある一の門、二の門は住宅地になっていて見当たりません。説明板の脇を上って行くと、高さも幅もある見事な堀切がお出迎え。本丸と二の丸を隔てる堀切で、その先は切通道として水郭へ続いているようですが、まずは右に折れて東郭を抜け本丸へ。本丸は南辺に土塁がめぐり南西部は櫓台状になっています。最近まで住吉神社があったようですが、現在は基壇が残るのみです。北西辺には14枚もの説明パネルが設置されていて、田原城や田原対馬守について詳細に解説されていました。

本丸から堀切まで戻って水郭へ下りて行きます。本丸西下には西郭が南北に続き、本丸との間には横堀を設けています。切通道をさらに下りたところには水郭(井戸郭)が広がり、二つの井戸と堰堤を設けての溜井戸が見られます。堰堤を渡って進んだ先が搦手(北登城口)で、北谷川に架けられた橋の南詰に搦手郭を配していました。

最初の堀切まで戻って、今度は二の丸に突入します。二の丸はほぼ竹藪と化していますが、いくつかの曲輪を越えた先には分厚い土塁と虎口が見られました。二の丸の西側にも堀切があり、東側の堀切より小規模ながら切通状に水郭へ続いています。堀切の西側には裏山郭(と呼ばれる笹藪)と、そこから南にのびる尾根の突端に西砦(西出丸)が設けられていました。

比高わずか30mの小規模な丘城ですが、堀切に切通道、水郭などなかなか見応えがありました。田原城から北に約350mの千光寺跡(田原氏の菩提寺)からはキリシタンだった最後の城主・田原レイマンのキリシタン墓碑が出土しているそうで、またの機会にはそちらも訪れてみたいものです。
 

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昌官忠

(東海&関西)遠征5日目:勝楽寺城 (2025/05/19 訪問)

高室山城から車で15分くらいで、勝楽寺池横空スペース(35.194283、136.288091)に着きました。

勝楽寺城は南北朝期の婆沙羅大名・京極高氏(佐々木道誉)の命により高築(高筑)豊後守によって築かれた城です。
戦国時代には多賀豊後守が居城していましたが、織田信長に攻められ、廃城となりました。
現在城址はハイキングコースとして整備されています。また、山麓にある勝楽寺は道誉の菩提寺として有名です。

近江の山城では珍しい畝状竪堀群や石垣、礎石などの遺構を確認することができるようですが、レンタカー返却の時間がせまっていた為、早めに撤退しました。
攻城時間は60分くらいでした。本日の城巡りは、ここがラストです。
本日の宿泊先に行く為、米原駅でレンタカーを返却し、米原駅から電車でびわ湖浜大津駅に向かいました。
歩行歩数=30644歩、歩行距離=21.5Kmです。

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